2024年05月14日
善福寺公園で鯉のぼり
5月3日にツツジがまったく終了していた練馬の平成つつじ公園を10分ほど見て回ってから、次にやってきたのは善福寺公園。開園は1961年(昭和36年)。同じく善福寺川沿いにある善福寺川緑地や和田堀公園が1964年だから少し早い。
面積は8ヘクタールで、そのうち池が3.7ヘクタールと47%を占める。池の畔(ほとり)に前回に書いたオリジナルの善福寺があったので、ここの池が善福寺池と呼ばれ、そこから流れる川が善福寺川となった。
現在は上の池と下の池に分かれているが、元々の善福寺池は上の池。下の池は昭和10年代に善福寺川を堰き止めて作られた人工池。その善福寺川は善福寺池の湧水が水源でここからスタートする。江戸時代には神田上水の補助水源として利用され、また井の頭池(井の頭公園)と三宝寺池(石神井公園)と共に武蔵野の三大湧水池と呼ばれた。ただし昭和30年代から水が湧き出さなくなり、現在は地下からのくみ上げに頼っている。
上の地図で善福寺公園に隣接しているのが地下水をくみ上げている杉並浄水所。浄水場ではなく浄水所なのは、東京都水道局が規模によって言葉を使い分けているから。たぶん東京都だけの用語。なおこの杉並浄水所は2016年にくみ上げた水から大腸菌が検出されたため、今は水道水に使用されていない。ということは善福寺池と善福寺川に給水しているだけ?
現在位置は上の池北側の「あそび場」と名付けられた広場。
善福寺公園に来た目的は上の池と下の池でそれぞれあって、
上の池でのお目当ては鯉のぼり。
鯉のぼりなんてずっと別に興味もなかったのに、2014年にネモフィラと芝桜を見にバイクツーリングした群馬県太田市の北部運動公園で、たまたま150匹の鯉のぼりイベントを見てその魅力を再発見。以来、子供の日が近づくと血が騒ぐようになった(^^ゞ
川でいうなら左岸(上流から見て左側)を新緑を愛でながら進む。
平成つつじ公園では見られなかった鮮やかな色彩のツツジもあって、
江戸の敵を長崎で討った気分。
鯉のぼりの真横から。
でもこの日は風がほとんどなくメザシ状態。
少しだけ風が吹いてきた。
でもすぐにまた無風状態になったので池の周りの散策再スタート。
オレンジのツツジとシャクナゲ。
たぶんキショウブ(黄菖蒲)。
アヤメとカキツバタとハナショウブの見分け方はマスターしているものの、キショウブと黄色いカキツバタの違いはよく理解していない。近くまで寄れなかったが、写真を拡大して確認できるこの模様はキショウブだと思う。
原産は西アジアからヨーロッパで明治時代後期に観賞用として持ち込まれた。しかし全国で野生化し、繁殖力が強く在来種に影響を与えるとして生態系被害防止外来種に指定されている。これは駆除対象ではなく、これ以上増やさないレベルの措置のよう。ただしアヤメの仲間では、ハナショウブが最も多く栽培されており、かつハナショウブに黄色はないのでキショウブは珍重され人気も高い。
ボート乗り場があって、
ここが上の池の最も南側あたり。
内田秀五郎の銅像。
1907年(明治40年)に現杉並区に当たる井萩村の村長に就任し、区画整理、駅や工場の誘致など、このエリア発展の基礎を築いた人物らしい。
右岸からの鯉のぼり。
先ほどよりは風がある。
気持ちよさそうに泳いでいるように見えて、こちらも気持ちいい。
鯉のぼりは尻尾から見ると揺れ方が面白いもの。でもこの日は風が足らなかった。もっともこのように池に吊されていると尻尾の真後ろからは眺められないが。
ところで誰でも知っているこの歌。
やねより たかい こいのぼり
おおきい まごいは おとうさん
ちいさい ひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
子供の頃は何も考えずに歌っていたものの、よく歌詞を読むとお母さんがいないじゃないか。それに真鯉は黒い鯉、緋鯉は赤い鯉である。だから真鯉がお父さんで緋鯉がお母さん、それ以外の青やピンクが子供たちだったのでは?
