2024年08月23日
手話通訳が目障りだったオリンピック閉会式 その3
私が観たEテレの閉会式は手話の付いた放送というより、聴覚障害者専用ともいえる手話通訳者がメインの放送だったので、それが格段に目障りだったのは仕方ない面もあったとして、それを見ながらまず思ったのは「今は字幕機能もあるのにどうして手話が必要?」だった。
実際、手話メインのEテレ放送でも字幕は表示できた。以下、個別の注釈を付けている以外の画像はテレビ画面の撮影
字幕があるなら手話は不要ではと思ったものの、東京オリパラで全日本ろうあ連盟の抗議に関連した記事を見ると、字幕ではだめな理由として2つの理由が挙げられていた。
1)生放送で字幕は少し遅れて表示される。
2)手話と日本語は同じではなく、聴覚障害者にとって第1言語が手話、日本語は
社会参加するための第2言語で苦手な人もいる。例として学校で英語を習うが
ほとんどの人は日常的に使えないでしょとの説明が添えられていた。
1)についての気持ちはわかる。実は私も多くの番組を字幕付きで見ていて、生放送のニュースなどは映像や音声と字幕が一致しないので字幕を消している。ただし後で記す「合理的な判断」として、これが聴覚障害者がその不便を許容すべき範囲かどうかは別問題。
2)についてはウソっぽい。だったら聴覚障害者は日常生活で文章を読まないのか、テレビの字幕機能は利用していないのかとの話になるから。ウソと書くと表現がきついかも知れないが、手話を放送させるための強引なロジック、ごく少数を全体に見せかける手法に思える。
そしてもし仮に聴覚障害者の日本語語学力が私にとっての英語のような存在だとしても、日本で暮らす限りは最大限の努力をして日本語を習得すべきである。誰だって何らかの事情で外国に住むようになったらそうせざるを得ないのだから。
こういうのはやっかいな問題である。
聴覚障害者を差別する意図はなくても、それに対応するかどうかは、それによる総合的な費用対効果や得られるメリット vs 失うデメリットの問題。そこは合理的に判断すべきだが「聴覚障害者に対する差別だ!」なんて、一見すると正義にも思える主張があると合理的判断が難しくなる。
いわゆるポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)問題と同じようなもの。ポリコレを直訳すれば「政治的正しさ」だけれど、Wikipediaによれば
社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された
政策(または対策)などを表す言葉の総称
人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や
用語を使用する
となっている。
ポリコレも行き過ぎると社会のバランスがおかしくなる。それでもポリコレの主張が通ってしまう傾向があるのは、そこに一方的とはいえ正義が含まれるのがその理由。なぜか世の中は正義あるいは正義っぽいものには弱いのである。戦争だって大義名分の元に実施される。クレーマーもそのクレームにわずかながらも正義が含まれているから対応が難しい。
「手話がないのは差別だ」「オリンピックは多様性と調和を掲げている」「誰一人取り残さないSDGsの理念はどこにいった」などといわれて「皆様のNHK」はさぞ苦労したに違いない。
ところでどれくらいの人が手話を使っているのかを調べると、正確な統計はないようである。全日本ろうあ連盟・浅利理事の2012年のシンポジウムにおける発言によると約6万人。また2017年に掲載された遠隔手話通訳サービスなどを手がけている大木洵人氏のインタビュー記事によれば8万人。中間をとって7万人として1億2400万人で割ると0.0564%、丸めて0.06%になる。表現を変えれば1667人に1人が聴覚障害者。
ついでに計算すると全日本ろうあ連盟の会員数は15,803名だから、手話人口の約23%が加入している組織になる。
一方で目の見えない視覚障害者は約31万人といわれ、そのうち全盲は2割とされるので手話を使っている人とほぼ同数。白杖(はくじょう:いわゆる白い杖)や盲導犬は全盲以外でも使うが、その人数はわからなかった。でも全盲で6万2000人計算なので、手話を使う人よりは多そうである。
話を手話に戻すと、手話を必要とする0.06%と必要としない99.94%、すなわち1人対1666人を前提にどう判断するのが合理的かという問題。数字だけを書くと0.06%なんて取るに足らない数字だけれど、もう少し広く見る必要はある。
例えば目の不自由な視覚障害者の総数31万人は日本人口の0.25%。これも取るに足らない数字に変わりはない。それでも広い道路や駅には0.25%の人々のために点字ブロックが設置されている。それは点字ブロックがなければ31万人の生活が著しく困難になるし、交通安全的に命にも関わる設備だから。これこそ正義。点字ブロックが邪魔と思っても文句を言う人はほとんどいないはず。
