2025年11月06日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その8
さて「その8」にしてようやく「日本の読み」について。
日本には文字がなかったので、その存在が書き留められ歴史に名前が登場するのは、古代中国の前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事を記した漢書(かんじょ)が最初。日本の歴史区分では弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期にあたる。
その漢書で日本列島に住む人々が倭人と記された。
どうして「倭」なのかは諸説あって不明。
倭人自らが「倭」と言ったのではなく、地球人が隣の惑星を火星、そこに住んでいる宇宙人を火星人と彼らの言語とは関係なく呼ぶように、中国側が勝手に名付けたと私は推測している。
そしてそれは日本人をバカにした蔑称だった。蔑称かどうかについても諸説あるものの、その後に邪悪の邪のつく邪馬台国、卑しいの卑のつく卑弥呼なんて名前の付け方を見ても「チビでナヨナヨした列島人」の意味を込めたネーミングだと思っている。
しかし悲しきかな文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。もちろん漢字の輸入。その後に漢字を日本語の音に当て字した万葉仮名が使われ出すのが飛鳥時代中期の650年頃。そこからオリジナル日本文字であるカタカナが生まれたのが平安時代に入った800年頃で平仮名は850年頃とされている。
文字を使いだし漢字の意味がわかると、やがて「倭」が蔑称であったと日本人も気付く。
そして607年に聖徳太子が隋の皇帝に送った有名な国書の一節。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや
ひいづる ひぼっする
地理的に日本が東、中国が西の位置関係にあるのをもじって「太陽の昇る国の天子(日本の天皇)が太陽の沈む国の天子(隋の皇帝)に書状をお届けします、お変わりありませんか」と言うような意味。
これに対し隋の皇帝は「属国のくせに無礼だ。二度と受け取るな」と命じたという。彼が怒ったのは「日出づる、日没する」の表現ではなく「私も天子、あなたも天子つまり同格対等」と主張していたからと一般に解説されている。
この国書の記録は日本にはない。このエピソードが記録されているのは隋(581〜618年)の歴史書である隋書の倭国伝で、国書の全文は残っていないようだ。だからこの国書で「倭」の記述があったかどうかは不明。
ところでこの聖徳太子が同格対等を主張したとは、大国の隋に対して一歩も引かなかった=ニッポンすごいの国威高揚史観に基づく解釈だとの学説もある。
日出づる処の天子〜と書いたのは単に言葉遣いを知らなかっただけ、あるいは日出づる・日没すると天子も仏教的表現だともされている。(国書の前に「皇帝は仏教を広めていると伺って(私もそうなので)使者を送ります」と奏上している)そして隋の皇帝が怒ったのはその表現や内容ではなく、国書としてはカジュアルな文体だったかららしい。同格対等を主張する意図さえ伝わらなかったとの説もある。
国威高揚史観では聖徳太子が対等を主張できたのは、隋が朝鮮半島の高句麗と緊張状態にあり、それを見通しての外交センスとするが、それは何となく後付けの理屈っぽい。また隋はこの国書に対する返答として使者を日本に送り込み、その使者に対して聖徳太子は「大国の隋と較べれば、なにせ私は田舎者で礼儀も知らず、その節は失礼しました」と述べている。これもヤッテモウタと震え上がって謝罪したのか、ウソぶいて使者をあしらったのか解釈が分かれるところ。
結局のところ、この国書の意図は聖徳太子本人に確かめてみないとわからない。ただし尋ねたところで彼は政治家だから本当のことを喋るとも限らない(^^ゞ 聖徳太子を現代あるいは現職の政治家に置き換えてもそれは同じで、歴史とは事実が半分、推理と妄想が半分でできているのだといつも思う。
あっ、日本の読みに関係のない聖徳太子の国書に話がずれてしまった(^^ゞ
聖徳太子の国書から約100年後、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると随の後に成立した唐に対して宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られ、やはり倭の名前を嫌っていたとわかる。松下電器→パナソニックのようなイメージ戦略ではない。
他にも日本と名乗った時期については諸説あるものの、深入りしても本題とはあまり関係ないし、だいたいその頃=ナント大きな平城京710年の奈良時代に入る少し前だとしておく。それもややこしいので日本になったのは奈良時代からとしてもいいだろう。
奈良時代からだと考えると国号としての日本の歴史は意外と浅いと感じるね。日本に対する最初の文献となる漢書は「海の向こうに倭人が住んでいる」程度の内容で時期を示す記述はない。でも漢書が対象としている前漢王朝は紀元前206年〜8年なので、中間を取って紀元前100年とすると、
倭の時代 紀元前100年〜710年=810年
日本の時代 710年〜2025年=1315年
倭だった期間を1とすると日本は1.6。比率にするとさらに短く感じる。記録として残った最初が漢書であるだけで、もっと以前から倭と呼ばれていたはずで、倭と日本の歴史はあまり差がないのかも知れない。
まあとにかく日本となった我が国。
問題は当初それを何と読んでいた発音していたかである。
学説にはこんなのがある。
1)ヤマト
2)ニェットプァン
