2023年07月07日

佐伯祐三 自画像としての風景 その7

1927年(昭和2年)の8月21日に2度目のパリにやって来て、前回とは違う「文字のパリ」の画風を確立した佐伯祐三。猛烈な勢いで絵を制作していたようで、翌1928年1月8日付けの友人宛手紙に「再渡仏してから107枚目を本日に描いた」と書いている。日数を数えると140日。単純計算だと0.8枚/1日になる。

その手紙の中で「よい絵は5〜6点」とも述べている。それがどれか教えて欲しかったな。また「まだアカデミックである」と反省の弁も。「その2」で紹介したヴラマンクによる「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」との1時間半にも渡る叱責はまだ彼の中に残っていたようだ。ただその後の佐伯がユトリロに影響を受けたのは確かだとしても、既にずいぶんと違う画風になっている。それにユトリロは同時代の画家でまだ教科書に載っているわけでもない。だから本人が何をもってアカデミックと感じていたのかはよく分からない。


そして都会以外のフランスを描きたいと考えたのか、1928年(昭和3年)の2月に、佐伯祐三はパリから西に40kmほど離れたヴィリエ=シュル=モラン村で制作を始める。皇居からだと八王子あたりの距離。当時だと相当に田舎だったはず。

第1回目のパリと、その後に帰国して描いたものが画風としてまったく違うように、このモランでの作品も「文字のパリ」とは似ても似つかない作品になっている。

モランの寺  1928年
128


煉瓦焼  1928年
138

先ず目立つのは、それまでになかった太くてラフな輪郭線。全体的に建物が丸々と太っているようにも見える。また「壁のパリ」のように壁の質感を表現している部分と、適当に塗りつぶした部分が混在している。「煉瓦焼」はそれなりの完成度なものの、何となくイマイチな印象。それは私が輪郭線のある絵が好きじゃないせいもある。


モラン風景  1928年
135

最初は坂道にある建物かと思ったが、建物が傾いているから首をかしげながら描いたのか? そうする意味が分からないけれど、これはいろいろと迷いがあった表れなのかも知れない。白いグルグルした線は絵の具チューブから直接塗りつけた煙突の煙だそうだ。


とりあえず真っ直ぐにしてあげましょう(^^ゞ
135のコピー


カフェ・レストラン  1928年
137

これだけは「文字のパリ」で描いていた「レストラン(オテル・デュ・マルシェ)」や「テラスの広告」にタッチが近い。人物は漫画風で目なのかメガネを掛けているのかよく分からない。描かれているのはおそらく地元の農夫で、食事をしてるだけの何の変哲もない日常。それなのにフランスが舞台だと何となくオシャレな感じに見えるのが、面白くもありおかしくもある。



途中で1度パリに戻って、合計20日ほどモランに滞在したようである。午前と午後に1作品ずつ、納得いく絵が描けなければ夕方にまた1作とハードワークを重ね、また風景画は極寒での野外作業なので(パリは北海道最北端の稚内よりさらに北)、もともと結核で元気でなかった身体がさらに衰弱してしまう。また精神的にも病み始めたという。

佐伯祐三は3月上旬にパリに戻り、3月29日に病床につく。そして6月20日に精神錯乱を起こし、自宅を抜け出して自殺を図った(未遂に終わる)。発見され精神病院に収容されたときには完全に発狂していたらしい。ところで精神病には詳しくないものの、どうもこの期間が短く思える。3〜4ヶ月でそこまで至るかな?

彼の死因は結核とされる。しかし「その5」で紹介したように、米子夫人にヒ素を盛られ続けての衰弱死との説もある。ひょっとしたら精神にも害を及ぼす毒も一緒に盛られていたりして(。◔‸◔。)? そんな薬物があるかどうかは知らないけれど。



パリに戻って病床につくまで、
すなわち佐伯祐三の最終期間に描かれたのが次の作品。

郵便配達夫  1928年
140

肖像画でも背景に文字があるのが佐伯祐三らしいといえば佐伯らしい。身体の描写はやたら直線的で必然的に平面的なのが特徴。目の描き方は1925年の「人形」の時からの手法。モデルはタイトルにあるように郵便配達夫。しかし何となく顔はトランプのキングを連想する(^^ゞ なぜかとても特徴的で1度見たらずっと記憶に残る作品。でもこれが集大成?と言ったら佐伯はイヤな顔をするだろう。


ロシアの少女  1928年
141

郵便配達夫と較べると出来映えにずいぶん差がある。タッチが弱々しくて病人が描いた印象も受ける。体調の優れない日に描いたのか。モデルはロシア革命後に(1917年:共産主義国家につながった)パリへ亡命してきたロシア貴族の娘。この作品が残っているということは肖像画を依頼されたのではなくモデルとして起用したと思われる。

今でいうならヘタウマな作品。彼女と一緒にアトリエに来た母親は出来上がった絵を見て「悪い時には悪いことが重なるものだ」と嘆いたみたい。まあその気持ちは分かる。娘はロシアの民族衣装をまとっている。日本人に置き換えるなら、モデルを頼まれたので張り切って着物を着ていったのに、ナンジャコレ(/o\) といったところでお気の毒さま。


黄色いレストラン  1928年
142

「壁のパリ」「文字のパリ「ヴィリエ=シュル=モラン(の輪郭線)」をすべてミックスさせたような作品。この絵はレストランの前で女性が立っている構図。しかしこの後に佐伯祐三が亡くなったと知っていると、人生の門が閉じられているようにも見えてくる。ただし絵はとても力強い。

なおこの期間に制作されたのは5点。絶筆がどの作品かは分かっていない。



息を引き取ったのは8月16日。享年30歳。彼が自殺未遂を起こした頃に娘の彌智子(やちこ)も結核の容態が悪くなり、後を追うように8月30日にまだ6歳で亡くなってしまう。遺骨が日本に帰ってきたのは10月31日。

佐伯祐三がパリにいたのは1924年1月4日〜1926年1月14日と、1927年8月21日〜1928年8月16日。ただし最後は3月29日から病床に伏せっているから、それを除くと前期が2年と10日、後期が7ヶ月と8日でしかない。合計しても3年に満たない。

それでもある程度「パリをものにした」手応えはあったのではないか。だから彼がもっと長く、例えば同時代の藤田嗣治(つぐはる)のようにパリあるいはフランスに住み続けていたら、どんな絵を描く画家になっていただろうかと思わざるを得ない。それは「その1」でも書いたように佐伯の「これ見よがしなパリ」をカッコイイと感じつつも、まだまだその画風あるいは着眼点が、日本を訪れた外国人観光客が「漢字や浮世絵のTシャツ」を好むようなレベルだと思うからなおさらである。

歴史にイフはないとしても、イフを想像するから歴史は楽しい。ひょっとしたら佐伯祐三はルネサンス風のコテコテにアカデミックな画風にたどり着いたりして(^^ゞ



おしまい

wassho at 19:27│Comments(0) 美術展 

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