2022年06月03日
没後50年 鏑木清方展 その3
前回の後半は美人画の中でも「何気ない仕草や動作」が描かれているものを取り上げた。続いてはポーズをとっているだけではなく「小道具と一緒」に描かれた作品。
「墨田川両岸 梅若塚 今戸」 大正5年(1916年)
平安中期に若梅丸という子供がさらわれて、母親が探しに来たときには既に隅田川のほとりで病死していた。それを伝承したのが若梅伝説で、彼を弔っているのが若梅塚。左側の絵はそれをテーマにしているらしいのだが、悲劇性はまったく感じられない。雨で濡れた着物の裾を気にしてるシーンのように思える。
背景で煙が上がっているのは今戸焼き(陶磁器)の釜とされる。それが始まったのは江戸時代の少し前からだから、描かれている女性は若梅丸の母親でもない。だいたい平安時代の衣装を着ていない。
もうひとつの今戸は若梅塚の対岸にある地名(500mほど下流)。こちらは若い女性が丸いカゴに花びらのようなものをを運んでいる。何をしてるの?
なんとなく悲しみと喜びの対比に墨田川両岸を掛けているような気もするものの、よく分からない内容。違うタイプの絵をセットで描こうと思って、両岸というキーワードを思いつき、隅田川で当てはまる言葉を適当に使っただけかも知れない。
「微酔」 大正8年(1919年)
左側に朱塗りの杯が描かれているのに、タイトルを読むまでは、美人な女性に気を取られて目に入っていなかった(^^ゞ 寒いので布団を掛けているのだろうか。そうすると女性が重ね着している一番上はドテラ? ちょっと美人のイメージが狂うなあ。
「明治時世粧」 昭和15年(1940年)
時世粧(じせいそう)とは流行の装い、トレンディーなスタイルの意味。初回の投稿で鏑木清方は着物にも凝っているので、彼の美人画をより楽しむには着物の知識も必要と書いた。そんな知識はほとんどないとしても、ここに描かれている着物からはファッショナブル感が伝わってくる。ついでに書けば紹介したこれら5点の作品は、顔だけじゃなく衣装もよく見るべき作品のように思う。
さて鏑木清方の美人画代表3部作。
まずは「築地明石町」 昭和2年(1927年)
美人画なんて女性はこうあって欲しいと願う、あるいは勘違いしている男性の妄想の産物と思っているけれど、それでも見とれてしまうね。作品サイズは縦約175センチで人物はほぼ等身大の迫力もある。美術的な話とは関係ないだろうが、何より素晴らしいのは日本髪姿じゃないこと。これでグッと近代的な印象になっているし、浮世絵などの美人画とは違う現実感が生まれている。
鏑木清方の作品のほとんどは舞台が明治30年代前半とされ、(今回の展覧会では)女性の多くはいわゆる日本髪を結っている。明治時代の中頃に日本髪女性の割合がどれくらいだったかよく分からないものの、どうしても日本髪を見ると江戸時代をまず連想してしまう。
ちなみにこの絵の女性はイギリス巻き(あるいはイギリス結び)と呼ばれた髪型。いわば和洋折衷的なヘアスタイル。他にもいくつかのバリエーションがあり、それらを日本髪に対して束髪(そくはつ)と総称していたみたい。
タイトルは築地明石町である。しかしそんな町名はなく築地と明石町は隣接した別の町。それはともかく、おそらくこのタイトルはイギリス巻きとも関係している。
明治2年に政府は築地に外国人居留地を設ける。開国をしても外国人は一定のエリアに閉じ込めておきたいと考えた政策。他には横浜、神戸、大阪の川口、長崎などにもあった。築地居留地は現在の明石町に当たるので話がややこしいが、とにかくこの築地・明石町界隈は西洋文化の影響が強いエリアだったのだろう。いわゆる異国情緒が漂う“ハイカラ”な町柄。だから女性の髪型を日本髪じゃなくてイギリス巻きにする必然性があったような気もする。
なお居留地政策は明治32年(1899年)に廃止される。その後も築地居留地跡には洋館が建ち並んでいた。しかし関東大震災(1923年)ですべて失われたのが残念。立教や青山などの大学、現在も明石町にある聖路加国際病院などは築地居留地に建てられた教会の付属施設を起源に持つ。
さてこの絵にはモデルがいて、その写真が残っている。
彼女の名前は江木ませ子。鏑木清方の奥さんの友人で、清方に絵も習っていたとのこと。まるで絵から抜け出してきたような美人。彼女をモデルに絵を描いたから当たり前か(^^ゞ それもそのはず彼女は大正三美人と称された江木欣々(きんきん)の腹違いの妹。大正三美人なんて初めて知ったが、残念ながら江木欣々は顔のはっきり分からない写真しか見つからなかった。
