お花畑探訪
2024年06月20日
山下公園で春バラ 2024 その2
(5月10日の横浜バラツアーその9)
山下公園は長さ約750メートル、幅は中央付近で100メートル弱の細長い形。面積は7.4ヘクタール。沈床花壇=「未来のバラ園」。その隣が中央広場。中央広場の左右に前回に書いたパーゴラがひとつずつある。
中央広場にある噴水。
噴水を見るとハイスピード撮影をしたくなるのは、波しぶきの一瞬の姿を浮世絵にした葛飾北斎の血が私に流れているからに違いない(^^ゞ
今回は虹も撮れた!
噴水の真ん中に立っている彫刻は「水の守護神」。前回に書いた「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」と同じく横浜市の姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られたもの。ミッションベルはこの石像を取り囲むように4基設置されている。
よく見ると下のプレートには複製と書かれている。寄贈されたオリジナルが壊れてレプリカを作ったのかと思ったがそうじゃなかった。これのオリジナルはサンディエゴ市庁舎前にある石像で、ここにあるのがそのレプリカ。「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」もレプリカだし、サンディエゴ市はレプリカを贈るのが好きなのか?
ところで最初の写真が石像の後ろ姿なのは、
正面からだと逆光だったのと、
ハトが顔にフンをしていたから(^^ゞ
さまざまな色と形のバラを楽しみましょう。
これはまるでアジサイみたいな変わったバラだなと思って、
ネームプレートを確認するとポリアンサローズ。
しかし後でポリアンサローズを調べると、この花とはまったく違う丸みのある小ぶりのバラしかヒットしなかった。そこでこの写真で画像検索して、これはオルラヤ(またはオルレア)・グランディフロラとわかった。違うネームプレートを見ていたようだ(/o\)
この植え込みはバラ以外の植物がない区画だったからバラだと思い込んでしまった。それに一番近くのネームプレートを見たのだけどなあ。普通なら勘違いして恥ずかしいところであるが、私レベルの植物知識だと変わった形と気付いたのがちょっと誇らしい(^^ゞ
ちなみにオルラヤ(オルレア)はセリの仲間。セリなんて野菜のイメージしかなく花が思い浮かばないものの、これとよく似た花だった。 ついでにセリ以外ではアシタバ、パクチー、セロリ、にんじん、三つ葉などがセリ科の野菜ね
以下は間違いなくバラ(のはず)。
今回のドアップは赤と白だけで。
あちこちのバラ園に出かけてきた経験から
無料でこれだけのボリュームのあるところは少ないと言える。
ただしーーー
この山下公園でバラを見るのは2018年の春に続いて2回目。6年経っているわけだけれど、前回からの変化がほとんどないのが残念。毎年は無理だとしても3年おきくらいでもう少しリニューアルというか見せ方に変化をつけて欲しいと思う。
密集感のある植え方も私好み。
最後に氷川丸をまた眺める。
山下公園の向かいにある、
赤いテントが特徴的なホテルニューグランド。
建物の横を通り抜け、
中華街をチラ見したら、
元町・中華街駅にたどり着いて、
本日5月10日の横浜バラツアーは無事終了。
昨年の横浜バラツアーは
前菜にアメリカ山公園
メインディッシュが港の見える丘公園
余裕があればデザートとして山手資料館とイタリア山庭園
の予定で、やはり港の見える丘公園でお腹いっぱいになって終了。
それで今年は
昨年に訪れなかった山手資料館とイタリア山庭園
バラとは関係ないけれど、ついでに山手の西洋館巡りを組み合わせて
それだけじゃバラ花見として物足りないので山下公園
とのコース。ただし坂を登らずに山手地区に出るためには元町・中華街駅の屋上にあるアメリカ山公園を通るから、そこは昨年と被る。結果としてバラとレトロな洋館の組み合わせで楽しい1日だった。
横浜では他にもヴェルニー公園と横浜イングリッシュガーデンにも行ったことがある。しかし振り返ってみればすべて春バラ。秋にはアメリカ山公園→港の見える丘公園→山下公園のゲップ出まくりツアーでもしてみようかな。
おしまい
山下公園は長さ約750メートル、幅は中央付近で100メートル弱の細長い形。面積は7.4ヘクタール。沈床花壇=「未来のバラ園」。その隣が中央広場。中央広場の左右に前回に書いたパーゴラがひとつずつある。
中央広場にある噴水。
噴水を見るとハイスピード撮影をしたくなるのは、波しぶきの一瞬の姿を浮世絵にした葛飾北斎の血が私に流れているからに違いない(^^ゞ
今回は虹も撮れた!
噴水の真ん中に立っている彫刻は「水の守護神」。前回に書いた「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」と同じく横浜市の姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られたもの。ミッションベルはこの石像を取り囲むように4基設置されている。
よく見ると下のプレートには複製と書かれている。寄贈されたオリジナルが壊れてレプリカを作ったのかと思ったがそうじゃなかった。これのオリジナルはサンディエゴ市庁舎前にある石像で、ここにあるのがそのレプリカ。「エル・カミーノ・レアールのミッションベル」もレプリカだし、サンディエゴ市はレプリカを贈るのが好きなのか?
ところで最初の写真が石像の後ろ姿なのは、
正面からだと逆光だったのと、
ハトが顔にフンをしていたから(^^ゞ
さまざまな色と形のバラを楽しみましょう。
これはまるでアジサイみたいな変わったバラだなと思って、
ネームプレートを確認するとポリアンサローズ。
しかし後でポリアンサローズを調べると、この花とはまったく違う丸みのある小ぶりのバラしかヒットしなかった。そこでこの写真で画像検索して、これはオルラヤ(またはオルレア)・グランディフロラとわかった。違うネームプレートを見ていたようだ(/o\)
この植え込みはバラ以外の植物がない区画だったからバラだと思い込んでしまった。それに一番近くのネームプレートを見たのだけどなあ。普通なら勘違いして恥ずかしいところであるが、私レベルの植物知識だと変わった形と気付いたのがちょっと誇らしい(^^ゞ
ちなみにオルラヤ(オルレア)はセリの仲間。セリなんて野菜のイメージしかなく花が思い浮かばないものの、これとよく似た花だった。 ついでにセリ以外ではアシタバ、パクチー、セロリ、にんじん、三つ葉などがセリ科の野菜ね
以下は間違いなくバラ(のはず)。
今回のドアップは赤と白だけで。
あちこちのバラ園に出かけてきた経験から
無料でこれだけのボリュームのあるところは少ないと言える。
ただしーーー
この山下公園でバラを見るのは2018年の春に続いて2回目。6年経っているわけだけれど、前回からの変化がほとんどないのが残念。毎年は無理だとしても3年おきくらいでもう少しリニューアルというか見せ方に変化をつけて欲しいと思う。
密集感のある植え方も私好み。
最後に氷川丸をまた眺める。
山下公園の向かいにある、
赤いテントが特徴的なホテルニューグランド。
建物の横を通り抜け、
中華街をチラ見したら、
元町・中華街駅にたどり着いて、
本日5月10日の横浜バラツアーは無事終了。
昨年の横浜バラツアーは
前菜にアメリカ山公園
メインディッシュが港の見える丘公園
余裕があればデザートとして山手資料館とイタリア山庭園
の予定で、やはり港の見える丘公園でお腹いっぱいになって終了。
それで今年は
昨年に訪れなかった山手資料館とイタリア山庭園
バラとは関係ないけれど、ついでに山手の西洋館巡りを組み合わせて
それだけじゃバラ花見として物足りないので山下公園
とのコース。ただし坂を登らずに山手地区に出るためには元町・中華街駅の屋上にあるアメリカ山公園を通るから、そこは昨年と被る。結果としてバラとレトロな洋館の組み合わせで楽しい1日だった。
横浜では他にもヴェルニー公園と横浜イングリッシュガーデンにも行ったことがある。しかし振り返ってみればすべて春バラ。秋にはアメリカ山公園→港の見える丘公園→山下公園のゲップ出まくりツアーでもしてみようかな。
おしまい
wassho at 20:26|Permalink│Comments(0)│
2024年06月18日
山下公園で春バラ 2024
(5月10日の横浜バラツアーその8)
航空写真は山手イタリア山公園周辺。
そこを出て、
山手本通りに戻る。
写真は元町公園方向。
山下公園はさらにその先にある。しかしここに来た道を引き返すのじゃつまらないので、上の写真とは反対方向に進み、地蔵坂上の交差点から、
地蔵坂を下る。
かなりの急勾配。
それをほぼ下りきった所にある交差点。
諏訪神社までは250メートルほど離れているのに名前は諏訪神社前。
ここで右折すると、
ひらがな商店街に入る。
名前の由来は不明。
しばらく進むと石川町駅の南口と交差して、
そこから先はひらがな商店街から、
リセンヌ小路に名前が変わる。
リセンヌ lyceenne とはフランス語で女子高生。ただし日本語での表記はリセエンヌが一般的だし、フランス語でも「エ」は発音する。ちなみに高校はリセ lycee で男子高生がリセアン lyceen。
山手エリアにはフェリス女学院、横浜雙葉、横浜共立学園、横浜女学院などの有名女子校があり、それらの最寄りとなる石川町駅は「日本で一番女子高生が利用する駅」なんていわれたりもする。たぶんそれにあやかったのだろう。商店街の正式名称は石川壱商栄会で、愛称がリセンヌ小路のようだ。でもどうしてリセエンヌではなくリセンヌにした?
なお、ひらがな商店街とリセンヌ小路ともに昭和の雰囲気を残す商店街(^^ゞ
リセンヌ小径を抜けると本牧通りと交差する。
そこからひとつ北側が元町の交差点で元町商店街の西端。
シンボルのフェニックス。
でもこの鳥が何なのかはあまり知られていない気がする。
日本有数のオシャレなストリート。
お店などの様子は昨年に書いたブログをご参考に。
こちらは上の写真の撮影位置から180度回転、つまりリセンヌ小路と平行して並んでいる石川商店街。本牧通りを隔てただけでずいぶんと雰囲気が違う。
元町商店街を東に抜け、
マリンタワーの横を通って、
山下公園に到着。
これは翌日5月11日から始まる、
ワールドトライアスロンシリーズ横浜大会のための準備。
鉄棒みたいなのは自転車を置くための設備。
そしてバラ園となっている花壇にやってきた。
ここは沈床花壇といって周りより少し低く造られている。
以前は山下公園バラ園だったが2016年にリニューアルされて未来のバラ園との名前になった。ただしそのネーミングにどのような意味が込められているのかの情報は見当たらず。別に未来的な栽培をしているわけじゃない。
上の写真の右側にあるオベリスク仕立てのバラ。
本来のオベリスクは記念碑として大きな建造物だけれど、ガーデニングでのオベリスクとはこんなタイプを想像するから、このサイズならもはやローズタワーというべきか。
マリンタワーとローズタワー。
バラ好き、新緑好きなので同時に眺められてテンションが上がる。
バラと氷川丸。
この屋根ではない材木が天井にある構造物はパーゴラ pergola と呼ばれる。日本語では日陰棚(ひかげだな)や緑廊(りょくろう)。
棚(たな)は一般に物を載せるために横に渡した板を意味するが、植物がツルを這わせられるように木や竹を高いところに掛けた構造もそう呼ぶ。藤棚がその代表例。
ツルを這わせて日陰を作るのがパーゴラの目的だから、
こういう使い方は本来的ではないものの、
それはともかくバラの絡まった柱の美しさ。
パーゴラを外側から。
パーゴラの手前にあるエル・カミーノ・レアールのミッションベル。
まだカリフォルニアがメキシコと併せてスペインの植民地だった時代、スペイン語で「王の道」を意味する「エル・カミーノ・レアール」がサンディエゴからサンフランシスコまで約1000kmに敷設され、カトリック系フランシスコ会の修道士がその道路沿いに21箇所の伝道所(ミニ教会)を設けた。ちなみにサンフランシスコはフランシスコ会が地名の由来。
やがてエル・カミーノ・レアールは廃れたが、20世紀になりそのルート沿いに伝道所の象徴である釣り鐘=ミッションベルが建てられる。ある種の文化遺産保存活動。このミッションとはミッション系の学校と同じく伝道・布教との意味。
山下公園のミッションベルは横浜市と姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られたレプリカ。なお音を出すぶら下がっている部分(舌・ぜつ)はないので鳴らせない。
それにしても姉妹都市との友好の証しに、そのルーツが植民地支配されていた時代にまつわる物を贈るのはちょっとヘンな気がしなくもない。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
園内ブラブラ。
未来のバラ園は約5500平米(0.55ヘクタール)の敷地に、
これでもか!というくらいたくさんのバラが植えられている。
マリンタワーと一緒に。
ホテルニューグランドをバックに。
ーーー続く
航空写真は山手イタリア山公園周辺。
そこを出て、
山手本通りに戻る。
写真は元町公園方向。
山下公園はさらにその先にある。しかしここに来た道を引き返すのじゃつまらないので、上の写真とは反対方向に進み、地蔵坂上の交差点から、
地蔵坂を下る。
かなりの急勾配。
それをほぼ下りきった所にある交差点。
諏訪神社までは250メートルほど離れているのに名前は諏訪神社前。
ここで右折すると、
ひらがな商店街に入る。
名前の由来は不明。
しばらく進むと石川町駅の南口と交差して、
そこから先はひらがな商店街から、
リセンヌ小路に名前が変わる。
リセンヌ lyceenne とはフランス語で女子高生。ただし日本語での表記はリセエンヌが一般的だし、フランス語でも「エ」は発音する。ちなみに高校はリセ lycee で男子高生がリセアン lyceen。
山手エリアにはフェリス女学院、横浜雙葉、横浜共立学園、横浜女学院などの有名女子校があり、それらの最寄りとなる石川町駅は「日本で一番女子高生が利用する駅」なんていわれたりもする。たぶんそれにあやかったのだろう。商店街の正式名称は石川壱商栄会で、愛称がリセンヌ小路のようだ。でもどうしてリセエンヌではなくリセンヌにした?
なお、ひらがな商店街とリセンヌ小路ともに昭和の雰囲気を残す商店街(^^ゞ
リセンヌ小径を抜けると本牧通りと交差する。
そこからひとつ北側が元町の交差点で元町商店街の西端。
シンボルのフェニックス。
でもこの鳥が何なのかはあまり知られていない気がする。
日本有数のオシャレなストリート。
お店などの様子は昨年に書いたブログをご参考に。
こちらは上の写真の撮影位置から180度回転、つまりリセンヌ小路と平行して並んでいる石川商店街。本牧通りを隔てただけでずいぶんと雰囲気が違う。
元町商店街を東に抜け、
マリンタワーの横を通って、
山下公園に到着。
これは翌日5月11日から始まる、
ワールドトライアスロンシリーズ横浜大会のための準備。
鉄棒みたいなのは自転車を置くための設備。
そしてバラ園となっている花壇にやってきた。
ここは沈床花壇といって周りより少し低く造られている。
以前は山下公園バラ園だったが2016年にリニューアルされて未来のバラ園との名前になった。ただしそのネーミングにどのような意味が込められているのかの情報は見当たらず。別に未来的な栽培をしているわけじゃない。
上の写真の右側にあるオベリスク仕立てのバラ。
本来のオベリスクは記念碑として大きな建造物だけれど、ガーデニングでのオベリスクとはこんなタイプを想像するから、このサイズならもはやローズタワーというべきか。
マリンタワーとローズタワー。
バラ好き、新緑好きなので同時に眺められてテンションが上がる。
バラと氷川丸。
この屋根ではない材木が天井にある構造物はパーゴラ pergola と呼ばれる。日本語では日陰棚(ひかげだな)や緑廊(りょくろう)。
棚(たな)は一般に物を載せるために横に渡した板を意味するが、植物がツルを這わせられるように木や竹を高いところに掛けた構造もそう呼ぶ。藤棚がその代表例。
ツルを這わせて日陰を作るのがパーゴラの目的だから、
こういう使い方は本来的ではないものの、
それはともかくバラの絡まった柱の美しさ。
パーゴラを外側から。
パーゴラの手前にあるエル・カミーノ・レアールのミッションベル。
まだカリフォルニアがメキシコと併せてスペインの植民地だった時代、スペイン語で「王の道」を意味する「エル・カミーノ・レアール」がサンディエゴからサンフランシスコまで約1000kmに敷設され、カトリック系フランシスコ会の修道士がその道路沿いに21箇所の伝道所(ミニ教会)を設けた。ちなみにサンフランシスコはフランシスコ会が地名の由来。
やがてエル・カミーノ・レアールは廃れたが、20世紀になりそのルート沿いに伝道所の象徴である釣り鐘=ミッションベルが建てられる。ある種の文化遺産保存活動。このミッションとはミッション系の学校と同じく伝道・布教との意味。
山下公園のミッションベルは横浜市と姉妹都市であるサンディエゴ市から贈られたレプリカ。なお音を出すぶら下がっている部分(舌・ぜつ)はないので鳴らせない。
それにしても姉妹都市との友好の証しに、そのルーツが植民地支配されていた時代にまつわる物を贈るのはちょっとヘンな気がしなくもない。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
園内ブラブラ。
未来のバラ園は約5500平米(0.55ヘクタール)の敷地に、
これでもか!というくらいたくさんのバラが植えられている。
マリンタワーと一緒に。
ホテルニューグランドをバックに。
ーーー続く
wassho at 22:01|Permalink│Comments(0)│
2024年06月13日
山手イタリア山庭園で春バラ その2
(5月10日の横浜バラツアーその7)
山手イタリア山庭園のほぼ中央にある通路。
背が高く茂っている木はメタセコイヤ。
和名ではアケボノスギ。以前は化石でしか見つからず絶滅種と考えられていたが、1946年(昭和21年)に中国・四川省で現存種が発見される。それで「生きた化石」と呼ばれることも。今は各地に多く植えられている。オレンジ色の紅葉が特徴。
外交官の家を横目に見て、
山手イタリア山庭園の奥にあるのが、
本日の山手西洋館巡りで7軒目のブラフ18番館。
「5月10日の横浜バラツアーその2」で書いたようブラフとは山手を意味している。
1993年(平成5年)にここに移築され公開。
外交官の家の移築は1997年(平成9年)。
なお山手イタリア山庭園の開園は1998年(平成10年)と移築より後。山手イタリア山庭園に移築したというより、移築した先を山手イタリア山庭園として整備したとの順番。ここは山手地区の大きな公園の中では最も新しい公園になる。面積は1.3ヘクタール。
このあたりが山手イタリア山庭園となる前は未利用の国有地だったようだ。1880年(明治13年)から1886年までイタリア領事館が置かれたことから、山手イタリア山庭園と名付けられたが、庭園を造る以前からイタリア山と呼ばれていたのかは知らない。港の見える丘公園のイギリス山とフランス山は昔からそう呼ばれているものの、アメリカ山は2009年(平成21年)に元町・中華街駅ビルの屋上を立体都市公園とした際に、無理矢理こじつけたネーミングなので何となくここもそんな気がする。
ついでに横浜市が所有している山手にある7つの西洋館の一般公開時期をまとめると
ブラフ18番館 移築1991年 公開1993
外交官の家 移築・公開1997年
(山手イタリア山庭園開園 1998年)
山手111番館 公開1999年
山手234番館 公開1999年
エリスマン邸 移築1990年 公開1999年
横浜市イギリス館 公開2002年(ホールや集会室の利用は1970年)
べーリック・ホール 公開2002年
ほとんどが2000年(平成12年)前後と意外に最近。神戸北野の異人館がブームになったのは1970年代の中頃だからずいぶんと差がある。てっきり同じ頃から観光スポットになっているものだと思っていた。公開年代的にはここイタリア山庭園が山手西洋館巡りの発祥ともいえる。
ブラフ18番館は中に入らず外から眺めただけ。
延べ床面積264平米。
北東角にある展望コーナー。
山手が高い位置にあるとわかる景色。
この地点の標高は34m(山手地区全体では10〜40m)
ベイブリッジ中央までの距離は3.3km
さてブラフ18番館から離れて、
外交官の家の裏側にやってくると、
そこにあるのは整形花壇と呼ばれる幾何学的に剪定されたゾーン。
公式ホームページによれば「イタリアで多く見られる庭園様式を模し」とある。
これは横浜市の緑化事業関連で使われているガーデンベアというゆるキャラ。熊なのに緑なのは体が苔に覆われているとの設定。
キンギョソウに囲まれてガーデンベアも楽しそう。
ところでヨーロッパの庭園造りにはイギリス式、フランス式、イタリア式がある。もっと他の国の様式もあるだろうが日本ではあまり有名じゃない。イギリス式は自然の形や姿を生かす作庭。フランス式は正反対に幾何学的に人の手を入れた美しさを追求する。よって全体の構成としてイギリス式は左右非対称、フランス式は左右対称である。
フランス式とイタリア式は整形・幾何学的な所は同じで、フランスの庭園は平面な土地に、イタリアの庭園は傾斜地や階段状の土地に作るのが違いらしい。
上の写真でわかるようにここはキレイに刈り込まれた生け垣で、幾何学的な造園がなされているけれど、平面だけだからフランス式じゃないのかな。逆に山手は起伏の多い地形で、実際ここでもブラフ18番館は外交官の家より低い位置にあるのに、どうしてそれを利用したイタリア式庭園にしなかったのか。あくまで「イタリアでござい」と謳いたければだけど。
アメリカ山公園、ブラフ99ガーデンに続いて、
本日3本目のベニバナトチノキ。
新緑の3色違い。
そして整形花壇一番のバエポイントはこの水路。
実は水路の両サイドにある低い木も高い木もバラ。咲いていればこんな感じだけれど、この日はまだ未開花。ツボミもごく小さかったからかなり遅咲きの品種。咲いていないのは事前にSNS情報で確認済みだったものの、やはり見たかったな。
おそらくこの水路のバラが咲く頃には前庭のバラは見頃を過ぎていると思う。
いつかこれだけを見に来ましょう。
ちなみに水路のバラが満開になったのは5月の後半に入ってからみたい。
整形花壇の端にあった水盤。
水があれば高速シャッターで水しぶきの時間を止めるのがお約束。
水路も噴水が吹き出してきた。
でも水量がちょっとショボい(^^ゞ
それでもこれでバラが咲いていれば最高なのに。
八角形の塔屋があって、外交官の家はこちらから見たほうが面白い。
前回に紹介した八角形のサンルームはこの塔の1階部分。
外交官の家の横を通り抜けて、
バラアーチのあった前庭に戻る。
バラのバラエティとボリュームをもう一度楽しんで、
山手イタリア山庭園を後にする。
ーーーまだ続く
山手イタリア山庭園のほぼ中央にある通路。
背が高く茂っている木はメタセコイヤ。
和名ではアケボノスギ。以前は化石でしか見つからず絶滅種と考えられていたが、1946年(昭和21年)に中国・四川省で現存種が発見される。それで「生きた化石」と呼ばれることも。今は各地に多く植えられている。オレンジ色の紅葉が特徴。
外交官の家を横目に見て、
山手イタリア山庭園の奥にあるのが、
本日の山手西洋館巡りで7軒目のブラフ18番館。
「5月10日の横浜バラツアーその2」で書いたようブラフとは山手を意味している。
1993年(平成5年)にここに移築され公開。
外交官の家の移築は1997年(平成9年)。
なお山手イタリア山庭園の開園は1998年(平成10年)と移築より後。山手イタリア山庭園に移築したというより、移築した先を山手イタリア山庭園として整備したとの順番。ここは山手地区の大きな公園の中では最も新しい公園になる。面積は1.3ヘクタール。
このあたりが山手イタリア山庭園となる前は未利用の国有地だったようだ。1880年(明治13年)から1886年までイタリア領事館が置かれたことから、山手イタリア山庭園と名付けられたが、庭園を造る以前からイタリア山と呼ばれていたのかは知らない。港の見える丘公園のイギリス山とフランス山は昔からそう呼ばれているものの、アメリカ山は2009年(平成21年)に元町・中華街駅ビルの屋上を立体都市公園とした際に、無理矢理こじつけたネーミングなので何となくここもそんな気がする。
ついでに横浜市が所有している山手にある7つの西洋館の一般公開時期をまとめると
ブラフ18番館 移築1991年 公開1993
外交官の家 移築・公開1997年
(山手イタリア山庭園開園 1998年)
山手111番館 公開1999年
山手234番館 公開1999年
エリスマン邸 移築1990年 公開1999年
横浜市イギリス館 公開2002年(ホールや集会室の利用は1970年)
べーリック・ホール 公開2002年
ほとんどが2000年(平成12年)前後と意外に最近。神戸北野の異人館がブームになったのは1970年代の中頃だからずいぶんと差がある。てっきり同じ頃から観光スポットになっているものだと思っていた。公開年代的にはここイタリア山庭園が山手西洋館巡りの発祥ともいえる。
ブラフ18番館は中に入らず外から眺めただけ。
延べ床面積264平米。
北東角にある展望コーナー。
山手が高い位置にあるとわかる景色。
この地点の標高は34m(山手地区全体では10〜40m)
ベイブリッジ中央までの距離は3.3km
さてブラフ18番館から離れて、
外交官の家の裏側にやってくると、
そこにあるのは整形花壇と呼ばれる幾何学的に剪定されたゾーン。
公式ホームページによれば「イタリアで多く見られる庭園様式を模し」とある。
これは横浜市の緑化事業関連で使われているガーデンベアというゆるキャラ。熊なのに緑なのは体が苔に覆われているとの設定。
キンギョソウに囲まれてガーデンベアも楽しそう。
ところでヨーロッパの庭園造りにはイギリス式、フランス式、イタリア式がある。もっと他の国の様式もあるだろうが日本ではあまり有名じゃない。イギリス式は自然の形や姿を生かす作庭。フランス式は正反対に幾何学的に人の手を入れた美しさを追求する。よって全体の構成としてイギリス式は左右非対称、フランス式は左右対称である。
フランス式とイタリア式は整形・幾何学的な所は同じで、フランスの庭園は平面な土地に、イタリアの庭園は傾斜地や階段状の土地に作るのが違いらしい。
上の写真でわかるようにここはキレイに刈り込まれた生け垣で、幾何学的な造園がなされているけれど、平面だけだからフランス式じゃないのかな。逆に山手は起伏の多い地形で、実際ここでもブラフ18番館は外交官の家より低い位置にあるのに、どうしてそれを利用したイタリア式庭園にしなかったのか。あくまで「イタリアでござい」と謳いたければだけど。
アメリカ山公園、ブラフ99ガーデンに続いて、
本日3本目のベニバナトチノキ。
新緑の3色違い。
そして整形花壇一番のバエポイントはこの水路。
実は水路の両サイドにある低い木も高い木もバラ。咲いていればこんな感じだけれど、この日はまだ未開花。ツボミもごく小さかったからかなり遅咲きの品種。咲いていないのは事前にSNS情報で確認済みだったものの、やはり見たかったな。
おそらくこの水路のバラが咲く頃には前庭のバラは見頃を過ぎていると思う。
いつかこれだけを見に来ましょう。
ちなみに水路のバラが満開になったのは5月の後半に入ってからみたい。
整形花壇の端にあった水盤。
水があれば高速シャッターで水しぶきの時間を止めるのがお約束。
水路も噴水が吹き出してきた。
でも水量がちょっとショボい(^^ゞ
それでもこれでバラが咲いていれば最高なのに。
八角形の塔屋があって、外交官の家はこちらから見たほうが面白い。
前回に紹介した八角形のサンルームはこの塔の1階部分。
外交官の家の横を通り抜けて、
バラアーチのあった前庭に戻る。
バラのバラエティとボリュームをもう一度楽しんで、
山手イタリア山庭園を後にする。
ーーーまだ続く
wassho at 22:07|Permalink│Comments(0)│
2024年06月11日
山手イタリア山庭園で春バラ
(5月10日の横浜バラツアーその6)
一体いつまで続く?(^^ゞ
山手公園から山手本通りに戻り、
しばらく歩くとイタリア山の道案内。
右折した先がY字路になっていて、
どっち?と思ったけれど、
そこにもしっかりコッチの表示。
もっともY字路の分かれ目まで近づくと、
入り口が見えているから表示はなくても大丈夫。
門がふたつあって左側が外交官の家、右側がブラフ18番館に通じている。
でも中でつながっていてどちらから入っても同じ。
まずは外交官の家から。
前庭にバラがたくさん。
これくらいの数があるとテンションが上がるね。
ここだけ訪れてもそこそこ満足できるレベル。
アーチもある。
お約束の青空ショット。
屋根的につながっているのではなく、
3つのアーチが並んだ造り。
ドアップで。
斑点があるのは模様ではなくてカビによる病気かも知れない。
でもこの状態なら充分にキレイ。
建物の中に入る。
隣接して増築された売店のようなところが入り口。
お土産品を売りつける魂胆丸見え。
そこを素通りして、
本日の山手西洋館巡りで6軒目となる外交官の家。
しかし中は特に見るべきものはなかった。
テーブルセッティングというか展示デコレーション制作中。
開館前に済ましておかないのか?
サンルームとか外が見える廊下のほうが面白かった。
ここのサンルームは八角形と凝った造りだが北向き。
この外交官の家は「5月10日の横浜バラツアーその3」にも書いたように、1910年(明治43年)に渋谷の南平台に建てられた日本人外交官の自宅を、1997年(平成9年)にこちらへ移築したもの。延べ床面積412平米。
実は1992年頃、短い期間だったものの南平台にオフィスがあった。南平台なんて300〜400m四方くらいの狭い範囲。こんな建物を見た記憶がないけれどどこに建っていたのだろう。調べたがまったく手がかりをつかめず。
ーーー続く
一体いつまで続く?(^^ゞ
山手公園から山手本通りに戻り、
しばらく歩くとイタリア山の道案内。
右折した先がY字路になっていて、
どっち?と思ったけれど、
そこにもしっかりコッチの表示。
もっともY字路の分かれ目まで近づくと、
入り口が見えているから表示はなくても大丈夫。
門がふたつあって左側が外交官の家、右側がブラフ18番館に通じている。
でも中でつながっていてどちらから入っても同じ。
まずは外交官の家から。
前庭にバラがたくさん。
これくらいの数があるとテンションが上がるね。
ここだけ訪れてもそこそこ満足できるレベル。
アーチもある。
お約束の青空ショット。
屋根的につながっているのではなく、
3つのアーチが並んだ造り。
ドアップで。
斑点があるのは模様ではなくてカビによる病気かも知れない。
でもこの状態なら充分にキレイ。
建物の中に入る。
隣接して増築された売店のようなところが入り口。
お土産品を売りつける魂胆丸見え。
そこを素通りして、
本日の山手西洋館巡りで6軒目となる外交官の家。
しかし中は特に見るべきものはなかった。
テーブルセッティングというか展示デコレーション制作中。
開館前に済ましておかないのか?
サンルームとか外が見える廊下のほうが面白かった。
ここのサンルームは八角形と凝った造りだが北向き。
この外交官の家は「5月10日の横浜バラツアーその3」にも書いたように、1910年(明治43年)に渋谷の南平台に建てられた日本人外交官の自宅を、1997年(平成9年)にこちらへ移築したもの。延べ床面積412平米。
実は1992年頃、短い期間だったものの南平台にオフィスがあった。南平台なんて300〜400m四方くらいの狭い範囲。こんな建物を見た記憶がないけれどどこに建っていたのだろう。調べたがまったく手がかりをつかめず。
ーーー続く
wassho at 22:18|Permalink│Comments(0)│
2024年06月07日
山手西洋館ブラブラ
(5月10日の横浜バラツアーその3)
さていよいよ西洋館巡り。
山手本通りを下って最初に現れるのがこの建物。
実はここは西洋館ではなく1967年(昭和42年)に建てられたカフェ&フレンチレストランの山手十番館。お店のホームページを見たら5月は9日間、6月は7日間も「Lunch,Cafe 貸切」となっている。ウェディング用に貸し出しているのかな?
ところで西洋館といえば神戸北野の異人館も有名。
ただしこちら山手の西洋館とは建てられた年代が違う。
西洋館は洋館や洋風建築ともいうが、その定義は
江戸時代末期の開国から第二次世界大戦までの時代に
日本で建設された、西洋の建築様式を用いた建物で
主として住宅を指す
さらに神戸では
幕末期から明治期に建築された西洋館を異人館
大正期から戦前昭和期に建築された西洋館を洋館
と区別している。
それで現在、
横浜で山手西洋館として公開されているのは7つあり、その竣工年は
外交官の家 1910年 明治43年
エリスマン邸 1926年 大正15年昭和元年
山手111番館 1926年 大正15年昭和元年
ブラフ18番館 関東大震災(1923年大正12年)より後
山手234番館 1927年 昭和2年
ベーリック・ホール 1930年 昭和5年
イギリス館 1937年 昭和12年
と比較的新しく、最も古い外交官の家でも明治43年と明治末期(明治は45年まで)。しかもこの家は施主が日本人の外交官で、渋谷の南平台に建てられたものを1997年(平成9年)に移築して山手の西洋館としている。ちょっとサギ(^^ゞ
ちなみに横浜山手に明治時代の西洋館が残っていないのは、関東大震災で壊滅的な被害を受けたから。なお横浜空襲で山手地区は標的から外されている。
さてカフェ&フレンチレストランの山手十番館の先にあるのが山手資料館。居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示している。前庭のバラがきれいだと聞いて昨年に訪れるつもりだったところ。ここは和洋折衷建築なので山手西洋館には数えられていない。しかし解説にあるように本牧からの移築だが、建てられたのは1909年(明治42年)と外交官の家より古い。
バラ園の規模ではないものの、
自宅の庭にこれだけのバラが咲いていたら引きこもりになるなあ(^^ゞ
解説があったので、とりあえず撮ってみた。
山手本通りを少し下って元町公園前のバス停。
その前にあるクラシックな建物は横浜山手聖公会。ノルマン様式という建築らしい。こういうのもあって異国情緒を味わえるのがこの通りの魅力。
そしてバス停のそばにあったナゾの構造物。
自働電話と書かれている。
なんじゃそれ?
中を覗くとーーー
これは1890年(明治23年)の横浜〜東京間の電話交換業務開始100年を記念して、NTTが1990年(平成2年)に設置した公衆電話。横浜の各地に様々なデザインの公衆電話ボックスがあるみたい。ここのは灯台がモチーフに思えるが、そうではなく当時はこれが最も一般的な公衆電話ボックスの形。
そして自働電話とは
1900年(明治33年)に公衆電話を設置し始めたとき、アメリカ製の電話機を導入
それがなぜかオートマチック・テレホンとの名前で
それを直訳して公衆電話を自働電話と名付けた。
ただしまったくオートマチックではなく
交換手を呼び出してつないでもらう電話初期の方式
大正14年に電話網にダイヤル式の自動交換方式採用。
それと自働電話とが紛らわしいので公衆電話と名前を変更
との歴史。
それにしてもどうしてオートマチックを自動ではなく自働の漢字にしたのだろう。それとレプリカとして置いてある昔の「自働電話」が、あまりに雑に省略された作りで、これならレトロデザインの電話ボックスだけでいいレベル。
本日の西洋館1軒目は山手234番館。
名前に数字がある場合は山手町◯◯◯番地の意味。
関東大震災で横浜に住む外国人は7650人から2156人に激減。ここは彼らを呼び戻す復興事業のひとつとして建てられた外国人向け共用住宅=アパートメント。ただし公営ではなく民間事業として。同じ3LDKの間取りが左右対称に1階と2階にふたつずつ合計4世帯分。専有面積は1戸当たり約100平米。当時の日本人の共同住宅はその1/3ほどの広さ。
1980年(昭和55年)頃まで使用され、1989年(平成元年)に横浜市が取得。
1999年(平成11年)から一般公開。
取得してから10年間は何をしていたのだろう。
館内は「まあこんな感じね」レベルでそれほど面白くなかった。
でも外観デザインは素敵だったので、
全部見てやろうと、
建物の反対側に来ると、
そこそこ広い裏庭があるのを発見!
バラも咲いていたし、
アヤメも久しぶりに見られた。
ここに来たら裏庭もお見逃しなく。
グルッと1周。
ファサードの造りは何となくアメリカっぽい。
山手234番館の隣にあるのは「えの木てい」というスイーツのお店。3段重ねのティースタンドで提供されるアフタヌーンティーも楽しめる。
ところで最初に紹介したカフェ&フレンチレストランの山手十番館は、1967年(昭和42年)に建てられたパチもんの西洋館風建築だが、この「えの木てい」は山手234番館と同じ1927年(昭和2年)に同じ建築家によって設計された本物の西洋館。上に示した地図には載っていないが、横浜市観光協会のホームページでは山手西洋館として紹介されている。
建物は昭和の後半に日本人夫妻の手に渡り、その妻がリビングでカフェを始めたのが「えの木てい」の始まり。オープンは1979年(昭和54年)。
ーーー続く
<補足>
山手十番館の十番は番地ではなく、その経営母体が出店する10番目の店だったから。
それを西洋館風のネーミングに仕立てたと思われる。
さていよいよ西洋館巡り。
山手本通りを下って最初に現れるのがこの建物。
実はここは西洋館ではなく1967年(昭和42年)に建てられたカフェ&フレンチレストランの山手十番館。お店のホームページを見たら5月は9日間、6月は7日間も「Lunch,Cafe 貸切」となっている。ウェディング用に貸し出しているのかな?
ところで西洋館といえば神戸北野の異人館も有名。
ただしこちら山手の西洋館とは建てられた年代が違う。
西洋館は洋館や洋風建築ともいうが、その定義は
江戸時代末期の開国から第二次世界大戦までの時代に
日本で建設された、西洋の建築様式を用いた建物で
主として住宅を指す
さらに神戸では
幕末期から明治期に建築された西洋館を異人館
大正期から戦前昭和期に建築された西洋館を洋館
と区別している。
それで現在、
横浜で山手西洋館として公開されているのは7つあり、その竣工年は
外交官の家 1910年 明治43年
エリスマン邸 1926年 大正15年昭和元年
山手111番館 1926年 大正15年昭和元年
ブラフ18番館 関東大震災(1923年大正12年)より後
山手234番館 1927年 昭和2年
ベーリック・ホール 1930年 昭和5年
イギリス館 1937年 昭和12年
と比較的新しく、最も古い外交官の家でも明治43年と明治末期(明治は45年まで)。しかもこの家は施主が日本人の外交官で、渋谷の南平台に建てられたものを1997年(平成9年)に移築して山手の西洋館としている。ちょっとサギ(^^ゞ
ちなみに横浜山手に明治時代の西洋館が残っていないのは、関東大震災で壊滅的な被害を受けたから。なお横浜空襲で山手地区は標的から外されている。
さてカフェ&フレンチレストランの山手十番館の先にあるのが山手資料館。居留地だった頃から関東大震災までの横浜や山手に関する資料を展示している。前庭のバラがきれいだと聞いて昨年に訪れるつもりだったところ。ここは和洋折衷建築なので山手西洋館には数えられていない。しかし解説にあるように本牧からの移築だが、建てられたのは1909年(明治42年)と外交官の家より古い。
バラ園の規模ではないものの、
自宅の庭にこれだけのバラが咲いていたら引きこもりになるなあ(^^ゞ
解説があったので、とりあえず撮ってみた。
山手本通りを少し下って元町公園前のバス停。
その前にあるクラシックな建物は横浜山手聖公会。ノルマン様式という建築らしい。こういうのもあって異国情緒を味わえるのがこの通りの魅力。
そしてバス停のそばにあったナゾの構造物。
自働電話と書かれている。
なんじゃそれ?
中を覗くとーーー
これは1890年(明治23年)の横浜〜東京間の電話交換業務開始100年を記念して、NTTが1990年(平成2年)に設置した公衆電話。横浜の各地に様々なデザインの公衆電話ボックスがあるみたい。ここのは灯台がモチーフに思えるが、そうではなく当時はこれが最も一般的な公衆電話ボックスの形。
そして自働電話とは
1900年(明治33年)に公衆電話を設置し始めたとき、アメリカ製の電話機を導入
それがなぜかオートマチック・テレホンとの名前で
それを直訳して公衆電話を自働電話と名付けた。
ただしまったくオートマチックではなく
交換手を呼び出してつないでもらう電話初期の方式
大正14年に電話網にダイヤル式の自動交換方式採用。
それと自働電話とが紛らわしいので公衆電話と名前を変更
との歴史。
それにしてもどうしてオートマチックを自動ではなく自働の漢字にしたのだろう。それとレプリカとして置いてある昔の「自働電話」が、あまりに雑に省略された作りで、これならレトロデザインの電話ボックスだけでいいレベル。
本日の西洋館1軒目は山手234番館。
名前に数字がある場合は山手町◯◯◯番地の意味。
関東大震災で横浜に住む外国人は7650人から2156人に激減。ここは彼らを呼び戻す復興事業のひとつとして建てられた外国人向け共用住宅=アパートメント。ただし公営ではなく民間事業として。同じ3LDKの間取りが左右対称に1階と2階にふたつずつ合計4世帯分。専有面積は1戸当たり約100平米。当時の日本人の共同住宅はその1/3ほどの広さ。
1980年(昭和55年)頃まで使用され、1989年(平成元年)に横浜市が取得。
1999年(平成11年)から一般公開。
取得してから10年間は何をしていたのだろう。
館内は「まあこんな感じね」レベルでそれほど面白くなかった。
でも外観デザインは素敵だったので、
全部見てやろうと、
建物の反対側に来ると、
そこそこ広い裏庭があるのを発見!
バラも咲いていたし、
アヤメも久しぶりに見られた。
ここに来たら裏庭もお見逃しなく。
グルッと1周。
ファサードの造りは何となくアメリカっぽい。
山手234番館の隣にあるのは「えの木てい」というスイーツのお店。3段重ねのティースタンドで提供されるアフタヌーンティーも楽しめる。
ところで最初に紹介したカフェ&フレンチレストランの山手十番館は、1967年(昭和42年)に建てられたパチもんの西洋館風建築だが、この「えの木てい」は山手234番館と同じ1927年(昭和2年)に同じ建築家によって設計された本物の西洋館。上に示した地図には載っていないが、横浜市観光協会のホームページでは山手西洋館として紹介されている。
建物は昭和の後半に日本人夫妻の手に渡り、その妻がリビングでカフェを始めたのが「えの木てい」の始まり。オープンは1979年(昭和54年)。
ーーー続く
<補足>
山手十番館の十番は番地ではなく、その経営母体が出店する10番目の店だったから。
それを西洋館風のネーミングに仕立てたと思われる。
wassho at 20:45|Permalink│Comments(0)│
2024年06月04日
春バラはアメリカ山公園から 2024
昨年は「春バラはアメリカ山公園から」とのタイトルで、
横浜での春バラ鑑賞のブログを書いた。
予定では
前菜はアメリカ山公園
メインディッシュに港の見える丘公園
余裕があればデザートとして山手資料館とイタリア山庭園
だったものの、港の見える丘公園でお腹いっぱいになって終了。
そこで今年は昨年に訪れなかった山手資料館やイタリア山庭園などをまず見て、その後に山下公園のバラ園とのプラン。山下公園の春バラは2018年にも見ている。同じ場所は避ける主義だけれど、山手資料館やイタリア山庭園だけではボリューム的に物足りないし、山下公園も5年前だからまあいいかとの考え。
訪れたのは5月10日。今年もスタートがアメリカ山なのは、ここが元町・中華街駅の屋上に設置された立体都市公園で、小高い丘となっている山手エリアの最も標高の高い部分とつながっているから。つまりアメリカ山を経由すれば山手エリアの坂を登らなくて済む。また昨年に訪れてここをかなり気に入ったのも理由のひとつ。立体都市公園やアメリカ山についてはこのブログ1行目に埋め込んだリンクから昨年の記事を読んでちょうだい。
東横線は横浜駅から先が「みなとみらい線」となり終点が元町・中華街駅。
電車が着くのは地下4階のホーム。
そこから地上4階の屋上までだから、合計9階分をエスカレーターで上がる。
エレベーターを利用したほうがよかったかも。
エスカレーターを何度も乗り継ぎ、
屋上塔屋を抜けて、
いきなり広がるアメリカ山公園。
このダイナミックな展開は2度目でもちょっと感激する。
公園中程まで進んだ位置から屋上に出たところを振り返って。
バラが植えられているのは、
最初に公園を撮った写真の左右画角の外側と、撮影位置より後ろの部分。
なかなかベストなタイミングで来られたと思う。
芝生広場では保育園児がお遊び中。
ナスカの地上絵?
お幸せに!
今回は昨年も来たアメリカ山は通り抜けのつもりだったのに、
やはりあれこれとバラ以外も見てしまう(^^ゞ
タチアオイの別名をハナアオイとも言うが、
ラバテラは別の品種みたいだ。
デイジーとマーガレットは明確な見分けポイントがなく、名前の雰囲気から元気そうならデイジー、優しい感じがしたらマーガレットとするのが私のナゾ基準。ここでは品種名が書かれていた。
ユーフォルビアは草と木それに多肉植物までバラエティが広くて覚えきれない品種。これは草のタイプでよく見る形。
昨年はバラ以上に目立っていたベニバナトチノキ。
今年は少し成長が遅いようだ。
よく見るのより色の薄いミヤコワスレ。
この変わった名前は、鎌倉時代に承久の乱で北条氏に敗れて佐渡に流された順徳天皇が、当地でこの花を見つけ和歌に詠んだのに由来するとされる。しかしミヤコワスレはミヤマヨメナという野菊の園芸改良種。そしてそれが作られたのは江戸時代なので、ミヤコワスレ順徳天皇説はイイカゲンな話。
サルビアは赤いがネモローサ・カラドンナは紫。
まるでネギ坊主(ネギの花)みたいだが、それもそのはずアリウムとはネギ属の意味で、このアリウムもネギやニンニクの仲間。
近づくとちりめんじゃこだった(^^ゞ
紫のアリウムもあった。
この早咲きのラベンダーは香りが弱い。
でも花の部分をそっと握りしめてから手のひらをクンクンするといい匂いがする。
昨年は花の塊が人の頭ほどあったシャクナゲ。
今年はかなり小さい。
保育園児が帰ったので公園が静かになった。
アップで眺めましょう。
駅とは反対側の出入り口へ。
門の外から見た公園。
敷地面積は0.55ヘクタールで狭すぎず広すぎずで手頃なサイズ。そして何より美しい。この季節にしか訪れた経験はないけれど、もし東横線沿線に住んでいるなら元町・中華街駅まで来て屋上に上がり、しばらく公園を楽しんでそのまま電車に乗って帰ってもいい一日になる。
アメリカ山公園を出て外国人墓地の横を進むと山手本通りに出る。
それをイタリア山庭園まで下っていく途中に洋館が点在している。
ーーー続く
横浜での春バラ鑑賞のブログを書いた。
予定では
前菜はアメリカ山公園
メインディッシュに港の見える丘公園
余裕があればデザートとして山手資料館とイタリア山庭園
だったものの、港の見える丘公園でお腹いっぱいになって終了。
そこで今年は昨年に訪れなかった山手資料館やイタリア山庭園などをまず見て、その後に山下公園のバラ園とのプラン。山下公園の春バラは2018年にも見ている。同じ場所は避ける主義だけれど、山手資料館やイタリア山庭園だけではボリューム的に物足りないし、山下公園も5年前だからまあいいかとの考え。
訪れたのは5月10日。今年もスタートがアメリカ山なのは、ここが元町・中華街駅の屋上に設置された立体都市公園で、小高い丘となっている山手エリアの最も標高の高い部分とつながっているから。つまりアメリカ山を経由すれば山手エリアの坂を登らなくて済む。また昨年に訪れてここをかなり気に入ったのも理由のひとつ。立体都市公園やアメリカ山についてはこのブログ1行目に埋め込んだリンクから昨年の記事を読んでちょうだい。
東横線は横浜駅から先が「みなとみらい線」となり終点が元町・中華街駅。
電車が着くのは地下4階のホーム。
そこから地上4階の屋上までだから、合計9階分をエスカレーターで上がる。
エレベーターを利用したほうがよかったかも。
エスカレーターを何度も乗り継ぎ、
屋上塔屋を抜けて、
いきなり広がるアメリカ山公園。
このダイナミックな展開は2度目でもちょっと感激する。
公園中程まで進んだ位置から屋上に出たところを振り返って。
バラが植えられているのは、
最初に公園を撮った写真の左右画角の外側と、撮影位置より後ろの部分。
なかなかベストなタイミングで来られたと思う。
芝生広場では保育園児がお遊び中。
ナスカの地上絵?
お幸せに!
今回は昨年も来たアメリカ山は通り抜けのつもりだったのに、
やはりあれこれとバラ以外も見てしまう(^^ゞ
タチアオイの別名をハナアオイとも言うが、
ラバテラは別の品種みたいだ。
デイジーとマーガレットは明確な見分けポイントがなく、名前の雰囲気から元気そうならデイジー、優しい感じがしたらマーガレットとするのが私のナゾ基準。ここでは品種名が書かれていた。
ユーフォルビアは草と木それに多肉植物までバラエティが広くて覚えきれない品種。これは草のタイプでよく見る形。
昨年はバラ以上に目立っていたベニバナトチノキ。
今年は少し成長が遅いようだ。
よく見るのより色の薄いミヤコワスレ。
この変わった名前は、鎌倉時代に承久の乱で北条氏に敗れて佐渡に流された順徳天皇が、当地でこの花を見つけ和歌に詠んだのに由来するとされる。しかしミヤコワスレはミヤマヨメナという野菊の園芸改良種。そしてそれが作られたのは江戸時代なので、ミヤコワスレ順徳天皇説はイイカゲンな話。
サルビアは赤いがネモローサ・カラドンナは紫。
まるでネギ坊主(ネギの花)みたいだが、それもそのはずアリウムとはネギ属の意味で、このアリウムもネギやニンニクの仲間。
近づくとちりめんじゃこだった(^^ゞ
紫のアリウムもあった。
この早咲きのラベンダーは香りが弱い。
でも花の部分をそっと握りしめてから手のひらをクンクンするといい匂いがする。
昨年は花の塊が人の頭ほどあったシャクナゲ。
今年はかなり小さい。
保育園児が帰ったので公園が静かになった。
アップで眺めましょう。
駅とは反対側の出入り口へ。
門の外から見た公園。
敷地面積は0.55ヘクタールで狭すぎず広すぎずで手頃なサイズ。そして何より美しい。この季節にしか訪れた経験はないけれど、もし東横線沿線に住んでいるなら元町・中華街駅まで来て屋上に上がり、しばらく公園を楽しんでそのまま電車に乗って帰ってもいい一日になる。
アメリカ山公園を出て外国人墓地の横を進むと山手本通りに出る。
それをイタリア山庭園まで下っていく途中に洋館が点在している。
ーーー続く
wassho at 23:16|Permalink│Comments(0)│
2024年05月22日
ミドリのもみじ狩り その2
池や東屋の手前にある芝生広場。
奥に見えているのは茶室+休憩所+管理事務所を兼ねた建物。
芝生に竹で作られた見慣れないものがーーー
このような配置で立ち入り禁止のプレートも一緒にあったので、この竹細工もその意味なのだろう。しかしどうして通路に面した位置ではなく芝生の中央部に置いてあるのかが不明。
見上げるともみじの新緑。
でもちょっと木の雰囲気が違う。
名札を見ると右はサワラで左がカエデ。サワラは真っ直ぐに伸び、カエデは横に枝を張るので、パッと見にはもみじばかりに見えたのが違和感の正体。
ところでもみじ関連は言葉がややこしい。
まず植物分類的にモミジとカエデは同じ。どちらもムクロジ科カエデ属。英語では Maple(メイプル)。なおメイプルシロップはメープルシロップとの表記も多い。
モミジは古語の「もみづ」が由来。意味は草木の葉が秋に色づくのを表した動詞。その名詞形が「もみぢ」。それで色づく葉の中で特にに赤くなる品種をモミジと呼ぶようになったとされる。
また学術的ではないものの葉の切れ込みが深いのをモミジ、浅いのをカエデと呼ぶ分類もある。カエデの語源は葉の形が「蛙(カエル)の手」に似ているから。画像はhttps://www.shinrin-ringyou.com/topics/kaede.phpから引用
ついでにイロハモミジ(最も多く見る品種)は葉が7つに切れ込んでいるものが多く、それを七文字であるイロハニホヘトになぞらえてのネーミング。
別の観点でややこしいのが紅葉を「もみじ」とも「こうよう」とも読むこと。さらに黄色く色づくのは黄葉といい、これも「こうよう」と発音するから混乱する。もっとも黄葉はあまり使われず「イチョウが紅葉してきた」なんて表現も多い。私はレッドオータム、イエローオータムと使い分けている。そんな英語は辞書には載っていないが、外人にもたいてい理解してもらえる。
さて黒い屋根瓦があってもどこか洋風なこの建物は、音楽評論家だった大田黒元雄の記念館。ここは彼の死後に自宅が寄付され、周辺の土地と合わせて公園となったところ。ドビュッシーを日本に紹介したともいわれる大田黒元雄(1893年・明治26年〜1979年・昭和54年)については前回訪れたときのブログに書いたから、興味があればご参照を。
ところで大田黒は苗字ぽくないので大田黒公園の名前には人物を感じない。でももし彼が鈴木や佐藤の苗字だったら鈴木公園とかになっていたのかな?
見学自由。
靴を脱がなければいけないので前回はパスしたが今回は入った。
入り口に年譜。
公開されているのは一部屋だけ。ここは自宅の母屋ではなく離れに当たる建物で大田黒の仕事部屋。(母屋は残っていない)
淡いパステルのタイル張りの壁は珍しい。
でもこの部屋にすごく馴染んでいる。
現在の感覚では華奢(きゃしゃ)に見えるピアノは、
スタンウェイ製。1900年に独のハンブルグ工場で製造されたと解説にあった。スタンウェイというとアメリカのピアノのイメージがあるが、創業間もない頃からアメリカとドイツの2本社体制。
ちなみにカエデの木は固いのでピアノにも多く使われている。それがこの公園にカエデが多いのと関係あるかどうかは知らない。
室内にはピアノ演奏が流れていた。しかしその音源はこのショボいラジカセ(/o\) CDとラジオだからCDラジオか。とにかくもう少しいい音でお願いしたい。
30歳前後の頃だろうか。
奥さんは声楽家の広田ちづえ。彼女の情報はネットにはなかった。
彼は100冊近い著作を残している。
ファイルに入っていたのは表紙や目次ばかりで中身を読めなかったのが残念。
蓄音機は蓋を開けておいてくれないと単なる家具(^^ゞ
部屋を別角度から。
この赤い椅子は何のため? 座ってピアノを眺めるの?
記念館を出て再び芝生広場。
記念館方向は逆光で木々が陰になっている。
反対側を向くと目に眩しいもみじの新緑!
それを見上げて眺めていると、
まるで墜落したような飛行機雲があった(^^ゞ
紅葉を見に出かけてミドリのもみじがあるように、
新緑の季節に紅葉しているもみじもある。
新緑もみじとの対比が美しい。
もっともこの紅葉は逆光で光を透かしているからキレイなのであって、
順光で撮ると汚く濁った色(/o\)
そんな種明かしはしないで光あふれる景色を楽しみましょう。
これは本日の魅力が全部詰まった1枚。日差しとそれに照らされてキミドリが色鮮やかなもみじの新緑、オレンジ色に輝いている紅葉、そして青空。
下の方に順光で写っている紅葉もある。同じ方向で撮っているのに順光と逆光が一緒なのが不思議。幹で光が反射しているのか?
新緑なので順光でもミドリもみじはキレイ。
陰になっている部分の柔らかい色合いも魅力的。
そして真逆光だと妖艶ですらある。
紅葉が好きで新緑はもっと大好きな私には、
実に楽しめたミドリのもみじ狩りだった。
もし新緑が好きならもみじを見に行きましょう。
おしまい
奥に見えているのは茶室+休憩所+管理事務所を兼ねた建物。
芝生に竹で作られた見慣れないものがーーー
このような配置で立ち入り禁止のプレートも一緒にあったので、この竹細工もその意味なのだろう。しかしどうして通路に面した位置ではなく芝生の中央部に置いてあるのかが不明。
見上げるともみじの新緑。
でもちょっと木の雰囲気が違う。
名札を見ると右はサワラで左がカエデ。サワラは真っ直ぐに伸び、カエデは横に枝を張るので、パッと見にはもみじばかりに見えたのが違和感の正体。
ところでもみじ関連は言葉がややこしい。
まず植物分類的にモミジとカエデは同じ。どちらもムクロジ科カエデ属。英語では Maple(メイプル)。なおメイプルシロップはメープルシロップとの表記も多い。
モミジは古語の「もみづ」が由来。意味は草木の葉が秋に色づくのを表した動詞。その名詞形が「もみぢ」。それで色づく葉の中で特にに赤くなる品種をモミジと呼ぶようになったとされる。
また学術的ではないものの葉の切れ込みが深いのをモミジ、浅いのをカエデと呼ぶ分類もある。カエデの語源は葉の形が「蛙(カエル)の手」に似ているから。画像はhttps://www.shinrin-ringyou.com/topics/kaede.phpから引用
ついでにイロハモミジ(最も多く見る品種)は葉が7つに切れ込んでいるものが多く、それを七文字であるイロハニホヘトになぞらえてのネーミング。
別の観点でややこしいのが紅葉を「もみじ」とも「こうよう」とも読むこと。さらに黄色く色づくのは黄葉といい、これも「こうよう」と発音するから混乱する。もっとも黄葉はあまり使われず「イチョウが紅葉してきた」なんて表現も多い。私はレッドオータム、イエローオータムと使い分けている。そんな英語は辞書には載っていないが、外人にもたいてい理解してもらえる。
さて黒い屋根瓦があってもどこか洋風なこの建物は、音楽評論家だった大田黒元雄の記念館。ここは彼の死後に自宅が寄付され、周辺の土地と合わせて公園となったところ。ドビュッシーを日本に紹介したともいわれる大田黒元雄(1893年・明治26年〜1979年・昭和54年)については前回訪れたときのブログに書いたから、興味があればご参照を。
ところで大田黒は苗字ぽくないので大田黒公園の名前には人物を感じない。でももし彼が鈴木や佐藤の苗字だったら鈴木公園とかになっていたのかな?
見学自由。
靴を脱がなければいけないので前回はパスしたが今回は入った。
入り口に年譜。
公開されているのは一部屋だけ。ここは自宅の母屋ではなく離れに当たる建物で大田黒の仕事部屋。(母屋は残っていない)
淡いパステルのタイル張りの壁は珍しい。
でもこの部屋にすごく馴染んでいる。
現在の感覚では華奢(きゃしゃ)に見えるピアノは、
スタンウェイ製。1900年に独のハンブルグ工場で製造されたと解説にあった。スタンウェイというとアメリカのピアノのイメージがあるが、創業間もない頃からアメリカとドイツの2本社体制。
ちなみにカエデの木は固いのでピアノにも多く使われている。それがこの公園にカエデが多いのと関係あるかどうかは知らない。
室内にはピアノ演奏が流れていた。しかしその音源はこのショボいラジカセ(/o\) CDとラジオだからCDラジオか。とにかくもう少しいい音でお願いしたい。
30歳前後の頃だろうか。
奥さんは声楽家の広田ちづえ。彼女の情報はネットにはなかった。
彼は100冊近い著作を残している。
ファイルに入っていたのは表紙や目次ばかりで中身を読めなかったのが残念。
蓄音機は蓋を開けておいてくれないと単なる家具(^^ゞ
部屋を別角度から。
この赤い椅子は何のため? 座ってピアノを眺めるの?
記念館を出て再び芝生広場。
記念館方向は逆光で木々が陰になっている。
反対側を向くと目に眩しいもみじの新緑!
それを見上げて眺めていると、
まるで墜落したような飛行機雲があった(^^ゞ
紅葉を見に出かけてミドリのもみじがあるように、
新緑の季節に紅葉しているもみじもある。
新緑もみじとの対比が美しい。
もっともこの紅葉は逆光で光を透かしているからキレイなのであって、
順光で撮ると汚く濁った色(/o\)
そんな種明かしはしないで光あふれる景色を楽しみましょう。
これは本日の魅力が全部詰まった1枚。日差しとそれに照らされてキミドリが色鮮やかなもみじの新緑、オレンジ色に輝いている紅葉、そして青空。
下の方に順光で写っている紅葉もある。同じ方向で撮っているのに順光と逆光が一緒なのが不思議。幹で光が反射しているのか?
