2026年05月01日
皇居東御苑でツツジと新緑 その4
芝生広場を抜けて百人番所のところへ降りてきた。
左側の石垣は天守台と同じ材質と積み方。
少し離れたところの石垣はかなりラフ。
家康が豊臣秀吉の命で江戸に移されたのは1590年。そして江戸城を本格的に築城し始めたのは1603年とされる。この石垣がいつ積まれたのかは知らないが、現在に残る天守台が造られたのは1658年だから、最大で55年の間に不揃いな石垣から、きちんと形を整えた石垣に進化したことになる。
ただしそれでもこの石垣はきれいに積まれている部類。もっと不揃いな石でガタガタに摘まれている城の石垣も多い。城好きな人はそれを「いい石垣だ」なんて見入っているけれど、私はいつも情けない気持ちになる。エジプトのピラミッドなんて(建設当時は)紙一枚通らなかったといわれるほど精緻に積み上げられている。そのピラミッドが造られたのは今から4500年前の紀元前2500年頃やゾ! それが日本では16〜17世紀にこのレベル(>_<)
もっともこんなにバラバラの石を積み上げて崩れない技術はある意味凄いが。
日本に石の加工技術がなかったわけではない。墓石は江戸の初期にはあるし、石できた供養などは平安時代から建てられている。また日本最古の石橋である長崎の眼鏡橋は1634年と江戸時代初期の建造(設計は中国人の僧侶)。
ただし石造りの建物が造られるのは明治になって西洋の建設技術が導入されて以降。墓は部材だし石垣や石橋は構造物。どうして日本で石の建築が生まれなかったのか、そのうち研究してみましょう。
ところで前々回に家光天守が1657年に明暦の大火で焼け落ちたと書いた。そのときには本丸御殿等も焼失している。それどころか江戸城の歴史は火事の歴史でもある。御殿全体が燃えた火災だけでも10回を数える。
1634年 西の丸御殿を焼失
1639年 本丸御殿を焼失
1657年 天守と本丸、二の丸、三の丸の各御殿を焼失
1747年 二の丸御殿を焼失
1838年 西の丸御殿を焼失
1844年 本丸御殿を焼失
1852年 西の丸御殿を焼失
1859年 本丸御殿を焼失
1863年 本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失
1868年 二の丸御殿を焼失
(なお表記は新暦)
それ以外に大規模な火災が26回あり合計36回。江戸時代は265年間だから7年に1回の割合で炎上している計算。その度に幕府は膨大な建設費を投じて御殿を再建(1863年に焼失した本丸と西の丸を除く)。「そろそろ燃えないように石造りにしようぜ」とは誰か言わなかったのかな(^^ゞ

(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
百人番所と新緑。
江戸時代の侍も「新緑がきれいでござるなあ」とか会話してたかもね。
アップで撮り忘れたが、建物の隣にある生け垣は百人番所の形に刈り込まれている。
石垣と新緑。
ここで東御苑の新緑も見納め。
出入り口の大手門と丸の内のビル群。
東京駅が明治と現代の組み合わせなら、こちらは江戸と現代。
大手門を抜けて丸の内の街並み。
以前は東御苑を散策した後に丸の内のビル群を見ると、江戸時代から現在へタイムスリップして戻ってきたような感覚を味わえた。しかし今は御苑内に外国人観光客がたくさんいて、あまり江戸時代気分になれず、したがってタイムスリップ感も希薄。
内堀通りを日比谷方向に向かう。
巽櫓を過ぎて、
右に曲がると皇居前広場に入る。
写真は東京駅方向。
内堀通りを挟んで東京駅側の芝生は中に入れるが皇居側は立ち入り禁止。
これは坂下門。
井伊直弼が襲撃された「桜田門外の変(1860年)」ほど有名じゃないものの、その2年後に同じような「坂下門外の変」という事件もあった。
坂下門の右奥に見えるのが宮内庁。
宮内庁に営業に出かけて、この坂下門を通りたい(^^ゞ
南側を向いて。
まさに広場!
