2022年06月06日
没後50年 鏑木清方展 その4
前回までは出展された作品を展覧会の構成によらず
「庶民の生活をわりとリアルなタッチで描いた風俗画」
「同じく風俗画だが、もっと日本画的というか、
リアルさよりも絵としての完成度や美しさに重きを置いた作品」
「何気ない仕草や動作が描かれている美人画」
「小道具と一緒に描かれた美人画」
「美人画代表三部作」
と美人画代表三部作を除けば、何がどう描かれているかの区分で展覧会を振り返ってきた。ここからはいい絵だと思ったり、特に関心を引いたものを分類なしのノンジャンルで。
「若き人々」 明治45年(1912年)
屏風絵で上が右隻、下が左隻。
わかりやすいように左右を合体させると
船に乗ってどこかへ向かう姉を、妹が岸で追いかけようとしているのだろうか。姉は別れが辛いのか扇で顔を隠そうとしているように見える。船に乗っている少年(チョンマゲの前髪があるのは元服前。彼も兄弟だろうか?)が刀を差しているから、これは多くの鏑木清方の作品と違って舞台は明治時代じゃない。しかし姉も岸にいる母親らしき女性も日本髪を結っていないから江戸時代以前なのか。残念ながら服装で推測する知識はなし。展覧会で解説はついていなかったし、ネットでもこの作品の情報は見当たらなかった。
細かな内容は分からなくても、別れの情景が伝わって見入ってしまう作品である。
が、しか〜し
ナンジャこのタイトルの「若き人々」って?「初冬の花」や「墨田川両岸 梅若塚 今戸」でもタイトルについて書いたが、この作品ではタイトルがその役目を放棄しているぞ。
また岸にいる母親らしき女性の着物が変わっている。最初はつぎはぎを当てているのかと思ったものの、ところどこと複雑な曲線があるからつぎはぎではなさよう。まさかアバンギャルドなファッション?
「道成寺(山づくし)鷺娘」 大正9年(1920年)
道成寺(どうじょうじ)の名前と豪華な衣装が一緒にあれば、それはストーカー殺人事件の古典ともいえる、あの有名な安珍・清姫伝説を題材にした歌舞伎だと考えて間違いない。その代表作が「京鹿子娘道成寺(きょうがのこ・むすめ・どうじょうじ)という演目で、「山づくし」は全15段(段は章みたいなもの)のうち9段目のタイトル。上に配置した右隻の屏風がそれ。
タイトル話のついでに、歌舞伎では文字にしたときに目立つように、本来のタイトルに言葉を加えて文字数を長くするしきたりがある。合計で5文字や7文字が縁起がいいとされそうなっているものが多い。京鹿子娘道成寺は娘道成寺に京鹿子を付け足したもの。よく名前が知られているタイトルでは仮名手本忠臣蔵や義経千本桜も忠臣蔵や義経だけで内容的には事足りる。
京鹿子は花の名前であり布の染め方の一種である。娘道成寺に付け足されたものがどちらなのかザッと調べた程度では分からなかった。また京鹿子や仮名手本が本来のタイトルに対して何か意味を持っているのかも同様。
下に配置した左隻の屏風「鷺娘(さぎむすめ)」も、文字数は長くされていないがも歌舞伎の演目。白鷺の妖精が人間の姿になって恋をするものの、白鷺に戻ってしまって恋が遂げられなくなり、もがき苦しみ息絶えるようなストーリー。
逃げる相手を焼き殺してしまう娘道成寺とは内容は異なるとはいえ、どちらも恋に対する女性の執念を感じさせる点では共通している。それで鏑木清方はこの2つをセットで描こうと思ったのだろう。
文章が長くなったので上へスクロールして絵をもう一度眺めて欲しい。豪華なのにピュアで美しい作品である。娘道成寺のほうは目の周りの赤みに狂気のようなものが現れている。どちらもゾクッとするような色気。ところで2つの絵の顔が似ているが同じ歌舞伎役者をモデルにして描いたのだろうか。だとしたらチンチンぶら下げているんだゼ(^^ゞ
「春の夜のうらみ」 大正11年(1922年)
これも安珍・清姫伝説の清姫を描いた作品。顔は先ほどと同じに見える。「うらみ」は「恨み・怨み」だろうが憎しみのたぎる強い感情ではなく、心残りや悲しみといった意味で使っているように思う。だから平仮名にして漢字が持つイメージを和らげたのかも知れない。
この絵は清姫が安珍を焼き殺した後に、再び吊された道成寺の鐘を見上げている姿とされる。オマエが殺しておいてナニを物憂げにたたずんでいるネンと思わなくもないが、それが女性の本当の怖さですぞ男性諸君!
