2022年12月20日
かつて国会議事堂の敷地は三角形だった
興味があるかどうかは別として、
誰もが知っている国会議事堂。
その敷地がどんな形をしているかなんて考えたこともなかったが、常識的に考えれば四角形のはず。航空写真で確認すれば四隅が斜めになっているものの、横長の議事堂に合わせるように普通に長方形である。
しかし以前はこんな三角形の敷地だったとたまたま知った。
まあ私には何の関わりもない話だとしても、
いつ四角形にしたのか、どうして四角形にした(敷地を拡張した)のか気になるもの。
しかしなぜか調べても関連資料が見つからない。
国会議事堂が建てられたのは1936年(昭和11年)と思っていたより最近である。大日本帝国憲法の公布1889年(明治22年)→国会(帝国議会)開催1890年(明治23年)と歴史が流れるが、議事堂建設は当然ながらそれ以前から準備が進められ、1887年(明治20年)に現在の場所に建設すると決まる。しかし予算の都合ですぐ建設に着手できず、結果的に4つの仮議事堂を経ることになる。
<第1次仮議事堂>
1890年(明治23年)11月24日、なんと第1回帝国議会召集の前日に竣工(完成を意味する、対義語は着工)。現在は経産省がある区画に建てられた。しかし翌年1月20日に火災で焼失してしまう(/o\) わずか2ヶ月の歴史。
<第2次仮議事堂>
同じ場所に1891年4月28日に着工して10月30日に竣工。超突貫工事がんばりました。そして第2回帝国議会召集が11月21日。
<広島臨時仮議事堂>
仮の前に臨時までつくめずらしい建物。1894年(明治27年)8月に、日清戦争のため大本営が広島に置かれる。それで帝国議会も広島で開かれると9月22日に決定され、急遽工事を始めてして10月14日に竣工。議会招集は10月15日。議事堂建設のハードスケジュールはすっかりお約束になってきた。ただし広島での議会開催はたった4日間で、そのためだけの建物。昔から政府は無駄遣いが好きーーー
<1925年(大正14年)9月18日>
第2次仮議事堂が火災のため焼失(>_<)
<第3次仮議事堂>
火災が起きてからわずか80日ほどの1925年(大正14年)12月22日に竣工。もうどんなに早くても驚かなくなってきたね。
そして現在の議事堂は1920年(大正9年)に着工され、なぜか伝統に反して?17年もの歳月をかけて建設された。先ほど書いたように竣工は1936年(昭和11年)。三角形敷地の写真はいつ撮影されたものか不明だが、おそらく完成直後だろう。
さて国会の敷地が三角形から長方形になったのは1960年代に入ってからのようだ。衆議院と参議院のホームページに敷地拡張に関する記述は見当たらないが、Wikipediaによると
昭和30年代(1955-1964年)に入り、周辺の国有地が衆議院および参議院
へ移管されるとともに、パレスハイツ(現・最高裁判所庁舎)・ジェファー
ソンハイツ(現・衆議院議長公邸および参議院議長公邸)・リンカーンセンター
(現・国土交通省庁舎)等の連合国軍占領期以後の在日米軍接収地も返還が
決まったため、首都高速道路の整備と合わせて、国会議事堂の敷地拡張および
周辺の区画整理が行われた。
とある。他で得られた情報も似たり寄ったり。しかしここに書かれているパレスハイツ、ジェファーソンハイツ、リンカーンセンター等は国会議事堂に隣接している場所ではない。首都高も同じく。
現在の地図で見ると丸ノ内線が議事堂敷地の地下を走っている。道路の下に地下鉄を掘ったと考えると、三角形を作っていたラインの1つだろう。このあたりの丸ノ内線は1958年(昭和33年)に開通している。有楽町線の開通は議事堂の敷地が拡張されてから後の1974年(昭和49年)だから、敷地内には入り込んでいない。
それにしても国会議事堂建設については、仮議事堂も含めて膨大な資料があるのに、火災の日付まで分かるのに、なぜ敷地拡張についてははっきりしないのだ?
