2025年05月14日

仙川散歩:祖師谷公園

間違って隣の神社に入ったのを引き返して、
いよいよ祖師谷(そしがや)公園を散策。
ここに来るのは初めて。
150-DSCF8215


この地図は上が東で左が北を向いている。
公園の中央に仙川が北から南へ流れていて、
151DSCF8216


さらに公園左岸(上流から見て左)は道路があって敷地が二分されている。写真に「止まれ」の文字、横断歩道、奥にはクルマもいてわかるように、これは車道でわりと頻繁にクルマが通る。こんな造りの公園は他にあったっけ?
152-1DSCF8217


それはこの公園の歴史に関連しているのかも知れない。
実はここ、世田谷区あるいは都立公園のサグラダファミリアと呼ばれているのだ。


昭和の初めにこのあたりは田畑が広がっていた田舎エリア。1941年に戦争が始まり1943年に防空緑地に指定される。防空緑地とは空襲被害に備えての避難場所。ちなみに同じ世田谷区の駒沢公園や砧公園、大阪なら服部・鶴見・久宝寺・大泉の4大緑地など、防空緑地が戦後に大きな公園になった例は多い。

ここの場合は旧制の東京農業教育専門学校が一部の土地を買い上げて実習農場としていたようだ。農業をするのが学生か農家の違いだけで田園地帯なのは同じ。1949年(昭和24年)に東京農業教育専門学校は東京教育大学と合併。東京教育大学は1973年(昭和48年)に筑波大学となって筑波に移転した。

その農場跡地を中心として1975年(昭和50年)に開園したのが祖師谷公園。


ただしである。

行政的には防空緑地の計画がそのまま公園として引き継がれていたようで、都市計画としての祖師谷公園の設置決定は1957年(昭和32年)で、計画面積は53.33ヘクタール。これは上野公園53.85ヘクタールと同じ広さ。

しかし現在、祖師谷公園の開園面積はなんと、

   たったの9.34ヘクタール!(2021年末現在)
   計画の17.5%しか実現していない


これが現在開園しているエリア。図と航空写真は東京都建設局・祖師谷公園マネジメントプラン令和4年3月より引用加筆
152-2開園済み


黄色い線が計画予定地で、赤い部分が現在のエリア。
152-3予定地域

開園から50年、計画段階からだと68年が経過してこの進捗状況。
航空写真を見ればわかるように周辺は田畑だった頃と違い住宅が密集している。
ドウスンノコレ?

計画を決めた後にチャッチャと用地買収を進めればよかったものを、グズグズしているうちに田畑から住宅地に変わってしまい、今となってはコレすべてを買い上げる予算など到底捻出できずーーーだろうか。


しかし実現性が失われようとも、いったん計画と決めたらそれを取り消さないのが行政である。開園しているエリアのマップを見ると南側に飛び地のような場所がある。そして東側にも宅地レベルのわずかな面積でポツリポツリと。こんな用地取得に意味があるのか。私の払った住民税を「やってる感」を出すためだけの言い訳仕事に使って欲しくないな。

東京都建設局の資料では1994年(平成6年)以降2011年(平成29年)の17年間に

  0.1ヘクタールを3回
  0.2ヘクタールを6回
  0.3ヘクタールを1回
  0.4ヘクタールを1回
  0.6ヘクタールを1回

さらに
  104平方メートルを1回
  792平方メートルを1回  ※0.1ヘクタールが1000平方メートル

と実に細かく細かく刻んで14回も公園用地を広げている。
それで増えたのは合計2.9ヘクタール。
計算すると

  2.9ヘクタール ÷ 17年間 = 0.17ヘクタール
  53.33ヘクタール − 9.34ヘクタール = 43.99ヘクタール
  43.99ヘクタール ÷ 0.17ヘクタール = 259年

ガウディが設計したサグラダファミリアは着工が1882年。143年たった今も工事が続けられている。それでも2034年頃に完成するとも言われているので、祖師谷公園はサグラダファミリアのグズ記録を大幅に塗り替えそうである。



話を公園左岸を貫いている道路に戻すと、
この道路の右側は「あの当時」はまだ公園敷地ではなかったようだ。

あの当時とは、今でも年末になると決まってニュースで取り上げられる2000年(平成12年)12月30日深夜もしくは31日未明に起きた世田谷一家殺害事件。その現場となった被害者宅は道路の右側、仙川の左岸沿いにあった。

当時の写真を見ると仙川の対岸にも住宅が見える。画像はhttps://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20201212-OYT1I50017/から引用
152-4世田谷事件


現在そのエリアは公園敷地となっているが、
なんとその被害者宅はまだ公園の中に残っている。
152-5

土地自体は2000年3月に東京都が公園用地として買収済み。事件は立ち退き猶予期間中の12月に起きた。当初警察は建物取り壊し延期を遺族に要請。その後、証拠保全が完了したとして2019年から逆に遺族と取り壊し協議を始めたとあり、とりあえず今も建物は遺族の所有で、事件を風化させたくないとの理由で現存している。

この事件を少し調べて、

    証拠保全に19年間も掛かるはずがないやろ
    土地を東京都が買収したのに、建物の所有権が遺族にある売買契約も不可解

と思ったがネットではこの情報しか出てこない。まあいつも書いているようにネットはコピペコピペの情報がほとんど。私みたいに証拠保全もサグラダファミリアかっ!と突っ込みたくなる人はいないようで。なお航空写真に家が2軒写っているのは隣家と一体になった二世帯住宅だから。事件があったのは右側の家。

この事件は「八王子スーパー強盗殺人事件1995年」「柴又女子大生放火殺人事件1996年」と並んで警視庁管内の平成三大未解決事件と呼ばれている。他にも未解決の殺人事件はたくさんあるのに、なぜか世田谷一家殺害事件だけ毎年取り上げられる。1987年に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件もずいぶん長く毎年取り上げられていたけれど、最近はさすがにほとんど見なくなった。あの事件は記者2人が殺害され、報道機関としては身内意識もあって毎年の報道が続いたのだと思う。

世田谷一家殺害事件の場合は、年末に事件の日が近づくと、成城署が駅前で情報提供を呼びかけるビラを配り、会見を開いたり捜査関係者が現場に献花に訪れたりする。そしてそれがニュースになる。別に文句があるわけじゃないものの、この事件が特別扱いなのはなぜなんだろうと、これまた毎年思う。


この事件もひとつの契機になって、それまで25年だった殺人事件の時効が2010年に廃止された(その時点で時効が成立していない過去の事件にも適応される)。とはいっても、どれだけの態勢を今も維持しているかは知らないが、捜査で犯人が見つかる可能性は極めて低いと思われる。事件の日が近づくと警察が会見を開くと書いた。昨年は「事件発覚当時、浴室の窓だけが開いており、犯人がそこから侵入した可能性が高い」との発表。24年後にそんな情報を公開してをして何になる? 恒例行事のネタ探しに困ってとも思えなくもない。

ただしこの事件の犯人は指紋を残し、また犯行現場で怪我をした出血からDNAも採取されている。犯人が何かミスを犯せば、そこから逮捕につながる可能性はまだ残っている。これだけ年月が経つと犯人が捕まればそれで「事件解決」なのかよくわからない気もするが、まずはそれを願い被害者のご冥福を祈ろう。



え〜っと、ずいぶん話がそれた(^^ゞ
2000年頃までここには住宅があって、当然ながら道路もあったとしても、もうとっくに公園の中には誰も住んでいないのに、未だにクルマが通っているのはどうかと思うゾというお話でした。




ーーー続く

wassho at 21:35│Comments(0) イベント、旅行 | 社会、政治、経済

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