2023年06月26日
佐伯祐三 自画像としての風景 その2
いつも書いているように、どんな有名画家でも最初は個性のないどこかで見たことがあるような絵を描いている。やがて自分の個性を反映した独自の画風を確立し、それが受け入れられたものだけが一流の画家として後世に名を残す。ピカソだって実に様々なタイプの絵を描いているが、もしキュビスムの画風に至らなければ、今のような地位は得られていないはず。画家は一目で分かる画風を確立してナンボが私の捉え方。
それで画風確立前の佐伯祐三がどんな絵を描いていたかというと、まずは自画像が多い。キャリアの初期に自画像が多いのはよくある傾向で、これは
まだ人から肖像画を頼まれない
モデル代が要らないので安上がり
なのと、アーティストなんて人種は自意識の塊なので「自分は何者か」について、若いうちはこだわりがちだからだろう。
次の2点は絵としてはごく平凡。また明治の油絵っぽい古くささもある。ところで制作年を見ると描いたのは22〜25歳頃。それにしてはおでこがイッテるね(^^ゞ
自画像 1920-23年頃
帽子をかぶる自画像 1922年
そしてルノワールやセザンヌ風の描き方に挑戦している。
自画像 1923年 ※これは東京美術学校(現:東京芸大)の卒業制作
彌智子像 1923年 ※彌智子(やちこ)は学生結婚して生まれた娘。当時1歳。
パレットをもつ自画像 1924年
また風景画も自画像と同様に、
ごくオーソドックスな描き方から徐々に印象派風に変遷しているのが分かる。
勝浦風景 1918-19年頃
帆船 1920年頃
河内打上附近 1923年
1923年11月26日に佐伯祐三はパリに向かう。大正12年の当時に移動はもちろん船。インド洋〜スエズ運河経由で、翌1924年の1月2日に地中海沿いにあるマルセイユに到着。1ヶ月と1週間の船旅だから昔は大変。翌日にパリに渡りフランス生活が始まる。なお妻と娘も同行しており、そのあたりはさすがお坊ちゃま。この頃に彼の絵はまだ売れていないはず。
おそらく1924年の前半に描いたと思われる「パリ遠望」。
明らかにセザンヌのパクリ。
そして同年6月30日は佐伯祐三にとって運命の1日だったとされる。
この日、佐伯はモーリス・ド・ヴラマンクという画家を訪ね、渡仏してから制作した自信作の裸婦像を披露する。するとヴラマンクに「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」と厳しく叱責され(>_<) それを契機に彼の画風は転換していく。
ところでいろいろ調べても、ヴラマンクに見せた裸婦像がどんな絵なのかが分からない。叱責されたエピソードは有名で、多くの人が紹介しているのに、どんな絵なのか気にならないのかな。まあネットで拾える情報はコピペのループだけれど。
とりあえずこちらは渡仏前の1923年に制作された「裸婦」。おそらくパリで描いたのも似たようなものだったのではないかと想像している。(これは本展の展示作品にあらず)
まんまルノアール風である。美術の世界で「アカデミックな」といえば中世ルネサンスの絵画をイメージする。アカデミーで教える古くさい絵画に若い画家が反抗してというのは、例えばラファエル前派などよくある話。しかしヴラマンクのいうアカデミックとは印象派まで含むようだ。
印象派が広まったのは1880年前後から。この1924年時点で約50年前。印象派の技法はもう教科書に載るレベル、ありきたりとされるものになっていたのだろうか。印象派だってアンチ・アカデミー、アンチ・サロンから始まった運動だったのに、まさに歴史は繰り返す。
こちらがモーリス・ド・ヴラマンク。画家であり文筆家でもあった。フランス・フォーヴィスムの巨匠に数えられるが実はあまりよく知らない。
フォーヴィスムといえばマティス。そしてフォーヴィスムの和訳は野獣派。ただマティスの絵に野獣のような荒々しさはない。野獣が意味するのは色使いが派手との意味。だからこのフォーヴィスムというネーミングはちょっとおかしいと常々思っている。野獣はカラフルじゃないのだから。
GoogleでFauvismeを画像検索した結果ページはここをクリック
モーリス・ド・ヴラマンクの作品検索結果ページはここをクリック
彼の作品にも印象派的なものはあるね(^^ゞ
またおそらく佐伯祐三の語学力は片言のフランス語を話せる程度だったと思われる。それなのにこのヴラマンク、1時間半も佐伯を叱責したらしいからタイガイなおっさん。顔もイカついし元競輪選手で体格もいいから、かなりの圧があったに違いない。イジメに近いように思えるけど。
それで佐伯はすっかり自信喪失して落ち込んでしまう。
そして、この叱責の後に描いた「立てる自画像」は画風も今までとは様変わりし、また顔のあたりが削り取られているのも併せて有名な話。考えてみればタイトルも意味深。

ちなみに次の2点はこの展覧会の展示作品ではないが、
1924年の叱責後と翌1925年にこんな裸婦像を描いている。
裸婦 1924年
裸婦 1925年
あまりの画風の変化にビックリする。佐伯祐三の苦悩がにじみ出ているというか、行ったらアカンとこまで来ているというか。北野中学卒業の秀才で裕福なお坊ちゃまだった佐伯にとって、ヴラマンクの叱責はよほど堪えたに違いない。でもそれを真摯に受け止め、必死で自分の画風を模索したから彼の才能がこの後に花開いたと言える。
