2023年05月31日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才 その3
エゴン・シーレは風景画も残している。
次の2点は17歳頃の作品だから最初の展覧会に参加する前。
言っちゃ悪いが平凡で退屈。
「山腹の村」 1907年
「秋の森」 1907年
その5年後に描いた22歳頃の作品が 「カルヴァリオへの道」 1912年
カルヴァリオ(Calvaria)とはラテン語で、それをヘブライ語に置き換えるとゴルゴダ(Golgotha)になる。ゴルゴダの丘といえばキリストが十字架に掛けられたエルサレム郊外の地名。日本ではカルヴァリオよりゴルゴダのほうがわかりやすいだろう。
エゴン・シーレはエルサレムに出かけた経験はなく、これは彼の住むウィーン郊外のどこかの風景をゴルゴダに見立てたものだろう。十字架が3本立っているのはキリストと一緒に2人の罪人も処刑されたとルカの福音書にあるから。これは宗教画というより聖書の一節にインスピレーションを得ての作品と思う。
それにしても十字架以外の棒は何なのだろう。たまたまカルヴァリオ=ゴルゴダだと知っていたからテーマを読み取れたが、タイトルを見るまでは電信柱が描かれた風景画だと思っていた(/o\)
なお作品のオリジナルタイトルは「Kalvarienberg」(ドイツ語でのカルヴァリオ)なのに、それを「カルヴァリオへの道」と「への道」を付け加えるのは意訳すぎると思う。ついでに言うなら日本語表記はゴルゴダにすべき。
「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」 1912年
知らずに見れば抽象画と思うはず。しかしタイトルを読めば分かるように風景画である。初回に書いたようにデフォルメせずにはいられない画家だから、風景画もこうなったのだろうか。表現としてはなかなか面白いので、このタイプの作品があるのならもっと見たいもの。
「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街 IV)」 1914年
「ドナウ河畔の街シュタイン II」 1913年
どこがと問われると困るが、この2つはどちらもエゴン・シーレらしい感じがする。彼独特の暗い色調がそう思わせるのかな。ただ彼が人物を暗く描くとどことなく「死」の匂いがするのに、なぜか風景画では暗くてもカワイイ印象になるのが不思議。
次は静物画。
「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」 1907年
画像では少し暗くなっているが、背景のグレーは銀色で黄色い部分は金色に塗られている(よりわかりやすい画像へのリンクはこちら)。このあたりはクリムトの影響とされる。より金を多用するクリムトに対して、エゴン・シーレは「銀のクリムト」と呼ばれたりもした。
ところでエゴン・シーレとクリムトとの関係でよく引き合いに出されるのが、彼が17歳で初めてクリムトに出会った時に作品を見せて交わされた会話。
シーレ 「僕には才能がありますか?」
クリムト「才能がある? それどころか、ありすぎる」
何となくエゴン・シーレが憧れの大御所クリムトに、おどおどと自信なさげに尋ねたようなニュアンスで紹介される場合が多い。ここから師弟愛が芽生えたと連想させる美しいエピソード。しかし私はエゴン・シーレが「このオッサン(当時クリムトは45歳)にオレ様の新しい才能が理解できるか、いっちょ確かめたろ」と尋ねたとも解釈できると思っている。
このエピソードの出所を調べて、その原典に当たろうとまでするつもりはない。でもこの手の話は、また特にネット時代になってからはコピペにコピペを重ねたものが多いから、鵜呑みにはできないぞと常々思っているだけ。
