2026年01月27日

観泉寺でロウバイ その3

ロウバイの花だけではなく、
ロウバイのある風景を撮ろうと試みるも花数が少ないので冴えない。
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諦めてきれいに整えられたマキでも撮りましょう。
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境内には竹林もある。
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まるで京都にでも来たような思いになるものの、
竹林が続いているのはコーナーを曲がった先までと短いよ(^^ゞ


竹林は鐘楼の裏手に。
その手前のウメが咲きそろえばバエる眺めになるはず。
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さて初回に書いたこのあたりは江戸時代に今川氏の領地で、この観泉寺もその菩提寺というお話。石標に記されていた「今川氏累代墓」は東京都の指定旧跡になっている。

それが墓地エリアにあるこの一画。
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ところろで今川氏累代といわれても、今川氏なんて信長に敗れた今川義元しか知らないし、その後も続いていたの?という人は多いと思う。私もそうだったので少し調べてみた。


義元(よしもと)は今川氏の11代目。その頃には東海地方において圧倒的な勢力を誇っていた。家康が8歳から今川家に人質として差し出されていたのは有名な話。

尾張に進軍してきた今川軍2万5000人に対して、2000人の兵力で織田軍が迎え撃った桶狭間の戦いが1560年。義元は討ち取られたとはいえ、これは義元の本陣だけを奇襲したゲリラ攻撃のようなもので、軍事勢力的に今川軍は決定的なダメージは負っていない。

義元の後を継いだのは嫡男(ちゃくなん:正妻の産んだ長男)の氏真(うじざね)。当時23歳。オトウチャンの義元は武田や北条とも同盟を結び、今川家の領地を最大限にまで拡大し「海道一の弓取り」と称された人物。海道とは東海道であり、現在のイメージと違って茨城から三重までの太平洋沿岸エリアを指す。また弓取りとは戦国大名の意。

そんな大物の息子がヘタレなのはよくある話で、あれよあれよという間に配下の武将に離反され、隣国の武田や徳川にも攻め込まれる。ヨメの実家の北条氏に援軍を求めたりしたものの、最終的には1569年にかつては人質として預かっていた家康の配下に入る。これをもって今川家は滅亡した。桶狭間からわずかに9年。

ところで歴史には滅亡との言葉がよく出てくる。辞書を引くと「ほろびる、絶えてなくなる」などと書いてある。全滅とイメージが重なるので何もかも消えてしまった響きがあるが、これは基本的に統治者ではなくなったとの意味。平家の滅亡のように主要メンバーがほとんど死亡するのは例外。今回だって別に氏真(うじざね)やその一族が皆殺しにされたわけじゃない。


家康配下の氏真(うじざね)は信長・家康連合軍と武田勝頼の軍勢が衝突した1575年の長篠の戦いなどには(後方支援部隊として)参加しているが、50歳過ぎの1590年頃に京都に移住して隠居生活に入り、和歌や蹴鞠(けまり)など文化人として過ごす。

その当時に家康より与えられていた石高は500石。かつての今川家40万石と較べれば800分の1。もっとも石高(領地の米生産量)のうち大名の取り分は約4割で、さらにその半分は家来の給料などに当てる必要があり、実質的な収入は石高の2割=40万石×0.2=8万石。それでも8万石÷500石=160分の1だから気絶しそうなくらいの年俸ダウンには違いないが。1石が今の貨幣価値でいくらかは諸説あり、その中間的な値を採って10万円とすると8万石は80億円、500石は5000万円。その計算が妥当だとすれば隠居暮らしには十分な年収だったかも。

晩年は江戸に移り、家康から品川に屋敷を与えられている。1614年に77歳で死去(大坂冬の陣のあった年)。同じく武田信玄という偉大な父親を持つ勝頼と較べれば、氏真(うじざね)は没落したとはいえそれなりに幸せな人生だったようにも思える。


そして氏真(うじざね)の孫、義元のひ孫が 直房(なおふさ)。彼が14歳のときに父親の範以(のりもち)が亡くなり母親は公家と再婚したので、それ以降は祖父である氏真に育てられる。生まれ育ったのも京都であり、そこで文化人としての教養も受け継いだと思われ、家光の時代に高家(こうけ)に登用される。高家とは幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職である。

ところで高家と聞いて思い浮かぶのは忠臣蔵で浅野内匠頭(たくみのかみ)に斬りつけられた吉良上野介(きら・こうずけのすけ)。朝廷からの勅使接待の現場を任されたのが浅野で、その指導監督にあたったのが高家である上野介。田舎大名の浅野をバカにした上野介のイジメにぶち切れて斬りつけたのが忠臣蔵事件の始まり。

