2022年08月28日

ただ遊ぶのは子供の特権?

8月も残すところ数日となった。
今頃、子供たちは夏休みの宿題と格闘しているのかな。


子供の頃は大人が、とても「大人」に思えたのに、いざ自分が大人になってみると、まったく「大人」になった感じがしない。これは多くの人がいだいている感覚のはず。中には自分が精神的に成長していないのではないかと考える人もいる。でもそんなことはなくて子供と大人に本質的な違いなんてないのだ。

それを自覚したのは30歳の時。その年に父親が亡くなった。通夜と葬式には彼の親友たちも来てくれた。当時60歳前後。小学校までは家族ぐるみでよく旅行にも一緒に出かけていた皆さんである。

お通夜のお経が終わり、やがて宴会状態になって私は彼らの席に着いた。思い出話、四方山話に花が咲いていた。そして、その内容とか会話のノリなどが、30歳ほど年齢の開きがあるにもかかわらず、私が自分の友達としているソレとほとんど同じだった。歳を取っても、あるいは歳が違っても、人って変わらないものなんだなと確信。


それを明確に表現した言葉がある。

    「大人とは、子どもの想像の産物」

これはリリー・フランキーが2010年にビールのCMで語っていたもの。彼本人の言葉かどうかは知らないものの、まさにその通りだと思う。だからいくつになっても、大人になった感覚など生まれないのだ。


話はそれるが、日本人は「プロとは?」の問いが好きなように思う。これも大人と同じく「プロとは、素人の想像の産物」だと思っている。NHKに「プロフェッショナル 仕事の流儀」という、各界一流人物の仕事ぶりを追ったドキュメンタリー番組がある。もちろんスゴいことをやってのける人たちであるが、別に彼・彼女たちは仕事の鬼じゃなくて普通の人間だと分かる番組でもある。

番組の最後に「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と出演者(つまりその道のプロ)に質問が投げかけられる。いつもたいした答えが返ってこない(^^ゞ プロとは特別な意識を持っているモンスターだとは素人の空想で、本人達はごく当たり前に仕事に取り組んでいるに過ぎない。もちろん結果においてレベルの差は大きいけれどね。



さて話を子供に戻すと、何かを得て大人に生まれ変わるわけじゃない。しかし逆に失ったものはあると感じている。そのひとつは遊びについて。

公園では幼い子供たちがキャッキャッと遊んでいる。よく見ると別に鬼ごっことか楽しいことをしているわけでもない。会話すらしていない場合もある。それでも跳んだり跳ねたりはしゃいでいるし、お互いの身体にぶつかったり触れあって笑い合っている。

今、私が同じようにしたら
「wasshoさんは変わったボケかたしてるなあ」と言われるに違いない(^^ゞ


小学校の中頃あたりまでは隣近所の友達としょっちゅう一緒にいた。たまにはビー玉やかくれんぼもやったけれど、特に何をするでもなく数名で一緒にいるだけで楽しかった。今、用もないのに人の家を訪ねたら、3回目には居留守を使われるはず。

何かをして遊んでいたのではなく、ただ遊んでいたのだと思う。やがて遊びには「遊ぶ内容」が必要となり、人と集まるのにも目的が求められる。言い換えれば、何もなくても何もしなくても遊べるのは子供だけの特権かも知れない。


現在の東京は気温22度とやたら涼しい。
過ぎ去る夏を惜しんで、心にうつりゆくよしなしごとを徒然と。
それにしても大人にはなれないのに、特権だけを失って損した気分(^^ゞ

子供


wassho at 21:27│Comments(0) ノンジャンル 

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