2024年07月15日
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
豊臣秀吉がなぜ「豊臣の秀吉」と「の」を付けて呼ばれないかの推察を2回にわたって書いてきた。逆にどうして「の」を付けて呼ばれるのか不思議な人物が、秀吉と関係が深かった千利休。
彼の略歴と名前を並べると
1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。
子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)
ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは
茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
茶道:それが礼儀作法として形式化したもの
が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ
19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。
また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。
肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。
30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。
1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。
1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。
徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。
1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。
なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ
1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。
改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。
それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。
また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。
利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。
そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。
例えば源頼朝のフルネームは
源 の 朝臣 頼朝
で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。
そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。
前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?
まったくワケワカメ(>_<)
こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。
ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。
だったらーーー
秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ
いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。
彼の略歴と名前を並べると
1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。
子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)
ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは
茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
茶道:それが礼儀作法として形式化したもの
が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ
19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。
また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。
肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。
30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。
1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。
1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。
1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。
徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。
1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。
なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ
1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。
改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。
それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。
また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。
利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。
そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。
例えば源頼朝のフルネームは
源 の 朝臣 頼朝
で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。
そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。
前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?
まったくワケワカメ(>_<)
こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。
ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。
だったらーーー
秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ
いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。
wassho at 13:25│Comments(0)│
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