2023年12月05日
寛永寺はちょっと予想と違ったーーー その2
東叡山・寛永寺と書かれた門柱。
寛永寺は1625年に徳川家光による建立で宗派は天台宗。天台宗といえば最澄が比叡山に開いた延暦寺。それで寛永寺は江戸にあるから、東の比叡山の意味を込めて東叡山との山号(山号の説明は長くなるので割愛)。なお寛永は創建されたときの年号で、今でなら令和寺みたいなネーミング。
ところで比叡山を叡山と呼ぶ人がいる。これがどうにも気に入らない。どうして「ひ」のたった一言を省略するのか。なぜか仏教関係者ほど比叡山を叡山と呼びたがる。総本山である延暦寺の山号は比叡山なのに。叡山といったほうが通っぽく聞こえるからなのかな。
門をくぐったところで撮影。
期待していた歴史を感じさせるような雰囲気はまったくない(/o\) いいお寺と書くと抽象的になってしまうが、そういうところで伝わってくる「ありがたみ」もなし。ごくごく普通のお寺といった印象。
左側は幼稚園になっていた。
延暦寺の本堂が根本中堂(こんぽんちゅうどう)との名前。天台宗ではそれに倣って本堂を根本中堂と呼ぶ場合もある。これも言っちゃ悪いがごくフツウ。
オリジナルの根本中堂は上野戦争で焼け落ちたので、これは明治12年によその寺の本堂を移築したもの。ただしオリジナルは1698年に建てられたのに対し、こちらは1638年とさらに古い。ところでオリジナルが1698年ということは、寺が開かれたのが1625年なので73年間も本堂がなかった計算になる。そんなのあり?
それにしても「根本中堂」とあんなに大きな文字でアピールする必要があるのかな。根本中堂=本堂。他のお寺で同じように「本堂」とアピールしているのは見たことがない。それに複数のお堂があるならまだしも寛永寺にはこのお堂しかない。
本堂の周りブラブラ。
駐車場があって、
さらに進むと、ここから先は墓地みたいだ。
前回、現在の寛永寺はおよそ7.5ヘクタールで相当に広いと書いたものの、
実は航空写真を見るとそのほとんどが墓地で占められている。
墓地以外のいわゆる境内としての面積は幼稚園も含めて約1ヘクタールほど。明治政府としても墓地まで取り上げるわけにはいかないから、その片隅に寛永寺を押し込めたということか。だから本堂の周りにいて特に広い寺とも思わなかった。
墓地には入らず引き返して、これは本堂の裏手。
そこをくぐり抜けるとこんな建物。
いわゆる寺務所だろうか。人の気配は感じられず。
ぐるっと回って本堂の横に。
レッドオータムは色悪し。
でもこの木の形は面白かった。
高野槇(こうやまき)だと思う。
案内看板を見ると徳川歴代将軍御霊廟と書かれている。つまり将軍のお墓。それがあるのは知っていたのにすっかり忘れていた。また墓地エリアに戻るのも面倒だったので、これは見なかったことに(^^ゞ
歴史が感じられるかもなどと期待値が高かったせいもあって、寛永寺はかなり肩すかしな印象を受けてしまった。将軍のお墓に興味がある墓マイラー趣味の人以外には特にお勧めできないかな。
ところで江戸時代に寛永寺は増上寺と徳川家の菩提寺の地位を競い合っていた。もともと菩提寺だったのは増上寺。しかし寛永寺は三代将軍家光の創建。それで徳川歴代15名の将軍のうち、寛永寺と増上寺に墓所があるのはそれぞれ6名づつ。これは両者に交互に墓所を造るなど幕府が気を遣っていたようだ。
残り3名の墓所はというと家康はご存じ日光東照宮。家光は自分で寛永寺を建てたにもかかわらず家康LOVEだったので、墓所は日光にある輪王寺(りんのうじ)。ただし葬儀は寛永寺で。そしてラスト将軍の慶喜は寛永寺近くの谷中霊園。
ただし谷中霊園は都立の霊園ではあるけれど、その中に寛永寺所有の区画もあり、彼の墓所はそこにある。それを含めると将軍の墓所争奪戦では6.5対6くらいで寛永寺の勝ちともいえる。なお慶喜の墓は神道形式。それで寛永寺境内に墓を作れなかったとの説もある。
寛永寺はちょっと予想と違ったとはいえ、それを知れたのもひとつの経験。
お寺の敷地沿いに上野公園に向かう。
塀の内側のイエローオータムを見上げていたら、
瓦に葵のご紋があるのに気がついた。
