2025年03月08日
浜離宮で菜の花
久しぶりに新橋方面へ出かけたついでに、
浜離宮で菜の花やウメでも見ようと寄り道。
訪れたのは2月27日。
新橋駅から浜離宮までは歩いて15分弱の距離。
ついでに名前はよく知られていても、
場所はそれほどでもない地名をいくつか書き込んでおく。
浜離宮は元々、
海岸に沿って葦(アシまたはヨシ、海水でも育つ)が群生し、
徳川家が鷹狩りをしていたプライベートビーチ。
徳川家の血筋である甲府藩主・徳川綱重(家光の三男、4代将軍家綱の弟で、
5代綱吉の兄、6代家宣の父)が江戸時代初期の1654年に譲り受け、
海を埋め立てて屋敷と庭園を造る。
甲府藩主・徳川綱重が亡くなり、5代将軍綱吉の頃に徳川将軍家の別邸となり
御浜御殿と呼ばれる。以降は長らく将軍の息抜きの場だったが、
1853年のペリー来航以降は幕府の海軍所(基地)となり、
御浜御殿の名称も取りやめ。また敷地内に砲台も設けられる。
明治政府は1869年(明治2年)延遼館(えんりょうかん)という迎賓施設を建設。
明治16年に鹿鳴館が完成するまで国賓の接待に使われた。
明治3年に庭園部分が宮内省管轄となり浜離宮に改称。
明治17年(1882年)に敷地すべてが皇室所有になる。
昭和20年(1945年)の終戦後に東京都に下賜され、翌年に公園として公開。
ーーーと鷹狩りのレクレーションから始まり、将軍家別邸、軍事施設、迎賓施設、皇室別邸といろいろ時代をくぐり抜けてきた場所。鹿鳴館と較べて延遼館の知名度はさっぱりだけれど、ここが明治外交の華やかな舞台だったわけで、東京にはいくつもある元大名屋敷跡の公園や庭園とは歴史の重みがひと味違う。
現在は浜離宮の前に勝どきの埋め立て地があるものの、江戸時代は東京湾を一望できたオーシャンビューの立地。江戸城から歩いても45分くらいだし、こんなところに別邸があるなんてうらやましすぎるゾ。
ちなみに対岸の勝どき〜月島〜佃島の埋め立て地ができたのは、1892年(明治25年)から1913年(大正2年)にかけて。浜離宮と隣の築地は江戸初期に埋め立てられているとはいえ、陸地からの延長だし海といっても干潟みたいなもの。でも海の沖合での造成地工事なんて、てっきり昭和になってからと思っていたのに明治・大正だったとは意外。
なお晴海と豊洲東側は1931年(昭和6年)の完成。豊洲がさらに晴海の対岸にまで伸びてきたのは1960年代の終わり。また1974年(昭和49年)にセブンイレブンの1号店が豊洲にオープンしている。関係ないけど吉野家の1号店は1947年(昭和22年)に築地で開業
浜離宮の大手門橋。
これを渡ると大手門の出入り口。
でも大手門とは城の正門を意味する言葉。ここは将軍家の別邸で城ではなかったのに、どうして大手門なのか前から気になっている。少し調べたものの手がかりは得られず。
大手門の下を流れているのは築地川。
以前は隅田川より分流していた運河だったが、ほとんどが埋め立てられ、現在はここから正面に見えている浜離宮の海側堤防までの750mしかない。埋め立てといっても川に蓋をして暗渠(あんきょ)にしたのではなく、文字通りの埋め立て=川の消滅。だから築地川は上流から水が流れて海に注ぐのではなく、元は川だった部分に海からの水が入っているだけ。つまり海の水を引いた堀みたいなもの。
浜離宮は一方が東京湾に面しており、残り三方を築地川と汐留川で囲まれている。汐留川も築地川同様にここに残っている以外はすべて埋め立てられ、実質的には海水による堀。上流から水が流れておらず川の要件を満たしていないのに、川の名前が残っている事例は珍しいのでは?
