2024年07月22日
名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問
豊臣秀吉の呼び名はなぜ「の」が付かず、逆に千利休には「の」が付くのかについて先日3回にわたってブログを書いた。その時にいろいろと調べたわけであるが、すると「の」に関してもっと根源的な疑問がフツフツと。
豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
最初のブログから引用すると、
======
菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======
そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ
さてである。
「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。
とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。
そして冒頭に書いた根源的な疑問とは
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> それってエビデンスあるの? <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。
さらにいえば
【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
そう読んでいたのではなく、
名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、
それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
設けた
ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。
少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。
ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。
ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。
ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。
それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。
そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。
さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。
教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。
そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。
これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用
ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ。
古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)
また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します
同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。
これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。
いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。
それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。
とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。
さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。
実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の
茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる
を万葉仮名で書くと
茜草指 武良前野逝 標野行
野守者不見哉 君之袖布流
恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。
万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。
万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。
残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。
ーーー続く
豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから
豊臣秀吉と千利休の「の」問題
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3
最初のブログから引用すると、
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菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝
などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、
足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康
などのように「の」が入らなくなっている。
これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
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そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ
さてである。
「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。
とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。
そして冒頭に書いた根源的な疑問とは
_人人人人人人人人人人人人人人人_
> それってエビデンスあるの? <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。
さらにいえば
【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
そう読んでいたのではなく、
名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、
それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
設けた
ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。
少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。
ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。
ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。
ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。
それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。
そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。
さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。
教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。
そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。
これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用
ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ。
古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)
また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します
同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。
これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。
いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。
それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。
とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。
さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。
実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の
茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
野守は見ずや 君が袖ふる
を万葉仮名で書くと
茜草指 武良前野逝 標野行
野守者不見哉 君之袖布流
恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。
万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。
万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。
残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。
ーーー続く
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