2021年12月29日
篁牛人展 〜昭和水墨画壇の鬼才〜 その2
さて篁牛人(たかむら ぎゅうじん)。
日曜美術館という番組で知るまでは聞いたこともない名前だった。それもそのはず美術界でも知名度は低くほとんど忘れられた存在らしい。もっとも美術の世界でそんな画家はゴマンといる。それでも伊藤若冲のように、その中からスーパースターが誕生したりもするからおもしろい。あのカラヴァッジョですら350年間ほど歴史に埋もれていたというのだからビックリである。
篁牛人も日曜美術館で紹介されたし、この展覧会を機に再評価が進むんじゃないかな。ジャンルでいえば水墨画。その方面はまったく詳しくないが、篁牛人のような水墨画を描いた画家は他にいない気がする。つまり画家で最も大切な(と私が思っている)オリジナリティを確立している。ただしアバンギャルドな作風だから、彼が生きていた時代ではあまり受け入れられなかったのかも知れない。
篁牛人の略歴。
明治生まれで主には戦後、昭和の中頃に活躍した画家である。

1901年(明治34年)富山市のお寺の次男として生まれる。
1924年(大正13年)23歳頃から図案の制作を始める。
今でいうならグラフィックデザイナー。
1940年(昭和15年)39歳頃から図案制作をやめ絵画に専念する。
1944年(昭和19年)戦争に応召〜1946年(昭和21年)に復員。
1947年(昭和22年)46歳頃から画業復帰。
1955年(昭和30年)54歳頃から約10年間の放浪生活
1975年(昭和50年)脳梗塞で倒れ以後は画業が困難になる。
1984年(昭和59年)82歳で没
展覧会の構成がちょっと変わっている。基本的には3つの年代に分けた回顧展スタイルなのであるが、それとは別に最初のコーナーは「これが牛人だ!!」とタイトルにビックリマークを2つも並べて、制作時期に関係なく彼の代表作を集めた内容になっている。まずは牛人のすごさを一発ぶちかましておきたいという美術館の心意気の表れか。
そしてこれがトップバッターの「天台山豊干禅師」。
制作は1948年頃。
豊干禅師の名前は「ぶかん」または「ほうかん」と読む。中国は唐時代の禅僧。寺の中でトラにまたがっていたという伝説がある人物。それにしてもいきなり牛人ワールド全開でノックアウトされそうになる。まんまと美術館の術中にはまった(^^ゞ
極端にデフォルメされたトラ。デフォルメを通り越してモーソー領域に入っている木の幹、しかも横向き。それに対して豊干禅師は線が細くまるで漫画のような描き方。またトラに対して不自然に小さい。このアンバランスさが不思議な世界観を醸し出している。別に何かメッセージが込められている絵じゃないだろう。これが楽しいと思えるかどうか。
実際の絵は横幅が6メートル近くもある大作。これが目に飛び込んで来るとウォーとか小さく叫びたくなるが、ブログの小さな画像でそれは無理だろう。下の2つは部分的にトリミングしたもの。こちらはパソコンで見ているならクリックすればブラウザーの横幅までは大きくなる。
「雪山淫婆 」 1948年
先ほどの豊干禅師は例外で、牛人の描く人物は基本的に巨体である。まるで風船を膨らましたかのよう。頭を小さく描くからより大きさが強調されている。それでいて輪郭線がとても細いのも特徴。
ちなみに雪山淫婆とは山姥(やまんば)の雪女版らしい。
「訶梨諦母 」(かりていも) 1969年
日本では鬼子母神(きしもじん)とも呼ばれる訶梨諦母。幼児を捕らえて食べる鬼が、釈迦の教えによって改心し子供を庇護する女神になったという設定。仏教で女神はしっくりこないが、古代インドで別の宗教要素が仏教に取り入れられたのだろう。
この絵は頭に角が生えているから、改心する前の鬼の姿を描いたものだと思う。まわりに黒く描かれているものも何となく不気味な印象。画像検索してみたが、鬼子母神あるいは訶梨諦母の絵や像は女神になったものばかりだった。牛人は作品のテーマ設定も洒落ている。
「西王母と小鳥 」 1969年
西王母(さいおうぼ)は中国で古くから信仰された女性の仙人。3000年に1度だけ実る桃の木を持っており不老不死の象徴。ただし牛人の描く西王母はちょっと怖そうで、下にいる小鳥を睨みつけている。参考までに典型的な西王母の絵はここをクリック。
それにしてもこのドチっとした巨体とパンパンに膨らんだふくらはぎは凄いね。牛人の再評価が進むとしたら、まずは「デブ専」の趣向を持つ人からだったりして(^^ゞ
「蛟龍 」(こうりゅう) 1967年
蛟龍とは龍の一種。水の中に潜んでいて雷雨に乗じて天に昇って龍になる事から、龍の幼生ともされる。トンボのヤゴみたいなものか。この絵は展覧会に出品された牛人の作品の中では異色。ほとんどデフォルメせずに描いている。
