2026年04月26日
皇居東御苑でツツジと新緑 その2
日本庭園をブラブラ。
正確には二の丸庭園。
いつもはまずマツに目が行くのに、この季節は新緑の引き立て役。
二の丸庭園の池は「二の丸池」と何のヒネリもない名前がついている。
この池で泳いでいるのがヒレナガニシキゴイ。
その名前の通り胸ビレや尾ビレなどすべてのヒレが普通の錦鯉と較べて約2倍の長さ。ひらひらと舞っているように泳ぎ、特にこの金色のヒレナガニシキゴイはとても優雅かつ神秘的に見える。
この鯉は皇室ゆかりの品種。そのいきさつは、
1962年 皇太子時代の上皇がインドネシアを訪問し、当地でヒレナガゴイを見る。
1977年 埼玉県の水産試験場を視察。
その際にインドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを掛け合わせて
新種ができないかと提案。
水産試験場は1980年より品種改良に着手し、1982年にヒレナガニシキゴイが誕生。
1991年 二の丸池に放流される。
上皇といえばハゼの研究をライフワークとしていて、今までに10種類もの新種を発見しているのは知る人ぞ知る話。それに加えて鯉の交配にまで関わっていたとは根っからのサカナクンだね。
ちなみにこのヒレナガニシキゴイは別に皇室専用ではなく、鯉を売っているペットショップで普通に買える。
参考までに写真で形の比較
普通のニシキゴイ → https://x.gd/AB1vs
インドネシアのヒレナガゴイ→ https://x.gd/8jCZk
交配種のヒレナガニシキゴイ→ https://x.gd/53zLx
金色以外→ https://x.gd/a9HLx
二の丸池の奥に回り込むと、
落差1メートルほどの小さな滝がある。
この水はどこから来ているのだろう?
それはさておき滝とくれば、
ハイスピードシャッターで静止している水しぶき写真!
もっともこちらに来たのは滝の写真を撮るためではなく、
滝が池に注いでいる場所にヒレナガニシキゴイがよく集まるのを知っていたから。
泡と遊んでいるのか、あるいは水中の酸素が豊富なのか。
しばらく待っていると狙い通りヒレナガニシキゴイがやって来たものの、止まってポーズをとってくれるわけじゃないので思ったような写真にならず。これじゃ普通のニシキゴイとほとんど見分けがつかない(/o\)
あまり咲いていなかった二の丸庭園ツツジゾーンを後にして、
次の目的地へ向かう。
このそこそこ急な勾配の坂は梅林坂。
そういえば皇居東御苑の梅はまだ見ていない。
まあ70本しかないし。
梅林坂に入らず、そのまま真っ直ぐ住むと平川門に向かう。
平川門から出入りした経験はないので、その方向に何があるのか興味があった。
上の写真の外国人オバチャンと同じポーズで私も案内マップをチェック。
特に何もないようだ。
それで引き返して梅林坂。
これは坂の途中で下を見たところ。
美しい新緑に目を奪われる。
梅林坂を上ったところにあるのは宮内庁の書陵部。
皇室関連の文書や資料と陵墓の管理をしている。
ちなみに陵墓(りょうぼ)とは
陵(りょう、または みささぎ): 天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓。
墓(はか): その他の皇族の墓。
もちろん古墳も含まれて仁徳天皇陵なんて呼び方をする。それにしても書類と墓なんて変わった組み合わせの部署である。
ついでに
陵に葬られる太皇太后(たい こうたいごう)とは現在では先々代の天皇の配偶者=正妻=皇后を意味する。皇太后(こうたいごう)は一世代下がって先代の天皇の配偶者=正妻=皇后。つまり現在の天皇から見て祖母または母。ただし子や孫にあたる天皇が即位したときに存命しているのがこの称号が与えられる条件。
例えば昭和天皇の配偶者である香淳(こうじゅん)皇后は平成の天皇時代の皇太后。ただし2000年に亡くなり令和は2019年に始まるので、令和においての太皇太后ではない。なお美智子上皇后は本来ならば皇太后なのだけれど、
まず生前に譲位した平成の天皇を通例の太上天皇(だいじょうてんのう)ではなく上皇とした。そして皇太后=天皇が亡くなった未亡人のニュアンスがあるのと、上皇の名称とのマッチングを踏まえて上皇后に決まったいきさつがある。
