2023年04月25日
芝桜の後は岩淵水門
タイトルを変更して前回からの続き。
予定では新荒川大橋緑地で芝桜を見るだけのつもりだったものの、規模はそこそこ大きくても内容的に思っていたより見応えがなかったので(小声)、追加メニューとして岩淵水門まで足を伸ばすとした。別に興味があるわけじゃないが水門なんてあまり見たことがないし、それに緑地からすぐ近くなので。
新荒川大橋をくぐる。
道の先に見えているオレンジと水色の構造物が水門。
置き石アート?
川縁に近い遊歩道を歩いて。
最初に現れるのは旧岩淵水門。通称は赤水門。
のんびり過ごしている人々。
ジグザグになった遊歩道のような短い桟橋。
この高さまで水位があったとの記録。
でも堤防はもっと高いのでとりあえずは安心。
ちなみにここは東京湾の河口から21kmも離れている。それでも東日本大震災の時は津波が遡上して1.2m水位が上がったと記録にある。東京湾に押し寄せた津波は0.8mだけれど、遡上するうちに水かさが増してくるらしい。アナオソロシア(/o\)
間近で眺める旧岩淵水門。
水色の新しい岩淵水門がのぞいている。
堤防を上がる。
解説の看板。
この赤水門の完成は1924年(大正13年)。青水門と呼ばれる新しい水門が1982年(昭和57年)に完成。役目を終えた赤水門は稼働していないが、歴史的建造物として残されている。
ここでちょっと疑問。
岩淵水門は荒川の水量が増したときに、それを閉じて隅田川に流れないようにする洪水防止装置である。しかし青水門はキッチリと閉じられるが、赤水門は横が開いているからそこから水が流れてこないの?
赤水門だと川幅の半分ほどを閉じることになる。それくらい閉じれば大丈夫という設計なのか、あるいは赤水門が現役の頃は川の地形が違っていて、中州のような所と地続きだったのだろうか。ナゾ
ところで写真に荒川(放水路)と書かれているのは、荒川は自然の川ではなく放水路として造成されたものだから。以前の荒川は写真の放水路の部分はなく、すべて隅田川に水が流れていた。だから隅田川は荒川の支流ではなくて本流。隅田川の名前も現在の隅田川=当時は荒川の下流半分くらいを意味する通称だった。
荒れる川だから荒川と呼ばれたように、下流地域ではたびたび洪水が起こった。そこで水流を分散するために作られたのが荒川放水路。全長22km、川幅500mの水路を掘るビッグプロジェクト。工事期間は1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけての17年間。
改めて地図で見ると、どれだけ大規模な工事だったかが分かる。まだパワーショベルやブルドーザーはなかった時代。1923年(大正12年)には関東大震災もあった。先人達の努力に感謝m(_ _)m
川ではなく水路の扱いだった荒川放水路は1965年(昭和40年)に荒川の本流と認定され、放水路の名前が取れた。また、それにともない岩淵水門より分岐する隅田川も正式な名前へと格上げされる。
そこでさらに疑問。
荒川放水路が完成したのは1930年(昭和5年)
旧岩淵水門の完成は1924年(大正13年)
放水路ができるまでの6年間、水門で堰き止めた水はどこへ流していたの?
