2024年07月25日

名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問 その2

古事記と日本書紀の次に調べたのは、
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!

これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー


まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。

ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。

それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
5枕草子

しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。

仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)


次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。

その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。

のつもりだったのにーーー、

源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
6源氏物語1

藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)

そんなわけで藤典侍も見つけられず。

ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)

  御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
  ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
  わが心ながら執念きぞかし。

その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
7源氏物語2

実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m

それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!



さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。

平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
8平家物語1

赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。


しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
9平家物語2


ここまでを作成年順に並べると

  1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない

  1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない

  慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
               すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。

  慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。


これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。

いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。

10「の」

古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。

もう一度、最初の疑問に立ち返ると

  天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
  それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。

と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。

そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。


古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら

ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、

   その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
   付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。

   平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
   人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
   人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
   あるなしを使い分けていたと判明する。


まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。

ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。

歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。



おしまい

wassho at 21:28│Comments(0) ノンジャンル 

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