2023年02月23日
荏原神社のカンヒザクラ(寒緋桜)
サクラには自然種、変種、園芸種あわせて500から600品種あるとされ、そのうちソメイヨシノが本数では8割を占めると言われている。だからどこでも眺められるソメイヨシノではなく、最近はできるだけそれ以外のサクラを探して出かけるようにしている。
今まで見てきたのは
河津桜 ジンダイアケボノ コマツオトメ オオシマザクラ
八重桜 しだれ桜 彼岸桜 ヤマザクラ
あたりかな。もっとも八重桜以下は品種名ではなくグループ名のようなものだから、品種で数えれはもう少し多い。
それでふと「寒桜や寒緋桜や緋寒桜」というサクラはたまに聞くのに、見たことがなかったかもと気づく。名前からしてややこしいが
寒桜は、寒緋桜と山桜あるいは大島桜の交雑種と考えられている。
その寒緋桜カンヒザクラと緋寒桜ヒカンザクラは同じ品種の別名。
緋寒桜ヒカンザクラだと彼岸桜ヒガンザクラと紛らわしいので、寒緋桜カンヒザクラと
呼ぶようになった。
寒は寒い時期から咲くから、緋は花の色が濃いのでそう名付けられた。
だそうだ。ただし色については緋色ほど濃い紅色ではないが。
調べてみると寒緋桜が、
散歩圏内の荏原神社というところで咲いているようなので訪れてみた。
品川駅の南、大崎駅の東といったロケーション。
品川にはなぜか品川駅より南に北品川の駅がある。フシギ
荏原神社は桜並木(もちろんソメイヨシノ)で有名な目黒川沿いに位置する。
ここから500メートルほどで天王洲運河と合流して目黒川は終了。
川沿いを歩いて行くと写真を撮っている人多数で、
あそこが荏原神社とわかった。
ここから見えている範囲がほぼすべてで規模は小さい。
でも明治天皇が立ち寄ったとの由緒を持つ。
文字を正確に読めば
明治天皇が京都から東京に来る途中で、
三種の神器のひとつである鏡を置く場所である内侍所(ないしどころ)
として使われた
との意味のようである(解釈にあまり自信なし)。天皇一行は江戸城に入る前に品川宿で一泊している。品川宿があったのは荏原神社から200mほどの所だから、施設としてあれこれ利用されたのだろう。
ただし天皇との関係はちょっと複雑ーーー
天皇がその神社の祭祀に際して勅使を遣わす、勅祭社と格付けされる神社がある。もちろん第一級の格式で平安時代後期に22社、現在は全国に16社。そして明治維新で天皇が東京に移ると、その勅祭社に準じる存在として、明治3年に東京近郊の12の神社が准勅祭社と定められた。そのひとつが荏原神社から350mほど離れた場所にある品川神社。
ところが当時の荏原神社は品川貴船社の名称であり、荏原神社は「准勅祭社に指定された品川神社とはウチのことだ!」と主張している。それが正しいかどうかは調べればすぐ分かりそうなものなのに、なぜかはっきりとした記録がないらしい。
准勅祭社の制度はわずか3年で廃止されたものの、荏原神社、品川神社ともに現在でも御朱印で我こそが「元准勅祭社」だと朱肉も鮮やかにアピールしている。まるで本家と元祖の争いみたい(^^ゞ
画像はhttps://wave2017.hatenablog.comから引用
品川神社の御朱印に「十社之内」と記されているのは、准勅祭社12社から都内23区以外にある2社を除いた東京十社が結成され、その構成神社だという意味。もちろん荏原神社は東京十社には含まれていない。そういう観点からは荏原神社の分が悪そうである。よほど腹に据えかねるのか荏原神社の公式ホームページには次のような記載がある。
凡そ二十五年前までは、 品川神社の神職が当社の神輿に付ける稲穂を取りにきて
当社に倣った祭りをしていましたが、今ではお断りしています。
敵対心丸出し。イイゾ、モットヤレ(^^ゞ
