2025年04月21日
隅田川を散歩 その2
しだれ桜を見た尾久の原公園から、
隅田川の右岸河川敷を下流に向けて歩き出し、尾竹橋で右岸が通行止めになったので左岸に移動。今度は都営千住桜木一丁目アパートあたり(前回のブログでモモが咲いていたところ)でまた通行止めとなり、街中を少し歩いて京成本線が隅田川を渡った少し先でまた左岸河川敷に降りることができた。
ここから川べりお散歩を再開。
なぜか私が歩いている側ではなく、常に対岸にサクラが咲いている(/o\)
でもマンションの影になって日当たりが悪そうだからいいやと強がり。
こんなものがあった。
説明には
堤防建設を昭和32年(1957年)に着工し完成が昭和50年度(1975年)。
その後さらにスーパー堤防の整備を進め、
この地区では平成29年(2017年)に完成。
これまで幾多の台風、豪雨から地域を守ってきた旧堤防を、
後世に伝えるため一部を保存する
と書かれていた。
堤防は意外と厚みがないと知る。
ここまで河川敷は右岸か左岸のどちらかしか歩けなかったが、旧堤防の記念碑?の少し先から対岸も歩けるようになってる。停まっている左側は漁船ぽいけれど、どちらも釣り船。
ようやく左岸にもサクラが現れた!
奥にある水色が千住大橋。
手前の白いのは千住水管橋で工業用水が流れている。
その脇にあった河番付と橋番付。
横綱が正式に番付最高位を示す地位と認められたのは1909年(明治42年)と近代になってから。この河番付と橋番付のオリジナルは江戸時代なのでトップは大関。そして河番付で東の大関は加茂川(京都の鴨川)で、西は静岡の大井川。
あれっ、どうして鴨川が東で大井川が西なのだ?
かつて相撲は出身地による東西対抗戦だった(境界線はどこだったのだろう?)。現在は番付すなわちランキング上位から順に東、西、東ーーーと振り分けているに過ぎない。だから同じ横綱でも東の横綱が西の横綱より番付上位となる。でもこの河番付と橋番付は江戸時代の制作で地理的な東西のはず。ちょっとナゾ
橋の大関は東が愛知県岡崎の矢矧之橋(やはぎのはし)で、西が山口県岩国の錦帯橋(きんたいきょう)。矢矧之橋は矢作橋(やはぎばし)となって現在は国道1号線が走っているが、1673年竣工の錦帯橋は昭和になって建て替えられてはいるものの、ほぼ当時の姿で残されて日本三大名橋といわれている。
石積みの橋脚に木造の橋がアーチ状に組まれている。
釘は1本も使われていない。
葛飾北斎の浮世絵に描かれた錦帯橋。
こちらは河番付・橋番付の隣にあった千住大橋を題材にした浮世絵。
かなり退色していてはっきり言って見苦しい。
千住大橋をくぐるために千住小橋があった。
さらに進むと河川工事の設備。
これは警戒船なのにおめでたい名前(^^ゞ
警戒船とは工事現場にいるガードマン(交通誘導員)の役割を果たす船。
ちょっとネーミングが厳つい(いかつい)。
本体は船というより浮き作業場のような構造。たぶん浚渫(しゅんせつ:河川や港湾などの水底の土砂を掘り起こして取り除く)工事のためのもの。
対岸のサクラ。
こちらはマンションとの距離もあって日当たりが良さそう。
千住汐入(しおいり)大橋が見えてきた。
その先は左岸に別の川が合流して河川敷が途切れているので、
再び右岸に渡ることにする。
千住汐入大橋の上より右岸の様子。
ピンクの花が咲いているものの、この位置では何の花なのかよくわからず。
橋を渡ると「川の手通り」の標識。
山の手通りはよく使うが川の手通りがあるとは知らなかった。
東京では「山の手」と「下町」が対義語になる。
これは江戸時代の始まりに江戸城をはじめ武家は麹町、四谷、牛込、小石川、本郷などの武蔵野台地東端の高台に住み、町人を川に近い浅草や、海に近い日本橋などの「低地」に住ませたのが始まり。それが転じて下町の言葉には庶民的なイメージが生まれそれは今でも続いている。
ただしネガティブに捉えると下町は山の手に対して地域イメージとして格下になる。おそらくそれを快く思わなかった人がいて、下町であるこの地域の道路に「川の手通り」の名前を付けたんじゃないかな。あくまでモーソーです。
現在位置。
上を北にするために写真を回転させてある。
ーーー続く
隅田川の右岸河川敷を下流に向けて歩き出し、尾竹橋で右岸が通行止めになったので左岸に移動。今度は都営千住桜木一丁目アパートあたり(前回のブログでモモが咲いていたところ)でまた通行止めとなり、街中を少し歩いて京成本線が隅田川を渡った少し先でまた左岸河川敷に降りることができた。
ここから川べりお散歩を再開。
なぜか私が歩いている側ではなく、常に対岸にサクラが咲いている(/o\)
でもマンションの影になって日当たりが悪そうだからいいやと強がり。
こんなものがあった。
説明には
堤防建設を昭和32年(1957年)に着工し完成が昭和50年度(1975年)。
その後さらにスーパー堤防の整備を進め、
この地区では平成29年(2017年)に完成。
これまで幾多の台風、豪雨から地域を守ってきた旧堤防を、
後世に伝えるため一部を保存する
と書かれていた。
堤防は意外と厚みがないと知る。
ここまで河川敷は右岸か左岸のどちらかしか歩けなかったが、旧堤防の記念碑?の少し先から対岸も歩けるようになってる。停まっている左側は漁船ぽいけれど、どちらも釣り船。
ようやく左岸にもサクラが現れた!