「菊」 1910年
エゴン・シーレが活躍したのはヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)が起きていた時代。本物の菊を見たのか(幕末頃からヨーロッパに輸出されていたらしい)菊を描いた日本画を参考にしたのかは不明なものの、やはりエゴン・シーレの手に掛かると菊も死の匂いが漂うね。
1917年に描かれた肖像画は「カール・グリュンヴァルトの肖像」
エゴン・シーレはその独特な画風に1911年(21歳の年)には到達している。展覧会では1907年に描かれた肖像画2点も展示されていて、それらはまあ普通の描き方。対してこの1917年の作品はいかにもエゴン・シーレとの印象を受ける。白いシャツが浮き上がるような配色や、人物を少し上から見下ろしたような構図も面白い。
とは言っても(これが依頼されて描かれたものかどうかは知らないが)肖像画なので、ある程度の写実的要素は外せない。だからエゴン・シーレワールドはやや控えめ。人体はそれほどデフォルメされていないし、死を連想させるような閉塞感もない。でも扉を開けて暗い部屋にこんなオッサンが座っていたら怖い(^^ゞ
そしてエゴン・シーレワールド全開な作品を3つ。
「啓示」 1911年
「母と子」 1912年
「母と二人の子ども II」 1915年
それぞれ何か込められたメッセージがあるのだろうが、それを探ってもあまり意味がない気がする。これらを「キモ可愛い」と思えればエゴン・シーレが好きになるし、不気味としか感じられなければ他の画家の絵を楽しめばいいだけのこと。ただ訳のわからない絵を「ナンジャこれ〜」と笑えるようになれれば絵の世界が広がるよ。
最後にゲス野郎エゴン・シーレの話。
彼は21歳で絵のモデルをしていたヴァリ・ノイツィルという女性と知り合い同棲を始める。一説によるとクリムトのお下がりと噂される(/o\) なにせクリムトは生活を共にするパートナーとは結婚どころか肉体関係も持たなかったのに、愛人に産ませた子供が15人ほどいた風変わりな性豪。
それはさておき、エゴン・シーレはヴァリ・ノイツィルをモデルに絵もたくさん描いて、また4年も同棲したのに「結婚するなら家柄のいい女性」との理由で、25歳の時(1915年)に突然ブルジョワの娘であるエーディト・ハームスと結婚する。
その時にヴァリも失いたくない考えた彼は、結婚後もたまには一緒に旅行に出かける関係を続けようと自分勝手な提案をする。もちろんヴァリは憤慨して拒否。
これだけでもゲス野郎だが、エゴン・シーレは結婚したエーディトの姉のアデーレともデキてた。それどころかヴァリと付き合う前は実の妹のゲルティともヤッてた(>_<)
エゴン・シーレとヴァリ・ノイツィル。
彼女は4歳年下なのに、この写真ではまるでエゴン・シーレのお母さんのように見える。
もうちょっといい写真を。
彼女はハチミツ色の金髪だったと伝えられている。
こちらはエゴン・シーレとエーディト・ハームス。
彼女よりエゴン・シーレが別人のようにオッサンになっているのに驚く。
撮影は1917年で彼はまだ27歳なのに。

エーディト・ハームスのアップ。
彼女はエゴン・シーレより3歳年下。
こちらはヴァリ・ノイツィルをモデルにした「悲しみの女」 1912年。
目に涙をためているように見える。ただし制作時期的にそれはエゴン・シーレとの離別とは関係ない。彼女の目力に圧倒されて気がつきにくいものの、背後に一輪の花を持った男の顔が描かれており、これはエゴン・シーレ自身とされる。そしてヴァリ・ノイツィルを黒髪、自分を「ハチミツ色の金髪」に塗り分けている。つまりお互いの身体的特徴を入れ替えて描いている。それが愛情表現なのか、単に配色上の都合でそうしたかは不明。それにしてもエゴン・シーレの目がイッてるのはナゼ?