新緑なので順光でもミドリもみじはキレイ。
陰になっている部分の柔らかい色合いも魅力的。
そして真逆光だと妖艶ですらある。
紅葉が好きで新緑はもっと大好きな私には、
実に楽しめたミドリのもみじ狩りだった。
もし新緑が好きならもみじを見に行きましょう。
おしまい
wassho at 21:25|Permalink│Comments(0)│
2024年05月20日
ミドリのもみじ狩り
もうあまり使われなくなった言葉だが、もみじ狩りといえば赤く色づいたもみじを見に行く行楽。温暖化の影響で東京では12月になってからなので、秋の風物詩とはいえなくなったものの、毎シーズンどこかに出かけて楽しんでいる。
それでへそ曲がりの私は、
紅葉に中にあるミドリのもみじを愛でるのも趣味(^^ゞ
今までにこんなこともブログに書いてきた。
だったら新緑の最も美しい季節に、ミドリのもみじを見に行ったらどうだと思いつく。どこかで新緑のもみじを見た人はたくさんいるとしても、わざわざミドリのもみじ狩りに出かけるなんて日本人の1%の1%もいないだろう。我ながら面白い企画ではとほくそ笑む。
ではどこへ見に行くか。自由が丘の九品仏や芝公園のもみじ谷は紅葉スポットとして気に入ってはいても、日常生活圏と被っていてゴールデンウィーク的にはつまらない。でもあまり遠くへも行きたくない。そこで選んだのが2021年に紅葉を見て、その庭園的な造りが印象的だった杉並区にある大田黒公園。訪れたのは5月5日。
地下鉄丸ノ内線の荻窪駅で下車。
右側に見える線路はJRの中央線。
この商店街に入って1本目を、
左に曲がる。
何となく道順は覚えていた。
しばらく進むと道案内看板。
大田黒公園なんて昔からあるのに何を書き換えたんだろう。
住宅地を進み、
この道路に突き当たったら、
もう写真中央に入り口が見えている。
大田黒公園に到着。
駅からは7〜8分の距離。
正門をくぐると70メートルほどある樹齢100年を超えるイチョウ並木。
前回に来たときは見事なイエローオータムだった。
イチョウ並木を過ぎると檜皮葺(ひわだぶき)の中門。
そしてこんな風景が広がっている。
公園と名前が付いていても雰囲気は庭園。日本語的に公園はそこで遊んだりスポーツしたり、また休憩も含めて活動が目的。対して庭園は人が造りあげた庭を鑑賞するところ。いわば「する」と「見る」の違い。国立公園などはまた話が違ってくるが長くなるので割愛。なお公園 > 庭園(正確には数学記号の ⊃ )とされているので公園と名乗っても間違いじゃない。
水路の先は池になっていて東屋(あずまや)がある。
ちなみに庭園などによくある東屋とは屋根と柱だけの建物。平安時代?は都(京都)より東の地域を東(あずま)=田舎と呼んでバカにしていた。和歌に出てくる東人(あずまびと)は田舎者や野蛮人の扱い。なので東屋とは「田舎風の粗末な家」が元来の意味。東国でも家に壁はあったと思うけれど。それにしても差別用語だったものが、いつの間にか風流を感じるようになるから言葉は面白い。最近は逆の場合も多いが。
ところで大田黒公園は杉並区立の公園なのに、区のホームページに案合図などがないのがちょっとケシカラン。とりあえず航空写真で。
池には大きな錦鯉が多数。
黄金色のもいた。
さてミドリのもみじはここまでの写真にも写っているけれど、
改めてご紹介。
もみじの新緑は実に美しい。
一部が光に照らされていたり、
浮かんでいるように見えるのも素敵。
日が当たっているのと陰になっているもみじのミックス。
そしてお約束の逆光写真。
ウ〜ンたまりません。
とりあえずミドリのもみじ狩り企画は大当たり。
ーーー続く
それでへそ曲がりの私は、
紅葉に中にあるミドリのもみじを愛でるのも趣味(^^ゞ
今までにこんなこともブログに書いてきた。
だったら新緑の最も美しい季節に、ミドリのもみじを見に行ったらどうだと思いつく。どこかで新緑のもみじを見た人はたくさんいるとしても、わざわざミドリのもみじ狩りに出かけるなんて日本人の1%の1%もいないだろう。我ながら面白い企画ではとほくそ笑む。
ではどこへ見に行くか。自由が丘の九品仏や芝公園のもみじ谷は紅葉スポットとして気に入ってはいても、日常生活圏と被っていてゴールデンウィーク的にはつまらない。でもあまり遠くへも行きたくない。そこで選んだのが2021年に紅葉を見て、その庭園的な造りが印象的だった杉並区にある大田黒公園。訪れたのは5月5日。
地下鉄丸ノ内線の荻窪駅で下車。
右側に見える線路はJRの中央線。
この商店街に入って1本目を、
左に曲がる。
何となく道順は覚えていた。
しばらく進むと道案内看板。
大田黒公園なんて昔からあるのに何を書き換えたんだろう。
住宅地を進み、
この道路に突き当たったら、
もう写真中央に入り口が見えている。
大田黒公園に到着。
駅からは7〜8分の距離。
正門をくぐると70メートルほどある樹齢100年を超えるイチョウ並木。
前回に来たときは見事なイエローオータムだった。
イチョウ並木を過ぎると檜皮葺(ひわだぶき)の中門。
そしてこんな風景が広がっている。
公園と名前が付いていても雰囲気は庭園。日本語的に公園はそこで遊んだりスポーツしたり、また休憩も含めて活動が目的。対して庭園は人が造りあげた庭を鑑賞するところ。いわば「する」と「見る」の違い。国立公園などはまた話が違ってくるが長くなるので割愛。なお公園 > 庭園(正確には数学記号の ⊃ )とされているので公園と名乗っても間違いじゃない。
水路の先は池になっていて東屋(あずまや)がある。
ちなみに庭園などによくある東屋とは屋根と柱だけの建物。平安時代?は都(京都)より東の地域を東(あずま)=田舎と呼んでバカにしていた。和歌に出てくる東人(あずまびと)は田舎者や野蛮人の扱い。なので東屋とは「田舎風の粗末な家」が元来の意味。東国でも家に壁はあったと思うけれど。それにしても差別用語だったものが、いつの間にか風流を感じるようになるから言葉は面白い。最近は逆の場合も多いが。
ところで大田黒公園は杉並区立の公園なのに、区のホームページに案合図などがないのがちょっとケシカラン。とりあえず航空写真で。
池には大きな錦鯉が多数。
黄金色のもいた。
さてミドリのもみじはここまでの写真にも写っているけれど、
改めてご紹介。
もみじの新緑は実に美しい。
一部が光に照らされていたり、
浮かんでいるように見えるのも素敵。
日が当たっているのと陰になっているもみじのミックス。
そしてお約束の逆光写真。
ウ〜ンたまりません。
とりあえずミドリのもみじ狩り企画は大当たり。
ーーー続く
wassho at 23:33|Permalink│Comments(0)│
2024年05月18日
井の頭公園を通り抜け
練馬駅前の平成つつじ公園から善福寺公園を経て、5月3日の「ゴールデンウィークちょっと長めのお散歩コース」の最終目的地は井の頭公園。
ここは東京以外でも全国的に知名度が高く、多くの人が名前くらいは聞いた記憶のある公園ではないかと思う。名前が印象的なのとサクラの名所としてよくニュースでも報じられるからだろう。
面積は開園面積として約42.8ヘクタールとある。ただし、この開園面積の定義が調べてもはっきりしない。東京都建設局の資料によると井の頭公園とは
井の頭公園:40.13ヘクタール
井の頭第二公園:1.60ヘクタール
玉川上水緑地:9.5ヘクタール
の総称。
この合計は51.23ヘクタールとなる。しかし同じ資料に開園面積として約42.8ヘクタールと記載されている。51.23 − 42.8 = 8.43ヘクタールはどこへ行った? 語感から常識的な判断をすると総敷地面積に対し公園として整備開園済みの面積になるけれど、資料には「計画区域外を含む場合がある」などと書かれていて意味がよくわからない。求む用語集。
細かなことはさておいて、42.8ヘクタールのうち動物園が11.5ヘクタールで27%を占める。これは上野公園が全体で53.8ヘクタール、動物園は14ヘクタールで26%だから比率としては同じようなもの。ただしパンダで全国的に有名な上野動物園と違って、井の頭の動物園は東京でもあまり存在感がない。ライオン、トラ、キリン、象、カバなど子供に人気の動物はおらず地味な動物園である。
また井の頭公園といえば半分くらいは池の印象があるものの、池の面積は4.2ヘクタールで1割ほどに過ぎない。もっとも上の航空写真で公園の形を「少し傾いた大の字」だとすれば、右に払っている部分が公園のメインエリア。そこだけ見れば「半分くらいは池」ではある。
ところで井の頭公園は「がしら」ではなく「いのかしら」と「か」が濁らない。これは公園だけではなく、このあたりの井の頭と付く名前はすべて「いのかしら」。でも「いのがしら」と発音する人のほうが圧倒的に多い。ここの近く、あるいは渋谷と吉祥寺を結ぶ井の頭線沿線に住んでいる人を除けばほとんどがそうじゃないかな。シロガネーゼの白金が実は「しろかね」だと知っている人が少ないのと同じ。
ふたつの語が結びついて、後ろのカ行、サ行、タ行、ハ行で始まる音が濁るのを連濁という。いちおう「和語なら連濁する」「漢語や外来語なら連濁しない」との法則があるとはいえ、例外だらけなので結局は個別に調べるしかない。日本語は難しすぎるね。
さて吉祥寺通りからそれる脇道を進むと、
井の頭公園に到着。吉祥寺駅からだと多くの人がここを利用するのに、公園の規模と較べてずいぶんと小さな出入り口である。
とりあえず池に沿って右方向に進む。
井の頭公園に来るのはウン十年ぶり。
この橋の右下にあるのが、
お茶の水と呼ばれる湧き水。
この看板では家康のエピソードが記されているが、さらに3代将軍家光が「ここが井戸では一番素晴らしい」として「井之頭」と名付けたとする説もある。1970年代までは水が湧き出ていたそうだ。なお千代田区神田のお茶の水はその付近の寺の湧き水を、2代将軍秀忠の茶の湯用に献上したのが地名の由来。なにかと徳川家つながりなお茶の水という言葉。
ちなみに文京区大塚にある国立のお茶の水女子大学は、創立が(神田の)お茶の水で1932年(昭和7年)に移転。また鉄腕アトムのお茶の水博士はお茶の水駅からのネーミング。ただしその理由はわからなかった。アトムを描いていた頃に手塚治虫が住んでいたのは豊島区のトキワ荘。でもお茶の水から神田にかけては出版社が多いので馴染みがあったのかな。またアトムもお茶の水小学校に通っていた。アトム連載当時は架空の小学校だったのに、少子化のため1993年(平成5年)に3つの小学校を統廃合して、新たにお茶の水小学校ができたとちょっと寂しい歴史の流れ。
\(^^\)(/^^)/ソレハコッチニオイトイテ
木々を抜けて明るい通路に出る。
ジブリ美術館コッチの看板。
でも750メートル先だからけっこう遠い。
そして見えてくるのが弁財天。
創建は天慶年間(938年〜947年)に源経基(つねもと)によると伝えられ、1197年に源頼朝が宮社を建立、鎌倉末期に焼失、3代将軍家光が再興したなどとされる。現在のお堂は関東大震災(1923年 大正12年)で損壊してから1928年(昭和3年)に再建されたもの。
弁財天の近くに噴水。
噴水といえばお約束の高速シャッタースピード。でも距離が離れているのでいつものように水しぶきが止まっているようにはならなかった。写真を拡大すれば多少の違いはわかる。
<オート設定 シャッタースピード1/200秒>
<マニュアル設定 シャッタースピード1/2000秒>
池を回り込んで弁天堂を正面から。
弁天橋と名付けられた橋で池を渡り歩ける。
それにしても新緑の美しさよ。
池の右岸(下流に向かって右)を進んで、
狛江橋で池に突き出した半島のような所に来ると、
自然文化園のチケット売り場がある。
自然文化園とは聞き慣れないが、写真の英語表記を見てわかるように動物園のこと。開園は1942年(昭和17年)。上野動物園に匹敵する動物園が構想されたものの、戦時中で予算と物資が不足して大型動物を集められず、そこで「自然生態観察園」とのコンセプトになったのがネーミングの由来。
こちらの半島部分は水生物園、吉祥寺通りの向こう側に(普通の)動物園と区画が分けられている。水生物とは魚類、両生類、昆虫、植物など淡水の水辺の生き物。また水鳥も展示されているので甲高い鳴き声があたりに響いていた。
水生物園の向かいはボート乗り場。
昔から井の頭公園でデートをしてボートに乗ると、そのカップルは別れるとのジンクスがまことしやかにささやかれている。私の経験に照らし合わせるとそれは事実である(^^ゞ
新緑を満喫しながら歩く。
池の左岸に渡ってしばらく進むと、
キッチンカーが出ているエリアに。
さらに先には手作りアクセサリーなどを販売している露店。
昔から井の頭公園は露店と、大道芸やストリートミュージックなどのパフォーマンスが盛んだった。しかし何かと混乱してきたので2007年から出展者・出演者と行政が取り決めを結んだ「井の頭公園アートマーケッツ」として運営されている。
井の頭公園アートマーケッツは「手作りアート作品」と「パフォーマンス」のマーケットと定義されていて物販は手作りの作品限定。だから古着や中古品・アンティークなど単なる販売は禁止。ちょっとやり過ぎでフリーマーケットのようなわくわく感に欠ける。集まっている人の年齢層も高め。パフォーマンスは公園内の何カ所かで場所が指定されている。今回は上演しているときに通りかからなかった。
この日に訪れた平成つつじ公園と善福寺公園と違って、井の頭公園は特に目的もなく久しく訪れていなかったから寄り道しただけ。本日の園内散策コースはこんな感じ。今までも池の周りしか来たことがないから、そのうち園内をくまなく歩いてみたい。
ここはもう井の頭公園駅の手前。
青いのは井の頭線の線路。
なぜかこの光景にものすごく心惹かれる。
吸い込まれるように線路の下をくぐってみたけれど、
特に何もなかった(^^ゞ
左下にチラッと写っている水面は井の頭池から流れ出た水。つまりここが神田川の最上流部にあたるわけで、善福寺川に続いて本日2つ目の源流ゲット!
さあ井の頭線に乗って帰りましょう。
ホームに降りると無情にも電車が発車した後。
ちょっとローカル線ぽい雰囲気もあるホームで次の電車を待つ。
「いのかしら」ですよ。
自宅に戻ってみると2万歩越え。
歩数はスマホのセンサーによる計測だが、距離はどう判断しているのか不明で信頼できない。とうやらGPSでは測っていないようだし歩幅もスマホに登録していない。
2022年の1月から日常生活以外に週に3回、合計で3万歩の散歩ノルマを課している。大体1回に1万3000歩前後を歩くことが多い。その甲斐あって現在は至って健脚。でも2万歩を超えるとちょっと疲れる。
とりあえずお疲れ様自分だった5月3日。
よく歩きいろいろ見て楽しいゴールデンウィークでした。
おしまい
ここは東京以外でも全国的に知名度が高く、多くの人が名前くらいは聞いた記憶のある公園ではないかと思う。名前が印象的なのとサクラの名所としてよくニュースでも報じられるからだろう。
面積は開園面積として約42.8ヘクタールとある。ただし、この開園面積の定義が調べてもはっきりしない。東京都建設局の資料によると井の頭公園とは
井の頭公園:40.13ヘクタール
井の頭第二公園:1.60ヘクタール
玉川上水緑地:9.5ヘクタール
の総称。
この合計は51.23ヘクタールとなる。しかし同じ資料に開園面積として約42.8ヘクタールと記載されている。51.23 − 42.8 = 8.43ヘクタールはどこへ行った? 語感から常識的な判断をすると総敷地面積に対し公園として整備開園済みの面積になるけれど、資料には「計画区域外を含む場合がある」などと書かれていて意味がよくわからない。求む用語集。
細かなことはさておいて、42.8ヘクタールのうち動物園が11.5ヘクタールで27%を占める。これは上野公園が全体で53.8ヘクタール、動物園は14ヘクタールで26%だから比率としては同じようなもの。ただしパンダで全国的に有名な上野動物園と違って、井の頭の動物園は東京でもあまり存在感がない。ライオン、トラ、キリン、象、カバなど子供に人気の動物はおらず地味な動物園である。
また井の頭公園といえば半分くらいは池の印象があるものの、池の面積は4.2ヘクタールで1割ほどに過ぎない。もっとも上の航空写真で公園の形を「少し傾いた大の字」だとすれば、右に払っている部分が公園のメインエリア。そこだけ見れば「半分くらいは池」ではある。
ところで井の頭公園は「がしら」ではなく「いのかしら」と「か」が濁らない。これは公園だけではなく、このあたりの井の頭と付く名前はすべて「いのかしら」。でも「いのがしら」と発音する人のほうが圧倒的に多い。ここの近く、あるいは渋谷と吉祥寺を結ぶ井の頭線沿線に住んでいる人を除けばほとんどがそうじゃないかな。シロガネーゼの白金が実は「しろかね」だと知っている人が少ないのと同じ。
ふたつの語が結びついて、後ろのカ行、サ行、タ行、ハ行で始まる音が濁るのを連濁という。いちおう「和語なら連濁する」「漢語や外来語なら連濁しない」との法則があるとはいえ、例外だらけなので結局は個別に調べるしかない。日本語は難しすぎるね。
さて吉祥寺通りからそれる脇道を進むと、
井の頭公園に到着。吉祥寺駅からだと多くの人がここを利用するのに、公園の規模と較べてずいぶんと小さな出入り口である。
とりあえず池に沿って右方向に進む。
井の頭公園に来るのはウン十年ぶり。
この橋の右下にあるのが、
お茶の水と呼ばれる湧き水。
この看板では家康のエピソードが記されているが、さらに3代将軍家光が「ここが井戸では一番素晴らしい」として「井之頭」と名付けたとする説もある。1970年代までは水が湧き出ていたそうだ。なお千代田区神田のお茶の水はその付近の寺の湧き水を、2代将軍秀忠の茶の湯用に献上したのが地名の由来。なにかと徳川家つながりなお茶の水という言葉。
ちなみに文京区大塚にある国立のお茶の水女子大学は、創立が(神田の)お茶の水で1932年(昭和7年)に移転。また鉄腕アトムのお茶の水博士はお茶の水駅からのネーミング。ただしその理由はわからなかった。アトムを描いていた頃に手塚治虫が住んでいたのは豊島区のトキワ荘。でもお茶の水から神田にかけては出版社が多いので馴染みがあったのかな。またアトムもお茶の水小学校に通っていた。アトム連載当時は架空の小学校だったのに、少子化のため1993年(平成5年)に3つの小学校を統廃合して、新たにお茶の水小学校ができたとちょっと寂しい歴史の流れ。
\(^^\)(/^^)/ソレハコッチニオイトイテ
木々を抜けて明るい通路に出る。
ジブリ美術館コッチの看板。
でも750メートル先だからけっこう遠い。
そして見えてくるのが弁財天。
創建は天慶年間(938年〜947年)に源経基(つねもと)によると伝えられ、1197年に源頼朝が宮社を建立、鎌倉末期に焼失、3代将軍家光が再興したなどとされる。現在のお堂は関東大震災(1923年 大正12年)で損壊してから1928年(昭和3年)に再建されたもの。
弁財天の近くに噴水。
噴水といえばお約束の高速シャッタースピード。でも距離が離れているのでいつものように水しぶきが止まっているようにはならなかった。写真を拡大すれば多少の違いはわかる。
<オート設定 シャッタースピード1/200秒>
<マニュアル設定 シャッタースピード1/2000秒>
池を回り込んで弁天堂を正面から。
弁天橋と名付けられた橋で池を渡り歩ける。
それにしても新緑の美しさよ。
池の右岸(下流に向かって右)を進んで、
狛江橋で池に突き出した半島のような所に来ると、
自然文化園のチケット売り場がある。
自然文化園とは聞き慣れないが、写真の英語表記を見てわかるように動物園のこと。開園は1942年(昭和17年)。上野動物園に匹敵する動物園が構想されたものの、戦時中で予算と物資が不足して大型動物を集められず、そこで「自然生態観察園」とのコンセプトになったのがネーミングの由来。
こちらの半島部分は水生物園、吉祥寺通りの向こう側に(普通の)動物園と区画が分けられている。水生物とは魚類、両生類、昆虫、植物など淡水の水辺の生き物。また水鳥も展示されているので甲高い鳴き声があたりに響いていた。
水生物園の向かいはボート乗り場。
昔から井の頭公園でデートをしてボートに乗ると、そのカップルは別れるとのジンクスがまことしやかにささやかれている。私の経験に照らし合わせるとそれは事実である(^^ゞ
新緑を満喫しながら歩く。
池の左岸に渡ってしばらく進むと、
キッチンカーが出ているエリアに。
さらに先には手作りアクセサリーなどを販売している露店。
昔から井の頭公園は露店と、大道芸やストリートミュージックなどのパフォーマンスが盛んだった。しかし何かと混乱してきたので2007年から出展者・出演者と行政が取り決めを結んだ「井の頭公園アートマーケッツ」として運営されている。
井の頭公園アートマーケッツは「手作りアート作品」と「パフォーマンス」のマーケットと定義されていて物販は手作りの作品限定。だから古着や中古品・アンティークなど単なる販売は禁止。ちょっとやり過ぎでフリーマーケットのようなわくわく感に欠ける。集まっている人の年齢層も高め。パフォーマンスは公園内の何カ所かで場所が指定されている。今回は上演しているときに通りかからなかった。
この日に訪れた平成つつじ公園と善福寺公園と違って、井の頭公園は特に目的もなく久しく訪れていなかったから寄り道しただけ。本日の園内散策コースはこんな感じ。今までも池の周りしか来たことがないから、そのうち園内をくまなく歩いてみたい。
ここはもう井の頭公園駅の手前。
青いのは井の頭線の線路。
なぜかこの光景にものすごく心惹かれる。
吸い込まれるように線路の下をくぐってみたけれど、
特に何もなかった(^^ゞ
左下にチラッと写っている水面は井の頭池から流れ出た水。つまりここが神田川の最上流部にあたるわけで、善福寺川に続いて本日2つ目の源流ゲット!
さあ井の頭線に乗って帰りましょう。
ホームに降りると無情にも電車が発車した後。
ちょっとローカル線ぽい雰囲気もあるホームで次の電車を待つ。
「いのかしら」ですよ。
自宅に戻ってみると2万歩越え。
歩数はスマホのセンサーによる計測だが、距離はどう判断しているのか不明で信頼できない。とうやらGPSでは測っていないようだし歩幅もスマホに登録していない。
2022年の1月から日常生活以外に週に3回、合計で3万歩の散歩ノルマを課している。大体1回に1万3000歩前後を歩くことが多い。その甲斐あって現在は至って健脚。でも2万歩を超えるとちょっと疲れる。
とりあえずお疲れ様自分だった5月3日。
よく歩きいろいろ見て楽しいゴールデンウィークでした。
おしまい
wassho at 20:40|Permalink│Comments(0)│
2024年05月16日
善福寺公園でスイレン
善福寺公園は上の池エリアと下の池エリアが道路で隔てられている。
上の池で鯉のぼりを楽しんだ後は信号を渡って下の池へ。
小学4年生の屋外アートが展示されていた。
こんな雰囲気でまあまあ面白かった。
それぞれの板は塗り絵レベルで特に価値や意味があるわけじゃない。しかしそのカラフルな人を模した形が、森のようになっている空間にあるのがこの作品のキモ。だから何だ?と考え出すと人生を楽しめないよ(^^ゞ 小学4年生でこんな体験をしたなんてうらやましい。
木々をを抜けて遊具のある広場へ。この公園には近所の人しか来ていないようで、ゴールデンウィークど真ん中の5月3日なのに閑散とした印象。
新緑で目を喜ばせながら下の池の左岸を歩く。
下の池でのお目当てはこれ。
スイレン!
カメラだとズームしているけれど、
肉眼では花までの距離がちょっと遠い。
場所を移動してスイレンに近づく。
スイレンをたくさん見るのは久しぶり。
ハスの名所はたくさんあってもスイレンは少ない。
スイレンの花は文句なく美しくまた気品もある。
ただしアップで撮ると水面が何かと汚いのが写真的には困りもの。
なおこの日はこの色のスイレンしか咲いていなかった。
最初に眺めていた方角を向いて。
スイレンのエリアはそこそこの広さ。今はまだ咲き始めでもうすぐ花数が増えてくるだろう。スイレンとアジサイはだいたい同じ頃に見頃を迎える。そしてアジサイと違ってスイレンは9月頃までと開花時期が長い。もうしばらくしてからまた見に来ましょう。
スイレンが咲いているのは下の池の一番下流。池なのに下流とはおかしな表現だが、スイレンに面したこの堰から水が流れ出て善福寺川がスタート。言い換えれば善福寺川の最も上流地点がここ。
さらに新緑を眺めながら池の右岸をブラブラ。
下の池を一周して、遊具のある所まで戻ってきた。
少し引き返して善福寺公園を出る。
まだまだ歩けたので予定通り井の頭公園までお散歩続行。
バイクで走ると気持ちそさそうなカーブ。
この変わった建物は、
東京女子大学。
ゴールデンウィークなので学生の人影がなく残念(^^ゞ
杉並区から武蔵野市に。
住宅地の路地を抜けると、
吉祥寺駅の北側に出る。
駅から延びている吉祥寺大通り。
奥の信号で人が渡っているのが、吉祥寺大通りと平行するサンロード商店街。
駅が見えてきた。
ここまで善福寺公園を出てから25分ほど。
駅南側の飲食店街。
すごく人が多く見えるものの、これは手前からズームレンズの望遠側で撮った写真。いわゆる望遠レンズによる圧縮効果。
こちらはほぼ同じ場所を普通に撮ったもので、実際はこれくらいの混雑。
写真ってけっこう嘘をつくのよ。
この看板を探せば上の2枚がほぼ同じ場所だとわかるはず。
井の頭通りに出て吉祥寺通りとの交差点。
公園を示す標識の矢印がヘンな方向を指しているが、
井の頭公園へは吉祥寺通りに沿って左折する。
だいたいこの矢印の方向に道路はないからナゾの標識。
交差点から100mほど歩くと井の頭公園の入り口に通ずる坂道が現れる。
ーーー続く
wassho at 21:06|Permalink│Comments(0)│
2024年05月14日
善福寺公園で鯉のぼり
5月3日にツツジがまったく終了していた練馬の平成つつじ公園を10分ほど見て回ってから、次にやってきたのは善福寺公園。開園は1961年(昭和36年)。同じく善福寺川沿いにある善福寺川緑地や和田堀公園が1964年だから少し早い。
面積は8ヘクタールで、そのうち池が3.7ヘクタールと47%を占める。池の畔(ほとり)に前回に書いたオリジナルの善福寺があったので、ここの池が善福寺池と呼ばれ、そこから流れる川が善福寺川となった。
現在は上の池と下の池に分かれているが、元々の善福寺池は上の池。下の池は昭和10年代に善福寺川を堰き止めて作られた人工池。その善福寺川は善福寺池の湧水が水源でここからスタートする。江戸時代には神田上水の補助水源として利用され、また井の頭池(井の頭公園)と三宝寺池(石神井公園)と共に武蔵野の三大湧水池と呼ばれた。ただし昭和30年代から水が湧き出さなくなり、現在は地下からのくみ上げに頼っている。
上の地図で善福寺公園に隣接しているのが地下水をくみ上げている杉並浄水所。浄水場ではなく浄水所なのは、東京都水道局が規模によって言葉を使い分けているから。たぶん東京都だけの用語。なおこの杉並浄水所は2016年にくみ上げた水から大腸菌が検出されたため、今は水道水に使用されていない。ということは善福寺池と善福寺川に給水しているだけ?
現在位置は上の池北側の「あそび場」と名付けられた広場。
善福寺公園に来た目的は上の池と下の池でそれぞれあって、
上の池でのお目当ては鯉のぼり。
鯉のぼりなんてずっと別に興味もなかったのに、2014年にネモフィラと芝桜を見にバイクツーリングした群馬県太田市の北部運動公園で、たまたま150匹の鯉のぼりイベントを見てその魅力を再発見。以来、子供の日が近づくと血が騒ぐようになった(^^ゞ
川でいうなら左岸(上流から見て左側)を新緑を愛でながら進む。
平成つつじ公園では見られなかった鮮やかな色彩のツツジもあって、
江戸の敵を長崎で討った気分。
鯉のぼりの真横から。
でもこの日は風がほとんどなくメザシ状態。
少しだけ風が吹いてきた。
でもすぐにまた無風状態になったので池の周りの散策再スタート。
オレンジのツツジとシャクナゲ。
たぶんキショウブ(黄菖蒲)。
アヤメとカキツバタとハナショウブの見分け方はマスターしているものの、キショウブと黄色いカキツバタの違いはよく理解していない。近くまで寄れなかったが、写真を拡大して確認できるこの模様はキショウブだと思う。
原産は西アジアからヨーロッパで明治時代後期に観賞用として持ち込まれた。しかし全国で野生化し、繁殖力が強く在来種に影響を与えるとして生態系被害防止外来種に指定されている。これは駆除対象ではなく、これ以上増やさないレベルの措置のよう。ただしアヤメの仲間では、ハナショウブが最も多く栽培されており、かつハナショウブに黄色はないのでキショウブは珍重され人気も高い。
ボート乗り場があって、
ここが上の池の最も南側あたり。
内田秀五郎の銅像。
1907年(明治40年)に現杉並区に当たる井萩村の村長に就任し、区画整理、駅や工場の誘致など、このエリア発展の基礎を築いた人物らしい。
右岸からの鯉のぼり。
先ほどよりは風がある。
気持ちよさそうに泳いでいるように見えて、こちらも気持ちいい。
鯉のぼりは尻尾から見ると揺れ方が面白いもの。でもこの日は風が足らなかった。もっともこのように池に吊されていると尻尾の真後ろからは眺められないが。
ところで誰でも知っているこの歌。
やねより たかい こいのぼり
おおきい まごいは おとうさん
ちいさい ひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
子供の頃は何も考えずに歌っていたものの、よく歌詞を読むとお母さんがいないじゃないか。それに真鯉は黒い鯉、緋鯉は赤い鯉である。だから真鯉がお父さんで緋鯉がお母さん、それ以外の青やピンクが子供たちだったのでは?
これにはいろいろ時代背景が影響している。鯉のぼりのルーツは平安時代まで遡り、武士の家で端午の節句に幟(のぼり)を立てて、男児の立身出世・武運長久を願う風習が生まれたのが始まり。
幟(のぼり)とは縦型の旗、幟旗(のぼりばた)ともいう。今は集客の道具として使われるが、オリジナルは合戦のときの敵味方識別のための目印。
平和な江戸時代になると装飾要素が強くなり、幟(のぼり)に武者絵や七福神など縁起のよい図柄を描くようになる。それらを絵のぼりと呼ぶ。しかし町人にとってそれは武家の風習だし、元は軍旗である幟(のぼり)を立てて同じようにお祝いするのは憚られた。そこでまず吹き流しが使われ、それを中国の故事である「鯉の滝登り」にヒントを得て鯉の模様にしたのが鯉のぼりの始まり。(諸説あり)
この歌川広重が描いた浮世絵には鯉のぼりのほかに、
川の対岸に武家が立てた幟旗(のぼりばた)や絵のぼりも描かれている。
なので鯉のぼりの「のぼり」は幟旗(のぼりばた)の「のぼり」。漢字で書けば鯉幟。鯉が空に昇って泳いでいるからじゃない。もっとも幟(のぼり)の語源に「昇る」の意味もあるのでまったくの間違いとも言い切れない。
今でも鯉のぼりと共に武者幟(絵のぼり)を揚げるところはあるみたい。幟旗(のぼりばた)が立つと合戦の雰囲気が出てくるね。画像はhttps://www.chunichi.co.jp/article/452872から引用
武家社会が終わった明治になって徐々に絵のぼり < 鯉のぼりとなるものの、江戸から当時にかけて鯉のぼりは黒い真鯉が一匹だけ。赤い緋鯉が登場したのは明治後半といわれる。まだ男子中心社会だし、そのときに真鯉がお父さん、緋鯉が子供というか息子の解釈が生まれたと思われる。
そして黒と赤以外の色が使われるようになったのは戦後になってから。これは染色の技術発達に伴っての進化。まず青の鯉が追加され、これでサイズ変化と共に真鯉:お父さん、緋鯉:お母さん、青い鯉:子供の位置づけが確立し、その後に他の色も増えてくる。
童謡の「こいのぼり」が発表されたのは1931年(昭和6年)なので、まだ黒い真鯉と赤い緋鯉が二匹だけの時代。だからお母さんが不在ーーーと歌詞にも歴史ありとのお話。
公園や池の規模と比較して少し数が物足りない。もう2列ほど増やして欲しい気もする。それでも晴天の下で鯉のぼりをのんびり眺められて満足。何となく元気になる気がするから、鯉のぼりなんて久しく見ていないという人も来年はどこかに出かけてみては。けっこういろいろなところでやっているよ。
ーーー下の池へ続く
面積は8ヘクタールで、そのうち池が3.7ヘクタールと47%を占める。池の畔(ほとり)に前回に書いたオリジナルの善福寺があったので、ここの池が善福寺池と呼ばれ、そこから流れる川が善福寺川となった。
現在は上の池と下の池に分かれているが、元々の善福寺池は上の池。下の池は昭和10年代に善福寺川を堰き止めて作られた人工池。その善福寺川は善福寺池の湧水が水源でここからスタートする。江戸時代には神田上水の補助水源として利用され、また井の頭池(井の頭公園)と三宝寺池(石神井公園)と共に武蔵野の三大湧水池と呼ばれた。ただし昭和30年代から水が湧き出さなくなり、現在は地下からのくみ上げに頼っている。
上の地図で善福寺公園に隣接しているのが地下水をくみ上げている杉並浄水所。浄水場ではなく浄水所なのは、東京都水道局が規模によって言葉を使い分けているから。たぶん東京都だけの用語。なおこの杉並浄水所は2016年にくみ上げた水から大腸菌が検出されたため、今は水道水に使用されていない。ということは善福寺池と善福寺川に給水しているだけ?
現在位置は上の池北側の「あそび場」と名付けられた広場。
善福寺公園に来た目的は上の池と下の池でそれぞれあって、
上の池でのお目当ては鯉のぼり。
鯉のぼりなんてずっと別に興味もなかったのに、2014年にネモフィラと芝桜を見にバイクツーリングした群馬県太田市の北部運動公園で、たまたま150匹の鯉のぼりイベントを見てその魅力を再発見。以来、子供の日が近づくと血が騒ぐようになった(^^ゞ
川でいうなら左岸(上流から見て左側)を新緑を愛でながら進む。
平成つつじ公園では見られなかった鮮やかな色彩のツツジもあって、
江戸の敵を長崎で討った気分。
鯉のぼりの真横から。
でもこの日は風がほとんどなくメザシ状態。
少しだけ風が吹いてきた。
でもすぐにまた無風状態になったので池の周りの散策再スタート。
オレンジのツツジとシャクナゲ。
たぶんキショウブ(黄菖蒲)。
アヤメとカキツバタとハナショウブの見分け方はマスターしているものの、キショウブと黄色いカキツバタの違いはよく理解していない。近くまで寄れなかったが、写真を拡大して確認できるこの模様はキショウブだと思う。
原産は西アジアからヨーロッパで明治時代後期に観賞用として持ち込まれた。しかし全国で野生化し、繁殖力が強く在来種に影響を与えるとして生態系被害防止外来種に指定されている。これは駆除対象ではなく、これ以上増やさないレベルの措置のよう。ただしアヤメの仲間では、ハナショウブが最も多く栽培されており、かつハナショウブに黄色はないのでキショウブは珍重され人気も高い。
ボート乗り場があって、
ここが上の池の最も南側あたり。
内田秀五郎の銅像。
1907年(明治40年)に現杉並区に当たる井萩村の村長に就任し、区画整理、駅や工場の誘致など、このエリア発展の基礎を築いた人物らしい。
右岸からの鯉のぼり。
先ほどよりは風がある。
気持ちよさそうに泳いでいるように見えて、こちらも気持ちいい。
鯉のぼりは尻尾から見ると揺れ方が面白いもの。でもこの日は風が足らなかった。もっともこのように池に吊されていると尻尾の真後ろからは眺められないが。
ところで誰でも知っているこの歌。
やねより たかい こいのぼり
おおきい まごいは おとうさん
ちいさい ひごいは こどもたち
おもしろそうに およいでる
子供の頃は何も考えずに歌っていたものの、よく歌詞を読むとお母さんがいないじゃないか。それに真鯉は黒い鯉、緋鯉は赤い鯉である。だから真鯉がお父さんで緋鯉がお母さん、それ以外の青やピンクが子供たちだったのでは?
これにはいろいろ時代背景が影響している。鯉のぼりのルーツは平安時代まで遡り、武士の家で端午の節句に幟(のぼり)を立てて、男児の立身出世・武運長久を願う風習が生まれたのが始まり。
幟(のぼり)とは縦型の旗、幟旗(のぼりばた)ともいう。今は集客の道具として使われるが、オリジナルは合戦のときの敵味方識別のための目印。
平和な江戸時代になると装飾要素が強くなり、幟(のぼり)に武者絵や七福神など縁起のよい図柄を描くようになる。それらを絵のぼりと呼ぶ。しかし町人にとってそれは武家の風習だし、元は軍旗である幟(のぼり)を立てて同じようにお祝いするのは憚られた。そこでまず吹き流しが使われ、それを中国の故事である「鯉の滝登り」にヒントを得て鯉の模様にしたのが鯉のぼりの始まり。(諸説あり)
この歌川広重が描いた浮世絵には鯉のぼりのほかに、
川の対岸に武家が立てた幟旗(のぼりばた)や絵のぼりも描かれている。
なので鯉のぼりの「のぼり」は幟旗(のぼりばた)の「のぼり」。漢字で書けば鯉幟。鯉が空に昇って泳いでいるからじゃない。もっとも幟(のぼり)の語源に「昇る」の意味もあるのでまったくの間違いとも言い切れない。
今でも鯉のぼりと共に武者幟(絵のぼり)を揚げるところはあるみたい。幟旗(のぼりばた)が立つと合戦の雰囲気が出てくるね。画像はhttps://www.chunichi.co.jp/article/452872から引用
武家社会が終わった明治になって徐々に絵のぼり < 鯉のぼりとなるものの、江戸から当時にかけて鯉のぼりは黒い真鯉が一匹だけ。赤い緋鯉が登場したのは明治後半といわれる。まだ男子中心社会だし、そのときに真鯉がお父さん、緋鯉が子供というか息子の解釈が生まれたと思われる。
そして黒と赤以外の色が使われるようになったのは戦後になってから。これは染色の技術発達に伴っての進化。まず青の鯉が追加され、これでサイズ変化と共に真鯉:お父さん、緋鯉:お母さん、青い鯉:子供の位置づけが確立し、その後に他の色も増えてくる。
童謡の「こいのぼり」が発表されたのは1931年(昭和6年)なので、まだ黒い真鯉と赤い緋鯉が二匹だけの時代。だからお母さんが不在ーーーと歌詞にも歴史ありとのお話。
公園や池の規模と比較して少し数が物足りない。もう2列ほど増やして欲しい気もする。それでも晴天の下で鯉のぼりをのんびり眺められて満足。何となく元気になる気がするから、鯉のぼりなんて久しく見ていないという人も来年はどこかに出かけてみては。けっこういろいろなところでやっているよ。
ーーー下の池へ続く
wassho at 21:18|Permalink│Comments(0)│
2024年05月13日
平成つつじ公園は完全終了していた(涙)
さて本日からゴールデンウィーク後半のブログが続く。5月中に書き終わるかな? 後半スタートの5月3日は、練馬駅そばにある区立の平成つつじ公園へ出かけてきた。
ところで今年の冬はわりと暖かかったのに、3月になって気温が上がらずサクラの開花は昨年より半月も遅かった。そのくせ3月後半からは急に気温が上がり、東京では3月と4月に気温25度以上の夏日を8日間も記録。ちなみに昨年は4日間。
それが影響してか春に咲く花はなかなか咲かず、あるいは咲いたと思ったらすぐ散ってしまう傾向にある。ツツジも開花時期が短かった模様。この平成つつじ公園では4月25日頃に見頃が終わっているとの情報がSNSで上がっていた。しかし公式ホームページによれば600品種10,000株と大規模なので、遅咲きの品種を少しは楽しめるかと考えて。
練馬駅到着。
4月10日に南蔵院へしだれ桜を見に来たときは南口で、今回は北側の中央北口。それにしてもこんな短い間隔でまた練馬まで来るとは思っていなかった。
平成つつじ公園は、
ほぼ駅直結といっていい場所にある。
中央北口は2階部分につながっている。
橋の下はバスターミナル。
階段を降りて左に進むと平成つつじ公園。先ほどの看板では練馬文化センターを取り囲むように公園が記されているが、ツツジのあるのは建物の西側。
🎶 この木、なんの木〜
ーーーとのんきに歌っていたら視界の先につつじ公園が見えてきた。
こ、これはホンマにあかんヤツや!
つつじ公園なのに入り口にバラのアーチ。
バラはキレイでもその先に見えるツツジは(/o\)
とりあえず園内ウロウロ。
600品種10,000株がいっせいに傷んでいると景色が汚い(>_<)
少し高くなったところから美しくツツジが咲く誇っているところをモーソーする。
いつか見頃のときにリベンジしに来ましょう。
写真を見せられる状態のものはごく僅か。
新緑はいろいろとキレイだった。
目立っていたのがこの木。
葉の形を拡大してみるとネムノキか。アカシアも同じような葉をしているが、アカシアはもっと葉の数が多いから、たぶんネムノキだろう。
参考までにネムノキ(上)とアカシア(下)はこんな花が咲く。
アカシアはミモザみたいだが、それもそのはずで本来ミモザはオジギソウの別名で花の色はピンク系。しかし日本ではフサアカシアやギンヨウアカシアをミモザと呼んでいる。
日本ではと書いたものの、イタリアでもフサアカシアをミモザと呼ぶらしく、またロシア発祥のミモザサラダも卵の黄身を花の色に見立ててのネーミング。だから他にもアカシアをミモザと呼んでいる国は多いのかも知れない。
ツツジではなくアカシアの話題で盛り上がるのは致し方のないところーーー
園内にいたのは10分くらい(^^ゞ
まあバラが咲いていただけでも儲けもの。よく見ると2種類の赤いバラが咲いていた。
バラのアーチを眺めつつ、
後ろ髪は引かれずに公園を後にする。
多少の覚悟はしていたとはいえ、けっこうガッカリした。もう少し開花時期の違うツツジを植え揃えて欲しい。あるいはそうしていたのに異常気象でそれらも一斉に咲いてしまったのだろうか。それにしても自宅の周りの公園や街路樹のツツジはまだそこそこキレイだったから、どうしてここはこんなに全滅状態なのかが不思議。
でも実はこの日は平成つつじ公園だけの予定ではなく、ここは前菜の位置づけ。
それが救いで気を取り直す。
本日のメインは善福寺公園。4月7日にサクラを見てきた善福寺川緑地と和田堀公園の上流4キロほどの場所にある。本当は善福寺公園に行くだけの計画だったものの、ツツジも見たいなと思って平成つつじ公園が候補にあがった。それなら練馬から善福寺公園まで歩き、ゴールデンウィークだしどうせなら井の頭公園まで足を伸ばしちゃえと考えたのがこの日のお散歩プラン。
平成つつじ公園から善福寺公園まではゴーグルマップによれば約6.8km、さらに井の頭公園までで10kmの距離になる。疲れたら善福寺公園で終了の腹づもり。
駅まで戻り西武池袋線とほぼ並行に走っている千川通りに出る。
けっこういい感じの並木道が続く。
そしてほら、ところどころにツツジの街路樹。
ツツジ専門の平成つつじ公園より断然キレイじゃないか。
納得イカンゾ!
練馬駅の隣の中村橋駅付近で千川通りは線路から離れ出す。
なんか暑いなと思ったら、
並木&日陰が道路の反対側になっていたので移動。
お散歩アルアルな出来事。
環八を通過。
井草四丁目の六叉路を通過。
西武新宿線の上井草駅までやってきた。
自宅周辺は高架線路ばかりなので、
地面に引かれているレールが懐かしいというかもはや新鮮。
こんな写真まで撮ってしまう。
踏切を渡ると右側がゴルフの練習場で、左側は早稲田大学ラグビー部のグラウンド。正式名称は早大上井草グラウンド。ラグビー部の学生寮もある。たぶん中に入って練習を見学できるがこの日は素通り。
ラグビーグラウンドを過ぎた当たりで右折して住宅街に入る。
しばらく進むと青梅街道に出る。
そこを渡ると、
善福寺公園への案内標識があった。
その手前に善福寺。
「善福寺」の文字が微妙に右へ流れているのが気になる。
ところで善福寺川は、
当然この善福寺から名前をとったと思ってしまうが然に非ず(さにあらず)。
この寺の創建は不明だが、記録のある中興(途絶えていたのを復興させる)が1709年だからそこそこ古い。当時の名前は福寿庵。それを理由はわからないものの1942年(昭和17年)に、このあたりの地名の善福寺をとって善福寺に改称した。つまりよくある寺名 → 地名の関係とは逆のパターン。
ではなぜ地名が善福寺だったかというと、もっと以前に善福寺の名前を持つ寺があったから。それが地名や川の名前にもなった。そのオリジナル善福寺の創建や廃寺の時期は不明。
現在の善福寺から200mほど進んで左側の木々が善福寺公園。
善福寺公園に到着。
平成つつじ公園を出発してからちょうど1時間半だった。
偶然にもまたネムノキ(たぶん)。
ーーー続く
ところで今年の冬はわりと暖かかったのに、3月になって気温が上がらずサクラの開花は昨年より半月も遅かった。そのくせ3月後半からは急に気温が上がり、東京では3月と4月に気温25度以上の夏日を8日間も記録。ちなみに昨年は4日間。
それが影響してか春に咲く花はなかなか咲かず、あるいは咲いたと思ったらすぐ散ってしまう傾向にある。ツツジも開花時期が短かった模様。この平成つつじ公園では4月25日頃に見頃が終わっているとの情報がSNSで上がっていた。しかし公式ホームページによれば600品種10,000株と大規模なので、遅咲きの品種を少しは楽しめるかと考えて。
練馬駅到着。
4月10日に南蔵院へしだれ桜を見に来たときは南口で、今回は北側の中央北口。それにしてもこんな短い間隔でまた練馬まで来るとは思っていなかった。
平成つつじ公園は、
ほぼ駅直結といっていい場所にある。
中央北口は2階部分につながっている。
橋の下はバスターミナル。
階段を降りて左に進むと平成つつじ公園。先ほどの看板では練馬文化センターを取り囲むように公園が記されているが、ツツジのあるのは建物の西側。
🎶 この木、なんの木〜
ーーーとのんきに歌っていたら視界の先につつじ公園が見えてきた。
こ、これはホンマにあかんヤツや!
つつじ公園なのに入り口にバラのアーチ。
バラはキレイでもその先に見えるツツジは(/o\)
とりあえず園内ウロウロ。
600品種10,000株がいっせいに傷んでいると景色が汚い(>_<)
少し高くなったところから美しくツツジが咲く誇っているところをモーソーする。
いつか見頃のときにリベンジしに来ましょう。
写真を見せられる状態のものはごく僅か。
新緑はいろいろとキレイだった。
目立っていたのがこの木。
葉の形を拡大してみるとネムノキか。アカシアも同じような葉をしているが、アカシアはもっと葉の数が多いから、たぶんネムノキだろう。
参考までにネムノキ(上)とアカシア(下)はこんな花が咲く。
アカシアはミモザみたいだが、それもそのはずで本来ミモザはオジギソウの別名で花の色はピンク系。しかし日本ではフサアカシアやギンヨウアカシアをミモザと呼んでいる。
日本ではと書いたものの、イタリアでもフサアカシアをミモザと呼ぶらしく、またロシア発祥のミモザサラダも卵の黄身を花の色に見立ててのネーミング。だから他にもアカシアをミモザと呼んでいる国は多いのかも知れない。
ツツジではなくアカシアの話題で盛り上がるのは致し方のないところーーー
園内にいたのは10分くらい(^^ゞ
まあバラが咲いていただけでも儲けもの。よく見ると2種類の赤いバラが咲いていた。
バラのアーチを眺めつつ、
後ろ髪は引かれずに公園を後にする。
多少の覚悟はしていたとはいえ、けっこうガッカリした。もう少し開花時期の違うツツジを植え揃えて欲しい。あるいはそうしていたのに異常気象でそれらも一斉に咲いてしまったのだろうか。それにしても自宅の周りの公園や街路樹のツツジはまだそこそこキレイだったから、どうしてここはこんなに全滅状態なのかが不思議。
でも実はこの日は平成つつじ公園だけの予定ではなく、ここは前菜の位置づけ。
それが救いで気を取り直す。
本日のメインは善福寺公園。4月7日にサクラを見てきた善福寺川緑地と和田堀公園の上流4キロほどの場所にある。本当は善福寺公園に行くだけの計画だったものの、ツツジも見たいなと思って平成つつじ公園が候補にあがった。それなら練馬から善福寺公園まで歩き、ゴールデンウィークだしどうせなら井の頭公園まで足を伸ばしちゃえと考えたのがこの日のお散歩プラン。
平成つつじ公園から善福寺公園まではゴーグルマップによれば約6.8km、さらに井の頭公園までで10kmの距離になる。疲れたら善福寺公園で終了の腹づもり。
駅まで戻り西武池袋線とほぼ並行に走っている千川通りに出る。
けっこういい感じの並木道が続く。
そしてほら、ところどころにツツジの街路樹。
ツツジ専門の平成つつじ公園より断然キレイじゃないか。
納得イカンゾ!
練馬駅の隣の中村橋駅付近で千川通りは線路から離れ出す。
なんか暑いなと思ったら、
並木&日陰が道路の反対側になっていたので移動。
お散歩アルアルな出来事。
環八を通過。
井草四丁目の六叉路を通過。
西武新宿線の上井草駅までやってきた。
自宅周辺は高架線路ばかりなので、
地面に引かれているレールが懐かしいというかもはや新鮮。
こんな写真まで撮ってしまう。
踏切を渡ると右側がゴルフの練習場で、左側は早稲田大学ラグビー部のグラウンド。正式名称は早大上井草グラウンド。ラグビー部の学生寮もある。たぶん中に入って練習を見学できるがこの日は素通り。
ラグビーグラウンドを過ぎた当たりで右折して住宅街に入る。
しばらく進むと青梅街道に出る。
そこを渡ると、
善福寺公園への案内標識があった。
その手前に善福寺。
「善福寺」の文字が微妙に右へ流れているのが気になる。
ところで善福寺川は、
当然この善福寺から名前をとったと思ってしまうが然に非ず(さにあらず)。
この寺の創建は不明だが、記録のある中興(途絶えていたのを復興させる)が1709年だからそこそこ古い。当時の名前は福寿庵。それを理由はわからないものの1942年(昭和17年)に、このあたりの地名の善福寺をとって善福寺に改称した。つまりよくある寺名 → 地名の関係とは逆のパターン。
ではなぜ地名が善福寺だったかというと、もっと以前に善福寺の名前を持つ寺があったから。それが地名や川の名前にもなった。そのオリジナル善福寺の創建や廃寺の時期は不明。
現在の善福寺から200mほど進んで左側の木々が善福寺公園。
善福寺公園に到着。
平成つつじ公園を出発してからちょうど1時間半だった。
偶然にもまたネムノキ(たぶん)。
ーーー続く
wassho at 20:23|Permalink│Comments(0)│
2024年05月08日
玉敷公園のフジ その3&よさこい
最初に見た藤棚と、隣にあるステージと芝生広場。
ここでヨサコイをやるとアナウンスがあった。
そのメンバーたちが準備中。
芝生広場の反対側の藤棚を眺める。
ここのフジは最初に見た藤棚や大藤と較べてかなり短い。
ヨサコイが始まった。
最初に「まず2曲踊ります、その後、踊り子さんがしばらく休憩します」とアナウンスが流れる。踊り子さんーーーと「さん」をつけると何かヘンな感じ(^^ゞ
小さな女の子が一生懸命に旗を振っていて可愛い。
しかし人数が少なかったのと、ヨサコイはド派手な衣装と思っていたから、ちょっとイメージと違った。いわゆる創作ダンスを見たような印象。画像はグーグルの検索画面
ところでヨサコイとはよく耳にするのに、
イマイチ意味を理解していなかったので調べてみた。
大きくはヨサコイとYOSAKOIソーランに分かれる。
まずはよさこい。平仮名だと文章の中で読みにくいので、片仮名でヨサコイと書いてきたが「よさこい」が正しい表記。
これは高知の「よさこい祭り」が発祥。
1954年(昭和29年)に徳島の阿波踊りに対抗する商工会議所の企画として始まった。
鳴子(なるこ)と呼ばれる、
振るとカチャカチャと音の出る道具を使うのが特徴だが、
当初は盆踊り的だった模様。鳴子のことを知らなければファッション的にも阿波踊りと見分けが付かない。写真は1959年(昭和34年)の撮影。画像はhttps://story.nakagawa-masashichi.jp/103441から引用
1971年(昭和46年)にニース(フランス)のカーニバルに参加招待さる。この時に同じく招待されていた新潟の「佐渡おけさ」、山形の「花笠踊り」などと差別化するためにサンバ調のリズムに変更された。
その作戦が功を奏し現地では大受け。
国内でもニュースになる。
それをきっかけにロックその他の音楽を取り入れたり、
ダンスとしての振り付けが行われるようになる。
そして平成になって大きな転機。
北海道の大学生が高知でよさこい祭りを見て感動。この光景を北海道でもと企画立案し、1992年(平成4年)に高知の「よさこい祭り」と北海道の「ソーラン節」を融合させた「YOSAKOIソーラン祭り」を10チーム・1000名で開催する。
その学生とは飛行機内でのCAへの横柄な態度を吉幾三に暴露され、それがきっかけで札幌市職員に対するパワハラも発覚して絶賛炎上した長谷川岳参議院議員だったというからビックリ。ヨサコイの第二の生みの親だったのに、いつから天狗になったんや長谷川ちゃん(/o\)
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
北海道でのYOSAKOIソーラン祭り成功をきっかけにヨサコイは全国に広まり、1999年(平成11年)には高知で「よさこい全国大会」が開催されるまでに。現在は全国で800以上のよさこいイベントが開催されているともいわれる。
高知・北海道・それ以外を区別するために
高知:よさこい
北海道:ソーラン
それ以外:よさこいソーラン
と呼び分けたりもする。
この日のイベントでも「よさこいソーラン」と紹介されていた。
でも一般的には単に「よさこい」と呼んでいるような気がするな。
ヨサコイの基本ルールはシンプル。発祥の高知ではまず鳴子を持って踊ること。また曲のどこかに「よさこい鳴子踊り」の一部を取り入れるの2つだけ。「よさこい鳴子踊り」は民謡「よさこい節」をベースに初期のよさこい祭りのために作られた曲。
それが北海道では「ソーラン節」に変えられ、それに倣って各地ではそれぞれの地元民謡などを取り入れている。なお北海道でも鳴子は持つが鳴らさないことも多い。この日のメンバーは鳴子を持っていなかった。
大きな違いは高知では踊りながらのパレードなのに対して、北海道ではステージでのダンス披露が基本となる。これは雪の降る北海道では冬の練習が屋内だからそうなったらしい。
ちなみに「よさこい」とは「夜さり来い→夜さ来い=夜にいらっしゃい」の古語が変化した言葉。ただしどうして「夜にいらっしゃい」というのかは解説が見つからなかった。
いろいろ調べていたら見たくなってきちゃった(^^ゞ
東京でも夏に原宿や池袋であるみたいなので出かけてみようか。
さてミニよさこいを見た後は公園内をまたひと回り。
フジの新緑もなかなかキレイ。
フジの花は小さいし風で揺れるのでアップでは撮りにくい。
なおかつその形はたいして美しくもない(^^ゞ
やはりフジは香ってナンボの世界。
もう10日経つのに、
まだ鼻の奥に甘い香りの記憶が残っている。
玉敷公園は想像していた以上にいい藤棚だった。
藤棚は旧河野邸を含め大小合わせて6つ。
そしてこの規模が無料なのも初めてだし素晴らしい。
都内からだと遠いけれど、フジ好きなら訪れる価値があるのは保証するよ。
おしまい
<補足>
この日は4月なのに30度超えの真夏日!
