2025年10月09日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その2
弥生時代の日本にまだ文字はなかったので、当時の日本で書かれた=歴史の資料となるものは存在しない。日本について最初に記されたのは中国の書物。有史以前や先史時代とは文字が使われていない時代を指す。言い換えれば歴史に日本が登場したのは中国の書物によって。
その最初は「漢書(かんじょ)」。これは後漢王朝(25年〜220年)の時代に、前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた歴史書。編纂に約20年を費やしておおよそ80年前後に完成した。
ただし記念すべき日本の歴史デビューは
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
とわずかに19文字の記述のみ(>_<)
ちなみに漢書は「本紀」12巻、「列伝」70巻、「志」10巻、「表」8巻の計100巻から成る膨大な量の書物。現在も写本が販売されていて、それのページ数は3348ページあるらしい。その中のたった19文字とは中国から見て日本はその程度の存在だったのだろう。片や100巻の歴史書を制作する文明国、対して文字すらない文明以前の僻地では仕方がない。
この19文字は漢書の「地理志」に記載がある。「志」とは分野史を意味しており、地域情報のひとつとしてに日本が紹介されている。他の「本紀」は前漢歴代皇帝の治世について、「列伝」は重要人物の伝記、「表」は年表や系図など。
19文字を超意訳すると
楽浪海中有倭人→「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいる」
楽浪郡とは前漢が支配していた朝鮮半島北部。
現在の北朝鮮・平壌あたりとされる。
分為百余国→「百くらいの小国に分かれている」
以歳時来献見云→「定期的に貢物(みつぎもの)を持って楽浪郡を訪れる」
頻度は不明としても弥生時代に平壌まで定期的に往来していたとはビックリ。もっとも弥生人は朝鮮半島や中国大陸北部から渡来してきた民族の子孫だから(諸説あり)馴染みはあったのかな? それとこれはいわゆる朝貢外交だけれど、この時代に前漢=古代中国は日本にそれだけの影響力を持っていたのだろうか。そうだとして朝貢している=付き合いのある相手であれば、もう少し詳しく記述してくれてもよさそうなものなのに。百ほどあった小国のどこが朝貢していたのかくらいは書いておいて欲しかったゾ。
これらについては何かと興味をそそるものの本題から外れるので、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ここでのポイントは当時の日本人が倭人(わじん、現代の中国語発音ではウォーレン)と呼ばれていたこと。倭人が住むのだから国名というか日本列島の地域名は倭である。「古代中国にあった魏・呉・蜀の三国」と表現するのと同じ理屈。
次に日本が登場するのは「後漢書」の「東夷列伝(東夷伝ともいう)」で全120巻の歴史書。これは後漢王朝(25年〜220年)の出来事を宋(そう:420年〜479年)の時代に記された。成立は432年。なおこの宋は平家が日宋貿易をしていた960年〜1279年の宋とは別物。古代の中国は同じ国名が何度も使われてややこしい。
それにしても後漢が滅亡してから200年も後に編纂されている。漢書も前漢滅亡から70年以上が経っている。もっと早く書かないと資料も失われてしまのに、当時はそういうものだったのだろうか。あるいはその時代に歴史を書くとは研究だけではなくて政治の一環でもあったはずで、あまり前王朝の記憶が生々しいうちは書けなかったのかも知れない。後漢と宋の間には三国志で有名な魏・呉・蜀を含めて6代も王朝を挟んでいる(そのうちの1つはさらに16国に分かれる)。
さて後漢書に書かれていた内容は
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢書と違って漢字を眺めるだけでの解読は難しいが、この文章にまつわるエピソードは社会科の授業で習ったはず。漢文のポイントを丸めると
紀元57年に「倭」の「奴国(なこく)」の王の使者が都にやって来て
後漢の光武帝から印鑑を授かった
ここに書かれている印鑑が、それから1727年後の江戸時代後期に入った1784年に、福岡の志賀島で農民が水田の補修工事中に偶然見つけたとされる金印。1931年(昭和6年)に国宝に指定。一辺が約2.3cm、金の純度は95.1%。授業では漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と舌を噛みそうな名前を覚えさせられた。