そしてエーディト・ハームスを描いた
「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」 1915年
グリーンをメインにした絵を制作したかったのか髪の毛までが同じ色調。それにしても全体的に優しい雰囲気である。ひょっとしてエゴン・シーレは結婚して毒が抜けたのか。そんなタマじゃないとは思うのだが(^^ゞ
エゴン・シーレはエーディト・ハームスと結婚して3日後にオーストリア=ハンガリー帝国軍に招集され第1次世界大戦に従軍する。しかし軍上層部が芸術に理解があったようで前線には送られず、プラハで捕虜収容所の看守などの任務に就く。2017年にウィーンに転属になると自宅からの勤務。それで絵の制作や発表も可能となった。
先ほど肖像画を紹介したカール・グリュンヴァルトはエゴン・シーレの上官。芸術愛好家で繊維業を営む富豪でもあり、後に彼のパトロンにもなった。だからあの絵には多少のオベンチャラが入っているかも。
エゴン・シーレが除隊になったかどうかはっきりしないのであるが、1918年3月の展覧会には50点以上の新作を一挙に公開して好評を博し、それまでに制作した作品も高値で売れるようになる。7月には富裕層の住む高級住宅地に新しいアトリエを構えた。エーディト・ハームスもめでたく懐妊。
しかし好事魔多しーーー
1918年から1920年にかけて世界人口の1/3が感染し、死亡者数は5000万人から1億人(当時の総人口は18〜19億人)ともいわれるスペイン風邪に夫婦でかかってしまう。1918年10月28日に妊娠6ヶ月のエーディト・ハームスが死去。エゴン・シーレもその3日後に亡くなった。28歳の短い生涯。ちなみに師匠のクリムトも同じ年の2月にスペイン風邪で亡くなっている。こちらは享年55歳。ウィーンは2つの宝を同時に失ったわけだ。
エゴン・シーレがもっと長生きして、どんな画風に変遷していったかにはもちろん興味がある。でもたった28歳で美術史にこれだけのインパクトを残せたのだから、それは素晴らしい人生だったと思う。
ラファエロ 37歳
ゴッホ 37歳
モディリアーニ 35歳
バスキア 27歳
モーツァルトも35歳だし夭折した芸術家はたくさんいる。彼らの作品に触れるとき、その短い期間であれだけのことを成し遂げた人生はどれだけ濃密だったのだろうと思う。私は無駄に長く生きて、ウス〜い人生を送っているような気がする。まあこうなったらトコトン薄めてやろうと思っているけれど(^^ゞ
おしまい
次の2点は17歳頃の作品だから最初の展覧会に参加する前。
言っちゃ悪いが平凡で退屈。
「山腹の村」 1907年
「秋の森」 1907年
その5年後に描いた22歳頃の作品が 「カルヴァリオへの道」 1912年
カルヴァリオ(Calvaria)とはラテン語で、それをヘブライ語に置き換えるとゴルゴダ(Golgotha)になる。ゴルゴダの丘といえばキリストが十字架に掛けられたエルサレム郊外の地名。日本ではカルヴァリオよりゴルゴダのほうがわかりやすいだろう。
エゴン・シーレはエルサレムに出かけた経験はなく、これは彼の住むウィーン郊外のどこかの風景をゴルゴダに見立てたものだろう。十字架が3本立っているのはキリストと一緒に2人の罪人も処刑されたとルカの福音書にあるから。これは宗教画というより聖書の一節にインスピレーションを得ての作品と思う。
それにしても十字架以外の棒は何なのだろう。たまたまカルヴァリオ=ゴルゴダだと知っていたからテーマを読み取れたが、タイトルを見るまでは電信柱が描かれた風景画だと思っていた(/o\)
なお作品のオリジナルタイトルは「Kalvarienberg」(ドイツ語でのカルヴァリオ)なのに、それを「カルヴァリオへの道」と「への道」を付け加えるのは意訳すぎると思う。ついでに言うなら日本語表記はゴルゴダにすべき。
「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」 1912年
知らずに見れば抽象画と思うはず。しかしタイトルを読めば分かるように風景画である。初回に書いたようにデフォルメせずにはいられない画家だから、風景画もこうなったのだろうか。表現としてはなかなか面白いので、このタイプの作品があるのならもっと見たいもの。
