ノンジャンル
2026年02月14日
塩谷亮 刻を描くリアリズム
NHKの「アートシーン」という展覧会情報番組でこの個展を知った。
いきなり話が脱線して恐縮だが、NHKは放送で企業名や商品名を使わないのが原則。公共放送として特定の企業や商品の宣伝にならないようするのがその理由。
子供の頃にNHKのドラマでビール瓶が出てくるシーンでは、ブランドがわからないようラベル部分が黒い紙で覆われていたのを覚えている。かぐや姫が1973年に200万枚を売り上げたヒット曲「神田川」には「♪24色のクレパス買って」との歌詞があり、NHKがクレパスは商品名だからクレヨンに変更を求めたところ、かぐや姫がそれを拒否して紅白の出演を辞退するなんて騒動もあった。
なお1978年の山口百恵の代表曲「プレイバックPart2」には「♪緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ」という歌詞があり、それを紅白では「真紅なクルマ」と歌わされたーーーとよく言われるがそれは間違い。NHKの他の番組で「真紅なクルマ」に置き換えられた事実はあるものの、紅白ではポルシェと歌っている。それは当時の一番人気であったピンクレディがその年の紅白を辞退して裏番組に出演する状況となり、山口百恵にまでヘソを曲げられたら(しかも紅組のトリ)ーーーなんて大人の事情があったみたい。
私感を述べれば「真紅なポルシェ」と「真紅なクルマ」では歌詞の持つ意味や世界観が変わるけれど、「クレパス」と「クレヨン」はどちらでも同じに思える。クレパスが商品名との意識もほとんどない。あの頃は紅白に出場する流行歌歌手と、それ以外のフォークシンガーなどの区別があって、後者は紅白に出るなんてダサいなんて風潮もあったから、出場依頼を断る理由にクレパスを利用したのかも知れない。
ビールはその後に架空の商品のラベルが貼られるようになったし、商品名の扱いも緩やかになった。クレパス問題から19年後の1992年紅白に南こうせつはソロで出場し、神田川をクレパスのオリジナル歌詞で歌っている。2020年の紅白では「ドルチェ&ガッバーナのその香水のせい」と、そのものズバリな商品名の歌詞もOKとなっている。
それでも根底にあるのは次のルール。
放送法第83条
1 協会(NHKを意味する)は、他人の営業に関する広告の放送をしてはならない。
2 前項の規定は、放送番組編集上必要であつて、かつ、他人の営業に関する広告のためにするものでないと認められる場合において、著作者又は営業者の氏名又は名称等を放送することを妨げるものではない。
日本放送協会番組基準(国内)第12項
1 営業広告または売名的宣伝を目的とする放送は、いっさい行わない。
2 放送中に、特定の団体名または個人名あるいは職業、商号および商品名が含まれる場合は、それが、その放送の本質的要素であるかどうか、または演出上やむをえないものかどうかを公正に判断して、その取り扱いを決定する。
ちなみに放送法は196条あって、そのうち15条〜87条までの73条分が、つまり条の数でいえば 73 ÷ 196 = 全体の1/3 以上がNHKに対する規定。それだけNHKは法律でがんじがらめに縛れているともいえる。
まあとにかくNHKでは広告宣伝をしないのが基本。
でも「アートシーン」は展覧会の宣伝以外の何物でもない。開催されている美術館名はもちろん、ご丁寧にもその期間まで教えてくれる。これが例えばアイドルやJ-POPのライブの紹介ならNHKはそんな番組は作らないはず。どこが違うのかな?どういう基準なんだろう?
「アートシーン」は展覧会内容の簡単なレポート番組で、それが宣伝目的の放送ではないとの根拠なのかも知れない。ただしそれらのレポートがすべて終わって、エンドの番組タイトルも出した後に、さらに別の展覧会の告知を挿入する放送日もある。これはレポートもなく告知のみで宣伝そのもの。以前に気になってそれらの展覧会をチェックしたらNHKが協賛している展覧会がほとんどだった。放送法が禁じているのは「他人の営業に関する広告の放送」だからこれは許されるのか。でも展覧会の主催者=展覧会の収益を得るのは「他人」な訳で何となく腑に落ちない。
もちろんアートシーンの番組をケシカランといっているわけではない。あの番組で展覧会を知って訪れたことは今まで多くある。今回の展覧会も番組で紹介されなければ見逃していたはず。そんな宣伝効果抜群(^^ゞ の番組がこれからも続きますように。できれば現在15分の枠を拡大して、もっとマイナーな展覧会も紹介して欲しいくらい。
さて今回の展覧会。場所は新宿区大京町の佐藤美術館。今までここで展覧会を見た経験はなく名前を聞くのも初めて。バブルの頃に飛ぶ鳥を落とす勢いで、ニューヨークのティファニー本社ビルを買収して有名になった第一不動産の創業者が1990年に設立した美術館。第一不動は2007年に倒産したとはいえ、こういう遺産を残せてよかったね。