いずれにせよ太皇太后と皇太后はかつては皇后であったわけで、そして皇后は「陵」にはいるのだから墓としては区別はない。
ここからが少しややこしい。
側室がいた時代には先々代または先代の皇后でなくても、天皇の祖母にあたる女性は太皇太后で母は皇太后とされた。ただしいろいろと例外や死後の贈位もあり、このあたりの事情は複雑でよく理解していない。
参考までに現在までの人数は天皇が126人で重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び即位)を差し引くと124人なのに対して、
皇后 110人
皇太后 68人 うち皇后でなかった女性 25人
太皇太后 16人
(カウント方法には諸説あり)
太皇太后(祖母)が16人なのは昔は寿命が短かったせいかも知れないが、皇太后(母)が68人なのは意外で何か制度上の理由がありそうだ。
案外と知られていないが明治天皇と大正天皇は側室の子供である。というか歴代天皇の半数以上はそうで、過去400年に限れば正妻である皇后もしくは中宮から生まれた天皇は明正天皇(102代:江戸時代初期:女性天皇)、昭和天皇、上皇、今上天皇の4人のみ。
それで
明治天皇の側室であった柳原愛子は3人の子供を産み、そのひとりが後に大正天皇となる。彼女が亡くなったのは1943年で、子である大正天皇の即位(1912年)、孫の昭和天皇の即位(1926年)時には存命。なのに皇太后や太皇太后になっていない。
逆に明治天皇の昭憲皇后は子供を産んでいないのに昭憲皇太后となった。また明治天皇の先代になる孝明天皇の側室である九条夙子(あさこ)は、別の側室である中山慶子が産んだ後の明治天皇を養育したとの理由で、明治天皇が即位すると英照皇太后となる。しかし生みの母の中山慶子は皇太后になっていない。
なにかと複雑な皇室のしきたりである。
さらに大宝律令の古代より「太皇太后→皇太后→皇后」の序列だったものを、明治43年になって「皇后→太皇太后→皇太后」の順に改めた。かつ追号(死後に贈られる・確定する位みたいなもの)は生前の最高位と定めたので、大正天皇の皇后は昭和になって皇太后になり、亡くなって皇后に戻るというややこしいことになっている。この法律は昭和22年に廃止されたが、昭和天皇の皇后もそれに準じて平成に皇太后、亡くなってからは皇后である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
宮内庁書陵部を過ぎると見えてくるのが天守台跡。
皇居東御苑で人気のスポットだが、それは後回しにして、
その先にあるのが北桔橋門(きた はねばし もん)の出入り口。
どうして桔橋が「はねばし」と読めるのか不思議なものの、かつては江戸城防御のために「跳ね橋」が架けられていたのでその名前が残る。写っているのは東御苑から出て行く人。
そしてこの北桔橋門のすぐそばにあるのが、
東京で最高に美しいと思っているケヤキの新緑。
ドーン!どや!(是非拡大して閲覧を)
たまらんなあ。
なぜか異常に新緑好きである。私があちこちの花を見て回っているのを知っている人に「何が一番好きですか?」と尋ねられて「実は花より新緑」と答えて笑われている。新緑のこのキミドリ色を見ると気分爽快になるし、同時にとても生命力を感じる。この季節に新緑を眺めて向こう1年分のエネルギーを蓄えているといっても言い過ぎじゃない。また首を伸ばしてムシャムシャ葉っぱを食べたい衝動に駆られて、前世はきっとキリンだったに違いないと思っている(^^ゞ
新緑と石垣とマツと鳥。
天守台の石垣とツーショットで。
北桔橋門から入ってきた人が、ここを素通りして天守台に向かうのが信じられない。私なんかこのケヤキの周りを3周したのに。この新緑を眺めないなんて皇居東御苑の楽しみの9割を見逃しているようものだゾ。
そろそろ天守台に上りましょう。
上部の様子。
ここは天守台の前に広がる芝生広場、かつての江戸城本丸跡を眺めるためのもの。
ーーーなのであるが私の目的は北桔橋門前の新緑を目線の高さでもう一度見ることにある。
ここまで行くとヘンタイの域に達しているね。
これが天守台を使った正しい景色の眺め方。
