2025年10月21日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その5
20万年前に南アフリカ周辺で誕生したホモサピエンス。6万年前にヨーロッパに進出し、あちこちを経由して日本列島にやって来たのが4万年前の紀元前3万8000年。そこから紀元前1万4000年までが旧石器時代で、さらにその先の紀元前900年代までを新石器時代にあたる縄文時代と呼ぶ。
縄文人は旧石器時代にやって来た人たちの子孫と考えられている。次の紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間が弥生時代であるが、弥生人は縄文人とは別系統。
弥生人がどこから来たのかは明確にはわかっていない(縄文人もだけれど)。それでも朝鮮半島から、あるいは中国から朝鮮半島経由で日本列島に渡ってきた人が多くいたのは確かだと思われる。
図はホモサピエンスの全世界移動ルート。画像はhttps://globe.asahi.com/article/14501100から引用
もちろんある時期に大挙して押し寄せたのではなく、縄文後期から少しずつ渡ってきた。そのころより地球の寒冷化が始まり暖かさを求めて南下した、あるいは大陸や半島の戦乱を逃れて来た難民などの説がある。すべての人が同じ理由ではないだろうし、弥生時代の1200年間には様々な理由があったはず。
前回、朝鮮半島の楽浪郡や中国の洛陽まで、弥生人がカヌーのような小さな船で朝貢に趣いていたのは驚くと書いた。しかし元々は海を渡ってやって来たのだから、当時はそれなりの海洋国家だったのかも知れない。
ただし中国の歴史書で最初に倭が登場するのは、時期は特定できないものの前漢王朝であった紀元前206年〜8年のどこかでの出来事である。その後の後漢の歴史書では紀元57年と107年の記述がある。つまり1200年続いた弥生時代の後期。
朝鮮半島から海を渡ってやってきたとはいえ、おそらく多くの弥生人にとってそれは数百年前の先祖の話であり、彼らが「海の民」であったわけではない。一方で多くは日本列島に定住したが、対馬あたりでは、そこを本拠地としながら朝鮮半島と頻繁に行き来している部族がいたものと思われる。
ところで弥生時代に古代中国王朝に朝貢していたと聞いて、
おそらく最初に思い浮かぶ疑問は
その時代にどうやって海を渡った?
中国語は話せたのか?
である。
航海については前回に紹介したようなカヌーを漕いで頑張った(^^ゞ そして朝鮮半島に行き来している部族は、朝鮮語や中国語を話せたのだと思う。おそらく彼らが朝貢外交団の一員として通訳を務めたのだろう。まさか身振り手振りだけで朝貢の役目を果たせたとは考えづらい。
さてここからが本題。
弥生時代の倭人には日本語と中国語のバイリンガルな人々がいたのである。
それは「文字」の存在を知っていたことを意味する。
なのになぜ国内では文字が使われなかったのだ?
そもそも中国大陸から渡ってきた弥生人がいるなら、
どうして日本に列島に来て文字を使うのをやめてしまった?
古代中国で漢字のルーツである甲骨文字が使われ始めたのは殷王朝(紀元前16世紀中頃〜紀元前1046年)の時代。それは占いの記録用途だったようで、コミュニケーションツールとしての文字は次の周王朝(紀元前1046年〜紀元前770年)から。弥生時代の始まりが紀元前900年代なので時期は重なる。
もっとも当時の中国で文字を使えるのはごく一部の支配階級だけで、日本に渡ってきた人々まで普及していなかった可能性はある。それはそれとして、朝貢で古代中国とやりとりをしていた弥生時代の支配階級は、文字の存在を知っていたはず。なのにそれを自分たちの言語に応用しなかったのかは大いにナゾ
以前に文字が使われるには
1.人口が多い
2.都市が形成される
3.支配者の権力が強く官僚制度がある
などの条件が揃ってからと何かで読んだ。
1は人が少なければ口頭で済むとの単純な理屈。2について記憶が曖昧なものの、いろんな職業や階層の人が集まるようになって、コミュニケーションツールとして文字が必要になるだったかな。例えば集落全員が農民で、皆が同じような暮らしをしているのなら情報交換は口頭だけで事足りる。3も基本的に同じで世の中の仕組みが複雑になると事務仕事が発生する。何となく世界各地で文字が発明された四大文明を逆算したような説ではあるが。