話を絵に戻すと女性は黒い羽織を着ていて、2ヶ所にチラッと裏地の赤い色が見える。そこに着物好きは粋を感じるらしい。注目は右下の朝顔。下のほうが黄色く枯れている。だから季節は夏の終わり。花が咲いているから時間帯は朝。だから少し寒そうなポーズをしているのだろうか。深読みしすぎかな。
左上には船とそのマストが描かれている。築地・明石町は海沿いなのでその情景を入れたのだろう。しかしデッサンのようで雑だし絵の他の要素とマッチしていない印象。そこが少し気に入らない。前回に書いたように鏑木清方の風景描写はーーー。
「新富町」 昭和5年(1930年)
「浜町河岸」 昭和5年(1930年)
「新富町」に描かれているのは40代の芸者、「浜町河岸」は日本舞踊の稽古帰りの10代の町娘。新富町には花街があり浜町には有名な踊りの家元がいたので、分かる人にはタイトルを見ただけで彼女たちのプロフィールが推察できただろう。それは「築地明石町」にも当てはまる。「墨田川両岸 梅若塚 今戸」と違ってこの3つはタイトルがわかりやすい。ついでに「築地明石町」は30代で年齢に幅を持たせたのが面白い。
「築地明石町」が振り返った後の静止ポーズなのに対して、こちらはどちらも動きを感じさせる作品になっている。特に「浜町河岸」はお稽古のおさらいをしながら歩いているようにも見えて可愛い。また「新富町」の背景に描かれているのは新富座という劇場。劇場の周りには芝居茶屋と呼ばれる料亭があってそこが新富芸者のお座敷。「浜町河岸」の背景が何なのかよく分からないが絵とは上手く溶け合っている。「築地明石町」から進歩したじゃないか鏑木清方(^^ゞ
さてネットで「築地明石町」を調べると
1975年から行方不明
2019年に44ぶりに発見
と書いてあるものが多い。ネットの情報なんてコピペのループだから、たいていは同じ内容が載っている。しかし行方不明ってナンジャ? 鏑木清方は巨匠中の巨匠だし「築地明石町」は権威ある帝国美術院賞を取った代表作。切手にもなったほどの有名な作品。それが行方不明とは?
もう少し調べると
最後に展示されたのは1975年のサントリー美術館
その直後から行方不明の状態に
長きにわたり行方不明が続いたので、幻の名画扱いされる
2016年頃、所有者が手放す意向との情報が画商を通じて
東京国立近代美術館にもたらされる
その所有者は「新富町」「浜町河岸」も持っていた
2019年に東京国立近代美術館が購入
価格は3点合計で5億4000万円
などが分かった。
つまりサントリー美術館に出品されたときの所有者は分かっていたはずで、その所有者が売却を公表しなかった。その後に手元にないと知られても売却先について口をつぐみ、購入者も同様に公表しなかったということ。だから行方不明といっても紛失状態にあったわけではない。美術界で幻の名画扱いされて、売買の事情を把握しているはずの国税庁は苦笑いしていたりして(^^ゞ
ところで幻の名画扱いされてしまって手放した所有者はどう思っていたのか、なぜ事情を明らかにしなかったのか、その後に何度も転売されたのか、最終所有者は「新富町」と「浜町河岸」をどう手に入れた等々、興味本位で知りたい話はたくさんあるけれど、まあ明らかにされることはないだろうな。
それにしても5億4000万円とは安っ!と思った。ZOZOの前澤友作が購入したバスキアが123億円だったとかの話に慣れてしまってそう感じるのかも知れない。「築地明石町」が4億円で、他の2点が7000万円ずつあたりか。国立近代美術館は内訳くらい発表してくれてもいいのに。
ーーー続く
「墨田川両岸 梅若塚 今戸」 大正5年(1916年)
平安中期に若梅丸という子供がさらわれて、母親が探しに来たときには既に隅田川のほとりで病死していた。それを伝承したのが若梅伝説で、彼を弔っているのが若梅塚。左側の絵はそれをテーマにしているらしいのだが、悲劇性はまったく感じられない。雨で濡れた着物の裾を気にしてるシーンのように思える。
背景で煙が上がっているのは今戸焼き(陶磁器)の釜とされる。それが始まったのは江戸時代の少し前からだから、描かれている女性は若梅丸の母親でもない。だいたい平安時代の衣装を着ていない。
もうひとつの今戸は若梅塚の対岸にある地名(500mほど下流)。こちらは若い女性が丸いカゴに花びらのようなものをを運んでいる。何をしてるの?