ここを右折。
左手に現れるのは東京国立博物館の西門。たぶんここからは入場できないが、寛永寺まで行かなければこれを見る機会もなかった。だからどうだな話ではあるが(^^ゞ
そして右手に現れたのが国際子ども図書館。
クラシックで圧倒するような存在感。
正式名称は「国立国会図書館 国際子ども図書館」で、国会図書館と同じく国会が運営する施設。この図書館の歴史は
1872年(明治4年):書籍館(しょじゃくかん、図書館の古称)設立
1897年(明治30年):帝国図書館に改称
1947年(昭和22年):国立図書館に改称
(戦後となり帝国の名前がふさわしくなくなったから)
1949年(昭和24年):新しく設立された国立国会図書館に統合される
2000年(平成12年):児童書専門の図書館となる
そしてこの建物は帝国図書館時代の1906年(明治39年)に建てられた。関東大震災と東京空襲を乗り越え、国際子ども図書館になるに当たって大幅なリノベーションを実施。
それを監修したのが建築家の安藤忠雄で、リノベーションの傑作としてよく紹介されるから、この建物の存在は知っていた。でも場所までは記憶しておらず、歩いていていきなり現れたのでちょっとビックリ&興奮。これはきっと寛永寺のご本尊、薬師如来のご利益(^^ゞ
道路側から見るとエントランス部分にガラスの通路のようなものがあるだけだが、反対側はオリジナルの建物をガラスで覆うように改修されている。
こちらは2015年(平成27年)に新設されたアーチ棟と呼ばれる建物。
これも安藤忠雄の設計。
ひょっとしたら将来増築する際に、帝国図書館時代のような建物は造れないから、現代の建物に併せられるようにリノベーションをデザインしたのかも知れない。だとしたら、やるな安藤のオッサン。
実は父親の仕事の関係で私が小学生の頃、まだ駆け出しの助手だった安藤忠雄に会ったことがある。まあ向こうは覚えていないだろうけど。
この日は道路側から眺めただけ(上2枚の写真はホームページから)。
次に上野に来たときは中にも入ってじっくり見学しよう。
上野に来る楽しみがひとつ増えてうれしい。
国際子ども図書館から進むと、前回に紹介した黒田記念館に出る。
交差点の奥左側から上野公園の敷地。
レッドオータムが見えたので近づいてみる。
イエローオータムとのツーショット。
公園中央に向かう。
何となく晩秋の雰囲気。
噴水池まで戻ってきた。
この日はiPhoneでハイスピードでの水しぶき撮影はできないから、噴水が止まる瞬間を狙ってみる。実に馬鹿らしい写真だけれど、これタイミングを合わせるのにけっこう時間がかかったのよ(^^ゞ
午後3時を回って日も低くなってきた
これにて上野公園&周辺の散策終了。
おしまい
寛永寺は1625年に徳川家光による建立で宗派は天台宗。天台宗といえば最澄が比叡山に開いた延暦寺。それで寛永寺は江戸にあるから、東の比叡山の意味を込めて東叡山との山号(山号の説明は長くなるので割愛)。なお寛永は創建されたときの年号で、今でなら令和寺みたいなネーミング。
ところで比叡山を叡山と呼ぶ人がいる。これがどうにも気に入らない。どうして「ひ」のたった一言を省略するのか。なぜか仏教関係者ほど比叡山を叡山と呼びたがる。総本山である延暦寺の山号は比叡山なのに。叡山といったほうが通っぽく聞こえるからなのかな。
門をくぐったところで撮影。
期待していた歴史を感じさせるような雰囲気はまったくない(/o\) いいお寺と書くと抽象的になってしまうが、そういうところで伝わってくる「ありがたみ」もなし。ごくごく普通のお寺といった印象。
左側は幼稚園になっていた。
延暦寺の本堂が根本中堂(こんぽんちゅうどう)との名前。天台宗ではそれに倣って本堂を根本中堂と呼ぶ場合もある。これも言っちゃ悪いがごくフツウ。
オリジナルの根本中堂は上野戦争で焼け落ちたので、これは明治12年によその寺の本堂を移築したもの。ただしオリジナルは1698年に建てられたのに対し、こちらは1638年とさらに古い。ところでオリジナルが1698年ということは、寺が開かれたのが1625年なので73年間も本堂がなかった計算になる。そんなのあり?