最寄り駅は徒歩5分のJRの千駄ヶ谷駅か地下鉄大江戸線の国立競技場駅。でも乗り換えるのが面倒だったので地下鉄副都心線の北参道駅で下車。そこからでも15分ほどの距離。
千駄ヶ谷駅の先で高架をくぐってしばらく線路と平行に。
電車と国立競技場のツーショットが撮れた。
左側の木々は新宿御苑。
この道路に出て、
信号を渡りFOR RENTと書かれている左側の路地に入る。
児童公園で行き止まりかと一瞬あせったが、
奥の階段で公園を出ると、
この道路に出る。
このちょっと趣のある建物は四谷第六小学校と幼稚園。
公立で幼少一貫校は珍しいのでは。
その四谷第六のほぼ向かいに佐藤美術館のビル。
例によって思いつくままに書いているので、展覧会の内容にまでなかなか話が進まないが、今回は超写実絵画やスーパーリアリズムと呼ばれるジャンルの展覧会。
このエレベータのサイズでわかるように小さなビル。
エレベーターホールの脇に胡蝶蘭。胡蝶蘭は好きなんだけれど、お祝いにはとりあえず白い胡蝶蘭を送っておけな風潮が嫌い。ましてや美術関係者ならもうちょっと気を利かして欲しい。
受付は2階。
でもこの表示はわかりにくい。
そしてこのエレベーターがなかなか来ずにイライラ。
2階が受付とミュージアムショップ。
3〜5階が展示会場でその雰囲気を。
狭いのは仕方ないとして天井が低いのが美術館としては残念。
ここは美術館として建てられたのではなく普通の小規模なオフィスビル。
なお会場では一部の作品を除いて写真撮影可。
ーーー続く
いきなり話が脱線して恐縮だが、NHKは放送で企業名や商品名を使わないのが原則。公共放送として特定の企業や商品の宣伝にならないようするのがその理由。
子供の頃にNHKのドラマでビール瓶が出てくるシーンでは、ブランドがわからないようラベル部分が黒い紙で覆われていたのを覚えている。かぐや姫が1973年に200万枚を売り上げたヒット曲「神田川」には「♪24色のクレパス買って」との歌詞があり、NHKがクレパスは商品名だからクレヨンに変更を求めたところ、かぐや姫がそれを拒否して紅白の出演を辞退するなんて騒動もあった。
なお1978年の山口百恵の代表曲「プレイバックPart2」には「♪緑の中を走り抜けてく真紅なポルシェ」という歌詞があり、それを紅白では「真紅なクルマ」と歌わされたーーーとよく言われるがそれは間違い。NHKの他の番組で「真紅なクルマ」に置き換えられた事実はあるものの、紅白ではポルシェと歌っている。それは当時の一番人気であったピンクレディがその年の紅白を辞退して裏番組に出演する状況となり、山口百恵にまでヘソを曲げられたら(しかも紅組のトリ)ーーーなんて大人の事情があったみたい。
私感を述べれば「真紅なポルシェ」と「真紅なクルマ」では歌詞の持つ意味や世界観が変わるけれど、「クレパス」と「クレヨン」はどちらでも同じに思える。クレパスが商品名との意識もほとんどない。あの頃は紅白に出場する流行歌歌手と、それ以外のフォークシンガーなどの区別があって、後者は紅白に出るなんてダサいなんて風潮もあったから、出場依頼を断る理由にクレパスを利用したのかも知れない。
ビールはその後に架空の商品のラベルが貼られるようになったし、商品名の扱いも緩やかになった。クレパス問題から19年後の1992年紅白に南こうせつはソロで出場し、神田川をクレパスのオリジナル歌詞で歌っている。2020年の紅白では「ドルチェ&ガッバーナのその香水のせい」と、そのものズバリな商品名の歌詞もOKとなっている。
それでも根底にあるのは次のルール。
放送法第83条
1 協会(NHKを意味する)は、他人の営業に関する広告の放送をしてはならない。
2 前項の規定は、放送番組編集上必要であつて、かつ、他人の営業に関する広告のためにするものでないと認められる場合において、著作者又は営業者の氏名又は名称等を放送することを妨げるものではない。
日本放送協会番組基準(国内)第12項
1 営業広告または売名的宣伝を目的とする放送は、いっさい行わない。
2 放送中に、特定の団体名または個人名あるいは職業、商号および商品名が含まれる場合は、それが、その放送の本質的要素であるかどうか、または演出上やむをえないものかどうかを公正に判断して、その取り扱いを決定する。
ちなみに放送法は196条あって、そのうち15条〜87条までの73条分が、つまり条の数でいえば 73 ÷ 196 = 全体の1/3 以上がNHKに対する規定。それだけNHKは法律でがんじがらめに縛れているともいえる。
まあとにかくNHKでは広告宣伝をしないのが基本。
でも「アートシーン」は展覧会の宣伝以外の何物でもない。開催されている美術館名はもちろん、ご丁寧にもその期間まで教えてくれる。これが例えばアイドルやJ-POPのライブの紹介ならNHKはそんな番組は作らないはず。どこが違うのかな?どういう基準なんだろう?
