2024年06月10日
山手西洋館ブラブラ その3
(5月10日の横浜バラツアーその5)
べーリック・ホールを出て、
元町公園も少しだけ見ておこうかと、
べーリック・ホール敷地と元町公園の間の路地に入る。
途中で公園内に降りられる出入り口があって、
そこから見えるこの崩れたレンガ積みは、
山手80番館遺跡。
かつて山手町80番地にあった西洋館が関東大震災で倒壊した残骸。ただし「遺跡」と呼ぶのはちょっと大げさすぎる気がする。「山手80番館跡」でいいんじゃない?
それがどうして公園の中に建っていたかというと、
当時は公園じゃなかったから。元町公園は
幕末1863年に来日したフランス人実業家のアルフレッド・ジェラールが、
1868年(明治元年)頃にこのあたりの土地を取得。
山手の傾斜地から湧き出る良質な水を外国船に売る給水事業を始める。
その水は「赤道を越えても腐らない」と評判がよかったらしい。
今でも飲めるのかな?
同時に日本ではジェラール瓦(かわら)と呼ばれたフランス式瓦や、
煉瓦工場などの製造もここで始める。
つまり元町公園は給水施設と工場だった場所。ジェラールは1878年(明治11年)に帰国し、それからの変遷は省略。そして1923年(大正12年)の関東大震災で設備が大きな被害を受けた後、横浜市が土地の永代借地権を買い取り1930年(昭和5年)に公園となった。
山手80番館はおそらくジェラールの所有地とは別だろうけれど、
そのときに一緒に買い取って公園に組み込んだのでは。
全体を眺めると関東大震災ではなくて、
もっと古い時代のものに思える。
近づけばそうでもないか。
このレンガの長辺と短辺が列によって交互に並ぶのはイギリス積みと呼ばれる施工。積み方は他にフランス積み、小口積み、長手積みなどがある。
山手80番館の建設は明治末期から大正にかけてとされるだけで正確な時期は不明。鉄棒による補強(鉄筋じゃないのか?)で耐震配慮がされていたらしいが、マグネチュード7.9、震度6の関東大震災には耐えきれず倒壊。ここに残っているのは地下室の一部。建築面積は約180平米とされるので、単純3倍すると延べ床面積は540平米となりべーリック・ホールにつぐ広さ。
そういえば現存する山手西洋館は、他所からの移築を除けば関東大震災の後に建てられたものだけれど、すべて木造でレンガ造りはない。大震災では木造もすべて壊れたのだから、レンガ造りだけが危険とされたのではないはず。どうしてなんだろう。レンガ造りの西洋館がいくつか残っていれば山手の風景は少し違ったかも知れない。
少し進むとプールが見える。
ここはずいぶんと昔に1回だけ行った記憶がある。
プールの裏手に弓道場。
公園を全部回ると時間がかかるので早々に引き上げ。
今回の公園散策ルート。
再び山手本通り。
フェリスの前を過ぎると、
見えてくるのがカトリック山手教会。
でもなぜか掲示ボックスの表記は山手カトリック教会と語順が違う。
公式ホームページでも確認したけれど、間違いなく名称はカトリック山手教会。
どうしてこうなっているのかナゾ
だいたい中の掲示物にもカトリック山手教会と書いてあるじゃないか!
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
この教会はこの角度から眺めるのが格好いい。
真横からだとちょっと間延び感。
カトリック山手教会のところで山手本通りから路地に入る。
しばらく進むとフェリスの大学の通用門。
先ほど建物を撮ったのはフェリスの中学と高校。大学は1988年(昭和63年)から横浜市郊外に移転し、もう山手キャンパスには音楽学部しか残っていない。山手じゃないフェリスなんてーーー。私の世代ではJJ・ハマトラ・フェリスがワンセットだったのに(^^ゞ
先を進んでやってきたのは山手公園。
ここは初めて来る。
窪地を下って、
写真右の下が広場になっている。
そちらには降りずに、
目指したのは山手68番館。
ここにある山手68番館とテニス発祥記念館は、
山手西洋館には含まれていないものの案内マップに載っていたので。
なおここでの山手西洋館に含まれるとは、
山手に残る第二次世界大戦までに建てられた西洋館のうち
(5月10日の横浜バラツアーその3参照)
横浜市が所有し
ほぼ当時の姿で一般公開している
建物を指す。山手80番館は遺構だけだし、前々回に紹介した「えの木てい」は民間所有のカフェだから「含まれない」。含まれるのは上のマップで番号が振られている7つの西洋館。「えの木てい」以外にも民間所有の西洋館はいくつかあるみたい。
この山手公園が日本でのテニス発祥の地なので、
周りにテニスコートがたくさんある。
芝生広場を抜けて、
山手80番館を含めて本日5軒目となる山手68番館。
1934年(昭和9年)の建物で、1986年(昭和61年)にこちらに移築。
現在はこの公園の管理センターとなっている。
旧と名前につけているのは別の用途に使っているからだと思う。
山手西洋館に「含まれる」ところは靴を脱がなければいけないが、
ここはそうじゃないので助かる。
でもよかったのはそれだけで、
内部はこんな感じ。
わずかに展示コーナー。
窓の外はテニスコート。
That's all (>_<)
滞在は2分くらいだったかな。
わざわざ寄り道してソンしたの気持ちで引き返す。
こちらは横浜山手テニス発祥記念館。
この建物は西洋館に似せて1998年(平成10年)に建てられたもの。中に古いテニスの道具などが展示されているそうだが、山手68番館であまりにガッカリしたので素通り。
まあでも山手68番館がなければ、
山手本通りからそれた道を歩くなんて一生なかったかも知れない。
あれこれ経験が増えるのはよいことと気を取り直す。
山手本通りに戻ってきた。
いよいよ次はイタリア山庭園。
ーーー続く
べーリック・ホールを出て、
元町公園も少しだけ見ておこうかと、
べーリック・ホール敷地と元町公園の間の路地に入る。
途中で公園内に降りられる出入り口があって、
そこから見えるこの崩れたレンガ積みは、
山手80番館遺跡。
かつて山手町80番地にあった西洋館が関東大震災で倒壊した残骸。ただし「遺跡」と呼ぶのはちょっと大げさすぎる気がする。「山手80番館跡」でいいんじゃない?
