2023年12月30日
十二単(ひとえ)はセクシー着物だった!
♪♪ もうふたつ寝るとお正月〜 なので和風な内容を。
「源氏物語 よみがえった女房装束の美」という展覧会が12月28日まで開かれていた。訪れてはいないものの、展覧会紹介の番組を見てとても意外な発見が。
テーマは十二単。「じゅうに・ひとえ」の言葉は知っていても、
それを単と書くって知ってたあ?
現在の着物で裏地がなく1枚の布で仕立てたものを単衣(ひとえ)と呼ぶ。裏地のあるのは袷(あわせ)。十二単の単は単衣の衣の字が省略された言葉のようだ。ただし十二単の場合、そのパーツのひとつである単(ひとえ)を除いてすべて裏地がついている。ややこしくて混乱するね。
なお辞書を引くと常用漢字外の用法として、単で「ひとえ」との訓読みが載っている。また「ひと(つ)」との訓読みもある。今まで「単つ」と書かれたものは見た記憶がないけれど。
その十二単を目にする機会は滅多にない。
写真は即位の礼での皇族方。
画像はそれぞれhttps://www.nikkei.com/article/DGXMZO51269140S9A021C1000000/ https://president.jp/articles/-/30479 https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191109000688.htmlから引用
ただしこのような姿はニュースで見るだけ。それ以外だと結婚式の前撮りで十二単を着る人がいる程度だろうか。それだって自分が新郎でもなければ生では見られない。一番身近なのは雛人形が着ている十二単かな。画像はhttps://takaginingyou.co.jp/kotonoha-hina/から引用
ところで十二単と聞いて思い浮かべるのは平安時代。
しかしこれらは平安時代の十二単とはかなり異なる形なのである。
そもそも平安時代は「鳴くよウグイス平安京」の794年から、「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年(最近はいい箱の1185年と教えているが)までの398年、丸めれば約400年も続いた時代。弥生時代や縄文時代を除けば日本の歴史区分で最も長い。ひとくちに平安時代といってもいろいろある。
写真は公家女子の服装の変遷を表したもの。
左上から
飛鳥時代→奈良時代→平安初期→遣唐使廃止後→平安中期
平安後期→江戸時代前期→江戸時代後期→近代
画像はhttps://costume.iz2.or.jp/column/595.htmlから引用。
詳しくはそのページの解説を読んで欲しい。
飛鳥時代は朝鮮半島、奈良時代から平安初期は唐の影響を強く受けているのがわかる。朝鮮や唐の服装を知らなくても、これらを日本的とはあまり感じないはず。
平安時代のターニングポイントのひとつが、飛鳥時代の630年から約200年間続いていた遣唐使の廃止。「白紙に戻す遣唐使」で894年の出来事。最後の派遣は838年で次の派遣の時期に取りやめた。遣唐使の前の遣隋使は600年から618年。遣隋使の派遣は3〜5回前後と諸説あり、遣唐使は15回派遣された。
遣唐使の廃止により国風文化、いわば日本オリジナルの文化が開花したとは歴史の授業で習ったとおり。ファッションにもそれは影響し十二単が完成したのは平安中期とされている。写真上段一番右がそれ。そのひとつ手前は十二単より格式の高い「裙帯比礼物具装束 くんたいひれ・の・もののぐ・しょうぞく」。そんなものがあるとは知らなかったが、まだ少し唐様(からよう)の雰囲気が残っている。
武家社会になっても十二単は発展し、また江戸時代後期には髪型が大きく変化。これは「大すべらかし」と呼ばれるヘアスタイル。現在の皇族も大すべらかしにしているから、江戸時代後期の十二単を受け継いでいるといえる。
