2023年07月02日

佐伯祐三 自画像としての風景 その5

初期の自画像を除けば風景画の多い佐伯祐三であるが、
いくつかの静物画も展示されていた。

ポスターとローソク立て  1925年頃
1925-048


人形  1925年頃
1925-052


薔薇  1925年頃
1925-053



にんじん  1926年頃
1926-049


鯖  1926年頃
1926-050


蟹  1926年頃
1926-051

1925年頃の作品はパリで、1926年頃のものは日本に帰国してから描かれたもの。感想は「ごく普通」でそれ以上でも以下でもない。もしこんな絵ばかりだったら後世に名前は残らなかった。

「人形」は人間を描いた肖像画ではないとしても、佐伯は初期の肖像画以外は人物を写実的に描いていないようだ。目が漫画チック。もっともフランス人形だから目は大きかっただろうが。  


妻の米子を描いたもの。
これも特徴だけを捉えた画風になっている。

米子像  1927年
1927-039

彼女は東京の生まれで佐伯祐三より5歳年下。佐伯が東京美術学校(現:東京芸大)時代に知り合い学生結婚。結婚時に彼女も学生だったかどうかは分からないが、結婚が1920年(大正9年)だから当時17歳。大正10年に作られた「赤とんぼ」で「♪十五でネエヤは嫁に行き〜」とあるし、大正9年に実施された第1回国勢調査によると平均初婚年齢は男性25歳、女性21歳。だから当時としてはビックリするほど若くして結婚したわけではない。

米子1


彼女はパリでも和服姿で通した。子供の頃の怪我で脚に障害が残り松葉杖を使ってたそうだ。日本人自体が珍しいうえに、和服に松葉杖だったからパリでフランス人は必ず振り返って米子を見たという。

こちらは1980年のドラマで三田佳子が演じた米子。佐伯祐三役は根津甚八。
まあ今でもパリでこんな女性が歩いていたら振り向かれると思う。
米子2


なお佐伯には1920年から1923年頃に描いた「大谷さく像」があり「米子像」も大谷さくがモデルではとの説がある。写真と見較べると何となく大谷さくのような気がする。

大谷さく像
042




さてこの米子さん。
2度目のパリで佐伯祐三が亡くなり、その2週間後には娘の彌智子(やちこ)も同じく結核で亡くなる。それはいくら何でもお気の毒、日本から遠く離れたパリで一人ぼっちになってさぞ心寂しかっただろうと多くの人は同情する。少なくとも展覧会での解説を読めばそう思うはず。

しかし彼女にはいろいろと分かっていないことが多い。
すべて真偽不明ながら次のような説明もある。


<その1>
米子は同じくパリに住んでいた画家の荻須高徳(おぎす たかのり)と不倫していた!
パリの広末涼子かっ!(^^ゞ
荻須の子を妊娠していたとの話もある。

しかし佐伯も薩摩治郎八の妻である千代子と不倫していた!
いわゆるダブル不倫(>_<)
薩摩治郎八はパリでバロン薩摩と呼ばれた大富豪の超有名人。
どうでもいいけれど当時の荻須高徳は独身。

そして千代子はパリ社交界のアイドルといわれ、ヴォーグ誌の表紙に何度も登場。
そりゃ惚れるわ(^^ゞ
千代子



また米子は最初、兄の祐正(ゆうしょう)と付き合っており、彌智子(やちこ)も祐正の子供だとする噂も。ただし彼は寺の有力檀家=パトロンである大谷家の娘である菊枝と結婚する道を選ぶ(肖像画のさくはその母親)。つまり米子は祐正にフラれたので弟の祐三に乗り換えたわけ。

しかし大谷家は売春宿(当時は合法)も経営していたため母親が反対して破談。それを苦にして菊枝は自殺。その後、祐正は大谷家に出入りしていた女性と結婚。ここまでもすごいが、実は菊枝は祐正との婚約前に祐三と付き合っていた! なんと兄弟での彼女交換!

ちなみに佐伯祐三と米子が結婚したのは1920年11月で、彌智子が生まれたのは1922年2月になる。ということはーーー? 蛇足ながら祐正が結婚したのはずっと後の1926年。

この時代にワイドショーがあれば3ヶ月は話題を独占できそう(^^ゞ


<その2>
米子は祐三と彌智子が寝ているときにガス栓を開いて2人を殺害しようとした、また祐三にヒ素を盛って衰弱させたともいわれる。

祐三を殺すのはまあ動機があるとして、どうして娘まで? ひょっとして荻須高徳との不倫で邪魔になった? もしそうだとしたら鬼嫁&毒親のダブルタイトル確定!


<その3>
米子は美術学校は出ていないものの、日本画の巨匠である川合玉堂に絵を学んでいた。1925年に佐伯祐三がパリでサロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選した時、実は彼女も同じく入選している。1926年には二科会展に5点が入選。その後も出展を続け、戦後は二紀会の理事になった。

だから彼女は腕の立つ画家だった。佐伯祐三に絵を指導していたのは米子だとも、佐伯の絵は米子が加筆修正していたとの説もある。米子が手を加えたのはそうしないと絵が売れないからで、佐伯はそれが気に入らず夫婦仲が悪くなったらしい。


<その4>
多くの資料で米子の生年月日は1903年(明治36年)7月7日となっている。しかしこれは彼女が作成した“プロフィール”が元になっており、戸籍では1897年(明治30年)7月7日生まれとも指摘される。

だとすれば彼女は佐伯祐三より1歳年上、結婚したのは23歳になる。
当時の感覚だと年増だからサバを読んだのか(^^ゞ


先に書いたようにこれらは真偽不明。ネットで探せばいろいろな情報にヒットするものの、どうやら大元のネタは「よくできたトンデモ本=真実とフェイクが入り交じってる」のようなので、そんな話もあるんだ程度に楽しむのがいいと思う。


ーーー続く

wassho at 23:35│Comments(0) 美術展 

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