写っているのはこれでも皇居前広場の1/5ほど。
皇居は大きく4つのエリアがある。図は宮内庁ホームページから引用編集
天皇の住まいや宮殿、宮内庁がある狭義の皇居
日本武道館のある北の丸公園
皇居東御苑
皇居前広場
地図で「皇居外苑」と赤線を引いてある場所が「皇居前広場」。皇居外苑は正確には皇居前広場、和田倉噴水公園、北の丸公園、その他の全体を指す。皇居東御苑が含まれていないのは皇居外苑が環境省の管轄で、狭義の皇居と東御苑は宮内庁の管轄だから。この地図は宮内庁制作で環境省管轄部分には色がついていない(^^ゞ
なお一般的には皇居前広場のことを皇居外苑と呼ぶ場合も多い。
トータルの面積は230ヘクタール。面積単位の東京ドーム(4.7ヘクタール)で換算すると49個分。でも東京ドーム2つ分、3つ分位なら広さのイメージが湧くけれど、49個だとピンとこないね。
そこで皇居の230ヘクタールを単位として使用すると
千代田区:1166ヘクタール:皇居5つ分:千代田区の2割を皇居が占める
山手線の内側:6300ヘクタール:皇居27個分:皇居が約3.7%を占める
バチカン:44ヘクタール:皇居の約2割
モナコ:202ヘクタール:皇居とほぼ同じ
これは慶長江戸絵図と呼ばれる1608年頃、つまり江戸時代が始まって6年目の江戸城を描いた地図。
本丸には本丸御殿があり江戸幕府の中枢。
御殿の内部は3つの区画に分かれ、
表:将軍の政務の場。現在なら首相官邸。
中奥:将軍の私的空間。現在なら首相公邸。
大奥:将軍家族の生活空間であり、将軍が世継ぎ作りに励むところ(^^ゞ
面積では大奥が本丸御殿の約半分を占めて最も広い。将軍の仕事としてそれだけ世継ぎ作りが重視されていたわけで、それはそれでプレッシャーかかるよね。
二の丸には二の丸御殿と庭園があり将軍の別宅的存在。いくら江戸城が広いとはいえ本宅の隣に別宅とは。西の丸には西の丸御殿。ここには将軍を引退した大御所や将軍の世継ぎなどが住んだ。また本丸御殿のバックアップ的な存在でもあり、表・中奥・大奥を備えている。何たってしょっちゅう火事で燃えているので備えは大事。三の丸にも初期には御殿があったが二の丸の拡大で取り壊され、本丸に登城する際の通路に。
それ以外のエリアは幕臣や大名の屋敷として使われた。ちなみに江戸では将軍の使う建物が御殿で、それ以外は屋敷。だから大名屋敷で大名御殿とは言わない。江戸を離れたそれぞれの領地では大名は御殿を持っている。(この解釈の自信度は60%くらい)。
この絵図と照らし合わせると皇居前広場は西の丸下だった場所。
明治になって伊藤博文がここを広場に造り替えた。
ついでに
何度も御殿を焼失した江戸城であったが、1859年の焼失まではすぐに再建している。しかし1863年に本丸・二の丸・西の丸の各御殿を焼失した頃には幕府の弱体化が進んでおり、
本丸御殿→再建せず
二の丸御殿→再建。ただし1868年1月にまた焼失し、その後は再建せず
西の丸御殿→仮御殿にスペックダウンして再建
となる。
したがって1867年11月:大政奉還〜1868年1月:鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て、1868年5月に幕府が江戸城を引き渡した際に残っていたのは西の丸仮御殿のみ。それで天皇がそこに入り、戦後の1949年(昭和24年)に皇居前広場、1968年(昭和43年)皇居東御苑、1969年(昭和44年)北の丸公園が一般開放され、江戸城の西の丸と吹上エリアが狭義の皇居となった。
だからもし江戸末期に本丸や二の丸を焼失していなければ、明治天皇はそちらに入ったはずで、現在の皇居東御苑はなかったかも知れない。まあ皇居西御苑ができた可能性もあるが。
さらについでに
明治天皇が使っていた西の丸仮御殿であるが1873年(明治6年)に火災によって焼失! 江戸城の火災の歴史は明治になっても続いていた。そやから石造りにしろとーーー(^^ゞ
ところで皇居前広場が一般開放されたのが1949年(昭和24年)なのは、所管の環境省のホームページにも記載されており確かなものの、思い浮かべるのは終戦の日になるとよく見るこの映像。
玉音放送を聴いて皇居に集まってきた人たちで、その場所は皇居前広場。当時も自由に出入りできたのか、それともこの日は特別だったのか。
ちなみに江戸城は1868年(明治元年)に東京城(とうけいじょう)→1869年(明治2年)に皇城(こうじょう)→1888年(明治21年)に宮城(きゅうじょう)→1948年(昭和23年)に皇居と名前が変わっている。だから当時は宮城前広場。
皇居の宮殿に渡る二重橋。
かつては木造で下部にも補強の橋桁のある橋だったのでそう呼ばれる。
正式名称は正門鉄橋。
皇居の正門。
デザインは坂下門とよく似ている。
お堀をまたいで正門につながっているのが正門石橋。
10年ほど前まで私もそうだったように、こちらを二重橋と思っている人も多い。また正門石橋と正門鉄橋の2つの橋があるから二重橋なんて新解釈も生まれている。
皇居の宮殿に入るには、この2つの橋を渡る。
正門の脇にいる皇宮護衛官。
皇族を守る皇宮警察に属する職員は警察官ではなく護衛官と呼ばれる。職種によって様々な制服があり、ここで着用しているのは儀礼服。肩から胸にかかっている赤いのは「警笛つりひも」とよばれ先端に警笛(ホイッスル)がつながっている。警察官の儀礼服の警笛つりひもは金色、護衛官は赤。
直立不動の姿勢でご苦労様と思っていたら!