「アートシーン」は展覧会内容の簡単なレポート番組で、それが宣伝目的の放送ではないとの根拠なのかも知れない。ただしそれらのレポートがすべて終わって、エンドの番組タイトルも出した後に、さらに別の展覧会の告知を挿入する放送日もある。これはレポートもなく告知のみで宣伝そのもの。以前に気になってそれらの展覧会をチェックしたらNHKが協賛している展覧会がほとんどだった。放送法が禁じているのは「他人の営業に関する広告の放送」だからこれは許されるのか。でも展覧会の主催者=展覧会の収益を得るのは「他人」な訳で何となく腑に落ちない。
もちろんアートシーンの番組をケシカランといっているわけではない。あの番組で展覧会を知って訪れたことは今まで多くある。今回の展覧会も番組で紹介されなければ見逃していたはず。そんな宣伝効果抜群(^^ゞ の番組がこれからも続きますように。できれば現在15分の枠を拡大して、もっとマイナーな展覧会も紹介して欲しいくらい。
さて今回の展覧会。場所は新宿区大京町の佐藤美術館。今までここで展覧会を見た経験はなく名前を聞くのも初めて。バブルの頃に飛ぶ鳥を落とす勢いで、ニューヨークのティファニー本社ビルを買収して有名になった第一不動産の創業者が1990年に設立した美術館。第一不動は2007年に倒産したとはいえ、こういう遺産を残せてよかったね。
最寄り駅は徒歩5分のJRの千駄ヶ谷駅か地下鉄大江戸線の国立競技場駅。でも乗り換えるのが面倒だったので地下鉄副都心線の北参道駅で下車。そこからでも15分ほどの距離。
千駄ヶ谷駅の先で高架をくぐってしばらく線路と平行に。
電車と国立競技場のツーショットが撮れた。
左側の木々は新宿御苑。
この道路に出て、
信号を渡りFOR RENTと書かれている左側の路地に入る。
児童公園で行き止まりかと一瞬あせったが、
奥の階段で公園を出ると、
この道路に出る。
このちょっと趣のある建物は四谷第六小学校と幼稚園。
公立で幼少一貫校は珍しいのでは。
その四谷第六のほぼ向かいに佐藤美術館のビル。
例によって思いつくままに書いているので、展覧会の内容にまでなかなか話が進まないが、今回は超写実絵画やスーパーリアリズムと呼ばれるジャンルの展覧会。
このエレベータのサイズでわかるように小さなビル。
エレベーターホールの脇に胡蝶蘭。胡蝶蘭は好きなんだけれど、お祝いにはとりあえず白い胡蝶蘭を送っておけな風潮が嫌い。ましてや美術関係者ならもうちょっと気を利かして欲しい。
受付は2階。
でもこの表示はわかりにくい。
そしてこのエレベーターがなかなか来ずにイライラ。
2階が受付とミュージアムショップ。
3〜5階が展示会場でその雰囲気を。
狭いのは仕方ないとして天井が低いのが美術館としては残念。
ここは美術館として建てられたのではなく普通の小規模なオフィスビル。
なお会場では一部の作品を除いて写真撮影可。
ーーー続く
wassho at 19:02|Permalink│Comments(0)│
2026年01月08日
イメージと違いつまらなかった青海波 その2
文様の青海波のネーミングともなった舞楽の青海波。平安時代によく舞われていたようだが、その名声を一気に高めたのは源氏物語。第7帖の紅葉賀(もみじのが)で光源氏が舞う姿を紫式部はこう綴っている。(以下はかなり意訳で順番もオリジナルとは違う)
「冒頭で節を付けて読み上げた漢詩は極楽浄土の鳥の声のように聞こえた。それがあまりに感動的で帝は涙を拭い、周りにいた貴族たちも皆涙を流した」
「それが終わると音楽が一斉に鳴り響き、ただでさえ美しい源氏の君がより輝いて見える」
「髪飾りに仕立てたモミジも、光源氏の美しさに圧倒されて散ってしまったので菊に差し替えられた。その菊さえ光源氏の素晴らしい舞に色を変えた」
「少し雨が降ってきて、それは天にいる神までが感動の涙を流しているかのようであった」
「クライマックスに差し掛かると、光源氏の足運びや表情などはこの世のものとも思われないほどだった」
「特に最後のアンコールは息を呑む出来映えで寒気を感じるほどゾクゾクした」
「舞を理解していない下働きの人々も、こっそり木や岩に隠れて光源氏を見つめ、また涙を流す者さえもいた」
「あまりに神々しく美しい舞だったゆえに、帝は光源氏が神隠しにあうのではないかと心配になり、寺々に命じて魔除けの念仏を唱えさせたくらいであった」
ーーーなどなど。
ここぞとばかりに青海波の素晴らしさが強調される。もっともこのとき、帝の妃の1人である藤壺が妊娠しており、それが不義密通した光源氏の子であって、なのに帝と藤壺が臨席している前で舞うというスリリングな場面ではある。
それはさておき、この青海波の舞は光源氏の青春の輝きを代表する出来事として描かれ(このときの光源氏は数えで18歳)、その後も多くの場面で回想・言及されるほどのハイライトシーン。
源氏物語を通読したことは何度かあるが(もちろん現代語訳で)、それとは別に解説などで、この青海波の美しさに触れた文章を読み、あるいは映画かアニメかで見たのか、いつしか私の頭の中で青海波=「この世のものとは思えない美しい舞」のイメージが固まっていた。モーソー的には天女が舞っているような姿。
その青海波が元旦早朝にNHKで放送されていたので録画しておいた。正月から「この世のものとは思えない美しい舞」の映像でトリップしようと思って。
見た。
見たけどーーー
想像とはまったく違った(>_<)
まっ、こんな感じ(画像はテレビ画面より)
画像で舞っている映像を想像するのは難しいだろうが、実は映像で見ても画像とあまり変わらない。それほど緩く単調な動きが繰り返されるだけ。これなら私でも半日練習すれば演じられそうなレベル。豪華なコスチュームに身を包んでいるからなんとか様になっているものの、もしこれがジャージ姿なら幼稚園のお遊戯のほうが見応えがある。
最初はこれはイントロで、これから盛り上がっていくはずと期待していたのに、ずっとこの調子で15分ほどで終了。青海波って短かったのね。
そして長年にわたって妄想を膨らませてきた「この世のものとは思えない美しい舞」との思いは、あっさり裏切られ木っ端みじんに吹き飛んだのである(/o\)
ところで青海波を「源氏物語にも登場する美しい舞」と書いている人は多い。
お前ら、青海波を見たことないヤロ!