それにしても「根本中堂」とあんなに大きな文字でアピールする必要があるのかな。根本中堂=本堂。他のお寺で同じように「本堂」とアピールしているのは見たことがない。それに複数のお堂があるならまだしも寛永寺にはこのお堂しかない。
本堂の周りブラブラ。
駐車場があって、
さらに進むと、ここから先は墓地みたいだ。
前回、現在の寛永寺はおよそ7.5ヘクタールで相当に広いと書いたものの、
実は航空写真を見るとそのほとんどが墓地で占められている。
墓地以外のいわゆる境内としての面積は幼稚園も含めて約1ヘクタールほど。明治政府としても墓地まで取り上げるわけにはいかないから、その片隅に寛永寺を押し込めたということか。だから本堂の周りにいて特に広い寺とも思わなかった。
墓地には入らず引き返して、これは本堂の裏手。
そこをくぐり抜けるとこんな建物。
いわゆる寺務所だろうか。人の気配は感じられず。
ぐるっと回って本堂の横に。
レッドオータムは色悪し。
でもこの木の形は面白かった。
高野槇(こうやまき)だと思う。
案内看板を見ると徳川歴代将軍御霊廟と書かれている。つまり将軍のお墓。それがあるのは知っていたのにすっかり忘れていた。また墓地エリアに戻るのも面倒だったので、これは見なかったことに(^^ゞ
歴史が感じられるかもなどと期待値が高かったせいもあって、寛永寺はかなり肩すかしな印象を受けてしまった。将軍のお墓に興味がある墓マイラー趣味の人以外には特にお勧めできないかな。
ところで江戸時代に寛永寺は増上寺と徳川家の菩提寺の地位を競い合っていた。もともと菩提寺だったのは増上寺。しかし寛永寺は三代将軍家光の創建。それで徳川歴代15名の将軍のうち、寛永寺と増上寺に墓所があるのはそれぞれ6名づつ。これは両者に交互に墓所を造るなど幕府が気を遣っていたようだ。
残り3名の墓所はというと家康はご存じ日光東照宮。家光は自分で寛永寺を建てたにもかかわらず家康LOVEだったので、墓所は日光にある輪王寺(りんのうじ)。ただし葬儀は寛永寺で。そしてラスト将軍の慶喜は寛永寺近くの谷中霊園。
ただし谷中霊園は都立の霊園ではあるけれど、その中に寛永寺所有の区画もあり、彼の墓所はそこにある。それを含めると将軍の墓所争奪戦では6.5対6くらいで寛永寺の勝ちともいえる。なお慶喜の墓は神道形式。それで寛永寺境内に墓を作れなかったとの説もある。
寛永寺はちょっと予想と違ったとはいえ、それを知れたのもひとつの経験。
お寺の敷地沿いに上野公園に向かう。
塀の内側のイエローオータムを見上げていたら、
瓦に葵のご紋があるのに気がついた。
ここを右折。
左手に現れるのは東京国立博物館の西門。たぶんここからは入場できないが、寛永寺まで行かなければこれを見る機会もなかった。だからどうだな話ではあるが(^^ゞ
そして右手に現れたのが国際子ども図書館。
クラシックで圧倒するような存在感。
正式名称は「国立国会図書館 国際子ども図書館」で、国会図書館と同じく国会が運営する施設。この図書館の歴史は
1872年(明治4年):書籍館(しょじゃくかん、図書館の古称)設立
1897年(明治30年):帝国図書館に改称
1947年(昭和22年):国立図書館に改称
(戦後となり帝国の名前がふさわしくなくなったから)
1949年(昭和24年):新しく設立された国立国会図書館に統合される
2000年(平成12年):児童書専門の図書館となる
そしてこの建物は帝国図書館時代の1906年(明治39年)に建てられた。関東大震災と東京空襲を乗り越え、国際子ども図書館になるに当たって大幅なリノベーションを実施。
それを監修したのが建築家の安藤忠雄で、リノベーションの傑作としてよく紹介されるから、この建物の存在は知っていた。でも場所までは記憶しておらず、歩いていていきなり現れたのでちょっとビックリ&興奮。これはきっと寛永寺のご本尊、薬師如来のご利益(^^ゞ
道路側から見るとエントランス部分にガラスの通路のようなものがあるだけだが、反対側はオリジナルの建物をガラスで覆うように改修されている。
こちらは2015年(平成27年)に新設されたアーチ棟と呼ばれる建物。
これも安藤忠雄の設計。
ひょっとしたら将来増築する際に、帝国図書館時代のような建物は造れないから、現代の建物に併せられるようにリノベーションをデザインしたのかも知れない。だとしたら、やるな安藤のオッサン。
実は父親の仕事の関係で私が小学生の頃、まだ駆け出しの助手だった安藤忠雄に会ったことがある。まあ向こうは覚えていないだろうけど。
この日は道路側から眺めただけ(上2枚の写真はホームページから)。
次に上野に来たときは中にも入ってじっくり見学しよう。
上野に来る楽しみがひとつ増えてうれしい。
国際子ども図書館から進むと、前回に紹介した黒田記念館に出る。
交差点の奥左側から上野公園の敷地。
レッドオータムが見えたので近づいてみる。
イエローオータムとのツーショット。
公園中央に向かう。
何となく晩秋の雰囲気。
噴水池まで戻ってきた。
この日はiPhoneでハイスピードでの水しぶき撮影はできないから、噴水が止まる瞬間を狙ってみる。実に馬鹿らしい写真だけれど、これタイミングを合わせるのにけっこう時間がかかったのよ(^^ゞ
午後3時を回って日も低くなってきた
これにて上野公園&周辺の散策終了。
おしまい