まばたきをしたときにたまたまシャッターを切ったと思っておこう。
皇居のアイコンである正門石橋を正面で。
アーチがふたつあるので、これを二重橋と思ってしまうのは仕方ない。奥に見えているのは伏見櫓(やぐら)。別名は月見櫓。秀吉の建てた伏見城から家光が移築したと伝わるが記録はないそうだ。
皇居前広場を一番南側で振り返る。
180度向きを変えて右側に見えるのが桜田門。
桜田門の前に並んでいる建物は右が警視庁、左が警察庁。
刑事ドラマで仲が悪く描かれるが実際はどうなんだろう。
なお先ほどの皇宮警察が属するのは警察庁。
桜田門とは反対方向から内堀通りに出る。
日曜日の午前10時〜午後4時まではサイクリング道路。
ここでクルマは通行止め。
というわけで交差点は赤信号でもクルマは来ないので、
堂々と道路の真ん中で最後の1枚。
おしまい
左側の石垣は天守台と同じ材質と積み方。
少し離れたところの石垣はかなりラフ。
家康が豊臣秀吉の命で江戸に移されたのは1590年。そして江戸城を本格的に築城し始めたのは1603年とされる。この石垣がいつ積まれたのかは知らないが、現在に残る天守台が造られたのは1658年だから、最大で55年の間に不揃いな石垣から、きちんと形を整えた石垣に進化したことになる。
ただしそれでもこの石垣はきれいに積まれている部類。もっと不揃いな石でガタガタに摘まれている城の石垣も多い。城好きな人はそれを「いい石垣だ」なんて見入っているけれど、私はいつも情けない気持ちになる。エジプトのピラミッドなんて(建設当時は)紙一枚通らなかったといわれるほど精緻に積み上げられている。そのピラミッドが造られたのは今から4500年前の紀元前2500年頃やゾ! それが日本では16〜17世紀にこのレベル(>_<)
もっともこんなにバラバラの石を積み上げて崩れない技術はある意味凄いが。
日本に石の加工技術がなかったわけではない。墓石は江戸の初期にはあるし、石できた供養などは平安時代から建てられている。また日本最古の石橋である長崎の眼鏡橋は1634年と江戸時代初期の建造(設計は中国人の僧侶)。
ただし石造りの建物が造られるのは明治になって西洋の建設技術が導入されて以降。墓は部材だし石垣や石橋は構造物。どうして日本で石の建築が生まれなかったのか、そのうち研究してみましょう。
ところで前々回に家光天守が1657年に明暦の大火で焼け落ちたと書いた。そのときには本丸御殿等も焼失している。それどころか江戸城の歴史は火事の歴史でもある。御殿全体が燃えた火災だけでも10回を数える。
1634年 西の丸御殿を焼失
1639年 本丸御殿を焼失
1657年 天守と本丸、二の丸、三の丸の各御殿を焼失
1747年 二の丸御殿を焼失
1838年 西の丸御殿を焼失
1844年 本丸御殿を焼失
1852年 西の丸御殿を焼失
1859年 本丸御殿を焼失
1863年 本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失
1868年 二の丸御殿を焼失
(なお表記は新暦)
それ以外に大規模な火災が26回あり合計36回。江戸時代は265年間だから7年に1回の割合で炎上している計算。その度に幕府は膨大な建設費を投じて御殿を再建(1863年に焼失した本丸と西の丸を除く)。「そろそろ燃えないように石造りにしようぜ」とは誰か言わなかったのかな(^^ゞ

(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
百人番所と新緑。
江戸時代の侍も「新緑がきれいでござるなあ」とか会話してたかもね。
アップで撮り忘れたが、建物の隣にある生け垣は百人番所の形に刈り込まれている。