「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街 IV)」 1914年
「ドナウ河畔の街シュタイン II」 1913年
どこがと問われると困るが、この2つはどちらもエゴン・シーレらしい感じがする。彼独特の暗い色調がそう思わせるのかな。ただ彼が人物を暗く描くとどことなく「死」の匂いがするのに、なぜか風景画では暗くてもカワイイ印象になるのが不思議。
次は静物画。
「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」 1907年
画像では少し暗くなっているが、背景のグレーは銀色で黄色い部分は金色に塗られている(よりわかりやすい画像へのリンクはこちら)。このあたりはクリムトの影響とされる。より金を多用するクリムトに対して、エゴン・シーレは「銀のクリムト」と呼ばれたりもした。
ところでエゴン・シーレとクリムトとの関係でよく引き合いに出されるのが、彼が17歳で初めてクリムトに出会った時に作品を見せて交わされた会話。
シーレ 「僕には才能がありますか?」
クリムト「才能がある? それどころか、ありすぎる」
何となくエゴン・シーレが憧れの大御所クリムトに、おどおどと自信なさげに尋ねたようなニュアンスで紹介される場合が多い。ここから師弟愛が芽生えたと連想させる美しいエピソード。しかし私はエゴン・シーレが「このオッサン(当時クリムトは45歳)にオレ様の新しい才能が理解できるか、いっちょ確かめたろ」と尋ねたとも解釈できると思っている。
このエピソードの出所を調べて、その原典に当たろうとまでするつもりはない。でもこの手の話は、また特にネット時代になってからはコピペにコピペを重ねたものが多いから、鵜呑みにはできないぞと常々思っているだけ。
「菊」 1910年
エゴン・シーレが活躍したのはヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)が起きていた時代。本物の菊を見たのか(幕末頃からヨーロッパに輸出されていたらしい)菊を描いた日本画を参考にしたのかは不明なものの、やはりエゴン・シーレの手に掛かると菊も死の匂いが漂うね。
1917年に描かれた肖像画は「カール・グリュンヴァルトの肖像」
エゴン・シーレはその独特な画風に1911年(21歳の年)には到達している。展覧会では1907年に描かれた肖像画2点も展示されていて、それらはまあ普通の描き方。対してこの1917年の作品はいかにもエゴン・シーレとの印象を受ける。白いシャツが浮き上がるような配色や、人物を少し上から見下ろしたような構図も面白い。
とは言っても(これが依頼されて描かれたものかどうかは知らないが)肖像画なので、ある程度の写実的要素は外せない。だからエゴン・シーレワールドはやや控えめ。人体はそれほどデフォルメされていないし、死を連想させるような閉塞感もない。でも扉を開けて暗い部屋にこんなオッサンが座っていたら怖い(^^ゞ
そしてエゴン・シーレワールド全開な作品を3つ。
「啓示」 1911年
「母と子」 1912年
「母と二人の子ども II」 1915年
それぞれ何か込められたメッセージがあるのだろうが、それを探ってもあまり意味がない気がする。これらを「キモ可愛い」と思えればエゴン・シーレが好きになるし、不気味としか感じられなければ他の画家の絵を楽しめばいいだけのこと。ただ訳のわからない絵を「ナンジャこれ〜」と笑えるようになれれば絵の世界が広がるよ。
最後にゲス野郎エゴン・シーレの話。
彼は21歳で絵のモデルをしていたヴァリ・ノイツィルという女性と知り合い同棲を始める。一説によるとクリムトのお下がりと噂される(/o\) なにせクリムトは生活を共にするパートナーとは結婚どころか肉体関係も持たなかったのに、愛人に産ませた子供が15人ほどいた風変わりな性豪。
それはさておき、エゴン・シーレはヴァリ・ノイツィルをモデルに絵もたくさん描いて、また4年も同棲したのに「結婚するなら家柄のいい女性」との理由で、25歳の時(1915年)に突然ブルジョワの娘であるエーディト・ハームスと結婚する。