ちなみに後漢の都は洛陽(らくよう)で中国の中部。弥生時代の54年によくそんなところまで行ったなと感心する。海路で東シナ海を渡ったのか、あるいは朝鮮半島経由の陸路か。地図には現在の平壌の位置で楽浪郡も示しておいた。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
ところで後漢書には「倭奴国」と書かれているのに、印鑑に彫られている文字は「漢」「委」「奴」「国王」で「倭」が「委」になっている。(現代人には委や奴には見えないが)
これについては様々な学説・論争があり、また発見の経緯が不自然なことも加わって、中にはこの金印は福岡藩が捏造した偽物だとの説まである。
(/_')/ソレモコッチニオイトくとして
漢書と同じく後漢書でも「倭国」と記されている。朝貢した紀元57年は紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間続いた弥生時代の後期に当たる。
また後漢書にはこれに続いて
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した。
後漢の桓帝(146年〜168年)と霊帝(168年〜189年)の在位中、
すなわち2世紀後半に倭国では大きな内乱があった。
と合計3つの記述がある。
この奴隷を献上した帥升(すいしょう)は、歴史に初めて記された日本人の名前とよく解説される。しかし倭人は文字を持っていないので、中国側で名前の音を帥升の漢字に当てはめたはず。そして「すいしょう」は日本語読み。だから本当の名前はわからないと思っているのだが、そういう解説はどこを探してもなかった。ちなみに帥升は現代の中国語では「シュアイ シェン」と発音する。
後漢書にはほかにも倭国について書かれているものの、それらは先に書かれた魏志倭人伝からの引用。それを除いたこの3つの記述が新事実となる。漢文での文字数は3つ合わせて69文字。
最後に邪馬台国&卑弥呼で有名な魏志倭人伝。
もっともそういう書物があるわけではなく、これは「三国志」の「魏志(30巻)」の30巻目の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」の「東夷」の章の「倭」の項に書かれている記述の略称。
その三国志とは古代中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代(220年〜263年)とその前後を記したもの。王朝は後漢→三国時代→晋の順で、編纂されたのは晋の時代になった280年頃。後漢書より対象とする時期は後でも、編纂されたのはこちらが先。だから後漢書に魏志倭人伝を引用した箇所がある。魏志のほか呉志(20巻)と蜀志(15巻)の合計65巻構成。
ところで三国志と聞くと魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)、あるいは諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)などの活躍を思い浮かべるものの、それは歴史書の三国志を題材に歴史長編フィクションとして書かれた小説「三国志演義」のイメージがベースになっている。執筆されたのは三国時代(220年〜263年)よりずっと後の1400年前後。さらに日本で一般に三国志と呼んでいるのは三国志演義を元ネタに吉川英治が執筆した小説の「三国志」。新聞連載小説として戦時中の1934年〜1943年まで掲載された。日本で製作されるドラマやゲームの三国志は彼の作品が大元の原作。
さて魏志に書かれている倭の情報は
・倭のいくつかの国の紹介と、帯方郡(最初に書いた楽浪郡と同じ場所)から
それらの国を経て邪馬台国に至るルートの解説
・倭人の生活と倭の自然
・邪馬台国と魏との外交
の3つに分かれる。
漢文はここをクリック
訓み下し文はここをクリック
日本語訳はここをクリック
読み下し文で4ページちょっとの分量。19文字の漢書、69文字の後漢書と較べれば多いとはいえ、それでもたかだか4ページである。
そして紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで、1200年続いた弥生時代が記録された文書資料は19文字+69文字+4ページのこれだけなのである。ちょっと残念というか寂しいね。
それもその場の記録ではなく、中国古代の各王朝が滅亡して70年・200年・17年後に編纂されている。物事が起きたときにリアルタイムで書かれた資料がそれほど豊富に残っていたとも思えず、すべての内容が正確とは考えづらい。邪馬台国がどこにあったかの論争なんてずっと続いているけれど、つまりは4ページのうちの一部であるルート解説の解釈を巡って「ああでもない、こうでもない」とやっている。しかもそれは倭の国にやって来た人が自ら書いた記録でもない。
まあ歴史とはそういうもの。
ひとつの事実に対して99の想像を巡らせるから面白いのかも知れない。