ところでこの作品は(画像ではよく分からないが)薄いベールが掛かっているというか、写真でならソフトフォーカスのような描き方で、ほのかに幻想的な仕上がりになっているのがとても素晴らしかった。そういう日本画(の人物画)はあまり見たことがない。もちろん鏑木清方らしく細部まで緻密に描かれており、近づいて眺めてヨシ離れてもヨシの名画である。美人度合いでなら「築地明石町」が上だけれども、もし貰えるのならこちらが欲しいな。まあ美人は三日で見飽きるみたいだし(^^ゞ
「滝野川観楓」 昭和5年(1930年) ※観楓=かんぷう=紅葉狩り
東京都北区にある滝野川はかつて渓谷が深く紅葉の名所だった。徳川吉宗が滝野川にカエデを、隣接する飛鳥山にはサクラを植えて江戸庶民の憩いの地を造ったとされる。飲めや歌えの花見はこの頃から始まったらしい。現在の滝野川は学校や寺の名前に紅葉の文字が残っている程度。
この絵はそこで紅葉を見ている母娘を描いている。しかし実におかしな絵なのである。行楽地を訪れている楽しさはみじんも感じられない。母娘は目を合わさない位置に座っていて顔もうつむき加減。まるでこんな会話が聞こえてきそうである。
母「あのね、お母さん、お父さんと離婚しようと思うの」
娘「うん、知ってた」
展覧会でこんな遊びをするのも楽しいよ。
「讃春」 昭和8年(1933年) ※讃春=さんしゅん
讃春という言葉は辞書にはない。おそらく春を褒めたたえる、春の喜びを表現した言葉だろう。それはともかく、これは「滝野川観楓」以上にに???と思った絵である。
まずは右隻(画像上)のセーラー服姿の女学生が目に飛び込んできた。それはセーラー服を絵で目にするのはあまりなく単に珍しかったから。そして場所は皇居外苑だと思った。実際そうなのだが、それがすぐに分かったのはここ東京国立博物館が皇居のそばにあって連想が働いたから。
そしてスカート長いなあとかストッキングは黒だなあとか、どうでもいいことを思い浮かべながら、それでも春らしい光景をけっこう気に入って眺めていた(実際の絵は画像よりも松の緑がもっと明るくてきれい)。
話は変わるが昔は女学生・女学校だったのに、いつから女子学生・女子校に変わったのだろう。終戦後しばらくしてからかな。そういえば昭和1桁生まれの母親は「私が女学生だった頃」なんて言い方をしていた。
さて???なのは左隻(画像下)である。川岸にボロそうな船が浮かんでいて、花が咲いたサクラの枝が描かれているから季節は春だと分かるものの讃春のイメージはしない。というか右隻とのつながりがまったく感じられない。
ナンジャコレ?が展覧会での感想。後で調べてみるとこの絵は、
昭和の大礼を記念して
三井財閥が発注して皇室に献上した屏風絵
左隻に描かれているのは船上生活を送る貧しい母子
だと分かった。
昭和の大礼とは昭和3年(1928年)に執り行われた昭和天皇の即位の礼や関連儀式を合わせた呼び方。三井財閥が発注したのは昭和3年で完成が昭和8年だから、描くのに相当な時間が掛かっている。5年も経ってからおめでとうと言われている感じだが、献上品とはそういうものなのだろうか。
左隻に描かれている橋は隅田川に架かる清州橋で、これは関東大震災(1923年)からの復興の象徴。そして貧しい船上生活者は復興から取り残された人々を表しているらしい。つまり対比。そして右隻は復興しつつある昭和の時代で青春を謳歌している女学生だから左右も対比になっている。