奥にある水色が千住大橋。
手前の白いのは千住水管橋で工業用水が流れている。
その脇にあった河番付と橋番付。
横綱が正式に番付最高位を示す地位と認められたのは1909年(明治42年)と近代になってから。この河番付と橋番付のオリジナルは江戸時代なのでトップは大関。そして河番付で東の大関は加茂川(京都の鴨川)で、西は静岡の大井川。
あれっ、どうして鴨川が東で大井川が西なのだ?
かつて相撲は出身地による東西対抗戦だった(境界線はどこだったのだろう?)。現在は番付すなわちランキング上位から順に東、西、東ーーーと振り分けているに過ぎない。だから同じ横綱でも東の横綱が西の横綱より番付上位となる。でもこの河番付と橋番付は江戸時代の制作で地理的な東西のはず。ちょっとナゾ
橋の大関は東が愛知県岡崎の矢矧之橋(やはぎのはし)で、西が山口県岩国の錦帯橋(きんたいきょう)。矢矧之橋は矢作橋(やはぎばし)となって現在は国道1号線が走っているが、1673年竣工の錦帯橋は昭和になって建て替えられてはいるものの、ほぼ当時の姿で残されて日本三大名橋といわれている。
石積みの橋脚に木造の橋がアーチ状に組まれている。
釘は1本も使われていない。
葛飾北斎の浮世絵に描かれた錦帯橋。
こちらは河番付・橋番付の隣にあった千住大橋を題材にした浮世絵。
かなり退色していてはっきり言って見苦しい。
千住大橋をくぐるために千住小橋があった。
さらに進むと河川工事の設備。
これは警戒船なのにおめでたい名前(^^ゞ
警戒船とは工事現場にいるガードマン(交通誘導員)の役割を果たす船。
ちょっとネーミングが厳つい(いかつい)。
本体は船というより浮き作業場のような構造。たぶん浚渫(しゅんせつ:河川や港湾などの水底の土砂を掘り起こして取り除く)工事のためのもの。
対岸のサクラ。
こちらはマンションとの距離もあって日当たりが良さそう。
千住汐入(しおいり)大橋が見えてきた。
その先は左岸に別の川が合流して河川敷が途切れているので、
再び右岸に渡ることにする。
千住汐入大橋の上より右岸の様子。
ピンクの花が咲いているものの、この位置では何の花なのかよくわからず。
橋を渡ると「川の手通り」の標識。
山の手通りはよく使うが川の手通りがあるとは知らなかった。
東京では「山の手」と「下町」が対義語になる。
これは江戸時代の始まりに江戸城をはじめ武家は麹町、四谷、牛込、小石川、本郷などの武蔵野台地東端の高台に住み、町人を川に近い浅草や、海に近い日本橋などの「低地」に住ませたのが始まり。それが転じて下町の言葉には庶民的なイメージが生まれそれは今でも続いている。
ただしネガティブに捉えると下町は山の手に対して地域イメージとして格下になる。おそらくそれを快く思わなかった人がいて、下町であるこの地域の道路に「川の手通り」の名前を付けたんじゃないかな。あくまでモーソーです。
現在位置。
上を北にするために写真を回転させてある。
ーーー続く






