先ほどWikipediaでは昭和30年代(1955-1964年)と書かれているのに「三角形から長方形になったのは1960年代に入ってから」と断定したのは次の写真を見つけたから。
これは1960年の安保闘争でデモ隊が国会を取り囲んだ様子。
日付は1960年(昭和35年)6月18日。この時はまだ三角形の敷地をしているとわかる。
それにしても凄まじい数のデモ隊。主催者発表で33万人、警察発表でも13万人の規模。日本の政治がまだ熱かった時代。この時は国会のゲートが破られて敷地内に侵入されている。それで私の仮説はデモ隊対策として敷地を拡張したのではというもの。10年後にはまた安保改定があるから、その時のデモ隊に備えるために。
デモ隊とすれば正面から進んできて三角形のほうが取り囲みやすい。四角形だと直角に曲がらなければいけないから突進の勢いがそがれる。もちろん敷地を広げれば道路から議事堂の距離も長くなる。広げなくても投石や火焔瓶は届かなかったと思うけれど、国会議員がすぐ近くまで迫られていると感じる恐怖は幾分和らげただろう。
いわば国家議事堂の黒歴史なので資料があまりないのかなあ。
考えすぎかも知れないが。
それはともかく三角形時代の敷地はどことなく優雅なイメージだね。
誰もが知っている国会議事堂。
その敷地がどんな形をしているかなんて考えたこともなかったが、常識的に考えれば四角形のはず。航空写真で確認すれば四隅が斜めになっているものの、横長の議事堂に合わせるように普通に長方形である。
しかし以前はこんな三角形の敷地だったとたまたま知った。
まあ私には何の関わりもない話だとしても、
いつ四角形にしたのか、どうして四角形にした(敷地を拡張した)のか気になるもの。
しかしなぜか調べても関連資料が見つからない。
国会議事堂が建てられたのは1936年(昭和11年)と思っていたより最近である。大日本帝国憲法の公布1889年(明治22年)→国会(帝国議会)開催1890年(明治23年)と歴史が流れるが、議事堂建設は当然ながらそれ以前から準備が進められ、1887年(明治20年)に現在の場所に建設すると決まる。しかし予算の都合ですぐ建設に着手できず、結果的に4つの仮議事堂を経ることになる。
<第1次仮議事堂>
1890年(明治23年)11月24日、なんと第1回帝国議会召集の前日に竣工(完成を意味する、対義語は着工)。現在は経産省がある区画に建てられた。しかし翌年1月20日に火災で焼失してしまう(/o\) わずか2ヶ月の歴史。
<第2次仮議事堂>
同じ場所に1891年4月28日に着工して10月30日に竣工。超突貫工事がんばりました。そして第2回帝国議会召集が11月21日。
<広島臨時仮議事堂>
仮の前に臨時までつくめずらしい建物。1894年(明治27年)8月に、日清戦争のため大本営が広島に置かれる。それで帝国議会も広島で開かれると9月22日に決定され、急遽工事を始めてして10月14日に竣工。議会招集は10月15日。議事堂建設のハードスケジュールはすっかりお約束になってきた。ただし広島での議会開催はたった4日間で、そのためだけの建物。昔から政府は無駄遣いが好きーーー
<1925年(大正14年)9月18日>
第2次仮議事堂が火災のため焼失(>_<)
<第3次仮議事堂>
火災が起きてからわずか80日ほどの1925年(大正14年)12月22日に竣工。もうどんなに早くても驚かなくなってきたね。
そして現在の議事堂は1920年(大正9年)に着工され、なぜか伝統に反して?17年もの歳月をかけて建設された。先ほど書いたように竣工は1936年(昭和11年)。三角形敷地の写真はいつ撮影されたものか不明だが、おそらく完成直後だろう。
さて国会の敷地が三角形から長方形になったのは1960年代に入ってからのようだ。衆議院と参議院のホームページに敷地拡張に関する記述は見当たらないが、Wikipediaによると
昭和30年代(1955-1964年)に入り、周辺の国有地が衆議院および参議院
へ移管されるとともに、パレスハイツ(現・最高裁判所庁舎)・ジェファー
ソンハイツ(現・衆議院議長公邸および参議院議長公邸)・リンカーンセンター
(現・国土交通省庁舎)等の連合国軍占領期以後の在日米軍接収地も返還が
決まったため、首都高速道路の整備と合わせて、国会議事堂の敷地拡張および
周辺の区画整理が行われた。
とある。他で得られた情報も似たり寄ったり。しかしここに書かれているパレスハイツ、ジェファーソンハイツ、リンカーンセンター等は国会議事堂に隣接している場所ではない。首都高も同じく。
現在の地図で見ると丸ノ内線が議事堂敷地の地下を走っている。道路の下に地下鉄を掘ったと考えると、三角形を作っていたラインの1つだろう。このあたりの丸ノ内線は1958年(昭和33年)に開通している。有楽町線の開通は議事堂の敷地が拡張されてから後の1974年(昭和49年)だから、敷地内には入り込んでいない。
それにしても国会議事堂建設については、仮議事堂も含めて膨大な資料があるのに、火災の日付まで分かるのに、なぜ敷地拡張についてははっきりしないのだ?
先ほどWikipediaでは昭和30年代(1955-1964年)と書かれているのに「三角形から長方形になったのは1960年代に入ってから」と断定したのは次の写真を見つけたから。
これは1960年の安保闘争でデモ隊が国会を取り囲んだ様子。
日付は1960年(昭和35年)6月18日。この時はまだ三角形の敷地をしているとわかる。
それにしても凄まじい数のデモ隊。主催者発表で33万人、警察発表でも13万人の規模。日本の政治がまだ熱かった時代。この時は国会のゲートが破られて敷地内に侵入されている。それで私の仮説はデモ隊対策として敷地を拡張したのではというもの。10年後にはまた安保改定があるから、その時のデモ隊に備えるために。
デモ隊とすれば正面から進んできて三角形のほうが取り囲みやすい。四角形だと直角に曲がらなければいけないから突進の勢いがそがれる。もちろん敷地を広げれば道路から議事堂の距離も長くなる。広げなくても投石や火焔瓶は届かなかったと思うけれど、国会議員がすぐ近くまで迫られていると感じる恐怖は幾分和らげただろう。
いわば国家議事堂の黒歴史なので資料があまりないのかなあ。
考えすぎかも知れないが。
それはともかく三角形時代の敷地はどことなく優雅なイメージだね。
wassho at 23:03│Comments(0)│
│ノンジャンル