2024年03月02日
ウメよりも歴史の勉強になった?赤塚梅まつり
タイトルを微妙に変えて前回からの続き。
和太鼓のリズム、低音、爆音を楽しんでいて、
ふと振り返ると、
いつの間にか武者行列の参加者が待機中。
正式タイトルは「赤塚城 戦国絵巻 武者行列」。
前回に書いた記念撮影の様子でもわかるようにメンバーの多くは子供。
メガネを掛けているお姫様の二人は姉妹かな。
小さな武者姿が可愛い。
この鎧や兜はボンテックスという樹脂をしみこませた紙で作られていて軽いらしい。各地の武者行列などではよく使われている素材のようだ。本物と並べれば違うとしても、見た目には紙製とはまったく思えず特に違和感もなし。もっとも本物を見慣れていないせいもあるが。
そろそろ始まりそう。
赤塚城本丸跡の石碑と説明看板。
武蔵千葉氏? 誰それ?
とりあえず最後の文節「正確はことはまだ明らかに〜」が「正確な」の書き間違いなのはわかった。この看板が立てられたのは平成13年3月。つまり約22年前。その間に誰も注意する人いなかったの? 何をしている板橋区教育委員会(/o\)
さて調べてみると武蔵千葉氏とは平氏をルーツとする一門。そうと書くと、アレッ?平家は壇ノ浦で滅亡したのでは?それがいつかはよく覚えていないけれどイイクニツクロウの前なのは確か。なのにここには1400年から1500年代の話が書いているじゃないかーーーと思われるかも知れない。(参考までに平家が滅亡した壇ノ浦の戦いは1185年)
意外と知られていないというか意識されていないものの、
平氏と平家は同じではない。記号で示せば平氏 > 平家となる。
平氏は都をナクヨウグイスで平安京に遷都した桓武天皇(737年〜806年)の、孫の代の何名かが臣籍降下して平(たいら)の姓を与えられたのがその始まり。第1陣は825年から840年頃の話。平の文字にしたのは、おジイちゃんが造った平安京にちなんだもの。
古代の決まりでは天皇から直系の4世までが皇族。普通は2世と言えば子供を意味する。しかし皇族関連では親等と同じく子供を1世と数えるようで4世は玄孫(やしゃご)。当然ながら膨大な人数になる。例えば桓武天皇には側室を含めて5人の夫人との間に20人以上の子供がいた。男子はその半分で、成人できたのがさらに半分としても5人。それを当てはめて4世まで数えると5×5×5×5=625人になる。もちろんそれ以前の天皇の子孫もいるわけで。
朝廷としてはそんな人数を財政的に抱えきれないし、そのほとんどに皇位継承の可能性もない。それで皇族の身分を外し臣下として独り立ちさせたのが臣籍降下。その制度は古代からあり、特に桓武天皇(在位781〜806年)の時代から多くなったとされる。
さて50代天皇・桓武天皇の孫から始まった平氏を桓武平氏と呼ぶ。桓武と頭につけるのは他にも54代仁明天皇、55代文徳天皇、58代光孝天皇の子孫から平姓へ臣籍降下したグループがあるから。ただし桓武以外の天皇の平氏はほとんどが数代ほどで途絶えたので、平氏と言えば実質的に桓武平氏を示す。
最初の825年に臣籍降下したのは平高棟(たかむね)で、この系統は公家(貴族)として発展していく。平氏といえば武家としか学校では習わないけれど、そうでもないのだ。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は、この系統で高棟(たかむね)より10代後となる平時忠(ときただ)の言葉。
そして桓武天皇の孫(ひ孫説もあり)の高望王(たかもちおう:生没年不明)が、桓武天皇の9代後の宇多天皇から臣籍降下で平の姓を与えられ平高望となったのが889年。この系統が後に平氏の最大勢力になる。
平氏となった平高望(たかもち)は898年に上総国(かずさのくに:今の千葉県中央部)に行政長官として赴任する。この時点では公家。しかし任期が過ぎても帰京せず、その地に土着して豪族となり武士団を形成して勢力を周辺に伸ばす。理由は京都に戻っても藤原一族が要職を独占しているから。この平高望が武家としての平氏の始まり。
平高望の孫の平将門(まさかど)の代になると関東ほぼ全域を支配。東国(関東)を意味する坂東平氏の名で呼ばれた。(その時代にそう呼ばれていたかは知らない)