弥生時代に古代中国によって日本は倭と名付けられ、その各地域の支配者が倭の国王と呼ばれたけれど、現在になぞらえての実態イメージとしては「未開なジャングルに住む部族とその酋長」程度だったのだろう。そりゃまだ文字は必要ないな。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。世界最大のお墓である仁徳天皇陵なんて、それなりの文明力を感じさせるのに築造されたのは400年から450年頃と推定され、まだ文字はなし。考えてみればピラミッドと違って古墳なんて造るのにそんなに高度な技術はいらないか。
だから古墳時代になったとはいえまだまだ酋長の時代が続いていた。だいたい弥生時代と古墳時代は、有力者の大型の墓が円形だったか、丸と四角を組み合わせた前方後円墳だったか程度の違いしかない。
まあ歴史区分の半分はそういうもので、どこかで区切りを付けないと理解しづらいから後世になって分けているだけ。縄文時代と弥生時代は稲作の普及と鉄器の使用といった社会的な違いがあっても、奈良時代と平安時代なんて都が奈良から京都に移ったに過ぎない。また江戸時代と明治時代は社会のあり方に大きな違いがある。ただしその後に明治・大正・昭和・平成・令和と天皇の代替わりで何となく区別しているけれど、中身はそんなに変わっていない。あえて言えば戦前と戦後は違うかな。数百年先に明治以降は何時代と呼ばれるのだろうね。とりあえずこのブログは昭和人が平成と令和の時代に書いています(^^ゞ
話を文字に戻すと日本には古墳時代の中頃まで文字はなかった。古代中国との接触で文字は目にしていても、バイリンガル弥生人は別として、支配階級を含めて民族全体として文字は使わなかった。
「その2」で書いたように、紀元57年の朝貢では後漢の光武帝より漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と文字が刻まれた金印が贈られた。他にも文字が使われる4世紀以前の出土品で、鏡や土器などに漢字が記されたものが見つかっている(文章ではなく数文字程度)。
金印はもちろん、漢字が刻まれた鏡や土器は支配階級の所有物である。バイリンガル弥生人に多少は意味を教えられたかも知れないが、彼らは漢字は読めないし中国語もわからない。
どんな風にこれらの文字を眺めていたのかな。
単なる線を使ったデザインとしてか?
(関係ないが弥生時代に朱肉はなかったはず)

それで思い浮かべるのはこんな外国人の漢字タトゥー。弥生人も案外こんなノリで「この金印イケてるねえ、超クール!」なんて会話してたりして(^^ゞ
さて「その3」では倭という名前が蔑称(べっしょう)かどうかについて書いた。その文章を引用すると
飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。
唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
などの記述が見られる。
文字を使い始めてから200年。ようやく倭や邪馬台国や卑弥呼などが中国から馬鹿にされた名前だと気付いたみたい。遅すぎるゾ
そういえば昔は便所や便器なんて漢字タトゥーを入れた外国人がいたのに、最近は見かけない。写真のタトゥーは便所に較べればまだまとも。これは単にデザインだけで漢字を選んでいたのが、ネットで手軽に意味を調べられるようになったからだと思っている。とりあえず無知は怖いね。
先ほどの漢委奴国王の金印が江戸時代に田んぼで偶然見つかった話は、社会科だったか日本史だったかで習う。しばらくして、これが日本にもたらされたのは弥生時代で、その頃の日本にはまだ文字がなく、でも中国ではもっと大昔から文字を使っていたと知った。その時に日本はなんて遅れた国だったのかと情けなかった。その印象はかなり強烈で、実は日本民族が文字を生み出さなかったのを何となくコンプレックスに感じてきた。
紀元前1000年あたりで文字を使い始めた中国と紀元500年からの日本。
日本は文字について中国に1500年も後れを取った。
でもでもしかしである。
ホモサピエンスが誕生したのが20万年前。そしてどうやってそんなことがわかるのか根拠は見つけられなかったものの、人類が言葉を喋り出したのが10万年前とされる。
つまり言葉が生まれて10万年の歴史がある中で1500年の遅れなんて、その1.5%の期間に過ぎないのである。ホモサピエンス20万年の歴史でなら0.75%、何なら最初の人類である猿人が誕生した700万年前を持ち出せば0.02%となり誤差以下の値である。だから歴史的に見てたいした差ではなかったとこれからは思うようにしましょう。まあ都合よく数字をいじくるのは職業柄もあって得意である(^^ゞ
