美術展
2024年02月10日
デイヴィッド・ホックニーとキュビスム その2
続いて風景のジョイナーフォト。前回に紹介した室内写真と比べて視点の移動は控えめながら、キュビスム展でも感じた万華鏡らしさは伝わってくる。
Pearblossom Hwy 1986年
Place Furstenburg, Paris, August 7, 8, 9, 1985
The Brooklyn Bridge Nov 28th 1982
Merced River, Yosemite Valley 1982年
35年ほど前にメトロポリタン美術館で見た作品がどんなのだったかはもう記憶にないものの、こんな手法を考えるホックニーは天才だと思ったのはよく覚えている。またその頃は部屋にポスターを飾るなどホックニーのファンだったので、そんなホックニーを好きなった私の目は確かだと都合のいい解釈で喜んでもいた。
彼のジョイナーフォトに魅せられたのは別の理由もあった。当時は仕事のプレゼンテーションでビジュアルボードを作る機会が多かった。例えばマーケティングのターゲットとなる人物・生活像を、雑誌の切り抜きなどを組み合わせてイメージしやすくクライアントに提示するのである。だからホックニーとは目的も手法もまったく違うとはいえ、コラージュの制作には馴染みがあり、コラージュそのものに関心が高かったのかも知れない。
それはさておきメトロポリタン美術館でホックニーのジョイナーフォトに感激した私は、帰国後にそれを真似してみようと思い立つ。絵は描けなくても写真の切り貼りくらいはできるだろうとの魂胆。
勤務していたコンサルティング会社は青山通りにあった。バイトに来ていた女子大生にモデル役を頼み込み、青山通りに面したスパイラルホールの前と、そこから路地に入ったちょっとアンティーク感のある喫茶店の前で撮影した。関係ないけれど、その喫茶店でお茶しているとモデルの山口小夜子をよく見かけたのは懐かしい思い出。
撮影は思ったより手間が掛かった。
まず当時のコンパクトカメラはズームレンズがなく広角の固定焦点。そこで会社の一眼レフ&ズームレンズを借りてきた。ただしピント合わせはマニュアル。(世界初のオートフォーカス一眼レフであるミノルタα7000は既に発売されていたが会社にはなかった)
撮影はモデルに対して正面、右寄り、左寄りの3方向から。それぞれに腰の高さ、目の高さ、脚立に乗ってと3つの高さで。その9カ所からカメラのアングルを左右や上下に振って、またズームの倍率を変えながら撮る。その都度ピントも合わせなければならないし、フィルムの交換も面倒だった。
たぶん200枚くらい撮った。
フィルム代、現像代、プリント代ーーーけっこうな出費(/o\)
それよりも何よりも、
できあがってきた写真を、どう組み合わせてもサマにならなかったのがショック。200枚といっても4地点分だったと思うので1地点あたりだと50枚。イメージしていた広がりや動きを感じる雰囲気をだすのには、それじゃ全然足りなかったように記憶している。それと当然ながら「紙の写真」だから一度カットしてしまうとやり直しがきかない(再度プリントする手はあるが)。
そんなこんなで日本のホックニーになる目論見はあえなく挫折(>_<)
それも楽しい経験のひとつではある。
これはホックニーのジョイナーフォト制作風景。
私も自宅で写真を広げて、まったく同じポーズで悩んでいた。
画像はhttps://www.rollingstone.com/culture/culture-features/the-rolling-stone-interview-david-hockney-modern-art-master-204057/から引用
国立西洋美術館でキュビスム展を見るまで、35年ほど前にホックニー「ごっこ」をしたことすら忘れていたが、考えてみれば今はデジカメの時代。とりあえず撮影枚数を気にする必要はなく、またピントもオートフォーカス。液晶モニターがチルトするから低い位置や高い位置から撮るのも楽。そして何より写真を画像ソフト上で配置できる。形や大きさも自由自在で何度でもやり直し可能。色を変えたり様々なエフェクトも掛けられる。
またやってみるかと密かに企んでいるのは、
まだ誰にも打ち明けていないから内緒にね(^^ゞ
そんな思い出話、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ホックニーは日本の風景もジョイナーフォトにしている。制作はすべて1983年なので同じ時期の来日だろう。最初の3枚は京都の旅館。
Gregory Watching The Snow Fall, Kyoto, Feb 21st 1983
Gregory Reading In Kyoto 1983年
Shoes, Kyoto 1983年
これは木屋町通りだと思う。
Canal And Road, Kyoto 1983年
東京での1枚。
The Ashtray, Sunday Morning, Tokyo 1983年
Ashtrayは灰皿。画面中央に今では見なくなった公衆灰皿?がある。たぶんそれが珍しかったのでは。場所はおそらく新橋あたり。
そしてこれは石庭で知られる京都の龍安寺(りょうあんじ)。
Siting in the Zen Garden at the Ryoanji Temple Kyoto Feb. 19 1983年
画面右下にフィルムケースが散乱している。
ほら、ジョイナーフォトでコラージュするにはフィルムがたくさん必要なのよ。
これをジョイナーフォトにする意味があったかどうかは疑問だが。
Walking in the Zen Garden at the Ryoanji Temple Kyoto Feb 21st 1983年
タイトルが Walking で足元の連続写真が組み合わされているものの、庭を眺める視点は動いていない。なお日付を見ると彼は少なくとも龍安寺を2回訪れており、どうやらここを気に入ったみたい。
ピカソやジョルジュ・ブラックがキュビスムを始めたのは、写真が普及し始めて従来の「見たとおりに記録する」で絵画は写真に敵わないのも一因とされる。つまり写真にできない表現を見つけようと。
いわばそのアンチ写真のキュビスムを、写真を使って再現して、また多角度の視点だけではなく、時間の経過も統合したものに発展させたのがホックニーの面白いところ。ところでフランティシェク・クプカのように連続写真に影響を受けたキュビスム絵画はあっても、ピカソたちはどうして時間の経過を表現しなかったのだろう。ひょっとしたらそれはコロンブスの卵のようにいわれれば当たり前でも、そうでなければなかなか気付かないものだったのかも知れない。
さてホックニーといえばプールで、
そのジョイナーフォトもある。
プールは見下ろしており上段の椅子やパラソルは真横からで、これはまさにキュビスム的。
Sun on the Pool 1982年
これはグレゴリーが泳いでる写真をつなぎ合わせた時間的キュビスム。
Gregory Swimming Los Angeles March 31st 1982
京都の写真にも出てくるグレゴリーは、モデルからマネージャーそして恋人となったグレゴリー・エバンス。ホックニーは1960年代からゲイを公表していた。
ちょっとエロいのもいっときましょう(^^ゞ
Theresa Russell Nude for XVI RIP ARLES 1985年
Theresa Russellとは若い頃はマリリン・モンローの役も演じたハリウッド女優のテレサ・ラッセルのようだけれど、この写真じゃわからないなあ。
またタイトルにある XVI RIP ARLES とは、まずXVIはローマ数字で16。RIPはフランス語で Rencontres Internationales de la Photographie の略。直訳では国際写真展。ARLES は南フランスのアルル。まとめると日本ではアルル国際写真フェスティバルと呼ばれる、カンヌ映画祭の写真版とも呼ばれる大規模写真イベント。一般的な表記は Les Rencontres d'Arles。初開催は1970年で、その16回目=1985年にこの作品を出展したと示している。
最後にホックニーのポートレイト。
これはタイトルや制作年が不明。
ただしジョイナーフォトを制作していたのは1980年代に限られるので、その頃の写真のはず。彼は1937年生まれで、仮に1985年撮影だとすると48歳。
1966年、29歳か28歳。
何となく若い頃のアンディ・ウォーホルに似た雰囲気。
アンディ・ウォーホルは1928年生まれで9歳年上。二人に親交はあったが「お付き合い」してたかどうかは知らない。写真は1980年に撮られた英米ポップアートの巨匠。ホックニー43歳、ウォーホル52歳頃。
ところでホックニーの絵はカリフォルニアっぽいので、彼をアメリカ人だと思っている人が多いがブラッドフォード生まれのイギリス人である。ただし1964年にロサンゼルスに移住している。その後ニューヨーク近郊、ロンドンやパリに住んでいた時期もあり、現在はフランスのノルマンディーが拠点らしい。
これは2021年の撮影。
今年で御年87歳! 画像はhttps://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/hockney/index.htmlから引用
キュビスム展に行くまでホックニーのことはほとんど忘れていたのに、ジョイナーフォトの画像を探しているときに、懐かしい作品もいろいろ見られて楽しかった。久しぶりに展覧会でも見たいなと思ったら、なんと昨年の7月から11月にかけて東京都現代美術館で開かれていたと知る。そして美術館のホームページには「日本では27年ぶりとなる大規模な個展です」との文字が!
もう見る機会はないかもなあ(^^ゞ
おしまい
Pearblossom Hwy 1986年
Place Furstenburg, Paris, August 7, 8, 9, 1985
The Brooklyn Bridge Nov 28th 1982
Merced River, Yosemite Valley 1982年
35年ほど前にメトロポリタン美術館で見た作品がどんなのだったかはもう記憶にないものの、こんな手法を考えるホックニーは天才だと思ったのはよく覚えている。またその頃は部屋にポスターを飾るなどホックニーのファンだったので、そんなホックニーを好きなった私の目は確かだと都合のいい解釈で喜んでもいた。
彼のジョイナーフォトに魅せられたのは別の理由もあった。当時は仕事のプレゼンテーションでビジュアルボードを作る機会が多かった。例えばマーケティングのターゲットとなる人物・生活像を、雑誌の切り抜きなどを組み合わせてイメージしやすくクライアントに提示するのである。だからホックニーとは目的も手法もまったく違うとはいえ、コラージュの制作には馴染みがあり、コラージュそのものに関心が高かったのかも知れない。
それはさておきメトロポリタン美術館でホックニーのジョイナーフォトに感激した私は、帰国後にそれを真似してみようと思い立つ。絵は描けなくても写真の切り貼りくらいはできるだろうとの魂胆。
勤務していたコンサルティング会社は青山通りにあった。バイトに来ていた女子大生にモデル役を頼み込み、青山通りに面したスパイラルホールの前と、そこから路地に入ったちょっとアンティーク感のある喫茶店の前で撮影した。関係ないけれど、その喫茶店でお茶しているとモデルの山口小夜子をよく見かけたのは懐かしい思い出。
撮影は思ったより手間が掛かった。
まず当時のコンパクトカメラはズームレンズがなく広角の固定焦点。そこで会社の一眼レフ&ズームレンズを借りてきた。ただしピント合わせはマニュアル。(世界初のオートフォーカス一眼レフであるミノルタα7000は既に発売されていたが会社にはなかった)
撮影はモデルに対して正面、右寄り、左寄りの3方向から。それぞれに腰の高さ、目の高さ、脚立に乗ってと3つの高さで。その9カ所からカメラのアングルを左右や上下に振って、またズームの倍率を変えながら撮る。その都度ピントも合わせなければならないし、フィルムの交換も面倒だった。
たぶん200枚くらい撮った。
フィルム代、現像代、プリント代ーーーけっこうな出費(/o\)
それよりも何よりも、
できあがってきた写真を、どう組み合わせてもサマにならなかったのがショック。200枚といっても4地点分だったと思うので1地点あたりだと50枚。イメージしていた広がりや動きを感じる雰囲気をだすのには、それじゃ全然足りなかったように記憶している。それと当然ながら「紙の写真」だから一度カットしてしまうとやり直しがきかない(再度プリントする手はあるが)。
そんなこんなで日本のホックニーになる目論見はあえなく挫折(>_<)
それも楽しい経験のひとつではある。
これはホックニーのジョイナーフォト制作風景。
私も自宅で写真を広げて、まったく同じポーズで悩んでいた。
画像はhttps://www.rollingstone.com/culture/culture-features/the-rolling-stone-interview-david-hockney-modern-art-master-204057/から引用
国立西洋美術館でキュビスム展を見るまで、35年ほど前にホックニー「ごっこ」をしたことすら忘れていたが、考えてみれば今はデジカメの時代。とりあえず撮影枚数を気にする必要はなく、またピントもオートフォーカス。液晶モニターがチルトするから低い位置や高い位置から撮るのも楽。そして何より写真を画像ソフト上で配置できる。形や大きさも自由自在で何度でもやり直し可能。色を変えたり様々なエフェクトも掛けられる。
またやってみるかと密かに企んでいるのは、
まだ誰にも打ち明けていないから内緒にね(^^ゞ
そんな思い出話、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ホックニーは日本の風景もジョイナーフォトにしている。制作はすべて1983年なので同じ時期の来日だろう。最初の3枚は京都の旅館。
Gregory Watching The Snow Fall, Kyoto, Feb 21st 1983
Gregory Reading In Kyoto 1983年
Shoes, Kyoto 1983年
これは木屋町通りだと思う。
Canal And Road, Kyoto 1983年
東京での1枚。
The Ashtray, Sunday Morning, Tokyo 1983年
Ashtrayは灰皿。画面中央に今では見なくなった公衆灰皿?がある。たぶんそれが珍しかったのでは。場所はおそらく新橋あたり。
そしてこれは石庭で知られる京都の龍安寺(りょうあんじ)。
Siting in the Zen Garden at the Ryoanji Temple Kyoto Feb. 19 1983年
画面右下にフィルムケースが散乱している。
ほら、ジョイナーフォトでコラージュするにはフィルムがたくさん必要なのよ。
これをジョイナーフォトにする意味があったかどうかは疑問だが。
Walking in the Zen Garden at the Ryoanji Temple Kyoto Feb 21st 1983年
タイトルが Walking で足元の連続写真が組み合わされているものの、庭を眺める視点は動いていない。なお日付を見ると彼は少なくとも龍安寺を2回訪れており、どうやらここを気に入ったみたい。
ピカソやジョルジュ・ブラックがキュビスムを始めたのは、写真が普及し始めて従来の「見たとおりに記録する」で絵画は写真に敵わないのも一因とされる。つまり写真にできない表現を見つけようと。
いわばそのアンチ写真のキュビスムを、写真を使って再現して、また多角度の視点だけではなく、時間の経過も統合したものに発展させたのがホックニーの面白いところ。ところでフランティシェク・クプカのように連続写真に影響を受けたキュビスム絵画はあっても、ピカソたちはどうして時間の経過を表現しなかったのだろう。ひょっとしたらそれはコロンブスの卵のようにいわれれば当たり前でも、そうでなければなかなか気付かないものだったのかも知れない。
さてホックニーといえばプールで、
そのジョイナーフォトもある。
プールは見下ろしており上段の椅子やパラソルは真横からで、これはまさにキュビスム的。
Sun on the Pool 1982年
これはグレゴリーが泳いでる写真をつなぎ合わせた時間的キュビスム。
Gregory Swimming Los Angeles March 31st 1982
京都の写真にも出てくるグレゴリーは、モデルからマネージャーそして恋人となったグレゴリー・エバンス。ホックニーは1960年代からゲイを公表していた。
ちょっとエロいのもいっときましょう(^^ゞ
Theresa Russell Nude for XVI RIP ARLES 1985年
Theresa Russellとは若い頃はマリリン・モンローの役も演じたハリウッド女優のテレサ・ラッセルのようだけれど、この写真じゃわからないなあ。
またタイトルにある XVI RIP ARLES とは、まずXVIはローマ数字で16。RIPはフランス語で Rencontres Internationales de la Photographie の略。直訳では国際写真展。ARLES は南フランスのアルル。まとめると日本ではアルル国際写真フェスティバルと呼ばれる、カンヌ映画祭の写真版とも呼ばれる大規模写真イベント。一般的な表記は Les Rencontres d'Arles。初開催は1970年で、その16回目=1985年にこの作品を出展したと示している。
最後にホックニーのポートレイト。
これはタイトルや制作年が不明。
ただしジョイナーフォトを制作していたのは1980年代に限られるので、その頃の写真のはず。彼は1937年生まれで、仮に1985年撮影だとすると48歳。
1966年、29歳か28歳。
何となく若い頃のアンディ・ウォーホルに似た雰囲気。
アンディ・ウォーホルは1928年生まれで9歳年上。二人に親交はあったが「お付き合い」してたかどうかは知らない。写真は1980年に撮られた英米ポップアートの巨匠。ホックニー43歳、ウォーホル52歳頃。
ところでホックニーの絵はカリフォルニアっぽいので、彼をアメリカ人だと思っている人が多いがブラッドフォード生まれのイギリス人である。ただし1964年にロサンゼルスに移住している。その後ニューヨーク近郊、ロンドンやパリに住んでいた時期もあり、現在はフランスのノルマンディーが拠点らしい。
これは2021年の撮影。
今年で御年87歳! 画像はhttps://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/hockney/index.htmlから引用
キュビスム展に行くまでホックニーのことはほとんど忘れていたのに、ジョイナーフォトの画像を探しているときに、懐かしい作品もいろいろ見られて楽しかった。久しぶりに展覧会でも見たいなと思ったら、なんと昨年の7月から11月にかけて東京都現代美術館で開かれていたと知る。そして美術館のホームページには「日本では27年ぶりとなる大規模な個展です」との文字が!
もう見る機会はないかもなあ(^^ゞ
おしまい
wassho at 22:07|Permalink│Comments(0)│
2024年02月08日
デイヴィッド・ホックニーとキュビスム
1月28日まで国立西洋美術館で開催されていたキュビスム展。その鑑賞日記は5回に分けてブログに書いた。そこでは触れなかったものの実は会場を回りながら、その展覧会には出品されていないある画家と、35年ほど昔の出来事を思い出していた。
その画家とはデイヴィッド・ホックニー。
ホックニー? それをキュビスムの展覧会で? と絵に興味のある人は思うかも知れない。
一般にホックニーといえばお洒落なアートのイメージ。
Sun State I 1973年
そしてプールの絵が人気。
眺めているだけで幸せな気分になる画風。
3枚目の Day Pool with Three Blue は私が初めて買ったアートポスターでもある。
A Bigger Splash 1967年
Steps Into The Water 1975年
Day Pool with Three Blues 1978年
ホックニーは何度か来日していて、こんな絵もある。これは私が今まで目にした絵で最もなだらかに描かれた富士山。日本人の画家ならこうは描きづらい
Mt. Fuji and Flowers 1972年
そんなホックニーに対してキュビスムといえば、一般的にはピカソやジョルジュ・ブラックが描いた難解でわけのわからない暗い絵をイメージする。彼とは正反対で何の接点もない。私も以前はそう思っていた。
それで話は35年ほど前に遡る。
初めてニューロークを訪れた私は、お上りさんよろしくメトロポリタン美術館にも足を運んだ。ちなみにメトロポリタン美術館の床面積は18.5ヘクタール、上野の国立西洋美術館は1.7ヘクタールなのでその11倍近くある超巨大な美術館(床面積=展示面積ではないとしても)。とても1日で見て回れるものではない。
なのに私は入り口近くにあった古代エジプトのコーナーがやたら気に入り、そこでけっこうな時間を費やしてしまったため、残りはまさに駆け足状態だった。だから何を見たのか今ではほとんど覚えていない(/o\)
でもその中にホックニーの作品もあった。メトロポリタン美術館はクラシックな作品を展示しているイメージを持っていたので、ホックニーの展示自体が当時は意外に思えた。そしてそこにはポスターなどで見慣れたホックニー調の絵画数点と、ホックニーに限らず今までに見たことのないコラージュ写真の展示が。
そのコラージュのセンス、カッコよさに痺れた。ただし、そのときは美術の知識もあまりなくキュビスムと結びつけては考えなかった。しかし後年になってあれはホックニーのキュビスムだったのかと気付く。
月日は流れて、そんなこともすっかり忘れてしまっていたが、先日のキュビスム展でホックニーを思い出したしだい。あの展覧会でホックニーを思い浮かべていた人は他にもいただろうか。
そしてネットで調べてみたら、かなり多くの画像を見つけたので、自分の備忘録を兼ねて紹介しておこうと書いたのが今回のブログ。
なおキュビスムの特徴を因数分解すれば
多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える
が古典的な解釈になる。ホックニーの作品は写真なので当然ながら多角度の視点で捉える要素のみ。それが理由なのかどうかは知らないものの、あまりキュビスムとはいわずフォトコラージュと紹介されるケースが多い。またホックニー自身は「ジョイナーフォト」と呼んでいる。ジョイナー Joiner とはたぶん、つなぎ合わせる人=指物師、建具職人の意味だと思う。
まずはポートレートから。
Mother 1, Yorkshire Moors, August 1985
Billy Wilder Lighting His Cigar 1982年
Mother 〜は多角度の視点をまとめただけだが、Billy〜が面白いのは葉巻に火をつける、口にくわえると時間の経過が1枚の写真にまとめられているところ。下のThe Skater〜はコラージュによって動いている感じがよく出ている。阿波踊りやフラダンスの写真を撮った経験があるけれど、どうしてもダルマさんが転んだ的な「瞬間静止」写真になりがち(^^ゞ
The Skater, New York 1982年
室内での撮影あれこれ。
パソコンで読んでいるなら画像クリックで拡大して眺めて欲しい。
Christopher Isherwood Talking to Bob Holman 1983年
上のジョイナーフォトにはそのベースと思われる絵画もある
Christopher Isherwood and Don Bachardy 1968年
George, Blanche, Celia, Albert And Percy, London, January 1983年
Luncheon at the British Embassy, Tokyo, February 16th 1983
Sunday Morning, Mayflower Hotel, New York Nov. 28, 1982
これはかなり大胆な多角度の視点のまとめ方。
Raymond Foye Looking At Brooklyn, Dec. 1982
静物画的?ジョイナーフォト。
The Desk, July 1st, 1984
Chair 1985年
ーーー続く
その画家とはデイヴィッド・ホックニー。
ホックニー? それをキュビスムの展覧会で? と絵に興味のある人は思うかも知れない。
一般にホックニーといえばお洒落なアートのイメージ。
Sun State I 1973年
そしてプールの絵が人気。
眺めているだけで幸せな気分になる画風。
3枚目の Day Pool with Three Blue は私が初めて買ったアートポスターでもある。
A Bigger Splash 1967年
Steps Into The Water 1975年
Day Pool with Three Blues 1978年
ホックニーは何度か来日していて、こんな絵もある。これは私が今まで目にした絵で最もなだらかに描かれた富士山。日本人の画家ならこうは描きづらい
Mt. Fuji and Flowers 1972年
そんなホックニーに対してキュビスムといえば、一般的にはピカソやジョルジュ・ブラックが描いた難解でわけのわからない暗い絵をイメージする。彼とは正反対で何の接点もない。私も以前はそう思っていた。
それで話は35年ほど前に遡る。
初めてニューロークを訪れた私は、お上りさんよろしくメトロポリタン美術館にも足を運んだ。ちなみにメトロポリタン美術館の床面積は18.5ヘクタール、上野の国立西洋美術館は1.7ヘクタールなのでその11倍近くある超巨大な美術館(床面積=展示面積ではないとしても)。とても1日で見て回れるものではない。
なのに私は入り口近くにあった古代エジプトのコーナーがやたら気に入り、そこでけっこうな時間を費やしてしまったため、残りはまさに駆け足状態だった。だから何を見たのか今ではほとんど覚えていない(/o\)
でもその中にホックニーの作品もあった。メトロポリタン美術館はクラシックな作品を展示しているイメージを持っていたので、ホックニーの展示自体が当時は意外に思えた。そしてそこにはポスターなどで見慣れたホックニー調の絵画数点と、ホックニーに限らず今までに見たことのないコラージュ写真の展示が。
そのコラージュのセンス、カッコよさに痺れた。ただし、そのときは美術の知識もあまりなくキュビスムと結びつけては考えなかった。しかし後年になってあれはホックニーのキュビスムだったのかと気付く。
月日は流れて、そんなこともすっかり忘れてしまっていたが、先日のキュビスム展でホックニーを思い出したしだい。あの展覧会でホックニーを思い浮かべていた人は他にもいただろうか。
そしてネットで調べてみたら、かなり多くの画像を見つけたので、自分の備忘録を兼ねて紹介しておこうと書いたのが今回のブログ。
なおキュビスムの特徴を因数分解すれば
多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える
が古典的な解釈になる。ホックニーの作品は写真なので当然ながら多角度の視点で捉える要素のみ。それが理由なのかどうかは知らないものの、あまりキュビスムとはいわずフォトコラージュと紹介されるケースが多い。またホックニー自身は「ジョイナーフォト」と呼んでいる。ジョイナー Joiner とはたぶん、つなぎ合わせる人=指物師、建具職人の意味だと思う。
まずはポートレートから。
Mother 1, Yorkshire Moors, August 1985
Billy Wilder Lighting His Cigar 1982年
Mother 〜は多角度の視点をまとめただけだが、Billy〜が面白いのは葉巻に火をつける、口にくわえると時間の経過が1枚の写真にまとめられているところ。下のThe Skater〜はコラージュによって動いている感じがよく出ている。阿波踊りやフラダンスの写真を撮った経験があるけれど、どうしてもダルマさんが転んだ的な「瞬間静止」写真になりがち(^^ゞ
The Skater, New York 1982年
室内での撮影あれこれ。
パソコンで読んでいるなら画像クリックで拡大して眺めて欲しい。
Christopher Isherwood Talking to Bob Holman 1983年
上のジョイナーフォトにはそのベースと思われる絵画もある
Christopher Isherwood and Don Bachardy 1968年
George, Blanche, Celia, Albert And Percy, London, January 1983年
Luncheon at the British Embassy, Tokyo, February 16th 1983
Sunday Morning, Mayflower Hotel, New York Nov. 28, 1982
これはかなり大胆な多角度の視点のまとめ方。
Raymond Foye Looking At Brooklyn, Dec. 1982
静物画的?ジョイナーフォト。
The Desk, July 1st, 1984
Chair 1985年
ーーー続く
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2024年01月31日
キュビスム展 美の革命 その5
ピカソとブラックがパリで1907年に始め、数年後にサロン・キュビストと呼ばれるフォロワーを生み出したキュビスムは、フランス以外の国にも広まっていく。
シャガールはベラルーシ出身でその頃の区分ではロシア人。キュビスムが当時のロシア画壇でも広まっていたかは知らないが、彼は1910年から5年ほどパリに住んでいるから、その時にキュビスムのハシカを患った。
ただしシャガールは一目見たら彼の作品とわかる独特の世界観を持っている。だからどうしてもシャガールの個性 > キュビスムになってしまう。「キュビスムの風景」はさすがにタイトルのキュビスムが入っているから万華鏡感があるけれど、「ロシアとロバとその他のものに」はキュビスムよりフォービスムを感じるかな。(長くなるのでフォービスムについては割愛)
シャガール 「ロシアとロバとその他のものに」 1911年
タイトルはロバなのに、赤く大きく描かれているのは角が生えている牛。乳を飲んでいるのがロバなのか。右側は人間のようにも見えるけど。シャガールはユダヤ人で、ユダヤ人にとってロバは宗教的に特別な存在らしい。そのようなことがタイトルに関係しているみたいだが、ざっと調べた程度ではよくわからず。
シャガール 「墓地」 1917年
シャガール 「キュビスムの風景」 1919〜1920年
モディリアーニがなぜこの並びに展示されていたかはよくわからない。まあモディリアーニもイタリア人だが。でもそんなことをいったらピカソはスペイン人。
モディリアーニ 「カリアティード」 制作時期不明
カリアティードは「重荷を支える女」の意味のギリシャ語で、
主に女性像の形をした柱を指す。
それを知らなかったから会場では、水浴びでもしているポーズかと思っていた(^^ゞ おそらくこれは重い水瓶かなんかを支えているポーズで、ロダンも「カリアティード」のタイトルでそういう彫刻を作っている。
それにしても、こんなに白く塗られたモディリアーニは初めて見る。調べるとどうやらこれは絵画作品ではなく、彫刻のための下絵のようなものらしい。モディリアーニは彫刻家志望の時期があった。しかし貧乏暮らしで素材の石を買えない(/o\) & 病弱で石を彫る体力がない(>_<) ので断念した経緯がある。彼にお金と体力があったならと思っているモディリアーニファンは多い。私もそう。
これは未完成作品のようにも思えるーーー
モディリアーニ 「赤い頭部」 1915年
その他の作品いろいろ。シュルヴァージュ、ラリオーノフ、ゴンチャローワはロシア人。グリスとブランシャールはスペイン人。ただし全員とも多かれ少なかれパリ在住の時期はある。
レオポルド・シュルヴァージュ 「エッティンゲン男爵夫人」 1917年 ロシア
ミハイル・ラリオーノフ 「散歩:大通りのヴィーナス」 1912〜1913年 ロシア
ナターリヤ・ゴンチャローワ 「電気ランプ」 1913年 ロシア
フアン・グリス 「朝の食卓」 1915年 スペイン
マリア・ブランシャール 「輪を持つ子供」 1917年 スペイン
ピカソとブラックの「分析的キュビスム」「総合的キュビズム」の時代にキュビスムは、
多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える
との明確な方向性を持っていた。しかしサロン・キュビストが登場して、つまりたった二人ではなく多くの画家が様々な考えでキュビスムを手がけるようになって、当然ながらその内容も多様化する。このコーナーもサロン・キュビストと同時期で、キュビスムの方向性を多少は保持していても、作品によってはキュビスム展でなければそうだと気付かないかも知れない。もうキュビスムとはほとんど何でもありの状態になっている。
でも考えてみると、この1900年代の初頭は絵画が何でもありになった時代なのだ。ピカソが1907年に描いた「アヴィニョンの娘たち」でキュビスムが生まれた。そしてその2年前の1905年のサロン・ドートンヌ展覧会で、原色を多用した色彩と激しいタッチの筆使いのフォービスムが始まっている。
印象派がその名前で呼ばれるようになったのはそれより30年ほど前の1874年。それまでの絵画がクラシック音楽だとすれば、そこにロックを持ち込んだのが印象派と以前に書いた。あるいはファッションでならスーツではなくカジュアルウエアの誕生。
その印象派ロックは初期のビートルズのようなロックンロールみたいなものかな。それによって今までの伝統様式の殻を破った絵画はだんだんと過激に何でもありとなる。フォービスムはハードロック、キュビスムはプログレッシブロックといったところだろうか。
やがてロックはグラムロック、パンク、ヘビメタ、グランジなど様々に派生し、よほどのロックマニアでなければ、その違いを体系だって説明するのは不可能。共通点はエレキギターがメインの楽器なことくらい。でも楽しめればそれでよし。
音楽や絵画に限らず芸術や文化は、そうやって新しいムーブメントが次々と生まれてくるもの。ずっと同じ中身を続けているだけなら伝統芸能。キュビスムにはシミュルタネイスム、オルフィスム、イタリアの未来派、クボ=フトゥリズム、デ・ステイル、ヴォーティシズム、ピュリスムなど様々な言葉も出てくるが、別にそれらの分類はどうでもよくて、ビビッとくるかどうかが大事。残念ながら私にはビビッときたのはごく僅かだったけれど(/o\)
ピカソ 「輪を持つ少女」 1919年
子供の頃はピカソのこんな絵を見て「ナンジャこれ?」と思ったのに、もうすっかり見慣れて先に紹介した絵の後に見ると、安心感さえ覚えるのが不思議。
ピカソはこの少し後から、キュビスムを離れて新古典主義と呼ばれる画風に転換する。それが影響したのかどうかは知らないが、まるで麻疹(はしか)に罹るように当時の画家が次々に影響を受けたキュビスムも下火に。
ピカソとブラックが始めたのが1907年で、それが広まってサロン・キュビストと呼ばれる画家が出てきたのが1910年前後。だからキュビスムに勢いのあった時代は約10年間ほどと短い。ブームとはそういうものともいえるし、また短いからインパクトがないわけでもない。ビートルズだって結成から10年、レコードデビューからだと7年半で解散している。
これはキュビスム以降の、
ピュリスム(純粋主義)作品として展示されていたもの。
ル・コルビュジエ 「静物」 1922年
ル・コルビュジエ 「水差しとコップ―空間の新しい世界」 1922年
建築家そして家具デザイナーとしてのコルビュジエは有名なものの、絵も描いていたなんて恥ずかしながら知らなかった。でも彼の建築はシンプルなのに絵は考えすぎな印象。なのに退屈で訴えてくるものもない。建築家になってよかったね(^^ゞ
実はル・コルビュジエとは、彼が発行していた文化雑誌に執筆するときに使っていたペンネーム。いつの間にかそれがビジネスネームになった模様。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリと長い。
ただし名前が長いといえばパブロ・ピカソが圧勝。
そのフルネームは、
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・
シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ
そして微妙に異なる洗礼名もある。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・
マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシ
まるで落語の寿限無・寿限無みたい。
そんな話題になったところで、
お後がよろしいようで(^^ゞ
おしまい
シャガールはベラルーシ出身でその頃の区分ではロシア人。キュビスムが当時のロシア画壇でも広まっていたかは知らないが、彼は1910年から5年ほどパリに住んでいるから、その時にキュビスムのハシカを患った。
ただしシャガールは一目見たら彼の作品とわかる独特の世界観を持っている。だからどうしてもシャガールの個性 > キュビスムになってしまう。「キュビスムの風景」はさすがにタイトルのキュビスムが入っているから万華鏡感があるけれど、「ロシアとロバとその他のものに」はキュビスムよりフォービスムを感じるかな。(長くなるのでフォービスムについては割愛)
シャガール 「ロシアとロバとその他のものに」 1911年
タイトルはロバなのに、赤く大きく描かれているのは角が生えている牛。乳を飲んでいるのがロバなのか。右側は人間のようにも見えるけど。シャガールはユダヤ人で、ユダヤ人にとってロバは宗教的に特別な存在らしい。そのようなことがタイトルに関係しているみたいだが、ざっと調べた程度ではよくわからず。
シャガール 「墓地」 1917年
シャガール 「キュビスムの風景」 1919〜1920年
モディリアーニがなぜこの並びに展示されていたかはよくわからない。まあモディリアーニもイタリア人だが。でもそんなことをいったらピカソはスペイン人。
モディリアーニ 「カリアティード」 制作時期不明
カリアティードは「重荷を支える女」の意味のギリシャ語で、
主に女性像の形をした柱を指す。
それを知らなかったから会場では、水浴びでもしているポーズかと思っていた(^^ゞ おそらくこれは重い水瓶かなんかを支えているポーズで、ロダンも「カリアティード」のタイトルでそういう彫刻を作っている。
それにしても、こんなに白く塗られたモディリアーニは初めて見る。調べるとどうやらこれは絵画作品ではなく、彫刻のための下絵のようなものらしい。モディリアーニは彫刻家志望の時期があった。しかし貧乏暮らしで素材の石を買えない(/o\) & 病弱で石を彫る体力がない(>_<) ので断念した経緯がある。彼にお金と体力があったならと思っているモディリアーニファンは多い。私もそう。
これは未完成作品のようにも思えるーーー
モディリアーニ 「赤い頭部」 1915年
その他の作品いろいろ。シュルヴァージュ、ラリオーノフ、ゴンチャローワはロシア人。グリスとブランシャールはスペイン人。ただし全員とも多かれ少なかれパリ在住の時期はある。
レオポルド・シュルヴァージュ 「エッティンゲン男爵夫人」 1917年 ロシア
ミハイル・ラリオーノフ 「散歩:大通りのヴィーナス」 1912〜1913年 ロシア
ナターリヤ・ゴンチャローワ 「電気ランプ」 1913年 ロシア
フアン・グリス 「朝の食卓」 1915年 スペイン
マリア・ブランシャール 「輪を持つ子供」 1917年 スペイン
ピカソとブラックの「分析的キュビスム」「総合的キュビズム」の時代にキュビスムは、
多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える
との明確な方向性を持っていた。しかしサロン・キュビストが登場して、つまりたった二人ではなく多くの画家が様々な考えでキュビスムを手がけるようになって、当然ながらその内容も多様化する。このコーナーもサロン・キュビストと同時期で、キュビスムの方向性を多少は保持していても、作品によってはキュビスム展でなければそうだと気付かないかも知れない。もうキュビスムとはほとんど何でもありの状態になっている。
でも考えてみると、この1900年代の初頭は絵画が何でもありになった時代なのだ。ピカソが1907年に描いた「アヴィニョンの娘たち」でキュビスムが生まれた。そしてその2年前の1905年のサロン・ドートンヌ展覧会で、原色を多用した色彩と激しいタッチの筆使いのフォービスムが始まっている。
印象派がその名前で呼ばれるようになったのはそれより30年ほど前の1874年。それまでの絵画がクラシック音楽だとすれば、そこにロックを持ち込んだのが印象派と以前に書いた。あるいはファッションでならスーツではなくカジュアルウエアの誕生。
その印象派ロックは初期のビートルズのようなロックンロールみたいなものかな。それによって今までの伝統様式の殻を破った絵画はだんだんと過激に何でもありとなる。フォービスムはハードロック、キュビスムはプログレッシブロックといったところだろうか。
やがてロックはグラムロック、パンク、ヘビメタ、グランジなど様々に派生し、よほどのロックマニアでなければ、その違いを体系だって説明するのは不可能。共通点はエレキギターがメインの楽器なことくらい。でも楽しめればそれでよし。
音楽や絵画に限らず芸術や文化は、そうやって新しいムーブメントが次々と生まれてくるもの。ずっと同じ中身を続けているだけなら伝統芸能。キュビスムにはシミュルタネイスム、オルフィスム、イタリアの未来派、クボ=フトゥリズム、デ・ステイル、ヴォーティシズム、ピュリスムなど様々な言葉も出てくるが、別にそれらの分類はどうでもよくて、ビビッとくるかどうかが大事。残念ながら私にはビビッときたのはごく僅かだったけれど(/o\)
ピカソ 「輪を持つ少女」 1919年
子供の頃はピカソのこんな絵を見て「ナンジャこれ?」と思ったのに、もうすっかり見慣れて先に紹介した絵の後に見ると、安心感さえ覚えるのが不思議。
ピカソはこの少し後から、キュビスムを離れて新古典主義と呼ばれる画風に転換する。それが影響したのかどうかは知らないが、まるで麻疹(はしか)に罹るように当時の画家が次々に影響を受けたキュビスムも下火に。
ピカソとブラックが始めたのが1907年で、それが広まってサロン・キュビストと呼ばれる画家が出てきたのが1910年前後。だからキュビスムに勢いのあった時代は約10年間ほどと短い。ブームとはそういうものともいえるし、また短いからインパクトがないわけでもない。ビートルズだって結成から10年、レコードデビューからだと7年半で解散している。
これはキュビスム以降の、
ピュリスム(純粋主義)作品として展示されていたもの。
ル・コルビュジエ 「静物」 1922年
ル・コルビュジエ 「水差しとコップ―空間の新しい世界」 1922年
建築家そして家具デザイナーとしてのコルビュジエは有名なものの、絵も描いていたなんて恥ずかしながら知らなかった。でも彼の建築はシンプルなのに絵は考えすぎな印象。なのに退屈で訴えてくるものもない。建築家になってよかったね(^^ゞ
実はル・コルビュジエとは、彼が発行していた文化雑誌に執筆するときに使っていたペンネーム。いつの間にかそれがビジネスネームになった模様。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリと長い。
ただし名前が長いといえばパブロ・ピカソが圧勝。
そのフルネームは、
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・
シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ
そして微妙に異なる洗礼名もある。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・
マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシ
まるで落語の寿限無・寿限無みたい。
そんな話題になったところで、
お後がよろしいようで(^^ゞ
おしまい
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2024年01月30日
キュビスム展 美の革命 その4
1914年に始まった第1次世界大戦にジョルジュ・ブラックが出征してしまい、1907年から続いた彼とピカソのチームワークによるキュビスム開拓は終わってしまった。しかし彼らから影響を受けた画家が、その少し前からいろいろなキュビスム作品を発表し始めている。
キュビスムとは対象を解体・単純化して幾何形態に置き換え、また多角度の視点を平面であるキャンバスに落とし込んで、有史以来人類が実践してきた「見えているとおりに描く」から脱却しようとするもの。言ってみれば最初に方法論ありきである。
どうしてそんなことするの、必要があるの?と一般人なら思ってしまうものの、絵を描く人間にはその世界は抗しがたい魅力があったようで、いわゆるキュビスムに分類されない画家たちまでも、いくつかキュビスム的な作品を残しているのを今までの展覧会で目にしてきた。当時の画家たちが次々と影響を受ける様子は「まるで麻疹(はしか)に罹るようなもの」とも表現されている。
そんな非キュビスム画家の作品も展示して欲しかったな。
展覧会にあるのは当然ながらキュビスムで有名になった画家の作品である。
フェルナン・レジェ 「婚礼」 1911〜1912年
アルベール・グレーズ 「収穫物の脱穀」 1912年
ロベール・ドローネー 「都市 no. 2」 1910年
皆さん、ずいぶんと麻疹をコジらせているようで(^^ゞ
「婚礼」はめでたさやお祝い感がゼロだし、「収穫物の脱穀」には穀物がどこにも見当たらない。おそらくキュビスムとしての絵画表現だけでなく、それぞれの出来事に対する画家なりの解釈やメッセージが込められているのだろう。そういうものが混じると面倒くさい絵になる。
わけのわからない現代アートで「これにはアーティストの〇〇〇とのメッセージが込められている」なんて解説がついている場合がよくある。ほとんどがくだらないのは、そのメッセージの底が浅いから。アーティストは表現を磨いてきたプロであっても、思考を鍛えてきたプロじゃない。そちら方面の刺激が欲しければ哲学者や(一流の)評論家の著作に求めるから、君らは表現に専念してよと、そんな現代アートを見るたびに思う。
久しぶりにもっと現代アートの悪口を書きたいけれど(^^ゞ
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
なおキュビスムは現代アートのひとつ手前のモダンアートね。
日本語では現代(コンテンポラリー)と近代(モダン)のニュアンスが曖昧なので、
現代アートをモダンアートと呼ぶ場合も多い気がする。
(/_')/ソレモコッチニオイトイテ
ロベール・ドローネー 「パリ市」 1910〜1912年
この絵は文句なしに素晴らしかった。
描かれているのはギリシア神話に登場する三美神で、それぞれ魅力、美貌、創造力を司っている。西洋絵画の伝統的なモチーフであり、代表例をあげるならルネサス期の巨匠、ボッティチェリの「プリマヴェーラ」。
その三美神をアンチ伝統様式のキュビスムに持ってきたのがまず冴えている。またパッと見ではわかりにくいが、くすんだ赤色で描かれているのはエッフェル塔。だから舞台は当時=近代のパリ。それを神話の世界と組み合わせているのも面白い。
それよりも何よりもである。
引き込まれたのはキュビスムによって分割された面が生み出す、
まるで万華鏡のような描写。
そうかキュビスムは万華鏡だったのか!
とまったく勘違いな解釈を思いつき展覧会場で叫びそうになっていた(^^ゞ でも3D万華鏡のようなものがあれば、あながち間違っていない気もする。そして実際に万華鏡をのぞき込んでいるような楽しさがあり、また万華鏡と同じように見飽きなかった。
「パリ市」は幅4m6cm、縦2m67cmの大きな作品。サイズ的な迫力もあったし、ピカソ&ブラックのキュビスムがモノトーンでそろそろ色彩に飢えてきたタイミングもよかったのかも知れない。そして両隣の面倒くさい絵がより一層これを引き立てている?
私が見上げたのと同じ角度で撮った写真で。とにかくまさかキュビスムの展覧会でこんなに「酔えるアート」に出会えるとは思っていなかったね。ただ三美神の顔をピカソの「アヴィニョンの娘たち」に寄せなくてもよかったのに。
フランティシェク・クプカ 「色面の構成」 1910〜1911年
タイトルは難解でも絵はわかりやすい。
そしてイメージがあれこれ膨らむ作品である。
これは連続写真にヒントを得て描いたとされる。
そう言われると、女性の姿に動きを感じるから人間なんて単純なもの。
ちなみに連続写真は1878年(明治11年)、
映画は1895年(明治28年)から実用化が始まっている。
ところで写真の発明は1827年に、フランス人発明家ニセフォール・ニエプスによる。そして1840年頃から普及した。ちょうど産業革命が終わって社会が近代化した頃である。
見たのものを記録するという役割で写真と絵画はバッティングし、絵画の価値は揺らぎ始める。1800年代中頃に入ると肖像画の代わりに肖像写真の依頼が多くなったらしい。また当然ながら記録の正確さでは写真が圧倒的に有利である。
西洋絵画が生み出してきた遠近法や陰影法などは、平面であるキャンバスに奥行き=本物らしさ=記録の正確さをもたらすための技法である。画家たちがキュビスムに走ったのは写真と張り合うのではなく、写真にはできない表現を追求したからともいわれる。
ただし、それは納得できる解説であるとしても、
当時の画家たちが写真について語った言葉をあまり読んだ記憶がない。
どうしてなんだろう。
やがて時代は下り写真の次にCG(コンピューターグラフィック)も生まれた。今まではどちらもセンスと共に機材を操るスキルが必要だった。しかしここに来てAI(人工知能)の時代。CGを描くのに手でマウスや電子ペンを動かす必要はなくなり、対話型となって文章や口頭で命令できる。
センスだってAIが無限にアシストしてくれるから、よほどの表現音痴でない限りあまり問われないかも知れない。モニターで見るだけでなく、プリントアウトも3Dプリンターによって、絵の具の盛りや筆の動かし方まで表現できるようになるはず。もちろん彫刻も制作可能。
いったいAI時代のアートシーンは何が起きるのかな。
<モーソー>
渋谷のスクランブル交差点の風景をルノアール70%、モネ30%、
アクセントにところどころゴッホの厚塗りも交えて描いてみようか。
季節は冬でお願いね。
時代はバブルの頃で社会の勢いをだそう。
いや、ここにジュリアナのおネエちゃんはおかしいって(^^ゞ
通行人はキュビスムで半分はヌードに。
あっ、ピカソのキュビスムじゃなくダ・ヴィンチが描いた感じで。
ちょっと雰囲気が暗いから、モーツァルトを15%くらい掛けて幸せ感を。
それとスターウォーズ的なSF要素も部分的に欲しいな。
マルキューをダリ風にしてインパクトを狙ってみるか。
あるいはいっそ葛飾北斎でも面白いかも知れない。
ねえ、過去にどの画家も描いていない画風も出せる?
さてピカソとブラック以外のキュビスム画家はサロン・キュビストと呼ばれている。ピカソとブラックが画廊で作品を公開したのに対して、彼らはサロン(展覧会・公募展の意味)での発表が中心だったから。多くの人の目に触れた=キュビスムを広めた観点では彼らのほうがその役割が大きかったみたいだ。
フランティシェク・クプカ 「挨拶」 1912年
フランシス・ピカビア 「赤い木」 1912年頃
ロベール・ドローネー 「円形、太陽 no.2」 1912〜1913年
クプカの「挨拶」は「色面の構成」と同じような発想に思えるが、数学と関連している内容なんだって。ホンマカイナ? ドローネーはこのページで紹介した「都市 no. 2」「パリ市」「円形、太陽 no.2」のすべてで画風がまったく違う。そして彼はこの後に抽象画の先駆者となる。
ところで抽象画を昔からあったジャンルと思っている人は多い。しかし写真との関わりで書いたように絵は「見たものの記録」だったので、抽象画が生まれたのは記録から脱却したキュビスムの後になる。つまり絵画の歴史を考えると割と最近の出来事。
いずれにしてもサロン・キュビストの作品は、ピカソとブラックが始めたキュビスムとはずいぶん違う。もう私にはキュビスムとは何か定義ができないレベル。彼らによってキュビスムの理論化もさらに深掘りされたらしいが、特に興味もないので調べていないm(_ _)m
ーーー続く
キュビスムとは対象を解体・単純化して幾何形態に置き換え、また多角度の視点を平面であるキャンバスに落とし込んで、有史以来人類が実践してきた「見えているとおりに描く」から脱却しようとするもの。言ってみれば最初に方法論ありきである。
どうしてそんなことするの、必要があるの?と一般人なら思ってしまうものの、絵を描く人間にはその世界は抗しがたい魅力があったようで、いわゆるキュビスムに分類されない画家たちまでも、いくつかキュビスム的な作品を残しているのを今までの展覧会で目にしてきた。当時の画家たちが次々と影響を受ける様子は「まるで麻疹(はしか)に罹るようなもの」とも表現されている。
そんな非キュビスム画家の作品も展示して欲しかったな。
展覧会にあるのは当然ながらキュビスムで有名になった画家の作品である。
フェルナン・レジェ 「婚礼」 1911〜1912年
アルベール・グレーズ 「収穫物の脱穀」 1912年
ロベール・ドローネー 「都市 no. 2」 1910年
皆さん、ずいぶんと麻疹をコジらせているようで(^^ゞ
「婚礼」はめでたさやお祝い感がゼロだし、「収穫物の脱穀」には穀物がどこにも見当たらない。おそらくキュビスムとしての絵画表現だけでなく、それぞれの出来事に対する画家なりの解釈やメッセージが込められているのだろう。そういうものが混じると面倒くさい絵になる。
わけのわからない現代アートで「これにはアーティストの〇〇〇とのメッセージが込められている」なんて解説がついている場合がよくある。ほとんどがくだらないのは、そのメッセージの底が浅いから。アーティストは表現を磨いてきたプロであっても、思考を鍛えてきたプロじゃない。そちら方面の刺激が欲しければ哲学者や(一流の)評論家の著作に求めるから、君らは表現に専念してよと、そんな現代アートを見るたびに思う。
久しぶりにもっと現代アートの悪口を書きたいけれど(^^ゞ
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
なおキュビスムは現代アートのひとつ手前のモダンアートね。
日本語では現代(コンテンポラリー)と近代(モダン)のニュアンスが曖昧なので、
現代アートをモダンアートと呼ぶ場合も多い気がする。
(/_')/ソレモコッチニオイトイテ
ロベール・ドローネー 「パリ市」 1910〜1912年
この絵は文句なしに素晴らしかった。
描かれているのはギリシア神話に登場する三美神で、それぞれ魅力、美貌、創造力を司っている。西洋絵画の伝統的なモチーフであり、代表例をあげるならルネサス期の巨匠、ボッティチェリの「プリマヴェーラ」。
その三美神をアンチ伝統様式のキュビスムに持ってきたのがまず冴えている。またパッと見ではわかりにくいが、くすんだ赤色で描かれているのはエッフェル塔。だから舞台は当時=近代のパリ。それを神話の世界と組み合わせているのも面白い。
それよりも何よりもである。
引き込まれたのはキュビスムによって分割された面が生み出す、
まるで万華鏡のような描写。
そうかキュビスムは万華鏡だったのか!
とまったく勘違いな解釈を思いつき展覧会場で叫びそうになっていた(^^ゞ でも3D万華鏡のようなものがあれば、あながち間違っていない気もする。そして実際に万華鏡をのぞき込んでいるような楽しさがあり、また万華鏡と同じように見飽きなかった。
「パリ市」は幅4m6cm、縦2m67cmの大きな作品。サイズ的な迫力もあったし、ピカソ&ブラックのキュビスムがモノトーンでそろそろ色彩に飢えてきたタイミングもよかったのかも知れない。そして両隣の面倒くさい絵がより一層これを引き立てている?
私が見上げたのと同じ角度で撮った写真で。とにかくまさかキュビスムの展覧会でこんなに「酔えるアート」に出会えるとは思っていなかったね。ただ三美神の顔をピカソの「アヴィニョンの娘たち」に寄せなくてもよかったのに。
フランティシェク・クプカ 「色面の構成」 1910〜1911年
タイトルは難解でも絵はわかりやすい。
そしてイメージがあれこれ膨らむ作品である。
これは連続写真にヒントを得て描いたとされる。
そう言われると、女性の姿に動きを感じるから人間なんて単純なもの。
ちなみに連続写真は1878年(明治11年)、
映画は1895年(明治28年)から実用化が始まっている。
ところで写真の発明は1827年に、フランス人発明家ニセフォール・ニエプスによる。そして1840年頃から普及した。ちょうど産業革命が終わって社会が近代化した頃である。
見たのものを記録するという役割で写真と絵画はバッティングし、絵画の価値は揺らぎ始める。1800年代中頃に入ると肖像画の代わりに肖像写真の依頼が多くなったらしい。また当然ながら記録の正確さでは写真が圧倒的に有利である。
西洋絵画が生み出してきた遠近法や陰影法などは、平面であるキャンバスに奥行き=本物らしさ=記録の正確さをもたらすための技法である。画家たちがキュビスムに走ったのは写真と張り合うのではなく、写真にはできない表現を追求したからともいわれる。
ただし、それは納得できる解説であるとしても、
当時の画家たちが写真について語った言葉をあまり読んだ記憶がない。
どうしてなんだろう。
やがて時代は下り写真の次にCG(コンピューターグラフィック)も生まれた。今まではどちらもセンスと共に機材を操るスキルが必要だった。しかしここに来てAI(人工知能)の時代。CGを描くのに手でマウスや電子ペンを動かす必要はなくなり、対話型となって文章や口頭で命令できる。
センスだってAIが無限にアシストしてくれるから、よほどの表現音痴でない限りあまり問われないかも知れない。モニターで見るだけでなく、プリントアウトも3Dプリンターによって、絵の具の盛りや筆の動かし方まで表現できるようになるはず。もちろん彫刻も制作可能。
いったいAI時代のアートシーンは何が起きるのかな。
<モーソー>
渋谷のスクランブル交差点の風景をルノアール70%、モネ30%、
アクセントにところどころゴッホの厚塗りも交えて描いてみようか。
季節は冬でお願いね。
時代はバブルの頃で社会の勢いをだそう。
いや、ここにジュリアナのおネエちゃんはおかしいって(^^ゞ
通行人はキュビスムで半分はヌードに。
あっ、ピカソのキュビスムじゃなくダ・ヴィンチが描いた感じで。
ちょっと雰囲気が暗いから、モーツァルトを15%くらい掛けて幸せ感を。
それとスターウォーズ的なSF要素も部分的に欲しいな。
マルキューをダリ風にしてインパクトを狙ってみるか。
あるいはいっそ葛飾北斎でも面白いかも知れない。
ねえ、過去にどの画家も描いていない画風も出せる?