そうして勢力を拡大していた平氏であるが、時代が下って1028年に起きた平忠常の乱(ただつね:平高望のひ孫、母方の祖父として平将門にもつながる)が起き、朝廷から派遣された源頼信(頼朝の6代前の祖先)により平定され、坂東平氏は源氏の支配下に入る。源氏と平氏が一緒になってややこしいからか、この頃になると坂東平氏ではなく、坂東武者や坂東武士と呼び変えられるみたい。
939年に起きた平将門の乱と較べると日本史的にはマイナーな存在とはいえ、この平忠常の乱はその後の歴史に影響を与えるいろいろな要素を持っていたと思う。坂東平氏と源氏とのつながりができた以外にも、例えば源頼信の息子の頼義が後に鎌倉の領地を手に入れ、それで頼朝にとって鎌倉が先祖伝来の土地になった。逆に将門の乱はもともと平氏一族の内乱で関東の政治に大きな影響は与えていない。将門の首が京都から東京まで飛んでいかなければ、今ほど有名にはならなかったかも。
いずれにせよ源頼朝が幽閉されていた伊豆から抜け出して挙兵し、鎌倉幕府を樹立できたのはこの坂東平氏、すなわち平氏の協力があったから。話は逸れるが、源頼義は妻を平氏からもらっており(当時の感覚だと婿に入る)、だからその子孫の頼朝は平氏の血も流れていることになる。
話は変わって、平忠常(ただつね)と同じく平高望(たかもち)のひ孫の代にあたる平維衡(これひら)は、関東を離れて伊勢に地盤を築き伊勢平氏と呼ばれる系統となる。やがてその子孫は京都に戻り朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩む。
その平維衡(これひら)の5代後に平清盛が出る。清盛は初代の平高望(たかもち)から数えれば平氏9代目となる世代。そして清盛が都で権力者として上り詰めると、平氏の中で清盛の近親者およびその周辺が平家と呼ばれるようになる。だから平氏 > 平家。平氏の中でもセレブな存在が平家ファミリー。「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠は平高棟(たかむね)の子孫でまったく別系列だが、姉が清盛の後妻になったので義理の親戚として平家一門に加わった。それが嬉しくての発言?
この流れを考えると源平の戦いは源氏 vs 平家であるけれど、頼朝には坂東平氏が多く加担していたから平氏 vs 平家の戦いの側面も持つ。もっとも同じ平氏とはいえ、その頃になれば9代前のヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイじいちゃんが共通というだけなので、同じ一族としての感覚や連帯感は既になかったと思う。まさに坂東平氏ではなく坂東武者がそのアイデンティティだったのかも知れない。
ついでに計算すると平高望(たかもち)が千葉に来たのが898年で、頼朝の挙兵が1180年だから282年の年月が流れている。現在に置き換えれば2024 − 282 = 1742年で徳川吉宗の時代まで遡る。平家と坂東平氏はそれだけ遠い親戚。
ところで坂東平氏側はこの少し前の世代から、後述する千葉氏・上総氏・三浦氏などに名前を変えている。どうして桓武天皇につながる平の姓を捨てて千葉や上総などに変更するのだろう。少し調べたがヒントは見つけられず。この頃になれば一族の数は先ほどの掛け算のように加速度的に増えて「平さん」だらけになって区別が付かなくなるから? もう都から離れて長いので「平」の名前にステイタスを感じなくなったから? あるいは平忠常の乱以降の源氏の支配がさらに進んで、平姓では何かと不都合があって名前を変えたのか?そのうち調べましょう。
ただ清盛ほか平家側はすべて平姓。もし坂東平氏が名前を変えずに平姓のままだったら、平氏同士の戦いはどうにもやりづらく、頼朝の元にそんなに多く集まっていなかった可能性もある。そう考えると名前を変えてなければ歴史も違っていた? 別の表現をすれば名前が歴史を変えた? そんなことをあれこれモーソー中である。
平氏と平家の話が長くなった。
ようやく武者行列の武蔵千葉氏。
でもそろそろ飽きてきたから簡潔に(^^ゞ
まず千葉氏は先ほどの平忠常(ただつね)の家系から出た一族。忠常のひ孫の平常兼(つねかね)が初代とされ、その孫の常胤(つねたね)から平ではなく千葉常胤と名乗っている(諸説あり)。
ならば千葉とはこの一族の名前だったのかと思ってしまうが実際は逆。奈良時代の万葉集には既に「知波乃奴」=「千葉の野」とあり千葉の地名が確立していた。つまり地名を家の名前としたパターン。
