2023年07月01日
佐伯祐三 自画像としての風景 その4
1924年(大正13年)の1月にパリにやって来た佐伯祐三なのに、2年後の1926年の1月に帰国の途につく。パリを離れてイタリアをミラノ、フィレンツェ、ローマと南下し2月8日にナポリから乗船。日本到着は3月15日。イタリアでは絵を描かなかったのかなあ? スケッチの類いも展覧会では展示されていなかった。残念
佐伯の死因は結核であるが、この頃から既に身体の調子が悪かったようで、心配する家族の勧めによりと資料にはある。
その家族が誰を指すのかはっきりとは分からないものの、2歳違い兄の祐正(ゆうしょう)かも知れない。写真は1925年にパリのアトリエで撮られたもの。中央が兄の祐正で、右が佐伯祐三。女性は祐三の妻の米子と娘の彌智子(やちこ)。当時3歳前後。どうでもいいが祐三は次男なのに三のつく名前。男4人女3人の兄弟の3番目に生まれた子でもない。
兄の祐正は実家のお寺を継いだ住職なのだけれど、セツルメント事業をやっていて、その世界会議でこの時にパリは来ていたようだ。セツルメントとは聞き慣れない言葉でWikipediaによると、
セツルメントまたはセトルメント(英: settlement)とは、正確には「ソーシャル・
セツルメント」であり、隣保館などと訳され、社会教化事業を行う地域の拠点のこと
である。元の意味は、「移住」で19世紀末に、イギリスの理想主義的な大学教授や
学生が貧民街(スラム)に移り住んで貧民と生活をともにし、その教化にあたった
ところから使われるようになった言葉である。
社会教化事業とは福祉事業のようなことだろう。兄の祐正は寺に善隣館という施設を構え、そこでセツルメントの活動をしていた。なんとスタッフ50名、年間利用者数は10万人と大規模なもの。現在のお寺でそんな活動をしているところはあるのかな。
とても素晴らしい事業に思えるが、当時は貧困者対策活動=資本主義批判=社会主義・共産主義思想が成り立つ時代。それで祐正は特高にマークされていたようである。兄弟である祐三も同じく。
それにしても祐正はかなりのイケメンで本木雅弘に似ている。祐三もそうだけれど目と眉毛の間隔が狭くて欧米人的な顔立ち。日本人はこの間隔が広いからサングラスの上に眉毛があってマヌケな感じになる。タモリとトム・クルーズで較べちゃイケないか(^^ゞ

日本に戻ってきた佐伯祐三が描いていた絵には2パターンあって、
まずは自宅のあった東京・下落合周辺の風景。
下落合風景 1926年頃
パリ以外を描いた佐伯祐三の風景画を見たのは今回が初めて。そしてこの絵を一目見たとき、おそらくは美術評論家とはまったく違う視点で「わかる、わかる、そうだよね祐三クン」と私はニヤニヤしていた。
この絵には電信柱が描かれていて、後で紹介する船の絵にはマストやロープが描かれている。それらは彼の関心が面から線に移った表れなどと解説される。専門家が言うなら多分そうなんだろうけれど、この絵の素晴らしさは電柱は描いても電線を描かなかったところ!
日本の街中は電線だらけ。例えばサクラがキレイだなと写真を撮っても電線で台無しになる。人間の脳には「見たいものだけを見る」機能が備わっているので、眺めている分には電線があまり気にならない。しかしカメラにそんな機能はないので写真になると(/o\)
こちらは電線が地中に埋められた美しい街並み。ちなみに国土交通省による「欧米やアジアの主要都市と日本の無電柱化の現状」のグラフはここをクリック。
佐伯祐三がどうして電線を描かなかったかを解説した資料は見当たらなかった。でも私は電線を描いたら画面が汚くなるからだと確信している。
看板のある道 1926年頃
これも電線は省略されている。
看板に書かれている文字は富永醫院(医院)と落合倶楽部だろうか。文字とわかり、かつ風景の邪魔をしない程度に崩されているように思う。このあたりは前回に書いた「フランスの街並みとして描かれた文字が、もし日本語だったら(読めたら)?」と併せて気になるところ。
下落合風景 1926年頃
これには電線が描かれている。
これは線路高架が題材で架線は主役だからだろう。
(下落合付近の山手線は1909年に電化されている)
ガード風景 1926-27年
上の絵とよく似ているがおそらくテーマが違う。
日本に戻った佐伯祐三は「日本の風景は僕の絵にならない」と語ったとされる。パリの石造りの建物の絵を描いてきた画家にとって、日本の(住宅街の)木造建築の街並みでは重厚感・存在感が足らなかった気持ちはよく分かる。私も初めてヨーロッパに出かけて、帰国すると日本の街並みがとても薄っぺらく見えた、押せば倒れそうに思えたのを覚えているから。
だから鉄道のためにレンガとコンクリートで固められたこの「ガード風景」に佐伯はパリの面影を見つけたんじゃないかとも思う。場所は新橋とされガードの先の景色も描かれている。それは現実の光景なのか、あるいはパリの記憶?
