2025年07月13日
烏帽子のあれこれ その5
聖徳太子の頃に正装用の帽子として定まったのが冠(かんむり)。そこから派生して普段着用の帽子となったのが烏帽子(えぼし)。冠は使用する場所や場面が定まっているとして、烏帽子は好きなときに被ればいいのかというと、そうではなくて基本的に四六時中の着用。前回で紹介したように寝るときも被っていたし、たとえ全裸になってSEXしていても烏帽子は脱がなかった。
奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。
まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。
これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)
しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。
この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では
大和〜平安:古代
鎌倉〜安土桃山:中世
江戸:近世
明治〜第二次世界大戦終戦:近代 それ以降:現代
となる(諸説あり)。
江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のようなポジション。それで二人とも勅使との面会に備えて異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。
この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくいし、それを踏みつけられれば動きを止められてしまう。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。
そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。
考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。
ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。
ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするなら彼らの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。
それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。
これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。
どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。
とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
ーーー続く
奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。
まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。
これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)
しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。
この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では
大和〜平安:古代
鎌倉〜安土桃山:中世
江戸:近世
明治〜第二次世界大戦終戦:近代 それ以降:現代
となる(諸説あり)。
江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のようなポジション。それで二人とも勅使との面会に備えて異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。
この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくいし、それを踏みつけられれば動きを止められてしまう。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。
そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。
考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。
ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。
ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするなら彼らの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。
それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。
これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。
どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。
とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
ーーー続く
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