さてピカソとブラック以外のキュビスム画家はサロン・キュビストと呼ばれている。ピカソとブラックが画廊で作品を公開したのに対して、彼らはサロン(展覧会・公募展の意味)での発表が中心だったから。多くの人の目に触れた=キュビスムを広めた観点では彼らのほうがその役割が大きかったみたいだ。
フランティシェク・クプカ 「挨拶」 1912年
フランシス・ピカビア 「赤い木」 1912年頃
ロベール・ドローネー 「円形、太陽 no.2」 1912〜1913年
クプカの「挨拶」は「色面の構成」と同じような発想に思えるが、数学と関連している内容なんだって。ホンマカイナ? ドローネーはこのページで紹介した「都市 no. 2」「パリ市」「円形、太陽 no.2」のすべてで画風がまったく違う。そして彼はこの後に抽象画の先駆者となる。
ところで抽象画を昔からあったジャンルと思っている人は多い。しかし写真との関わりで書いたように絵は「見たものの記録」だったので、抽象画が生まれたのは記録から脱却したキュビスムの後になる。つまり絵画の歴史を考えると割と最近の出来事。
いずれにしてもサロン・キュビストの作品は、ピカソとブラックが始めたキュビスムとはずいぶん違う。もう私にはキュビスムとは何か定義ができないレベル。彼らによってキュビスムの理論化もさらに深掘りされたらしいが、特に興味もないので調べていないm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 21:42|Permalink│Comments(0)│
2024年01月29日
キュビスム展 美の革命 その3
「大きな裸婦」を描いて、3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくった?ブラックはピカソと意気投合し、お互いのアトリエを行き来しながらキュビスム作品の制作を進めていく。
ピカソ 「裸婦」 1909年
ピカソ 「肘掛け椅子に座る女性」 1910年
ピカソ 「ギター奏者」 1910年
ジョルジュ・ブラック 「レスタックのリオ・ティントの工場」 1910年
ジョルジュ・ブラック 「円卓」 1911年
ジョルジュ・ブラック 「ヴァイオリンのある静物」 1913年
どちらがピカソでどちらがブラックかわからないほど似通っている。
この頃はキュビスムの
多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える
の2つの特徴のうち後者が強く表れている。前回にキュビスムとの名前は特徴のひとつにしか焦点が当たっていないから不満と書いた。言葉が生まれたのはブラックが「レスタックの高架橋」を発表した1908年で、それが広まったのはフィガロ誌が記事に使い始めた1909年からとされている。当時はこんな作品が中心だった状況を考えれば立方体主義のキュビスムと呼ばれても仕方ないか。
目に見えているものを解体・単純化して幾何形態に置き換えるとは、言い換えればその裏側あるいは「形」の本質を見極めようとすることなのだろうか? よくわからないけれど、この頃のキュビスムは「分析的キュビスム」と名付けられている。形以外は重要じゃないからか色彩も控えめ。ちなみに前回までに紹介した作品は「セザンヌ的キュビスム」という。
ピカソの3作品を見ると「裸婦」は単にヘンな絵にしか見えなくても、「肘掛け椅子に座る女性」は表現のコツをつかんだ感じでけっこうサマになっている。ただし「ギター奏者」は対象と背景が渾然として、それはそういう狙いかも知れないが見ている側としては訳がわからない。たぶん本人もわかっていないのじゃないか? ブラックの3作品はいかにも暗中模索で過渡期的な印象。
いずれにしてもヘンな「絵」であるのに変わりなく、それは今までいだいていた認識と変わらない。しかし展覧会でこれらがまとまって並んでいるのを眺めると「模様」としては意外と面白く、しゃれた雰囲気もあると感じたのが新たな発見。もしそんな感想をピカソやブラックに言ったらパレットでシバかれるな(^^ゞ
そしてピカソとブラックのキュビスムは、
少しずつ親しみやすい画風に変わっていく。
ジョルジュ・ブラック 「果物皿とトランプ」 1913年
ジョルジュ・ブラック 「ギターを持つ男性」 1914年
ピカソ 「ヴァイオリン」 1914年
親しみやすい画風に変化したのは理由がある。対象を解体・単純化して幾何形態に置き換えるとピカソの「ギター奏者」やブラックの「レスタックのリオ・ティントの工場」のように対象からかけ離れすぎて抽象画のようになってしまう。彼らが目指していたのは対象の新たな表現方法の開発。言い換えればあくまで具象画であって抽象画ではない。
そこで現実から遊離した絵を、再び現実に引き戻す作業がおこなわれる。行ったり来たりご苦労様である(^^ゞ それらの作品は先ほど書いた「分析的キュビスム」に対して「総合的キュビズム」と呼ぶ。総合と言うよりは統合の法がニュアンスが正確かな。
具体的にはコラージュで何か貼り付けたりあるいはコラージュ風に描く、また文字を描いたり、記号的なモチーフを入れたりが試みられた。「果物皿とトランプ」ではブドウとトランプは現実世界を表す記号としてごく普通に形を崩さず描かれているし、「ギターを持つ男性」のギターも同様。「ヴァイオリン」のヴァイオリンはけっこうバラバラに分解されていても、文字を入れることによって観念的になりすぎるのを引き留めている。
ところで BASS は低音でヴァイオリンに似合っていないし JOU は辞書にはなかった。どうでのいいけれど、おそらくヴァイオリンの弦と思われるラインが上側で1本多いのが不思議(ヴァイオリンは4本源の楽器)。
「総合的キュビズム」は確かに絵としてはまとまりを取り戻してはいるものの、「分析的キュビスム」が持っていたある種の凄みが消えて、「肘掛け椅子に座る女性」のようにゾクッとさせてくれないのがつまらない。
さて1907年にピカソが「アヴィニョンの娘たち」ブラックが「大きな裸婦」を描き、お互いに影響を与えながら発展させてきた彼らのキュビスム。しかし1914年に第1次世界大戦が始まりブラックが出征することで、その共同作業とでもいうべき制作は終了する。
ーーー続く
ピカソ 「裸婦」 1909年
ピカソ 「肘掛け椅子に座る女性」 1910年
ピカソ 「ギター奏者」 1910年
ジョルジュ・ブラック 「レスタックのリオ・ティントの工場」 1910年
ジョルジュ・ブラック 「円卓」 1911年
ジョルジュ・ブラック 「ヴァイオリンのある静物」 1913年
どちらがピカソでどちらがブラックかわからないほど似通っている。
この頃はキュビスムの
多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える
の2つの特徴のうち後者が強く表れている。前回にキュビスムとの名前は特徴のひとつにしか焦点が当たっていないから不満と書いた。言葉が生まれたのはブラックが「レスタックの高架橋」を発表した1908年で、それが広まったのはフィガロ誌が記事に使い始めた1909年からとされている。当時はこんな作品が中心だった状況を考えれば立方体主義のキュビスムと呼ばれても仕方ないか。
目に見えているものを解体・単純化して幾何形態に置き換えるとは、言い換えればその裏側あるいは「形」の本質を見極めようとすることなのだろうか? よくわからないけれど、この頃のキュビスムは「分析的キュビスム」と名付けられている。形以外は重要じゃないからか色彩も控えめ。ちなみに前回までに紹介した作品は「セザンヌ的キュビスム」という。
ピカソの3作品を見ると「裸婦」は単にヘンな絵にしか見えなくても、「肘掛け椅子に座る女性」は表現のコツをつかんだ感じでけっこうサマになっている。ただし「ギター奏者」は対象と背景が渾然として、それはそういう狙いかも知れないが見ている側としては訳がわからない。たぶん本人もわかっていないのじゃないか? ブラックの3作品はいかにも暗中模索で過渡期的な印象。
いずれにしてもヘンな「絵」であるのに変わりなく、それは今までいだいていた認識と変わらない。しかし展覧会でこれらがまとまって並んでいるのを眺めると「模様」としては意外と面白く、しゃれた雰囲気もあると感じたのが新たな発見。もしそんな感想をピカソやブラックに言ったらパレットでシバかれるな(^^ゞ
そしてピカソとブラックのキュビスムは、
少しずつ親しみやすい画風に変わっていく。
ジョルジュ・ブラック 「果物皿とトランプ」 1913年
ジョルジュ・ブラック 「ギターを持つ男性」 1914年
ピカソ 「ヴァイオリン」 1914年
親しみやすい画風に変化したのは理由がある。対象を解体・単純化して幾何形態に置き換えるとピカソの「ギター奏者」やブラックの「レスタックのリオ・ティントの工場」のように対象からかけ離れすぎて抽象画のようになってしまう。彼らが目指していたのは対象の新たな表現方法の開発。言い換えればあくまで具象画であって抽象画ではない。
そこで現実から遊離した絵を、再び現実に引き戻す作業がおこなわれる。行ったり来たりご苦労様である(^^ゞ それらの作品は先ほど書いた「分析的キュビスム」に対して「総合的キュビズム」と呼ぶ。総合と言うよりは統合の法がニュアンスが正確かな。
具体的にはコラージュで何か貼り付けたりあるいはコラージュ風に描く、また文字を描いたり、記号的なモチーフを入れたりが試みられた。「果物皿とトランプ」ではブドウとトランプは現実世界を表す記号としてごく普通に形を崩さず描かれているし、「ギターを持つ男性」のギターも同様。「ヴァイオリン」のヴァイオリンはけっこうバラバラに分解されていても、文字を入れることによって観念的になりすぎるのを引き留めている。
ところで BASS は低音でヴァイオリンに似合っていないし JOU は辞書にはなかった。どうでのいいけれど、おそらくヴァイオリンの弦と思われるラインが上側で1本多いのが不思議(ヴァイオリンは4本源の楽器)。
「総合的キュビズム」は確かに絵としてはまとまりを取り戻してはいるものの、「分析的キュビスム」が持っていたある種の凄みが消えて、「肘掛け椅子に座る女性」のようにゾクッとさせてくれないのがつまらない。
さて1907年にピカソが「アヴィニョンの娘たち」ブラックが「大きな裸婦」を描き、お互いに影響を与えながら発展させてきた彼らのキュビスム。しかし1914年に第1次世界大戦が始まりブラックが出征することで、その共同作業とでもいうべき制作は終了する。
ーーー続く
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2024年01月27日
キュビスム展 美の革命 その2
印象派がその名前で呼ばれるようになったのは、ある評論家がモネの「印象・日の出」という作品を、そのタイトルをもじって「印象しか描いていない」と酷評したのがきっかけ。印象しか描いていないとは、構図がおおざっぱだとか、絵が描き込まれていないとか、内面的な深いテーマがないとか、そういう意味だと思う。
それまでの絵画がクラシック音楽だとすれば、そこにいきなりロックを持ち込んだのが印象派。いつの世も新しいことは守旧派からは拒絶されるもの。もっとも世間は印象派の絵と印象派とのレッテルも好意的に受け止めて、そのネーミングが広まっていったのだから面白い。
これがそのモネの「印象・日の出」(この展覧会とは無関係)
制作は1872年で展覧会で酷評されたのが1874年(明治7年)。
さてキュビスム Cubisme とはフランス語で、英語にすれば Cubism。これは CUBE(キューブ:立方体)と ISM(イズム:主義)が組み合わさった言葉。ほとんど使われないものの和訳として立体主義や立体派が当てられる。ただし正確に訳すなら立体ではなく立方体。ずっと昔は「キュビズム」と英語読みが一般的だったような気がするが、いつのまにかキュビスムとフランス語読みするようになった。パリで始まった絵画様式だからオリジナルが尊重されたのか。
そして実はキュビスムのネーミングも印象派と似たような成り立ちを持っている。
きっかけとなったのはこの作品。
ジョルジュ・ブラック 「レスタックの高架橋」 1908年
遠くから見ればセザンヌの絵が掛かっているのかと思うほど。それもそのはずブラックはセザンヌLOVEな人で、セザンヌが1870〜80年代に掛けてしばらく住んでいたレスタックに、1906年〜1910年頃に合計で何ヶ月か滞在している。レスタックは南仏マルセイユ近郊で、またセザンヌの生まれ故郷の近く。いわゆるアニメファンの聖地巡礼みたいなもの。
参考までにセザンヌの描いた「レスタックの赤屋根の家」も載せておく(この展覧会とは無関係)。同じ地域の風景なので色合いが似ているとしても、これだけ色数の少ない景色なんてあり得ないから、やはりブラックはセザンヌに相当寄せている。全体的に平板なところや、筆を一定方向に動かす描き方にも影響がありあり。
前回のブログでセザンヌが用いたの多角度の視点について書いた。加えて彼は「自然を円筒、球、円錐によって扱い、すべてを遠近法の中に入れなさい」との言葉も残している。もっともセザンヌ作品を見て円筒、球、円錐が目立っているわけではないし、残念ながら勉強不足でその意味をよく理解していない。しかし文字を追えば丸いものばかりで三角形や四角形は含まれていないのは明確。
しか〜し、
ブラックの「レスタックの高架橋」は見事なまでに三角形と四角形が山盛り。遠近法も完全無視。お前、セザンヌ先生の話を聞いていたのかと突っ込みたくなるレベル(^^ゞ まあ建物は四角いから仕方ないのだけれど。
そして案の定、この絵が発表されたときに「ブラックは形態を軽んじており、景色も人物も家も、全てが幾何学的形状やキューブ(立方体)に還元している」と批判を受ける。そしてこれがキュビスムのネーミングへとつながっていく。モネが「印象しか描いていない」と評されてから34年後の1908年(明治41年)に歴史は繰り返したわけだ。
ただしキュビスムの特徴を因数分解すれば
多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える
となる。そしてキュビスム=立方体主義が言い表しているのは後者だけ。どちらかといえば私は多角度の視点のほうがより革新的で重要な要素だと思うので、このキュビスムとしたネーミングには少し不満を持っている。
ところでキュビスムは印象派が終わる頃から始まるわけだけれど、年表で見ると1850年から1950年くらいまでの約100年間は、他にも象徴主義、写実主義、フォーヴィスム、ナビ派など次々と新し絵画のムーブメントが生まれている。この頃に生まれていたら楽しかっただろなと思ったり。図はhttps://tabiparislax.com/western-art/から引用加筆
なかなか展覧会作品に話が進まないが(^^ゞ
ーーー続く
それまでの絵画がクラシック音楽だとすれば、そこにいきなりロックを持ち込んだのが印象派。いつの世も新しいことは守旧派からは拒絶されるもの。もっとも世間は印象派の絵と印象派とのレッテルも好意的に受け止めて、そのネーミングが広まっていったのだから面白い。
これがそのモネの「印象・日の出」(この展覧会とは無関係)
制作は1872年で展覧会で酷評されたのが1874年(明治7年)。
さてキュビスム Cubisme とはフランス語で、英語にすれば Cubism。これは CUBE(キューブ:立方体)と ISM(イズム:主義)が組み合わさった言葉。ほとんど使われないものの和訳として立体主義や立体派が当てられる。ただし正確に訳すなら立体ではなく立方体。ずっと昔は「キュビズム」と英語読みが一般的だったような気がするが、いつのまにかキュビスムとフランス語読みするようになった。パリで始まった絵画様式だからオリジナルが尊重されたのか。
そして実はキュビスムのネーミングも印象派と似たような成り立ちを持っている。
きっかけとなったのはこの作品。
ジョルジュ・ブラック 「レスタックの高架橋」 1908年
遠くから見ればセザンヌの絵が掛かっているのかと思うほど。それもそのはずブラックはセザンヌLOVEな人で、セザンヌが1870〜80年代に掛けてしばらく住んでいたレスタックに、1906年〜1910年頃に合計で何ヶ月か滞在している。レスタックは南仏マルセイユ近郊で、またセザンヌの生まれ故郷の近く。いわゆるアニメファンの聖地巡礼みたいなもの。
参考までにセザンヌの描いた「レスタックの赤屋根の家」も載せておく(この展覧会とは無関係)。同じ地域の風景なので色合いが似ているとしても、これだけ色数の少ない景色なんてあり得ないから、やはりブラックはセザンヌに相当寄せている。全体的に平板なところや、筆を一定方向に動かす描き方にも影響がありあり。
前回のブログでセザンヌが用いたの多角度の視点について書いた。加えて彼は「自然を円筒、球、円錐によって扱い、すべてを遠近法の中に入れなさい」との言葉も残している。もっともセザンヌ作品を見て円筒、球、円錐が目立っているわけではないし、残念ながら勉強不足でその意味をよく理解していない。しかし文字を追えば丸いものばかりで三角形や四角形は含まれていないのは明確。
しか〜し、
ブラックの「レスタックの高架橋」は見事なまでに三角形と四角形が山盛り。遠近法も完全無視。お前、セザンヌ先生の話を聞いていたのかと突っ込みたくなるレベル(^^ゞ まあ建物は四角いから仕方ないのだけれど。
そして案の定、この絵が発表されたときに「ブラックは形態を軽んじており、景色も人物も家も、全てが幾何学的形状やキューブ(立方体)に還元している」と批判を受ける。そしてこれがキュビスムのネーミングへとつながっていく。モネが「印象しか描いていない」と評されてから34年後の1908年(明治41年)に歴史は繰り返したわけだ。
ただしキュビスムの特徴を因数分解すれば
多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える
となる。そしてキュビスム=立方体主義が言い表しているのは後者だけ。どちらかといえば私は多角度の視点のほうがより革新的で重要な要素だと思うので、このキュビスムとしたネーミングには少し不満を持っている。
ところでキュビスムは印象派が終わる頃から始まるわけだけれど、年表で見ると1850年から1950年くらいまでの約100年間は、他にも象徴主義、写実主義、フォーヴィスム、ナビ派など次々と新し絵画のムーブメントが生まれている。この頃に生まれていたら楽しかっただろなと思ったり。図はhttps://tabiparislax.com/western-art/から引用加筆
なかなか展覧会作品に話が進まないが(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 09:56|Permalink│Comments(0)│
2024年01月26日
キュビスム展 美の革命
国立西洋美術館で1月28日まで開催されているキュビスム展。
鑑賞してきたのは昨年の11月29日。
ブログに書くのがずいぶんと遅くなってしまった。
訪れたときに国立西洋美術館がある上野公園のイエローオータムが予想以上に素晴らしくて、それでスイッチが入ってしまい、例年のもみじ狩りが3カ所くらいなのに昨年は13カ所も出かけたのが遅れた理由のひとつ。
そろそろ思い出しながら書いていきましょう。
展覧会の正式タイトルは
パリ ポンピドゥーセンター
キュビスム展 美の革命
ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ
とやたら長い。
パリの総合文化施設であるポンピドゥーセンター所蔵の、キュビスム絵画作品の展覧会がアウトライン。そのキュビスムとは美の革命であるとタイトルで強調している。
ただし英文では THE CUBIST REVOLUTION (キュビスム画家の革命)。キュビスムは確かに絵画表現における革命であったとしても、美について革命したわけじゃない。だから英文の「キュビスム画家の革命」のほうがしっくりくる。しかしそれではキャッチーでないとマーケティング担当者は考えたのに違いない。映画のタイトルなどでよくある話。
もっとも「An Officer and a Gentleman」→ これは「Conduct unbecoming an officer and a gentleman」という軍隊用語の略。軍法会議などで使われ、直訳すれば「将校および紳士に相応しくない行為」。その原題に「愛と青春の旅だち」と邦題をつけたレベルに「美の革命」はまったく及んでいないけれど。
名前が挙げられているピカソとブラックはキュビスムの創始者である画家。ドローネーはキュビスムを発展させた画家のひとり。シャガールはキュビスムの影響を受けた画家ではあるとしても、それは彼のメインストリームではないし、一般にキュビスム画家には分類しない。でもキュビスムは超巨匠のピカソを除けばあまりネームバリューが高くない画家が多いから、客寄せパンダ的に引っ張り出されたのかも知れない。
さてキュビスムとは何かについては追々書くとして、実はキュビスムはまったく趣味じゃない。キュビスムでこれは素晴らしい・欲しいと思った作品もないし、難解にこねくり回したようなその画風や世界観は「酔えるものこそがアート」との私の考えにも反する。
ではなぜ展覧会を見に出かけたかといえば半分はお勉強のため。過去の展覧会で藤田嗣治やパスキンなど意外な画家がキュビスム的な作品を残しているのを目にしてきた。だからキュビスムのイロハ程度は知っておいて損はしない、食わず嫌いはよくないぞとの意識が頭のどこかにあったから。
聞けば日本でキュビスムをテーマにした展覧会はおよそ50年ぶりとのこと。そして今回はピカソとブラックを含む主要作家約40人・約140点(うち50点以上が日本初出品)が出展され、いわばキュビスムの回顧展のような内容。だったら行ってみようかと。
そして残り半分はキュビスムが趣味じゃないといっても、そんなにたくさんの作品、特にピカソとブラック以外の作品を見たわけじゃないから。キュビスムといってもいろいろあるだろうし、ひょっとしたら好きな画家や作品が見つかるかもとのスケベ心(^^ゞ
初期のキュビスムはセザンヌの画風が影響した、あるいはそれを発展させたとものとよくいわれる。それで最初に展示されているのがセザンヌの作品。
セザンヌ 「ラム酒の瓶のある静物」 1890年頃
タケノコみたいに見えるのがラム酒ね。セザンヌの影響とは彼の多角度からの視点なのだけれど、この絵ではわかりにくいので、この展覧会に出展されていない「果物籠のある静物」というもっと端的な作品を紹介しておこう 。
ごく普通の静物画に思えるものの、よく見ると大きな瓶(かめ)はやや上からの視点で描かれているのに対して、ティーポットは真横から見ている。また果物かごは垂直に置かれているのに、それが置かれているテーブルは手前に傾斜している、つまり斜め上から見ている。このように多角度の視点を1枚の絵に混在させるのがセザンヌの静物画の特徴。それによって独特の空間表現とリズム感が生み出されてハマる人にはハマる。
私にもそんな時期があった。でも多角度の視点なんて気付かずに、セザンヌの静物画は他の画家とはどこか違うなあと思っていただけ。おそらくセザンヌのこのトリックは実際に絵を描く人ならすぐに見抜くものだと思う。そして、そんな手があったのかと取り入れたくなるのだろう。
展示会にあった他のセザンヌ作品。
セザンヌ 「ポントワーズの橋と堰」 1881年頃
これとキュビスムの関わりはよくわからない。ひょっとしたら解説に書かれていたかも知れないが、基本そういうのは読まないタイプなのでm(_ _)m でもキュビスムの特徴は、西洋絵画の伝統であった遠近法や陰影法による空間表現の否定でもあるから、その参考例なのかと思っている。
セザンヌはキュビスムの関わりでよく取り上げられるが、
この展覧会にはこんな画家の作品もあった。
ゴーギャン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」 1889年
ルソー 「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」 1910年頃
マリー・ローランサン 「アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)」 1909年
「ポントワーズの橋と堰」以上にキュビスムとの関連はよくわからないものの、それぞれいい絵だったので単純に満足。特にこの年代のマリー・ローランサンの、例のパステルカラー的な画風を確立する前の作品は久しぶりに見た感じ。
これらはアフリカの仮面や小像。
制作者不詳 「ダンの競争用の仮面(コートジボワール)」 1850〜1900年頃
制作者不詳 「バンバラの小像(マリ)」 1850〜1900年頃
制作者不詳 「ヨンベあるいはウォヨの呪物(コンゴ)」 制作時期不詳
印象派の時代はその第1回展が開かれた1874年(明治7年)から。当時の画家たちは浮世絵に興味を持ちジャポニスム、いわゆる日本ブームが起きたのはよく知られている。そして1920年(大正9年)頃から始まったエコール・ド・パリ時代の少し前から、今度はアフリカブームが訪れる。
これはモディリアーニの彫刻。
アフリカの匂いはしなくとも明らかに影響が感じられる。
モディリアーニ 「女性の頭部」 1912年
ところで印象派の画家が浮世絵を取り上げたのをもって「浮世絵は素晴らしい、日本美術が西洋に評価された」とやたら持ち上げる向きもあるが、その後のアフリカブームを考えると、半分は単に物珍しかっただけじゃないかと私は冷めた目で見ている。
それはさておき、
セザンヌの多角度の視点、遠近法や陰影法の否定に影響を受け、そしてアフリカの仮面や小像にインスピレーションを得てピカソが1907年に描いたのが「アヴィニョンの娘たち」。この展覧会の作品ではないが参考までに。どこが多角度の視点がわかりづらいが、右下の女性は背中を向けているのに顔がこちら向きになっている。
これがキュビスムの始まりで、
近代絵画史上で最も重要な作品と評されている。
私がキュビスムはまったく趣味じゃない理由がわかったでしょ(^^ゞ
さてピカソの自信作であったこの絵を見たジョルジュ・ブラックは「3度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われるようなものだ」と酷評。ピカソと共にエコール・ド・パリのツートップと目されていたマティスは、これを一目見るなり激怒。あまりの貶(けな)されように友人たちはピカソが首を吊らないか心配したと伝わっている。
それにしても「3度の食事が麻クズとパラフィン〜」なんて、文句の付け方がお洒落なジョルジュ・ブラック。さすがはフランスのエスプリ。
しかしジョルジュ・ブラックはしばらくして考えを改め、
ピカソの革新性に気がついて、こんな作品を描く。
ジョルジュ・ブラック 「大きな裸婦」 1907〜1908年
芸術のためなら3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくったみたい(^^ゞ
これ以降ピカソとブラックの間でキュビスムが形作られていく。
他に展示されていたのは「アヴィニョンの娘たち」の習作であったとされる作品。
ピカソ 「女性の胸像」 1907年
なお館内は多くの作品が撮影可能だったので展示の雰囲気を。
そして、
ここからがキュビスムのディープな世界の始まり始まり。
ーーー続く
鑑賞してきたのは昨年の11月29日。
ブログに書くのがずいぶんと遅くなってしまった。
訪れたときに国立西洋美術館がある上野公園のイエローオータムが予想以上に素晴らしくて、それでスイッチが入ってしまい、例年のもみじ狩りが3カ所くらいなのに昨年は13カ所も出かけたのが遅れた理由のひとつ。
そろそろ思い出しながら書いていきましょう。
展覧会の正式タイトルは
パリ ポンピドゥーセンター
キュビスム展 美の革命
ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ
とやたら長い。
パリの総合文化施設であるポンピドゥーセンター所蔵の、キュビスム絵画作品の展覧会がアウトライン。そのキュビスムとは美の革命であるとタイトルで強調している。
ただし英文では THE CUBIST REVOLUTION (キュビスム画家の革命)。キュビスムは確かに絵画表現における革命であったとしても、美について革命したわけじゃない。だから英文の「キュビスム画家の革命」のほうがしっくりくる。しかしそれではキャッチーでないとマーケティング担当者は考えたのに違いない。映画のタイトルなどでよくある話。
もっとも「An Officer and a Gentleman」→ これは「Conduct unbecoming an officer and a gentleman」という軍隊用語の略。軍法会議などで使われ、直訳すれば「将校および紳士に相応しくない行為」。その原題に「愛と青春の旅だち」と邦題をつけたレベルに「美の革命」はまったく及んでいないけれど。
名前が挙げられているピカソとブラックはキュビスムの創始者である画家。ドローネーはキュビスムを発展させた画家のひとり。シャガールはキュビスムの影響を受けた画家ではあるとしても、それは彼のメインストリームではないし、一般にキュビスム画家には分類しない。でもキュビスムは超巨匠のピカソを除けばあまりネームバリューが高くない画家が多いから、客寄せパンダ的に引っ張り出されたのかも知れない。
さてキュビスムとは何かについては追々書くとして、実はキュビスムはまったく趣味じゃない。キュビスムでこれは素晴らしい・欲しいと思った作品もないし、難解にこねくり回したようなその画風や世界観は「酔えるものこそがアート」との私の考えにも反する。
ではなぜ展覧会を見に出かけたかといえば半分はお勉強のため。過去の展覧会で藤田嗣治やパスキンなど意外な画家がキュビスム的な作品を残しているのを目にしてきた。だからキュビスムのイロハ程度は知っておいて損はしない、食わず嫌いはよくないぞとの意識が頭のどこかにあったから。
聞けば日本でキュビスムをテーマにした展覧会はおよそ50年ぶりとのこと。そして今回はピカソとブラックを含む主要作家約40人・約140点(うち50点以上が日本初出品)が出展され、いわばキュビスムの回顧展のような内容。だったら行ってみようかと。
そして残り半分はキュビスムが趣味じゃないといっても、そんなにたくさんの作品、特にピカソとブラック以外の作品を見たわけじゃないから。キュビスムといってもいろいろあるだろうし、ひょっとしたら好きな画家や作品が見つかるかもとのスケベ心(^^ゞ
初期のキュビスムはセザンヌの画風が影響した、あるいはそれを発展させたとものとよくいわれる。それで最初に展示されているのがセザンヌの作品。
セザンヌ 「ラム酒の瓶のある静物」 1890年頃
タケノコみたいに見えるのがラム酒ね。セザンヌの影響とは彼の多角度からの視点なのだけれど、この絵ではわかりにくいので、この展覧会に出展されていない「果物籠のある静物」というもっと端的な作品を紹介しておこう 。
ごく普通の静物画に思えるものの、よく見ると大きな瓶(かめ)はやや上からの視点で描かれているのに対して、ティーポットは真横から見ている。また果物かごは垂直に置かれているのに、それが置かれているテーブルは手前に傾斜している、つまり斜め上から見ている。このように多角度の視点を1枚の絵に混在させるのがセザンヌの静物画の特徴。それによって独特の空間表現とリズム感が生み出されてハマる人にはハマる。
私にもそんな時期があった。でも多角度の視点なんて気付かずに、セザンヌの静物画は他の画家とはどこか違うなあと思っていただけ。おそらくセザンヌのこのトリックは実際に絵を描く人ならすぐに見抜くものだと思う。そして、そんな手があったのかと取り入れたくなるのだろう。
展示会にあった他のセザンヌ作品。
セザンヌ 「ポントワーズの橋と堰」 1881年頃
これとキュビスムの関わりはよくわからない。ひょっとしたら解説に書かれていたかも知れないが、基本そういうのは読まないタイプなのでm(_ _)m でもキュビスムの特徴は、西洋絵画の伝統であった遠近法や陰影法による空間表現の否定でもあるから、その参考例なのかと思っている。
セザンヌはキュビスムの関わりでよく取り上げられるが、
この展覧会にはこんな画家の作品もあった。
ゴーギャン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」 1889年
ルソー 「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」 1910年頃
マリー・ローランサン 「アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)」 1909年
「ポントワーズの橋と堰」以上にキュビスムとの関連はよくわからないものの、それぞれいい絵だったので単純に満足。特にこの年代のマリー・ローランサンの、例のパステルカラー的な画風を確立する前の作品は久しぶりに見た感じ。
これらはアフリカの仮面や小像。
制作者不詳 「ダンの競争用の仮面(コートジボワール)」 1850〜1900年頃
制作者不詳 「バンバラの小像(マリ)」 1850〜1900年頃
制作者不詳 「ヨンベあるいはウォヨの呪物(コンゴ)」 制作時期不詳
印象派の時代はその第1回展が開かれた1874年(明治7年)から。当時の画家たちは浮世絵に興味を持ちジャポニスム、いわゆる日本ブームが起きたのはよく知られている。そして1920年(大正9年)頃から始まったエコール・ド・パリ時代の少し前から、今度はアフリカブームが訪れる。
これはモディリアーニの彫刻。
アフリカの匂いはしなくとも明らかに影響が感じられる。
モディリアーニ 「女性の頭部」 1912年
ところで印象派の画家が浮世絵を取り上げたのをもって「浮世絵は素晴らしい、日本美術が西洋に評価された」とやたら持ち上げる向きもあるが、その後のアフリカブームを考えると、半分は単に物珍しかっただけじゃないかと私は冷めた目で見ている。
それはさておき、
セザンヌの多角度の視点、遠近法や陰影法の否定に影響を受け、そしてアフリカの仮面や小像にインスピレーションを得てピカソが1907年に描いたのが「アヴィニョンの娘たち」。この展覧会の作品ではないが参考までに。どこが多角度の視点がわかりづらいが、右下の女性は背中を向けているのに顔がこちら向きになっている。
これがキュビスムの始まりで、
近代絵画史上で最も重要な作品と評されている。
私がキュビスムはまったく趣味じゃない理由がわかったでしょ(^^ゞ
さてピカソの自信作であったこの絵を見たジョルジュ・ブラックは「3度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われるようなものだ」と酷評。ピカソと共にエコール・ド・パリのツートップと目されていたマティスは、これを一目見るなり激怒。あまりの貶(けな)されように友人たちはピカソが首を吊らないか心配したと伝わっている。
それにしても「3度の食事が麻クズとパラフィン〜」なんて、文句の付け方がお洒落なジョルジュ・ブラック。さすがはフランスのエスプリ。
しかしジョルジュ・ブラックはしばらくして考えを改め、
ピカソの革新性に気がついて、こんな作品を描く。
ジョルジュ・ブラック 「大きな裸婦」 1907〜1908年
芸術のためなら3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくったみたい(^^ゞ
これ以降ピカソとブラックの間でキュビスムが形作られていく。
他に展示されていたのは「アヴィニョンの娘たち」の習作であったとされる作品。
ピカソ 「女性の胸像」 1907年
なお館内は多くの作品が撮影可能だったので展示の雰囲気を。
そして、
ここからがキュビスムのディープな世界の始まり始まり。
ーーー続く
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2023年07月07日
佐伯祐三 自画像としての風景 その7
1927年(昭和2年)の8月21日に2度目のパリにやって来て、前回とは違う「文字のパリ」の画風を確立した佐伯祐三。猛烈な勢いで絵を制作していたようで、翌1928年1月8日付けの友人宛手紙に「再渡仏してから107枚目を本日に描いた」と書いている。日数を数えると140日。単純計算だと0.8枚/1日になる。
その手紙の中で「よい絵は5〜6点」とも述べている。それがどれか教えて欲しかったな。また「まだアカデミックである」と反省の弁も。「その2」で紹介したヴラマンクによる「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」との1時間半にも渡る叱責はまだ彼の中に残っていたようだ。ただその後の佐伯がユトリロに影響を受けたのは確かだとしても、既にずいぶんと違う画風になっている。それにユトリロは同時代の画家でまだ教科書に載っているわけでもない。だから本人が何をもってアカデミックと感じていたのかはよく分からない。
そして都会以外のフランスを描きたいと考えたのか、1928年(昭和3年)の2月に、佐伯祐三はパリから西に40kmほど離れたヴィリエ=シュル=モラン村で制作を始める。皇居からだと八王子あたりの距離。当時だと相当に田舎だったはず。
第1回目のパリと、その後に帰国して描いたものが画風としてまったく違うように、このモランでの作品も「文字のパリ」とは似ても似つかない作品になっている。
モランの寺 1928年
煉瓦焼 1928年
先ず目立つのは、それまでになかった太くてラフな輪郭線。全体的に建物が丸々と太っているようにも見える。また「壁のパリ」のように壁の質感を表現している部分と、適当に塗りつぶした部分が混在している。「煉瓦焼」はそれなりの完成度なものの、何となくイマイチな印象。それは私が輪郭線のある絵が好きじゃないせいもある。
モラン風景 1928年
最初は坂道にある建物かと思ったが、建物が傾いているから首をかしげながら描いたのか? そうする意味が分からないけれど、これはいろいろと迷いがあった表れなのかも知れない。白いグルグルした線は絵の具チューブから直接塗りつけた煙突の煙だそうだ。
とりあえず真っ直ぐにしてあげましょう(^^ゞ
カフェ・レストラン 1928年
これだけは「文字のパリ」で描いていた「レストラン(オテル・デュ・マルシェ)」や「テラスの広告」にタッチが近い。人物は漫画風で目なのかメガネを掛けているのかよく分からない。描かれているのはおそらく地元の農夫で、食事をしてるだけの何の変哲もない日常。それなのにフランスが舞台だと何となくオシャレな感じに見えるのが、面白くもありおかしくもある。
途中で1度パリに戻って、合計20日ほどモランに滞在したようである。午前と午後に1作品ずつ、納得いく絵が描けなければ夕方にまた1作とハードワークを重ね、また風景画は極寒での野外作業なので(パリは北海道最北端の稚内よりさらに北)、もともと結核で元気でなかった身体がさらに衰弱してしまう。また精神的にも病み始めたという。
佐伯祐三は3月上旬にパリに戻り、3月29日に病床につく。そして6月20日に精神錯乱を起こし、自宅を抜け出して自殺を図った(未遂に終わる)。発見され精神病院に収容されたときには完全に発狂していたらしい。ところで精神病には詳しくないものの、どうもこの期間が短く思える。3〜4ヶ月でそこまで至るかな?
彼の死因は結核とされる。しかし「その5」で紹介したように、米子夫人にヒ素を盛られ続けての衰弱死との説もある。ひょっとしたら精神にも害を及ぼす毒も一緒に盛られていたりして(。◔‸◔。)? そんな薬物があるかどうかは知らないけれど。
パリに戻って病床につくまで、
すなわち佐伯祐三の最終期間に描かれたのが次の作品。
郵便配達夫 1928年
肖像画でも背景に文字があるのが佐伯祐三らしいといえば佐伯らしい。身体の描写はやたら直線的で必然的に平面的なのが特徴。目の描き方は1925年の「人形」の時からの手法。モデルはタイトルにあるように郵便配達夫。しかし何となく顔はトランプのキングを連想する(^^ゞ なぜかとても特徴的で1度見たらずっと記憶に残る作品。でもこれが集大成?と言ったら佐伯はイヤな顔をするだろう。
ロシアの少女 1928年
郵便配達夫と較べると出来映えにずいぶん差がある。タッチが弱々しくて病人が描いた印象も受ける。体調の優れない日に描いたのか。モデルはロシア革命後に(1917年:共産主義国家につながった)パリへ亡命してきたロシア貴族の娘。この作品が残っているということは肖像画を依頼されたのではなくモデルとして起用したと思われる。
今でいうならヘタウマな作品。彼女と一緒にアトリエに来た母親は出来上がった絵を見て「悪い時には悪いことが重なるものだ」と嘆いたみたい。まあその気持ちは分かる。娘はロシアの民族衣装をまとっている。日本人に置き換えるなら、モデルを頼まれたので張り切って着物を着ていったのに、ナンジャコレ(/o\) といったところでお気の毒さま。
黄色いレストラン 1928年
「壁のパリ」「文字のパリ「ヴィリエ=シュル=モラン(の輪郭線)」をすべてミックスさせたような作品。この絵はレストランの前で女性が立っている構図。しかしこの後に佐伯祐三が亡くなったと知っていると、人生の門が閉じられているようにも見えてくる。ただし絵はとても力強い。
なおこの期間に制作されたのは5点。絶筆がどの作品かは分かっていない。
息を引き取ったのは8月16日。享年30歳。彼が自殺未遂を起こした頃に娘の彌智子(やちこ)も結核の容態が悪くなり、後を追うように8月30日にまだ6歳で亡くなってしまう。遺骨が日本に帰ってきたのは10月31日。
佐伯祐三がパリにいたのは1924年1月4日〜1926年1月14日と、1927年8月21日〜1928年8月16日。ただし最後は3月29日から病床に伏せっているから、それを除くと前期が2年と10日、後期が7ヶ月と8日でしかない。合計しても3年に満たない。
それでもある程度「パリをものにした」手応えはあったのではないか。だから彼がもっと長く、例えば同時代の藤田嗣治(つぐはる)のようにパリあるいはフランスに住み続けていたら、どんな絵を描く画家になっていただろうかと思わざるを得ない。それは「その1」でも書いたように佐伯の「これ見よがしなパリ」をカッコイイと感じつつも、まだまだその画風あるいは着眼点が、日本を訪れた外国人観光客が「漢字や浮世絵のTシャツ」を好むようなレベルだと思うからなおさらである。
歴史にイフはないとしても、イフを想像するから歴史は楽しい。ひょっとしたら佐伯祐三はルネサンス風のコテコテにアカデミックな画風にたどり着いたりして(^^ゞ
おしまい
その手紙の中で「よい絵は5〜6点」とも述べている。それがどれか教えて欲しかったな。また「まだアカデミックである」と反省の弁も。「その2」で紹介したヴラマンクによる「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」との1時間半にも渡る叱責はまだ彼の中に残っていたようだ。ただその後の佐伯がユトリロに影響を受けたのは確かだとしても、既にずいぶんと違う画風になっている。それにユトリロは同時代の画家でまだ教科書に載っているわけでもない。だから本人が何をもってアカデミックと感じていたのかはよく分からない。
そして都会以外のフランスを描きたいと考えたのか、1928年(昭和3年)の2月に、佐伯祐三はパリから西に40kmほど離れたヴィリエ=シュル=モラン村で制作を始める。皇居からだと八王子あたりの距離。当時だと相当に田舎だったはず。
第1回目のパリと、その後に帰国して描いたものが画風としてまったく違うように、このモランでの作品も「文字のパリ」とは似ても似つかない作品になっている。
モランの寺 1928年
煉瓦焼 1928年
先ず目立つのは、それまでになかった太くてラフな輪郭線。全体的に建物が丸々と太っているようにも見える。また「壁のパリ」のように壁の質感を表現している部分と、適当に塗りつぶした部分が混在している。「煉瓦焼」はそれなりの完成度なものの、何となくイマイチな印象。それは私が輪郭線のある絵が好きじゃないせいもある。
モラン風景 1928年
最初は坂道にある建物かと思ったが、建物が傾いているから首をかしげながら描いたのか? そうする意味が分からないけれど、これはいろいろと迷いがあった表れなのかも知れない。白いグルグルした線は絵の具チューブから直接塗りつけた煙突の煙だそうだ。
とりあえず真っ直ぐにしてあげましょう(^^ゞ
カフェ・レストラン 1928年
これだけは「文字のパリ」で描いていた「レストラン(オテル・デュ・マルシェ)」や「テラスの広告」にタッチが近い。人物は漫画風で目なのかメガネを掛けているのかよく分からない。描かれているのはおそらく地元の農夫で、食事をしてるだけの何の変哲もない日常。それなのにフランスが舞台だと何となくオシャレな感じに見えるのが、面白くもありおかしくもある。
途中で1度パリに戻って、合計20日ほどモランに滞在したようである。午前と午後に1作品ずつ、納得いく絵が描けなければ夕方にまた1作とハードワークを重ね、また風景画は極寒での野外作業なので(パリは北海道最北端の稚内よりさらに北)、もともと結核で元気でなかった身体がさらに衰弱してしまう。また精神的にも病み始めたという。
佐伯祐三は3月上旬にパリに戻り、3月29日に病床につく。そして6月20日に精神錯乱を起こし、自宅を抜け出して自殺を図った(未遂に終わる)。発見され精神病院に収容されたときには完全に発狂していたらしい。ところで精神病には詳しくないものの、どうもこの期間が短く思える。3〜4ヶ月でそこまで至るかな?
彼の死因は結核とされる。しかし「その5」で紹介したように、米子夫人にヒ素を盛られ続けての衰弱死との説もある。ひょっとしたら精神にも害を及ぼす毒も一緒に盛られていたりして(。◔‸◔。)? そんな薬物があるかどうかは知らないけれど。
パリに戻って病床につくまで、
すなわち佐伯祐三の最終期間に描かれたのが次の作品。
郵便配達夫 1928年
肖像画でも背景に文字があるのが佐伯祐三らしいといえば佐伯らしい。身体の描写はやたら直線的で必然的に平面的なのが特徴。目の描き方は1925年の「人形」の時からの手法。モデルはタイトルにあるように郵便配達夫。しかし何となく顔はトランプのキングを連想する(^^ゞ なぜかとても特徴的で1度見たらずっと記憶に残る作品。でもこれが集大成?と言ったら佐伯はイヤな顔をするだろう。
ロシアの少女 1928年
郵便配達夫と較べると出来映えにずいぶん差がある。タッチが弱々しくて病人が描いた印象も受ける。体調の優れない日に描いたのか。モデルはロシア革命後に(1917年:共産主義国家につながった)パリへ亡命してきたロシア貴族の娘。この作品が残っているということは肖像画を依頼されたのではなくモデルとして起用したと思われる。
今でいうならヘタウマな作品。彼女と一緒にアトリエに来た母親は出来上がった絵を見て「悪い時には悪いことが重なるものだ」と嘆いたみたい。まあその気持ちは分かる。娘はロシアの民族衣装をまとっている。日本人に置き換えるなら、モデルを頼まれたので張り切って着物を着ていったのに、ナンジャコレ(/o\) といったところでお気の毒さま。
黄色いレストラン 1928年
「壁のパリ」「文字のパリ「ヴィリエ=シュル=モラン(の輪郭線)」をすべてミックスさせたような作品。この絵はレストランの前で女性が立っている構図。しかしこの後に佐伯祐三が亡くなったと知っていると、人生の門が閉じられているようにも見えてくる。ただし絵はとても力強い。
なおこの期間に制作されたのは5点。絶筆がどの作品かは分かっていない。
息を引き取ったのは8月16日。享年30歳。彼が自殺未遂を起こした頃に娘の彌智子(やちこ)も結核の容態が悪くなり、後を追うように8月30日にまだ6歳で亡くなってしまう。遺骨が日本に帰ってきたのは10月31日。
佐伯祐三がパリにいたのは1924年1月4日〜1926年1月14日と、1927年8月21日〜1928年8月16日。ただし最後は3月29日から病床に伏せっているから、それを除くと前期が2年と10日、後期が7ヶ月と8日でしかない。合計しても3年に満たない。
それでもある程度「パリをものにした」手応えはあったのではないか。だから彼がもっと長く、例えば同時代の藤田嗣治(つぐはる)のようにパリあるいはフランスに住み続けていたら、どんな絵を描く画家になっていただろうかと思わざるを得ない。それは「その1」でも書いたように佐伯の「これ見よがしなパリ」をカッコイイと感じつつも、まだまだその画風あるいは着眼点が、日本を訪れた外国人観光客が「漢字や浮世絵のTシャツ」を好むようなレベルだと思うからなおさらである。
歴史にイフはないとしても、イフを想像するから歴史は楽しい。ひょっとしたら佐伯祐三はルネサンス風のコテコテにアカデミックな画風にたどり着いたりして(^^ゞ
おしまい
wassho at 19:27|Permalink│Comments(0)│
2023年07月04日
佐伯祐三 自画像としての風景 その6
1927年(昭和2年)の夏に佐伯祐三は再びパリに向かう。今回は下関から船に乗り朝鮮の釜山、そして中国のハルピンまで行きそこからシベリア鉄道を利用。日本が満州国を成立させたのは1932年で、当時のハルピンはまだロシアの影響が残っていた時代。
大阪の実家を出発したのが8月2日。その後は8月11日にハルピン発でモスクワ着は8月18日。パリに入ったのが8月21日。途中の朝鮮では京城(現在のソウル)などで観光をしていたようだから直接の日数比較はできないが、前回の神戸からインド洋〜スエズ運河経由の船旅が1ヶ月と1週間を要していたのと較べるとずいぶんと早い。
残念ながら日本に帰国するときに経由したイタリアと同様に、朝鮮、中国、ロシアで描かれた作品は展示されていなかった。モスクワからパリまでだって何カ国も経由する。スケッチくらい残っていないのかな。それともやはり佐伯祐三はパリひと筋?
参考までに飛行機で欧米に行けるようになったのはもちろん戦後で、JALのホノルル〜サンフランシスコ線開設が1954年(昭和29年)、ハンブルグ〜パリ線開設が1960年(昭和35年)。アジア各地へは1928年(昭和3年)に日本航空輸送という国策会社が設立され、台湾、朝鮮、満州、中国などに路線があった。もちろん国内便も運行していたわけだけれど、何となく戦前の旅客機や民間人の飛行機での移動はあまりイメージできない。映画などで見たことあったっけ?
さて念願かなってパリに戻った佐伯祐三。
まず描いていたのはこんな絵。
オプセルヴァトワール附近 1927年
リュクサンブール公園 1927年
どちらも木々が独特のデフォルメで描かれている。特にリュクサンブール公園ではゆらゆらと揺れているかのよう。この展覧会では前回のパリ時代を「壁のパリ」今回を「線のパリ」とテーマづけている。また美術界では日本に戻っている期間に電信柱、船のマストやロープなどを描いたのがパリに戻っての「線」につながっているとされる。
そう言われればそんな気がしなくはないものの、電信柱などを描いたのがそんなに影響するだろうか。分析したいあまりちょっと勘ぐり過ぎな気もする。
「壁のパリ」でパリの街並みはたくさん見せられたので、リュクサンブール公園のような作品をもっと見たかったのに、容赦なく展示は街並みの絵が並ぶ(^^ゞ
街角の広告 1927年
広告(アン・ジュノ) 1927年
タイトルからも分かるように佐伯祐三の興味は街並みの建物や壁、あるいは店名を記した文字から、看板やポスターなどの広告に移っている。そのせいなのか前回と較べて建物や壁の描き方が雑というか、あっさりした印象を受ける。
そしてポスターそのものが絵の主役になってくる。
ガス灯と広告 1927年
こちらは前回のパリ滞在時に描いた似たような場所での作品。
広告のある門 1925年
見較べると前回は「ポスターが貼られている壁」なのに対して、今回はポスターが主役扱いに昇格。「線のパリ」よりは「文字のパリ」とネーミングしたほうが内容に即していたかも知れない。
文字をフィーチャーするのは日本人的には(憧れの)パリを強く感じさせるアピールポイントになるし、またそんな手法は他の画家にあまり見られないので差別化=独自の画風の確立につながる。マーケティング的には正義。いいところに目を付けたね祐三チャン。
佐伯祐三も手応えを感じたのか、
「文字のパリ」はだんだんとエスカレートする(^^ゞ
ラ・クロッシュ 1927年
新聞屋 1927年
広告貼り 1927年
ラ・クロッシュ(La Cloche)とは鐘あるいは釣り鐘型の帽子。それではこのタイトルの意味が分からないが、壁にLA CLOCHEと落書きしてあるから、それをタイトルにしただけみたいだ。
それぞれの「文字」は日本で描いた「看板のある道」と同じように、ところどころを読めないように崩されている。「壁のパリ」のときの文字は店名程度だった。それと較べて圧倒的に文字数が増えているので、画面がうるさくならないための工夫と思われる。ただし文字が踊りすぎのようにも感じるが。
ところで
パリではこんなにたくさんのポスターが壁にベタベタ貼ってあるのか?
それらにイラストなどはなくほとんどが文字だけなのか?
については疑問がある。
当時のパリの写真を丹念に探せば見当がつくだろうが、面倒なのでそこまではやっていない。それでもおそらくこれは佐伯祐三の誇張だと思う。その理由のひとつはポスターの紙面構成がワンパターンなこと。もうひとつはポスターに使われているフォント(文字の形)に差がないから。ヨーロッパのポスターや看板はフォントに凝るとの認識を持っている。
彼は前回のパリ滞在時に同じ建物を何度も描いていた。
それは今回も同様。
レストラン(オテル・デュ・マルシェ) 1927年
テラスの広告 1927年
上はカフェの風景を描き、下は広告を中心にした画面構成。私も写真を撮るときズームレンズの広角側で撮って、それから望遠側でズームアップする場合が多い。全体は押さえた上で、おいしいところを探す感覚。しかしそれを絵で、つまり手作業でやるのは大変だなあと、私と佐伯祐三の似ているような違っているようなところを発見してしまった(^^ゞ
ーーーいつまで続く?
大阪の実家を出発したのが8月2日。その後は8月11日にハルピン発でモスクワ着は8月18日。パリに入ったのが8月21日。途中の朝鮮では京城(現在のソウル)などで観光をしていたようだから直接の日数比較はできないが、前回の神戸からインド洋〜スエズ運河経由の船旅が1ヶ月と1週間を要していたのと較べるとずいぶんと早い。
残念ながら日本に帰国するときに経由したイタリアと同様に、朝鮮、中国、ロシアで描かれた作品は展示されていなかった。モスクワからパリまでだって何カ国も経由する。スケッチくらい残っていないのかな。それともやはり佐伯祐三はパリひと筋?
参考までに飛行機で欧米に行けるようになったのはもちろん戦後で、JALのホノルル〜サンフランシスコ線開設が1954年(昭和29年)、ハンブルグ〜パリ線開設が1960年(昭和35年)。アジア各地へは1928年(昭和3年)に日本航空輸送という国策会社が設立され、台湾、朝鮮、満州、中国などに路線があった。もちろん国内便も運行していたわけだけれど、何となく戦前の旅客機や民間人の飛行機での移動はあまりイメージできない。映画などで見たことあったっけ?
さて念願かなってパリに戻った佐伯祐三。
まず描いていたのはこんな絵。
オプセルヴァトワール附近 1927年
リュクサンブール公園 1927年
どちらも木々が独特のデフォルメで描かれている。特にリュクサンブール公園ではゆらゆらと揺れているかのよう。この展覧会では前回のパリ時代を「壁のパリ」今回を「線のパリ」とテーマづけている。また美術界では日本に戻っている期間に電信柱、船のマストやロープなどを描いたのがパリに戻っての「線」につながっているとされる。
そう言われればそんな気がしなくはないものの、電信柱などを描いたのがそんなに影響するだろうか。分析したいあまりちょっと勘ぐり過ぎな気もする。
「壁のパリ」でパリの街並みはたくさん見せられたので、リュクサンブール公園のような作品をもっと見たかったのに、容赦なく展示は街並みの絵が並ぶ(^^ゞ
街角の広告 1927年
広告(アン・ジュノ) 1927年
タイトルからも分かるように佐伯祐三の興味は街並みの建物や壁、あるいは店名を記した文字から、看板やポスターなどの広告に移っている。そのせいなのか前回と較べて建物や壁の描き方が雑というか、あっさりした印象を受ける。
そしてポスターそのものが絵の主役になってくる。
ガス灯と広告 1927年
こちらは前回のパリ滞在時に描いた似たような場所での作品。
広告のある門 1925年
見較べると前回は「ポスターが貼られている壁」なのに対して、今回はポスターが主役扱いに昇格。「線のパリ」よりは「文字のパリ」とネーミングしたほうが内容に即していたかも知れない。
文字をフィーチャーするのは日本人的には(憧れの)パリを強く感じさせるアピールポイントになるし、またそんな手法は他の画家にあまり見られないので差別化=独自の画風の確立につながる。マーケティング的には正義。いいところに目を付けたね祐三チャン。
佐伯祐三も手応えを感じたのか、
「文字のパリ」はだんだんとエスカレートする(^^ゞ
ラ・クロッシュ 1927年
新聞屋 1927年
広告貼り 1927年
ラ・クロッシュ(La Cloche)とは鐘あるいは釣り鐘型の帽子。それではこのタイトルの意味が分からないが、壁にLA CLOCHEと落書きしてあるから、それをタイトルにしただけみたいだ。
それぞれの「文字」は日本で描いた「看板のある道」と同じように、ところどころを読めないように崩されている。「壁のパリ」のときの文字は店名程度だった。それと較べて圧倒的に文字数が増えているので、画面がうるさくならないための工夫と思われる。ただし文字が踊りすぎのようにも感じるが。
ところで
パリではこんなにたくさんのポスターが壁にベタベタ貼ってあるのか?
それらにイラストなどはなくほとんどが文字だけなのか?
については疑問がある。
当時のパリの写真を丹念に探せば見当がつくだろうが、面倒なのでそこまではやっていない。それでもおそらくこれは佐伯祐三の誇張だと思う。その理由のひとつはポスターの紙面構成がワンパターンなこと。もうひとつはポスターに使われているフォント(文字の形)に差がないから。ヨーロッパのポスターや看板はフォントに凝るとの認識を持っている。
彼は前回のパリ滞在時に同じ建物を何度も描いていた。
それは今回も同様。
レストラン(オテル・デュ・マルシェ) 1927年
テラスの広告 1927年
上はカフェの風景を描き、下は広告を中心にした画面構成。私も写真を撮るときズームレンズの広角側で撮って、それから望遠側でズームアップする場合が多い。全体は押さえた上で、おいしいところを探す感覚。しかしそれを絵で、つまり手作業でやるのは大変だなあと、私と佐伯祐三の似ているような違っているようなところを発見してしまった(^^ゞ
ーーーいつまで続く?
wassho at 21:02|Permalink│Comments(0)│
2023年07月02日
佐伯祐三 自画像としての風景 その5
初期の自画像を除けば風景画の多い佐伯祐三であるが、
いくつかの静物画も展示されていた。
ポスターとローソク立て 1925年頃
人形 1925年頃
薔薇 1925年頃
にんじん 1926年頃
鯖 1926年頃
蟹 1926年頃
1925年頃の作品はパリで、1926年頃のものは日本に帰国してから描かれたもの。感想は「ごく普通」でそれ以上でも以下でもない。もしこんな絵ばかりだったら後世に名前は残らなかった。
「人形」は人間を描いた肖像画ではないとしても、佐伯は初期の肖像画以外は人物を写実的に描いていないようだ。目が漫画チック。もっともフランス人形だから目は大きかっただろうが。
妻の米子を描いたもの。
これも特徴だけを捉えた画風になっている。
米子像 1927年
彼女は東京の生まれで佐伯祐三より5歳年下。佐伯が東京美術学校(現:東京芸大)時代に知り合い学生結婚。結婚時に彼女も学生だったかどうかは分からないが、結婚が1920年(大正9年)だから当時17歳。大正10年に作られた「赤とんぼ」で「♪十五でネエヤは嫁に行き〜」とあるし、大正9年に実施された第1回国勢調査によると平均初婚年齢は男性25歳、女性21歳。だから当時としてはビックリするほど若くして結婚したわけではない。
彼女はパリでも和服姿で通した。子供の頃の怪我で脚に障害が残り松葉杖を使ってたそうだ。日本人自体が珍しいうえに、和服に松葉杖だったからパリでフランス人は必ず振り返って米子を見たという。
こちらは1980年のドラマで三田佳子が演じた米子。佐伯祐三役は根津甚八。
まあ今でもパリでこんな女性が歩いていたら振り向かれると思う。
なお佐伯には1920年から1923年頃に描いた「大谷さく像」があり「米子像」も大谷さくがモデルではとの説がある。写真と見較べると何となく大谷さくのような気がする。
大谷さく像
さてこの米子さん。
2度目のパリで佐伯祐三が亡くなり、その2週間後には娘の彌智子(やちこ)も同じく結核で亡くなる。それはいくら何でもお気の毒、日本から遠く離れたパリで一人ぼっちになってさぞ心寂しかっただろうと多くの人は同情する。少なくとも展覧会での解説を読めばそう思うはず。
しかし彼女にはいろいろと分かっていないことが多い。
すべて真偽不明ながら次のような説明もある。
<その1>
米子は同じくパリに住んでいた画家の荻須高徳(おぎす たかのり)と不倫していた!
パリの広末涼子かっ!(^^ゞ
荻須の子を妊娠していたとの話もある。
しかし佐伯も薩摩治郎八の妻である千代子と不倫していた!
いわゆるダブル不倫(>_<)
薩摩治郎八はパリでバロン薩摩と呼ばれた大富豪の超有名人。
どうでもいいけれど当時の荻須高徳は独身。
そして千代子はパリ社交界のアイドルといわれ、ヴォーグ誌の表紙に何度も登場。
そりゃ惚れるわ(^^ゞ
また米子は最初、兄の祐正(ゆうしょう)と付き合っており、彌智子(やちこ)も祐正の子供だとする噂も。ただし彼は寺の有力檀家=パトロンである大谷家の娘である菊枝と結婚する道を選ぶ(肖像画のさくはその母親)。つまり米子は祐正にフラれたので弟の祐三に乗り換えたわけ。
しかし大谷家は売春宿(当時は合法)も経営していたため母親が反対して破談。それを苦にして菊枝は自殺。その後、祐正は大谷家に出入りしていた女性と結婚。ここまでもすごいが、実は菊枝は祐正との婚約前に祐三と付き合っていた! なんと兄弟での彼女交換!
ちなみに佐伯祐三と米子が結婚したのは1920年11月で、彌智子が生まれたのは1922年2月になる。ということはーーー? 蛇足ながら祐正が結婚したのはずっと後の1926年。
この時代にワイドショーがあれば3ヶ月は話題を独占できそう(^^ゞ
<その2>
米子は祐三と彌智子が寝ているときにガス栓を開いて2人を殺害しようとした、また祐三にヒ素を盛って衰弱させたともいわれる。
祐三を殺すのはまあ動機があるとして、どうして娘まで? ひょっとして荻須高徳との不倫で邪魔になった? もしそうだとしたら鬼嫁&毒親のダブルタイトル確定!
<その3>
米子は美術学校は出ていないものの、日本画の巨匠である川合玉堂に絵を学んでいた。1925年に佐伯祐三がパリでサロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選した時、実は彼女も同じく入選している。1926年には二科会展に5点が入選。その後も出展を続け、戦後は二紀会の理事になった。
だから彼女は腕の立つ画家だった。佐伯祐三に絵を指導していたのは米子だとも、佐伯の絵は米子が加筆修正していたとの説もある。米子が手を加えたのはそうしないと絵が売れないからで、佐伯はそれが気に入らず夫婦仲が悪くなったらしい。
<その4>
多くの資料で米子の生年月日は1903年(明治36年)7月7日となっている。しかしこれは彼女が作成した“プロフィール”が元になっており、戸籍では1897年(明治30年)7月7日生まれとも指摘される。
だとすれば彼女は佐伯祐三より1歳年上、結婚したのは23歳になる。
当時の感覚だと年増だからサバを読んだのか(^^ゞ
先に書いたようにこれらは真偽不明。ネットで探せばいろいろな情報にヒットするものの、どうやら大元のネタは「よくできたトンデモ本=真実とフェイクが入り交じってる」のようなので、そんな話もあるんだ程度に楽しむのがいいと思う。
ーーー続く
いくつかの静物画も展示されていた。
ポスターとローソク立て 1925年頃
人形 1925年頃
薔薇 1925年頃
にんじん 1926年頃
鯖 1926年頃
蟹 1926年頃
1925年頃の作品はパリで、1926年頃のものは日本に帰国してから描かれたもの。感想は「ごく普通」でそれ以上でも以下でもない。もしこんな絵ばかりだったら後世に名前は残らなかった。
「人形」は人間を描いた肖像画ではないとしても、佐伯は初期の肖像画以外は人物を写実的に描いていないようだ。目が漫画チック。もっともフランス人形だから目は大きかっただろうが。
妻の米子を描いたもの。
これも特徴だけを捉えた画風になっている。
米子像 1927年
彼女は東京の生まれで佐伯祐三より5歳年下。佐伯が東京美術学校(現:東京芸大)時代に知り合い学生結婚。結婚時に彼女も学生だったかどうかは分からないが、結婚が1920年(大正9年)だから当時17歳。大正10年に作られた「赤とんぼ」で「♪十五でネエヤは嫁に行き〜」とあるし、大正9年に実施された第1回国勢調査によると平均初婚年齢は男性25歳、女性21歳。だから当時としてはビックリするほど若くして結婚したわけではない。
彼女はパリでも和服姿で通した。子供の頃の怪我で脚に障害が残り松葉杖を使ってたそうだ。日本人自体が珍しいうえに、和服に松葉杖だったからパリでフランス人は必ず振り返って米子を見たという。
こちらは1980年のドラマで三田佳子が演じた米子。佐伯祐三役は根津甚八。
まあ今でもパリでこんな女性が歩いていたら振り向かれると思う。
なお佐伯には1920年から1923年頃に描いた「大谷さく像」があり「米子像」も大谷さくがモデルではとの説がある。写真と見較べると何となく大谷さくのような気がする。
大谷さく像
さてこの米子さん。
2度目のパリで佐伯祐三が亡くなり、その2週間後には娘の彌智子(やちこ)も同じく結核で亡くなる。それはいくら何でもお気の毒、日本から遠く離れたパリで一人ぼっちになってさぞ心寂しかっただろうと多くの人は同情する。少なくとも展覧会での解説を読めばそう思うはず。
しかし彼女にはいろいろと分かっていないことが多い。
すべて真偽不明ながら次のような説明もある。
<その1>
米子は同じくパリに住んでいた画家の荻須高徳(おぎす たかのり)と不倫していた!
パリの広末涼子かっ!(^^ゞ
荻須の子を妊娠していたとの話もある。
しかし佐伯も薩摩治郎八の妻である千代子と不倫していた!
いわゆるダブル不倫(>_<)
薩摩治郎八はパリでバロン薩摩と呼ばれた大富豪の超有名人。
どうでもいいけれど当時の荻須高徳は独身。
そして千代子はパリ社交界のアイドルといわれ、ヴォーグ誌の表紙に何度も登場。
そりゃ惚れるわ(^^ゞ
また米子は最初、兄の祐正(ゆうしょう)と付き合っており、彌智子(やちこ)も祐正の子供だとする噂も。ただし彼は寺の有力檀家=パトロンである大谷家の娘である菊枝と結婚する道を選ぶ(肖像画のさくはその母親)。つまり米子は祐正にフラれたので弟の祐三に乗り換えたわけ。
しかし大谷家は売春宿(当時は合法)も経営していたため母親が反対して破談。それを苦にして菊枝は自殺。その後、祐正は大谷家に出入りしていた女性と結婚。ここまでもすごいが、実は菊枝は祐正との婚約前に祐三と付き合っていた! なんと兄弟での彼女交換!
ちなみに佐伯祐三と米子が結婚したのは1920年11月で、彌智子が生まれたのは1922年2月になる。ということはーーー? 蛇足ながら祐正が結婚したのはずっと後の1926年。
この時代にワイドショーがあれば3ヶ月は話題を独占できそう(^^ゞ
<その2>
米子は祐三と彌智子が寝ているときにガス栓を開いて2人を殺害しようとした、また祐三にヒ素を盛って衰弱させたともいわれる。
祐三を殺すのはまあ動機があるとして、どうして娘まで? ひょっとして荻須高徳との不倫で邪魔になった? もしそうだとしたら鬼嫁&毒親のダブルタイトル確定!
<その3>
米子は美術学校は出ていないものの、日本画の巨匠である川合玉堂に絵を学んでいた。1925年に佐伯祐三がパリでサロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選した時、実は彼女も同じく入選している。1926年には二科会展に5点が入選。その後も出展を続け、戦後は二紀会の理事になった。
だから彼女は腕の立つ画家だった。佐伯祐三に絵を指導していたのは米子だとも、佐伯の絵は米子が加筆修正していたとの説もある。米子が手を加えたのはそうしないと絵が売れないからで、佐伯はそれが気に入らず夫婦仲が悪くなったらしい。
<その4>
多くの資料で米子の生年月日は1903年(明治36年)7月7日となっている。しかしこれは彼女が作成した“プロフィール”が元になっており、戸籍では1897年(明治30年)7月7日生まれとも指摘される。
だとすれば彼女は佐伯祐三より1歳年上、結婚したのは23歳になる。
当時の感覚だと年増だからサバを読んだのか(^^ゞ
先に書いたようにこれらは真偽不明。ネットで探せばいろいろな情報にヒットするものの、どうやら大元のネタは「よくできたトンデモ本=真実とフェイクが入り交じってる」のようなので、そんな話もあるんだ程度に楽しむのがいいと思う。
ーーー続く
wassho at 23:35|Permalink│Comments(0)│
2023年07月01日
佐伯祐三 自画像としての風景 その4
1924年(大正13年)の1月にパリにやって来た佐伯祐三なのに、2年後の1926年の1月に帰国の途につく。パリを離れてイタリアをミラノ、フィレンツェ、ローマと南下し2月8日にナポリから乗船。日本到着は3月15日。イタリアでは絵を描かなかったのかなあ? スケッチの類いも展覧会では展示されていなかった。残念
佐伯の死因は結核であるが、この頃から既に身体の調子が悪かったようで、心配する家族の勧めによりと資料にはある。
その家族が誰を指すのかはっきりとは分からないものの、2歳違い兄の祐正(ゆうしょう)かも知れない。写真は1925年にパリのアトリエで撮られたもの。中央が兄の祐正で、右が佐伯祐三。女性は祐三の妻の米子と娘の彌智子(やちこ)。当時3歳前後。どうでもいいが祐三は次男なのに三のつく名前。男4人女3人の兄弟の3番目に生まれた子でもない。
兄の祐正は実家のお寺を継いだ住職なのだけれど、セツルメント事業をやっていて、その世界会議でこの時にパリは来ていたようだ。セツルメントとは聞き慣れない言葉でWikipediaによると、
セツルメントまたはセトルメント(英: settlement)とは、正確には「ソーシャル・
セツルメント」であり、隣保館などと訳され、社会教化事業を行う地域の拠点のこと
である。元の意味は、「移住」で19世紀末に、イギリスの理想主義的な大学教授や
学生が貧民街(スラム)に移り住んで貧民と生活をともにし、その教化にあたった
ところから使われるようになった言葉である。
社会教化事業とは福祉事業のようなことだろう。兄の祐正は寺に善隣館という施設を構え、そこでセツルメントの活動をしていた。なんとスタッフ50名、年間利用者数は10万人と大規模なもの。現在のお寺でそんな活動をしているところはあるのかな。
とても素晴らしい事業に思えるが、当時は貧困者対策活動=資本主義批判=社会主義・共産主義思想が成り立つ時代。それで祐正は特高にマークされていたようである。兄弟である祐三も同じく。
それにしても祐正はかなりのイケメンで本木雅弘に似ている。祐三もそうだけれど目と眉毛の間隔が狭くて欧米人的な顔立ち。日本人はこの間隔が広いからサングラスの上に眉毛があってマヌケな感じになる。タモリとトム・クルーズで較べちゃイケないか(^^ゞ
日本に戻ってきた佐伯祐三が描いていた絵には2パターンあって、
まずは自宅のあった東京・下落合周辺の風景。
下落合風景 1926年頃
パリ以外を描いた佐伯祐三の風景画を見たのは今回が初めて。そしてこの絵を一目見たとき、おそらくは美術評論家とはまったく違う視点で「わかる、わかる、そうだよね祐三クン」と私はニヤニヤしていた。
この絵には電信柱が描かれていて、後で紹介する船の絵にはマストやロープが描かれている。それらは彼の関心が面から線に移った表れなどと解説される。専門家が言うなら多分そうなんだろうけれど、この絵の素晴らしさは電柱は描いても電線を描かなかったところ!
日本の街中は電線だらけ。例えばサクラがキレイだなと写真を撮っても電線で台無しになる。人間の脳には「見たいものだけを見る」機能が備わっているので、眺めている分には電線があまり気にならない。しかしカメラにそんな機能はないので写真になると(/o\)
こちらは電線が地中に埋められた美しい街並み。ちなみに国土交通省による「欧米やアジアの主要都市と日本の無電柱化の現状」のグラフはここをクリック。
佐伯祐三がどうして電線を描かなかったかを解説した資料は見当たらなかった。でも私は電線を描いたら画面が汚くなるからだと確信している。
看板のある道 1926年頃
これも電線は省略されている。
看板に書かれている文字は富永醫院(医院)と落合倶楽部だろうか。文字とわかり、かつ風景の邪魔をしない程度に崩されているように思う。このあたりは前回に書いた「フランスの街並みとして描かれた文字が、もし日本語だったら(読めたら)?」と併せて気になるところ。
下落合風景 1926年頃
これには電線が描かれている。
これは線路高架が題材で架線は主役だからだろう。
(下落合付近の山手線は1909年に電化されている)
ガード風景 1926-27年
上の絵とよく似ているがおそらくテーマが違う。
日本に戻った佐伯祐三は「日本の風景は僕の絵にならない」と語ったとされる。パリの石造りの建物の絵を描いてきた画家にとって、日本の(住宅街の)木造建築の街並みでは重厚感・存在感が足らなかった気持ちはよく分かる。私も初めてヨーロッパに出かけて、帰国すると日本の街並みがとても薄っぺらく見えた、押せば倒れそうに思えたのを覚えているから。
だから鉄道のためにレンガとコンクリートで固められたこの「ガード風景」に佐伯はパリの面影を見つけたんじゃないかとも思う。場所は新橋とされガードの先の景色も描かれている。それは現実の光景なのか、あるいはパリの記憶?
下落合風景(テニス) 1926年頃
テニスという洋風なものを噛ませても田舎くさいもんなあ(^^ゞ
それで前回に紹介したパリの街並みを描いた作品と並べてみたのがこちら。どちらがカッコイイ、貰えるならどちらが欲しいというお話。なぜパリの街並みのほうに魅力を感じるのか、それは西洋コンプレックスなのかと展覧会を見ているときにずっと考えていた問題。
佐伯祐三は実家のある大阪にも帰省している。
なぜか大阪では風景画ではなく船の絵ばかりを描いている。
汽船 1926年頃
滞船 1927年 ※滞船(たいせん)とは港で停泊している船
滞船 1926年頃
高架の線路では架線を描いたように、帆船では多数のロープを描いている。しかしそれをもって「線への関心」とするのはちょっと無理があるとも思う。ありのままに描いただけなのでは?
ここで紹介した作品にはあまり興味が湧かなかったとはいえ、
パリ以外の佐伯の絵を見られたのは楽しかった。
ところでどうして彼は例えば銀座など、下落合の住宅地に較べれば都市的な重厚感のある場所の風景画を描かなかったのだろう。それが少しナゾ
写真は大正時代の銀座。
パリと較べれば中途半端なのは否めないが。
画像はhttps://www.ginza-web.com/contents/history/index.htmlから引用
ーーー続く
佐伯の死因は結核であるが、この頃から既に身体の調子が悪かったようで、心配する家族の勧めによりと資料にはある。
その家族が誰を指すのかはっきりとは分からないものの、2歳違い兄の祐正(ゆうしょう)かも知れない。写真は1925年にパリのアトリエで撮られたもの。中央が兄の祐正で、右が佐伯祐三。女性は祐三の妻の米子と娘の彌智子(やちこ)。当時3歳前後。どうでもいいが祐三は次男なのに三のつく名前。男4人女3人の兄弟の3番目に生まれた子でもない。
兄の祐正は実家のお寺を継いだ住職なのだけれど、セツルメント事業をやっていて、その世界会議でこの時にパリは来ていたようだ。セツルメントとは聞き慣れない言葉でWikipediaによると、
セツルメントまたはセトルメント(英: settlement)とは、正確には「ソーシャル・
セツルメント」であり、隣保館などと訳され、社会教化事業を行う地域の拠点のこと
である。元の意味は、「移住」で19世紀末に、イギリスの理想主義的な大学教授や
学生が貧民街(スラム)に移り住んで貧民と生活をともにし、その教化にあたった
ところから使われるようになった言葉である。
社会教化事業とは福祉事業のようなことだろう。兄の祐正は寺に善隣館という施設を構え、そこでセツルメントの活動をしていた。なんとスタッフ50名、年間利用者数は10万人と大規模なもの。現在のお寺でそんな活動をしているところはあるのかな。
とても素晴らしい事業に思えるが、当時は貧困者対策活動=資本主義批判=社会主義・共産主義思想が成り立つ時代。それで祐正は特高にマークされていたようである。兄弟である祐三も同じく。
それにしても祐正はかなりのイケメンで本木雅弘に似ている。祐三もそうだけれど目と眉毛の間隔が狭くて欧米人的な顔立ち。日本人はこの間隔が広いからサングラスの上に眉毛があってマヌケな感じになる。タモリとトム・クルーズで較べちゃイケないか(^^ゞ
日本に戻ってきた佐伯祐三が描いていた絵には2パターンあって、
まずは自宅のあった東京・下落合周辺の風景。
下落合風景 1926年頃
パリ以外を描いた佐伯祐三の風景画を見たのは今回が初めて。そしてこの絵を一目見たとき、おそらくは美術評論家とはまったく違う視点で「わかる、わかる、そうだよね祐三クン」と私はニヤニヤしていた。
この絵には電信柱が描かれていて、後で紹介する船の絵にはマストやロープが描かれている。それらは彼の関心が面から線に移った表れなどと解説される。専門家が言うなら多分そうなんだろうけれど、この絵の素晴らしさは電柱は描いても電線を描かなかったところ!
日本の街中は電線だらけ。例えばサクラがキレイだなと写真を撮っても電線で台無しになる。人間の脳には「見たいものだけを見る」機能が備わっているので、眺めている分には電線があまり気にならない。しかしカメラにそんな機能はないので写真になると(/o\)
こちらは電線が地中に埋められた美しい街並み。ちなみに国土交通省による「欧米やアジアの主要都市と日本の無電柱化の現状」のグラフはここをクリック。
佐伯祐三がどうして電線を描かなかったかを解説した資料は見当たらなかった。でも私は電線を描いたら画面が汚くなるからだと確信している。
看板のある道 1926年頃
これも電線は省略されている。
看板に書かれている文字は富永醫院(医院)と落合倶楽部だろうか。文字とわかり、かつ風景の邪魔をしない程度に崩されているように思う。このあたりは前回に書いた「フランスの街並みとして描かれた文字が、もし日本語だったら(読めたら)?」と併せて気になるところ。
下落合風景 1926年頃
これには電線が描かれている。
これは線路高架が題材で架線は主役だからだろう。
(下落合付近の山手線は1909年に電化されている)
ガード風景 1926-27年
上の絵とよく似ているがおそらくテーマが違う。
日本に戻った佐伯祐三は「日本の風景は僕の絵にならない」と語ったとされる。パリの石造りの建物の絵を描いてきた画家にとって、日本の(住宅街の)木造建築の街並みでは重厚感・存在感が足らなかった気持ちはよく分かる。私も初めてヨーロッパに出かけて、帰国すると日本の街並みがとても薄っぺらく見えた、押せば倒れそうに思えたのを覚えているから。
だから鉄道のためにレンガとコンクリートで固められたこの「ガード風景」に佐伯はパリの面影を見つけたんじゃないかとも思う。場所は新橋とされガードの先の景色も描かれている。それは現実の光景なのか、あるいはパリの記憶?