そして千葉氏は坂東平氏の中でも中心的な坂東八平氏に名を連ねる。坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8部族。千葉氏3代目となる千葉常胤(つねたね)は頼朝挙兵にいち早く協力し、鎌倉幕府成立後に有力御家人となる。
これは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人が演じた千葉常胤。
しかし鎌倉時代以前から一族内部での争いが絶えず(他の一族もほとんど同じだが)、とうとう室町時代中期の1455年に、16代当主を中心とする家族が拠点の千葉城を追放され、千葉北東部に逃れる。そこも攻撃されて一緒にいた16代当主の弟の息子兄弟だけが市川まで逃げ延びた。
1456年になるとそこも襲われて、当地まで逃げてきたのが看板に書いてあった内容。これにより千葉氏は、武蔵(東京)に逃げてきた武蔵千葉氏と、千葉に残った下総(しもふさ)千葉氏に区別される。まあ本家と元祖の対立のようなもの。
下総の位置。画像はhttps://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.htmlから引用
下総と上総(かずさ)の位置が地図では上下逆なのがややこしい。また地図の上部に上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)もある。これらの上・下は京の都に近い方が「上」を名乗ると考えられている。
やがて(小田原の)北条氏の配下に入るのも看板に書かれている。皮肉なことに武蔵千葉氏を追い出した下総千葉氏も戦国時代には自力で立ちゆかず、同じく北条氏の勢力下になり豊臣秀吉による小田原征伐を迎える。
これにより武蔵と下総の両千葉氏は滅亡した。滅亡と聞くと戦死や捉えられての処刑ですべて死んだような語感だが、戦国大名としての地位を失った、そして歴史の表舞台から姿を消したとの意味。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家だって主要メンバーは戦死や入水自殺で死んだが、生き残って後世に子孫を残したものはいる。古代ローマ帝国の滅亡でローマ人全員が死んだのではないのと同じ。
入場していく武者行列。
千葉氏は初代の平常兼が1045年生まれで、小田原征伐が1590年だからその歴史は545年。坂東八平氏の中でも一時は最大勢力で房総平氏ともいわれたので、千葉県や千葉市は千葉氏へのリスペクトが高い。千葉市の市章は千葉氏の家紋をベースにしてるほど。
一方の武蔵千葉氏が赤塚城にやってきたのは1456年で、小田原征伐までこの地での歴史は134年。それほど長くないし、千葉氏から追われて落ち延びてきた以外に歴史上の存在感もない。それなのに21世紀の地元住民がこんなイベントをしてくれているなんて、感激あるいはビックリしているんじゃないかな。
武者行列の様子を少し見物して、
隣の梅林に戻る。
50〜60本くらいに思う。
何となくフワーッと天に伸びていく感じ。
梅林のほとんどは白梅。
奥の出入り口近くに少しピンクのもあった。
密集している部分を逆光で眺めると輝いて見えて幻想的。
観梅終了して城址地区から溜池に降りる。
赤塚溜池公園&赤塚公園の城址地区のウメは「質より量」でちょっと残念だったのは確か。しかし和太鼓や武者行列などイベントはとても楽しめた。梅祭り開催中で人出も多かったものの、何となく地元中心でアットホームな雰囲気が感じられたのも好印象だった。
おしまい
でもウメ以外の初めての板橋区散歩はまだ続く。
和太鼓のリズム、低音、爆音を楽しんでいて、
ふと振り返ると、
いつの間にか武者行列の参加者が待機中。
正式タイトルは「赤塚城 戦国絵巻 武者行列」。
前回に書いた記念撮影の様子でもわかるようにメンバーの多くは子供。
メガネを掛けているお姫様の二人は姉妹かな。
小さな武者姿が可愛い。
この鎧や兜はボンテックスという樹脂をしみこませた紙で作られていて軽いらしい。各地の武者行列などではよく使われている素材のようだ。本物と並べれば違うとしても、見た目には紙製とはまったく思えず特に違和感もなし。もっとも本物を見慣れていないせいもあるが。
そろそろ始まりそう。
赤塚城本丸跡の石碑と説明看板。
武蔵千葉氏? 誰それ?