下落合風景(テニス) 1926年頃
テニスという洋風なものを噛ませても田舎くさいもんなあ(^^ゞ
それで前回に紹介したパリの街並みを描いた作品と並べてみたのがこちら。どちらがカッコイイ、貰えるならどちらが欲しいというお話。なぜパリの街並みのほうに魅力を感じるのか、それは西洋コンプレックスなのかと展覧会を見ているときにずっと考えていた問題。
佐伯祐三は実家のある大阪にも帰省している。
なぜか大阪では風景画ではなく船の絵ばかりを描いている。
汽船 1926年頃
滞船 1927年 ※滞船(たいせん)とは港で停泊している船
滞船 1926年頃
高架の線路では架線を描いたように、帆船では多数のロープを描いている。しかしそれをもって「線への関心」とするのはちょっと無理があるとも思う。ありのままに描いただけなのでは?
ここで紹介した作品にはあまり興味が湧かなかったとはいえ、
パリ以外の佐伯の絵を見られたのは楽しかった。
ところでどうして彼は例えば銀座など、下落合の住宅地に較べれば都市的な重厚感のある場所の風景画を描かなかったのだろう。それが少しナゾ
写真は大正時代の銀座。
パリと較べれば中途半端なのは否めないが。
画像はhttps://www.ginza-web.com/contents/history/index.htmlから引用
ーーー続く
佐伯の死因は結核であるが、この頃から既に身体の調子が悪かったようで、心配する家族の勧めによりと資料にはある。
その家族が誰を指すのかはっきりとは分からないものの、2歳違い兄の祐正(ゆうしょう)かも知れない。写真は1925年にパリのアトリエで撮られたもの。中央が兄の祐正で、右が佐伯祐三。女性は祐三の妻の米子と娘の彌智子(やちこ)。当時3歳前後。どうでもいいが祐三は次男なのに三のつく名前。男4人女3人の兄弟の3番目に生まれた子でもない。
兄の祐正は実家のお寺を継いだ住職なのだけれど、セツルメント事業をやっていて、その世界会議でこの時にパリは来ていたようだ。セツルメントとは聞き慣れない言葉でWikipediaによると、
セツルメントまたはセトルメント(英: settlement)とは、正確には「ソーシャル・
セツルメント」であり、隣保館などと訳され、社会教化事業を行う地域の拠点のこと
である。元の意味は、「移住」で19世紀末に、イギリスの理想主義的な大学教授や
学生が貧民街(スラム)に移り住んで貧民と生活をともにし、その教化にあたった
ところから使われるようになった言葉である。
社会教化事業とは福祉事業のようなことだろう。兄の祐正は寺に善隣館という施設を構え、そこでセツルメントの活動をしていた。なんとスタッフ50名、年間利用者数は10万人と大規模なもの。現在のお寺でそんな活動をしているところはあるのかな。
とても素晴らしい事業に思えるが、当時は貧困者対策活動=資本主義批判=社会主義・共産主義思想が成り立つ時代。それで祐正は特高にマークされていたようである。兄弟である祐三も同じく。
それにしても祐正はかなりのイケメンで本木雅弘に似ている。祐三もそうだけれど目と眉毛の間隔が狭くて欧米人的な顔立ち。日本人はこの間隔が広いからサングラスの上に眉毛があってマヌケな感じになる。タモリとトム・クルーズで較べちゃイケないか(^^ゞ

日本に戻ってきた佐伯祐三が描いていた絵には2パターンあって、
まずは自宅のあった東京・下落合周辺の風景。
下落合風景 1926年頃
パリ以外を描いた佐伯祐三の風景画を見たのは今回が初めて。そしてこの絵を一目見たとき、おそらくは美術評論家とはまったく違う視点で「わかる、わかる、そうだよね祐三クン」と私はニヤニヤしていた。
この絵には電信柱が描かれていて、後で紹介する船の絵にはマストやロープが描かれている。それらは彼の関心が面から線に移った表れなどと解説される。専門家が言うなら多分そうなんだろうけれど、この絵の素晴らしさは電柱は描いても電線を描かなかったところ!