もっとも紫式部は光源氏が舞う青海波が素晴らしいと書いただけで、青海波そのものを褒め称えているわけではない。「一緒に舞う相方の左大臣家の頭中将も容姿端麗で舞の技量も人並み以上とはいえ、光源氏と較べては山奥の木のようだ」とも表現している。山奥の木とは「美しい花と雑草」のような比喩。
つまり舞い手しだい。
それでもいくら光源氏が絶世のイケメンで超人的な舞の名手であったとしても、腕を広げたり閉じたり、足を前に出したり戻したりーーー程度の動きしかない青海波で、息を呑む神々しい舞になったとはどうしても思えない。
ひょっとして紫式部も青海波を見たことないんチャウカ?(^^ゞ
源氏物語はフィクションだけれど当時の社会に与えた影響は絶大で、この後に青海波はますます演じられるようになる。紅葉賀での青海波は、帝が上皇の50歳を祝う行事として催したとの設定。それを意識したのか1176年に後白河法皇の同じく50歳の祝賀会でも青海波が舞われる。
舞ったのは平維盛(これもり)。年齢も同じ18歳。清盛の孫である彼もまた光源氏の再来と称されたイケメンだったらしい。この史実は後に平家物語に収録されている。とはいっても青海波で人々が真っ先に連想するのは源氏物語。日本で一番高い山を富士山と知っていても二番目は知らないのと同じ。ちなみにGoogleでの次の単語での検索ヒット数は
「源氏物語 青海波」 2万8600件
「平家物語 青海波」 6510件
と大差がつく。
ひょっとしたら源氏物語で取り上げられなければ、青海波は今日まで伝わらなかったかも知れない。現在に伝承されている雅楽(舞を伴う舞楽を含む音楽全体)は400曲程度。これは平安時代のレパートリーの1/3程度との研究もある。
それはさておき、
何事も経験がモットーであるけれど今回はそれが裏目に。
青海波の実演なんて見なきゃよかったと後悔。
でも幻想が砕けたおかげで源氏物語の影響力を再認識できたからよしとするか。
おしまい
「冒頭で節を付けて読み上げた漢詩は極楽浄土の鳥の声のように聞こえた。それがあまりに感動的で帝は涙を拭い、周りにいた貴族たちも皆涙を流した」
「それが終わると音楽が一斉に鳴り響き、ただでさえ美しい源氏の君がより輝いて見える」
「髪飾りに仕立てたモミジも、光源氏の美しさに圧倒されて散ってしまったので菊に差し替えられた。その菊さえ光源氏の素晴らしい舞に色を変えた」
「少し雨が降ってきて、それは天にいる神までが感動の涙を流しているかのようであった」
「クライマックスに差し掛かると、光源氏の足運びや表情などはこの世のものとも思われないほどだった」
「特に最後のアンコールは息を呑む出来映えで寒気を感じるほどゾクゾクした」
「舞を理解していない下働きの人々も、こっそり木や岩に隠れて光源氏を見つめ、また涙を流す者さえもいた」
「あまりに神々しく美しい舞だったゆえに、帝は光源氏が神隠しにあうのではないかと心配になり、寺々に命じて魔除けの念仏を唱えさせたくらいであった」
ーーーなどなど。
ここぞとばかりに青海波の素晴らしさが強調される。もっともこのとき、帝の妃の1人である藤壺が妊娠しており、それが不義密通した光源氏の子であって、なのに帝と藤壺が臨席している前で舞うというスリリングな場面ではある。
それはさておき、この青海波の舞は光源氏の青春の輝きを代表する出来事として描かれ(このときの光源氏は数えで18歳)、その後も多くの場面で回想・言及されるほどのハイライトシーン。
源氏物語を通読したことは何度かあるが(もちろん現代語訳で)、それとは別に解説などで、この青海波の美しさに触れた文章を読み、あるいは映画かアニメかで見たのか、いつしか私の頭の中で青海波=「この世のものとは思えない美しい舞」のイメージが固まっていた。モーソー的には天女が舞っているような姿。
その青海波が元旦早朝にNHKで放送されていたので録画しておいた。正月から「この世のものとは思えない美しい舞」の映像でトリップしようと思って。
見た。
見たけどーーー
想像とはまったく違った(>_<)
まっ、こんな感じ(画像はテレビ画面より)
画像で舞っている映像を想像するのは難しいだろうが、実は映像で見ても画像とあまり変わらない。それほど緩く単調な動きが繰り返されるだけ。これなら私でも半日練習すれば演じられそうなレベル。豪華なコスチュームに身を包んでいるからなんとか様になっているものの、もしこれがジャージ姿なら幼稚園のお遊戯のほうが見応えがある。
最初はこれはイントロで、これから盛り上がっていくはずと期待していたのに、ずっとこの調子で15分ほどで終了。青海波って短かったのね。
そして長年にわたって妄想を膨らませてきた「この世のものとは思えない美しい舞」との思いは、あっさり裏切られ木っ端みじんに吹き飛んだのである(/o\)
ところで青海波を「源氏物語にも登場する美しい舞」と書いている人は多い。
お前ら、青海波を見たことないヤロ!