石垣と新緑。
ここで東御苑の新緑も見納め。
出入り口の大手門と丸の内のビル群。
東京駅が明治と現代の組み合わせなら、こちらは江戸と現代。
大手門を抜けて丸の内の街並み。
以前は東御苑を散策した後に丸の内のビル群を見ると、江戸時代から現在へタイムスリップして戻ってきたような感覚を味わえた。しかし今は御苑内に外国人観光客がたくさんいて、あまり江戸時代気分になれず、したがってタイムスリップ感も希薄。
内堀通りを日比谷方向に向かう。
巽櫓を過ぎて、
右に曲がると皇居前広場に入る。
写真は東京駅方向。
内堀通りを挟んで東京駅側の芝生は中に入れるが皇居側は立ち入り禁止。
これは坂下門。
井伊直弼が襲撃された「桜田門外の変(1860年)」ほど有名じゃないものの、その2年後に同じような「坂下門外の変」という事件もあった。
坂下門の右奥に見えるのが宮内庁。
宮内庁に営業に出かけて、この坂下門を通りたい(^^ゞ
南側を向いて。
まさに広場!
写っているのはこれでも皇居前広場の1/5ほど。
皇居は大きく4つのエリアがある。図は宮内庁ホームページから引用編集
天皇の住まいや宮殿、宮内庁がある狭義の皇居
日本武道館のある北の丸公園
皇居東御苑
皇居前広場
地図で「皇居外苑」と赤線を引いてある場所が「皇居前広場」。皇居外苑は正確には皇居前広場、和田倉噴水公園、北の丸公園、その他の全体を指す。皇居東御苑が含まれていないのは皇居外苑が環境省の管轄で、狭義の皇居と東御苑は宮内庁の管轄だから。この地図は宮内庁制作で環境省管轄部分には色がついていない(^^ゞ
なお一般的には皇居前広場のことを皇居外苑と呼ぶ場合も多い。
トータルの面積は230ヘクタール。面積単位の東京ドーム(4.7ヘクタール)で換算すると49個分。でも東京ドーム2つ分、3つ分位なら広さのイメージが湧くけれど、49個だとピンとこないね。
そこで皇居の230ヘクタールを単位として使用すると
千代田区:1166ヘクタール:皇居5つ分:千代田区の2割を皇居が占める
山手線の内側:6300ヘクタール:皇居27個分:皇居が約3.7%を占める
バチカン:44ヘクタール:皇居の約2割
モナコ:202ヘクタール:皇居とほぼ同じ
これは慶長江戸絵図と呼ばれる1608年頃、つまり江戸時代が始まって6年目の江戸城を描いた地図。
本丸には本丸御殿があり江戸幕府の中枢。
御殿の内部は3つの区画に分かれ、
表:将軍の政務の場。現在なら首相官邸。
中奥:将軍の私的空間。現在なら首相公邸。
大奥:将軍家族の生活空間であり、将軍が世継ぎ作りに励むところ(^^ゞ
面積では大奥が本丸御殿の約半分を占めて最も広い。将軍の仕事としてそれだけ世継ぎ作りが重視されていたわけで、それはそれでプレッシャーかかるよね。
二の丸には二の丸御殿と庭園があり将軍の別宅的存在。いくら江戸城が広いとはいえ本宅の隣に別宅とは。西の丸には西の丸御殿。ここには将軍を引退した大御所や将軍の世継ぎなどが住んだ。また本丸御殿のバックアップ的な存在でもあり、表・中奥・大奥を備えている。何たってしょっちゅう火事で燃えているので備えは大事。三の丸にも初期には御殿があったが二の丸の拡大で取り壊され、本丸に登城する際の通路に。
それ以外のエリアは幕臣や大名の屋敷として使われた。ちなみに江戸では将軍の使う建物が御殿で、それ以外は屋敷。だから大名屋敷で大名御殿とは言わない。江戸を離れたそれぞれの領地では大名は御殿を持っている。(この解釈の自信度は60%くらい)。
この絵図と照らし合わせると皇居前広場は西の丸下だった場所。
明治になって伊藤博文がここを広場に造り替えた。
ついでに