毎度のことながら話があちこちにそれて、なかなか「日本」までたどり着かない(^^ゞ
次回もまだ「倭」止まりの予定m(_ _)m
ーーー続く
その最初は「漢書(かんじょ)」。これは後漢王朝(25年〜220年)の時代に、前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた歴史書。編纂に約20年を費やしておおよそ80年前後に完成した。
ただし記念すべき日本の歴史デビューは
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
とわずかに19文字の記述のみ(>_<)
ちなみに漢書は「本紀」12巻、「列伝」70巻、「志」10巻、「表」8巻の計100巻から成る膨大な量の書物。現在も写本が販売されていて、それのページ数は3348ページあるらしい。その中のたった19文字とは中国から見て日本はその程度の存在だったのだろう。片や100巻の歴史書を制作する文明国、対して文字すらない文明以前の僻地では仕方がない。
この19文字は漢書の「地理志」に記載がある。「志」とは分野史を意味しており、地域情報のひとつとしてに日本が紹介されている。他の「本紀」は前漢歴代皇帝の治世について、「列伝」は重要人物の伝記、「表」は年表や系図など。
19文字を超意訳すると
楽浪海中有倭人→「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいる」
楽浪郡とは前漢が支配していた朝鮮半島北部。
現在の北朝鮮・平壌あたりとされる。
分為百余国→「百くらいの小国に分かれている」
以歳時来献見云→「定期的に貢物(みつぎもの)を持って楽浪郡を訪れる」
頻度は不明としても弥生時代に平壌まで定期的に往来していたとはビックリ。もっとも弥生人は朝鮮半島や中国大陸北部から渡来してきた民族の子孫だから(諸説あり)馴染みはあったのかな? それとこれはいわゆる朝貢外交だけれど、この時代に前漢=古代中国は日本にそれだけの影響力を持っていたのだろうか。そうだとして朝貢している=付き合いのある相手であれば、もう少し詳しく記述してくれてもよさそうなものなのに。百ほどあった小国のどこが朝貢していたのかくらいは書いておいて欲しかったゾ。
これらについては何かと興味をそそるものの本題から外れるので、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ここでのポイントは当時の日本人が倭人(わじん、現代の中国語発音ではウォーレン)と呼ばれていたこと。倭人が住むのだから国名というか日本列島の地域名は倭である。「古代中国にあった魏・呉・蜀の三国」と表現するのと同じ理屈。
次に日本が登場するのは「後漢書」の「東夷列伝(東夷伝ともいう)」で全120巻の歴史書。これは後漢王朝(25年〜220年)の出来事を宋(そう:420年〜479年)の時代に記された。成立は432年。なおこの宋は平家が日宋貿易をしていた960年〜1279年の宋とは別物。古代の中国は同じ国名が何度も使われてややこしい。
それにしても後漢が滅亡してから200年も後に編纂されている。漢書も前漢滅亡から70年以上が経っている。もっと早く書かないと資料も失われてしまのに、当時はそういうものだったのだろうか。あるいはその時代に歴史を書くとは研究だけではなくて政治の一環でもあったはずで、あまり前王朝の記憶が生々しいうちは書けなかったのかも知れない。後漢と宋の間には三国志で有名な魏・呉・蜀を含めて6代も王朝を挟んでいる(そのうちの1つはさらに16国に分かれる)。
さて後漢書に書かれていた内容は
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢書と違って漢字を眺めるだけでの解読は難しいが、この文章にまつわるエピソードは社会科の授業で習ったはず。漢文のポイントを丸めると
紀元57年に「倭」の「奴国(なこく)」の王の使者が都にやって来て
後漢の光武帝から印鑑を授かった
ここに書かれている印鑑が、それから1727年後の江戸時代後期に入った1784年に、福岡の志賀島で農民が水田の補修工事中に偶然見つけたとされる金印。1931年(昭和6年)に国宝に指定。一辺が約2.3cm、金の純度は95.1%。授業では漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と舌を噛みそうな名前を覚えさせられた。
ちなみに後漢の都は洛陽(らくよう)で中国の中部。弥生時代の54年によくそんなところまで行ったなと感心する。海路で東シナ海を渡ったのか、あるいは朝鮮半島経由の陸路か。地図には現在の平壌の位置で楽浪郡も示しておいた。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