もっとも紫式部は光源氏が舞う青海波が素晴らしいと書いただけで、青海波そのものを褒め称えているわけではない。「一緒に舞う相方の左大臣家の頭中将も容姿端麗で舞の技量も人並み以上とはいえ、光源氏と較べては山奥の木のようだ」とも表現している。山奥の木とは「美しい花と雑草」のような比喩。
つまり舞い手しだい。
それでもいくら光源氏が絶世のイケメンで超人的な舞の名手であったとしても、腕を広げたり閉じたり、足を前に出したり戻したりーーー程度の動きしかない青海波で、息を呑む神々しい舞になったとはどうしても思えない。
ひょっとして紫式部も青海波を見たことないんチャウカ?(^^ゞ
源氏物語はフィクションだけれど当時の社会に与えた影響は絶大で、この後に青海波はますます演じられるようになる。紅葉賀での青海波は、帝が上皇の50歳を祝う行事として催したとの設定。それを意識したのか1176年に後白河法皇の同じく50歳の祝賀会でも青海波が舞われる。
舞ったのは平維盛(これもり)。年齢も同じ18歳。清盛の孫である彼もまた光源氏の再来と称されたイケメンだったらしい。この史実は後に平家物語に収録されている。とはいっても青海波で人々が真っ先に連想するのは源氏物語。日本で一番高い山を富士山と知っていても二番目は知らないのと同じ。ちなみにGoogleでの次の単語での検索ヒット数は
「源氏物語 青海波」 2万8600件
「平家物語 青海波」 6510件
と大差がつく。
ひょっとしたら源氏物語で取り上げられなければ、青海波は今日まで伝わらなかったかも知れない。現在に伝承されている雅楽(舞を伴う舞楽を含む音楽全体)は400曲程度。これは平安時代のレパートリーの1/3程度との研究もある。
それはさておき、
何事も経験がモットーであるけれど今回はそれが裏目に。
青海波の実演なんて見なきゃよかったと後悔。
でも幻想が砕けたおかげで源氏物語の影響力を再認識できたからよしとするか。
おしまい
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2026年01月05日
イメージと違いつまらなかった青海波
青海波(せいがいは)とは、
古典的な幾何学文様の一種でありまた舞楽の演目のひとつ。
文様の青海波はその名前を知らなくても、
誰もが目にしたことがあるはず。
穏やかな「春の海ひねもすのたりのたりかな」のイメージだろうか。
あるいは水面に光が反射している様子にも思える。
もっとも青海波のネーミングがなければウロコを連想したかも知れない(^^ゞ
青海波は日本の伝統文様のように扱われるものの、その発祥は古代のササン朝ペルシャ(226年〜651年)。それがシルクロードを経て古墳時代の終わり頃に日本に伝来。古墳時代は250年あたりから600年代だからほぼ同時期に伝わったことになる。
当時の日本人はこのペルシャの最新モードが気に入ったらしく、この「盛装女子」と何となく今っぽい名前が付けられた埴輪にも青海波の文様が見られる。
現在でも着物など和風系を中心に青海波のデザインは使われている。
画像はhttps://x.gd/U4idT、https://x.gd/MC30f、https://x.gd/y2Ngr、https://x.gd/cDJbM、https://x.gd/dYjbG、https://x.gd/7G3jR、https://x.gd/iplzV、https://x.gd/nuVpr、https://x.gd/pVyD9(短縮URL使用))から引用編集
また青海波には、波のように見える同心円を扇状に重ねた連続模様以外にも様々なバリエーションがある。
花青海波:青海波の形を菊や梅などの花にアレンジ。
破れ青海波:波の一部が途切れていたり、欠けているデザイン。
松竹梅青海波:松、竹、梅といった縁起の良い植物と組み合わせ。
牡丹青海波:紅葉と牡丹の組み合わせ。
紅葉青海波:紅葉と青海波の組み合わせ。
画像中央上段の帯は菊にアレンジした花青海波だけれど、多少の知識がないとこれが青海波とは思えないね。まあ菊にも見えないが。 帯の画像はhttps://x.gd/J9YSn、茶碗はhttps://x.gd/GZWqp(短縮URL使用)から引用
青海波は縁起のよい吉祥文様とされている。円を扇状に重ねている=扇=末広がりがその理由で、またたくさんの扇形が連続している=未来永劫や子孫繁栄との解釈もある。そうすると破れ青海波は縁起が悪くなってしまうけど。
また青海波のネーミングによって波や海をイメージするが、意外にも水に関する文様として扱われるのは鎌倉時代以降らしい。
その青海波のネーミングは舞楽のタイトルである青海波から取られている。舞楽の青海波は平安時代に始まり、寄せる波・引く波を表現する舞で、装束には波模様と千鳥を配するしきたりになっていた。その波つながりでこの文様が青海波と呼ばれるようになったようだ。
ただし現在の装束は青海波文様が使われているものの、
平安時代の装束の波模様が青海波文様だったかどうかは不明。
青海波文様がいつ頃から青海波と呼ばれるようになったかも不明。
ではある。
例によって前書きが長くなった(^^ゞ
青海波には文様と舞楽があって本題は舞楽についてである。
ーーー続く
古典的な幾何学文様の一種でありまた舞楽の演目のひとつ。
文様の青海波はその名前を知らなくても、
誰もが目にしたことがあるはず。
穏やかな「春の海ひねもすのたりのたりかな」のイメージだろうか。
あるいは水面に光が反射している様子にも思える。
もっとも青海波のネーミングがなければウロコを連想したかも知れない(^^ゞ
青海波は日本の伝統文様のように扱われるものの、その発祥は古代のササン朝ペルシャ(226年〜651年)。それがシルクロードを経て古墳時代の終わり頃に日本に伝来。古墳時代は250年あたりから600年代だからほぼ同時期に伝わったことになる。
当時の日本人はこのペルシャの最新モードが気に入ったらしく、この「盛装女子」と何となく今っぽい名前が付けられた埴輪にも青海波の文様が見られる。
現在でも着物など和風系を中心に青海波のデザインは使われている。
画像はhttps://x.gd/U4idT、https://x.gd/MC30f、https://x.gd/y2Ngr、https://x.gd/cDJbM、https://x.gd/dYjbG、https://x.gd/7G3jR、https://x.gd/iplzV、https://x.gd/nuVpr、https://x.gd/pVyD9(短縮URL使用))から引用編集
また青海波には、波のように見える同心円を扇状に重ねた連続模様以外にも様々なバリエーションがある。
花青海波:青海波の形を菊や梅などの花にアレンジ。
破れ青海波:波の一部が途切れていたり、欠けているデザイン。
松竹梅青海波:松、竹、梅といった縁起の良い植物と組み合わせ。
牡丹青海波:紅葉と牡丹の組み合わせ。
紅葉青海波:紅葉と青海波の組み合わせ。
画像中央上段の帯は菊にアレンジした花青海波だけれど、多少の知識がないとこれが青海波とは思えないね。まあ菊にも見えないが。 帯の画像はhttps://x.gd/J9YSn、茶碗はhttps://x.gd/GZWqp(短縮URL使用)から引用
青海波は縁起のよい吉祥文様とされている。円を扇状に重ねている=扇=末広がりがその理由で、またたくさんの扇形が連続している=未来永劫や子孫繁栄との解釈もある。そうすると破れ青海波は縁起が悪くなってしまうけど。
また青海波のネーミングによって波や海をイメージするが、意外にも水に関する文様として扱われるのは鎌倉時代以降らしい。
その青海波のネーミングは舞楽のタイトルである青海波から取られている。舞楽の青海波は平安時代に始まり、寄せる波・引く波を表現する舞で、装束には波模様と千鳥を配するしきたりになっていた。その波つながりでこの文様が青海波と呼ばれるようになったようだ。
ただし現在の装束は青海波文様が使われているものの、
平安時代の装束の波模様が青海波文様だったかどうかは不明。
青海波文様がいつ頃から青海波と呼ばれるようになったかも不明。
ではある。
例によって前書きが長くなった(^^ゞ
青海波には文様と舞楽があって本題は舞楽についてである。
ーーー続く
wassho at 23:09|Permalink│Comments(0)│
2026年01月01日
今年で何年目?