なんとなく悲しみと喜びの対比に墨田川両岸を掛けているような気もするものの、よく分からない内容。違うタイプの絵をセットで描こうと思って、両岸というキーワードを思いつき、隅田川で当てはまる言葉を適当に使っただけかも知れない。
「微酔」 大正8年(1919年)
左側に朱塗りの杯が描かれているのに、タイトルを読むまでは、美人な女性に気を取られて目に入っていなかった(^^ゞ 寒いので布団を掛けているのだろうか。そうすると女性が重ね着している一番上はドテラ? ちょっと美人のイメージが狂うなあ。
「明治時世粧」 昭和15年(1940年)
時世粧(じせいそう)とは流行の装い、トレンディーなスタイルの意味。初回の投稿で鏑木清方は着物にも凝っているので、彼の美人画をより楽しむには着物の知識も必要と書いた。そんな知識はほとんどないとしても、ここに描かれている着物からはファッショナブル感が伝わってくる。ついでに書けば紹介したこれら5点の作品は、顔だけじゃなく衣装もよく見るべき作品のように思う。
さて鏑木清方の美人画代表3部作。
まずは「築地明石町」 昭和2年(1927年)
美人画なんて女性はこうあって欲しいと願う、あるいは勘違いしている男性の妄想の産物と思っているけれど、それでも見とれてしまうね。作品サイズは縦約175センチで人物はほぼ等身大の迫力もある。美術的な話とは関係ないだろうが、何より素晴らしいのは日本髪姿じゃないこと。これでグッと近代的な印象になっているし、浮世絵などの美人画とは違う現実感が生まれている。
鏑木清方の作品のほとんどは舞台が明治30年代前半とされ、(今回の展覧会では)女性の多くはいわゆる日本髪を結っている。明治時代の中頃に日本髪女性の割合がどれくらいだったかよく分からないものの、どうしても日本髪を見ると江戸時代をまず連想してしまう。
ちなみにこの絵の女性はイギリス巻き(あるいはイギリス結び)と呼ばれた髪型。いわば和洋折衷的なヘアスタイル。他にもいくつかのバリエーションがあり、それらを日本髪に対して束髪(そくはつ)と総称していたみたい。
タイトルは築地明石町である。しかしそんな町名はなく築地と明石町は隣接した別の町。それはともかく、おそらくこのタイトルはイギリス巻きとも関係している。
明治2年に政府は築地に外国人居留地を設ける。開国をしても外国人は一定のエリアに閉じ込めておきたいと考えた政策。他には横浜、神戸、大阪の川口、長崎などにもあった。築地居留地は現在の明石町に当たるので話がややこしいが、とにかくこの築地・明石町界隈は西洋文化の影響が強いエリアだったのだろう。いわゆる異国情緒が漂う“ハイカラ”な町柄。だから女性の髪型を日本髪じゃなくてイギリス巻きにする必然性があったような気もする。
なお居留地政策は明治32年(1899年)に廃止される。その後も築地居留地跡には洋館が建ち並んでいた。しかし関東大震災(1923年)ですべて失われたのが残念。立教や青山などの大学、現在も明石町にある聖路加国際病院などは築地居留地に建てられた教会の付属施設を起源に持つ。
さてこの絵にはモデルがいて、その写真が残っている。
彼女の名前は江木ませ子。鏑木清方の奥さんの友人で、清方に絵も習っていたとのこと。まるで絵から抜け出してきたような美人。彼女をモデルに絵を描いたから当たり前か(^^ゞ それもそのはず彼女は大正三美人と称された江木欣々(きんきん)の腹違いの妹。大正三美人なんて初めて知ったが、残念ながら江木欣々は顔のはっきり分からない写真しか見つからなかった。