最初の回で紹介した「雛市」もそうだったように、鏑木清方は社会格差テーマにするのが好きなのだろうか。即位献上品のおめでたい作品でそれを描かなくてもいいとにも思うが。
ただ「雛市」は1枚の絵の中に豊かな母娘と貧しい女の子が描かれていて、まだわかりやすかったのに対して、「讃春」は対になった屏風絵とはいえ別々の絵なのでメッセージが伝わりにくい。最初は別個の絵が2点展示されているのかと思ったほど。
そして最大の問題は「雛市」もそうであったように、鏑木清方の絵がきれいすぎて、貧困のイメージが伝わってこないところ。美人画がメインの画家だからそういうのは苦手なのか、あるいは顧客ニーズを考えて淡く仕上げているのか。できたら彼に尋ねてみたい。
「菖蒲打」 昭和20年(1945年)
子供達が菖蒲(しょうぶ)を長く編んだものを地面に打ち付けている。その音の大きさなどを競うのが菖蒲打ちという端午の節句の遊び。他に女性の腰を打ってじゃれるなどのバージョンもあるようだ。初めて知った。今でもそんな風習が残っている地域があるのかな。
今年は菖蒲湯初体験をしたので、つい菖蒲に反応してしまう。
生き生きとした明治の風俗を目にできたし美人画はきれいだったし、期待していた以上に楽しめた展覧会だった。鏑木清方の作品をこれだけまとまってみたのは初めて。それなりに彼を理解できたと思う。初回に書いたようにここを訪れたのは
この展覧会を見たら、
もう、上村松園と区別がつかないなんて言わせません
と公式ホームページにあった殺し文句?に釣られたからである。
さて困った。
実は上村松園もいくつかの代表作を知っている程度。だから彼女のこともよく理解しないと両者の区別がつくかどうかが分からないのだ。美術は奥が深いわ(^^ゞ
最後に美人画3部作をもう一度。
おしまい
「庶民の生活をわりとリアルなタッチで描いた風俗画」
「同じく風俗画だが、もっと日本画的というか、
リアルさよりも絵としての完成度や美しさに重きを置いた作品」
「何気ない仕草や動作が描かれている美人画」
「小道具と一緒に描かれた美人画」
「美人画代表三部作」
と美人画代表三部作を除けば、何がどう描かれているかの区分で展覧会を振り返ってきた。ここからはいい絵だと思ったり、特に関心を引いたものを分類なしのノンジャンルで。
「若き人々」 明治45年(1912年)
屏風絵で上が右隻、下が左隻。
わかりやすいように左右を合体させると
船に乗ってどこかへ向かう姉を、妹が岸で追いかけようとしているのだろうか。姉は別れが辛いのか扇で顔を隠そうとしているように見える。船に乗っている少年(チョンマゲの前髪があるのは元服前。彼も兄弟だろうか?)が刀を差しているから、これは多くの鏑木清方の作品と違って舞台は明治時代じゃない。しかし姉も岸にいる母親らしき女性も日本髪を結っていないから江戸時代以前なのか。残念ながら服装で推測する知識はなし。展覧会で解説はついていなかったし、ネットでもこの作品の情報は見当たらなかった。
細かな内容は分からなくても、別れの情景が伝わって見入ってしまう作品である。
が、しか〜し
ナンジャこのタイトルの「若き人々」って?「初冬の花」や「墨田川両岸 梅若塚 今戸」でもタイトルについて書いたが、この作品ではタイトルがその役目を放棄しているぞ。
また岸にいる母親らしき女性の着物が変わっている。最初はつぎはぎを当てているのかと思ったものの、ところどこと複雑な曲線があるからつぎはぎではなさよう。まさかアバンギャルドなファッション?