めでたく年が明けて2026年。
2000年代になってから1/4世紀が過ぎて、
令和も8年となり年月の流れるのは早いものである。
昨年は昭和100年の年であったが、
それと同じように今年で何年になるかを計算してみると
1989年から始まり30年間続いた平成は38年。
1926年から始まり64年間続いた昭和は101年。
1912年から始まり15年間続いた大正は115年。
1868年から始まり45年間続いた明治は159年。
平成で38年か。
平成の初期に生まれた人はもう中年なんだね(/o\)
逆の計算をすると
昭和最後の64年(1989年)に生まれた人は今年で37歳
大正最後の15年(1926年)に生まれた人は今年で100歳
明治最後の45年(1912年)に生まれた人は今年で114歳
昨年8月時点で男性の最高齢者は111歳なので、既に明治生まれは存命していない。女性の最高齢者は明治43年生まれで今年で116歳になる。明治44年〜45年生まれがどれくらいいるのかはわからなかったものの、もうすぐ明治生まれの人がいなくなると思うと少し寂しい。
なお先ほど書いたように今年は平成38年にあたるが、平成元年(または昭和最終年)生まれの人は今年の誕生日で37歳になる。これが日数計算のややこしいところ。
ある年はある年の何年前かは単純に引き算すればいい。2025年は2026−2025=1で2026年の1年前である。これが2026年は2025年から数えて何年目かだと2026−2025+1=2年目となる。さらに今年に会社を起こしたら設立1年目で、今年に生まれた子供は0歳と数える。だから昨年にできた会社は今年で設立2年目になり、昨年に生まれた子供は今年に1歳である。
日数や年数の計算をするときに、いつもこのあたりを混同しかけてちょっとイラッとする。ちなみにもっとイラッとするのは年数と世紀の数字が一致しないこと。つまり645年の大化の改新は7世紀であり、1467年に始まった応仁の乱は15世紀。年数と世紀が混在して記載されている歴史の解説を読むと「どちらかに統一して書け!」と言いたくなる。
これはもちろん西暦の1年〜100年を1世紀、101年〜200年を2世紀と数えるから。最初を0世紀としたら年数と一致したのに。また世紀とは100年単位で区切るの数え方。しかし1年〜100年、101年〜200年ではなく、99年単位の1〜99年、100年〜199年にして欲しかった。2000年になったとき「えっ、まだ20世紀? 21世紀は2001年から?」と感じた人は少なくないと思うゾ。1600年に起きた関ヶ原の戦いも16世紀。
さて続きを計算しますか。
以降も2026年−当該年数+1の「今年はあれから何年目」で計算している。
1603年に江戸時代が始まって今年は423年目
1598年に秀吉が没して今年は429年目
1582年に信長が没して今年は445年目
1336年に室町幕府が始まって今年で691年目
1192年に鎌倉幕府が始まって今年で835年目
794年に平安時代が始まって今年で1233年目
710年に奈良時代が始まって今年で1317年目
593年に飛鳥時代が始まって今年で1434年目
最近は鎌倉時代の始まりを1185年と学校で教えているのは知っている。イイクニツクロウの1192年は征夷大将軍に任命された年。それより前の1185年に壇ノ浦で平家が滅亡し、同時に頼朝が諸国に守護・地頭を設置する権限を朝廷から得て、実質的に統治機能を握ったとするのがイイハコの1185年説。
その理屈はわかるのだけれど、室町幕府と江戸幕府も征夷大将軍任命基準だし。逆に家康が任命されたのは1603年でも大坂冬の陣で豊臣が滅亡したのは1615年と12年も後。どうして鎌倉時代だけ実質本位で考えるのかよくわからない。まあイイクニツクロウの語呂合わせが気に入っているからそう思うのかも知れないが。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
さて今年が各時代から何年目かなんて、ちょっと思いついて計算してみただけで「だからどうした」な話である。今年もそんなポリシーでブログを書いていくので(^^ゞ ヒマがあったらのぞいてみてください。
謹賀新年 元旦
wassho at 23:33|Permalink│Comments(0)│
2025年12月22日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その11
「その10」で1592〜1593年にイエズス会が発行した、宣教師の語学教材である天草版平家物語にニフォン(NIFON)とニッポン(Nippon)の読みが掲載されているのを紹介した。そしてブログタイトルにあるジッポンも同じくイエズス会が1603〜1604年に編纂した日葡辞書(にっぽ辞書)に載っている。