とりあえず最後の文節「正確はことはまだ明らかに〜」が「正確な」の書き間違いなのはわかった。この看板が立てられたのは平成13年3月。つまり約22年前。その間に誰も注意する人いなかったの? 何をしている板橋区教育委員会(/o\)
さて調べてみると武蔵千葉氏とは平氏をルーツとする一門。そうと書くと、アレッ?平家は壇ノ浦で滅亡したのでは?それがいつかはよく覚えていないけれどイイクニツクロウの前なのは確か。なのにここには1400年から1500年代の話が書いているじゃないかーーーと思われるかも知れない。(参考までに平家が滅亡した壇ノ浦の戦いは1185年)
意外と知られていないというか意識されていないものの、
平氏と平家は同じではない。記号で示せば平氏 > 平家となる。
平氏は都をナクヨウグイスで平安京に遷都した桓武天皇(737年〜806年)の、孫の代の何名かが臣籍降下して平(たいら)の姓を与えられたのがその始まり。第1陣は825年から840年頃の話。平の文字にしたのは、おジイちゃんが造った平安京にちなんだもの。
古代の決まりでは天皇から直系の4世までが皇族。普通は2世と言えば子供を意味する。しかし皇族関連では親等と同じく子供を1世と数えるようで4世は玄孫(やしゃご)。当然ながら膨大な人数になる。例えば桓武天皇には側室を含めて5人の夫人との間に20人以上の子供がいた。男子はその半分で、成人できたのがさらに半分としても5人。それを当てはめて4世まで数えると5×5×5×5=625人になる。もちろんそれ以前の天皇の子孫もいるわけで。
朝廷としてはそんな人数を財政的に抱えきれないし、そのほとんどに皇位継承の可能性もない。それで皇族の身分を外し臣下として独り立ちさせたのが臣籍降下。その制度は古代からあり、特に桓武天皇(在位781〜806年)の時代から多くなったとされる。
さて50代天皇・桓武天皇の孫から始まった平氏を桓武平氏と呼ぶ。桓武と頭につけるのは他にも54代仁明天皇、55代文徳天皇、58代光孝天皇の子孫から平姓へ臣籍降下したグループがあるから。ただし桓武以外の天皇の平氏はほとんどが数代ほどで途絶えたので、平氏と言えば実質的に桓武平氏を示す。
最初の825年に臣籍降下したのは平高棟(たかむね)で、この系統は公家(貴族)として発展していく。平氏といえば武家としか学校では習わないけれど、そうでもないのだ。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は、この系統で高棟(たかむね)より10代後となる平時忠(ときただ)の言葉。
そして桓武天皇の孫(ひ孫説もあり)の高望王(たかもちおう:生没年不明)が、桓武天皇の9代後の宇多天皇から臣籍降下で平の姓を与えられ平高望となったのが889年。この系統が後に平氏の最大勢力になる。
平氏となった平高望(たかもち)は898年に上総国(かずさのくに:今の千葉県中央部)に行政長官として赴任する。この時点では公家。しかし任期が過ぎても帰京せず、その地に土着して豪族となり武士団を形成して勢力を周辺に伸ばす。理由は京都に戻っても藤原一族が要職を独占しているから。この平高望が武家としての平氏の始まり。
平高望の孫の平将門(まさかど)の代になると関東ほぼ全域を支配。東国(関東)を意味する坂東平氏の名で呼ばれた。(その時代にそう呼ばれていたかは知らない)
そうして勢力を拡大していた平氏であるが、時代が下って1028年に起きた平忠常の乱(ただつね:平高望のひ孫、母方の祖父として平将門にもつながる)が起き、朝廷から派遣された源頼信(頼朝の6代前の祖先)により平定され、坂東平氏は源氏の支配下に入る。源氏と平氏が一緒になってややこしいからか、この頃になると坂東平氏ではなく、坂東武者や坂東武士と呼び変えられるみたい。
