2024年07月30日

トウケイとトキオ

昔の人の名前は「藤原の道長」「源の頼朝」と「の」を挟んで読んでいたのに、時代が下るにつれて「の」がなくなって「足利尊氏」「徳川家康」となる。その名前が天皇から与えられた【ウジ(氏)なら「の」が付く】と日本史で習うけれど、それについての疑問を豊臣秀吉と千利休をテーマにして3回、それ以外に2回と少し前にあれこれ書いた。

その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。



まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。

1東京行幸

1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。

内容は

   天皇が江戸で政務を執る
  (だから)江戸を東京に改称する

のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。

いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。

そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
1-1皇居

そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。

それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。

従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。


平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ

ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。


さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。



ーーー続く

wassho at 22:27│Comments(0) ノンジャンル 

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