城には防御のための監視塔である櫓(やぐら)があり、建築構造的にはそれが巨大化したのが天守。しかし最初の天守は1576年に信長が築いた安土城に造られ、つまり戦国時代も終わりかけで、防御施設というより城のステイタスを誇示する建物である。
江戸城の天守はまず家康が1608年に築く。なのに二代将軍秀忠は「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と家康天守を取り壊し新天守を1622年に建設。このときにもう少し南側(日比谷寄り)にあった天守を、大奥を拡大する目的もあって、現在の天守台の位置に変更している。これで終わりかと思いきや三代将軍家光も「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と秀忠天守を取り壊し新天守を1638年に建設。どんだけ負けず嫌いな親子関係。
ただしこの家光天守は1657年(四代家綱の時代)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火で焼失。従って江戸城の天守は、解体・建て替え工事期間を考慮しない単純な引き算で
家康天守 1608年〜1622年=15年間
秀忠天守 1622年〜1638年=16年間
家光天守 1638年〜1657年=20年間
1608年〜1657年のトータルで50年しか存在しない。参考までに江戸時代は1603年〜1867年の265年。
明暦の大火の翌年に天守の基礎となる現在に残る天守台がまず復旧された。しかし「江戸市中が焼け野原になって困っているのに天守を再建するのはイカガナモノカ」と見送られ、その後も「もう徳川の御威光は広く行き渡っているし、今さらステイタスシンボルの天守は必要ない、財政もキビシイ」と再建されなかった。
ところで10年ほど前から江戸城天守の再建を目指す人々が活動を行っているようである。彼らは天守をインバウンド観光の目玉にとかクールジャパンの文化と技術を世界に発信とか理屈を並べているものの、江戸幕府が不要とした江戸城天守を再建する意義があるとは思えない。
そんなことをするより安土城を再建してくれ!
あの天守にこそ歴史のロマンが詰まっている。
さて
天守台の石垣も眺めましょう。
材質は花崗岩(かこうがん)、石材としての名称は御影石(みかげいし)。
この焦げ跡のようなものは何?
しかもなぜに円形?
全体としてけっこう緻密に積み上げられているのに、
ところどころにこういう「現物合わせ」的な処理もされている。。
ーーー続く
正確には二の丸庭園。
いつもはまずマツに目が行くのに、この季節は新緑の引き立て役。
二の丸庭園の池は「二の丸池」と何のヒネリもない名前がついている。
この池で泳いでいるのがヒレナガニシキゴイ。
その名前の通り胸ビレや尾ビレなどすべてのヒレが普通の錦鯉と較べて約2倍の長さ。ひらひらと舞っているように泳ぎ、特にこの金色のヒレナガニシキゴイはとても優雅かつ神秘的に見える。
この鯉は皇室ゆかりの品種。そのいきさつは、
1962年 皇太子時代の上皇がインドネシアを訪問し、当地でヒレナガゴイを見る。
1977年 埼玉県の水産試験場を視察。
その際にインドネシアのヒレナガゴイと日本のニシキゴイを掛け合わせて
新種ができないかと提案。
水産試験場は1980年より品種改良に着手し、1982年にヒレナガニシキゴイが誕生。
1991年 二の丸池に放流される。
上皇といえばハゼの研究をライフワークとしていて、今までに10種類もの新種を発見しているのは知る人ぞ知る話。それに加えて鯉の交配にまで関わっていたとは根っからのサカナクンだね。
ちなみにこのヒレナガニシキゴイは別に皇室専用ではなく、鯉を売っているペットショップで普通に買える。
参考までに写真で形の比較
普通のニシキゴイ → https://x.gd/AB1vs
インドネシアのヒレナガゴイ→ https://x.gd/8jCZk
交配種のヒレナガニシキゴイ→ https://x.gd/53zLx
金色以外→ https://x.gd/a9HLx
二の丸池の奥に回り込むと、
落差1メートルほどの小さな滝がある。
この水はどこから来ているのだろう?
それはさておき滝とくれば、
ハイスピードシャッターで静止している水しぶき写真!