下落合風景(テニス) 1926年頃
テニスという洋風なものを噛ませても田舎くさいもんなあ(^^ゞ
それで前回に紹介したパリの街並みを描いた作品と並べてみたのがこちら。どちらがカッコイイ、貰えるならどちらが欲しいというお話。なぜパリの街並みのほうに魅力を感じるのか、それは西洋コンプレックスなのかと展覧会を見ているときにずっと考えていた問題。
佐伯祐三は実家のある大阪にも帰省している。
なぜか大阪では風景画ではなく船の絵ばかりを描いている。
汽船 1926年頃
滞船 1927年 ※滞船(たいせん)とは港で停泊している船
滞船 1926年頃
高架の線路では架線を描いたように、帆船では多数のロープを描いている。しかしそれをもって「線への関心」とするのはちょっと無理があるとも思う。ありのままに描いただけなのでは?
ここで紹介した作品にはあまり興味が湧かなかったとはいえ、
パリ以外の佐伯の絵を見られたのは楽しかった。
ところでどうして彼は例えば銀座など、下落合の住宅地に較べれば都市的な重厚感のある場所の風景画を描かなかったのだろう。それが少しナゾ
写真は大正時代の銀座。
パリと較べれば中途半端なのは否めないが。
画像はhttps://www.ginza-web.com/contents/history/index.htmlから引用
ーーー続く
wassho at 21:56|Permalink│Comments(0)│
2023年06月27日
佐伯祐三 自画像としての風景 その3
モーリス・ド・ヴラマンクからの叱責を受けて、佐伯祐三の再出発が始まる。それまでの画風を全否定されたのだから、新たな画風を模索する日々である。ただし前回に紹介した真っ黒な裸婦像のようなものは、この展覧会には出展されていない。彼の作品をいろいろ調べてもあのように描かれた絵は他に見当たらなかった。あの裸婦像はちょっとヤバかったけれど、例外的な作品のようだ。
それでどんな絵を描いていたかというとほとんどが風景画。
オワーズ河周辺風景 1924年
オーヴェールの教会 1924年
煙突のある風景 1924年頃
それまでの画風と較べると明らかに色が濃い。ヴラマンクは「光で変化する表面的な色彩ではなく(つまり印象派の否定)、物質の持つ固有の色を表現しろ」と教えたらしい。ちょっとナニ言っているかわからないし(^^ゞ 、だいたい物体の色とはすべからく反射色である。
その色の原理はさておくとして、私はこれらの絵が「物質の持つ固有の色を表現」できているかどうかはよく分からない。しかし1924年の秋(叱責は6月)に再びヴラマンクを尋ねて絵を見せた際に、彼は「物質感はイマイチだが大変に優れた色彩感覚」と褒めたという。
ちなみに「オーヴェールの教会」はゴッホも描いていて、そのオマージュともいうべき作品。構図はまったく一緒である。佐伯祐三はゴッホの墓参りなどもしていてファンだったみたい。ヴラマンクがいなければ、本当はもっとゴッホに似せて描きたかったりして(^^ゞ
こちらがゴッホのオーヴェールの教会。
やがて佐伯祐三はユトリロの影響を受け、パリの街並みを中心に描くようになる。あれ?ヴラマンク先生に物真似はダメといわれたはずなのに。もっとも似ているのはパリの街並みを題材にした点だけで、色彩もタッチもまったく別物。色彩は先ほど書いた濃くて暗い=物質の持つ固有の色?である。
パリ風景 1925年頃
街角(モロ=ジャフェリ広場) 1925年頃
参考までに「ユトリロ 作品」で画像検索をしたページはここをクリック
やがて街並みからだんだんと建物の壁をクローズアップして描き出す。
同時に建物の看板や文字も作品の重要な要素となってくる
運送屋(カミオン) 1925年
壁 1925年
※壁に書かれている DEMENAGEMENTS は引越屋の意味。運送屋の隣にあったのかな。
なぜか同じ題材で2枚描いているものが多い。微妙にタッチが違うから、新しい描き方を思いついて、以前の作品と比較するために同じ場所を選んだのだろうか?
緑色の部分に書かれている LES JEUX DE NOEL(レ・ジュ・ド・ノエル)は直訳すればクリスマスゲーム。「クリスマスを楽しもう」の意味で、おもちゃ屋のコピーと解説しているものがあったが、建物の上にはHOTELと書かれているから、どうにも?な感じ。
レ・ジュ・ド・ノエル 1925年(2作品とも同じ)
こちらも同じく2枚描かれている。
ドアの所に靴を吊すのは日本にはないディスプレイで面白いね。
コルドヌリ(靴屋) 1925年
コルドヌリ(靴屋) 1925年頃
1925年に佐伯祐三はサロン・ドートンヌ(世界で最も権威のある公募展ともいわれ、現在も続いている)に入選する。その作品も同じくコルドヌリのタイトル。その作品は買い手がつき現在は所在が分からないようだが、ここで紹介したコルドヌリと似たようなものと考えられている。
なお画家によっては「売れ筋」の似たような絵を何枚も描く人もいる。しかし佐伯の場合はそうではないだろう。
他にも店名シリーズ(勝手に命名)は続く。
洗濯屋(オ・プティ・ソミュール) 1925年
酒場(オ・カーヴ・ブルー) 1925年
街並みを描き、そして看板や文字をそこに溶け込ませた集大成のような作品が「アントレ ド リュー ド シャトー Entree de Rue du Chateau」。意味は「シャトー通り入り口」で制作は同じく1925年。
まだ独自の画風を確立したとはいえないものの、渡仏前と較べればまったく違う画家になっている。立ち直り早いね佐伯君(^^ゞ
ただ疑問もある。ここで紹介した「運送屋(カミオン)」以降の作品は建物や壁と、そこにある文字で成り立っている。日本人的にはフランス語なんてほとんど読めないから、文字は建物デザインの一部あるいはパリの雰囲気をを感じさせる装飾でしかない。
ではフランス人にとっては? もし作品に「運送屋」「引越屋」「靴屋」「洗濯屋」などと日本語でデカデカと描かれていたと想像すれば? 初回の投稿で佐伯の絵には「どうだ、これがパリだ」とイキっている感があると書いたのはそういうこと。
また佐伯の絵にはある種のカッコよさがあると思う。しかしもし描かれている文字が日本語ならずいぶんと印象も違ってくる気がする。じゃあなぜ日本語だったらカッコ悪い? それってやっぱり西洋コンプレックス? となかなか素直に鑑賞できないのが困ったところ。
ーーー続く
それでどんな絵を描いていたかというとほとんどが風景画。
オワーズ河周辺風景 1924年
オーヴェールの教会 1924年
煙突のある風景 1924年頃
それまでの画風と較べると明らかに色が濃い。ヴラマンクは「光で変化する表面的な色彩ではなく(つまり印象派の否定)、物質の持つ固有の色を表現しろ」と教えたらしい。ちょっとナニ言っているかわからないし(^^ゞ 、だいたい物体の色とはすべからく反射色である。
その色の原理はさておくとして、私はこれらの絵が「物質の持つ固有の色を表現」できているかどうかはよく分からない。しかし1924年の秋(叱責は6月)に再びヴラマンクを尋ねて絵を見せた際に、彼は「物質感はイマイチだが大変に優れた色彩感覚」と褒めたという。
ちなみに「オーヴェールの教会」はゴッホも描いていて、そのオマージュともいうべき作品。構図はまったく一緒である。佐伯祐三はゴッホの墓参りなどもしていてファンだったみたい。ヴラマンクがいなければ、本当はもっとゴッホに似せて描きたかったりして(^^ゞ
こちらがゴッホのオーヴェールの教会。
やがて佐伯祐三はユトリロの影響を受け、パリの街並みを中心に描くようになる。あれ?ヴラマンク先生に物真似はダメといわれたはずなのに。もっとも似ているのはパリの街並みを題材にした点だけで、色彩もタッチもまったく別物。色彩は先ほど書いた濃くて暗い=物質の持つ固有の色?である。
パリ風景 1925年頃
街角(モロ=ジャフェリ広場) 1925年頃
参考までに「ユトリロ 作品」で画像検索をしたページはここをクリック
やがて街並みからだんだんと建物の壁をクローズアップして描き出す。
同時に建物の看板や文字も作品の重要な要素となってくる
運送屋(カミオン) 1925年
壁 1925年
※壁に書かれている DEMENAGEMENTS は引越屋の意味。運送屋の隣にあったのかな。
なぜか同じ題材で2枚描いているものが多い。微妙にタッチが違うから、新しい描き方を思いついて、以前の作品と比較するために同じ場所を選んだのだろうか?
緑色の部分に書かれている LES JEUX DE NOEL(レ・ジュ・ド・ノエル)は直訳すればクリスマスゲーム。「クリスマスを楽しもう」の意味で、おもちゃ屋のコピーと解説しているものがあったが、建物の上にはHOTELと書かれているから、どうにも?な感じ。
レ・ジュ・ド・ノエル 1925年(2作品とも同じ)
こちらも同じく2枚描かれている。
ドアの所に靴を吊すのは日本にはないディスプレイで面白いね。
コルドヌリ(靴屋) 1925年
コルドヌリ(靴屋) 1925年頃
1925年に佐伯祐三はサロン・ドートンヌ(世界で最も権威のある公募展ともいわれ、現在も続いている)に入選する。その作品も同じくコルドヌリのタイトル。その作品は買い手がつき現在は所在が分からないようだが、ここで紹介したコルドヌリと似たようなものと考えられている。
なお画家によっては「売れ筋」の似たような絵を何枚も描く人もいる。しかし佐伯の場合はそうではないだろう。
他にも店名シリーズ(勝手に命名)は続く。
洗濯屋(オ・プティ・ソミュール) 1925年
酒場(オ・カーヴ・ブルー) 1925年
街並みを描き、そして看板や文字をそこに溶け込ませた集大成のような作品が「アントレ ド リュー ド シャトー Entree de Rue du Chateau」。意味は「シャトー通り入り口」で制作は同じく1925年。
まだ独自の画風を確立したとはいえないものの、渡仏前と較べればまったく違う画家になっている。立ち直り早いね佐伯君(^^ゞ
ただ疑問もある。ここで紹介した「運送屋(カミオン)」以降の作品は建物や壁と、そこにある文字で成り立っている。日本人的にはフランス語なんてほとんど読めないから、文字は建物デザインの一部あるいはパリの雰囲気をを感じさせる装飾でしかない。
ではフランス人にとっては? もし作品に「運送屋」「引越屋」「靴屋」「洗濯屋」などと日本語でデカデカと描かれていたと想像すれば? 初回の投稿で佐伯の絵には「どうだ、これがパリだ」とイキっている感があると書いたのはそういうこと。
また佐伯の絵にはある種のカッコよさがあると思う。しかしもし描かれている文字が日本語ならずいぶんと印象も違ってくる気がする。じゃあなぜ日本語だったらカッコ悪い? それってやっぱり西洋コンプレックス? となかなか素直に鑑賞できないのが困ったところ。
ーーー続く
wassho at 21:02|Permalink│Comments(0)│
2023年06月26日
佐伯祐三 自画像としての風景 その2
いつも書いているように、どんな有名画家でも最初は個性のないどこかで見たことがあるような絵を描いている。やがて自分の個性を反映した独自の画風を確立し、それが受け入れられたものだけが一流の画家として後世に名を残す。ピカソだって実に様々なタイプの絵を描いているが、もしキュビスムの画風に至らなければ、今のような地位は得られていないはず。画家は一目で分かる画風を確立してナンボが私の捉え方。
それで画風確立前の佐伯祐三がどんな絵を描いていたかというと、まずは自画像が多い。キャリアの初期に自画像が多いのはよくある傾向で、これは
まだ人から肖像画を頼まれない
モデル代が要らないので安上がり
なのと、アーティストなんて人種は自意識の塊なので「自分は何者か」について、若いうちはこだわりがちだからだろう。
次の2点は絵としてはごく平凡。また明治の油絵っぽい古くささもある。ところで制作年を見ると描いたのは22〜25歳頃。それにしてはおでこがイッテるね(^^ゞ
自画像 1920-23年頃
帽子をかぶる自画像 1922年
そしてルノワールやセザンヌ風の描き方に挑戦している。
自画像 1923年 ※これは東京美術学校(現:東京芸大)の卒業制作
彌智子像 1923年 ※彌智子(やちこ)は学生結婚して生まれた娘。当時1歳。
パレットをもつ自画像 1924年
また風景画も自画像と同様に、
ごくオーソドックスな描き方から徐々に印象派風に変遷しているのが分かる。
勝浦風景 1918-19年頃
帆船 1920年頃
河内打上附近 1923年
1923年11月26日に佐伯祐三はパリに向かう。大正12年の当時に移動はもちろん船。インド洋〜スエズ運河経由で、翌1924年の1月2日に地中海沿いにあるマルセイユに到着。1ヶ月と1週間の船旅だから昔は大変。翌日にパリに渡りフランス生活が始まる。なお妻と娘も同行しており、そのあたりはさすがお坊ちゃま。この頃に彼の絵はまだ売れていないはず。
おそらく1924年の前半に描いたと思われる「パリ遠望」。
明らかにセザンヌのパクリ。
そして同年6月30日は佐伯祐三にとって運命の1日だったとされる。
この日、佐伯はモーリス・ド・ヴラマンクという画家を訪ね、渡仏してから制作した自信作の裸婦像を披露する。するとヴラマンクに「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」と厳しく叱責され(>_<) それを契機に彼の画風は転換していく。
ところでいろいろ調べても、ヴラマンクに見せた裸婦像がどんな絵なのかが分からない。叱責されたエピソードは有名で、多くの人が紹介しているのに、どんな絵なのか気にならないのかな。まあネットで拾える情報はコピペのループだけれど。
とりあえずこちらは渡仏前の1923年に制作された「裸婦」。おそらくパリで描いたのも似たようなものだったのではないかと想像している。(これは本展の展示作品にあらず)
まんまルノアール風である。美術の世界で「アカデミックな」といえば中世ルネサンスの絵画をイメージする。アカデミーで教える古くさい絵画に若い画家が反抗してというのは、例えばラファエル前派などよくある話。しかしヴラマンクのいうアカデミックとは印象派まで含むようだ。
印象派が広まったのは1880年前後から。この1924年時点で約50年前。印象派の技法はもう教科書に載るレベル、ありきたりとされるものになっていたのだろうか。印象派だってアンチ・アカデミー、アンチ・サロンから始まった運動だったのに、まさに歴史は繰り返す。
こちらがモーリス・ド・ヴラマンク。画家であり文筆家でもあった。フランス・フォーヴィスムの巨匠に数えられるが実はあまりよく知らない。
フォーヴィスムといえばマティス。そしてフォーヴィスムの和訳は野獣派。ただマティスの絵に野獣のような荒々しさはない。野獣が意味するのは色使いが派手との意味。だからこのフォーヴィスムというネーミングはちょっとおかしいと常々思っている。野獣はカラフルじゃないのだから。
GoogleでFauvismeを画像検索した結果ページはここをクリック
モーリス・ド・ヴラマンクの作品検索結果ページはここをクリック
彼の作品にも印象派的なものはあるね(^^ゞ
またおそらく佐伯祐三の語学力は片言のフランス語を話せる程度だったと思われる。それなのにこのヴラマンク、1時間半も佐伯を叱責したらしいからタイガイなおっさん。顔もイカついし元競輪選手で体格もいいから、かなりの圧があったに違いない。イジメに近いように思えるけど。
それで佐伯はすっかり自信喪失して落ち込んでしまう。
そして、この叱責の後に描いた「立てる自画像」は画風も今までとは様変わりし、また顔のあたりが削り取られているのも併せて有名な話。考えてみればタイトルも意味深。
ちなみに次の2点はこの展覧会の展示作品ではないが、
1924年の叱責後と翌1925年にこんな裸婦像を描いている。
裸婦 1924年
裸婦 1925年
あまりの画風の変化にビックリする。佐伯祐三の苦悩がにじみ出ているというか、行ったらアカンとこまで来ているというか。北野中学卒業の秀才で裕福なお坊ちゃまだった佐伯にとって、ヴラマンクの叱責はよほど堪えたに違いない。でもそれを真摯に受け止め、必死で自分の画風を模索したから彼の才能がこの後に花開いたと言える。
私も若い頃、誰かに1時間半ほど叱られればよかった(^^ゞ
ーーー続く
それで画風確立前の佐伯祐三がどんな絵を描いていたかというと、まずは自画像が多い。キャリアの初期に自画像が多いのはよくある傾向で、これは
まだ人から肖像画を頼まれない
モデル代が要らないので安上がり
なのと、アーティストなんて人種は自意識の塊なので「自分は何者か」について、若いうちはこだわりがちだからだろう。
次の2点は絵としてはごく平凡。また明治の油絵っぽい古くささもある。ところで制作年を見ると描いたのは22〜25歳頃。それにしてはおでこがイッテるね(^^ゞ
自画像 1920-23年頃
帽子をかぶる自画像 1922年
そしてルノワールやセザンヌ風の描き方に挑戦している。
自画像 1923年 ※これは東京美術学校(現:東京芸大)の卒業制作
彌智子像 1923年 ※彌智子(やちこ)は学生結婚して生まれた娘。当時1歳。
パレットをもつ自画像 1924年
また風景画も自画像と同様に、
ごくオーソドックスな描き方から徐々に印象派風に変遷しているのが分かる。
勝浦風景 1918-19年頃
帆船 1920年頃
河内打上附近 1923年
1923年11月26日に佐伯祐三はパリに向かう。大正12年の当時に移動はもちろん船。インド洋〜スエズ運河経由で、翌1924年の1月2日に地中海沿いにあるマルセイユに到着。1ヶ月と1週間の船旅だから昔は大変。翌日にパリに渡りフランス生活が始まる。なお妻と娘も同行しており、そのあたりはさすがお坊ちゃま。この頃に彼の絵はまだ売れていないはず。
おそらく1924年の前半に描いたと思われる「パリ遠望」。
明らかにセザンヌのパクリ。
そして同年6月30日は佐伯祐三にとって運命の1日だったとされる。
この日、佐伯はモーリス・ド・ヴラマンクという画家を訪ね、渡仏してから制作した自信作の裸婦像を披露する。するとヴラマンクに「このアカデミック丸出しの絵はなんだ!」と厳しく叱責され(>_<) それを契機に彼の画風は転換していく。
ところでいろいろ調べても、ヴラマンクに見せた裸婦像がどんな絵なのかが分からない。叱責されたエピソードは有名で、多くの人が紹介しているのに、どんな絵なのか気にならないのかな。まあネットで拾える情報はコピペのループだけれど。
とりあえずこちらは渡仏前の1923年に制作された「裸婦」。おそらくパリで描いたのも似たようなものだったのではないかと想像している。(これは本展の展示作品にあらず)
まんまルノアール風である。美術の世界で「アカデミックな」といえば中世ルネサンスの絵画をイメージする。アカデミーで教える古くさい絵画に若い画家が反抗してというのは、例えばラファエル前派などよくある話。しかしヴラマンクのいうアカデミックとは印象派まで含むようだ。
印象派が広まったのは1880年前後から。この1924年時点で約50年前。印象派の技法はもう教科書に載るレベル、ありきたりとされるものになっていたのだろうか。印象派だってアンチ・アカデミー、アンチ・サロンから始まった運動だったのに、まさに歴史は繰り返す。
こちらがモーリス・ド・ヴラマンク。画家であり文筆家でもあった。フランス・フォーヴィスムの巨匠に数えられるが実はあまりよく知らない。
フォーヴィスムといえばマティス。そしてフォーヴィスムの和訳は野獣派。ただマティスの絵に野獣のような荒々しさはない。野獣が意味するのは色使いが派手との意味。だからこのフォーヴィスムというネーミングはちょっとおかしいと常々思っている。野獣はカラフルじゃないのだから。
GoogleでFauvismeを画像検索した結果ページはここをクリック
モーリス・ド・ヴラマンクの作品検索結果ページはここをクリック
彼の作品にも印象派的なものはあるね(^^ゞ
またおそらく佐伯祐三の語学力は片言のフランス語を話せる程度だったと思われる。それなのにこのヴラマンク、1時間半も佐伯を叱責したらしいからタイガイなおっさん。顔もイカついし元競輪選手で体格もいいから、かなりの圧があったに違いない。イジメに近いように思えるけど。
それで佐伯はすっかり自信喪失して落ち込んでしまう。
そして、この叱責の後に描いた「立てる自画像」は画風も今までとは様変わりし、また顔のあたりが削り取られているのも併せて有名な話。考えてみればタイトルも意味深。
ちなみに次の2点はこの展覧会の展示作品ではないが、
1924年の叱責後と翌1925年にこんな裸婦像を描いている。
裸婦 1924年
裸婦 1925年
あまりの画風の変化にビックリする。佐伯祐三の苦悩がにじみ出ているというか、行ったらアカンとこまで来ているというか。北野中学卒業の秀才で裕福なお坊ちゃまだった佐伯にとって、ヴラマンクの叱責はよほど堪えたに違いない。でもそれを真摯に受け止め、必死で自分の画風を模索したから彼の才能がこの後に花開いたと言える。
私も若い頃、誰かに1時間半ほど叱られればよかった(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:24|Permalink│Comments(0)│
2023年06月25日
佐伯祐三 自画像としての風景
そういえば2月21に訪れたエゴン・シーレ展をブログにしたのは、3ヶ月と4日後の5月25日だったm(_ _)m この佐伯祐三展を見てきたのも、今から2ヶ月と25日前の3月31日。だからブログを書くペースにわずかとはいえ改善がみられる(^^ゞ
開催していたのは東京ステーションギャラリー。
和訳すれば東京駅美術館なので東京駅の中にある。
(iPhoneで少し上向きに撮ると、なぜか建物がのけぞってしまう)
これは南側。
駅を背にして左に丸ビル、右に新丸ビルがあるのが西側。
その先には皇居。
こちらが北側。まだ3月なので人々がコートを着ている風景。東京ステーションギャラリーは北口(丸いドーム屋根の下)を入ったところにある。
駅に入るとそのドームに施された装飾が美しい。
何度も来ているのにその度に写真を撮ってしまう。
北口コンコースの片隅に東京ステーションギャラリーの入口。
展示室は2階と3階にある。
さて佐伯祐三(さえきゆうぞう)。
1898年(明治31年)に大阪の中津(大阪駅・梅田駅の北側エリア)で生まれ、1928年(昭和3年)にパリで亡くなった画家。享年30歳。エゴン・シーレも28歳没だったから、偶然にも夭折した画家の展示会を続けて見たことになる。ちなみにエゴン・シーレは1890年(明治23年)生まれで佐伯祐三とはほぼ同世代。
どこか甘いムードも漂うなかなかのイケメン。実家は裕福なお寺で、旧制北野中学(現在の北野高校)を出ているから頭もよかったはず(北野高校の偏差値は2023年度で大阪で1位、全国で10位)。ちょっとうらやましいゾ
が、しか〜し神は二物を与えずなのか歯がない(>_<)
彼は北野中学時代に野球部(なんと主将!)で、ヘッドスライディングをした際に前歯を折ったらしい。そこには金歯(当時の入れ歯は金か銀しかなかったと思う)が入れられていたものの、卒業後しばらくして抜けてしまい、結局そのままだったようだ。身なりには無頓着で、ズボラな性格からあだ名が「ずぼ」だったというが、欠けた前歯もその表れなのだろう。画像はhttps://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2014-04-02から引用
抱きかかえているのは娘の彌智子(やちこ)。佐伯祐三は東京美術学校(現在の東京芸大)在学中に学生結婚している。なんと東京で住んでいたのは下宿ではなく、アトリエつきの家を新築! そのあたりはさすがお坊ちゃま。やっぱりうらやましい(^^ゞ
彼の短い生涯を年表にすると
1917年(大正6年)北野中学を卒業
1918年(大正7年)東京美術学校入学
1920年(大正9年)結婚 当時22歳
1922年(大正11年)長女誕生
1923年(大正12年)東京美術学校卒業 9月1日に関東大震災
1924年(大正13年)パリに移住
1925年(大正14年)サロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選
1926年(大正15年)日本に帰国
1927年(昭和2年)再度フランスに渡る
1928年(昭和3年)パリ郊外の精神病院で死去
初めて展覧会に出展したのは美術学校を卒業した1923年。その5年後に亡くなっているから、画家としては実に短いキャリアだった。1928年の2月くらいから体調を崩し、やがて精神にも異変をきたして6月に自殺未遂を図る。フランスの法律に基づいて精神病院に収容され、8月にそこで肺結核によって生涯を閉じた。
おそらく世間一般の知名度はほとんどないだろう。美術界でも大規模な回顧展が開催されるのは18年ぶり、さらに前々回は45年前らしいからそれほどメジャーな画家とは言えない。でも私には強い印象が残っていた画家だった。
初めて佐伯祐三の絵を見たのがいつのことだったかはよく覚えていない。でもずいぶんと昔で30年前以上40年前未満といったところ。何かの雑誌で見たと記憶している。その時に何かに取り上げられ少し話題になった時期があったように思う。
具体的には覚えていないが、それはこんな雰囲気の作品だった。
その時に思ったのは
いかにも昔の日本人画家が、
パリってこんな街だ、どうだカッコイイだろうとイキって描いて、
そして昔の日本人が(おそらく今も)、
行ったこともないクセに、
これこそパリだヨーロッパだと喜びそうな
絵だなと。
絵にやたら文字が多いのもそう思わせた要因かも知れない。
平たくいえば西洋コンプレックス丸出しの絵に感じた。西洋コンプレックスという言葉を最近はあまり聞かないものの、ほとんどの日本人が英語を話せないのに、企業名や商品名に英語・カタカナ語が多く使われているし。なんならクルマの車種名はすべて外国語である。会話でもコンプライアンスにサステナブルにダイバーシティーにアジェンダとやたら出てくる。コロナではクラスターが発生して、ロックダウンにならないようソーシャルディスタンスが求められたよね。もうすっかりDNAに西洋コンプレックスが刷り込まれたので、西洋コンプレックスとの表現をしなくなったのかな。
もちろんカタカナ言葉が多く使われるのは、コンプレックスが原因なだけでないのは百も承知。それに印象派の画家たちが浮世絵に傾倒したように、異国情緒にある種の憧れを持つのは万国共通。話は変わるが江戸時代に水墨画が人気だったのは、中国風の異国情緒が好まれた=今でいうなら洋画を飾るみたいな感覚だったのではと思っている。
それはさておき、初めて佐伯祐三を見たときは、先ほど書いた「イキってる」感が強かったのは事実。ある意味、少し見下したような気持ちをいだいた。
ーーーただし私もごく平凡な日本人。同時に
「カッコええな〜」
「こんなポスターを部屋に飾りたい」
とも思ったのである(^^ゞ
それからすっかり忘れていたが、その両極の感情をいだいたから、展覧会情報で佐伯祐三の名前を見つけてすぐに思い出したしだい。他にどんな作品があるのだろうかと興味を持って、会期終了の2日前に滑り込みで展覧会を見てきた。
ーーー続く
追伸
西洋コンプレックスの代表例として東京駅の写真を撮ったわけじゃないよ
開催していたのは東京ステーションギャラリー。
和訳すれば東京駅美術館なので東京駅の中にある。
(iPhoneで少し上向きに撮ると、なぜか建物がのけぞってしまう)
これは南側。
駅を背にして左に丸ビル、右に新丸ビルがあるのが西側。
その先には皇居。
こちらが北側。まだ3月なので人々がコートを着ている風景。東京ステーションギャラリーは北口(丸いドーム屋根の下)を入ったところにある。
駅に入るとそのドームに施された装飾が美しい。
何度も来ているのにその度に写真を撮ってしまう。
北口コンコースの片隅に東京ステーションギャラリーの入口。
展示室は2階と3階にある。
さて佐伯祐三(さえきゆうぞう)。
1898年(明治31年)に大阪の中津(大阪駅・梅田駅の北側エリア)で生まれ、1928年(昭和3年)にパリで亡くなった画家。享年30歳。エゴン・シーレも28歳没だったから、偶然にも夭折した画家の展示会を続けて見たことになる。ちなみにエゴン・シーレは1890年(明治23年)生まれで佐伯祐三とはほぼ同世代。
どこか甘いムードも漂うなかなかのイケメン。実家は裕福なお寺で、旧制北野中学(現在の北野高校)を出ているから頭もよかったはず(北野高校の偏差値は2023年度で大阪で1位、全国で10位)。ちょっとうらやましいゾ
が、しか〜し神は二物を与えずなのか歯がない(>_<)
彼は北野中学時代に野球部(なんと主将!)で、ヘッドスライディングをした際に前歯を折ったらしい。そこには金歯(当時の入れ歯は金か銀しかなかったと思う)が入れられていたものの、卒業後しばらくして抜けてしまい、結局そのままだったようだ。身なりには無頓着で、ズボラな性格からあだ名が「ずぼ」だったというが、欠けた前歯もその表れなのだろう。画像はhttps://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2014-04-02から引用
抱きかかえているのは娘の彌智子(やちこ)。佐伯祐三は東京美術学校(現在の東京芸大)在学中に学生結婚している。なんと東京で住んでいたのは下宿ではなく、アトリエつきの家を新築! そのあたりはさすがお坊ちゃま。やっぱりうらやましい(^^ゞ
彼の短い生涯を年表にすると
1917年(大正6年)北野中学を卒業
1918年(大正7年)東京美術学校入学
1920年(大正9年)結婚 当時22歳
1922年(大正11年)長女誕生
1923年(大正12年)東京美術学校卒業 9月1日に関東大震災
1924年(大正13年)パリに移住
1925年(大正14年)サロン・ドートンヌ(コンクール)に初入選
1926年(大正15年)日本に帰国
1927年(昭和2年)再度フランスに渡る
1928年(昭和3年)パリ郊外の精神病院で死去
初めて展覧会に出展したのは美術学校を卒業した1923年。その5年後に亡くなっているから、画家としては実に短いキャリアだった。1928年の2月くらいから体調を崩し、やがて精神にも異変をきたして6月に自殺未遂を図る。フランスの法律に基づいて精神病院に収容され、8月にそこで肺結核によって生涯を閉じた。
おそらく世間一般の知名度はほとんどないだろう。美術界でも大規模な回顧展が開催されるのは18年ぶり、さらに前々回は45年前らしいからそれほどメジャーな画家とは言えない。でも私には強い印象が残っていた画家だった。
初めて佐伯祐三の絵を見たのがいつのことだったかはよく覚えていない。でもずいぶんと昔で30年前以上40年前未満といったところ。何かの雑誌で見たと記憶している。その時に何かに取り上げられ少し話題になった時期があったように思う。
具体的には覚えていないが、それはこんな雰囲気の作品だった。
その時に思ったのは
いかにも昔の日本人画家が、
パリってこんな街だ、どうだカッコイイだろうとイキって描いて、
そして昔の日本人が(おそらく今も)、
行ったこともないクセに、
これこそパリだヨーロッパだと喜びそうな
絵だなと。
絵にやたら文字が多いのもそう思わせた要因かも知れない。
平たくいえば西洋コンプレックス丸出しの絵に感じた。西洋コンプレックスという言葉を最近はあまり聞かないものの、ほとんどの日本人が英語を話せないのに、企業名や商品名に英語・カタカナ語が多く使われているし。なんならクルマの車種名はすべて外国語である。会話でもコンプライアンスにサステナブルにダイバーシティーにアジェンダとやたら出てくる。コロナではクラスターが発生して、ロックダウンにならないようソーシャルディスタンスが求められたよね。もうすっかりDNAに西洋コンプレックスが刷り込まれたので、西洋コンプレックスとの表現をしなくなったのかな。
もちろんカタカナ言葉が多く使われるのは、コンプレックスが原因なだけでないのは百も承知。それに印象派の画家たちが浮世絵に傾倒したように、異国情緒にある種の憧れを持つのは万国共通。話は変わるが江戸時代に水墨画が人気だったのは、中国風の異国情緒が好まれた=今でいうなら洋画を飾るみたいな感覚だったのではと思っている。
それはさておき、初めて佐伯祐三を見たときは、先ほど書いた「イキってる」感が強かったのは事実。ある意味、少し見下したような気持ちをいだいた。
ーーーただし私もごく平凡な日本人。同時に
「カッコええな〜」
「こんなポスターを部屋に飾りたい」
とも思ったのである(^^ゞ
それからすっかり忘れていたが、その両極の感情をいだいたから、展覧会情報で佐伯祐三の名前を見つけてすぐに思い出したしだい。他にどんな作品があるのだろうかと興味を持って、会期終了の2日前に滑り込みで展覧会を見てきた。
ーーー続く
追伸
西洋コンプレックスの代表例として東京駅の写真を撮ったわけじゃないよ
wassho at 22:31|Permalink│Comments(0)│
2023年05月31日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才 その3
エゴン・シーレは風景画も残している。
次の2点は17歳頃の作品だから最初の展覧会に参加する前。
言っちゃ悪いが平凡で退屈。
「山腹の村」 1907年
「秋の森」 1907年
その5年後に描いた22歳頃の作品が 「カルヴァリオへの道」 1912年
カルヴァリオ(Calvaria)とはラテン語で、それをヘブライ語に置き換えるとゴルゴダ(Golgotha)になる。ゴルゴダの丘といえばキリストが十字架に掛けられたエルサレム郊外の地名。日本ではカルヴァリオよりゴルゴダのほうがわかりやすいだろう。
エゴン・シーレはエルサレムに出かけた経験はなく、これは彼の住むウィーン郊外のどこかの風景をゴルゴダに見立てたものだろう。十字架が3本立っているのはキリストと一緒に2人の罪人も処刑されたとルカの福音書にあるから。これは宗教画というより聖書の一節にインスピレーションを得ての作品と思う。
それにしても十字架以外の棒は何なのだろう。たまたまカルヴァリオ=ゴルゴダだと知っていたからテーマを読み取れたが、タイトルを見るまでは電信柱が描かれた風景画だと思っていた(/o\)
なお作品のオリジナルタイトルは「Kalvarienberg」(ドイツ語でのカルヴァリオ)なのに、それを「カルヴァリオへの道」と「への道」を付け加えるのは意訳すぎると思う。ついでに言うなら日本語表記はゴルゴダにすべき。
「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」 1912年
知らずに見れば抽象画と思うはず。しかしタイトルを読めば分かるように風景画である。初回に書いたようにデフォルメせずにはいられない画家だから、風景画もこうなったのだろうか。表現としてはなかなか面白いので、このタイプの作品があるのならもっと見たいもの。
「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街 IV)」 1914年
「ドナウ河畔の街シュタイン II」 1913年
どこがと問われると困るが、この2つはどちらもエゴン・シーレらしい感じがする。彼独特の暗い色調がそう思わせるのかな。ただ彼が人物を暗く描くとどことなく「死」の匂いがするのに、なぜか風景画では暗くてもカワイイ印象になるのが不思議。
次は静物画。
「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」 1907年
画像では少し暗くなっているが、背景のグレーは銀色で黄色い部分は金色に塗られている(よりわかりやすい画像へのリンクはこちら)。このあたりはクリムトの影響とされる。より金を多用するクリムトに対して、エゴン・シーレは「銀のクリムト」と呼ばれたりもした。
ところでエゴン・シーレとクリムトとの関係でよく引き合いに出されるのが、彼が17歳で初めてクリムトに出会った時に作品を見せて交わされた会話。
シーレ 「僕には才能がありますか?」
クリムト「才能がある? それどころか、ありすぎる」
何となくエゴン・シーレが憧れの大御所クリムトに、おどおどと自信なさげに尋ねたようなニュアンスで紹介される場合が多い。ここから師弟愛が芽生えたと連想させる美しいエピソード。しかし私はエゴン・シーレが「このオッサン(当時クリムトは45歳)にオレ様の新しい才能が理解できるか、いっちょ確かめたろ」と尋ねたとも解釈できると思っている。
このエピソードの出所を調べて、その原典に当たろうとまでするつもりはない。でもこの手の話は、また特にネット時代になってからはコピペにコピペを重ねたものが多いから、鵜呑みにはできないぞと常々思っているだけ。
「菊」 1910年
エゴン・シーレが活躍したのはヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)が起きていた時代。本物の菊を見たのか(幕末頃からヨーロッパに輸出されていたらしい)菊を描いた日本画を参考にしたのかは不明なものの、やはりエゴン・シーレの手に掛かると菊も死の匂いが漂うね。
1917年に描かれた肖像画は「カール・グリュンヴァルトの肖像」
エゴン・シーレはその独特な画風に1911年(21歳の年)には到達している。展覧会では1907年に描かれた肖像画2点も展示されていて、それらはまあ普通の描き方。対してこの1917年の作品はいかにもエゴン・シーレとの印象を受ける。白いシャツが浮き上がるような配色や、人物を少し上から見下ろしたような構図も面白い。
とは言っても(これが依頼されて描かれたものかどうかは知らないが)肖像画なので、ある程度の写実的要素は外せない。だからエゴン・シーレワールドはやや控えめ。人体はそれほどデフォルメされていないし、死を連想させるような閉塞感もない。でも扉を開けて暗い部屋にこんなオッサンが座っていたら怖い(^^ゞ
そしてエゴン・シーレワールド全開な作品を3つ。
「啓示」 1911年
「母と子」 1912年
「母と二人の子ども II」 1915年
それぞれ何か込められたメッセージがあるのだろうが、それを探ってもあまり意味がない気がする。これらを「キモ可愛い」と思えればエゴン・シーレが好きになるし、不気味としか感じられなければ他の画家の絵を楽しめばいいだけのこと。ただ訳のわからない絵を「ナンジャこれ〜」と笑えるようになれれば絵の世界が広がるよ。
最後にゲス野郎エゴン・シーレの話。
彼は21歳で絵のモデルをしていたヴァリ・ノイツィルという女性と知り合い同棲を始める。一説によるとクリムトのお下がりと噂される(/o\) なにせクリムトは生活を共にするパートナーとは結婚どころか肉体関係も持たなかったのに、愛人に産ませた子供が15人ほどいた風変わりな性豪。
それはさておき、エゴン・シーレはヴァリ・ノイツィルをモデルに絵もたくさん描いて、また4年も同棲したのに「結婚するなら家柄のいい女性」との理由で、25歳の時(1915年)に突然ブルジョワの娘であるエーディト・ハームスと結婚する。
その時にヴァリも失いたくない考えた彼は、結婚後もたまには一緒に旅行に出かける関係を続けようと自分勝手な提案をする。もちろんヴァリは憤慨して拒否。
これだけでもゲス野郎だが、エゴン・シーレは結婚したエーディトの姉のアデーレともデキてた。それどころかヴァリと付き合う前は実の妹のゲルティともヤッてた(>_<)
エゴン・シーレとヴァリ・ノイツィル。
彼女は4歳年下なのに、この写真ではまるでエゴン・シーレのお母さんのように見える。
もうちょっといい写真を。
彼女はハチミツ色の金髪だったと伝えられている。
こちらはエゴン・シーレとエーディト・ハームス。
彼女よりエゴン・シーレが別人のようにオッサンになっているのに驚く。
撮影は1917年で彼はまだ27歳なのに。
エーディト・ハームスのアップ。
彼女はエゴン・シーレより3歳年下。
こちらはヴァリ・ノイツィルをモデルにした「悲しみの女」 1912年。
目に涙をためているように見える。ただし制作時期的にそれはエゴン・シーレとの離別とは関係ない。彼女の目力に圧倒されて気がつきにくいものの、背後に一輪の花を持った男の顔が描かれており、これはエゴン・シーレ自身とされる。そしてヴァリ・ノイツィルを黒髪、自分を「ハチミツ色の金髪」に塗り分けている。つまりお互いの身体的特徴を入れ替えて描いている。それが愛情表現なのか、単に配色上の都合でそうしたかは不明。それにしてもエゴン・シーレの目がイッてるのはナゼ?
そしてエーディト・ハームスを描いた
「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」 1915年
グリーンをメインにした絵を制作したかったのか髪の毛までが同じ色調。それにしても全体的に優しい雰囲気である。ひょっとしてエゴン・シーレは結婚して毒が抜けたのか。そんなタマじゃないとは思うのだが(^^ゞ
エゴン・シーレはエーディト・ハームスと結婚して3日後にオーストリア=ハンガリー帝国軍に招集され第1次世界大戦に従軍する。しかし軍上層部が芸術に理解があったようで前線には送られず、プラハで捕虜収容所の看守などの任務に就く。2017年にウィーンに転属になると自宅からの勤務。それで絵の制作や発表も可能となった。
先ほど肖像画を紹介したカール・グリュンヴァルトはエゴン・シーレの上官。芸術愛好家で繊維業を営む富豪でもあり、後に彼のパトロンにもなった。だからあの絵には多少のオベンチャラが入っているかも。
エゴン・シーレが除隊になったかどうかはっきりしないのであるが、1918年3月の展覧会には50点以上の新作を一挙に公開して好評を博し、それまでに制作した作品も高値で売れるようになる。7月には富裕層の住む高級住宅地に新しいアトリエを構えた。エーディト・ハームスもめでたく懐妊。
しかし好事魔多しーーー
1918年から1920年にかけて世界人口の1/3が感染し、死亡者数は5000万人から1億人(当時の総人口は18〜19億人)ともいわれるスペイン風邪に夫婦でかかってしまう。1918年10月28日に妊娠6ヶ月のエーディト・ハームスが死去。エゴン・シーレもその3日後に亡くなった。28歳の短い生涯。ちなみに師匠のクリムトも同じ年の2月にスペイン風邪で亡くなっている。こちらは享年55歳。ウィーンは2つの宝を同時に失ったわけだ。
エゴン・シーレがもっと長生きして、どんな画風に変遷していったかにはもちろん興味がある。でもたった28歳で美術史にこれだけのインパクトを残せたのだから、それは素晴らしい人生だったと思う。
ラファエロ 37歳
ゴッホ 37歳
モディリアーニ 35歳
バスキア 27歳
モーツァルトも35歳だし夭折した芸術家はたくさんいる。彼らの作品に触れるとき、その短い期間であれだけのことを成し遂げた人生はどれだけ濃密だったのだろうと思う。私は無駄に長く生きて、ウス〜い人生を送っているような気がする。まあこうなったらトコトン薄めてやろうと思っているけれど(^^ゞ
おしまい
次の2点は17歳頃の作品だから最初の展覧会に参加する前。
言っちゃ悪いが平凡で退屈。
「山腹の村」 1907年
「秋の森」 1907年
その5年後に描いた22歳頃の作品が 「カルヴァリオへの道」 1912年
カルヴァリオ(Calvaria)とはラテン語で、それをヘブライ語に置き換えるとゴルゴダ(Golgotha)になる。ゴルゴダの丘といえばキリストが十字架に掛けられたエルサレム郊外の地名。日本ではカルヴァリオよりゴルゴダのほうがわかりやすいだろう。
エゴン・シーレはエルサレムに出かけた経験はなく、これは彼の住むウィーン郊外のどこかの風景をゴルゴダに見立てたものだろう。十字架が3本立っているのはキリストと一緒に2人の罪人も処刑されたとルカの福音書にあるから。これは宗教画というより聖書の一節にインスピレーションを得ての作品と思う。
それにしても十字架以外の棒は何なのだろう。たまたまカルヴァリオ=ゴルゴダだと知っていたからテーマを読み取れたが、タイトルを見るまでは電信柱が描かれた風景画だと思っていた(/o\)
なお作品のオリジナルタイトルは「Kalvarienberg」(ドイツ語でのカルヴァリオ)なのに、それを「カルヴァリオへの道」と「への道」を付け加えるのは意訳すぎると思う。ついでに言うなら日本語表記はゴルゴダにすべき。
「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」 1912年
知らずに見れば抽象画と思うはず。しかしタイトルを読めば分かるように風景画である。初回に書いたようにデフォルメせずにはいられない画家だから、風景画もこうなったのだろうか。表現としてはなかなか面白いので、このタイプの作品があるのならもっと見たいもの。
「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街 IV)」 1914年
「ドナウ河畔の街シュタイン II」 1913年
どこがと問われると困るが、この2つはどちらもエゴン・シーレらしい感じがする。彼独特の暗い色調がそう思わせるのかな。ただ彼が人物を暗く描くとどことなく「死」の匂いがするのに、なぜか風景画では暗くてもカワイイ印象になるのが不思議。
次は静物画。
「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」 1907年
画像では少し暗くなっているが、背景のグレーは銀色で黄色い部分は金色に塗られている(よりわかりやすい画像へのリンクはこちら)。このあたりはクリムトの影響とされる。より金を多用するクリムトに対して、エゴン・シーレは「銀のクリムト」と呼ばれたりもした。
ところでエゴン・シーレとクリムトとの関係でよく引き合いに出されるのが、彼が17歳で初めてクリムトに出会った時に作品を見せて交わされた会話。
シーレ 「僕には才能がありますか?」
クリムト「才能がある? それどころか、ありすぎる」
何となくエゴン・シーレが憧れの大御所クリムトに、おどおどと自信なさげに尋ねたようなニュアンスで紹介される場合が多い。ここから師弟愛が芽生えたと連想させる美しいエピソード。しかし私はエゴン・シーレが「このオッサン(当時クリムトは45歳)にオレ様の新しい才能が理解できるか、いっちょ確かめたろ」と尋ねたとも解釈できると思っている。
このエピソードの出所を調べて、その原典に当たろうとまでするつもりはない。でもこの手の話は、また特にネット時代になってからはコピペにコピペを重ねたものが多いから、鵜呑みにはできないぞと常々思っているだけ。
「菊」 1910年
エゴン・シーレが活躍したのはヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)が起きていた時代。本物の菊を見たのか(幕末頃からヨーロッパに輸出されていたらしい)菊を描いた日本画を参考にしたのかは不明なものの、やはりエゴン・シーレの手に掛かると菊も死の匂いが漂うね。
1917年に描かれた肖像画は「カール・グリュンヴァルトの肖像」
エゴン・シーレはその独特な画風に1911年(21歳の年)には到達している。展覧会では1907年に描かれた肖像画2点も展示されていて、それらはまあ普通の描き方。対してこの1917年の作品はいかにもエゴン・シーレとの印象を受ける。白いシャツが浮き上がるような配色や、人物を少し上から見下ろしたような構図も面白い。
とは言っても(これが依頼されて描かれたものかどうかは知らないが)肖像画なので、ある程度の写実的要素は外せない。だからエゴン・シーレワールドはやや控えめ。人体はそれほどデフォルメされていないし、死を連想させるような閉塞感もない。でも扉を開けて暗い部屋にこんなオッサンが座っていたら怖い(^^ゞ
そしてエゴン・シーレワールド全開な作品を3つ。
「啓示」 1911年
「母と子」 1912年
「母と二人の子ども II」 1915年
それぞれ何か込められたメッセージがあるのだろうが、それを探ってもあまり意味がない気がする。これらを「キモ可愛い」と思えればエゴン・シーレが好きになるし、不気味としか感じられなければ他の画家の絵を楽しめばいいだけのこと。ただ訳のわからない絵を「ナンジャこれ〜」と笑えるようになれれば絵の世界が広がるよ。
最後にゲス野郎エゴン・シーレの話。
彼は21歳で絵のモデルをしていたヴァリ・ノイツィルという女性と知り合い同棲を始める。一説によるとクリムトのお下がりと噂される(/o\) なにせクリムトは生活を共にするパートナーとは結婚どころか肉体関係も持たなかったのに、愛人に産ませた子供が15人ほどいた風変わりな性豪。
それはさておき、エゴン・シーレはヴァリ・ノイツィルをモデルに絵もたくさん描いて、また4年も同棲したのに「結婚するなら家柄のいい女性」との理由で、25歳の時(1915年)に突然ブルジョワの娘であるエーディト・ハームスと結婚する。
その時にヴァリも失いたくない考えた彼は、結婚後もたまには一緒に旅行に出かける関係を続けようと自分勝手な提案をする。もちろんヴァリは憤慨して拒否。
これだけでもゲス野郎だが、エゴン・シーレは結婚したエーディトの姉のアデーレともデキてた。それどころかヴァリと付き合う前は実の妹のゲルティともヤッてた(>_<)
エゴン・シーレとヴァリ・ノイツィル。
彼女は4歳年下なのに、この写真ではまるでエゴン・シーレのお母さんのように見える。
もうちょっといい写真を。
彼女はハチミツ色の金髪だったと伝えられている。
こちらはエゴン・シーレとエーディト・ハームス。
彼女よりエゴン・シーレが別人のようにオッサンになっているのに驚く。
撮影は1917年で彼はまだ27歳なのに。
エーディト・ハームスのアップ。
彼女はエゴン・シーレより3歳年下。
こちらはヴァリ・ノイツィルをモデルにした「悲しみの女」 1912年。
目に涙をためているように見える。ただし制作時期的にそれはエゴン・シーレとの離別とは関係ない。彼女の目力に圧倒されて気がつきにくいものの、背後に一輪の花を持った男の顔が描かれており、これはエゴン・シーレ自身とされる。そしてヴァリ・ノイツィルを黒髪、自分を「ハチミツ色の金髪」に塗り分けている。つまりお互いの身体的特徴を入れ替えて描いている。それが愛情表現なのか、単に配色上の都合でそうしたかは不明。それにしてもエゴン・シーレの目がイッてるのはナゼ?
そしてエーディト・ハームスを描いた
「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」 1915年
グリーンをメインにした絵を制作したかったのか髪の毛までが同じ色調。それにしても全体的に優しい雰囲気である。ひょっとしてエゴン・シーレは結婚して毒が抜けたのか。そんなタマじゃないとは思うのだが(^^ゞ
エゴン・シーレはエーディト・ハームスと結婚して3日後にオーストリア=ハンガリー帝国軍に招集され第1次世界大戦に従軍する。しかし軍上層部が芸術に理解があったようで前線には送られず、プラハで捕虜収容所の看守などの任務に就く。2017年にウィーンに転属になると自宅からの勤務。それで絵の制作や発表も可能となった。
先ほど肖像画を紹介したカール・グリュンヴァルトはエゴン・シーレの上官。芸術愛好家で繊維業を営む富豪でもあり、後に彼のパトロンにもなった。だからあの絵には多少のオベンチャラが入っているかも。
エゴン・シーレが除隊になったかどうかはっきりしないのであるが、1918年3月の展覧会には50点以上の新作を一挙に公開して好評を博し、それまでに制作した作品も高値で売れるようになる。7月には富裕層の住む高級住宅地に新しいアトリエを構えた。エーディト・ハームスもめでたく懐妊。
しかし好事魔多しーーー
1918年から1920年にかけて世界人口の1/3が感染し、死亡者数は5000万人から1億人(当時の総人口は18〜19億人)ともいわれるスペイン風邪に夫婦でかかってしまう。1918年10月28日に妊娠6ヶ月のエーディト・ハームスが死去。エゴン・シーレもその3日後に亡くなった。28歳の短い生涯。ちなみに師匠のクリムトも同じ年の2月にスペイン風邪で亡くなっている。こちらは享年55歳。ウィーンは2つの宝を同時に失ったわけだ。
エゴン・シーレがもっと長生きして、どんな画風に変遷していったかにはもちろん興味がある。でもたった28歳で美術史にこれだけのインパクトを残せたのだから、それは素晴らしい人生だったと思う。
ラファエロ 37歳
ゴッホ 37歳
モディリアーニ 35歳
バスキア 27歳
モーツァルトも35歳だし夭折した芸術家はたくさんいる。彼らの作品に触れるとき、その短い期間であれだけのことを成し遂げた人生はどれだけ濃密だったのだろうと思う。私は無駄に長く生きて、ウス〜い人生を送っているような気がする。まあこうなったらトコトン薄めてやろうと思っているけれど(^^ゞ
おしまい
wassho at 20:56|Permalink│Comments(0)│
2023年05月28日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才 その2
どんな有名画家でもキャリアの最初の頃はごく当たり前の絵を描いており、やがて個性を反映した独自の画風を確立する。というか独自の画風を確立して、その画風が受け入れられたものだけが一流の画家として後世に名を残す。
絵の上手い下手は関係ないと言い切るのは乱暴かも知れないが、そもそも展覧会に出品できるような人は絵が上手いのであって、オリジナリティこそが一流と二流の分かれ目だと思っている。
展覧会では画家の初期の作品も展示される場合が多い。画風確立前だからたいていは「ふ〜ん」といったレベル。もし私が画家なら、そんな作品は展示して欲しくないけどな(^^ゞ
次の作品はエゴン・シーレが17歳頃のもの。彼は18歳で初めて展覧会に参加しており、それをプロデビューとするなら、まだアマチュア時代の作品。日本でいうなら高校2年生でこれだけ描ければたいしたものと思うけれど、この程度を描ける美術部の高校生はザラにいる。
「イタリアの農民」 1907年
「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」 1907年
クリムトが21歳頃の作品も展示されていた。
「ハナー地方出身の少女の頭部習作」 1883年
クリムトといえば華やかなエクスタシーの世界。しかし何年か前にクリムトの展覧会を訪れて各年代の作品を見たとき、彼はあの画風に到達しなくても大成しただろうなと思った。これもその実力の片鱗を感じさせる若き日の作品である。
ところでドローイング(線画)がたくさんあって、
それを眺めていて面白い発見をした。
まずはエゴン・シーレのドローイング。
「横たわる長髪の裸婦」 1918年
「リボンをつけた横たわる少女」 1918年
こちらはクリムトである。
「脚を曲げ横たわる裸婦」 1914/1915年
「上腕で顔の一部を隠し横たわる裸婦(“花嫁”のための習作)」 1917年
エゴン・シーレは黒チョーク、クリムトは鉛筆と画材が違うから力強さが異なるのは別として、エゴン・シーレがラインを一気に描いているのに対して、クリムトは何度もなぞりながら描いている。
一気に描けるほうが絵が上手いとは思わない。だったら、それがどうした?なんだけれど、違いを見つけてうれしかったというだけのお話(^^ゞ
ただしエゴン・シーレのドローイングはすごく動的。前回にエゴン・シーレはポーズフェチと書いた。この作品のポーズはごく普通とはいえ、やはり彼は空間把握力に優れていたのだと思う。対してクリムトのドローイングは静的。しかし単なるデッサン(形を絵に写し取る)ではなく、この段階から何か心情的なものが伝わってくる。
もっともクリムトの作品(油絵)は静的であるものの、エゴン・シーレの作品が動的かというとそんなことはないから、やはりそれがどうした?な発見でしかないm(_ _)m
ーーー続く
絵の上手い下手は関係ないと言い切るのは乱暴かも知れないが、そもそも展覧会に出品できるような人は絵が上手いのであって、オリジナリティこそが一流と二流の分かれ目だと思っている。
展覧会では画家の初期の作品も展示される場合が多い。画風確立前だからたいていは「ふ〜ん」といったレベル。もし私が画家なら、そんな作品は展示して欲しくないけどな(^^ゞ
次の作品はエゴン・シーレが17歳頃のもの。彼は18歳で初めて展覧会に参加しており、それをプロデビューとするなら、まだアマチュア時代の作品。日本でいうなら高校2年生でこれだけ描ければたいしたものと思うけれど、この程度を描ける美術部の高校生はザラにいる。
「イタリアの農民」 1907年
「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」 1907年
クリムトが21歳頃の作品も展示されていた。
「ハナー地方出身の少女の頭部習作」 1883年
クリムトといえば華やかなエクスタシーの世界。しかし何年か前にクリムトの展覧会を訪れて各年代の作品を見たとき、彼はあの画風に到達しなくても大成しただろうなと思った。これもその実力の片鱗を感じさせる若き日の作品である。
ところでドローイング(線画)がたくさんあって、
それを眺めていて面白い発見をした。
まずはエゴン・シーレのドローイング。
「横たわる長髪の裸婦」 1918年
「リボンをつけた横たわる少女」 1918年
こちらはクリムトである。
「脚を曲げ横たわる裸婦」 1914/1915年
「上腕で顔の一部を隠し横たわる裸婦(“花嫁”のための習作)」 1917年
エゴン・シーレは黒チョーク、クリムトは鉛筆と画材が違うから力強さが異なるのは別として、エゴン・シーレがラインを一気に描いているのに対して、クリムトは何度もなぞりながら描いている。
一気に描けるほうが絵が上手いとは思わない。だったら、それがどうした?なんだけれど、違いを見つけてうれしかったというだけのお話(^^ゞ
ただしエゴン・シーレのドローイングはすごく動的。前回にエゴン・シーレはポーズフェチと書いた。この作品のポーズはごく普通とはいえ、やはり彼は空間把握力に優れていたのだと思う。対してクリムトのドローイングは静的。しかし単なるデッサン(形を絵に写し取る)ではなく、この段階から何か心情的なものが伝わってくる。
もっともクリムトの作品(油絵)は静的であるものの、エゴン・シーレの作品が動的かというとそんなことはないから、やはりそれがどうした?な発見でしかないm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 23:11|Permalink│Comments(0)│
2023年05月25日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才
え〜、展覧会を訪れたのは3ヶ月と4日前の2月21日である。ブログにするのを忘れていたわけじゃないが、その頃から梅、各種のサクラ、そしてチューリップにバラその他と春の花見シーズンが始まったので、ついつい後回しになってしまった。それにしても油断していると月日はあっという間に過ぎていくね。
上野公園の五條天神でウメを見て、その日に中国に送り返されたパンダのシャンシャンがいた動物園の前を通って、毎度お馴染みの東京都美術館に到着。
さてエゴン・シーレ。なぜかフルネームで呼ばれることが多いオーストリアの画家。1890年(明治23年)生まれで1918年(大正7年)に28歳で、当時パンデミックを引き起こしていたスペイン風邪により夭折。
16歳でウィーン工芸学校に学ぶも、才能を認められてそのままウィーン美術アカデミーへ進学。これはかなりの神童扱いだったよう。17歳でクリムトに出会い才能を認められ、18歳で初めての展覧会参加。だから画家として活躍していたのはわずか10年ほど。
これは16歳の写真。
自信に満ちあふれたクソ生意気そうな雰囲気が伝わってくる(^^ゞ
こちらは24歳頃に撮られたもの。
日本だと大正3年のエゴン・シーレ。
構図は顔のやや右側からで、そしてわずかにアゴを引いて上目遣いでレンズを見つめるような撮り方は共通。16歳の写真も似ているから、これが一番イケてる顔だと昔から自信があったのだろう。そしてなぜかモミアゲの短いテクノカット! テクノカットは1980年頃にYMOが流行らせた髪型だと思っていたのに、ヨーロッパでは大正時代からあったんだ。
同時期の写真。
この全身を写せる大きな鏡はアトリエを移っても持ち運んだと言われる。そこに写り込む姿を見ながら作品を制作していたらしいが、こうやってカッコ付けてた時間も長かったのでは。
そんなナルシストのエゴン君が自画像を描くとこうなる。
「ほおずきの実のある自画像」 1912年
先ほどの写真とは逆に見下げるような視線。一見するとドヤ顔にも見える。でもそれにしてはどこか弱々しい印象。
この前年にエゴン・シーレは初の個展を開くなど順調にキャリアをステップアップさせている。その反面、猥褻な絵を制作していると地元住民から反感を買ったり、警察によって逮捕や絵を焼却されたりもしている。そんな「俺って才能あるのにナンデヤネン」な気持ちが絵に表れているのかも知れない。
どうしても彼の顔に目がいってしまうものの、なぜホウズキを描いたのかも興味深い。というかホオズキの赤は絶妙なアクセントになっているし、花びらのある普通の花ではなく、ここには赤いのに地味なホオズキがピッタリと思ったり。
参考までに関係あるかどうかは別として、ホオズキの花言葉は「心の平安」「不思議」「自然美」「私を誘って下さい」「頼りない」「半信半疑」「いつわり」「欺瞞」とバラエティに富んでいる。特に西洋では「いつわり」「欺瞞」がメインだとの説もある。
ついでに彼が着ている黒いジャケットがやたらカッコよく見える。実際には黒の無地で、細く引かれた白い線は立体感を表現するために描かれたものと思うが、こんな生地のジャケットがあれば是非買いたいと思うくらい。
そしてジャケットを眺めていると、ジャケットの一番外側だけに輪郭線が引かれているのに気がついた。ひとつの絵の中で輪郭線のある・なしを使い分けるのはめずらしいのでは?
エゴン・シーレはデフォルメするのが巧みな画家で、デフォルメされた姿形のバランスがとても魅力的だし、それによって何か伝わってくるものがあると思う。並べて展示されていたこの3枚はテーマも画材も違うけれど、エゴン・シーレの魅力が凝縮されている。
「闘士」 1913年
「裸体自画像 ゼマ版画集特装版のための試し刷り」 1912年
「背を向けて立つ裸体の男」 1910年
そしてエゴン・シーレのディープな世界へ。彼の2大モチーフは死と性だと思う。性についてはたぶん後で書くと思うが、女好きだったから何となく想像できるとして、死について彼がなぜこだわっていたのかを解説した資料が見つからない。病弱でもなかったし精神的に病んでいたわけでもない。28歳で早世したがそれはスペイン風邪、今でならコロナで思いも掛けずに亡くなったようなもの。
でも理由はナゾだとしても、
絵を見ればヤバイとすぐに分かる(^^ゞ
「叙情詩人(自画像)」 1911年
「自分を見つめる人 II(死と男)」 1911年
どちらもあり得ないポーズなのに、デフォルメの天才エゴン・シーレにかかればあまり不自然に見えず、彼の描きたかったであろう情念だけが伝わってくる。でも何を伝えたかったかまでは(私には)理解不能。
ちなみに「叙情詩人」の中央最下部に赤く塗られているのはオチンチン。
そこに描く必要あった?と思わなくもない(^^ゞ
次のドローイング(線画)を見て、エゴン・シーレにちょっとアブノーマルな性癖を感じる人は多いだろう。私もそう思うけれど、それよりも彼はポーズフェチだったような気がする。デッサン(形を絵に写し取る能力)には長けていたので、普通のポーズでは飽き足らなかったのでは?
「しゃがむ裸の少女」 1914年
「赤い靴下留めをして横たわる女」 1913年
「赤い靴下留めをして座る裸婦、後ろ姿」 1914年
「頭を下げてひざまずく女」 1915年
何となく陰キャで閉塞感のある画風に息苦しくもなる。しかし同じくヌードのドローイングでも、赤ちゃんや妊婦がモデルだと愛らしさや幸せそうな雰囲気が伝わってくる。そのあたりに個性や奇抜さに頼っているだけではないエゴン・シーレの力量を感じる。
「プット(アントン・ペシュカ・ジュニア)」 1915年
「妊婦」 1910年
ところで次の作品はは実にシンプルだけれど完成度が高くて、
誰でも描けそうで描けないドローイングじゃないかな。
「背中向きの女性のトルソ」 1913年
ーーー続く
上野公園の五條天神でウメを見て、その日に中国に送り返されたパンダのシャンシャンがいた動物園の前を通って、毎度お馴染みの東京都美術館に到着。
さてエゴン・シーレ。なぜかフルネームで呼ばれることが多いオーストリアの画家。1890年(明治23年)生まれで1918年(大正7年)に28歳で、当時パンデミックを引き起こしていたスペイン風邪により夭折。
16歳でウィーン工芸学校に学ぶも、才能を認められてそのままウィーン美術アカデミーへ進学。これはかなりの神童扱いだったよう。17歳でクリムトに出会い才能を認められ、18歳で初めての展覧会参加。だから画家として活躍していたのはわずか10年ほど。
これは16歳の写真。
自信に満ちあふれたクソ生意気そうな雰囲気が伝わってくる(^^ゞ
こちらは24歳頃に撮られたもの。
日本だと大正3年のエゴン・シーレ。
構図は顔のやや右側からで、そしてわずかにアゴを引いて上目遣いでレンズを見つめるような撮り方は共通。16歳の写真も似ているから、これが一番イケてる顔だと昔から自信があったのだろう。そしてなぜかモミアゲの短いテクノカット! テクノカットは1980年頃にYMOが流行らせた髪型だと思っていたのに、ヨーロッパでは大正時代からあったんだ。
同時期の写真。
この全身を写せる大きな鏡はアトリエを移っても持ち運んだと言われる。そこに写り込む姿を見ながら作品を制作していたらしいが、こうやってカッコ付けてた時間も長かったのでは。
そんなナルシストのエゴン君が自画像を描くとこうなる。
「ほおずきの実のある自画像」 1912年
先ほどの写真とは逆に見下げるような視線。一見するとドヤ顔にも見える。でもそれにしてはどこか弱々しい印象。
この前年にエゴン・シーレは初の個展を開くなど順調にキャリアをステップアップさせている。その反面、猥褻な絵を制作していると地元住民から反感を買ったり、警察によって逮捕や絵を焼却されたりもしている。そんな「俺って才能あるのにナンデヤネン」な気持ちが絵に表れているのかも知れない。
どうしても彼の顔に目がいってしまうものの、なぜホウズキを描いたのかも興味深い。というかホオズキの赤は絶妙なアクセントになっているし、花びらのある普通の花ではなく、ここには赤いのに地味なホオズキがピッタリと思ったり。
参考までに関係あるかどうかは別として、ホオズキの花言葉は「心の平安」「不思議」「自然美」「私を誘って下さい」「頼りない」「半信半疑」「いつわり」「欺瞞」とバラエティに富んでいる。特に西洋では「いつわり」「欺瞞」がメインだとの説もある。
ついでに彼が着ている黒いジャケットがやたらカッコよく見える。実際には黒の無地で、細く引かれた白い線は立体感を表現するために描かれたものと思うが、こんな生地のジャケットがあれば是非買いたいと思うくらい。
そしてジャケットを眺めていると、ジャケットの一番外側だけに輪郭線が引かれているのに気がついた。ひとつの絵の中で輪郭線のある・なしを使い分けるのはめずらしいのでは?