ここでヨサコイをやるとアナウンスがあった。
そのメンバーたちが準備中。
芝生広場の反対側の藤棚を眺める。
ここのフジは最初に見た藤棚や大藤と較べてかなり短い。
ヨサコイが始まった。
最初に「まず2曲踊ります、その後、踊り子さんがしばらく休憩します」とアナウンスが流れる。踊り子さんーーーと「さん」をつけると何かヘンな感じ(^^ゞ
小さな女の子が一生懸命に旗を振っていて可愛い。
しかし人数が少なかったのと、ヨサコイはド派手な衣装と思っていたから、ちょっとイメージと違った。いわゆる創作ダンスを見たような印象。画像はグーグルの検索画面
ところでヨサコイとはよく耳にするのに、
イマイチ意味を理解していなかったので調べてみた。
大きくはヨサコイとYOSAKOIソーランに分かれる。
まずはよさこい。平仮名だと文章の中で読みにくいので、片仮名でヨサコイと書いてきたが「よさこい」が正しい表記。
これは高知の「よさこい祭り」が発祥。
1954年(昭和29年)に徳島の阿波踊りに対抗する商工会議所の企画として始まった。
鳴子(なるこ)と呼ばれる、
振るとカチャカチャと音の出る道具を使うのが特徴だが、
当初は盆踊り的だった模様。鳴子のことを知らなければファッション的にも阿波踊りと見分けが付かない。写真は1959年(昭和34年)の撮影。画像はhttps://story.nakagawa-masashichi.jp/103441から引用
1971年(昭和46年)にニース(フランス)のカーニバルに参加招待さる。この時に同じく招待されていた新潟の「佐渡おけさ」、山形の「花笠踊り」などと差別化するためにサンバ調のリズムに変更された。
その作戦が功を奏し現地では大受け。
国内でもニュースになる。
それをきっかけにロックその他の音楽を取り入れたり、
ダンスとしての振り付けが行われるようになる。
そして平成になって大きな転機。
北海道の大学生が高知でよさこい祭りを見て感動。この光景を北海道でもと企画立案し、1992年(平成4年)に高知の「よさこい祭り」と北海道の「ソーラン節」を融合させた「YOSAKOIソーラン祭り」を10チーム・1000名で開催する。
その学生とは飛行機内でのCAへの横柄な態度を吉幾三に暴露され、それがきっかけで札幌市職員に対するパワハラも発覚して絶賛炎上した長谷川岳参議院議員だったというからビックリ。ヨサコイの第二の生みの親だったのに、いつから天狗になったんや長谷川ちゃん(/o\)
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
北海道でのYOSAKOIソーラン祭り成功をきっかけにヨサコイは全国に広まり、1999年(平成11年)には高知で「よさこい全国大会」が開催されるまでに。現在は全国で800以上のよさこいイベントが開催されているともいわれる。
高知・北海道・それ以外を区別するために
高知:よさこい
北海道:ソーラン
それ以外:よさこいソーラン
と呼び分けたりもする。
この日のイベントでも「よさこいソーラン」と紹介されていた。
でも一般的には単に「よさこい」と呼んでいるような気がするな。
ヨサコイの基本ルールはシンプル。発祥の高知ではまず鳴子を持って踊ること。また曲のどこかに「よさこい鳴子踊り」の一部を取り入れるの2つだけ。「よさこい鳴子踊り」は民謡「よさこい節」をベースに初期のよさこい祭りのために作られた曲。
それが北海道では「ソーラン節」に変えられ、それに倣って各地ではそれぞれの地元民謡などを取り入れている。なお北海道でも鳴子は持つが鳴らさないことも多い。この日のメンバーは鳴子を持っていなかった。
大きな違いは高知では踊りながらのパレードなのに対して、北海道ではステージでのダンス披露が基本となる。これは雪の降る北海道では冬の練習が屋内だからそうなったらしい。
ちなみに「よさこい」とは「夜さり来い→夜さ来い=夜にいらっしゃい」の古語が変化した言葉。ただしどうして「夜にいらっしゃい」というのかは解説が見つからなかった。
いろいろ調べていたら見たくなってきちゃった(^^ゞ
東京でも夏に原宿や池袋であるみたいなので出かけてみようか。
さてミニよさこいを見た後は公園内をまたひと回り。
フジの新緑もなかなかキレイ。
フジの花は小さいし風で揺れるのでアップでは撮りにくい。
なおかつその形はたいして美しくもない(^^ゞ
やはりフジは香ってナンボの世界。
もう10日経つのに、
まだ鼻の奥に甘い香りの記憶が残っている。
玉敷公園は想像していた以上にいい藤棚だった。
藤棚は旧河野邸を含め大小合わせて6つ。
そしてこの規模が無料なのも初めてだし素晴らしい。
都内からだと遠いけれど、フジ好きなら訪れる価値があるのは保証するよ。
おしまい
<補足>
この日は4月なのに30度超えの真夏日!
wassho at 23:10|Permalink│Comments(1)│
2024年05月07日
玉敷公園のフジ その2
玉敷神社の参道途中から公園に向かう。
行列ができているお団子屋さん屋台カーを過ぎると、
ドカーンと大きな藤棚。
これだけの規模は久しぶり。
これが短辺。
長辺は写真1枚には収まりきらない。
目測で12m x 35m 位。だとしたら面積は420平方メートルの計算。
日の当たっているところは枯れ始めたり色あせたりしていたものの、
全体的には充分に見頃なタイミングで来られたと思う。
そして藤棚の中に入ると濃厚な甘い香りに包まれる。
クンクンする必要がまったくないのはこの規模だからこそ。
それを味わいたくてここまでやってきたのよ\(^o^)/
フジのカーテン。
自宅近くに藤棚のある公園やお寺はいくつかあっても、
こんな風には長く伸びていない。何が違うのだろう。
ところが、その長く伸びた房をニコニコして眺めていたら、
地元の人の会話があちこちから聞こえてきた。
「今年は短いな」
「昔と較べると半分の長さしかない」
へえ〜、そうなんだ。
左側の藤棚に移る。
写真では右と較べて小さく見えるがこちらの方が広い。ほぼ正方形で面積は700平方メートルといわれているから、ルート計算では26メートル四方くらい。
ただしフジの下には入れず外から眺めるだけ。
中にあるのは樹齢450年とされる埼玉県指定天然記念物の大藤。
こりらのほうが色が少し濃かったかな。
俳句コンテストもやっているみたい。
大藤の隣に池があってその畔(ほとり)に白フジ。
白は紫より遅れて咲くので、こちらの方がみずみずしかった。
白フジの棚は規模が小さく房も短いので積極的なクンクンが必要。
紫と較べるとややすっきりとした香りなのが白フジの特徴。
白フジと紫フジを一緒に。
少し高くなっているところから。
中央に広がっているのが大藤と最初に見た藤棚。
屋台の前を通って最初の地点に戻る。
左右に広がっているのが最初の藤棚、こちらに延びているのが大藤。
最初の藤棚の反対側はステージ状に高くなっている。
そこから見下ろして。
ステージの前は芝生広場と、その先にまた藤棚。
ステージの横に小さな藤棚。
その付近にツツジも咲いている。
ツツジ特有の色が飽和したような見え方が好き。
でも全体的に期待したほどは咲いていなかった。
フジと一緒に撮るもツツジの花数が物足りない。
まあ欲張ってはいけません。
ーーー続く
行列ができているお団子屋さん屋台カーを過ぎると、
ドカーンと大きな藤棚。
これだけの規模は久しぶり。
これが短辺。
長辺は写真1枚には収まりきらない。
目測で12m x 35m 位。だとしたら面積は420平方メートルの計算。
日の当たっているところは枯れ始めたり色あせたりしていたものの、
全体的には充分に見頃なタイミングで来られたと思う。
そして藤棚の中に入ると濃厚な甘い香りに包まれる。
クンクンする必要がまったくないのはこの規模だからこそ。
それを味わいたくてここまでやってきたのよ\(^o^)/
フジのカーテン。
自宅近くに藤棚のある公園やお寺はいくつかあっても、
こんな風には長く伸びていない。何が違うのだろう。
ところが、その長く伸びた房をニコニコして眺めていたら、
地元の人の会話があちこちから聞こえてきた。
「今年は短いな」
「昔と較べると半分の長さしかない」
へえ〜、そうなんだ。
左側の藤棚に移る。
写真では右と較べて小さく見えるがこちらの方が広い。ほぼ正方形で面積は700平方メートルといわれているから、ルート計算では26メートル四方くらい。
ただしフジの下には入れず外から眺めるだけ。
中にあるのは樹齢450年とされる埼玉県指定天然記念物の大藤。
こりらのほうが色が少し濃かったかな。
俳句コンテストもやっているみたい。
大藤の隣に池があってその畔(ほとり)に白フジ。
白は紫より遅れて咲くので、こちらの方がみずみずしかった。
白フジの棚は規模が小さく房も短いので積極的なクンクンが必要。
紫と較べるとややすっきりとした香りなのが白フジの特徴。
白フジと紫フジを一緒に。
少し高くなっているところから。
中央に広がっているのが大藤と最初に見た藤棚。
屋台の前を通って最初の地点に戻る。
左右に広がっているのが最初の藤棚、こちらに延びているのが大藤。
最初の藤棚の反対側はステージ状に高くなっている。
そこから見下ろして。
ステージの前は芝生広場と、その先にまた藤棚。
ステージの横に小さな藤棚。
その付近にツツジも咲いている。
ツツジ特有の色が飽和したような見え方が好き。
でも全体的に期待したほどは咲いていなかった。
フジと一緒に撮るもツツジの花数が物足りない。
まあ欲張ってはいけません。
ーーー続く
wassho at 19:54|Permalink│Comments(0)│
2024年05月06日
玉敷公園のフジ
久しぶりに大規模な藤棚で存分にクンクンしたいと思い立ち、
4月28日に埼玉県は加須市の玉敷公園まで出かけてきた。
加須市は読み方もわからなかったが「かぞ」市で、地図を見ると群馬・茨城・栃木に接する埼玉県北東部のディープなエリア。
乗り換え案内アプリによると東横線で渋谷→JR湘南新宿ラインで大宮→JR宇都宮線で久喜(くき)→東武伊勢崎線で加須までと提示された。「宇都宮線」なんて名前だけでも遠くに出かけるイメージ。
当日は10時9分発の湘南新宿ライン特別快速に乗るはずが、10時3分発の埼京線に乗ってしまった。同じホームで大宮行きと表示されていて快速だったし、先に発車するこちらの方が早いのかなと思って。しかし最初はよかったもののだんだんと停まる駅が多くなり、特に最後のほうは各駅停車状態。後で数えてみると湘南新宿ライン特別快速が渋谷から大宮間で4駅停まるだけに対して、埼京線快速は11駅も停まっていた。
結果、湘南新宿ライン特別快速なら10時44分に着いたはずが、埼京線快速では10時50分と6分遅れ。これだけならたいした違いではないけれど、その後も1本ずつ遅れて次の電車が来るまでの間隔も長いから、トータルでは30分ほどのロス。乗り換え案内アプリはいろいろ計算してくれているので素直に信じましょう(^^ゞ
ところで埼玉に行くのに「湘南新宿ライン」なんて妙な感じだが、これは山手線〜赤羽線〜東北本線をまたいで運行する列車の通称。埼京線も同じネーミング手法で正式な線路名称ではない。このあたりの仕組みは複雑であまり理解していない。乗り換え案内アプリが普及したから、これからも理解することはないと思う。
さて大宮から宇都宮線に乗り換えてしばらくすると、いかにも地方都市の郊外な雰囲気になってくる。車窓から見えるのは駅の前後を除けば戸建て住宅のみ。つまりビルやマンションなどの高い建物は皆無。緑も多く空がやたら広い。それを眺めていると身体から緊張感が抜けてリラックスし、時間もゆっくり流れている感覚になる。いや別に毎日緊張を感じながら生活している意識はまったくないのに、都会に住むのはそれだけでプレッシャーが掛かっているものなのかな。
とにかくもうフジなど見に行かないで、このまま宇都宮線に乗っていようかという心地よい気分だった(^^ゞ ストレスが溜まっている人には、とりあえず地方まで電車に乗りに行くミニミニ旅行をお勧めしたい。
久喜から伊勢崎線に乗り換えて加須に到着。
所要時間はドア to 改札で2時間半ほどだった。
改札や駅舎出入り口に鯉のぼりがあしらわれているのは、もうすぐ5月5日の端午の節句だからじゃない。戦前は生産量日本一となるなど、ここはかつて鯉のぼり作りが盛んだったから。ただし現在の状況は調べてもわからなかった。昭和の初めには40社以上あった製造・販売業者が現在は3社しか残っていないらしいので、駅のディスプレイに使うほどの生産規模なのかな。ちなみに現在の生産量日本一は岡山県。
それでも長さ100メートルの鯉のぼりを揚げるイベントは有名で、
ニュースで取り上げられることも多い。
それを見た記憶はあっても、加須市とまでは覚えていなかったm(_ _)m 画像はhttps://www.qualitysaitama.com/newspost/44730とhttps://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/shougyou_kankou/event/5650.htmlから引用
駅前のロータリー。
鯉のぼりがいくつか見える。
それにしてもガラーンとした風景。
さてまだ駅に着いただけである。
ここからバスに乗って玉敷公園まで行く。
藤まつり期間は無料送迎バスが提供されている。
1時間に2本だけだけれど、ちょうどいいタイミングで駅に着いた。
それは間違って埼京線に乗ったおかげ。日頃の行いがいいとこうなる(^^ゞ
無料送迎バスは乗り合いバスと同じ車両だし、「ここが乗り場」と目立つ看板なども出ておらず、案内のオッチャンが立っているだけなのでわかりにくい。
ロータリーを離れて数分すると車窓からの光景はこんな感じ。
航空写真で見ると見事に農地だらけ。
到着したのは工場の空き地のような場所。
乗車時間は約15分。
ところどころに置かれた案内に沿って歩いて行く。
公園に隣接する玉敷神社に着いた。
平安時代初期からあると書かれている。
現在の場所に移ってきたのは1627年。
なお玉敷公園は、玉敷神社の神苑(神社付属の庭園)だった場所。
鳥居が3つもある長い参道。
距離約200メートル。
本殿到着。
左側に神楽殿。
屋根は茅葺き。
拝殿と本殿は一体タイプ。
大きくはないが端正なデザインでいい雰囲気。本殿が1816年、拝殿が1898年(明治31年)の建築とされるから、それほど古くはない。
神社のすぐ近くに醸造所がある加須市の地酒。
新緑がキレイだった。
参道の脇にあったこの門をくぐると、
藤棚を発見。
ただし普通の公園サイズ。
地下で水音が鳴る水琴窟(すいきんくつ)があったので、イラストにあるように竹筒を当てて聴いてみる。でも水の量が少なすぎて、何か聞こえたか聞こえなかったか程度(/o\)
ツツジ。
紫で花びらが細いのはモチツツジで(たぶん)、
黄色の花は八重咲きのヤマブキ(たぶん)。
ここは玉敷公園の旧河野邸と呼ばれるエリア。
案内図を見ると植物ではアジサイがメインみたい。
河野家は玉敷神社に仕える神官の家系。
そこから出た河野省三(1882年・明治15年〜1963年・昭和38年)が神道と国学の学者として有名らしい。国学院大学の学長にも就任している。
この旧河野邸は玉敷公園の飛び地みたいな存在。
メインのエリアには神社参道の途中を右折して入っていく。
ーーー続く
4月28日に埼玉県は加須市の玉敷公園まで出かけてきた。
加須市は読み方もわからなかったが「かぞ」市で、地図を見ると群馬・茨城・栃木に接する埼玉県北東部のディープなエリア。
乗り換え案内アプリによると東横線で渋谷→JR湘南新宿ラインで大宮→JR宇都宮線で久喜(くき)→東武伊勢崎線で加須までと提示された。「宇都宮線」なんて名前だけでも遠くに出かけるイメージ。
当日は10時9分発の湘南新宿ライン特別快速に乗るはずが、10時3分発の埼京線に乗ってしまった。同じホームで大宮行きと表示されていて快速だったし、先に発車するこちらの方が早いのかなと思って。しかし最初はよかったもののだんだんと停まる駅が多くなり、特に最後のほうは各駅停車状態。後で数えてみると湘南新宿ライン特別快速が渋谷から大宮間で4駅停まるだけに対して、埼京線快速は11駅も停まっていた。
結果、湘南新宿ライン特別快速なら10時44分に着いたはずが、埼京線快速では10時50分と6分遅れ。これだけならたいした違いではないけれど、その後も1本ずつ遅れて次の電車が来るまでの間隔も長いから、トータルでは30分ほどのロス。乗り換え案内アプリはいろいろ計算してくれているので素直に信じましょう(^^ゞ
ところで埼玉に行くのに「湘南新宿ライン」なんて妙な感じだが、これは山手線〜赤羽線〜東北本線をまたいで運行する列車の通称。埼京線も同じネーミング手法で正式な線路名称ではない。このあたりの仕組みは複雑であまり理解していない。乗り換え案内アプリが普及したから、これからも理解することはないと思う。
さて大宮から宇都宮線に乗り換えてしばらくすると、いかにも地方都市の郊外な雰囲気になってくる。車窓から見えるのは駅の前後を除けば戸建て住宅のみ。つまりビルやマンションなどの高い建物は皆無。緑も多く空がやたら広い。それを眺めていると身体から緊張感が抜けてリラックスし、時間もゆっくり流れている感覚になる。いや別に毎日緊張を感じながら生活している意識はまったくないのに、都会に住むのはそれだけでプレッシャーが掛かっているものなのかな。
とにかくもうフジなど見に行かないで、このまま宇都宮線に乗っていようかという心地よい気分だった(^^ゞ ストレスが溜まっている人には、とりあえず地方まで電車に乗りに行くミニミニ旅行をお勧めしたい。
久喜から伊勢崎線に乗り換えて加須に到着。
所要時間はドア to 改札で2時間半ほどだった。
改札や駅舎出入り口に鯉のぼりがあしらわれているのは、もうすぐ5月5日の端午の節句だからじゃない。戦前は生産量日本一となるなど、ここはかつて鯉のぼり作りが盛んだったから。ただし現在の状況は調べてもわからなかった。昭和の初めには40社以上あった製造・販売業者が現在は3社しか残っていないらしいので、駅のディスプレイに使うほどの生産規模なのかな。ちなみに現在の生産量日本一は岡山県。
それでも長さ100メートルの鯉のぼりを揚げるイベントは有名で、
ニュースで取り上げられることも多い。
それを見た記憶はあっても、加須市とまでは覚えていなかったm(_ _)m 画像はhttps://www.qualitysaitama.com/newspost/44730とhttps://www.city.kazo.lg.jp/soshiki/shougyou_kankou/event/5650.htmlから引用
駅前のロータリー。
鯉のぼりがいくつか見える。
それにしてもガラーンとした風景。
さてまだ駅に着いただけである。
ここからバスに乗って玉敷公園まで行く。
藤まつり期間は無料送迎バスが提供されている。
1時間に2本だけだけれど、ちょうどいいタイミングで駅に着いた。
それは間違って埼京線に乗ったおかげ。日頃の行いがいいとこうなる(^^ゞ
無料送迎バスは乗り合いバスと同じ車両だし、「ここが乗り場」と目立つ看板なども出ておらず、案内のオッチャンが立っているだけなのでわかりにくい。
ロータリーを離れて数分すると車窓からの光景はこんな感じ。
航空写真で見ると見事に農地だらけ。
到着したのは工場の空き地のような場所。
乗車時間は約15分。
ところどころに置かれた案内に沿って歩いて行く。
公園に隣接する玉敷神社に着いた。
平安時代初期からあると書かれている。
現在の場所に移ってきたのは1627年。
なお玉敷公園は、玉敷神社の神苑(神社付属の庭園)だった場所。
鳥居が3つもある長い参道。
距離約200メートル。
本殿到着。
左側に神楽殿。
屋根は茅葺き。
拝殿と本殿は一体タイプ。
大きくはないが端正なデザインでいい雰囲気。本殿が1816年、拝殿が1898年(明治31年)の建築とされるから、それほど古くはない。
神社のすぐ近くに醸造所がある加須市の地酒。
新緑がキレイだった。
参道の脇にあったこの門をくぐると、
藤棚を発見。
ただし普通の公園サイズ。
地下で水音が鳴る水琴窟(すいきんくつ)があったので、イラストにあるように竹筒を当てて聴いてみる。でも水の量が少なすぎて、何か聞こえたか聞こえなかったか程度(/o\)
ツツジ。
紫で花びらが細いのはモチツツジで(たぶん)、
黄色の花は八重咲きのヤマブキ(たぶん)。
ここは玉敷公園の旧河野邸と呼ばれるエリア。
案内図を見ると植物ではアジサイがメインみたい。
河野家は玉敷神社に仕える神官の家系。
そこから出た河野省三(1882年・明治15年〜1963年・昭和38年)が神道と国学の学者として有名らしい。国学院大学の学長にも就任している。
この旧河野邸は玉敷公園の飛び地みたいな存在。
メインのエリアには神社参道の途中を右折して入っていく。
ーーー続く
wassho at 21:12|Permalink│Comments(0)│
2024年04月19日
西郷山公園で黄色と緑!のサクラ
もう近所のサクラは葉ザクラだし、翌日にちょっと遠出をする予定もあったのに、4月13日は自宅に引きこもっているにはもったいない陽気だった。それでなぜか西郷山公園に変わった名前のサクラがあって、今までそれが咲いている姿を見ていないのを思い出す。もう葉ザクラだろうが少しくらいは花も残っているかと散歩がてらに。
西郷山公園は菅刈(すがかり)公園と共に、中目黒から目黒川を上流に進み、少し渋谷方向に入ったところにある。スターバックスリザーブの大きなお店の近くといえば、わかる人にはわかりやすいかも知れない。
どちらも西郷隆盛の弟の西郷従道(つぐみち)の屋敷跡。屋敷の建物があったあたりが菅刈公園。渋谷に向かっては高台となり、当時は西郷にちなんで西郷山と呼ばれる。そこに造られたのが西郷山公園。面積は菅刈公園が2ヘクタール、西郷山公園は1ヘクタール。
もう葉ザクラなのに、
中目黒駅近くの目黒川はまだそこそこの人出。
10円パンが売っていた。
パンの値段が10円ではなくて、10円硬貨を模しているから10円パン。
オリジナルは韓国の10ウォンパン。
「やはり中目黒の桜の枝は切られていた」でも紹介して、もはや定点観測スポットとなっている宿山橋から目黒川の葉ザクラ状況を。それにしても撮る方向=太陽の向きが違うだけで写真の印象はずいぶんと変わるもの。もうそろそろカメラが自動的に補正してくれないかな。これじゃまるで別の日の写真みたいだ。脳は視覚情報を補正して肉眼ではこんな風には見えていないのだから。
しばらく歩いてまずは菅刈公園へ。
何か咲いていたけれど近づけず。
広場の様子。
しだれ桜が咲いていた。
ツバキとモクレン。
菅刈公園に立ち寄ったのは、
小さいながらも日本庭園があるので、それを眺めるため。
ここを西郷従道が手に入れる前、江戸時代には大名屋敷だった。
しかし扉が閉まっている。
土曜日は休園日なのか?
開園時間が午後4時までだった(/o\)
写真撮影は4時8分。
仕方なく西郷山公園へ。
先にある横断歩道の所を、
左折すれば、
西郷山公園に到着。
サクラの植えられている広場は高台の上にある。
この斜面にある突起は、ノンフレーム工法という地盤補強・崖崩れ防止のために打ち込まれたアンカー(杭:くい)。コンクリートで斜面を塗り固めると景観が損なわれるし、環境破壊にもなるので最近はこのような施工が多いらしい。
まだ咲いているサクラを見上げたり見下ろしたりしながら、
高台の広場に到着。
冒頭に書いた「西郷山公園の変わった名前のサクラ」は、ネームプレートが切れているが「普賢象 ふげんぞう」。名前は忘れていたものの場所は覚えていたのですぐに見つかった。
しかし普賢象は八重桜だったようで、まだ咲いていなかった。
ところで普賢象なんてサクラの名前として変わっている。これは花の中央から伸びる雌しべの先端が曲がっており、普賢菩薩の乗る白象の鼻に見立ててのネーミング。
<参考写真>
八重桜が満開になるのはもう少し先。
既に葉がこんもり生い茂っているのは河津桜。
そして背後の木と色が混じって初めは気がつかなかったものの、
黄色いサクラを発見!
サクラに黄色があるとは知らなかった。ネームプレートはなかったので調べてみると、これはウコンザクラ(鬱金桜)とわかった。ウコンとはターメリックのウコン。カレー粉の材料だったり、二日酔いに効くとかいわれるあのウコン。
ウコンはショウガの仲間でサクラとはまったく関係はなく、これは花びらの色が黄色いからそう名付けられている。しかしウコンのようにオレンジ色ではなく、ごく淡い黄色だからショウガザクラでもよかったんじゃない?
とりあえず生まれて初めて見る黄色いサクラに興奮。
惜しむらくはiPhoneのマクロで撮影したので画像に生気がない。
なおウコンザクラは黄桜とも呼ばれ、日本酒の「黄桜」はこのウコンザクラに由来する。カッパのCMは子供の頃によく見て、何なら🎶カッパッパ〜のCMソングもメロディーだけなら今でも口ずさめるが、そんな話は初耳。
さらにウコンザアクラの近くにあったのが、これまた他の木の葉と色が被ってわかりにくかった御衣黄(ぎょいこう)。名前に「黄」とあってもこちらは緑色。正しくは黄緑だから黄色も混じってはいる。
ただし御衣黄は花びらの先端が割れておらずサクラの形をしていない。だから公園ではサクラではなく、ウコンザクラの黄色とコーディネートする目的で植えられた別の木だと思っていた。あとでサクラと知ってビックリ。(図鑑で見る御衣黄は花びらが割れているのもあった)
開花して時間が経つと緑が抜けて白っぽくなるようだ。
ウコンザクラと御衣黄は黄色緑色系のサクラに分類され、まだ他に数品種あるみたい。そんな色があったなんて、まだまだサクラについて知らないことがあるものだ。
西郷山公園は菅刈(すがかり)公園と共に、中目黒から目黒川を上流に進み、少し渋谷方向に入ったところにある。スターバックスリザーブの大きなお店の近くといえば、わかる人にはわかりやすいかも知れない。
どちらも西郷隆盛の弟の西郷従道(つぐみち)の屋敷跡。屋敷の建物があったあたりが菅刈公園。渋谷に向かっては高台となり、当時は西郷にちなんで西郷山と呼ばれる。そこに造られたのが西郷山公園。面積は菅刈公園が2ヘクタール、西郷山公園は1ヘクタール。
もう葉ザクラなのに、
中目黒駅近くの目黒川はまだそこそこの人出。
10円パンが売っていた。
パンの値段が10円ではなくて、10円硬貨を模しているから10円パン。
オリジナルは韓国の10ウォンパン。
「やはり中目黒の桜の枝は切られていた」でも紹介して、もはや定点観測スポットとなっている宿山橋から目黒川の葉ザクラ状況を。それにしても撮る方向=太陽の向きが違うだけで写真の印象はずいぶんと変わるもの。もうそろそろカメラが自動的に補正してくれないかな。これじゃまるで別の日の写真みたいだ。脳は視覚情報を補正して肉眼ではこんな風には見えていないのだから。
しばらく歩いてまずは菅刈公園へ。
何か咲いていたけれど近づけず。
広場の様子。
しだれ桜が咲いていた。
ツバキとモクレン。
菅刈公園に立ち寄ったのは、
小さいながらも日本庭園があるので、それを眺めるため。
ここを西郷従道が手に入れる前、江戸時代には大名屋敷だった。
しかし扉が閉まっている。
土曜日は休園日なのか?
開園時間が午後4時までだった(/o\)
写真撮影は4時8分。
仕方なく西郷山公園へ。
先にある横断歩道の所を、
左折すれば、
西郷山公園に到着。
サクラの植えられている広場は高台の上にある。
この斜面にある突起は、ノンフレーム工法という地盤補強・崖崩れ防止のために打ち込まれたアンカー(杭:くい)。コンクリートで斜面を塗り固めると景観が損なわれるし、環境破壊にもなるので最近はこのような施工が多いらしい。
まだ咲いているサクラを見上げたり見下ろしたりしながら、
高台の広場に到着。
冒頭に書いた「西郷山公園の変わった名前のサクラ」は、ネームプレートが切れているが「普賢象 ふげんぞう」。名前は忘れていたものの場所は覚えていたのですぐに見つかった。
しかし普賢象は八重桜だったようで、まだ咲いていなかった。
ところで普賢象なんてサクラの名前として変わっている。これは花の中央から伸びる雌しべの先端が曲がっており、普賢菩薩の乗る白象の鼻に見立ててのネーミング。
<参考写真>
八重桜が満開になるのはもう少し先。
既に葉がこんもり生い茂っているのは河津桜。
そして背後の木と色が混じって初めは気がつかなかったものの、
黄色いサクラを発見!
サクラに黄色があるとは知らなかった。ネームプレートはなかったので調べてみると、これはウコンザクラ(鬱金桜)とわかった。ウコンとはターメリックのウコン。カレー粉の材料だったり、二日酔いに効くとかいわれるあのウコン。
ウコンはショウガの仲間でサクラとはまったく関係はなく、これは花びらの色が黄色いからそう名付けられている。しかしウコンのようにオレンジ色ではなく、ごく淡い黄色だからショウガザクラでもよかったんじゃない?
とりあえず生まれて初めて見る黄色いサクラに興奮。
惜しむらくはiPhoneのマクロで撮影したので画像に生気がない。
なおウコンザクラは黄桜とも呼ばれ、日本酒の「黄桜」はこのウコンザクラに由来する。カッパのCMは子供の頃によく見て、何なら🎶カッパッパ〜のCMソングもメロディーだけなら今でも口ずさめるが、そんな話は初耳。
さらにウコンザアクラの近くにあったのが、これまた他の木の葉と色が被ってわかりにくかった御衣黄(ぎょいこう)。名前に「黄」とあってもこちらは緑色。正しくは黄緑だから黄色も混じってはいる。
ただし御衣黄は花びらの先端が割れておらずサクラの形をしていない。だから公園ではサクラではなく、ウコンザクラの黄色とコーディネートする目的で植えられた別の木だと思っていた。あとでサクラと知ってビックリ。(図鑑で見る御衣黄は花びらが割れているのもあった)
開花して時間が経つと緑が抜けて白っぽくなるようだ。
ウコンザクラと御衣黄は黄色緑色系のサクラに分類され、まだ他に数品種あるみたい。そんな色があったなんて、まだまだサクラについて知らないことがあるものだ。
wassho at 22:33|Permalink│Comments(0)│
2024年04月18日
板橋と練馬の南蔵院でしだれ桜のハシゴ 練馬編
4月10日、板橋区の南蔵院でしだれ桜を見た後は、
ハシゴ先である練馬区の南蔵院へ。
練馬区の南蔵院を最初に知り、福岡にある有名な南蔵院を避けるために「東京 南蔵院 サクラ」であれこれ検索していて、たまたまこちらも見つけたのは最初に書いた通り。しかしここはネットにほとんど情報がない。板橋の南蔵院の開花状況はSNSでそれなりに確認できたものの、練馬の南蔵院をX(Twitter)で探すと、本日4月18日の段階でも最新投稿が3月23日(/o\)
でもハシゴは今年の花見の隠れテーマだし、板橋まで行けばどうせ帰り道なのだからと訪れることにした。しかし実は帰り道じゃなかった。
東京の電車は山手線の主要駅をターミナルとして放射状に延びている。近年、私鉄と地下鉄が相互乗り入れするようになって利便性がとても増したとはいえ、ある程度都心から離れて南北に移動しようとすると、いったん都心まで戻らなければならないのだ。
それぞれの南蔵院最寄り駅である本蓮沼から練馬まで、乗り換え案内アプリで検索すると何種類ものルート候補が提示される。それだけ一筋縄ではたどり着けない証し。途中でバスを使うルートもあったが、乗り間違えしそうなので最もベーシックなルートを選んだ。
それは本蓮沼駅から都営三田線で巣鴨まで戻り、山手線に乗り換えて池袋、そして西武池袋線で練馬まで。直線距離の2倍半ほどの移動になる。
練馬駅に到着。
ここまで本蓮沼駅から約45分掛かった。
桜並木もあった練馬駅前の雰囲。
ここで痛恨のミス(というほどでもないが)。南蔵院までは地図アプリの経路案内を頼りに歩いたのだが、それがバスを使う設定になっていた(>_<) 実際にスマホに表示されていた地図はもっと狭い範囲だったので遠回りしているのに気付かず。
でも普段の生活圏内にはない東武ストアの前を通りかかり、徳川家光が手植えした1枚の写真に収まりきらない大きな木も見られたからいいかーーーと自分の失敗を正当化。
3本の電車を乗り継いで練馬に着き、そこから遠回りな道順を進んで、ようやく南蔵院に到着。これでもししだれ桜が散っていたらキリスト万歳と境内で叫んでやる(^^ゞ
最初にあったのは大きなソメイヨシノ。
葉ザクラ進行中。
咲いているソメイヨシノは白いのに、散った花びらがピンクなのが不思議。
隣にしだれ桜。
それほど大きくないサイズ。
花付き度合いは普通かな。
キリスト万歳ではなくお釈迦様ありがとうでよかった。
しだれ桜は枝が目立つのが写真的には手強(ごわ)い。
本日2箇所目のしだれ桜でほんわか気分に浸りましょう。
本堂のほうにもしだれ桜があった。
こちらは2本でサイズは板橋の南蔵院より大きい。
でも花数が少ない。
奥の方は葉ザクラが進んでいる。
手前はそうでもないから品種が違うのか? そうは見えなかったが。
手前のしだれ桜を角度を変えて。
ツボミはあまりなかったから満開の時期が過ぎていたのだろうか。でも地面に花びらはあまり落ちていない。ひょっとしたら今年は花付きが悪かったのかも知れない。板橋の南蔵院もネットで見た過去の写真と較べて花数が少なかった。ソメイヨシノは毎年同じように花を咲かせても、しだれ桜は年によって差があるというのが経験則。
本堂と隣にある薬師堂。
扉が閉まっていて本日休業的な感じ。
境内ブラブラ。
戦没者慰霊碑とサクラの花びらに埋もれたタンポポ。
これはおそらくしだれ桜の花びら。
空海像。
これがあるなら真言宗のお寺。そういえば板橋の南蔵院、福岡の南蔵院も真言宗だった。宗派によってお寺の名前が決まっているのか?
入ってきた門と反対方向から出ると、
墓地が広がっていて、
さらにその半分ほどの広さがある墓地予定地。
境内に戻って、
濃いピンクの花びら絨毯の上に立つ観音像。
しかし観音像に覆い被さっているのは、
山桜系の白いサクラなのが解せない。
観音像の隣に仁王門。
この仁王門は変わっていて、
上部に鐘がつるされており鐘楼(しょうろう)門となっている。
さらに変わっているのはその位置。
仁王門は小さなお寺ならメインの出入り口の門として、大きなお寺ならメインの出入り口から続く境内参道の途中に、ここから先は聖域と示すために造られる。でもここの仁王門は境内の片隅にポツンと立っている。かつてはもっと敷地が広く、ここを本堂につながる参道が通っていたのだろうか。
なおこの南蔵院も正確な建立時期はわかっていないものの、室町時代初期の1357年に中興(復活)されたとの記録があるから、板橋の南蔵院と較べると相当に古い。この仁王門自体は江戸中期の建築。
「あ」と口を開いている阿形(あぎょう)と「ん」と口を閉じた吽形(うんぎょう)が対となる金剛力士像。阿吽(あうん)の呼吸との表現はこれがルーツ。また金剛力士は仁王とも呼ばれ、仁王立ちの語源でもある。
金剛力士は金剛杵(こんごうしょ)と呼ばれる、あらゆる物を打ち砕ける武器を持っているから金剛力士と呼ばれる。でも南蔵院の金剛力士はエアー金剛杵だった。どちらも持っていなかったり、吽形(うんぎょう)だけが持っていないのはたまにある。
参考までに金剛杵(こんごうしょ)を持つ東大寺の金剛力士像。
なお東大寺では向かって左に阿形、右に吽形の配置だが、これは例外的で通常は逆。
像の設置位置の左右に何か意味があるかは知らない。
さて金剛力士像といえば恒例のビーチクチェック! 仏像で乳首があるのは金剛力士像だけで、なぜかやたら目立っているものが多い。ここ南蔵院のは珍しくごく控えめだった。
小さい方のしだれ桜を再度眺めて、本日のしだれ桜ハシゴは終了。
板橋の南蔵院が箱庭的とすれば、こちらの南蔵院はガラーンと何の造作も施していない印象でまさに対照的なお寺。しだれ桜は特に見応えはなかったものの、いろいろな所で様々なサクラを眺めるのを趣味にしているので、サクラ蓄積知の幅が広がってそれなりに満足。その知識が何の役に立つのかはわからないけれど(^^ゞ
おしまい
ハシゴ先である練馬区の南蔵院へ。
練馬区の南蔵院を最初に知り、福岡にある有名な南蔵院を避けるために「東京 南蔵院 サクラ」であれこれ検索していて、たまたまこちらも見つけたのは最初に書いた通り。しかしここはネットにほとんど情報がない。板橋の南蔵院の開花状況はSNSでそれなりに確認できたものの、練馬の南蔵院をX(Twitter)で探すと、本日4月18日の段階でも最新投稿が3月23日(/o\)
でもハシゴは今年の花見の隠れテーマだし、板橋まで行けばどうせ帰り道なのだからと訪れることにした。しかし実は帰り道じゃなかった。
東京の電車は山手線の主要駅をターミナルとして放射状に延びている。近年、私鉄と地下鉄が相互乗り入れするようになって利便性がとても増したとはいえ、ある程度都心から離れて南北に移動しようとすると、いったん都心まで戻らなければならないのだ。
それぞれの南蔵院最寄り駅である本蓮沼から練馬まで、乗り換え案内アプリで検索すると何種類ものルート候補が提示される。それだけ一筋縄ではたどり着けない証し。途中でバスを使うルートもあったが、乗り間違えしそうなので最もベーシックなルートを選んだ。
それは本蓮沼駅から都営三田線で巣鴨まで戻り、山手線に乗り換えて池袋、そして西武池袋線で練馬まで。直線距離の2倍半ほどの移動になる。
練馬駅に到着。
ここまで本蓮沼駅から約45分掛かった。
桜並木もあった練馬駅前の雰囲。
ここで痛恨のミス(というほどでもないが)。南蔵院までは地図アプリの経路案内を頼りに歩いたのだが、それがバスを使う設定になっていた(>_<) 実際にスマホに表示されていた地図はもっと狭い範囲だったので遠回りしているのに気付かず。
でも普段の生活圏内にはない東武ストアの前を通りかかり、徳川家光が手植えした1枚の写真に収まりきらない大きな木も見られたからいいかーーーと自分の失敗を正当化。
3本の電車を乗り継いで練馬に着き、そこから遠回りな道順を進んで、ようやく南蔵院に到着。これでもししだれ桜が散っていたらキリスト万歳と境内で叫んでやる(^^ゞ
最初にあったのは大きなソメイヨシノ。
葉ザクラ進行中。
咲いているソメイヨシノは白いのに、散った花びらがピンクなのが不思議。
隣にしだれ桜。
それほど大きくないサイズ。
花付き度合いは普通かな。
キリスト万歳ではなくお釈迦様ありがとうでよかった。
しだれ桜は枝が目立つのが写真的には手強(ごわ)い。
本日2箇所目のしだれ桜でほんわか気分に浸りましょう。
本堂のほうにもしだれ桜があった。
こちらは2本でサイズは板橋の南蔵院より大きい。
でも花数が少ない。
奥の方は葉ザクラが進んでいる。
手前はそうでもないから品種が違うのか? そうは見えなかったが。
手前のしだれ桜を角度を変えて。
ツボミはあまりなかったから満開の時期が過ぎていたのだろうか。でも地面に花びらはあまり落ちていない。ひょっとしたら今年は花付きが悪かったのかも知れない。板橋の南蔵院もネットで見た過去の写真と較べて花数が少なかった。ソメイヨシノは毎年同じように花を咲かせても、しだれ桜は年によって差があるというのが経験則。
本堂と隣にある薬師堂。
扉が閉まっていて本日休業的な感じ。
境内ブラブラ。
戦没者慰霊碑とサクラの花びらに埋もれたタンポポ。
これはおそらくしだれ桜の花びら。
空海像。
これがあるなら真言宗のお寺。そういえば板橋の南蔵院、福岡の南蔵院も真言宗だった。宗派によってお寺の名前が決まっているのか?
入ってきた門と反対方向から出ると、
墓地が広がっていて、
さらにその半分ほどの広さがある墓地予定地。
境内に戻って、
濃いピンクの花びら絨毯の上に立つ観音像。
しかし観音像に覆い被さっているのは、
山桜系の白いサクラなのが解せない。
観音像の隣に仁王門。
この仁王門は変わっていて、
上部に鐘がつるされており鐘楼(しょうろう)門となっている。
さらに変わっているのはその位置。
仁王門は小さなお寺ならメインの出入り口の門として、大きなお寺ならメインの出入り口から続く境内参道の途中に、ここから先は聖域と示すために造られる。でもここの仁王門は境内の片隅にポツンと立っている。かつてはもっと敷地が広く、ここを本堂につながる参道が通っていたのだろうか。
なおこの南蔵院も正確な建立時期はわかっていないものの、室町時代初期の1357年に中興(復活)されたとの記録があるから、板橋の南蔵院と較べると相当に古い。この仁王門自体は江戸中期の建築。
「あ」と口を開いている阿形(あぎょう)と「ん」と口を閉じた吽形(うんぎょう)が対となる金剛力士像。阿吽(あうん)の呼吸との表現はこれがルーツ。また金剛力士は仁王とも呼ばれ、仁王立ちの語源でもある。
金剛力士は金剛杵(こんごうしょ)と呼ばれる、あらゆる物を打ち砕ける武器を持っているから金剛力士と呼ばれる。でも南蔵院の金剛力士はエアー金剛杵だった。どちらも持っていなかったり、吽形(うんぎょう)だけが持っていないのはたまにある。
参考までに金剛杵(こんごうしょ)を持つ東大寺の金剛力士像。
なお東大寺では向かって左に阿形、右に吽形の配置だが、これは例外的で通常は逆。
像の設置位置の左右に何か意味があるかは知らない。
さて金剛力士像といえば恒例のビーチクチェック! 仏像で乳首があるのは金剛力士像だけで、なぜかやたら目立っているものが多い。ここ南蔵院のは珍しくごく控えめだった。
小さい方のしだれ桜を再度眺めて、本日のしだれ桜ハシゴは終了。
板橋の南蔵院が箱庭的とすれば、こちらの南蔵院はガラーンと何の造作も施していない印象でまさに対照的なお寺。しだれ桜は特に見応えはなかったものの、いろいろな所で様々なサクラを眺めるのを趣味にしているので、サクラ蓄積知の幅が広がってそれなりに満足。その知識が何の役に立つのかはわからないけれど(^^ゞ
おしまい
wassho at 21:06|Permalink│Comments(0)│
2024年04月17日
板橋と練馬の南蔵院でしだれ桜のハシゴ 板橋編 その2
階段を上って本堂へ。
花台が備えられているのは、先日の池上本門寺でも見かけた釈迦の誕生日(4月8日)を祝う花まつり、正式名は灌仏会(かんぶつえ)のためのしつらえ。
この日は4月10日だったが、
しばらくは続けられるのだろう。
花まつりはいわばキリストの誕生日を祝うクリスマスと同じ。多くのお寺で降誕会(こうたんえ)の法要やイベントがそこそこの規模で営まれる。でもまあクリスマスの認知度とは雲泥の差(>_<)
なぜ花まつりかというと、釈迦の母親がお産のために里帰りする途中、ルンビニの花園で休んでいたときに釈迦が生まれたとの故事から。ルンビニは現在のネパール南部でインドとの国境近くの村。
花まつりは誕生日なので、
誕生仏と呼ばれる釈迦が生まれたときの姿を模した仏像が用いられる。
上の写真だと小さいので、
こちらは東大寺にある国宝の誕生仏。
場所がルンビニの花園なのは先ほど書いたとおりだが、
言い伝えによると
まず釈迦は母親の右脇から生まれた!
そして誕生した直後に立ち上がって7歩を進み!!
右手で天を、左手で大地を指差したまま、
天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)と説いた!!!
とされ、誕生仏のポーズはそれを表現している。
信じるか信じないかはあなたしだい(^^ゞ
さてこの天上天下唯我独尊。そう、ヤンキーが「オレこそが最強だ」と特攻服にその漢字を刺繍したり、「◯◯さんは唯我独尊ですね」とうぬぼれが強く協調性のない人間に対して使われる、あの言葉である。
もちろん釈迦の言葉がそんな意味では困るので、
仏教界では天上天下唯我独尊を
天の上にも、天の下にも、
誰もがこの世にただ独りしかいない尊い存在
などと解説するのが一般的。
ただしこれ以外にも解釈は様々ある。しかし少し調べてみると、どれも天上天下唯我独尊の漢字8文字それぞれの意味をあれこれ掘り下げて考察している。なのでどうもこじつけくさい。さらに解釈する人の宗教観もにじみ出るからなおさら。
仏教は古代インドで生まれ、中国を経由して日本に入った。仏典を中国語に翻訳するときに解釈の揺れはあっただろうし、さらに中国語と日本語は同じ漢字を使っていてもニュアンスが違う場合もある。ましてや仏典に書かれた中国語は日本語でいうなら古文である。平安時代の「いとおかし」が現代の「面白い」ではないように、解釈するには幅広い中国語の知識が必要。しかしどうもそういうアプローチでの解釈もされていない。あくまで現在の日本語としての語感がベース。
だから二重三重に天上天下唯我独尊の意味がずれている可能性もある。できたらオリジナルの言語で天上天下唯我独尊はどう表現されていたのか、そこからの解釈をお願いしたいもの。
誕生仏は水盤に立てられており、そこには甘茶(あまちゃ)が入れられている。甘茶はアジサイに近い品種の葉を発酵させてお茶にする。フィロズルチンという成分が含まれており、これは砂糖の約1000倍の甘さがあるとされる。(成分としての話で甘茶が砂糖より1000倍甘いわけではない)
花まつりの正式名である「灌仏会(かんぶつえ)」の「灌」は「水をそそぐ、流れ込む」との意味。単語として灌はあまり聞き慣れないものの、農地に水を引き入れるのを灌漑(かんがい)というでしょ。そして誕生仏に甘茶を掛けるから灌仏会。細長い棒が4本写っているのは柄杓(ひしゃく)の柄。
どうして甘茶を掛けるかは南蔵院の説明で。
ここに書かれているようにお参りしている人もいたが、それには靴を脱いで本堂の中に上がる必要があったので、私は花台の前から甘茶掛けなしでお参り。天上天下唯我独尊とお祈りした。仏教的あるいはヤンキーな意味だったのかは想像にお任せしましょう。
ところで右手で天を、左手で大地を指すのが誕生仏だけれど、どうにも映画サタデーナイトフィーバーでジョン・トラボルタが見せた決めポーズを連想してしまう(^^ゞ あっ、このポスターを見て懐かしかったらジジババ確定ね。
本堂の上から境内を眺める。
正面以外はビルが近かったり、電線が目立ったりーーー
山門から退出。
でもこれで終わりじゃない。
南蔵院は山門の手前、境内の外にある前庭も絵になっている。
そしてお寺の北側に面した道路(写真右奥)には、
本堂の裏側にある墓地からはみ出したサクラが。
ピンクの花と茶色い葉、そして白い花とグリーンの葉の八重桜。
南蔵院と道路を挟んで立派な門。
門の上には見事なサクラ。
南蔵院のしだれ桜と違ってこちらはソメイヨシノ。
これもお寺の一部かと思ったら、
表札には個人名。
Googleマップで確認すると、墓地を除いた南蔵院と同じくらいの面積がある。推定で約800坪。周りの駐車場もここの所有地かも知れない。
南蔵院がいつ建立されたのか正確なところは不明なものの、おそらく戦国時代の終わり頃に、このあたりの荒れ地を開墾して蓮沼村を開いた新井三郎盛久が開基(スポンサー)となって創建されたようだ。そして江戸時代に入り新井三郎盛久の子孫がこの地の名主を勤め、新井三郎の名前を代々引き継いだらしい。
だからお寺の隣にお大きな屋敷があるわけか。いいなあ〜
それにしても江戸時代前からの財力を現在も維持しているのは凄い。
なおこれはネットで拾った情報をつなぎ合わせただけで信憑性75%くらい。
さて南蔵院のしだれ桜とモモの花をあれこれ紹介してきたが、最も見応えのある光景は、南蔵院を出て新井さんちの門を背中にして眺めたここ。しだれ桜とソメイヨシノのコラボ、お寺の五色幕、新緑その他モロモロ圧倒的に美しい。
南蔵院を訪れたら是非この場所をお忘れなく!
ーーー練馬編に続く
花台が備えられているのは、先日の池上本門寺でも見かけた釈迦の誕生日(4月8日)を祝う花まつり、正式名は灌仏会(かんぶつえ)のためのしつらえ。
この日は4月10日だったが、
しばらくは続けられるのだろう。
花まつりはいわばキリストの誕生日を祝うクリスマスと同じ。多くのお寺で降誕会(こうたんえ)の法要やイベントがそこそこの規模で営まれる。でもまあクリスマスの認知度とは雲泥の差(>_<)
なぜ花まつりかというと、釈迦の母親がお産のために里帰りする途中、ルンビニの花園で休んでいたときに釈迦が生まれたとの故事から。ルンビニは現在のネパール南部でインドとの国境近くの村。
花まつりは誕生日なので、
誕生仏と呼ばれる釈迦が生まれたときの姿を模した仏像が用いられる。
上の写真だと小さいので、
こちらは東大寺にある国宝の誕生仏。
場所がルンビニの花園なのは先ほど書いたとおりだが、
言い伝えによると
まず釈迦は母親の右脇から生まれた!
そして誕生した直後に立ち上がって7歩を進み!!
右手で天を、左手で大地を指差したまま、
天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)と説いた!!!
とされ、誕生仏のポーズはそれを表現している。
信じるか信じないかはあなたしだい(^^ゞ
さてこの天上天下唯我独尊。そう、ヤンキーが「オレこそが最強だ」と特攻服にその漢字を刺繍したり、「◯◯さんは唯我独尊ですね」とうぬぼれが強く協調性のない人間に対して使われる、あの言葉である。
もちろん釈迦の言葉がそんな意味では困るので、
仏教界では天上天下唯我独尊を
天の上にも、天の下にも、
誰もがこの世にただ独りしかいない尊い存在
などと解説するのが一般的。
ただしこれ以外にも解釈は様々ある。しかし少し調べてみると、どれも天上天下唯我独尊の漢字8文字それぞれの意味をあれこれ掘り下げて考察している。なのでどうもこじつけくさい。さらに解釈する人の宗教観もにじみ出るからなおさら。
仏教は古代インドで生まれ、中国を経由して日本に入った。仏典を中国語に翻訳するときに解釈の揺れはあっただろうし、さらに中国語と日本語は同じ漢字を使っていてもニュアンスが違う場合もある。ましてや仏典に書かれた中国語は日本語でいうなら古文である。平安時代の「いとおかし」が現代の「面白い」ではないように、解釈するには幅広い中国語の知識が必要。しかしどうもそういうアプローチでの解釈もされていない。あくまで現在の日本語としての語感がベース。
だから二重三重に天上天下唯我独尊の意味がずれている可能性もある。できたらオリジナルの言語で天上天下唯我独尊はどう表現されていたのか、そこからの解釈をお願いしたいもの。
誕生仏は水盤に立てられており、そこには甘茶(あまちゃ)が入れられている。甘茶はアジサイに近い品種の葉を発酵させてお茶にする。フィロズルチンという成分が含まれており、これは砂糖の約1000倍の甘さがあるとされる。(成分としての話で甘茶が砂糖より1000倍甘いわけではない)
花まつりの正式名である「灌仏会(かんぶつえ)」の「灌」は「水をそそぐ、流れ込む」との意味。単語として灌はあまり聞き慣れないものの、農地に水を引き入れるのを灌漑(かんがい)というでしょ。そして誕生仏に甘茶を掛けるから灌仏会。細長い棒が4本写っているのは柄杓(ひしゃく)の柄。
どうして甘茶を掛けるかは南蔵院の説明で。
ここに書かれているようにお参りしている人もいたが、それには靴を脱いで本堂の中に上がる必要があったので、私は花台の前から甘茶掛けなしでお参り。天上天下唯我独尊とお祈りした。仏教的あるいはヤンキーな意味だったのかは想像にお任せしましょう。
ところで右手で天を、左手で大地を指すのが誕生仏だけれど、どうにも映画サタデーナイトフィーバーでジョン・トラボルタが見せた決めポーズを連想してしまう(^^ゞ あっ、このポスターを見て懐かしかったらジジババ確定ね。
本堂の上から境内を眺める。
正面以外はビルが近かったり、電線が目立ったりーーー
山門から退出。
でもこれで終わりじゃない。
南蔵院は山門の手前、境内の外にある前庭も絵になっている。
そしてお寺の北側に面した道路(写真右奥)には、
本堂の裏側にある墓地からはみ出したサクラが。
ピンクの花と茶色い葉、そして白い花とグリーンの葉の八重桜。
南蔵院と道路を挟んで立派な門。
門の上には見事なサクラ。
南蔵院のしだれ桜と違ってこちらはソメイヨシノ。
これもお寺の一部かと思ったら、
表札には個人名。
Googleマップで確認すると、墓地を除いた南蔵院と同じくらいの面積がある。推定で約800坪。周りの駐車場もここの所有地かも知れない。
南蔵院がいつ建立されたのか正確なところは不明なものの、おそらく戦国時代の終わり頃に、このあたりの荒れ地を開墾して蓮沼村を開いた新井三郎盛久が開基(スポンサー)となって創建されたようだ。そして江戸時代に入り新井三郎盛久の子孫がこの地の名主を勤め、新井三郎の名前を代々引き継いだらしい。
だからお寺の隣にお大きな屋敷があるわけか。いいなあ〜
それにしても江戸時代前からの財力を現在も維持しているのは凄い。
なおこれはネットで拾った情報をつなぎ合わせただけで信憑性75%くらい。
さて南蔵院のしだれ桜とモモの花をあれこれ紹介してきたが、最も見応えのある光景は、南蔵院を出て新井さんちの門を背中にして眺めたここ。しだれ桜とソメイヨシノのコラボ、お寺の五色幕、新緑その他モロモロ圧倒的に美しい。
南蔵院を訪れたら是非この場所をお忘れなく!
ーーー練馬編に続く
wassho at 20:42|Permalink│Comments(0)│
2024年04月15日
板橋と練馬の南蔵院でしだれ桜のハシゴ 板橋編
気象庁によるサクラ満開宣言が4月4日。しかし3月31日こそ最高気温28.1度を記録するバカ陽気になったものの、東京の4月前半は天候に恵まれず。画像はhttps://kishojin.weathermap.jp/diary.php?ame=より引用
それでも晴れた日を狙って4月2日に妙見堂のしだれ桜&池上本門寺、4月7日には善福寺川緑地&和田堀公園を見てきた。そしてそろそろ葉桜になり始める4月10日に出かけてきたのは板橋区と練馬区にある南蔵院というお寺。
3月31日にはかむろ坂と目黒川の桜祭りを回って「花の咲いていないサクラ祭りをハシゴした本日の最高気温は28.1度!」のブログを書いた。4月2日と4月7日も場所としてはつながっているとはいえ2箇所を回っている。だから「ハシゴ」は今年の花見の隠れテーマ。
それにしてもどうしてハシゴなのだろう。語源としては梯子酒で、これは「飲み屋を次々と変えて飲み歩くのを」「梯子を一段一段と上がる様子になぞらえた」と解説される。でもいい気分でフラフラとお店を回るのと、慎重に足元を確認しながら上がっていく梯子とではイメージがずいぶん違う。深く考えると違和感あり。
そろそろ葉桜に−−−と書いたが、板橋の南蔵院のしだれ桜はSNSで情報を探すと、4月1日の時点ではまだほとんど咲いていなかった。4月6日に公式ホームページのお知らせで「しだれ桜もようやく咲き始め、見頃を迎えつつあります」と載る。咲き始めと見頃では文章が矛盾しているが、いずれにせよまだ満開でないと判断。それで4月7日は善福寺川緑地&和田堀公園にした。
しだれ桜といっても品種は様々で、ソメイヨシノより先に咲いてそれが満開の頃には散ってしまうものもあれば、ソメイヨシノと同時期あるいは遅く咲くしだれ桜もある。ソメイヨシノと違ってしだれ桜の開花情報はマスコミで流れないから、調べるのがけっこう面倒。
4月6日以降の開花情報はSNSや公式ホームページで得られなかった。それでも7日と8日は20度を超える気温となったので、もうそろそろ大丈夫かと天気予報とスケジュールの都合を睨んで4月10日に訪れることにした。ここはモモもキレイで、それが3月末には咲いていたので傷まないうちにとの気持ちもあった。
話は変わるがこの板橋の南蔵院は東京のしだれ桜を特集していたネットのページで見つけた。しかし南蔵院というと、こんな大きな涅槃(ねはん)像のある福岡のお寺が有名。
だから「南蔵院」だけでネット検索すると福岡の情報の方が多くなるので「東京 南蔵院 サクラ」などの工夫が必要。それでたまたま見つけたのが練馬にある同じく南蔵院。こちらはネットでもあまり情報がなかったものの、板橋まで行けば帰り道かと思い、今年の隠れテーマのハシゴに合わせて訪れたしだい。実はまったく帰り道じゃなかったけれど、その話は後ほど。
さてまずは板橋の南蔵院から。
2月に赤塚梅まつりで、上の地図にも記した赤塚公園と赤塚溜池公園を訪れたとき「東京で暮らしてずいぶんと長いが、単なる通過ではなく目的を持って板橋区を訪れたのは初めてかも知れない」と書いた。なのに2ヶ月後にまさかの板橋区再訪。もっとも同じようなことが連続して起きるのは人生あるあるな話。
都営地下鉄三田線の本蓮沼(もとはすぬま)駅で下車。
目の前は国道17号である中山道。
ところでこの中山道(なかせんどう)。東海道が江戸から京都までを主に太平洋沿岸ルートで結ぶのに対して、こちらは長野や岐阜など内陸部を通る街道。しかし子供の頃に社会科で習ったのは中仙道だったのに、いつのまにか中山の表記が一般的になっている。どうしてなの? 中山を「なかせん」とは読みづらいやろ。
中山道に突き当たっているのがこの蓮沼アスリート通り。
この道路沿いにオリンピック強化指定選手などが(だけが)利用できるナショナルトレーニングセンターがあって、このしゃれた名前が付いている。ただし何の変哲もないごく普通の道路。
中山道沿いに歩いて行く。
寺に着いたかと思ったら石材屋だった(^^ゞ
その数軒隣に南蔵院。
外から眺めるだけでやたらキレイなお寺。
寳勝山(ほうしょうざん)と書かれている。
寳は宝の旧字。
境内はまるで箱庭のように整った光景。
板橋十景に選ばれている。
板橋十景のうち「赤塚溜池公園周辺」「高島平団地とけやき並木」「東京大仏(乗蓮寺)」は赤塚梅まつりの際に訪れている。板橋2度目で早くも4つをゲット!
まずは境内に入ってすぐ右側にある真っ赤なキクモモ。
菊の花びらに形が似ているからその品種名。別名はゲンジグルマ(源氏車)。
あまり菊には見えないけれどいい形。
赤とピンクのキクモモに囲まれて極楽にいるような仏様。
この三体は奥から
羽黒山供養塔:聖観音菩薩
湯殿山供養塔:大日如来
月山供養塔:阿弥陀如来
で、まとめて出羽三山供養塔と呼ばれる。ただしここ南蔵院では湯殿山供養塔を単独で出羽三山供養塔と称していて、三体全部でも出羽三山供養塔とする変則的な構成。
なお出羽三山とは、山形県の中央にそびえる月山(1984m)・羽黒山(414m)・湯殿山(1500m)の総称。3つの独立した山ではなく月山を主峰とした峰続きの3つの山。
古くから信仰の対象となっている山である。ただし出羽三山供養塔は供養と名前が付いていても、その山で遭難などした人の冥福を祈るのでなく、普通にご利益を願って拝む。だからちょっと変わったネーミング。
出羽三山供養塔の隣は地蔵堂。
ここの地蔵は「はいた地蔵」と呼ばれ歯痛に効くらしい。
地蔵堂にはピンクのキクモモ。
新緑とのコントラストが美しい。
地蔵堂の斜め向かいにある不動明王を祀る不動堂。
その左右に2本のモモ。
左側はモフモフしたモモ。
品種名はわからず。
ところで桃の花をハナモモと呼ぶ場合があるが私はそれがどうも気に入らない。果実栽培ではなく花の観賞用に改良した園芸品種がハナモモらしいが、その理屈だと桜も梅もハナサクラやハナウメじゃないと整合性がとれない。それにハナモモだって実がなって食べられる。
またハナモモは品種名ではなく園芸品種の総称なのに、「南蔵院のハナモモとキクモモがきれいでした」と書かれているものもたくさん見かける。アホチャウカ?
おっと、仏の前ではしたない言葉は慎んで(^^ゞ
ところでこのモモは花から葉が飛び出ている。
そんな咲き方ってある?と思ってよく見ると、
枝から延びた葉が花の間をすり抜けているとわかった。
モモはサクラと違って枝から延びる花柄(かへい)が短く、つまり花と葉の出所がほぼ同じ位置。だから見方によって花から葉が生えているように見える。
とても素晴らしかったので全体像をもう一度。
ウメやサクラと違ってモモを見られるところは少ないので貴重。
そして不動堂の右側は、
先ほどの地蔵堂と同じピンクのキクモモ。
キクモモの隣にも別のお地蔵さん。
さて本堂右手前のしだれ桜。
なかなか立派な姿ではあるとはいえ、ちょっと花数が少ない。ツボミがたくさん残っているでもなく、またネットで見かける写真ではもっと豪華な咲きっぷりなので、今年は不作なのかも知れない。
それでもまさに桜色の淡いピンクが降ってくる姿は楽しめた。
南無阿弥陀仏、お釈迦様ありがとう。
こちらは本堂より手前のしだれ桜。
周りの新緑と混じり合いがキレイ。
少し葉桜になっているのは品種が違うのか?
でもその葉の色もいい。
先ほどのお地蔵さんをアップで。
横顔まで撮るのがこのブログのいいところ。
そのお地蔵さんの横、
本堂の左側にもしだれ桜がある。
右にあるのよりかなり小さく、
植えられてそれほど年数が経っていない印象。
こちらの方が花付き「率」は高く、
また花により元気がある印象。
ーーー続く
それでも晴れた日を狙って4月2日に妙見堂のしだれ桜&池上本門寺、4月7日には善福寺川緑地&和田堀公園を見てきた。そしてそろそろ葉桜になり始める4月10日に出かけてきたのは板橋区と練馬区にある南蔵院というお寺。
3月31日にはかむろ坂と目黒川の桜祭りを回って「花の咲いていないサクラ祭りをハシゴした本日の最高気温は28.1度!」のブログを書いた。4月2日と4月7日も場所としてはつながっているとはいえ2箇所を回っている。だから「ハシゴ」は今年の花見の隠れテーマ。
それにしてもどうしてハシゴなのだろう。語源としては梯子酒で、これは「飲み屋を次々と変えて飲み歩くのを」「梯子を一段一段と上がる様子になぞらえた」と解説される。でもいい気分でフラフラとお店を回るのと、慎重に足元を確認しながら上がっていく梯子とではイメージがずいぶん違う。深く考えると違和感あり。
そろそろ葉桜に−−−と書いたが、板橋の南蔵院のしだれ桜はSNSで情報を探すと、4月1日の時点ではまだほとんど咲いていなかった。4月6日に公式ホームページのお知らせで「しだれ桜もようやく咲き始め、見頃を迎えつつあります」と載る。咲き始めと見頃では文章が矛盾しているが、いずれにせよまだ満開でないと判断。それで4月7日は善福寺川緑地&和田堀公園にした。
しだれ桜といっても品種は様々で、ソメイヨシノより先に咲いてそれが満開の頃には散ってしまうものもあれば、ソメイヨシノと同時期あるいは遅く咲くしだれ桜もある。ソメイヨシノと違ってしだれ桜の開花情報はマスコミで流れないから、調べるのがけっこう面倒。
4月6日以降の開花情報はSNSや公式ホームページで得られなかった。それでも7日と8日は20度を超える気温となったので、もうそろそろ大丈夫かと天気予報とスケジュールの都合を睨んで4月10日に訪れることにした。ここはモモもキレイで、それが3月末には咲いていたので傷まないうちにとの気持ちもあった。
話は変わるがこの板橋の南蔵院は東京のしだれ桜を特集していたネットのページで見つけた。しかし南蔵院というと、こんな大きな涅槃(ねはん)像のある福岡のお寺が有名。
だから「南蔵院」だけでネット検索すると福岡の情報の方が多くなるので「東京 南蔵院 サクラ」などの工夫が必要。それでたまたま見つけたのが練馬にある同じく南蔵院。こちらはネットでもあまり情報がなかったものの、板橋まで行けば帰り道かと思い、今年の隠れテーマのハシゴに合わせて訪れたしだい。実はまったく帰り道じゃなかったけれど、その話は後ほど。
さてまずは板橋の南蔵院から。
2月に赤塚梅まつりで、上の地図にも記した赤塚公園と赤塚溜池公園を訪れたとき「東京で暮らしてずいぶんと長いが、単なる通過ではなく目的を持って板橋区を訪れたのは初めてかも知れない」と書いた。なのに2ヶ月後にまさかの板橋区再訪。もっとも同じようなことが連続して起きるのは人生あるあるな話。
都営地下鉄三田線の本蓮沼(もとはすぬま)駅で下車。
目の前は国道17号である中山道。
ところでこの中山道(なかせんどう)。東海道が江戸から京都までを主に太平洋沿岸ルートで結ぶのに対して、こちらは長野や岐阜など内陸部を通る街道。しかし子供の頃に社会科で習ったのは中仙道だったのに、いつのまにか中山の表記が一般的になっている。どうしてなの? 中山を「なかせん」とは読みづらいやろ。
中山道に突き当たっているのがこの蓮沼アスリート通り。
この道路沿いにオリンピック強化指定選手などが(だけが)利用できるナショナルトレーニングセンターがあって、このしゃれた名前が付いている。ただし何の変哲もないごく普通の道路。
中山道沿いに歩いて行く。
寺に着いたかと思ったら石材屋だった(^^ゞ
その数軒隣に南蔵院。
外から眺めるだけでやたらキレイなお寺。
寳勝山(ほうしょうざん)と書かれている。
寳は宝の旧字。
境内はまるで箱庭のように整った光景。
板橋十景に選ばれている。
板橋十景のうち「赤塚溜池公園周辺」「高島平団地とけやき並木」「東京大仏(乗蓮寺)」は赤塚梅まつりの際に訪れている。板橋2度目で早くも4つをゲット!