なお十二単は女房装束(にょうぼうしょうぞく)と呼ばれる。女房とは妻や奥さんではなく、貴族社会において高貴な人々に仕える高位の女官(官職を持つ)や女性使用人を指す。使える相手は男女どちらもある。邸宅内に専用の部屋(房)をあてがわれたのが名前の由来。
使用人がどうしてそんな格式の高い服装をと思ってしまうが、これは海外で執事が燕尾服などフォーマルウェアで働いているのと同じで、それが仕える者の礼儀なのだろう。また仕えられる身分の高貴な女性自身はどんな服装だったのか、そして現在は皇族も十二単を着るが、女官や女性使用人の服装をいつ頃からどうして着るようになったのか。そのあたりは興味があるもののまだ調べていない。(王族だって燕尾服は着るから、女房装束との名前にとらわれる必要ないのかも)
さて、その現在の十二単は実は12枚重ねではない。
上半身に着ているのは外側から
唐衣(からぎぬ):一番外側に着る
↓
表着(うわぎ)(うえのきぬ)
↓
打衣(うちぎぬ)
↓
五衣(いつつぎぬ):袿 (うちき) と呼ばれる着物を5枚重ねで着る
↓
単(ひとえ)
↓
小袖(こそで)
↓
襦袢(じゅばん):下着
下半身は
裳(も):唐衣の上から後ろ側だけにつけて
ウエディングドレスのように長く引きずる(下の写真の9を参照)
長袴(ながばかま):小袖の次に着る
十二単の枚数を数える場合、下半身の裳(も)と長袴(ながばかま)はカウントしない。また下着である襦袢(じゅばん)と下着に近い小袖(こそで)も同様。すると唐衣(からぎぬ)から単(ひとえ)までが対象で、五衣(いつつぎぬ)は5枚あるから1+1+1+5+1=9枚重ねとの計算になる。
ただしこれは現在の十二単の話。平安時代には袿 (うちき) を20枚も重ね合わせていた記録がある。それではあまりに華美だと藤原道長(966〜1028年:平安中期)が袿 (うちき)は5〜6枚にしろと倹約令を出し、平安後期にそれが慣例化されて五衣(いつつぎぬ)となったようだ。
現在の9枚重ねでも15kgほどの重さ。袿 (うちき) を20枚も着たらどれだけの重さになるのか。そしてそんな服では生活に困りそうなものの、実はそれほど困らなかったのである(後述)。
写真は十二単を着ているところ。ただし打衣(うちぎぬ)はなく、また五衣(いつつぎぬ)は3枚しか着ていない。画像はhttps://gijodai.jp/seikatsu/info/2020/01/610mから引用
写真の内容は
1 小袖(こそで)
2 長袴(ながばかま)
3 単(ひとえ)
4〜6 五衣(いつつぎぬ)
7 表着(うわぎ)(うえのきぬ)
8 唐衣(からぎぬ)
9 裳(も)
10 完成
これで見て欲しかったのはそれぞれの重ね着パーツではなく、
1枚着るごとに着物の前を紐で結んでいるところ。
結ばなかったら着物がはだけるから当たり前と思われるかも知れない。
でもこれが冒頭に書いた展覧会紹介の番組を見てのとても意外な発見。
ビックリの事実は
平安中期頃までの十二単は紐などで結んでいない。
ただ何枚も重ねて羽織っていただけ。
小袖(こそで)や襦袢(じゅばん)などの肌着もナシ!
平安時代の衣類で現存しているものはなく、これは様々な文献からの研究によるもの。番組では源氏物語絵巻に描かれた図柄が紹介されていた。
源氏物語絵巻を何枚か抜粋。
確かに何も結んでいない。
また女房たちが座っているのにも注目(後述)。
そしてこの女房はいわゆる懐(ふところ)から手を出す仕草をしている。
これも着物をただ羽織っている証拠とされる。
展覧会で再現された当時の十二単。画像はhttps://artexhibition.jp/topics/news/20231206-AEJ1732135/から引用
結ぶものはなし。
着用写真がうつ伏せなのは、
立ち上がったら前がはだけるからなのか?