もっともこちらに来たのは滝の写真を撮るためではなく、
滝が池に注いでいる場所にヒレナガニシキゴイがよく集まるのを知っていたから。
泡と遊んでいるのか、あるいは水中の酸素が豊富なのか。
しばらく待っていると狙い通りヒレナガニシキゴイがやって来たものの、止まってポーズをとってくれるわけじゃないので思ったような写真にならず。これじゃ普通のニシキゴイとほとんど見分けがつかない(/o\)
あまり咲いていなかった二の丸庭園ツツジゾーンを後にして、
次の目的地へ向かう。
このそこそこ急な勾配の坂は梅林坂。
そういえば皇居東御苑の梅はまだ見ていない。
まあ70本しかないし。
梅林坂に入らず、そのまま真っ直ぐ住むと平川門に向かう。
平川門から出入りした経験はないので、その方向に何があるのか興味があった。
上の写真の外国人オバチャンと同じポーズで私も案内マップをチェック。
特に何もないようだ。
それで引き返して梅林坂。
これは坂の途中で下を見たところ。
美しい新緑に目を奪われる。
梅林坂を上ったところにあるのは宮内庁の書陵部。
皇室関連の文書や資料と陵墓の管理をしている。
ちなみに陵墓(りょうぼ)とは
陵(りょう、または みささぎ): 天皇・皇后・太皇太后・皇太后の墓。
墓(はか): その他の皇族の墓。
もちろん古墳も含まれて仁徳天皇陵なんて呼び方をする。それにしても書類と墓なんて変わった組み合わせの部署である。
ついでに
陵に葬られる太皇太后(たい こうたいごう)とは現在では先々代の天皇の配偶者=正妻=皇后を意味する。皇太后(こうたいごう)は一世代下がって先代の天皇の配偶者=正妻=皇后。つまり現在の天皇から見て祖母または母。ただし子や孫にあたる天皇が即位したときに存命しているのがこの称号が与えられる条件。
例えば昭和天皇の配偶者である香淳(こうじゅん)皇后は平成の天皇時代の皇太后。ただし2000年に亡くなり令和は2019年に始まるので、令和においての太皇太后ではない。なお美智子上皇后は本来ならば皇太后なのだけれど、
まず生前に譲位した平成の天皇を通例の太上天皇(だいじょうてんのう)ではなく上皇とした。そして皇太后=天皇が亡くなった未亡人のニュアンスがあるのと、上皇の名称とのマッチングを踏まえて上皇后に決まったいきさつがある。
いずれにせよ太皇太后と皇太后はかつては皇后であったわけで、そして皇后は「陵」にはいるのだから墓としては区別はない。
ここからが少しややこしい。
側室がいた時代には先々代または先代の皇后でなくても、天皇の祖母にあたる女性は太皇太后で母は皇太后とされた。ただしいろいろと例外や死後の贈位もあり、このあたりの事情は複雑でよく理解していない。
参考までに現在までの人数は天皇が126人で重祚(ちょうそ:一度退位した天皇が再び即位)を差し引くと124人なのに対して、
皇后 110人
皇太后 68人 うち皇后でなかった女性 25人
太皇太后 16人
(カウント方法には諸説あり)
太皇太后(祖母)が16人なのは昔は寿命が短かったせいかも知れないが、皇太后(母)が68人なのは意外で何か制度上の理由がありそうだ。
案外と知られていないが明治天皇と大正天皇は側室の子供である。というか歴代天皇の半数以上はそうで、過去400年に限れば正妻である皇后もしくは中宮から生まれた天皇は明正天皇(102代:江戸時代初期:女性天皇)、昭和天皇、上皇、今上天皇の4人のみ。
それで
明治天皇の側室であった柳原愛子は3人の子供を産み、そのひとりが後に大正天皇となる。彼女が亡くなったのは1943年で、子である大正天皇の即位(1912年)、孫の昭和天皇の即位(1926年)時には存命。なのに皇太后や太皇太后になっていない。
逆に明治天皇の昭憲皇后は子供を産んでいないのに昭憲皇太后となった。また明治天皇の先代になる孝明天皇の側室である九条夙子(あさこ)は、別の側室である中山慶子が産んだ後の明治天皇を養育したとの理由で、明治天皇が即位すると英照皇太后となる。しかし生みの母の中山慶子は皇太后になっていない。
なにかと複雑な皇室のしきたりである。
さらに大宝律令の古代より「太皇太后→皇太后→皇后」の序列だったものを、明治43年になって「皇后→太皇太后→皇太后」の順に改めた。かつ追号(死後に贈られる・確定する位みたいなもの)は生前の最高位と定めたので、大正天皇の皇后は昭和になって皇太后になり、亡くなって皇后に戻るというややこしいことになっている。この法律は昭和22年に廃止されたが、昭和天皇の皇后もそれに準じて平成に皇太后、亡くなってからは皇后である。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
