2022年12月14日

本日12月14日は討ち入りの日じゃない

明日から本日へとタイトル語句を修正して、前回からの続き。


日本で使われてきた暦を一覧にしたのが以下。宣明暦までは中国で制定されたものを導入している。メイドインジャパンな暦は5代将軍徳川綱吉の時代から。偶然にも討ち入りのあった頃である。それにしても元嘉暦の開始が692年ということは飛鳥時代の末期。縄文・弥生時代はともかく、それなりに規模の大きな社会ができていた飛鳥時代や古墳時代は、暦なしでどう生活していたのだろう。

                 使用開始年  使用年数

    元嘉暦(げんかれき)     692年  5年
    儀鳳暦(ぎほうれき)     697年  67年
    大衍暦(たいえんれき)    764年  94年
    五紀暦(ごきれき)      858年  4年
    宣明暦(せんみょうれき)   862年  823年

    貞享暦(じょうきょうれき) 1685年   70年
    宝暦暦(ほうりゃくれき)  1755年   43年
    寛政暦(かんせいれき)   1798年   46年
    天保暦 (てんぽうれき)    1844年  29年

    グレゴリオ暦1873年(明治6年)

なお天保暦まではすべて太陰太陽暦となる。旧暦という場合、一般には現在の1つ前の暦である天保暦を意味するが、もちろんそれ以前は、その出来事が起きた時代に使われていた暦が旧暦と呼ばれる。

ところで月給は月ごとに支払われる賃金。明治6年にグレゴリオ暦へと改暦されたのは西洋文化に合わせる意味もあったが、実は明治6年が天保暦では3年に1度の閏月のある年にあたり、財政事情の苦しい明治政府が13ヶ月分の給料を支払う余裕がなかったからとも言われている。

実際には明治5年12月3日を明治6年(1873年)1月1日とグレゴリを暦に合わせて改暦したので(そんなに太陽暦とずれていたのにも驚くが)、明治政府はその年の閏月分だけではなく、明治5年の12月に働いた2日間分の給料も「たった2日だから」と払っていない。明治政府はその話を盛って「2ヶ月分の給料を節約した、政府は努力している」とアピールしたそうだ。逆に考えれば、昨今は日本の賃金が上がっていないと指摘されるから、いっそ旧暦に戻すのもありかもとキッシーに教えてあげようか(^^ゞ

ただし冷静に考えると、バッくれた2日分の給料は別として、旧暦から新暦に切り替えれば、明治6年に支払う13ヶ月分の給料は12ヶ月分になるものの、その分だけ次の年は早くやってくるわけで、会計年度をまたいで考えればたいした違いはない。どれだけの差になるかを計算すると、

  新暦の3年=36ヶ月
  旧暦の3年=3年に1度の閏月があるので37ヶ月(正確には19年に7回の閏月)

3年で36/37=97%だから節約できるのは3%、1年だと1%に過ぎない。つまりほとんど節約できていない。それでも新暦への切り替えについて調べると、ほとんどが「2ヶ月分の給料を節約した」と、明治政府の盛った話をそのまま載せている。プロパガンダを信じ込ませてしまえば、その威力は絶大である。


忠臣蔵

さて討ち入りに話を戻すと、討ち入りがあった元禄15年(貞享暦の時代)は閏月が設定され1年が384日もある年だった。その12月14日を現在の暦に置き換えると1703年1月30日となる。

さらに正確を期すなら、江戸時代でも暦の上では1日の始まりは午前0時を意味する正子(しょうし)だが、一般的には夜明けが1日の始まりとされていた。討ち入り時刻が寅の刻(午前4時前後だから夜明け前)とされているので、江戸時代的にはまだ14日でも今の基準でなら15日早朝になる。それを考慮すると討ち入りがあったのは1月31日である。

閏月の関係もあって、12月14日とはなんと1ヶ月半もずれている。
年もまたいで翌年だなんてヘンな感じ。
まあお祝いする日でもないから別にいいか(^^ゞ


カレンダー

太陰太陽暦では閏月がどこに挿入されるか、またどの月が大の月・小の月かもその都度違うので、旧暦の何月何日が新暦の何月何日に当たるかを単純に計算で求めることはできない。つまり旧暦の日付を新暦の日付に直すのは大変だったのである。(今は暦データをプログラムされた計算ソフトがある)