エゴン・シーレはデフォルメするのが巧みな画家で、デフォルメされた姿形のバランスがとても魅力的だし、それによって何か伝わってくるものがあると思う。並べて展示されていたこの3枚はテーマも画材も違うけれど、エゴン・シーレの魅力が凝縮されている。
「闘士」 1913年
「裸体自画像 ゼマ版画集特装版のための試し刷り」 1912年
「背を向けて立つ裸体の男」 1910年
そしてエゴン・シーレのディープな世界へ。彼の2大モチーフは死と性だと思う。性についてはたぶん後で書くと思うが、女好きだったから何となく想像できるとして、死について彼がなぜこだわっていたのかを解説した資料が見つからない。病弱でもなかったし精神的に病んでいたわけでもない。28歳で早世したがそれはスペイン風邪、今でならコロナで思いも掛けずに亡くなったようなもの。
でも理由はナゾだとしても、
絵を見ればヤバイとすぐに分かる(^^ゞ
「叙情詩人(自画像)」 1911年
「自分を見つめる人 II(死と男)」 1911年
どちらもあり得ないポーズなのに、デフォルメの天才エゴン・シーレにかかればあまり不自然に見えず、彼の描きたかったであろう情念だけが伝わってくる。でも何を伝えたかったかまでは(私には)理解不能。
ちなみに「叙情詩人」の中央最下部に赤く塗られているのはオチンチン。
そこに描く必要あった?と思わなくもない(^^ゞ
次のドローイング(線画)を見て、エゴン・シーレにちょっとアブノーマルな性癖を感じる人は多いだろう。私もそう思うけれど、それよりも彼はポーズフェチだったような気がする。デッサン(形を絵に写し取る能力)には長けていたので、普通のポーズでは飽き足らなかったのでは?
「しゃがむ裸の少女」 1914年
「赤い靴下留めをして横たわる女」 1913年
「赤い靴下留めをして座る裸婦、後ろ姿」 1914年
「頭を下げてひざまずく女」 1915年
何となく陰キャで閉塞感のある画風に息苦しくもなる。しかし同じくヌードのドローイングでも、赤ちゃんや妊婦がモデルだと愛らしさや幸せそうな雰囲気が伝わってくる。そのあたりに個性や奇抜さに頼っているだけではないエゴン・シーレの力量を感じる。
「プット(アントン・ペシュカ・ジュニア)」 1915年
「妊婦」 1910年
ところで次の作品はは実にシンプルだけれど完成度が高くて、
誰でも描けそうで描けないドローイングじゃないかな。
「背中向きの女性のトルソ」 1913年
ーーー続く
wassho at 23:36|Permalink│Comments(0)│
2022年07月29日
木村伊兵衛と画家たちの見たパリ 色とりどり その4
最後のコーナーは「華やぐパリ」。
女優やモデルの写真が多くわかりやすいタイトル。
「夕暮れのコンコルド広場、パリ、1954年」
この夕暮れが華やいでいるのかと?が浮かぶが、これは当時の感度の低い(暗いところでは写らない)カラーフィルムの限界を探った写真らしい。これを見て写真に詳しい人はスゲー!とか思うのだろうか。それはともかく都心で夕焼けが眺められていいね。今でもパリは高い建物が少ないから、こんな景色が見られるのかな。
ところでこの写真展ではカメラを縦に構えて撮った写真が多い。それは人物写真が中心だからだろう。それで縦長と横長の写真では縦横比率が違うものがあるのに気がついた。この写真はかなり横長。その2で紹介した「ミラボー橋、パリ、1955年」という写真もそう。
おそらく横長にトリミングして広々感を出しているのだと思う。トリミングもレタッチの一種だけれど、そういうことにも気を配って作品を仕上げるものなんだ。
「ジョアンビル撮影所のミシェル・モルガン、パリ郊外、1955年」
さてここからが華やいでいる写真。
ミシェル・モルガンはフランスを代表する女優の1人らしい。ただし活躍したのが1930年代から60年代なので名前を聞いたことがあるような・ないようなくらいしか知らない。ジャン・ギャバンやイヴ・モンタンとかが活躍していた頃の人。
撮影所に潜り込めたのはフランスの大御所カメラマンであるアンリ・カルティエ=ブレッソンの手配があったから。そして彼が木村伊兵衛のパリでの撮影をコーディネートするために同行させたのがロベール・ドアノー。こちらも超有名カメラマン。ドアノーの名前は知らなくても、彼が撮ったこの「パリ市庁舎前のキス」を見たことがある人は意外といるかも知れない。20歳代の頃、これを自宅に飾っていたら「ウチにもある」といった人が2名いたから。
木村伊兵衛がパリでいい写真を撮れたのは、ブレッソンとドアノーという当時のドリームチームのアシストも大きかったと思う。それを言い出すと写真は「カメラマンの才能や能力」か「被写体自体の魅力なのか」にまた話が戻ってしまうが。
「パリ、手鏡、1955年」
「ファッションショー、パリ、1954年」
「ジバンシーのコレクション会場、パリ、1955年
これらはファッションショーの楽屋などを撮影した写真。2枚目のは屋外パーティーみたいだが、ヘアスタイルコンテストのモデルが出番待ちをしているところ。
「マヌカン、パリ、1955年」
フランス語でマヌカンはファッションモデルのことを指す。しかし日本ではかつて1980年代のDCブランドブームの頃に、その販売員をハウスマヌカンと呼び、短縮してマヌカンともいった。当時を知っている人なら、そのブームをおちょくった「夜霧のハウスマヌカン」という歌を覚えているだろう。
YouTubeの動画はこちら
なんとテレサ・テンもカバーしていた!
改めて歌詞を読むとクスッと笑える
ところでマヌカンを販売員あるいはモデルを指す言葉だと知っていても、
それが mannequin を
フランス語読みしたらマヌカン
英語読みしたらマネキン
であることはあまり知られていないかも。マネキンと聞けば服を着せる人形をまず思い浮かべるが、ファッション業界だけではなく臨時の派遣店員をマネキンと呼ぶこともある。なぜか「マネキンさん」と、さん付けすることが多いかな。
例によって前書きが長かったが、
これが木村伊兵衛の撮ったマヌカン。
扇子と組み合わせた帽子?を被ったファッションモデル。かなりアバンギャルドな華やかさである。この表情と手の位置なら携帯電話で話しているようにしか見えないが、もちろんこの時代にそんなものはない。ポーズの解釈も時代によって変わるね。
ところでこれは屋上で撮影したのだろうが、背景の屋根に写っている無数のレンガ色をしたものは何なんだろう。焼く前の陶器を乾かしているようにも思えるが、屋根の上でそんなことはしないだろうし。超ナゾ
そして大先生である木村伊兵衛に何度もダメだしするのは気が引けるが、この写真も傾きが気になる。メインの被写体に合わせて撮るとこうなりがち。モデルの姿勢からカメラが傾いているとは感じなかったのだろう。
さて1950年代半ばのパリを色々と見られて楽しい写真展だった。よくいわれる「空気感も一緒に写し込む」の意味が分かったような気もする。それと教科書でしか知らないような大昔でもないから、現在との連続感があるというか、肌感覚で「こうだったんだろうなあ」とわかる親しみやすさもある。また街角写真なので、どれも気取りのない写真だったのもよかった。言い換えれば「どうだ、スゴイ写真だろ」との押しつけがましさがない。そういうテンションの高い写真はどうも苦手で。でも撮れるものなら撮ってみたい(^^ゞ
写真展は今まで数えるほどしか訪れたことはないが、
もうちょっとマメに足を運ぶか。
おしまい
女優やモデルの写真が多くわかりやすいタイトル。
「夕暮れのコンコルド広場、パリ、1954年」
この夕暮れが華やいでいるのかと?が浮かぶが、これは当時の感度の低い(暗いところでは写らない)カラーフィルムの限界を探った写真らしい。これを見て写真に詳しい人はスゲー!とか思うのだろうか。それはともかく都心で夕焼けが眺められていいね。今でもパリは高い建物が少ないから、こんな景色が見られるのかな。
ところでこの写真展ではカメラを縦に構えて撮った写真が多い。それは人物写真が中心だからだろう。それで縦長と横長の写真では縦横比率が違うものがあるのに気がついた。この写真はかなり横長。その2で紹介した「ミラボー橋、パリ、1955年」という写真もそう。
おそらく横長にトリミングして広々感を出しているのだと思う。トリミングもレタッチの一種だけれど、そういうことにも気を配って作品を仕上げるものなんだ。
「ジョアンビル撮影所のミシェル・モルガン、パリ郊外、1955年」
さてここからが華やいでいる写真。
ミシェル・モルガンはフランスを代表する女優の1人らしい。ただし活躍したのが1930年代から60年代なので名前を聞いたことがあるような・ないようなくらいしか知らない。ジャン・ギャバンやイヴ・モンタンとかが活躍していた頃の人。
撮影所に潜り込めたのはフランスの大御所カメラマンであるアンリ・カルティエ=ブレッソンの手配があったから。そして彼が木村伊兵衛のパリでの撮影をコーディネートするために同行させたのがロベール・ドアノー。こちらも超有名カメラマン。ドアノーの名前は知らなくても、彼が撮ったこの「パリ市庁舎前のキス」を見たことがある人は意外といるかも知れない。20歳代の頃、これを自宅に飾っていたら「ウチにもある」といった人が2名いたから。
木村伊兵衛がパリでいい写真を撮れたのは、ブレッソンとドアノーという当時のドリームチームのアシストも大きかったと思う。それを言い出すと写真は「カメラマンの才能や能力」か「被写体自体の魅力なのか」にまた話が戻ってしまうが。
「パリ、手鏡、1955年」
「ファッションショー、パリ、1954年」
「ジバンシーのコレクション会場、パリ、1955年
これらはファッションショーの楽屋などを撮影した写真。2枚目のは屋外パーティーみたいだが、ヘアスタイルコンテストのモデルが出番待ちをしているところ。
「マヌカン、パリ、1955年」
フランス語でマヌカンはファッションモデルのことを指す。しかし日本ではかつて1980年代のDCブランドブームの頃に、その販売員をハウスマヌカンと呼び、短縮してマヌカンともいった。当時を知っている人なら、そのブームをおちょくった「夜霧のハウスマヌカン」という歌を覚えているだろう。
YouTubeの動画はこちら
なんとテレサ・テンもカバーしていた!
改めて歌詞を読むとクスッと笑える
ところでマヌカンを販売員あるいはモデルを指す言葉だと知っていても、
それが mannequin を
フランス語読みしたらマヌカン
英語読みしたらマネキン
であることはあまり知られていないかも。マネキンと聞けば服を着せる人形をまず思い浮かべるが、ファッション業界だけではなく臨時の派遣店員をマネキンと呼ぶこともある。なぜか「マネキンさん」と、さん付けすることが多いかな。
例によって前書きが長かったが、
これが木村伊兵衛の撮ったマヌカン。
扇子と組み合わせた帽子?を被ったファッションモデル。かなりアバンギャルドな華やかさである。この表情と手の位置なら携帯電話で話しているようにしか見えないが、もちろんこの時代にそんなものはない。ポーズの解釈も時代によって変わるね。
ところでこれは屋上で撮影したのだろうが、背景の屋根に写っている無数のレンガ色をしたものは何なんだろう。焼く前の陶器を乾かしているようにも思えるが、屋根の上でそんなことはしないだろうし。超ナゾ
そして大先生である木村伊兵衛に何度もダメだしするのは気が引けるが、この写真も傾きが気になる。メインの被写体に合わせて撮るとこうなりがち。モデルの姿勢からカメラが傾いているとは感じなかったのだろう。
さて1950年代半ばのパリを色々と見られて楽しい写真展だった。よくいわれる「空気感も一緒に写し込む」の意味が分かったような気もする。それと教科書でしか知らないような大昔でもないから、現在との連続感があるというか、肌感覚で「こうだったんだろうなあ」とわかる親しみやすさもある。また街角写真なので、どれも気取りのない写真だったのもよかった。言い換えれば「どうだ、スゴイ写真だろ」との押しつけがましさがない。そういうテンションの高い写真はどうも苦手で。でも撮れるものなら撮ってみたい(^^ゞ
写真展は今まで数えるほどしか訪れたことはないが、
もうちょっとマメに足を運ぶか。
おしまい
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2022年07月27日
木村伊兵衛と画家たちの見たパリ 色とりどり その3
前回までに紹介したのはストリートの風景を切り取った「パリの街角」、そこにいる人たちを主役にした「素顔のパリっ子」。そしてその次のコーナーは「安らぐパリ」というタイトルだった。「素顔のパリっ子」の括りに入れてもよかったんじゃない?と思える写真も混ざっているが、くつろいだり楽しんだりしているパリの人々が撮られている。
「パリ、1954-1955年」
この時代(1954年は昭和29年)の日本でクルマに乗ってお出かけしている
イヌはいなかっただろうなあ。
「ロンシャン競馬場、パリ、1954年」
男性のセータが、前から見てどんな模様になっているか知りたい。
「カフェにて、パリ、1955年」
前回に書き忘れたが、この当時のパリの男性は女性と較べて垢抜けない感じ。
「パリの女、シャンゼリゼ通り、パリ、1955年」
背景にいるのはストリート・ミュージシャン?
「テュイルリー公園にて、パリ、1955年」
国産初のカラーフィルムを使用したのが、この撮影旅行の売りなのに、
ところどころセピアに近い色調になっている写真も混ざっているのが不思議。
次のリュクサンブール公園の写真も同じく。
「リュクサンブール公園にて、パリ、1954年」
このジイさん達はコートを着ている。他には半袖姿の写真もあるから、
木村伊兵衛はかなり長くパリに滞在していたようだ。
「サン・マルタン運河、パリ、1955年」
ところで私は写真を撮るとき、カメラを水平に保つように気をつけている。
しかし中心となる被写体が手前にあると、それに気を取られて
おろそかになることが多い。
でも木村伊兵衛もけっこうアバウトなので安心した(^^ゞ
この写真も少女の部分だけでは気づかないが、
橋のところの水面を見れば、かなり画面が傾いているのがわかる。
参考までに傾きを修正したものを。
「パリからブロワへむかう途上で、1954年」
風景が広いと水平を意識させるものが多くなるので、
傾きが目立ちやすい。
木村伊兵衛の写真には、戦前のものも含めて当時に走っていたクルマが
たくさん写っていて面白いのだが、バイクの姿をキチンと分かるように撮られた
ものはほとんどない。彼はバイクには興味がなかったみたいだ。
「職人町のパリ祭、メニルモンタン、パリ、1955年」
「職人町のパリ祭、メニルモンタン、パリ、1955年」
パリ祭とはフランスの革命記念日のこと。
フランス革命はルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンされたあれね。この革命の戦いは約10年に渡って続いたが、1789年7月14日にパリ市民が政治犯の投獄されていたバスチーユ牢獄を襲撃したのが始まり。ということでこの日が革命記念日とされた。また王制を倒して現在まで続く共和制が成立したので建国記念日でもある。もちろん祝日。ちなみに明治維新が1868年だからフランス革命はその80年ほど前の出来事。江戸時代の2/3が過ぎた当たり。
ところでこの革命記念日、フランス語では Fete nationale francaise (直訳すればフランス国民祭典)となる。それを「パリ祭」と呼ぶのは日本独特の訳語。盛大な軍事パレードもおこなわれる日なのに随分と軽いニュアンスになっている。
一説によると、フランスではこの日を単に Quatorze Juillet(7月14日の意味)と呼ぶこともあり、昭和の初めにその Quatorze Juillet というタイトルのフランス映画が入ってきて、その邦題を「7月14日」に訳しても日本人には意味がわからないからパリ祭(映画では漢字で巴里祭)に意訳?したのがきっかけらしい。
Fete と Festival は同じような意味だけれど、なぜフランスじゃなくてパリ限定に? 以前フランス人に日本では Paris Festival と呼ぶと教えたらけっこうビックリされた。
なお日本では初代天皇である神武天皇の即位日を建国記念日に当てている。とはいっても彼は神話上の人物であり、即位日とされる2月11日も半分はこじつけみたいなもの。その他いろいろあって戦後に建国記念日を再制定するとき、反対意見を押さえるため「建国記念日」ではなく「建国記念の日」と名称に「の」をいれて、「この日に建国された」という意味ではなく「建国を祝う日」の趣旨に置き換えられた。すごい政治テクニック! まあほとんどの人は「建国記念の日」と「の」が挟まっていることに気がついていないが。
話がそれた(^^ゞ
ーーー続く
「パリ、1954-1955年」
この時代(1954年は昭和29年)の日本でクルマに乗ってお出かけしている
イヌはいなかっただろうなあ。
「ロンシャン競馬場、パリ、1954年」
男性のセータが、前から見てどんな模様になっているか知りたい。
「カフェにて、パリ、1955年」
前回に書き忘れたが、この当時のパリの男性は女性と較べて垢抜けない感じ。
「パリの女、シャンゼリゼ通り、パリ、1955年」
背景にいるのはストリート・ミュージシャン?
「テュイルリー公園にて、パリ、1955年」
国産初のカラーフィルムを使用したのが、この撮影旅行の売りなのに、
ところどころセピアに近い色調になっている写真も混ざっているのが不思議。
次のリュクサンブール公園の写真も同じく。
「リュクサンブール公園にて、パリ、1954年」
このジイさん達はコートを着ている。他には半袖姿の写真もあるから、
木村伊兵衛はかなり長くパリに滞在していたようだ。
「サン・マルタン運河、パリ、1955年」
ところで私は写真を撮るとき、カメラを水平に保つように気をつけている。
しかし中心となる被写体が手前にあると、それに気を取られて
おろそかになることが多い。
でも木村伊兵衛もけっこうアバウトなので安心した(^^ゞ
この写真も少女の部分だけでは気づかないが、
橋のところの水面を見れば、かなり画面が傾いているのがわかる。
参考までに傾きを修正したものを。
「パリからブロワへむかう途上で、1954年」
風景が広いと水平を意識させるものが多くなるので、
傾きが目立ちやすい。
木村伊兵衛の写真には、戦前のものも含めて当時に走っていたクルマが
たくさん写っていて面白いのだが、バイクの姿をキチンと分かるように撮られた
ものはほとんどない。彼はバイクには興味がなかったみたいだ。
「職人町のパリ祭、メニルモンタン、パリ、1955年」
「職人町のパリ祭、メニルモンタン、パリ、1955年」
パリ祭とはフランスの革命記念日のこと。
フランス革命はルイ16世やマリー・アントワネットがギロチンされたあれね。この革命の戦いは約10年に渡って続いたが、1789年7月14日にパリ市民が政治犯の投獄されていたバスチーユ牢獄を襲撃したのが始まり。ということでこの日が革命記念日とされた。また王制を倒して現在まで続く共和制が成立したので建国記念日でもある。もちろん祝日。ちなみに明治維新が1868年だからフランス革命はその80年ほど前の出来事。江戸時代の2/3が過ぎた当たり。
ところでこの革命記念日、フランス語では Fete nationale francaise (直訳すればフランス国民祭典)となる。それを「パリ祭」と呼ぶのは日本独特の訳語。盛大な軍事パレードもおこなわれる日なのに随分と軽いニュアンスになっている。
一説によると、フランスではこの日を単に Quatorze Juillet(7月14日の意味)と呼ぶこともあり、昭和の初めにその Quatorze Juillet というタイトルのフランス映画が入ってきて、その邦題を「7月14日」に訳しても日本人には意味がわからないからパリ祭(映画では漢字で巴里祭)に意訳?したのがきっかけらしい。
Fete と Festival は同じような意味だけれど、なぜフランスじゃなくてパリ限定に? 以前フランス人に日本では Paris Festival と呼ぶと教えたらけっこうビックリされた。
なお日本では初代天皇である神武天皇の即位日を建国記念日に当てている。とはいっても彼は神話上の人物であり、即位日とされる2月11日も半分はこじつけみたいなもの。その他いろいろあって戦後に建国記念日を再制定するとき、反対意見を押さえるため「建国記念日」ではなく「建国記念の日」と名称に「の」をいれて、「この日に建国された」という意味ではなく「建国を祝う日」の趣旨に置き換えられた。すごい政治テクニック! まあほとんどの人は「建国記念の日」と「の」が挟まっていることに気がついていないが。
話がそれた(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 19:38|Permalink│Comments(0)│
2022年07月24日
木村伊兵衛と画家たちの見たパリ 色とりどり その2
「パリの街角」に続く第2のコーナーは「素顔のパリっ子」で、こちらは人物を中心に捉えた作品となっている。昨今はプライバシーや肖像権とかがややこしいが、この頃は「見てよいものは撮ってもよい」だったのどかな時代。
「ミラボー橋、パリ、1955年」
「パリ、1954年」
「パリ、1955年」
「パリ、1954-1955年」
「パリ、1954-1955年」
「パリ、1955年」
「パリ、1954-1955年」
「モンマルトル、パリ、1954-1955年」
「パリ、1954-1955年」
最初の1枚は、ひょっとして歩いている女性は仕込み?と思うくらいサマになっているが、総じて人々のありふれた日常の姿が撮られている。まるでパリの街中や路地裏をブラブラ散歩しているような気分。まだまだのんびりとした時代の空気感になごむね。いわゆる花の都パリのイメージはないが、昭和29年当時の日本人にはこれでも相当にオシャレなものに思えたのかも知れない。
下から3枚目のマダムが脚を伸ばしているお店は骨董屋かなんかだろうか。スナップ写真は基本的にストリート写真だから、室内の写真が少ないのは残念なところ。生活の匂いは室内により濃く現れるから、私は絵画でも室内を描いたものが好きなんだけれど。
ところで木村伊兵衛がパリに出かけたのは1954年(昭和29年)と翌55年の2回に分けてである。最初の1954年は日本人写真家としては戦後初めてのことだったらしい(終戦は1945年・昭和20年ね)。しかし作品タイトルに「1954-1955年」とあるのはナゼ? いつ撮影したものか整理できていなかったのかな?
さて実はーーー
写真展や写真集を見ていつも思うことがある。
それは素晴らしいと思った写真があったとして、それが
カメラマンの才能や能力に依るのか
被写体自体の魅力なのか
ということ。
昔、まだタバコの広告があった頃、マイルドセブンの雑誌広告に南極の写真を使ったものがあった。写っているのは氷山と青空だけなのに、なぜかその風景が好きでよく眺めていたし、新しい広告が出るのを楽しみにしていた。
しかしあるとき、私でも南極まで行けばこんな写真は撮れる−−−と気づく(^^ゞ その頃からそんなことを考え始めたような気がする。
これは15年ほど前に、ミラノの下町ぽいエリアで私が撮った写真。もちろん地元の人には風景的な価値はなくて、こんなところを写真に撮るのは観光客だけだろう。つまり外国の街並みという被写体に魅力がある。私だって自宅近くの交差点を撮ったりしない。
その場所にしばらくいると、自転車なのにジャケットにネクタイをしている、実に味のあるジイさんがたまたま通りかかった。この写真はけっこうお気に入り。もちろんこの写真の価値は被写体が100%を占める。
素人写真のことはさておいて、プロの写真の価値はカメラマンの才能や能力と、被写体自体の魅力の掛け算だとは一応理解している。付け加えるなら、その被写体を探す・見つける・撮りに行く労力を含めての評価だろう。
ただ掛け算だとしても、それでも才能や能力と、被写体の比重はどれくらいなんだろうと考えてしまうのは理屈っぽいかな。えっ、絵画と較べて写真を見下していないかって? まったくそうじゃない。絵の展覧会に出かけても、これくらいなら私でも描けるとしょっちゅう思っているから(^^ゞ
ーーー続く
「ミラボー橋、パリ、1955年」
「パリ、1954年」
「パリ、1955年」
「パリ、1954-1955年」
「パリ、1954-1955年」
「パリ、1955年」
「パリ、1954-1955年」
「モンマルトル、パリ、1954-1955年」
「パリ、1954-1955年」
最初の1枚は、ひょっとして歩いている女性は仕込み?と思うくらいサマになっているが、総じて人々のありふれた日常の姿が撮られている。まるでパリの街中や路地裏をブラブラ散歩しているような気分。まだまだのんびりとした時代の空気感になごむね。いわゆる花の都パリのイメージはないが、昭和29年当時の日本人にはこれでも相当にオシャレなものに思えたのかも知れない。
下から3枚目のマダムが脚を伸ばしているお店は骨董屋かなんかだろうか。スナップ写真は基本的にストリート写真だから、室内の写真が少ないのは残念なところ。生活の匂いは室内により濃く現れるから、私は絵画でも室内を描いたものが好きなんだけれど。
ところで木村伊兵衛がパリに出かけたのは1954年(昭和29年)と翌55年の2回に分けてである。最初の1954年は日本人写真家としては戦後初めてのことだったらしい(終戦は1945年・昭和20年ね)。しかし作品タイトルに「1954-1955年」とあるのはナゼ? いつ撮影したものか整理できていなかったのかな?
さて実はーーー
写真展や写真集を見ていつも思うことがある。
それは素晴らしいと思った写真があったとして、それが
カメラマンの才能や能力に依るのか
被写体自体の魅力なのか
ということ。
昔、まだタバコの広告があった頃、マイルドセブンの雑誌広告に南極の写真を使ったものがあった。写っているのは氷山と青空だけなのに、なぜかその風景が好きでよく眺めていたし、新しい広告が出るのを楽しみにしていた。
しかしあるとき、私でも南極まで行けばこんな写真は撮れる−−−と気づく(^^ゞ その頃からそんなことを考え始めたような気がする。
これは15年ほど前に、ミラノの下町ぽいエリアで私が撮った写真。もちろん地元の人には風景的な価値はなくて、こんなところを写真に撮るのは観光客だけだろう。つまり外国の街並みという被写体に魅力がある。私だって自宅近くの交差点を撮ったりしない。
その場所にしばらくいると、自転車なのにジャケットにネクタイをしている、実に味のあるジイさんがたまたま通りかかった。この写真はけっこうお気に入り。もちろんこの写真の価値は被写体が100%を占める。
素人写真のことはさておいて、プロの写真の価値はカメラマンの才能や能力と、被写体自体の魅力の掛け算だとは一応理解している。付け加えるなら、その被写体を探す・見つける・撮りに行く労力を含めての評価だろう。
ただ掛け算だとしても、それでも才能や能力と、被写体の比重はどれくらいなんだろうと考えてしまうのは理屈っぽいかな。えっ、絵画と較べて写真を見下していないかって? まったくそうじゃない。絵の展覧会に出かけても、これくらいなら私でも描けるとしょっちゅう思っているから(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 21:39|Permalink│Comments(0)│
2022年07月23日
木村伊兵衛と画家たちの見たパリ 色とりどり
今年の2月に見に行った写真展(絵画も少しあった)。その時の「目黒区美術館のおかしな対応」についてはブログにしたが、肝心の写真展について書くのをすっかり忘れていた。
それはこの写真展がつまらなかったからではなく、かなり満足したのだけれど、やはり絵画と較べればグッと迫ってこないというか、ファンタジーである絵画と違って、写真は現実なので作品と妄想コミュニケーションする余地が少ないというかーーーそんなことが影響したのかズルズルと時間が過ぎてしまった。
木村伊兵衛(いへい)は明治34年(1901年)生まれで昭和49年(1974年)に72歳で没。戦前・戦後を通じて活動した最も著名な写真家の1人。とはいえ世間一般的な知名度はゼロに近いだろう。もちろん私も知らなかった。ちなみにウィキペディアに日本の写真家一覧として850名ほどの写真家が載っているが、知っている名前は10名に満たない。そのほとんどはヌードを撮ってる写真家なのは内緒(^^ゞ
それはともかく木村伊兵衛はスナップ写真の名手とされる。スナップ写真の正確な定義は知らないが、おもに街中で「おっ、これは!」と感じたものを撮ったのがスナップ写真だと思っている。人が写っている場合は撮影を意識させないのがポイント。スナップと聞くと「スナップをきかせる」から手首を連想するかも知れないが、手首はリストね。snapには瞬時に動作するさまを表現する言葉。意味は広いから詳しくは自分で調べてちょうだい。
これは50歳代くらいの写真かな。
こちらはもう少し後に撮られたものだろう。
それにしても同じ人物には見えない。その理由はおそらくポートレート撮影の「決め顔」とスナップ撮影された「緩い顔」の違いだろう。意外とこの2枚がスナップ写真の本質を表していたりして。また昭和の中頃過ぎまで「画家はベレー帽を被る」というお約束的なイメージがあったがカメラマンもそうだったのかな。あるいは単に彼の好みか。
さてこの写真展は木村伊兵衛が1954年(昭和29年)と55年にパリを訪れたときのスナップ写真が展示されている。年齢的には50歳代中頃となる。
写真展示は4部構成で最初のコーナーのタイトルは「パリの街角」。
なかなかバランスよく画像を集められなかったがいくつかを紹介しておく。
「地下鉄高架、パリ、1955年」
「デュプレクス地下鉄高架駅、パリ、1955年」
「パリ、1955年」
「パリ、1954年」
「パリ、1955年」
「パリ、1954-1955年」
ほとんど予備知識なしで展覧会を訪れたが、最初の何点かを見て少し違和感を覚えた。それは1954年とか55年と書かれていたにもかかわらずカラー写真だったから。私の記憶つまり我が家のアルバムでカラー写真が登場するのは1960年代になってから。それに初期のカラー写真は少し色が薄いというか浅かった印象があるのに、展示されていた写真は妙に色がコッテリしているものも多く不自然に感じた。
それで「これは白黒写真に着色を施してカラー化したもの」だと思った。たまたま学芸員が通りかかったのでそのことを尋ねると「いいえカラー写真です。富士フイルムが開発した国産初のカラーフィルムを使って撮影しています」との答え。
そんなに昔からカラーフィルムがあるとは知らなかった。富士フイルムのホームページで調べてみると最初に発売されたカラーフィルムは大型カメラ用が1948年(昭和23年)、一般的な35mmサイズが翌1949年。ただしそれらはリバーサル=スライドに用いるフィルム。プロはリバーサルで撮影するから木村伊兵衛がパリに持っていったのはこれだろう。
そして一般的な35mmサイズで紙にプリントできるカラーフィルムは1958年(昭和33年)に発売された。当時は現像所がひとつしかなく現像に2週間を要していたらしい。全国各地に現像所ができて家庭でカラー写真が普及し始めたのが1960年代の中頃からのようだ。
「ブロボ通り、モンマルトル、パリ、1954-1955年」
「パリ、1954-1955年」
「古い街、パリ、1954年」
「パリ、1954年」
「裏通り、メニルモンタン、パリ、1954年」
「エトワール広場、パリ、1955年」
さてこれらの写真が国産初のカラーフィルムで撮影されているとしても、それなりにレタッチ(補正・修正)が施されていると思う。作品リストには「木村伊兵衛が撮影したオリジナルの写真をデジタルデータ化しプリントしたものです」と書かれていた。セピアに近い写真と見較べると、おそらく色数が多い場面の写真は彩度を上げる(色を濃くする)方向に仕上げられているのでは?
今では写真のレタッチはスマホでもできるし、デジタルならではの技術と思われているが、アナログのフィルム時代でもレタッチはおこなわれていた(具体的にどんな作業かは知らない)。写真(作品)はシャッターを切ったらそれで完成ではないのである。
フィルム時代のレタッチは白黒写真はカメラマン自身が、カラー写真なら現像所の技術者に指示しておこなうことが多かったように思う。いずれにせよそのレタッチには本人の意向が反映されている。しかし木村伊兵衛はもう亡くなっているのだから、展覧会で見た写真は100%彼の作品といえるのかと思ったり。それがどうしたな類いの話ではあるけれど。
それはさておき1954年〜55年(昭和29年〜30年)のパリの雰囲気が感じられるのは楽しいね。写真の魅力は時間と空間を一瞬でワープできるところ。もちろんデジカメの映像を見慣れた目には精彩・細密感がまるでない写真であるが、それもノスタルジックな味わいでよし。ただこの時代にタイムマシンで訪れて、最新のデジカメで撮ったらどんな写真になるのだろうかと妄想が膨らむ。
ところで下から3枚目のクルマがとても気になる。おそらくは第2次世界大戦前のまだレーシングカーとスポーツカーの区別が曖昧だった頃のクルマ。ボディー後半の絞り込まれたような形はボートテイル(船の後ろ)と呼ばれたデザイン。右ハンドルだからイギリス車か? 30分ほどネットで調べたが車種名は分からなかった。それにしてもこんなクルマが街中に駐まっているなんて刺激的。もし一緒に写っているバアさんが、颯爽とこのクルマに乗り込んだら惚れるわ(^^ゞ
ーーー続く
それはこの写真展がつまらなかったからではなく、かなり満足したのだけれど、やはり絵画と較べればグッと迫ってこないというか、ファンタジーである絵画と違って、写真は現実なので作品と妄想コミュニケーションする余地が少ないというかーーーそんなことが影響したのかズルズルと時間が過ぎてしまった。
木村伊兵衛(いへい)は明治34年(1901年)生まれで昭和49年(1974年)に72歳で没。戦前・戦後を通じて活動した最も著名な写真家の1人。とはいえ世間一般的な知名度はゼロに近いだろう。もちろん私も知らなかった。ちなみにウィキペディアに日本の写真家一覧として850名ほどの写真家が載っているが、知っている名前は10名に満たない。そのほとんどはヌードを撮ってる写真家なのは内緒(^^ゞ
それはともかく木村伊兵衛はスナップ写真の名手とされる。スナップ写真の正確な定義は知らないが、おもに街中で「おっ、これは!」と感じたものを撮ったのがスナップ写真だと思っている。人が写っている場合は撮影を意識させないのがポイント。スナップと聞くと「スナップをきかせる」から手首を連想するかも知れないが、手首はリストね。snapには瞬時に動作するさまを表現する言葉。意味は広いから詳しくは自分で調べてちょうだい。
これは50歳代くらいの写真かな。
こちらはもう少し後に撮られたものだろう。
それにしても同じ人物には見えない。その理由はおそらくポートレート撮影の「決め顔」とスナップ撮影された「緩い顔」の違いだろう。意外とこの2枚がスナップ写真の本質を表していたりして。また昭和の中頃過ぎまで「画家はベレー帽を被る」というお約束的なイメージがあったがカメラマンもそうだったのかな。あるいは単に彼の好みか。
さてこの写真展は木村伊兵衛が1954年(昭和29年)と55年にパリを訪れたときのスナップ写真が展示されている。年齢的には50歳代中頃となる。
写真展示は4部構成で最初のコーナーのタイトルは「パリの街角」。
なかなかバランスよく画像を集められなかったがいくつかを紹介しておく。
「地下鉄高架、パリ、1955年」
「デュプレクス地下鉄高架駅、パリ、1955年」
「パリ、1955年」
「パリ、1954年」
「パリ、1955年」
「パリ、1954-1955年」
ほとんど予備知識なしで展覧会を訪れたが、最初の何点かを見て少し違和感を覚えた。それは1954年とか55年と書かれていたにもかかわらずカラー写真だったから。私の記憶つまり我が家のアルバムでカラー写真が登場するのは1960年代になってから。それに初期のカラー写真は少し色が薄いというか浅かった印象があるのに、展示されていた写真は妙に色がコッテリしているものも多く不自然に感じた。
それで「これは白黒写真に着色を施してカラー化したもの」だと思った。たまたま学芸員が通りかかったのでそのことを尋ねると「いいえカラー写真です。富士フイルムが開発した国産初のカラーフィルムを使って撮影しています」との答え。
そんなに昔からカラーフィルムがあるとは知らなかった。富士フイルムのホームページで調べてみると最初に発売されたカラーフィルムは大型カメラ用が1948年(昭和23年)、一般的な35mmサイズが翌1949年。ただしそれらはリバーサル=スライドに用いるフィルム。プロはリバーサルで撮影するから木村伊兵衛がパリに持っていったのはこれだろう。
そして一般的な35mmサイズで紙にプリントできるカラーフィルムは1958年(昭和33年)に発売された。当時は現像所がひとつしかなく現像に2週間を要していたらしい。全国各地に現像所ができて家庭でカラー写真が普及し始めたのが1960年代の中頃からのようだ。
「ブロボ通り、モンマルトル、パリ、1954-1955年」
「パリ、1954-1955年」
「古い街、パリ、1954年」
「パリ、1954年」
「裏通り、メニルモンタン、パリ、1954年」
「エトワール広場、パリ、1955年」
さてこれらの写真が国産初のカラーフィルムで撮影されているとしても、それなりにレタッチ(補正・修正)が施されていると思う。作品リストには「木村伊兵衛が撮影したオリジナルの写真をデジタルデータ化しプリントしたものです」と書かれていた。セピアに近い写真と見較べると、おそらく色数が多い場面の写真は彩度を上げる(色を濃くする)方向に仕上げられているのでは?
今では写真のレタッチはスマホでもできるし、デジタルならではの技術と思われているが、アナログのフィルム時代でもレタッチはおこなわれていた(具体的にどんな作業かは知らない)。写真(作品)はシャッターを切ったらそれで完成ではないのである。
フィルム時代のレタッチは白黒写真はカメラマン自身が、カラー写真なら現像所の技術者に指示しておこなうことが多かったように思う。いずれにせよそのレタッチには本人の意向が反映されている。しかし木村伊兵衛はもう亡くなっているのだから、展覧会で見た写真は100%彼の作品といえるのかと思ったり。それがどうしたな類いの話ではあるけれど。
それはさておき1954年〜55年(昭和29年〜30年)のパリの雰囲気が感じられるのは楽しいね。写真の魅力は時間と空間を一瞬でワープできるところ。もちろんデジカメの映像を見慣れた目には精彩・細密感がまるでない写真であるが、それもノスタルジックな味わいでよし。ただこの時代にタイムマシンで訪れて、最新のデジカメで撮ったらどんな写真になるのだろうかと妄想が膨らむ。
ところで下から3枚目のクルマがとても気になる。おそらくは第2次世界大戦前のまだレーシングカーとスポーツカーの区別が曖昧だった頃のクルマ。ボディー後半の絞り込まれたような形はボートテイル(船の後ろ)と呼ばれたデザイン。右ハンドルだからイギリス車か? 30分ほどネットで調べたが車種名は分からなかった。それにしてもこんなクルマが街中に駐まっているなんて刺激的。もし一緒に写っているバアさんが、颯爽とこのクルマに乗り込んだら惚れるわ(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 20:00|Permalink│Comments(0)│
2022年07月19日
掛け軸や絵巻は巻かない方がいいんじゃない?
日本画には掛け軸や絵巻といった形のものがある。大きなサイズの作品は屏風(びょうぶ)や襖絵(ふすまえ)で、小さなものは掛け軸にする文化だったというイメージを持っている(絵巻は長編絵画みたいなものだから特殊なジャンル)。そして掛け軸サイズでない日本画が描かれて額装されるようになったのは、明治以降に西洋画の影響を受けてからと思う。もっと後のことかも知れない。
掛け軸や絵巻はクルクルと巻いて収納する。コンパクトになって場所を取らずに便利。ただし紙や布(日本画は絹の布に描くのが一般的)を丸めるのだから、当然ながらシワが寄ったり波打ったりする。
これは5月に見てきた鏑木清方の作品。彼は1972年(昭和47年)まで生きた画家だから、つまり作品はまだそれほど古くないから、巻いたことによるダメージはそれほど大きくない。それでもカタログの画像と較べると形が歪んでいるし、波打って無地の背景が陰影のように見える。
こちらは江戸時代前期の17世紀に描かれた菱川師宣(もろのぶ)の見返り美人図。
けっこうシワクチャ(>_<) ※展示写真はhttps://go-to-museums.com/beautylookingback-1834からの引用
もちろんダメージがひどくなってくれば修復作業がおこなわれる。それがどうのような作業かは知らないが、巻かなければ傷まないのにと思うのは私だけかな。驚いたことに国宝や重要文化財でも展示していないときは巻かれている(何度かそんなシーンをテレビで見た)。
家庭では収納場所に困るから巻物にするのは合理性があるとしても、美術館なら作品の保全を優先すべきだと思うのだが。
そんなことを考えながらネットで調べていると興味深いものを見つけた。写真は名古屋にある徳川美術館が所蔵している源氏物語絵巻。平安時代末期の作品で国宝に指定されている。教科書で見た記憶がある人も多いかと思う。
徳川美術館によると
3巻の絵巻だったものを
昭和7年(1932)に額装に改めた(つまり切り離した)
当時はそれが最善と判断したが、80年が経過して弊害が生じたため、
2016年から5年かけて絵巻に戻した
とのこと。その際に絵巻の軸の直径を大きくして巻くことによる負担を少なくしたらしいが、それでも巻いたり広げたりを繰り返せば傷むでしょ。額装で生じた弊害が具体的に何かは分からないが、遠い将来のことまでを考えるなら巻かずに保管して欲しい。もちろん掛け軸と違って絵巻は長いから大変だろうが(源氏物語絵巻は1巻が5〜7m)、国宝ならそれくらいはしましょう。もちろん11mちょっとある鳥獣戯画も是非。
美術館関係者の皆様ご一考を。
話は変わるが、シワが寄ったりしている掛け軸の作品。例として上げたものを見てもわかるように、それらもカタログ写真ではきれいに真っ平らである。シワの部分つまり元の絵に対して歪んでいる箇所の分量をコンピューターで計算して補正することは可能。しかしそんなことができるようになったのは20年ほど前からの話。パソコンがなかった時代からカタログの写真は真っ平らだった。
どうやって撮影しているのだろう。パッと思いつくのはガラス板を載せてシワを伸ばす方法。油絵と違って日本画に凹凸はないから可能だろうが、まさかね? とにかくナゾ
掛け軸や絵巻はクルクルと巻いて収納する。コンパクトになって場所を取らずに便利。ただし紙や布(日本画は絹の布に描くのが一般的)を丸めるのだから、当然ながらシワが寄ったり波打ったりする。
これは5月に見てきた鏑木清方の作品。彼は1972年(昭和47年)まで生きた画家だから、つまり作品はまだそれほど古くないから、巻いたことによるダメージはそれほど大きくない。それでもカタログの画像と較べると形が歪んでいるし、波打って無地の背景が陰影のように見える。
こちらは江戸時代前期の17世紀に描かれた菱川師宣(もろのぶ)の見返り美人図。
けっこうシワクチャ(>_<) ※展示写真はhttps://go-to-museums.com/beautylookingback-1834からの引用
もちろんダメージがひどくなってくれば修復作業がおこなわれる。それがどうのような作業かは知らないが、巻かなければ傷まないのにと思うのは私だけかな。驚いたことに国宝や重要文化財でも展示していないときは巻かれている(何度かそんなシーンをテレビで見た)。
家庭では収納場所に困るから巻物にするのは合理性があるとしても、美術館なら作品の保全を優先すべきだと思うのだが。
そんなことを考えながらネットで調べていると興味深いものを見つけた。写真は名古屋にある徳川美術館が所蔵している源氏物語絵巻。平安時代末期の作品で国宝に指定されている。教科書で見た記憶がある人も多いかと思う。
徳川美術館によると
3巻の絵巻だったものを
昭和7年(1932)に額装に改めた(つまり切り離した)
当時はそれが最善と判断したが、80年が経過して弊害が生じたため、
2016年から5年かけて絵巻に戻した
とのこと。その際に絵巻の軸の直径を大きくして巻くことによる負担を少なくしたらしいが、それでも巻いたり広げたりを繰り返せば傷むでしょ。額装で生じた弊害が具体的に何かは分からないが、遠い将来のことまでを考えるなら巻かずに保管して欲しい。もちろん掛け軸と違って絵巻は長いから大変だろうが(源氏物語絵巻は1巻が5〜7m)、国宝ならそれくらいはしましょう。もちろん11mちょっとある鳥獣戯画も是非。
美術館関係者の皆様ご一考を。
話は変わるが、シワが寄ったりしている掛け軸の作品。例として上げたものを見てもわかるように、それらもカタログ写真ではきれいに真っ平らである。シワの部分つまり元の絵に対して歪んでいる箇所の分量をコンピューターで計算して補正することは可能。しかしそんなことができるようになったのは20年ほど前からの話。パソコンがなかった時代からカタログの写真は真っ平らだった。
どうやって撮影しているのだろう。パッと思いつくのはガラス板を載せてシワを伸ばす方法。油絵と違って日本画に凹凸はないから可能だろうが、まさかね? とにかくナゾ
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2022年06月06日
没後50年 鏑木清方展 その4
前回までは出展された作品を展覧会の構成によらず
「庶民の生活をわりとリアルなタッチで描いた風俗画」
「同じく風俗画だが、もっと日本画的というか、
リアルさよりも絵としての完成度や美しさに重きを置いた作品」
「何気ない仕草や動作が描かれている美人画」
「小道具と一緒に描かれた美人画」
「美人画代表三部作」
と美人画代表三部作を除けば、何がどう描かれているかの区分で展覧会を振り返ってきた。ここからはいい絵だと思ったり、特に関心を引いたものを分類なしのノンジャンルで。
「若き人々」 明治45年(1912年)
屏風絵で上が右隻、下が左隻。
わかりやすいように左右を合体させると
船に乗ってどこかへ向かう姉を、妹が岸で追いかけようとしているのだろうか。姉は別れが辛いのか扇で顔を隠そうとしているように見える。船に乗っている少年(チョンマゲの前髪があるのは元服前。彼も兄弟だろうか?)が刀を差しているから、これは多くの鏑木清方の作品と違って舞台は明治時代じゃない。しかし姉も岸にいる母親らしき女性も日本髪を結っていないから江戸時代以前なのか。残念ながら服装で推測する知識はなし。展覧会で解説はついていなかったし、ネットでもこの作品の情報は見当たらなかった。
細かな内容は分からなくても、別れの情景が伝わって見入ってしまう作品である。
が、しか〜し
ナンジャこのタイトルの「若き人々」って?「初冬の花」や「墨田川両岸 梅若塚 今戸」でもタイトルについて書いたが、この作品ではタイトルがその役目を放棄しているぞ。
また岸にいる母親らしき女性の着物が変わっている。最初はつぎはぎを当てているのかと思ったものの、ところどこと複雑な曲線があるからつぎはぎではなさよう。まさかアバンギャルドなファッション?
「道成寺(山づくし)鷺娘」 大正9年(1920年)
道成寺(どうじょうじ)の名前と豪華な衣装が一緒にあれば、それはストーカー殺人事件の古典ともいえる、あの有名な安珍・清姫伝説を題材にした歌舞伎だと考えて間違いない。その代表作が「京鹿子娘道成寺(きょうがのこ・むすめ・どうじょうじ)という演目で、「山づくし」は全15段(段は章みたいなもの)のうち9段目のタイトル。上に配置した右隻の屏風がそれ。
タイトル話のついでに、歌舞伎では文字にしたときに目立つように、本来のタイトルに言葉を加えて文字数を長くするしきたりがある。合計で5文字や7文字が縁起がいいとされそうなっているものが多い。京鹿子娘道成寺は娘道成寺に京鹿子を付け足したもの。よく名前が知られているタイトルでは仮名手本忠臣蔵や義経千本桜も忠臣蔵や義経だけで内容的には事足りる。
京鹿子は花の名前であり布の染め方の一種である。娘道成寺に付け足されたものがどちらなのかザッと調べた程度では分からなかった。また京鹿子や仮名手本が本来のタイトルに対して何か意味を持っているのかも同様。
下に配置した左隻の屏風「鷺娘(さぎむすめ)」も、文字数は長くされていないがも歌舞伎の演目。白鷺の妖精が人間の姿になって恋をするものの、白鷺に戻ってしまって恋が遂げられなくなり、もがき苦しみ息絶えるようなストーリー。
逃げる相手を焼き殺してしまう娘道成寺とは内容は異なるとはいえ、どちらも恋に対する女性の執念を感じさせる点では共通している。それで鏑木清方はこの2つをセットで描こうと思ったのだろう。
文章が長くなったので上へスクロールして絵をもう一度眺めて欲しい。豪華なのにピュアで美しい作品である。娘道成寺のほうは目の周りの赤みに狂気のようなものが現れている。どちらもゾクッとするような色気。ところで2つの絵の顔が似ているが同じ歌舞伎役者をモデルにして描いたのだろうか。だとしたらチンチンぶら下げているんだゼ(^^ゞ
「春の夜のうらみ」 大正11年(1922年)
これも安珍・清姫伝説の清姫を描いた作品。顔は先ほどと同じに見える。「うらみ」は「恨み・怨み」だろうが憎しみのたぎる強い感情ではなく、心残りや悲しみといった意味で使っているように思う。だから平仮名にして漢字が持つイメージを和らげたのかも知れない。
この絵は清姫が安珍を焼き殺した後に、再び吊された道成寺の鐘を見上げている姿とされる。オマエが殺しておいてナニを物憂げにたたずんでいるネンと思わなくもないが、それが女性の本当の怖さですぞ男性諸君!
ところでこの作品は(画像ではよく分からないが)薄いベールが掛かっているというか、写真でならソフトフォーカスのような描き方で、ほのかに幻想的な仕上がりになっているのがとても素晴らしかった。そういう日本画(の人物画)はあまり見たことがない。もちろん鏑木清方らしく細部まで緻密に描かれており、近づいて眺めてヨシ離れてもヨシの名画である。美人度合いでなら「築地明石町」が上だけれども、もし貰えるのならこちらが欲しいな。まあ美人は三日で見飽きるみたいだし(^^ゞ
「滝野川観楓」 昭和5年(1930年) ※観楓=かんぷう=紅葉狩り
東京都北区にある滝野川はかつて渓谷が深く紅葉の名所だった。徳川吉宗が滝野川にカエデを、隣接する飛鳥山にはサクラを植えて江戸庶民の憩いの地を造ったとされる。飲めや歌えの花見はこの頃から始まったらしい。現在の滝野川は学校や寺の名前に紅葉の文字が残っている程度。
この絵はそこで紅葉を見ている母娘を描いている。しかし実におかしな絵なのである。行楽地を訪れている楽しさはみじんも感じられない。母娘は目を合わさない位置に座っていて顔もうつむき加減。まるでこんな会話が聞こえてきそうである。
母「あのね、お母さん、お父さんと離婚しようと思うの」
娘「うん、知ってた」
展覧会でこんな遊びをするのも楽しいよ。
「讃春」 昭和8年(1933年) ※讃春=さんしゅん
讃春という言葉は辞書にはない。おそらく春を褒めたたえる、春の喜びを表現した言葉だろう。それはともかく、これは「滝野川観楓」以上にに???と思った絵である。
まずは右隻(画像上)のセーラー服姿の女学生が目に飛び込んできた。それはセーラー服を絵で目にするのはあまりなく単に珍しかったから。そして場所は皇居外苑だと思った。実際そうなのだが、それがすぐに分かったのはここ東京国立博物館が皇居のそばにあって連想が働いたから。
そしてスカート長いなあとかストッキングは黒だなあとか、どうでもいいことを思い浮かべながら、それでも春らしい光景をけっこう気に入って眺めていた(実際の絵は画像よりも松の緑がもっと明るくてきれい)。
話は変わるが昔は女学生・女学校だったのに、いつから女子学生・女子校に変わったのだろう。終戦後しばらくしてからかな。そういえば昭和1桁生まれの母親は「私が女学生だった頃」なんて言い方をしていた。
さて???なのは左隻(画像下)である。川岸にボロそうな船が浮かんでいて、花が咲いたサクラの枝が描かれているから季節は春だと分かるものの讃春のイメージはしない。というか右隻とのつながりがまったく感じられない。
ナンジャコレ?が展覧会での感想。後で調べてみるとこの絵は、
昭和の大礼を記念して
三井財閥が発注して皇室に献上した屏風絵
左隻に描かれているのは船上生活を送る貧しい母子
だと分かった。
昭和の大礼とは昭和3年(1928年)に執り行われた昭和天皇の即位の礼や関連儀式を合わせた呼び方。三井財閥が発注したのは昭和3年で完成が昭和8年だから、描くのに相当な時間が掛かっている。5年も経ってからおめでとうと言われている感じだが、献上品とはそういうものなのだろうか。
左隻に描かれている橋は隅田川に架かる清州橋で、これは関東大震災(1923年)からの復興の象徴。そして貧しい船上生活者は復興から取り残された人々を表しているらしい。つまり対比。そして右隻は復興しつつある昭和の時代で青春を謳歌している女学生だから左右も対比になっている。
最初の回で紹介した「雛市」もそうだったように、鏑木清方は社会格差テーマにするのが好きなのだろうか。即位献上品のおめでたい作品でそれを描かなくてもいいとにも思うが。
ただ「雛市」は1枚の絵の中に豊かな母娘と貧しい女の子が描かれていて、まだわかりやすかったのに対して、「讃春」は対になった屏風絵とはいえ別々の絵なのでメッセージが伝わりにくい。最初は別個の絵が2点展示されているのかと思ったほど。
そして最大の問題は「雛市」もそうであったように、鏑木清方の絵がきれいすぎて、貧困のイメージが伝わってこないところ。美人画がメインの画家だからそういうのは苦手なのか、あるいは顧客ニーズを考えて淡く仕上げているのか。できたら彼に尋ねてみたい。
「菖蒲打」 昭和20年(1945年)
子供達が菖蒲(しょうぶ)を長く編んだものを地面に打ち付けている。その音の大きさなどを競うのが菖蒲打ちという端午の節句の遊び。他に女性の腰を打ってじゃれるなどのバージョンもあるようだ。初めて知った。今でもそんな風習が残っている地域があるのかな。
今年は菖蒲湯初体験をしたので、つい菖蒲に反応してしまう。
生き生きとした明治の風俗を目にできたし美人画はきれいだったし、期待していた以上に楽しめた展覧会だった。鏑木清方の作品をこれだけまとまってみたのは初めて。それなりに彼を理解できたと思う。初回に書いたようにここを訪れたのは
この展覧会を見たら、
もう、上村松園と区別がつかないなんて言わせません
と公式ホームページにあった殺し文句?に釣られたからである。
さて困った。
実は上村松園もいくつかの代表作を知っている程度。だから彼女のこともよく理解しないと両者の区別がつくかどうかが分からないのだ。美術は奥が深いわ(^^ゞ
最後に美人画3部作をもう一度。
おしまい
「庶民の生活をわりとリアルなタッチで描いた風俗画」
「同じく風俗画だが、もっと日本画的というか、
リアルさよりも絵としての完成度や美しさに重きを置いた作品」
「何気ない仕草や動作が描かれている美人画」
「小道具と一緒に描かれた美人画」
「美人画代表三部作」
と美人画代表三部作を除けば、何がどう描かれているかの区分で展覧会を振り返ってきた。ここからはいい絵だと思ったり、特に関心を引いたものを分類なしのノンジャンルで。
「若き人々」 明治45年(1912年)
屏風絵で上が右隻、下が左隻。
わかりやすいように左右を合体させると
船に乗ってどこかへ向かう姉を、妹が岸で追いかけようとしているのだろうか。姉は別れが辛いのか扇で顔を隠そうとしているように見える。船に乗っている少年(チョンマゲの前髪があるのは元服前。彼も兄弟だろうか?)が刀を差しているから、これは多くの鏑木清方の作品と違って舞台は明治時代じゃない。しかし姉も岸にいる母親らしき女性も日本髪を結っていないから江戸時代以前なのか。残念ながら服装で推測する知識はなし。展覧会で解説はついていなかったし、ネットでもこの作品の情報は見当たらなかった。
細かな内容は分からなくても、別れの情景が伝わって見入ってしまう作品である。
が、しか〜し
ナンジャこのタイトルの「若き人々」って?「初冬の花」や「墨田川両岸 梅若塚 今戸」でもタイトルについて書いたが、この作品ではタイトルがその役目を放棄しているぞ。
また岸にいる母親らしき女性の着物が変わっている。最初はつぎはぎを当てているのかと思ったものの、ところどこと複雑な曲線があるからつぎはぎではなさよう。まさかアバンギャルドなファッション?
「道成寺(山づくし)鷺娘」 大正9年(1920年)
道成寺(どうじょうじ)の名前と豪華な衣装が一緒にあれば、それはストーカー殺人事件の古典ともいえる、あの有名な安珍・清姫伝説を題材にした歌舞伎だと考えて間違いない。その代表作が「京鹿子娘道成寺(きょうがのこ・むすめ・どうじょうじ)という演目で、「山づくし」は全15段(段は章みたいなもの)のうち9段目のタイトル。上に配置した右隻の屏風がそれ。
タイトル話のついでに、歌舞伎では文字にしたときに目立つように、本来のタイトルに言葉を加えて文字数を長くするしきたりがある。合計で5文字や7文字が縁起がいいとされそうなっているものが多い。京鹿子娘道成寺は娘道成寺に京鹿子を付け足したもの。よく名前が知られているタイトルでは仮名手本忠臣蔵や義経千本桜も忠臣蔵や義経だけで内容的には事足りる。
京鹿子は花の名前であり布の染め方の一種である。娘道成寺に付け足されたものがどちらなのかザッと調べた程度では分からなかった。また京鹿子や仮名手本が本来のタイトルに対して何か意味を持っているのかも同様。
下に配置した左隻の屏風「鷺娘(さぎむすめ)」も、文字数は長くされていないがも歌舞伎の演目。白鷺の妖精が人間の姿になって恋をするものの、白鷺に戻ってしまって恋が遂げられなくなり、もがき苦しみ息絶えるようなストーリー。
逃げる相手を焼き殺してしまう娘道成寺とは内容は異なるとはいえ、どちらも恋に対する女性の執念を感じさせる点では共通している。それで鏑木清方はこの2つをセットで描こうと思ったのだろう。
文章が長くなったので上へスクロールして絵をもう一度眺めて欲しい。豪華なのにピュアで美しい作品である。娘道成寺のほうは目の周りの赤みに狂気のようなものが現れている。どちらもゾクッとするような色気。ところで2つの絵の顔が似ているが同じ歌舞伎役者をモデルにして描いたのだろうか。だとしたらチンチンぶら下げているんだゼ(^^ゞ
「春の夜のうらみ」 大正11年(1922年)
これも安珍・清姫伝説の清姫を描いた作品。顔は先ほどと同じに見える。「うらみ」は「恨み・怨み」だろうが憎しみのたぎる強い感情ではなく、心残りや悲しみといった意味で使っているように思う。だから平仮名にして漢字が持つイメージを和らげたのかも知れない。
この絵は清姫が安珍を焼き殺した後に、再び吊された道成寺の鐘を見上げている姿とされる。オマエが殺しておいてナニを物憂げにたたずんでいるネンと思わなくもないが、それが女性の本当の怖さですぞ男性諸君!
ところでこの作品は(画像ではよく分からないが)薄いベールが掛かっているというか、写真でならソフトフォーカスのような描き方で、ほのかに幻想的な仕上がりになっているのがとても素晴らしかった。そういう日本画(の人物画)はあまり見たことがない。もちろん鏑木清方らしく細部まで緻密に描かれており、近づいて眺めてヨシ離れてもヨシの名画である。美人度合いでなら「築地明石町」が上だけれども、もし貰えるのならこちらが欲しいな。まあ美人は三日で見飽きるみたいだし(^^ゞ
「滝野川観楓」 昭和5年(1930年) ※観楓=かんぷう=紅葉狩り
東京都北区にある滝野川はかつて渓谷が深く紅葉の名所だった。徳川吉宗が滝野川にカエデを、隣接する飛鳥山にはサクラを植えて江戸庶民の憩いの地を造ったとされる。飲めや歌えの花見はこの頃から始まったらしい。現在の滝野川は学校や寺の名前に紅葉の文字が残っている程度。
この絵はそこで紅葉を見ている母娘を描いている。しかし実におかしな絵なのである。行楽地を訪れている楽しさはみじんも感じられない。母娘は目を合わさない位置に座っていて顔もうつむき加減。まるでこんな会話が聞こえてきそうである。
母「あのね、お母さん、お父さんと離婚しようと思うの」
娘「うん、知ってた」
展覧会でこんな遊びをするのも楽しいよ。
「讃春」 昭和8年(1933年) ※讃春=さんしゅん
讃春という言葉は辞書にはない。おそらく春を褒めたたえる、春の喜びを表現した言葉だろう。それはともかく、これは「滝野川観楓」以上にに???と思った絵である。
まずは右隻(画像上)のセーラー服姿の女学生が目に飛び込んできた。それはセーラー服を絵で目にするのはあまりなく単に珍しかったから。そして場所は皇居外苑だと思った。実際そうなのだが、それがすぐに分かったのはここ東京国立博物館が皇居のそばにあって連想が働いたから。
そしてスカート長いなあとかストッキングは黒だなあとか、どうでもいいことを思い浮かべながら、それでも春らしい光景をけっこう気に入って眺めていた(実際の絵は画像よりも松の緑がもっと明るくてきれい)。
話は変わるが昔は女学生・女学校だったのに、いつから女子学生・女子校に変わったのだろう。終戦後しばらくしてからかな。そういえば昭和1桁生まれの母親は「私が女学生だった頃」なんて言い方をしていた。
さて???なのは左隻(画像下)である。川岸にボロそうな船が浮かんでいて、花が咲いたサクラの枝が描かれているから季節は春だと分かるものの讃春のイメージはしない。というか右隻とのつながりがまったく感じられない。
ナンジャコレ?が展覧会での感想。後で調べてみるとこの絵は、
昭和の大礼を記念して
三井財閥が発注して皇室に献上した屏風絵
左隻に描かれているのは船上生活を送る貧しい母子
だと分かった。
昭和の大礼とは昭和3年(1928年)に執り行われた昭和天皇の即位の礼や関連儀式を合わせた呼び方。三井財閥が発注したのは昭和3年で完成が昭和8年だから、描くのに相当な時間が掛かっている。5年も経ってからおめでとうと言われている感じだが、献上品とはそういうものなのだろうか。
左隻に描かれている橋は隅田川に架かる清州橋で、これは関東大震災(1923年)からの復興の象徴。そして貧しい船上生活者は復興から取り残された人々を表しているらしい。つまり対比。そして右隻は復興しつつある昭和の時代で青春を謳歌している女学生だから左右も対比になっている。
最初の回で紹介した「雛市」もそうだったように、鏑木清方は社会格差テーマにするのが好きなのだろうか。即位献上品のおめでたい作品でそれを描かなくてもいいとにも思うが。
ただ「雛市」は1枚の絵の中に豊かな母娘と貧しい女の子が描かれていて、まだわかりやすかったのに対して、「讃春」は対になった屏風絵とはいえ別々の絵なのでメッセージが伝わりにくい。最初は別個の絵が2点展示されているのかと思ったほど。
そして最大の問題は「雛市」もそうであったように、鏑木清方の絵がきれいすぎて、貧困のイメージが伝わってこないところ。美人画がメインの画家だからそういうのは苦手なのか、あるいは顧客ニーズを考えて淡く仕上げているのか。できたら彼に尋ねてみたい。
「菖蒲打」 昭和20年(1945年)
子供達が菖蒲(しょうぶ)を長く編んだものを地面に打ち付けている。その音の大きさなどを競うのが菖蒲打ちという端午の節句の遊び。他に女性の腰を打ってじゃれるなどのバージョンもあるようだ。初めて知った。今でもそんな風習が残っている地域があるのかな。
今年は菖蒲湯初体験をしたので、つい菖蒲に反応してしまう。
生き生きとした明治の風俗を目にできたし美人画はきれいだったし、期待していた以上に楽しめた展覧会だった。鏑木清方の作品をこれだけまとまってみたのは初めて。それなりに彼を理解できたと思う。初回に書いたようにここを訪れたのは
この展覧会を見たら、
もう、上村松園と区別がつかないなんて言わせません
と公式ホームページにあった殺し文句?に釣られたからである。
さて困った。
実は上村松園もいくつかの代表作を知っている程度。だから彼女のこともよく理解しないと両者の区別がつくかどうかが分からないのだ。美術は奥が深いわ(^^ゞ
最後に美人画3部作をもう一度。
おしまい
wassho at 22:07|Permalink│Comments(0)│
2022年06月03日
没後50年 鏑木清方展 その3
前回の後半は美人画の中でも「何気ない仕草や動作」が描かれているものを取り上げた。続いてはポーズをとっているだけではなく「小道具と一緒」に描かれた作品。
「墨田川両岸 梅若塚 今戸」 大正5年(1916年)
平安中期に若梅丸という子供がさらわれて、母親が探しに来たときには既に隅田川のほとりで病死していた。それを伝承したのが若梅伝説で、彼を弔っているのが若梅塚。左側の絵はそれをテーマにしているらしいのだが、悲劇性はまったく感じられない。雨で濡れた着物の裾を気にしてるシーンのように思える。
背景で煙が上がっているのは今戸焼き(陶磁器)の釜とされる。それが始まったのは江戸時代の少し前からだから、描かれている女性は若梅丸の母親でもない。だいたい平安時代の衣装を着ていない。
もうひとつの今戸は若梅塚の対岸にある地名(500mほど下流)。こちらは若い女性が丸いカゴに花びらのようなものをを運んでいる。何をしてるの?