同じように考えれば台風や地震情報などの緊急番組で、0.06%の人のために手話を付けるのも必要。でもオリンピック放送は娯楽番組。ここは 0.06% vs 99.94%の差を冷静に判断すべき。
とはいえ結果的に
NHKの「総合テレビでは手話なし」「Eテレでは手話付き」で放送し、しかもその手話付きとは聴覚障害者のために手話も付けたというより、手話通訳者を最大限に大きく写し聴覚障害者向け専用の番組に仕立てたのは、そのためにどれだけの手間や費用がかかったのかを別とすれば、なかなか見事な落としどころといえる。
だからこそ、それにもかかわらず「総合テレビで手話を付けろ」との全日本ろうあ連盟の要求は単なるクレーマーとしか思えない。連盟執行部としてここで抗議をしておかないと自分たちの立場がなくなるといった大人の事情が透けて見える。
もっとも手話が付かなかった東京オリンピック開会式の後、全日本ろうあ連盟はその開会式に手話を付けた台湾と韓国の放送を引き合いに出して「日本で手話がないのは大きな問題であり差別だ」とNHKに抗議しているのであるが、
彼らがその際に使用した画像を見ると、手話通訳者はごく常識的な画面サイズに収まっている。画像はhttps://www.jfd.or.jp/2021/07/26/pid22283から引用
そしてNHKが「総合テレビでは手話なし」「Eテレでは手話付き」の方針を決め、それに対して全日本ろうあ連盟は「総合テレビでも手話を付けろ」と再度申し入れる。おそらくその時点でEテレでの手話付きが、単なる手話付きではなく聴覚障害者向け専用番組のようになるとは予想していなかったと思われる。
その編集方針に満足したのかどうか、今回も東京オリパラと同じく「総合テレビでは手話なし」「Eテレでは手話付き」と編成は変わりないのに、彼らはパリオリンピックについて「総合テレビで手話を付けろ」との要望を出していない。
まあ一周回って丸く収まってよかったね。
もっとも私は総合テレビを台風情報に切り替えるなら、0.06% vs 99.94% を踏まえてEテレで手話なし、手話付きは後日に録画放送あるいは放送中止にするのが妥当だったと思っている。何が悲しくてトム・クルーズやアンジェルと同じ大きさの手話通訳者を見なきゃいかんのだ。手話付きをEテレのサブチャンネルで流すのも考えられるが、サブチャンネルは画質が悪いし、それよりサブチャンネルに周波数帯域を割く分メインチャンネルの画質も低下して99.94%に影響する。でもそんな意見は胸にしまっておこう(^^ゞ
いろいろと書いたものの、それほど遠くない時期にこれらの問題はテクノロジーによって解決されるとも考えている。
生放送で字幕が遅れるのは出演者がある程度話してから文字を入力するのが原因。これをAIによる音声認識を使って出演者が話すのとほぼ同時に文字変換できるようになるだろう。(現在も一部では実施されている)
先ほど書いた手話を使う聴覚障害者も日本語は習得すべきとの話、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
そして字幕だけでなくその変換した文字情報をインプットとして、AIで瞬時にアニメーション化して手話通訳を映し出せばいい。もちろん視聴者がそのAI手話通訳を写すか写さないかを選択できる機能は必須。まさか全日本ろうあ連盟はこのAI手話通訳表示選択に反対したりはしないよね?
さらに聴覚障害者がAI手話通訳のサイズを必要に応じて拡大縮小できればより便利だし、アニメーションを切り替えて好みの手話通訳者を選べれば楽しいのでは。あるいは映像合成技術を使って出演者自身が手話通訳をしたらリアリティが増すかも。
これが実現できればすべての放送に手話を付けることも可能になる。ドラマなど出演者の多い番組はAI手話通訳者がズラーッと並んでしまうけど、それも何か解決策があるでしょう。
もうひとつイヤミを付け加えれば、全日本ろうあ連盟は弱者救済を訴えるだけでなく、こういった技術開発の促進に広い意味での投資をしたらいいのでは?
ついでにAIを使って是非とも解決して欲しい問題がある。それは同時通訳。今回の閉会式でも大会組織委員会のエスタンゲ会長とIOCのバッハ会長のスピーチには同時通訳が入った。
同時通訳はテレビだけでなく仕事でもたまに接するが、それを聞いていつも思うのは、彼・彼女らは語学のスペシャリストではあっても喋るプロではないということ。たまに話し方がものすごく暗かったり冷たい人もいる(/o\) 同じ日本語訳でもその話し方によって内容の印象が変わってしまうから困りもの。
AIによって話し言葉を瞬時に翻訳して、それをAIによるアナウンサーレベルの合成音声で出力するのも、昨今のAIの急激な進化を考えれば、そろそろ実用化できるはず。
4年後のロサンゼルスオリンピックには期待しています、関係者の皆さん!