まずは境内に入ってすぐ右側にある真っ赤なキクモモ。
菊の花びらに形が似ているからその品種名。別名はゲンジグルマ(源氏車)。
あまり菊には見えないけれどいい形。
赤とピンクのキクモモに囲まれて極楽にいるような仏様。
この三体は奥から
羽黒山供養塔:聖観音菩薩
湯殿山供養塔:大日如来
月山供養塔:阿弥陀如来
で、まとめて出羽三山供養塔と呼ばれる。ただしここ南蔵院では湯殿山供養塔を単独で出羽三山供養塔と称していて、三体全部でも出羽三山供養塔とする変則的な構成。
なお出羽三山とは、山形県の中央にそびえる月山(1984m)・羽黒山(414m)・湯殿山(1500m)の総称。3つの独立した山ではなく月山を主峰とした峰続きの3つの山。
古くから信仰の対象となっている山である。ただし出羽三山供養塔は供養と名前が付いていても、その山で遭難などした人の冥福を祈るのでなく、普通にご利益を願って拝む。だからちょっと変わったネーミング。
出羽三山供養塔の隣は地蔵堂。
ここの地蔵は「はいた地蔵」と呼ばれ歯痛に効くらしい。
地蔵堂にはピンクのキクモモ。
新緑とのコントラストが美しい。
地蔵堂の斜め向かいにある不動明王を祀る不動堂。
その左右に2本のモモ。
左側はモフモフしたモモ。
品種名はわからず。
ところで桃の花をハナモモと呼ぶ場合があるが私はそれがどうも気に入らない。果実栽培ではなく花の観賞用に改良した園芸品種がハナモモらしいが、その理屈だと桜も梅もハナサクラやハナウメじゃないと整合性がとれない。それにハナモモだって実がなって食べられる。
またハナモモは品種名ではなく園芸品種の総称なのに、「南蔵院のハナモモとキクモモがきれいでした」と書かれているものもたくさん見かける。アホチャウカ?
おっと、仏の前ではしたない言葉は慎んで(^^ゞ
ところでこのモモは花から葉が飛び出ている。
そんな咲き方ってある?と思ってよく見ると、
枝から延びた葉が花の間をすり抜けているとわかった。
モモはサクラと違って枝から延びる花柄(かへい)が短く、つまり花と葉の出所がほぼ同じ位置。だから見方によって花から葉が生えているように見える。
とても素晴らしかったので全体像をもう一度。
ウメやサクラと違ってモモを見られるところは少ないので貴重。
そして不動堂の右側は、
先ほどの地蔵堂と同じピンクのキクモモ。
キクモモの隣にも別のお地蔵さん。
さて本堂右手前のしだれ桜。
なかなか立派な姿ではあるとはいえ、ちょっと花数が少ない。ツボミがたくさん残っているでもなく、またネットで見かける写真ではもっと豪華な咲きっぷりなので、今年は不作なのかも知れない。
それでもまさに桜色の淡いピンクが降ってくる姿は楽しめた。
南無阿弥陀仏、お釈迦様ありがとう。
こちらは本堂より手前のしだれ桜。
周りの新緑と混じり合いがキレイ。
少し葉桜になっているのは品種が違うのか?
でもその葉の色もいい。
先ほどのお地蔵さんをアップで。
横顔まで撮るのがこのブログのいいところ。
そのお地蔵さんの横、
本堂の左側にもしだれ桜がある。
右にあるのよりかなり小さく、
植えられてそれほど年数が経っていない印象。
こちらの方が花付き「率」は高く、
また花により元気がある印象。
ーーー続く
wassho at 21:03|Permalink│Comments(0)│
2024年04月13日
善福寺川緑地と和田堀公園で満開のサクラ
タイトルを少し変更して前回からの続き。
善福寺川緑地を上流の西田橋から尾崎橋まで歩いてきて、
現在位置がこちら。
びっしりと桜並木が並んでいる尾崎橋上流。
それと較べて下流は様相が一変するけれど、
お花見散歩は続行。
尾崎橋の下流すぐのところにある銅像。
1月の終わりに梅里中央公園でロウバイを見た帰りに立ち寄ったときは、誰かに暖かそうなストールを着せてもらっていた。ところでこの銅像をネットで調べると「川の声」との名前らしい。しかしどれも伝聞ばかりできちんとした情報がないし、東京都公園協会のマップにも載っていない。台座に書かれている文字も見忘れた。
なので作者はわからないし銅像の性別も不明。また公園内には他にも子供の銅像があるようだが、この日は見かけなかった。まあ次に来たときのお楽しみにということで。
横からも撮ってあげましょう。
このアングルのほうが可愛い。
尾崎橋から下流にもポツポツとサクラは咲いている。
しばらく歩くと、
少しまとまった規模で。
尾崎川上流より圧倒的に人は少ないので、
のんびりお花見したいのならこちらがいいかも。
さらに歩くと、
ピンクのサクラ。
名前は書かれていなかったものの、これは上流で見た紅華(こうか)だろう。
やはりサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。(前回に引き続き4回目)
成園橋で右岸に渡りしばらく歩くと、
対岸にヒコーキ広場が見えてきた。
ここには飛行機型のジャングルジムがある。
このあたりで善福寺川緑地はそろそろ終わり。
しばらくするとまたピンクのサクラ。前回に書いた名前の書かれていなかった最初のピンクのサクラに似ている。ここでも名前はわからず。ひょっとしたらサクラではなくハナカイドウかも知れない。でも花びらの先が割れているからやはりサクラかな。
まあとにかくサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。(5回目)
なぜかこの付近だけ散った花びらが多い。
先ほどのピンクのサクラはまだ満開になっていないから、その花びらではない。そして周りにソメイヨシノも見当たらず。風の影響で違う場所で散った花びらの吹き溜まりになっているのだろうか。ちょっと不思議。
現地に標識はないものの、
この白山前橋から先が和田堀公園。
工事で通行止めかと思ったら、
工事は対岸。
右岸に広がる「はらっぱ広場」。
先ほどの花びらはここから飛んできたのかも。
大成橋の先は、
右岸沿いに道はないし、
左岸は工事中だったので、
左岸の少し奥からケヤキ広場に入る。
以前にも写真を撮った和田堀池手前の飲食店は、
隣が釣り堀だった。
外から釣り堀の様子はうかがえず。
水面が落ち葉だらけだった和田堀池は、
それがなくなって多少は見られる風景になっていた。
ナゾにゴリラがいるお店で、
今回は犬を発見。ゴールデンレトリーバー?
そのぬいぐるみのある飲食店の裏にもお花見スペース。
先ほどの「はらっぱ広場」と同じくご近所さんオンリーの雰囲気。
モクレンでも咲いているのかと思って近づいてみると、
花に見えていたのは新しい葉が立っている姿。
調べてみるとビワのようなのだがイマイチ自信なし。
また川岸を歩く。
前回はこの付近で生まれて初めてカワセミを目撃した。鳥に特別の興味はないのになぜか感激。サクラ的には尾崎橋で切り上げてもよかったのに、和田堀公園まで足を伸ばしたのはまたカワセミを見られるかなとの期待半分で。
しかし残念ながらこの日はカワセミを拝めず(>_<)
野球場のそばにもサクラが何本か。
そして対岸の民家に生えているサクラが、
公園以上に立派でビックリ。
大宮橋を越えて、
左岸に広がるのがワンパク広場。
広い芝生にサクラが点在していて素敵な場所。
1月の終わりにここで見たのはこの満開のウメ。
寂しい冬の景色の中にいきなり現れたのでよく覚えている。
もちろんもう花はないが、
今はたくさんの実をつけている。
子供の成長を見るようでうれしいゾ(^^ゞ
下流に向かって歩き、
工事通行止めで少し川から離れて歩き、
さらに歩いて、
武蔵野橋に到着。
ここで和田堀公園は終了。
このスロープのようなものは杉並区立の済美(せいび)公園。
ここで前回に発見したナゾの魚道もどきを再び観察する。
右が下流。
川を遡ってくる魚を誘い込むような構造。
川の端を通って、
途中になぜか障害物のような箇所があったり、
幅が狭まったりしているが上流側で川とつながっている。
しかしこの区間、川の本流には魚の遡上あるいは往来を阻害する堰(せき)などはないのだ。だから単に川幅を柵で仕切ったに過ぎず魚道ではないはず。まったくナゾの構造物でネットでも手がかりを得られず。杉並区に問い合わせてみたい気分。
済美公園の上から眺める。
視点を変えてもナゾは解けず。
さらに下流の熊野橋と紅葉橋の間にもサクラがたくさんあった。
そろそろ夕日の時刻。
環七通りに出る手前にあったのは、
キクモモ(だと思う)。
花びらが菊のように細長い桃。
そして今度こそモクレン。
奥のサクラの手前が環七通り。
ここは水道用の水を取水しているのではなく、善福寺川が洪水になりそうなときに、環七通りの下に備えた貯水槽トンネルに流すための設備がある。
善福寺川にサヨナラして、
環七通りに出る。
善福寺川緑地に着いてから約3時間歩いて、本日のサクラ散歩はここで終了。
善福寺川緑地は圧倒的なサクラのボリュームがあったし、
和田堀公園はのんびりできるお花見スポットが点在している。
それでも前回に書いたように知名度が低いのでそれほど混雑していない。
こういうところが他にもないのか探してみたい。
おしまい
善福寺川緑地を上流の西田橋から尾崎橋まで歩いてきて、
現在位置がこちら。
びっしりと桜並木が並んでいる尾崎橋上流。
それと較べて下流は様相が一変するけれど、
お花見散歩は続行。
尾崎橋の下流すぐのところにある銅像。
1月の終わりに梅里中央公園でロウバイを見た帰りに立ち寄ったときは、誰かに暖かそうなストールを着せてもらっていた。ところでこの銅像をネットで調べると「川の声」との名前らしい。しかしどれも伝聞ばかりできちんとした情報がないし、東京都公園協会のマップにも載っていない。台座に書かれている文字も見忘れた。
なので作者はわからないし銅像の性別も不明。また公園内には他にも子供の銅像があるようだが、この日は見かけなかった。まあ次に来たときのお楽しみにということで。
横からも撮ってあげましょう。
このアングルのほうが可愛い。
尾崎橋から下流にもポツポツとサクラは咲いている。
しばらく歩くと、
少しまとまった規模で。
尾崎川上流より圧倒的に人は少ないので、
のんびりお花見したいのならこちらがいいかも。
さらに歩くと、
ピンクのサクラ。
名前は書かれていなかったものの、これは上流で見た紅華(こうか)だろう。
やはりサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。(前回に引き続き4回目)
成園橋で右岸に渡りしばらく歩くと、
対岸にヒコーキ広場が見えてきた。
ここには飛行機型のジャングルジムがある。
このあたりで善福寺川緑地はそろそろ終わり。
しばらくするとまたピンクのサクラ。前回に書いた名前の書かれていなかった最初のピンクのサクラに似ている。ここでも名前はわからず。ひょっとしたらサクラではなくハナカイドウかも知れない。でも花びらの先が割れているからやはりサクラかな。
まあとにかくサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。(5回目)
なぜかこの付近だけ散った花びらが多い。
先ほどのピンクのサクラはまだ満開になっていないから、その花びらではない。そして周りにソメイヨシノも見当たらず。風の影響で違う場所で散った花びらの吹き溜まりになっているのだろうか。ちょっと不思議。
現地に標識はないものの、
この白山前橋から先が和田堀公園。
工事で通行止めかと思ったら、
工事は対岸。
右岸に広がる「はらっぱ広場」。
先ほどの花びらはここから飛んできたのかも。
大成橋の先は、
右岸沿いに道はないし、
左岸は工事中だったので、
左岸の少し奥からケヤキ広場に入る。
以前にも写真を撮った和田堀池手前の飲食店は、
隣が釣り堀だった。
外から釣り堀の様子はうかがえず。
水面が落ち葉だらけだった和田堀池は、
それがなくなって多少は見られる風景になっていた。
ナゾにゴリラがいるお店で、
今回は犬を発見。ゴールデンレトリーバー?
そのぬいぐるみのある飲食店の裏にもお花見スペース。
先ほどの「はらっぱ広場」と同じくご近所さんオンリーの雰囲気。
モクレンでも咲いているのかと思って近づいてみると、
花に見えていたのは新しい葉が立っている姿。
調べてみるとビワのようなのだがイマイチ自信なし。
また川岸を歩く。
前回はこの付近で生まれて初めてカワセミを目撃した。鳥に特別の興味はないのになぜか感激。サクラ的には尾崎橋で切り上げてもよかったのに、和田堀公園まで足を伸ばしたのはまたカワセミを見られるかなとの期待半分で。
しかし残念ながらこの日はカワセミを拝めず(>_<)
野球場のそばにもサクラが何本か。
そして対岸の民家に生えているサクラが、
公園以上に立派でビックリ。
大宮橋を越えて、
左岸に広がるのがワンパク広場。
広い芝生にサクラが点在していて素敵な場所。
1月の終わりにここで見たのはこの満開のウメ。
寂しい冬の景色の中にいきなり現れたのでよく覚えている。
もちろんもう花はないが、
今はたくさんの実をつけている。
子供の成長を見るようでうれしいゾ(^^ゞ
下流に向かって歩き、
工事通行止めで少し川から離れて歩き、
さらに歩いて、
武蔵野橋に到着。
ここで和田堀公園は終了。
このスロープのようなものは杉並区立の済美(せいび)公園。
ここで前回に発見したナゾの魚道もどきを再び観察する。
右が下流。
川を遡ってくる魚を誘い込むような構造。
川の端を通って、
途中になぜか障害物のような箇所があったり、
幅が狭まったりしているが上流側で川とつながっている。
しかしこの区間、川の本流には魚の遡上あるいは往来を阻害する堰(せき)などはないのだ。だから単に川幅を柵で仕切ったに過ぎず魚道ではないはず。まったくナゾの構造物でネットでも手がかりを得られず。杉並区に問い合わせてみたい気分。
済美公園の上から眺める。
視点を変えてもナゾは解けず。
さらに下流の熊野橋と紅葉橋の間にもサクラがたくさんあった。
そろそろ夕日の時刻。
環七通りに出る手前にあったのは、
キクモモ(だと思う)。
花びらが菊のように細長い桃。
そして今度こそモクレン。
奥のサクラの手前が環七通り。
ここは水道用の水を取水しているのではなく、善福寺川が洪水になりそうなときに、環七通りの下に備えた貯水槽トンネルに流すための設備がある。
善福寺川にサヨナラして、
環七通りに出る。
善福寺川緑地に着いてから約3時間歩いて、本日のサクラ散歩はここで終了。
善福寺川緑地は圧倒的なサクラのボリュームがあったし、
和田堀公園はのんびりできるお花見スポットが点在している。
それでも前回に書いたように知名度が低いのでそれほど混雑していない。
こういうところが他にもないのか探してみたい。
おしまい
wassho at 20:15|Permalink│Comments(0)│
2024年04月11日
善福寺川緑地で満開のサクラ
気象庁が東京での満開宣言を出したのが4月4日。4月になってからは冴えない天気が続いたものの、7日の日曜日は久しぶりの快晴、最高気温も22.6度まで上がった。このチャンスを逃すまいと出かけてきたのが、2つ設定した今年の花見メインイベントのひとつである善福寺川緑地と和田堀公園。
この2つは杉並区を流れる善福寺川の川岸にある。地図では境界線に赤い破線が引かれているけれど、現地では特に標識もなくまったくのシームレス。どちらも都立公園で開園時期も同じなのに、なぜ別々の公園とされているのかが不思議。緑地と公園と名前も違うが造りや雰囲気としても大きな違いはない。
ここは善福寺川緑地が18ヘクタール、和田堀公園は26ヘクタール。合計した44ヘクタールは83カ所ある都立公園でもトップ10相当の広さで、井の頭公園や駒沢公園より広い。前から訪れてみたいと思いながら機会がなかったが、今年の1月27日に梅里中央公園へロウバイを見に行った帰りに初めて立ち寄った。
そのとき川岸にたくさんのサクラが植えられているのを知り、
これはさぞ美しい桜並木に違いないと花見の候補地となる。
また「梅」里の次にサクラなのも面白いかとコッソリ気に入って(^^ゞ
梅里中央公園のときに降りた地下鉄丸ノ内線・新高円寺駅から
一駅先の南阿佐ヶ谷駅で下車。
このケヤキ並木はJRの阿佐ヶ谷駅に通じている。
丸ノ内線と並行して走っているのは青梅街道。
少しだけ西に進んで路地へ左折。
すぐに住宅地に入り道なりに歩いて、
この突き当たりで左を向くと、
目的地の地名が現れた。
大規模なマンション沿いに直進すると、
善福寺川に架かる橋に到着。
これは天王橋で、
下のマップで最も北側に描かれている場所。
とりあえず上流(西側)に向かって歩き出す。
このフェンスは見覚えがあるぞ。
こちらの黄色いテープが貼られた突き出している枝も。
お帰りなさいといわれているような気分でちょっとうれしい。
その先にあったサクラは山桜のように開花初期から葉を出していた。山桜の茶色い葉と違ってグリーンなのは、先日に池上本門寺で見た笹部桜と同じで花の形も似ている。しかし品種を示すプレートはなし。オオシマザクラかも知れないが、あの特有の香りはなかった。
右岸(上流から下流を見て右側)にあるセンター広場。
桜が咲き出せば、そろそろ新緑の季節の始まりでもある。
対岸のサクラを眺める。
どうよ、このウエーブと満開の咲きっぷり。
前回、左岸から右岸に橋を渡らずに出た?と勘違いした護岸工事の壁が現れた。
工事中なので、右岸を歩けるのはこの西田橋まで。
さらに上流に3つの橋があるが、
西田橋から見る限りサクラはここまでみたい。
下流側を向いて。
ここからは左岸を歩く。
サクラの下を歩くのも、
枝の伸びている満開のサクラを眺めるのも、
あるいは新緑との対比を楽しむのもすべてよし。
来てよかった!
先ほどのグリーンの葉を出していたサクラを対岸に眺める。
離れて見るとソメイヨシノとの違いが一目瞭然。
レジャーシートを広げる人々。
まだほとんど咲いていないものの、
ピンクの色をしたサクラが現れた。
やはりサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。
品種名が書いてあるかと思ったら、
ただの番号だった(^^ゞ
ピンクのサクラを見た後に、改めてソメイヨシノを眺めると異様なくらい白い。この白さにちょっと幽霊的な怖さを感じるときもある。だから私はアンチ・ソメイヨシノ派。大規模に咲いていたり、風景としておもしろいところ以外にはあまり見に行かない。
チューリップとサクラ。
黄色いヤマブキとサクラ。
カラフルなチューリップやヤマブキと一緒だと、
より一層ソメイヨシノの白さが目立つ。
白いソメイヨシノの向こうにまたピンクのサクラが見えてきた。
紅華という品種。
お台場シンボルプロムナード公園で一度だけ見たことがある。
先ほどのピンクと違って、こちらは八重咲き。
つぼみの数は多くのないので、
満開になってもソメイヨシノのようなボリュームは出ないと思われる。
でも、やはりサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。(2回目)
ほら真っ白いソメイヨシノは味気ないでしょと、
アンチ・ソメイヨシノ派の拡大に努めるワタシ(^^ゞ
次に現れたピンクは近所のかむろ坂でおなじみの陽光。
わりと知名度のある河津桜によく似た品種である。
陽光はソメイヨシノの少し前から咲くので、もう散りかけ。
しかし陽光は萼がとても赤いので、散りかけも可愛い。
(萼:がく:花びらを支えている部分)
そして、やはりサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。(3回目)
まっ、文句ばかり言っていても楽しくないので、
本日はこの圧倒的なボリュームを楽しみましょう。
最初の天王橋に戻ってきた。
善福寺川緑地についてここまで約1時間。
ここから先は両岸に連続してサクラが咲いている。
しかし川の向きが変わって少し日当たりが悪い。
左岸右岸とも人出が多い。
人とぶつからないよう注意してサクラを見上げながら歩く。
次の相生橋を越えた先が一番見応えのあるゾーン。
これだけの桜並木なのに、善福寺川緑地は認知度が低いというか人気がないというか、ほとんどのサクラの名所ランキングに入っていない。調べた中では唯一都内108カ所のランキングを発表しているウォーカープラスで何と50位(/o\)
尾崎橋に到着。
今まで歩いてきた上流方向を眺める。
これでランキング50位なんて信じられないでしょ。
逆に考えれば穴場で、ランキング上位のところのように激混みしていない。
善福寺川は尾崎橋で、
旧五日市街道・現都道7号の大きな道路と交差する。
そして下流側。
えっ、サクラはここで終わり?
ーーー続く
この2つは杉並区を流れる善福寺川の川岸にある。地図では境界線に赤い破線が引かれているけれど、現地では特に標識もなくまったくのシームレス。どちらも都立公園で開園時期も同じなのに、なぜ別々の公園とされているのかが不思議。緑地と公園と名前も違うが造りや雰囲気としても大きな違いはない。
ここは善福寺川緑地が18ヘクタール、和田堀公園は26ヘクタール。合計した44ヘクタールは83カ所ある都立公園でもトップ10相当の広さで、井の頭公園や駒沢公園より広い。前から訪れてみたいと思いながら機会がなかったが、今年の1月27日に梅里中央公園へロウバイを見に行った帰りに初めて立ち寄った。
そのとき川岸にたくさんのサクラが植えられているのを知り、
これはさぞ美しい桜並木に違いないと花見の候補地となる。
また「梅」里の次にサクラなのも面白いかとコッソリ気に入って(^^ゞ
梅里中央公園のときに降りた地下鉄丸ノ内線・新高円寺駅から
一駅先の南阿佐ヶ谷駅で下車。
このケヤキ並木はJRの阿佐ヶ谷駅に通じている。
丸ノ内線と並行して走っているのは青梅街道。
少しだけ西に進んで路地へ左折。
すぐに住宅地に入り道なりに歩いて、
この突き当たりで左を向くと、
目的地の地名が現れた。
大規模なマンション沿いに直進すると、
善福寺川に架かる橋に到着。
これは天王橋で、
下のマップで最も北側に描かれている場所。
とりあえず上流(西側)に向かって歩き出す。
このフェンスは見覚えがあるぞ。
こちらの黄色いテープが貼られた突き出している枝も。
お帰りなさいといわれているような気分でちょっとうれしい。
その先にあったサクラは山桜のように開花初期から葉を出していた。山桜の茶色い葉と違ってグリーンなのは、先日に池上本門寺で見た笹部桜と同じで花の形も似ている。しかし品種を示すプレートはなし。オオシマザクラかも知れないが、あの特有の香りはなかった。
右岸(上流から下流を見て右側)にあるセンター広場。
桜が咲き出せば、そろそろ新緑の季節の始まりでもある。
対岸のサクラを眺める。
どうよ、このウエーブと満開の咲きっぷり。
前回、左岸から右岸に橋を渡らずに出た?と勘違いした護岸工事の壁が現れた。
工事中なので、右岸を歩けるのはこの西田橋まで。
さらに上流に3つの橋があるが、
西田橋から見る限りサクラはここまでみたい。
下流側を向いて。
ここからは左岸を歩く。
サクラの下を歩くのも、
枝の伸びている満開のサクラを眺めるのも、
あるいは新緑との対比を楽しむのもすべてよし。
来てよかった!
先ほどのグリーンの葉を出していたサクラを対岸に眺める。
離れて見るとソメイヨシノとの違いが一目瞭然。
レジャーシートを広げる人々。
まだほとんど咲いていないものの、
ピンクの色をしたサクラが現れた。
やはりサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。
品種名が書いてあるかと思ったら、
ただの番号だった(^^ゞ
ピンクのサクラを見た後に、改めてソメイヨシノを眺めると異様なくらい白い。この白さにちょっと幽霊的な怖さを感じるときもある。だから私はアンチ・ソメイヨシノ派。大規模に咲いていたり、風景としておもしろいところ以外にはあまり見に行かない。
チューリップとサクラ。
黄色いヤマブキとサクラ。
カラフルなチューリップやヤマブキと一緒だと、
より一層ソメイヨシノの白さが目立つ。
白いソメイヨシノの向こうにまたピンクのサクラが見えてきた。
紅華という品種。
お台場シンボルプロムナード公園で一度だけ見たことがある。
先ほどのピンクと違って、こちらは八重咲き。
つぼみの数は多くのないので、
満開になってもソメイヨシノのようなボリュームは出ないと思われる。
でも、やはりサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。(2回目)
ほら真っ白いソメイヨシノは味気ないでしょと、
アンチ・ソメイヨシノ派の拡大に努めるワタシ(^^ゞ
次に現れたピンクは近所のかむろ坂でおなじみの陽光。
わりと知名度のある河津桜によく似た品種である。
陽光はソメイヨシノの少し前から咲くので、もう散りかけ。
しかし陽光は萼がとても赤いので、散りかけも可愛い。
(萼:がく:花びらを支えている部分)
そして、やはりサクラは淡いピンクでなければ。
これこそが桜色。(3回目)
まっ、文句ばかり言っていても楽しくないので、
本日はこの圧倒的なボリュームを楽しみましょう。
最初の天王橋に戻ってきた。
善福寺川緑地についてここまで約1時間。
ここから先は両岸に連続してサクラが咲いている。
しかし川の向きが変わって少し日当たりが悪い。
左岸右岸とも人出が多い。
人とぶつからないよう注意してサクラを見上げながら歩く。
次の相生橋を越えた先が一番見応えのあるゾーン。
これだけの桜並木なのに、善福寺川緑地は認知度が低いというか人気がないというか、ほとんどのサクラの名所ランキングに入っていない。調べた中では唯一都内108カ所のランキングを発表しているウォーカープラスで何と50位(/o\)
尾崎橋に到着。
今まで歩いてきた上流方向を眺める。
これでランキング50位なんて信じられないでしょ。
逆に考えれば穴場で、ランキング上位のところのように激混みしていない。
善福寺川は尾崎橋で、
旧五日市街道・現都道7号の大きな道路と交差する。
そして下流側。
えっ、サクラはここで終わり?
ーーー続く
wassho at 22:49|Permalink│Comments(0)│
2024年04月09日
やはり中目黒の桜の枝は切られていた
3月31日にかむろ坂と目黒川へ、まだほとんど咲いていないサクラの桜祭りを見に出かけたとき、中目黒周辺の桜の枝が短くなっているとブログ書いた。
<それをもう一度掲載>
ところでこの日にサクラがほとんど咲いていないのは先ほど紹介したとおり
なのだけれど、写真を整理していてある違いに気がついた。
これは本日と以前の満開のときに撮った写真の比較。
建物や水路に垂れ下がっている草で同じ場所だとわかると思う。
花数が違うのは一目瞭然だとして、川の内側に延びている枝の長さが違う
ような気がする。また満開時のサクラは川の下に垂れている。これって花の
重みでそうなるのかな?
満開の撮影はミラーレスのデジカメで今回はiPhone。レンズの画角が違う
からそのように見えるだけなのか。何となく不思議。
またカメラレンズの画角の差以外に、花がほとんど咲いていないからボリュームが違って見えてそう思うのかとも考えていた。そして4月4日に気象庁が東京での満開宣言を出す。するとこのことがやたら気になり(^^ゞ 、翌5日に中目黒で途中下車して確かめてきた。
もう夕方で雨が降りそうな天気だったのでショボい風景ではあるものの、それを差し引いても明らかに枝が短い。ロングヘアからショートカットへとバッサリ切った感じ。
それで調べてみると確かに切られていた。
もちろん誰かがいたずらで切ったのではなく剪定という木の手入れ。
目黒区のこの広報ページによると
https://www.city.meguro.tokyo.jp/meguroplus/20230322.html
2024年1月から、大橋から日の出橋までの約1.6キロメートルにかけて、
目黒川沿道の桜の樹勢回復と剪定(せんてい)作業が行われました。
この桜の保護の取り組みは、平成30年に策定した「目黒川サクラ再生実行計画」に
基づくもので、今回は、314本の桜に対して「樹勢回復」と「基本剪定」を行いました。
と書かれている。
樹勢回復とは穴を掘って圧縮空気を噴射して固まった土をほぐし、肥料と多孔質の土を土壌改良材として投入と別の資料にあった。
平成30年に計画を策定して、どうして今頃になって実施なのか不思議。それはさておき今回施工されたのは目黒川が始まる上流の大橋から、中目黒駅の高架を超えた先にある日の出橋まで。目黒区を流れる目黒川の2/5ほどの範囲。
ちなみに
地図を見てわかるようにJRの目黒駅が実は品川区にあるのは、
そこそこ有名なトリビア。
目黒川サクラ再生実行計画は区内目黒川全域が対象なので、これからも剪定は続く予定。目黒川のお花見で一番賑わうのは、オシャレな出店が並ぶ中目黒駅から上流の大橋方向へ1/3ほどのエリアだが、サクラとして見応えのあるのは逆に中目黒駅から下流に向かって目黒通りと交差するまでの範囲。
これは中目黒駅から下流7つ目にある中里橋から昨年撮った風景。
参考までに目黒区内で目黒川に架かる橋は27本ある。
このこんもりとした風景も来年からしばらくは見られなくなるのか。
それはちょっと寂しいので駅周辺のようにバッサリやって欲しくないな。
剪定はサクラの手入れとして必要だし、
いずれは枝も伸びて元に戻るはず。
問題はそれまで長生きできるかどうか(^^ゞ
<それをもう一度掲載>
ところでこの日にサクラがほとんど咲いていないのは先ほど紹介したとおり
なのだけれど、写真を整理していてある違いに気がついた。
これは本日と以前の満開のときに撮った写真の比較。
建物や水路に垂れ下がっている草で同じ場所だとわかると思う。
花数が違うのは一目瞭然だとして、川の内側に延びている枝の長さが違う
ような気がする。また満開時のサクラは川の下に垂れている。これって花の
重みでそうなるのかな?
満開の撮影はミラーレスのデジカメで今回はiPhone。レンズの画角が違う
からそのように見えるだけなのか。何となく不思議。
またカメラレンズの画角の差以外に、花がほとんど咲いていないからボリュームが違って見えてそう思うのかとも考えていた。そして4月4日に気象庁が東京での満開宣言を出す。するとこのことがやたら気になり(^^ゞ 、翌5日に中目黒で途中下車して確かめてきた。
もう夕方で雨が降りそうな天気だったのでショボい風景ではあるものの、それを差し引いても明らかに枝が短い。ロングヘアからショートカットへとバッサリ切った感じ。
それで調べてみると確かに切られていた。
もちろん誰かがいたずらで切ったのではなく剪定という木の手入れ。
目黒区のこの広報ページによると
https://www.city.meguro.tokyo.jp/meguroplus/20230322.html
2024年1月から、大橋から日の出橋までの約1.6キロメートルにかけて、
目黒川沿道の桜の樹勢回復と剪定(せんてい)作業が行われました。
この桜の保護の取り組みは、平成30年に策定した「目黒川サクラ再生実行計画」に
基づくもので、今回は、314本の桜に対して「樹勢回復」と「基本剪定」を行いました。
と書かれている。
樹勢回復とは穴を掘って圧縮空気を噴射して固まった土をほぐし、肥料と多孔質の土を土壌改良材として投入と別の資料にあった。
平成30年に計画を策定して、どうして今頃になって実施なのか不思議。それはさておき今回施工されたのは目黒川が始まる上流の大橋から、中目黒駅の高架を超えた先にある日の出橋まで。目黒区を流れる目黒川の2/5ほどの範囲。
ちなみに
地図を見てわかるようにJRの目黒駅が実は品川区にあるのは、
そこそこ有名なトリビア。
目黒川サクラ再生実行計画は区内目黒川全域が対象なので、これからも剪定は続く予定。目黒川のお花見で一番賑わうのは、オシャレな出店が並ぶ中目黒駅から上流の大橋方向へ1/3ほどのエリアだが、サクラとして見応えのあるのは逆に中目黒駅から下流に向かって目黒通りと交差するまでの範囲。
これは中目黒駅から下流7つ目にある中里橋から昨年撮った風景。
参考までに目黒区内で目黒川に架かる橋は27本ある。
このこんもりとした風景も来年からしばらくは見られなくなるのか。
それはちょっと寂しいので駅周辺のようにバッサリやって欲しくないな。
剪定はサクラの手入れとして必要だし、
いずれは枝も伸びて元に戻るはず。
問題はそれまで長生きできるかどうか(^^ゞ
wassho at 23:03|Permalink│Comments(0)│
2024年04月08日
サクラ三分咲きの池上本門寺をブラブラ
4月2日は3月29日に開花宣言が出されたばかり。ソメイヨシノはまだ咲きそろっていないので、妙見坂のしだれ桜を見るだけのつもりだった。しかし前回に書いたように妙見堂まで登ると、そこは池上本門寺の墓地エリアとつながっていた。だったら本門寺にも寄ってから帰るかと。
まだ三分咲きくらい。
サクラは開花して時間が経つと中心部が赤くなってくる。
これはまさに咲きたてで真っ白。
ところでソメイヨシノの色がもはや「桜色」ではなく真っ白なことについてはほぼ毎年のように書いている。多少色があるように見えるのは開花からしばらくして中心部が赤くなってから。「もはや」と書いたのは子供の頃は花びらが淡いピンクだったと思うから。それは確信しているものの具体的な確証はない。それでも戦後になって一斉に植えられたソメイヨシノの老木化によって、あるいは地球環境の変化で色が抜けた説を何となく信じている。
しかしソメイヨシノのツボミはピンクなんだよな。
このピンクがどこに消えてしまうのかが不思議。
マスコミはこの時期になるとお花見情報を盛んに流すが、
ソメイヨシノの色についても掘り下げて ↓ 取り上げて ↑ 欲しいな。
妙見坂に向かう途中で写真を載せた池上会館の屋上部分。
屋上フロアと展望台がある。
以前にも来ているけれどとりあえず。
まあ大田区の町並みが見えるだけ。
妙見坂のしだれ桜を上から眺める。
お墓もたくさん見える(^^ゞ
馬鹿と煙は高いところーーーなので展望台にも。
ところでこのフレーズ、最近はほとんど聞かなくなった気がする。
展望台から見下ろした屋上フロア。
この展望台の価値は五重塔を高い視点で眺められるところ。
屋上フロアのお花あれこれ。
なお池上会館には屋上フロアまで通じるエレベーターがあるので、本門寺あるいは妙見堂を訪れるのに階段を上りたくなければ、こちらを利用するといい。
池上会館屋上を離れて五重塔に近づく。
少し斜めのほうが格好いい。
サクラ越しに見るにはまだ花数が少なすぎた。
寺まで犬猫を持ってきて捨てる輩がいるらしい。
力道山のお墓は前回に「墓マイラー」をしたので、
今回はいいでしょう。
春色着物のお姉様が撮っているのは笹部(ささべ)桜。
フェンスで囲われて他のサクラとは別格扱い。
色は基本的に白。
山桜と同じく開花初期から葉を出すのが特徴。
ただし山桜のように茶色の葉ではないので爽やかな印象。
こちらはピンクの花も混ざっているが突然変異的な発色かと思う。前回は白とピンクが混ざった源平咲きのような花も見た。
巨大な本堂。
本門寺では大堂と呼ぶ。
この大堂とは別に同規模の本殿もあるから少しややこしい。
大堂:日蓮を祀っている
本殿:釈迦のおわします殿堂
との区別らしい。
ただし大堂と本殿でメインとなっているのは圧倒的に大堂。本殿はあまり人の来ない境内の奥のエリアにある。だからほとんどの参拝客は釈迦ではなく日蓮を拝んで帰る。日蓮宗は何事も日蓮ファーストな宗派。でもいわゆる仏も無碍(むげ)にはできないから、いわば日蓮と釈迦のツートップ体制として、本堂の言葉を使わずに大堂と本殿の使い分けをしているようだ。本殿はそもそも神社の建物に使われる用語。
それにしても信仰の対象が人間なんてちょっと神道っぽい。そういえば代表的仏教で僧侶の名前がついているのは日蓮宗だけである。
もっとも真言宗だって空海が信仰の対象のようなものだし、浄土真宗では本尊の阿弥陀如来の左右に親鸞と蓮如の像を並べる。キリスト教でも多くの聖人が崇拝され、その名を記した教会も建てられているから、これは宗教あるあるなパターンなのかも知れない。
なお一般に最も大切な信仰の対象する仏像・経典・仏塔などを本尊といい、それを安置する場所が本堂。日蓮宗の本尊は大曼荼羅(だいまんだら)と呼ぶ。これは漢字・梵字で記された仏や菩薩、仏弟子、天台系の学僧、インドや中国と日本の神々の名号などを配置しており、オリジナルは日蓮が作成した書類。本尊が文字だけなのはめずらしく日蓮宗だけなのでは?
大堂は斜めからの眺めほうがスケール感をつかみやすいかも。
チューリップが参道の両サイドに。
以前は本堂の前に置かれていただけだから本数が10倍以上は増えている。
大きな寺にある線香を焚くこれは常香炉(じょうこうろ)と呼ばれる。
線香の煙を頭にこすりつければ賢くなるなどといわれ、子供の頃は煙たいのをガマンしてゴシゴシやったものだが、そんなのは迷信だと現実が証明した(^^ゞ
池上本門寺で笹部桜以外にフェンスで囲われているサクラがこれ。
まだ開花していなかった。
身延山(みのぶさん)は富士山の西、山梨県南部にある標高1153mの山。その中腹400m付近にあるのが久遠寺(くおんじ)で、そこが日蓮宗の総本山。
日蓮は鎌倉時代(1185〜1333年)中期の1222年に千葉県鴨川に生まれ、あれこれあった後、晩年となった1274年に身延山に入る。1277年頃より体調を崩し、1282年に温泉療養のため茨城県水戸に向かう途中に立ち寄った、この池上の地で亡くなった。久遠寺の創建は1281年、池上本門寺は1282年。
身延山は比叡山と高野山と共に日本仏教三大霊山とされているものの、それらと較べると知名度はかなり低い。なお日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)という内部分裂した宗派が別にあり、そちらの総本山は静岡県富士宮市の大石寺(たいせきじ)。浄土真宗の西本願寺と東本願寺のような関係か。
本門寺の中心エリアに横から入ったため仁王門を後ろから。
前に出て正面からと仁王像。
そして仁王像といえば恒例のビーチクチェック!
仏像で乳首があるのは金剛力士像だけで、なぜかやたら目立っているものが多い。
本門寺のはそれほどではなかった。これは「花乳首」といわれるタイプ。
総門からの階段を見下ろす。
此経難持坂(しきょうなんじざか)の名称で96段ある。妙見坂は111段だった。
仁王門の近くにあるのが日蓮聖人像。
白く輝いているのはこの銅像が一般的なブロンズ(青銅)ではなくアルミで作られているから。「銅」像というくらいでアルミ製はほとんど見ない気がする。
お前、何様のつもりや?とここの境内で口走ってはいけません(^^ゞ
大堂の横に戻って仁王門方向。
三重塔が新築されていた。
儲かってまんなあ本門寺はん!
本門寺のトイレは利用時間制限あり。
ゾウさん発見。
お釈迦様の誕生日を祝う行事が花まつり。キリスト誕生日のクリスマスみたいなもの。正式名称は灌仏会(かんぶつえ)。花を飾った台に誕生時の釈迦をかたどった仏像を置き、それに甘茶(あまちゃ)をかける儀式が一般的。甘茶とはアジサイの仲間で作ったお茶で、その名の通り甘いらしい。ちなみに誕生日はこのブログを書いている本日4月8日。
仁王門や大堂のあるエリアから道路を挟んで向こう側にあるのは、写真中央奥が本殿で右側が寺務所。大堂の周りと較べるとほとんど人がいない。
両者を隔ている道路は紅葉坂。
しかし下まで降りてみてもモミジの木はなかったけどーーー
前回2021年と今回で散策したのは、仁王門、大堂、五重塔のあるエリアでほぼ同じ。
本殿やその他の場所もそのうち探検してみたい。
ただし自宅からはビミョーに遠いというか、
電車を何本か乗り換えなければならないのがネック。
ところで池上本門寺は広いのだけれど、その面積については「約7万坪で、これは法華経の文字数(69,684字)に由来する」との情報ばかりがヒットする。いつも書くようにネット情報はコピペの繰り返しだから当てにならない場合が多い。
その7万坪は23ヘクタールに相当する。しかしこれは日蓮が亡くなったこの地に寺を建てるために寄進された面積。大抵の寺社の敷地は時代が経つにつれて減っていくもの。隣接する3ヘクタール弱の大田区立本門寺公園も元は寺の敷地だったし、0.85ヘクタールの池上梅園は日本画家の伊東深水邸跡だが、その以前は本門寺境内だっだんじゃないかなあ。
そんなことが気になる私は敷地面積マニア(^^ゞ
まだ三分咲きくらい。
サクラは開花して時間が経つと中心部が赤くなってくる。
これはまさに咲きたてで真っ白。
ところでソメイヨシノの色がもはや「桜色」ではなく真っ白なことについてはほぼ毎年のように書いている。多少色があるように見えるのは開花からしばらくして中心部が赤くなってから。「もはや」と書いたのは子供の頃は花びらが淡いピンクだったと思うから。それは確信しているものの具体的な確証はない。それでも戦後になって一斉に植えられたソメイヨシノの老木化によって、あるいは地球環境の変化で色が抜けた説を何となく信じている。
しかしソメイヨシノのツボミはピンクなんだよな。
このピンクがどこに消えてしまうのかが不思議。
マスコミはこの時期になるとお花見情報を盛んに流すが、
ソメイヨシノの色についても掘り下げて ↓ 取り上げて ↑ 欲しいな。
妙見坂に向かう途中で写真を載せた池上会館の屋上部分。
屋上フロアと展望台がある。
以前にも来ているけれどとりあえず。
まあ大田区の町並みが見えるだけ。
妙見坂のしだれ桜を上から眺める。
お墓もたくさん見える(^^ゞ
馬鹿と煙は高いところーーーなので展望台にも。
ところでこのフレーズ、最近はほとんど聞かなくなった気がする。
展望台から見下ろした屋上フロア。
この展望台の価値は五重塔を高い視点で眺められるところ。
屋上フロアのお花あれこれ。
なお池上会館には屋上フロアまで通じるエレベーターがあるので、本門寺あるいは妙見堂を訪れるのに階段を上りたくなければ、こちらを利用するといい。
池上会館屋上を離れて五重塔に近づく。
少し斜めのほうが格好いい。
サクラ越しに見るにはまだ花数が少なすぎた。
寺まで犬猫を持ってきて捨てる輩がいるらしい。
力道山のお墓は前回に「墓マイラー」をしたので、
今回はいいでしょう。
春色着物のお姉様が撮っているのは笹部(ささべ)桜。
フェンスで囲われて他のサクラとは別格扱い。
色は基本的に白。
山桜と同じく開花初期から葉を出すのが特徴。
ただし山桜のように茶色の葉ではないので爽やかな印象。
こちらはピンクの花も混ざっているが突然変異的な発色かと思う。前回は白とピンクが混ざった源平咲きのような花も見た。
巨大な本堂。
本門寺では大堂と呼ぶ。
この大堂とは別に同規模の本殿もあるから少しややこしい。
大堂:日蓮を祀っている
本殿:釈迦のおわします殿堂
との区別らしい。
ただし大堂と本殿でメインとなっているのは圧倒的に大堂。本殿はあまり人の来ない境内の奥のエリアにある。だからほとんどの参拝客は釈迦ではなく日蓮を拝んで帰る。日蓮宗は何事も日蓮ファーストな宗派。でもいわゆる仏も無碍(むげ)にはできないから、いわば日蓮と釈迦のツートップ体制として、本堂の言葉を使わずに大堂と本殿の使い分けをしているようだ。本殿はそもそも神社の建物に使われる用語。
それにしても信仰の対象が人間なんてちょっと神道っぽい。そういえば代表的仏教で僧侶の名前がついているのは日蓮宗だけである。
もっとも真言宗だって空海が信仰の対象のようなものだし、浄土真宗では本尊の阿弥陀如来の左右に親鸞と蓮如の像を並べる。キリスト教でも多くの聖人が崇拝され、その名を記した教会も建てられているから、これは宗教あるあるなパターンなのかも知れない。
なお一般に最も大切な信仰の対象する仏像・経典・仏塔などを本尊といい、それを安置する場所が本堂。日蓮宗の本尊は大曼荼羅(だいまんだら)と呼ぶ。これは漢字・梵字で記された仏や菩薩、仏弟子、天台系の学僧、インドや中国と日本の神々の名号などを配置しており、オリジナルは日蓮が作成した書類。本尊が文字だけなのはめずらしく日蓮宗だけなのでは?
大堂は斜めからの眺めほうがスケール感をつかみやすいかも。
チューリップが参道の両サイドに。
以前は本堂の前に置かれていただけだから本数が10倍以上は増えている。
大きな寺にある線香を焚くこれは常香炉(じょうこうろ)と呼ばれる。
線香の煙を頭にこすりつければ賢くなるなどといわれ、子供の頃は煙たいのをガマンしてゴシゴシやったものだが、そんなのは迷信だと現実が証明した(^^ゞ
池上本門寺で笹部桜以外にフェンスで囲われているサクラがこれ。
まだ開花していなかった。
身延山(みのぶさん)は富士山の西、山梨県南部にある標高1153mの山。その中腹400m付近にあるのが久遠寺(くおんじ)で、そこが日蓮宗の総本山。
日蓮は鎌倉時代(1185〜1333年)中期の1222年に千葉県鴨川に生まれ、あれこれあった後、晩年となった1274年に身延山に入る。1277年頃より体調を崩し、1282年に温泉療養のため茨城県水戸に向かう途中に立ち寄った、この池上の地で亡くなった。久遠寺の創建は1281年、池上本門寺は1282年。
身延山は比叡山と高野山と共に日本仏教三大霊山とされているものの、それらと較べると知名度はかなり低い。なお日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)という内部分裂した宗派が別にあり、そちらの総本山は静岡県富士宮市の大石寺(たいせきじ)。浄土真宗の西本願寺と東本願寺のような関係か。
本門寺の中心エリアに横から入ったため仁王門を後ろから。
前に出て正面からと仁王像。
そして仁王像といえば恒例のビーチクチェック!
仏像で乳首があるのは金剛力士像だけで、なぜかやたら目立っているものが多い。
本門寺のはそれほどではなかった。これは「花乳首」といわれるタイプ。
総門からの階段を見下ろす。
此経難持坂(しきょうなんじざか)の名称で96段ある。妙見坂は111段だった。
仁王門の近くにあるのが日蓮聖人像。
白く輝いているのはこの銅像が一般的なブロンズ(青銅)ではなくアルミで作られているから。「銅」像というくらいでアルミ製はほとんど見ない気がする。
お前、何様のつもりや?とここの境内で口走ってはいけません(^^ゞ
大堂の横に戻って仁王門方向。
三重塔が新築されていた。
儲かってまんなあ本門寺はん!
本門寺のトイレは利用時間制限あり。
ゾウさん発見。
お釈迦様の誕生日を祝う行事が花まつり。キリスト誕生日のクリスマスみたいなもの。正式名称は灌仏会(かんぶつえ)。花を飾った台に誕生時の釈迦をかたどった仏像を置き、それに甘茶(あまちゃ)をかける儀式が一般的。甘茶とはアジサイの仲間で作ったお茶で、その名の通り甘いらしい。ちなみに誕生日はこのブログを書いている本日4月8日。
仁王門や大堂のあるエリアから道路を挟んで向こう側にあるのは、写真中央奥が本殿で右側が寺務所。大堂の周りと較べるとほとんど人がいない。
両者を隔ている道路は紅葉坂。
しかし下まで降りてみてもモミジの木はなかったけどーーー
前回2021年と今回で散策したのは、仁王門、大堂、五重塔のあるエリアでほぼ同じ。
本殿やその他の場所もそのうち探検してみたい。
ただし自宅からはビミョーに遠いというか、
電車を何本か乗り換えなければならないのがネック。
ところで池上本門寺は広いのだけれど、その面積については「約7万坪で、これは法華経の文字数(69,684字)に由来する」との情報ばかりがヒットする。いつも書くようにネット情報はコピペの繰り返しだから当てにならない場合が多い。
その7万坪は23ヘクタールに相当する。しかしこれは日蓮が亡くなったこの地に寺を建てるために寄進された面積。大抵の寺社の敷地は時代が経つにつれて減っていくもの。隣接する3ヘクタール弱の大田区立本門寺公園も元は寺の敷地だったし、0.85ヘクタールの池上梅園は日本画家の伊東深水邸跡だが、その以前は本門寺境内だっだんじゃないかなあ。
そんなことが気になる私は敷地面積マニア(^^ゞ
wassho at 23:53|Permalink│Comments(0)│
2024年04月06日
妙見坂のしだれ桜は1本だけだった
東京のサクラ開花宣言はここ数年と較べて2週間ほど遅い3月29日。最初の日曜日である最高気温28.1度となった3月31日には当然ながらまだ一分咲き以下。でも準備の都合でその日に開催された(せざるを得なかった)サクラ祭りを「サクラの咲いていないサクラ祭りなんて、めったに経験できる機会はない」とヘソ曲がりな動機で自宅近くの2会場をハシゴしてきたのは前回までに書いた通り。
3月29日に開花すれば満開になるのは4月4日か5日当たりになる。しかし4月1日の夜に天気予報を見ると、どうも今年のサクラは天候に恵まれないようだ。晴れマークが付いているのは4月2日と6日しかなく傘マークのほうが多い(>_<)
本当は6日と7日の土日にのんびりとサクラ三昧をしたかったが、この時点で週末6日の晴れマークも当てにできないし、とりあえず雨の降らない2日にも見ておくかと外出の途中に時間をやりくりして訪れたのが妙見坂のしだれ桜。
ちなみに6日&7日には某所と某所にあるしだれ桜2カ所と、某所の川沿いのサクラを見に出かけるつもりだった。だから妙見坂は今年のメインイベントに入っていなかった補欠候補。しだれ桜があるところをあれこれ探していて見つけた。
そしてこのブログを書いている本日4月6日は晴れマークが消えたこんな天候で、
2日にサクラを見てきたのは正解。
場所は2021年にサクラを見に訪れた大田区にある池上本門寺の隣。本門寺の塔頭(たっちゅう)である昭栄院の境内に妙見堂というお堂があり、そのお堂に至る坂が妙見坂。
なお塔頭(たっちゅう)とは本来は大きな寺の高僧のお墓。その高僧を慕ったり墓を守るために弟子が墓の周りに住むようになり、それが転じて大きな寺の敷地内や近くにある付属の小さな寺を意味するようになる。
五反田から池上線に乗って20分ほどで池上駅に到着。
駅ビルは2021年にオープンしたエトモ池上。
前回に来たときから、駅名の隣に池上本門寺の表示があるのはいかなる理由・いきさつなのか気になっている。池上は単に地名だが、同じ東急線で九品仏駅なんてお寺の名前が駅名なっているのにこんな表示はない。
駅から100メートルほど離れた交差点は五叉路。そのひとつがこの本門寺通りで商店街にもなっている。もっとも地元の人が日常的に買い物をするようなお店はあまりなく、参拝客向けにお店が並んだ成り立ちのように思う。
いくつかあるレトロな雰囲気のお店は前回来たときからまったく変わっていない。
おそらくこれからも変わらないはず。
写真奥の突き当たりを右に曲がると本門寺に至る道路に出るのだが、
その手前で「参道はこっち」と主張している路地があったので、
そちらを進む。
路地を抜けて左を向き正面に見えているのが池上本門寺。
世田谷区内が源流で、目黒区から大田区と流れる呑川(のみがわ)を渡る。
池上本門寺の総門。
総門とは寺の正面玄関のような存在。大門あるいは南側に造られるから南大門ともいう。対して山門はここから先は神聖なエリアだと示す門。金剛力士像が置かれていれば仁王門と呼ばれる。小さい寺だと総門と山門は共通。
池上本門寺には入らず右に進む。
朗子(ろうし)会館、池上会館と会館の多い通り。
人名で朗子だと「さえこ」「あきこ」「ときこ」などになる。
この朗子会館の名前由来を示した資料は見当たらなかったが、「朗」には「朗(ほが)らか、明るい」の意味がある。池上本門寺は合唱団、鼓笛隊、ボーイスカウト、体操クラブなど青少年向けの活動を「朗子クラブ」と名付けており、「ほがらか、明るい」子供に育って欲しいとの意味が込められているのかと思う。
池上会館の横を抜けると昭栄院が見えてきた。
正面は呑川沿い。
実は先ほどの呑川の写真にも昭栄院は写っていた。
昭栄院は小寺院だから総門を兼ねた山門。
説明が充実。
こぢんまりとした佇まい。
庭の手入れはとても行き届いている印象を受けた。
山門をくぐって左にはベニハナトキワマンサク。
花色がマンサクは黄色、トキワマンサクは白、ベニハナトキワマンサクは濃いピンクであるが、白のトキワマンサクはあまり見かけない。ベニハナトキワマンサクが紅花を省略してトキワマンサクと記される場合も多い。
右にあったのは印象的にはツバキに思えるものの、
花の形が丸くて初めて見るタイプ。
調べてみるとこれはカイドウツバキ(海棠椿)というベトナム原産の品種。ツバキは冬に咲くから南国ベトナムは想像しづらいね。別名はベトナム椿ともいい、かつてはベトナム王家が門外不出としていた幻の花なんだそう。日本に入ってきたのは1990年代といわれる。
そして昭栄院の横の路地にありました!しだれ桜。
奥の階段が妙見坂。
そこそこのサイズで期待通りに満開。
(しだれ桜はソメイヨシノより早く咲く品種が多い)
電信柱を避けて撮りましょう。
かなり高い位置で咲いており私の持っているレンズではこれで精一杯。
お寺の屋根と一緒に。
ふと振り返ると昭栄院の庭からいろいろ突き出している。
こちらは花の形が普通でも、とてもビビッドな色のツバキ。
ベニハナトキワマンサクは実をつけていた。
これはハナズオウ。
まだほとんどツボミでも色は濃い。
しだれ桜の淡いピンクとフワフワ感を背景に眺めるとキレイだった。
もう一度しだれ桜を仰ぎ見て、
さて登りますか。
1/3のところにある踊り場から見下ろす。
同じく見上げる。
それにしても階段途中の広くなったところがなぜ踊り場の名前なのだろう?
2/3を登った踊り場から。
登り切った。全部で111段!
ところで路地に入ったときから気付いていたけれど、妙見坂のしだれ桜は昭栄院の敷地にある1本だけだった(/o\) ネットで見つけたサイトで何枚かの写真を見たのは、しだれ桜が何本かあるのではなく、1本の桜の別カットだったとのオチ(^^ゞ
気を取り直して妙見堂。
樹老人は七福神のひとつ。一般的には寿老人と書く方が多い。
ひょっとしたら樹老人はここだけかも知れない。
七福神は弁財天、恵比寿、大黒天、毘沙門天、布袋、寿老人、福禄寿。しかし寿老人と福禄寿は知名度が低いかな。ましてや樹老人は超マイナーな存在。
これは第二次世界大戦の後、シンガポールのチャンギーで開かれた軍事裁判でBC級戦犯として処刑された人の慰霊碑。昭栄院の以前の住職が処刑に立ち会った縁でここに建立されたみたい。
ところで戦争犯罪人と聞くと東条英機ら28人が裁かれ、うち7名が死刑となった極東国際軍事裁判(通称は東京裁判)が有名。A級戦犯との言葉もよく聞くから、BC級戦犯はそれより軽い罪に思えるがそうではない。
BC級戦犯はA級戦犯よりはるかに多い約5700名が起訴され、そのうち約1000名に死刑判決が下されている。起訴されて死刑になった率は東京裁判が25%で、BC級戦犯が18%だからそれほど大きな違いはない。なおBC級戦犯は横浜とマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。チャンギーもそのひとつで処刑者数は129名。
さてABC級戦犯とは連合国によって布告された戦争犯罪類型の区分である
A項:平和に対する罪
B項:通例の戦争犯罪
C項:人道に対する罪
のどれで有罪になったかを意味している。
区分としてはABCと「項」なのに、戦犯すなわち人物を示すときにABCの「級」に言い換えられる理由はよくわからない。どちらも死刑があるから量刑に差はないのに「級」と書くとレベルの違いのように思えてしまう。
裁判の根拠法となった国際軍事裁判所憲章(Charter of the International Military Tribunal)を読むと「項」については (a) (b) (c) と括弧付きで書かれているだけ。戦犯をどう表現してるかはよくわからなかった。英和辞書でA級戦犯を引くと class-A war criminal が出てくるが、国際軍事裁判所憲章にその表現はなく、これは日本語表現のA級を英訳したような気もする。
もっとも第二次世界大戦がかつてないほど大規模熾烈なものであったため、戦場における「B項:通例の戦争犯罪」だけではさばききれず、戦争指導者に対する罪として「A項:平和に対する罪」が設けられたので、A級戦犯のほうがより罪が重いとの見方は必ずしも間違いではない。またA級戦犯として処刑された7名はB項でも有罪になっている。
裁判で有罪となった戦犯が「殉難」かどうかは素直に受け入れられない部分もあるものの、もはや戦後79年、ここは素直に合掌。
そこそこ大きな木。
幹はこんな感じ。そして黙ってこれにしばらく抱きついているオバチャンを二人見た。
何かスピリチュアルな儀式なんだろうか? ひょっとしてこれは「樹」老人の化身?