939年に起きた平将門の乱と較べると日本史的にはマイナーな存在とはいえ、この平忠常の乱はその後の歴史に影響を与えるいろいろな要素を持っていたと思う。坂東平氏と源氏とのつながりができた以外にも、例えば源頼信の息子の頼義が後に鎌倉の領地を手に入れ、それで頼朝にとって鎌倉が先祖伝来の土地になった。逆に将門の乱はもともと平氏一族の内乱で関東の政治に大きな影響は与えていない。将門の首が京都から東京まで飛んでいかなければ、今ほど有名にはならなかったかも。
いずれにせよ源頼朝が幽閉されていた伊豆から抜け出して挙兵し、鎌倉幕府を樹立できたのはこの坂東平氏、すなわち平氏の協力があったから。話は逸れるが、源頼義は妻を平氏からもらっており(当時の感覚だと婿に入る)、だからその子孫の頼朝は平氏の血も流れていることになる。
話は変わって、平忠常(ただつね)と同じく平高望(たかもち)のひ孫の代にあたる平維衡(これひら)は、関東を離れて伊勢に地盤を築き伊勢平氏と呼ばれる系統となる。やがてその子孫は京都に戻り朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩む。
その平維衡(これひら)の5代後に平清盛が出る。清盛は初代の平高望(たかもち)から数えれば平氏9代目となる世代。そして清盛が都で権力者として上り詰めると、平氏の中で清盛の近親者およびその周辺が平家と呼ばれるようになる。だから平氏 > 平家。平氏の中でもセレブな存在が平家ファミリー。「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠は平高棟(たかむね)の子孫でまったく別系列だが、姉が清盛の後妻になったので義理の親戚として平家一門に加わった。それが嬉しくての発言?
この流れを考えると源平の戦いは源氏 vs 平家であるけれど、頼朝には坂東平氏が多く加担していたから平氏 vs 平家の戦いの側面も持つ。もっとも同じ平氏とはいえ、その頃になれば9代前のヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイじいちゃんが共通というだけなので、同じ一族としての感覚や連帯感は既になかったと思う。まさに坂東平氏ではなく坂東武者がそのアイデンティティだったのかも知れない。
ついでに計算すると平高望(たかもち)が千葉に来たのが898年で、頼朝の挙兵が1180年だから282年の年月が流れている。現在に置き換えれば2024 − 282 = 1742年で徳川吉宗の時代まで遡る。平家と坂東平氏はそれだけ遠い親戚。
ところで坂東平氏側はこの少し前の世代から、後述する千葉氏・上総氏・三浦氏などに名前を変えている。どうして桓武天皇につながる平の姓を捨てて千葉や上総などに変更するのだろう。少し調べたがヒントは見つけられず。この頃になれば一族の数は先ほどの掛け算のように加速度的に増えて「平さん」だらけになって区別が付かなくなるから? もう都から離れて長いので「平」の名前にステイタスを感じなくなったから? あるいは平忠常の乱以降の源氏の支配がさらに進んで、平姓では何かと不都合があって名前を変えたのか?そのうち調べましょう。
ただ清盛ほか平家側はすべて平姓。もし坂東平氏が名前を変えずに平姓のままだったら、平氏同士の戦いはどうにもやりづらく、頼朝の元にそんなに多く集まっていなかった可能性もある。そう考えると名前を変えてなければ歴史も違っていた? 別の表現をすれば名前が歴史を変えた? そんなことをあれこれモーソー中である。
平氏と平家の話が長くなった。
ようやく武者行列の武蔵千葉氏。
でもそろそろ飽きてきたから簡潔に(^^ゞ
まず千葉氏は先ほどの平忠常(ただつね)の家系から出た一族。忠常のひ孫の平常兼(つねかね)が初代とされ、その孫の常胤(つねたね)から平ではなく千葉常胤と名乗っている(諸説あり)。