ーーー続く
倭の話は今回で終わりのつもり。
縄文人は旧石器時代にやって来た人たちの子孫と考えられている。次の紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間が弥生時代であるが、弥生人は縄文人とは別系統。
弥生人がどこから来たのかは明確にはわかっていない(縄文人もだけれど)。それでも朝鮮半島から、あるいは中国から朝鮮半島経由で日本列島に渡ってきた人が多くいたのは確かだと思われる。
図はホモサピエンスの全世界移動ルート。画像はhttps://globe.asahi.com/article/14501100から引用
もちろんある時期に大挙して押し寄せたのではなく、縄文後期から少しずつ渡ってきた。そのころより地球の寒冷化が始まり暖かさを求めて南下した、あるいは大陸や半島の戦乱を逃れて来た難民などの説がある。すべての人が同じ理由ではないだろうし、弥生時代の1200年間には様々な理由があったはず。
前回、朝鮮半島の楽浪郡や中国の洛陽まで、弥生人がカヌーのような小さな船で朝貢に趣いていたのは驚くと書いた。しかし元々は海を渡ってやって来たのだから、当時はそれなりの海洋国家だったのかも知れない。
ただし中国の歴史書で最初に倭が登場するのは、時期は特定できないものの前漢王朝であった紀元前206年〜8年のどこかでの出来事である。その後の後漢の歴史書では紀元57年と107年の記述がある。つまり1200年続いた弥生時代の後期。
朝鮮半島から海を渡ってやってきたとはいえ、おそらく多くの弥生人にとってそれは数百年前の先祖の話であり、彼らが「海の民」であったわけではない。一方で多くは日本列島に定住したが、対馬あたりでは、そこを本拠地としながら朝鮮半島と頻繁に行き来している部族がいたものと思われる。
ところで弥生時代に古代中国王朝に朝貢していたと聞いて、
おそらく最初に思い浮かぶ疑問は
その時代にどうやって海を渡った?
中国語は話せたのか?
である。
航海については前回に紹介したようなカヌーを漕いで頑張った(^^ゞ そして朝鮮半島に行き来している部族は、朝鮮語や中国語を話せたのだと思う。おそらく彼らが朝貢外交団の一員として通訳を務めたのだろう。まさか身振り手振りだけで朝貢の役目を果たせたとは考えづらい。
さてここからが本題。
弥生時代の倭人には日本語と中国語のバイリンガルな人々がいたのである。
それは「文字」の存在を知っていたことを意味する。
なのになぜ国内では文字が使われなかったのだ?
そもそも中国大陸から渡ってきた弥生人がいるなら、
どうして日本に列島に来て文字を使うのをやめてしまった?
古代中国で漢字のルーツである甲骨文字が使われ始めたのは殷王朝(紀元前16世紀中頃〜紀元前1046年)の時代。それは占いの記録用途だったようで、コミュニケーションツールとしての文字は次の周王朝(紀元前1046年〜紀元前770年)から。弥生時代の始まりが紀元前900年代なので時期は重なる。
もっとも当時の中国で文字を使えるのはごく一部の支配階級だけで、日本に渡ってきた人々まで普及していなかった可能性はある。それはそれとして、朝貢で古代中国とやりとりをしていた弥生時代の支配階級は、文字の存在を知っていたはず。なのにそれを自分たちの言語に応用しなかったのかは大いにナゾ
以前に文字が使われるには
1.人口が多い
2.都市が形成される
3.支配者の権力が強く官僚制度がある
などの条件が揃ってからと何かで読んだ。
1は人が少なければ口頭で済むとの単純な理屈。2について記憶が曖昧なものの、いろんな職業や階層の人が集まるようになって、コミュニケーションツールとして文字が必要になるだったかな。例えば集落全員が農民で、皆が同じような暮らしをしているのなら情報交換は口頭だけで事足りる。3も基本的に同じで世の中の仕組みが複雑になると事務仕事が発生する。何となく世界各地で文字が発明された四大文明を逆算したような説ではあるが。
弥生時代に古代中国によって日本は倭と名付けられ、その各地域の支配者が倭の国王と呼ばれたけれど、現在になぞらえての実態イメージとしては「未開なジャングルに住む部族とその酋長」程度だったのだろう。そりゃまだ文字は必要ないな。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。世界最大のお墓である仁徳天皇陵なんて、それなりの文明力を感じさせるのに築造されたのは400年から450年頃と推定され、まだ文字はなし。考えてみればピラミッドと違って古墳なんて造るのにそんなに高度な技術はいらないか。