と思ったら、旧岩淵水門が完成した時点で荒川放水路は水を流せる状態になっており、荒川放水路完成の1930年とは、様々な付帯工事がすべて完了した時点を指すようだ。
水門の上は渡れるようになっている。
向こうに何か鉄がさびた遺構のようなものが見える。
近づいてみるとアート作品だった。
それなりに面白かったけれど、歴史的なものじゃなくて期待外れ。
のどかな風景。
手前の流れが隅田川のスタート地点。
「農民魂は先ず草刈りから」と書かれている石碑。
ナンノコッチャ?と思って調べてみると、1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけてこの付近の土手で行われた「全日本草刈選手権大会」を記念したものと分かった。
全日本草刈選手権大会?それこそナンノコッチャ?と調べると、戦時下で飼料、肥料が不足し、草を刈ってその増産を図るためのイベントだった模様。実質的な効果を狙ってというより、竹槍訓練のような戦時精神高揚的なものかも知れない。内容は1時間で刈り取った草の量と、刈り取った後の地面の美しさを競った。ちなみに予選参加者は全国で4万人と大規模。優勝賞品は牛1頭なのが時代を物語っている。
旧岩淵水門から堤防に戻る。
先ほどの遊歩道のような桟橋を上から眺めて。
たいして意味があるとは思えない公共事業である。
300mほど下流にあるのが青水門と呼ばれる、
現在の岩淵水門。
ちょっとロボットぽい。
これは船に対する通航標識。
上が追い越し禁止、下が回転禁止。
ところで回転禁止って何だ?
Uターンを意味しているのだろうか。しかし道路交通法だと Uターンは「転回」。
もしUターンでないならその場でグルグル旋回すること? 何のために?
調べても定義が見つからず。
水門の上を渡る。
水門のシャッター(ゲートというのかな?)には泥がたまっていた。
堤防には戻らず、岩淵水門の先にある中州に渡って下流へ進む。
ヘリポートがあった。
さらに先にも水門を発見。
名前は芝川水門。
中州の土手の上を真っ直ぐな道が続く。
ほとんど独占状態で、たまに人や自転車が通る程度。
遠くにスカイツリーの姿も。
河川敷はゴルフ場になっている。
巨大なヤナギ。風に揺られて気持ちよさそう。
芝川水門の正面位置までやって来た。
ローアングルで振り返る。
中州に入ってから、ここまで1kmちょっと。
もうすぐ鹿浜橋。
ここで荒川を離れてお散歩終了。
とはいえ、ここから東京メトロ南北線の王子神谷駅まで1.5kmほどある。
でもこんな広い景色とはお別れだから、
しつこく振り返る(^^ゞ
おしまい
予定では新荒川大橋緑地で芝桜を見るだけのつもりだったものの、規模はそこそこ大きくても内容的に思っていたより見応えがなかったので(小声)、追加メニューとして岩淵水門まで足を伸ばすとした。別に興味があるわけじゃないが水門なんてあまり見たことがないし、それに緑地からすぐ近くなので。
新荒川大橋をくぐる。
道の先に見えているオレンジと水色の構造物が水門。
置き石アート?
川縁に近い遊歩道を歩いて。
最初に現れるのは旧岩淵水門。通称は赤水門。
のんびり過ごしている人々。
ジグザグになった遊歩道のような短い桟橋。
この高さまで水位があったとの記録。
でも堤防はもっと高いのでとりあえずは安心。
ちなみにここは東京湾の河口から21kmも離れている。それでも東日本大震災の時は津波が遡上して1.2m水位が上がったと記録にある。東京湾に押し寄せた津波は0.8mだけれど、遡上するうちに水かさが増してくるらしい。アナオソロシア(/o\)
間近で眺める旧岩淵水門。
水色の新しい岩淵水門がのぞいている。
堤防を上がる。
解説の看板。
この赤水門の完成は1924年(大正13年)。青水門と呼ばれる新しい水門が1982年(昭和57年)に完成。役目を終えた赤水門は稼働していないが、歴史的建造物として残されている。
ここでちょっと疑問。
岩淵水門は荒川の水量が増したときに、それを閉じて隅田川に流れないようにする洪水防止装置である。しかし青水門はキッチリと閉じられるが、赤水門は横が開いているからそこから水が流れてこないの?