他には特に撮る風景もないので妙見堂の窓ガラスでも(^^ゞ
妙見堂まで階段を上がって、ここが池上本門寺の墓地エリアとつながっているとわかった。それで予定には入っていなかったが、このあと本門寺も少しブラブラ。
3月29日に開花すれば満開になるのは4月4日か5日当たりになる。しかし4月1日の夜に天気予報を見ると、どうも今年のサクラは天候に恵まれないようだ。晴れマークが付いているのは4月2日と6日しかなく傘マークのほうが多い(>_<)
本当は6日と7日の土日にのんびりとサクラ三昧をしたかったが、この時点で週末6日の晴れマークも当てにできないし、とりあえず雨の降らない2日にも見ておくかと外出の途中に時間をやりくりして訪れたのが妙見坂のしだれ桜。
ちなみに6日&7日には某所と某所にあるしだれ桜2カ所と、某所の川沿いのサクラを見に出かけるつもりだった。だから妙見坂は今年のメインイベントに入っていなかった補欠候補。しだれ桜があるところをあれこれ探していて見つけた。
そしてこのブログを書いている本日4月6日は晴れマークが消えたこんな天候で、
2日にサクラを見てきたのは正解。
場所は2021年にサクラを見に訪れた大田区にある池上本門寺の隣。本門寺の塔頭(たっちゅう)である昭栄院の境内に妙見堂というお堂があり、そのお堂に至る坂が妙見坂。
なお塔頭(たっちゅう)とは本来は大きな寺の高僧のお墓。その高僧を慕ったり墓を守るために弟子が墓の周りに住むようになり、それが転じて大きな寺の敷地内や近くにある付属の小さな寺を意味するようになる。
五反田から池上線に乗って20分ほどで池上駅に到着。
駅ビルは2021年にオープンしたエトモ池上。
前回に来たときから、駅名の隣に池上本門寺の表示があるのはいかなる理由・いきさつなのか気になっている。池上は単に地名だが、同じ東急線で九品仏駅なんてお寺の名前が駅名なっているのにこんな表示はない。
駅から100メートルほど離れた交差点は五叉路。そのひとつがこの本門寺通りで商店街にもなっている。もっとも地元の人が日常的に買い物をするようなお店はあまりなく、参拝客向けにお店が並んだ成り立ちのように思う。
いくつかあるレトロな雰囲気のお店は前回来たときからまったく変わっていない。
おそらくこれからも変わらないはず。
写真奥の突き当たりを右に曲がると本門寺に至る道路に出るのだが、
その手前で「参道はこっち」と主張している路地があったので、
そちらを進む。
路地を抜けて左を向き正面に見えているのが池上本門寺。
世田谷区内が源流で、目黒区から大田区と流れる呑川(のみがわ)を渡る。
池上本門寺の総門。
総門とは寺の正面玄関のような存在。大門あるいは南側に造られるから南大門ともいう。対して山門はここから先は神聖なエリアだと示す門。金剛力士像が置かれていれば仁王門と呼ばれる。小さい寺だと総門と山門は共通。
池上本門寺には入らず右に進む。
朗子(ろうし)会館、池上会館と会館の多い通り。
人名で朗子だと「さえこ」「あきこ」「ときこ」などになる。
この朗子会館の名前由来を示した資料は見当たらなかったが、「朗」には「朗(ほが)らか、明るい」の意味がある。池上本門寺は合唱団、鼓笛隊、ボーイスカウト、体操クラブなど青少年向けの活動を「朗子クラブ」と名付けており、「ほがらか、明るい」子供に育って欲しいとの意味が込められているのかと思う。
池上会館の横を抜けると昭栄院が見えてきた。
正面は呑川沿い。
実は先ほどの呑川の写真にも昭栄院は写っていた。
昭栄院は小寺院だから総門を兼ねた山門。
説明が充実。
こぢんまりとした佇まい。
庭の手入れはとても行き届いている印象を受けた。
山門をくぐって左にはベニハナトキワマンサク。
花色がマンサクは黄色、トキワマンサクは白、ベニハナトキワマンサクは濃いピンクであるが、白のトキワマンサクはあまり見かけない。ベニハナトキワマンサクが紅花を省略してトキワマンサクと記される場合も多い。
右にあったのは印象的にはツバキに思えるものの、
花の形が丸くて初めて見るタイプ。
調べてみるとこれはカイドウツバキ(海棠椿)というベトナム原産の品種。ツバキは冬に咲くから南国ベトナムは想像しづらいね。別名はベトナム椿ともいい、かつてはベトナム王家が門外不出としていた幻の花なんだそう。日本に入ってきたのは1990年代といわれる。
そして昭栄院の横の路地にありました!しだれ桜。
奥の階段が妙見坂。
そこそこのサイズで期待通りに満開。
(しだれ桜はソメイヨシノより早く咲く品種が多い)
電信柱を避けて撮りましょう。
かなり高い位置で咲いており私の持っているレンズではこれで精一杯。
お寺の屋根と一緒に。
ふと振り返ると昭栄院の庭からいろいろ突き出している。
こちらは花の形が普通でも、とてもビビッドな色のツバキ。
ベニハナトキワマンサクは実をつけていた。
これはハナズオウ。
まだほとんどツボミでも色は濃い。
しだれ桜の淡いピンクとフワフワ感を背景に眺めるとキレイだった。
もう一度しだれ桜を仰ぎ見て、
さて登りますか。
1/3のところにある踊り場から見下ろす。
同じく見上げる。
それにしても階段途中の広くなったところがなぜ踊り場の名前なのだろう?
2/3を登った踊り場から。
登り切った。全部で111段!
ところで路地に入ったときから気付いていたけれど、妙見坂のしだれ桜は昭栄院の敷地にある1本だけだった(/o\) ネットで見つけたサイトで何枚かの写真を見たのは、しだれ桜が何本かあるのではなく、1本の桜の別カットだったとのオチ(^^ゞ
気を取り直して妙見堂。
樹老人は七福神のひとつ。一般的には寿老人と書く方が多い。
ひょっとしたら樹老人はここだけかも知れない。
七福神は弁財天、恵比寿、大黒天、毘沙門天、布袋、寿老人、福禄寿。しかし寿老人と福禄寿は知名度が低いかな。ましてや樹老人は超マイナーな存在。
これは第二次世界大戦の後、シンガポールのチャンギーで開かれた軍事裁判でBC級戦犯として処刑された人の慰霊碑。昭栄院の以前の住職が処刑に立ち会った縁でここに建立されたみたい。
ところで戦争犯罪人と聞くと東条英機ら28人が裁かれ、うち7名が死刑となった極東国際軍事裁判(通称は東京裁判)が有名。A級戦犯との言葉もよく聞くから、BC級戦犯はそれより軽い罪に思えるがそうではない。
BC級戦犯はA級戦犯よりはるかに多い約5700名が起訴され、そのうち約1000名に死刑判決が下されている。起訴されて死刑になった率は東京裁判が25%で、BC級戦犯が18%だからそれほど大きな違いはない。なおBC級戦犯は横浜とマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。チャンギーもそのひとつで処刑者数は129名。
さてABC級戦犯とは連合国によって布告された戦争犯罪類型の区分である
A項:平和に対する罪
B項:通例の戦争犯罪
C項:人道に対する罪
のどれで有罪になったかを意味している。
区分としてはABCと「項」なのに、戦犯すなわち人物を示すときにABCの「級」に言い換えられる理由はよくわからない。どちらも死刑があるから量刑に差はないのに「級」と書くとレベルの違いのように思えてしまう。
裁判の根拠法となった国際軍事裁判所憲章(Charter of the International Military Tribunal)を読むと「項」については (a) (b) (c) と括弧付きで書かれているだけ。戦犯をどう表現してるかはよくわからなかった。英和辞書でA級戦犯を引くと class-A war criminal が出てくるが、国際軍事裁判所憲章にその表現はなく、これは日本語表現のA級を英訳したような気もする。
もっとも第二次世界大戦がかつてないほど大規模熾烈なものであったため、戦場における「B項:通例の戦争犯罪」だけではさばききれず、戦争指導者に対する罪として「A項:平和に対する罪」が設けられたので、A級戦犯のほうがより罪が重いとの見方は必ずしも間違いではない。またA級戦犯として処刑された7名はB項でも有罪になっている。
裁判で有罪となった戦犯が「殉難」かどうかは素直に受け入れられない部分もあるものの、もはや戦後79年、ここは素直に合掌。
そこそこ大きな木。
幹はこんな感じ。そして黙ってこれにしばらく抱きついているオバチャンを二人見た。
何かスピリチュアルな儀式なんだろうか? ひょっとしてこれは「樹」老人の化身?
他には特に撮る風景もないので妙見堂の窓ガラスでも(^^ゞ
妙見堂まで階段を上がって、ここが池上本門寺の墓地エリアとつながっているとわかった。それで予定には入っていなかったが、このあと本門寺も少しブラブラ。
wassho at 19:24|Permalink│Comments(0)│
2024年04月03日
花の咲いていないサクラ祭りをハシゴした本日の最高気温は28.1度! その3
東京でサクラ開花宣言があった2日後の3月31日の続き最終回。
目黒川沿いを散歩しての問題点は、この駒沢通りを渡るのに歩道橋を上り下りする必要があること。ここ以外の道路はすべて信号で横断できるのに。
少し下れば交差点があるものの、どちらにするか迷う微妙な距離。
健康のため歩道橋を使いましょう。
駒沢通りを超えると中目黒駅周辺エリア。ここは前回に紹介した「アルカス春祭り」の会場だが、特にサクラ祭り的なイベントはやっていなかった。
中目黒駅のホームを下から見上げる。
ホームの高架下を通行止めにしていた。
上流方向へは左岸(上流から見て左側)を歩けということらしい。
今までこんな規制はなかったと思う。
でも一方通行に誘導しているのはガードマンがいた場所だけで、左岸に行ってみれば上流に向かう人、上流から戻ってくる人がいて何の意味もなし。
中目黒の魅力はサクラだけでなく、
こんなお洒落なお店と、
そこで買ったものでバエ写真を撮るのを楽しみにしている人も多い。
これは誰かが撮影準備しているのをとっさに盗み撮り?したのでちょっとピンボケ。
サクラはよくて一分咲き程度。
それでもこれだけ人が集まるのが中目黒。
満開、休日、好天が重なると川沿いはヨチヨチ歩きしかできない混雑になる。
東京のお花見人気スポットランキングではここしばらくずっと1位。
ところでこの日にサクラがほとんど咲いていないのは先ほど紹介したとおりなのだけれど、写真を整理していてある違いに気がついた。
これは本日と以前の満開のときに撮った写真の比較。
建物や水路に垂れ下がっている草で同じ場所だとわかると思う。
花数が違うのは一目瞭然だとして、川の内側に延びている枝の長さが違うような気がする。また満開時のサクラは川の下に垂れている。これって花の重みでそうなるのかな?
満開の撮影はミラーレスのデジカメで今回はiPhone。レンズの画角が違うからそのように見えるだけなのか。何となく不思議。
さてサクラの咲いていないサクラ祭りなんて、なかなか経験できる機会はないとのヘソ曲がりな動機で急遽出かけたサクラ祭りハシゴ散歩。かむろ坂を経て目黒川に沿いに歩き、中目黒駅から少し離れたところで終了。
これが曇りで肌寒かったら残念な気分だったかも知れないが、季節外れの夏日となった陽気が幸いしてか意外と満足度が高い1日を過ごせた。何事も体験してみないとわからないもの。でも来年は天気のいい日に満開のサクラで祭りを楽しみたいね(^^ゞ
おしまい
<おまけ>
中目黒駅に戻るとDJポリス出動中だった。
でも何も喋っていなくて残念。
wassho at 22:56|Permalink│Comments(0)│
2024年04月02日
花の咲いていないサクラ祭りをハシゴした本日の最高気温は28.1度! その2
タイトルは本日となっているが3月31日のお話の続き。
ソメイヨシノは咲いていなくても、阿波踊りでかむろ坂のサクラ祭りを楽しんだ後は、坂を下って山手通りを横断。その先の路地を100メートルほど進んで目黒川に出る。
ここも東京を代表するサクラ名所のひとつである。
目黒方向(上流側)に向かって歩いて行く。
お花見クルーズ船が通りかかった。
目黒川沿いはかむろ坂より高いビルに取り囲まれているから、日当たりが悪いのか開花状況は0.1分咲き程度。クルーズしてもビルやマンションしか見えないのに。
前回に書いたように東京の開花宣言は3月29日と今年はとても遅かった。そろそろ咲くかなあ〜もう咲くかと期待しながら待っているうちにキャンセルしそびれ、前日キャンセルで50%、当日なら100%の料金を取られるから、だったら乗っちゃえとのいきさつなのかも知れない。ちなみにクルーズ料金は飲食なしなら5000円くらい。
手前のビルはホテル雅叙園で、
奥はその敷地内にあるオフィスビルのアルコワター。
サクラが咲いていなくても目黒川にやってきたのは、アルコタワーの先にしだれ桜があるから。しだれ桜はソメイヨシノより早く咲く品種が多い。
私の知る限り目黒川沿いのしだれ桜は、上流側から順に、
首都高大橋ジャンクション
アルコタワー
大崎ブライトタワー
のそばに植えられた3カ所しかない。しかもそれぞれ1本だけ。
もっとたくさん増やしましょう関係者の皆さん。
左岸(上流から下流を見て左側)に渡ってしだれ桜に近づく。
花付きはいまいちなものの、
ソメイヨシノが0.1分咲きの中でとても美しく思えた。
やはりサクラは咲いてナンボ。
中目黒方向を望んで。橋の奥遠くに見えるタワーマンション(中目黒アトラスタワー)が建っているあたりが中目黒駅。
Uターンしているゴムボートもお花見クルーズ船。ここから先は水深が浅いようで、どのクルーズ船もここで折り返す。出発するのは天王洲周辺。
目黒方向に進む。
目黒川沿いで異彩を放っているのは、1970年代に全国でその名をとどろかせたラブホテルの目黒エンペラー。目黒エンペラーってまだあるんだよと同世代の人に教えると驚かれることが多い。
昨年はサクラ満開時期に通りかかったら、平日昼間にもかかわらず満室表示でビックリしたが、この日は日曜なのに OPEN = 空室ありの表示。サクラの開花が遅れるとその経済効果も遅れるね。
目黒エンペラーの前のサクラ。
早く咲けと一番願っているのはホテルの人だったりして(^^ゞ
目黒通りに架かる橋からお約束の光景。
下流側。
上流側。
これだと単なる川の写真になってしまうので、
以前に撮った満開時の写真も載せておきましょう。
目黒通りを超え中目黒を目指して歩く。
対岸に本日2つ目となるサクラ祭り会場が見えてきた。
橋を渡って会場へ。
ここは田道(でんどう)広場公園という場所。公園と名前は付いているが少年野球のためのグラウンド。たまにゲートボールにも使われている。
中に入ってビックリ。
全面ブルーシート敷き。
こんな設営のイベント会場は初めて。グラウンドの保護のためなんだろうけれど、天然芝で覆われているようなグラウンドならともかく、ここまでやる必要はあるのかな。前回に書いたとおりこの日は3月31日なのに最高気温は28.1度で超快晴。ブルーシートからの反射で少し眩しかった。
地元アイドル? 上の写真で左から2人目=下の写真の一番右で、なぜかいつも他の人と違う動きをしていた。
写真で見ると、そしておそらく動画でも「何?この素人集団?」な感じなものの、生のステージだとそれなりに楽しい。そういうライブの魅力あるいは魔力にハマる人がオタクになるんだろうな。
この後に人と会う約束があったので、
断腸の思いで誘惑を退ける(^^ゞ
ところで目黒川沿いのサクラ祭りは4つある。
まず中目黒駅前商店街が主催する「中目黒桜まつり」。
ポスターを見ると今年の開催は3月24日で、まだサクラの開花宣言前(/o\)
同じく中目黒駅前で、先ほど橋の奥遠くに見えた中目黒アトラスタワーの低層階に入るテナントが中心となっている「アルカス春祭り」。アルカスはサクラ=SAKURAを逆さまに読んだもの。でもアルカス秋祭りもある。
次に品川区五反田の自治会が主催する「目黒川さくらまつり」。
そして今回訪れたのが目黒区の商店街などが主催している「目黒川の桜まつり」である。
品川区の「目黒川さくらまつり」と、目黒区の「目黒川の桜まつり」はサクラが平仮名か漢字かを除けば「の」が間に入っているかどうかの違いだけで実に紛らわしい。
実は目黒区の「目黒川の桜まつり」は昨年まで「目黒イーストエリア桜まつり」との名称だった。どうやら今年から変更になったみたい。
「目黒イーストエリア」ってまったく認知度のない言葉で、何を意味しているかわからないから変更したのだろうか。それにしても「の」を挟んだだけで、ほとんど品川区と同じ名前を被せてくるとは喧嘩を売っているとしか思えない。
まっ、火事と喧嘩は江戸の華だからいいか(^^ゞ
サクラ祭り会場を出て再び中目黒を目指して歩く。
何を撮っているのか?と思われそうだが、
これは私史上、最も低い位置で咲いているサクラを見つけた記念。
なぜかいつも撮ってしまう清掃工場の煙突。
花見ならぬツボミ見をしながら、
そろそろ中目黒に近づいてきた。
ーーー続く
wassho at 21:47|Permalink│Comments(0)│
2024年03月31日
花の咲いていないサクラ祭りをハシゴした本日の最高気温は28.1度!
もちろんまだ夏ではないし、それどころか4月にすらなっていない本日は3月31日。
なのに東京の最高気温は7月上旬並みの28.1度を記録!!!
3月の気温としては2013年3月10日の25.3度を上回って大幅に記録更新。
数日前まで外出時にはダウンジャケットを着ていたのにーーー
画像はhttps://news.biglobe.ne.jp/domestic/0331/wth_240331_0869691025.htmlから引用
なお2013年のときには、煙霧(えんむ)の現象が起き、また最高気温記録の2時間後には10度も気温が下がったことなどを当時のブログに書いている。煙霧については今のところあれが最初で最後の体験。
https://wassho.livedoor.blog/archives/52947036.html
話は変わってサクラ。
気象庁による東京での開花宣言はわずか2日前の3月29日。
これは昨年の3月14日と較べると15日つまり半月も遅い。
もっとも昨年は観測史上1位タイの早さで、平年の開花日は3月24日。
なお平年(値)とは過去30年間の平均値。
※ただしその期間の設定は10年単位となる。話が長くなるので説明は省略。現在、平年値として適用されているのは1991年から2020年までの平均値。
その平年の開花日3月24日と較べると5日遅れだから少し遅い程度とも思えそうだが、実は観測史上1位タイの3月14日を記録したのは2020年と021年と昨年2023年であり、また2022年も3月16日だった。過去30年まで記憶はしていないから、東京でのサクラ開花は3月中頃なのがここ最近の肌感覚。
だから今年のサクラは異常に遅く感じる。
データとしては2012年の3月31日開花以来となる12年ぶりの遅さとなっている。
満開になるのは開花から約1週間掛かるので次の週末4月5日あたりか。
どうしてこんなに遅くなったのかな。
今シーズンの冬はあまり寒くなかったものの、逆に3月になって気温があまり上がらなかった。グラフは東京の2〜3月の平均気温を今年と昨年で較べた結果。見事にグラフの上下位置が2月と3月で入れ替わっている。もちろん、それが影響したかどうかはサクラに尋ねてみないとわからないが(^^ゞ
ところでサクラについては
昔は入学式に咲いているイメージだったのに、
それがいつの間にか卒業式を象徴する言葉になり、
さらに最近は卒業式に「舞い散る」風景が定番と
なってきている。いつ頃に咲くのがいいのか悪いのかよくわからないとしても、とりあえず今年の新入生はサクラに出迎えてもらえそうである。
さてサクラが咲けば開かれるのがサクラ祭り。
何かと準備があるから、開花が遅いからといってスケジュールは動かせない。東京ではほとんどがこの土日、3月30日から31日に開催された。ただし29日に開花したばかりなので、まだ一分咲き程度。だから花見ではなく枝見になってしまう。
それにもともと色がほぼ真っ白なソメイヨシノにはあまり興味がないし、来週にしだれ桜をどこかに見に行く予定で、この週末のサクラ祭りに出かけるつもりはなかった。しかしサクラの咲いていないサクラ祭りなんて、なかなか経験できる機会はないと気が変わる(^^ゞ
それで散歩圏内の2カ所でサクラ祭りをハシゴ。
まず向かったのはかむろ坂。
ここは私の定番お花見散歩コースで、今までもブログに書いている。
場所等はそちらの記事に。
かむろ坂で陽光桜
https://wassho.livedoor.blog/archives/53450137.html
かむろ坂でサクラの通り抜け
https://wassho.livedoor.blog/archives/53384671.html
かむろ坂の西の端。
ここから山手通りに向かって緩やかに下っていく。
このあたりに植えられているのは陽光桜で、ソメイヨシノより少し早く咲く。
つまり今が盛りの満開。
ただしここまで陽光桜を見に来る人はあまりいなくて少しかわいそう。
咲き始めはこんな色で、
時間が経つとピンクが濃くなり、また花びらが落ちると萼(がく:花びらを支える部分)が赤なので全体的により色濃く見える。
赤い萼を道路を挟んだピンクの花びらに重ねて。
陽光桜の並木は500メートルほど続き、
この小山台一丁目の交差点で終了。
その先からはソメイヨシノのエリア。
一分咲き。
三分咲き。
未開花(/o\)
半袖・短パンにビーサンのオッサンとすれ違う。
今日はこんな服装で充分なくらい暑かった。
繰り返し書くがまだ3月31日。
かむろ坂上からは歩行者天国になっている。
ここのサクラは何度も見ているものの、サクラ祭りの日に来たのは初めて。
何をしているのかと思ったら、
ペンキ塗りの体験コーナーだった。
この子たちの何倍も生きているけど、こんなにたくさんペンキを塗ったことはないな。
会場周辺のサクラは見事に開花せず(>_<)
それでもこの賑わい。
日本人はサクラが好きだけれど、サクラにかこつけて出かけたがる民族でもある。
テントの色でわかるように、いわゆるテキヤの屋台ではなく、出展しているのはこの先にある東急目黒線・不動前駅周辺のお店が中心のようだ。
この姿はもしやーーー
それにしても「某」って?
「なにがし」と読ませるみたい。
タイミングよく阿波踊りが始まった。
この姿勢はつらいはず。
まさかこんなところで阿波踊りが見られるとは思っていなかった。器楽隊も3メートルと離れていなかったのでド迫力の大音響。高円寺の阿波踊りを見たのは2017年。今年の夏は久しぶりにまた見に行こうかな。
「某」が坂の上に行ってしまった。
それにしても誰もサクラを見上げていない(^^ゞ
このメインの場所ではサクラがほとんど咲いていなかったものの、前半に陽光桜を見たせいもあってサクラ祭りの気分は充分に味わえた。地元商店が主催のアットホームな雰囲気もよし。気温的には夏祭りだったが阿波踊りにはそれもよかったかな。訪れてはいないが昨年はイベント当日が雨だったと記憶している。雨が降ったり、天気がいいのにサクラが咲いていなかったりと主催者の皆さんには何かとご苦労様である。
坂を下る。
ここはもう山手通りまで150メートルほどのところ。
左右に走っているのが山手通り。
かむろ坂下の標識の下に見えている路地に入ると目黒川にぶつかる。
ーーー続く
なのに東京の最高気温は7月上旬並みの28.1度を記録!!!
3月の気温としては2013年3月10日の25.3度を上回って大幅に記録更新。
数日前まで外出時にはダウンジャケットを着ていたのにーーー
画像はhttps://news.biglobe.ne.jp/domestic/0331/wth_240331_0869691025.htmlから引用
なお2013年のときには、煙霧(えんむ)の現象が起き、また最高気温記録の2時間後には10度も気温が下がったことなどを当時のブログに書いている。煙霧については今のところあれが最初で最後の体験。
https://wassho.livedoor.blog/archives/52947036.html
話は変わってサクラ。
気象庁による東京での開花宣言はわずか2日前の3月29日。
これは昨年の3月14日と較べると15日つまり半月も遅い。
もっとも昨年は観測史上1位タイの早さで、平年の開花日は3月24日。
なお平年(値)とは過去30年間の平均値。
※ただしその期間の設定は10年単位となる。話が長くなるので説明は省略。現在、平年値として適用されているのは1991年から2020年までの平均値。
その平年の開花日3月24日と較べると5日遅れだから少し遅い程度とも思えそうだが、実は観測史上1位タイの3月14日を記録したのは2020年と021年と昨年2023年であり、また2022年も3月16日だった。過去30年まで記憶はしていないから、東京でのサクラ開花は3月中頃なのがここ最近の肌感覚。
だから今年のサクラは異常に遅く感じる。
データとしては2012年の3月31日開花以来となる12年ぶりの遅さとなっている。
満開になるのは開花から約1週間掛かるので次の週末4月5日あたりか。
どうしてこんなに遅くなったのかな。
今シーズンの冬はあまり寒くなかったものの、逆に3月になって気温があまり上がらなかった。グラフは東京の2〜3月の平均気温を今年と昨年で較べた結果。見事にグラフの上下位置が2月と3月で入れ替わっている。もちろん、それが影響したかどうかはサクラに尋ねてみないとわからないが(^^ゞ
ところでサクラについては
昔は入学式に咲いているイメージだったのに、
それがいつの間にか卒業式を象徴する言葉になり、
さらに最近は卒業式に「舞い散る」風景が定番と
なってきている。いつ頃に咲くのがいいのか悪いのかよくわからないとしても、とりあえず今年の新入生はサクラに出迎えてもらえそうである。
さてサクラが咲けば開かれるのがサクラ祭り。
何かと準備があるから、開花が遅いからといってスケジュールは動かせない。東京ではほとんどがこの土日、3月30日から31日に開催された。ただし29日に開花したばかりなので、まだ一分咲き程度。だから花見ではなく枝見になってしまう。
それにもともと色がほぼ真っ白なソメイヨシノにはあまり興味がないし、来週にしだれ桜をどこかに見に行く予定で、この週末のサクラ祭りに出かけるつもりはなかった。しかしサクラの咲いていないサクラ祭りなんて、なかなか経験できる機会はないと気が変わる(^^ゞ
それで散歩圏内の2カ所でサクラ祭りをハシゴ。
まず向かったのはかむろ坂。
ここは私の定番お花見散歩コースで、今までもブログに書いている。
場所等はそちらの記事に。
かむろ坂で陽光桜
https://wassho.livedoor.blog/archives/53450137.html
かむろ坂でサクラの通り抜け
https://wassho.livedoor.blog/archives/53384671.html
かむろ坂の西の端。
ここから山手通りに向かって緩やかに下っていく。
このあたりに植えられているのは陽光桜で、ソメイヨシノより少し早く咲く。
つまり今が盛りの満開。
ただしここまで陽光桜を見に来る人はあまりいなくて少しかわいそう。
咲き始めはこんな色で、
時間が経つとピンクが濃くなり、また花びらが落ちると萼(がく:花びらを支える部分)が赤なので全体的により色濃く見える。
赤い萼を道路を挟んだピンクの花びらに重ねて。
陽光桜の並木は500メートルほど続き、
この小山台一丁目の交差点で終了。
その先からはソメイヨシノのエリア。
一分咲き。
三分咲き。
未開花(/o\)
半袖・短パンにビーサンのオッサンとすれ違う。
今日はこんな服装で充分なくらい暑かった。
繰り返し書くがまだ3月31日。
かむろ坂上からは歩行者天国になっている。
ここのサクラは何度も見ているものの、サクラ祭りの日に来たのは初めて。
何をしているのかと思ったら、
ペンキ塗りの体験コーナーだった。
この子たちの何倍も生きているけど、こんなにたくさんペンキを塗ったことはないな。
会場周辺のサクラは見事に開花せず(>_<)
それでもこの賑わい。
日本人はサクラが好きだけれど、サクラにかこつけて出かけたがる民族でもある。
テントの色でわかるように、いわゆるテキヤの屋台ではなく、出展しているのはこの先にある東急目黒線・不動前駅周辺のお店が中心のようだ。
この姿はもしやーーー
それにしても「某」って?
「なにがし」と読ませるみたい。
タイミングよく阿波踊りが始まった。
この姿勢はつらいはず。
まさかこんなところで阿波踊りが見られるとは思っていなかった。器楽隊も3メートルと離れていなかったのでド迫力の大音響。高円寺の阿波踊りを見たのは2017年。今年の夏は久しぶりにまた見に行こうかな。
「某」が坂の上に行ってしまった。
それにしても誰もサクラを見上げていない(^^ゞ
このメインの場所ではサクラがほとんど咲いていなかったものの、前半に陽光桜を見たせいもあってサクラ祭りの気分は充分に味わえた。地元商店が主催のアットホームな雰囲気もよし。気温的には夏祭りだったが阿波踊りにはそれもよかったかな。訪れてはいないが昨年はイベント当日が雨だったと記憶している。雨が降ったり、天気がいいのにサクラが咲いていなかったりと主催者の皆さんには何かとご苦労様である。
坂を下る。
ここはもう山手通りまで150メートルほどのところ。
左右に走っているのが山手通り。
かむろ坂下の標識の下に見えている路地に入ると目黒川にぶつかる。
ーーー続く
wassho at 22:33|Permalink│Comments(0)│
2024年03月09日
赤塚植物園
2月24日に板橋区の赤塚梅まつりと東京大仏を見た後、初めての板橋区散策の最後に訪れたのは赤塚植物園。この季節の植物園なんてほとんど見所はないものの、東京大仏からは100mも離れていないので。
あっという間に到着。
なお入場料は無料だった。
本園と万葉・薬用園、農業園の3つのエリアに分かれている。板橋区のホームページによれば本園の広さが約1ヘクタール。全部足してもそれほど広い植物園ではない。
バラ花壇はもちろん冬のお休み中。
リキュウバイのプレートとツボミ。
ツボミはまさにフレッシュグリーンで輝いていた。
どんな花かと調べてみたら、
プレートの説明と違ってウメには似ていない(/o\)
植物分類的にウメはバラ科サクラ属、リキュウバイはバラ科ヤナギザクラ属でかなり遠い親戚。とはいえ黄梅はモクセイ科、ロウバイにいたってはクスノキ目だから、それらと較べればウメを名乗る資格はあるかも。
このリキュウバイは千利休からとった名前で茶席でもよく飾られるらしい。ただし中国原産で日本に入ったのは明治末期なので、別に利休が好んだ花じゃない。そのネーミングによってより親しまれるようになったと思われる。いつも書くようにネーミングは物事に多大な影響を与える。
近くに梅林のプレート。
でも階段に沿ってこれだけ並んでいただけ。
これを梅林とは大げさすぎないか。
いったん道路に出て向かい側にあるのが万葉・薬用園。
だから2月に植物園に来ちゃいけないんだって(^^ゞ
ホームページによると「万葉集に謡われている植物の多くはここで見ることができます」とある。でも花が咲いていないとーーー
ちょっとよかったのはこのスイセン。
よく見るスイセンは中央が濃い黄色だが、これは淡い色で優しげ。
本園に戻って「針葉樹の森」の階段を降りる。
左側はメタセコイヤかな?
木には葉の尖っている針葉樹と葉の形が広い広葉樹があって、針葉樹は常緑樹、広葉樹は落葉樹と覚えている人は多いと思うけれど、針葉樹にも落葉するものはある。メタセコイヤもそのひとつ。そして意外にもイチョウは扇形の葉をしているのに針葉落葉樹。
葉の形以前に裸子植物か被子植物科の違いがあって、針葉樹は裸子植物、広葉樹は被子植物。裸子・被子の違いは種となる胚珠(はいしゅ)が子房に包まれているかどうか(説明は長くなるので割愛)。それでイチョウは裸子植物。ただし一般に針葉樹と広葉樹に二分する場合にイチョウは針葉樹とされるが、「どちらでもない」とする分類方法もある。
キンカンを採ってはいけません。
実は最近、生まれて初めて生のキンカンを食べた。
その話はいずれまた。
まだ何も芽を出していないけれど、
品種プレートが充実しているのが高評価。
最後に逆光で、
他の植物の葉色との混じり合いがキレイだったウメでも。
たいして見るものはなかったとはいえ、それを承知の期待値低めで来たから問題なし。小さい植物園ながらも様々な品種を育てようとする姿勢が感じられたし、園内は高低差があるので見飽きることもなかった。この近所に住んでいる人がちょっとうらやましい。
あっという間に到着。
なお入場料は無料だった。
本園と万葉・薬用園、農業園の3つのエリアに分かれている。板橋区のホームページによれば本園の広さが約1ヘクタール。全部足してもそれほど広い植物園ではない。
バラ花壇はもちろん冬のお休み中。
リキュウバイのプレートとツボミ。
ツボミはまさにフレッシュグリーンで輝いていた。
どんな花かと調べてみたら、
プレートの説明と違ってウメには似ていない(/o\)
植物分類的にウメはバラ科サクラ属、リキュウバイはバラ科ヤナギザクラ属でかなり遠い親戚。とはいえ黄梅はモクセイ科、ロウバイにいたってはクスノキ目だから、それらと較べればウメを名乗る資格はあるかも。
このリキュウバイは千利休からとった名前で茶席でもよく飾られるらしい。ただし中国原産で日本に入ったのは明治末期なので、別に利休が好んだ花じゃない。そのネーミングによってより親しまれるようになったと思われる。いつも書くようにネーミングは物事に多大な影響を与える。
近くに梅林のプレート。
でも階段に沿ってこれだけ並んでいただけ。
これを梅林とは大げさすぎないか。
いったん道路に出て向かい側にあるのが万葉・薬用園。
だから2月に植物園に来ちゃいけないんだって(^^ゞ
ホームページによると「万葉集に謡われている植物の多くはここで見ることができます」とある。でも花が咲いていないとーーー
ちょっとよかったのはこのスイセン。
よく見るスイセンは中央が濃い黄色だが、これは淡い色で優しげ。
本園に戻って「針葉樹の森」の階段を降りる。
左側はメタセコイヤかな?
木には葉の尖っている針葉樹と葉の形が広い広葉樹があって、針葉樹は常緑樹、広葉樹は落葉樹と覚えている人は多いと思うけれど、針葉樹にも落葉するものはある。メタセコイヤもそのひとつ。そして意外にもイチョウは扇形の葉をしているのに針葉落葉樹。
葉の形以前に裸子植物か被子植物科の違いがあって、針葉樹は裸子植物、広葉樹は被子植物。裸子・被子の違いは種となる胚珠(はいしゅ)が子房に包まれているかどうか(説明は長くなるので割愛)。それでイチョウは裸子植物。ただし一般に針葉樹と広葉樹に二分する場合にイチョウは針葉樹とされるが、「どちらでもない」とする分類方法もある。
キンカンを採ってはいけません。
実は最近、生まれて初めて生のキンカンを食べた。
その話はいずれまた。
まだ何も芽を出していないけれど、
品種プレートが充実しているのが高評価。
最後に逆光で、
他の植物の葉色との混じり合いがキレイだったウメでも。
たいして見るものはなかったとはいえ、それを承知の期待値低めで来たから問題なし。小さい植物園ながらも様々な品種を育てようとする姿勢が感じられたし、園内は高低差があるので見飽きることもなかった。この近所に住んでいる人がちょっとうらやましい。
wassho at 17:50|Permalink│Comments(0)│
2024年03月02日
ウメよりも歴史の勉強になった?赤塚梅まつり
タイトルを微妙に変えて前回からの続き。
和太鼓のリズム、低音、爆音を楽しんでいて、
ふと振り返ると、
いつの間にか武者行列の参加者が待機中。
正式タイトルは「赤塚城 戦国絵巻 武者行列」。
前回に書いた記念撮影の様子でもわかるようにメンバーの多くは子供。
メガネを掛けているお姫様の二人は姉妹かな。
小さな武者姿が可愛い。
この鎧や兜はボンテックスという樹脂をしみこませた紙で作られていて軽いらしい。各地の武者行列などではよく使われている素材のようだ。本物と並べれば違うとしても、見た目には紙製とはまったく思えず特に違和感もなし。もっとも本物を見慣れていないせいもあるが。
そろそろ始まりそう。
赤塚城本丸跡の石碑と説明看板。
武蔵千葉氏? 誰それ?
とりあえず最後の文節「正確はことはまだ明らかに〜」が「正確な」の書き間違いなのはわかった。この看板が立てられたのは平成13年3月。つまり約22年前。その間に誰も注意する人いなかったの? 何をしている板橋区教育委員会(/o\)
さて調べてみると武蔵千葉氏とは平氏をルーツとする一門。そうと書くと、アレッ?平家は壇ノ浦で滅亡したのでは?それがいつかはよく覚えていないけれどイイクニツクロウの前なのは確か。なのにここには1400年から1500年代の話が書いているじゃないかーーーと思われるかも知れない。(参考までに平家が滅亡した壇ノ浦の戦いは1185年)
意外と知られていないというか意識されていないものの、
平氏と平家は同じではない。記号で示せば平氏 > 平家となる。
平氏は都をナクヨウグイスで平安京に遷都した桓武天皇(737年〜806年)の、孫の代の何名かが臣籍降下して平(たいら)の姓を与えられたのがその始まり。第1陣は825年から840年頃の話。平の文字にしたのは、おジイちゃんが造った平安京にちなんだもの。
古代の決まりでは天皇から直系の4世までが皇族。普通は2世と言えば子供を意味する。しかし皇族関連では親等と同じく子供を1世と数えるようで4世は玄孫(やしゃご)。当然ながら膨大な人数になる。例えば桓武天皇には側室を含めて5人の夫人との間に20人以上の子供がいた。男子はその半分で、成人できたのがさらに半分としても5人。それを当てはめて4世まで数えると5×5×5×5=625人になる。もちろんそれ以前の天皇の子孫もいるわけで。
朝廷としてはそんな人数を財政的に抱えきれないし、そのほとんどに皇位継承の可能性もない。それで皇族の身分を外し臣下として独り立ちさせたのが臣籍降下。その制度は古代からあり、特に桓武天皇(在位781〜806年)の時代から多くなったとされる。
さて50代天皇・桓武天皇の孫から始まった平氏を桓武平氏と呼ぶ。桓武と頭につけるのは他にも54代仁明天皇、55代文徳天皇、58代光孝天皇の子孫から平姓へ臣籍降下したグループがあるから。ただし桓武以外の天皇の平氏はほとんどが数代ほどで途絶えたので、平氏と言えば実質的に桓武平氏を示す。
最初の825年に臣籍降下したのは平高棟(たかむね)で、この系統は公家(貴族)として発展していく。平氏といえば武家としか学校では習わないけれど、そうでもないのだ。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は、この系統で高棟(たかむね)より10代後となる平時忠(ときただ)の言葉。
そして桓武天皇の孫(ひ孫説もあり)の高望王(たかもちおう:生没年不明)が、桓武天皇の9代後の宇多天皇から臣籍降下で平の姓を与えられ平高望となったのが889年。この系統が後に平氏の最大勢力になる。
平氏となった平高望(たかもち)は898年に上総国(かずさのくに:今の千葉県中央部)に行政長官として赴任する。この時点では公家。しかし任期が過ぎても帰京せず、その地に土着して豪族となり武士団を形成して勢力を周辺に伸ばす。理由は京都に戻っても藤原一族が要職を独占しているから。この平高望が武家としての平氏の始まり。
平高望の孫の平将門(まさかど)の代になると関東ほぼ全域を支配。東国(関東)を意味する坂東平氏の名で呼ばれた。(その時代にそう呼ばれていたかは知らない)
そうして勢力を拡大していた平氏であるが、時代が下って1028年に起きた平忠常の乱(ただつね:平高望のひ孫、母方の祖父として平将門にもつながる)が起き、朝廷から派遣された源頼信(頼朝の6代前の祖先)により平定され、坂東平氏は源氏の支配下に入る。源氏と平氏が一緒になってややこしいからか、この頃になると坂東平氏ではなく、坂東武者や坂東武士と呼び変えられるみたい。
939年に起きた平将門の乱と較べると日本史的にはマイナーな存在とはいえ、この平忠常の乱はその後の歴史に影響を与えるいろいろな要素を持っていたと思う。坂東平氏と源氏とのつながりができた以外にも、例えば源頼信の息子の頼義が後に鎌倉の領地を手に入れ、それで頼朝にとって鎌倉が先祖伝来の土地になった。逆に将門の乱はもともと平氏一族の内乱で関東の政治に大きな影響は与えていない。将門の首が京都から東京まで飛んでいかなければ、今ほど有名にはならなかったかも。
いずれにせよ源頼朝が幽閉されていた伊豆から抜け出して挙兵し、鎌倉幕府を樹立できたのはこの坂東平氏、すなわち平氏の協力があったから。話は逸れるが、源頼義は妻を平氏からもらっており(当時の感覚だと婿に入る)、だからその子孫の頼朝は平氏の血も流れていることになる。
話は変わって、平忠常(ただつね)と同じく平高望(たかもち)のひ孫の代にあたる平維衡(これひら)は、関東を離れて伊勢に地盤を築き伊勢平氏と呼ばれる系統となる。やがてその子孫は京都に戻り朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩む。
その平維衡(これひら)の5代後に平清盛が出る。清盛は初代の平高望(たかもち)から数えれば平氏9代目となる世代。そして清盛が都で権力者として上り詰めると、平氏の中で清盛の近親者およびその周辺が平家と呼ばれるようになる。だから平氏 > 平家。平氏の中でもセレブな存在が平家ファミリー。「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠は平高棟(たかむね)の子孫でまったく別系列だが、姉が清盛の後妻になったので義理の親戚として平家一門に加わった。それが嬉しくての発言?
この流れを考えると源平の戦いは源氏 vs 平家であるけれど、頼朝には坂東平氏が多く加担していたから平氏 vs 平家の戦いの側面も持つ。もっとも同じ平氏とはいえ、その頃になれば9代前のヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイじいちゃんが共通というだけなので、同じ一族としての感覚や連帯感は既になかったと思う。まさに坂東平氏ではなく坂東武者がそのアイデンティティだったのかも知れない。
ついでに計算すると平高望(たかもち)が千葉に来たのが898年で、頼朝の挙兵が1180年だから282年の年月が流れている。現在に置き換えれば2024 − 282 = 1742年で徳川吉宗の時代まで遡る。平家と坂東平氏はそれだけ遠い親戚。
ところで坂東平氏側はこの少し前の世代から、後述する千葉氏・上総氏・三浦氏などに名前を変えている。どうして桓武天皇につながる平の姓を捨てて千葉や上総などに変更するのだろう。少し調べたがヒントは見つけられず。この頃になれば一族の数は先ほどの掛け算のように加速度的に増えて「平さん」だらけになって区別が付かなくなるから? もう都から離れて長いので「平」の名前にステイタスを感じなくなったから? あるいは平忠常の乱以降の源氏の支配がさらに進んで、平姓では何かと不都合があって名前を変えたのか?そのうち調べましょう。
ただ清盛ほか平家側はすべて平姓。もし坂東平氏が名前を変えずに平姓のままだったら、平氏同士の戦いはどうにもやりづらく、頼朝の元にそんなに多く集まっていなかった可能性もある。そう考えると名前を変えてなければ歴史も違っていた? 別の表現をすれば名前が歴史を変えた? そんなことをあれこれモーソー中である。
平氏と平家の話が長くなった。
ようやく武者行列の武蔵千葉氏。
でもそろそろ飽きてきたから簡潔に(^^ゞ
まず千葉氏は先ほどの平忠常(ただつね)の家系から出た一族。忠常のひ孫の平常兼(つねかね)が初代とされ、その孫の常胤(つねたね)から平ではなく千葉常胤と名乗っている(諸説あり)。
ならば千葉とはこの一族の名前だったのかと思ってしまうが実際は逆。奈良時代の万葉集には既に「知波乃奴」=「千葉の野」とあり千葉の地名が確立していた。つまり地名を家の名前としたパターン。
そして千葉氏は坂東平氏の中でも中心的な坂東八平氏に名を連ねる。坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8部族。千葉氏3代目となる千葉常胤(つねたね)は頼朝挙兵にいち早く協力し、鎌倉幕府成立後に有力御家人となる。
これは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人が演じた千葉常胤。
しかし鎌倉時代以前から一族内部での争いが絶えず(他の一族もほとんど同じだが)、とうとう室町時代中期の1455年に、16代当主を中心とする家族が拠点の千葉城を追放され、千葉北東部に逃れる。そこも攻撃されて一緒にいた16代当主の弟の息子兄弟だけが市川まで逃げ延びた。
1456年になるとそこも襲われて、当地まで逃げてきたのが看板に書いてあった内容。これにより千葉氏は、武蔵(東京)に逃げてきた武蔵千葉氏と、千葉に残った下総(しもふさ)千葉氏に区別される。まあ本家と元祖の対立のようなもの。
下総の位置。画像はhttps://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.htmlから引用
下総と上総(かずさ)の位置が地図では上下逆なのがややこしい。また地図の上部に上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)もある。これらの上・下は京の都に近い方が「上」を名乗ると考えられている。
やがて(小田原の)北条氏の配下に入るのも看板に書かれている。皮肉なことに武蔵千葉氏を追い出した下総千葉氏も戦国時代には自力で立ちゆかず、同じく北条氏の勢力下になり豊臣秀吉による小田原征伐を迎える。
これにより武蔵と下総の両千葉氏は滅亡した。滅亡と聞くと戦死や捉えられての処刑ですべて死んだような語感だが、戦国大名としての地位を失った、そして歴史の表舞台から姿を消したとの意味。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家だって主要メンバーは戦死や入水自殺で死んだが、生き残って後世に子孫を残したものはいる。古代ローマ帝国の滅亡でローマ人全員が死んだのではないのと同じ。
入場していく武者行列。
千葉氏は初代の平常兼が1045年生まれで、小田原征伐が1590年だからその歴史は545年。坂東八平氏の中でも一時は最大勢力で房総平氏ともいわれたので、千葉県や千葉市は千葉氏へのリスペクトが高い。千葉市の市章は千葉氏の家紋をベースにしてるほど。
一方の武蔵千葉氏が赤塚城にやってきたのは1456年で、小田原征伐までこの地での歴史は134年。それほど長くないし、千葉氏から追われて落ち延びてきた以外に歴史上の存在感もない。それなのに21世紀の地元住民がこんなイベントをしてくれているなんて、感激あるいはビックリしているんじゃないかな。
武者行列の様子を少し見物して、
隣の梅林に戻る。
50〜60本くらいに思う。
何となくフワーッと天に伸びていく感じ。
梅林のほとんどは白梅。
奥の出入り口近くに少しピンクのもあった。
密集している部分を逆光で眺めると輝いて見えて幻想的。
観梅終了して城址地区から溜池に降りる。
赤塚溜池公園&赤塚公園の城址地区のウメは「質より量」でちょっと残念だったのは確か。しかし和太鼓や武者行列などイベントはとても楽しめた。梅祭り開催中で人出も多かったものの、何となく地元中心でアットホームな雰囲気が感じられたのも好印象だった。
おしまい
でもウメ以外の初めての板橋区散歩はまだ続く。
和太鼓のリズム、低音、爆音を楽しんでいて、
ふと振り返ると、
いつの間にか武者行列の参加者が待機中。
正式タイトルは「赤塚城 戦国絵巻 武者行列」。
前回に書いた記念撮影の様子でもわかるようにメンバーの多くは子供。
メガネを掛けているお姫様の二人は姉妹かな。
小さな武者姿が可愛い。
この鎧や兜はボンテックスという樹脂をしみこませた紙で作られていて軽いらしい。各地の武者行列などではよく使われている素材のようだ。本物と並べれば違うとしても、見た目には紙製とはまったく思えず特に違和感もなし。もっとも本物を見慣れていないせいもあるが。
そろそろ始まりそう。
赤塚城本丸跡の石碑と説明看板。
武蔵千葉氏? 誰それ?
とりあえず最後の文節「正確はことはまだ明らかに〜」が「正確な」の書き間違いなのはわかった。この看板が立てられたのは平成13年3月。つまり約22年前。その間に誰も注意する人いなかったの? 何をしている板橋区教育委員会(/o\)
さて調べてみると武蔵千葉氏とは平氏をルーツとする一門。そうと書くと、アレッ?平家は壇ノ浦で滅亡したのでは?それがいつかはよく覚えていないけれどイイクニツクロウの前なのは確か。なのにここには1400年から1500年代の話が書いているじゃないかーーーと思われるかも知れない。(参考までに平家が滅亡した壇ノ浦の戦いは1185年)
意外と知られていないというか意識されていないものの、
平氏と平家は同じではない。記号で示せば平氏 > 平家となる。
平氏は都をナクヨウグイスで平安京に遷都した桓武天皇(737年〜806年)の、孫の代の何名かが臣籍降下して平(たいら)の姓を与えられたのがその始まり。第1陣は825年から840年頃の話。平の文字にしたのは、おジイちゃんが造った平安京にちなんだもの。
古代の決まりでは天皇から直系の4世までが皇族。普通は2世と言えば子供を意味する。しかし皇族関連では親等と同じく子供を1世と数えるようで4世は玄孫(やしゃご)。当然ながら膨大な人数になる。例えば桓武天皇には側室を含めて5人の夫人との間に20人以上の子供がいた。男子はその半分で、成人できたのがさらに半分としても5人。それを当てはめて4世まで数えると5×5×5×5=625人になる。もちろんそれ以前の天皇の子孫もいるわけで。
朝廷としてはそんな人数を財政的に抱えきれないし、そのほとんどに皇位継承の可能性もない。それで皇族の身分を外し臣下として独り立ちさせたのが臣籍降下。その制度は古代からあり、特に桓武天皇(在位781〜806年)の時代から多くなったとされる。
さて50代天皇・桓武天皇の孫から始まった平氏を桓武平氏と呼ぶ。桓武と頭につけるのは他にも54代仁明天皇、55代文徳天皇、58代光孝天皇の子孫から平姓へ臣籍降下したグループがあるから。ただし桓武以外の天皇の平氏はほとんどが数代ほどで途絶えたので、平氏と言えば実質的に桓武平氏を示す。
最初の825年に臣籍降下したのは平高棟(たかむね)で、この系統は公家(貴族)として発展していく。平氏といえば武家としか学校では習わないけれど、そうでもないのだ。有名な「平家にあらずんば人にあらず」は、この系統で高棟(たかむね)より10代後となる平時忠(ときただ)の言葉。
そして桓武天皇の孫(ひ孫説もあり)の高望王(たかもちおう:生没年不明)が、桓武天皇の9代後の宇多天皇から臣籍降下で平の姓を与えられ平高望となったのが889年。この系統が後に平氏の最大勢力になる。
平氏となった平高望(たかもち)は898年に上総国(かずさのくに:今の千葉県中央部)に行政長官として赴任する。この時点では公家。しかし任期が過ぎても帰京せず、その地に土着して豪族となり武士団を形成して勢力を周辺に伸ばす。理由は京都に戻っても藤原一族が要職を独占しているから。この平高望が武家としての平氏の始まり。
平高望の孫の平将門(まさかど)の代になると関東ほぼ全域を支配。東国(関東)を意味する坂東平氏の名で呼ばれた。(その時代にそう呼ばれていたかは知らない)
そうして勢力を拡大していた平氏であるが、時代が下って1028年に起きた平忠常の乱(ただつね:平高望のひ孫、母方の祖父として平将門にもつながる)が起き、朝廷から派遣された源頼信(頼朝の6代前の祖先)により平定され、坂東平氏は源氏の支配下に入る。源氏と平氏が一緒になってややこしいからか、この頃になると坂東平氏ではなく、坂東武者や坂東武士と呼び変えられるみたい。
939年に起きた平将門の乱と較べると日本史的にはマイナーな存在とはいえ、この平忠常の乱はその後の歴史に影響を与えるいろいろな要素を持っていたと思う。坂東平氏と源氏とのつながりができた以外にも、例えば源頼信の息子の頼義が後に鎌倉の領地を手に入れ、それで頼朝にとって鎌倉が先祖伝来の土地になった。逆に将門の乱はもともと平氏一族の内乱で関東の政治に大きな影響は与えていない。将門の首が京都から東京まで飛んでいかなければ、今ほど有名にはならなかったかも。
いずれにせよ源頼朝が幽閉されていた伊豆から抜け出して挙兵し、鎌倉幕府を樹立できたのはこの坂東平氏、すなわち平氏の協力があったから。話は逸れるが、源頼義は妻を平氏からもらっており(当時の感覚だと婿に入る)、だからその子孫の頼朝は平氏の血も流れていることになる。
話は変わって、平忠常(ただつね)と同じく平高望(たかもち)のひ孫の代にあたる平維衡(これひら)は、関東を離れて伊勢に地盤を築き伊勢平氏と呼ばれる系統となる。やがてその子孫は京都に戻り朝廷や貴族に仕える軍事貴族としての道を歩む。
その平維衡(これひら)の5代後に平清盛が出る。清盛は初代の平高望(たかもち)から数えれば平氏9代目となる世代。そして清盛が都で権力者として上り詰めると、平氏の中で清盛の近親者およびその周辺が平家と呼ばれるようになる。だから平氏 > 平家。平氏の中でもセレブな存在が平家ファミリー。「平家にあらずんば人にあらず」の平時忠は平高棟(たかむね)の子孫でまったく別系列だが、姉が清盛の後妻になったので義理の親戚として平家一門に加わった。それが嬉しくての発言?
この流れを考えると源平の戦いは源氏 vs 平家であるけれど、頼朝には坂東平氏が多く加担していたから平氏 vs 平家の戦いの側面も持つ。もっとも同じ平氏とはいえ、その頃になれば9代前のヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイ・ヒイじいちゃんが共通というだけなので、同じ一族としての感覚や連帯感は既になかったと思う。まさに坂東平氏ではなく坂東武者がそのアイデンティティだったのかも知れない。
ついでに計算すると平高望(たかもち)が千葉に来たのが898年で、頼朝の挙兵が1180年だから282年の年月が流れている。現在に置き換えれば2024 − 282 = 1742年で徳川吉宗の時代まで遡る。平家と坂東平氏はそれだけ遠い親戚。
ところで坂東平氏側はこの少し前の世代から、後述する千葉氏・上総氏・三浦氏などに名前を変えている。どうして桓武天皇につながる平の姓を捨てて千葉や上総などに変更するのだろう。少し調べたがヒントは見つけられず。この頃になれば一族の数は先ほどの掛け算のように加速度的に増えて「平さん」だらけになって区別が付かなくなるから? もう都から離れて長いので「平」の名前にステイタスを感じなくなったから? あるいは平忠常の乱以降の源氏の支配がさらに進んで、平姓では何かと不都合があって名前を変えたのか?そのうち調べましょう。
ただ清盛ほか平家側はすべて平姓。もし坂東平氏が名前を変えずに平姓のままだったら、平氏同士の戦いはどうにもやりづらく、頼朝の元にそんなに多く集まっていなかった可能性もある。そう考えると名前を変えてなければ歴史も違っていた? 別の表現をすれば名前が歴史を変えた? そんなことをあれこれモーソー中である。
平氏と平家の話が長くなった。
ようやく武者行列の武蔵千葉氏。
でもそろそろ飽きてきたから簡潔に(^^ゞ
まず千葉氏は先ほどの平忠常(ただつね)の家系から出た一族。忠常のひ孫の平常兼(つねかね)が初代とされ、その孫の常胤(つねたね)から平ではなく千葉常胤と名乗っている(諸説あり)。
ならば千葉とはこの一族の名前だったのかと思ってしまうが実際は逆。奈良時代の万葉集には既に「知波乃奴」=「千葉の野」とあり千葉の地名が確立していた。つまり地名を家の名前としたパターン。
そして千葉氏は坂東平氏の中でも中心的な坂東八平氏に名を連ねる。坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8部族。千葉氏3代目となる千葉常胤(つねたね)は頼朝挙兵にいち早く協力し、鎌倉幕府成立後に有力御家人となる。
これは大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で岡本信人が演じた千葉常胤。
しかし鎌倉時代以前から一族内部での争いが絶えず(他の一族もほとんど同じだが)、とうとう室町時代中期の1455年に、16代当主を中心とする家族が拠点の千葉城を追放され、千葉北東部に逃れる。そこも攻撃されて一緒にいた16代当主の弟の息子兄弟だけが市川まで逃げ延びた。
1456年になるとそこも襲われて、当地まで逃げてきたのが看板に書いてあった内容。これにより千葉氏は、武蔵(東京)に逃げてきた武蔵千葉氏と、千葉に残った下総(しもふさ)千葉氏に区別される。まあ本家と元祖の対立のようなもの。
下総の位置。画像はhttps://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-1-2-53.htmlから引用
下総と上総(かずさ)の位置が地図では上下逆なのがややこしい。また地図の上部に上野国(こうずけのくに)と下野国(しもつけのくに)もある。これらの上・下は京の都に近い方が「上」を名乗ると考えられている。
やがて(小田原の)北条氏の配下に入るのも看板に書かれている。皮肉なことに武蔵千葉氏を追い出した下総千葉氏も戦国時代には自力で立ちゆかず、同じく北条氏の勢力下になり豊臣秀吉による小田原征伐を迎える。
これにより武蔵と下総の両千葉氏は滅亡した。滅亡と聞くと戦死や捉えられての処刑ですべて死んだような語感だが、戦国大名としての地位を失った、そして歴史の表舞台から姿を消したとの意味。壇ノ浦の戦いで滅亡した平家だって主要メンバーは戦死や入水自殺で死んだが、生き残って後世に子孫を残したものはいる。古代ローマ帝国の滅亡でローマ人全員が死んだのではないのと同じ。
入場していく武者行列。
千葉氏は初代の平常兼が1045年生まれで、小田原征伐が1590年だからその歴史は545年。坂東八平氏の中でも一時は最大勢力で房総平氏ともいわれたので、千葉県や千葉市は千葉氏へのリスペクトが高い。千葉市の市章は千葉氏の家紋をベースにしてるほど。
一方の武蔵千葉氏が赤塚城にやってきたのは1456年で、小田原征伐までこの地での歴史は134年。それほど長くないし、千葉氏から追われて落ち延びてきた以外に歴史上の存在感もない。それなのに21世紀の地元住民がこんなイベントをしてくれているなんて、感激あるいはビックリしているんじゃないかな。
武者行列の様子を少し見物して、
隣の梅林に戻る。
50〜60本くらいに思う。
何となくフワーッと天に伸びていく感じ。
梅林のほとんどは白梅。
奥の出入り口近くに少しピンクのもあった。
密集している部分を逆光で眺めると輝いて見えて幻想的。
観梅終了して城址地区から溜池に降りる。
赤塚溜池公園&赤塚公園の城址地区のウメは「質より量」でちょっと残念だったのは確か。しかし和太鼓や武者行列などイベントはとても楽しめた。梅祭り開催中で人出も多かったものの、何となく地元中心でアットホームな雰囲気が感じられたのも好印象だった。
おしまい
でもウメ以外の初めての板橋区散歩はまだ続く。
wassho at 22:01|Permalink│Comments(0)│
2024年02月28日
ウメよりも和太鼓がよかった赤塚梅まつり
タイトルは違うが前回からの続き。
高島平駅から赤塚公園を歩き、
新大宮バイパスを渡って到着した赤塚溜池公園。
赤塚梅まつり開催中とあって園内はかなりの賑わい。
入り口のすぐそばにあった溜池。公園の名前の由来となっているから、相当に大きな池を想像していたのに、それほどでもなかった(^^ゞ
板橋区のホームページによるとウメの木は約150本。
この日で6〜7分咲きといったところ。
写真では少し寂しくもあるが、人間の目は見たいものを見る=咲いているところを無意識に集中して眺めるから、花数に不足感はなかった。
ただし品種が少ないし剪定の仕方もワンパターン。しだれのウメもなかった。あちこちの名所を訪ね歩いてきた目には、たくさん咲いてはいても「いいウメを見たなあ」との満足感は得られずやや残念。
それでも現地では天気もよかったし、梅まつりの雰囲気もあって楽しく過ごせた。しかし自宅に戻って写真を整理してビックリ。普段より大幅に撮影枚数が少ない。まあ「写真は正直」である。
ここのウメは花のサイズが小さい。
花色が重なるように撮りましょう。
アップも少しだけ。
羽根木公園に続いてメジロの撮影に成功。
これは枝が緑色で伸びるタイプで私の好み。
肉眼ではそれが影響して花も少し緑がかった白に見える。
屋台をブラブラ。
昨今の物価高ではステーキで1000円しないなんて安く思えてしまう。
それにしてもビフテキなんて言葉は久しぶりに聞いた。
公園の奥で人だかりができていたので覗いてみると。
とても前まで出られそうになかったのでカメラを頭の上に持ち上げて撮影。
最前列右から4人目は板橋区長。
私が来てすぐに撮影タイム終了。
お祭りのイベントとして武者行列があるとは事前に知っていた。一般的に記念撮影は最後に行うから、この時点ではそれが終わったのだと認識。
園内マップ。
前回に書いたように赤塚溜池公園(図の右上ウグイス色部分)は赤塚公園の一角にある。このエリアでウメがあるのはここと、隣接する赤塚公園の城址地区にある梅林。
城址地区に向けて丘を登る。そこそこ急勾配だったのと、前日はたまに雪も混じる雨が降り続いていたので、土と落ち葉の階段がぬかるんで滑りやすかった。
上がってみると城址(じょうし)地区=城跡とはいえ遺構的なものはなく広場があるだけ。もっともここにあった赤塚城は戦国時代の少し前に築城され、秀吉の頃には廃止されている。だから一般にイメージする天守閣があるような城ではなく、館(やかた)がいくつかある砦(とりで)のような姿だったはず。
多くの人が何かを待っている。
どう見ても武者っぽい雰囲気。
まだ何かイベントがあるのかな?