おしまい
実際、手話メインのEテレ放送でも字幕は表示できた。以下、個別の注釈を付けている以外の画像はテレビ画面の撮影
字幕があるなら手話は不要ではと思ったものの、東京オリパラで全日本ろうあ連盟の抗議に関連した記事を見ると、字幕ではだめな理由として2つの理由が挙げられていた。
1)生放送で字幕は少し遅れて表示される。
2)手話と日本語は同じではなく、聴覚障害者にとって第1言語が手話、日本語は
社会参加するための第2言語で苦手な人もいる。例として学校で英語を習うが
ほとんどの人は日常的に使えないでしょとの説明が添えられていた。
1)についての気持ちはわかる。実は私も多くの番組を字幕付きで見ていて、生放送のニュースなどは映像や音声と字幕が一致しないので字幕を消している。ただし後で記す「合理的な判断」として、これが聴覚障害者がその不便を許容すべき範囲かどうかは別問題。
2)についてはウソっぽい。だったら聴覚障害者は日常生活で文章を読まないのか、テレビの字幕機能は利用していないのかとの話になるから。ウソと書くと表現がきついかも知れないが、手話を放送させるための強引なロジック、ごく少数を全体に見せかける手法に思える。
そしてもし仮に聴覚障害者の日本語語学力が私にとっての英語のような存在だとしても、日本で暮らす限りは最大限の努力をして日本語を習得すべきである。誰だって何らかの事情で外国に住むようになったらそうせざるを得ないのだから。
こういうのはやっかいな問題である。
聴覚障害者を差別する意図はなくても、それに対応するかどうかは、それによる総合的な費用対効果や得られるメリット vs 失うデメリットの問題。そこは合理的に判断すべきだが「聴覚障害者に対する差別だ!」なんて、一見すると正義にも思える主張があると合理的判断が難しくなる。
いわゆるポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)問題と同じようなもの。ポリコレを直訳すれば「政治的正しさ」だけれど、Wikipediaによれば
社会の特定のグループのメンバーに不快感や不利益を与えないように意図された
政策(または対策)などを表す言葉の総称
人種、信条、性別、体型などの違いによる偏見や差別を含まない中立的な表現や
用語を使用する
となっている。
ポリコレも行き過ぎると社会のバランスがおかしくなる。それでもポリコレの主張が通ってしまう傾向があるのは、そこに一方的とはいえ正義が含まれるのがその理由。なぜか世の中は正義あるいは正義っぽいものには弱いのである。戦争だって大義名分の元に実施される。クレーマーもそのクレームにわずかながらも正義が含まれているから対応が難しい。
「手話がないのは差別だ」「オリンピックは多様性と調和を掲げている」「誰一人取り残さないSDGsの理念はどこにいった」などといわれて「皆様のNHK」はさぞ苦労したに違いない。
ところでどれくらいの人が手話を使っているのかを調べると、正確な統計はないようである。全日本ろうあ連盟・浅利理事の2012年のシンポジウムにおける発言によると約6万人。また2017年に掲載された遠隔手話通訳サービスなどを手がけている大木洵人氏のインタビュー記事によれば8万人。中間をとって7万人として1億2400万人で割ると0.0564%、丸めて0.06%になる。表現を変えれば1667人に1人が聴覚障害者。
ついでに計算すると全日本ろうあ連盟の会員数は15,803名だから、手話人口の約23%が加入している組織になる。
一方で目の見えない視覚障害者は約31万人といわれ、そのうち全盲は2割とされるので手話を使っている人とほぼ同数。白杖(はくじょう:いわゆる白い杖)や盲導犬は全盲以外でも使うが、その人数はわからなかった。でも全盲で6万2000人計算なので、手話を使う人よりは多そうである。
話を手話に戻すと、手話を必要とする0.06%と必要としない99.94%、すなわち1人対1666人を前提にどう判断するのが合理的かという問題。数字だけを書くと0.06%なんて取るに足らない数字だけれど、もう少し広く見る必要はある。
例えば目の不自由な視覚障害者の総数31万人は日本人口の0.25%。これも取るに足らない数字に変わりはない。それでも広い道路や駅には0.25%の人々のために点字ブロックが設置されている。それは点字ブロックがなければ31万人の生活が著しく困難になるし、交通安全的に命にも関わる設備だから。これこそ正義。点字ブロックが邪魔と思っても文句を言う人はほとんどいないはず。
同じように考えれば台風や地震情報などの緊急番組で、0.06%の人のために手話を付けるのも必要。でもオリンピック放送は娯楽番組。ここは 0.06% vs 99.94%の差を冷静に判断すべき。