だから古墳時代になったとはいえまだまだ酋長の時代が続いていた。だいたい弥生時代と古墳時代は、有力者の大型の墓が円形だったか、丸と四角を組み合わせた前方後円墳だったか程度の違いしかない。
まあ歴史区分の半分はそういうもので、どこかで区切りを付けないと理解しづらいから後世になって分けているだけ。縄文時代と弥生時代は稲作の普及と鉄器の使用といった社会的な違いがあっても、奈良時代と平安時代なんて都が奈良から京都に移ったに過ぎない。また江戸時代と明治時代は社会のあり方に大きな違いがある。ただしその後に明治・大正・昭和・平成・令和と天皇の代替わりで何となく区別しているけれど、中身はそんなに変わっていない。あえて言えば戦前と戦後は違うかな。数百年先に明治以降は何時代と呼ばれるのだろうね。とりあえずこのブログは昭和人が平成と令和の時代に書いています(^^ゞ
話を文字に戻すと日本には古墳時代の中頃まで文字はなかった。古代中国との接触で文字は目にしていても、バイリンガル弥生人は別として、支配階級を含めて民族全体として文字は使わなかった。
「その2」で書いたように、紀元57年の朝貢では後漢の光武帝より漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と文字が刻まれた金印が贈られた。他にも文字が使われる4世紀以前の出土品で、鏡や土器などに漢字が記されたものが見つかっている(文章ではなく数文字程度)。
金印はもちろん、漢字が刻まれた鏡や土器は支配階級の所有物である。バイリンガル弥生人に多少は意味を教えられたかも知れないが、彼らは漢字は読めないし中国語もわからない。
どんな風にこれらの文字を眺めていたのかな。
単なる線を使ったデザインとしてか?
(関係ないが弥生時代に朱肉はなかったはず)

それで思い浮かべるのはこんな外国人の漢字タトゥー。弥生人も案外こんなノリで「この金印イケてるねえ、超クール!」なんて会話してたりして(^^ゞ
さて「その3」では倭という名前が蔑称(べっしょう)かどうかについて書いた。その文章を引用すると
飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。
唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
などの記述が見られる。
文字を使い始めてから200年。ようやく倭や邪馬台国や卑弥呼などが中国から馬鹿にされた名前だと気付いたみたい。遅すぎるゾ
そういえば昔は便所や便器なんて漢字タトゥーを入れた外国人がいたのに、最近は見かけない。写真のタトゥーは便所に較べればまだまとも。これは単にデザインだけで漢字を選んでいたのが、ネットで手軽に意味を調べられるようになったからだと思っている。とりあえず無知は怖いね。
先ほどの漢委奴国王の金印が江戸時代に田んぼで偶然見つかった話は、社会科だったか日本史だったかで習う。しばらくして、これが日本にもたらされたのは弥生時代で、その頃の日本にはまだ文字がなく、でも中国ではもっと大昔から文字を使っていたと知った。その時に日本はなんて遅れた国だったのかと情けなかった。その印象はかなり強烈で、実は日本民族が文字を生み出さなかったのを何となくコンプレックスに感じてきた。
紀元前1000年あたりで文字を使い始めた中国と紀元500年からの日本。
日本は文字について中国に1500年も後れを取った。
でもでもしかしである。
ホモサピエンスが誕生したのが20万年前。そしてどうやってそんなことがわかるのか根拠は見つけられなかったものの、人類が言葉を喋り出したのが10万年前とされる。
つまり言葉が生まれて10万年の歴史がある中で1500年の遅れなんて、その1.5%の期間に過ぎないのである。ホモサピエンス20万年の歴史でなら0.75%、何なら最初の人類である猿人が誕生した700万年前を持ち出せば0.02%となり誤差以下の値である。だから歴史的に見てたいした差ではなかったとこれからは思うようにしましょう。まあ都合よく数字をいじくるのは職業柄もあって得意である(^^ゞ
ーーー続く
倭の話は今回で終わりのつもり。
wassho at 22:27│Comments(0)│
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