ところで床几(しょうぎ:折りたたみ式の椅子)の後ろに並んでいるのは盾(たて)。飛んでくる弓矢から身を守るために合戦で使われた。ここのは描かれている図柄(家紋)が丸いので、まるで弓の的のように見えるが、
こうやって使うやつね。
盾にはいろいろ種類があって大別すると、この会場にあった地面に置いて使う「置盾 おきだて」と、手で持って使う「持盾 もちだて」に分かれる。
ただし持盾は古代ローマ兵や騎士など西洋のイメージが強い。
日本刀は両手で持つからあまり使われなかったのだろうか。
しかし武士=刀とは江戸時代になってからのイメージで、それ以前の戦(いくさ)において、指揮官である武将は別として戦闘の主力となる歩兵の武器は槍(やり)である。
これは関ヶ原合戦図屏風の一部。
槍で戦っている兵士は盾を持っていない。
こちらは古代ローマ兵の再現イベント。
槍が武器の兵士は盾も持っている。
このあたりは文化の違いや体格の差、あるいは兵士の安全や生命に対する価値観の反映なのかなどと想像を膨らませると何かと興味深い。
話を置盾に戻すと、それを地面に並べるのは戦闘開始の準備である。そこから生まれたのが相手に反対する・逆らうを意味する「盾突く」の言葉。この場合の「突く」は槍などで突くのではなく「地面に突き立てる」の意味。
また置盾は板につっかい棒を組み合わせた簡単な構造。移動の際には手で持って運搬する。持盾はもちろん手で操る道具。それで両者を手盾(てだて)とも呼んだ。盾がないと防御ができず戦えないから、そこから策がない状態を「手立てがない」と表現するようになったとの説もある。
他にも図星、手の内、はず(当然そうなること)、裏をかく、身から出たサビ、駆け引き、出張、折り紙付き、切羽詰まる、反りが合わない、抜き打ちーーーなど武器や戦から生まれた言葉は多い。興味があればお調べを。
広場には和太鼓も置かれていた。
そしてこの立て看板で、先ほど見た記念撮影でイベントが終わったのではなく、和太鼓演奏や武者行列などはこれから始まると知る。
開示予定時刻までまだ10分少々あったので、
広場に続いている城址地区の梅林エリアに入る。
見たところ同じ品種の白梅ばかりのようだ。
またウメの背丈が下の溜池公園と較べてずいぶんと低い。
さてもっと奥まで見に行くかと思ったとき、銃声のような大きな音が聞こえて身体がビクッと反応する。私は「ワッ!」と大声で驚かされるととてもビックリするタイプ(^^ゞ
もちろん音の正体は銃声ではなく和太鼓の最初の一拍。
梅林から広場に戻って和太鼓見物。
この大きさの太鼓だけで15台ほどあった。
最も近い太鼓までの距離は5メートルもない。
音とは空気の振動だと実感できるド迫力の大音響がこちらに向かってくる。
演奏は2チームの合奏。
左側のチームはメンバーが若い。
また曲ごとにメンバーが入れ替わり、
子供が太鼓を打つときもある。
逆に右側のチームはメンバーが固定だから体力的には大変だったかも知れない。
演奏は30分ほど続いた。
真横からバチさばきを観察。
腕の動きが速いので、シャッタースピード1/1000秒に設定して高速撮影。
一人だけタイミングがずれているのを発見(>_<)
大太鼓。
小太鼓。
ドラムのタムタムのように並んでいるが、それとは違って口径はどれも同じように見える。
後ろ姿。こういうファッションを見るとどうしても「夜露死苦」「愛羅武勇」「仏恥義理」などヤンキー漢字を思い浮かべてしまう(^^ゞ 法被に書かれた文字をヒントに検索すると、このチームの名前は鼓粋若衆 板橋 轟太鼓とわかった。
こちらのチーム名は不明。バチをクルクル回したり轟太鼓とは叩き方が違うから、そのジュニアチームではないと思う。
前から見ていると太鼓があって気付きにくいものの、和太鼓はかなり大股開きの体勢で叩いている。それにしても彼らの和柄のシャツはちょっといいね。私が着たら「その筋」の人に見える危険性があるからビミョーかもーーー
ウメはあまり見応えがなかったけれど、
和太鼓のリズムを全身に浴びて身体が活性化したような気がする。
ーーー続く
高島平駅から赤塚公園を歩き、
新大宮バイパスを渡って到着した赤塚溜池公園。
赤塚梅まつり開催中とあって園内はかなりの賑わい。
入り口のすぐそばにあった溜池。公園の名前の由来となっているから、相当に大きな池を想像していたのに、それほどでもなかった(^^ゞ
板橋区のホームページによるとウメの木は約150本。
この日で6〜7分咲きといったところ。
写真では少し寂しくもあるが、人間の目は見たいものを見る=咲いているところを無意識に集中して眺めるから、花数に不足感はなかった。
ただし品種が少ないし剪定の仕方もワンパターン。しだれのウメもなかった。あちこちの名所を訪ね歩いてきた目には、たくさん咲いてはいても「いいウメを見たなあ」との満足感は得られずやや残念。
それでも現地では天気もよかったし、梅まつりの雰囲気もあって楽しく過ごせた。しかし自宅に戻って写真を整理してビックリ。普段より大幅に撮影枚数が少ない。まあ「写真は正直」である。
ここのウメは花のサイズが小さい。
花色が重なるように撮りましょう。
アップも少しだけ。
羽根木公園に続いてメジロの撮影に成功。
これは枝が緑色で伸びるタイプで私の好み。
肉眼ではそれが影響して花も少し緑がかった白に見える。
屋台をブラブラ。
昨今の物価高ではステーキで1000円しないなんて安く思えてしまう。
それにしてもビフテキなんて言葉は久しぶりに聞いた。
公園の奥で人だかりができていたので覗いてみると。
とても前まで出られそうになかったのでカメラを頭の上に持ち上げて撮影。
最前列右から4人目は板橋区長。
私が来てすぐに撮影タイム終了。
お祭りのイベントとして武者行列があるとは事前に知っていた。一般的に記念撮影は最後に行うから、この時点ではそれが終わったのだと認識。
園内マップ。
前回に書いたように赤塚溜池公園(図の右上ウグイス色部分)は赤塚公園の一角にある。このエリアでウメがあるのはここと、隣接する赤塚公園の城址地区にある梅林。
城址地区に向けて丘を登る。そこそこ急勾配だったのと、前日はたまに雪も混じる雨が降り続いていたので、土と落ち葉の階段がぬかるんで滑りやすかった。
上がってみると城址(じょうし)地区=城跡とはいえ遺構的なものはなく広場があるだけ。もっともここにあった赤塚城は戦国時代の少し前に築城され、秀吉の頃には廃止されている。だから一般にイメージする天守閣があるような城ではなく、館(やかた)がいくつかある砦(とりで)のような姿だったはず。
多くの人が何かを待っている。
どう見ても武者っぽい雰囲気。
まだ何かイベントがあるのかな?
ところで床几(しょうぎ:折りたたみ式の椅子)の後ろに並んでいるのは盾(たて)。飛んでくる弓矢から身を守るために合戦で使われた。ここのは描かれている図柄(家紋)が丸いので、まるで弓の的のように見えるが、
こうやって使うやつね。
盾にはいろいろ種類があって大別すると、この会場にあった地面に置いて使う「置盾 おきだて」と、手で持って使う「持盾 もちだて」に分かれる。
ただし持盾は古代ローマ兵や騎士など西洋のイメージが強い。
日本刀は両手で持つからあまり使われなかったのだろうか。
しかし武士=刀とは江戸時代になってからのイメージで、それ以前の戦(いくさ)において、指揮官である武将は別として戦闘の主力となる歩兵の武器は槍(やり)である。
これは関ヶ原合戦図屏風の一部。
槍で戦っている兵士は盾を持っていない。
こちらは古代ローマ兵の再現イベント。
槍が武器の兵士は盾も持っている。
このあたりは文化の違いや体格の差、あるいは兵士の安全や生命に対する価値観の反映なのかなどと想像を膨らませると何かと興味深い。
話を置盾に戻すと、それを地面に並べるのは戦闘開始の準備である。そこから生まれたのが相手に反対する・逆らうを意味する「盾突く」の言葉。この場合の「突く」は槍などで突くのではなく「地面に突き立てる」の意味。
また置盾は板につっかい棒を組み合わせた簡単な構造。移動の際には手で持って運搬する。持盾はもちろん手で操る道具。それで両者を手盾(てだて)とも呼んだ。盾がないと防御ができず戦えないから、そこから策がない状態を「手立てがない」と表現するようになったとの説もある。
他にも図星、手の内、はず(当然そうなること)、裏をかく、身から出たサビ、駆け引き、出張、折り紙付き、切羽詰まる、反りが合わない、抜き打ちーーーなど武器や戦から生まれた言葉は多い。興味があればお調べを。
広場には和太鼓も置かれていた。
そしてこの立て看板で、先ほど見た記念撮影でイベントが終わったのではなく、和太鼓演奏や武者行列などはこれから始まると知る。
開示予定時刻までまだ10分少々あったので、
広場に続いている城址地区の梅林エリアに入る。
見たところ同じ品種の白梅ばかりのようだ。
またウメの背丈が下の溜池公園と較べてずいぶんと低い。
さてもっと奥まで見に行くかと思ったとき、銃声のような大きな音が聞こえて身体がビクッと反応する。私は「ワッ!」と大声で驚かされるととてもビックリするタイプ(^^ゞ
もちろん音の正体は銃声ではなく和太鼓の最初の一拍。
梅林から広場に戻って和太鼓見物。
この大きさの太鼓だけで15台ほどあった。
最も近い太鼓までの距離は5メートルもない。
音とは空気の振動だと実感できるド迫力の大音響がこちらに向かってくる。
演奏は2チームの合奏。
左側のチームはメンバーが若い。
また曲ごとにメンバーが入れ替わり、
子供が太鼓を打つときもある。
逆に右側のチームはメンバーが固定だから体力的には大変だったかも知れない。
演奏は30分ほど続いた。
真横からバチさばきを観察。
腕の動きが速いので、シャッタースピード1/1000秒に設定して高速撮影。
一人だけタイミングがずれているのを発見(>_<)
大太鼓。
小太鼓。
ドラムのタムタムのように並んでいるが、それとは違って口径はどれも同じように見える。
後ろ姿。こういうファッションを見るとどうしても「夜露死苦」「愛羅武勇」「仏恥義理」などヤンキー漢字を思い浮かべてしまう(^^ゞ 法被に書かれた文字をヒントに検索すると、このチームの名前は鼓粋若衆 板橋 轟太鼓とわかった。
こちらのチーム名は不明。バチをクルクル回したり轟太鼓とは叩き方が違うから、そのジュニアチームではないと思う。
前から見ていると太鼓があって気付きにくいものの、和太鼓はかなり大股開きの体勢で叩いている。それにしても彼らの和柄のシャツはちょっといいね。私が着たら「その筋」の人に見える危険性があるからビミョーかもーーー
ウメはあまり見応えがなかったけれど、
和太鼓のリズムを全身に浴びて身体が活性化したような気がする。
ーーー続く
wassho at 22:15|Permalink│Comments(0)│
2024年02月26日
赤塚公園を歩く
天皇誕生日の三連休で唯一晴れた2月24日に、
赤塚公園と赤塚溜池公園にウメを見に行ってきた。
公園があるのはは板橋区(地図がやや白くなっているエリア)。東京で暮らしてずいぶんと長いが、単なる通過ではなく目的を持って板橋区を訪れたのは初めてかも知れない。赤塚公園は地図に示したように2つの地区を線で結んだような形をしている。
こちらは全体が赤塚公園で、青く塗ったのが赤塚溜池公園。赤塚公園は都立、赤塚溜池公園は板橋区立の公園。それぞれ管轄の違う独立した公園とはいえ、地理感覚的には赤塚公園の一角に赤塚溜池公園があるイメージ。全部まとめて赤塚公園で利用者に不都合はないし、その方が運営的にも効率的なはず。そのあたりは何かと行政的なあれやこれやがあって無駄を生んでいるのだろう。
ウメは赤塚溜池公園と隣接する赤塚公園の城址地区の梅林にある。だから26ヘクタールある赤塚公園で用があるのは一番西側の城址地区だけ。でもこのあたりへは滅多に来ることもないので、赤塚公園の中央地区から溜池公園・城址地区まで歩いて向かうとした。
都営三田線の高島平(たかしまだいら)駅で下車。
都営とは都営地下鉄の略。東京の地下鉄は東京都が経営する都営地下鉄と、東京メトロ(正式名は東京地下鉄株式会社)の2つに分かれている。東京メトロは政府と東京都が出資していた帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が民営化して2004年にできた会社。
規模的には
都営地下鉄:4路線:総延長距離109km:利用者数1日あたり200万人
東京メトロ:9路線:総延長距離195km:利用者数1日あたり740万人
東京メトロは民営化したとはいえ、株主は営団地下鉄時代と同じく政府と東京都のみの特殊会社。なのに私鉄と見なされている不思議な存在。旧国鉄であるJR鉄道7社のうちJR東日本・東海・西日本・九州は完全民営化して国の資本は入っていない(残り3つはJR北海道・四国・貨物)。上場しているから誰でも株主になれる。でも私鉄には分類されない。ちょっと不思議な鉄道の世界。
都営三田線は高島平の4つ手前の志村坂上から地上に出て高架線路を走っている。なので改札からまっすぐ外に出ると歩道橋階段の途中。
歩道橋の上から東側の光景。
高島平といえば日本で一番大きな高島平団地。
右側に並んでいるのがそれ。
入居開始は1972年(昭和47年)で、敷地面積36.5ヘクタールにに1万170戸(賃貸8,287戸、分譲1,883戸)の住まいが供給され、東洋一のマンモス団地と唄われた。
話は逸れるが、昭和の中頃過ぎまで「東洋一」のキャッチフレーズがよく使われた。戦後の焼け野原からの復興を果たした自負心の表れだったのかな。もっとも当時はちょっと頑張れば東洋一になれたし、というか日本一になればほぼ自動的に東洋一が確定した時代。現在の日本で東洋一はどれくらいあるのか知りたいもの。
これは入居開始当時のパンフレット。
ほとんど何もないところに巨大団地が出現した様子がうかがえる。
現在の航空写真。
もう空き地はないものの、14階建てが並ぶ団地の存在感は今も大きい。
ただし人口減少や高齢化の波は高島平にも押し寄せ、入居開始当時は3万人を超えていた団地人口は現在半数近くに減少。高齢者比率も40%を超えている(日本全体では28.4%)。もちろんそれは全国各地のマンモス団地やニュータウンに共通の現象ではある。少し郊外に出ると、だんだんと日本がアカン国になっていくのを実感する(/o\)
さて歩道橋の上から西側の光景。
高島団地の前、都営三田線と平行しているのは高島通り。
道路は片側3車線で広いうえに、
歩道とは別に遊歩道まである。
歩道橋をおり遊歩道を西向きに歩いてひとつ目の交差点。
赤塚公園は左折の標識。
高島通り沿いの遊歩道はまだ続いており、こちらにも興味はあったのだが、
当初の予定通りに左折して、赤塚公園の中央広場に向かう。
両サイドに団地が並んでいる。
駅を出てから10分ほどで、
赤塚公園の中央地区に到着。
公園内のメインストリート。
左右にウメの木が少しあったがチラ見した程度。
ここの噴水はジャブジャブ池を兼ねた夏休み限定の設備らしい。
周りからも噴水がプールに注がれるなんて珍しいと思ったけれど、
どうやらこれは照明装置みたい。
噴水の上空に珍しい雲を発見。
噴水を過ぎて競技場グラウンドまで南下したら、
回れ右して、
再び西向きに進む。
高架が見えているのは首都高5号池袋線。
このまま真っ直ぐかと思いきや、
首都高をくぐって左側に出なければならなかった。
赤塚溜池公園までの細長いエリアが続く。
もっと中央へ。
この左側の小高くなった茂みの奥が気になったものの、
この日は探検せず。
二つ目の信号。
ここで信号待ちをしていると何やらいい匂いがしてきた。
周りを見回すと首都高の向こうに焼き肉屋。この距離でこれだけの匂いなら、近所の人は公害に近い匂いの強さのはずだがどうなんだろう。
現在位置。
この地図は上が南を向いている。
いい感じの道が続くとはいえ、
首都高のすぐそばだからうるさい。
どうしても左側が気になる(だから写真を撮っている)。
やはり探検してくればよかったと今更ながら後悔(/o\)
通路沿いにあったあれこれ。
このウッドデッキを越えると、
少しだけ高台になっている広場に出て、
土の地面は終了。
道案内は見当たらなかったけれど、とりあえずこちらに進む。
ここは新大宮バイパス(国道17号)と首都高5号線が合流するところ。合流といっても首都高が上、バイパスが下と同じ土地の立体利用。
これは首都高の高架。
新大宮バイパスの上を仮設か工事中かよくわからない橋で渡って、
階段を降りると、
赤塚溜池公園が見えてきた。
ピンクの色彩にテンションが上がる。
ここまで赤塚公園に入ってから約30分。
ーーー続く
赤塚公園と赤塚溜池公園にウメを見に行ってきた。
公園があるのはは板橋区(地図がやや白くなっているエリア)。東京で暮らしてずいぶんと長いが、単なる通過ではなく目的を持って板橋区を訪れたのは初めてかも知れない。赤塚公園は地図に示したように2つの地区を線で結んだような形をしている。
こちらは全体が赤塚公園で、青く塗ったのが赤塚溜池公園。赤塚公園は都立、赤塚溜池公園は板橋区立の公園。それぞれ管轄の違う独立した公園とはいえ、地理感覚的には赤塚公園の一角に赤塚溜池公園があるイメージ。全部まとめて赤塚公園で利用者に不都合はないし、その方が運営的にも効率的なはず。そのあたりは何かと行政的なあれやこれやがあって無駄を生んでいるのだろう。
ウメは赤塚溜池公園と隣接する赤塚公園の城址地区の梅林にある。だから26ヘクタールある赤塚公園で用があるのは一番西側の城址地区だけ。でもこのあたりへは滅多に来ることもないので、赤塚公園の中央地区から溜池公園・城址地区まで歩いて向かうとした。
都営三田線の高島平(たかしまだいら)駅で下車。
都営とは都営地下鉄の略。東京の地下鉄は東京都が経営する都営地下鉄と、東京メトロ(正式名は東京地下鉄株式会社)の2つに分かれている。東京メトロは政府と東京都が出資していた帝都高速度交通営団(営団地下鉄)が民営化して2004年にできた会社。
規模的には
都営地下鉄:4路線:総延長距離109km:利用者数1日あたり200万人
東京メトロ:9路線:総延長距離195km:利用者数1日あたり740万人
東京メトロは民営化したとはいえ、株主は営団地下鉄時代と同じく政府と東京都のみの特殊会社。なのに私鉄と見なされている不思議な存在。旧国鉄であるJR鉄道7社のうちJR東日本・東海・西日本・九州は完全民営化して国の資本は入っていない(残り3つはJR北海道・四国・貨物)。上場しているから誰でも株主になれる。でも私鉄には分類されない。ちょっと不思議な鉄道の世界。
都営三田線は高島平の4つ手前の志村坂上から地上に出て高架線路を走っている。なので改札からまっすぐ外に出ると歩道橋階段の途中。
歩道橋の上から東側の光景。
高島平といえば日本で一番大きな高島平団地。
右側に並んでいるのがそれ。
入居開始は1972年(昭和47年)で、敷地面積36.5ヘクタールにに1万170戸(賃貸8,287戸、分譲1,883戸)の住まいが供給され、東洋一のマンモス団地と唄われた。
話は逸れるが、昭和の中頃過ぎまで「東洋一」のキャッチフレーズがよく使われた。戦後の焼け野原からの復興を果たした自負心の表れだったのかな。もっとも当時はちょっと頑張れば東洋一になれたし、というか日本一になればほぼ自動的に東洋一が確定した時代。現在の日本で東洋一はどれくらいあるのか知りたいもの。
これは入居開始当時のパンフレット。
ほとんど何もないところに巨大団地が出現した様子がうかがえる。
現在の航空写真。
もう空き地はないものの、14階建てが並ぶ団地の存在感は今も大きい。
ただし人口減少や高齢化の波は高島平にも押し寄せ、入居開始当時は3万人を超えていた団地人口は現在半数近くに減少。高齢者比率も40%を超えている(日本全体では28.4%)。もちろんそれは全国各地のマンモス団地やニュータウンに共通の現象ではある。少し郊外に出ると、だんだんと日本がアカン国になっていくのを実感する(/o\)
さて歩道橋の上から西側の光景。
高島団地の前、都営三田線と平行しているのは高島通り。
道路は片側3車線で広いうえに、
歩道とは別に遊歩道まである。
歩道橋をおり遊歩道を西向きに歩いてひとつ目の交差点。
赤塚公園は左折の標識。
高島通り沿いの遊歩道はまだ続いており、こちらにも興味はあったのだが、
当初の予定通りに左折して、赤塚公園の中央広場に向かう。
両サイドに団地が並んでいる。
駅を出てから10分ほどで、
赤塚公園の中央地区に到着。
公園内のメインストリート。
左右にウメの木が少しあったがチラ見した程度。
ここの噴水はジャブジャブ池を兼ねた夏休み限定の設備らしい。
周りからも噴水がプールに注がれるなんて珍しいと思ったけれど、
どうやらこれは照明装置みたい。
噴水の上空に珍しい雲を発見。
噴水を過ぎて競技場グラウンドまで南下したら、
回れ右して、
再び西向きに進む。
高架が見えているのは首都高5号池袋線。
このまま真っ直ぐかと思いきや、
首都高をくぐって左側に出なければならなかった。
赤塚溜池公園までの細長いエリアが続く。
もっと中央へ。
この左側の小高くなった茂みの奥が気になったものの、
この日は探検せず。
二つ目の信号。
ここで信号待ちをしていると何やらいい匂いがしてきた。
周りを見回すと首都高の向こうに焼き肉屋。この距離でこれだけの匂いなら、近所の人は公害に近い匂いの強さのはずだがどうなんだろう。
現在位置。
この地図は上が南を向いている。
いい感じの道が続くとはいえ、
首都高のすぐそばだからうるさい。
どうしても左側が気になる(だから写真を撮っている)。
やはり探検してくればよかったと今更ながら後悔(/o\)
通路沿いにあったあれこれ。
このウッドデッキを越えると、
少しだけ高台になっている広場に出て、
土の地面は終了。
道案内は見当たらなかったけれど、とりあえずこちらに進む。
ここは新大宮バイパス(国道17号)と首都高5号線が合流するところ。合流といっても首都高が上、バイパスが下と同じ土地の立体利用。
これは首都高の高架。
新大宮バイパスの上を仮設か工事中かよくわからない橋で渡って、
階段を降りると、
赤塚溜池公園が見えてきた。
ピンクの色彩にテンションが上がる。
ここまで赤塚公園に入ってから約30分。
ーーー続く
wassho at 23:24|Permalink│Comments(0)│
2024年02月23日
2月なのに気温23.7度で林試の森の河津桜は満開
花に限らずいわゆる名所と呼ばれる場所は、数多くのところへ行きたい〜同じところには行きたくない(新しいところへ行く機会が減るから)と考えるのが私の行動パターン。
しかし九品寺の紅葉と、林試の森公園の河津桜は例外で毎年訪れているし、場合によってはシーズンに複数回のこともある。理由は単純で
九品仏:私の知る限り紅葉の鮮やかさでは河口湖に次ぐレベル。
都内ではおそらくナンバーワン。しかも自宅から近い。
林試の森公園:自宅のすぐそば。
ーーーだから。
ただ自宅のすぐそばアルアルで、あまりに近いと何かと後回しになりがち。2月20日の朝にSNSで検索すると、河津桜は既に5分咲き強まで開花が進んでいた。ただSNSにアップされるのはよく咲いている部分の写真が多いので、少しは割り引いて考える必要がある。
そして天気予報を見ると、
この日を含めて2月27日までほとんど傘マークが並んでいる。
それでどうするかーーー あれこれ考えるのも面倒なので、結局は自宅から近いのだし外出のついでにダメ元で見てきちゃえとなる(^^ゞ
いつもは奥に写っている橋の上から眺める池を横から。
橋を使わないルートでは階段になる。
上り終えると前方にピンクの景色が見えてきた。
思っていた以上に咲いている。
河津桜の植えられている芝生広場に入る。
ただし(夏でも)ここに芝生はほとんどない(^^ゞ
これは広場西側の3本。
それを抜けて右が南側の2本で、左の北側には6〜7本ある。
サクラは8分咲きで満開と呼ぶ。
これから咲くツボミもまだたくさんあって、まさにそんな状態。
この日の東京の最高気温は23.7度。群馬県高崎市では25.7度を記録し、なんと2月なのに夏日到来! ちなみに前日の最高気温は17.2度(東京)。平年なら11.5度くらいのはずで、今年の2月は相当に暖かい。
周りの人の話から聞こえてきたところによると、昨日まで5分咲きだったのに、今日の気温につられて一気に満開になったとのこと。
まずは今年もこのピンクを眺められてアリガタヤ。
この日のカメラはiPhoneなのでマクロ機能で接写撮影。
雄しべが赤いのは開花して日数が経っている花。開花して間のないのは白い。
この女の子はスマホで写真を撮っているのではなく、
上から落ちる花びらを手に持ったビニール袋に入れようとしている。
花びらを集めたいのなら地面から拾えばよさそうなものだが、そちらには目もくれない。どうやら空中で花びらをキャッチする遊びのようだ。お友達3人くらいとヒラヒラ舞う花びらを楽しそうに追いかけていた。
雲に隠れていた太陽が顔を覗かせる。
これが北側のほぼ全景。
先ほどより河津桜に明るさというか輝きが増しているのがわかるだろうか。
最高気温は23.7度だったこの日はもちろんコートなし。ジャケットも脱ぎたいくらい暖かかったのに、それからたった3日後の本日はなんと雪マーク!
そして現在の気温は2.2度。
この季節は「三寒四温」の言葉があるように昔から寒暖の差が激しいもの。それでも3日で20度もの違いはやはりおかしい。もちろん今日が寒いのではなく20日が暖かすぎた。でもそれを叫んだところで、とりあえず慣れるしかないんだよなあ。
植物も異常気象に慣れて、
いつも通りにこれからもキレイな花を咲かせてくれますように。
しかし九品寺の紅葉と、林試の森公園の河津桜は例外で毎年訪れているし、場合によってはシーズンに複数回のこともある。理由は単純で
九品仏:私の知る限り紅葉の鮮やかさでは河口湖に次ぐレベル。
都内ではおそらくナンバーワン。しかも自宅から近い。
林試の森公園:自宅のすぐそば。
ーーーだから。
ただ自宅のすぐそばアルアルで、あまりに近いと何かと後回しになりがち。2月20日の朝にSNSで検索すると、河津桜は既に5分咲き強まで開花が進んでいた。ただSNSにアップされるのはよく咲いている部分の写真が多いので、少しは割り引いて考える必要がある。
そして天気予報を見ると、
この日を含めて2月27日までほとんど傘マークが並んでいる。
それでどうするかーーー あれこれ考えるのも面倒なので、結局は自宅から近いのだし外出のついでにダメ元で見てきちゃえとなる(^^ゞ
いつもは奥に写っている橋の上から眺める池を横から。
橋を使わないルートでは階段になる。
上り終えると前方にピンクの景色が見えてきた。
思っていた以上に咲いている。
河津桜の植えられている芝生広場に入る。
ただし(夏でも)ここに芝生はほとんどない(^^ゞ
これは広場西側の3本。
それを抜けて右が南側の2本で、左の北側には6〜7本ある。
サクラは8分咲きで満開と呼ぶ。
これから咲くツボミもまだたくさんあって、まさにそんな状態。
この日の東京の最高気温は23.7度。群馬県高崎市では25.7度を記録し、なんと2月なのに夏日到来! ちなみに前日の最高気温は17.2度(東京)。平年なら11.5度くらいのはずで、今年の2月は相当に暖かい。
周りの人の話から聞こえてきたところによると、昨日まで5分咲きだったのに、今日の気温につられて一気に満開になったとのこと。
まずは今年もこのピンクを眺められてアリガタヤ。
この日のカメラはiPhoneなのでマクロ機能で接写撮影。
雄しべが赤いのは開花して日数が経っている花。開花して間のないのは白い。
この女の子はスマホで写真を撮っているのではなく、
上から落ちる花びらを手に持ったビニール袋に入れようとしている。
花びらを集めたいのなら地面から拾えばよさそうなものだが、そちらには目もくれない。どうやら空中で花びらをキャッチする遊びのようだ。お友達3人くらいとヒラヒラ舞う花びらを楽しそうに追いかけていた。
雲に隠れていた太陽が顔を覗かせる。
これが北側のほぼ全景。
先ほどより河津桜に明るさというか輝きが増しているのがわかるだろうか。
最高気温は23.7度だったこの日はもちろんコートなし。ジャケットも脱ぎたいくらい暖かかったのに、それからたった3日後の本日はなんと雪マーク!
そして現在の気温は2.2度。
この季節は「三寒四温」の言葉があるように昔から寒暖の差が激しいもの。それでも3日で20度もの違いはやはりおかしい。もちろん今日が寒いのではなく20日が暖かすぎた。でもそれを叫んだところで、とりあえず慣れるしかないんだよなあ。
植物も異常気象に慣れて、
いつも通りにこれからもキレイな花を咲かせてくれますように。
wassho at 10:04|Permalink│Comments(0)│
2024年02月21日
羽根木公園までウメ散歩 その2
晴れてはいるが空に雲多し。
青空はキレイでも太陽が雲に隠れている時間が長かった。
気象分類では空全体の雲の量が
1割以下:快晴
2割から8割:晴れ
9割以上:曇り
となる。天気予報もこの日は晴れマーク。
しかし感覚的には5割以上だったら「やや曇り」かな。
だから写真的には明るさが足りないものの、
これはこれで優しい雰囲気で素敵だと思うようにしよう。
ところでウメの花色は大別すれば白梅と紅梅に分けられる。しかし真っ赤なウメもあるもののほとんどはピンク系である。 紅(くれない べに)色とは濃い赤、鮮やかな赤、紫がかった赤ーーーなど定義は辞書によって様々。私は「赤より濃くて、その分だけ鮮やかさは控えめ」との感覚を持っている。
画面に色を表示する場合は光の三原色であるRGB数値を使う(説明は長くなるので省略)。パソコンやスマホでどれだけ正確に再現できるかはわからないけれど、参考までに赤と紅の色を設定してみた。色情報の提供先によってRGB数値が異なるので、とりあえず2つ。
いずれにせよ梅の花の色は紅色ではなく明らかにピンク系である。ピンクは日本語にすれば桃色。だから色の付いたウメは紅梅ではなく桃梅と呼ぶのが妥当。しかしそれだとモモとウメが混ざって、言葉としてややこしいから紅の単語を使ったのかなどと、いつもながらのどうでもいい話(^^ゞ
太陽はこのように雲に隠れている。
それでも、たまに雲の切れ目から顔を出す。
そうすると色彩が輝き始める。
アップで撮るにはやはり光量が必要。
肉眼で見ても断然キレイ。
メジロも見つけられた。
前回に代田富士見橋について書いたが、この羽根木公園でも富士山が眺められる。
もちろんこの日は雲だらけ(/o\)
太陽がずっと隠れだしたので梅林をブラブラしながら、
売店の出ている広場へ戻る。
行列ができているのは、
無料のゲームコーナー。
大型のスマートボールのようなものを子供がやっていた。(これは別イベントでの画像)画像はhttps://www.kouseihogo-net.jp/hogo/hogoshi/hogoshi_support/view/1593から引用
ところでこの「社会を明るくする運動」って何だ?
ざっと調べたところ、それは国民が
犯罪や非行の防止と、
犯罪や非行をした人たちの更生について理解を深め,
それぞれの立場において力を合わせて、
犯罪や非行のない安全で安心な明るい地域社会を築くための全国的な運動
ーーーとあった。
1951年から始まり今年で74年目で法務省が主唱している。主唱とは聞き慣れない言葉だが、もちろん唱えるだけでなく所管業務として予算が付いている。法務省の令和2年度行政事業レビューシートによれば予算規模は7億800万円のようだ(注:検索でヒットしたのがこれだけだったので、この理解であっているのかどうかは自信がない)。またそれとは別に、現場の活動費として住民から自治会費として徴収したり、それを地方自治体が助成したり、あるいは直接的に予算措置を執っている。
その趣旨には賛同するとして、この運動を74年間も続けてどれだけの成果があったのだろうね。小中学生を対象とした作文コンテストが有名らしいけれど。
私が子供の頃は交通事故で死亡する人が毎年1万5000人前後いて、それが日清戦争での戦死者数(2年間で1万7282人)より多いことから「交通戦争」なんて呼ばれた時代。そのせいか学校では交通標語をよく作らされた。あれも「社会を明るくする運動」の交通版のような運動の一環だったのかも知れない。
また道路のあちこちに交通標語のノボリが立ち、歩道橋には標語の横断幕が張られていた。「あんな文字を読みながら運転したら事故するよな」とよく冗談を言っていたものである。 とにかく街には交通標語があふれていた。「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などは第二次大戦中の国策標語。どうやら戦争になると世の中には標語が増えるようだ。
さて交通事故の死亡者数が最も多かったのは1970年(昭和45年)の1万6765人。2023年は2678人で約16%に減少している。
これは交通事故の発生件数と死亡者数を重ねたグラフで、興味深い現象が起きている。画像はhttps://news.yahoo.co.jp/articles/a5aa92c85ca11312736a61f8c44931d59aa347c5から引用
1990年頃まで発生件数と死亡者数は相関している。しかしそれ以降2005年あたりまでは発生件数は増えているのに死亡者数は減っている。また2000年前後の事故発生件数は死亡者数のピーク時より多く、にもかかわらず死亡者数はピーク時の半分ほどである。
これらから考えられる交通事故死亡者数が大幅に減少した大きな要因は2つ。それはクルマの安全性能向上と救命医療技術の進歩だろう。少なくとも交通標語で人々が心を入れ替えたからでは決してない。
まあそういうことなのである。「犯罪や非行」の「理解を深め」たからといって、それが減るものでもない。交通事故と犯罪・非行を同じフレームでは捉えられないとしても、行政や政治の頭のいいリーダーの人たちには、社会を明るくするためのもう少しまともな対策を考えて欲しいもの。現状はおそらく運動すること自体に意義がある状態で、運動の継続=予算付けが目的となっているように思える。
さて
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
これは白牡丹というモフモフした印象のウメで可愛かった。
シロではなくハクと読む。
混ざり合った色を楽しみましょう。
育成中の苗木。
もっと日が射さないかとの期待とは裏腹に、
こんな状況になってきたので撤収とした。
写真ではまるで夕方に見えても、まだ午後3時前。
おしまい
青空はキレイでも太陽が雲に隠れている時間が長かった。
気象分類では空全体の雲の量が
1割以下:快晴
2割から8割:晴れ
9割以上:曇り
となる。天気予報もこの日は晴れマーク。
しかし感覚的には5割以上だったら「やや曇り」かな。
だから写真的には明るさが足りないものの、
これはこれで優しい雰囲気で素敵だと思うようにしよう。
ところでウメの花色は大別すれば白梅と紅梅に分けられる。しかし真っ赤なウメもあるもののほとんどはピンク系である。 紅(くれない べに)色とは濃い赤、鮮やかな赤、紫がかった赤ーーーなど定義は辞書によって様々。私は「赤より濃くて、その分だけ鮮やかさは控えめ」との感覚を持っている。
画面に色を表示する場合は光の三原色であるRGB数値を使う(説明は長くなるので省略)。パソコンやスマホでどれだけ正確に再現できるかはわからないけれど、参考までに赤と紅の色を設定してみた。色情報の提供先によってRGB数値が異なるので、とりあえず2つ。
いずれにせよ梅の花の色は紅色ではなく明らかにピンク系である。ピンクは日本語にすれば桃色。だから色の付いたウメは紅梅ではなく桃梅と呼ぶのが妥当。しかしそれだとモモとウメが混ざって、言葉としてややこしいから紅の単語を使ったのかなどと、いつもながらのどうでもいい話(^^ゞ
太陽はこのように雲に隠れている。
それでも、たまに雲の切れ目から顔を出す。
そうすると色彩が輝き始める。
アップで撮るにはやはり光量が必要。
肉眼で見ても断然キレイ。
メジロも見つけられた。
前回に代田富士見橋について書いたが、この羽根木公園でも富士山が眺められる。
もちろんこの日は雲だらけ(/o\)
太陽がずっと隠れだしたので梅林をブラブラしながら、
売店の出ている広場へ戻る。
行列ができているのは、
無料のゲームコーナー。
大型のスマートボールのようなものを子供がやっていた。(これは別イベントでの画像)画像はhttps://www.kouseihogo-net.jp/hogo/hogoshi/hogoshi_support/view/1593から引用
ところでこの「社会を明るくする運動」って何だ?
ざっと調べたところ、それは国民が
犯罪や非行の防止と、
犯罪や非行をした人たちの更生について理解を深め,
それぞれの立場において力を合わせて、
犯罪や非行のない安全で安心な明るい地域社会を築くための全国的な運動
ーーーとあった。
1951年から始まり今年で74年目で法務省が主唱している。主唱とは聞き慣れない言葉だが、もちろん唱えるだけでなく所管業務として予算が付いている。法務省の令和2年度行政事業レビューシートによれば予算規模は7億800万円のようだ(注:検索でヒットしたのがこれだけだったので、この理解であっているのかどうかは自信がない)。またそれとは別に、現場の活動費として住民から自治会費として徴収したり、それを地方自治体が助成したり、あるいは直接的に予算措置を執っている。
その趣旨には賛同するとして、この運動を74年間も続けてどれだけの成果があったのだろうね。小中学生を対象とした作文コンテストが有名らしいけれど。
私が子供の頃は交通事故で死亡する人が毎年1万5000人前後いて、それが日清戦争での戦死者数(2年間で1万7282人)より多いことから「交通戦争」なんて呼ばれた時代。そのせいか学校では交通標語をよく作らされた。あれも「社会を明るくする運動」の交通版のような運動の一環だったのかも知れない。
また道路のあちこちに交通標語のノボリが立ち、歩道橋には標語の横断幕が張られていた。「あんな文字を読みながら運転したら事故するよな」とよく冗談を言っていたものである。 とにかく街には交通標語があふれていた。「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などは第二次大戦中の国策標語。どうやら戦争になると世の中には標語が増えるようだ。
さて交通事故の死亡者数が最も多かったのは1970年(昭和45年)の1万6765人。2023年は2678人で約16%に減少している。
これは交通事故の発生件数と死亡者数を重ねたグラフで、興味深い現象が起きている。画像はhttps://news.yahoo.co.jp/articles/a5aa92c85ca11312736a61f8c44931d59aa347c5から引用
1990年頃まで発生件数と死亡者数は相関している。しかしそれ以降2005年あたりまでは発生件数は増えているのに死亡者数は減っている。また2000年前後の事故発生件数は死亡者数のピーク時より多く、にもかかわらず死亡者数はピーク時の半分ほどである。
これらから考えられる交通事故死亡者数が大幅に減少した大きな要因は2つ。それはクルマの安全性能向上と救命医療技術の進歩だろう。少なくとも交通標語で人々が心を入れ替えたからでは決してない。
まあそういうことなのである。「犯罪や非行」の「理解を深め」たからといって、それが減るものでもない。交通事故と犯罪・非行を同じフレームでは捉えられないとしても、行政や政治の頭のいいリーダーの人たちには、社会を明るくするためのもう少しまともな対策を考えて欲しいもの。現状はおそらく運動すること自体に意義がある状態で、運動の継続=予算付けが目的となっているように思える。
さて
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
これは白牡丹というモフモフした印象のウメで可愛かった。
シロではなくハクと読む。
混ざり合った色を楽しみましょう。
育成中の苗木。
もっと日が射さないかとの期待とは裏腹に、
こんな状況になってきたので撤収とした。
写真ではまるで夕方に見えても、まだ午後3時前。
おしまい
wassho at 22:52|Permalink│Comments(0)│
2024年02月20日
羽根木公園までウメ散歩
大きな梅林のある世田谷区立の羽根木公園。2021年に訪れてブログも書いた。いろいろなところへ行きたい=同じ場所へはあまり行きたくないのであるが、少し遠いものの散歩圏内なので、これは名所巡りではなく散歩なのだと思うことにして2月18日にウメを見てきた。
自宅からの方角だけを頭に入れて、適当に歩くと小田急線の世田谷代田(だいた)駅に出た。羽根木公園の最寄り駅はひとつ先の梅ヶ丘。
公園はこの先。
この橋の下は、
環七通り。
橋の名前は代田富士見橋。
山梨日日新聞社の富士山NETによると、東京には富士見と付く地名が72カ所もあるらしい。これは47都道府県でトップ。うち町名になっているのは6カ所。富士見坂と名付けられた道路が23カ所。駅名が3カ所。ウィキペディア調べで富士見橋は8カ所だったが、この橋は含まれていなかったので少なくとも9カ所はある。
静岡や山梨はどこからでも富士山が見えるのだから、そんな地名はつけないかと思いきや、富士見の町名が静岡で4カ所、山梨で2カ所あった。
代田富士見橋に話を戻すと、富士見の地名であってもビルが建ったりしてもう富士山が見えないところが多い。しかしここは今でも空気が澄んでいる日には富士山が見える。そして駅とこの橋は一直線上にある。というわけで世田谷代田駅は改札から富士山を望めるのがチョコッと有名。
その写真はここをクリック
代田富士見橋を渡って直進。
左に見えているのは東京農大の世田谷代田キャンパス。キャンパスといっても1階に農大のアンテナショップなどの店舗が入り、2階が市民向けのオープンカレッジと呼ぶセミナー室となっている建物だけ。キャンパスと聞けば寺社の境内と同じで広い敷地をイメージしてしまう。なおここの敷地は667平米、建物の延べ床面積は420平米。
まあ大学も新しい試みにチャレンジしないと生き残れない時代。ところで東京農大(東京農業大学)と東京農工大がややこしいけれど、前者が私立で後者が国立。大根踊りをやるのは東京農大ね。
キャンパスの先に広場がある。これは世田谷区立の代田富士356(みごろ)広場。
名前が3と数字だから富士見地名にカウントはビミョー。面積は640平米。
広場とは都市公園法に基づく公園の分類のひとつみたい。公園との具体的な違いはよくわからず。またここは小田急線のトンネルの上部に造られている。
したがってフェンスの向こうは線路。ここ世田谷代田駅の手前〜下北沢駅〜東北沢駅の先まで小田急線は地下を通っている。
当然ながら、ここでは条件がよければ富士山を背景に電車が走るわけで、
それを狙って鉄ちゃんは写真を撮りにに来るのかな。
東京農大のキャンパスの前は広い歩道だったのに、代田富士356広場を出るといきなり左側に路肩すらなくてビックリする。けっこうクルマが通るのでなかなか右側に渡りにくい。
5分ほど進むと、
羽根木公園に到着。
ここは一番南東の出入り口。
中に入る。
坂を少し上った右側に羽根木プレーパーク。
プレーパークって何?という人は、それをテーマに書いた以前のブログを読んでみて。
子供たちが生き生きと遊んでいてその元気な熱量に圧倒される。よきことかな。
公園の中で火をおこせるのはプレーパークならでは。
ガンバレ!
ウメを見に行きましょう。
でも園芸店の出店があったのでウロウロジロジロ。
ルピナスは5月頃に咲く花なのに、
どうやって育てたのだろう。
♪♪キンカン塗って また塗って〜とよくCMが流れていたので、子供の頃はキンカンは薬の名前だと思っていた。皮ごと生で食べられるらしいけれど、甘露煮以外は食べたことがない。そのうちトライしよう。
サボテンと多肉植物。サボテンはトゲがある、多肉植物にはトゲがないとの分類は不正確。しかし眺めている程度ならその分類で充分。
盆栽も少し興味がある。しかし水やりが毎日必要で、さらに夏は1日2回!
私には無理と諦めている。
黄梅(おうばい)はジャスミンの仲間。これはモクセイ科ソケイ属で、バラ科サクラ属のウメとは全くの別物。しかしウメに黄色はないので各梅園は黄梅もたくさん植えて欲しい。
福寿草も春の訪れを感じさせる花。
黄色い花を見るとそう思うのは、子供の頃のタンポポの影響か?
少し離れたところに別の出店。
こちらはわりと普通の品揃え。
せたがや梅まつり開催中なので公園上部の広場は屋台も出て大賑わい。
ちなみに2021年に訪れときはコロナでイベントは中止だった(/o\)
このエリアにも何本か梅があるものの、
メインはこの下の傾斜地。
ただこの日は雲が多くーーー
ーーー続く
自宅からの方角だけを頭に入れて、適当に歩くと小田急線の世田谷代田(だいた)駅に出た。羽根木公園の最寄り駅はひとつ先の梅ヶ丘。
公園はこの先。
この橋の下は、
環七通り。
橋の名前は代田富士見橋。
山梨日日新聞社の富士山NETによると、東京には富士見と付く地名が72カ所もあるらしい。これは47都道府県でトップ。うち町名になっているのは6カ所。富士見坂と名付けられた道路が23カ所。駅名が3カ所。ウィキペディア調べで富士見橋は8カ所だったが、この橋は含まれていなかったので少なくとも9カ所はある。
静岡や山梨はどこからでも富士山が見えるのだから、そんな地名はつけないかと思いきや、富士見の町名が静岡で4カ所、山梨で2カ所あった。
代田富士見橋に話を戻すと、富士見の地名であってもビルが建ったりしてもう富士山が見えないところが多い。しかしここは今でも空気が澄んでいる日には富士山が見える。そして駅とこの橋は一直線上にある。というわけで世田谷代田駅は改札から富士山を望めるのがチョコッと有名。
その写真はここをクリック
代田富士見橋を渡って直進。
左に見えているのは東京農大の世田谷代田キャンパス。キャンパスといっても1階に農大のアンテナショップなどの店舗が入り、2階が市民向けのオープンカレッジと呼ぶセミナー室となっている建物だけ。キャンパスと聞けば寺社の境内と同じで広い敷地をイメージしてしまう。なおここの敷地は667平米、建物の延べ床面積は420平米。
まあ大学も新しい試みにチャレンジしないと生き残れない時代。ところで東京農大(東京農業大学)と東京農工大がややこしいけれど、前者が私立で後者が国立。大根踊りをやるのは東京農大ね。
キャンパスの先に広場がある。これは世田谷区立の代田富士356(みごろ)広場。
名前が3と数字だから富士見地名にカウントはビミョー。面積は640平米。
広場とは都市公園法に基づく公園の分類のひとつみたい。公園との具体的な違いはよくわからず。またここは小田急線のトンネルの上部に造られている。
したがってフェンスの向こうは線路。ここ世田谷代田駅の手前〜下北沢駅〜東北沢駅の先まで小田急線は地下を通っている。
当然ながら、ここでは条件がよければ富士山を背景に電車が走るわけで、
それを狙って鉄ちゃんは写真を撮りにに来るのかな。
東京農大のキャンパスの前は広い歩道だったのに、代田富士356広場を出るといきなり左側に路肩すらなくてビックリする。けっこうクルマが通るのでなかなか右側に渡りにくい。
5分ほど進むと、
羽根木公園に到着。
ここは一番南東の出入り口。
中に入る。
坂を少し上った右側に羽根木プレーパーク。
プレーパークって何?という人は、それをテーマに書いた以前のブログを読んでみて。
子供たちが生き生きと遊んでいてその元気な熱量に圧倒される。よきことかな。
公園の中で火をおこせるのはプレーパークならでは。
ガンバレ!
ウメを見に行きましょう。
でも園芸店の出店があったのでウロウロジロジロ。
ルピナスは5月頃に咲く花なのに、
どうやって育てたのだろう。
♪♪キンカン塗って また塗って〜とよくCMが流れていたので、子供の頃はキンカンは薬の名前だと思っていた。皮ごと生で食べられるらしいけれど、甘露煮以外は食べたことがない。そのうちトライしよう。
サボテンと多肉植物。サボテンはトゲがある、多肉植物にはトゲがないとの分類は不正確。しかし眺めている程度ならその分類で充分。
盆栽も少し興味がある。しかし水やりが毎日必要で、さらに夏は1日2回!
私には無理と諦めている。
黄梅(おうばい)はジャスミンの仲間。これはモクセイ科ソケイ属で、バラ科サクラ属のウメとは全くの別物。しかしウメに黄色はないので各梅園は黄梅もたくさん植えて欲しい。
福寿草も春の訪れを感じさせる花。
黄色い花を見るとそう思うのは、子供の頃のタンポポの影響か?
少し離れたところに別の出店。
こちらはわりと普通の品揃え。
せたがや梅まつり開催中なので公園上部の広場は屋台も出て大賑わい。
ちなみに2021年に訪れときはコロナでイベントは中止だった(/o\)
このエリアにも何本か梅があるものの、
メインはこの下の傾斜地。
ただこの日は雲が多くーーー
ーーー続く
wassho at 20:13|Permalink│Comments(0)│
2024年02月15日
善福寺川緑地&和田堀公園 その2
善福寺川緑地のヒコーキ広場を過ぎたあたり。
標識等はなかったものの、
既に境界線を越えて和田堀公園側にいると思われる。
しばらく進むと手作り感があふれ出ているお店が並んでいた。
その近くにこの公園の名前の由来である和田堀池がある。
落ち葉が水面を覆っていて景観ワルし。
水面が見えるところでもバエない風景(/o\)
元々この池は昭和30年代中頃(1960年頃)に善福寺川の氾濫対策の調節池として人工的に掘られたもの。その後に周辺を整備し1964年(昭和39年)に都立公園として開園。また同じく都立公園である善福寺川緑地の開園も同時期。つまり両者は一体として開発され、場所も同じ杉並区内にある。なのにどうして別々の公園としたのだろうか。ネットで少し調べた程度では手がかりすら得られず。
和田堀池を過ぎたところにもお店があった。
なにゆえ巨大なゴリラ?
善福寺川の左岸沿いに出る。
この写真の少し上流側に大きな望遠レンズでカメラを構えている人が数名いた。和田堀公園はバードウォッチングができる場所として有名で、この時はどうやらカワセミがいたみたい。
「オスのカワセミが飛んでいる」なんて声を掛け合っている。しかし私のズームレンズなんて肉眼とたいして変わらないのでまったく見つけられず。
それで諦めて歩き出したら、この場所で下流から水面近くをカワセミが飛んできた。
生まれて初めてカワセミを目撃!!!
ものすごいスピードだったのでカメラを向ける余裕もなし。向けたところでおそらくピンボケになったと思う。でも小さな鳥だが確かに青い姿をこの目で見た。一瞬のことで水辺の宝石と呼ばれるその美しさまではわからなかったとはいえ、この1月27日は私のカワセミ記念日になったのだ\(^o^)/
カワセミは撮れなかったので、じっとしているカモでも(^^ゞ
この野球場は洪水対策の調節池を兼ねている。
和田堀池はもう調節池として使われていないようで、この6号以外に現在2号と3号の調節池がある。1号が和田堀池だったとして、どうして4と5号がないのだ?
なお洪水対策の似たような設備として調整池がある。さらにそれぞれ池の読み方が、各地の施設によって「いけ」「ち」と異なりややこしい。
調節池:川からあふれる水を一時的に貯める。遊水池ともいう。
調整池:川に流れ込む水を一時的に貯める。こちらは調整「地」ともいう。
行政と土木業界はもっとわかりやすいネーミングを考えるべき。
この野球場で気になったのは洪水対策機能よりも、梅里中央公園のブログでも書いたタワーではなく電柱型で、しかも白く塗られている高圧送電線。
このタイプはこの日に初めて見た。調べてみるとこれは景観に配慮した「美化鉄柱」あるいは「モノポール鉄塔」と呼ばれる種類らしい。送電線もいろいろと進化しているんだね。この日はカワセミに美化鉄柱と、2つも初物を見られてメデタイ?
さらに進んでサザンカを発見。
その先にはウメが咲いていた。
同じ場所、同じ時刻に撮っているのに背景の空色が異なるのが不思議。
下の青が濃い方が写真としてキレイではある。しかし実際は上の水色よりもっと空の色は薄いわけでーーー。他の景色は見た目通りなのに、デジカメはどうして空だけを色濃く写すのだろう。青空を背景に花を撮るのは好きだけれど、最近はちょっとこの色を不自然に感じる。
川沿いを歩けない区間が少しあって、
住宅地を通り抜けた後に、
再び左岸沿いへ。
この付近は和田堀公園の東の外れ。
そして、たぶんこの武蔵野橋が終端。
善福寺川緑地のスタート地点からここまで、つまり善福寺川緑地の端から和田堀公園の端まで歩いて1時間半ほどだった。
武蔵野橋の先に謎の構造物。
上流側と下流側をズームすると。
魚道のようにも見えるが、魚道は川を堰き止めた場所の横をサカナがすり抜けられるようにした設計。この上流側と下流側の間には何もない。言ってみれば川幅を柵で区切っただけ。その機能や目的がよくわからず。
次の紅葉橋で左岸は行き止まりになっていた。
橋の上から上流方向を振り返って。
奥に見えているのは武蔵野橋との間にある熊野橋。
もう周りに公園の雰囲気はなく川沿いの住宅街。
紅葉橋の少し先で善福寺川とお別れ。
そしてこんな路地に入り、
花の咲いていないフラワージャングル(^^ゞ を横目で見ながら、
坂を上り、
この先の信号を右折。
今度は坂を下って、
やってきたのは神田川。
近くを流れているから、ついでに見ておこうかと。
2つの川の位置関係。
ピンクの破線が善福寺川から離れて神田川へ向かった道順。
善福寺川はこの先で神田川と合流する全長10.5kmの短い川。そのうち4.2kmが善福寺川緑地と和田堀公園の中を流れている。
神田川は井の頭公園が源流。
善福寺川の次は新宿区で妙正寺川と合流し、高田馬場、早稲田、飯田橋と流れ、小石川で日本橋川に分流。その後はお茶の水、秋葉原を通って両国橋で隅田川に注いでいる。
ちなみに南こうせつが ♪♪あなたはもう忘れたかしら〜 と唄ったのは、
早稲田あたりの神田川の情景らしい。
神田川を少し歩いたら、
環七に出る。
ここで本日の川沿い散歩は終了。
2つの公園を較べると歩いて楽しいのは善福寺川緑地。公式ホームページによればサクラも和田堀公園の280本に対して善福寺川緑地が400本と多い。でももし春になってサクラを見に来たら、カワセミも期待して和田堀公園まで歩くんだろうな(^^ゞ
おしまい
標識等はなかったものの、
既に境界線を越えて和田堀公園側にいると思われる。
しばらく進むと手作り感があふれ出ているお店が並んでいた。
その近くにこの公園の名前の由来である和田堀池がある。
落ち葉が水面を覆っていて景観ワルし。
水面が見えるところでもバエない風景(/o\)
元々この池は昭和30年代中頃(1960年頃)に善福寺川の氾濫対策の調節池として人工的に掘られたもの。その後に周辺を整備し1964年(昭和39年)に都立公園として開園。また同じく都立公園である善福寺川緑地の開園も同時期。つまり両者は一体として開発され、場所も同じ杉並区内にある。なのにどうして別々の公園としたのだろうか。ネットで少し調べた程度では手がかりすら得られず。
和田堀池を過ぎたところにもお店があった。
なにゆえ巨大なゴリラ?
善福寺川の左岸沿いに出る。
この写真の少し上流側に大きな望遠レンズでカメラを構えている人が数名いた。和田堀公園はバードウォッチングができる場所として有名で、この時はどうやらカワセミがいたみたい。
「オスのカワセミが飛んでいる」なんて声を掛け合っている。しかし私のズームレンズなんて肉眼とたいして変わらないのでまったく見つけられず。
それで諦めて歩き出したら、この場所で下流から水面近くをカワセミが飛んできた。
生まれて初めてカワセミを目撃!!!
ものすごいスピードだったのでカメラを向ける余裕もなし。向けたところでおそらくピンボケになったと思う。でも小さな鳥だが確かに青い姿をこの目で見た。一瞬のことで水辺の宝石と呼ばれるその美しさまではわからなかったとはいえ、この1月27日は私のカワセミ記念日になったのだ\(^o^)/
カワセミは撮れなかったので、じっとしているカモでも(^^ゞ
この野球場は洪水対策の調節池を兼ねている。
和田堀池はもう調節池として使われていないようで、この6号以外に現在2号と3号の調節池がある。1号が和田堀池だったとして、どうして4と5号がないのだ?
なお洪水対策の似たような設備として調整池がある。さらにそれぞれ池の読み方が、各地の施設によって「いけ」「ち」と異なりややこしい。
調節池:川からあふれる水を一時的に貯める。遊水池ともいう。
調整池:川に流れ込む水を一時的に貯める。こちらは調整「地」ともいう。
行政と土木業界はもっとわかりやすいネーミングを考えるべき。
この野球場で気になったのは洪水対策機能よりも、梅里中央公園のブログでも書いたタワーではなく電柱型で、しかも白く塗られている高圧送電線。
このタイプはこの日に初めて見た。調べてみるとこれは景観に配慮した「美化鉄柱」あるいは「モノポール鉄塔」と呼ばれる種類らしい。送電線もいろいろと進化しているんだね。この日はカワセミに美化鉄柱と、2つも初物を見られてメデタイ?
さらに進んでサザンカを発見。
その先にはウメが咲いていた。
同じ場所、同じ時刻に撮っているのに背景の空色が異なるのが不思議。
下の青が濃い方が写真としてキレイではある。しかし実際は上の水色よりもっと空の色は薄いわけでーーー。他の景色は見た目通りなのに、デジカメはどうして空だけを色濃く写すのだろう。青空を背景に花を撮るのは好きだけれど、最近はちょっとこの色を不自然に感じる。
川沿いを歩けない区間が少しあって、
住宅地を通り抜けた後に、
再び左岸沿いへ。
この付近は和田堀公園の東の外れ。
そして、たぶんこの武蔵野橋が終端。
善福寺川緑地のスタート地点からここまで、つまり善福寺川緑地の端から和田堀公園の端まで歩いて1時間半ほどだった。
武蔵野橋の先に謎の構造物。
上流側と下流側をズームすると。
魚道のようにも見えるが、魚道は川を堰き止めた場所の横をサカナがすり抜けられるようにした設計。この上流側と下流側の間には何もない。言ってみれば川幅を柵で区切っただけ。その機能や目的がよくわからず。
次の紅葉橋で左岸は行き止まりになっていた。
橋の上から上流方向を振り返って。
奥に見えているのは武蔵野橋との間にある熊野橋。
もう周りに公園の雰囲気はなく川沿いの住宅街。
紅葉橋の少し先で善福寺川とお別れ。
そしてこんな路地に入り、
花の咲いていないフラワージャングル(^^ゞ を横目で見ながら、
坂を上り、
この先の信号を右折。
今度は坂を下って、
やってきたのは神田川。
近くを流れているから、ついでに見ておこうかと。
2つの川の位置関係。
ピンクの破線が善福寺川から離れて神田川へ向かった道順。
善福寺川はこの先で神田川と合流する全長10.5kmの短い川。そのうち4.2kmが善福寺川緑地と和田堀公園の中を流れている。
神田川は井の頭公園が源流。
善福寺川の次は新宿区で妙正寺川と合流し、高田馬場、早稲田、飯田橋と流れ、小石川で日本橋川に分流。その後はお茶の水、秋葉原を通って両国橋で隅田川に注いでいる。
ちなみに南こうせつが ♪♪あなたはもう忘れたかしら〜 と唄ったのは、
早稲田あたりの神田川の情景らしい。
神田川を少し歩いたら、
環七に出る。
ここで本日の川沿い散歩は終了。
2つの公園を較べると歩いて楽しいのは善福寺川緑地。公式ホームページによればサクラも和田堀公園の280本に対して善福寺川緑地が400本と多い。でももし春になってサクラを見に来たら、カワセミも期待して和田堀公園まで歩くんだろうな(^^ゞ
おしまい
wassho at 19:47|Permalink│Comments(0)│
2024年02月05日
梅里中央公園のロウバイ その2
公園西側のロウバイを見たあとは滑り台の右奥にある通路へ。
建物が迫っていて日当たりが悪いけれど、ここが公園南側。
上の写真にもロウバイの木が数本ほど写っているものの、
ロウバイの黄色くて小さい花は地面と同系色になって目立たない。
アップで撮ってあげましょう。
通路の突き当たりにはウメが咲いていた。
なかなかの見応え。
ウメが咲いているのを見るとなぜか元気が出る。
他にごく薄いピンクと白で3種類。
白とピンクのツーショット。
白とロウバイ。
でもやっぱりロウバイが控えめになってしまう。
東側通路は片側がロウバイ並木。
振り返ってウメの咲いている方向。
ロウバイ並木の中心を「抜いて」、
ロウバイが咲きあふれている写真にしたかったのだがーーー
もっと倍率の高いズームレンズで遠くから撮らないと無理みたい。
それは諦めて、
クンクンしながら青空背景のロウバイを満喫する。
何度も書くけれど、
こういうアングルだとロウバイはまったく冴えない。
サザンカも見落とさずに。
ロウバイ並木の先にあったのは区立の集会所。
よく見ると杉並の「杉」が自販機で隠れている。
これで北西南東の順に公園をぐるっと回ったことになる。
見逃したロウバイはないかともう1周。
こんな小さなロウバイを見つけた。
背は低いが幹はけっこう太い。おそらく台木に接ぎ木する育て方。
「梅里中央公園は隠れたロウバイの名所」とネットで探し当ててやってきたわけだが、基本的に普通の公園で名所というような風情はない。しかしロウバイの数はそこそこあって巡り歩く楽しさはある。数えはしなかったが40〜50本といったところ。
ただロウバイの木はどれもそれほど大きくない。まだ植え始めてから日が浅いのかな。あと10年ほどすれば東側通路なんかは、こんもりとしたロウバイ並木になりそうな気がする。ただ問題は、長生きしてその姿を見られるかどうか(^^ゞ
最後にロウバイをバエさせてくれた青空を見上る。
そして梅里中央公園を後にして、
この近くの前から訪れたかった場所に向かう。
その話はいずれまた。
おしまい
建物が迫っていて日当たりが悪いけれど、ここが公園南側。
上の写真にもロウバイの木が数本ほど写っているものの、
ロウバイの黄色くて小さい花は地面と同系色になって目立たない。
アップで撮ってあげましょう。
通路の突き当たりにはウメが咲いていた。
なかなかの見応え。
ウメが咲いているのを見るとなぜか元気が出る。
他にごく薄いピンクと白で3種類。
白とピンクのツーショット。
白とロウバイ。
でもやっぱりロウバイが控えめになってしまう。
東側通路は片側がロウバイ並木。
振り返ってウメの咲いている方向。
ロウバイ並木の中心を「抜いて」、
ロウバイが咲きあふれている写真にしたかったのだがーーー
もっと倍率の高いズームレンズで遠くから撮らないと無理みたい。
それは諦めて、
クンクンしながら青空背景のロウバイを満喫する。
何度も書くけれど、
こういうアングルだとロウバイはまったく冴えない。
サザンカも見落とさずに。
ロウバイ並木の先にあったのは区立の集会所。
よく見ると杉並の「杉」が自販機で隠れている。
これで北西南東の順に公園をぐるっと回ったことになる。
見逃したロウバイはないかともう1周。
こんな小さなロウバイを見つけた。
背は低いが幹はけっこう太い。おそらく台木に接ぎ木する育て方。
「梅里中央公園は隠れたロウバイの名所」とネットで探し当ててやってきたわけだが、基本的に普通の公園で名所というような風情はない。しかしロウバイの数はそこそこあって巡り歩く楽しさはある。数えはしなかったが40〜50本といったところ。
ただロウバイの木はどれもそれほど大きくない。まだ植え始めてから日が浅いのかな。あと10年ほどすれば東側通路なんかは、こんもりとしたロウバイ並木になりそうな気がする。ただ問題は、長生きしてその姿を見られるかどうか(^^ゞ
最後にロウバイをバエさせてくれた青空を見上る。
そして梅里中央公園を後にして、
この近くの前から訪れたかった場所に向かう。
その話はいずれまた。
おしまい
wassho at 20:23|Permalink│Comments(0)│
2024年02月03日
梅里中央公園のロウバイ
先日にロウバイを見に出かけた港北ニュータウンにある早渕公園。ロウバイの木は立派で数も多かった。しかし竹藪に囲まれた窪地に植えられており、まったくその美しさを楽しむことができない。どうしてそんな場所に植えるのか「責任者出てこい!」のレベル。今でもちょっと腹が立っている。
このままで今年のロウバイ花見は終われないと他の場所を探す。しかしロウバイをたくさん植えているところは少ない。それほど遠くなくて名前の通ったところは既に訪れている(同じ場所には行きたくない性格)。それでようやく見つけたのが杉並区にある梅里中央公園。どうやら隠れた名所らしい。
地図で少し白くなっているのが杉並区。
梅里は杉並区の地名。まるで昔はウメがたくさんあったかのような名前である。しかし実際は1968年(昭和43年)の町名統合の際に堀之内となるはずだったが、堀之内は斎場があるのでイメージが悪いと住民が反対。青梅街道に面している地区なので梅里になったとのいきさつ。
訪れたのは1月27日。
地下鉄丸ノ内線の新高円寺で下車。
ところで丸ノ内線は変わった路線の形になっている。
これがクセモノ。さらに途中で分岐している。
東京に住んで、ごくたまにしか丸ノ内線に乗らない人しかわかってもらえないと思うが、丸ノ内線では行きたい駅が池袋方向なのか、荻窪方向なのかでまず迷う。池袋と荻窪あるいはその手前にある新宿なんて東京全体から見たら似たような方角だから。例えば赤坂見附から銀座に行くのに「池袋行き」に乗るなんてピンとくる?