これにはいろいろ時代背景が影響している。鯉のぼりのルーツは平安時代まで遡り、武士の家で端午の節句に幟(のぼり)を立てて、男児の立身出世・武運長久を願う風習が生まれたのが始まり。
幟(のぼり)とは縦型の旗、幟旗(のぼりばた)ともいう。今は集客の道具として使われるが、オリジナルは合戦のときの敵味方識別のための目印。
平和な江戸時代になると装飾要素が強くなり、幟(のぼり)に武者絵や七福神など縁起のよい図柄を描くようになる。それらを絵のぼりと呼ぶ。しかし町人にとってそれは武家の風習だし、元は軍旗である幟(のぼり)を立てて同じようにお祝いするのは憚られた。そこでまず吹き流しが使われ、それを中国の故事である「鯉の滝登り」にヒントを得て鯉の模様にしたのが鯉のぼりの始まり。(諸説あり)
この歌川広重が描いた浮世絵には鯉のぼりのほかに、
川の対岸に武家が立てた幟旗(のぼりばた)や絵のぼりも描かれている。
なので鯉のぼりの「のぼり」は幟旗(のぼりばた)の「のぼり」。漢字で書けば鯉幟。鯉が空に昇って泳いでいるからじゃない。もっとも幟(のぼり)の語源に「昇る」の意味もあるのでまったくの間違いとも言い切れない。
今でも鯉のぼりと共に武者幟(絵のぼり)を揚げるところはあるみたい。幟旗(のぼりばた)が立つと合戦の雰囲気が出てくるね。画像はhttps://www.chunichi.co.jp/article/452872から引用
武家社会が終わった明治になって徐々に絵のぼり < 鯉のぼりとなるものの、江戸から当時にかけて鯉のぼりは黒い真鯉が一匹だけ。赤い緋鯉が登場したのは明治後半といわれる。まだ男子中心社会だし、そのときに真鯉がお父さん、緋鯉が子供というか息子の解釈が生まれたと思われる。
そして黒と赤以外の色が使われるようになったのは戦後になってから。これは染色の技術発達に伴っての進化。まず青の鯉が追加され、これでサイズ変化と共に真鯉:お父さん、緋鯉:お母さん、青い鯉:子供の位置づけが確立し、その後に他の色も増えてくる。
童謡の「こいのぼり」が発表されたのは1931年(昭和6年)なので、まだ黒い真鯉と赤い緋鯉が二匹だけの時代。だからお母さんが不在ーーーと歌詞にも歴史ありとのお話。
公園や池の規模と比較して少し数が物足りない。もう2列ほど増やして欲しい気もする。それでも晴天の下で鯉のぼりをのんびり眺められて満足。何となく元気になる気がするから、鯉のぼりなんて久しく見ていないという人も来年はどこかに出かけてみては。けっこういろいろなところでやっているよ。
ーーー下の池へ続く
面積は8ヘクタールで、そのうち池が3.7ヘクタールと47%を占める。池の畔(ほとり)に前回に書いたオリジナルの善福寺があったので、ここの池が善福寺池と呼ばれ、そこから流れる川が善福寺川となった。
現在は上の池と下の池に分かれているが、元々の善福寺池は上の池。下の池は昭和10年代に善福寺川を堰き止めて作られた人工池。その善福寺川は善福寺池の湧水が水源でここからスタートする。江戸時代には神田上水の補助水源として利用され、また井の頭池(井の頭公園)と三宝寺池(石神井公園)と共に武蔵野の三大湧水池と呼ばれた。ただし昭和30年代から水が湧き出さなくなり、現在は地下からのくみ上げに頼っている。
上の地図で善福寺公園に隣接しているのが地下水をくみ上げている杉並浄水所。浄水場ではなく浄水所なのは、東京都水道局が規模によって言葉を使い分けているから。たぶん東京都だけの用語。なおこの杉並浄水所は2016年にくみ上げた水から大腸菌が検出されたため、今は水道水に使用されていない。ということは善福寺池と善福寺川に給水しているだけ?