その時にヴァリも失いたくない考えた彼は、結婚後もたまには一緒に旅行に出かける関係を続けようと自分勝手な提案をする。もちろんヴァリは憤慨して拒否。
これだけでもゲス野郎だが、エゴン・シーレは結婚したエーディトの姉のアデーレともデキてた。それどころかヴァリと付き合う前は実の妹のゲルティともヤッてた(>_<)
エゴン・シーレとヴァリ・ノイツィル。
彼女は4歳年下なのに、この写真ではまるでエゴン・シーレのお母さんのように見える。
もうちょっといい写真を。
彼女はハチミツ色の金髪だったと伝えられている。
こちらはエゴン・シーレとエーディト・ハームス。
彼女よりエゴン・シーレが別人のようにオッサンになっているのに驚く。
撮影は1917年で彼はまだ27歳なのに。

エーディト・ハームスのアップ。
彼女はエゴン・シーレより3歳年下。
こちらはヴァリ・ノイツィルをモデルにした「悲しみの女」 1912年。
目に涙をためているように見える。ただし制作時期的にそれはエゴン・シーレとの離別とは関係ない。彼女の目力に圧倒されて気がつきにくいものの、背後に一輪の花を持った男の顔が描かれており、これはエゴン・シーレ自身とされる。そしてヴァリ・ノイツィルを黒髪、自分を「ハチミツ色の金髪」に塗り分けている。つまりお互いの身体的特徴を入れ替えて描いている。それが愛情表現なのか、単に配色上の都合でそうしたかは不明。それにしてもエゴン・シーレの目がイッてるのはナゼ?
そしてエーディト・ハームスを描いた
「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」 1915年
グリーンをメインにした絵を制作したかったのか髪の毛までが同じ色調。それにしても全体的に優しい雰囲気である。ひょっとしてエゴン・シーレは結婚して毒が抜けたのか。そんなタマじゃないとは思うのだが(^^ゞ
エゴン・シーレはエーディト・ハームスと結婚して3日後にオーストリア=ハンガリー帝国軍に招集され第1次世界大戦に従軍する。しかし軍上層部が芸術に理解があったようで前線には送られず、プラハで捕虜収容所の看守などの任務に就く。2017年にウィーンに転属になると自宅からの勤務。それで絵の制作や発表も可能となった。
先ほど肖像画を紹介したカール・グリュンヴァルトはエゴン・シーレの上官。芸術愛好家で繊維業を営む富豪でもあり、後に彼のパトロンにもなった。だからあの絵には多少のオベンチャラが入っているかも。
エゴン・シーレが除隊になったかどうかはっきりしないのであるが、1918年3月の展覧会には50点以上の新作を一挙に公開して好評を博し、それまでに制作した作品も高値で売れるようになる。7月には富裕層の住む高級住宅地に新しいアトリエを構えた。エーディト・ハームスもめでたく懐妊。
しかし好事魔多しーーー
1918年から1920年にかけて世界人口の1/3が感染し、死亡者数は5000万人から1億人(当時の総人口は18〜19億人)ともいわれるスペイン風邪に夫婦でかかってしまう。1918年10月28日に妊娠6ヶ月のエーディト・ハームスが死去。エゴン・シーレもその3日後に亡くなった。28歳の短い生涯。ちなみに師匠のクリムトも同じ年の2月にスペイン風邪で亡くなっている。こちらは享年55歳。ウィーンは2つの宝を同時に失ったわけだ。
エゴン・シーレがもっと長生きして、どんな画風に変遷していったかにはもちろん興味がある。でもたった28歳で美術史にこれだけのインパクトを残せたのだから、それは素晴らしい人生だったと思う。
ラファエロ 37歳
ゴッホ 37歳
モディリアーニ 35歳
バスキア 27歳
モーツァルトも35歳だし夭折した芸術家はたくさんいる。彼らの作品に触れるとき、その短い期間であれだけのことを成し遂げた人生はどれだけ濃密だったのだろうと思う。私は無駄に長く生きて、ウス〜い人生を送っているような気がする。まあこうなったらトコトン薄めてやろうと思っているけれど(^^ゞ
おしまい
wassho at 20:56│Comments(0)│
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