2024年07月13日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
先日に書いた「ああ勘違い」4部作。最も長く勘違いしていたケースで、その期間は半世紀にも及ぶからやるせない(>_<) とりあえず現在までに4つ判明しているとはいえ、他にもあるんだろうなといろいろ思いを巡らせていたら、勘違いとは別に、高校生の時に疑問が浮かんで、そのままになっている事柄をふと思い出した。それがまずは豊臣秀吉の「の」。
日本史の教科書を読むと
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。
織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、
日吉丸(幼名)
木下藤吉郎
木下藤吉郎秀吉
羽柴秀吉
豊臣秀吉
このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。
単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。
さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は
豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
菅原道真や在原業平などもこの部類。
※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する
臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。
トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。
それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。
そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。
そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。
その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。
また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。
まっ、
知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
日本史の教科書を読むと
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。
織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、
日吉丸(幼名)
木下藤吉郎
木下藤吉郎秀吉
羽柴秀吉
豊臣秀吉
このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。
単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。
さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は
豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
菅原道真や在原業平などもこの部類。
※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する
臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。
トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。
それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。
そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。
そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。
その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。
また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。
まっ、
知らんけど(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 10:07│Comments(0)│
│ノンジャンル