ところで後漢書には「倭奴国」と書かれているのに、印鑑に彫られている文字は「漢」「委」「奴」「国王」で「倭」が「委」になっている。(現代人には委や奴には見えないが)
これについては様々な学説・論争があり、また発見の経緯が不自然なことも加わって、中にはこの金印は福岡藩が捏造した偽物だとの説まである。
(/_')/ソレモコッチニオイトくとして
漢書と同じく後漢書でも「倭国」と記されている。朝貢した紀元57年は紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間続いた弥生時代の後期に当たる。
また後漢書にはこれに続いて
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した。
後漢の桓帝(146年〜168年)と霊帝(168年〜189年)の在位中、
すなわち2世紀後半に倭国では大きな内乱があった。
と合計3つの記述がある。
この奴隷を献上した帥升(すいしょう)は、歴史に初めて記された日本人の名前とよく解説される。しかし倭人は文字を持っていないので、中国側で名前の音を帥升の漢字に当てはめたはず。そして「すいしょう」は日本語読み。だから本当の名前はわからないと思っているのだが、そういう解説はどこを探してもなかった。ちなみに帥升は現代の中国語では「シュアイ シェン」と発音する。
後漢書にはほかにも倭国について書かれているものの、それらは先に書かれた魏志倭人伝からの引用。それを除いたこの3つの記述が新事実となる。漢文での文字数は3つ合わせて69文字。
最後に邪馬台国&卑弥呼で有名な魏志倭人伝。
もっともそういう書物があるわけではなく、これは「三国志」の「魏志(30巻)」の30巻目の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」の「東夷」の章の「倭」の項に書かれている記述の略称。
その三国志とは古代中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代(220年〜263年)とその前後を記したもの。王朝は後漢→三国時代→晋の順で、編纂されたのは晋の時代になった280年頃。後漢書より対象とする時期は後でも、編纂されたのはこちらが先。だから後漢書に魏志倭人伝を引用した箇所がある。魏志のほか呉志(20巻)と蜀志(15巻)の合計65巻構成。
ところで三国志と聞くと魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)、あるいは諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)などの活躍を思い浮かべるものの、それは歴史書の三国志を題材に歴史長編フィクションとして書かれた小説「三国志演義」のイメージがベースになっている。執筆されたのは三国時代(220年〜263年)よりずっと後の1400年前後。さらに日本で一般に三国志と呼んでいるのは三国志演義を元ネタに吉川英治が執筆した小説の「三国志」。新聞連載小説として戦時中の1934年〜1943年まで掲載された。日本で製作されるドラマやゲームの三国志は彼の作品が大元の原作。
さて魏志に書かれている倭の情報は
・倭のいくつかの国の紹介と、帯方郡(最初に書いた楽浪郡と同じ場所)から
それらの国を経て邪馬台国に至るルートの解説
・倭人の生活と倭の自然
・邪馬台国と魏との外交
の3つに分かれる。
漢文はここをクリック
訓み下し文はここをクリック
日本語訳はここをクリック
読み下し文で4ページちょっとの分量。19文字の漢書、69文字の後漢書と較べれば多いとはいえ、それでもたかだか4ページである。
そして紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで、1200年続いた弥生時代が記録された文書資料は19文字+69文字+4ページのこれだけなのである。ちょっと残念というか寂しいね。
それもその場の記録ではなく、中国古代の各王朝が滅亡して70年・200年・17年後に編纂されている。物事が起きたときにリアルタイムで書かれた資料がそれほど豊富に残っていたとも思えず、すべての内容が正確とは考えづらい。邪馬台国がどこにあったかの論争なんてずっと続いているけれど、つまりは4ページのうちの一部であるルート解説の解釈を巡って「ああでもない、こうでもない」とやっている。しかもそれは倭の国にやって来た人が自ら書いた記録でもない。
まあ歴史とはそういうもの。
ひとつの事実に対して99の想像を巡らせるから面白いのかも知れない。
毎度のことながら話があちこちにそれて、なかなか「日本」までたどり着かない(^^ゞ
次回もまだ「倭」止まりの予定m(_ _)m
ーーー続く
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