2025年07月08日
烏帽子のあれこれ その4

聖徳太子の頃の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)。その下に着用した薄い袋状の圭冠(はしばこうぶり)が烏帽子(えぼし)のルーツとされる。どうして頭巾(ときん)の下に同じような圭冠(はしばこうぶり)を重ねたのか疑問なのだが、そこはスルーして、やがて冠は正装用、烏帽子は普段着用の帽子と用途が分かれる。(なお圭冠は冠の下に被るのではなく、最初から略式の冠として略服着用時に用いられたとの説もある)
圭冠(はしばこうぶり)そのもの、あるいはそれから発展した初期の烏帽子の形は不明。おそらくはスイミングキャップを膨らましたようなシンプルな形状だったのではないかな。しかしだんだんと上に伸びて、そして強装束(こわしょうぞく:前回参照)の頃にはよく見る平安貴族スタイルになっていく。その形が立烏帽子(たてえぼし)。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/295.htmlから引用
貴族ではこの高い立烏帽子が続く一方で、武家が着用する烏帽子は高さが低くなり、また立烏帽子をおったような折烏帽子(おりえぼし)、さらには各家ごとにその折り方に工夫を凝らした侍烏帽子(さむらいえぼし)などが登場する。画像はhttps://www.touken-world.jp/tips/92804/から引用
これらの烏帽子は貴族または武家が被るもの。そもそも冠はもちろんとして烏帽子も上級国民の装束であるイメージが今日では強い。しかし意外にも庶民だって烏帽子を被っていたのだ。
これは鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻の一部。
大工は平たい烏帽子を被り、指揮している人は立烏帽子で下っ端の役人(貴族)だろうか。
同時代の石山寺縁起絵巻では庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。僧侶が無帽なのは俗世とは違う習慣体系なのか、あるいは剃髪していて頭頂部に何もないからかはよくわからない。

これらで庶民が被っている平たい烏帽子の形を萎烏帽子(なええぼし)や揉烏帽子(もみえぼし)と呼ぶ。これが圭冠(はしばこうぶり)から発展した烏帽子の原型で、筒状の部分を普段は倒して着用し、改まった席では立てていたのが、やがて立烏帽子になったとの説もある。いずれにせよ庶民の烏帽子はこのスタイルで、その後の変化はなかったようだ。
それにしてもこの時代の庶民が烏帽子すなわち帽子を、まるで制服のように皆で被った生活をしているなんて認識はあまりなかったね。
さてなぜ男性は貴族から庶民まで帽子を被っているかというと、平安時代(794年〜)から室町時代(1336〜1573年)中頃までの約700年間は、男性が頭頂部を他人に見せるのは恥ずかしい行為との価値観があったのがその理由。どうしてそんな発想になったのか少し調べてみたものの長くなるので割愛。
これはネットで拾ってきた大河ドラマのワンシーン。キャプションに「宇治川で筏(いかだ)を押す平盛綱」とあった。状況はよくわからないが、服を脱いで川に飛び込んでも烏帽子は脱がなかったとの演出。画像はhttps://x.gd/Nf4Whから引用(短縮URL使用)
さらに驚くのが平安時代後期に描かれた源氏物語絵巻。場面は光源氏の正妻である女三宮と不義密通したのが、光源氏(この頃は天皇に準ずる身分)にバレてビビって病気になった柏木を(事情を知らない)光源氏の長男である夕霧が見舞うシーン。
注目は寝込んでいる柏木。このしばらく後に亡くなるのでかなり衰弱している設定。なのに頭に烏帽子を被っている! これは見舞客が来たから身なりを整えようと烏帽子を被ったのではなく、寝るときも烏帽子を外さないのが当時の風習。
まあとにかく烏帽子を脱がなかった。
そして何と実はSEXするときにスッポンポンになっても烏帽子は被ったまま。画像は後白河法皇(平安時代末期に源平の戦いに深く関わった実力者)がコレクションしていた春画「小柴垣草紙(こしばがきそうし)」を江戸時代に模写した「慶忍/潅頂巻絵詞(かんじょうまきえことば)」から。
ここまで来ると滑稽な姿だけれど、当時は頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリ(烏帽子のあれこれ・その2参照)を見られるのがよほど恥ずかしかったらしい。
とても合理的な説明がつかないが文化とはそういうものだろう。まあなかにはモトドリ攻めを好むドMな平安男子もいたかも知れないが(^^ゞ
ーーー続く
今回は書く前からあちこちに話がそれる予感がしていたとはいえ、
いい加減そろそろフィニッシュしないとーーー
wassho at 23:31│Comments(0)│
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