この日は新宿三丁目から乗車。池袋方向に間違いはしなかったものの、方南町行きに乗ってしまう。でも途中で分岐しているのを思い出し分岐手前の中野坂上で下車。荻窪行きは別のホームかと思ったら、同じホームに荻窪行きと方南町行きの電車が入るとわかり、無駄に階段を上り下りしてしまった(/o\)
地方から東京出張などで丸ノ内線を利用する場合は、事前によく調べておきましょう。ちなみに東京駅前のオフィス街は「丸の内」なのに地下鉄はなぜか「丸ノ内線」。そして丸ノ内線に丸の内駅はないよ。
駅から地上に上がると青梅街道。
しばらく歩くとこんなのが目に入る。
いわゆる高圧送電線だと思うけれど、タワーじゃなくて電柱タイプは初めて見る。しかも真っ白。よくあるタワータイプより高さはかなり低いように思う。建てるのに必要な面積も少なくて済みそうなので建物密集地タイプなのかも知れない。
青梅街道を左折して住宅街に入る。
梅里中央公園に到着。ここまで駅から15分程度。
もう奥にロウバイが見えてテンションが上がる。
公園の雰囲気。
面積は約0.6ヘクタールで、ここに写っている範囲で全体の3/5くらい。
先ほど見えていたロウバイ。
早渕公園と違って、とりあえずロウバイに陽の光が当たっていてひと安心。
この通路は公園の北側。
いわゆる枝振りがあまりよくなかったので、公園を横切って西側に移動。
こちらの方が本数も多いしサイズも少し大きい。
濃い黄色とやや薄い黄色。
これは花の中心が赤紫だから和ロウバイ(単にロウバイともいう)。
このタイプはこれ1本しかなかった
中心が赤紫にならないロウバイには、ソシン(素心)ロウバイと満月、福寿などの品種がある。その違いはとても微妙でよく理解していない。梅里中央公園のロウバイは花の形が丸いから福寿かなあ。でもまったく自信なし。
まあそんなにたいした違いじゃないから、
ロウバイはロウバイということで楽しみましょう(^^ゞ
これは色が薄くて、
こちらは色が濃い。
この違いは品種ではなく個体差だと思う。
少し離れたところのロウバイには何やら黒いものがーーー
近づいてみると(>_<)
これはロウバイの実。
花が枯れたあと3月くらいに実をつけ、秋にこんなミノムシのような姿になる。つまり昨シーズンにできたもの。次の花を咲かせているのにどうして地上に落ちていないのだろう。いずれにせよ花を見るにはジャマで、ロウバイの自生を促すわけでもないのだから、公園を管理する人は取り除いておいて欲しい。
いつも書いているようにロウバイは黄色くて小さい花で、地面や周りの景色と同化してしまう。それゆえ写真に撮るのはもちろん、肉眼でも青空を背景にしないとバエない。窪地に植えられていた早渕公園ではそれが叶わなかったが、この公園では先ほどの写真のように青空と一緒に眺められて満足。
ーーー続く
このままで今年のロウバイ花見は終われないと他の場所を探す。しかしロウバイをたくさん植えているところは少ない。それほど遠くなくて名前の通ったところは既に訪れている(同じ場所には行きたくない性格)。それでようやく見つけたのが杉並区にある梅里中央公園。どうやら隠れた名所らしい。
地図で少し白くなっているのが杉並区。
梅里は杉並区の地名。まるで昔はウメがたくさんあったかのような名前である。しかし実際は1968年(昭和43年)の町名統合の際に堀之内となるはずだったが、堀之内は斎場があるのでイメージが悪いと住民が反対。青梅街道に面している地区なので梅里になったとのいきさつ。
訪れたのは1月27日。
地下鉄丸ノ内線の新高円寺で下車。
ところで丸ノ内線は変わった路線の形になっている。
これがクセモノ。さらに途中で分岐している。
東京に住んで、ごくたまにしか丸ノ内線に乗らない人しかわかってもらえないと思うが、丸ノ内線では行きたい駅が池袋方向なのか、荻窪方向なのかでまず迷う。池袋と荻窪あるいはその手前にある新宿なんて東京全体から見たら似たような方角だから。例えば赤坂見附から銀座に行くのに「池袋行き」に乗るなんてピンとくる?
この日は新宿三丁目から乗車。池袋方向に間違いはしなかったものの、方南町行きに乗ってしまう。でも途中で分岐しているのを思い出し分岐手前の中野坂上で下車。荻窪行きは別のホームかと思ったら、同じホームに荻窪行きと方南町行きの電車が入るとわかり、無駄に階段を上り下りしてしまった(/o\)
地方から東京出張などで丸ノ内線を利用する場合は、事前によく調べておきましょう。ちなみに東京駅前のオフィス街は「丸の内」なのに地下鉄はなぜか「丸ノ内線」。そして丸ノ内線に丸の内駅はないよ。
駅から地上に上がると青梅街道。
しばらく歩くとこんなのが目に入る。
いわゆる高圧送電線だと思うけれど、タワーじゃなくて電柱タイプは初めて見る。しかも真っ白。よくあるタワータイプより高さはかなり低いように思う。建てるのに必要な面積も少なくて済みそうなので建物密集地タイプなのかも知れない。
青梅街道を左折して住宅街に入る。
梅里中央公園に到着。ここまで駅から15分程度。
もう奥にロウバイが見えてテンションが上がる。
公園の雰囲気。
面積は約0.6ヘクタールで、ここに写っている範囲で全体の3/5くらい。
先ほど見えていたロウバイ。
早渕公園と違って、とりあえずロウバイに陽の光が当たっていてひと安心。
この通路は公園の北側。
いわゆる枝振りがあまりよくなかったので、公園を横切って西側に移動。
こちらの方が本数も多いしサイズも少し大きい。
濃い黄色とやや薄い黄色。
これは花の中心が赤紫だから和ロウバイ(単にロウバイともいう)。
このタイプはこれ1本しかなかった
中心が赤紫にならないロウバイには、ソシン(素心)ロウバイと満月、福寿などの品種がある。その違いはとても微妙でよく理解していない。梅里中央公園のロウバイは花の形が丸いから福寿かなあ。でもまったく自信なし。
まあそんなにたいした違いじゃないから、
ロウバイはロウバイということで楽しみましょう(^^ゞ
これは色が薄くて、
こちらは色が濃い。
この違いは品種ではなく個体差だと思う。
少し離れたところのロウバイには何やら黒いものがーーー
近づいてみると(>_<)
これはロウバイの実。
花が枯れたあと3月くらいに実をつけ、秋にこんなミノムシのような姿になる。つまり昨シーズンにできたもの。次の花を咲かせているのにどうして地上に落ちていないのだろう。いずれにせよ花を見るにはジャマで、ロウバイの自生を促すわけでもないのだから、公園を管理する人は取り除いておいて欲しい。
いつも書いているようにロウバイは黄色くて小さい花で、地面や周りの景色と同化してしまう。それゆえ写真に撮るのはもちろん、肉眼でも青空を背景にしないとバエない。窪地に植えられていた早渕公園ではそれが叶わなかったが、この公園では先ほどの写真のように青空と一緒に眺められて満足。
ーーー続く
wassho at 19:42|Permalink│Comments(0)│
2024年01月22日
早渕公園のロウバイ その2
竹林の中に見つけた早渕公園のロウバイ。
それを一目見ただけでどうして「これはあかんやつや(/o\) 」と思ったのか。
まず第一は地形的にも窪地だし、
さらに周りを高い竹や木で取り囲まれているから。
ロウバイは黄色の小さな花である。つまり色味としては土と同じで、普通に眺めても地面と同化してあまり美しくない。だから背景に青空が必要なのである。これは以前に撮った写真を組み合わせた参考例。青空がないと単に写真映えしないだけでなく肉眼で眺めても楽しさは半減する。
そして早渕公園のロウバイエリアはこんな状況。
公園は3.6ヘクタールの広さがあるのに、そして前回のブログで紹介したように日当たりのいい場所もたくさんあるのに、どうしてこんな場所にロウバイを植えたのか。この公園関係者の造園センスを疑うーーーというか最低(怒)
第二はロウバイの葉がまだ落ちていなかったから。
ロウバイは開花した時点では葉が残っている。それがいつ落ちるのかよく知らないのだが、黄色くなった葉が残っていると、花と同じ色なので花がよく見えない残念な状態になる。これ ↑ にも花がたくさん咲いているのに、写真を拡大しないと葉しか見えない。
この段階では既に葉としての植物的な機能は失っており、枝から生えているというより枝にくっついているだけ。指で触っただけで枝からハラリと離れて落ちていく。今までこんなにたくさんのロウバイの葉を見たことはないから、ロウバイの名所では花が咲いたら木を揺すったりして葉を落とす手入れをしているのかも知れない。
花数は多いのに、
こういうアングルからだとテンションが上がらない。
また青空がないだけでなく光量も不足している。
グリーンを背景にと考えるも逆に葉が目立ってしまう。
この背景が青空だったらなあとブツブツーーー
徐々に近寄って。
竹林の窪地からグラウンド側に上がる。
この青空がロウバイにも欲しかったゼ。
早渕公園のロウバイは20〜30本といったところ。ロウバイがあると紹介されている公園などでも数本程度のところも多いからこれはかなりの本数。木のサイズも十分に大きい。ただし品種はソシンロウバイのみ。ロウバイには他にロウバイ(和ロウバイ)、満月ロウバイ、福寿ロウバイなどの品種がある。
また香りは本数を考えると少し弱かった。かすかに甘い香りがあたりに漂っていたものの、近寄ってクンクンしないと満足できないレベル。これも日当たりの悪いのが影響しているのだろうか?
そんなわけで晴天だったのに青空が望めず、
なんとも残念な気持ちで帰ってきた。
気を取り直して、またどこか違うところにロウバイを見に出かけましょう。
おしまい
wassho at 19:34|Permalink│Comments(0)│
2024年01月21日
早渕公園のロウバイ
ロウバイはあまり知られていないマイナーな花だと思う。ウメやサクラなら「その便りが届く」との表現があってもロウバイでそんな言い方はしない。だいたい植えられている場所もごく少ない。おそらくロウバイの本数はウメやサクラの1%の1%のそのまた1%以下だろう。だからたまたま目にして知る機会もまれである。
でも一度その濃厚で甘い香りを嗅ぐと、まるでパブロフの犬のようにこの季節になると条件反射的にロウバイが恋しくなる(^^ゞ もっともロウバイは一般にウメより先に咲くものの、場所によって大幅に咲く時期が異なる。例えば2020年に府中市郷土の森博物館で見たのは12月中旬で、2016年の神奈川県松田町の寄(やどりき)ロウバイ園は2月中旬だった。もちろん訪れたのはそれぞれ満開の時期。
さて今年のロウバイ第一弾は1月19日。場所は港北ニュータウンにある早渕公園。横浜に出かけた帰りに、かなり遠回りの寄り道をしてクンクンしてきた。
港北ニュータウンは多摩ニュータウン、千葉ニュータウンと並ぶ首都圏の3大ニュータウン。横浜市(地図で少し白くなっている部分)の北側、東京から見ると、神奈川との県境の多摩川を渡って川崎市を超えた先にある。
参考までに東西の巨大ニュータウンの面積は
多摩ニュータウン 2884ヘクタール 千里ニュータウン 1160ヘクタール
港北ニュータウン 2530ヘクタール 泉北ニュータウン 1157ヘクタール
千葉ニュータウン 1930ヘクタール
東横線の日吉駅から、
通称グリーンラインと呼ばれる横浜市営地下鉄に乗り換えて3つ目の東山田駅で下車。
東山田は「ひがしやまた」。
隣駅の高田も「たかた」なので、この地域は「田」の発音が濁らないようだ。
けっこうショボい雰囲気のところを歩いて行く。
早渕川を渡ると広い道路に出る。
第三京浜(高速道路)と平行している大熊東山田線。
もう少し先で右折すれば早渕公園だが、
こんな看板があり薄茶色のラインは何だろうと思いここで右折。
右折して奥に進むと遊歩道のようになっていた。
遊歩道の先にあった稲波歩道橋を渡ると、
早渕公園に入る。
ここまで駅から15分弱。
そのまま奥に。
道案内のような看板はなし。そういえば入り口にも早渕公園とは書いてなかったから、まだ公園ではなく遊歩道の続きなのかとも思いながら、200メートルほど歩くとグランドが見えてきた。
グランドの横に小さなロウバイの木が2本。
もちろんこれを見に来たのではない。
事前にネットで見つけた情報では10本近くがまとまって植えられているはず。
それはどこかとグランドに沿って進むと、
公園の外に出てしまう(>_<)
その出口手前に丘を登る道があったので、
そちらに向かう。
竹林の横の階段を上がり、
さらにけっこうな勾配の坂が現れた。
この時点で何となく道を間違えている気がしたが、
引き返さず探検を続行。
道が平坦になり、
この公園でいくつか見た赤い鉄製の構造物が現れる。
そこからは下り。
途中で丘の中腹を横切ると、
最初にグラウンドを見た場所に戻った(^^ゞ
ロウバイ探しのやり直し。
今度は竹林沿いを見渡して下に降りる階段を発見!
そしてそこにはロウバイが。
しかしようやくたどり着いたものの一目見て
こっ、これはあかんやつや
と気付く(/o\) なぜなら
ーーー続く
でも一度その濃厚で甘い香りを嗅ぐと、まるでパブロフの犬のようにこの季節になると条件反射的にロウバイが恋しくなる(^^ゞ もっともロウバイは一般にウメより先に咲くものの、場所によって大幅に咲く時期が異なる。例えば2020年に府中市郷土の森博物館で見たのは12月中旬で、2016年の神奈川県松田町の寄(やどりき)ロウバイ園は2月中旬だった。もちろん訪れたのはそれぞれ満開の時期。
さて今年のロウバイ第一弾は1月19日。場所は港北ニュータウンにある早渕公園。横浜に出かけた帰りに、かなり遠回りの寄り道をしてクンクンしてきた。
港北ニュータウンは多摩ニュータウン、千葉ニュータウンと並ぶ首都圏の3大ニュータウン。横浜市(地図で少し白くなっている部分)の北側、東京から見ると、神奈川との県境の多摩川を渡って川崎市を超えた先にある。
参考までに東西の巨大ニュータウンの面積は
多摩ニュータウン 2884ヘクタール 千里ニュータウン 1160ヘクタール
港北ニュータウン 2530ヘクタール 泉北ニュータウン 1157ヘクタール
千葉ニュータウン 1930ヘクタール
東横線の日吉駅から、
通称グリーンラインと呼ばれる横浜市営地下鉄に乗り換えて3つ目の東山田駅で下車。
東山田は「ひがしやまた」。
隣駅の高田も「たかた」なので、この地域は「田」の発音が濁らないようだ。
けっこうショボい雰囲気のところを歩いて行く。
早渕川を渡ると広い道路に出る。
第三京浜(高速道路)と平行している大熊東山田線。
もう少し先で右折すれば早渕公園だが、
こんな看板があり薄茶色のラインは何だろうと思いここで右折。
右折して奥に進むと遊歩道のようになっていた。
遊歩道の先にあった稲波歩道橋を渡ると、
早渕公園に入る。
ここまで駅から15分弱。
そのまま奥に。
道案内のような看板はなし。そういえば入り口にも早渕公園とは書いてなかったから、まだ公園ではなく遊歩道の続きなのかとも思いながら、200メートルほど歩くとグランドが見えてきた。
グランドの横に小さなロウバイの木が2本。
もちろんこれを見に来たのではない。
事前にネットで見つけた情報では10本近くがまとまって植えられているはず。
それはどこかとグランドに沿って進むと、
公園の外に出てしまう(>_<)
その出口手前に丘を登る道があったので、
そちらに向かう。
竹林の横の階段を上がり、
さらにけっこうな勾配の坂が現れた。
この時点で何となく道を間違えている気がしたが、
引き返さず探検を続行。
道が平坦になり、
この公園でいくつか見た赤い鉄製の構造物が現れる。
そこからは下り。
途中で丘の中腹を横切ると、
最初にグラウンドを見た場所に戻った(^^ゞ
ロウバイ探しのやり直し。
今度は竹林沿いを見渡して下に降りる階段を発見!
そしてそこにはロウバイが。
しかしようやくたどり着いたものの一目見て
こっ、これはあかんやつや
と気付く(/o\) なぜなら
ーーー続く
wassho at 13:06|Permalink│Comments(0)│
2024年01月20日
二番ウメは芝公園の銀世界で
観梅の季節はもう少し先。でも先週は駒沢公園を歩いていたら、思いもかけず今年の初ウメを見られた。そこで1月17には芝公園近くに出かけたついでに、芝公園の梅園である銀世界でも少しは咲いているかなと立ち寄ってみた。
梅林は1号地と呼ばれる芝公園南側のエリアにある。
ここが入り口。
中に入るとまだ花を咲かせていないウメの木がたくさんあった(>_<)
この梅園が「銀世界」と呼ばれているのは江戸時代の新宿に「梅屋敷銀世界」と呼ばれているところがあって、そこのウメを明治になって芝公園に移設したから。でもまあヘンな名前である。
白とピンクが少しだけ咲いているのを見つけた。
高い位置に咲いいてデジカメではなくiPhoneだったので、これくらいが精一杯。
でも展望台の横にそこそこ花をつけているウメがあった。
まずは下から眺め、
展望台を上がって真横から。
見下ろせるのは展望台ならでは。
そして手を伸ばしてマクロモードで接写。
ウメの花を見ると寒さを忘れるね。
花は咲いていないけれど、
ウメの木と東京タワーのツーショットも。
わずかとはいえウメの花が見られてハッピーな気分。ついでに立ち寄っただけとはいえ、まったく咲いていなければ落ち込んじゃうからね(^^ゞ
梅林は1号地と呼ばれる芝公園南側のエリアにある。
ここが入り口。
中に入るとまだ花を咲かせていないウメの木がたくさんあった(>_<)
この梅園が「銀世界」と呼ばれているのは江戸時代の新宿に「梅屋敷銀世界」と呼ばれているところがあって、そこのウメを明治になって芝公園に移設したから。でもまあヘンな名前である。
白とピンクが少しだけ咲いているのを見つけた。
高い位置に咲いいてデジカメではなくiPhoneだったので、これくらいが精一杯。
でも展望台の横にそこそこ花をつけているウメがあった。
まずは下から眺め、
展望台を上がって真横から。
見下ろせるのは展望台ならでは。
そして手を伸ばしてマクロモードで接写。
ウメの花を見ると寒さを忘れるね。
花は咲いていないけれど、
ウメの木と東京タワーのツーショットも。
わずかとはいえウメの花が見られてハッピーな気分。ついでに立ち寄っただけとはいえ、まったく咲いていなければ落ち込んじゃうからね(^^ゞ
wassho at 15:19|Permalink│Comments(0)│
2024年01月12日
2024年の初ウメは駒沢公園
散歩がてらに駒沢公園を歩いていたらウメが咲いていた。
そんなことはまったく予想していなかったのでラッキー。
ピンクと白。
かなり小ぶりなウメ。
香りもよかった。
まさに冬来たりなば春遠からじである。
冬来たりなば〜は文字通り季節の移り変わりの意味でも、またつらい時期を乗り越えれば幸せな時期は必ずやってくるとの例えとしても使われる。何となく古文調なので昔からあることわざのように思えてしまうが、実はイギリスの詩人パーシー・ビッシ・シェリーの長詩「西風に寄せる歌」の一節。存命していたのは1792年〜1822年なので江戸時代後期。
原文は
If Winter comes, can Spring be far behind ?
WinterとSpringが大文字になっているのは擬人化されているかららしい。その意味がよくわからないので、擬人化はとりあえず無視して直訳すると
冬が来るなら、春がはるかに遠いのはあり得るか?
あたりだろうか。原文は疑問文なのに翻訳では「春遠からじ」と肯定文になっている。誰がいつ翻訳したのかははっきりしない。しかし漢文調だから遅くても昭和の初期だと思う。
そして漢文調であっても平易な文章だし、また漢文調の格式の高さゆえに格言的に捉えられたのもこの一節が広まった理由に違いない。「冬が来たなら春はそう遠くない」じゃシェリーの詩を読んだ人だけにとどまっていたと思う。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
iPhoneでマクロ撮影。
白梅は高い位置に咲いていたので1枚だけ。
白とピンクのツーショットを狙ったものの、
花が小さいので思ったような写真にならず。
咲いていたのはピンクと白の2本だけで、
他のウメはまだこんな状態。
ウメだけだと駒沢公園だとわからないので、
最後にこういうのも載せておきましょう。
そんなことはまったく予想していなかったのでラッキー。
ピンクと白。
かなり小ぶりなウメ。
香りもよかった。
まさに冬来たりなば春遠からじである。
冬来たりなば〜は文字通り季節の移り変わりの意味でも、またつらい時期を乗り越えれば幸せな時期は必ずやってくるとの例えとしても使われる。何となく古文調なので昔からあることわざのように思えてしまうが、実はイギリスの詩人パーシー・ビッシ・シェリーの長詩「西風に寄せる歌」の一節。存命していたのは1792年〜1822年なので江戸時代後期。
原文は
If Winter comes, can Spring be far behind ?
WinterとSpringが大文字になっているのは擬人化されているかららしい。その意味がよくわからないので、擬人化はとりあえず無視して直訳すると
冬が来るなら、春がはるかに遠いのはあり得るか?
あたりだろうか。原文は疑問文なのに翻訳では「春遠からじ」と肯定文になっている。誰がいつ翻訳したのかははっきりしない。しかし漢文調だから遅くても昭和の初期だと思う。
そして漢文調であっても平易な文章だし、また漢文調の格式の高さゆえに格言的に捉えられたのもこの一節が広まった理由に違いない。「冬が来たなら春はそう遠くない」じゃシェリーの詩を読んだ人だけにとどまっていたと思う。
さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
iPhoneでマクロ撮影。
白梅は高い位置に咲いていたので1枚だけ。
白とピンクのツーショットを狙ったものの、
花が小さいので思ったような写真にならず。
咲いていたのはピンクと白の2本だけで、
他のウメはまだこんな状態。
ウメだけだと駒沢公園だとわからないので、
最後にこういうのも載せておきましょう。
wassho at 23:35|Permalink│Comments(0)│
2024年01月10日
2023年紅葉の締めくくりはいつもの九品仏
2023年に見たイエローとレッドのオータムは
旧芝離宮庭園
増上寺
芝公園17号地&もみじ谷
清澄公園
清澄庭園
御殿山庭園
池田山公園
神宮外苑
有栖川宮公園
上野公園
代々木公園
渋谷ファイヤー通り
とかなり多い。過去のブログを遡ると2022年:2カ所、2021年:3カ所、2020年:5カ所、2019年3カ所だった。国立西洋美術館に展覧会を見に行って、上野公園のイエローオータムが予期せずよかったのがスイッチの入った原因のように思う。
ただしこの中で紅葉の名所と呼ばれるのは神宮外苑と芝公園のもみじ谷程度。そのほかのところは当たり外れがあったわけで、特に最後の旧芝離宮庭園は大ハズレ(>_<) これでシーズンを〆るのはあまりにも忍びないと12月13日に出かけたのが、私の定番レッドオータムスポットである自由が丘近くの九品仏(くほんぶつ)というお寺。
九品仏の紅葉を眺めるのは今年で5シーズン目。
どうしてそんなに来ているかは ↓ 昨年に書いた文章で。
バイクでツーリングしていた頃、河口湖で真っ赤な紅葉に出会い、
今まで見て喜んでいた紅葉はなんだったのだとの気分になる。
それから赤純度の高い紅葉を探してあちこち出かけれど見つからず。
それが2019年、近くにあるというだけでいわば「ついでに」訪れた九品仏で、
まさかの探していた色の紅葉に出会った。
チルチルミチルの青い鳥とはまさにこのこと。
そして、このあたりに住んでいる限り、ここへは毎年来ると決めてーーー
との理由。
だから旧芝離宮庭園の当たり外れに関係なく来ていたかも知れない。
これは東門。
門をくぐった先の光景は京都にでも来たみたいと毎年ながら感激する。
ところで2023年の紅葉は平年より遅いとされていたものの、九品仏に限っていえば遅くはなかったようで例年より色づきが濃い。またこの位置 ↑ から見えるはずのイチョウの大木のイエローオータムがすべて落ちている。参考までに過去の写真を ↓
2022年12月8日
2021年12月5日
右側の木が九品仏で一番赤いモミジ。
まさに折り紙の赤色。
これは正門をくぐったところの光景。様々な色のグラデーションが見られる場所なのに、ちょっと見頃過ぎになっていて残念。
なので2021年の写真を。
いつもならこんな極楽浄土に来た気分を味わえる。
それにしても逆光テクニックを使っていないのに、
この赤の濃さはどうよ! なおこの日はデジカメは持参せずiPhoneで撮影。
オレンジ掛かったのもディープな色彩。
山門より先のエリアはちょっと地味になる。
東京都の天然記念物に指定されている大イチョウ。
この木は葉を落とすのが早く、今までイエローオータムになっているのを見たことがない。
他のイエローオータムとレッドオータムのミックスを楽しむ。
九品仏は9体の阿弥陀如来像があるから九品仏。
まず上品(じょうぼん)、中品、下品の3区分があり、
それぞれに上生(じょうしょう)、中生、下生の3つの下位区分があって
3×3で合計9つの等級に分かれている。
つまり成仏して極楽浄土に行けたとしても格差社会は存在する!
これは下品のお堂。
「げひん」じゃなくて「げぼん」ね。
センターにいるはずの仏像は現在修復中。
左右は修復前と後の姿。
9体の阿弥陀如来と本尊を合わせた10体をひとつにつき2年、
トータル20年かけて修復する大計画。
なおこのパネルには「中品下生仏がご遷座中」と書かれているが、ここは下品のお堂だし、上の写真には「下品上生佛像御遷座中」とあるので、これは間違い。
こちらは中品のお堂。
上品のお堂。
上品は3体とも修復が完了している模様。でも左右の仏像は金箔がはげている部分もある。どうしてピカピカにしないのだろう。アンティーク感を出すためじゃないよね?
境内ブラブラ。
毎年同じような写真になるのは仕方ない。
お地蔵さんにご挨拶して、
最後は正門から退出。
レッドオータムが目にしみた。
来年もまた訪れましょう、あっ、もう今年か。
旧芝離宮庭園
増上寺
芝公園17号地&もみじ谷
清澄公園
清澄庭園
御殿山庭園
池田山公園
神宮外苑
有栖川宮公園
上野公園
代々木公園
渋谷ファイヤー通り
とかなり多い。過去のブログを遡ると2022年:2カ所、2021年:3カ所、2020年:5カ所、2019年3カ所だった。国立西洋美術館に展覧会を見に行って、上野公園のイエローオータムが予期せずよかったのがスイッチの入った原因のように思う。
ただしこの中で紅葉の名所と呼ばれるのは神宮外苑と芝公園のもみじ谷程度。そのほかのところは当たり外れがあったわけで、特に最後の旧芝離宮庭園は大ハズレ(>_<) これでシーズンを〆るのはあまりにも忍びないと12月13日に出かけたのが、私の定番レッドオータムスポットである自由が丘近くの九品仏(くほんぶつ)というお寺。
九品仏の紅葉を眺めるのは今年で5シーズン目。
どうしてそんなに来ているかは ↓ 昨年に書いた文章で。
バイクでツーリングしていた頃、河口湖で真っ赤な紅葉に出会い、
今まで見て喜んでいた紅葉はなんだったのだとの気分になる。
それから赤純度の高い紅葉を探してあちこち出かけれど見つからず。
それが2019年、近くにあるというだけでいわば「ついでに」訪れた九品仏で、
まさかの探していた色の紅葉に出会った。
チルチルミチルの青い鳥とはまさにこのこと。
そして、このあたりに住んでいる限り、ここへは毎年来ると決めてーーー
との理由。
だから旧芝離宮庭園の当たり外れに関係なく来ていたかも知れない。
これは東門。
門をくぐった先の光景は京都にでも来たみたいと毎年ながら感激する。
ところで2023年の紅葉は平年より遅いとされていたものの、九品仏に限っていえば遅くはなかったようで例年より色づきが濃い。またこの位置 ↑ から見えるはずのイチョウの大木のイエローオータムがすべて落ちている。参考までに過去の写真を ↓
2022年12月8日
2021年12月5日
右側の木が九品仏で一番赤いモミジ。
まさに折り紙の赤色。
これは正門をくぐったところの光景。様々な色のグラデーションが見られる場所なのに、ちょっと見頃過ぎになっていて残念。
なので2021年の写真を。
いつもならこんな極楽浄土に来た気分を味わえる。
それにしても逆光テクニックを使っていないのに、
この赤の濃さはどうよ! なおこの日はデジカメは持参せずiPhoneで撮影。
オレンジ掛かったのもディープな色彩。
山門より先のエリアはちょっと地味になる。
東京都の天然記念物に指定されている大イチョウ。
この木は葉を落とすのが早く、今までイエローオータムになっているのを見たことがない。
他のイエローオータムとレッドオータムのミックスを楽しむ。
九品仏は9体の阿弥陀如来像があるから九品仏。
まず上品(じょうぼん)、中品、下品の3区分があり、
それぞれに上生(じょうしょう)、中生、下生の3つの下位区分があって
3×3で合計9つの等級に分かれている。
つまり成仏して極楽浄土に行けたとしても格差社会は存在する!
これは下品のお堂。
「げひん」じゃなくて「げぼん」ね。
センターにいるはずの仏像は現在修復中。
左右は修復前と後の姿。
9体の阿弥陀如来と本尊を合わせた10体をひとつにつき2年、
トータル20年かけて修復する大計画。
なおこのパネルには「中品下生仏がご遷座中」と書かれているが、ここは下品のお堂だし、上の写真には「下品上生佛像御遷座中」とあるので、これは間違い。
こちらは中品のお堂。
上品のお堂。
上品は3体とも修復が完了している模様。でも左右の仏像は金箔がはげている部分もある。どうしてピカピカにしないのだろう。アンティーク感を出すためじゃないよね?
境内ブラブラ。
毎年同じような写真になるのは仕方ない。
お地蔵さんにご挨拶して、
最後は正門から退出。
レッドオータムが目にしみた。
来年もまた訪れましょう、あっ、もう今年か。
wassho at 20:17|Permalink│Comments(0)│
2023年12月27日
紅葉のつもりが桜が咲いていた旧芝離宮庭園 その2
2つ前の投稿にも書いたように芝離宮庭園に来たのは、その前に訪れた清澄庭園の紅葉が見応えに欠けたから。芝離宮庭園の紅葉がどの程度のものかは特に調べなかったものの、「離宮」と名前がついていれば何となく風流な紅葉で素敵なイメージがするじゃない。
いってみれば清澄庭園の仇を芝離宮で取るつもりだったけれど、
逆に返り討ちに遭ってしまったーーーお話のさて始まり始まり。
入り口をくぐって、
目の前に広がる光景。
こ、こ、こ、紅葉は?
見回せばポツンポツンと紅葉が散見できるものの、苑内の紅葉比率が少なくて残念だった清澄庭園のさらに1/10くらいだろうか(/o\)
マツを眺めるのが好きでよかったゼ。
かなり大きなサイズだった雪見灯籠。
同じく雪見と名前がつく雪見障子は、雪景色を眺めるために下半分が紙ではなくガラスになっている障子(しょうじ)。しかし雪見灯籠は雪景色とは機能的に何の関係もない。基本的には灯籠(とうろう)デザインの名前で、
石でできている
上部の傘が広い
脚部が3つか4つに分かれている
形のものが雪見灯籠で、灯籠としてはポピュラーな部類に入る。
ではなぜ雪見と呼ばれるかというと、
広い傘に雪が積もる姿を想像した
あるいは傘に積もった雪を眺めて楽しんだ
近江八景の浮身堂に形が似ていて、それが訛った
などの説がある。
もっとも雪見障子だって雪景色だけでなく、季節を問わず部屋から庭を眺めるのが本来の目的。そう考えると雪見と名付けるのは、心情的な付加価値を高めるネーミング手法として昔からあったのだろう。
雪見灯籠の下にいたハトは清澄庭園で見たカモと同じように、
クチバシを背中の羽毛に突っ込んで暖めていた。水鳥ではないハトも寒いんだ。
大山という小さな丘。
ここから見えている範囲で庭園全体の4/5。
面積は4.3ヘクタール。
ビルに取り囲まれているのは致し方ないところ。そして世界貿易センタービルを建設しているクレーンの横はJRの線路。新幹線も走っていてこの庭園はけっこううるさい。
大山を先ほどの写真の後ろ側に下りる。
マツがいい感じ。
そして紅葉しているサクラの隣にあったのは、
十月桜。
なんと12月なのにサクラ花見ができた\(^o^)/
春に咲くサクラと違って花数はスカスカ。
しかしネットの画像検索で他の十月桜を見ると、これはこういう咲き方のようだ。
サクラのピンクを眺めるとしあわせな気分になるねえ。
まさに♪♪ちいさい春 ちいさい春 みつけた
さて紅葉は期待外れでも庭園の散策を続けますか。
まずは逆さ富士ならぬ逆さビルの水面に揺れる姿を楽しみましょう。
この先に見えた紅葉は、
冴えない色。
でも近づけば和の色合いが渋い。
最もキレイだったのでこの程度。
ところでいつも書いているように、紅葉は逆行気味で撮ると色が鮮やかになる。一般的には順光で日がたくさん当たっていた方が写真はキレイなので、太陽の位置は常に気になるところ。しかしこの庭園では珍しい経験をした。
太陽はこの方向。
こちらを向けば逆光になる。
しかしその対面のビルに太陽が反射して、
こちらを向いても逆光になる場合があった。
どないしたらエエネン(>_<)
芝離宮庭園で紅葉が最も賑やかだったのはこの一画。
これは清澄庭園でも紅葉のアイコンとなっていたハギノキ。
その下の草も少し色づいて、なぜかオレンジ白菜を連想する。
その前にいるカモ。
こちらも清澄庭園のカモと同じようにクチバシを背中の羽毛に突っ込んでいる。そのときに調べたら、クチバシをそうやって暖めながら寝ているとの情報もあった。しかし後で写真で確認すると目は閉じていない。そこで今回はじっくり観察するとクチバシを突っ込みながら移動したり、ときどき突っ込むのをやめたりしていたので寝ているのではなさそう。
ところで清澄庭園のブログでは
カモは公園の池などいろいろなところにいるが、私がカワイイではなく
オイシソウと思いながら眺めているのをコイツらは知らない
とも書いた。今回はネギならぬオレンジ白菜の前にカモである。
お腹すくヤロ(^^ゞ
ハギノキの周りにある紅葉が賑やかな一画に移動。
この日にレッドオータムを感じられたのはここだけ。
これは順光で撮ったもの。色ははそこそこ鮮やかだが、順光だとツヤのないマットな色調に写るから、やはり逆光のほうがキレイ。
清澄庭園では池の中に置かれた様々な飛び石を歩いたが、
ここ芝離宮庭園では石の橋がたくさんあった。
それを渡ってマツや石を眺めにいったり、
まるでヨーロッパの古代遺跡のような石柱を見たり。
これは茶室の門柱らしい。
門柱が石なのは日本では珍しいような気がする。
そろそろ帰りましょう。
出口はまるで個人宅の勝手口のような造り。
自分で押して扉を開く。
紅葉はあえなく返り討ちに遭ってしまったものの、思いもかけずサクラを眺められたのはよかった。もしサクラがなければ「こんな庭園は潰してタワマンを建ててしまえ!」と思ったかも知れない(^^ゞ
残念ながら十月桜は1本しかなかった。秋から冬に咲くサクラは何種類かあるので、それらを100本ほど植えてこの庭園の名物にしたらいいのに。関係者の皆さんは是非ご検討を。
ところで何事も終わりよければすべてよし。今年はたくさん紅葉を見に出かけたのに、最後がこれじゃ〆られない。でも大丈夫、私には心強い味方がいる。それはまた後日に。
おしまい
いってみれば清澄庭園の仇を芝離宮で取るつもりだったけれど、
逆に返り討ちに遭ってしまったーーーお話のさて始まり始まり。
入り口をくぐって、
目の前に広がる光景。
こ、こ、こ、紅葉は?
見回せばポツンポツンと紅葉が散見できるものの、苑内の紅葉比率が少なくて残念だった清澄庭園のさらに1/10くらいだろうか(/o\)
マツを眺めるのが好きでよかったゼ。
かなり大きなサイズだった雪見灯籠。
同じく雪見と名前がつく雪見障子は、雪景色を眺めるために下半分が紙ではなくガラスになっている障子(しょうじ)。しかし雪見灯籠は雪景色とは機能的に何の関係もない。基本的には灯籠(とうろう)デザインの名前で、
石でできている
上部の傘が広い
脚部が3つか4つに分かれている
形のものが雪見灯籠で、灯籠としてはポピュラーな部類に入る。
ではなぜ雪見と呼ばれるかというと、
広い傘に雪が積もる姿を想像した
あるいは傘に積もった雪を眺めて楽しんだ
近江八景の浮身堂に形が似ていて、それが訛った
などの説がある。
もっとも雪見障子だって雪景色だけでなく、季節を問わず部屋から庭を眺めるのが本来の目的。そう考えると雪見と名付けるのは、心情的な付加価値を高めるネーミング手法として昔からあったのだろう。
雪見灯籠の下にいたハトは清澄庭園で見たカモと同じように、
クチバシを背中の羽毛に突っ込んで暖めていた。水鳥ではないハトも寒いんだ。
大山という小さな丘。
ここから見えている範囲で庭園全体の4/5。
面積は4.3ヘクタール。
ビルに取り囲まれているのは致し方ないところ。そして世界貿易センタービルを建設しているクレーンの横はJRの線路。新幹線も走っていてこの庭園はけっこううるさい。
大山を先ほどの写真の後ろ側に下りる。
マツがいい感じ。
そして紅葉しているサクラの隣にあったのは、
十月桜。
なんと12月なのにサクラ花見ができた\(^o^)/
春に咲くサクラと違って花数はスカスカ。
しかしネットの画像検索で他の十月桜を見ると、これはこういう咲き方のようだ。
サクラのピンクを眺めるとしあわせな気分になるねえ。
まさに♪♪ちいさい春 ちいさい春 みつけた
さて紅葉は期待外れでも庭園の散策を続けますか。
まずは逆さ富士ならぬ逆さビルの水面に揺れる姿を楽しみましょう。
この先に見えた紅葉は、
冴えない色。
でも近づけば和の色合いが渋い。
最もキレイだったのでこの程度。
ところでいつも書いているように、紅葉は逆行気味で撮ると色が鮮やかになる。一般的には順光で日がたくさん当たっていた方が写真はキレイなので、太陽の位置は常に気になるところ。しかしこの庭園では珍しい経験をした。
太陽はこの方向。
こちらを向けば逆光になる。
しかしその対面のビルに太陽が反射して、
こちらを向いても逆光になる場合があった。
どないしたらエエネン(>_<)
芝離宮庭園で紅葉が最も賑やかだったのはこの一画。
これは清澄庭園でも紅葉のアイコンとなっていたハギノキ。
その下の草も少し色づいて、なぜかオレンジ白菜を連想する。
その前にいるカモ。
こちらも清澄庭園のカモと同じようにクチバシを背中の羽毛に突っ込んでいる。そのときに調べたら、クチバシをそうやって暖めながら寝ているとの情報もあった。しかし後で写真で確認すると目は閉じていない。そこで今回はじっくり観察するとクチバシを突っ込みながら移動したり、ときどき突っ込むのをやめたりしていたので寝ているのではなさそう。
ところで清澄庭園のブログでは
カモは公園の池などいろいろなところにいるが、私がカワイイではなく
オイシソウと思いながら眺めているのをコイツらは知らない
とも書いた。今回はネギならぬオレンジ白菜の前にカモである。
お腹すくヤロ(^^ゞ
ハギノキの周りにある紅葉が賑やかな一画に移動。
この日にレッドオータムを感じられたのはここだけ。
これは順光で撮ったもの。色ははそこそこ鮮やかだが、順光だとツヤのないマットな色調に写るから、やはり逆光のほうがキレイ。
清澄庭園では池の中に置かれた様々な飛び石を歩いたが、
ここ芝離宮庭園では石の橋がたくさんあった。
それを渡ってマツや石を眺めにいったり、
まるでヨーロッパの古代遺跡のような石柱を見たり。
これは茶室の門柱らしい。
門柱が石なのは日本では珍しいような気がする。
そろそろ帰りましょう。
出口はまるで個人宅の勝手口のような造り。
自分で押して扉を開く。
紅葉はあえなく返り討ちに遭ってしまったものの、思いもかけずサクラを眺められたのはよかった。もしサクラがなければ「こんな庭園は潰してタワマンを建ててしまえ!」と思ったかも知れない(^^ゞ
残念ながら十月桜は1本しかなかった。秋から冬に咲くサクラは何種類かあるので、それらを100本ほど植えてこの庭園の名物にしたらいいのに。関係者の皆さんは是非ご検討を。
ところで何事も終わりよければすべてよし。今年はたくさん紅葉を見に出かけたのに、最後がこれじゃ〆られない。でも大丈夫、私には心強い味方がいる。それはまた後日に。
おしまい
wassho at 02:36|Permalink│Comments(0)│
2023年12月26日
紅葉のつもりが桜が咲いていた旧芝離宮庭園
12月9日にまずゴッホのイチョウと、もみじ谷の紅葉から見た前回の続き。
芝公園から増上寺の境内を抜けて芝離宮庭園に向かう。
増上寺の三解脱門の前から浜松町に延びる道路。
ここをまっすぐ行けばよい。
港区の区役所はこのあたりに。
しばらく歩くと現れるのが大門と呼ばれる構造物。
こちらが表側。
これはかつての総門(一番外側の門)を復元したもの。制作は1937年(昭和12年)。
私は寺社仏閣は木造じゃないとありがたみを感じないタイプ。増上寺の本殿も1974年(昭和49年)に再建されたコンクリート製で、境内はアスファルト舗装だから「増上寺はガッカリ名所」とのブログを以前にも書いた。この大門もハリボテにしか見えないm(_ _)m
ところで総門がここに位置しているなら、その内側は境内だったことになる。上野の寛永寺と並んで、増上寺は徳川家の菩提寺として江戸時代には権勢を誇った。それがたたって時代が変わると明治政府に睨まれる。寛永寺の場合は境内面積を116ヘクタール(上野公園の約2倍)から7.5ヘクタールに減らされたのは先日のブログに書いた通り。
では増上寺は?
江戸時代最盛期の境内面積については資料によって20万坪、25万坪、30万坪、59ヘクタール、72ヘクタール、82ヘクタールと数字がまちまち。とりあえず増上寺が公式ホームページで記載している25万坪=83ヘクタールとしよう(ちょっと盛っている気もするが)。現在の増上寺の面積はなぜかネットでは見つからず、以前にGoogleマップで計測した5.2ヘクタールを採用。計算すると
増上寺 5.2ヘクタール ÷ 83ヘクタール = 6.2%
寛永寺 7.5ヘクタール ÷ 116ヘクタール = 6.5%
とまあ似たり寄ったり。分数にすれば大体1/15に削られている。ただし寛永寺は墓地を除くと実質的には1ヘクタールほどの寺になっているので、現在の規模は増上寺が圧倒的に大きい。
旧境内と現境内の比較図。これは幕末から明治2年の地図なので最盛期の面積ではないかも知れない。画像はhttps://adeac.jp/minato-city/text-list/d110021/ht001960から引用加筆
浜松町の駅手前までやってきた。
写真が少しわかりにくいが中央奥のビル手前に、長らくこの地のランドマークだった世界貿易センタービルが建っていた。正式には世界貿易センタービルディング。1968年竣工の霞が関ビルに続いて、1970年に建てられた日本で2つめの超高層ビル。霞が関ビルほどの知名度がないのはやはり1番と2番の違い。富士山は知っていても日本で2番目に高い山は知らないのと同じ。
51年後の2021年6月に閉館。8月から解体工事が始まり今年の3月に解体終了。写真で見えているのは新しいビルの下層部だろうか。なお建て替えられるビルも同じく世界貿易センタービル。
これは解体前の姿。
こんな黒いビルは珍しいからそれだけでインパクトがあった。画像はhttps://air-premium.jp/facility/detail_00241/から引用
ビルの途中に窓のない部分がある。あれは13階で機械室などになっている。建設時に海外企業の入居を多く見込んでおり「13」は嫌われるだろうから、いっそ設備階にしてしまえとの判断だったらしい。
海外では建物や部屋の「13」をどうしているのか詳しくは知らないが、以前にアメリカでエレベーターのボタンが「12b」になっているのは見た経験がある。こちらの記事によると「マンハッタンやブルックリンのコンドミニアムで13階と指定されたフロアがあるものは全体の5%未満しかない」とある。
これは1975年(昭和50年)の空撮写真。
当時は飛び抜けて高かったのがわかる。画像はhttps://twitter.com/tocho_koho/status/1284329712425168897から引用
画面やや左奥の超高層ビルは霞が関ビル、そのさらに左にあるのは京王プラザホテル。
霞が関ビル 1968年4月 36階建て 147メートル
世界貿易ビル 1970年3月 40階建て 163メートル
京王プラザホテル 1971年3月 47階建て 170メートル
どれも建設当時は東洋一の高さを誇った。参考までに現在日本で一番高いビルは今年の11月に完成した麻布台ヒルズの64階建て325メートル。それまでトップのあべのハルカスは60階建て300メートルだった。世界一はドバイのブルジュ・ハリファで206階建て828メートルw(゚o゚)w なお超高層に定義はなく、だいたい100メートル以上かな。
そんな見上げるほどの高さを誇ったビルも、解体前の2021年6月の写真ではまるで背が縮んでしまったおジイちゃんのよう。画像はhttps://www.asahi.com/articles/ASP6Z313VP6ZUTIL001.htmlから引用
左奥のビルはこのエリアの再開発で先に完成した世界貿易センタービル南館。39階建て197メートル。現在建設中の本館は46階建て235メートルになる。
ところで私がこのビルの存在を知ったのは昭和の終わり頃。そのときに驚いたのは、ビルの高さではなく「世界貿易センター」ビルとの名前。何という大げさな、そして浜松町といえば羽田へのモノレールが出ている程度の認識で、当時はそんなにビジネス街でもなかったから、何と分不相応なネーミングだと思ったのを覚えている(^^ゞ
またニューヨークの9.11テロで崩壊したワールドトレードセンターも、半分日本語にすれば世界貿易センターである。その名前のつくビルは世界中に250以上あるらしい。大阪府庁の咲洲(さきしま)庁舎も旧名称は大阪ワールドトレードセンタービルだった。調べてみたら「ワールド・トレード・センター連合」なるものがあって、この浜松町のビルも加盟しておりしかも創立メンバー。
この団体の正体が今ひとつよくわからない。
世界中の貿易と投資を促進し地域経済の繁栄を支援することを目的とする
ワールドトレードセンターの商標権を持つ
程度の情報しかなかった。ただビルの名前が同じでも経営や資本的な関係はないようだ。
さて、
なかなか話が芝離宮まで進まないが(^^ゞ
ビルの隣が浜松町の駅。
上の写真のガード下をくぐって、
この位置まで来ると
芝離宮庭園の入り口。
先日訪れた清澄庭園は駅に近い立地でも入口までは遠かった。
ここは正真正銘の駅チカ。
ところでこの近くには浜離宮庭園もある。どちらも江戸時代の大名屋敷庭園が明治になってから皇室や宮内庁の所有となり、その後に東京都に寄付された似たような歴史を持つ。それなのにどうしてこちらだけ旧芝離宮と「旧」がつくのだろう? ちょっとナゾ
ついでに正式名称についている恩賜(おんし)の賜は賜る(たまわる)で「もらう」の謙譲語、あるいは「与える」の尊敬語。つまり目上の人から「いただく」目上の人が「くださる」。恩賜は下賜(かし)と同じ意味で身分の高いものが低いものに与えるを意味するが、恩賜といった場合はほとんど天皇から賜ったものを指す。
皇室から下賜された公園・庭園は上野恩賜公園、井の頭恩賜公園、猿江恩賜公園、有栖川宮記念公園、恩賜箱根公園、浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園の7つ。
このうち有栖川宮記念公園は高松宮からの下賜なので「恩賜」の名前がついていない。
ーーー続く
芝公園から増上寺の境内を抜けて芝離宮庭園に向かう。
増上寺の三解脱門の前から浜松町に延びる道路。
ここをまっすぐ行けばよい。
港区の区役所はこのあたりに。
しばらく歩くと現れるのが大門と呼ばれる構造物。
こちらが表側。
これはかつての総門(一番外側の門)を復元したもの。制作は1937年(昭和12年)。
私は寺社仏閣は木造じゃないとありがたみを感じないタイプ。増上寺の本殿も1974年(昭和49年)に再建されたコンクリート製で、境内はアスファルト舗装だから「増上寺はガッカリ名所」とのブログを以前にも書いた。この大門もハリボテにしか見えないm(_ _)m
ところで総門がここに位置しているなら、その内側は境内だったことになる。上野の寛永寺と並んで、増上寺は徳川家の菩提寺として江戸時代には権勢を誇った。それがたたって時代が変わると明治政府に睨まれる。寛永寺の場合は境内面積を116ヘクタール(上野公園の約2倍)から7.5ヘクタールに減らされたのは先日のブログに書いた通り。
では増上寺は?
