2023年10月09日
東郷神社を初訪問 その5 プロフィールと国葬
さて無駄にあれこれ書いてきたここまでのブログ。
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。
生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。
その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。
イギリス留学時代の東郷平八郎。
1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。
日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。
トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。
陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。
さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。
彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。
ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。
それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)
国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。
ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では
天皇・皇后 6名
韓国皇帝 2名
旧藩主 3名
政治家 8名
皇族軍人 6名
元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)
純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。
ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?
戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
「国葬」が位置づけられていた。
参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。
戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
だから国葬じゃなく国葬儀。
しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。
なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。
ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。
生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。
その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。
イギリス留学時代の東郷平八郎。
1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。
日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。
トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。
陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。
さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。
彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。
ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。
それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)
国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。
ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では
天皇・皇后 6名
韓国皇帝 2名
旧藩主 3名
政治家 8名
皇族軍人 6名
元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)
純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。
ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?
戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
「国葬」が位置づけられていた。
参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。
戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
だから国葬じゃなく国葬儀。
しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。
なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。
ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m