なんとなく悲しみと喜びの対比に墨田川両岸を掛けているような気もするものの、よく分からない内容。違うタイプの絵をセットで描こうと思って、両岸というキーワードを思いつき、隅田川で当てはまる言葉を適当に使っただけかも知れない。
「微酔」 大正8年(1919年)
左側に朱塗りの杯が描かれているのに、タイトルを読むまでは、美人な女性に気を取られて目に入っていなかった(^^ゞ 寒いので布団を掛けているのだろうか。そうすると女性が重ね着している一番上はドテラ? ちょっと美人のイメージが狂うなあ。
「明治時世粧」 昭和15年(1940年)
時世粧(じせいそう)とは流行の装い、トレンディーなスタイルの意味。初回の投稿で鏑木清方は着物にも凝っているので、彼の美人画をより楽しむには着物の知識も必要と書いた。そんな知識はほとんどないとしても、ここに描かれている着物からはファッショナブル感が伝わってくる。ついでに書けば紹介したこれら5点の作品は、顔だけじゃなく衣装もよく見るべき作品のように思う。
さて鏑木清方の美人画代表3部作。
まずは「築地明石町」 昭和2年(1927年)
美人画なんて女性はこうあって欲しいと願う、あるいは勘違いしている男性の妄想の産物と思っているけれど、それでも見とれてしまうね。作品サイズは縦約175センチで人物はほぼ等身大の迫力もある。美術的な話とは関係ないだろうが、何より素晴らしいのは日本髪姿じゃないこと。これでグッと近代的な印象になっているし、浮世絵などの美人画とは違う現実感が生まれている。
鏑木清方の作品のほとんどは舞台が明治30年代前半とされ、(今回の展覧会では)女性の多くはいわゆる日本髪を結っている。明治時代の中頃に日本髪女性の割合がどれくらいだったかよく分からないものの、どうしても日本髪を見ると江戸時代をまず連想してしまう。
ちなみにこの絵の女性はイギリス巻き(あるいはイギリス結び)と呼ばれた髪型。いわば和洋折衷的なヘアスタイル。他にもいくつかのバリエーションがあり、それらを日本髪に対して束髪(そくはつ)と総称していたみたい。
タイトルは築地明石町である。しかしそんな町名はなく築地と明石町は隣接した別の町。それはともかく、おそらくこのタイトルはイギリス巻きとも関係している。
明治2年に政府は築地に外国人居留地を設ける。開国をしても外国人は一定のエリアに閉じ込めておきたいと考えた政策。他には横浜、神戸、大阪の川口、長崎などにもあった。築地居留地は現在の明石町に当たるので話がややこしいが、とにかくこの築地・明石町界隈は西洋文化の影響が強いエリアだったのだろう。いわゆる異国情緒が漂う“ハイカラ”な町柄。だから女性の髪型を日本髪じゃなくてイギリス巻きにする必然性があったような気もする。
なお居留地政策は明治32年(1899年)に廃止される。その後も築地居留地跡には洋館が建ち並んでいた。しかし関東大震災(1923年)ですべて失われたのが残念。立教や青山などの大学、現在も明石町にある聖路加国際病院などは築地居留地に建てられた教会の付属施設を起源に持つ。
さてこの絵にはモデルがいて、その写真が残っている。
彼女の名前は江木ませ子。鏑木清方の奥さんの友人で、清方に絵も習っていたとのこと。まるで絵から抜け出してきたような美人。彼女をモデルに絵を描いたから当たり前か(^^ゞ それもそのはず彼女は大正三美人と称された江木欣々(きんきん)の腹違いの妹。大正三美人なんて初めて知ったが、残念ながら江木欣々は顔のはっきり分からない写真しか見つからなかった。
話を絵に戻すと女性は黒い羽織を着ていて、2ヶ所にチラッと裏地の赤い色が見える。そこに着物好きは粋を感じるらしい。注目は右下の朝顔。下のほうが黄色く枯れている。だから季節は夏の終わり。花が咲いているから時間帯は朝。だから少し寒そうなポーズをしているのだろうか。深読みしすぎかな。
左上には船とそのマストが描かれている。築地・明石町は海沿いなのでその情景を入れたのだろう。しかしデッサンのようで雑だし絵の他の要素とマッチしていない印象。そこが少し気に入らない。前回に書いたように鏑木清方の風景描写はーーー。
「新富町」 昭和5年(1930年)
「浜町河岸」 昭和5年(1930年)
「新富町」に描かれているのは40代の芸者、「浜町河岸」は日本舞踊の稽古帰りの10代の町娘。新富町には花街があり浜町には有名な踊りの家元がいたので、分かる人にはタイトルを見ただけで彼女たちのプロフィールが推察できただろう。それは「築地明石町」にも当てはまる。「墨田川両岸 梅若塚 今戸」と違ってこの3つはタイトルがわかりやすい。ついでに「築地明石町」は30代で年齢に幅を持たせたのが面白い。
「築地明石町」が振り返った後の静止ポーズなのに対して、こちらはどちらも動きを感じさせる作品になっている。特に「浜町河岸」はお稽古のおさらいをしながら歩いているようにも見えて可愛い。また「新富町」の背景に描かれているのは新富座という劇場。劇場の周りには芝居茶屋と呼ばれる料亭があってそこが新富芸者のお座敷。「浜町河岸」の背景が何なのかよく分からないが絵とは上手く溶け合っている。「築地明石町」から進歩したじゃないか鏑木清方(^^ゞ
さてネットで「築地明石町」を調べると
1975年から行方不明
2019年に44ぶりに発見
と書いてあるものが多い。ネットの情報なんてコピペのループだから、たいていは同じ内容が載っている。しかし行方不明ってナンジャ? 鏑木清方は巨匠中の巨匠だし「築地明石町」は権威ある帝国美術院賞を取った代表作。切手にもなったほどの有名な作品。それが行方不明とは?
もう少し調べると
最後に展示されたのは1975年のサントリー美術館
その直後から行方不明の状態に
長きにわたり行方不明が続いたので、幻の名画扱いされる
2016年頃、所有者が手放す意向との情報が画商を通じて
東京国立近代美術館にもたらされる
その所有者は「新富町」「浜町河岸」も持っていた
2019年に東京国立近代美術館が購入
価格は3点合計で5億4000万円
などが分かった。
つまりサントリー美術館に出品されたときの所有者は分かっていたはずで、その所有者が売却を公表しなかった。その後に手元にないと知られても売却先について口をつぐみ、購入者も同様に公表しなかったということ。だから行方不明といっても紛失状態にあったわけではない。美術界で幻の名画扱いされて、売買の事情を把握しているはずの国税庁は苦笑いしていたりして(^^ゞ
ところで幻の名画扱いされてしまって手放した所有者はどう思っていたのか、なぜ事情を明らかにしなかったのか、その後に何度も転売されたのか、最終所有者は「新富町」と「浜町河岸」をどう手に入れた等々、興味本位で知りたい話はたくさんあるけれど、まあ明らかにされることはないだろうな。
それにしても5億4000万円とは安っ!と思った。ZOZOの前澤友作が購入したバスキアが123億円だったとかの話に慣れてしまってそう感じるのかも知れない。「築地明石町」が4億円で、他の2点が7000万円ずつあたりか。国立近代美術館は内訳くらい発表してくれてもいいのに。
ーーー続く
「墨田川両岸 梅若塚 今戸」 大正5年(1916年)
平安中期に若梅丸という子供がさらわれて、母親が探しに来たときには既に隅田川のほとりで病死していた。それを伝承したのが若梅伝説で、彼を弔っているのが若梅塚。左側の絵はそれをテーマにしているらしいのだが、悲劇性はまったく感じられない。雨で濡れた着物の裾を気にしてるシーンのように思える。
背景で煙が上がっているのは今戸焼き(陶磁器)の釜とされる。それが始まったのは江戸時代の少し前からだから、描かれている女性は若梅丸の母親でもない。だいたい平安時代の衣装を着ていない。
もうひとつの今戸は若梅塚の対岸にある地名(500mほど下流)。こちらは若い女性が丸いカゴに花びらのようなものをを運んでいる。何をしてるの?
なんとなく悲しみと喜びの対比に墨田川両岸を掛けているような気もするものの、よく分からない内容。違うタイプの絵をセットで描こうと思って、両岸というキーワードを思いつき、隅田川で当てはまる言葉を適当に使っただけかも知れない。
「微酔」 大正8年(1919年)
左側に朱塗りの杯が描かれているのに、タイトルを読むまでは、美人な女性に気を取られて目に入っていなかった(^^ゞ 寒いので布団を掛けているのだろうか。そうすると女性が重ね着している一番上はドテラ? ちょっと美人のイメージが狂うなあ。
「明治時世粧」 昭和15年(1940年)
時世粧(じせいそう)とは流行の装い、トレンディーなスタイルの意味。初回の投稿で鏑木清方は着物にも凝っているので、彼の美人画をより楽しむには着物の知識も必要と書いた。そんな知識はほとんどないとしても、ここに描かれている着物からはファッショナブル感が伝わってくる。ついでに書けば紹介したこれら5点の作品は、顔だけじゃなく衣装もよく見るべき作品のように思う。
さて鏑木清方の美人画代表3部作。
まずは「築地明石町」 昭和2年(1927年)
美人画なんて女性はこうあって欲しいと願う、あるいは勘違いしている男性の妄想の産物と思っているけれど、それでも見とれてしまうね。作品サイズは縦約175センチで人物はほぼ等身大の迫力もある。美術的な話とは関係ないだろうが、何より素晴らしいのは日本髪姿じゃないこと。これでグッと近代的な印象になっているし、浮世絵などの美人画とは違う現実感が生まれている。
鏑木清方の作品のほとんどは舞台が明治30年代前半とされ、(今回の展覧会では)女性の多くはいわゆる日本髪を結っている。明治時代の中頃に日本髪女性の割合がどれくらいだったかよく分からないものの、どうしても日本髪を見ると江戸時代をまず連想してしまう。
ちなみにこの絵の女性はイギリス巻き(あるいはイギリス結び)と呼ばれた髪型。いわば和洋折衷的なヘアスタイル。他にもいくつかのバリエーションがあり、それらを日本髪に対して束髪(そくはつ)と総称していたみたい。
タイトルは築地明石町である。しかしそんな町名はなく築地と明石町は隣接した別の町。それはともかく、おそらくこのタイトルはイギリス巻きとも関係している。
明治2年に政府は築地に外国人居留地を設ける。開国をしても外国人は一定のエリアに閉じ込めておきたいと考えた政策。他には横浜、神戸、大阪の川口、長崎などにもあった。築地居留地は現在の明石町に当たるので話がややこしいが、とにかくこの築地・明石町界隈は西洋文化の影響が強いエリアだったのだろう。いわゆる異国情緒が漂う“ハイカラ”な町柄。だから女性の髪型を日本髪じゃなくてイギリス巻きにする必然性があったような気もする。
なお居留地政策は明治32年(1899年)に廃止される。その後も築地居留地跡には洋館が建ち並んでいた。しかし関東大震災(1923年)ですべて失われたのが残念。立教や青山などの大学、現在も明石町にある聖路加国際病院などは築地居留地に建てられた教会の付属施設を起源に持つ。
さてこの絵にはモデルがいて、その写真が残っている。
彼女の名前は江木ませ子。鏑木清方の奥さんの友人で、清方に絵も習っていたとのこと。まるで絵から抜け出してきたような美人。彼女をモデルに絵を描いたから当たり前か(^^ゞ それもそのはず彼女は大正三美人と称された江木欣々(きんきん)の腹違いの妹。大正三美人なんて初めて知ったが、残念ながら江木欣々は顔のはっきり分からない写真しか見つからなかった。
話を絵に戻すと女性は黒い羽織を着ていて、2ヶ所にチラッと裏地の赤い色が見える。そこに着物好きは粋を感じるらしい。注目は右下の朝顔。下のほうが黄色く枯れている。だから季節は夏の終わり。花が咲いているから時間帯は朝。だから少し寒そうなポーズをしているのだろうか。深読みしすぎかな。
左上には船とそのマストが描かれている。築地・明石町は海沿いなのでその情景を入れたのだろう。しかしデッサンのようで雑だし絵の他の要素とマッチしていない印象。そこが少し気に入らない。前回に書いたように鏑木清方の風景描写はーーー。
「新富町」 昭和5年(1930年)
「浜町河岸」 昭和5年(1930年)
「新富町」に描かれているのは40代の芸者、「浜町河岸」は日本舞踊の稽古帰りの10代の町娘。新富町には花街があり浜町には有名な踊りの家元がいたので、分かる人にはタイトルを見ただけで彼女たちのプロフィールが推察できただろう。それは「築地明石町」にも当てはまる。「墨田川両岸 梅若塚 今戸」と違ってこの3つはタイトルがわかりやすい。ついでに「築地明石町」は30代で年齢に幅を持たせたのが面白い。
「築地明石町」が振り返った後の静止ポーズなのに対して、こちらはどちらも動きを感じさせる作品になっている。特に「浜町河岸」はお稽古のおさらいをしながら歩いているようにも見えて可愛い。また「新富町」の背景に描かれているのは新富座という劇場。劇場の周りには芝居茶屋と呼ばれる料亭があってそこが新富芸者のお座敷。「浜町河岸」の背景が何なのかよく分からないが絵とは上手く溶け合っている。「築地明石町」から進歩したじゃないか鏑木清方(^^ゞ
さてネットで「築地明石町」を調べると
1975年から行方不明
2019年に44ぶりに発見
と書いてあるものが多い。ネットの情報なんてコピペのループだから、たいていは同じ内容が載っている。しかし行方不明ってナンジャ? 鏑木清方は巨匠中の巨匠だし「築地明石町」は権威ある帝国美術院賞を取った代表作。切手にもなったほどの有名な作品。それが行方不明とは?
もう少し調べると
最後に展示されたのは1975年のサントリー美術館
その直後から行方不明の状態に
長きにわたり行方不明が続いたので、幻の名画扱いされる
2016年頃、所有者が手放す意向との情報が画商を通じて
東京国立近代美術館にもたらされる
その所有者は「新富町」「浜町河岸」も持っていた
2019年に東京国立近代美術館が購入
価格は3点合計で5億4000万円
などが分かった。
つまりサントリー美術館に出品されたときの所有者は分かっていたはずで、その所有者が売却を公表しなかった。その後に手元にないと知られても売却先について口をつぐみ、購入者も同様に公表しなかったということ。だから行方不明といっても紛失状態にあったわけではない。美術界で幻の名画扱いされて、売買の事情を把握しているはずの国税庁は苦笑いしていたりして(^^ゞ
ところで幻の名画扱いされてしまって手放した所有者はどう思っていたのか、なぜ事情を明らかにしなかったのか、その後に何度も転売されたのか、最終所有者は「新富町」と「浜町河岸」をどう手に入れた等々、興味本位で知りたい話はたくさんあるけれど、まあ明らかにされることはないだろうな。
それにしても5億4000万円とは安っ!と思った。ZOZOの前澤友作が購入したバスキアが123億円だったとかの話に慣れてしまってそう感じるのかも知れない。「築地明石町」が4億円で、他の2点が7000万円ずつあたりか。国立近代美術館は内訳くらい発表してくれてもいいのに。
ーーー続く
wassho at 22:16|Permalink│Comments(0)│
2022年06月02日
没後50年 鏑木清方展 その2
前回に紹介した「庶民の生活をわりとリアルなタッチで描いた風俗画」に対して、次は同じ風俗画であっても、もっと日本画的というか、リアルさよりも絵としての完成度や美しさに重きを置いた作品。
「露の干ぬ間」 大正5年(1916年) ※干ぬ=ひぬ=乾かぬ
「晩涼」 大正9年(1920年)
「泉」 大正11年(1922年)
「鎧河岸」 大正12年(1923年) ※鎧=よろい 関東大震災まで日本橋にあった河岸
「木場の春雨」 大正15年(1926年)
「木母寺夜雨」 昭和11年(1936年) ※木母寺=もくぼじ 墨田区にある寺の名前
前回のリアル版風俗画が、まるで明治時代にタイムスリップしたような感覚を味わえたのと較べると、こちらはやや「古典的」なものを鑑賞した気分かな。場面が町中でもないから明治時代を感じることもできない。リアル版風俗画のほうが断然おもしろかったのだが、それは絵としてというより、今まであまり目にする機会のなかった明治庶民の生活風景に興味をかきたてられたからだと思う。
ところで「晩涼」や「泉」では背景に山や木々が描かれている。しかしどうも鏑木清方はそれらを描くのがあまり得意でないように感じる。
こちらはあまり多くない彼の風景画。
「金沢三題・大磯の風景 大磯千畳敷」 大正8年(1919年)
もちろん絵としてのジャンルが異なれば描き方も異なるのだしても、リアル版風俗画で見せたあの描写力はどこにいったと思ってしまう。私に上手・下手は分からないが実に平凡。まあすべてにおいてパーフェクトな画家なんて存在しないもの。
さてもっと明治時代の風俗画を見たいとの気持ちが時空を遡って届いていたのか、鏑木清方はタイトルもそのものズバリの「明治風俗十二ヶ月」で1ヶ月ごと12連作の作品を残している。制作は昭和10年(1935年)。
それぞれのタイトルは
かるた (一月)
梅やしき (二月)
稽古 (三月)
花見 (四月)
菖蒲湯 (五月)
金魚屋 (六月)
盆燈籠 (七月)
氷店 (八月) ※読みは「こおりや」または「こおりだな」だと思う
二百十日 (九月) ※立春から210日目の9月1日頃で台風の多い日とされた
長夜 (十月)
平土間 (十一月)
夜の雪 (十二月)
1月〜4月 ※1月が一番左、以下同様
5月〜8月
9月〜12月
ブログの画像だと小さいが、目の前に12ヶ月分の絵が並んでいた様子はなかなかの迫力。この写真はhttps://bunshun.jp/articles/-/15178?page=2から引用。
時代設定は明治30年から33年あたりで、そこそこ裕福な商家の生活がモデルとのこと。縦長サイズだからかリアル版風俗画のように細かく描き込まれてはいないものの、季節を感じながら明治の生活を眺められたのは楽しかった。
2つだけコメントしておくと、まず5月の菖蒲湯。描かれている女性は菖蒲湯から出てきたところだろうか。しかし銭湯の脱衣場にしてはやたら広いし豪華でナゾ。菖蒲は風呂桶のようなものの横に小さく3片ほど描かれているのがそれらしく、ほとんど目に入らない。だったらタイトルは「風呂上がり」でもいいんじゃない(^^ゞ
ところで現在の菖蒲湯には菖蒲を丸ごと使うが、この時代は小さく刻んでいたのだろうか?
そして8月の氷店。この時代の夏に氷があるとは思っていなかった。もちろん平安時代から氷室(ひむろ)に貯蔵した氷を食べたりする習慣はあったとしても、それが可能だったのはごく一部の特権階級だけ。調べてみると明治20年頃から製氷機で作った氷が一般にも出回り始めたらしい。アンモニアの気化熱を利用して製氷していたようで、詳しい仕組みまでは調べていない。
描かれているのは夏になると墨田川沿いに出る屋台で、女性はかき氷を作っている店員。この絵の舞台となった頃には、まだ夏の新しい風物詩だったのかも知れない。
次に紹介するのはもう美人画と呼んでもいいのだろうが、
何気ない仕草や動作が描かれている作品。
「西鶴 五人女のおまん」 明治44年(1911年)
これを仕草や動作といえるかは微妙だがーーー
井原西鶴の好色五人女をテーマにしているから描かれているのは江戸時代。女性なのに刀を差しているのが奇妙。これはゲイの男性に恋をしたおまんという娘が、男装してその男性のもとを訪ねるシーンを描いている。よく見れば帯は男性用を締めているものの、髪の毛は女性のままなので中途半端な印象はぬぐえない。しかし他の画家もこの題材では同じような姿で描いているので、これが日本画としてのお約束スタイルなのだろう。
「秋の夜」 大正4年頃(1915年)
「雪つむ宵」 大正9年(1920年)
どちらの女性も窓に顔を向けていて「秋の夜」は手紙を読んでいるようだし、「雪つむ宵」も冊子のようなものが手元に置かれている。なんとなくフェルメールを思い出す構図。日本画は陰影をつけないものだが、もし光りを描いていたら鏑木清方は日本のフェルメールと呼ばれていたりして。
「初冬の花」 昭和10年(1935年)
着物は少し暖かそうな生地のようにも思える。しかし背景に何も描かれていないから「初冬」かどうかわからないし、だいいち「花」はどこに? よく見れば帯は花柄だけれども、まさかそれ? 落ち着いたいい雰囲気を醸し出しているのに、タイトルに釈然としないものを感じてしまった作品。
「口紅」 昭和14年(1939年)
当時の口紅は器に入れたものを手ぬぐいのようなもので塗っていたのか。あるいはこれは塗りすぎたものを拭き取っているのか。どうにも知識がないのでよく分からない。それはともかく美しい絵であるのは確か。ただし女性が化粧をしているときに、こんなしおらしい表情をしている思うのはオッサンの妄想(^^ゞ もっとも美人画というもの自体が妄想の産物の最たるもの。
ーーー続く
「露の干ぬ間」 大正5年(1916年) ※干ぬ=ひぬ=乾かぬ
「晩涼」 大正9年(1920年)
「泉」 大正11年(1922年)
「鎧河岸」 大正12年(1923年) ※鎧=よろい 関東大震災まで日本橋にあった河岸
「木場の春雨」 大正15年(1926年)
「木母寺夜雨」 昭和11年(1936年) ※木母寺=もくぼじ 墨田区にある寺の名前
前回のリアル版風俗画が、まるで明治時代にタイムスリップしたような感覚を味わえたのと較べると、こちらはやや「古典的」なものを鑑賞した気分かな。場面が町中でもないから明治時代を感じることもできない。リアル版風俗画のほうが断然おもしろかったのだが、それは絵としてというより、今まであまり目にする機会のなかった明治庶民の生活風景に興味をかきたてられたからだと思う。
ところで「晩涼」や「泉」では背景に山や木々が描かれている。しかしどうも鏑木清方はそれらを描くのがあまり得意でないように感じる。
こちらはあまり多くない彼の風景画。
「金沢三題・大磯の風景 大磯千畳敷」 大正8年(1919年)
もちろん絵としてのジャンルが異なれば描き方も異なるのだしても、リアル版風俗画で見せたあの描写力はどこにいったと思ってしまう。私に上手・下手は分からないが実に平凡。まあすべてにおいてパーフェクトな画家なんて存在しないもの。
さてもっと明治時代の風俗画を見たいとの気持ちが時空を遡って届いていたのか、鏑木清方はタイトルもそのものズバリの「明治風俗十二ヶ月」で1ヶ月ごと12連作の作品を残している。制作は昭和10年(1935年)。
それぞれのタイトルは
かるた (一月)
梅やしき (二月)
稽古 (三月)
花見 (四月)
菖蒲湯 (五月)
金魚屋 (六月)
盆燈籠 (七月)
氷店 (八月) ※読みは「こおりや」または「こおりだな」だと思う
二百十日 (九月) ※立春から210日目の9月1日頃で台風の多い日とされた
長夜 (十月)
平土間 (十一月)
夜の雪 (十二月)
1月〜4月 ※1月が一番左、以下同様
5月〜8月
9月〜12月
ブログの画像だと小さいが、目の前に12ヶ月分の絵が並んでいた様子はなかなかの迫力。この写真はhttps://bunshun.jp/articles/-/15178?page=2から引用。
時代設定は明治30年から33年あたりで、そこそこ裕福な商家の生活がモデルとのこと。縦長サイズだからかリアル版風俗画のように細かく描き込まれてはいないものの、季節を感じながら明治の生活を眺められたのは楽しかった。
2つだけコメントしておくと、まず5月の菖蒲湯。描かれている女性は菖蒲湯から出てきたところだろうか。しかし銭湯の脱衣場にしてはやたら広いし豪華でナゾ。菖蒲は風呂桶のようなものの横に小さく3片ほど描かれているのがそれらしく、ほとんど目に入らない。だったらタイトルは「風呂上がり」でもいいんじゃない(^^ゞ
ところで現在の菖蒲湯には菖蒲を丸ごと使うが、この時代は小さく刻んでいたのだろうか?
そして8月の氷店。この時代の夏に氷があるとは思っていなかった。もちろん平安時代から氷室(ひむろ)に貯蔵した氷を食べたりする習慣はあったとしても、それが可能だったのはごく一部の特権階級だけ。調べてみると明治20年頃から製氷機で作った氷が一般にも出回り始めたらしい。アンモニアの気化熱を利用して製氷していたようで、詳しい仕組みまでは調べていない。
描かれているのは夏になると墨田川沿いに出る屋台で、女性はかき氷を作っている店員。この絵の舞台となった頃には、まだ夏の新しい風物詩だったのかも知れない。
次に紹介するのはもう美人画と呼んでもいいのだろうが、
何気ない仕草や動作が描かれている作品。
「西鶴 五人女のおまん」 明治44年(1911年)
これを仕草や動作といえるかは微妙だがーーー
井原西鶴の好色五人女をテーマにしているから描かれているのは江戸時代。女性なのに刀を差しているのが奇妙。これはゲイの男性に恋をしたおまんという娘が、男装してその男性のもとを訪ねるシーンを描いている。よく見れば帯は男性用を締めているものの、髪の毛は女性のままなので中途半端な印象はぬぐえない。しかし他の画家もこの題材では同じような姿で描いているので、これが日本画としてのお約束スタイルなのだろう。
「秋の夜」 大正4年頃(1915年)
「雪つむ宵」 大正9年(1920年)
どちらの女性も窓に顔を向けていて「秋の夜」は手紙を読んでいるようだし、「雪つむ宵」も冊子のようなものが手元に置かれている。なんとなくフェルメールを思い出す構図。日本画は陰影をつけないものだが、もし光りを描いていたら鏑木清方は日本のフェルメールと呼ばれていたりして。
「初冬の花」 昭和10年(1935年)
着物は少し暖かそうな生地のようにも思える。しかし背景に何も描かれていないから「初冬」かどうかわからないし、だいいち「花」はどこに? よく見れば帯は花柄だけれども、まさかそれ? 落ち着いたいい雰囲気を醸し出しているのに、タイトルに釈然としないものを感じてしまった作品。
「口紅」 昭和14年(1939年)
当時の口紅は器に入れたものを手ぬぐいのようなもので塗っていたのか。あるいはこれは塗りすぎたものを拭き取っているのか。どうにも知識がないのでよく分からない。それはともかく美しい絵であるのは確か。ただし女性が化粧をしているときに、こんなしおらしい表情をしている思うのはオッサンの妄想(^^ゞ もっとも美人画というもの自体が妄想の産物の最たるもの。
ーーー続く
wassho at 22:19|Permalink│Comments(0)│
2022年05月31日
没後50年 鏑木清方展
鏑木清方(かぶらき きよかた)は1878年(明治11年)東京は神田の生まれで 1972年(昭和47年)に93歳で没した日本画家。美人画においては京都で活躍した上村松園(うえむら しょうえん)と共に「西の松園、東の清方」と並び称された。あるいは彼の弟子でもある伊東深水(しんすい)を含めて近現代美人画の三巨匠とも呼ばれることも。とにかく巨匠中の巨匠である。
これはおそらく70歳代中頃の写真。
こちらは50歳くらいか。もっと若い頃の写真は見当たらなかった。
30歳ならまだ明治時代だから写真はそれほど普及していなかったのかも。
実は当初、この展覧会に行くつもりはなかった。理由は美人画にはあまり興味がないから。浮世絵の美人画は極端にデフォルメ・様式化されてどれも同じ顔に見えるし、明治以降の日本画でも写実性はまったくないから、絵としての美しさは感じても「美人」というリアリティが湧いてこない。美人は大好きなんだけれどね(^^ゞ
しかし5月1日に放送のNHK「日曜美術館」で紹介され少し興味が湧く。おそらく巨匠中の巨匠の画力に惹きつけられたのだろう。そこでもう少し展覧会の内容を知ろうと公式ホームページにアクセスした。そこにあった展覧会概略の最後に書かれていたのが次の一文。
この展覧会を見たら、
もう、上村松園と区別がつかないなんて言わせません
ウ〜ン、痛いところを突かれた(^^ゞ
冒頭に書いたような認識はあったものの特に関心のある分野でもないので、まさに上村松園と鏑木清方の区別がまったくついていなかったから。それにしてもインパクトのある訴えだったな。展覧会の宣伝コピーに乗せられたのは初めての経験。
というわけで急遽、会期終了近くの5月3日に訪れた東京国立近代美術館。
右側に見えている木々は皇居東御苑のもの。
この日は五月晴れの快晴で、この後に皇居東御苑〜皇居外苑〜国会前庭と散歩した。
展覧会は作品の入れ替えを含めて109点が揃えられた大規模な回顧展。回顧展とはその画家の生涯をトレースする内容で、普通は作品が描かれた年代順に並べられる。ところがこの展覧会では
第1章 生活をえがく
特集1 東京
第2章 物語をえがく
特集2 歌舞伎
第3章 小さくえがく
ーーーと、3章仕立ての間に、特集を2つ挟んだ意欲的な構成。さらに変わっているのは東京の後に京都国立近代美術館で開催される展覧会では、通常の年代順の展示になること。いわゆる巡回展で構成がまったく違うのは珍しいのでは? しかし、なぜそんな演出を採用したのだろう。東京と京都の国立近代美術館は仲が悪いのかな(^^ゞ
さてテーマ別の絵でまとめられた構成の東京展であるが、実際はけっこうアバウトな選択で、どうしてこの作品がこの括りに入る?と疑問に思うものも多い。そこでこのブログでは作品の特徴別にテーマを設定し直すことにする。
最初は題するならば「庶民の生活をわりとリアルなタッチで描いた風俗画」とでもいうべき作品。美人画以外の鏑木清方を見るのはおそらくこれが初めて。そしてこれが実によかった。どれくらいよかったかというと、もし貰えるなら美人画よりこちらを貰いたいくらい。
「初冬の雨」 明治29年(1896年)
「佃島の秋」 明治37年(1904年)
「京橋金沢亭」 昭和10年頃(1935年)
「鰯」 昭和12年頃(1937年)
「十一月の雨」 昭和30年(1955年)
鏑木清方は美人画で日本画家としての地位を確立するわけだが、そのキャリアのスタートは新聞や雑誌などの挿絵を描くことだった。それが影響しているのか描写が細かくて情報量の多い風俗画を描く。どの絵を見ても人の喋り声や周りの物音が聞こえてきそうな気がする。本人は美人画より生活風景を描くのを好んだらしい。それでも美人画が多いのは画家ビジネスとしての成り行きだったのだろう。
彼が描く時代設定は明治。江戸の情緒も残るこの時代の情景を愛していたようだ。いわゆる近代化と、関東大震災や東京空襲などで失われていったものを残しておきたい気持ちが強かったに違いない。明治には生まれていない身にとっては、描かれているのが江戸時代なのか明治時代なのか、にわかには判別のつかないものがあるとしても、それも含めてこんな日常があったのだろうなあと想像にふけることができる。
一般に明治時代の風俗画はやたら賑やかだったり誇張されているものが多い(特に詳しくもないから認識が間違っているかも知れない)。しかし鏑木清方の絵はすごくナチュラルなところも気に入った。こんなタッチで描かれた明治時代や江戸時代の、そしてその時代に生きた画家の風俗画があるならもっと見たいものだ。
「雛市」 明治34年(1901年)
これは解説によると
「ひな人形を買いに来た」
「暖かそうなショールを羽織った裕福そうな母娘」と
「ひな祭り飾りのモモの花の配達のお手伝いをしている女の子は」
「裸足で着ているものも薄そう」
という対比で貧富の差を表現してるといわれる。ボーッと眺めているだじゃ気がつかなかったわ。意外と社会派な面もある鏑木清方。
「小説家と挿絵画家」 昭和26年(1951年)
上で紹介したものと内容は異なるものの、同じく水彩画的なタッチの作品。左側が鏑木清方で冒頭に載せた写真とよく似ている。そして右側が泉鏡花。 戦前の昭和な雰囲気もするが、描かれているのは明治34年に泉鏡花が挿絵の依頼に訪ねてきたときの場面。
それはさておき床にはウチワがあるし、鏑木清方は浴衣姿だから季節は夏。なのに泉鏡花は黒の羽織を着ている。羽織って寒いときのものじゃないの? 着物にはまったく詳しくないのでよく分からない。まだ紹介していないが、鏑木清方の美人画は着物のセンスもよくて、着物の知識があれば「おお、これを着せるか」とか楽しめるらしい。それが味わえないのはちょっと残念。
ところで泉鏡花の羽織は黒で家紋も入っている。それがフォーマルな装いであるのは私でも分かる。なのに鏑木清方は浴衣である。この明治34年時点で泉鏡花は既に名のある小説家、対する鏑木清方はまだ駆け出し23歳の無名画家。年齢は泉鏡花が5歳年上。けっこう失礼なヤツの鏑木清方(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 20:13|Permalink│Comments(0)│
2022年02月26日
目黒区美術館のおかしな対応
先日、目黒区立の美術館で写真展を見てきた。
その写真展についてはまた改めて書くとしてーーー
どんな展覧会でも最初の展示室の入口で出品リストが配られる。目黒区美術館では片隅にあるテーブルの上に、展覧会のパンフレットやその他諸々が一緒に置かれていた。それらを手に取って作品に向かう。
出品リストには作家名、作品タイトル、制作年、サイズ、技法・材質(油絵とか、キャンバスに描かれているとか)、所蔵者などの基本情報が記載されている。私の場合は鑑賞中に出品リストを見ることはほとんどないものの、後で展覧会を振り返るときに役立っている。
さて入口でパンフレットなどは手にしたけれど、しばらくして出品リストが含まれていないことに気がついた。取り忘れたかとテーブルのところに戻ると、やはり出品リストはない。一般的に出品リストはパンフレットなどと一緒ではなく、単独で置かれていることが多い。そこで別のところに置いてあるのかと思い、辺りを見回したがそれらしきものは見当たらなかった。
入口に会場監視の係員が座ってたので、出品リストどこにあるのかと尋ねてみた。すると彼は「あのう、QRコードからーーー」というようなことを口ごもった。
確かにパンフレットなどと一緒にQRコードのカードが配られていた。そのQRコードを使ってネットにアクセスすれば、出品リストが表示されるのかなと思っていると、その係員は意外なことを言った。
「どうしても出品リストが欲しいですか?」
はあ? 別にどうしても欲しいとは答えなかったが、彼は座っている椅子の下からカゴを引き出した。そこには出品リストが分厚い束になって入れられていた。
あるんかい!
係員は「できるだけ紙のリストは渡さないように〜」というようなことを、また口ごもりながら言っていた。かなり年配の男性。どうぞとも言われずに差し出された出品リストを受け取り作品のほうに戻った。
その時は、そのやりとりをあまり気に掛けていなかった。
でも帰りに彼が言っていたQRコードのカードを持ち帰った。
それがこのカード。
これって単に目黒区が提供しているフリーWi-Fiに接続するためのQRコードじゃないか。
つまり、これを使って出品リストを見るには、
フリーWi-Fiに接続して、
目黒区美術館を検索して、
そのホームページにアクセスし、
さらにトップページから開催中の展覧会ページに移り、
そのページから出品リストのPDFを読み込む
と5段階もの手順を踏まなければならない。
またフリーWi-Fi接続にメアド記入などの手続きも必要。
しかも、出品リストのPDFはパソコン閲覧用サイズで制作されており、スマホで読むにはまったく不向きである。もしスマホでこのブログを読んでいるなら、下記のリンクから確認してみて欲しい。
https://mmat.jp/static/file/exhibition/2021/List%20of%20Exhibited%20Works_20210218.pdf
これだけでも来館者の利便性をまったく考慮していない、無能な職員が作り上げたシステムだと分かる。しかし、さらに大事なのはこういう仕組みで出品リストを提供していることを館内で告知していないこと(少なくともわかりやすい場所にわかりやすい掲示はなかった)。これは美術館の運営として重大なミスである。
ついでに書けば、紙の出品リストを減らして経費削減や環境保護とは聞こえがいいが、館内には誰も手に取っていない様々な(そこそこ高級紙を使った)パンフレットがそこらかしこに置かれている。さらにペラペラの紙2枚の出品リストが占める経費なんて、観覧料比率でたかが知れている。まったくもって「SDGsを心掛けて仕事をやっている感」を出しているに過ぎない。それよりも展示会場面積と較べて、よその美術館より多い係員を減らしたほうが、費用対効果は圧倒的に高いはず。
もしまた目黒区美術館を訪れることがあって、
紙の出品リストが配布されておらず、
スマホでアクセスすることへの告知もなく、
さらにスマホに最適化されていないページで、
また「どうしても出品リストが欲しいですか?」などと抜かしやがったら、
次回は目黒区民として、きっちり詰めてやる(怒)
その写真展についてはまた改めて書くとしてーーー
どんな展覧会でも最初の展示室の入口で出品リストが配られる。目黒区美術館では片隅にあるテーブルの上に、展覧会のパンフレットやその他諸々が一緒に置かれていた。それらを手に取って作品に向かう。
出品リストには作家名、作品タイトル、制作年、サイズ、技法・材質(油絵とか、キャンバスに描かれているとか)、所蔵者などの基本情報が記載されている。私の場合は鑑賞中に出品リストを見ることはほとんどないものの、後で展覧会を振り返るときに役立っている。
さて入口でパンフレットなどは手にしたけれど、しばらくして出品リストが含まれていないことに気がついた。取り忘れたかとテーブルのところに戻ると、やはり出品リストはない。一般的に出品リストはパンフレットなどと一緒ではなく、単独で置かれていることが多い。そこで別のところに置いてあるのかと思い、辺りを見回したがそれらしきものは見当たらなかった。
入口に会場監視の係員が座ってたので、出品リストどこにあるのかと尋ねてみた。すると彼は「あのう、QRコードからーーー」というようなことを口ごもった。
確かにパンフレットなどと一緒にQRコードのカードが配られていた。そのQRコードを使ってネットにアクセスすれば、出品リストが表示されるのかなと思っていると、その係員は意外なことを言った。
「どうしても出品リストが欲しいですか?」
はあ? 別にどうしても欲しいとは答えなかったが、彼は座っている椅子の下からカゴを引き出した。そこには出品リストが分厚い束になって入れられていた。
あるんかい!
係員は「できるだけ紙のリストは渡さないように〜」というようなことを、また口ごもりながら言っていた。かなり年配の男性。どうぞとも言われずに差し出された出品リストを受け取り作品のほうに戻った。
その時は、そのやりとりをあまり気に掛けていなかった。
でも帰りに彼が言っていたQRコードのカードを持ち帰った。
それがこのカード。
これって単に目黒区が提供しているフリーWi-Fiに接続するためのQRコードじゃないか。
つまり、これを使って出品リストを見るには、
フリーWi-Fiに接続して、
目黒区美術館を検索して、
そのホームページにアクセスし、
さらにトップページから開催中の展覧会ページに移り、
そのページから出品リストのPDFを読み込む
と5段階もの手順を踏まなければならない。
またフリーWi-Fi接続にメアド記入などの手続きも必要。
しかも、出品リストのPDFはパソコン閲覧用サイズで制作されており、スマホで読むにはまったく不向きである。もしスマホでこのブログを読んでいるなら、下記のリンクから確認してみて欲しい。
https://mmat.jp/static/file/exhibition/2021/List%20of%20Exhibited%20Works_20210218.pdf
これだけでも来館者の利便性をまったく考慮していない、無能な職員が作り上げたシステムだと分かる。しかし、さらに大事なのはこういう仕組みで出品リストを提供していることを館内で告知していないこと(少なくともわかりやすい場所にわかりやすい掲示はなかった)。これは美術館の運営として重大なミスである。
ついでに書けば、紙の出品リストを減らして経費削減や環境保護とは聞こえがいいが、館内には誰も手に取っていない様々な(そこそこ高級紙を使った)パンフレットがそこらかしこに置かれている。さらにペラペラの紙2枚の出品リストが占める経費なんて、観覧料比率でたかが知れている。まったくもって「SDGsを心掛けて仕事をやっている感」を出しているに過ぎない。それよりも展示会場面積と較べて、よその美術館より多い係員を減らしたほうが、費用対効果は圧倒的に高いはず。
もしまた目黒区美術館を訪れることがあって、
紙の出品リストが配布されておらず、
スマホでアクセスすることへの告知もなく、
さらにスマホに最適化されていないページで、
また「どうしても出品リストが欲しいですか?」などと抜かしやがったら、
次回は目黒区民として、きっちり詰めてやる(怒)
wassho at 23:02|Permalink│Comments(0)│
2022年02月20日
平安美人と西洋絵画を見較べて
たまに美術館に行くのが趣味のひとつである。
できるだけいろいろなジャンルや年代のものを見るようにしている。
それでふと気づいたことが。
この絵は平安時代の女性を描いたもの。上が源氏物語絵巻で平安時代の末期に制作されたとされる。下は紫式部がモデル。江戸時代初期の作品だけれど平安時代風に描かれている。
(今回は顔がテーマだから、顔中心にトリミングしてある)
どちらも目が細くて下ぶくれのいわゆる平安美人。子供の頃に教科書で始めて源氏物語絵巻を見たとき「ワッ! どうしてこんなブスをモデルにした?」と思った。もちろん当時はこれが美人の条件だったからである。(写実的に描いたわけではない)
次は江戸時代の浮世絵で美人画といわれるもの。上が喜多川歌麿で下が葛飾北斎。浮世絵で描かれる女性はほぼ例外なくこのパターンの顔をしている。
顔はすっきりしたものの、目はあり得ないくらいに細くて吊り目になり、口はうどんが1本しか通りそうにない。それでもこういうのが江戸時代の美人だったらしい。
もっとも平安美人も江戸美人も、絵の中では美人と感じても、現実にこんな顔の人と遭遇したら叫びながら全力で逃げるはず。あるいは気絶するかも(^^ゞ
ずっと時代は下って、戦後に始まった少女漫画では平安や江戸の美人と正反対に、お目々パッチリが主流となる。誰が最初にこういう顔を描いたのかは調べられなかった。しかし手塚治虫のリボンの騎士は1953年から始まっているから、戦後の早い時期にはこうなっていたと思われる。
そしてこれは現在のアニメである鬼滅の刃の禰豆子(ねずこ)。
戦後から始まった目が大きいトレンドは継続中。
これだって平安美人も江戸美人と同じように、この目の大きさが実際の顔としてあり得ないのは、プリクラやインスタで目の拡大加工をした写真の不自然さを見ればよく分かる。これでも禰豆子の目と較べれば半分以下しかない。
なお女性の顔の例ばかりを挙げてきたが、平安時代も江戸時代も現在も、それぞれの時代の美意識に沿って、男性の顔も女性と同じ文法で描かれている。
ここまで見てきたように日本では、時代ごとにかなり顔をデフォルメして描いてきた歴史がある。ところが西洋美術に目を向けるとーーー
紀元前ギリシャ時代のミロのビーナス。
極めて写実的。
ルネサンスは15〜16世紀。
ボッティチェリやラファエロだって顔はデフォルメしていない。
フェルメールはバロック期だから江戸時代前半の画家。
これはマネ。印象派が活躍したのは明治維新前後。
ピカソは思いっきりデフォルメしているけれど、
これは今回と趣旨が違う。
つまり西洋絵画では、いつの時代でも顔がデフォルメして描かれたことはない。
だから
どうして日本は顔を絵の中で、現実離れしたデフォルメをしたのか
その美人の基準が時代によって、なぜ、どのように変化したのか
というのが近頃ぼんやりと考えているテーマ。
もちろん西洋絵画全般に精通しているわけでもなく、また版画や漫画と較べて論じるのに無理があるのは承知の上。なお海外アニメも目が大きいものの、これは日本アニメの影響のような気がする。ポパイやオリーブの時代に目は大きくなかったから。
こういうどうでもいいことを考えるのが大好き(^^ゞ
できるだけいろいろなジャンルや年代のものを見るようにしている。
それでふと気づいたことが。
この絵は平安時代の女性を描いたもの。上が源氏物語絵巻で平安時代の末期に制作されたとされる。下は紫式部がモデル。江戸時代初期の作品だけれど平安時代風に描かれている。
(今回は顔がテーマだから、顔中心にトリミングしてある)
どちらも目が細くて下ぶくれのいわゆる平安美人。子供の頃に教科書で始めて源氏物語絵巻を見たとき「ワッ! どうしてこんなブスをモデルにした?」と思った。もちろん当時はこれが美人の条件だったからである。(写実的に描いたわけではない)
次は江戸時代の浮世絵で美人画といわれるもの。上が喜多川歌麿で下が葛飾北斎。浮世絵で描かれる女性はほぼ例外なくこのパターンの顔をしている。
顔はすっきりしたものの、目はあり得ないくらいに細くて吊り目になり、口はうどんが1本しか通りそうにない。それでもこういうのが江戸時代の美人だったらしい。
もっとも平安美人も江戸美人も、絵の中では美人と感じても、現実にこんな顔の人と遭遇したら叫びながら全力で逃げるはず。あるいは気絶するかも(^^ゞ
ずっと時代は下って、戦後に始まった少女漫画では平安や江戸の美人と正反対に、お目々パッチリが主流となる。誰が最初にこういう顔を描いたのかは調べられなかった。しかし手塚治虫のリボンの騎士は1953年から始まっているから、戦後の早い時期にはこうなっていたと思われる。
そしてこれは現在のアニメである鬼滅の刃の禰豆子(ねずこ)。
戦後から始まった目が大きいトレンドは継続中。
これだって平安美人も江戸美人と同じように、この目の大きさが実際の顔としてあり得ないのは、プリクラやインスタで目の拡大加工をした写真の不自然さを見ればよく分かる。これでも禰豆子の目と較べれば半分以下しかない。
なお女性の顔の例ばかりを挙げてきたが、平安時代も江戸時代も現在も、それぞれの時代の美意識に沿って、男性の顔も女性と同じ文法で描かれている。
ここまで見てきたように日本では、時代ごとにかなり顔をデフォルメして描いてきた歴史がある。ところが西洋美術に目を向けるとーーー
紀元前ギリシャ時代のミロのビーナス。
極めて写実的。
ルネサンスは15〜16世紀。
ボッティチェリやラファエロだって顔はデフォルメしていない。
フェルメールはバロック期だから江戸時代前半の画家。
これはマネ。印象派が活躍したのは明治維新前後。
ピカソは思いっきりデフォルメしているけれど、
これは今回と趣旨が違う。
つまり西洋絵画では、いつの時代でも顔がデフォルメして描かれたことはない。
だから
どうして日本は顔を絵の中で、現実離れしたデフォルメをしたのか
その美人の基準が時代によって、なぜ、どのように変化したのか
というのが近頃ぼんやりと考えているテーマ。
もちろん西洋絵画全般に精通しているわけでもなく、また版画や漫画と較べて論じるのに無理があるのは承知の上。なお海外アニメも目が大きいものの、これは日本アニメの影響のような気がする。ポパイやオリーブの時代に目は大きくなかったから。
こういうどうでもいいことを考えるのが大好き(^^ゞ
wassho at 23:00|Permalink│Comments(0)│
2022年02月13日
水戸部七絵展 I am not an object project N 85
先月にミケル・バルセロ展を見に行った東京オペラシティのアートギャラリーで、同時開催されていたのが水戸部七絵(みとべ ななえ)の展覧会。「project N」とは公式ページから引用すると、
同館コレクションの中心作家である難波田龍起(1905〜97)の遺志を受け継ぎ、
若手作家の育成・支援を目的として、4階コリドールで開催している展覧会シリーズ
とのこと。Nはnewで85は第85回という意味だろう。年に4回ほど開催しているらしい。ちなみにコリドールとは廊下や通路を指す英語で建築業界用語でもある。
ミケル・バルセロ展について書いた際、この展覧会の特徴として
鑑賞順路が定められていない〜出品リストの番号に沿って展示しているわけでも
ないので、お好きな場所からどうぞと言われた〜順路がないことは徹底していて〜
ミケル・バルセロ展との区別はなく、通路を曲がったらいきなり水戸部七絵展の
コーナーになっていてビックリした
と書いた。なぜビックリまでしたのかは彼女の作品を見ればわかる。
通路を曲がったところにあった表示は小さなパネルだけ。
どうやらこの I am not an object というのが展覧会のタイトルのようだ。
直訳すれば「私はモノではない」になる。他に慣用表現的な意味があるのかな。
作品の下の壁にもあれこれと文章が手書きで書いてある。ここだけじゃなくて会場のそこらかしこに。作品そのものが文章込みで制作されたとは思えないから、会場に備え付けるときに即興で書いたのだろうか。
そしてこの I am not an object を通り過ぎた後に展開するのは、
水戸部七絵のワンダーランド!
(パソコンで読んでいるのなら、是非クリックして画像の拡大を)
ミケル・バルセロの展示が続くと思っていて、いきなり他の画家の作品が表れただけでも意表を突かれるが、それがこんな世界だったのだから、そりゃ驚くでしょ。口には出さなかったが、心の中で「ナンジャこれは〜!」と叫んだ。もちろん好意的な意味で。
彼女が水戸部七絵。
ごく普通の女性に見えて、このパワフルすぎる画風とどうにもイメージが結びつかない。
配布されていたリーフレットを読むと、1988年生まれだから今年34歳。2011年に名古屋造形大学を卒業し、2016年から始めた美術専門学の講師を続けながら、2021年に東京芸大大学院に入り現在も在籍中とのこと。また彼女は小学生の頃にゴッホの「ひまわり」を見て画家になる決意をしたそうだ。そんなふうに思った子供はたくさんいるだろうが、実現できるのは、その中の1%の1%の1%以下かな。
さらにリーフレットには
ゴミ屋敷のようなアトリエの様子が川本史織の写真集『堕落部屋』(2012)や
テレビのバラエティ番組で紹介されるという“黒歴史”が彼女にはある。
などとも書いてあった。
どうもこんなアトリエだった模様。
ちょっとゲンメツ(^^ゞ
もっとも現在は広いアトリエを確保して、それなりに整頓されているみたい。
また同じくリーフレットには、
つい最近はG-SHOCKのプロモーションビデオに出演したり、
菅田将暉のCDのジャケットに作品を提供している。
ともある。
これが菅田将暉のCDジャケット。
CDジャケットなのに、タイトルもアーティスト名も何も書かれていないのは珍しい。水戸部七絵の作品をまるごと起用。ただし彼女はミケル・バルセロよりはるかに厚塗り盛り盛りなので、平面写真じゃ作品のイメージをつかみにくい。
G-SHOCKのプロモーションビデオはこちら。
とても楽しそうに制作しているのが印象的。
さて作品が、
厚塗り盛り盛りなことが分かるように撮った展示風景。
あまりに厚塗りしているからなのか、あるいはまだ乾ききっていない新作があるのか、コロナ対策でマスクをしているのに、この会場では油絵の具というか絵の具を溶く油の匂いが充満しているのが感じられた。マスクなしだったらちょっとキツかったかも。
ところで、この厚塗りは単に絵の具を塗り重ねているだけなのだろうか。それとも型となるなる立体を貼り付けて、その上から絵の具を塗っているのか。そういう疑問を持つくらいキャンバスから飛び出ているものもあった。また輸送のときの振動でポロッと落ちたりすることはないのかと要らぬ心配も。
こちらは制作風景。彼女が手にしているのは筆ではなく刷毛。
それって看板作るときに使うヤツやん(^^ゞ
他にも糸を貼り付けたり、
ギターやギターケースがあったり、
石膏のオブジェと一体化していたりーーーと、やりたい放題。
いや、自由自在な感性の発露といっておこう。
水戸部七絵の絵には文章や単語が描かれているものが多い。
それについての評価はビミョウである。否定的に捉えれば、絵では表現しきれずに文字に頼っているともいえるし、肯定するなら、これは絵画とは違うジャンルなのだと考えることもできる。
またその文章や単語はすべて英語。それはさらにビミョウな問題。ただし、その件を論じ始めると超絶に長くなるので割愛する。1つだけいうなら平易な英語で書かれているし、世間の平均より多少は英語ができる私だけれど、すべての文字をいちいち読む気にはならないのが正直なところ。
ついでに絵のタイトルもすべて英語である。それはそれとして、会場では作品名が表示されていなかった。それも変わっているなあと思っていたのだが、会場で撮った写真を整理していると、作品の上に手書きで落書きのように書かれているのが作品名だと発見!まさか展覧会でそんな演出方法があるとは思っても見なかった。固定観念が崩されて愉快。
(鉛筆を使ったのか色が薄くてわかりにくいが、
上の写真を拡大すればタイトルが書かれているのが分かる)
これはキーボードが貼り付けてあるからミュージシャン。そして雑誌TIMEの表紙を模しているから超有名どころのはず。それなのに誰かサッパリわからずにずっとナゾな作品。タイトルも写真に写っていないし。
さて、
おそらく美術館で彼女の絵をひとつだけ見たなら、私のモダンアート・アンチの魂が爆発していたと思う。しかしこれだけの点数が揃っていて水戸部七絵ワールド全開になると、そのファンタジーに取り囲まれどっぷりと浸ってしまう。そういえば同じようなことを草間彌生の展覧会でも感じたのを思い出す。
なお解説によるとLGBTQ(性的マイノリティ)への偏見に抗議する作品なども含まれていたらしいのだが、前述の英語のこともあって、ひたすらパワフルで楽しいといった印象。いってみれば幼稚で雑だけれど、ある意味、突き抜けているからそんなことすら気にならない。
ところで前述の通り、また写真でも分かるように会場はコリドーと呼ばれる細長い形。その両側に約60点が並ぶ。この場所で作品を眺めながらずっと私の頭から離れなかったのは、
この絵に囲まれてケンケンパとか、グリコ・チョコレート・パイナップルなどの
ジャンケン遊びをしたら最高に楽しいだろうなあ
というモーソー。
なぜだろう。よく絵から力をもらうとかいう。水戸部七絵には人を無邪気にさせるほどのパワーがあるのかも。ミケル・バルセロ展を「たとえ日本のどこに住んでいてもこの展覧会を見に来る価値はある」と書いたが、それにはこの水戸部七絵展も含まれるよ。普段は使っていない感性のツボをグリグリされてイタ気持ちいい体験だった。
同館コレクションの中心作家である難波田龍起(1905〜97)の遺志を受け継ぎ、
若手作家の育成・支援を目的として、4階コリドールで開催している展覧会シリーズ
とのこと。Nはnewで85は第85回という意味だろう。年に4回ほど開催しているらしい。ちなみにコリドールとは廊下や通路を指す英語で建築業界用語でもある。
ミケル・バルセロ展について書いた際、この展覧会の特徴として
鑑賞順路が定められていない〜出品リストの番号に沿って展示しているわけでも
ないので、お好きな場所からどうぞと言われた〜順路がないことは徹底していて〜
ミケル・バルセロ展との区別はなく、通路を曲がったらいきなり水戸部七絵展の
コーナーになっていてビックリした
と書いた。なぜビックリまでしたのかは彼女の作品を見ればわかる。
通路を曲がったところにあった表示は小さなパネルだけ。
どうやらこの I am not an object というのが展覧会のタイトルのようだ。
直訳すれば「私はモノではない」になる。他に慣用表現的な意味があるのかな。
作品の下の壁にもあれこれと文章が手書きで書いてある。ここだけじゃなくて会場のそこらかしこに。作品そのものが文章込みで制作されたとは思えないから、会場に備え付けるときに即興で書いたのだろうか。
そしてこの I am not an object を通り過ぎた後に展開するのは、
水戸部七絵のワンダーランド!
(パソコンで読んでいるのなら、是非クリックして画像の拡大を)
ミケル・バルセロの展示が続くと思っていて、いきなり他の画家の作品が表れただけでも意表を突かれるが、それがこんな世界だったのだから、そりゃ驚くでしょ。口には出さなかったが、心の中で「ナンジャこれは〜!」と叫んだ。もちろん好意的な意味で。
彼女が水戸部七絵。
ごく普通の女性に見えて、このパワフルすぎる画風とどうにもイメージが結びつかない。
配布されていたリーフレットを読むと、1988年生まれだから今年34歳。2011年に名古屋造形大学を卒業し、2016年から始めた美術専門学の講師を続けながら、2021年に東京芸大大学院に入り現在も在籍中とのこと。また彼女は小学生の頃にゴッホの「ひまわり」を見て画家になる決意をしたそうだ。そんなふうに思った子供はたくさんいるだろうが、実現できるのは、その中の1%の1%の1%以下かな。
さらにリーフレットには
ゴミ屋敷のようなアトリエの様子が川本史織の写真集『堕落部屋』(2012)や
テレビのバラエティ番組で紹介されるという“黒歴史”が彼女にはある。
などとも書いてあった。
どうもこんなアトリエだった模様。
ちょっとゲンメツ(^^ゞ
もっとも現在は広いアトリエを確保して、それなりに整頓されているみたい。
また同じくリーフレットには、
つい最近はG-SHOCKのプロモーションビデオに出演したり、
菅田将暉のCDのジャケットに作品を提供している。
ともある。
これが菅田将暉のCDジャケット。
CDジャケットなのに、タイトルもアーティスト名も何も書かれていないのは珍しい。水戸部七絵の作品をまるごと起用。ただし彼女はミケル・バルセロよりはるかに厚塗り盛り盛りなので、平面写真じゃ作品のイメージをつかみにくい。
G-SHOCKのプロモーションビデオはこちら。
とても楽しそうに制作しているのが印象的。
さて作品が、
厚塗り盛り盛りなことが分かるように撮った展示風景。
あまりに厚塗りしているからなのか、あるいはまだ乾ききっていない新作があるのか、コロナ対策でマスクをしているのに、この会場では油絵の具というか絵の具を溶く油の匂いが充満しているのが感じられた。マスクなしだったらちょっとキツかったかも。
ところで、この厚塗りは単に絵の具を塗り重ねているだけなのだろうか。それとも型となるなる立体を貼り付けて、その上から絵の具を塗っているのか。そういう疑問を持つくらいキャンバスから飛び出ているものもあった。また輸送のときの振動でポロッと落ちたりすることはないのかと要らぬ心配も。
こちらは制作風景。彼女が手にしているのは筆ではなく刷毛。
それって看板作るときに使うヤツやん(^^ゞ
他にも糸を貼り付けたり、
ギターやギターケースがあったり、
石膏のオブジェと一体化していたりーーーと、やりたい放題。
いや、自由自在な感性の発露といっておこう。
水戸部七絵の絵には文章や単語が描かれているものが多い。
それについての評価はビミョウである。否定的に捉えれば、絵では表現しきれずに文字に頼っているともいえるし、肯定するなら、これは絵画とは違うジャンルなのだと考えることもできる。
またその文章や単語はすべて英語。それはさらにビミョウな問題。ただし、その件を論じ始めると超絶に長くなるので割愛する。1つだけいうなら平易な英語で書かれているし、世間の平均より多少は英語ができる私だけれど、すべての文字をいちいち読む気にはならないのが正直なところ。
ついでに絵のタイトルもすべて英語である。それはそれとして、会場では作品名が表示されていなかった。それも変わっているなあと思っていたのだが、会場で撮った写真を整理していると、作品の上に手書きで落書きのように書かれているのが作品名だと発見!まさか展覧会でそんな演出方法があるとは思っても見なかった。固定観念が崩されて愉快。
(鉛筆を使ったのか色が薄くてわかりにくいが、
上の写真を拡大すればタイトルが書かれているのが分かる)
これはキーボードが貼り付けてあるからミュージシャン。そして雑誌TIMEの表紙を模しているから超有名どころのはず。それなのに誰かサッパリわからずにずっとナゾな作品。タイトルも写真に写っていないし。
さて、
おそらく美術館で彼女の絵をひとつだけ見たなら、私のモダンアート・アンチの魂が爆発していたと思う。しかしこれだけの点数が揃っていて水戸部七絵ワールド全開になると、そのファンタジーに取り囲まれどっぷりと浸ってしまう。そういえば同じようなことを草間彌生の展覧会でも感じたのを思い出す。
なお解説によるとLGBTQ(性的マイノリティ)への偏見に抗議する作品なども含まれていたらしいのだが、前述の英語のこともあって、ひたすらパワフルで楽しいといった印象。いってみれば幼稚で雑だけれど、ある意味、突き抜けているからそんなことすら気にならない。
ところで前述の通り、また写真でも分かるように会場はコリドーと呼ばれる細長い形。その両側に約60点が並ぶ。この場所で作品を眺めながらずっと私の頭から離れなかったのは、
この絵に囲まれてケンケンパとか、グリコ・チョコレート・パイナップルなどの
ジャンケン遊びをしたら最高に楽しいだろうなあ
というモーソー。
なぜだろう。よく絵から力をもらうとかいう。水戸部七絵には人を無邪気にさせるほどのパワーがあるのかも。ミケル・バルセロ展を「たとえ日本のどこに住んでいてもこの展覧会を見に来る価値はある」と書いたが、それにはこの水戸部七絵展も含まれるよ。普段は使っていない感性のツボをグリグリされてイタ気持ちいい体験だった。
wassho at 22:32|Permalink│Comments(0)│
2022年02月05日
ミケル・バルセロ展 その4
一番最初の投稿でミケル・バルセロの略歴を公式ページから引用したとき、アフリカにもアトリエを構えていると書いた。それはマリ共和国のこと。
参考までに、
マリの場所は西アフリカ北側のここね。
関係ないけれど、マリから視線を左に動かすとダカールの文字が見える。1980年代にパリ・ダカールラリー(通称パリダカ)というモータースポーツが話題を集めた。パリからアフリカのダカールまで走るラリーとは知っていたが、ダカールの場所がここだとは、あれから40年経った今になって初めて知った(^^ゞ
当時は三菱のパジェロがときどき優勝してコマーシャルなどにも使われていた。しかし最近はサッパリ聞かなくなったなと思って調べてみると、
第1回大会は1978年。
2007年の第29回大会まではヨーロッパとアフリカを舞台としたラリーだった。
そのうちパリ〜ダカール間がコースだったのは16回で、実は半分程度に過ぎない。
2008年の第30回大会は中止。
2009年の第31回大会から2019年の第41回大会までは
南米のアルゼンチン、チリ、ペルーなどに舞台を移して開催。
そして2020年からはサウジアラビアで開催されている。
もうとっくの昔にパリもダカールも関係ないが、今でもラリーの名称はダカールラリーのまま。パリダカ時代もアフリカのダカールまで行く=メッチャ遠いという冒険要素が重要なコンセプトだったから、これはもうブランドイメージとして外せないということだろう。ちなみに29回あったヨーロッパとアフリカが舞台だった大会で、ダカールがゴールだったのは22回を数える。
それにしてもパリダカが南米を走っていたなんて、
そして今はサウジアラビアだなんて、
まったく浦島太郎になった気分。
話が大幅に脱線してしまったm(_ _)m
それで次に紹介するのはアフリカっぽい作品。
ただし、
最初のこれだけはアフリカがテーマかどうかはよく分からない。
「私のために」 1994年
なんとなく教科書で見たクロマニヨン人が洞窟に描いた壁画を思い出した。なぜかすごくプリミティブ(原始的)な印象を受けるし、不思議とそれが懐かしい感じなのは原始人のDNAが私に引き継がれているから? 絵の具を盛り盛りにするモダンアートのミケル・バルセロが、こんな絵を描いたというのも面白い。
アフリカっぽいのは3パターンほどある。
まずは色彩が抑えめで色のにじみも多いもの。
「歩くフラニ族」 2000年
「マリの湖畔」 20006年
そして色鮮やかなもの。
「サンガの市場ー2人のフラニ族」
「自転車のタイヤチューブを担ぐフラニ族」 2000年
日本人はこんな派手な色の服はあまり着ない。以前に海外で黒人ばかりが集まる教会に日曜日に通りかかったことがあって、人々の服装がビックリするほどカラフルだったことを覚えている(民族衣装じゃなくて普通の洋服)。彼らのルーツはアフリカだから、アフリカの人も鮮やかな色が好きなんだろう。
でも同じフラニ族なのに最初の2枚と後の2枚では色彩が違いすぎる。最初のは普段の光景、後のは休日にオシャレをしたところなのだろうか? しかしブルーの服を着た人はタイヤチューブを担いでいるしなあ。ひょっとしたら男女の違いかな。微妙にナゾ
これらは今までに紹介した作品と違って、極めてシンプルな画風でサラサラッと描いた印象。でも逆に、そこにミケル・バルセロの絵心のようなものを強く感じる。
次の2つはテーマに植物が関わっているようだ。何を表現したかったのかは不明だが、いい味は出していた。クロマニヨン人がモダンアートに目覚めたらこうなったりして。
「開花」 2019年
「種子の目覚め」 2019年
展示室風景。
アフリカ関連の作品は普通サイズ。
この展覧会では、絵の他にも彫刻や陶器の作品も展示されていた。
でも絵のインパクトと較べると、それほど揺さぶられず。
まあこういうものを見慣れていないせいもある。
廊下に置かれていた恐竜?のオブジェ。
これはブサかわいかった。
上の階から。
その作品に酔えるかどうかが、私の美術品に対する一番の評価基準だというのは、今までにも書いてきた。いわゆるモダンアートはその意味や意図は理解できても、頭でっかちで自己満足的なものが多い。だから酔えなくて好きじゃない。でもミケル・バルセロの作品には、すべてとはいわないが、抽象的なものも含めて充分に酔えた。
その理由はミケル・バルセロの才能・力量もさることながら、作品があまり難解ではなく適度なアバンギャルド度合いだからだろう。平たくいえばわかりやすいし、そこそこポップな一面もある。アーティストというのは未知のことに挑戦したがるもの。でも先に進みすぎると大衆はついていけない。彼はそのあたりの折り合いの付け方が絶妙。それも大切な才能のひとつである。考え方は様々あるだろうが、芸術はある程度以上のボリュームの人々に訴えてナンボだと思う。だから逆にコテコテの前衛好きなら、ミケル・バルセロは物足りないかも知れない。
また作品のサイズが大きいのも素晴らしい。絵は大きければ大きいほどよしとする考えを持っている。同じ映画でもスマホで見るのと大画面テレビで見るのとでは迫力が違うし、映画館サイズなら感動まで変わってくる。そして作品がバラエティに富んでいるのも重要なポイント。やはり同じような作品ばかりが並んでいてはつまらないし飽きてしまう。
まとめるなら、月並みな表現ながら大変満足した展覧会だった。どれくらい満足だったかというと、訪れたのは1月25日だったが、今年はこれ以上の展覧会がまだあるだろうかと心配になっているくらい。
それなのに絶対的な知名度のなさ(今までほとんど日本で紹介されてこなかったのだから仕方ないが)に加えて、展覧会のプロモーションにも力というか予算が掛けられておらず、会場がガラガラだったのは残念な限り。私がよく使う表現を用いればポーラ美術館なみに空いていた。箱根の中でも不便な場所にあるポーラ美術館と違って、こちらは新宿からひと駅の初台で開催されているにもかかわらずである。
ミケル・バルセロの作品はサイズが大きいし、また絵画でも半立体的に仕上げられているものが多い。だから画像ではなく生で実物を見ないと、その魅力あるいは内容の1/10も伝わってこない。この展覧会の会期は3月25日まで。まだ見ていない人は、たとえ全国のどこに住んでいてもこの展覧会を見に行きましょう。それだけの価値は絶対にあるよ。
おしまい
参考までに、
マリの場所は西アフリカ北側のここね。
関係ないけれど、マリから視線を左に動かすとダカールの文字が見える。1980年代にパリ・ダカールラリー(通称パリダカ)というモータースポーツが話題を集めた。パリからアフリカのダカールまで走るラリーとは知っていたが、ダカールの場所がここだとは、あれから40年経った今になって初めて知った(^^ゞ
当時は三菱のパジェロがときどき優勝してコマーシャルなどにも使われていた。しかし最近はサッパリ聞かなくなったなと思って調べてみると、
第1回大会は1978年。
2007年の第29回大会まではヨーロッパとアフリカを舞台としたラリーだった。
そのうちパリ〜ダカール間がコースだったのは16回で、実は半分程度に過ぎない。
2008年の第30回大会は中止。
2009年の第31回大会から2019年の第41回大会までは
南米のアルゼンチン、チリ、ペルーなどに舞台を移して開催。
そして2020年からはサウジアラビアで開催されている。
もうとっくの昔にパリもダカールも関係ないが、今でもラリーの名称はダカールラリーのまま。パリダカ時代もアフリカのダカールまで行く=メッチャ遠いという冒険要素が重要なコンセプトだったから、これはもうブランドイメージとして外せないということだろう。ちなみに29回あったヨーロッパとアフリカが舞台だった大会で、ダカールがゴールだったのは22回を数える。
それにしてもパリダカが南米を走っていたなんて、
そして今はサウジアラビアだなんて、
まったく浦島太郎になった気分。
話が大幅に脱線してしまったm(_ _)m
それで次に紹介するのはアフリカっぽい作品。
ただし、
最初のこれだけはアフリカがテーマかどうかはよく分からない。
「私のために」 1994年
なんとなく教科書で見たクロマニヨン人が洞窟に描いた壁画を思い出した。なぜかすごくプリミティブ(原始的)な印象を受けるし、不思議とそれが懐かしい感じなのは原始人のDNAが私に引き継がれているから? 絵の具を盛り盛りにするモダンアートのミケル・バルセロが、こんな絵を描いたというのも面白い。
アフリカっぽいのは3パターンほどある。
まずは色彩が抑えめで色のにじみも多いもの。
「歩くフラニ族」 2000年
「マリの湖畔」 20006年
そして色鮮やかなもの。
「サンガの市場ー2人のフラニ族」
「自転車のタイヤチューブを担ぐフラニ族」 2000年
日本人はこんな派手な色の服はあまり着ない。以前に海外で黒人ばかりが集まる教会に日曜日に通りかかったことがあって、人々の服装がビックリするほどカラフルだったことを覚えている(民族衣装じゃなくて普通の洋服)。彼らのルーツはアフリカだから、アフリカの人も鮮やかな色が好きなんだろう。
でも同じフラニ族なのに最初の2枚と後の2枚では色彩が違いすぎる。最初のは普段の光景、後のは休日にオシャレをしたところなのだろうか? しかしブルーの服を着た人はタイヤチューブを担いでいるしなあ。ひょっとしたら男女の違いかな。微妙にナゾ
これらは今までに紹介した作品と違って、極めてシンプルな画風でサラサラッと描いた印象。でも逆に、そこにミケル・バルセロの絵心のようなものを強く感じる。
次の2つはテーマに植物が関わっているようだ。何を表現したかったのかは不明だが、いい味は出していた。クロマニヨン人がモダンアートに目覚めたらこうなったりして。
「開花」 2019年
「種子の目覚め」 2019年
展示室風景。
アフリカ関連の作品は普通サイズ。
この展覧会では、絵の他にも彫刻や陶器の作品も展示されていた。
でも絵のインパクトと較べると、それほど揺さぶられず。
まあこういうものを見慣れていないせいもある。
廊下に置かれていた恐竜?のオブジェ。
これはブサかわいかった。
上の階から。
その作品に酔えるかどうかが、私の美術品に対する一番の評価基準だというのは、今までにも書いてきた。いわゆるモダンアートはその意味や意図は理解できても、頭でっかちで自己満足的なものが多い。だから酔えなくて好きじゃない。でもミケル・バルセロの作品には、すべてとはいわないが、抽象的なものも含めて充分に酔えた。
その理由はミケル・バルセロの才能・力量もさることながら、作品があまり難解ではなく適度なアバンギャルド度合いだからだろう。平たくいえばわかりやすいし、そこそこポップな一面もある。アーティストというのは未知のことに挑戦したがるもの。でも先に進みすぎると大衆はついていけない。彼はそのあたりの折り合いの付け方が絶妙。それも大切な才能のひとつである。考え方は様々あるだろうが、芸術はある程度以上のボリュームの人々に訴えてナンボだと思う。だから逆にコテコテの前衛好きなら、ミケル・バルセロは物足りないかも知れない。
また作品のサイズが大きいのも素晴らしい。絵は大きければ大きいほどよしとする考えを持っている。同じ映画でもスマホで見るのと大画面テレビで見るのとでは迫力が違うし、映画館サイズなら感動まで変わってくる。そして作品がバラエティに富んでいるのも重要なポイント。やはり同じような作品ばかりが並んでいてはつまらないし飽きてしまう。
まとめるなら、月並みな表現ながら大変満足した展覧会だった。どれくらい満足だったかというと、訪れたのは1月25日だったが、今年はこれ以上の展覧会がまだあるだろうかと心配になっているくらい。
それなのに絶対的な知名度のなさ(今までほとんど日本で紹介されてこなかったのだから仕方ないが)に加えて、展覧会のプロモーションにも力というか予算が掛けられておらず、会場がガラガラだったのは残念な限り。私がよく使う表現を用いればポーラ美術館なみに空いていた。箱根の中でも不便な場所にあるポーラ美術館と違って、こちらは新宿からひと駅の初台で開催されているにもかかわらずである。
ミケル・バルセロの作品はサイズが大きいし、また絵画でも半立体的に仕上げられているものが多い。だから画像ではなく生で実物を見ないと、その魅力あるいは内容の1/10も伝わってこない。この展覧会の会期は3月25日まで。まだ見ていない人は、たとえ全国のどこに住んでいてもこの展覧会を見に行きましょう。それだけの価値は絶対にあるよ。
おしまい
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2022年02月01日
ミケル・バルセロ展 その3
次に紹介するのは海関連の作品。ーーーのつもりだったが、
改めてタイトルを確認するとそうじゃないものが混ざっていた(^^ゞ
それがこの
「午後の最初の一頭」 2016年
あまり興味を引かなかったのでサラッと見ただけで、会場ではタイトルも読まなかった。青いし、水しぶきのようなものが表現されているからてっきり海がテーマかと。しかし前回で紹介した「とどめの一突き」と同じく小さく闘牛士と牛が描かれている。
「とどめの一突き」もかなり抽象的だったが、さらに色彩まで超越して紺色と白のモノトーンで仕上げた作品ともいえる。改めて眺めれば宇宙空間のようでもある。まあ闘牛士と牛がいなくても、そんなに変わりがないと思うがねーーーと負け惜しみ。
「サドルド・シーブリーム」 2015年
この聞き慣れないサドルド・シーブリーム saddled seabream という魚は、シーブリームが鯛(たい)だから、その一種みたい。日本の海では獲れず、よって日本名もないようだ。
サドルは馬に乗るときの鞍(くら)で saddled は鞍がついたというような意味かな。尾びれの手前にある黒い丸模様のことを指していると思われるが、ミケル・バルセロはどうして一番の特徴部分を描かなかったのだろう。
「漂流物」 2020年
最初はクジラの大群と思ったが、よく見るとそれぞれに何か文字が書いてある。浮かんでいるのは転覆したボートなんだろう。
「飽くなき厳格」 2018年
これはかなり深みを感じさせる絵。砕ける大波のようにも、あるいは氷山のようにも見える。しかしタイトルに海関連の文字がないからあまり自信なし(トラウマ)。
「下は熱い」 2019年
これが展覧会で一番印象に残った作品。
おそらくブログに載せた画像を見て「適当に水色に塗ってサカナを描いているだけじゃないか」「前回に紹介した“銛の刺さった雄牛”の迫力較べたら、まったく物足りない」と思われるかも知れない。私も最初はそんな印象だった。
展示会場はところどころに間仕切り壁があって、私はこの写真の奥の方から、係員が座っているところの隙間を通ってこちら側の展示スペースに入った。つまり「下は熱い」に最初は至近距離で遭遇したことになる。
この写真では分かりにくいが、間近で見ると、サカナは絵の具を厚塗りして5センチくらいの半立体的に描かれている。当然ながらモダンアート嫌いとしては「また小賢しいことを」という反応になるわけで。
それでほとんどチラ見をしただけで、隣にあるタコの絵を見に行った。その後にもう一度この「下は熱い」を眺めると、その時は絵から少し距離が取れていたのだが、まるでサカナが水面で跳ね回っているように見えたのである。ピチャピチャという音まで聞こえた。本当だってば!