上野介以外の高家なんて今まで聞いたこともなかったが、
なんと今川家と吉良家は親戚だった!
そのルーツを探ると、

鎌倉前期の武将であり幕府有力御家人の足利宗家3代目当主:足利義氏(よしうじ)の庶長子(しょちょうし:正妻以外から生まれた長男)が足利長子(ながうじ)。ちなみに室町幕府を起こした足利尊氏は足利宗家8代目になる。

長子(ながうじ)は後に領地の三河国(愛知県東部)吉良荘の名前を取って吉良長氏と名乗り彼が吉良家の始祖となる。その次男の国氏(くにうじ)が三河国幡豆郡今川庄を領して今川姓を名乗ったのが今川家の始まり。つまり吉良家は足利家の傍流であり、今川家は吉良家の分家。

どちらも足利一門において名門とされ「将軍家が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と評されたほど。言ってみれば江戸幕府の尾張・紀伊・水戸の徳川御三家のようなポジション。

イヤ〜それにしても、忠臣蔵の吉良上野介と桶狭間の今川義元の血縁がつながっていたとはビックリだわ。歴史ははおもしろいというか世の中は狭いね。


さて高家となった直房(なおふさ)は様々な職務をこなし一番の活躍は東照宮関連。ご存じのように家康を祀る神社であるが、当初に朝廷から示された名前は一段格下の東照「社」。これを「宮」にしたかったのが家光。本来「宮」は皇族男子を祀った神社に与えられる名前なので、これはかなり強引な要求。しかし直房は氏真以来培ってきた朝廷とのコネクションを生かして交渉し見事に宮号の宣下を得る。

この功績により直房は観泉寺周辺の3つの村を領地として与えられる。その石高は500石。氏真(うじざね)が家康から与えられていた500石も相続していて合計1000石。先ほどの計算に当てはめればめでたく「億り人」となり今川家中興の祖として賞賛されるようになった。

墓地にある説明看板。
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ここに書かれている「義元から三代目となる直房」とはちょっと説明不足。三代目というと孫だけれど直房は義元のひ孫である。これには義元が今川家11代目、その子の氏真(うじざね)が12代目で、氏真の子=直房の父の範以(のりもち)が38歳と若くして亡くなったのでまだ家督を継いでおらず、その子の直房が13代目となった背景がある。それで今川家当主の順で数えると「義元から三代目」との表現になる。

この説明書きによると子孫やその妻など20名の墓がある。
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直房の墓は一番右にある丸い石柱。
中興の祖の割にはあっさりしている。
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右から4番目が氏真で最も大きい。その隣が氏真の妻で同じ造り。さらに隣が範以(のりもち)で次にその妻が続く。それぞれ夫婦で墓石デザインを揃えているようだ。直房の妻の墓は一番左でこの写真には写っていない。

なお江戸時代に今川家は幕末まで11代続いたものの、23代当主の範叙(のりのぶ)の子供は18歳で夭折したため後継者がおらず、彼の代で今川宗家の系統は断絶した。範叙が亡くなったのは明治20年(1887年)。桶狭間の戦いから数えれば327年後。誰だ、桶狭間で今川氏は終わったなんて言ったのは(^^ゞ



歴史のお勉強はこれくらいにして、
観泉寺を退出。


初回に書いた山門を出た先の、
観泉寺の敷地と思われる場所に立ち寄ってみる。


まずは塀(へい)に囲まれた左側。
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ウメがきれいに咲いていたので園内もと期待したのに、
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門をくぐった先にお地蔵さんなどの石像があっただけで、
ここ以外は入れないようになっていた。
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右側の敷地は広場になっていて、同じくお地蔵さんその他の石柱や石仏が多数並ぶ。こちらは屋根付き。観泉寺の公式ホームページにこのエリアの記載はなし。
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左側も含めてすべての石柱石仏の前にはペットボトルのお茶が供えられていたのに、このお地蔵さんにはなし。ナンデ?
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いずれにせよどれもかなり古いもので200〜300年くらいは経っていそう。おそらく周辺各地にあった石柱石仏を、道路拡張工事など何らかの理由により移転したのだと思われる。



話をロウバイに戻すと、今回は訪れた時期が遅く咲きっぷりはイマイチだったが、それは別としても境内にロウバイは3本あるだけ(1本は植え込みの奥にあって近づけなかったのでブログには書いていない)。だからロウバイ目当てなら遠くから見に来るほどの場所ではない。しかしこの寺の静謐で凜とした美しさは特筆もの。一度は訪れておいて損はしない。私もまた別の季節に訪れるつもり。

ところでこんな雰囲気の寺は他にもあるのかな。
調べたいのだけれど、どうやって調べれば検索すればいいのか思案中。



おしまい

wassho at 22:15│Comments(0) お花畑探訪 

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