ならば千葉とはこの一族の名前だったのかと思ってしまうが実際は逆。奈良時代の万葉集には既に「知波乃奴」=「千葉の野」とあり千葉の地名が確立していた。つまり地名を家の名前としたパターン。
そして千葉氏は坂東平氏の中でも中心的な坂東八平氏に名を連ねる。坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8部族。千葉氏3代目となる千葉常胤(つねたね)は頼朝挙兵にいち早く協力し、鎌倉幕府成立後に有力御家人となる。
これは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人が演じた千葉常胤。
しかし鎌倉時代以前から一族内部での争いが絶えず(他の一族もほとんど同じだが)、とうとう室町時代中期の1455年に、16代当主を中心とする家族が拠点の千葉城を追放され、千葉北東部に逃れる。そこも攻撃されて一緒にいた16代当主の弟の息子兄弟だけが市川まで逃げ延びた。
1456年になるとそこも襲われて、当地まで逃げてきたのが看板に書いてあった内容。これにより千葉氏は、武蔵(東京)に逃げてきた武蔵千葉氏と、千葉に残った下総(しもふさ)千葉氏に区別される。まあ本家と元祖の対立のようなもの。
下総の位置。画像はhttps://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.htmlから引用
下総と上総(かずさ)の位置が地図では上下逆なのがややこしい。また地図の上部に上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)もある。これらの上・下は京の都に近い方が「上」を名乗ると考えられている。
やがて(小田原の)北条氏の配下に入るのも看板に書かれている。皮肉なことに武蔵千葉氏を追い出した下総千葉氏も戦国時代には自力で立ちゆかず、同じく北条氏の勢力下になり豊臣秀吉による小田原征伐を迎える。
これにより武蔵と下総の両千葉氏は滅亡した。滅亡と聞くと戦死や捉えられての処刑ですべて死んだような語感だが、戦国大名としての地位を失った、そして歴史の表舞台から姿を消したとの意味。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家だって主要メンバーは戦死や入水自殺で死んだが、生き残って後世に子孫を残したものはいる。古代ローマ帝国の滅亡でローマ人全員が死んだのではないのと同じ。
入場していく武者行列。
千葉氏は初代の平常兼が1045年生まれで、小田原征伐が1590年だからその歴史は545年。坂東八平氏の中でも一時は最大勢力で房総平氏ともいわれたので、千葉県や千葉市は千葉氏へのリスペクトが高い。千葉市の市章は千葉氏の家紋をベースにしてるほど。
一方の武蔵千葉氏が赤塚城にやってきたのは1456年で、小田原征伐までこの地での歴史は134年。それほど長くないし、千葉氏から追われて落ち延びてきた以外に歴史上の存在感もない。それなのに21世紀の地元住民がこんなイベントをしてくれているなんて、感激あるいはビックリしているんじゃないかな。
武者行列の様子を少し見物して、
隣の梅林に戻る。
50〜60本くらいに思う。
何となくフワーッと天に伸びていく感じ。
梅林のほとんどは白梅。
奥の出入り口近くに少しピンクのもあった。
密集している部分を逆光で眺めると輝いて見えて幻想的。
観梅終了して城址地区から溜池に降りる。
赤塚溜池公園&赤塚公園の城址地区のウメは「質より量」でちょっと残念だったのは確か。しかし和太鼓や武者行列などイベントはとても楽しめた。梅祭り開催中で人出も多かったものの、何となく地元中心でアットホームな雰囲気が感じられたのも好印象だった。
おしまい
でもウメ以外の初めての板橋区散歩はまだ続く。
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