2022年07月24日

木村伊兵衛と画家たちの見たパリ 色とりどり その2

「パリの街角」に続く第2のコーナーは「素顔のパリっ子」で、こちらは人物を中心に捉えた作品となっている。昨今はプライバシーや肖像権とかがややこしいが、この頃は「見てよいものは撮ってもよい」だったのどかな時代。


「ミラボー橋、パリ、1955年」
2-38


「パリ、1954年」
2-39


「パリ、1955年」
2-42


「パリ、1954-1955年」
2-46


「パリ、1954-1955年」
2-47


「パリ、1955年」
2-48


「パリ、1954-1955年」
2-58


「モンマルトル、パリ、1954-1955年」
2-69


「パリ、1954-1955年」
2-70


最初の1枚は、ひょっとして歩いている女性は仕込み?と思うくらいサマになっているが、総じて人々のありふれた日常の姿が撮られている。まるでパリの街中や路地裏をブラブラ散歩しているような気分。まだまだのんびりとした時代の空気感になごむね。いわゆる花の都パリのイメージはないが、昭和29年当時の日本人にはこれでも相当にオシャレなものに思えたのかも知れない。

下から3枚目のマダムが脚を伸ばしているお店は骨董屋かなんかだろうか。スナップ写真は基本的にストリート写真だから、室内の写真が少ないのは残念なところ。生活の匂いは室内により濃く現れるから、私は絵画でも室内を描いたものが好きなんだけれど。


ところで木村伊兵衛がパリに出かけたのは1954年(昭和29年)と翌55年の2回に分けてである。最初の1954年は日本人写真家としては戦後初めてのことだったらしい(終戦は1945年・昭和20年ね)。しかし作品タイトルに「1954-1955年」とあるのはナゼ? いつ撮影したものか整理できていなかったのかな?



さて実はーーー
写真展や写真集を見ていつも思うことがある。
それは素晴らしいと思った写真があったとして、それが

  カメラマンの才能や能力に依るのか
  被写体自体の魅力なのか

ということ。

昔、まだタバコの広告があった頃、マイルドセブンの雑誌広告に南極の写真を使ったものがあった。写っているのは氷山と青空だけなのに、なぜかその風景が好きでよく眺めていたし、新しい広告が出るのを楽しみにしていた。

しかしあるとき、私でも南極まで行けばこんな写真は撮れる−−−と気づく(^^ゞ その頃からそんなことを考え始めたような気がする。


これは15年ほど前に、ミラノの下町ぽいエリアで私が撮った写真。もちろん地元の人には風景的な価値はなくて、こんなところを写真に撮るのは観光客だけだろう。つまり外国の街並みという被写体に魅力がある。私だって自宅近くの交差点を撮ったりしない。
IMG_0049


その場所にしばらくいると、自転車なのにジャケットにネクタイをしている、実に味のあるジイさんがたまたま通りかかった。この写真はけっこうお気に入り。もちろんこの写真の価値は被写体が100%を占める。
IMG_0051

素人写真のことはさておいて、プロの写真の価値はカメラマンの才能や能力と、被写体自体の魅力の掛け算だとは一応理解している。付け加えるなら、その被写体を探す・見つける・撮りに行く労力を含めての評価だろう。

ただ掛け算だとしても、それでも才能や能力と、被写体の比重はどれくらいなんだろうと考えてしまうのは理屈っぽいかな。えっ、絵画と較べて写真を見下していないかって? まったくそうじゃない。絵の展覧会に出かけても、これくらいなら私でも描けるとしょっちゅう思っているから(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 21:39│Comments(0) 美術展 

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