話を絵に戻すと女性は黒い羽織を着ていて、2ヶ所にチラッと裏地の赤い色が見える。そこに着物好きは粋を感じるらしい。注目は右下の朝顔。下のほうが黄色く枯れている。だから季節は夏の終わり。花が咲いているから時間帯は朝。だから少し寒そうなポーズをしているのだろうか。深読みしすぎかな。
左上には船とそのマストが描かれている。築地・明石町は海沿いなのでその情景を入れたのだろう。しかしデッサンのようで雑だし絵の他の要素とマッチしていない印象。そこが少し気に入らない。前回に書いたように鏑木清方の風景描写はーーー。
「新富町」 昭和5年(1930年)
「浜町河岸」 昭和5年(1930年)
「新富町」に描かれているのは40代の芸者、「浜町河岸」は日本舞踊の稽古帰りの10代の町娘。新富町には花街があり浜町には有名な踊りの家元がいたので、分かる人にはタイトルを見ただけで彼女たちのプロフィールが推察できただろう。それは「築地明石町」にも当てはまる。「墨田川両岸 梅若塚 今戸」と違ってこの3つはタイトルがわかりやすい。ついでに「築地明石町」は30代で年齢に幅を持たせたのが面白い。
「築地明石町」が振り返った後の静止ポーズなのに対して、こちらはどちらも動きを感じさせる作品になっている。特に「浜町河岸」はお稽古のおさらいをしながら歩いているようにも見えて可愛い。また「新富町」の背景に描かれているのは新富座という劇場。劇場の周りには芝居茶屋と呼ばれる料亭があってそこが新富芸者のお座敷。「浜町河岸」の背景が何なのかよく分からないが絵とは上手く溶け合っている。「築地明石町」から進歩したじゃないか鏑木清方(^^ゞ
さてネットで「築地明石町」を調べると
1975年から行方不明
2019年に44ぶりに発見
と書いてあるものが多い。ネットの情報なんてコピペのループだから、たいていは同じ内容が載っている。しかし行方不明ってナンジャ? 鏑木清方は巨匠中の巨匠だし「築地明石町」は権威ある帝国美術院賞を取った代表作。切手にもなったほどの有名な作品。それが行方不明とは?
もう少し調べると
最後に展示されたのは1975年のサントリー美術館
その直後から行方不明の状態に
長きにわたり行方不明が続いたので、幻の名画扱いされる
2016年頃、所有者が手放す意向との情報が画商を通じて
東京国立近代美術館にもたらされる
その所有者は「新富町」「浜町河岸」も持っていた
2019年に東京国立近代美術館が購入
価格は3点合計で5億4000万円
などが分かった。
つまりサントリー美術館に出品されたときの所有者は分かっていたはずで、その所有者が売却を公表しなかった。その後に手元にないと知られても売却先について口をつぐみ、購入者も同様に公表しなかったということ。だから行方不明といっても紛失状態にあったわけではない。美術界で幻の名画扱いされて、売買の事情を把握しているはずの国税庁は苦笑いしていたりして(^^ゞ
ところで幻の名画扱いされてしまって手放した所有者はどう思っていたのか、なぜ事情を明らかにしなかったのか、その後に何度も転売されたのか、最終所有者は「新富町」と「浜町河岸」をどう手に入れた等々、興味本位で知りたい話はたくさんあるけれど、まあ明らかにされることはないだろうな。
それにしても5億4000万円とは安っ!と思った。ZOZOの前澤友作が購入したバスキアが123億円だったとかの話に慣れてしまってそう感じるのかも知れない。「築地明石町」が4億円で、他の2点が7000万円ずつあたりか。国立近代美術館は内訳くらい発表してくれてもいいのに。
ーーー続く
wassho at 22:16│Comments(0)│
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