その後はもうこの絵に釘付けである。接近するとそんなに面白くないが、少し離れて眺めると凄く動的に見える。絵に近づいたり離れたりを繰り返していたから、係員におかしな奴と思われていたかも知れない(^^ゞ
少し離れて撮影した写真を。
まあこれを見ても私が受けた印象は伝わらないな。
是非、展覧会に出かけてピチャピチャを体験してちょうだい。
「恐れと震え」 2018年
これは厚塗りではなくキャンバスを波打たせて半立体にしてあった作品。けっこう面白かった。しかしそのウネウネしたところの写真を撮り忘れるという失態を犯す(/o\)
次のレントゲン写真のようなものはブリーチ・ペインティングという手法で描かれたもの。全部で10作品ほどあり、モデルはミケル・バルセロの知り合いみたい。小林康夫という名前もあって、調べてみると彼に関する本を書いたり対談もしている大学教授だった。
「J.L.ナンシー」 2012年
「ドリー」 2013年
ブリーチ・ペインティングとは絵の具を塗ったキャンバスに、漂白剤液で絵を描く手法とのこと。すぐには下地が脱色しないから、描いているときはもちろん、しばらく経ってからでないとどんな作品が出来上がるか分からないらしい。
そうやって描くことは楽しそうに思えるが、出来上がった作品を見ても「だから何?」という感想しか出てこないのが正直なところ。「下は熱い」でノックアウトされそうになったが、まだまだモダンアート・アンチの精神は健在(^^ゞ
なおブリーチ・ペインティング作品は、
これまでに紹介したものと違って普通サイズだった。
集められた画像から何となく似たようなものをグルーピングしてきたが、次の3つはどこにも入らなかったいわば「その他」のグループ。
「開いたメロン」 2019年
たぶんスペインでもメロンはこんな姿をしていないと思う。もちろんそこは重要じゃなくて、この絵を見てどう思う、何を感じるかなのだけれどーーーウ〜ン。それなのにどこか引っ掛かるものがあって、かなり長く眺めていた作品。
「曇った太陽ー海」 2019年
これはタイトルに海の文字があるし、サカナも描かれているから(立って歩いているけど)海がテーマなのは確実。しかし黄色がメインだから前半に紹介したグループとは一緒にしなかった
それはともかく、
サカナを縦に描くだけで、何となく楽しい絵になるというのが小さな発見。
「良き知らせ」 1982年
これは紙をコラージュのように重ね合わせてある作品。無意識にバスキアを連想してしまうのは顔の描き方のせいだろうか。ちなみにバスキアは27歳で夭折したけれど、彼は1960年生まれで、ミケル・バルセロが1957年生まれだから同世代の画家である。
この作品は、最初の回で紹介した1982年の「ドクメンタ7」という展覧会に出品が決まったことの喜びを描いているとのこと。だからそれを知らせる手紙を持っている。今ならスマホを握っている姿になるのかな。それにしてもそんな背景を知らなかったら、イヤ知った上でも、怒っているようにしか見えないが。
それではこのシチュエーションを想像してみましょう。
浮気をして、赤ん坊を残して逃げたヨメから手紙が来た。
そこにはこう書かれていた。
ごめんなさい、その子の父親はあなたではありません。
最悪の知らせにタイトルを変更しなくちゃ(^^ゞ
ーーー続く
改めてタイトルを確認するとそうじゃないものが混ざっていた(^^ゞ
それがこの
「午後の最初の一頭」 2016年
あまり興味を引かなかったのでサラッと見ただけで、会場ではタイトルも読まなかった。青いし、水しぶきのようなものが表現されているからてっきり海がテーマかと。しかし前回で紹介した「とどめの一突き」と同じく小さく闘牛士と牛が描かれている。
「とどめの一突き」もかなり抽象的だったが、さらに色彩まで超越して紺色と白のモノトーンで仕上げた作品ともいえる。改めて眺めれば宇宙空間のようでもある。まあ闘牛士と牛がいなくても、そんなに変わりがないと思うがねーーーと負け惜しみ。
「サドルド・シーブリーム」 2015年
この聞き慣れないサドルド・シーブリーム saddled seabream という魚は、シーブリームが鯛(たい)だから、その一種みたい。日本の海では獲れず、よって日本名もないようだ。
サドルは馬に乗るときの鞍(くら)で saddled は鞍がついたというような意味かな。尾びれの手前にある黒い丸模様のことを指していると思われるが、ミケル・バルセロはどうして一番の特徴部分を描かなかったのだろう。
「漂流物」 2020年
最初はクジラの大群と思ったが、よく見るとそれぞれに何か文字が書いてある。浮かんでいるのは転覆したボートなんだろう。
「飽くなき厳格」 2018年
これはかなり深みを感じさせる絵。砕ける大波のようにも、あるいは氷山のようにも見える。しかしタイトルに海関連の文字がないからあまり自信なし(トラウマ)。
「下は熱い」 2019年
これが展覧会で一番印象に残った作品。
おそらくブログに載せた画像を見て「適当に水色に塗ってサカナを描いているだけじゃないか」「前回に紹介した“銛の刺さった雄牛”の迫力較べたら、まったく物足りない」と思われるかも知れない。私も最初はそんな印象だった。
展示会場はところどころに間仕切り壁があって、私はこの写真の奥の方から、係員が座っているところの隙間を通ってこちら側の展示スペースに入った。つまり「下は熱い」に最初は至近距離で遭遇したことになる。
この写真では分かりにくいが、間近で見ると、サカナは絵の具を厚塗りして5センチくらいの半立体的に描かれている。当然ながらモダンアート嫌いとしては「また小賢しいことを」という反応になるわけで。
それでほとんどチラ見をしただけで、隣にあるタコの絵を見に行った。その後にもう一度この「下は熱い」を眺めると、その時は絵から少し距離が取れていたのだが、まるでサカナが水面で跳ね回っているように見えたのである。ピチャピチャという音まで聞こえた。本当だってば!
その後はもうこの絵に釘付けである。接近するとそんなに面白くないが、少し離れて眺めると凄く動的に見える。絵に近づいたり離れたりを繰り返していたから、係員におかしな奴と思われていたかも知れない(^^ゞ
少し離れて撮影した写真を。
まあこれを見ても私が受けた印象は伝わらないな。
是非、展覧会に出かけてピチャピチャを体験してちょうだい。
「恐れと震え」 2018年
これは厚塗りではなくキャンバスを波打たせて半立体にしてあった作品。けっこう面白かった。しかしそのウネウネしたところの写真を撮り忘れるという失態を犯す(/o\)
次のレントゲン写真のようなものはブリーチ・ペインティングという手法で描かれたもの。全部で10作品ほどあり、モデルはミケル・バルセロの知り合いみたい。小林康夫という名前もあって、調べてみると彼に関する本を書いたり対談もしている大学教授だった。
「J.L.ナンシー」 2012年
「ドリー」 2013年
ブリーチ・ペインティングとは絵の具を塗ったキャンバスに、漂白剤液で絵を描く手法とのこと。すぐには下地が脱色しないから、描いているときはもちろん、しばらく経ってからでないとどんな作品が出来上がるか分からないらしい。
そうやって描くことは楽しそうに思えるが、出来上がった作品を見ても「だから何?」という感想しか出てこないのが正直なところ。「下は熱い」でノックアウトされそうになったが、まだまだモダンアート・アンチの精神は健在(^^ゞ
なおブリーチ・ペインティング作品は、
これまでに紹介したものと違って普通サイズだった。
集められた画像から何となく似たようなものをグルーピングしてきたが、次の3つはどこにも入らなかったいわば「その他」のグループ。
「開いたメロン」 2019年
たぶんスペインでもメロンはこんな姿をしていないと思う。もちろんそこは重要じゃなくて、この絵を見てどう思う、何を感じるかなのだけれどーーーウ〜ン。それなのにどこか引っ掛かるものがあって、かなり長く眺めていた作品。
「曇った太陽ー海」 2019年
これはタイトルに海の文字があるし、サカナも描かれているから(立って歩いているけど)海がテーマなのは確実。しかし黄色がメインだから前半に紹介したグループとは一緒にしなかった
それはともかく、
サカナを縦に描くだけで、何となく楽しい絵になるというのが小さな発見。
「良き知らせ」 1982年
これは紙をコラージュのように重ね合わせてある作品。無意識にバスキアを連想してしまうのは顔の描き方のせいだろうか。ちなみにバスキアは27歳で夭折したけれど、彼は1960年生まれで、ミケル・バルセロが1957年生まれだから同世代の画家である。
この作品は、最初の回で紹介した1982年の「ドクメンタ7」という展覧会に出品が決まったことの喜びを描いているとのこと。だからそれを知らせる手紙を持っている。今ならスマホを握っている姿になるのかな。それにしてもそんな背景を知らなかったら、イヤ知った上でも、怒っているようにしか見えないが。
それではこのシチュエーションを想像してみましょう。
浮気をして、赤ん坊を残して逃げたヨメから手紙が来た。
そこにはこう書かれていた。
ごめんなさい、その子の父親はあなたではありません。
最悪の知らせにタイトルを変更しなくちゃ(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:08|Permalink│Comments(0)│
2022年01月30日
ミケル・バルセロ展 その2
「海のスープ」 1984年
赤い棒はスーパーリアリズムで描かれているのではなく、実際に画面に突き刺さっている。前回に載せた展示風景の写真なら、横から撮っているのでわかりやすいと思う。この絵は幅が3.2メートルあるので、この赤い棒もかなりの大きさ。棒というより細めの丸太といったところ。
サイズが大きいこともあって、ものすごくインパクトはあるけれど「こういうことやりがちよね」とモダンアート・アンチの私は思ってしまう(^^ゞ
「ファラニチのジョルジョーネ」 1984年
ファラニチはマヨルカ島にある地名でミケル・バルセロはそこで生まれた。ジョルジョーネさんが誰だか分からないが、なぜか下半身はギリシャ神話のケンタウロスのように馬になっている。絵を描いている姿だから、ひょっとしたら自画像的な作品かも知れない。
キャンバスの上にはなぜかメロン。
それはいいとしてどうして伊勢エビが跳ねている?しかもこれだけ線画で。
もちろん画家が思いつきで描いていることだから、読みときは不可能だし理解する必要もない。そういうところがモダンアート嫌いの一因でもある。しかしそういうことを超えてミケル・バルセロの絵にはどこか惹かれるものがある。上手く表現できないが、私の中の何かと波長が合うというか、得(え)も言われぬ趣きというか。
「細長い図書室」 1984年
「ルーヴル」 1985年
ルーヴルとはもちろんルーヴル美術館のこと。ご存じクラシック絵画の殿堂である。その展示室とそこにある作品を黒く塗りつぶしたように描くのは挑戦?それとも皮肉? 正解はミケル・バルセロに尋ねないと分からないが、どこかユーモアが溢れているようにも思える。
ついでに書くと、この作品が発表された1985年はミケル・バルセロがまだ駆け出しの頃。そして名声を得た後の2004年には、彼はちゃっかりルーヴルで展覧会を開いている。
「亜鉛の白、弾丸の白」 1992年
キリストの磔(はりつけ)をミケル・バルセロが描くとこうなるみたい。でも磔ではなく逆さ吊りだし、ぶら下がっているのは動物だし(ヤギかな?かなり細いけど)。股間に白く描かれているのはタコらしい。タイトルも意味不明。深く考えちゃいけない作品。
ところでモダンアートの中でも、キャンパス全体を同じように塗ったものは私がもっとも苦手にするというか、この程度のものなら高校の美術部の連中でも描いていたわと思ってしまう作品。ミケル・バルセロの絵がそういうジャンルのものばかりじゃなくてよかった。
「小波のうねり」 2002年
彼の作品は厚塗りのものが多い。厚塗りというより、それを通り越して3次元的に絵の具を盛り付けているという表現のほうが正しい。
今までそのような手法のものを見ても「それがどうした?何がしたい?」的にしか思わなかったが、彼の作品には少し違った雰囲気がある。以前にウィレム・デ・クーニングについて書いたとき「芸術とは悟性によって秩序づけられた感性の戯れ」というカントの言葉を引用した。その類いの秩序のようなものがこの抽象表現からは感じられるのだ。
ブログを書いていて自分でもミケル・バルセロにかなり引き込まれているのを自覚する。
でも次の2つはありきたりだった。
「マンダラ」 2008年
「緑の地の老人のための風景 II」 1989年
「雉(きじ)のいるテーブル」 1991年
この絵は展覧会のポスターやチケットにも採用されているから、ミケル・バルセロの代表作なのだと思う。しかしどこがそんなに評価されているのか分からないというのが正直なところ。
テーブルの上には動物や魚など食材が載っている。頭蓋骨の右側と、その斜め右下にあるのが鳥っぽいからおそらく雉なんだろう。タイトルは「雉のいる」じゃなくて「雉もいる」にして欲しかったかな。
またここでも伊勢エビ登場! 日本じゃないからロブスターと呼ぶべきか。他の食材がほとんど黒く死骸のように描かれているのに対して、伊勢エビだけは鮮やかな赤。ということはもう茹でてある? きっとミケル・バルセロの好物なのに違いない(^^ゞ
つぎの3つは闘牛をモチーフにしたもの。
スペイン人だから馴染みがあるのだろうと考えるのは短絡的であるが。
「とどめの一突き」 1990年
最初は何が描かれているのか分からなかった。タイトルを読んで板をヤリで突き刺したのかなと考えたり。実は丸く描かれているのは上から俯瞰した闘牛場で、地面に闘牛士と牛がいる。それが分かるとタイトルにも納得がいくのだが、描き進めるにつれて闘牛場をどんどん抽象化していったような気がする。
まあこのデコボコ盛りに気を取られて、闘牛士と牛にすぐ気づかなかったせいもある。
「イン・メディア・レス」 2019年
この作品なら闘牛であることを見間違えることはない。イン・メディア・レス(In media res)とはラテン語で、物語を最初から語るのではなく途中から語りだす文学・芸術技法のことらしい。つまり「これは闘牛の途中の様子を描いています」ということなのだろうか?
ミケル・バルセロの作品は「亜鉛の白、弾丸の白」「マンダラ」「緑の地の老人のための風景 II」そして「イン・メディア・レス」のようにタイトルにちょっと無理がある作品はデキもいまいちなような気がする。
円形の闘牛場に合わせて、絵の具の表面をグルグルと削り取ったような手法。
それもちょっと当たり前すぎる
「銛(モリ)の刺さった雄牛」 2016年
そしてこちらはイン・メディア・レスではなく、闘牛の最後の場面が描かれている。この作品は強烈な存在感を放っており、ガツンと迫ってくるものがあった。もちろん、どこに?という説明は不可能。また乱雑なタッチで描かれているのに、なぜか美しさも感じたのが不思議。もしパソコンで見ているなら、是非クリックで拡大して見て欲しい。
ただタイトルを読むまでは、
牛の胴体から草がボーボーと生えていると勘違いしていたのは内緒(^^ゞ
ーーー続く
赤い棒はスーパーリアリズムで描かれているのではなく、実際に画面に突き刺さっている。前回に載せた展示風景の写真なら、横から撮っているのでわかりやすいと思う。この絵は幅が3.2メートルあるので、この赤い棒もかなりの大きさ。棒というより細めの丸太といったところ。
サイズが大きいこともあって、ものすごくインパクトはあるけれど「こういうことやりがちよね」とモダンアート・アンチの私は思ってしまう(^^ゞ
「ファラニチのジョルジョーネ」 1984年
ファラニチはマヨルカ島にある地名でミケル・バルセロはそこで生まれた。ジョルジョーネさんが誰だか分からないが、なぜか下半身はギリシャ神話のケンタウロスのように馬になっている。絵を描いている姿だから、ひょっとしたら自画像的な作品かも知れない。
キャンバスの上にはなぜかメロン。
それはいいとしてどうして伊勢エビが跳ねている?しかもこれだけ線画で。
もちろん画家が思いつきで描いていることだから、読みときは不可能だし理解する必要もない。そういうところがモダンアート嫌いの一因でもある。しかしそういうことを超えてミケル・バルセロの絵にはどこか惹かれるものがある。上手く表現できないが、私の中の何かと波長が合うというか、得(え)も言われぬ趣きというか。
「細長い図書室」 1984年
「ルーヴル」 1985年
ルーヴルとはもちろんルーヴル美術館のこと。ご存じクラシック絵画の殿堂である。その展示室とそこにある作品を黒く塗りつぶしたように描くのは挑戦?それとも皮肉? 正解はミケル・バルセロに尋ねないと分からないが、どこかユーモアが溢れているようにも思える。
ついでに書くと、この作品が発表された1985年はミケル・バルセロがまだ駆け出しの頃。そして名声を得た後の2004年には、彼はちゃっかりルーヴルで展覧会を開いている。
「亜鉛の白、弾丸の白」 1992年
キリストの磔(はりつけ)をミケル・バルセロが描くとこうなるみたい。でも磔ではなく逆さ吊りだし、ぶら下がっているのは動物だし(ヤギかな?かなり細いけど)。股間に白く描かれているのはタコらしい。タイトルも意味不明。深く考えちゃいけない作品。
ところでモダンアートの中でも、キャンパス全体を同じように塗ったものは私がもっとも苦手にするというか、この程度のものなら高校の美術部の連中でも描いていたわと思ってしまう作品。ミケル・バルセロの絵がそういうジャンルのものばかりじゃなくてよかった。
「小波のうねり」 2002年
彼の作品は厚塗りのものが多い。厚塗りというより、それを通り越して3次元的に絵の具を盛り付けているという表現のほうが正しい。
今までそのような手法のものを見ても「それがどうした?何がしたい?」的にしか思わなかったが、彼の作品には少し違った雰囲気がある。以前にウィレム・デ・クーニングについて書いたとき「芸術とは悟性によって秩序づけられた感性の戯れ」というカントの言葉を引用した。その類いの秩序のようなものがこの抽象表現からは感じられるのだ。
ブログを書いていて自分でもミケル・バルセロにかなり引き込まれているのを自覚する。
でも次の2つはありきたりだった。
「マンダラ」 2008年
「緑の地の老人のための風景 II」 1989年
「雉(きじ)のいるテーブル」 1991年
この絵は展覧会のポスターやチケットにも採用されているから、ミケル・バルセロの代表作なのだと思う。しかしどこがそんなに評価されているのか分からないというのが正直なところ。
テーブルの上には動物や魚など食材が載っている。頭蓋骨の右側と、その斜め右下にあるのが鳥っぽいからおそらく雉なんだろう。タイトルは「雉のいる」じゃなくて「雉もいる」にして欲しかったかな。
またここでも伊勢エビ登場! 日本じゃないからロブスターと呼ぶべきか。他の食材がほとんど黒く死骸のように描かれているのに対して、伊勢エビだけは鮮やかな赤。ということはもう茹でてある? きっとミケル・バルセロの好物なのに違いない(^^ゞ
つぎの3つは闘牛をモチーフにしたもの。
スペイン人だから馴染みがあるのだろうと考えるのは短絡的であるが。
「とどめの一突き」 1990年
最初は何が描かれているのか分からなかった。タイトルを読んで板をヤリで突き刺したのかなと考えたり。実は丸く描かれているのは上から俯瞰した闘牛場で、地面に闘牛士と牛がいる。それが分かるとタイトルにも納得がいくのだが、描き進めるにつれて闘牛場をどんどん抽象化していったような気がする。
まあこのデコボコ盛りに気を取られて、闘牛士と牛にすぐ気づかなかったせいもある。
「イン・メディア・レス」 2019年
この作品なら闘牛であることを見間違えることはない。イン・メディア・レス(In media res)とはラテン語で、物語を最初から語るのではなく途中から語りだす文学・芸術技法のことらしい。つまり「これは闘牛の途中の様子を描いています」ということなのだろうか?
ミケル・バルセロの作品は「亜鉛の白、弾丸の白」「マンダラ」「緑の地の老人のための風景 II」そして「イン・メディア・レス」のようにタイトルにちょっと無理がある作品はデキもいまいちなような気がする。
円形の闘牛場に合わせて、絵の具の表面をグルグルと削り取ったような手法。
それもちょっと当たり前すぎる
「銛(モリ)の刺さった雄牛」 2016年
そしてこちらはイン・メディア・レスではなく、闘牛の最後の場面が描かれている。この作品は強烈な存在感を放っており、ガツンと迫ってくるものがあった。もちろん、どこに?という説明は不可能。また乱雑なタッチで描かれているのに、なぜか美しさも感じたのが不思議。もしパソコンで見ているなら、是非クリックで拡大して見て欲しい。
ただタイトルを読むまでは、
牛の胴体から草がボーボーと生えていると勘違いしていたのは内緒(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 22:39|Permalink│Comments(0)│
2022年01月28日
ミケル・バルセロ展
昨年末に篁牛人(たかむら ぎゅうじん)の展覧会を見て「あまり有名じゃないけれど凄い画家がいるものだなあ〜これからもそういう人の作品をたくさん観られますように」と思っていたら、年明け早々にSNSで気になる展覧会情報が流れてきた。
ミケル・バルセロ Miquel Barcelo
これまた牛人同様に今まで一度も耳にしたことのない名前。
展覧会公式ページの文章を一部引用すると
1957年、スペイン・マジョルカ島生まれ。
1976年、前衛芸術家のグループに参加。
1982年の「ドクメンタ7」(ドイツ・カッセル)で国際的にデビュー。
以降はマジョルカ島、パリ、アフリカなど各地にアトリエを構えて精力的に制作。
その制作は絵画を中心に、彫刻、陶芸、パフォーマンスなど領域を越えて広がり、
近年ではマジョルカ島のパルマ大聖堂の内部装飾、スイス・ジュネーブの国連欧州
本部・人権理事会大会議場の天井画など、壮大な建築的プロジェクトにも
結実しています。
などと紹介されている。また「長らく日本でほとんど未紹介であった」「本展は日本国内で初めて彼の仕事の全貌を紹介するものである」とも書かれていた。ヨーロッパじゃよく知られていても、なぜか日本では紹介もされず注目を得なかったということか。どうして?
ウィキペディアでミケル・バルセロを調べてビックリ。
本日現在、情報はたったこれだけしか記載されてない。
名前、生年月日、出身地、画家であることくらいしかわからない。
最後に「現代のピカソと呼ばれている」と補足されているが、この情報量でそんなことを言われてもウソくさいゾ(^^ゞ
日本ではまだ知られていないのだから仕方ないかと思い、英語版のウィキペディアを見ても、経歴が多少は文章で説明されている程度だった。A4サイズでプリント設定するとわずかに3ページしかない。ならばとスペイン語版のウィキペディアまで調べたが、こちらも4ページでほとんど変わらず。ちなみに日本語版のウィキペディアでルノワールだと34ページ、ゴッホに至っては65ページもの解説が載っている。
というわけでミケル・バルセロの海外での評価もよくわからず。でも心配はご無用、この展覧会は文句なく素晴らしかった。モダンアートは嫌いで、どちらかというと馬鹿にしている私が言うのだから間違いなし! 単によかったというのではなく、ちょっと魂を揺さぶられるような快感を味わえた。そんな展覧会は久しぶりかな。
この写真は2年ほど前に撮られたもの。
ミケル・バルセロは歌手のスティングを丸くしたような顔をしている。
ついでにマジョルカ島はここね。面積は沖縄本島の約3倍とのこと。
なお最近はマヨルカ島と呼ぶことのほうが多い。
展覧会が開催されているのは東京オペラシティのアートギャラリー。オペラシティとは新宿から京王線で1駅目の初台という場所にあり、大きくは超高層のビジネスビルと新国立劇場から成り立っている複合施設。
その新国立劇場にオペラ&バレエ専用のホールがあるので全体の名称がオペラシティ。アートギャラリーはビジネスビル低層の張り出した部分にある。
東京オペラシティは初台の駅と直結している。
地下から上がってきて最初に目にする光景。
巨人の彫刻は空を見上げてるのかと思ったら、
タイトルはSinging manで唄う男だった。
でも見上げているマンにしか見えない(^^ゞ
この写真の3層目にアートギャラリーが入っている。
上からの眺め。
この広場はサンクンガーデン(Sunken Garden)と呼ばれている。Sunkenは沈むという動詞sinkの形容詞形。だから地下に掘り下げた庭園というような意味の建築用語。このサンクンガーデンの床面は地下1階に当たる。
3階にあるアートギャラリへ。
ここへ来るのは始めてで、オペラシティにこんな施設があるのも実は知らなかった。
この展覧会には他と違う点がいくつかあって、
1)
写真撮影可。
いくつか展示風景を撮ってきた。おそらくはSNSでの拡散&集客を狙ってのものだろうが、他の展覧会でも見習ってほしいもの。ただし3〜4点ほど撮影が不可の作品があり、その区別がナゾ
2)
鑑賞順路が定められていない。
どこが最初の展示室か分からず係員に尋ねたら、出品リストの番号に沿って展示しているわけでもないので、お好きな場所からどうぞと言われた。企画展で(常設展でないという意味)そんな経験は初めてかも。
3)
順路がないことは徹底していて、今回は水戸部七絵という画家の展覧会も同時開催なのだが、ミケル・バルセロ展との区別はなく、通路を曲がったらいきなり水戸部七絵展のコーナーになっていてビックリした。
ミケル・バルセロの作品は大きなものが多い。
この左側の絵は縦3メートル、幅2メートル。
一般家屋じゃ吹き抜けの部屋がないと飾れないね。
ーーー続く
wassho at 23:44|Permalink│Comments(0)│
2022年01月13日
篁牛人展 〜昭和水墨画壇の鬼才〜 その4
第3期は1965年(64歳)から1974年(73歳)まで。だから“その2”で紹介した「訶梨諦母 」「西王母と小鳥 」「蛟龍 」などの作品も時期的にはこちらに含まれる。また前回に書いた「不動明王」「観世音」などの例外を除くとすべて水墨画である。
タイトルは「パトロンの出現から旺盛な制作へ」となっている。あまり絵が売れず、自らつてを頼って売り歩いていた牛人。しかし1965年「昭和40年)にその訪問販売先のひとつであった、開業医の森田和夫なる人物から絵画制作の援助を受けることになる。それによってようやく水墨画を再開することができた。彼の水墨画は、独特の渇筆(かっぴつ)画法で紙の表面がささくれ立つまで何度も筆を押しつけるから、丈夫=高価な和紙が必要なのだ。
「竹林虎 」 1967年頃
前期渇筆画の時代に描かれた「天台山豊干禅師」に登場するトラよりさらにデフォルメが進んでいる。縞模様をなくして尻尾を消したらほとんどクマかな(^^ゞ 第2期は少し物足りなかったけれど、第3期になって「あの牛人」が帰ってきたという印象。
「老子出関の図」 1969年
圧倒されたのがこの作品。牛はともかく鯉になぜかコブラまでいて牛人ワールド炸裂。そのユーモラスに描かれた姿とともに、彼の特徴である渇筆画法による濃い墨の世界を満喫できた。ちなみに横幅約3.8メートルの大作である。
ところで老子出関とは老師が関所を出た(通り抜けた)というような意味。でも老師はどこにも描かれていない。実はこれ四曲一双の屏風絵。つまり4つ折りの屏風が2つで1セット。この牛が描かれているのは左隻(させき:左側部分)。それで右隻はというと長らく行方不明だったが、昨年にこの展覧会がきっかけで所在が判明したとのこと。
その経緯は
1969年に制作される。
1976年に富山県が左隻だけを購入。(どうして左隻だけ?)
牛人の甥に当たる民谷静(たみや・やすし)氏が1978〜79年頃に、
牛人宅を訪れ右隻を購入。左隻の存在は知らなかったという。
牛人は入院中で夫人が対応したせいか、民谷氏に売却した記録は失われれ、
右隻はこの約40年間行方不明扱いに。
2021年9月に民谷氏が富山県立水墨美術館で開かれた牛人の展覧会を訪れる。
※大倉集古館より先に水墨美術館で開催された、まさに今このブログで
書いているのと同じ展覧会である。
そこで左隻だけの「老子出関の図」を鑑賞。
作品の説明文で「右隻は行方不明」とされていることを知る。
自分が右隻を所有していることを申し出る。
というウソのような本当の話。
そしてこれが民谷夫妻のご自宅にある右隻の老子出関の図。
ご夫妻で隠れている部分に何が描かれているか気になるが、右隻も素晴らしい出来映えなことは間違いない。老師は期待を裏切らない巨体ぶりである。その迫力はご夫妻の身体の大きさと比較すれば分かるだろう。右隻と左隻が絵の表現としてつながっていないようにも思えるが、この2つが並んでいるところを実際に見ればまた印象が変わるかも知れない。ちなみに牛が登場するのは、老師が牛に乗って移動していたとされるから。もちろん鯉やコブラは牛人の創作である。
写真は https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?
id=NEWS0000028788 から引用
大倉集古館は地上2階、地下1階の構成。
2階の展示室からこんな中国風テラスに出ることができる。
テラスから眺めたホテルのプレステージタワー。
館内の階段にあった狛犬の彫刻。
なおこの美術館のコレクションにも期待していたのだが、大倉集古館は企画展や特別展の開催だけで常設展は運営されていなかった。
篁牛人展に話を戻してあと3作品を紹介。
「ゴータマ出家逾城の図」 1969年頃
ゴータマとは釈迦のこと。逾城は「ゆじょう」と読み、出家逾城とは中国語というか漢文で、出家して街を出るという意味だと思う。釈迦の身体は大きく描かれていないが相変わらずふくらはぎはパンパンに膨らんでいる。左下側にある黒い円は何だろう?
「風神雷神」 1969年頃
俵屋宗達など琳派でお馴染みの風神雷神図。上が右隻で下が左隻。ということは一般的な風神雷神図とは左右が逆。このあたりは人と同じことはしないという牛人のこだわりか。ただし屏風絵は右隻から左隻つまり右から左へ進むものだから(縦書きの文章と同じ)、それに従えばタイトルは「雷神風神」でもおかしくない。
腕も足も極限まで太く描かれているが、女性の訶梨諦母や西王母と違って意外と違和感はなかった。あるいは私の目が牛人を見慣れてきたか。
「ダモ 」 1970年頃
ダモとは禅宗の開祖である達磨(だるま)大師である。彼は9年間も壁の前で座禅を組んで修行をしたので、手足が腐ってなくなったともいわれる。だから人形のダルマは丸い形をしている。一方で手足は失っておらず法衣の下に隠れているだけだという説もある。牛人は後者の考えだったのかな。まあ腕も脚もないと得意の極太デフォルメに困るものね(^^ゞ
老子の絵では脇役に鯉や蝶にコブラなどだったが、こちらでは蝶の他にテントウムシやカタツムリが登場。牛人は大酒飲みで自由奔放な性格だったとされるが、お茶目で少女的な感性もあったようにも思える。彼の描いたものはどことなくカワイイものも多い。
こんなアバンギャルドな水墨画があったとは驚きで、またそれを描いた篁牛人が、今日まで歴史に埋もれていたなんて(もともと評価が低く有名とはいえなかったが、それも含めて)二重にビックリである。テレビの日曜美術館で紹介されたし、この展覧会を機に再評価が進んでほしいもの。「老子出関の図」の右隻も含めてもっといろいろな作品を見てみたい。次の展覧会に期待する。
おしまい
タイトルは「パトロンの出現から旺盛な制作へ」となっている。あまり絵が売れず、自らつてを頼って売り歩いていた牛人。しかし1965年「昭和40年)にその訪問販売先のひとつであった、開業医の森田和夫なる人物から絵画制作の援助を受けることになる。それによってようやく水墨画を再開することができた。彼の水墨画は、独特の渇筆(かっぴつ)画法で紙の表面がささくれ立つまで何度も筆を押しつけるから、丈夫=高価な和紙が必要なのだ。
「竹林虎 」 1967年頃
前期渇筆画の時代に描かれた「天台山豊干禅師」に登場するトラよりさらにデフォルメが進んでいる。縞模様をなくして尻尾を消したらほとんどクマかな(^^ゞ 第2期は少し物足りなかったけれど、第3期になって「あの牛人」が帰ってきたという印象。
「老子出関の図」 1969年
圧倒されたのがこの作品。牛はともかく鯉になぜかコブラまでいて牛人ワールド炸裂。そのユーモラスに描かれた姿とともに、彼の特徴である渇筆画法による濃い墨の世界を満喫できた。ちなみに横幅約3.8メートルの大作である。
ところで老子出関とは老師が関所を出た(通り抜けた)というような意味。でも老師はどこにも描かれていない。実はこれ四曲一双の屏風絵。つまり4つ折りの屏風が2つで1セット。この牛が描かれているのは左隻(させき:左側部分)。それで右隻はというと長らく行方不明だったが、昨年にこの展覧会がきっかけで所在が判明したとのこと。
その経緯は
1969年に制作される。
1976年に富山県が左隻だけを購入。(どうして左隻だけ?)
牛人の甥に当たる民谷静(たみや・やすし)氏が1978〜79年頃に、
牛人宅を訪れ右隻を購入。左隻の存在は知らなかったという。
牛人は入院中で夫人が対応したせいか、民谷氏に売却した記録は失われれ、
右隻はこの約40年間行方不明扱いに。
2021年9月に民谷氏が富山県立水墨美術館で開かれた牛人の展覧会を訪れる。
※大倉集古館より先に水墨美術館で開催された、まさに今このブログで
書いているのと同じ展覧会である。
そこで左隻だけの「老子出関の図」を鑑賞。
作品の説明文で「右隻は行方不明」とされていることを知る。
自分が右隻を所有していることを申し出る。
というウソのような本当の話。
そしてこれが民谷夫妻のご自宅にある右隻の老子出関の図。
ご夫妻で隠れている部分に何が描かれているか気になるが、右隻も素晴らしい出来映えなことは間違いない。老師は期待を裏切らない巨体ぶりである。その迫力はご夫妻の身体の大きさと比較すれば分かるだろう。右隻と左隻が絵の表現としてつながっていないようにも思えるが、この2つが並んでいるところを実際に見ればまた印象が変わるかも知れない。ちなみに牛が登場するのは、老師が牛に乗って移動していたとされるから。もちろん鯉やコブラは牛人の創作である。
写真は https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?
id=NEWS0000028788 から引用
大倉集古館は地上2階、地下1階の構成。
2階の展示室からこんな中国風テラスに出ることができる。
テラスから眺めたホテルのプレステージタワー。
館内の階段にあった狛犬の彫刻。
なおこの美術館のコレクションにも期待していたのだが、大倉集古館は企画展や特別展の開催だけで常設展は運営されていなかった。
篁牛人展に話を戻してあと3作品を紹介。
「ゴータマ出家逾城の図」 1969年頃
ゴータマとは釈迦のこと。逾城は「ゆじょう」と読み、出家逾城とは中国語というか漢文で、出家して街を出るという意味だと思う。釈迦の身体は大きく描かれていないが相変わらずふくらはぎはパンパンに膨らんでいる。左下側にある黒い円は何だろう?
「風神雷神」 1969年頃
俵屋宗達など琳派でお馴染みの風神雷神図。上が右隻で下が左隻。ということは一般的な風神雷神図とは左右が逆。このあたりは人と同じことはしないという牛人のこだわりか。ただし屏風絵は右隻から左隻つまり右から左へ進むものだから(縦書きの文章と同じ)、それに従えばタイトルは「雷神風神」でもおかしくない。
腕も足も極限まで太く描かれているが、女性の訶梨諦母や西王母と違って意外と違和感はなかった。あるいは私の目が牛人を見慣れてきたか。
「ダモ 」 1970年頃
ダモとは禅宗の開祖である達磨(だるま)大師である。彼は9年間も壁の前で座禅を組んで修行をしたので、手足が腐ってなくなったともいわれる。だから人形のダルマは丸い形をしている。一方で手足は失っておらず法衣の下に隠れているだけだという説もある。牛人は後者の考えだったのかな。まあ腕も脚もないと得意の極太デフォルメに困るものね(^^ゞ
老子の絵では脇役に鯉や蝶にコブラなどだったが、こちらでは蝶の他にテントウムシやカタツムリが登場。牛人は大酒飲みで自由奔放な性格だったとされるが、お茶目で少女的な感性もあったようにも思える。彼の描いたものはどことなくカワイイものも多い。
こんなアバンギャルドな水墨画があったとは驚きで、またそれを描いた篁牛人が、今日まで歴史に埋もれていたなんて(もともと評価が低く有名とはいえなかったが、それも含めて)二重にビックリである。テレビの日曜美術館で紹介されたし、この展覧会を機に再評価が進んでほしいもの。「老子出関の図」の右隻も含めてもっといろいろな作品を見てみたい。次の展覧会に期待する。
おしまい
wassho at 23:23|Permalink│Comments(0)│
2022年01月12日
篁牛人展 〜昭和水墨画壇の鬼才〜 その3
大晦日から正月そして成人の日にかけては季節ネタを書いたので、篁牛人展の話が中断してしまった。篁(たかむら)牛人と、改めて振り仮名を書いておかなければ読めないのが情けないところ。
この展覧会は最初に彼の作品を総合的に紹介するコーナーがあり、その後は3つの年代に分けた回顧展スタイルのコーナーが続く。今回は第2期に当たる1949年(48歳)から1965年(64歳)に当たる作品から。
第2期のタイトルは「放浪時代の試行錯誤」。牛人は54歳からの約10年間、日本各地を放浪していたとされる。ただこの放浪というのが、まったく自宅に戻らない(または自宅がない)ことを意味しているのか、あるいは自宅から頻繁に長期の旅行に出ていたのかは、資料が少ないこともあってよく分からなかった。おそらく後者だと思うが、10年間の放浪というと前者的なニュアンスに響いてしまう。まあ画家のイメージ戦略としては、そのほうがおいしい気もするが。
一目瞭然だが水墨画だった第1期と違って第2期は色つきである。これはどうも金に困ってのことのようである。水墨画のほうが何色も絵の具を買い揃えなくていいから安上がりのように思えるが、実は牛人の水墨画技法にその理由がある。
前回に書いたように、彼は紙の表面がささくれ立つくらいに何度も筆を押しつけながら描いていく。その技法に耐える和紙はかなりの高級品じゃないとダメらしい。というわけでたいして絵も売れず、高級和紙を買うお金もなくなってという事情(/o\)
「抽象画」 1955年頃
何とも不思議な絵。第1期の水墨画でも強烈なデフォルメが特徴だったが、それにシュルレアリスムの要素も加わったのかな。制作途中で壊してしまった縄文土偶のようにも見える。このタイプの作品はこれだけだった。他にもあるならぜひ見てみたい。
それ以外の作品はそれぞれ味わいはあるにしても、割りと他でもありがちなものに感じた。やはり牛人は水墨画(といっても一般的なそれとはずいぶん違うが)を描いてこその画家だと思う。
「烏とみみずく」 1959年
「虎渓三笑」 1960年頃
「乾坤の歌」 1962年
「虎渓三笑」 1964年
1960年と64年に描いている虎渓三笑(こけいさんしょう)とは中国の故事で「修行のため山を降りなかった僧が、友人2人を送っていくときに話に夢中になり、境界線と定めていた虎渓という川を渡ってしまったので3人で笑った」というもの。中国画や日本画でよく題材として取り上げられる。
だいたいこんな感じの絵が多い(これは展覧会とは無関係)
それが牛人の筆に掛かると、まったくユニークな作品になるのはさすが。もっとも1960年のは何が描かれているのかわからないが。
次の2点は第3期のコーナーにあったものだが、
色つきの作品なので一緒に紹介しておく。
「不動明王」 1967年
いつも怖い顔をしている不動明王。これは何となく漫画チックにも感じるが、牛人にしては珍しく割とオーソドックスに描いている。
「観世音」 1966年
これは抜群に素晴らしかった。よく見れば牛人らしく、観音様にしてはあり得ない腕の太さである。しかしそんなことは気にならないくらいの神々しさに満ちあふれている。周りに人がいなかったら手を合わせて拝みたかったくらい(^^ゞ
以前に運慶展を見たとき、その四天王像の素晴らしさに感激したが、如来像や菩薩像といったいわゆる寺の本尊として祀られている仏像がどうも苦手。どれも同じに見える〜有り難みも感じない〜仏像マニアがどこに惹かれているのか理解できない。私がまったく信心深くないのはそのせいだろうか。でも寺にこんな絵があったならお経のひとつくらいは覚えたかも知れない。
ーーー続く
この展覧会は最初に彼の作品を総合的に紹介するコーナーがあり、その後は3つの年代に分けた回顧展スタイルのコーナーが続く。今回は第2期に当たる1949年(48歳)から1965年(64歳)に当たる作品から。
第2期のタイトルは「放浪時代の試行錯誤」。牛人は54歳からの約10年間、日本各地を放浪していたとされる。ただこの放浪というのが、まったく自宅に戻らない(または自宅がない)ことを意味しているのか、あるいは自宅から頻繁に長期の旅行に出ていたのかは、資料が少ないこともあってよく分からなかった。おそらく後者だと思うが、10年間の放浪というと前者的なニュアンスに響いてしまう。まあ画家のイメージ戦略としては、そのほうがおいしい気もするが。
一目瞭然だが水墨画だった第1期と違って第2期は色つきである。これはどうも金に困ってのことのようである。水墨画のほうが何色も絵の具を買い揃えなくていいから安上がりのように思えるが、実は牛人の水墨画技法にその理由がある。
前回に書いたように、彼は紙の表面がささくれ立つくらいに何度も筆を押しつけながら描いていく。その技法に耐える和紙はかなりの高級品じゃないとダメらしい。というわけでたいして絵も売れず、高級和紙を買うお金もなくなってという事情(/o\)
「抽象画」 1955年頃
何とも不思議な絵。第1期の水墨画でも強烈なデフォルメが特徴だったが、それにシュルレアリスムの要素も加わったのかな。制作途中で壊してしまった縄文土偶のようにも見える。このタイプの作品はこれだけだった。他にもあるならぜひ見てみたい。
それ以外の作品はそれぞれ味わいはあるにしても、割りと他でもありがちなものに感じた。やはり牛人は水墨画(といっても一般的なそれとはずいぶん違うが)を描いてこその画家だと思う。
「烏とみみずく」 1959年
「虎渓三笑」 1960年頃
「乾坤の歌」 1962年
「虎渓三笑」 1964年
1960年と64年に描いている虎渓三笑(こけいさんしょう)とは中国の故事で「修行のため山を降りなかった僧が、友人2人を送っていくときに話に夢中になり、境界線と定めていた虎渓という川を渡ってしまったので3人で笑った」というもの。中国画や日本画でよく題材として取り上げられる。
だいたいこんな感じの絵が多い(これは展覧会とは無関係)
それが牛人の筆に掛かると、まったくユニークな作品になるのはさすが。もっとも1960年のは何が描かれているのかわからないが。
次の2点は第3期のコーナーにあったものだが、
色つきの作品なので一緒に紹介しておく。
「不動明王」 1967年
いつも怖い顔をしている不動明王。これは何となく漫画チックにも感じるが、牛人にしては珍しく割とオーソドックスに描いている。
「観世音」 1966年
これは抜群に素晴らしかった。よく見れば牛人らしく、観音様にしてはあり得ない腕の太さである。しかしそんなことは気にならないくらいの神々しさに満ちあふれている。周りに人がいなかったら手を合わせて拝みたかったくらい(^^ゞ
以前に運慶展を見たとき、その四天王像の素晴らしさに感激したが、如来像や菩薩像といったいわゆる寺の本尊として祀られている仏像がどうも苦手。どれも同じに見える〜有り難みも感じない〜仏像マニアがどこに惹かれているのか理解できない。私がまったく信心深くないのはそのせいだろうか。でも寺にこんな絵があったならお経のひとつくらいは覚えたかも知れない。
ーーー続く
wassho at 20:34|Permalink│Comments(0)│
2021年12月29日
篁牛人展 〜昭和水墨画壇の鬼才〜 その2
さて篁牛人(たかむら ぎゅうじん)。
日曜美術館という番組で知るまでは聞いたこともない名前だった。それもそのはず美術界でも知名度は低くほとんど忘れられた存在らしい。もっとも美術の世界でそんな画家はゴマンといる。それでも伊藤若冲のように、その中からスーパースターが誕生したりもするからおもしろい。あのカラヴァッジョですら350年間ほど歴史に埋もれていたというのだからビックリである。
篁牛人も日曜美術館で紹介されたし、この展覧会を機に再評価が進むんじゃないかな。ジャンルでいえば水墨画。その方面はまったく詳しくないが、篁牛人のような水墨画を描いた画家は他にいない気がする。つまり画家で最も大切な(と私が思っている)オリジナリティを確立している。ただしアバンギャルドな作風だから、彼が生きていた時代ではあまり受け入れられなかったのかも知れない。
篁牛人の略歴。
明治生まれで主には戦後、昭和の中頃に活躍した画家である。
1901年(明治34年)富山市のお寺の次男として生まれる。
1924年(大正13年)23歳頃から図案の制作を始める。
今でいうならグラフィックデザイナー。
1940年(昭和15年)39歳頃から図案制作をやめ絵画に専念する。
1944年(昭和19年)戦争に応召〜1946年(昭和21年)に復員。
1947年(昭和22年)46歳頃から画業復帰。
1955年(昭和30年)54歳頃から約10年間の放浪生活
1975年(昭和50年)脳梗塞で倒れ以後は画業が困難になる。
1984年(昭和59年)82歳で没
展覧会の構成がちょっと変わっている。基本的には3つの年代に分けた回顧展スタイルなのであるが、それとは別に最初のコーナーは「これが牛人だ!!」とタイトルにビックリマークを2つも並べて、制作時期に関係なく彼の代表作を集めた内容になっている。まずは牛人のすごさを一発ぶちかましておきたいという美術館の心意気の表れか。
そしてこれがトップバッターの「天台山豊干禅師」。
制作は1948年頃。
豊干禅師の名前は「ぶかん」または「ほうかん」と読む。中国は唐時代の禅僧。寺の中でトラにまたがっていたという伝説がある人物。それにしてもいきなり牛人ワールド全開でノックアウトされそうになる。まんまと美術館の術中にはまった(^^ゞ
極端にデフォルメされたトラ。デフォルメを通り越してモーソー領域に入っている木の幹、しかも横向き。それに対して豊干禅師は線が細くまるで漫画のような描き方。またトラに対して不自然に小さい。このアンバランスさが不思議な世界観を醸し出している。別に何かメッセージが込められている絵じゃないだろう。これが楽しいと思えるかどうか。
実際の絵は横幅が6メートル近くもある大作。これが目に飛び込んで来るとウォーとか小さく叫びたくなるが、ブログの小さな画像でそれは無理だろう。下の2つは部分的にトリミングしたもの。こちらはパソコンで見ているならクリックすればブラウザーの横幅までは大きくなる。
「雪山淫婆 」 1948年
先ほどの豊干禅師は例外で、牛人の描く人物は基本的に巨体である。まるで風船を膨らましたかのよう。頭を小さく描くからより大きさが強調されている。それでいて輪郭線がとても細いのも特徴。
ちなみに雪山淫婆とは山姥(やまんば)の雪女版らしい。
「訶梨諦母 」(かりていも) 1969年
日本では鬼子母神(きしもじん)とも呼ばれる訶梨諦母。幼児を捕らえて食べる鬼が、釈迦の教えによって改心し子供を庇護する女神になったという設定。仏教で女神はしっくりこないが、古代インドで別の宗教要素が仏教に取り入れられたのだろう。
この絵は頭に角が生えているから、改心する前の鬼の姿を描いたものだと思う。まわりに黒く描かれているものも何となく不気味な印象。画像検索してみたが、鬼子母神あるいは訶梨諦母の絵や像は女神になったものばかりだった。牛人は作品のテーマ設定も洒落ている。
「西王母と小鳥 」 1969年
西王母(さいおうぼ)は中国で古くから信仰された女性の仙人。3000年に1度だけ実る桃の木を持っており不老不死の象徴。ただし牛人の描く西王母はちょっと怖そうで、下にいる小鳥を睨みつけている。参考までに典型的な西王母の絵はここをクリック。
それにしてもこのドチっとした巨体とパンパンに膨らんだふくらはぎは凄いね。牛人の再評価が進むとしたら、まずは「デブ専」の趣向を持つ人からだったりして(^^ゞ
「蛟龍 」(こうりゅう) 1967年
蛟龍とは龍の一種。水の中に潜んでいて雷雨に乗じて天に昇って龍になる事から、龍の幼生ともされる。トンボのヤゴみたいなものか。この絵は展覧会に出品された牛人の作品の中では異色。ほとんどデフォルメせずに描いている。
龍の頭の部分を中心にトリミングしたものも載せておく。
「訶梨帝母 」 1970年
訶梨帝母(かりていも)の別バージョン。こちらも角があるから鬼時代のもの。角に気がつかなくても表情を見ればそうだとわかるはず。そして巨体の身体に合わせたのか耳はブタの形に。例によって輪郭線は極細だが、この作品は迷いなく一気に線を引いた印象がある。
ところで牛人の作品で黒々と墨が塗られている部分には「渇筆」(かっぴつ)という技法が使われている。渇筆は一般的には書道の技法で、筆に墨をあまり含ませずに文字をかすれさせること。しかし牛人の渇筆は逆に紙(和紙)の表面がささくれ立つくらいに何度も筆を押しつけながら描いていく。もちろんブログに貼り付けた画像ではそこまでを確認できない。
ただ展覧会でもかぶりつきでなければ、その表面効果は見えない。絵はそうやって見るものではないし、牛人の作品は大型のものが多いからなおさら。だから彼の渇筆はささくれだった筆跡を見るものでなく、それによって得られた微妙なトーン変化を楽しむものだと思う。でもゴッホなんかだと油絵の具の盛り上がりを、のぞき込むように確認しないと気が済まない人が多い。だから渇筆のことが広まれば、おそらくそうはならないだろうが。
次のコーナーは先ほど書いたように、ここからが第1章で「工芸図案家から渇筆画の創出へ 」へとなっている。時期的には1946年(45歳)から1949年(48歳)と短い。前期渇筆画の時代とも呼ばれている。「これが牛人だ!!」で紹介した「天台山豊干禅師」と「雪山淫婆 」も本来ならこのコーナーに入る作品。
「山姥と金時 」 1947年
♪まさかり担いで金太郎〜の坂田金時は山姥(やまんば)の子供だという伝説もある。牛人がこれを題材にしたのは、他の作品を見て何となく分かる気がする。
「寒山拾得 」(かんざんじっとく) 1947年
寒山拾得とワンフレーズになっているが、寒山と拾得という2人の少年のそれぞれの名前である。僧であり詩人で、最初に紹介した天台山豊干禅師の弟子。3人を合わせて三聖と呼ぶこともある。
ちょっと気になったのは寒山拾得の2人そして金時の顔が似ていること。ブログで展覧会のすべてを紹介できないが、他でも似た顔が多い。漫画では作品が違っても敵や脇役の顔が同じことがある。いわば漫画家の「持ち顔」。そのバリエーションが少ないとつまらないが、牛人もそうなところは残念。
ーーー続く
日曜美術館という番組で知るまでは聞いたこともない名前だった。それもそのはず美術界でも知名度は低くほとんど忘れられた存在らしい。もっとも美術の世界でそんな画家はゴマンといる。それでも伊藤若冲のように、その中からスーパースターが誕生したりもするからおもしろい。あのカラヴァッジョですら350年間ほど歴史に埋もれていたというのだからビックリである。
篁牛人も日曜美術館で紹介されたし、この展覧会を機に再評価が進むんじゃないかな。ジャンルでいえば水墨画。その方面はまったく詳しくないが、篁牛人のような水墨画を描いた画家は他にいない気がする。つまり画家で最も大切な(と私が思っている)オリジナリティを確立している。ただしアバンギャルドな作風だから、彼が生きていた時代ではあまり受け入れられなかったのかも知れない。
篁牛人の略歴。
明治生まれで主には戦後、昭和の中頃に活躍した画家である。
1901年(明治34年)富山市のお寺の次男として生まれる。
1924年(大正13年)23歳頃から図案の制作を始める。
今でいうならグラフィックデザイナー。
1940年(昭和15年)39歳頃から図案制作をやめ絵画に専念する。
1944年(昭和19年)戦争に応召〜1946年(昭和21年)に復員。
1947年(昭和22年)46歳頃から画業復帰。
1955年(昭和30年)54歳頃から約10年間の放浪生活
1975年(昭和50年)脳梗塞で倒れ以後は画業が困難になる。
1984年(昭和59年)82歳で没
展覧会の構成がちょっと変わっている。基本的には3つの年代に分けた回顧展スタイルなのであるが、それとは別に最初のコーナーは「これが牛人だ!!」とタイトルにビックリマークを2つも並べて、制作時期に関係なく彼の代表作を集めた内容になっている。まずは牛人のすごさを一発ぶちかましておきたいという美術館の心意気の表れか。
そしてこれがトップバッターの「天台山豊干禅師」。
制作は1948年頃。
豊干禅師の名前は「ぶかん」または「ほうかん」と読む。中国は唐時代の禅僧。寺の中でトラにまたがっていたという伝説がある人物。それにしてもいきなり牛人ワールド全開でノックアウトされそうになる。まんまと美術館の術中にはまった(^^ゞ
極端にデフォルメされたトラ。デフォルメを通り越してモーソー領域に入っている木の幹、しかも横向き。それに対して豊干禅師は線が細くまるで漫画のような描き方。またトラに対して不自然に小さい。このアンバランスさが不思議な世界観を醸し出している。別に何かメッセージが込められている絵じゃないだろう。これが楽しいと思えるかどうか。
実際の絵は横幅が6メートル近くもある大作。これが目に飛び込んで来るとウォーとか小さく叫びたくなるが、ブログの小さな画像でそれは無理だろう。下の2つは部分的にトリミングしたもの。こちらはパソコンで見ているならクリックすればブラウザーの横幅までは大きくなる。
「雪山淫婆 」 1948年
先ほどの豊干禅師は例外で、牛人の描く人物は基本的に巨体である。まるで風船を膨らましたかのよう。頭を小さく描くからより大きさが強調されている。それでいて輪郭線がとても細いのも特徴。
ちなみに雪山淫婆とは山姥(やまんば)の雪女版らしい。
「訶梨諦母 」(かりていも) 1969年
日本では鬼子母神(きしもじん)とも呼ばれる訶梨諦母。幼児を捕らえて食べる鬼が、釈迦の教えによって改心し子供を庇護する女神になったという設定。仏教で女神はしっくりこないが、古代インドで別の宗教要素が仏教に取り入れられたのだろう。
この絵は頭に角が生えているから、改心する前の鬼の姿を描いたものだと思う。まわりに黒く描かれているものも何となく不気味な印象。画像検索してみたが、鬼子母神あるいは訶梨諦母の絵や像は女神になったものばかりだった。牛人は作品のテーマ設定も洒落ている。
「西王母と小鳥 」 1969年
西王母(さいおうぼ)は中国で古くから信仰された女性の仙人。3000年に1度だけ実る桃の木を持っており不老不死の象徴。ただし牛人の描く西王母はちょっと怖そうで、下にいる小鳥を睨みつけている。参考までに典型的な西王母の絵はここをクリック。
それにしてもこのドチっとした巨体とパンパンに膨らんだふくらはぎは凄いね。牛人の再評価が進むとしたら、まずは「デブ専」の趣向を持つ人からだったりして(^^ゞ
「蛟龍 」(こうりゅう) 1967年
蛟龍とは龍の一種。水の中に潜んでいて雷雨に乗じて天に昇って龍になる事から、龍の幼生ともされる。トンボのヤゴみたいなものか。この絵は展覧会に出品された牛人の作品の中では異色。ほとんどデフォルメせずに描いている。
龍の頭の部分を中心にトリミングしたものも載せておく。
「訶梨帝母 」 1970年
訶梨帝母(かりていも)の別バージョン。こちらも角があるから鬼時代のもの。角に気がつかなくても表情を見ればそうだとわかるはず。そして巨体の身体に合わせたのか耳はブタの形に。例によって輪郭線は極細だが、この作品は迷いなく一気に線を引いた印象がある。
ところで牛人の作品で黒々と墨が塗られている部分には「渇筆」(かっぴつ)という技法が使われている。渇筆は一般的には書道の技法で、筆に墨をあまり含ませずに文字をかすれさせること。しかし牛人の渇筆は逆に紙(和紙)の表面がささくれ立つくらいに何度も筆を押しつけながら描いていく。もちろんブログに貼り付けた画像ではそこまでを確認できない。
ただ展覧会でもかぶりつきでなければ、その表面効果は見えない。絵はそうやって見るものではないし、牛人の作品は大型のものが多いからなおさら。だから彼の渇筆はささくれだった筆跡を見るものでなく、それによって得られた微妙なトーン変化を楽しむものだと思う。でもゴッホなんかだと油絵の具の盛り上がりを、のぞき込むように確認しないと気が済まない人が多い。だから渇筆のことが広まれば、おそらくそうはならないだろうが。
次のコーナーは先ほど書いたように、ここからが第1章で「工芸図案家から渇筆画の創出へ 」へとなっている。時期的には1946年(45歳)から1949年(48歳)と短い。前期渇筆画の時代とも呼ばれている。「これが牛人だ!!」で紹介した「天台山豊干禅師」と「雪山淫婆 」も本来ならこのコーナーに入る作品。
「山姥と金時 」 1947年
♪まさかり担いで金太郎〜の坂田金時は山姥(やまんば)の子供だという伝説もある。牛人がこれを題材にしたのは、他の作品を見て何となく分かる気がする。
「寒山拾得 」(かんざんじっとく) 1947年
寒山拾得とワンフレーズになっているが、寒山と拾得という2人の少年のそれぞれの名前である。僧であり詩人で、最初に紹介した天台山豊干禅師の弟子。3人を合わせて三聖と呼ぶこともある。
ちょっと気になったのは寒山拾得の2人そして金時の顔が似ていること。ブログで展覧会のすべてを紹介できないが、他でも似た顔が多い。漫画では作品が違っても敵や脇役の顔が同じことがある。いわば漫画家の「持ち顔」。そのバリエーションが少ないとつまらないが、牛人もそうなところは残念。
ーーー続く
wassho at 23:16|Permalink│Comments(0)│
2021年12月28日
生誕120年記念 篁牛人展 〜昭和水墨画壇の鬼才〜
見慣れない漢字の篁牛人は「たかむら ぎゅうじん」と読む画家。今月初めに日曜美術館という番組で紹介されていて、どこかピンとくるものがあったので、大倉集古館で開かれている展覧会を見てきた。
大倉集古館も変わった名前であるが、これはホテルオークラの敷地内にある美術館。1917年(大正6年)に大倉財閥の創始者が、収集した骨董品を収蔵・展示するために自宅の一角に開設したのが始まり。日本で最初の私立美術館とされている。大倉財閥の2代目によって、同じく自宅敷地に建設されたホテルオークラが開業したのは1962年(昭和37年)だから、実はホテルより50年ほど歴史が古い。
地下鉄日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅。
2020年6月に開業したこの駅を利用したのは初めて。
目の前にそびえ立っているのが2014年にできた虎ノ門ヒルズ森タワー。左側が2020年竣工のビジネスタワーで、右上にチラッと写っているのが来年1月に開業予定のレジデンシャルタワー(住居用つまりタワーマンション)。そして駅の上にもステーションタワーを現在建設中。
タワー以外の名前も考えろよといいたくなるね(^^ゞ とりあえず2023年にステーションタワーができれば虎ノ門ヒルズは完成となる。敷地面積は7.5ヘクタール。2003年開業の六本木ヒルズが8.4ヘクタールだから意外と広い。しかし六本木ヒルズのような「特別なエリア感」はなくビジネス街に高層ビルがまとめて建ったという印象。
駅からしばらく歩くと表れるのがアメリカ大使館。
アメリカ大使館の塀はなぜか瓦葺き。相手国の文化を尊重ということなのかな。しかし背後の建物とマッチしておらず超中途半端なデザインである。
アメリカ大使館とホテルオークラを隔てている道路には霊南坂という名前がついている。大使館があるのは赤坂で、写真を撮っている場所は虎ノ門の地名になる。
それを少し上ってホテルオークラ到着。
ずっとホテルオークラと書いてきたが、1962年に開業したホテルは取り壊されて2019年に新しい建物となり、それを機に名称が「The Okura Tokyo ジ・オークラ・トーキョー」に変更された。もっともこの正式名でこのホテルを呼んでいる人は滅多にいないと思う。
正面がホテルとオフィスフロアが併設された41階建てのプレステージタワー。左側の少し低い建物がホテルとレストランが入る17階建てのヘリテージウィング。
ちなみにこちらが以前の建物。
古い建築物をナニがナンでも保存すべしとはまったく思っていない。それでも、もう少し味のあるビルがデザインできないものかね。
せっかくなので新しくなったThe Okura Tokyoに入ってみる。
昔のホテルオークラ時代にそんなに数多く訪れていた訳じゃないけれど、全体的な雰囲気はとても似通っていた。特にホテルの象徴だったこのロビーなんて、ほとんどレプリカ並の再現。いい雰囲気なことは認めるとしても、まったく進化しないのもどうかと思う。
この日は12月25日。
クリスマスツリーはシックに控えめだった。
プレステージタワーを出て大倉集古館へ。
なぜか中国風の建築。1917年に建てられた集古館は1923年(大正12年)の関東大震災で焼失し、現在の建物は1927年(昭和2年)に再建されたもの。
ーーー続く
大倉集古館も変わった名前であるが、これはホテルオークラの敷地内にある美術館。1917年(大正6年)に大倉財閥の創始者が、収集した骨董品を収蔵・展示するために自宅の一角に開設したのが始まり。日本で最初の私立美術館とされている。大倉財閥の2代目によって、同じく自宅敷地に建設されたホテルオークラが開業したのは1962年(昭和37年)だから、実はホテルより50年ほど歴史が古い。
地下鉄日比谷線の虎ノ門ヒルズ駅。
2020年6月に開業したこの駅を利用したのは初めて。
目の前にそびえ立っているのが2014年にできた虎ノ門ヒルズ森タワー。左側が2020年竣工のビジネスタワーで、右上にチラッと写っているのが来年1月に開業予定のレジデンシャルタワー(住居用つまりタワーマンション)。そして駅の上にもステーションタワーを現在建設中。
タワー以外の名前も考えろよといいたくなるね(^^ゞ とりあえず2023年にステーションタワーができれば虎ノ門ヒルズは完成となる。敷地面積は7.5ヘクタール。2003年開業の六本木ヒルズが8.4ヘクタールだから意外と広い。しかし六本木ヒルズのような「特別なエリア感」はなくビジネス街に高層ビルがまとめて建ったという印象。
駅からしばらく歩くと表れるのがアメリカ大使館。
アメリカ大使館の塀はなぜか瓦葺き。相手国の文化を尊重ということなのかな。しかし背後の建物とマッチしておらず超中途半端なデザインである。
アメリカ大使館とホテルオークラを隔てている道路には霊南坂という名前がついている。大使館があるのは赤坂で、写真を撮っている場所は虎ノ門の地名になる。
それを少し上ってホテルオークラ到着。
ずっとホテルオークラと書いてきたが、1962年に開業したホテルは取り壊されて2019年に新しい建物となり、それを機に名称が「The Okura Tokyo ジ・オークラ・トーキョー」に変更された。もっともこの正式名でこのホテルを呼んでいる人は滅多にいないと思う。
正面がホテルとオフィスフロアが併設された41階建てのプレステージタワー。左側の少し低い建物がホテルとレストランが入る17階建てのヘリテージウィング。
ちなみにこちらが以前の建物。
古い建築物をナニがナンでも保存すべしとはまったく思っていない。それでも、もう少し味のあるビルがデザインできないものかね。
せっかくなので新しくなったThe Okura Tokyoに入ってみる。
昔のホテルオークラ時代にそんなに数多く訪れていた訳じゃないけれど、全体的な雰囲気はとても似通っていた。特にホテルの象徴だったこのロビーなんて、ほとんどレプリカ並の再現。いい雰囲気なことは認めるとしても、まったく進化しないのもどうかと思う。
この日は12月25日。
クリスマスツリーはシックに控えめだった。
プレステージタワーを出て大倉集古館へ。
なぜか中国風の建築。1917年に建てられた集古館は1923年(大正12年)の関東大震災で焼失し、現在の建物は1927年(昭和2年)に再建されたもの。
ーーー続く
wassho at 18:33|Permalink│Comments(0)│
2021年10月22日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その7
1年と3ヶ月ほど続いたアルル時代の次は「その4」に記したようにサン=レミ時代、そしてオーヴェル=シュル=オワーズ時代へと続く。そのサン=レミとはアルルから20キロ北東にある街の名前。ゴッホはこの地にある修道院付属の精神病院に入院した。
きっかけは有名な「耳切り事件」。
アルルで画家の共同体を目論んだゴッホだったが参加したのはゴーギャンのみ。その彼とも1ヶ月ほどで仲違いが始まり、それが原因かどうかはよく知らないが、1888年の年末にゴッホは自らカミソリで左耳を切り落とす行為に出る。とにかくゴッホはイッチャッタわけ。もっとも突然に発狂したわけではなく、もともとゴッホはちょっとおかしかった。伝道師をしていた頃にも父親に精神病院に入れられそうになっている。
アルルの市立病院に4ヶ月ほど入院した後、ゴッホはサン=レミへ移る。だからシャバにいたのは9ヶ月ということになる。ただし入院中も絵は描いていてけっこう名作を残している。
サン=レミの病院は資料によっては療養所あるいは精神療養院と書かれている場合もあり、普通の精神病院よりは緩い?施設だったようである。またその病院は現在も運営されており、ゴッホの入院していた病室は観光客に公開されているようだ。
中庭が美しくてラベンダーも咲き誇っているし、
こんなところなら私も入院してみたい(^^ゞ
ゴッホの絵を見ていつも思うのは気が狂う・気が触れるって何だろうということ。彼がアルルに来た頃には、耳を切り落とす前でも既に相当コジらせていたように思う。でも「ヒマワリ」をはじめとした数々の傑作を描くわけである。ちょっとおかしかったから、あんな絵が描けたのか、あるいはおかしくなかったら、もっと凄かったのか。それは永遠の謎かも。
ちなみに切り落とした耳は「僕を忘れないでね」と言って、
馴染みの売春婦に渡したらしい。そんなのもらったら怖すぎるヤロ(>_<)
ではサン=レミ時代の作品を。
「サン=レミの療養院の庭」 1889年5月
上の写真でも分かるようにサン=レミの病院は周辺環境がよかったので、意外と筆がはかどったようである。何度も書くが、こんなまともな絵を描く人が狂っているなんてどうにも想像しづらい。
「麦束のある月の出の風景」 1889年7月
「夕暮れの松の木」 1889年12月
「草地の木の幹」 1890年4月
「善きサマリア人(ドラクロワによる)」 1990年5月
これはドラクロアの模写。
この展覧会出品ではないが、参考までに模写したのはこんな作品。
なおドラクロアで一番有名なのはこの作品ね。
ゴッホの模写は模写というより、主題だけを借りてゴッホ流に描き直したようなものも多い。でもこれはドラクロアのオリジナルと、ゴッホのアレンジがイイ感じに混じり合っていると思う。
「悲しむ老人(永遠の門にて)」 1990年5月
「夜のプロヴァンスの田舎道」 1990年5月
この展覧会の目玉作品。ヒマワリがアルル時代の代表的モチーフだとしたら、サン=レミ時代のそれが糸杉。ちなみにスギとヒノキは親戚みたいなもので、糸杉は杉という名前が付いていてもヒノキに近いらしい。またスギやヒノキと違って、日本に自生の糸杉はない。
ところで2012年の展覧会で見た「二本の糸杉」は糸杉が圧倒的な存在感だった。最近よく使われる言葉で表すなら「圧を感じた」。
しかし、こちらの糸杉はそうでもなかったかな。絵に渦のようなものを描くのはサン=レミ時代からのゴッホの特徴だが、それが強かったせいもある。空にある月と星?のグルグルに目を取られてしまったというか。まあでも私はヒマワリより糸杉のほうが好きなので、その代表作を眺められて満足。
サン = レミに来てからも何度か発作を起こしたりしたものの、なんとか体調は回復し、入院から1年後の1890年の5月中頃に退院。南仏を離れて次はパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住む。ゴッホがなぜここを選んだのかよく分からないが、セザンヌやピサロなど多くの画家も滞在しているから画家が好む場所なのだろう。
オーヴェル=シュル=オワーズ時代の作品で展示されていたのは1点のみ。
展覧会のトリなのに、ちょっとつまらない作品だったのが残念。
「花咲くマロニエの木」 1890年5月
そしてオーヴェル=シュル=オワーズ時代はわずか2ヶ月で終焉を迎える。7月末にゴッホが自殺を図ったからである(自殺ではなかったという説もある)。享年37歳。
ここまでゴッホの各時代を紹介してきたが、
Wikipediaによると、その期間に制作された作品数は ※油絵のみで素描などは含まず
オランダ時代 221点
ベルギー時代 7点 (展覧会になかったのでブログでは記さず)
パリ時代 225点
アルル時代 189点
サン=レミ時代 125点
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 81点
で合計848点。
これをそれぞれの滞在期間で割ると
オランダ時代 約55ヶ月 1ヶ月あたり約4枚
ベルギー時代 約04ヶ月 1ヶ月あたり約1.75枚
パリ時代 約24ヶ月 1ヶ月あたり約9.4枚
アルル時代 約14ヶ月 1ヶ月あたり約13.5枚
サン=レミ時代 約13ヶ月 1ヶ月あたり約9.6枚
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 約02ヶ月 1ヶ月あたり約40枚
となる。
どの時代も驚異的な数値。特にオーヴェル=シュル=オワーズ時代の1ヶ月あたり約40枚は人間業とは思えない。誤記かとも疑ったが、こちらのページで77点までは画像付きで確認できたから間違いではなさそう。いったいゴッホはどんな生活を送っていた?