とはいえ結果的に
NHKの「総合テレビでは手話なし」「Eテレでは手話付き」で放送し、しかもその手話付きとは聴覚障害者のために手話も付けたというより、手話通訳者を最大限に大きく写し聴覚障害者向け専用の番組に仕立てたのは、そのためにどれだけの手間や費用がかかったのかを別とすれば、なかなか見事な落としどころといえる。
だからこそ、それにもかかわらず「総合テレビで手話を付けろ」との全日本ろうあ連盟の要求は単なるクレーマーとしか思えない。連盟執行部としてここで抗議をしておかないと自分たちの立場がなくなるといった大人の事情が透けて見える。
もっとも手話が付かなかった東京オリンピック開会式の後、全日本ろうあ連盟はその開会式に手話を付けた台湾と韓国の放送を引き合いに出して「日本で手話がないのは大きな問題であり差別だ」とNHKに抗議しているのであるが、
彼らがその際に使用した画像を見ると、手話通訳者はごく常識的な画面サイズに収まっている。画像はhttps://www.jfd.or.jp/2021/07/26/pid22283から引用
そしてNHKが「総合テレビでは手話なし」「Eテレでは手話付き」の方針を決め、それに対して全日本ろうあ連盟は「総合テレビでも手話を付けろ」と再度申し入れる。おそらくその時点でEテレでの手話付きが、単なる手話付きではなく聴覚障害者向け専用番組のようになるとは予想していなかったと思われる。
その編集方針に満足したのかどうか、今回も東京オリパラと同じく「総合テレビでは手話なし」「Eテレでは手話付き」と編成は変わりないのに、彼らはパリオリンピックについて「総合テレビで手話を付けろ」との要望を出していない。
まあ一周回って丸く収まってよかったね。
もっとも私は総合テレビを台風情報に切り替えるなら、0.06% vs 99.94% を踏まえてEテレで手話なし、手話付きは後日に録画放送あるいは放送中止にするのが妥当だったと思っている。何が悲しくてトム・クルーズやアンジェルと同じ大きさの手話通訳者を見なきゃいかんのだ。手話付きをEテレのサブチャンネルで流すのも考えられるが、サブチャンネルは画質が悪いし、それよりサブチャンネルに周波数帯域を割く分メインチャンネルの画質も低下して99.94%に影響する。でもそんな意見は胸にしまっておこう(^^ゞ
いろいろと書いたものの、それほど遠くない時期にこれらの問題はテクノロジーによって解決されるとも考えている。
生放送で字幕が遅れるのは出演者がある程度話してから文字を入力するのが原因。これをAIによる音声認識を使って出演者が話すのとほぼ同時に文字変換できるようになるだろう。(現在も一部では実施されている)
先ほど書いた手話を使う聴覚障害者も日本語は習得すべきとの話、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
そして字幕だけでなくその変換した文字情報をインプットとして、AIで瞬時にアニメーション化して手話通訳を映し出せばいい。もちろん視聴者がそのAI手話通訳を写すか写さないかを選択できる機能は必須。まさか全日本ろうあ連盟はこのAI手話通訳表示選択に反対したりはしないよね?
さらに聴覚障害者がAI手話通訳のサイズを必要に応じて拡大縮小できればより便利だし、アニメーションを切り替えて好みの手話通訳者を選べれば楽しいのでは。あるいは映像合成技術を使って出演者自身が手話通訳をしたらリアリティが増すかも。
これが実現できればすべての放送に手話を付けることも可能になる。ドラマなど出演者の多い番組はAI手話通訳者がズラーッと並んでしまうけど、それも何か解決策があるでしょう。
もうひとつイヤミを付け加えれば、全日本ろうあ連盟は弱者救済を訴えるだけでなく、こういった技術開発の促進に広い意味での投資をしたらいいのでは?
ついでにAIを使って是非とも解決して欲しい問題がある。それは同時通訳。今回の閉会式でも大会組織委員会のエスタンゲ会長とIOCのバッハ会長のスピーチには同時通訳が入った。
同時通訳はテレビだけでなく仕事でもたまに接するが、それを聞いていつも思うのは、彼・彼女らは語学のスペシャリストではあっても喋るプロではないということ。たまに話し方がものすごく暗かったり冷たい人もいる(/o\) 同じ日本語訳でもその話し方によって内容の印象が変わってしまうから困りもの。
AIによって話し言葉を瞬時に翻訳して、それをAIによるアナウンサーレベルの合成音声で出力するのも、昨今のAIの急激な進化を考えれば、そろそろ実用化できるはず。
4年後のロサンゼルスオリンピックには期待しています、関係者の皆さん!
おしまい
wassho at 22:33│Comments(0)│