何度も御殿を焼失した江戸城であったが、1859年の焼失まではすぐに再建している。しかし1863年に本丸・二の丸・西の丸の各御殿を焼失した頃には幕府の弱体化が進んでおり、
本丸御殿→再建せず
二の丸御殿→再建。ただし1868年1月にまた焼失し、その後は再建せず
西の丸御殿→仮御殿にスペックダウンして再建
となる。
したがって1867年11月:大政奉還〜1868年1月:鳥羽伏見の戦いの敗戦を経て、1868年5月に幕府が江戸城を引き渡した際に残っていたのは西の丸仮御殿のみ。それで天皇がそこに入り、戦後の1949年(昭和24年)に皇居前広場、1968年(昭和43年)皇居東御苑、1969年(昭和44年)北の丸公園が一般開放され、江戸城の西の丸と吹上エリアが狭義の皇居となった。
だからもし江戸末期に本丸や二の丸を焼失していなければ、明治天皇はそちらに入ったはずで、現在の皇居東御苑はなかったかも知れない。まあ皇居西御苑ができた可能性もあるが。
さらについでに
明治天皇が使っていた西の丸仮御殿であるが1873年(明治6年)に火災によって焼失! 江戸城の火災の歴史は明治になっても続いていた。そやから石造りにしろとーーー(^^ゞ
ところで皇居前広場が一般開放されたのが1949年(昭和24年)なのは、所管の環境省のホームページにも記載されており確かなものの、思い浮かべるのは終戦の日になるとよく見るこの映像。
玉音放送を聴いて皇居に集まってきた人たちで、その場所は皇居前広場。当時も自由に出入りできたのか、それともこの日は特別だったのか。
ちなみに江戸城は1868年(明治元年)に東京城(とうけいじょう)→1869年(明治2年)に皇城(こうじょう)→1888年(明治21年)に宮城(きゅうじょう)→1948年(昭和23年)に皇居と名前が変わっている。だから当時は宮城前広場。
皇居の宮殿に渡る二重橋。
かつては木造で下部にも補強の橋桁のある橋だったのでそう呼ばれる。
正式名称は正門鉄橋。
皇居の正門。
デザインは坂下門とよく似ている。
お堀をまたいで正門につながっているのが正門石橋。
10年ほど前まで私もそうだったように、こちらを二重橋と思っている人も多い。また正門石橋と正門鉄橋の2つの橋があるから二重橋なんて新解釈も生まれている。
皇居の宮殿に入るには、この2つの橋を渡る。
正門の脇にいる皇宮護衛官。
皇族を守る皇宮警察に属する職員は警察官ではなく護衛官と呼ばれる。職種によって様々な制服があり、ここで着用しているのは儀礼服。肩から胸にかかっている赤いのは「警笛つりひも」とよばれ先端に警笛(ホイッスル)がつながっている。警察官の儀礼服の警笛つりひもは金色、護衛官は赤。
直立不動の姿勢でご苦労様と思っていたら!
まばたきをしたときにたまたまシャッターを切ったと思っておこう。
皇居のアイコンである正門石橋を正面で。
アーチがふたつあるので、これを二重橋と思ってしまうのは仕方ない。奥に見えているのは伏見櫓(やぐら)。別名は月見櫓。秀吉の建てた伏見城から家光が移築したと伝わるが記録はないそうだ。
皇居前広場を一番南側で振り返る。
180度向きを変えて右側に見えるのが桜田門。
桜田門の前に並んでいる建物は右が警視庁、左が警察庁。
刑事ドラマで仲が悪く描かれるが実際はどうなんだろう。
なお先ほどの皇宮警察が属するのは警察庁。
桜田門とは反対方向から内堀通りに出る。
日曜日の午前10時〜午後4時まではサイクリング道路。
ここでクルマは通行止め。
というわけで交差点は赤信号でもクルマは来ないので、
堂々と道路の真ん中で最後の1枚。
おしまい
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