現在位置は上の池北側の「あそび場」と名付けられた広場。
善福寺公園に来た目的は上の池と下の池でそれぞれあって、
上の池でのお目当ては鯉のぼり。
鯉のぼりなんてずっと別に興味もなかったのに、2014年にネモフィラと芝桜を見にバイクツーリングした群馬県太田市の北部運動公園で、たまたま150匹の鯉のぼりイベントを見てその魅力を再発見。以来、子供の日が近づくと血が騒ぐようになった(^^ゞ
川でいうなら左岸(上流から見て左側)を新緑を愛でながら進む。
平成つつじ公園では見られなかった鮮やかな色彩のツツジもあって、
江戸の敵を長崎で討った気分。
鯉のぼりの真横から。
でもこの日は風がほとんどなくメザシ状態。
少しだけ風が吹いてきた。
でもすぐにまた無風状態になったので池の周りの散策再スタート。
オレンジのツツジとシャクナゲ。
たぶんキショウブ(黄菖蒲)。
アヤメとカキツバタとハナショウブの見分け方はマスターしているものの、キショウブと黄色いカキツバタの違いはよく理解していない。近くまで寄れなかったが、写真を拡大して確認できるこの模様はキショウブだと思う。
原産は西アジアからヨーロッパで明治時代後期に観賞用として持ち込まれた。しかし全国で野生化し、繁殖力が強く在来種に影響を与えるとして生態系被害防止外来種に指定されている。これは駆除対象ではなく、これ以上増やさないレベルの措置のよう。ただしアヤメの仲間では、ハナショウブが最も多く栽培されており、かつハナショウブに黄色はないのでキショウブは珍重され人気も高い。
ボート乗り場があって、
ここが上の池の最も南側あたり。
内田秀五郎の銅像。
1907年(明治40年)に現杉並区に当たる井萩村の村長に就任し、区画整理、駅や工場の誘致など、このエリア発展の基礎を築いた人物らしい。
右岸からの鯉のぼり。
先ほどよりは風がある。
気持ちよさそうに泳いでいるように見えて、こちらも気持ちいい。
鯉のぼりは尻尾から見ると揺れ方が面白いもの。でもこの日は風が足らなかった。もっともこのように池に吊されていると尻尾の真後ろからは眺められないが。
ところで誰でも知っているこの歌。
やねより たかい こいのぼり
おおきい まごいは おとうさん
ちいさい ひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
子供の頃は何も考えずに歌っていたものの、よく歌詞を読むとお母さんがいないじゃないか。それに真鯉は黒い鯉、緋鯉は赤い鯉である。だから真鯉がお父さんで緋鯉がお母さん、それ以外の青やピンクが子供たちだったのでは?
これにはいろいろ時代背景が影響している。鯉のぼりのルーツは平安時代まで遡り、武士の家で端午の節句に幟(のぼり)を立てて、男児の立身出世・武運長久を願う風習が生まれたのが始まり。
幟(のぼり)とは縦型の旗、幟旗(のぼりばた)ともいう。今は集客の道具として使われるが、オリジナルは合戦のときの敵味方識別のための目印。
平和な江戸時代になると装飾要素が強くなり、幟(のぼり)に武者絵や七福神など縁起のよい図柄を描くようになる。それらを絵のぼりと呼ぶ。しかし町人にとってそれは武家の風習だし、元は軍旗である幟(のぼり)を立てて同じようにお祝いするのは憚られた。そこでまず吹き流しが使われ、それを中国の故事である「鯉の滝登り」にヒントを得て鯉の模様にしたのが鯉のぼりの始まり。(諸説あり)
この歌川広重が描いた浮世絵には鯉のぼりのほかに、
川の対岸に武家が立てた幟旗(のぼりばた)や絵のぼりも描かれている。
なので鯉のぼりの「のぼり」は幟旗(のぼりばた)の「のぼり」。漢字で書けば鯉幟。鯉が空に昇って泳いでいるからじゃない。もっとも幟(のぼり)の語源に「昇る」の意味もあるのでまったくの間違いとも言い切れない。
今でも鯉のぼりと共に武者幟(絵のぼり)を揚げるところはあるみたい。幟旗(のぼりばた)が立つと合戦の雰囲気が出てくるね。画像はhttps://www.chunichi.co.jp/article/452872から引用
武家社会が終わった明治になって徐々に絵のぼり < 鯉のぼりとなるものの、江戸から当時にかけて鯉のぼりは黒い真鯉が一匹だけ。赤い緋鯉が登場したのは明治後半といわれる。まだ男子中心社会だし、そのときに真鯉がお父さん、緋鯉が子供というか息子の解釈が生まれたと思われる。
そして黒と赤以外の色が使われるようになったのは戦後になってから。これは染色の技術発達に伴っての進化。まず青の鯉が追加され、これでサイズ変化と共に真鯉:お父さん、緋鯉:お母さん、青い鯉:子供の位置づけが確立し、その後に他の色も増えてくる。
童謡の「こいのぼり」が発表されたのは1931年(昭和6年)なので、まだ黒い真鯉と赤い緋鯉が二匹だけの時代。だからお母さんが不在ーーーと歌詞にも歴史ありとのお話。
公園や池の規模と比較して少し数が物足りない。もう2列ほど増やして欲しい気もする。それでも晴天の下で鯉のぼりをのんびり眺められて満足。何となく元気になる気がするから、鯉のぼりなんて久しく見ていないという人も来年はどこかに出かけてみては。けっこういろいろなところでやっているよ。
ーーー下の池へ続く