龍の頭の部分を中心にトリミングしたものも載せておく。
「訶梨帝母 」 1970年
訶梨帝母(かりていも)の別バージョン。こちらも角があるから鬼時代のもの。角に気がつかなくても表情を見ればそうだとわかるはず。そして巨体の身体に合わせたのか耳はブタの形に。例によって輪郭線は極細だが、この作品は迷いなく一気に線を引いた印象がある。
ところで牛人の作品で黒々と墨が塗られている部分には「渇筆」(かっぴつ)という技法が使われている。渇筆は一般的には書道の技法で、筆に墨をあまり含ませずに文字をかすれさせること。しかし牛人の渇筆は逆に紙(和紙)の表面がささくれ立つくらいに何度も筆を押しつけながら描いていく。もちろんブログに貼り付けた画像ではそこまでを確認できない。
ただ展覧会でもかぶりつきでなければ、その表面効果は見えない。絵はそうやって見るものではないし、牛人の作品は大型のものが多いからなおさら。だから彼の渇筆はささくれだった筆跡を見るものでなく、それによって得られた微妙なトーン変化を楽しむものだと思う。でもゴッホなんかだと油絵の具の盛り上がりを、のぞき込むように確認しないと気が済まない人が多い。だから渇筆のことが広まれば、おそらくそうはならないだろうが。
次のコーナーは先ほど書いたように、ここからが第1章で「工芸図案家から渇筆画の創出へ 」へとなっている。時期的には1946年(45歳)から1949年(48歳)と短い。前期渇筆画の時代とも呼ばれている。「これが牛人だ!!」で紹介した「天台山豊干禅師」と「雪山淫婆 」も本来ならこのコーナーに入る作品。
「山姥と金時 」 1947年
♪まさかり担いで金太郎〜の坂田金時は山姥(やまんば)の子供だという伝説もある。牛人がこれを題材にしたのは、他の作品を見て何となく分かる気がする。
「寒山拾得 」(かんざんじっとく) 1947年
寒山拾得とワンフレーズになっているが、寒山と拾得という2人の少年のそれぞれの名前である。僧であり詩人で、最初に紹介した天台山豊干禅師の弟子。3人を合わせて三聖と呼ぶこともある。
ちょっと気になったのは寒山拾得の2人そして金時の顔が似ていること。ブログで展覧会のすべてを紹介できないが、他でも似た顔が多い。漫画では作品が違っても敵や脇役の顔が同じことがある。いわば漫画家の「持ち顔」。そのバリエーションが少ないとつまらないが、牛人もそうなところは残念。
ーーー続く
日曜美術館という番組で知るまでは聞いたこともない名前だった。それもそのはず美術界でも知名度は低くほとんど忘れられた存在らしい。もっとも美術の世界でそんな画家はゴマンといる。それでも伊藤若冲のように、その中からスーパースターが誕生したりもするからおもしろい。あのカラヴァッジョですら350年間ほど歴史に埋もれていたというのだからビックリである。
篁牛人も日曜美術館で紹介されたし、この展覧会を機に再評価が進むんじゃないかな。ジャンルでいえば水墨画。その方面はまったく詳しくないが、篁牛人のような水墨画を描いた画家は他にいない気がする。つまり画家で最も大切な(と私が思っている)オリジナリティを確立している。ただしアバンギャルドな作風だから、彼が生きていた時代ではあまり受け入れられなかったのかも知れない。
篁牛人の略歴。
明治生まれで主には戦後、昭和の中頃に活躍した画家である。

1901年(明治34年)富山市のお寺の次男として生まれる。
1924年(大正13年)23歳頃から図案の制作を始める。
今でいうならグラフィックデザイナー。
1940年(昭和15年)39歳頃から図案制作をやめ絵画に専念する。
1944年(昭和19年)戦争に応召〜1946年(昭和21年)に復員。
1947年(昭和22年)46歳頃から画業復帰。
1955年(昭和30年)54歳頃から約10年間の放浪生活
1975年(昭和50年)脳梗塞で倒れ以後は画業が困難になる。
1984年(昭和59年)82歳で没
展覧会の構成がちょっと変わっている。基本的には3つの年代に分けた回顧展スタイルなのであるが、それとは別に最初のコーナーは「これが牛人だ!!」とタイトルにビックリマークを2つも並べて、制作時期に関係なく彼の代表作を集めた内容になっている。まずは牛人のすごさを一発ぶちかましておきたいという美術館の心意気の表れか。
そしてこれがトップバッターの「天台山豊干禅師」。
制作は1948年頃。
豊干禅師の名前は「ぶかん」または「ほうかん」と読む。中国は唐時代の禅僧。寺の中でトラにまたがっていたという伝説がある人物。それにしてもいきなり牛人ワールド全開でノックアウトされそうになる。まんまと美術館の術中にはまった(^^ゞ