私も若い頃、誰かに1時間半ほど叱られればよかった(^^ゞ
ーーー続く
それで画風確立前の佐伯祐三がどんな絵を描いていたかというと、まずは自画像が多い。キャリアの初期に自画像が多いのはよくある傾向で、これは
まだ人から肖像画を頼まれない
モデル代が要らないので安上がり
なのと、アーティストなんて人種は自意識の塊なので「自分は何者か」について、若いうちはこだわりがちだからだろう。
次の2点は絵としてはごく平凡。また明治の油絵っぽい古くささもある。ところで制作年を見ると描いたのは22〜25歳頃。それにしてはおでこがイッテるね(^^ゞ
自画像 1920-23年頃
帽子をかぶる自画像 1922年
そしてルノワールやセザンヌ風の描き方に挑戦している。
自画像 1923年 ※これは東京美術学校(現:東京芸大)の卒業制作
彌智子像 1923年 ※彌智子(やちこ)は学生結婚して生まれた娘。当時1歳。
パレットをもつ自画像 1924年
また風景画も自画像と同様に、
ごくオーソドックスな描き方から徐々に印象派風に変遷しているのが分かる。
勝浦風景 1918-19年頃
帆船 1920年頃
河内打上附近 1923年
1923年11月26日に佐伯祐三はパリに向かう。大正12年の当時に移動はもちろん船。インド洋〜スエズ運河経由で、翌1924年の1月2日に地中海沿いにあるマルセイユに到着。1ヶ月と1週間の船旅だから昔は大変。翌日にパリに渡りフランス生活が始まる。なお妻と娘も同行しており、そのあたりはさすがお坊ちゃま。この頃に彼の絵はまだ売れていないはず。
おそらく1924年の前半に描いたと思われる「パリ遠望」。
明らかにセザンヌのパクリ。
そして同年6月30日は佐伯祐三にとって運命の1日だったとされる。
この日、佐伯はモーリス・ド・ヴラマンクという画家を訪ね、渡仏してから制作した自信作の裸婦像を披露する。するとヴラマンクに「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」と厳しく叱責され(>_<) それを契機に彼の画風は転換していく。
ところでいろいろ調べても、ヴラマンクに見せた裸婦像がどんな絵なのかが分からない。叱責されたエピソードは有名で、多くの人が紹介しているのに、どんな絵なのか気にならないのかな。まあネットで拾える情報はコピペのループだけれど。
とりあえずこちらは渡仏前の1923年に制作された「裸婦」。おそらくパリで描いたのも似たようなものだったのではないかと想像している。(これは本展の展示作品にあらず)
まんまルノアール風である。美術の世界で「アカデミックな」といえば中世ルネサンスの絵画をイメージする。アカデミーで教える古くさい絵画に若い画家が反抗してというのは、例えばラファエル前派などよくある話。しかしヴラマンクのいうアカデミックとは印象派まで含むようだ。
印象派が広まったのは1880年前後から。この1924年時点で約50年前。印象派の技法はもう教科書に載るレベル、ありきたりとされるものになっていたのだろうか。印象派だってアンチ・アカデミー、アンチ・サロンから始まった運動だったのに、まさに歴史は繰り返す。
こちらがモーリス・ド・ヴラマンク。画家であり文筆家でもあった。フランス・フォーヴィスムの巨匠に数えられるが実はあまりよく知らない。
フォーヴィスムといえばマティス。そしてフォーヴィスムの和訳は野獣派。ただマティスの絵に野獣のような荒々しさはない。野獣が意味するのは色使いが派手との意味。だからこのフォーヴィスムというネーミングはちょっとおかしいと常々思っている。野獣はカラフルじゃないのだから。
GoogleでFauvismeを画像検索した結果ページはここをクリック
モーリス・ド・ヴラマンクの作品検索結果ページはここをクリック
彼の作品にも印象派的なものはあるね(^^ゞ
またおそらく佐伯祐三の語学力は片言のフランス語を話せる程度だったと思われる。それなのにこのヴラマンク、1時間半も佐伯を叱責したらしいからタイガイなおっさん。顔もイカついし元競輪選手で体格もいいから、かなりの圧があったに違いない。イジメに近いように思えるけど。
それで佐伯はすっかり自信喪失して落ち込んでしまう。
そして、この叱責の後に描いた「立てる自画像」は画風も今までとは様変わりし、また顔のあたりが削り取られているのも併せて有名な話。考えてみればタイトルも意味深。

ちなみに次の2点はこの展覧会の展示作品ではないが、
1924年の叱責後と翌1925年にこんな裸婦像を描いている。
裸婦 1924年
裸婦 1925年
あまりの画風の変化にビックリする。佐伯祐三の苦悩がにじみ出ているというか、行ったらアカンとこまで来ているというか。北野中学卒業の秀才で裕福なお坊ちゃまだった佐伯にとって、ヴラマンクの叱責はよほど堪えたに違いない。でもそれを真摯に受け止め、必死で自分の画風を模索したから彼の才能がこの後に花開いたと言える。
私も若い頃、誰かに1時間半ほど叱られればよかった(^^ゞ
ーーー続く
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