25年前と記されているが、かなり前の資料にもこの文章が引用されているので、実際はもっと昔に書かれたものだろうと推測できる。荏原神社がいつから我こそが准勅祭社であったと主張しているかもポイントであると思われるが、それを示す資料は見当たらなかった。
ついでに御朱印をよく見ると、
荏原神社:元准勅祭「社」
品川神社:元准勅祭「神社」
と微妙に表現が違うのに気づく。神社庁のデータベースでも荏原神社は元准勅祭「社」、品川神社は元准勅祭「神社」と記載されている。もちろん正しい表記は元准勅祭「社」である。詳しい事情は分からないが、どうやら神社庁が
明治3年に准勅祭社に指定された12社を元准勅祭「社」
3年後に准勅祭社制度が廃止された後、1975年(昭和50年)に
元准勅祭「社」から結成された東京十社に属する神社を元准勅祭「神社」
と呼ぶ区別をしているとの説がある。そして荏原神社は元准勅祭「社」のグループ、品川神社を元准勅祭「神社」のグループに入れているようだ。ただし東京十社に参加しなかった2社を除けば、それ以外の神社は元准勅祭「社」・元准勅祭「神社」の両方に属するわけだから、これはまさに荏原神社と品川神社の本家vs元祖争いのための措置だと考えられる。神社庁がことを丸く収めようと玉虫色の対応をしたのかな? 気づかれないようにコソッと「神」の一文字を紛れ込ませて(^^ゞ
しかし品川神社はホームページの由緒書きでは元准勅祭「神社」と記しているが、トップページでは堂々と元准勅祭「社」を名乗っている。また他の東京十社に属する神社で元准勅祭「神社」と記しているところはない。
もっとも12社のうちホームページを持つ神社は11社あるが、トップページで元准勅祭「社」をアピールしているのは荏原神社と品川神社を含めて3社しかない。また由緒書きでもまったく触れていない神社が4社ある。メンツにかけてこだわっているのは荏原神社と品川神社だけのようである。
とにかく神職も一皮むけば業の塊だとよく分かるエピソード。
本家vs元祖争いの話で長くなってしまったので、
寒緋桜の話は次回に。
ーーー続く
今まで見てきたのは
河津桜 ジンダイアケボノ コマツオトメ オオシマザクラ
八重桜 しだれ桜 彼岸桜 ヤマザクラ
あたりかな。もっとも八重桜以下は品種名ではなくグループ名のようなものだから、品種で数えれはもう少し多い。
それでふと「寒桜や寒緋桜や緋寒桜」というサクラはたまに聞くのに、見たことがなかったかもと気づく。名前からしてややこしいが
寒桜は、寒緋桜と山桜あるいは大島桜の交雑種と考えられている。
その寒緋桜カンヒザクラと緋寒桜ヒカンザクラは同じ品種の別名。
緋寒桜ヒカンザクラだと彼岸桜ヒガンザクラと紛らわしいので、寒緋桜カンヒザクラと
呼ぶようになった。
寒は寒い時期から咲くから、緋は花の色が濃いのでそう名付けられた。
だそうだ。ただし色については緋色ほど濃い紅色ではないが。
調べてみると寒緋桜が、
散歩圏内の荏原神社というところで咲いているようなので訪れてみた。
品川駅の南、大崎駅の東といったロケーション。
品川にはなぜか品川駅より南に北品川の駅がある。フシギ
荏原神社は桜並木(もちろんソメイヨシノ)で有名な目黒川沿いに位置する。
ここから500メートルほどで天王洲運河と合流して目黒川は終了。
川沿いを歩いて行くと写真を撮っている人多数で、
あそこが荏原神社とわかった。
ここから見えている範囲がほぼすべてで規模は小さい。
でも明治天皇が立ち寄ったとの由緒を持つ。
文字を正確に読めば
明治天皇が京都から東京に来る途中で、
三種の神器のひとつである鏡を置く場所である内侍所(ないしどころ)
として使われた
との意味のようである(解釈にあまり自信なし)。天皇一行は江戸城に入る前に品川宿で一泊している。品川宿があったのは荏原神社から200mほどの所だから、施設としてあれこれ利用されたのだろう。