極端にデフォルメされたトラ。デフォルメを通り越してモーソー領域に入っている木の幹、しかも横向き。それに対して豊干禅師は線が細くまるで漫画のような描き方。またトラに対して不自然に小さい。このアンバランスさが不思議な世界観を醸し出している。別に何かメッセージが込められている絵じゃないだろう。これが楽しいと思えるかどうか。
実際の絵は横幅が6メートル近くもある大作。これが目に飛び込んで来るとウォーとか小さく叫びたくなるが、ブログの小さな画像でそれは無理だろう。下の2つは部分的にトリミングしたもの。こちらはパソコンで見ているならクリックすればブラウザーの横幅までは大きくなる。
「雪山淫婆 」 1948年
先ほどの豊干禅師は例外で、牛人の描く人物は基本的に巨体である。まるで風船を膨らましたかのよう。頭を小さく描くからより大きさが強調されている。それでいて輪郭線がとても細いのも特徴。
ちなみに雪山淫婆とは山姥(やまんば)の雪女版らしい。
「訶梨諦母 」(かりていも) 1969年
日本では鬼子母神(きしもじん)とも呼ばれる訶梨諦母。幼児を捕らえて食べる鬼が、釈迦の教えによって改心し子供を庇護する女神になったという設定。仏教で女神はしっくりこないが、古代インドで別の宗教要素が仏教に取り入れられたのだろう。
この絵は頭に角が生えているから、改心する前の鬼の姿を描いたものだと思う。まわりに黒く描かれているものも何となく不気味な印象。画像検索してみたが、鬼子母神あるいは訶梨諦母の絵や像は女神になったものばかりだった。牛人は作品のテーマ設定も洒落ている。
「西王母と小鳥 」 1969年
西王母(さいおうぼ)は中国で古くから信仰された女性の仙人。3000年に1度だけ実る桃の木を持っており不老不死の象徴。ただし牛人の描く西王母はちょっと怖そうで、下にいる小鳥を睨みつけている。参考までに典型的な西王母の絵はここをクリック。
それにしてもこのドチっとした巨体とパンパンに膨らんだふくらはぎは凄いね。牛人の再評価が進むとしたら、まずは「デブ専」の趣向を持つ人からだったりして(^^ゞ
「蛟龍 」(こうりゅう) 1967年
蛟龍とは龍の一種。水の中に潜んでいて雷雨に乗じて天に昇って龍になる事から、龍の幼生ともされる。トンボのヤゴみたいなものか。この絵は展覧会に出品された牛人の作品の中では異色。ほとんどデフォルメせずに描いている。
龍の頭の部分を中心にトリミングしたものも載せておく。
「訶梨帝母 」 1970年
訶梨帝母(かりていも)の別バージョン。こちらも角があるから鬼時代のもの。角に気がつかなくても表情を見ればそうだとわかるはず。そして巨体の身体に合わせたのか耳はブタの形に。例によって輪郭線は極細だが、この作品は迷いなく一気に線を引いた印象がある。
ところで牛人の作品で黒々と墨が塗られている部分には「渇筆」(かっぴつ)という技法が使われている。渇筆は一般的には書道の技法で、筆に墨をあまり含ませずに文字をかすれさせること。しかし牛人の渇筆は逆に紙(和紙)の表面がささくれ立つくらいに何度も筆を押しつけながら描いていく。もちろんブログに貼り付けた画像ではそこまでを確認できない。
ただ展覧会でもかぶりつきでなければ、その表面効果は見えない。絵はそうやって見るものではないし、牛人の作品は大型のものが多いからなおさら。だから彼の渇筆はささくれだった筆跡を見るものでなく、それによって得られた微妙なトーン変化を楽しむものだと思う。でもゴッホなんかだと油絵の具の盛り上がりを、のぞき込むように確認しないと気が済まない人が多い。だから渇筆のことが広まれば、おそらくそうはならないだろうが。
次のコーナーは先ほど書いたように、ここからが第1章で「工芸図案家から渇筆画の創出へ 」へとなっている。時期的には1946年(45歳)から1949年(48歳)と短い。前期渇筆画の時代とも呼ばれている。「これが牛人だ!!」で紹介した「天台山豊干禅師」と「雪山淫婆 」も本来ならこのコーナーに入る作品。
「山姥と金時 」 1947年
♪まさかり担いで金太郎〜の坂田金時は山姥(やまんば)の子供だという伝説もある。牛人がこれを題材にしたのは、他の作品を見て何となく分かる気がする。
「寒山拾得 」(かんざんじっとく) 1947年
寒山拾得とワンフレーズになっているが、寒山と拾得という2人の少年のそれぞれの名前である。僧であり詩人で、最初に紹介した天台山豊干禅師の弟子。3人を合わせて三聖と呼ぶこともある。
ちょっと気になったのは寒山拾得の2人そして金時の顔が似ていること。ブログで展覧会のすべてを紹介できないが、他でも似た顔が多い。漫画では作品が違っても敵や脇役の顔が同じことがある。いわば漫画家の「持ち顔」。そのバリエーションが少ないとつまらないが、牛人もそうなところは残念。
ーーー続く
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