イヤそれでは服の意味がないやろと思うのは、
現在の生活様式から発想しているから。
奈良時代には唐の影響を受けて椅子もあったらしいが、国風文化になって床あるいは普及し始めた畳に座るようになる。つまり貴族の生活はそうして座っているのが基本。また源氏物語絵巻を見ると、上の再現写真ほどではないがかなり寝そべっている姿勢のものもある。
以前に大河ドラマで戦国時代の生活様式にあわせて女性を立て膝で座らせて話題になった。正座が礼儀正しい座り方になったのは江戸時代になってから。下の絵は武田勝頼の妻である北条夫人。肖像画に立て膝で描かれているなら、それが行儀や礼儀作法的にまったく問題がなかったのを表している。またローマ時代の貴族は宴会のときに寝そべりながら食事をした。だから平安時代の女房たちが仕える相手の前で、寝そべるようにに座るのがノーマルだったのもあり得る話。タイの王室でも寝そべりながら国王と話しているのを、ずっと昔にニュースで見た記憶がある。
いずれにせよ今の我々から見たらダラけているような姿勢が当時は普通。
だから20枚ものとても重い十二単でも何とかなったのかも知れない。
しかし女房とは女官や使用人。そんな体勢で仕事が勤まるのかの疑問はある。おそらくそれで務まるような、例えば話し相手になるようなことが仕事だったのだろう。なんたって貴族社会、別に金を稼いでいるわけではない。また女房は女官や使用人の中ではハイクラスなので、身体を動かさなければならないような仕事はもっと下位クラスが担当していたとも想像できる。
ただそれでも多少の身体の動きは伴う。源氏物語絵巻で懐から手が覗いているのは、片方の腕は袖を通さず、あるいは時々袖から抜いて、着物の胸元部分を握って前がはだけないようにしていたようにも思える。あるいは立ち上がって移動するときなども。
まあとにかく十二単なんて皇族が儀式で着るような最高格式の服装だと思っていたのに、平安時代中期は下着も着けず、ただ着物を何枚も結びもせずに羽織っていただけなのが超を3つ並べたくなるほど意外だった。時代が変われば生活も常識も変わるものだと実感。
さてこれは「御神服うつし13枚の単仕立ての袿をかさねた小袿姿」と書かれていたもの。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/column/601.htmlから引用
もちろん着物は何も結んでいない、留めてもいないから、これで腕を広げればバサーッと前がはだけて、その下は下着もつけていないんだよ。
ちょっとエロくない?(^^ゞ
十二単がエロに結びつくなんて思ってもみなかった。
そして光源氏が速攻でムフフな行動に移れる理由がようやくわかったゼ
ずっと不思議に思っていたんだ。
古文の授業では習わなかった、これが今年最大の発見!
ではよいお年を
「源氏物語 よみがえった女房装束の美」という展覧会が12月28日まで開かれていた。訪れてはいないものの、展覧会紹介の番組を見てとても意外な発見が。
テーマは十二単。「じゅうに・ひとえ」の言葉は知っていても、
それを単と書くって知ってたあ?
現在の着物で裏地がなく1枚の布で仕立てたものを単衣(ひとえ)と呼ぶ。裏地のあるのは袷(あわせ)。十二単の単は単衣の衣の字が省略された言葉のようだ。ただし十二単の場合、そのパーツのひとつである単(ひとえ)を除いてすべて裏地がついている。ややこしくて混乱するね。
なお辞書を引くと常用漢字外の用法として、単で「ひとえ」との訓読みが載っている。また「ひと(つ)」との訓読みもある。今まで「単つ」と書かれたものは見た記憶がないけれど。
その十二単を目にする機会は滅多にない。
写真は即位の礼での皇族方。
画像はそれぞれhttps://www.nikkei.com/article/DGXMZO51269140S9A021C1000000/ https://president.jp/articles/-/30479 https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191109000688.htmlから引用
ただしこのような姿はニュースで見るだけ。それ以外だと結婚式の前撮りで十二単を着る人がいる程度だろうか。それだって自分が新郎でもなければ生では見られない。一番身近なのは雛人形が着ている十二単かな。画像はhttps://takaginingyou.co.jp/kotonoha-hina/から引用
ところで十二単と聞いて思い浮かべるのは平安時代。
しかしこれらは平安時代の十二単とはかなり異なる形なのである。
そもそも平安時代は「鳴くよウグイス平安京」の794年から、「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年(最近はいい箱の1185年と教えているが)までの398年、丸めれば約400年も続いた時代。弥生時代や縄文時代を除けば日本の歴史区分で最も長い。ひとくちに平安時代といってもいろいろある。