今回の展覧会でゴッホの油絵は32点が展示されていた。超大作はなかったものの、それなりに粒は揃っていたと思う。しかし、そのうち2010年と2012年のゴッホ展と重複していた作品が8点ある。10年ほど前のことだから再会の楽しみはあるとしても、1/4も被っているのはちょっとキツい。「その2」でも書いたがゴッホ作品はオランダ国立ゴッホ美術館と、今回のクレラー・ミュラー美術館にまとまったコレクションがある。必然的にそこから作品を借りることが多くなるのは理解できるとしても、もうちょっと考えて欲しかった。
また「その1」で書いたように、私がゴッホで一番見たいのは「夜のカフェテラス」という作品。ところでそれはどこにあるのだと調べたら、何とクレラー・ミュラー美術館じゃないか。どうしてそれを貸してくれなかったのだ(涙)
安定した集客が見込めるのか、この20年間に9回も開催されているゴッホ展。次も「またゴッホかあ」とか言いながら、どうせ見に行くんだろうな(^^ゞ
おしまい
きっかけは有名な「耳切り事件」。
アルルで画家の共同体を目論んだゴッホだったが参加したのはゴーギャンのみ。その彼とも1ヶ月ほどで仲違いが始まり、それが原因かどうかはよく知らないが、1888年の年末にゴッホは自らカミソリで左耳を切り落とす行為に出る。とにかくゴッホはイッチャッタわけ。もっとも突然に発狂したわけではなく、もともとゴッホはちょっとおかしかった。伝道師をしていた頃にも父親に精神病院に入れられそうになっている。
アルルの市立病院に4ヶ月ほど入院した後、ゴッホはサン=レミへ移る。だからシャバにいたのは9ヶ月ということになる。ただし入院中も絵は描いていてけっこう名作を残している。
サン=レミの病院は資料によっては療養所あるいは精神療養院と書かれている場合もあり、普通の精神病院よりは緩い?施設だったようである。またその病院は現在も運営されており、ゴッホの入院していた病室は観光客に公開されているようだ。
中庭が美しくてラベンダーも咲き誇っているし、
こんなところなら私も入院してみたい(^^ゞ
ゴッホの絵を見ていつも思うのは気が狂う・気が触れるって何だろうということ。彼がアルルに来た頃には、耳を切り落とす前でも既に相当コジらせていたように思う。でも「ヒマワリ」をはじめとした数々の傑作を描くわけである。ちょっとおかしかったから、あんな絵が描けたのか、あるいはおかしくなかったら、もっと凄かったのか。それは永遠の謎かも。
ちなみに切り落とした耳は「僕を忘れないでね」と言って、
馴染みの売春婦に渡したらしい。そんなのもらったら怖すぎるヤロ(>_<)
ではサン=レミ時代の作品を。
「サン=レミの療養院の庭」 1889年5月
上の写真でも分かるようにサン=レミの病院は周辺環境がよかったので、意外と筆がはかどったようである。何度も書くが、こんなまともな絵を描く人が狂っているなんてどうにも想像しづらい。
「麦束のある月の出の風景」 1889年7月
「夕暮れの松の木」 1889年12月
「草地の木の幹」 1890年4月
「善きサマリア人(ドラクロワによる)」 1990年5月
これはドラクロアの模写。
この展覧会出品ではないが、参考までに模写したのはこんな作品。
なおドラクロアで一番有名なのはこの作品ね。
ゴッホの模写は模写というより、主題だけを借りてゴッホ流に描き直したようなものも多い。でもこれはドラクロアのオリジナルと、ゴッホのアレンジがイイ感じに混じり合っていると思う。
「悲しむ老人(永遠の門にて)」 1990年5月
「夜のプロヴァンスの田舎道」 1990年5月
この展覧会の目玉作品。ヒマワリがアルル時代の代表的モチーフだとしたら、サン=レミ時代のそれが糸杉。ちなみにスギとヒノキは親戚みたいなもので、糸杉は杉という名前が付いていてもヒノキに近いらしい。またスギやヒノキと違って、日本に自生の糸杉はない。
ところで2012年の展覧会で見た「二本の糸杉」は糸杉が圧倒的な存在感だった。最近よく使われる言葉で表すなら「圧を感じた」。
しかし、こちらの糸杉はそうでもなかったかな。絵に渦のようなものを描くのはサン=レミ時代からのゴッホの特徴だが、それが強かったせいもある。空にある月と星?のグルグルに目を取られてしまったというか。まあでも私はヒマワリより糸杉のほうが好きなので、その代表作を眺められて満足。
サン = レミに来てからも何度か発作を起こしたりしたものの、なんとか体調は回復し、入院から1年後の1890年の5月中頃に退院。南仏を離れて次はパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住む。ゴッホがなぜここを選んだのかよく分からないが、セザンヌやピサロなど多くの画家も滞在しているから画家が好む場所なのだろう。
オーヴェル=シュル=オワーズ時代の作品で展示されていたのは1点のみ。
展覧会のトリなのに、ちょっとつまらない作品だったのが残念。
「花咲くマロニエの木」 1890年5月
そしてオーヴェル=シュル=オワーズ時代はわずか2ヶ月で終焉を迎える。7月末にゴッホが自殺を図ったからである(自殺ではなかったという説もある)。享年37歳。
ここまでゴッホの各時代を紹介してきたが、
Wikipediaによると、その期間に制作された作品数は ※油絵のみで素描などは含まず
オランダ時代 221点
ベルギー時代 7点 (展覧会になかったのでブログでは記さず)
パリ時代 225点
アルル時代 189点
サン=レミ時代 125点
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 81点
で合計848点。
これをそれぞれの滞在期間で割ると
オランダ時代 約55ヶ月 1ヶ月あたり約4枚
ベルギー時代 約04ヶ月 1ヶ月あたり約1.75枚
パリ時代 約24ヶ月 1ヶ月あたり約9.4枚
アルル時代 約14ヶ月 1ヶ月あたり約13.5枚
サン=レミ時代 約13ヶ月 1ヶ月あたり約9.6枚
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 約02ヶ月 1ヶ月あたり約40枚
となる。
どの時代も驚異的な数値。特にオーヴェル=シュル=オワーズ時代の1ヶ月あたり約40枚は人間業とは思えない。誤記かとも疑ったが、こちらのページで77点までは画像付きで確認できたから間違いではなさそう。いったいゴッホはどんな生活を送っていた?
今回の展覧会でゴッホの油絵は32点が展示されていた。超大作はなかったものの、それなりに粒は揃っていたと思う。しかし、そのうち2010年と2012年のゴッホ展と重複していた作品が8点ある。10年ほど前のことだから再会の楽しみはあるとしても、1/4も被っているのはちょっとキツい。「その2」でも書いたがゴッホ作品はオランダ国立ゴッホ美術館と、今回のクレラー・ミュラー美術館にまとまったコレクションがある。必然的にそこから作品を借りることが多くなるのは理解できるとしても、もうちょっと考えて欲しかった。
また「その1」で書いたように、私がゴッホで一番見たいのは「夜のカフェテラス」という作品。ところでそれはどこにあるのだと調べたら、何とクレラー・ミュラー美術館じゃないか。どうしてそれを貸してくれなかったのだ(涙)
安定した集客が見込めるのか、この20年間に9回も開催されているゴッホ展。次も「またゴッホかあ」とか言いながら、どうせ見に行くんだろうな(^^ゞ
おしまい
wassho at 23:43|Permalink│Comments(0)│
2021年10月17日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その6
眺めているだけで気が滅入りそうなシンドイ作品が並んだオランダ時代を経て、1886年の2月からゴッホのパリ時代が始まる。この時点で32歳。彼に仕送りを続けていた弟のテオを頼って経済的理由でやってきたのは確かだとしても、花の都パリで心機一転という気持ちもあったに違いない。
当時のパリは印象派のムーブメントが一段落して、あれこれ分派し始めた頃。ちなみにゴッホはルノアールやモネといった印象派の中心メンバーとは10歳ちょっと、日本語的に表現するなら一回りほど若い。
セーヌ川のほとりで、同じく画家のベルナールと話しているゴッホの後ろ姿とされる写真。1886年は明治19年。パリも少し中心を離れれば、まだ何もなかったことがわかる。
それにしても取って付けたようなテーブルと椅子の配置。写真が切れている左側に店でもあったのか? 奥にVINSというレストランが写っているが、そこのものでもなさそうだし。あるいは「バエ」を狙った仕込み?
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1886年10月
多くの画家が描いているモンマルトルにあったダンスホール。この時代のパリのアイコンともいうべき存在。ゴッホの絵は、まだちょっとオランダ時代の暗さを引きずっている。
しかし翌年の作品からは明るく色数も豊富になり
「そうだゴッホ、もっとイケ!」と声をかけたくなる。
「草地」 1887年4〜6月
「青い花瓶の花」 1887年6月
「レストランの内部」 1887年夏
これは印象派の流れを強く感じる作品。2年間をパリで過ごした後、アルルに移ってゴッホは自分の画風を確立する。しかし、もう少し長くパリにいて、もっと印象派系の技法を取り込んでも面白い展開になったはずとモーソー。
パリに来て2年後の1888年の2月に、
ゴッホはアルルに移る。
地図に赤い印があるのがアルル。矢印が少し内陸になっているが海沿いまで街が広がり、港町マルセイユの西約40キロといった位置関係。ゴッホによって有名になった街といえるが、ローマ時代の遺跡も多い古都である。RONINという映画では円形闘技場がロケ地になった。RONINはロバート・デ・ニーロやジャン・レノが出演しているのにマイナーな映画。でも痛快アクション物好きならきっと気に入るはず。
話がそれた。
ゴッホが次の拠点として、なぜ過去に訪れたこともないアルルを選んだのかは諸説あってはっきりしない。ただ浮世絵などで日本オタクだったゴッホは「ここはまるで日本のように美しい」と大いに気に入ったようである。来たことないくせに(^^ゞ そして私も南仏を訪れたことはないが、その明るい日差しが彼の絵に多大な影響を与えたことは想像が付く。
参考までに地図の上のラインは、北海道の北端である稚内からヨーロッパに向けて引いたもの。ほとんどのヨーロッパ諸国はその緯度からさらに北側である。下のラインはアルルから北海道に向けて引いた。南仏といえども札幌あたりである。ゴッホにはイタリアかスペインを南下して欲しかったな。
ところでゴッホはアルルで、画家の相互扶助組合のような組織を作る構想を持っていたようだ。もちろん何も実現していない。まあ社会に順応できない奴ほど、そういう理想の共同体を追い求めがちなもの。
それはさておき、いよいよアルル時代からが「私たちのゴッホ」なことがわかる。
次の作品は夕暮れにも柳にも見えないけれど、どこから見てもゴッホ!
「夕暮れの刈り込まれた柳」 188年3月
「糸杉に囲まれた果樹園」 1888年4月
ゴッホといえばヒマワリと糸杉に取り憑かれた画家。しかしこれはまだ背景としての描かれ方。パリから来てまだ2ヶ月だからか、何となく印象派的な匂いも残っている。
しかしその1ヶ月後には早くもヒマワリに通ずる雰囲気が出てきた。
「レモンの籠と瓶」 1888年5月
「種まく人」 1888年6月
これはミレーの「種まく人」へのオマージュ。ゴッホはドラクロア、レンブラントなど多くの画家の模写をしたが(中には歌川広重もある)ミレー作品の模写が一番多い。ミレーといえば最も有名なのは「落穂拾い」で、もちろんその模写も描いている。
それだけゴッホはミレーをリスペクトしていたのだろう。「私たちのゴッホ」からはミレーとの共通点を見いだせないとしても、前回に紹介したオランダ時代の農民や労働者を描いた絵を思い出せば、農民画を得意としたミレーとは社会を見る目に似たものがあったのかも知れない。ちなみにミレーはゴッホより40年ほど前の人。
「サント=マリー=ド=ラ=メールの海景」 1888年6月
やたら長いSaintes-Maries-de-la-Merとはアルルにある海沿いの町の名前。キリストが処刑された後に、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベなど彼にゆかりのあるマリアと名の付く女性がこの地に逃れてきた故事に由来するらしい。Saintes-Mariesは聖マリアの複数形。de-la-Merは「海の」という意味だから直訳すれば「海の聖マリアたち」。それにしてもどうしてマリアさんばかりやって来た?
それはともかくゴッホが海を描いた絵は珍しいのじゃないかな。少なくとも私は初めて見たような気がする。それでかなり長く眺めていたのだが、よく見れば、どうってことのない絵だと気がついた(^^ゞ
「黄色い家(通り)」 1888年9月
最初の投稿に書いたように本当に見たいのは「夜のカフェテラス」だけれど、まあそれの昼間版がこの「黄色い家」だと思い込むことにしてやって来たのがこの展覧会。
おそらく実際の風景はこんなに黄色くなかったはず。いくら黄色フェチのゴッホでも、昼間の街並みでこれ以上に黄色を鮮やかにすると破綻するから、ギリギリのところで押さえたんだろうなあと思いながら鑑賞。
ところでテラスと車道(人が歩いているが)の間にあるモッコリしたものは何だろう。これが緑色なら背の低い街路種・生け垣だろうが、土色なので正体不明である。ガードレール的な盛り土かな。しかしそんなものは他で見たことがないし。ナゾ
さてこの作品を目当てに訪れたのだから、相当にじっくりと眺めた。そうすると全体に対して建物群のバランスが小さい、奥に引っ込みすぎているような気がしてきた。パソコンやスマホの画面から少し目を離して確認してもらいたい。建物と道路の面積がほぼ同じである。だからタイトルを「黄色い家」ではなく「黄色い家(通り)」にしたのだろう。
英題ではThe Yellow House (The Street)。しかし最初から建物と道路の風景を描くはずならThe Yellow House & The Street になるはず。描いてる途中でバランスの悪さに気づいたて (The Street) を付け加えたんじゃないか?
それならばと、家がメインになるようにトリミングしてみた(^^ゞ
この「黄色い家・改」のほうが収まりいいでしょ。
「緑のブドウ園」 1888年10月
あまりゴッホ・ゴッホしていないのに、充分にゴッホを楽しめる作品。ゴッホの絵は見ているものに緊張を強いるものも多いが、これは肩の力が抜けているというか。この展覧会で一番気に入った。ほとんど雲ばかりなのに抜けるような高さを感じる秋空が不思議。
ーーー続く
当時のパリは印象派のムーブメントが一段落して、あれこれ分派し始めた頃。ちなみにゴッホはルノアールやモネといった印象派の中心メンバーとは10歳ちょっと、日本語的に表現するなら一回りほど若い。
セーヌ川のほとりで、同じく画家のベルナールと話しているゴッホの後ろ姿とされる写真。1886年は明治19年。パリも少し中心を離れれば、まだ何もなかったことがわかる。
それにしても取って付けたようなテーブルと椅子の配置。写真が切れている左側に店でもあったのか? 奥にVINSというレストランが写っているが、そこのものでもなさそうだし。あるいは「バエ」を狙った仕込み?
「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1886年10月
多くの画家が描いているモンマルトルにあったダンスホール。この時代のパリのアイコンともいうべき存在。ゴッホの絵は、まだちょっとオランダ時代の暗さを引きずっている。
しかし翌年の作品からは明るく色数も豊富になり
「そうだゴッホ、もっとイケ!」と声をかけたくなる。
「草地」 1887年4〜6月
「青い花瓶の花」 1887年6月
「レストランの内部」 1887年夏
これは印象派の流れを強く感じる作品。2年間をパリで過ごした後、アルルに移ってゴッホは自分の画風を確立する。しかし、もう少し長くパリにいて、もっと印象派系の技法を取り込んでも面白い展開になったはずとモーソー。
パリに来て2年後の1888年の2月に、
ゴッホはアルルに移る。
地図に赤い印があるのがアルル。矢印が少し内陸になっているが海沿いまで街が広がり、港町マルセイユの西約40キロといった位置関係。ゴッホによって有名になった街といえるが、ローマ時代の遺跡も多い古都である。RONINという映画では円形闘技場がロケ地になった。RONINはロバート・デ・ニーロやジャン・レノが出演しているのにマイナーな映画。でも痛快アクション物好きならきっと気に入るはず。
話がそれた。
ゴッホが次の拠点として、なぜ過去に訪れたこともないアルルを選んだのかは諸説あってはっきりしない。ただ浮世絵などで日本オタクだったゴッホは「ここはまるで日本のように美しい」と大いに気に入ったようである。来たことないくせに(^^ゞ そして私も南仏を訪れたことはないが、その明るい日差しが彼の絵に多大な影響を与えたことは想像が付く。
参考までに地図の上のラインは、北海道の北端である稚内からヨーロッパに向けて引いたもの。ほとんどのヨーロッパ諸国はその緯度からさらに北側である。下のラインはアルルから北海道に向けて引いた。南仏といえども札幌あたりである。ゴッホにはイタリアかスペインを南下して欲しかったな。
ところでゴッホはアルルで、画家の相互扶助組合のような組織を作る構想を持っていたようだ。もちろん何も実現していない。まあ社会に順応できない奴ほど、そういう理想の共同体を追い求めがちなもの。
それはさておき、いよいよアルル時代からが「私たちのゴッホ」なことがわかる。
次の作品は夕暮れにも柳にも見えないけれど、どこから見てもゴッホ!
「夕暮れの刈り込まれた柳」 188年3月
「糸杉に囲まれた果樹園」 1888年4月
ゴッホといえばヒマワリと糸杉に取り憑かれた画家。しかしこれはまだ背景としての描かれ方。パリから来てまだ2ヶ月だからか、何となく印象派的な匂いも残っている。
しかしその1ヶ月後には早くもヒマワリに通ずる雰囲気が出てきた。
「レモンの籠と瓶」 1888年5月
「種まく人」 1888年6月
これはミレーの「種まく人」へのオマージュ。ゴッホはドラクロア、レンブラントなど多くの画家の模写をしたが(中には歌川広重もある)ミレー作品の模写が一番多い。ミレーといえば最も有名なのは「落穂拾い」で、もちろんその模写も描いている。
それだけゴッホはミレーをリスペクトしていたのだろう。「私たちのゴッホ」からはミレーとの共通点を見いだせないとしても、前回に紹介したオランダ時代の農民や労働者を描いた絵を思い出せば、農民画を得意としたミレーとは社会を見る目に似たものがあったのかも知れない。ちなみにミレーはゴッホより40年ほど前の人。
「サント=マリー=ド=ラ=メールの海景」 1888年6月
やたら長いSaintes-Maries-de-la-Merとはアルルにある海沿いの町の名前。キリストが処刑された後に、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベなど彼にゆかりのあるマリアと名の付く女性がこの地に逃れてきた故事に由来するらしい。Saintes-Mariesは聖マリアの複数形。de-la-Merは「海の」という意味だから直訳すれば「海の聖マリアたち」。それにしてもどうしてマリアさんばかりやって来た?
それはともかくゴッホが海を描いた絵は珍しいのじゃないかな。少なくとも私は初めて見たような気がする。それでかなり長く眺めていたのだが、よく見れば、どうってことのない絵だと気がついた(^^ゞ
「黄色い家(通り)」 1888年9月
最初の投稿に書いたように本当に見たいのは「夜のカフェテラス」だけれど、まあそれの昼間版がこの「黄色い家」だと思い込むことにしてやって来たのがこの展覧会。
おそらく実際の風景はこんなに黄色くなかったはず。いくら黄色フェチのゴッホでも、昼間の街並みでこれ以上に黄色を鮮やかにすると破綻するから、ギリギリのところで押さえたんだろうなあと思いながら鑑賞。
ところでテラスと車道(人が歩いているが)の間にあるモッコリしたものは何だろう。これが緑色なら背の低い街路種・生け垣だろうが、土色なので正体不明である。ガードレール的な盛り土かな。しかしそんなものは他で見たことがないし。ナゾ
さてこの作品を目当てに訪れたのだから、相当にじっくりと眺めた。そうすると全体に対して建物群のバランスが小さい、奥に引っ込みすぎているような気がしてきた。パソコンやスマホの画面から少し目を離して確認してもらいたい。建物と道路の面積がほぼ同じである。だからタイトルを「黄色い家」ではなく「黄色い家(通り)」にしたのだろう。
英題ではThe Yellow House (The Street)。しかし最初から建物と道路の風景を描くはずならThe Yellow House & The Street になるはず。描いてる途中でバランスの悪さに気づいたて (The Street) を付け加えたんじゃないか?
それならばと、家がメインになるようにトリミングしてみた(^^ゞ
この「黄色い家・改」のほうが収まりいいでしょ。
「緑のブドウ園」 1888年10月
あまりゴッホ・ゴッホしていないのに、充分にゴッホを楽しめる作品。ゴッホの絵は見ているものに緊張を強いるものも多いが、これは肩の力が抜けているというか。この展覧会で一番気に入った。ほとんど雲ばかりなのに抜けるような高さを感じる秋空が不思議。
ーーー続く
wassho at 22:49|Permalink│Comments(0)│
2021年10月15日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その5
さていよいよオランダ時代のゴッホ。展覧会では素描と油絵にコーナーが分けられていた。画家になったとはいえ、この時代のゴッホはまだ駆け出しで修行中みたいなものだから、素描が数多く残っているのだろう。
ところで1人の画家に焦点を当てる展覧会はたいてい回顧展になる。つまりその人のキャリアの初期から末期までの作品を順に並べるような構成。作品というか画風の移り変わりを眺める楽しみはあるが、誰だって最初はレベルが低いわけで、初期の作品に資料的価値はあっても美術的価値(金銭的価値とは別ね)があるとは限らない。画家は練習で描いたものを(たいていは死んだ後に)人目にさらされてどんな気持ちになるのだろう。私なら終活で処分しておきたい(^^ゞ
「刈り込んだ柳のある道」 1881年
「砂地の木の根」 1882年
「スヘーフェニンゲンの魚干し小屋」 1882年
ほらね、ゴッホだと言われなきゃ見る気にもならないでしょ(^^ゞ
ちなみにこのコーナーのタイトルは「素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代」となっている。素描(デッサン)と写生(スケッチ)の定義は、わかったようでわからない違いなのだが、何となく風景をデッサンというのには違和感があるかな。
モデルを雇うお金がなかったので、
素人にお小遣い程度を渡して描いたものもたくさん残っている。
「コーヒーを飲む老人」 1882年
「祈り」 1882年〜1883年
「鍋を洗う農婦」 1885年
そしてオランダ時代の末期1885年に、ゴッホは初の本格的作品とされる「ジャガイモを食べる人々」を描く。ゴッホの歴史をたどる時には必ず登場する有名な作品。
今回の展示作品ではないが、これがそれ。
この作品によほど自信があったのか、多くの人に見てもらえるようにゴッホはそのリトグラフ(版画)バージョンを制作する。それが展示されていたこちら。素描とはいえないが、モノクロだからこちらのコーナーなのか。
「ジャガイモを食べる人々」 1885年
微妙に人物の描き方が違っているのはいいとしても、画面の左右が反転している。これは版画の刷り上がりは左右反転するのに、ゴッホが油絵と同じ人物配置で描いたから。ワザとなのか、刷り終わってから「やってもうた!」と思ったのかどちらだろう。
次はオランダ時代の油絵コーナー。
タイトルは「画家ファン・ゴッホ、オランダ時代」。
「麦わら帽子のある静物」 1881年
「森のはずれ」 1883年
「織機と織工」 1884年
「女の顔」 1884年〜1885年
「白い帽子を被った女の顔」 1884年〜1885年
「テーブルに着く女」 1885年
「リンゴとカボチャのある静物」 1885年
ひたすらゴッホの陰キャな性格が伝わってくる作品が並ぶ。
ゴッホらしい線の太さは感じられるものの、これがあの色彩が爆発するような絵を描いた画家だと思うのは難しい。またこの時期があったからこそ、後の有名な作品の数々が生まれたという気もしない。
結論としてはヨウワカラン(^^ゞ
ーーー続く
ところで1人の画家に焦点を当てる展覧会はたいてい回顧展になる。つまりその人のキャリアの初期から末期までの作品を順に並べるような構成。作品というか画風の移り変わりを眺める楽しみはあるが、誰だって最初はレベルが低いわけで、初期の作品に資料的価値はあっても美術的価値(金銭的価値とは別ね)があるとは限らない。画家は練習で描いたものを(たいていは死んだ後に)人目にさらされてどんな気持ちになるのだろう。私なら終活で処分しておきたい(^^ゞ
「刈り込んだ柳のある道」 1881年
「砂地の木の根」 1882年
「スヘーフェニンゲンの魚干し小屋」 1882年
ほらね、ゴッホだと言われなきゃ見る気にもならないでしょ(^^ゞ
ちなみにこのコーナーのタイトルは「素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代」となっている。素描(デッサン)と写生(スケッチ)の定義は、わかったようでわからない違いなのだが、何となく風景をデッサンというのには違和感があるかな。
モデルを雇うお金がなかったので、
素人にお小遣い程度を渡して描いたものもたくさん残っている。
「コーヒーを飲む老人」 1882年
「祈り」 1882年〜1883年
「鍋を洗う農婦」 1885年
そしてオランダ時代の末期1885年に、ゴッホは初の本格的作品とされる「ジャガイモを食べる人々」を描く。ゴッホの歴史をたどる時には必ず登場する有名な作品。
今回の展示作品ではないが、これがそれ。
この作品によほど自信があったのか、多くの人に見てもらえるようにゴッホはそのリトグラフ(版画)バージョンを制作する。それが展示されていたこちら。素描とはいえないが、モノクロだからこちらのコーナーなのか。
「ジャガイモを食べる人々」 1885年
微妙に人物の描き方が違っているのはいいとしても、画面の左右が反転している。これは版画の刷り上がりは左右反転するのに、ゴッホが油絵と同じ人物配置で描いたから。ワザとなのか、刷り終わってから「やってもうた!」と思ったのかどちらだろう。
次はオランダ時代の油絵コーナー。
タイトルは「画家ファン・ゴッホ、オランダ時代」。
「麦わら帽子のある静物」 1881年
「森のはずれ」 1883年
「織機と織工」 1884年
「女の顔」 1884年〜1885年
「白い帽子を被った女の顔」 1884年〜1885年
「テーブルに着く女」 1885年
「リンゴとカボチャのある静物」 1885年
ひたすらゴッホの陰キャな性格が伝わってくる作品が並ぶ。
ゴッホらしい線の太さは感じられるものの、これがあの色彩が爆発するような絵を描いた画家だと思うのは難しい。またこの時期があったからこそ、後の有名な作品の数々が生まれたという気もしない。
結論としてはヨウワカラン(^^ゞ
ーーー続く
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2021年10月13日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その4
ゴッホの画業は10年ほどだと「その2」でも述べたが、
もう少しその前からの経歴を書いておくと
彼は1853年3月30日にオランダ南部で生まれる。(明治維新が1868年)
父親は牧師。5人の叔父がいて、そのうちの3人は画商になっている。
そういうDNAが彼にも引き継がれていたのかも知れない。
画商の叔父の口添えで、パリに本社のある大手画廊に16歳から23歳まで勤務する。最初はオランダのハーグ支店に約4年。次にロンドン支店へ2年間移り、最後にパリ本店で約1年。こう書くとなかなかの国際ビジネスマンのようであるが、ハーグでの素行不良を理由にロンドンに飛ばされ、ロンドンでも同じようなことをして、パリでクビになったといういきさつ。ゴッホ的には金儲け主義の会社に対する反発もあったらしい。
ちなみにオランダの首都はアムステルダムだと習ったはずだが、国会議事堂、王宮、官庁、各国の大使館などはハーグにあり、事実上の首都はハーグという変わった体制になってる。
これはゴッホが18歳の時の写真。
なお「その2」に載せたのは33歳頃のもの。
画廊をクビになってからはイギリスで教師をした後、オランダに戻って書店の店員になる。これが23歳から24歳になった頃まで。
そのあたりから聖職者になりたいという希望を持ち始め、24歳で大学の神学部を目指す。しかし受験勉強について行けずに挫折。言ってみれば落ちこぼれ。ただしめげずに25歳の時にベルギーで伝道師養成学校に入る。これはキリスト教業界を目指す者の専門学校みたいなところだろうか? 約3ヶ月で仮免許を取得する。
それにしてもこの時代(日本では明治の初め)なのによく各国を渡り歩くものだ。あるいはこの時代のヨーロッパでは国境の感覚が薄いのかな。
25歳の中頃から、ベルギーの炭鉱地帯のボリナージュというところで伝道師としての活動を始める。しかし地元住民との折り合いが悪化し、さらに教会とも揉めて約1年ほどで伝道師の仮免許を剥奪される(/o\) ゴッホは何をさせてもアカン奴だったみたい。
ただしオランダへは戻らず、同地の伝道師や炭鉱夫の家に泊まり込んでプー生活を始めた。26歳なのに親からの仕送りに頼っていたようだからますますアカン奴。そしてこの時期から絵を描き始めたようだ。ただしまだスケッチやデッサンの類いだけ。27歳の中頃には画家になる決心を周りに語っている。
そしてブリュッセルに移り住んでスケッチやデッサンに精を出す。ボリナージュは絵の修行をするには田舎過ぎたのかも知れない。こちらでは美術学校の短期コースなども受講していたようである。
ただしブリュッセルでは金が続かずに、28歳になると実家のあるオランダのエッテンに帰ってくる。後世ではここからのゴッホが画家と見なされオランダ時代と称される。期間は1881年4月から1885年11月(28歳から32歳)。この間にエッテン、ハーグ、ニューネンと拠点を変えている。
その後にごく短期間をベルギーで過ごすが、
美術史的にそこは省略してオランダ時代の次を
パリ時代 :1886年2月〜1888年初頭 :32歳〜34歳
アルル時代 :1888年2月〜1889年5月 :34歳〜36歳
サン=レミ時代:1889年5月〜1890年5月 :36〜37歳
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 :1890年5月〜1890年7月 :37歳で没
に区分するのが一般的。
それでゴッホの絵が多くの人がイメージするゴッホの画風になるのはアルル時代からである。つまりゴッホの画業は10年で短いと言われるが(オランダ時代から数えると正確には9年と3ヶ月ほど)、アルル以降に限れば2年と半年にすぎない。どれだけ密度の濃い2年半を過ごしたのだろうか。私の過去2年半なんてゴッホの3日分くらいじゃないかと思ったり。いや、2年半であれだけのことができるのだから、まだまだ私にも可能性は山ほど残っていると前向きに解釈しよう(^^ゞ
チャッチャと経歴を書くだけのつもりが、
思ったより長くなってしまったので
ーーー続く
もう少しその前からの経歴を書いておくと
彼は1853年3月30日にオランダ南部で生まれる。(明治維新が1868年)
父親は牧師。5人の叔父がいて、そのうちの3人は画商になっている。
そういうDNAが彼にも引き継がれていたのかも知れない。
画商の叔父の口添えで、パリに本社のある大手画廊に16歳から23歳まで勤務する。最初はオランダのハーグ支店に約4年。次にロンドン支店へ2年間移り、最後にパリ本店で約1年。こう書くとなかなかの国際ビジネスマンのようであるが、ハーグでの素行不良を理由にロンドンに飛ばされ、ロンドンでも同じようなことをして、パリでクビになったといういきさつ。ゴッホ的には金儲け主義の会社に対する反発もあったらしい。
ちなみにオランダの首都はアムステルダムだと習ったはずだが、国会議事堂、王宮、官庁、各国の大使館などはハーグにあり、事実上の首都はハーグという変わった体制になってる。
これはゴッホが18歳の時の写真。
なお「その2」に載せたのは33歳頃のもの。
画廊をクビになってからはイギリスで教師をした後、オランダに戻って書店の店員になる。これが23歳から24歳になった頃まで。
そのあたりから聖職者になりたいという希望を持ち始め、24歳で大学の神学部を目指す。しかし受験勉強について行けずに挫折。言ってみれば落ちこぼれ。ただしめげずに25歳の時にベルギーで伝道師養成学校に入る。これはキリスト教業界を目指す者の専門学校みたいなところだろうか? 約3ヶ月で仮免許を取得する。
それにしてもこの時代(日本では明治の初め)なのによく各国を渡り歩くものだ。あるいはこの時代のヨーロッパでは国境の感覚が薄いのかな。
25歳の中頃から、ベルギーの炭鉱地帯のボリナージュというところで伝道師としての活動を始める。しかし地元住民との折り合いが悪化し、さらに教会とも揉めて約1年ほどで伝道師の仮免許を剥奪される(/o\) ゴッホは何をさせてもアカン奴だったみたい。
ただしオランダへは戻らず、同地の伝道師や炭鉱夫の家に泊まり込んでプー生活を始めた。26歳なのに親からの仕送りに頼っていたようだからますますアカン奴。そしてこの時期から絵を描き始めたようだ。ただしまだスケッチやデッサンの類いだけ。27歳の中頃には画家になる決心を周りに語っている。
そしてブリュッセルに移り住んでスケッチやデッサンに精を出す。ボリナージュは絵の修行をするには田舎過ぎたのかも知れない。こちらでは美術学校の短期コースなども受講していたようである。
ただしブリュッセルでは金が続かずに、28歳になると実家のあるオランダのエッテンに帰ってくる。後世ではここからのゴッホが画家と見なされオランダ時代と称される。期間は1881年4月から1885年11月(28歳から32歳)。この間にエッテン、ハーグ、ニューネンと拠点を変えている。
その後にごく短期間をベルギーで過ごすが、
美術史的にそこは省略してオランダ時代の次を
パリ時代 :1886年2月〜1888年初頭 :32歳〜34歳
アルル時代 :1888年2月〜1889年5月 :34歳〜36歳
サン=レミ時代:1889年5月〜1890年5月 :36〜37歳
オーヴェル=シュル=オワーズ時代 :1890年5月〜1890年7月 :37歳で没
に区分するのが一般的。
それでゴッホの絵が多くの人がイメージするゴッホの画風になるのはアルル時代からである。つまりゴッホの画業は10年で短いと言われるが(オランダ時代から数えると正確には9年と3ヶ月ほど)、アルル以降に限れば2年と半年にすぎない。どれだけ密度の濃い2年半を過ごしたのだろうか。私の過去2年半なんてゴッホの3日分くらいじゃないかと思ったり。いや、2年半であれだけのことができるのだから、まだまだ私にも可能性は山ほど残っていると前向きに解釈しよう(^^ゞ
チャッチャと経歴を書くだけのつもりが、
思ったより長くなってしまったので
ーーー続く
wassho at 20:37|Permalink│Comments(0)│
2021年10月11日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その3
展覧会の構成は
・ヘレーネ関連
・ゴッホ以外の作品
(以下はすべてゴッホで)
・オランダ時代の素描
・オランダ時代の油絵
・パリ時代
・アルル時代
・サン・レミとオーヴェール・シュル・オワーズ時代
となっている。これらはクレラー・ミュラー美術館のコレクションである。それ以外にオランダ国立ゴッホ美術館からのゴッホ作品4点が、特別出品ということで別途コーナを設けて展示されていた。このブログではそれらも上記の年代順構成の中で紹介したい。
ヘレーネ関連については前回にそこそこ書いたので割愛。次のゴッホ以外のコーナには「ヘレーネの愛した芸術家たち:写実主義からキュビスムまで」というタイトルが付けられていた。展覧会のメニュー的には前菜のようなもので、時に期待もしていなかったのであるが、これがなかなかの粒ぞろい。
「それは遠くからやって来る」
パウル・ヨセフ・コンスタンティン・ハブリエル 1887年
この長い名前はオランダ人の画家。これはヘレーネが最初に買った絵の1つらしい。寒々とした色調だし周りには何もない。そして走っているのは蒸気機関車だから、とても寂寥(せきりょう)とした印象を受ける。しかし、それにしてはタイトルが詩的だ。
考えてみればこの時代は(1887年は明治20年)少し郊外に出ればこんな風景が当たり前だったろう。それに蒸気機関車が登場してしばらく経ってはいるが、現在のように路線が張り巡らされているわけではないから、それを目にすることはまだ新鮮だった気もする。今ならリニアモーターカーが走っているみたいなもので、ひょっとしたら「すごい時代になりましたなあ」というメッセージが込められているのかも知れない。
ところで色々な展覧会を見てきて不満に思っていることがある。あまり新しい画家の展覧会に行かないせいもあるのだが「現代的なもの」が、絵画にはあまり描かれていないのだ。
印象派でたまに蒸気機関車が登場するものの、それ以降のものはほとんど見た記憶がない。クルマ、飛行機、電車、都会の風景、電化製品その他あれこれ。いわゆるモダンアートではなくて、どちらかといえばオーソドックスな画風で「スマホを眺める女」みたいな作品を描いている画家はいないのかな。
「静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ)」
アンリ・ファンタン = ラトゥール 1866年
こういうタイプの静物画はあまり好みじゃない。子供の頃は教科書でこんな絵を見て「他にいくらでも面白いものあるのに、何でわざわざ果物なの?」と思ったものだ。三つ子の魂百までじゃないが、そんな感覚を未だに引きずっているような気もする。
でもこの絵はとても気に入った。そういう首尾一貫しないフレキシブルなところは私の長所に違いない(^^ゞ 何がよかったかを表現するのは難しいが、あえていえばまさに静物で静まりかえっているところかな。
ところでこの絵はクレラー・ミュラー美術館からの借り入れで、2010年のゴッホ展でも展示されていた。前回に書いた理由で、ゴッホ展を開催すれば同館か国立ゴッホ美術館から借りる作品が多くを占めることになる。だとしても今回は過去に見た作品との重複がかなり多かったのが残念なところ。その話はまた後ほど。
「カフェにて」 ルノワール 1877年
見間違える心配のないイッカにもルノワールの作風。私の好きな「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の一部を切り取ったような雰囲気がある。でもタイトルが「カフェにて」で、ムーラン・ド・ラ・ギャレットはダンスホールやキャバレーに属する店だから違う場所だろうな。ちなみにこの頃のカフェは居酒屋のことを指す。
ところで左端のシルクハットの男性。
私の若い頃にこっそり似ている(^^ゞ
次の3つは点描の作品。ピサロのは半点描というべきか。点描って画家が考えているほど効果的な手法だと思わないのだけれど、たまに見ると面白いかな。
「2月、日の出、バザンクール」 ピサロ 1893年
「ポール =アン = ベッサンの日曜日」 スーラ 1888年
「ポルトリューの灯台、作品183」 シニャック 1888年
「花嫁」 ヨハン・トルン・プリッケル 1892〜1893年 ※一般的にはプリッカー
アール・ヌーヴォー的な雰囲気の絵。花嫁の後ろ姿と十字架のキリストが象徴的に描かれている。よく眺めるとかなり神秘的でもある。ヨハン・トルン・プリッケルは知らない画家だったが、画像検索するとステンドグラス作品が多くヒットする。色使いは別として、この作品にもそれに通ずるところがある感じ。
「キュクロプス」 ルドン 1914年
私はルドンを「グラン・ブーケ」という美しい絵で初めて知ったので、彼がそれとは正反対の薄気味悪い絵をたくさん描いていることが、未だに心の中で整理できていない。キュクロプスとはギリシャ神話に出てくる野蛮で人を食う単眼の巨人。
いかにも恐ろしい光景であるが、この絵を見た瞬間に子供の頃のトラウマ?がよみがえってきた。それは初代ウルトラマンの「まぼろしの雪山」に登場した伝説怪獣「ウー」。
今見ると笑える映像だが、私もまだ子供だったし、それにこの作品はいつものウルトラマンと違って悲しい物語で、それがより恐怖心を書き立てた。主人公の女の子が叫ぶ「ウ〜、ウ〜よ〜」という悲痛な声は未だに耳に残っている。これを見た数年後にスキーに連れて行ってもらって、生まれて初めての雪山を見た時、ウーが出てきそうな気がして半分マジでビビってしまったことは内緒である(^^ゞ
さてキュクロプスの目玉に視線を奪われしまうが、よく見ると山肌に裸体の女性が横たわっている。彼女はニンフ(妖精とか精霊とか、それが擬人化された女神みたいなもの)で、キュクロプスは彼女に恋をして眺めているらしい。そのストーリーを知った上で絵を眺めると、キュクロプスはけっこう愛嬌のある顔をしているし表情も優しい
よかった、これでウーの夢を見てうなされずに済む(^^ゞ
中高年限定の話題でゴメン。
次の3つはキュビスムの作品。
苦手なジャンルではあるが、あまり過激な作品じゃないので私でもついて行けた。
ちなみにサイフォン瓶とはコーヒーを淹れるサイフォンではなく、炭酸飲料などを入れておく容器のようだ。検索すると地ビールが多くヒットする。
「トランプ札とサイフォン瓶」 フアン・グリス 1916年
「菱形の中の静物」 ジョルジュ・ブラック 1917年
「ギターのある静物」 ジーノ・セヴェリーニ 1919年
このモンドリアンの作品はブログに貼り付けた画像では、どこが面白いの?という印象だと思う。だいたいモンドリアンといえば原色をイメージするし。でもこの色合いに微妙にソソられるものがあって、それがモンドリアンというのがまた意外で、けっこう長く眺めていた。もっともこんな絵だからパッと見から印象は変化しないのだが。
「グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のコンポジション」
モンドリアン 1919年
ここに紹介したのは12点、会場には全部で20展が展示されていた。ヘレーネのコレクションが素晴らしいのか、あるいはこれらの作品を選んだキュレーター(学芸員)のセンスが私の好みとマッチしていたのか、とにかく「捨て絵」はほとんどなく、最初に書いたように前菜ではなくメインディッシュの一部として見応えがあった。全部持ち帰って家に飾りたいくらい。そんなに広くてたくさんの壁面はないのが残念(^^ゞ
ーーー続く
・ヘレーネ関連
・ゴッホ以外の作品
(以下はすべてゴッホで)
・オランダ時代の素描
・オランダ時代の油絵
・パリ時代
・アルル時代
・サン・レミとオーヴェール・シュル・オワーズ時代
となっている。これらはクレラー・ミュラー美術館のコレクションである。それ以外にオランダ国立ゴッホ美術館からのゴッホ作品4点が、特別出品ということで別途コーナを設けて展示されていた。このブログではそれらも上記の年代順構成の中で紹介したい。
ヘレーネ関連については前回にそこそこ書いたので割愛。次のゴッホ以外のコーナには「ヘレーネの愛した芸術家たち:写実主義からキュビスムまで」というタイトルが付けられていた。展覧会のメニュー的には前菜のようなもので、時に期待もしていなかったのであるが、これがなかなかの粒ぞろい。
「それは遠くからやって来る」
パウル・ヨセフ・コンスタンティン・ハブリエル 1887年
この長い名前はオランダ人の画家。これはヘレーネが最初に買った絵の1つらしい。寒々とした色調だし周りには何もない。そして走っているのは蒸気機関車だから、とても寂寥(せきりょう)とした印象を受ける。しかし、それにしてはタイトルが詩的だ。
考えてみればこの時代は(1887年は明治20年)少し郊外に出ればこんな風景が当たり前だったろう。それに蒸気機関車が登場してしばらく経ってはいるが、現在のように路線が張り巡らされているわけではないから、それを目にすることはまだ新鮮だった気もする。今ならリニアモーターカーが走っているみたいなもので、ひょっとしたら「すごい時代になりましたなあ」というメッセージが込められているのかも知れない。
ところで色々な展覧会を見てきて不満に思っていることがある。あまり新しい画家の展覧会に行かないせいもあるのだが「現代的なもの」が、絵画にはあまり描かれていないのだ。
印象派でたまに蒸気機関車が登場するものの、それ以降のものはほとんど見た記憶がない。クルマ、飛行機、電車、都会の風景、電化製品その他あれこれ。いわゆるモダンアートではなくて、どちらかといえばオーソドックスな画風で「スマホを眺める女」みたいな作品を描いている画家はいないのかな。
「静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ)」
アンリ・ファンタン = ラトゥール 1866年
こういうタイプの静物画はあまり好みじゃない。子供の頃は教科書でこんな絵を見て「他にいくらでも面白いものあるのに、何でわざわざ果物なの?」と思ったものだ。三つ子の魂百までじゃないが、そんな感覚を未だに引きずっているような気もする。
でもこの絵はとても気に入った。そういう首尾一貫しないフレキシブルなところは私の長所に違いない(^^ゞ 何がよかったかを表現するのは難しいが、あえていえばまさに静物で静まりかえっているところかな。
ところでこの絵はクレラー・ミュラー美術館からの借り入れで、2010年のゴッホ展でも展示されていた。前回に書いた理由で、ゴッホ展を開催すれば同館か国立ゴッホ美術館から借りる作品が多くを占めることになる。だとしても今回は過去に見た作品との重複がかなり多かったのが残念なところ。その話はまた後ほど。
「カフェにて」 ルノワール 1877年
見間違える心配のないイッカにもルノワールの作風。私の好きな「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の一部を切り取ったような雰囲気がある。でもタイトルが「カフェにて」で、ムーラン・ド・ラ・ギャレットはダンスホールやキャバレーに属する店だから違う場所だろうな。ちなみにこの頃のカフェは居酒屋のことを指す。
ところで左端のシルクハットの男性。
私の若い頃にこっそり似ている(^^ゞ
次の3つは点描の作品。ピサロのは半点描というべきか。点描って画家が考えているほど効果的な手法だと思わないのだけれど、たまに見ると面白いかな。
「2月、日の出、バザンクール」 ピサロ 1893年
「ポール =アン = ベッサンの日曜日」 スーラ 1888年
「ポルトリューの灯台、作品183」 シニャック 1888年
「花嫁」 ヨハン・トルン・プリッケル 1892〜1893年 ※一般的にはプリッカー
アール・ヌーヴォー的な雰囲気の絵。花嫁の後ろ姿と十字架のキリストが象徴的に描かれている。よく眺めるとかなり神秘的でもある。ヨハン・トルン・プリッケルは知らない画家だったが、画像検索するとステンドグラス作品が多くヒットする。色使いは別として、この作品にもそれに通ずるところがある感じ。
「キュクロプス」 ルドン 1914年
私はルドンを「グラン・ブーケ」という美しい絵で初めて知ったので、彼がそれとは正反対の薄気味悪い絵をたくさん描いていることが、未だに心の中で整理できていない。キュクロプスとはギリシャ神話に出てくる野蛮で人を食う単眼の巨人。
いかにも恐ろしい光景であるが、この絵を見た瞬間に子供の頃のトラウマ?がよみがえってきた。それは初代ウルトラマンの「まぼろしの雪山」に登場した伝説怪獣「ウー」。
今見ると笑える映像だが、私もまだ子供だったし、それにこの作品はいつものウルトラマンと違って悲しい物語で、それがより恐怖心を書き立てた。主人公の女の子が叫ぶ「ウ〜、ウ〜よ〜」という悲痛な声は未だに耳に残っている。これを見た数年後にスキーに連れて行ってもらって、生まれて初めての雪山を見た時、ウーが出てきそうな気がして半分マジでビビってしまったことは内緒である(^^ゞ
さてキュクロプスの目玉に視線を奪われしまうが、よく見ると山肌に裸体の女性が横たわっている。彼女はニンフ(妖精とか精霊とか、それが擬人化された女神みたいなもの)で、キュクロプスは彼女に恋をして眺めているらしい。そのストーリーを知った上で絵を眺めると、キュクロプスはけっこう愛嬌のある顔をしているし表情も優しい
よかった、これでウーの夢を見てうなされずに済む(^^ゞ
中高年限定の話題でゴメン。
次の3つはキュビスムの作品。
苦手なジャンルではあるが、あまり過激な作品じゃないので私でもついて行けた。
ちなみにサイフォン瓶とはコーヒーを淹れるサイフォンではなく、炭酸飲料などを入れておく容器のようだ。検索すると地ビールが多くヒットする。
「トランプ札とサイフォン瓶」 フアン・グリス 1916年
「菱形の中の静物」 ジョルジュ・ブラック 1917年
「ギターのある静物」 ジーノ・セヴェリーニ 1919年
このモンドリアンの作品はブログに貼り付けた画像では、どこが面白いの?という印象だと思う。だいたいモンドリアンといえば原色をイメージするし。でもこの色合いに微妙にソソられるものがあって、それがモンドリアンというのがまた意外で、けっこう長く眺めていた。もっともこんな絵だからパッと見から印象は変化しないのだが。
「グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のコンポジション」
モンドリアン 1919年
ここに紹介したのは12点、会場には全部で20展が展示されていた。ヘレーネのコレクションが素晴らしいのか、あるいはこれらの作品を選んだキュレーター(学芸員)のセンスが私の好みとマッチしていたのか、とにかく「捨て絵」はほとんどなく、最初に書いたように前菜ではなくメインディッシュの一部として見応えがあった。全部持ち帰って家に飾りたいくらい。そんなに広くてたくさんの壁面はないのが残念(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 21:38|Permalink│Comments(0)│
2021年10月09日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その2
展覧会のサブタイトルにあるフィンセントとはゴッホの名前である。
日本的にいうなら「下の名前」。
原語で書くと Vincent van Gogh 。
何となくヴィンセント・ヴァン・ゴッホのほうが馴染みがあるけれど、それは英語読みでの発音。一般に最近は母国語の発音表記にする傾向がある。彼はオランダ人で、オランダ語読みだとVの発音がfになるらしくフィンセント・ファン・ゴッホとなる。
この母国語の発音で表記することには正統性があるようにも思えるが、今まで英語読みで馴染んできた経緯のある言葉では違和感を感じることも多い。昨年のハマスホイ展は彼の母国であるデンマーク語に忠実に表記する原理主義で貫かれていた。ハマスホイのことは知らなかったから、従来の英語読みのハンマースホイじゃなくても気にならなかったが、、
Laurits Andersen Ring
という画家がラウリツ・アナスン・レングと表記されているのにはちょっと無理があると感じた。中央のスペルを見て欲しい。アナスンとはアンデルセンのデンマーク語読みなのである。やっぱりアンデルセンはアンデルセンじゃないと。
実はフィンセント・ファン・ゴッホというのはオランダ語読みと英語読みのチャンポンである。Goghのオランダ語読みはカタカナにするならホッホとなる。さすがにこれじゃ日本で通用しないからゴッホが用いられている。だったらどうしてフィンセントにする?と何かと外国語の表記は難しいもの。
ついでにいうと van Gogh のvan はミドルネームではなく苗字の一部とのこと。だから省略はできなくてオランダでは van Gogh と呼ばれる(どうして van が小文字なんだろう?)。日本的にゴッホとだけ呼ぶのは長谷川さんを谷川さんと呼ぶみたいなもので別人になってしまうのかな。
というわけでゴッホはオランダ語読みするならファンホッホとなる。しかしファンでホッホなんて愉快なオッサンみたいみたいで、ゴッホのイメージと違っちゃうなあ(^^ゞ
なおゴッホは1853年生まれで1890年没。
明治維新が1868年だから、その頃の人ね。
ヘレーネとはヘレーネ・クレラー・ミュラーという女性のこと。(ヘレーネの英語読みがヘレン)1869年生まれで1939年没。
彼女は夫のアントン・クレラー・ミュラーと供にクレラー・ミュラー美術館を創設。実業家のアントンも財をなした人物だったが、彼女の実家はさらに「太かった」ようだ。
ちなみに夫婦別姓問題が話題となっている日本であるが、この夫婦はアントン・クレラーさんとヘレーネ・ミュラーさんが結婚したもの。オランダでは苗字をつなげてクレラー・ミュラーとなるのか。その子供が結婚したらさらに苗字を足していくのだろうか。
このクレラー・ミュラー美術館は首都アムステルダムから100キロほど離れた国立公園の中にある。その国立公園も元々はクレラー・ミュラー夫妻の私有地だったというから、どれくらいの金持ちだったかがわかるというもの。
だからヘレーネ奥様は白馬にだって乗っちゃいます!
なぜか横座りだけど。
ところでゴッホの作品は生前に1枚か数枚売れただけだといわれている。油絵だけで約860点を描いたとされるから、つまりほとんど売れなかったことになる。美しいメロディーのポップスが流行っている頃に、ヘヴィメタのロックみたいな絵を描いていたのがゴッホである。だから世間に受け入れられなかった。
もっともゴッホが絵を描いていたのは10年間ほどであり、その程度のキャリアでは知名度不足で売れないのは当然で、ゴッホの絵が売れ始めた時期は他の画家と較べても早いという学説もある。だいたい死後10年目くらいかららしい。
ヘレーネは1908年からゴッホの作品をコレクションし始め、1929年までに油彩90点、素描180点あまりを集めた。いってみればまだ「ぽっと出」のゴッホの価値をいち早く見抜いたのだから、その目は確かである。彼女がゴッホの作品を買うことで、ゴッホの人気も上がっていったとのこと。
そして1938年に美術館を創設。ただしこの頃にはクレラー・ミュラー家は没落しかけていて、美術館を建てることを条件にコレクションと土地を政府に寄付したのだが(/o\) このことから既にその当時、政府が美術館を建てる価値を認めるくらいにゴッホの評価が高まっていたことがわかる。
このクレラー・ミュラー美術館のゴッホ・コレクションは、ゴッホの遺族が相続した作品を元にした現在のオランダ国立ゴッホ美術館(油絵約200点を所有)と並んで双璧で、2大ゴッホ美術館と呼ばれている。
というわけでゴッホ展を開催する場合は、必然的にこの両美術館から作品を借りることが多くなる。だから内容的に「クレラー・ミュラー美術館収蔵ゴッホ展」は今までも開かれてきたが、今回は創設者のヘレーネにもスポットを当てた企画となっている。
それで会場にヘレーネの写真や略歴などの資料も展示されていた。しかしはっきり言ってゴッホの作品自体とは無関係な話。つまりは今回を含めてこの20年間に9回も開かれているゴッホ展である。マンネリ化する企画コンセプトに困って、ヘレーネを持ち出してきた感がなきにしもあらず。
それにしても、こんな大富豪で目利きのヨメをもらって、
アート三昧な人生を送りたかったゼ(^^ゞ
なかなか話が作品までたどり着かないがm(_ _)m ーーー続く
wassho at 20:45|Permalink│Comments(0)│
2021年10月08日
ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント
6月に鳥獣戯画展を見た。でもあれは漫画みたいなものだから、しっかりとした絵を見たのは1月の田中一村展が最後である。そろそろ心が渇いてきたので美術展情報をチェック。
しかしコロナのせいで美術展も不作気味。大型の美術展は準備に2〜3年はかけるらしいから、現在開催されているものはコロナ流行前に企画されていてコロナとは関係ないはず。でもコロナの影響で準備が途中で中止になったものもあるだろうから、それが影響しているのかな。
それで選んだのがゴッホ展。訪れたのは10月5日。またゴッホかよという気がしなくもないが、それでも出かけたのは「黄色い家」という作品が展示されているから。
私が死ぬまでに見ておきたい絵の1つに、ゴッホの「夜のカフェテラス」という作品がある。
これは黄色フェチのゴッホが描いたあり得ない夜の光景。2005年のゴッホ展に展示されたが、その頃は今のように美術館通いをしていなかった。そして、その前に来たのは何と1955年で私が生まれるよりも前! 単純計算すれば50年に1度のペースな訳で、日本で待っていたら見られない可能性が高い。
「黄色い家」はゴッホがアルルで住んでいた家。「夜のカフェテラス」とは違う建物なのだが、まあご近所だったらしいし、「黄色い家」にもテラスが描かれていて「夜のカフェテラス」の昼間版みたいなものだと勝手に決めつけて見に行くことにした。
さてコロナ以降、ほとんどの展覧会は予約制になった。入場時刻が30分単位で指定され、スマホ決済して、送られてきたQRコードなどを入口で提示する方式。音楽会などと違って気が向いた時にふらっと出向けるのが美術展の魅力だったのに、手間が掛かるようになって残念。コロナめ!