大手門の出入り口に到着。
もう菜の花が見えている。
正式名称は浜離宮恩賜庭園。
恩賜(おんし)は身分の高い者から低い者へ与えられたもの。現代の日本では天皇からを指す。似たような言葉に下賜(かし)がある。恩賜が低い身分側の目線で賜(たまわ)る、賜ったものであるのに対し、下賜は高い身分が「与える」「贈る」の行為を示す。なお下賜の対義語が献上。
大手門で後ろを振り返ると汐留の高層ビル群。
左:高級ホテルのコンラッドが入っている東京汐留ビルディング。
以前はオフィスフロアをソフトバンクの本社が占めていたが現在は竹芝へ移転。
中央:資生堂の汐留タワー。38階建てで24階から上はロイヤルパークホテル。
その後ろに少しだけ見えているのが日本テレビ。
右:電通ビル。でも2021年にビルを売却。現在も入居を続けているが、テレワーク
等でオフィススペースが不要になり使っているフロアは半分程度らしい。
話が横道にそれすぎて、なかなか門の中に入れない。
まあいつものことだけれど(^^ゞ
ーーー続く
浜離宮で菜の花やウメでも見ようと寄り道。
訪れたのは2月27日。
新橋駅から浜離宮までは歩いて15分弱の距離。
ついでに名前はよく知られていても、
場所はそれほどでもない地名をいくつか書き込んでおく。
浜離宮は元々、
海岸に沿って葦(アシまたはヨシ、海水でも育つ)が群生し、
徳川家が鷹狩りをしていたプライベートビーチ。
徳川家の血筋である甲府藩主・徳川綱重(家光の三男、4代将軍家綱の弟で、
5代綱吉の兄、6代家宣の父)が江戸時代初期の1654年に譲り受け、
海を埋め立てて屋敷と庭園を造る。
甲府藩主・徳川綱重が亡くなり、5代将軍綱吉の頃に徳川将軍家の別邸となり
御浜御殿と呼ばれる。以降は長らく将軍の息抜きの場だったが、
1853年のペリー来航以降は幕府の海軍所(基地)となり、
御浜御殿の名称も取りやめ。また敷地内に砲台も設けられる。
明治政府は1869年(明治2年)延遼館(えんりょうかん)という迎賓施設を建設。
明治16年に鹿鳴館が完成するまで国賓の接待に使われた。
明治3年に庭園部分が宮内省管轄となり浜離宮に改称。
明治17年(1882年)に敷地すべてが皇室所有になる。
昭和20年(1945年)の終戦後に東京都に下賜され、翌年に公園として公開。
ーーーと鷹狩りのレクレーションから始まり、将軍家別邸、軍事施設、迎賓施設、皇室別邸といろいろ時代をくぐり抜けてきた場所。鹿鳴館と較べて延遼館の知名度はさっぱりだけれど、ここが明治外交の華やかな舞台だったわけで、東京にはいくつもある元大名屋敷跡の公園や庭園とは歴史の重みがひと味違う。
現在は浜離宮の前に勝どきの埋め立て地があるものの、江戸時代は東京湾を一望できたオーシャンビューの立地。江戸城から歩いても45分くらいだし、こんなところに別邸があるなんてうらやましすぎるゾ。
ちなみに対岸の勝どき〜月島〜佃島の埋め立て地ができたのは、1892年(明治25年)から1913年(大正2年)にかけて。浜離宮と隣の築地は江戸初期に埋め立てられているとはいえ、陸地からの延長だし海といっても干潟みたいなもの。でも海の沖合での造成地工事なんて、てっきり昭和になってからと思っていたのに明治・大正だったとは意外。
なお晴海と豊洲東側は1931年(昭和6年)の完成。豊洲がさらに晴海の対岸にまで伸びてきたのは1960年代の終わり。また1974年(昭和49年)にセブンイレブンの1号店が豊洲にオープンしている。関係ないけど吉野家の1号店は1947年(昭和22年)に築地で開業
浜離宮の大手門橋。
これを渡ると大手門の出入り口。
でも大手門とは城の正門を意味する言葉。ここは将軍家の別邸で城ではなかったのに、どうして大手門なのか前から気になっている。少し調べたものの手がかりは得られず。
大手門の下を流れているのは築地川。
以前は隅田川より分流していた運河だったが、ほとんどが埋め立てられ、現在はここから正面に見えている浜離宮の海側堤防までの750mしかない。埋め立てといっても川に蓋をして暗渠(あんきょ)にしたのではなく、文字通りの埋め立て=川の消滅。だから築地川は上流から水が流れて海に注ぐのではなく、元は川だった部分に海からの水が入っているだけ。つまり海の水を引いた堀みたいなもの。
浜離宮は一方が東京湾に面しており、残り三方を築地川と汐留川で囲まれている。汐留川も築地川同様にここに残っている以外はすべて埋め立てられ、実質的には海水による堀。上流から水が流れておらず川の要件を満たしていないのに、川の名前が残っている事例は珍しいのでは?
大手門の出入り口に到着。
もう菜の花が見えている。
正式名称は浜離宮恩賜庭園。
恩賜(おんし)は身分の高い者から低い者へ与えられたもの。現代の日本では天皇からを指す。似たような言葉に下賜(かし)がある。恩賜が低い身分側の目線で賜(たまわ)る、賜ったものであるのに対し、下賜は高い身分が「与える」「贈る」の行為を示す。なお下賜の対義語が献上。
大手門で後ろを振り返ると汐留の高層ビル群。
左:高級ホテルのコンラッドが入っている東京汐留ビルディング。
以前はオフィスフロアをソフトバンクの本社が占めていたが現在は竹芝へ移転。
中央:資生堂の汐留タワー。38階建てで24階から上はロイヤルパークホテル。
その後ろに少しだけ見えているのが日本テレビ。
右:電通ビル。でも2021年にビルを売却。現在も入居を続けているが、テレワーク
等でオフィススペースが不要になり使っているフロアは半分程度らしい。
話が横道にそれすぎて、なかなか門の中に入れない。
まあいつものことだけれど(^^ゞ
ーーー続く
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