写真は公家女子の服装の変遷を表したもの。
左上から
飛鳥時代→奈良時代→平安初期→遣唐使廃止後→平安中期
平安後期→江戸時代前期→江戸時代後期→近代
画像はhttps://costume.iz2.or.jp/column/595.htmlから引用。
詳しくはそのページの解説を読んで欲しい。
飛鳥時代は朝鮮半島、奈良時代から平安初期は唐の影響を強く受けているのがわかる。朝鮮や唐の服装を知らなくても、これらを日本的とはあまり感じないはず。
平安時代のターニングポイントのひとつが、飛鳥時代の630年から約200年間続いていた遣唐使の廃止。「白紙に戻す遣唐使」で894年の出来事。最後の派遣は838年で次の派遣の時期に取りやめた。遣唐使の前の遣隋使は600年から618年。遣隋使の派遣は3〜5回前後と諸説あり、遣唐使は15回派遣された。
遣唐使の廃止により国風文化、いわば日本オリジナルの文化が開花したとは歴史の授業で習ったとおり。ファッションにもそれは影響し十二単が完成したのは平安中期とされている。写真上段一番右がそれ。そのひとつ手前は十二単より格式の高い「裙帯比礼物具装束 くんたいひれ・の・もののぐ・しょうぞく」。そんなものがあるとは知らなかったが、まだ少し唐様(からよう)の雰囲気が残っている。
武家社会になっても十二単は発展し、また江戸時代後期には髪型が大きく変化。これは「大すべらかし」と呼ばれるヘアスタイル。現在の皇族も大すべらかしにしているから、江戸時代後期の十二単を受け継いでいるといえる。
なお十二単は女房装束(にょうぼうしょうぞく)と呼ばれる。女房とは妻や奥さんではなく、貴族社会において高貴な人々に仕える高位の女官(官職を持つ)や女性使用人を指す。使える相手は男女どちらもある。邸宅内に専用の部屋(房)をあてがわれたのが名前の由来。
使用人がどうしてそんな格式の高い服装をと思ってしまうが、これは海外で執事が燕尾服などフォーマルウェアで働いているのと同じで、それが仕える者の礼儀なのだろう。また仕えられる身分の高貴な女性自身はどんな服装だったのか、そして現在は皇族も十二単を着るが、女官や女性使用人の服装をいつ頃からどうして着るようになったのか。そのあたりは興味があるもののまだ調べていない。(王族だって燕尾服は着るから、女房装束との名前にとらわれる必要ないのかも)
さて、その現在の十二単は実は12枚重ねではない。
上半身に着ているのは外側から
唐衣(からぎぬ):一番外側に着る
↓
表着(うわぎ)(うえのきぬ)
↓
打衣(うちぎぬ)
↓
五衣(いつつぎぬ):袿 (うちき) と呼ばれる着物を5枚重ねで着る
↓
単(ひとえ)
↓
小袖(こそで)
↓
襦袢(じゅばん):下着
下半身は
裳(も):唐衣の上から後ろ側だけにつけて
ウエディングドレスのように長く引きずる(下の写真の9を参照)
長袴(ながばかま):小袖の次に着る
十二単の枚数を数える場合、下半身の裳(も)と長袴(ながばかま)はカウントしない。また下着である襦袢(じゅばん)と下着に近い小袖(こそで)も同様。すると唐衣(からぎぬ)から単(ひとえ)までが対象で、五衣(いつつぎぬ)は5枚あるから1+1+1+5+1=9枚重ねとの計算になる。
ただしこれは現在の十二単の話。平安時代には袿 (うちき) を20枚も重ね合わせていた記録がある。それではあまりに華美だと藤原道長(966〜1028年:平安中期)が袿 (うちき)は5〜6枚にしろと倹約令を出し、平安後期にそれが慣例化されて五衣(いつつぎぬ)となったようだ。
現在の9枚重ねでも15kgほどの重さ。袿 (うちき) を20枚も着たらどれだけの重さになるのか。そしてそんな服では生活に困りそうなものの、実はそれほど困らなかったのである(後述)。
写真は十二単を着ているところ。ただし打衣(うちぎぬ)はなく、また五衣(いつつぎぬ)は3枚しか着ていない。画像はhttps://gijodai.jp/seikatsu/info/2020/01/610mから引用
写真の内容は
1 小袖(こそで)
2 長袴(ながばかま)
3 単(ひとえ)
4〜6 五衣(いつつぎぬ)
7 表着(うわぎ)(うえのきぬ)
8 唐衣(からぎぬ)
9 裳(も)
10 完成
これで見て欲しかったのはそれぞれの重ね着パーツではなく、
1枚着るごとに着物の前を紐で結んでいるところ。
結ばなかったら着物がはだけるから当たり前と思われるかも知れない。
でもこれが冒頭に書いた展覧会紹介の番組を見てのとても意外な発見。
ビックリの事実は
平安中期頃までの十二単は紐などで結んでいない。
ただ何枚も重ねて羽織っていただけ。
小袖(こそで)や襦袢(じゅばん)などの肌着もナシ!