日本の街中は電線だらけ。例えばサクラがキレイだなと写真を撮っても電線で台無しになる。人間の脳には「見たいものだけを見る」機能が備わっているので、眺めている分には電線があまり気にならない。しかしカメラにそんな機能はないので写真になると(/o\)
こちらは電線が地中に埋められた美しい街並み。ちなみに国土交通省による「欧米やアジアの主要都市と日本の無電柱化の現状」のグラフはここをクリック。
佐伯祐三がどうして電線を描かなかったかを解説した資料は見当たらなかった。でも私は電線を描いたら画面が汚くなるからだと確信している。
看板のある道 1926年頃
これも電線は省略されている。
看板に書かれている文字は富永醫院(医院)と落合倶楽部だろうか。文字とわかり、かつ風景の邪魔をしない程度に崩されているように思う。このあたりは前回に書いた「フランスの街並みとして描かれた文字が、もし日本語だったら(読めたら)?」と併せて気になるところ。
下落合風景 1926年頃
これには電線が描かれている。
これは線路高架が題材で架線は主役だからだろう。
(下落合付近の山手線は1909年に電化されている)
ガード風景 1926-27年
上の絵とよく似ているがおそらくテーマが違う。
日本に戻った佐伯祐三は「日本の風景は僕の絵にならない」と語ったとされる。パリの石造りの建物の絵を描いてきた画家にとって、日本の(住宅街の)木造建築の街並みでは重厚感・存在感が足らなかった気持ちはよく分かる。私も初めてヨーロッパに出かけて、帰国すると日本の街並みがとても薄っぺらく見えた、押せば倒れそうに思えたのを覚えているから。
だから鉄道のためにレンガとコンクリートで固められたこの「ガード風景」に佐伯はパリの面影を見つけたんじゃないかとも思う。場所は新橋とされガードの先の景色も描かれている。それは現実の光景なのか、あるいはパリの記憶?
下落合風景(テニス) 1926年頃
テニスという洋風なものを噛ませても田舎くさいもんなあ(^^ゞ
それで前回に紹介したパリの街並みを描いた作品と並べてみたのがこちら。どちらがカッコイイ、貰えるならどちらが欲しいというお話。なぜパリの街並みのほうに魅力を感じるのか、それは西洋コンプレックスなのかと展覧会を見ているときにずっと考えていた問題。
佐伯祐三は実家のある大阪にも帰省している。
なぜか大阪では風景画ではなく船の絵ばかりを描いている。
汽船 1926年頃
滞船 1927年 ※滞船(たいせん)とは港で停泊している船
滞船 1926年頃
高架の線路では架線を描いたように、帆船では多数のロープを描いている。しかしそれをもって「線への関心」とするのはちょっと無理があるとも思う。ありのままに描いただけなのでは?
ここで紹介した作品にはあまり興味が湧かなかったとはいえ、
パリ以外の佐伯の絵を見られたのは楽しかった。
ところでどうして彼は例えば銀座など、下落合の住宅地に較べれば都市的な重厚感のある場所の風景画を描かなかったのだろう。それが少しナゾ
写真は大正時代の銀座。
パリと較べれば中途半端なのは否めないが。
画像はhttps://www.ginza-web.com/contents/history/index.htmlから引用
ーーー続く
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