ただし天皇との関係はちょっと複雑ーーー
天皇がその神社の祭祀に際して勅使を遣わす、勅祭社と格付けされる神社がある。もちろん第一級の格式で平安時代後期に22社、現在は全国に16社。そして明治維新で天皇が東京に移ると、その勅祭社に準じる存在として、明治3年に東京近郊の12の神社が准勅祭社と定められた。そのひとつが荏原神社から350mほど離れた場所にある品川神社。
ところが当時の荏原神社は品川貴船社の名称であり、荏原神社は「准勅祭社に指定された品川神社とはウチのことだ!」と主張している。それが正しいかどうかは調べればすぐ分かりそうなものなのに、なぜかはっきりとした記録がないらしい。
准勅祭社の制度はわずか3年で廃止されたものの、荏原神社、品川神社ともに現在でも御朱印で我こそが「元准勅祭社」だと朱肉も鮮やかにアピールしている。まるで本家と元祖の争いみたい(^^ゞ
画像はhttps://wave2017.hatenablog.comから引用
品川神社の御朱印に「十社之内」と記されているのは、准勅祭社12社から都内23区以外にある2社を除いた東京十社が結成され、その構成神社だという意味。もちろん荏原神社は東京十社には含まれていない。そういう観点からは荏原神社の分が悪そうである。よほど腹に据えかねるのか荏原神社の公式ホームページには次のような記載がある。
凡そ二十五年前までは、 品川神社の神職が当社の神輿に付ける稲穂を取りにきて
当社に倣った祭りをしていましたが、今ではお断りしています。
敵対心丸出し。イイゾ、モットヤレ(^^ゞ
25年前と記されているが、かなり前の資料にもこの文章が引用されているので、実際はもっと昔に書かれたものだろうと推測できる。荏原神社がいつから我こそが准勅祭社であったと主張しているかもポイントであると思われるが、それを示す資料は見当たらなかった。
ついでに御朱印をよく見ると、
荏原神社:元准勅祭「社」
品川神社:元准勅祭「神社」
と微妙に表現が違うのに気づく。神社庁のデータベースでも荏原神社は元准勅祭「社」、品川神社は元准勅祭「神社」と記載されている。もちろん正しい表記は元准勅祭「社」である。詳しい事情は分からないが、どうやら神社庁が
明治3年に准勅祭社に指定された12社を元准勅祭「社」
3年後に准勅祭社制度が廃止された後、1975年(昭和50年)に
元准勅祭「社」から結成された東京十社に属する神社を元准勅祭「神社」
と呼ぶ区別をしているとの説がある。そして荏原神社は元准勅祭「社」のグループ、品川神社を元准勅祭「神社」のグループに入れているようだ。ただし東京十社に参加しなかった2社を除けば、それ以外の神社は元准勅祭「社」・元准勅祭「神社」の両方に属するわけだから、これはまさに荏原神社と品川神社の本家vs元祖争いのための措置だと考えられる。神社庁がことを丸く収めようと玉虫色の対応をしたのかな? 気づかれないようにコソッと「神」の一文字を紛れ込ませて(^^ゞ
しかし品川神社はホームページの由緒書きでは元准勅祭「神社」と記しているが、トップページでは堂々と元准勅祭「社」を名乗っている。また他の東京十社に属する神社で元准勅祭「神社」と記しているところはない。
もっとも12社のうちホームページを持つ神社は11社あるが、トップページで元准勅祭「社」をアピールしているのは荏原神社と品川神社を含めて3社しかない。また由緒書きでもまったく触れていない神社が4社ある。メンツにかけてこだわっているのは荏原神社と品川神社だけのようである。
とにかく神職も一皮むけば業の塊だとよく分かるエピソード。
本家vs元祖争いの話で長くなってしまったので、
寒緋桜の話は次回に。
ーーー続く
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