2023年05月25日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才
え〜、展覧会を訪れたのは3ヶ月と4日前の2月21日である。ブログにするのを忘れていたわけじゃないが、その頃から梅、各種のサクラ、そしてチューリップにバラその他と春の花見シーズンが始まったので、ついつい後回しになってしまった。それにしても油断していると月日はあっという間に過ぎていくね。
上野公園の五條天神でウメを見て、その日に中国に送り返されたパンダのシャンシャンがいた動物園の前を通って、毎度お馴染みの東京都美術館に到着。
さてエゴン・シーレ。なぜかフルネームで呼ばれることが多いオーストリアの画家。1890年(明治23年)生まれで1918年(大正7年)に28歳で、当時パンデミックを引き起こしていたスペイン風邪により夭折。
16歳でウィーン工芸学校に学ぶも、才能を認められてそのままウィーン美術アカデミーへ進学。これはかなりの神童扱いだったよう。17歳でクリムトに出会い才能を認められ、18歳で初めての展覧会参加。だから画家として活躍していたのはわずか10年ほど。
これは16歳の写真。
自信に満ちあふれたクソ生意気そうな雰囲気が伝わってくる(^^ゞ
こちらは24歳頃に撮られたもの。
日本だと大正3年のエゴン・シーレ。
構図は顔のやや右側からで、そしてわずかにアゴを引いて上目遣いでレンズを見つめるような撮り方は共通。16歳の写真も似ているから、これが一番イケてる顔だと昔から自信があったのだろう。そしてなぜかモミアゲの短いテクノカット! テクノカットは1980年頃にYMOが流行らせた髪型だと思っていたのに、ヨーロッパでは大正時代からあったんだ。
同時期の写真。
この全身を写せる大きな鏡はアトリエを移っても持ち運んだと言われる。そこに写り込む姿を見ながら作品を制作していたらしいが、こうやってカッコ付けてた時間も長かったのでは。
そんなナルシストのエゴン君が自画像を描くとこうなる。
「ほおずきの実のある自画像」 1912年
先ほどの写真とは逆に見下げるような視線。一見するとドヤ顔にも見える。でもそれにしてはどこか弱々しい印象。
この前年にエゴン・シーレは初の個展を開くなど順調にキャリアをステップアップさせている。その反面、猥褻な絵を制作していると地元住民から反感を買ったり、警察によって逮捕や絵を焼却されたりもしている。そんな「俺って才能あるのにナンデヤネン」な気持ちが絵に表れているのかも知れない。
どうしても彼の顔に目がいってしまうものの、なぜホウズキを描いたのかも興味深い。というかホオズキの赤は絶妙なアクセントになっているし、花びらのある普通の花ではなく、ここには赤いのに地味なホオズキがピッタリと思ったり。
参考までに関係あるかどうかは別として、ホオズキの花言葉は「心の平安」「不思議」「自然美」「私を誘って下さい」「頼りない」「半信半疑」「いつわり」「欺瞞」とバラエティに富んでいる。特に西洋では「いつわり」「欺瞞」がメインだとの説もある。
ついでに彼が着ている黒いジャケットがやたらカッコよく見える。実際には黒の無地で、細く引かれた白い線は立体感を表現するために描かれたものと思うが、こんな生地のジャケットがあれば是非買いたいと思うくらい。
そしてジャケットを眺めていると、ジャケットの一番外側だけに輪郭線が引かれているのに気がついた。ひとつの絵の中で輪郭線のある・なしを使い分けるのはめずらしいのでは?