葡はポルトガルを意味し日葡辞書とは日本語・ポルトガル語辞書。漢字表記のポルトガルは葡萄牙となる。カタカナ国名の漢字表記はほとんどが中国語での当て字で、ポルトガルがワインの産地だからといって国名とブドウは関係ない。ところで漢字一文字で表す英仏伊独蘭露米加印豪などは馴染みがあっても葡はわからないね。ポルトガルの隣のスペインは西なのをギリ知っている程度。フルネームでは西班牙。
これがイエズス会の日葡辞書で現存するのは世界に4冊。約3万2000語を収録している。広辞苑は25万語だが小学生の学習用国語辞典だと3〜4万語程度。イエズス会が最初に来日したのは1549年。わずか50年でまったく未知の言語だった日本語でこれだけの辞書を作ったのは、当時のコミュニケーション手段を考えると凄い。なお日本についてニフォン、ニッポン、ジッポンの3つの読みが載っているらしいがその箇所の画像は見つけられなかった。
ジッポンの語源はニチホンと同じで時代が少し違う。
これは「その9」でも書いた現在の「日」と「本」の音読み・訓読み。
日:音読み ニチ・ジツ 訓読み ひ・か
本:音読み ホン 訓読み もと
音読みのニチとホンを組み合わせればニチホンとなり、ジツとホンならジツホン。それでは発音しにくいのでツが詰まって小さな「ッ」となり、それに併せてホンもポンと変化してジッポン。(本は「ッ」の後では「ポン」、「ン」の後では「ボン」)
訓読みは漢字の意味に古来よりある日本語の読みを当てはめ、対する音読みは中国語風の発音をそのまま使っている。そして「日」の音読みにニチとジツがあるのは由来となった中国語の時期が違うから。中国は代表的なものだけで「殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清」と10の王朝があり漢字の発音も変化している。
日本の音読みになっているのは主に3つの時代で
呉音:日本で文字を使うようになった古墳時代中頃の6世紀頃に伝来。
漢音:7〜8世紀の飛鳥時代から平安時代の初めに、遣隋使や遣唐使と
来日した僧侶などによって伝えられた音。現在の音読みでは一番多い。
唐音:10世紀の平安中期から江戸時代末期までに入ってきた読み方。
ただし音読み名に古代中国の王朝名がついているものの、
それぞれの王朝が成立していたのは
三国志の魏・呉・蜀の呉:222〜280年
漢:前漢:紀元前206〜紀元8年、後漢:25〜220年
唐:618年〜907年
であり音読みの名前と一致しない。呉音が伝来したときの中国は南北朝から隋の時代、漢音は唐、唐音では宋以降となる。これについて呉音はよくわからないが、漢音が伝来した唐の時代に日本では中国を通称として漢と呼び、唐音が伝来した唐が滅びた以降でも中国を唐と呼んでいたのが理由らしい。唐に関しては今でも唐物(からもの)、唐人(とうじん)なんて言葉が残っている。ちなみに現在の中国語発音で日本はリーベン。
日は呉音がニチで漢音がジツ。日本が「倭」から「日本」へと国名の変更を宣言したのは702年。当時はまだ呉音が主流。だから呉音の音読みでニチホンと読み、その後に漢音も広まってくるとジッポンとも読んだのではないかと思う。(本は呉音と漢音ともにホン)
呉音読みのニチホンはニフォンやニッポンなどに変化し、「その10」で書いたように江戸時代にニフォンはニホンとなってニッポンと共に現代まで続いている。漢音読みのジッポンは漢文国家であった平安中期以降にエリート層に広まったと思われる。そして江戸時代初期には廃れてしまったようだ。理由はわからないが漢文国家の色彩が薄れるにつれて自然淘汰したのだろう。
しかしジッポンの読みは中国に渡り、その中国で日本は黄金の国などの噂を聞きつけたマルコ・ポーロが東方見聞録第3巻で日本をジパング(ZipanguまたはCipangu)と紹介した。彼がアジア諸国を訪問したのは1271〜1295年。中国は元、日本は鎌倉時代。その前の平安後期から盛んになった日宋貿易によってジッポンの名前も中国に伝わっていたと思われる。なおジパングのグは国を表しており直訳すれば日本国になる。つまり日本だけだとジパンでありジッポンとかなり近い。
東方見聞録がヨーロッパ各国で読まれるうちに、ジパングもそれぞれの国の言葉になってくる。(異説あり)
英語:ジャパン(Japan)
フランス語:ジャポン(Japon)
ドイツ語:ヤーパン(Japan)
イタリア語:ジャッポーネ(Giappone)
スペイン語:ハポン(Japon)
ポルトガル語:ジャポン または ジャパーン(Japao)
オランダ語:ヤパン(Japan)
フィンランド語:ヤパニ(Japani)
ギリシア語:イアポニア(Iaponia)
ロシア語:ヤポーニヤ(Япония)
それぞれジパングがベースとなっているとわかる。
でもアイルランド語ではなぜか
アン・チャパーン(an tSeapain)
ナンヤソレ?