それで予約時刻より早く着いてしまい、まずはリニューアルされた上野駅公園口の駅ナカをブラブラ。以前の姿をあまり覚えていないが、こんなに広々した感じはなかったと思う。
左手は今や貴重な本屋さん。右手にはユニクロ。
このあたりは食品関連。
改札口へ向かう。
鳥獣戯画展の時に書いたように、以前は公園に入るのに道路を渡らなければいけなかったが、リニューアルで改札口と公園が直結になった。
改札口をでたところ。
雲が秋の形をしている。イワシ雲だったかな。
西洋美術館はまだ改装工事中。
昨年に冬ボタンを見に来た東照宮ぼたん苑は、秋にダリアを咲かせているらしい。知っていたら、こちらも見られるスケジュールで来たのに。いつもながら事前準備が甘い(/o\)
公園の中央まで進んで博物館方向。
噴水池。
置かれているのはインパチェンスだと思う。
最近はスマホで写真を撮って調べられる植物図鑑アプリが充実してきたので便利になった。ただし今回は3つのアプリを使って2つがニチニチソウ、1つがインパチェンスの判定だった。後で調べて葉にギザギザがあるからインパチェンスと判明。
噴水池を横から。
広い空間で心も軽やかになるね。
横道にそれて美術館へ向かう。
奥に見えるのは国立博物館に移築された黒門。
どこかの大名屋敷の正門で、東大の赤門(加賀前田家)と並ぶ価値があるらしい。
その黒門があり、かつレンガ造りの美術館の横を通るこの道は
上野公園でもお気に入りの場所。
毎度お馴染みの東京都美術館。
入口にこんな文字があるなんて、今まで気がついていなかった。
いちおう当日券もあるらしいが、買えるかどうかは運次第。
予約時刻になっていたが受付開始直後は混雑するので、しばらくミュージアムショップを冷やかす。ちなみに指定された30分間に入場する必要はあるが、鑑賞時間に制限はない。
ゴッホグッズがたくさん売られている。
あまり似ていないゴッホ人形(>_<)
靴下はゴッホの顔をしていた。
いよいよ会場へ。
ーーー続く。
しかしコロナのせいで美術展も不作気味。大型の美術展は準備に2〜3年はかけるらしいから、現在開催されているものはコロナ流行前に企画されていてコロナとは関係ないはず。でもコロナの影響で準備が途中で中止になったものもあるだろうから、それが影響しているのかな。
それで選んだのがゴッホ展。訪れたのは10月5日。またゴッホかよという気がしなくもないが、それでも出かけたのは「黄色い家」という作品が展示されているから。
私が死ぬまでに見ておきたい絵の1つに、ゴッホの「夜のカフェテラス」という作品がある。
これは黄色フェチのゴッホが描いたあり得ない夜の光景。2005年のゴッホ展に展示されたが、その頃は今のように美術館通いをしていなかった。そして、その前に来たのは何と1955年で私が生まれるよりも前! 単純計算すれば50年に1度のペースな訳で、日本で待っていたら見られない可能性が高い。
「黄色い家」はゴッホがアルルで住んでいた家。「夜のカフェテラス」とは違う建物なのだが、まあご近所だったらしいし、「黄色い家」にもテラスが描かれていて「夜のカフェテラス」の昼間版みたいなものだと勝手に決めつけて見に行くことにした。
さてコロナ以降、ほとんどの展覧会は予約制になった。入場時刻が30分単位で指定され、スマホ決済して、送られてきたQRコードなどを入口で提示する方式。音楽会などと違って気が向いた時にふらっと出向けるのが美術展の魅力だったのに、手間が掛かるようになって残念。コロナめ!
それで予約時刻より早く着いてしまい、まずはリニューアルされた上野駅公園口の駅ナカをブラブラ。以前の姿をあまり覚えていないが、こんなに広々した感じはなかったと思う。
左手は今や貴重な本屋さん。右手にはユニクロ。
このあたりは食品関連。
改札口へ向かう。
鳥獣戯画展の時に書いたように、以前は公園に入るのに道路を渡らなければいけなかったが、リニューアルで改札口と公園が直結になった。
改札口をでたところ。
雲が秋の形をしている。イワシ雲だったかな。
西洋美術館はまだ改装工事中。
昨年に冬ボタンを見に来た東照宮ぼたん苑は、秋にダリアを咲かせているらしい。知っていたら、こちらも見られるスケジュールで来たのに。いつもながら事前準備が甘い(/o\)
公園の中央まで進んで博物館方向。
噴水池。
置かれているのはインパチェンスだと思う。
最近はスマホで写真を撮って調べられる植物図鑑アプリが充実してきたので便利になった。ただし今回は3つのアプリを使って2つがニチニチソウ、1つがインパチェンスの判定だった。後で調べて葉にギザギザがあるからインパチェンスと判明。
噴水池を横から。
広い空間で心も軽やかになるね。
横道にそれて美術館へ向かう。
奥に見えるのは国立博物館に移築された黒門。
どこかの大名屋敷の正門で、東大の赤門(加賀前田家)と並ぶ価値があるらしい。
その黒門があり、かつレンガ造りの美術館の横を通るこの道は
上野公園でもお気に入りの場所。
毎度お馴染みの東京都美術館。
入口にこんな文字があるなんて、今まで気がついていなかった。
いちおう当日券もあるらしいが、買えるかどうかは運次第。
予約時刻になっていたが受付開始直後は混雑するので、しばらくミュージアムショップを冷やかす。ちなみに指定された30分間に入場する必要はあるが、鑑賞時間に制限はない。
ゴッホグッズがたくさん売られている。
あまり似ていないゴッホ人形(>_<)
靴下はゴッホの顔をしていた。
いよいよ会場へ。
ーーー続く。
wassho at 23:11|Permalink│Comments(0)│
2021年06月29日
トーハクの総合文化展ウロチョロ
6月8日に上野にある東京国立博物館(トーハク)で見てきた鳥獣戯画展の番外編その2。
庭園をブラブラした後は本館で常設展を。
何度も来ているのについ写真を撮ってしまうレトロで重厚な空間。
本日の展示内容。
写真では切れてしまっているが全部で9つあった。開催期日を見ると、だいたい2週間に1つの割合で展示が入れ替わるみたい。
ところでトーハクの総合文化展とはいわゆる常設展だと思っているのだが、普通の美術館のそれと較べれば、もう少し企画的要素が強いのかも知れない。収蔵品数が膨大だから何かテーマを設けないと展示しにくいのかな。ちなみに東京国立博物館の収蔵品は約12万件で、京都国立博物館の約1万5000件や国立西洋美術館の約6000件と較べて圧倒的。
ただしここに記されていない展示もあったような。それらと総合文化展との関わりがよくわからないが、まあとにかくトーハクに来ればたくさんの展示品を見ることができる。
本館は2階建て。建物の外周部分に沿って展示室が連なっている。
最初に向かったのはこの期間の目玉展示である「鳥獣戯画展スピンオフ」。スピンは回るでオフは離れていくだから、スピンオフはクルクル回って遠心力で飛び出すというようなイメージ。そこから転じて派生という意味合い。ドラマや映画でよく使われるようになった。
ここでは鳥獣戯画に登場する動物に焦点を当てて、いろいろな像や絵などが展示されていたがーーーあまり関心を持てなかった。結局、鳥獣戯画とは甲巻に描かれている内容・世界観がすべてで、それを見てニコニコできればいい〜それ以上でも以下でもないというのが私の捉え方のような気がする。だから展覧会での模本や断簡でオリジナルに迫ろうという企画にもあまり興味が湧かなかったのだと思う。
またこのスピンオフ展には山崎董洤(やまざき とうせん)という絵師が、鳥獣戯画4巻を明治時代に模写したものが展示されていた。また模本かと思いあまりよく見なかったが、これは「鳥獣戯画展のチケットが取れなかった人のための展示でもある」というようなこともいわれている。展覧会に入れないのに、これだけを見に来る人なんているのかな?
当初はスピンオフ展だけを見るつもりだったが、せっかくなので館内をウロチョロと。
トーハクでいつも楽しみなのは埴輪とかの古代日本の展示。いつぞやは国宝の挂甲武人(けいこうぶじん)を見てけっこう興奮した。展示室に入るといきなり国宝が鎮座していてビックリするのがトーハクの醍醐味。
仏像見たり絵巻見たり。
展示室と展示室の途中に設けられている休憩スペース。
この椅子がなかなかよかった。何がよかったかというと座面のフレームが左右に張り出しているが、座るとその反り上がっている部分が手を置くのに絶妙な高さ。外観的にはいかにも「デザインしました」という感じでまったく好みではないが、試してみないとわからないこともあると実感。
この休憩スペースからテラスに出て庭園を眺められる。前回の投稿で庭園側から写真を撮った場所。ついでに2階以上にあって屋根のあるのがベランダ、ないのがバルコニー、1階で外に出やすいように床などを敷いたのがテラスね。
テラスに出ると隅に係員がいた。おそらく日本庭園が閉まる午後4時に会わせてテラスも出入りができなくなるので締め切るために待機しているのだろう。この時は4時2分前。「雨で床が濡れているのでご注意を」と声をかけられる。いうほど濡れていなかったがボーッと立っているだけじゃ退屈なんだろう(^^ゞ
ところで後でスマホを見ると、午後3時半に80mmもの豪雨予報が出ていた。実際にはこの前後にそんな雨は降っていない。このアプリの予報はいつも大げさなのが困る。
館内の所々にこのレトロなダイアル式の電話が置いてある。いちおう内線番号が書かれているがつながるのかな。それともシャレ?
武具が置いてあるコーナーに来た。
日本刀のよさというのもサッパリわからないのだが、
これは国宝らしい!
では改めて国宝を鑑賞しましょう。
やはり何も感じないが(^^ゞ
最近は刀剣乱舞というゲームの影響で日本刀がブームらしく、刀剣女子や日本刀女子という言葉もよく耳にする。何でも「女子」を付ければいいものじゃないとは思っているが。最初の写真にも一眼レフを構えている熱心な刀剣女子がうっすらと写っているよ。
最後に見たのは大型の仏像コーナー。
これはあまりヤル気のないホトケダンサーズ?
ところで一般的に(日本では)
博物館:写真撮影可
美術館:写真撮影不可
である。トーハクの場合は何も注意書きがなければ撮影可で、不可の場合はその旨の表示がある。この仏像コーナーでは5点のうち1点が撮影可能だった。似たような仏像なのに何が違うのか。たまたま係員がいたので尋ねてみると、
トーハク所蔵(所有権があるという意味)の展示は原則的に撮影可。
寄託(所有者からトーハクが預かって展示)されているものは所有者の意向による。
ということだった。ではその所有者はどうして撮影禁止にするのだろう。海外では美術館でもたいてい撮影できる。やはり「写真を撮ると魂を抜かれる」と思われていた伝統がまだ生きているのかな(^^ゞ
話は変わるがトーハクの常設展示を見て歩くと、いつも注意力散漫な鑑賞になってしまう。
その原因はおそらく
館内がメチャ広い
全体的なつながりがなく、あらゆる時代や内容のものが展示されている
個々の展示方法にもメリハリがない
企画展のオマケで見ているという意識がどこかにある
からかな。
何となくもったいないというか、もっと工夫できるはずと思ってしまう。
もっとも具体的な提案はないが。
来た時には止まっていた噴水が噴き出していた。
残念なことに今年はこれからおもしろそうな展覧会がほとんどない。コロナで企画が進まなかったのかなあ。でも大規模な展覧会は数年かけて準備するものだから、コロナの影響が出るとしたらもっと先だと思うけれど。それはそれで心配ーーー
庭園をブラブラした後は本館で常設展を。
何度も来ているのについ写真を撮ってしまうレトロで重厚な空間。
本日の展示内容。
写真では切れてしまっているが全部で9つあった。開催期日を見ると、だいたい2週間に1つの割合で展示が入れ替わるみたい。
ところでトーハクの総合文化展とはいわゆる常設展だと思っているのだが、普通の美術館のそれと較べれば、もう少し企画的要素が強いのかも知れない。収蔵品数が膨大だから何かテーマを設けないと展示しにくいのかな。ちなみに東京国立博物館の収蔵品は約12万件で、京都国立博物館の約1万5000件や国立西洋美術館の約6000件と較べて圧倒的。
ただしここに記されていない展示もあったような。それらと総合文化展との関わりがよくわからないが、まあとにかくトーハクに来ればたくさんの展示品を見ることができる。
本館は2階建て。建物の外周部分に沿って展示室が連なっている。
最初に向かったのはこの期間の目玉展示である「鳥獣戯画展スピンオフ」。スピンは回るでオフは離れていくだから、スピンオフはクルクル回って遠心力で飛び出すというようなイメージ。そこから転じて派生という意味合い。ドラマや映画でよく使われるようになった。
ここでは鳥獣戯画に登場する動物に焦点を当てて、いろいろな像や絵などが展示されていたがーーーあまり関心を持てなかった。結局、鳥獣戯画とは甲巻に描かれている内容・世界観がすべてで、それを見てニコニコできればいい〜それ以上でも以下でもないというのが私の捉え方のような気がする。だから展覧会での模本や断簡でオリジナルに迫ろうという企画にもあまり興味が湧かなかったのだと思う。
またこのスピンオフ展には山崎董洤(やまざき とうせん)という絵師が、鳥獣戯画4巻を明治時代に模写したものが展示されていた。また模本かと思いあまりよく見なかったが、これは「鳥獣戯画展のチケットが取れなかった人のための展示でもある」というようなこともいわれている。展覧会に入れないのに、これだけを見に来る人なんているのかな?
当初はスピンオフ展だけを見るつもりだったが、せっかくなので館内をウロチョロと。
トーハクでいつも楽しみなのは埴輪とかの古代日本の展示。いつぞやは国宝の挂甲武人(けいこうぶじん)を見てけっこう興奮した。展示室に入るといきなり国宝が鎮座していてビックリするのがトーハクの醍醐味。
仏像見たり絵巻見たり。
展示室と展示室の途中に設けられている休憩スペース。
この椅子がなかなかよかった。何がよかったかというと座面のフレームが左右に張り出しているが、座るとその反り上がっている部分が手を置くのに絶妙な高さ。外観的にはいかにも「デザインしました」という感じでまったく好みではないが、試してみないとわからないこともあると実感。
この休憩スペースからテラスに出て庭園を眺められる。前回の投稿で庭園側から写真を撮った場所。ついでに2階以上にあって屋根のあるのがベランダ、ないのがバルコニー、1階で外に出やすいように床などを敷いたのがテラスね。
テラスに出ると隅に係員がいた。おそらく日本庭園が閉まる午後4時に会わせてテラスも出入りができなくなるので締め切るために待機しているのだろう。この時は4時2分前。「雨で床が濡れているのでご注意を」と声をかけられる。いうほど濡れていなかったがボーッと立っているだけじゃ退屈なんだろう(^^ゞ
ところで後でスマホを見ると、午後3時半に80mmもの豪雨予報が出ていた。実際にはこの前後にそんな雨は降っていない。このアプリの予報はいつも大げさなのが困る。
館内の所々にこのレトロなダイアル式の電話が置いてある。いちおう内線番号が書かれているがつながるのかな。それともシャレ?
武具が置いてあるコーナーに来た。
日本刀のよさというのもサッパリわからないのだが、
これは国宝らしい!
では改めて国宝を鑑賞しましょう。
やはり何も感じないが(^^ゞ
最近は刀剣乱舞というゲームの影響で日本刀がブームらしく、刀剣女子や日本刀女子という言葉もよく耳にする。何でも「女子」を付ければいいものじゃないとは思っているが。最初の写真にも一眼レフを構えている熱心な刀剣女子がうっすらと写っているよ。
最後に見たのは大型の仏像コーナー。
これはあまりヤル気のないホトケダンサーズ?
ところで一般的に(日本では)
博物館:写真撮影可
美術館:写真撮影不可
である。トーハクの場合は何も注意書きがなければ撮影可で、不可の場合はその旨の表示がある。この仏像コーナーでは5点のうち1点が撮影可能だった。似たような仏像なのに何が違うのか。たまたま係員がいたので尋ねてみると、
トーハク所蔵(所有権があるという意味)の展示は原則的に撮影可。
寄託(所有者からトーハクが預かって展示)されているものは所有者の意向による。
ということだった。ではその所有者はどうして撮影禁止にするのだろう。海外では美術館でもたいてい撮影できる。やはり「写真を撮ると魂を抜かれる」と思われていた伝統がまだ生きているのかな(^^ゞ
話は変わるがトーハクの常設展示を見て歩くと、いつも注意力散漫な鑑賞になってしまう。
その原因はおそらく
館内がメチャ広い
全体的なつながりがなく、あらゆる時代や内容のものが展示されている
個々の展示方法にもメリハリがない
企画展のオマケで見ているという意識がどこかにある
からかな。
何となくもったいないというか、もっと工夫できるはずと思ってしまう。
もっとも具体的な提案はないが。
来た時には止まっていた噴水が噴き出していた。
残念なことに今年はこれからおもしろそうな展覧会がほとんどない。コロナで企画が進まなかったのかなあ。でも大規模な展覧会は数年かけて準備するものだから、コロナの影響が出るとしたらもっと先だと思うけれど。それはそれで心配ーーー
wassho at 22:37|Permalink│Comments(0)│
2021年06月27日
トーハクの庭園ブラブラ
6月8日に上野にある東京国立博物館(トーハク)で見てきた鳥獣戯画展の番外編その1。
鳥獣戯画展の後は総合文化展を見るつもりだった。トーハクの総合文化展とは一般にいう常設展のことである。その展示室のある本館とは館内連絡通路で結ばれているけれど、外の空気を吸いたくなったのでいったん建物を出る。
するとこんな看板を発見。
トーハクの日本庭園は「3月中旬〜4月中旬」「10月中旬〜12月上旬」と年に3ヶ月ほどしか公開されていない。しかしコロナで休館していたから公開時期を延ばしたのだろうか。理由はわからないが、とにかくラッキー!と見学することに。
しかし看板には10:00 ー 15:30の文字が。この写真の撮影時刻は15時3分とあまり時間がない。後で知ったのだが庭園は16時まで開園されていて、ここと反対側の東入口だとその時間まで出入りできるみたい。入り口によって使える時間を分けるのも意味不明であるが、少なくともその注意書きはここに記しておくべき。
平成館と本館の連絡通路の下をくぐって庭園に入る。
石灯籠の方向に池がある。
そちらに向かわず、そのままこの通路を進んでいくと、
これは応挙館という建物。
元は江戸時代に建てられた寺の書院で1933年(昭和8年)にここへ移築されたとのこと。内部の壁や襖(ふすま)に円山応挙の描いた墨絵があるらしいが、建物が閉まっていたので素通り。
その奥にあったのが九条館。
摂関家である九条家の建物として京都御所内にあったものを、明治になって九条家が東京に移った際に建物も移築。1934年(昭和9年)に寄贈されて現在の場所に再移築。最初に建てられたのは400年ほど前らしい。それにしても明治の初め、まだ鉄道もトラックもない時代に京都から東京まで家1軒分の資材を運ぶのはたいへんだったろうな。
こちらは中が見られたが(入ることはできなかった)、ふすま絵のようなものはなし。あまりこういうものに興味がなく、そのよさがわからないが、行楽地でたまに見かける古民家とはレベルが違うことは確か。
通路を元に戻り池に進む。
池の畔にあったのは六窓庵(ろくそうあん)という茶室。これも色々と由緒があるのだが長くなるので省略。とりあえずトーハクのホームページのURLだけ記しておく。 https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=121
内部は伺えなかったが、外から見る限りは古くてボロッチイ小屋という印象しかなかった。相撲取りが10人くらいで体当たりしたら倒れそうである。
池越にトーハク本館裏手を眺める。
ちょっと雲行きが怪しくなってきた。
さらに池の周りを歩くと転合庵(てんごうあん)という小堀遠州ゆかりの茶室。これも400年ほど前の建物。解説は上記のURLで。とりあえず写真的には無造作に置かれたブルーのジョウロが邪魔(^^ゞ
水際へ降りていく。
この日はデジカメではなくiPhoneでの撮影だが、どうも調子がおかしかった。ピントがボケているものが多いし、これなんかは左側の葉だけがブレたようになっている。撮影する時にアプリの画面がいつもと違うような気もしたが、自動ではなくマニュアル設定になっていたのかも知れない。撮った写真をその場で確認しないタイプなものでーーー
池をほぼ半周回って本館のそばまでやってくる。
窓のところに人がいるのはテラスになっている場所。本館の通路からテラスに出られるが、そこから庭には降りられない。逆に庭園からテラスを伝って本館に入るのも不可。(テラスからは降りられるが戻るのが禁止だったかも知れない。だから階段を降りている人がいるのかも)
本館側から見た池。池に名前はないみたい。
ここから見えている茶室は六窓庵。
30分ほどのブラブラだったから見て回れたのは庭園の半分程度かな。なおこの庭園の面積の資料は少なく8300坪と記しているものが1つ見つかっただけ。それが正しいとすれば2.7ヘクタールとなる。ちなみにトーハク全体の敷地は12ヘクタール。ついでに上野動物園は14ヘクタールで上野公園としてなら54ヘクタール。
まあ造園レベル的には(古い茶室に興味があるなら別として)わざわざ見に来るような場所ではない。しかし展覧会のついでに散策する分には気分転換になるし、また庭園を見下ろす高い建物がないのもポイントが高い。サクラと紅葉の時だけといわずに通年で開放すればいいのに。
鳥獣戯画展の後は総合文化展を見るつもりだった。トーハクの総合文化展とは一般にいう常設展のことである。その展示室のある本館とは館内連絡通路で結ばれているけれど、外の空気を吸いたくなったのでいったん建物を出る。
するとこんな看板を発見。
トーハクの日本庭園は「3月中旬〜4月中旬」「10月中旬〜12月上旬」と年に3ヶ月ほどしか公開されていない。しかしコロナで休館していたから公開時期を延ばしたのだろうか。理由はわからないが、とにかくラッキー!と見学することに。
しかし看板には10:00 ー 15:30の文字が。この写真の撮影時刻は15時3分とあまり時間がない。後で知ったのだが庭園は16時まで開園されていて、ここと反対側の東入口だとその時間まで出入りできるみたい。入り口によって使える時間を分けるのも意味不明であるが、少なくともその注意書きはここに記しておくべき。
平成館と本館の連絡通路の下をくぐって庭園に入る。
石灯籠の方向に池がある。
そちらに向かわず、そのままこの通路を進んでいくと、
これは応挙館という建物。
元は江戸時代に建てられた寺の書院で1933年(昭和8年)にここへ移築されたとのこと。内部の壁や襖(ふすま)に円山応挙の描いた墨絵があるらしいが、建物が閉まっていたので素通り。
その奥にあったのが九条館。
摂関家である九条家の建物として京都御所内にあったものを、明治になって九条家が東京に移った際に建物も移築。1934年(昭和9年)に寄贈されて現在の場所に再移築。最初に建てられたのは400年ほど前らしい。それにしても明治の初め、まだ鉄道もトラックもない時代に京都から東京まで家1軒分の資材を運ぶのはたいへんだったろうな。
こちらは中が見られたが(入ることはできなかった)、ふすま絵のようなものはなし。あまりこういうものに興味がなく、そのよさがわからないが、行楽地でたまに見かける古民家とはレベルが違うことは確か。
通路を元に戻り池に進む。
池の畔にあったのは六窓庵(ろくそうあん)という茶室。これも色々と由緒があるのだが長くなるので省略。とりあえずトーハクのホームページのURLだけ記しておく。 https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=121
内部は伺えなかったが、外から見る限りは古くてボロッチイ小屋という印象しかなかった。相撲取りが10人くらいで体当たりしたら倒れそうである。
池越にトーハク本館裏手を眺める。
ちょっと雲行きが怪しくなってきた。
さらに池の周りを歩くと転合庵(てんごうあん)という小堀遠州ゆかりの茶室。これも400年ほど前の建物。解説は上記のURLで。とりあえず写真的には無造作に置かれたブルーのジョウロが邪魔(^^ゞ
水際へ降りていく。
この日はデジカメではなくiPhoneでの撮影だが、どうも調子がおかしかった。ピントがボケているものが多いし、これなんかは左側の葉だけがブレたようになっている。撮影する時にアプリの画面がいつもと違うような気もしたが、自動ではなくマニュアル設定になっていたのかも知れない。撮った写真をその場で確認しないタイプなものでーーー
池をほぼ半周回って本館のそばまでやってくる。
窓のところに人がいるのはテラスになっている場所。本館の通路からテラスに出られるが、そこから庭には降りられない。逆に庭園からテラスを伝って本館に入るのも不可。(テラスからは降りられるが戻るのが禁止だったかも知れない。だから階段を降りている人がいるのかも)
本館側から見た池。池に名前はないみたい。
ここから見えている茶室は六窓庵。
30分ほどのブラブラだったから見て回れたのは庭園の半分程度かな。なおこの庭園の面積の資料は少なく8300坪と記しているものが1つ見つかっただけ。それが正しいとすれば2.7ヘクタールとなる。ちなみにトーハク全体の敷地は12ヘクタール。ついでに上野動物園は14ヘクタールで上野公園としてなら54ヘクタール。
まあ造園レベル的には(古い茶室に興味があるなら別として)わざわざ見に来るような場所ではない。しかし展覧会のついでに散策する分には気分転換になるし、また庭園を見下ろす高い建物がないのもポイントが高い。サクラと紅葉の時だけといわずに通年で開放すればいいのに。
wassho at 23:15|Permalink│Comments(0)│
2021年06月18日
特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」 その6
会場は2つに分かれていて、第1会場には今まで書いてきた住吉家旧蔵本(模本)と、甲・乙・丙・丁の鳥獣戯画全4巻、それと江戸時代の初めから最近まで鳥獣戯画が収められていた箱が展示されていた。
外箱と内箱に分かれ(写真上段)、内箱も二重構造で(写真下段)絵巻を2つ入れたものを二段に重ねて、それを上から覆う造りになっている。この立派な箱を見れば鳥獣戯画がどんな扱いをされてきたかわかるというもの。
第2会場に入る。
もう鳥獣戯画を見終わったのに何が展示してあったのかというと、迎えてくれるのは「鳥獣戯画の断簡と模本 ー 失われた場面の復原」というコーナーである。
断簡とは切れ切れになった文書が本来の意味であるが、美術用語では絵巻の一部が切り離され掛軸などに仕立て直されて残っているものを意味する。ワガママなことをするヤツがいるものだと思うが、これは絵巻アルアルなことらしい。
※なお復原と復元はどちらも「もとの姿に戻すこと」だが、文化財用語では、
今あるものをオリジナルの状態に戻すのが復原、失われたものを(新たに)
再現するのが復元。
断簡 東博本:祭礼の行列風景らしい
断簡 益田家旧蔵本:サルとウサギがシカに乗って競争。
サルはウサギの耳を引っ張って妨害行為中(^^ゞ
断簡 MIHO Museum本
もうひとつ高松家旧蔵本の断簡というのがあった。
やはり断簡はおいしいところを切り取っているなという印象。
それぞれの名前は基本的に所有者に由来している。ただし現在の所有者とは限らない。
東博:東京国立博物館の意味だが、この断簡の現在の所有は独立行政法人国立
文化財機構で、保管が東京国立博物館。
益田家:明治時代に三井財閥で活躍した実業家で茶人の益田孝の益田家。
現在の所有者は記載がないから今も益田家にあるか別の個人の所有。
MIHO Museum:滋賀県にある神慈秀明会という宗教法人が運営する
博物館が所有。
高松家:調べてもどこの高松さんなのかかわからなかった。現在はアメリカ人の
個人所有でブルックリン美術館に寄託されている(預けること)。
模写である模本は、第1会場にあった住吉家旧蔵本(1598年作)の他に以下のものが展示されていた。
長尾家旧蔵本 15〜16世紀の作 長尾家については不明
探幽縮図 江戸幕府の絵師である狩野探幽による17世紀の模写
松浦家本 1819年作 平戸藩主の松浦静山が別の模写から模写させたもの
長尾家旧蔵本から。
どちらも現在の鳥獣戯画には描かれていない内容。
この時代にもう高飛び競技があったのに驚く。
ヘビにビビって逃げるカエル。
断簡があれば鳥獣戯画は一部が切り取られていることになる(切り取られた後に戻されたものもあるらしい)。そして模本はそれぞれが模写された時代の鳥獣戯画の姿を示している。それらをあれこれと研究して推測されているのは、
23枚の用紙が張り合わされている甲巻は、もともと2巻の絵巻として存在していた。
現在の1〜10枚目を含む絵巻に、住吉家の模本を中心に益田家・高松家・
MIHO Museumの断簡の内容を加えたもの。
現在の11〜23枚目を含む絵巻に、長尾家の模本を中心に東博の断簡の内容を
加えたもの。
それが切り取られて短くなったので?
江戸時代初めに2巻を1巻にまとめられて現在に伝わったーーーと考えられる。
甲巻が2つあったなんてビックリである。ただしその推測によって復原されたものが展示されていたが、ただでさえストーリーにつながりのない鳥獣戯画が、ますます訳のわからない内容になっていたような。(どうでもいいことだが、模本を使うなら、それは復原ではなく復元だろうという気がする)
また最も古い住吉家や長尾家の模本でも、鳥獣戯画が描かれてから数百年後の模写であり、それ以前に切り取られた断簡は反映していない。だから今後、もっと古い時代の模本、あるいはまとまった数の断簡が新たに出てくれば別だが、その可能性は極めて低いと思うのでオリジナルの姿に近づくのはかなり難しいと思う。
ただしストーリーがないことが幸いして、今のままでも充分に魅力的だし楽しめるのが鳥獣戯画である。800年前のおそらくは無名絵師の、おそらくは習作で描かれたものが、これだけしっかりと残っているだけでも儲けもの。
おしまい
何となく唐突な終わり方だけれど、
国宝の鳥獣戯画だって話にオチはないからね(^^ゞ
外箱と内箱に分かれ(写真上段)、内箱も二重構造で(写真下段)絵巻を2つ入れたものを二段に重ねて、それを上から覆う造りになっている。この立派な箱を見れば鳥獣戯画がどんな扱いをされてきたかわかるというもの。
第2会場に入る。
もう鳥獣戯画を見終わったのに何が展示してあったのかというと、迎えてくれるのは「鳥獣戯画の断簡と模本 ー 失われた場面の復原」というコーナーである。
断簡とは切れ切れになった文書が本来の意味であるが、美術用語では絵巻の一部が切り離され掛軸などに仕立て直されて残っているものを意味する。ワガママなことをするヤツがいるものだと思うが、これは絵巻アルアルなことらしい。
※なお復原と復元はどちらも「もとの姿に戻すこと」だが、文化財用語では、
今あるものをオリジナルの状態に戻すのが復原、失われたものを(新たに)
再現するのが復元。
断簡 東博本:祭礼の行列風景らしい
断簡 益田家旧蔵本:サルとウサギがシカに乗って競争。
サルはウサギの耳を引っ張って妨害行為中(^^ゞ
断簡 MIHO Museum本
もうひとつ高松家旧蔵本の断簡というのがあった。
やはり断簡はおいしいところを切り取っているなという印象。
それぞれの名前は基本的に所有者に由来している。ただし現在の所有者とは限らない。
東博:東京国立博物館の意味だが、この断簡の現在の所有は独立行政法人国立
文化財機構で、保管が東京国立博物館。
益田家:明治時代に三井財閥で活躍した実業家で茶人の益田孝の益田家。
現在の所有者は記載がないから今も益田家にあるか別の個人の所有。
MIHO Museum:滋賀県にある神慈秀明会という宗教法人が運営する
博物館が所有。
高松家:調べてもどこの高松さんなのかかわからなかった。現在はアメリカ人の
個人所有でブルックリン美術館に寄託されている(預けること)。
模写である模本は、第1会場にあった住吉家旧蔵本(1598年作)の他に以下のものが展示されていた。
長尾家旧蔵本 15〜16世紀の作 長尾家については不明
探幽縮図 江戸幕府の絵師である狩野探幽による17世紀の模写
松浦家本 1819年作 平戸藩主の松浦静山が別の模写から模写させたもの
長尾家旧蔵本から。
どちらも現在の鳥獣戯画には描かれていない内容。
この時代にもう高飛び競技があったのに驚く。
ヘビにビビって逃げるカエル。
断簡があれば鳥獣戯画は一部が切り取られていることになる(切り取られた後に戻されたものもあるらしい)。そして模本はそれぞれが模写された時代の鳥獣戯画の姿を示している。それらをあれこれと研究して推測されているのは、
23枚の用紙が張り合わされている甲巻は、もともと2巻の絵巻として存在していた。
現在の1〜10枚目を含む絵巻に、住吉家の模本を中心に益田家・高松家・
MIHO Museumの断簡の内容を加えたもの。
現在の11〜23枚目を含む絵巻に、長尾家の模本を中心に東博の断簡の内容を
加えたもの。
それが切り取られて短くなったので?
江戸時代初めに2巻を1巻にまとめられて現在に伝わったーーーと考えられる。
甲巻が2つあったなんてビックリである。ただしその推測によって復原されたものが展示されていたが、ただでさえストーリーにつながりのない鳥獣戯画が、ますます訳のわからない内容になっていたような。(どうでもいいことだが、模本を使うなら、それは復原ではなく復元だろうという気がする)
また最も古い住吉家や長尾家の模本でも、鳥獣戯画が描かれてから数百年後の模写であり、それ以前に切り取られた断簡は反映していない。だから今後、もっと古い時代の模本、あるいはまとまった数の断簡が新たに出てくれば別だが、その可能性は極めて低いと思うのでオリジナルの姿に近づくのはかなり難しいと思う。
ただしストーリーがないことが幸いして、今のままでも充分に魅力的だし楽しめるのが鳥獣戯画である。800年前のおそらくは無名絵師の、おそらくは習作で描かれたものが、これだけしっかりと残っているだけでも儲けもの。
おしまい
何となく唐突な終わり方だけれど、
国宝の鳥獣戯画だって話にオチはないからね(^^ゞ
wassho at 19:55|Permalink│Comments(0)│
2021年06月16日
特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」 その5
さて乙巻から丁巻。
こちらは動く歩道ではなく通常の展示。
乙巻は甲巻より9枚多く、32枚の用紙がつなぎ合わされていて全長は12.25メートル。
1枚あたりの長さは何センチかというどうでもいい計算をしてみると、
甲巻:11.36メートル ÷ 23枚 = 49センチ
乙館:12.25メートル ÷ 32枚 = 38センチ
乙巻の平均値が短いのは、10センチほどのやたら短い用紙が何枚か使われているから。おそらく一部を切り取られた後に、その前後をつないだのだろう。だから中央値で較べれば甲巻と長さは変わらないはず。なお縦のサイズは31センチで甲巻と変わらない。
この乙巻は戯画(おかしみのある絵、戯を訓読みすればタワムレ)ではなくて、動物のスケッチあるいは図鑑みたいな内容。登場するのは全部で16種類。ただし後半は麒麟など想像上の動物が描かれる。
2枚目
9枚〜10枚目
15枚〜16枚目
絵がお上手ですねという感想だけしかでてこない。
はっきりいって800年前に描かれた骨董品であること以外に価値は見いだせない。
19枚〜20枚目
これは麒麟(きりん)。龍や鳳凰と同じく中国神話に現れる霊獣。
ところで中国人が初めて動物のキリンを見た時、この麒麟に姿が似ていたからキリンと名付けたらしい。キリンビールに描かれているイラストの麒麟はズングリしてキリンに似ていないが、この麒麟ならその気持ちはわかる。
25枚〜26枚目
ちょっと首が長い気もするが、これはトラ。この時代の日本では中国からの絵画や毛皮でしか存在を知らないので、麒麟と同じく想像上の動物扱いになって絵巻の後半に登場する。
27枚目
こちらは獅子。まったく空想の産物である麒麟と違って、獅子は古代の中国人が(まだ見たことのない)ライオンの話を聞いて想像を膨らませて創作したものらしい。
31枚〜32枚目
右のゾウはトラと同じ理由で絵巻の後半に描かれている。左にいるのは人の見る夢を食べて生きているという獏(ばく)。麒麟→キリンと同じく、動物のバクもこの獏に似ているのが名前の由来。
3巻目となる丙(へい)巻は用紙20枚プラス奥書で11.13メートル。これは戯画であるが、前半は人間で後半に動物を描いている。ただし鳥は登場しないから人獣戯画。もっともカエルは獣じゃないけれど。でもそれを言い出すと鳥獣戯画というタイトルも成立しなくなる。
4枚目
5枚目
7枚目
なぜか身体にヒモをひっかけて、それを引っ張り合う遊びがやたら出てくる。この時代に流行っていたのかな。未来にはゴムパッチンという遊びがあるよと教えてあげたいね(^^ゞ
6枚目
これはにらめっこ。昔は目比べ(めくらべ)といったらしい。
左側の二人がにらめっこをして、その表情を見た中央の人物が大笑いしている。
12枚目
動物編のパートはここから。シカに乗ってサルがレースをするシーンであるが、甲巻のようにユーモラスな感じは伝わってこない。
15枚目
サルやウサギもかわいくない(/o\)
14枚〜15枚目
荷車をお祭りの山車(だし)に見立てているとの想定らしい。
丙巻で人間が描かれているパートは構図やデッサンがしっかりした印象を受けるが、動物のパートになるとかなりレベルが下がる。
丁(てい)巻は用紙18枚で長さ9.4メートルと最も短い。こちらは鳥も獣も登場せず人間だけが描かれている。他の巻と較べるとラフな筆遣いというか、短時間で仕上げた印象を受ける。
1枚目
右側は楽器の演奏。そのお囃子で盛り上げられている中央は、侏儒(しゅじゅ=子人)の曲芸との解説だが、何が描かれているのかイマイチよくわからず。
3枚目
4枚〜5枚目
この2枚はどちらも僧侶が描かれている。リスペクトしている様子は伺えないな。
6枚目
いわゆる流鏑馬(やぶさめ)のシーン。
弓矢がYの字になっていたのが不思議で調べてみると、これは鏑矢(かぶらや)という形状。Y字の後ろに箱のようなものが描かれているが、それが空洞で笛になっていてる弓矢のようである(別に先端がY字じゃなくてもいい気もするが)。合戦の開始の合図として放たれたとのこと。
11枚目
木遣り(木材の運搬)の様子。かなり漫画っぽい描き方。
甲・乙・丙・丁でバラエティに富んでいておもしろかった。ただし各巻を通しで眺めると甲巻の素晴らしさ・レベルの高さが改めて浮き彫りになってくる。鳥獣戯画は4巻セットで国宝指定を受けている。しかし甲巻は単独で国宝の価値があるが、乙・丙・丁はもし甲巻が存在しなければ国宝になっていなかったと思う。
ーーー続く
こちらは動く歩道ではなく通常の展示。
乙巻は甲巻より9枚多く、32枚の用紙がつなぎ合わされていて全長は12.25メートル。
1枚あたりの長さは何センチかというどうでもいい計算をしてみると、
甲巻:11.36メートル ÷ 23枚 = 49センチ
乙館:12.25メートル ÷ 32枚 = 38センチ
乙巻の平均値が短いのは、10センチほどのやたら短い用紙が何枚か使われているから。おそらく一部を切り取られた後に、その前後をつないだのだろう。だから中央値で較べれば甲巻と長さは変わらないはず。なお縦のサイズは31センチで甲巻と変わらない。
この乙巻は戯画(おかしみのある絵、戯を訓読みすればタワムレ)ではなくて、動物のスケッチあるいは図鑑みたいな内容。登場するのは全部で16種類。ただし後半は麒麟など想像上の動物が描かれる。
2枚目
9枚〜10枚目
15枚〜16枚目
絵がお上手ですねという感想だけしかでてこない。
はっきりいって800年前に描かれた骨董品であること以外に価値は見いだせない。
19枚〜20枚目
これは麒麟(きりん)。龍や鳳凰と同じく中国神話に現れる霊獣。
ところで中国人が初めて動物のキリンを見た時、この麒麟に姿が似ていたからキリンと名付けたらしい。キリンビールに描かれているイラストの麒麟はズングリしてキリンに似ていないが、この麒麟ならその気持ちはわかる。
25枚〜26枚目
ちょっと首が長い気もするが、これはトラ。この時代の日本では中国からの絵画や毛皮でしか存在を知らないので、麒麟と同じく想像上の動物扱いになって絵巻の後半に登場する。
27枚目
こちらは獅子。まったく空想の産物である麒麟と違って、獅子は古代の中国人が(まだ見たことのない)ライオンの話を聞いて想像を膨らませて創作したものらしい。
31枚〜32枚目
右のゾウはトラと同じ理由で絵巻の後半に描かれている。左にいるのは人の見る夢を食べて生きているという獏(ばく)。麒麟→キリンと同じく、動物のバクもこの獏に似ているのが名前の由来。
3巻目となる丙(へい)巻は用紙20枚プラス奥書で11.13メートル。これは戯画であるが、前半は人間で後半に動物を描いている。ただし鳥は登場しないから人獣戯画。もっともカエルは獣じゃないけれど。でもそれを言い出すと鳥獣戯画というタイトルも成立しなくなる。
4枚目
5枚目
7枚目
なぜか身体にヒモをひっかけて、それを引っ張り合う遊びがやたら出てくる。この時代に流行っていたのかな。未来にはゴムパッチンという遊びがあるよと教えてあげたいね(^^ゞ
6枚目
これはにらめっこ。昔は目比べ(めくらべ)といったらしい。
左側の二人がにらめっこをして、その表情を見た中央の人物が大笑いしている。
12枚目
動物編のパートはここから。シカに乗ってサルがレースをするシーンであるが、甲巻のようにユーモラスな感じは伝わってこない。
15枚目
サルやウサギもかわいくない(/o\)
14枚〜15枚目
荷車をお祭りの山車(だし)に見立てているとの想定らしい。
丙巻で人間が描かれているパートは構図やデッサンがしっかりした印象を受けるが、動物のパートになるとかなりレベルが下がる。
丁(てい)巻は用紙18枚で長さ9.4メートルと最も短い。こちらは鳥も獣も登場せず人間だけが描かれている。他の巻と較べるとラフな筆遣いというか、短時間で仕上げた印象を受ける。
1枚目
右側は楽器の演奏。そのお囃子で盛り上げられている中央は、侏儒(しゅじゅ=子人)の曲芸との解説だが、何が描かれているのかイマイチよくわからず。
3枚目
4枚〜5枚目
この2枚はどちらも僧侶が描かれている。リスペクトしている様子は伺えないな。
6枚目
いわゆる流鏑馬(やぶさめ)のシーン。
弓矢がYの字になっていたのが不思議で調べてみると、これは鏑矢(かぶらや)という形状。Y字の後ろに箱のようなものが描かれているが、それが空洞で笛になっていてる弓矢のようである(別に先端がY字じゃなくてもいい気もするが)。合戦の開始の合図として放たれたとのこと。
11枚目
木遣り(木材の運搬)の様子。かなり漫画っぽい描き方。
甲・乙・丙・丁でバラエティに富んでいておもしろかった。ただし各巻を通しで眺めると甲巻の素晴らしさ・レベルの高さが改めて浮き彫りになってくる。鳥獣戯画は4巻セットで国宝指定を受けている。しかし甲巻は単独で国宝の価値があるが、乙・丙・丁はもし甲巻が存在しなければ国宝になっていなかったと思う。
ーーー続く
wassho at 23:17|Permalink│Comments(0)│
2021年06月15日
特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」 その4
2015年に今回と同じく東京国立博物館で開かれた鳥獣戯画展は、待ち時間が6時間に及ぶ日もあったくらいの入場者を集めた。館内に入るのに1時間、乙・丙・丁の3巻を見終わるのに待ち時間を含めて2時間、そこから甲巻を見るのにさらに3時間の行列! 最終の午後5時に入場した人が博物館を出たのは深夜11時を回っていたというからビックリである。その6時間のうち絵を鑑賞したのは15分くらいなんだろうなあ(/o\)
その経験と反省を踏まえてかどうかは知らないが、この展覧会で導入されたのが動く歩道。最も人気のある=混雑する甲巻の展示に設置されている。人がベルトコンベアに乗って作品の前を移動するというか移動させられるのは、おそらく展覧会史上初めてじゃないかな。
もっとも今回はコロナでかなりの入場者数制限をしているから、結果的には導入した意味がなかった。しかし企画発注されたのはコロナ以前だろうから、まあそれは仕方がない。
右から左へストーリーが進む絵巻に会わせて人が流れていく。これはおそらく事前内覧会で撮られた写真で、実際には動く歩道の上に途切れることなく人が乗っている。
写真はhttps://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/reports/20474から引用
動く歩道で絵巻を見ること自体に違和感はなかった。移動するのが自分の足かベルトコンベアかの違いだけだからそれも当然か。違和感がないというよりアトラクションぽい感覚もあって、ちょっと楽しい。それと人とぶつかる心配がないので作品に集中できたのは想定外のメリット。
ただし動く歩道の移動スピードはかなり早く感じた。
スマホのストップウォッチで歩道に乗せられていた時間を測ったら2分24秒。
甲巻は11m57cmだから
秒速なら8cm
分速なら4.8m
時速なら0.29km
できれば2倍の5分は欲しい。最低でも4分は必要。
その場合で分速は2.9mとなる。
図柄として眺めるだけなら分速4.8mでも問題はない。しかし絵巻は物語である。鳥獣戯画にほとんどストーリーはないとわかっていても、脳がどうしてもストーリーとして捉えようとする。そして分速4.8mではそれを解釈する処理が追いつかない。だから目では見えているのに内容が頭に入ってこない感覚が生じてフラストレーションが溜まる。
もっともスピードを遅くすれば混雑緩和の効果は薄れてしまう。しかし自然発生する渋滞によるさらなる速度の低下は起こらないから(高速道路を思い出してね)、自由に歩かせるよりはスムーズに人が流れるのじゃないかな。そのあたりの工学は専門家じゃないからよくわからないが。いずれにしても必要な鑑賞時間を確保できないのなら本末転倒である。
なお甲巻を動く歩道で見た後は乙・丙・丁の展示ゾーンに進んで、動く歩道には戻れない導線になっている。もう一度見るには出口から出て、再び展示室に入り直す必要がある。
さて動く歩道は直線しか対応できないが、回転寿司のコンベア方式ならコーナーを曲がることも可能。ひょっとして未来の展覧会はそんな風にして見ることになるのだろうか。あるいはAIによる自動運転のセグウエイみたいな物に乗せられて。
確かに効率的ではあるが、何となく非人間的で美術作品を見るにはそぐわない気がする。展覧会なんて興味がない作品は見なくていい、あるいはチラ見で充分で、気に入った作品は好きなだけ眺めていたいもの。それを観光バス旅行のように画一的に館内を回らされたのではたまらない。
また今回は日時を予約してのチケット発売となった。これは混雑回避ではなくコロナの密対策ではあるが、入場者数の抑制もあって入館待ち時間は5分程度。それは大いに評価できる。ただしそれでも美術館のよさとはコンサートや演劇と違って、日時に縛られず思いついたらいつでも行けることだと思っている。またそれがよく展覧会を訪れている理由でもある。
とはいうものの2015年の鳥獣戯画展や2016年の伊藤若冲展のように6時間待ちなんてのは論外として、展覧会を見るのに数時間待ちというのも同じく非人間的でもあるわけで。そういう超人気展覧会ではコロナが終焉しても事前予約制にすべきかなあと考えたり。人間回転寿司にさせられるのはもう少し先のことだろうからまだ心配していないが。
800年前に描かれた鳥獣戯画を眺めながら、
今後の美術展のあり方に思いを巡らせたのが不思議な気分。
ーーー続く
その経験と反省を踏まえてかどうかは知らないが、この展覧会で導入されたのが動く歩道。最も人気のある=混雑する甲巻の展示に設置されている。人がベルトコンベアに乗って作品の前を移動するというか移動させられるのは、おそらく展覧会史上初めてじゃないかな。
もっとも今回はコロナでかなりの入場者数制限をしているから、結果的には導入した意味がなかった。しかし企画発注されたのはコロナ以前だろうから、まあそれは仕方がない。
右から左へストーリーが進む絵巻に会わせて人が流れていく。これはおそらく事前内覧会で撮られた写真で、実際には動く歩道の上に途切れることなく人が乗っている。
写真はhttps://www.culture.city.taito.lg.jp/ja/reports/20474から引用
動く歩道で絵巻を見ること自体に違和感はなかった。移動するのが自分の足かベルトコンベアかの違いだけだからそれも当然か。違和感がないというよりアトラクションぽい感覚もあって、ちょっと楽しい。それと人とぶつかる心配がないので作品に集中できたのは想定外のメリット。
ただし動く歩道の移動スピードはかなり早く感じた。
スマホのストップウォッチで歩道に乗せられていた時間を測ったら2分24秒。
甲巻は11m57cmだから
秒速なら8cm
分速なら4.8m
時速なら0.29km
できれば2倍の5分は欲しい。最低でも4分は必要。
その場合で分速は2.9mとなる。
図柄として眺めるだけなら分速4.8mでも問題はない。しかし絵巻は物語である。鳥獣戯画にほとんどストーリーはないとわかっていても、脳がどうしてもストーリーとして捉えようとする。そして分速4.8mではそれを解釈する処理が追いつかない。だから目では見えているのに内容が頭に入ってこない感覚が生じてフラストレーションが溜まる。
もっともスピードを遅くすれば混雑緩和の効果は薄れてしまう。しかし自然発生する渋滞によるさらなる速度の低下は起こらないから(高速道路を思い出してね)、自由に歩かせるよりはスムーズに人が流れるのじゃないかな。そのあたりの工学は専門家じゃないからよくわからないが。いずれにしても必要な鑑賞時間を確保できないのなら本末転倒である。
なお甲巻を動く歩道で見た後は乙・丙・丁の展示ゾーンに進んで、動く歩道には戻れない導線になっている。もう一度見るには出口から出て、再び展示室に入り直す必要がある。
さて動く歩道は直線しか対応できないが、回転寿司のコンベア方式ならコーナーを曲がることも可能。ひょっとして未来の展覧会はそんな風にして見ることになるのだろうか。あるいはAIによる自動運転のセグウエイみたいな物に乗せられて。
確かに効率的ではあるが、何となく非人間的で美術作品を見るにはそぐわない気がする。展覧会なんて興味がない作品は見なくていい、あるいはチラ見で充分で、気に入った作品は好きなだけ眺めていたいもの。それを観光バス旅行のように画一的に館内を回らされたのではたまらない。
また今回は日時を予約してのチケット発売となった。これは混雑回避ではなくコロナの密対策ではあるが、入場者数の抑制もあって入館待ち時間は5分程度。それは大いに評価できる。ただしそれでも美術館のよさとはコンサートや演劇と違って、日時に縛られず思いついたらいつでも行けることだと思っている。またそれがよく展覧会を訪れている理由でもある。
とはいうものの2015年の鳥獣戯画展や2016年の伊藤若冲展のように6時間待ちなんてのは論外として、展覧会を見るのに数時間待ちというのも同じく非人間的でもあるわけで。そういう超人気展覧会ではコロナが終焉しても事前予約制にすべきかなあと考えたり。人間回転寿司にさせられるのはもう少し先のことだろうからまだ心配していないが。
800年前に描かれた鳥獣戯画を眺めながら、
今後の美術展のあり方に思いを巡らせたのが不思議な気分。
ーーー続く
wassho at 23:48|Permalink│Comments(0)│
2021年06月13日
特別展「国宝 鳥獣戯画のすべて」 その3
鳥獣戯画といえば最初の投稿で紹介した「ウサギやカエルやサルのユーモラスな絵」を思い浮かべる人がほとんどだかと思う。それがキモには違いないが、実際はもう少し幅広い作品群で成り立っている。また意外と正体不明でもある。
まず作者が誰かわかっていない。教科書で鳥羽僧正(とばそうじょう)と習ったようにも思うが、現在ではその説は否定されている。なんたって今は鎌倉幕府もイイクニツクロウじゃないらしいから、歴史というのは後世の研究であれこれアップデートされるもの。
鳥獣戯画として伝わっている絵巻は4巻ある。ただしタイトルとして作品中にそう記されているわけではなく、このネーミングは明治の中頃になって使われ出したもの。それまでは作者が鳥羽僧正と思われていたことから鳥羽絵などと呼ばれていたようである。
これらはモノクロであることは共通しているものの、各巻の内容はつながっておらず画風も異なる。うち1巻は戯画(おかしみのある絵、戯を訓読みすればタワムレ)でもない。いつ制作されたかも不明で、おおよそ平安末期から鎌倉初期と推定されている。
ということで、その期間中に異なる作者によって、別々の時期に描かれた絵巻が、いつしか4巻セットとして扱われるようになったと考えられている。
また鳥獣戯画は京都の高山寺に伝えられてきたが、ここに奉納されたものではなく、いつ・どうしてこの寺の所有となったかも不明。また内容に仏教的な意味合いが込められているのかどうかも解明されていない。実は謎だらけの作品なのである。
最初の展示は「住吉家旧蔵本」という模本。模本は模写のことで、絵巻は本扱いになって模本というのかな。その住吉家とは江戸時代に、狩野派と並んで幕府の御用絵師を務めた流派の家系。ただしこの模本は1598年と住吉家初代が生まれる前の制作だから、住吉派の絵師が描いたのではなく、どこかで手に入れて守ってきたものということになる。
本物があるのにどうして模写を見なくてはならないのか。それは鳥獣戯画は絵巻をバラバラにして再度つなぎ合わされた経緯があり、その過程で失われた部分や順番がおかしなところがある。だから模本と比較することでオリジナルの内容を推察できるということらしい。
学術的にはその通りである。
しかし、よほどそういうことに興味があるのなら別だが、住吉家旧蔵本の展示はパスして、それで浮いた時間で本物の鳥獣戯画を何度も見たほうがいい。サイズ的には縦30センチほどと小さいので、行列に並ばずに人の後ろから見るのも難しい。つまり模本を見るのにもけっこう時間がかかる。
それにここに展示されている住吉家の模本は内容的にもオリジナルとあまり変わらない。描写はもちろんそっくりである。また模本の後にまたパネル展示が続くし、はっきり言って本物を見る前にちょっと飽きてくる(^^ゞ ※別の場所に展示されているやや内容の異なる住吉家旧蔵本もある。
さていよいよ鳥獣戯画とのご対面。4巻あると書いたが、それぞれに甲・乙・丙(へい)・丁(てい)の記号が振られている。この記号がついたのも大正から昭和にかけての頃らしい。また甲・乙・丙・丁は1から4という順番を表しているが、このように呼ばれる以前は構成順も違っていたとのこと。
その第1巻である甲巻こそが、
世間一般にイメージされている鳥獣戯画の世界そのものである。
現在の甲巻は23枚の用紙がつなぎ合わされた絵巻。
縦が約31センチ、長さが約11.36メートル。
(なお横に長い画像はとても小さく表示されてしまうのでクリックで拡大して欲しい)
1枚〜3枚目
初っぱなからウサギが鼻をつまんで背面から水に飛び込むというシーン。この時点で鳥獣戯画ワールドに引き込まれてしまう。少し前に流行った表現をするなら「ツカミはOK」以上の出来映え。
描かれている動物はウサギ・カエル・サルがメインだが、甲巻では全部で11種類が登場する。この場面ではウサギが乗っているシカ。ただしシカはウサギなどと違って擬人化されていない。
余談になるが「擬人化」という言葉を覚えたのは、教科書に書いてあった鳥獣戯画の解説からだったような気がする。
13枚〜14枚目
おそらく鳥獣戯画で最も有名なシーン。明確なストーリーはないけれど、この前後に描かれている内容から推測すると、ウサギとカエルが一緒に作業をしていたところにサルがやってきて、一匹のカエルのいたずらをした。それで仲間のウサギとカエルが追いかけているように思える。
17枚〜18枚目
右側に描かれているウサギとカエルは抱き合っているように見えるが、これは相撲を取っているシーン。カエルはウサギの耳を噛んでいるから反則攻撃中(^^ゞ
中央のウサギは地面に倒れ込んで笑っているのではなく、右側に描かれた相撲の続きで、カエルがウサギを投げ飛ばしたところ。これは時間の経過や連続した動作を表現する「異時同時図法」という絵巻独特の手法。ここに貼った画像では「ちょっと無理なお約束」のように思えるが、絵巻を見る時は少しずつ広げて、また見た部分は巻き取っていくから抵抗がないのかも知れない。
それにしても耳を噛まれて投げ飛ばされまでしたのに、ウサギは楽しそうでカエルととっても仲良しなことが伺える。
8枚〜9枚目
鳥獣戯画というと動物が遊んでいるイメージが強いが働いている場面もある。
これは宴会の準備らしい。
20枚〜21枚目
仏教的な行動であるのは一目瞭然でも、それまでの展開とはつながっていないから意味がよくわからないシーン。
中央の奥で頭巾を被っているのはキツネだと思うが、その右隣と中央手前でウサギと一緒に法衣を着ている動物はイタチだろうか。また左にある木にはフクロウが留まっている。
ところで鳥獣戯画には高山寺と描かれたハンコがベタベタ押してある。これが子供の頃から不思議だったというか目障りに思っていた。ブログを書く前に少し調べてわかったのは
1)絵巻は紙をつなぎ合わせて長い巻物にする。
2)鳥獣戯画では「ノリが古くなって紙がはがれた」「巻物だと見るのに不便だから
はがした」のどちらかはわからないが、
3)とにかくバラバラの状態で保存されている時期があった。
4)その時に、後でまた貼り合わせやすいように割り印のような役割を持たせて
判を押した。
ということらしい。
しかしである。甲巻の場合だと23枚の貼り合わせだから継ぎ目は22ヶ所。そのうち継ぎ目の部分に絵が描かれていない箇所、すなわち割り印がないと後で困る箇所はたった2つしかない。
何が言いたいかというと、誰かタイムマシンで過去の高山寺へ行って、ハンコを押しまくった担当者をシバいてきて欲しいということ(^^ゞ
ーーー続く
まず作者が誰かわかっていない。教科書で鳥羽僧正(とばそうじょう)と習ったようにも思うが、現在ではその説は否定されている。なんたって今は鎌倉幕府もイイクニツクロウじゃないらしいから、歴史というのは後世の研究であれこれアップデートされるもの。
鳥獣戯画として伝わっている絵巻は4巻ある。ただしタイトルとして作品中にそう記されているわけではなく、このネーミングは明治の中頃になって使われ出したもの。それまでは作者が鳥羽僧正と思われていたことから鳥羽絵などと呼ばれていたようである。
これらはモノクロであることは共通しているものの、各巻の内容はつながっておらず画風も異なる。うち1巻は戯画(おかしみのある絵、戯を訓読みすればタワムレ)でもない。いつ制作されたかも不明で、おおよそ平安末期から鎌倉初期と推定されている。
ということで、その期間中に異なる作者によって、別々の時期に描かれた絵巻が、いつしか4巻セットとして扱われるようになったと考えられている。
また鳥獣戯画は京都の高山寺に伝えられてきたが、ここに奉納されたものではなく、いつ・どうしてこの寺の所有となったかも不明。また内容に仏教的な意味合いが込められているのかどうかも解明されていない。実は謎だらけの作品なのである。
最初の展示は「住吉家旧蔵本」という模本。模本は模写のことで、絵巻は本扱いになって模本というのかな。その住吉家とは江戸時代に、狩野派と並んで幕府の御用絵師を務めた流派の家系。ただしこの模本は1598年と住吉家初代が生まれる前の制作だから、住吉派の絵師が描いたのではなく、どこかで手に入れて守ってきたものということになる。
本物があるのにどうして模写を見なくてはならないのか。それは鳥獣戯画は絵巻をバラバラにして再度つなぎ合わされた経緯があり、その過程で失われた部分や順番がおかしなところがある。だから模本と比較することでオリジナルの内容を推察できるということらしい。
学術的にはその通りである。
しかし、よほどそういうことに興味があるのなら別だが、住吉家旧蔵本の展示はパスして、それで浮いた時間で本物の鳥獣戯画を何度も見たほうがいい。サイズ的には縦30センチほどと小さいので、行列に並ばずに人の後ろから見るのも難しい。つまり模本を見るのにもけっこう時間がかかる。
それにここに展示されている住吉家の模本は内容的にもオリジナルとあまり変わらない。描写はもちろんそっくりである。また模本の後にまたパネル展示が続くし、はっきり言って本物を見る前にちょっと飽きてくる(^^ゞ ※別の場所に展示されているやや内容の異なる住吉家旧蔵本もある。
さていよいよ鳥獣戯画とのご対面。4巻あると書いたが、それぞれに甲・乙・丙(へい)・丁(てい)の記号が振られている。この記号がついたのも大正から昭和にかけての頃らしい。また甲・乙・丙・丁は1から4という順番を表しているが、このように呼ばれる以前は構成順も違っていたとのこと。
その第1巻である甲巻こそが、
世間一般にイメージされている鳥獣戯画の世界そのものである。
現在の甲巻は23枚の用紙がつなぎ合わされた絵巻。
縦が約31センチ、長さが約11.36メートル。
(なお横に長い画像はとても小さく表示されてしまうのでクリックで拡大して欲しい)
1枚〜3枚目
初っぱなからウサギが鼻をつまんで背面から水に飛び込むというシーン。この時点で鳥獣戯画ワールドに引き込まれてしまう。少し前に流行った表現をするなら「ツカミはOK」以上の出来映え。
描かれている動物はウサギ・カエル・サルがメインだが、甲巻では全部で11種類が登場する。この場面ではウサギが乗っているシカ。ただしシカはウサギなどと違って擬人化されていない。
余談になるが「擬人化」という言葉を覚えたのは、教科書に書いてあった鳥獣戯画の解説からだったような気がする。
13枚〜14枚目
おそらく鳥獣戯画で最も有名なシーン。明確なストーリーはないけれど、この前後に描かれている内容から推測すると、ウサギとカエルが一緒に作業をしていたところにサルがやってきて、一匹のカエルのいたずらをした。それで仲間のウサギとカエルが追いかけているように思える。
17枚〜18枚目
右側に描かれているウサギとカエルは抱き合っているように見えるが、これは相撲を取っているシーン。カエルはウサギの耳を噛んでいるから反則攻撃中(^^ゞ
中央のウサギは地面に倒れ込んで笑っているのではなく、右側に描かれた相撲の続きで、カエルがウサギを投げ飛ばしたところ。これは時間の経過や連続した動作を表現する「異時同時図法」という絵巻独特の手法。ここに貼った画像では「ちょっと無理なお約束」のように思えるが、絵巻を見る時は少しずつ広げて、また見た部分は巻き取っていくから抵抗がないのかも知れない。
それにしても耳を噛まれて投げ飛ばされまでしたのに、ウサギは楽しそうでカエルととっても仲良しなことが伺える。
8枚〜9枚目
鳥獣戯画というと動物が遊んでいるイメージが強いが働いている場面もある。
これは宴会の準備らしい。
20枚〜21枚目
仏教的な行動であるのは一目瞭然でも、それまでの展開とはつながっていないから意味がよくわからないシーン。
中央の奥で頭巾を被っているのはキツネだと思うが、その右隣と中央手前でウサギと一緒に法衣を着ている動物はイタチだろうか。また左にある木にはフクロウが留まっている。
ところで鳥獣戯画には高山寺と描かれたハンコがベタベタ押してある。これが子供の頃から不思議だったというか目障りに思っていた。ブログを書く前に少し調べてわかったのは
1)絵巻は紙をつなぎ合わせて長い巻物にする。
2)鳥獣戯画では「ノリが古くなって紙がはがれた」「巻物だと見るのに不便だから
はがした」のどちらかはわからないが、
3)とにかくバラバラの状態で保存されている時期があった。
4)その時に、後でまた貼り合わせやすいように割り印のような役割を持たせて
判を押した。
ということらしい。
しかしである。甲巻の場合だと23枚の貼り合わせだから継ぎ目は22ヶ所。そのうち継ぎ目の部分に絵が描かれていない箇所、すなわち割り印がないと後で困る箇所はたった2つしかない。
何が言いたいかというと、誰かタイムマシンで過去の高山寺へ行って、ハンコを押しまくった担当者をシバいてきて欲しいということ(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 22:25|Permalink│Comments(0)│