エゴン・シーレはデフォルメするのが巧みな画家で、デフォルメされた姿形のバランスがとても魅力的だし、それによって何か伝わってくるものがあると思う。並べて展示されていたこの3枚はテーマも画材も違うけれど、エゴン・シーレの魅力が凝縮されている。
「闘士」 1913年
「裸体自画像 ゼマ版画集特装版のための試し刷り」 1912年
「背を向けて立つ裸体の男」 1910年
そしてエゴン・シーレのディープな世界へ。彼の2大モチーフは死と性だと思う。性についてはたぶん後で書くと思うが、女好きだったから何となく想像できるとして、死について彼がなぜこだわっていたのかを解説した資料が見つからない。病弱でもなかったし精神的に病んでいたわけでもない。28歳で早世したがそれはスペイン風邪、今でならコロナで思いも掛けずに亡くなったようなもの。
でも理由はナゾだとしても、
絵を見ればヤバイとすぐに分かる(^^ゞ
「叙情詩人(自画像)」 1911年
「自分を見つめる人 II(死と男)」 1911年
どちらもあり得ないポーズなのに、デフォルメの天才エゴン・シーレにかかればあまり不自然に見えず、彼の描きたかったであろう情念だけが伝わってくる。でも何を伝えたかったかまでは(私には)理解不能。
ちなみに「叙情詩人」の中央最下部に赤く塗られているのはオチンチン。
そこに描く必要あった?と思わなくもない(^^ゞ
次のドローイング(線画)を見て、エゴン・シーレにちょっとアブノーマルな性癖を感じる人は多いだろう。私もそう思うけれど、それよりも彼はポーズフェチだったような気がする。デッサン(形を絵に写し取る能力)には長けていたので、普通のポーズでは飽き足らなかったのでは?
「しゃがむ裸の少女」 1914年
「赤い靴下留めをして横たわる女」 1913年
「赤い靴下留めをして座る裸婦、後ろ姿」 1914年
「頭を下げてひざまずく女」 1915年
何となく陰キャで閉塞感のある画風に息苦しくもなる。しかし同じくヌードのドローイングでも、赤ちゃんや妊婦がモデルだと愛らしさや幸せそうな雰囲気が伝わってくる。そのあたりに個性や奇抜さに頼っているだけではないエゴン・シーレの力量を感じる。
「プット(アントン・ペシュカ・ジュニア)」 1915年
「妊婦」 1910年
ところで次の作品はは実にシンプルだけれど完成度が高くて、
誰でも描けそうで描けないドローイングじゃないかな。
「背中向きの女性のトルソ」 1913年
ーーー続く
上野公園の五條天神でウメを見て、その日に中国に送り返されたパンダのシャンシャンがいた動物園の前を通って、毎度お馴染みの東京都美術館に到着。
さてエゴン・シーレ。なぜかフルネームで呼ばれることが多いオーストリアの画家。1890年(明治23年)生まれで1918年(大正7年)に28歳で、当時パンデミックを引き起こしていたスペイン風邪により夭折。
16歳でウィーン工芸学校に学ぶも、才能を認められてそのままウィーン美術アカデミーへ進学。これはかなりの神童扱いだったよう。17歳でクリムトに出会い才能を認められ、18歳で初めての展覧会参加。だから画家として活躍していたのはわずか10年ほど。
これは16歳の写真。
自信に満ちあふれたクソ生意気そうな雰囲気が伝わってくる(^^ゞ
こちらは24歳頃に撮られたもの。
日本だと大正3年のエゴン・シーレ。
構図は顔のやや右側からで、そしてわずかにアゴを引いて上目遣いでレンズを見つめるような撮り方は共通。16歳の写真も似ているから、これが一番イケてる顔だと昔から自信があったのだろう。そしてなぜかモミアゲの短いテクノカット! テクノカットは1980年頃にYMOが流行らせた髪型だと思っていたのに、ヨーロッパでは大正時代からあったんだ。
同時期の写真。
この全身を写せる大きな鏡はアトリエを移っても持ち運んだと言われる。そこに写り込む姿を見ながら作品を制作していたらしいが、こうやってカッコ付けてた時間も長かったのでは。
そんなナルシストのエゴン君が自画像を描くとこうなる。