それがどうして公園の中に建っていたかというと、
当時は公園じゃなかったから。元町公園は
幕末1863年に来日したフランス人実業家のアルフレッド・ジェラールが、
1868年(明治元年)頃にこのあたりの土地を取得。
山手の傾斜地から湧き出る良質な水を外国船に売る給水事業を始める。
その水は「赤道を越えても腐らない」と評判がよかったらしい。
今でも飲めるのかな?
同時に日本ではジェラール瓦(かわら)と呼ばれたフランス式瓦や、
煉瓦工場などの製造もここで始める。
つまり元町公園は給水施設と工場だった場所。ジェラールは1878年(明治11年)に帰国し、それからの変遷は省略。そして1923年(大正12年)の関東大震災で設備が大きな被害を受けた後、横浜市が土地の永代借地権を買い取り1930年(昭和5年)に公園となった。
山手80番館はおそらくジェラールの所有地とは別だろうけれど、
そのときに一緒に買い取って公園に組み込んだのでは。
全体を眺めると関東大震災ではなくて、
もっと古い時代のものに思える。
近づけばそうでもないか。
このレンガの長辺と短辺が列によって交互に並ぶのはイギリス積みと呼ばれる施工。積み方は他にフランス積み、小口積み、長手積みなどがある。
山手80番館の建設は明治末期から大正にかけてとされるだけで正確な時期は不明。鉄棒による補強(鉄筋じゃないのか?)で耐震配慮がされていたらしいが、マグネチュード7.9、震度6の関東大震災には耐えきれず倒壊。ここに残っているのは地下室の一部。建築面積は約180平米とされるので、単純3倍すると延べ床面積は540平米となりべーリック・ホールにつぐ広さ。
そういえば現存する山手西洋館は、他所からの移築を除けば関東大震災の後に建てられたものだけれど、すべて木造でレンガ造りはない。大震災では木造もすべて壊れたのだから、レンガ造りだけが危険とされたのではないはず。どうしてなんだろう。レンガ造りの西洋館がいくつか残っていれば山手の風景は少し違ったかも知れない。
少し進むとプールが見える。
ここはずいぶんと昔に1回だけ行った記憶がある。
プールの裏手に弓道場。
公園を全部回ると時間がかかるので早々に引き上げ。
今回の公園散策ルート。
再び山手本通り。
フェリスの前を過ぎると、
見えてくるのがカトリック山手教会。
でもなぜか掲示ボックスの表記は山手カトリック教会と語順が違う。
公式ホームページでも確認したけれど、間違いなく名称はカトリック山手教会。
どうしてこうなっているのかナゾ
だいたい中の掲示物にもカトリック山手教会と書いてあるじゃないか!
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
この教会はこの角度から眺めるのが格好いい。
真横からだとちょっと間延び感。
カトリック山手教会のところで山手本通りから路地に入る。
しばらく進むとフェリスの大学の通用門。
先ほど建物を撮ったのはフェリスの中学と高校。大学は1988年(昭和63年)から横浜市郊外に移転し、もう山手キャンパスには音楽学部しか残っていない。山手じゃないフェリスなんてーーー。私の世代ではJJ・ハマトラ・フェリスがワンセットだったのに(^^ゞ
先を進んでやってきたのは山手公園。
ここは初めて来る。
窪地を下って、
写真右の下が広場になっている。
そちらには降りずに、
目指したのは山手68番館。
ここにある山手68番館とテニス発祥記念館は、
山手西洋館には含まれていないものの案内マップに載っていたので。
なおここでの山手西洋館に含まれるとは、
山手に残る第二次世界大戦までに建てられた西洋館のうち
(5月10日の横浜バラツアーその3参照)
横浜市が所有し
ほぼ当時の姿で一般公開している
建物を指す。山手80番館は遺構だけだし、前々回に紹介した「えの木てい」は民間所有のカフェだから「含まれない」。含まれるのは上のマップで番号が振られている7つの西洋館。「えの木てい」以外にも民間所有の西洋館はいくつかあるみたい。
この山手公園が日本でのテニス発祥の地なので、
周りにテニスコートがたくさんある。
芝生広場を抜けて、
山手80番館を含めて本日5軒目となる山手68番館。
1934年(昭和9年)の建物で、1986年(昭和61年)にこちらに移築。
現在はこの公園の管理センターとなっている。
旧と名前につけているのは別の用途に使っているからだと思う。
山手西洋館に「含まれる」ところは靴を脱がなければいけないが、
ここはそうじゃないので助かる。
でもよかったのはそれだけで、
内部はこんな感じ。
わずかに展示コーナー。
窓の外はテニスコート。
That's all (>_<)
滞在は2分くらいだったかな。
わざわざ寄り道してソンしたの気持ちで引き返す。
こちらは横浜山手テニス発祥記念館。
この建物は西洋館に似せて1998年(平成10年)に建てられたもの。中に古いテニスの道具などが展示されているそうだが、山手68番館であまりにガッカリしたので素通り。
まあでも山手68番館がなければ、
山手本通りからそれた道を歩くなんて一生なかったかも知れない。
あれこれ経験が増えるのはよいことと気を取り直す。
山手本通りに戻ってきた。
いよいよ次はイタリア山庭園。
ーーー続く
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