赤水門だと川幅の半分ほどを閉じることになる。それくらい閉じれば大丈夫という設計なのか、あるいは赤水門が現役の頃は川の地形が違っていて、中州のような所と地続きだったのだろうか。ナゾ
ところで写真に荒川(放水路)と書かれているのは、荒川は自然の川ではなく放水路として造成されたものだから。以前の荒川は写真の放水路の部分はなく、すべて隅田川に水が流れていた。だから隅田川は荒川の支流ではなくて本流。隅田川の名前も現在の隅田川=当時は荒川の下流半分くらいを意味する通称だった。
荒れる川だから荒川と呼ばれたように、下流地域ではたびたび洪水が起こった。そこで水流を分散するために作られたのが荒川放水路。全長22km、川幅500mの水路を掘るビッグプロジェクト。工事期間は1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけての17年間。
改めて地図で見ると、どれだけ大規模な工事だったかが分かる。まだパワーショベルやブルドーザーはなかった時代。1923年(大正12年)には関東大震災もあった。先人達の努力に感謝m(_ _)m
川ではなく水路の扱いだった荒川放水路は1965年(昭和40年)に荒川の本流と認定され、放水路の名前が取れた。また、それにともない岩淵水門より分岐する隅田川も正式な名前へと格上げされる。
そこでさらに疑問。
荒川放水路が完成したのは1930年(昭和5年)
旧岩淵水門の完成は1924年(大正13年)
放水路ができるまでの6年間、水門で堰き止めた水はどこへ流していたの?
と思ったら、旧岩淵水門が完成した時点で荒川放水路は水を流せる状態になっており、荒川放水路完成の1930年とは、様々な付帯工事がすべて完了した時点を指すようだ。
水門の上は渡れるようになっている。
向こうに何か鉄がさびた遺構のようなものが見える。
近づいてみるとアート作品だった。
それなりに面白かったけれど、歴史的なものじゃなくて期待外れ。
のどかな風景。
手前の流れが隅田川のスタート地点。
「農民魂は先ず草刈りから」と書かれている石碑。
ナンノコッチャ?と思って調べてみると、1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけてこの付近の土手で行われた「全日本草刈選手権大会」を記念したものと分かった。
全日本草刈選手権大会?それこそナンノコッチャ?と調べると、戦時下で飼料、肥料が不足し、草を刈ってその増産を図るためのイベントだった模様。実質的な効果を狙ってというより、竹槍訓練のような戦時精神高揚的なものかも知れない。内容は1時間で刈り取った草の量と、刈り取った後の地面の美しさを競った。ちなみに予選参加者は全国で4万人と大規模。優勝賞品は牛1頭なのが時代を物語っている。
旧岩淵水門から堤防に戻る。
先ほどの遊歩道のような桟橋を上から眺めて。
たいして意味があるとは思えない公共事業である。
300mほど下流にあるのが青水門と呼ばれる、
現在の岩淵水門。
ちょっとロボットぽい。
これは船に対する通航標識。
上が追い越し禁止、下が回転禁止。
ところで回転禁止って何だ?
Uターンを意味しているのだろうか。しかし道路交通法だと Uターンは「転回」。
もしUターンでないならその場でグルグル旋回すること? 何のために?
調べても定義が見つからず。
水門の上を渡る。
水門のシャッター(ゲートというのかな?)には泥がたまっていた。
堤防には戻らず、岩淵水門の先にある中州に渡って下流へ進む。
ヘリポートがあった。
さらに先にも水門を発見。
名前は芝川水門。
中州の土手の上を真っ直ぐな道が続く。
ほとんど独占状態で、たまに人や自転車が通る程度。
遠くにスカイツリーの姿も。
河川敷はゴルフ場になっている。
巨大なヤナギ。風に揺られて気持ちよさそう。
芝川水門の正面位置までやって来た。
ローアングルで振り返る。
中州に入ってから、ここまで1kmちょっと。
もうすぐ鹿浜橋。
ここで荒川を離れてお散歩終了。
とはいえ、ここから東京メトロ南北線の王子神谷駅まで1.5kmほどある。
でもこんな広い景色とはお別れだから、
しつこく振り返る(^^ゞ
おしまい
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