宮内庁書陵部を過ぎると見えてくるのが天守台跡。
皇居東御苑で人気のスポットだが、それは後回しにして、
その先にあるのが北桔橋門(きた はねばし もん)の出入り口。
どうして桔橋が「はねばし」と読めるのか不思議なものの、かつては江戸城防御のために「跳ね橋」が架けられていたのでその名前が残る。写っているのは東御苑から出て行く人。
そしてこの北桔橋門のすぐそばにあるのが、
東京で最高に美しいと思っているケヤキの新緑。
ドーン!どや!(是非拡大して閲覧を)
たまらんなあ。
なぜか異常に新緑好きである。私があちこちの花を見て回っているのを知っている人に「何が一番好きですか?」と尋ねられて「実は花より新緑」と答えて笑われている。新緑のこのキミドリ色を見ると気分爽快になるし、同時にとても生命力を感じる。この季節に新緑を眺めて向こう1年分のエネルギーを蓄えているといっても言い過ぎじゃない。また首を伸ばしてムシャムシャ葉っぱを食べたい衝動に駆られて、前世はきっとキリンだったに違いないと思っている(^^ゞ
新緑と石垣とマツと鳥。
天守台の石垣とツーショットで。
北桔橋門から入ってきた人が、ここを素通りして天守台に向かうのが信じられない。私なんかこのケヤキの周りを3周したのに。この新緑を眺めないなんて皇居東御苑の楽しみの9割を見逃しているようものだゾ。
そろそろ天守台に上りましょう。
上部の様子。
ここは天守台の前に広がる芝生広場、かつての江戸城本丸跡を眺めるためのもの。
ーーーなのであるが私の目的は北桔橋門前の新緑を目線の高さでもう一度見ることにある。
ここまで行くとヘンタイの域に達しているね。
これが天守台を使った正しい景色の眺め方。
城には防御のための監視塔である櫓(やぐら)があり、建築構造的にはそれが巨大化したのが天守。しかし最初の天守は1576年に信長が築いた安土城に造られ、つまり戦国時代も終わりかけで、防御施設というより城のステイタスを誇示する建物である。
江戸城の天守はまず家康が1608年に築く。なのに二代将軍秀忠は「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と家康天守を取り壊し新天守を1622年に建設。このときにもう少し南側(日比谷寄り)にあった天守を、大奥を拡大する目的もあって、現在の天守台の位置に変更している。これで終わりかと思いきや三代将軍家光も「オトウチャンより立派な天守を造りたい」と秀忠天守を取り壊し新天守を1638年に建設。どんだけ負けず嫌いな親子関係。
ただしこの家光天守は1657年(四代家綱の時代)に江戸の大半を焼き尽くした明暦の大火で焼失。従って江戸城の天守は、解体・建て替え工事期間を考慮しない単純な引き算で
家康天守 1608年〜1622年=15年間
秀忠天守 1622年〜1638年=16年間
家光天守 1638年〜1657年=20年間
1608年〜1657年のトータルで50年しか存在しない。参考までに江戸時代は1603年〜1867年の265年。
明暦の大火の翌年に天守の基礎となる現在に残る天守台がまず復旧された。しかし「江戸市中が焼け野原になって困っているのに天守を再建するのはイカガナモノカ」と見送られ、その後も「もう徳川の御威光は広く行き渡っているし、今さらステイタスシンボルの天守は必要ない、財政もキビシイ」と再建されなかった。
ところで10年ほど前から江戸城天守の再建を目指す人々が活動を行っているようである。彼らは天守をインバウンド観光の目玉にとかクールジャパンの文化と技術を世界に発信とか理屈を並べているものの、江戸幕府が不要とした江戸城天守を再建する意義があるとは思えない。
そんなことをするより安土城を再建してくれ!
あの天守にこそ歴史のロマンが詰まっている。
さて
天守台の石垣も眺めましょう。
材質は花崗岩(かこうがん)、石材としての名称は御影石(みかげいし)。
この焦げ跡のようなものは何?
しかもなぜに円形?
全体としてけっこう緻密に積み上げられているのに、
ところどころにこういう「現物合わせ」的な処理もされている。。
ーーー続く



































