2024年07月14日

豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2

ミョウジ(苗字または名字)が名前の主流となってもウジ(氏)が無くなったわけではない。朝廷内や公的な業務では引き続きウジ(氏)が用いられる。そしてウジ(氏)の名前があるのは上級国民の証し。それがなければ朝廷内では名無しの権兵衛に等しく相手にされない。そこで戦国時代の下克上で成り上がった、すなわち出身が上級国民でない武将たちは家系図を捏造するなどして何とかウジ(氏)を手に入れている。(一度与えられたウジ(氏)は世襲され、つまり天皇の再承認なしに引き継がれるから、先祖をでっち上げるわけ)


信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。

  源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)


家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。

三英傑

その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。

そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。

しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。


前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。

もうひとつの推察は

  豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
  ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。

  秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
  1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
  秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。

  何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。

そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】

もちろん
これも知らんけど(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 10:56│Comments(0) ノンジャンル 

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