そして、このどちらも素直にうなずけない。
ーーー続く
日本には文字がなかったので、その存在が書き留められ歴史に名前が登場するのは、古代中国の前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事を記した漢書(かんじょ)が最初。日本の歴史区分では弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期にあたる。
その漢書で日本列島に住む人々が倭人と記された。
どうして「倭」なのかは諸説あって不明。
倭人自らが「倭」と言ったのではなく、地球人が隣の惑星を火星、そこに住んでいる宇宙人を火星人と彼らの言語とは関係なく呼ぶように、中国側が勝手に名付けたと私は推測している。
そしてそれは日本人をバカにした蔑称だった。蔑称かどうかについても諸説あるものの、その後に邪悪の邪のつく邪馬台国、卑しいの卑のつく卑弥呼なんて名前の付け方を見ても「チビでナヨナヨした列島人」の意味を込めたネーミングだと思っている。
しかし悲しきかな文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。もちろん漢字の輸入。その後に漢字を日本語の音に当て字した万葉仮名が使われ出すのが飛鳥時代中期の650年頃。そこからオリジナル日本文字であるカタカナが生まれたのが平安時代に入った800年頃で平仮名は850年頃とされている。
文字を使いだし漢字の意味がわかると、やがて「倭」が蔑称であったと日本人も気付く。
そして607年に聖徳太子が隋の皇帝に送った有名な国書の一節。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや
ひいづる ひぼっする
地理的に日本が東、中国が西の位置関係にあるのをもじって「太陽の昇る国の天子(日本の天皇)が太陽の沈む国の天子(隋の皇帝)に書状をお届けします、お変わりありませんか」と言うような意味。
これに対し隋の皇帝は「属国のくせに無礼だ。二度と受け取るな」と命じたという。彼が怒ったのは「日出づる、日没する」の表現ではなく「私も天子、あなたも天子つまり同格対等」と主張していたからと一般に解説されている。
この国書の記録は日本にはない。このエピソードが記録されているのは隋(581〜618年)の歴史書である隋書の倭国伝で、国書の全文は残っていないようだ。だからこの国書で「倭」の記述があったかどうかは不明。
ところでこの聖徳太子が同格対等を主張したとは、大国の隋に対して一歩も引かなかった=ニッポンすごいの国威高揚史観に基づく解釈だとの学説もある。
日出づる処の天子〜と書いたのは単に言葉遣いを知らなかっただけ、あるいは日出づる・日没すると天子も仏教的表現だともされている。(国書の前に「皇帝は仏教を広めていると伺って(私もそうなので)使者を送ります」と奏上している)そして隋の皇帝が怒ったのはその表現や内容ではなく、国書としてはカジュアルな文体だったかららしい。同格対等を主張する意図さえ伝わらなかったとの説もある。
国威高揚史観では聖徳太子が対等を主張できたのは、隋が朝鮮半島の高句麗と緊張状態にあり、それを見通しての外交センスとするが、それは何となく後付けの理屈っぽい。また隋はこの国書に対する返答として使者を日本に送り込み、その使者に対して聖徳太子は「大国の隋と較べれば、なにせ私は田舎者で礼儀も知らず、その節は失礼しました」と述べている。これもヤッテモウタと震え上がって謝罪したのか、ウソぶいて使者をあしらったのか解釈が分かれるところ。
結局のところ、この国書の意図は聖徳太子本人に確かめてみないとわからない。ただし尋ねたところで彼は政治家だから本当のことを喋るとも限らない(^^ゞ 聖徳太子を現代あるいは現職の政治家に置き換えてもそれは同じで、歴史とは事実が半分、推理と妄想が半分でできているのだといつも思う。
あっ、日本の読みに関係のない聖徳太子の国書に話がずれてしまった(^^ゞ
聖徳太子の国書から約100年後、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると随の後に成立した唐に対して宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られ、やはり倭の名前を嫌っていたとわかる。松下電器→パナソニックのようなイメージ戦略ではない。
他にも日本と名乗った時期については諸説あるものの、深入りしても本題とはあまり関係ないし、だいたいその頃=ナント大きな平城京710年の奈良時代に入る少し前だとしておく。それもややこしいので日本になったのは奈良時代からとしてもいいだろう。
奈良時代からだと考えると国号としての日本の歴史は意外と浅いと感じるね。日本に対する最初の文献となる漢書は「海の向こうに倭人が住んでいる」程度の内容で時期を示す記述はない。でも漢書が対象としている前漢王朝は紀元前206年〜8年なので、中間を取って紀元前100年とすると、
倭の時代 紀元前100年〜710年=810年
日本の時代 710年〜2025年=1315年
倭だった期間を1とすると日本は1.6。比率にするとさらに短く感じる。記録として残った最初が漢書であるだけで、もっと以前から倭と呼ばれていたはずで、倭と日本の歴史はあまり差がないのかも知れない。
まあとにかく日本となった我が国。
問題は当初それを何と読んでいた発音していたかである。
学説にはこんなのがある。
1)ヤマト
2)ニェットプァン
そして、このどちらも素直にうなずけない。
ーーー続く
wassho at 22:18│Comments(0)│
│ノンジャンル