平安時代の衣類で現存しているものはなく、これは様々な文献からの研究によるもの。番組では源氏物語絵巻に描かれた図柄が紹介されていた。
源氏物語絵巻を何枚か抜粋。
確かに何も結んでいない。
また女房たちが座っているのにも注目(後述)。
そしてこの女房はいわゆる懐(ふところ)から手を出す仕草をしている。
これも着物をただ羽織っている証拠とされる。
展覧会で再現された当時の十二単。画像はhttps://artexhibition.jp/topics/news/20231206-AEJ1732135/から引用
結ぶものはなし。
着用写真がうつ伏せなのは、
立ち上がったら前がはだけるからなのか?
イヤそれでは服の意味がないやろと思うのは、
現在の生活様式から発想しているから。
奈良時代には唐の影響を受けて椅子もあったらしいが、国風文化になって床あるいは普及し始めた畳に座るようになる。つまり貴族の生活はそうして座っているのが基本。また源氏物語絵巻を見ると、上の再現写真ほどではないがかなり寝そべっている姿勢のものもある。
以前に大河ドラマで戦国時代の生活様式にあわせて女性を立て膝で座らせて話題になった。正座が礼儀正しい座り方になったのは江戸時代になってから。下の絵は武田勝頼の妻である北条夫人。肖像画に立て膝で描かれているなら、それが行儀や礼儀作法的にまったく問題がなかったのを表している。またローマ時代の貴族は宴会のときに寝そべりながら食事をした。だから平安時代の女房たちが仕える相手の前で、寝そべるようにに座るのがノーマルだったのもあり得る話。タイの王室でも寝そべりながら国王と話しているのを、ずっと昔にニュースで見た記憶がある。
いずれにせよ今の我々から見たらダラけているような姿勢が当時は普通。
だから20枚ものとても重い十二単でも何とかなったのかも知れない。
しかし女房とは女官や使用人。そんな体勢で仕事が勤まるのかの疑問はある。おそらくそれで務まるような、例えば話し相手になるようなことが仕事だったのだろう。なんたって貴族社会、別に金を稼いでいるわけではない。また女房は女官や使用人の中ではハイクラスなので、身体を動かさなければならないような仕事はもっと下位クラスが担当していたとも想像できる。
ただそれでも多少の身体の動きは伴う。源氏物語絵巻で懐から手が覗いているのは、片方の腕は袖を通さず、あるいは時々袖から抜いて、着物の胸元部分を握って前がはだけないようにしていたようにも思える。あるいは立ち上がって移動するときなども。
まあとにかく十二単なんて皇族が儀式で着るような最高格式の服装だと思っていたのに、平安時代中期は下着も着けず、ただ着物を何枚も結びもせずに羽織っていただけなのが超を3つ並べたくなるほど意外だった。時代が変われば生活も常識も変わるものだと実感。
さてこれは「御神服うつし13枚の単仕立ての袿をかさねた小袿姿」と書かれていたもの。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/column/601.htmlから引用
もちろん着物は何も結んでいない、留めてもいないから、これで腕を広げればバサーッと前がはだけて、その下は下着もつけていないんだよ。
ちょっとエロくない?(^^ゞ
十二単がエロに結びつくなんて思ってもみなかった。
そして光源氏が速攻でムフフな行動に移れる理由がようやくわかったゼ
ずっと不思議に思っていたんだ。
古文の授業では習わなかった、これが今年最大の発見!
ではよいお年を
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