というわけで歴史上の日付は、赤穂浪士の討ち入り12月14日と同じように、その時代に用いられていた暦での日付がそのまま使われている。また元号だといつのことか分からないから西暦にする場合でも、たとえば寿永4年3月24日に起きた壇ノ浦の戦いなら、寿永4年を1185年に直して1185年3月24日というように日付は旧暦のまま。


旧暦を新暦であるグレゴリオ暦に置き換えると

   壇ノ浦の戦い 寿永4年3月24日 →1185年5月2日
   桶狭間の戦い 永禄3年5月19日 →1560年6月22日
   本能寺の変  天正10年6月2日 →1582年7月1日
   関ヶ原の戦い 慶長5年9月15日 →1600年10月21日
   黒船来航   嘉永6年6月3日  →1853年7月8日
   大政奉還   慶応3年10月14日 →1867年11月9日

壇ノ浦の戦いは5月だったから入水する気になったのかな、桶狭間の戦いは梅雨時だから大雨が降ったのかとか新暦への置き換えで、季節感がリセットされて多少は歴史の見え方が違ってくる場合もあるかも知れない。

なお歴史上の出来事が新暦で表示されているように思える場合でも、グレゴリオ暦がヨーロッパで採用される1582年より以前のものは、その前のユリウス暦で換算されていることがある。例としてWikipediaで桶狭間の戦いは永禄3年5月19日(1560年6月12日)と西暦が併記されているが、この西暦はユリウス暦である。本能寺の変は1582年だが、グレゴリオ暦の採用開始は10月15日からだから、Wikipediaでは同じくユリウス暦で補足されている。また確認はしていないが西洋史の歴史上の日付も1582年以前はおそらくユリウス暦だろう。

それにしても日本の歴史をユリウス暦で表記する意味ある?


ところで討ち入りの日が12月14日か、1月31日なのかはまあいいとして命日はどうだろう。歴史上の人物の命日は今でも供養されたり、あるいはお祭りなんかになっている。たとえば徳川家康は元和2年4月17日没。これを現在の暦に置き換えれば1616年6月1日。しかし東照宮では家康を祀る最も重要な行事として御例祭を毎年4月17日に開いている。こういうのはちょっとビミョー。

それと、その日が閏月だったらどうするのだろう。2月29日生まれの誕生日問題と違って1ヶ月丸々存在しないのだから。またよく生誕何年とか没後何年という言い方もするが、場合によっては旧暦の日付は翌年になる場合もあるから、年数の計算も違ってくる。



最後にオマケとして
赤穂浪士討ち入りの発端は藩主である浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が、江戸城の松の廊下で吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)に切りつけた事件。ミドルネームっぽい内匠頭や上野介は官職名ね。

松の廊下

松の廊下、正式には松之大廊下(まつのおおろうか)は江戸城では2番目に長い廊下だったとされる。全長50メートル幅4メートルで畳敷き。廊下に沿った襖(ふすま)に松が描かれているので、その名前がついている。もっともこの事件がなければ一般に名前が知られることはなかっただろう。1番長い廊下を知っているのはよほどの城マニアだ。

皇居にある3つの公園のひとつ、皇居東御苑はかつて江戸城の本丸などがあった場所。そこを散策すると松の廊下跡コッチの案内板がある。

何か歴史を感じられるかと、その方向に歩いて行くと、
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説明書きがあって、
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その隣に小さな石碑があるだけ!
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まあ江戸城そのものが残っていないのだから、松の廊下がなくて当然だが、逆にわざわざここが松の廊下があった場所だと石碑を置く意味があるかな? ここは日本屈指のガッカリ名所だと思っている。忠臣蔵ファンの皆さんは話のネタに是非訪れましょう(^^ゞ


おしまい

wassho at 20:02│Comments(0) ノンジャンル 

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