「ほおずきの実のある自画像」 1912年
先ほどの写真とは逆に見下げるような視線。一見するとドヤ顔にも見える。でもそれにしてはどこか弱々しい印象。
この前年にエゴン・シーレは初の個展を開くなど順調にキャリアをステップアップさせている。その反面、猥褻な絵を制作していると地元住民から反感を買ったり、警察によって逮捕や絵を焼却されたりもしている。そんな「俺って才能あるのにナンデヤネン」な気持ちが絵に表れているのかも知れない。
どうしても彼の顔に目がいってしまうものの、なぜホウズキを描いたのかも興味深い。というかホオズキの赤は絶妙なアクセントになっているし、花びらのある普通の花ではなく、ここには赤いのに地味なホオズキがピッタリと思ったり。
参考までに関係あるかどうかは別として、ホオズキの花言葉は「心の平安」「不思議」「自然美」「私を誘って下さい」「頼りない」「半信半疑」「いつわり」「欺瞞」とバラエティに富んでいる。特に西洋では「いつわり」「欺瞞」がメインだとの説もある。
ついでに彼が着ている黒いジャケットがやたらカッコよく見える。実際には黒の無地で、細く引かれた白い線は立体感を表現するために描かれたものと思うが、こんな生地のジャケットがあれば是非買いたいと思うくらい。
そしてジャケットを眺めていると、ジャケットの一番外側だけに輪郭線が引かれているのに気がついた。ひとつの絵の中で輪郭線のある・なしを使い分けるのはめずらしいのでは?
エゴン・シーレはデフォルメするのが巧みな画家で、デフォルメされた姿形のバランスがとても魅力的だし、それによって何か伝わってくるものがあると思う。並べて展示されていたこの3枚はテーマも画材も違うけれど、エゴン・シーレの魅力が凝縮されている。
「闘士」 1913年
「裸体自画像 ゼマ版画集特装版のための試し刷り」 1912年
「背を向けて立つ裸体の男」 1910年
そしてエゴン・シーレのディープな世界へ。彼の2大モチーフは死と性だと思う。性についてはたぶん後で書くと思うが、女好きだったから何となく想像できるとして、死について彼がなぜこだわっていたのかを解説した資料が見つからない。病弱でもなかったし精神的に病んでいたわけでもない。28歳で早世したがそれはスペイン風邪、今でならコロナで思いも掛けずに亡くなったようなもの。
でも理由はナゾだとしても、
絵を見ればヤバイとすぐに分かる(^^ゞ
「叙情詩人(自画像)」 1911年
「自分を見つめる人 II(死と男)」 1911年
どちらもあり得ないポーズなのに、デフォルメの天才エゴン・シーレにかかればあまり不自然に見えず、彼の描きたかったであろう情念だけが伝わってくる。でも何を伝えたかったかまでは(私には)理解不能。
ちなみに「叙情詩人」の中央最下部に赤く塗られているのはオチンチン。
そこに描く必要あった?と思わなくもない(^^ゞ
次のドローイング(線画)を見て、エゴン・シーレにちょっとアブノーマルな性癖を感じる人は多いだろう。私もそう思うけれど、それよりも彼はポーズフェチだったような気がする。デッサン(形を絵に写し取る能力)には長けていたので、普通のポーズでは飽き足らなかったのでは?
「しゃがむ裸の少女」 1914年
「赤い靴下留めをして横たわる女」 1913年
「赤い靴下留めをして座る裸婦、後ろ姿」 1914年
「頭を下げてひざまずく女」 1915年
何となく陰キャで閉塞感のある画風に息苦しくもなる。しかし同じくヌードのドローイングでも、赤ちゃんや妊婦がモデルだと愛らしさや幸せそうな雰囲気が伝わってくる。そのあたりに個性や奇抜さに頼っているだけではないエゴン・シーレの力量を感じる。
「プット(アントン・ペシュカ・ジュニア)」 1915年
「妊婦」 1910年
ところで次の作品はは実にシンプルだけれど完成度が高くて、
誰でも描けそうで描けないドローイングじゃないかな。
「背中向きの女性のトルソ」 1913年
ーーー続く
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