江戸時代最盛期の境内面積については資料によって20万坪、25万坪、30万坪、59ヘクタール、72ヘクタール、82ヘクタールと数字がまちまち。とりあえず増上寺が公式ホームページで記載している25万坪=83ヘクタールとしよう(ちょっと盛っている気もするが)。現在の増上寺の面積はなぜかネットでは見つからず、以前にGoogleマップで計測した5.2ヘクタールを採用。計算すると
増上寺 5.2ヘクタール ÷ 83ヘクタール = 6.2%
寛永寺 7.5ヘクタール ÷ 116ヘクタール = 6.5%
とまあ似たり寄ったり。分数にすれば大体1/15に削られている。ただし寛永寺は墓地を除くと実質的には1ヘクタールほどの寺になっているので、現在の規模は増上寺が圧倒的に大きい。
旧境内と現境内の比較図。これは幕末から明治2年の地図なので最盛期の面積ではないかも知れない。画像はhttps://adeac.jp/minato-city/text-list/d110021/ht001960から引用加筆
浜松町の駅手前までやってきた。
写真が少しわかりにくいが中央奥のビル手前に、長らくこの地のランドマークだった世界貿易センタービルが建っていた。正式には世界貿易センタービルディング。1968年竣工の霞が関ビルに続いて、1970年に建てられた日本で2つめの超高層ビル。霞が関ビルほどの知名度がないのはやはり1番と2番の違い。富士山は知っていても日本で2番目に高い山は知らないのと同じ。
51年後の2021年6月に閉館。8月から解体工事が始まり今年の3月に解体終了。写真で見えているのは新しいビルの下層部だろうか。なお建て替えられるビルも同じく世界貿易センタービル。
これは解体前の姿。
こんな黒いビルは珍しいからそれだけでインパクトがあった。画像はhttps://air-premium.jp/facility/detail_00241/から引用
ビルの途中に窓のない部分がある。あれは13階で機械室などになっている。建設時に海外企業の入居を多く見込んでおり「13」は嫌われるだろうから、いっそ設備階にしてしまえとの判断だったらしい。
海外では建物や部屋の「13」をどうしているのか詳しくは知らないが、以前にアメリカでエレベーターのボタンが「12b」になっているのは見た経験がある。こちらの記事によると「マンハッタンやブルックリンのコンドミニアムで13階と指定されたフロアがあるものは全体の5%未満しかない」とある。
これは1975年(昭和50年)の空撮写真。
当時は飛び抜けて高かったのがわかる。画像はhttps://twitter.com/tocho_koho/status/1284329712425168897から引用
画面やや左奥の超高層ビルは霞が関ビル、そのさらに左にあるのは京王プラザホテル。
霞が関ビル 1968年4月 36階建て 147メートル
世界貿易ビル 1970年3月 40階建て 163メートル
京王プラザホテル 1971年3月 47階建て 170メートル
どれも建設当時は東洋一の高さを誇った。参考までに現在日本で一番高いビルは今年の11月に完成した麻布台ヒルズの64階建て325メートル。それまでトップのあべのハルカスは60階建て300メートルだった。世界一はドバイのブルジュ・ハリファで206階建て828メートルw(゚o゚)w なお超高層に定義はなく、だいたい100メートル以上かな。
そんな見上げるほどの高さを誇ったビルも、解体前の2021年6月の写真ではまるで背が縮んでしまったおジイちゃんのよう。画像はhttps://www.asahi.com/articles/ASP6Z313VP6ZUTIL001.htmlから引用
左奥のビルはこのエリアの再開発で先に完成した世界貿易センタービル南館。39階建て197メートル。現在建設中の本館は46階建て235メートルになる。
ところで私がこのビルの存在を知ったのは昭和の終わり頃。そのときに驚いたのは、ビルの高さではなく「世界貿易センター」ビルとの名前。何という大げさな、そして浜松町といえば羽田へのモノレールが出ている程度の認識で、当時はそんなにビジネス街でもなかったから、何と分不相応なネーミングだと思ったのを覚えている(^^ゞ
またニューヨークの9.11テロで崩壊したワールドトレードセンターも、半分日本語にすれば世界貿易センターである。その名前のつくビルは世界中に250以上あるらしい。大阪府庁の咲洲(さきしま)庁舎も旧名称は大阪ワールドトレードセンタービルだった。調べてみたら「ワールド・トレード・センター連合」なるものがあって、この浜松町のビルも加盟しておりしかも創立メンバー。
この団体の正体が今ひとつよくわからない。
世界中の貿易と投資を促進し地域経済の繁栄を支援することを目的とする
ワールドトレードセンターの商標権を持つ
程度の情報しかなかった。ただビルの名前が同じでも経営や資本的な関係はないようだ。
さて、
なかなか話が芝離宮まで進まないが(^^ゞ
ビルの隣が浜松町の駅。
上の写真のガード下をくぐって、
この位置まで来ると
芝離宮庭園の入り口。
先日訪れた清澄庭園は駅に近い立地でも入口までは遠かった。
ここは正真正銘の駅チカ。
ところでこの近くには浜離宮庭園もある。どちらも江戸時代の大名屋敷庭園が明治になってから皇室や宮内庁の所有となり、その後に東京都に寄付された似たような歴史を持つ。それなのにどうしてこちらだけ旧芝離宮と「旧」がつくのだろう? ちょっとナゾ
ついでに正式名称についている恩賜(おんし)の賜は賜る(たまわる)で「もらう」の謙譲語、あるいは「与える」の尊敬語。つまり目上の人から「いただく」目上の人が「くださる」。恩賜は下賜(かし)と同じ意味で身分の高いものが低いものに与えるを意味するが、恩賜といった場合はほとんど天皇から賜ったものを指す。
皇室から下賜された公園・庭園は上野恩賜公園、井の頭恩賜公園、猿江恩賜公園、有栖川宮記念公園、恩賜箱根公園、浜離宮恩賜庭園、旧芝離宮恩賜庭園の7つ。
このうち有栖川宮記念公園は高松宮からの下賜なので「恩賜」の名前がついていない。
ーーー続く
wassho at 19:34|Permalink│Comments(0)│
2023年12月23日
芝公園もみじ谷〜増上寺の紅葉
先日に訪れた清澄庭園。庭園としてはよかったものの紅葉は見応えに欠けた。その欲求不満を解消すべく、まだ訪れたことのなかった旧芝離宮恩賜庭園に行ってみようかと。日付は12月9日。
隣にある浜離宮庭園へは以前にロウバイや菜の花を見に出かけた。それで芝離宮庭園の最寄り駅は、新橋だったか浜松町だったかと地図を確認すると、芝公園とそれほど離れていないのに気付く。芝公園の東京タワー下には「もみじ谷」と呼ばれている紅葉名所がある。
もみじ谷は何度も訪れてはいるけれど、前菜としてここからスタートするのもよし。実は自宅から東京タワーまでバス1本なので交通の便もいい。
東京タワーのひとつ手前、赤羽橋駅前の停留所で下車。それはもみじ谷の少し南側、芝公園17号地にあるイエローオータムを見るため。ここには私が「ゴッホのイチョウ」と名付けている木がある。
公園には10数本のイチョウ。
ゴッホのイチョウは中央と右側の木。
後ろはザ・プリンス・パークタワー東京。
でもいつもと様子が違う。何となく元気がない。今年の夏が暑すぎたせいか、あるいはタイミング的に落葉が進んでしまったからだろうか。
ちなみにこちらは2019年に撮った写真。
炎のようなクネクネ感があってゴッホぽいでしょ。
もっともゴッホはあんなに黄色フェチだったくせにイチョウは描いていない。ゴッホの時代にヨーロッパではまだイチョウが多くなかったともいわれるが詳しくは知らない。
まあでも2019年から毎年眺めている、
ゴッホのイチョウに今年も会えて良かった。
東京タワーと一緒に。タワーが傾いているのはどんなカメラでもレンズの特性でそうなってしまうからで、私の撮影ミスじゃないよ。
いかにも素人が撮りがちなやつも(^^ゞ
東京タワー方向へ進むと弁天池がある。
途中に赤いモミジがあるものの、
この池の周りの紅葉は色が冴えない。
これは毎年そうである。
しかし逆光にするとそれなりにサマになるのが紅葉の恐ろしさ。
紅葉名所のガイドブック写真で逆光が多ければ注意が必要。
東京タワーに到着。
東京タワーは標高18mの少し高台に建っている。
タワーの高さは333mあるから海抜では351m。
もみじ谷の入り口付近。
ここは芝公園19号地にあたる。
この坂を上ったあたりに最も鮮やかなレッドオータムがある。
しかし今年は色づきがやや浅かった。
それでも美しいオータムに満足。
中央にある広場。
こちらの方が赤い。
東京タワーも一緒に写しましょう。
このもみじ谷のいいところは、
様々な色や表情の紅葉を楽しめるところ。
そして東京タワーの存在ももちろん大きい。
苑内には小さな滝もある。
東京タワーは有名でも、その真下にこんな光景が広がっているのはあまり知られていない。東京タワー見物は紅葉シーズンに是非。
芝公園は東京プリンスホテル、増上寺、ザ・プリンス・パークタワー東京の敷地を取り囲むように造られている。なおこの地図は北が右。
東京プリンスホテルと増上寺裏門の間を抜けていく。
これは道路から見える東京プリンスホテルの庭。
いつもは紅葉と一緒にピンク色の花があるのに今年はなかった。
立ち寄るつもりはなかったのだけれど、
道路沿いに出入り口が開いているので。
千躰子育地蔵尊(せんたい・こそだて・じぞうそん)。
千躰は多いとの意味ではなく実際に1300体以上ある。
なおこちらの地蔵は供養ではなく子供の成長や健康を願って奉納される。
正門である三解脱門。
三解脱とは「貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろか)」の3つの煩悩から解脱。私にはできそうにないと思ったら、この門をくぐると解脱できるらしい。やったー(^^ゞ
振り返って増上寺と東京タワーと、11月24日に開業した麻布台ヒルズのスリーショット。
麻布台ヒルズの高さは約330(325.19)mと、333mの東京タワーとほぼ同じ。
標高は11.4mなので海抜計算では東京タワー351m、麻布台ヒルズ337m。
こちらはまだ麻布台ヒルズの姿が見えなかった2019年の写真。
三解脱門を近くから。間口と高さはともに約20m。朱に塗らず木目で見たかったな。ただしこれは傷みを隠すリフォームではなく創建当時から朱塗りだったようだ。
増上寺は9世紀に紀尾井町付近にあった寺がその前身。室町時代の1393年に増上寺の名前となる。徳川家康が関東を治めるようになると徳川家の菩提寺になり、日比谷への移転を経て1598年に現在の芝に再移転。この門は1622年建立だから芝での創建後間もない頃のもの。
その隣にあった黒門。
徳川家光の寄進とされ、昔は黒漆喰が塗られていたから黒門。朱塗りである三解脱門との対比を際立たせるためとも言われる。
増上寺で紅葉があるのはこの黒門の周辺。
そこに建っていた観音像。
台座には「ホテルニュージャパン罹災者の みたまとこしえに安からんことをお祈りして」と書かれていた。ある程度の年齢以上なら記憶に残っているホテルニュージャパンの大火災事故。でもどうして赤坂の火事の慰霊碑がここに?と思ったら、増上寺が遺体(死者33名)の仮安置所になり仮通夜も行われたからのようだ。
犠牲者の冥福をお祈りして、
観音様とレッドオータム、そして東京タワー。南無
そしてこの後、芝離宮庭園へ向かう。
隣にある浜離宮庭園へは以前にロウバイや菜の花を見に出かけた。それで芝離宮庭園の最寄り駅は、新橋だったか浜松町だったかと地図を確認すると、芝公園とそれほど離れていないのに気付く。芝公園の東京タワー下には「もみじ谷」と呼ばれている紅葉名所がある。
もみじ谷は何度も訪れてはいるけれど、前菜としてここからスタートするのもよし。実は自宅から東京タワーまでバス1本なので交通の便もいい。
東京タワーのひとつ手前、赤羽橋駅前の停留所で下車。それはもみじ谷の少し南側、芝公園17号地にあるイエローオータムを見るため。ここには私が「ゴッホのイチョウ」と名付けている木がある。
公園には10数本のイチョウ。
ゴッホのイチョウは中央と右側の木。
後ろはザ・プリンス・パークタワー東京。
でもいつもと様子が違う。何となく元気がない。今年の夏が暑すぎたせいか、あるいはタイミング的に落葉が進んでしまったからだろうか。
ちなみにこちらは2019年に撮った写真。
炎のようなクネクネ感があってゴッホぽいでしょ。
もっともゴッホはあんなに黄色フェチだったくせにイチョウは描いていない。ゴッホの時代にヨーロッパではまだイチョウが多くなかったともいわれるが詳しくは知らない。
まあでも2019年から毎年眺めている、
ゴッホのイチョウに今年も会えて良かった。
東京タワーと一緒に。タワーが傾いているのはどんなカメラでもレンズの特性でそうなってしまうからで、私の撮影ミスじゃないよ。
いかにも素人が撮りがちなやつも(^^ゞ
東京タワー方向へ進むと弁天池がある。
途中に赤いモミジがあるものの、
この池の周りの紅葉は色が冴えない。
これは毎年そうである。
しかし逆光にするとそれなりにサマになるのが紅葉の恐ろしさ。
紅葉名所のガイドブック写真で逆光が多ければ注意が必要。
東京タワーに到着。
東京タワーは標高18mの少し高台に建っている。
タワーの高さは333mあるから海抜では351m。
もみじ谷の入り口付近。
ここは芝公園19号地にあたる。
この坂を上ったあたりに最も鮮やかなレッドオータムがある。
しかし今年は色づきがやや浅かった。
それでも美しいオータムに満足。
中央にある広場。
こちらの方が赤い。
東京タワーも一緒に写しましょう。
このもみじ谷のいいところは、
様々な色や表情の紅葉を楽しめるところ。
そして東京タワーの存在ももちろん大きい。
苑内には小さな滝もある。
東京タワーは有名でも、その真下にこんな光景が広がっているのはあまり知られていない。東京タワー見物は紅葉シーズンに是非。
芝公園は東京プリンスホテル、増上寺、ザ・プリンス・パークタワー東京の敷地を取り囲むように造られている。なおこの地図は北が右。
東京プリンスホテルと増上寺裏門の間を抜けていく。
これは道路から見える東京プリンスホテルの庭。
いつもは紅葉と一緒にピンク色の花があるのに今年はなかった。
立ち寄るつもりはなかったのだけれど、
道路沿いに出入り口が開いているので。
千躰子育地蔵尊(せんたい・こそだて・じぞうそん)。
千躰は多いとの意味ではなく実際に1300体以上ある。
なおこちらの地蔵は供養ではなく子供の成長や健康を願って奉納される。
正門である三解脱門。
三解脱とは「貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(おろか)」の3つの煩悩から解脱。私にはできそうにないと思ったら、この門をくぐると解脱できるらしい。やったー(^^ゞ
振り返って増上寺と東京タワーと、11月24日に開業した麻布台ヒルズのスリーショット。
麻布台ヒルズの高さは約330(325.19)mと、333mの東京タワーとほぼ同じ。
標高は11.4mなので海抜計算では東京タワー351m、麻布台ヒルズ337m。
こちらはまだ麻布台ヒルズの姿が見えなかった2019年の写真。
三解脱門を近くから。間口と高さはともに約20m。朱に塗らず木目で見たかったな。ただしこれは傷みを隠すリフォームではなく創建当時から朱塗りだったようだ。
増上寺は9世紀に紀尾井町付近にあった寺がその前身。室町時代の1393年に増上寺の名前となる。徳川家康が関東を治めるようになると徳川家の菩提寺になり、日比谷への移転を経て1598年に現在の芝に再移転。この門は1622年建立だから芝での創建後間もない頃のもの。
その隣にあった黒門。
徳川家光の寄進とされ、昔は黒漆喰が塗られていたから黒門。朱塗りである三解脱門との対比を際立たせるためとも言われる。
増上寺で紅葉があるのはこの黒門の周辺。
そこに建っていた観音像。
台座には「ホテルニュージャパン罹災者の みたまとこしえに安からんことをお祈りして」と書かれていた。ある程度の年齢以上なら記憶に残っているホテルニュージャパンの大火災事故。でもどうして赤坂の火事の慰霊碑がここに?と思ったら、増上寺が遺体(死者33名)の仮安置所になり仮通夜も行われたからのようだ。
犠牲者の冥福をお祈りして、
観音様とレッドオータム、そして東京タワー。南無
そしてこの後、芝離宮庭園へ向かう。
wassho at 22:17|Permalink│Comments(0)│
2023年12月21日
紅葉は庭園よりよかった清澄公園
清澄庭園に隣接して清澄公園がある。
面積は庭園が3.7ヘクタール、公園が4.4ヘクタール。「清澄公園」と検索しても「清澄庭園」関連のページしかヒットしないのでよくわからないものの、庭園は9つある都立庭園のひとつで(それは間違いない)、公園はその付属の開放公園との位置づけのようだ。解放とは24時間出入り自由を意味していると思われる。清澄庭園は開園時間があるし150円の入場料が必要。
前回に紀伊国屋文左衛門から始まる清澄庭園の成り立ちを書いた。明治になって三菱財閥創始者の岩崎弥太郎が手に入れたのは庭園と公園両方の土地。現在と関東大震災前の清澄庭園(当時は深川親睦園)を較べると 画像はhttps://www.tokyo-park.or.jp/special/teien/download/pdf/iwasakihontei_bettei.pdfから引用
地図に洋館と書かれている場所には、関東大震災で焼失したジョサイア・コンドルの設計した建物があった。彼は鹿鳴館の設計でも知られるイギリス人建築家。
そこで繰り広げられていた光景。
これが個人の別邸なのだから腹立つくらい金持ち(^^ゞ 写真には音楽隊まで写っている。それにしてもこの時代に招待されているのはオッサンばかりだね。画像はhttps://www.mitsubishi.com/ja/profile/group/mitekita/vol28.htmlから引用
なお前回に書いた関東大震災の翌年大正13年(1924年)に、岩崎家から東京市に寄付されたのは敷地の東半分に当たる現在の清澄庭園部分。公園部分は昭和46〜47年(1971〜72年)にかけて東京都が購入している。そのときの土地所有者が岩崎家だったかはわからなかった。公園の開園は昭和52年(1977年)。
清澄庭園と清澄公園を隔てている道路。
それを渡れば清澄公園に到着。
どことなく江戸時代を感じさせるが、もちろん江戸時代に時計はない。
遊具などはなくガラーンとした広場がほとんどを占める。
でも右にイエロオータム、左にレッドオータム。
まずはイエローオータムから。
かなりの大木で、色づきも今が盛りのタイミング。
なぜかイチョウの下で寝ているオバチャンが2人いた。
この日は12月7日。暖冬でこの時の気温は20度近くあったとはいえ、紅葉の木の下で昼寝している人は初めて見た。
イエローオータムとしての見応えは清澄庭園で最初に見たイチョウと変わらない。しかしこちらの素晴らしさは木の真下に入れたこと。見上げながら空からイエローが降ってくるようなその姿を堪能する。オバチャンを踏みつけないように注意しながら(^^ゞ
次はレッドオータム。
今年一番のピュアレッド!
グリーンを背景に眺めるのもまたよし。
お約束の逆光木漏れ日ファンタジー。
レッドとオレンジのグラデーションもきれい。
マツの葉の細さがフワーッとした感じを出して、
背景のレッドオータムの対比がちょっと幻想的に思えた風景だった。
パソコンで読んでいるならクリックで拡大して見て欲しい。
実はせっかく清澄庭園まで来たのだから、ついでに公園も覗いておこう程度の気持ちだった。でも紅葉は清澄公園のほうが充実している。清澄庭園に来たのなら是非とも公園に立ち寄るべし。というか紅葉だけなら清澄公園だけでもいいかも知れない。意外な穴場でした。
面積は庭園が3.7ヘクタール、公園が4.4ヘクタール。「清澄公園」と検索しても「清澄庭園」関連のページしかヒットしないのでよくわからないものの、庭園は9つある都立庭園のひとつで(それは間違いない)、公園はその付属の開放公園との位置づけのようだ。解放とは24時間出入り自由を意味していると思われる。清澄庭園は開園時間があるし150円の入場料が必要。
前回に紀伊国屋文左衛門から始まる清澄庭園の成り立ちを書いた。明治になって三菱財閥創始者の岩崎弥太郎が手に入れたのは庭園と公園両方の土地。現在と関東大震災前の清澄庭園(当時は深川親睦園)を較べると 画像はhttps://www.tokyo-park.or.jp/special/teien/download/pdf/iwasakihontei_bettei.pdfから引用
地図に洋館と書かれている場所には、関東大震災で焼失したジョサイア・コンドルの設計した建物があった。彼は鹿鳴館の設計でも知られるイギリス人建築家。
そこで繰り広げられていた光景。
これが個人の別邸なのだから腹立つくらい金持ち(^^ゞ 写真には音楽隊まで写っている。それにしてもこの時代に招待されているのはオッサンばかりだね。画像はhttps://www.mitsubishi.com/ja/profile/group/mitekita/vol28.htmlから引用
なお前回に書いた関東大震災の翌年大正13年(1924年)に、岩崎家から東京市に寄付されたのは敷地の東半分に当たる現在の清澄庭園部分。公園部分は昭和46〜47年(1971〜72年)にかけて東京都が購入している。そのときの土地所有者が岩崎家だったかはわからなかった。公園の開園は昭和52年(1977年)。
清澄庭園と清澄公園を隔てている道路。
それを渡れば清澄公園に到着。
どことなく江戸時代を感じさせるが、もちろん江戸時代に時計はない。
遊具などはなくガラーンとした広場がほとんどを占める。
でも右にイエロオータム、左にレッドオータム。
まずはイエローオータムから。
かなりの大木で、色づきも今が盛りのタイミング。
なぜかイチョウの下で寝ているオバチャンが2人いた。
この日は12月7日。暖冬でこの時の気温は20度近くあったとはいえ、紅葉の木の下で昼寝している人は初めて見た。
イエローオータムとしての見応えは清澄庭園で最初に見たイチョウと変わらない。しかしこちらの素晴らしさは木の真下に入れたこと。見上げながら空からイエローが降ってくるようなその姿を堪能する。オバチャンを踏みつけないように注意しながら(^^ゞ
次はレッドオータム。
今年一番のピュアレッド!
グリーンを背景に眺めるのもまたよし。
お約束の逆光木漏れ日ファンタジー。
レッドとオレンジのグラデーションもきれい。
マツの葉の細さがフワーッとした感じを出して、
背景のレッドオータムの対比がちょっと幻想的に思えた風景だった。
パソコンで読んでいるならクリックで拡大して見て欲しい。
実はせっかく清澄庭園まで来たのだから、ついでに公園も覗いておこう程度の気持ちだった。でも紅葉は清澄公園のほうが充実している。清澄庭園に来たのなら是非とも公園に立ち寄るべし。というか紅葉だけなら清澄公園だけでもいいかも知れない。意外な穴場でした。
wassho at 22:57|Permalink│Comments(0)│
2023年12月20日
紅葉より石がよかった清澄庭園
東京にある公園や庭園それ限らず広い敷地を持つものは、江戸時代にあった大名屋敷の跡地に出来ているものが多い。この清澄庭園もそうに違いないと思っていたら少しいきさつが違った。
最初に名前が出てくるのは紀伊国屋文左衛門。出身地の紀州で安値となっていたミカンを買い集めて江戸で高値で売りさばき、その儲けで今度は木曽の材木を買い付けて、火事が多かった江戸で材木商となって莫大な財をなす。吉原を貸し切りにして一晩で今のお金なら数億円を使ったと噂される元祖・転売ヤーの(^^ゞ あの紀伊国屋文左衛門である。
吉原の遊郭で小判をばらまく文左衛門。
一度はやってみたいゼ。
もっともばらまく小判のほとんどは、同席した幕府の役人が持って帰るとの説もある。
つまり吉原を隠れ蓑にした賄賂の受け渡し。お主もワルよの〜
清澄庭園の公式ホームページには「この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています」と記載されている。ただし「言い伝えられています」との表記がミソで歴史的事実としては確認されていない。
だいたい紀伊国屋文左衛門なる人物が本当に実在したのかも微妙であり、実在していたとしても彼の話は相当に「盛られ」ている。でもその伝説は材木の町であった、このあたり深川に住む江戸っ子には大人気で彼はスーパーヒーロー。だからこんな立派な屋敷跡は紀伊国屋文左衛門のものに違いないとなる。
ついでに紀伊国屋文左衛門が活躍したのは江戸時代が中期に入った元禄時代。年号としての元禄は1688年から1704年の17年間。でも元禄時代という場合は五代将軍綱吉が治めた1680年から1709年の30年間を指す場合が多い。元禄時代は貴族や武士などの支配階級ではなく、日本で初めて町人・庶民が文化の担い手となった時代。スーパースターは井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門など。赤穂浪士の事件も元禄15年。
年号としては元禄の3つ先となる享保年間(1716〜1736年)のどこかで、ここは関宿藩(千葉県野田市)久世家の下屋敷となる。ちなみに紀伊国屋文左衛門が亡くなったのは1734年とされ、また晩年の彼は事業に失敗して無一文になった、いやそんなことはないと元々が伝説上の人物なのではっきりしない。
公式ホームページによると「その頃にある程度庭園が形づくられたようです」とある。久世家の下屋敷でどのような庭園だったかの資料は見つからなかった。幕末に下屋敷は幕府に返還され、明治の最初は徳川慶喜、前島密など所有者が転々と変わっている。
そして明治11年(1878年)、おそらくは荒廃していただろうこの土地を三菱財閥創始者の岩崎弥太郎が買い取る。社員の親睦やVIPを招待する場所として庭園を整備。当時は深川親睦園と呼ばれていた。以降は弟の弥之助、長男の久弥と岩崎家3代に渡って引き継がれる。(どの資料にも岩崎家3代と書いてあるけれど、会社ではなく個人所有だったのかどうかは不明)
大正12年(1923年)の関東大震災では深川の人々の避難場所となる。そして翌年、大正13年に東京市に寄付。昭和7年(1932年)に公開された。寄付された理由について公式ホームページでは「岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し」と書かれている。そんなきれい事だったのかなと疑問に思うが、寄付の背景を記したような資料は見つからず。
さてハゼノキのあった築島を出て、
池の周回路を歩く。
前回に紹介したハゼノキと葛飾北斎みたいなイチョウのツーショット。
石仏群との案内があったので周回路を逸れてみる。
岩崎家が庭園を造成する際に出土したと書かれている。
ひょっとしたら紀伊国屋文左衛門が拝んでいたものかも知れないね。
石仏の石とは関係ないが、
清澄庭園にはあちらこちらに大きな石が転がっている。
これは岩崎弥太郎が無類の石好きで全国から名石を集めたから。いわゆる奇岩の類いではないから、写真に撮ってみるとインパクトはないものの、目の前で見るといろんな表情があって面白かった。そのうち石だけをじっくり見に来ようかと思っている。
この案内で芭蕉碑・花菖蒲田に向かう。
芝生広場が中央にあって、
周辺に沿って進むとハナショウブが植えられていた場所がいくつかあった。
「田」と呼ばれるのは、ハナショウブは湿ったところに育つので稲の田からの連想だと思う。見た目が似ているアヤメとカキツバタでも「田」が使われる場合がある。ただしカキツバタは湿地を好んでもアヤメは乾燥したところで育つ。なお読みは花菖蒲田(はなしょうぶ・た)。
これが芭蕉碑。
彼は36歳の頃に日本橋からこの深川に居を移した。
句の解説。
英語での「古池や蛙飛びこむ水の音」も書かれている。
でも俳句は五七五のリズムがあってのものなので、どうもピンとこない。
ところで海外でもHAIKUは人気だとよく聞く。
それで俳句のルールである季語と五七五はどうなっているかを調べてみると
1)
季語そのものはないけれど季節的な単語は入れる。
ただし日本のように四季がはっきりしてない国では不問。
いずれにしても情景を詠む詩であるのは日本と共通。
五七五については二通りの解説があった。
2-1)
五七五は関係なく短い三行詩がHAIKU。
解説板にあった古池や〜の英語版も三行。
他に有名どころを紹介しておくと(五七五の俳句が翻訳で三行になるのは当然だが)
Eat a persimmon 柿食えば
and the bell will toll 鐘が鳴るなり
at Horyuji 法隆寺
2-2)
日本語の音での五七五を、
英語の場合はシラブル(音節)での五七五にする。
音節とは発音上の区切りのこと。音節が分かれている例えばペンシルのような単語は、辞書では中黒で区切られている。
例えば柿食えばの persimmon は3音節の per・sim・mon だから Eat a persimmon で5音節になる。でも音節なんか普段は全く意識していないから、これはハードルが高い。
なお英語以外の場合はどうなるのか、シラブルがあるのかどうかまでは調べていない。
試しに日本の有名な俳句の翻訳でない、英語でオリジナルに作られたHAIKUをいくつか読んでみると、日本語の俳句だってそれがいい句かどうかよくわからないのに、英語だとさらにわからないとの結論になった。
芭蕉碑のそばにオレンジオータム。
オレンジとイエローとグリーンの3色セット。
素人が取りがちな写真を本日2回目。
芭蕉碑の前の芝生広場をあの門から抜けていく。
門の先の池の周りには少しレッドオータムがあった。
池の畔(ほとり)に降りてみる。
正面に見えているのが先ほどの道案内にあった涼亭(りょうてい)。明治42年(1909年)の竣工。明治時代に造られて関東大震災と戦災で失われず残っている建物はこれだけ。
スッポンがいるみたい(>_<)
これも石好きだった岩崎弥太郎の趣味なのかどうかはわからないが、
なかなかいい感じのウォーターフロントな散策コースになっている。
久しぶりに水面でのローアングル撮影。
でもなんか普通。海岸だとはっきりローアングルだとわかるのに。
清澄庭園の紅葉シンボルであるハゼノキも撮りましょう。
よく見ると築島の下部は置き石でデザインされている。
シラサギ(たぶん)。
それにしてもどうして首がSの字に曲がる構造なのだろう。首が凝りそう。
亀は甲羅干し中。
これはスッポンではなくミシシッピアカミミガメという外来種のようだ。スッポンは先ほどのポスターのような細長い鼻の形をしている。
たくさんいたカモ。
首を後ろに向けてうずくまっているような姿のカモもいる。どうやらこれはクチバシを背中の羽毛に突っ込んで暖めているらしい。そうしながら寝ていると解説してるものもあった。でも写真で見ると目は閉じていない。
ところでカモは公園の池などいろいろなところにいるが、私がカワイイではなくオイシソウと思いながら眺めているのをコイツらは知らない(^^ゞ
先ほどの飛び石と違って水面より少し高いので慎重に。
しかしよく考えたら「飛び石を渡る」難易度としてはさほど変わらないのに、少し高くなっただけでどうしてビビるのだろう。そしてもし、この飛び石の高さが10mあれば怖くて渡れないわけで、恐怖というのは自分で作り出している側面もありそうだ。
飛び石の土台も石だった。
これでグラつかないのは上の飛び石が相当に重いからか。
最後にマツ越しにレッドとイエローのオータム、
そして池の風景を眺めて清澄庭園の散策は終了。
紅葉は少なかったのが本来の目的からすると残念だったものの、
庭園自体はいい雰囲気だったのに救われた。
おしまい
最初に名前が出てくるのは紀伊国屋文左衛門。出身地の紀州で安値となっていたミカンを買い集めて江戸で高値で売りさばき、その儲けで今度は木曽の材木を買い付けて、火事が多かった江戸で材木商となって莫大な財をなす。吉原を貸し切りにして一晩で今のお金なら数億円を使ったと噂される元祖・転売ヤーの(^^ゞ あの紀伊国屋文左衛門である。
吉原の遊郭で小判をばらまく文左衛門。
一度はやってみたいゼ。
もっともばらまく小判のほとんどは、同席した幕府の役人が持って帰るとの説もある。
つまり吉原を隠れ蓑にした賄賂の受け渡し。お主もワルよの〜
清澄庭園の公式ホームページには「この地の一部は江戸の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と言い伝えられています」と記載されている。ただし「言い伝えられています」との表記がミソで歴史的事実としては確認されていない。
だいたい紀伊国屋文左衛門なる人物が本当に実在したのかも微妙であり、実在していたとしても彼の話は相当に「盛られ」ている。でもその伝説は材木の町であった、このあたり深川に住む江戸っ子には大人気で彼はスーパーヒーロー。だからこんな立派な屋敷跡は紀伊国屋文左衛門のものに違いないとなる。
ついでに紀伊国屋文左衛門が活躍したのは江戸時代が中期に入った元禄時代。年号としての元禄は1688年から1704年の17年間。でも元禄時代という場合は五代将軍綱吉が治めた1680年から1709年の30年間を指す場合が多い。元禄時代は貴族や武士などの支配階級ではなく、日本で初めて町人・庶民が文化の担い手となった時代。スーパースターは井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門など。赤穂浪士の事件も元禄15年。
年号としては元禄の3つ先となる享保年間(1716〜1736年)のどこかで、ここは関宿藩(千葉県野田市)久世家の下屋敷となる。ちなみに紀伊国屋文左衛門が亡くなったのは1734年とされ、また晩年の彼は事業に失敗して無一文になった、いやそんなことはないと元々が伝説上の人物なのではっきりしない。
公式ホームページによると「その頃にある程度庭園が形づくられたようです」とある。久世家の下屋敷でどのような庭園だったかの資料は見つからなかった。幕末に下屋敷は幕府に返還され、明治の最初は徳川慶喜、前島密など所有者が転々と変わっている。
そして明治11年(1878年)、おそらくは荒廃していただろうこの土地を三菱財閥創始者の岩崎弥太郎が買い取る。社員の親睦やVIPを招待する場所として庭園を整備。当時は深川親睦園と呼ばれていた。以降は弟の弥之助、長男の久弥と岩崎家3代に渡って引き継がれる。(どの資料にも岩崎家3代と書いてあるけれど、会社ではなく個人所有だったのかどうかは不明)
大正12年(1923年)の関東大震災では深川の人々の避難場所となる。そして翌年、大正13年に東京市に寄付。昭和7年(1932年)に公開された。寄付された理由について公式ホームページでは「岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し」と書かれている。そんなきれい事だったのかなと疑問に思うが、寄付の背景を記したような資料は見つからず。
さてハゼノキのあった築島を出て、
池の周回路を歩く。
前回に紹介したハゼノキと葛飾北斎みたいなイチョウのツーショット。
石仏群との案内があったので周回路を逸れてみる。
岩崎家が庭園を造成する際に出土したと書かれている。
ひょっとしたら紀伊国屋文左衛門が拝んでいたものかも知れないね。
石仏の石とは関係ないが、
清澄庭園にはあちらこちらに大きな石が転がっている。
これは岩崎弥太郎が無類の石好きで全国から名石を集めたから。いわゆる奇岩の類いではないから、写真に撮ってみるとインパクトはないものの、目の前で見るといろんな表情があって面白かった。そのうち石だけをじっくり見に来ようかと思っている。
この案内で芭蕉碑・花菖蒲田に向かう。
芝生広場が中央にあって、
周辺に沿って進むとハナショウブが植えられていた場所がいくつかあった。
「田」と呼ばれるのは、ハナショウブは湿ったところに育つので稲の田からの連想だと思う。見た目が似ているアヤメとカキツバタでも「田」が使われる場合がある。ただしカキツバタは湿地を好んでもアヤメは乾燥したところで育つ。なお読みは花菖蒲田(はなしょうぶ・た)。
これが芭蕉碑。
彼は36歳の頃に日本橋からこの深川に居を移した。
句の解説。
英語での「古池や蛙飛びこむ水の音」も書かれている。
でも俳句は五七五のリズムがあってのものなので、どうもピンとこない。
ところで海外でもHAIKUは人気だとよく聞く。
それで俳句のルールである季語と五七五はどうなっているかを調べてみると
1)
季語そのものはないけれど季節的な単語は入れる。
ただし日本のように四季がはっきりしてない国では不問。
いずれにしても情景を詠む詩であるのは日本と共通。
五七五については二通りの解説があった。
2-1)
五七五は関係なく短い三行詩がHAIKU。
解説板にあった古池や〜の英語版も三行。
他に有名どころを紹介しておくと(五七五の俳句が翻訳で三行になるのは当然だが)
Eat a persimmon 柿食えば
and the bell will toll 鐘が鳴るなり
at Horyuji 法隆寺
2-2)
日本語の音での五七五を、
英語の場合はシラブル(音節)での五七五にする。
音節とは発音上の区切りのこと。音節が分かれている例えばペンシルのような単語は、辞書では中黒で区切られている。
例えば柿食えばの persimmon は3音節の per・sim・mon だから Eat a persimmon で5音節になる。でも音節なんか普段は全く意識していないから、これはハードルが高い。
なお英語以外の場合はどうなるのか、シラブルがあるのかどうかまでは調べていない。
試しに日本の有名な俳句の翻訳でない、英語でオリジナルに作られたHAIKUをいくつか読んでみると、日本語の俳句だってそれがいい句かどうかよくわからないのに、英語だとさらにわからないとの結論になった。
芭蕉碑のそばにオレンジオータム。
オレンジとイエローとグリーンの3色セット。
素人が取りがちな写真を本日2回目。
芭蕉碑の前の芝生広場をあの門から抜けていく。
門の先の池の周りには少しレッドオータムがあった。
池の畔(ほとり)に降りてみる。
正面に見えているのが先ほどの道案内にあった涼亭(りょうてい)。明治42年(1909年)の竣工。明治時代に造られて関東大震災と戦災で失われず残っている建物はこれだけ。
スッポンがいるみたい(>_<)
これも石好きだった岩崎弥太郎の趣味なのかどうかはわからないが、
なかなかいい感じのウォーターフロントな散策コースになっている。
久しぶりに水面でのローアングル撮影。
でもなんか普通。海岸だとはっきりローアングルだとわかるのに。
清澄庭園の紅葉シンボルであるハゼノキも撮りましょう。
よく見ると築島の下部は置き石でデザインされている。
シラサギ(たぶん)。
それにしてもどうして首がSの字に曲がる構造なのだろう。首が凝りそう。
亀は甲羅干し中。
これはスッポンではなくミシシッピアカミミガメという外来種のようだ。スッポンは先ほどのポスターのような細長い鼻の形をしている。
たくさんいたカモ。
首を後ろに向けてうずくまっているような姿のカモもいる。どうやらこれはクチバシを背中の羽毛に突っ込んで暖めているらしい。そうしながら寝ていると解説してるものもあった。でも写真で見ると目は閉じていない。
ところでカモは公園の池などいろいろなところにいるが、私がカワイイではなくオイシソウと思いながら眺めているのをコイツらは知らない(^^ゞ
先ほどの飛び石と違って水面より少し高いので慎重に。
しかしよく考えたら「飛び石を渡る」難易度としてはさほど変わらないのに、少し高くなっただけでどうしてビビるのだろう。そしてもし、この飛び石の高さが10mあれば怖くて渡れないわけで、恐怖というのは自分で作り出している側面もありそうだ。
飛び石の土台も石だった。
これでグラつかないのは上の飛び石が相当に重いからか。
最後にマツ越しにレッドとイエローのオータム、
そして池の風景を眺めて清澄庭園の散策は終了。
紅葉は少なかったのが本来の目的からすると残念だったものの、
庭園自体はいい雰囲気だったのに救われた。
おしまい
wassho at 22:03|Permalink│Comments(0)│
2023年12月18日
紅葉より松を見てきた清澄庭園
前回の池田山公園と御殿山庭園でのもみじ狩り。それほど期待していたわけじゃなかったとはいえ、紅葉クォリティは池田山公園でギリ、御殿山庭園がイマイチならぬイマミッツで不満が残った。それで都立の庭園ならそこそこ楽しめるだろうと、あまり深く考えずに外出ついでに遠回りして訪れたのが清澄庭園。日付は12月7日。
清澄(きよすみ)庭園は隅田川を渡った江東区にある。庭園があるのは江戸時代に深川と呼ばれたエリア。薄く色を塗ったのが江戸時代の深川で、現在、深川の地名がついているのは庭園南側のごく限られた範囲だけになっている。
地下鉄半蔵門線の清澄白河(きよすみしらかわ)駅で下車。
江東区の清澄町と白河町の境界にあるから清澄白河駅。ところで清澄に白河なんて実に美しい地名。昔は清流でも流れていたのかと思ってしまうが、その由来を調べてみると
清澄:江戸時代に干潟であったこの地帯を開拓した清住弥兵衛の名前。
また彼の苗字の清住は、出身地の千葉鴨川の清澄村から取っている。
白河:白河楽翁(しらかわらくおう)と呼ばれた白河藩主・松平定信の墓があるから。
松平定信は徳川吉宗の孫で、寛政の改革の中心人物。
(白河藩は現在の福島県南部中央)
と清流とは全く関係なかった(^^ゞ
駅の前にある地図看板。
ご覧の通り清澄庭園は駅チカ。
もう見えている。
でも道路に面した入り口は開いておらず、
庭園の周りを奥まで歩いて入り口に到着。
3人の女性が喋っているところが入場口で、
そこをくぐると正面にレッドオータム、
左を向くとイエローオータムがチラッと見えて期待が高まる。
視界が開けるとオータムが少ないのに気づく(/o\)
ちょっとイメージしていた光景と違う。
藁(わら)ぼっち。
これは寒さに弱い植物を藁で覆う防寒対策。以前に上野の牡丹園で笠タイプのを見たが、こちらはグルグル巻き。でも清澄庭園のこれは、おそらく冬の風情を演出するためのダミー(中身は樹木じゃない)だろう。
雪吊りもあった。
東京の積雪量で雪吊りは必要ないので、これも演出としての設置。
最近はあちこちで見かける。
なお藁ぼっちが柱状で木の枝部分がないのを不思議に思われるかも知れない。
この形の藁ぼっちはソテツを包んだもの。
大きすぎて歩幅が合わず微妙に歩きにくい飛び石。
池の景色は素晴らしい。
でもレッドとイエロー比率は少ないーーー
高松宮記念植樹とあった。
先日の有栖川宮記念公園に続いて高松宮つながり二度目。
しかし立て看板には昭和28年(1953年)に植樹したと書かれている。つまり今から70年も前。その割には小さ過ぎない? この庭園は背の低いマツが多いから、そういう品種なのかも。
入り口から見えていたイチョウに近づく。
これは見事だった。
伸びた枝が池に向かって、
まるで葛飾北斎が描いた波しぶきのように見える。
池に沿って進む。
素人が撮りがちな写真(^^ゞ
カワウ?(自信なし)
右にあるのが清澄庭園で紅葉のシンボルとなっているレッドオータム。
橋で築島に渡る。
橋の床版(しょうばん:歩くところ)が土で出来ている、というか土で舗装?されている。こういうのは初めてのような気がする。橋そのものは上の写真でわかるように木製。
ハゼノキだった。サイズはそれほどでもない。
そしておそらくもう半分近く葉は落ちている。
レッドではなく朱色。
ちなみに朱色は英語で vermilion バーミリオン。
ところでこのような朱色系をアップで撮ると少し色が黄色味を帯びる。そしてそれが影響するのか、なぜか背景の青空の色がくすむ。今回だけではなく過去にも多くあった。肉眼での見た目に近いのは下の写真。理由は調べていないので不明。とにかくデジカメあるいは私のデジカメが苦手とする色。
ハゼノキは大きさや葉数的に物足りなく、
マツ好きとしてはマツのほうが見応えがあった。
マツとハゼノキとイチョウの3色ミックス。
イエローオータムを背景にしたマツ。
下からのぞき込んだり。
とにかくマツ。
マツ、マツ、マツ、マツ、マツッ!
何しに来たんや(^^ゞ
ーーー続く
清澄(きよすみ)庭園は隅田川を渡った江東区にある。庭園があるのは江戸時代に深川と呼ばれたエリア。薄く色を塗ったのが江戸時代の深川で、現在、深川の地名がついているのは庭園南側のごく限られた範囲だけになっている。
地下鉄半蔵門線の清澄白河(きよすみしらかわ)駅で下車。
江東区の清澄町と白河町の境界にあるから清澄白河駅。ところで清澄に白河なんて実に美しい地名。昔は清流でも流れていたのかと思ってしまうが、その由来を調べてみると
清澄:江戸時代に干潟であったこの地帯を開拓した清住弥兵衛の名前。
また彼の苗字の清住は、出身地の千葉鴨川の清澄村から取っている。
白河:白河楽翁(しらかわらくおう)と呼ばれた白河藩主・松平定信の墓があるから。
松平定信は徳川吉宗の孫で、寛政の改革の中心人物。
(白河藩は現在の福島県南部中央)
と清流とは全く関係なかった(^^ゞ
駅の前にある地図看板。
ご覧の通り清澄庭園は駅チカ。
もう見えている。
でも道路に面した入り口は開いておらず、
庭園の周りを奥まで歩いて入り口に到着。
3人の女性が喋っているところが入場口で、
そこをくぐると正面にレッドオータム、
左を向くとイエローオータムがチラッと見えて期待が高まる。
視界が開けるとオータムが少ないのに気づく(/o\)
ちょっとイメージしていた光景と違う。
藁(わら)ぼっち。
これは寒さに弱い植物を藁で覆う防寒対策。以前に上野の牡丹園で笠タイプのを見たが、こちらはグルグル巻き。でも清澄庭園のこれは、おそらく冬の風情を演出するためのダミー(中身は樹木じゃない)だろう。
雪吊りもあった。
東京の積雪量で雪吊りは必要ないので、これも演出としての設置。
最近はあちこちで見かける。
なお藁ぼっちが柱状で木の枝部分がないのを不思議に思われるかも知れない。
この形の藁ぼっちはソテツを包んだもの。
大きすぎて歩幅が合わず微妙に歩きにくい飛び石。
池の景色は素晴らしい。
でもレッドとイエロー比率は少ないーーー
高松宮記念植樹とあった。
先日の有栖川宮記念公園に続いて高松宮つながり二度目。
しかし立て看板には昭和28年(1953年)に植樹したと書かれている。つまり今から70年も前。その割には小さ過ぎない? この庭園は背の低いマツが多いから、そういう品種なのかも。
入り口から見えていたイチョウに近づく。
これは見事だった。
伸びた枝が池に向かって、
まるで葛飾北斎が描いた波しぶきのように見える。
池に沿って進む。
素人が撮りがちな写真(^^ゞ
カワウ?(自信なし)
右にあるのが清澄庭園で紅葉のシンボルとなっているレッドオータム。
橋で築島に渡る。
橋の床版(しょうばん:歩くところ)が土で出来ている、というか土で舗装?されている。こういうのは初めてのような気がする。橋そのものは上の写真でわかるように木製。
ハゼノキだった。サイズはそれほどでもない。
そしておそらくもう半分近く葉は落ちている。
レッドではなく朱色。
ちなみに朱色は英語で vermilion バーミリオン。
ところでこのような朱色系をアップで撮ると少し色が黄色味を帯びる。そしてそれが影響するのか、なぜか背景の青空の色がくすむ。今回だけではなく過去にも多くあった。肉眼での見た目に近いのは下の写真。理由は調べていないので不明。とにかくデジカメあるいは私のデジカメが苦手とする色。
ハゼノキは大きさや葉数的に物足りなく、
マツ好きとしてはマツのほうが見応えがあった。
マツとハゼノキとイチョウの3色ミックス。
イエローオータムを背景にしたマツ。
下からのぞき込んだり。
とにかくマツ。
マツ、マツ、マツ、マツ、マツッ!
何しに来たんや(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:40|Permalink│Comments(0)│
2023年12月16日
御殿山庭園は日当たり悪く紅葉はーーー
12月3日に城南五山の池田山&御殿山で紅葉狩り。
池田山公園を後にして御殿山庭園へ向かう。
ところで池田山公園は急な傾斜地に造られていて、池がある下の部分は窪地のようになっている。そして窪地で日当たりが悪いのか、池の周りの紅葉は発色が冴えないと前回に書いた。
それで心配事がーーー
御殿山庭園は敷地全体が窪地なのだ!
池田山の高台から1号線に降りて、それを渡って通称「ソニー通り」と呼ばれる五反田から御殿山を経て第一京浜(国道15号)につながる道路に入る。かつてはこのあたりにソニー本社や関連ビルがたくさんあったのが名前の由来。なお2007年にソニーは本社を芝浦に移転。
ソニー通りを途中で右折。
少し進むといわゆる閑静な住宅街が広がる雰囲気になる。
突き当たりにあるのはミャンマー大使館。
以前に通りかかったときは、ミャンマー人&日本人が数十名で「アウンサンスーチー釈放!」のプラカードを持って静かなデモをしていた。
ところでほとんどの人は彼女の名前をアウンサン・スーチーだと思っている。アウンサンが名前でスーチーが苗字。でも実はアウンサンスーチー全体で名前である。そしてミャンマー人には苗字がない! なぜないのか、なくて困らないのかまでは調べていないものの、とにかくない。またモンゴル、インドネシア、アイスランドも苗字がないようだ。
アウンサンスーチーの名前は父親のアウンサン、父方の祖母であるスー、母親のキンチーからチーを取っているらしい。だからもし中黒を入れるならアウンサン・スー・チー。でもこれは太郎を太・郎にするようなものかな。アウンサンスーチーは長いのでニュースなどでスーチーさんやスーチー女史なんて言われたりもする。ひょっとしたそれは失礼な呼び方なのかも知れない。
ミャンマー大使館に突き当たって左に曲がればすぐに御殿山庭園。
写真左下の低い壁の先が窪地になっていてそこにある。
上の写真を撮ったのはこの看板の現在位置のところ。
低い壁の下をのぞいてみる。
赤や黄色が見当たらないじゃないか(/o\)
とりあえずまだ庭園には降りずに、
案内看板の左上側の通路を歩く。
御殿山トラストシティのビルをバックに。
街灯がジャマなので消したった(^^ゞ
わざわざ街灯まで消した写真にしたのは、これがここで最もきれいな紅葉だったから。そしてこれは庭園の外にあった樹木。それ以上はお察しをm(_ _)m
写真の奥にある左のビルが御殿山トラストタワーでオフィスビル。右側は御殿山トラストコート(マンション)と東京マリオット(ホテル)が同居するビル。このふたつが合わさって御殿山トラストシティ。御殿山庭園はその付属施設のようなもの。
御殿山トラストシティは森トラストの経営。森ビルの創業者亡くなる→次男が森ビルを、三男が森ビル開発等を継ぐ。次男と三男の路線対立で、1999年に三男の配下企業は森ビルグループから離脱し、森ビル開発を森トラストに社名変更。現在、森ビルと森トラストに資本関係はなく全く別の企業。ヒルズと名前が付くのは森ビルの物件。
ここの開業は1990年。当初の名前は森ビル開発がまだ森ビルグループだったので御殿山ヒルズ。2002年に御殿山ガーデンに名称変更。さらに2013年に御殿山トラストシティに再変更している。
生臭い話はこれくらいにして、隣にあったのをもう1枚。
これはハゼ。ハゼノキ(ハゼの木、櫨の木)ともいうウルシの仲間
ハゼの実からは和ロウソクの原料である木蝋(もくろう)が採れる。ちなみに和ロウソクの原料が植物性油脂なのに対して、洋ロウソクは蜜蝋、魚油、鯨油など動物性油脂を経て18世紀後半からは石油から作られるパラフィン。
ここから水が湧き出て、
こちらに流れていき、
庭園の中に落ちている。
これは撮影が楽しめそう。
まだ庭園には降りずに先に進む。
マリオットの入り口までやってきた。
1990年に開業し御殿山ヒルズ、御殿山ガーデンの時代である2013年12月まではホテルラフォーレ東京だった。品川駅からは無料送迎バスがあるものの、歩けば坂道で10数分はかかるのでちょっと不便な立地。また出入り口はもちろん別々だとしても、マンションとホテルが同じビルに入っているのは珍しいのでは?
道を引き返して、これはまだ庭園の外。
庭園の中から上まで伸びている木はきれいに色づいている。
ようやく庭園に降り
噴水や滝があればお約束のハイスピード撮影。
これはシャッタースピードをオートモードで1/70秒。
そして1/1000秒にマニュアル設定。
アレッ? 少し止まっている雰囲気はあるけれど大して違わない。
ただ水が落ちているだけで動きがないからか。
しかしこちらでは漠然と水しぶきに見えていたものが、らせん状に回転していたとわかる。上がオートモードで1/80秒、下が1/1000秒。
調子に乗って1/2000秒。
シャッタースピードが速い=短時間の露光なので写真が暗くなる。
フォトショップ(画像ソフト)で明るさを補正したもの。
どうして水が流れていると、いつも無性にハイスピード撮影をしたくなるのか。自分でも不思議だったけれど、最近ようやく理由がわかった。葛飾北斎も波しぶきの一瞬の形を捉えて浮世絵にしている。彼は私の先祖に違いない(^^ゞ
庭園内散策。
何の木かわからないがピンクのきれい花。
肝心の御殿山庭園の紅葉はというと、
上まで伸びて日が当たってきれいに紅葉しているのはごくわずかで、
少し下だと色もぼやけている。
これでもまだましな方。
仕方ないので鮮やかなグリーンも清々しいカエデでも。
ところで紅葉関連は言葉がややこしい。まず
紅葉:こうよう:赤く色づく
黄葉:こうよう:黄色く色づく
と同音異義語がある。また紅葉は
紅葉:こうよう
紅葉:モミジ
と同形異音異義語でもある。
そしてモミジとカエデはどう違うのか。
どうのふたつの考えがあるようだ。
カエデ:木の品種名
モミジ:カエデの葉が紅葉した状態をそう呼ぶ
カエデ:葉の切れ込みの浅いもの
モミジ:葉の切れ込みの深いもの イメージ図はここをクリック
あまり葉の形まで観察しないから私は前者を支持。
でも実際は紅葉していないものをモミジと呼ぶことも多い。
ついでに同音異義語と違って、
同形異音異義語(単に異音異義語ともいう)はあまり聞き慣れない言葉。
参考までに
同型異音語:同じ漢字で読みは違うが意味は同じ
→日本:にほん、にっぽん 開く:ひらく、あく
同形異音異義語:同じ漢字でも読みが違えば意味も変わる
→生花:いけばな、せいか 市場:いちば、しじょう
御殿山庭園には先ほどの落流だけではなく滝もある。
一番高いところで落差は7〜8mくらいかな。
見ての通り人工的に作られたものだけれど、何となく古代遺跡っぽい。
こちらの方が1/2000秒で葛飾北斎らしくなった。
庭園内風景。
窪地なので日当たり悪く冴えない発色。
多少は赤いところもある程度。
ツワブキでも眺めよう。
庭園を出て窪地の上にある通路。
上からのぞき込んでも冴えない風景に変わりなし。
紅葉は今ミッツだったが、ここはサクラ名所としてはそこそこ有名。
また紅葉を除けば(しつこい)、小さいながら庭園の雰囲気もいい。
※面積は0.68ヘクタール
ただし難点はすぐ隣にJRの線路が通っていること。電車の音が高いタワービルで反射して庭園に降りてくるのかレールから出る騒音がとてもうるさい。
最後に滝を上から眺めて御殿山庭園の散策を終了。
次はサクラを見に来ましょう。
おしまい
池田山公園を後にして御殿山庭園へ向かう。
ところで池田山公園は急な傾斜地に造られていて、池がある下の部分は窪地のようになっている。そして窪地で日当たりが悪いのか、池の周りの紅葉は発色が冴えないと前回に書いた。
それで心配事がーーー
御殿山庭園は敷地全体が窪地なのだ!
池田山の高台から1号線に降りて、それを渡って通称「ソニー通り」と呼ばれる五反田から御殿山を経て第一京浜(国道15号)につながる道路に入る。かつてはこのあたりにソニー本社や関連ビルがたくさんあったのが名前の由来。なお2007年にソニーは本社を芝浦に移転。
ソニー通りを途中で右折。
少し進むといわゆる閑静な住宅街が広がる雰囲気になる。
突き当たりにあるのはミャンマー大使館。
以前に通りかかったときは、ミャンマー人&日本人が数十名で「アウンサンスーチー釈放!」のプラカードを持って静かなデモをしていた。
ところでほとんどの人は彼女の名前をアウンサン・スーチーだと思っている。アウンサンが名前でスーチーが苗字。でも実はアウンサンスーチー全体で名前である。そしてミャンマー人には苗字がない! なぜないのか、なくて困らないのかまでは調べていないものの、とにかくない。またモンゴル、インドネシア、アイスランドも苗字がないようだ。
アウンサンスーチーの名前は父親のアウンサン、父方の祖母であるスー、母親のキンチーからチーを取っているらしい。だからもし中黒を入れるならアウンサン・スー・チー。でもこれは太郎を太・郎にするようなものかな。アウンサンスーチーは長いのでニュースなどでスーチーさんやスーチー女史なんて言われたりもする。ひょっとしたそれは失礼な呼び方なのかも知れない。
ミャンマー大使館に突き当たって左に曲がればすぐに御殿山庭園。
写真左下の低い壁の先が窪地になっていてそこにある。
上の写真を撮ったのはこの看板の現在位置のところ。
低い壁の下をのぞいてみる。
赤や黄色が見当たらないじゃないか(/o\)
とりあえずまだ庭園には降りずに、
案内看板の左上側の通路を歩く。
御殿山トラストシティのビルをバックに。
街灯がジャマなので消したった(^^ゞ
わざわざ街灯まで消した写真にしたのは、これがここで最もきれいな紅葉だったから。そしてこれは庭園の外にあった樹木。それ以上はお察しをm(_ _)m
写真の奥にある左のビルが御殿山トラストタワーでオフィスビル。右側は御殿山トラストコート(マンション)と東京マリオット(ホテル)が同居するビル。このふたつが合わさって御殿山トラストシティ。御殿山庭園はその付属施設のようなもの。
御殿山トラストシティは森トラストの経営。森ビルの創業者亡くなる→次男が森ビルを、三男が森ビル開発等を継ぐ。次男と三男の路線対立で、1999年に三男の配下企業は森ビルグループから離脱し、森ビル開発を森トラストに社名変更。現在、森ビルと森トラストに資本関係はなく全く別の企業。ヒルズと名前が付くのは森ビルの物件。
ここの開業は1990年。当初の名前は森ビル開発がまだ森ビルグループだったので御殿山ヒルズ。2002年に御殿山ガーデンに名称変更。さらに2013年に御殿山トラストシティに再変更している。
生臭い話はこれくらいにして、隣にあったのをもう1枚。
これはハゼ。ハゼノキ(ハゼの木、櫨の木)ともいうウルシの仲間
ハゼの実からは和ロウソクの原料である木蝋(もくろう)が採れる。ちなみに和ロウソクの原料が植物性油脂なのに対して、洋ロウソクは蜜蝋、魚油、鯨油など動物性油脂を経て18世紀後半からは石油から作られるパラフィン。
ここから水が湧き出て、
こちらに流れていき、
庭園の中に落ちている。
これは撮影が楽しめそう。
まだ庭園には降りずに先に進む。
マリオットの入り口までやってきた。
1990年に開業し御殿山ヒルズ、御殿山ガーデンの時代である2013年12月まではホテルラフォーレ東京だった。品川駅からは無料送迎バスがあるものの、歩けば坂道で10数分はかかるのでちょっと不便な立地。また出入り口はもちろん別々だとしても、マンションとホテルが同じビルに入っているのは珍しいのでは?
道を引き返して、これはまだ庭園の外。
庭園の中から上まで伸びている木はきれいに色づいている。
ようやく庭園に降り
噴水や滝があればお約束のハイスピード撮影。
これはシャッタースピードをオートモードで1/70秒。
そして1/1000秒にマニュアル設定。
アレッ? 少し止まっている雰囲気はあるけれど大して違わない。
ただ水が落ちているだけで動きがないからか。
しかしこちらでは漠然と水しぶきに見えていたものが、らせん状に回転していたとわかる。上がオートモードで1/80秒、下が1/1000秒。
調子に乗って1/2000秒。
シャッタースピードが速い=短時間の露光なので写真が暗くなる。
フォトショップ(画像ソフト)で明るさを補正したもの。
どうして水が流れていると、いつも無性にハイスピード撮影をしたくなるのか。自分でも不思議だったけれど、最近ようやく理由がわかった。葛飾北斎も波しぶきの一瞬の形を捉えて浮世絵にしている。彼は私の先祖に違いない(^^ゞ
庭園内散策。
何の木かわからないがピンクのきれい花。
肝心の御殿山庭園の紅葉はというと、
上まで伸びて日が当たってきれいに紅葉しているのはごくわずかで、
少し下だと色もぼやけている。
これでもまだましな方。
仕方ないので鮮やかなグリーンも清々しいカエデでも。
ところで紅葉関連は言葉がややこしい。まず
紅葉:こうよう:赤く色づく
黄葉:こうよう:黄色く色づく
と同音異義語がある。また紅葉は
紅葉:こうよう
紅葉:モミジ
と同形異音異義語でもある。
そしてモミジとカエデはどう違うのか。
どうのふたつの考えがあるようだ。
カエデ:木の品種名
モミジ:カエデの葉が紅葉した状態をそう呼ぶ
カエデ:葉の切れ込みの浅いもの
モミジ:葉の切れ込みの深いもの イメージ図はここをクリック
あまり葉の形まで観察しないから私は前者を支持。
でも実際は紅葉していないものをモミジと呼ぶことも多い。
ついでに同音異義語と違って、
同形異音異義語(単に異音異義語ともいう)はあまり聞き慣れない言葉。
参考までに
同型異音語:同じ漢字で読みは違うが意味は同じ
→日本:にほん、にっぽん 開く:ひらく、あく
同形異音異義語:同じ漢字でも読みが違えば意味も変わる
→生花:いけばな、せいか 市場:いちば、しじょう
御殿山庭園には先ほどの落流だけではなく滝もある。
一番高いところで落差は7〜8mくらいかな。
見ての通り人工的に作られたものだけれど、何となく古代遺跡っぽい。
こちらの方が1/2000秒で葛飾北斎らしくなった。
庭園内風景。
窪地なので日当たり悪く冴えない発色。
多少は赤いところもある程度。
ツワブキでも眺めよう。
庭園を出て窪地の上にある通路。
上からのぞき込んでも冴えない風景に変わりなし。
紅葉は今ミッツだったが、ここはサクラ名所としてはそこそこ有名。
また紅葉を除けば(しつこい)、小さいながら庭園の雰囲気もいい。
※面積は0.68ヘクタール
ただし難点はすぐ隣にJRの線路が通っていること。電車の音が高いタワービルで反射して庭園に降りてくるのかレールから出る騒音がとてもうるさい。
最後に滝を上から眺めて御殿山庭園の散策を終了。
次はサクラを見に来ましょう。
おしまい
wassho at 22:24|Permalink│Comments(0)│
2023年12月15日
池田山公園で紅葉狩り
12月3日に城南五山の池田山から御殿山にかけて散歩を兼ねて紅葉狩り。
城南五山については前回で説明したのでご参照を。
まずは池田山公園に到着。
品川区立の公園である。
ここが高台だとよくわかる坂道。
入り口すぐの光景。
結婚式の前撮り写真を撮影中。
それなりの雰囲気は出ている。
ここはかなり急な傾斜地に造られた庭園。
そして上から池をのぞき込んでびっくり。
レッドオータムが汚い!(/o\)
なので池には降りず、この通路の周辺で紅葉狩り。
最近はあまり紅葉狩りとはいわないような気がする。まあ動物でもないのに狩るなんて変わった日本語ではある。イチゴ狩りやブドウ狩りとも言うけれど、あれは収穫する=刈るが変形したのかな。また山に逃げ込んだ犯人を捜すのを山狩りというように「狩る」には探す意味もある。マツタケ狩りはそちらのニュアンス。だから紅葉狩りもきれいなモミジを求めて山を探し歩いたところから、そう呼ばれるようになったのだと思う。
また平安時代の貴族が
歩くなんて庶民のすることで貴族にとっては恥ずべき行為(移動は牛車)
でも山で紅葉を見たいので、
これは「狩り」なのだと見立てた(狩りなら歩いて当然と言い訳した)
なお貴族は動物の狩りなどはしないから、貴族にとっての狩りとの意味である
あるいは
その紅葉の木を折って邸宅に運んだので「狩り」
と呼ばれたなどの説もある。
英語ではもちろんハンティングなんて言わない。「紅葉狩りに行こう」=「紅葉(こうよう)を見に行こう」= Let's go see the autumn leaves となる。もっと端的に “leaf peeping” との表現もあるが peep は「こっそり見る、のぞき見する」の意味なのでヘンな感じ。(参考までに go see は go to see ではなくgo and see の略ね)
レッドオータムとオレンジオータム。
実はそんなにきれいな赤色ではないのだが、逆光撮りをすればたいていの紅葉はそれなりになる。観光ガイドブックで逆光の写真が多い場所は、あまりいい紅葉ではないと疑うべし。
イエローモミジとミックスも眺めましょう。
坂道を降りる。
先ほど池には降りないと書いた。
でも結局ここを下っても池の横に出るわけで(^^ゞ
上から見ても間近で見ても池の周りは発色悪し。
品種の違いかも知れないが、おそらく日当たりが悪いからのように思う。
上にあったモミジとの、
あまりの色の違いにかわいそうになってきた(/o\)
降りてきたのと反対側に登る道があって、その先に紅葉が。
でも通行止め。
ズームを望遠にして近くまで行ったつもりでガマン。
池田山公園は坂の上と下の2カ所に出入り口がある。
下の出入り口に横にはなぜか井戸があった。
そして退出。
次の御殿山庭園へ向かう。
ーーー続く
城南五山については前回で説明したのでご参照を。
まずは池田山公園に到着。
品川区立の公園である。
ここが高台だとよくわかる坂道。
入り口すぐの光景。
結婚式の前撮り写真を撮影中。
それなりの雰囲気は出ている。
ここはかなり急な傾斜地に造られた庭園。
そして上から池をのぞき込んでびっくり。
レッドオータムが汚い!(/o\)
なので池には降りず、この通路の周辺で紅葉狩り。
最近はあまり紅葉狩りとはいわないような気がする。まあ動物でもないのに狩るなんて変わった日本語ではある。イチゴ狩りやブドウ狩りとも言うけれど、あれは収穫する=刈るが変形したのかな。また山に逃げ込んだ犯人を捜すのを山狩りというように「狩る」には探す意味もある。マツタケ狩りはそちらのニュアンス。だから紅葉狩りもきれいなモミジを求めて山を探し歩いたところから、そう呼ばれるようになったのだと思う。
また平安時代の貴族が
歩くなんて庶民のすることで貴族にとっては恥ずべき行為(移動は牛車)
でも山で紅葉を見たいので、
これは「狩り」なのだと見立てた(狩りなら歩いて当然と言い訳した)
なお貴族は動物の狩りなどはしないから、貴族にとっての狩りとの意味である
あるいは
その紅葉の木を折って邸宅に運んだので「狩り」
と呼ばれたなどの説もある。
英語ではもちろんハンティングなんて言わない。「紅葉狩りに行こう」=「紅葉(こうよう)を見に行こう」= Let's go see the autumn leaves となる。もっと端的に “leaf peeping” との表現もあるが peep は「こっそり見る、のぞき見する」の意味なのでヘンな感じ。(参考までに go see は go to see ではなくgo and see の略ね)
レッドオータムとオレンジオータム。
実はそんなにきれいな赤色ではないのだが、逆光撮りをすればたいていの紅葉はそれなりになる。観光ガイドブックで逆光の写真が多い場所は、あまりいい紅葉ではないと疑うべし。
イエローモミジとミックスも眺めましょう。
坂道を降りる。
先ほど池には降りないと書いた。
でも結局ここを下っても池の横に出るわけで(^^ゞ
上から見ても間近で見ても池の周りは発色悪し。
品種の違いかも知れないが、おそらく日当たりが悪いからのように思う。
上にあったモミジとの、
あまりの色の違いにかわいそうになってきた(/o\)
降りてきたのと反対側に登る道があって、その先に紅葉が。
でも通行止め。
ズームを望遠にして近くまで行ったつもりでガマン。
池田山公園は坂の上と下の2カ所に出入り口がある。
下の出入り口に横にはなぜか井戸があった。
そして退出。
次の御殿山庭園へ向かう。
ーーー続く
wassho at 22:41|Permalink│Comments(0)│