「道成寺(山づくし)鷺娘」 大正9年(1920年)
道成寺(どうじょうじ)の名前と豪華な衣装が一緒にあれば、それはストーカー殺人事件の古典ともいえる、あの有名な安珍・清姫伝説を題材にした歌舞伎だと考えて間違いない。その代表作が「京鹿子娘道成寺(きょうがのこ・むすめ・どうじょうじ)という演目で、「山づくし」は全15段(段は章みたいなもの)のうち9段目のタイトル。上に配置した右隻の屏風がそれ。
タイトル話のついでに、歌舞伎では文字にしたときに目立つように、本来のタイトルに言葉を加えて文字数を長くするしきたりがある。合計で5文字や7文字が縁起がいいとされそうなっているものが多い。京鹿子娘道成寺は娘道成寺に京鹿子を付け足したもの。よく名前が知られているタイトルでは仮名手本忠臣蔵や義経千本桜も忠臣蔵や義経だけで内容的には事足りる。
京鹿子は花の名前であり布の染め方の一種である。娘道成寺に付け足されたものがどちらなのかザッと調べた程度では分からなかった。また京鹿子や仮名手本が本来のタイトルに対して何か意味を持っているのかも同様。
下に配置した左隻の屏風「鷺娘(さぎむすめ)」も、文字数は長くされていないがも歌舞伎の演目。白鷺の妖精が人間の姿になって恋をするものの、白鷺に戻ってしまって恋が遂げられなくなり、もがき苦しみ息絶えるようなストーリー。
逃げる相手を焼き殺してしまう娘道成寺とは内容は異なるとはいえ、どちらも恋に対する女性の執念を感じさせる点では共通している。それで鏑木清方はこの2つをセットで描こうと思ったのだろう。
文章が長くなったので上へスクロールして絵をもう一度眺めて欲しい。豪華なのにピュアで美しい作品である。娘道成寺のほうは目の周りの赤みに狂気のようなものが現れている。どちらもゾクッとするような色気。ところで2つの絵の顔が似ているが同じ歌舞伎役者をモデルにして描いたのだろうか。だとしたらチンチンぶら下げているんだゼ(^^ゞ
「春の夜のうらみ」 大正11年(1922年)
これも安珍・清姫伝説の清姫を描いた作品。顔は先ほどと同じに見える。「うらみ」は「恨み・怨み」だろうが憎しみのたぎる強い感情ではなく、心残りや悲しみといった意味で使っているように思う。だから平仮名にして漢字が持つイメージを和らげたのかも知れない。
この絵は清姫が安珍を焼き殺した後に、再び吊された道成寺の鐘を見上げている姿とされる。オマエが殺しておいてナニを物憂げにたたずんでいるネンと思わなくもないが、それが女性の本当の怖さですぞ男性諸君!
ところでこの作品は(画像ではよく分からないが)薄いベールが掛かっているというか、写真でならソフトフォーカスのような描き方で、ほのかに幻想的な仕上がりになっているのがとても素晴らしかった。そういう日本画(の人物画)はあまり見たことがない。もちろん鏑木清方らしく細部まで緻密に描かれており、近づいて眺めてヨシ離れてもヨシの名画である。美人度合いでなら「築地明石町」が上だけれども、もし貰えるのならこちらが欲しいな。まあ美人は三日で見飽きるみたいだし(^^ゞ
「滝野川観楓」 昭和5年(1930年) ※観楓=かんぷう=紅葉狩り
東京都北区にある滝野川はかつて渓谷が深く紅葉の名所だった。徳川吉宗が滝野川にカエデを、隣接する飛鳥山にはサクラを植えて江戸庶民の憩いの地を造ったとされる。飲めや歌えの花見はこの頃から始まったらしい。現在の滝野川は学校や寺の名前に紅葉の文字が残っている程度。
この絵はそこで紅葉を見ている母娘を描いている。しかし実におかしな絵なのである。行楽地を訪れている楽しさはみじんも感じられない。母娘は目を合わさない位置に座っていて顔もうつむき加減。まるでこんな会話が聞こえてきそうである。
母「あのね、お母さん、お父さんと離婚しようと思うの」
娘「うん、知ってた」
展覧会でこんな遊びをするのも楽しいよ。
「讃春」 昭和8年(1933年) ※讃春=さんしゅん
讃春という言葉は辞書にはない。おそらく春を褒めたたえる、春の喜びを表現した言葉だろう。それはともかく、これは「滝野川観楓」以上にに???と思った絵である。
まずは右隻(画像上)のセーラー服姿の女学生が目に飛び込んできた。それはセーラー服を絵で目にするのはあまりなく単に珍しかったから。そして場所は皇居外苑だと思った。実際そうなのだが、それがすぐに分かったのはここ東京国立博物館が皇居のそばにあって連想が働いたから。
そしてスカート長いなあとかストッキングは黒だなあとか、どうでもいいことを思い浮かべながら、それでも春らしい光景をけっこう気に入って眺めていた(実際の絵は画像よりも松の緑がもっと明るくてきれい)。
話は変わるが昔は女学生・女学校だったのに、いつから女子学生・女子校に変わったのだろう。終戦後しばらくしてからかな。そういえば昭和1桁生まれの母親は「私が女学生だった頃」なんて言い方をしていた。
さて???なのは左隻(画像下)である。川岸にボロそうな船が浮かんでいて、花が咲いたサクラの枝が描かれているから季節は春だと分かるものの讃春のイメージはしない。というか右隻とのつながりがまったく感じられない。
ナンジャコレ?が展覧会での感想。後で調べてみるとこの絵は、
昭和の大礼を記念して
三井財閥が発注して皇室に献上した屏風絵
左隻に描かれているのは船上生活を送る貧しい母子
だと分かった。
昭和の大礼とは昭和3年(1928年)に執り行われた昭和天皇の即位の礼や関連儀式を合わせた呼び方。三井財閥が発注したのは昭和3年で完成が昭和8年だから、描くのに相当な時間が掛かっている。5年も経ってからおめでとうと言われている感じだが、献上品とはそういうものなのだろうか。
左隻に描かれている橋は隅田川に架かる清州橋で、これは関東大震災(1923年)からの復興の象徴。そして貧しい船上生活者は復興から取り残された人々を表しているらしい。つまり対比。そして右隻は復興しつつある昭和の時代で青春を謳歌している女学生だから左右も対比になっている。
最初の回で紹介した「雛市」もそうだったように、鏑木清方は社会格差テーマにするのが好きなのだろうか。即位献上品のおめでたい作品でそれを描かなくてもいいとにも思うが。
ただ「雛市」は1枚の絵の中に豊かな母娘と貧しい女の子が描かれていて、まだわかりやすかったのに対して、「讃春」は対になった屏風絵とはいえ別々の絵なのでメッセージが伝わりにくい。最初は別個の絵が2点展示されているのかと思ったほど。
そして最大の問題は「雛市」もそうであったように、鏑木清方の絵がきれいすぎて、貧困のイメージが伝わってこないところ。美人画がメインの画家だからそういうのは苦手なのか、あるいは顧客ニーズを考えて淡く仕上げているのか。できたら彼に尋ねてみたい。
「菖蒲打」 昭和20年(1945年)
子供達が菖蒲(しょうぶ)を長く編んだものを地面に打ち付けている。その音の大きさなどを競うのが菖蒲打ちという端午の節句の遊び。他に女性の腰を打ってじゃれるなどのバージョンもあるようだ。初めて知った。今でもそんな風習が残っている地域があるのかな。
今年は菖蒲湯初体験をしたので、つい菖蒲に反応してしまう。
生き生きとした明治の風俗を目にできたし美人画はきれいだったし、期待していた以上に楽しめた展覧会だった。鏑木清方の作品をこれだけまとまってみたのは初めて。それなりに彼を理解できたと思う。初回に書いたようにここを訪れたのは
この展覧会を見たら、
もう、上村松園と区別がつかないなんて言わせません
と公式ホームページにあった殺し文句?に釣られたからである。
さて困った。
実は上村松園もいくつかの代表作を知っている程度。だから彼女のこともよく理解しないと両者の区別がつくかどうかが分からないのだ。美術は奥が深いわ(^^ゞ
最後に美人画3部作をもう一度。
おしまい
wassho at 22:07│Comments(0)│
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