でもアンは定冠詞なのでそれを除けばチャパーンでジパング寄り。
ヨーロッパ以外では (閲覧環境によって文字化けの可能性あり)
中国語:リーベン
朝鮮語:イルボン(일본)
タイ語:イープン(ญี่ปุ่น)
ベトナム語:ニャッバーン(Nhật Bản)
フィリピン語(タガログ語):ハポン(Hapon)
マレー語:ジェプン(Jepun)
インドネシア語:ジェパン(Jepang)
インド語(ヒンディ語):ジャパン(जापान)
アラビア語:アル・ヤバーン(اليابان) アルは定冠詞
ペルシャ語:ジャポーン (ژاپن )
フィリピン語以下はジパング系統(マレー語のジェプンがジパングの語源との説あり)。ベトナム語は日本に改名した当時の中国読みとされるニェットプァンに近い。中国、朝鮮、タイの言葉はそれぞれのオリジナルのようだ。
東京がトウキョウではなくトウケイやトキオと呼ばれていた時代があった。それは明治政府が江戸を東京と改名した際に読みを決めなかったのが原因。そんな話を以前にブログに書いて、そういえば地名ではなく国名だってニホンとニッポンの2つの読み方があると気付く。調べてみるといろいろ変遷があったと知り、それをテーマに書き出したのが今回のブログ。それにしても「その11」まで続くとは思っていなかったが。
古代の日本語は漢文で書かれ、その漢字にフリガナが振られているのはまれで、正確なところはなかなか確かめられない。あの織田信長だってオタやオリタだったと主張する説もある。
あまり細かなことはともかく、とりあえず遠い昔に日本をニフォンやジッポンと読んでいた時代があったらしいと漠然とした想像を楽しんでいる。
ところで「その7」に書いたように2004年の調査で、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている単語の97.6%はニホンと発音され、国名でも96.2%がニホン。私もニッポンは「がんばれニッポン」と応援するときくらいで基本的にニホン。
その理由は小さい「ッ」が入るニッポンよりニホンのほうが口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
しかしそう考えるとニホンよりニフォンのほうが楽。ハヒフヘホは口の奥から音を出すのに対してファ、フィ、フゥ、フェ、フォなら軽く息を吐くだけで済む。またホは唇を突き出すがフォならそのまま。
それに気付いてから人との会話でコソッと日本をニフォンと発音している(^^ゞ 今まで変に思われたことはない。まあ気恥ずかしさもあって、かなりニホン寄りのニフォンなせいもあるけれど。また話題の文脈的に日本だとわかるので相手が脳内でニフォンをニホンに変換してくれているのかも知れない。
よかったらお試しを。
いにしえの平安言葉の雰囲気を味わいましょう?
おしまい
葡はポルトガルを意味し日葡辞書とは日本語・ポルトガル語辞書。漢字表記のポルトガルは葡萄牙となる。カタカナ国名の漢字表記はほとんどが中国語での当て字で、ポルトガルがワインの産地だからといって国名とブドウは関係ない。ところで漢字一文字で表す英仏伊独蘭露米加印豪などは馴染みがあっても葡はわからないね。ポルトガルの隣のスペインは西なのをギリ知っている程度。フルネームでは西班牙。
これがイエズス会の日葡辞書で現存するのは世界に4冊。約3万2000語を収録している。広辞苑は25万語だが小学生の学習用国語辞典だと3〜4万語程度。イエズス会が最初に来日したのは1549年。わずか50年でまったく未知の言語だった日本語でこれだけの辞書を作ったのは、当時のコミュニケーション手段を考えると凄い。なお日本についてニフォン、ニッポン、ジッポンの3つの読みが載っているらしいがその箇所の画像は見つけられなかった。
ジッポンの語源はニチホンと同じで時代が少し違う。
これは「その9」でも書いた現在の「日」と「本」の音読み・訓読み。
日:音読み ニチ・ジツ 訓読み ひ・か
本:音読み ホン 訓読み もと
音読みのニチとホンを組み合わせればニチホンとなり、ジツとホンならジツホン。それでは発音しにくいのでツが詰まって小さな「ッ」となり、それに併せてホンもポンと変化してジッポン。(本は「ッ」の後では「ポン」、「ン」の後では「ボン」)
訓読みは漢字の意味に古来よりある日本語の読みを当てはめ、対する音読みは中国語風の発音をそのまま使っている。そして「日」の音読みにニチとジツがあるのは由来となった中国語の時期が違うから。中国は代表的なものだけで「殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清」と10の王朝があり漢字の発音も変化している。
日本の音読みになっているのは主に3つの時代で
呉音:日本で文字を使うようになった古墳時代中頃の6世紀頃に伝来。
漢音:7〜8世紀の飛鳥時代から平安時代の初めに、遣隋使や遣唐使と
来日した僧侶などによって伝えられた音。現在の音読みでは一番多い。
唐音:10世紀の平安中期から江戸時代末期までに入ってきた読み方。
ただし音読み名に古代中国の王朝名がついているものの、
それぞれの王朝が成立していたのは
三国志の魏・呉・蜀の呉:222〜280年
漢:前漢:紀元前206〜紀元8年、後漢:25〜220年
唐:618年〜907年
であり音読みの名前と一致しない。呉音が伝来したときの中国は南北朝から隋の時代、漢音は唐、唐音では宋以降となる。これについて呉音はよくわからないが、漢音が伝来した唐の時代に日本では中国を通称として漢と呼び、唐音が伝来した唐が滅びた以降でも中国を唐と呼んでいたのが理由らしい。唐に関しては今でも唐物(からもの)、唐人(とうじん)なんて言葉が残っている。ちなみに現在の中国語発音で日本はリーベン。
日は呉音がニチで漢音がジツ。日本が「倭」から「日本」へと国名の変更を宣言したのは702年。当時はまだ呉音が主流。だから呉音の音読みでニチホンと読み、その後に漢音も広まってくるとジッポンとも読んだのではないかと思う。(本は呉音と漢音ともにホン)
呉音読みのニチホンはニフォンやニッポンなどに変化し、「その10」で書いたように江戸時代にニフォンはニホンとなってニッポンと共に現代まで続いている。漢音読みのジッポンは漢文国家であった平安中期以降にエリート層に広まったと思われる。そして江戸時代初期には廃れてしまったようだ。理由はわからないが漢文国家の色彩が薄れるにつれて自然淘汰したのだろう。
しかしジッポンの読みは中国に渡り、その中国で日本は黄金の国などの噂を聞きつけたマルコ・ポーロが東方見聞録第3巻で日本をジパング(ZipanguまたはCipangu)と紹介した。彼がアジア諸国を訪問したのは1271〜1295年。中国は元、日本は鎌倉時代。その前の平安後期から盛んになった日宋貿易によってジッポンの名前も中国に伝わっていたと思われる。なおジパングのグは国を表しており直訳すれば日本国になる。つまり日本だけだとジパンでありジッポンとかなり近い。
東方見聞録がヨーロッパ各国で読まれるうちに、ジパングもそれぞれの国の言葉になってくる。(異説あり)
英語:ジャパン(Japan)
フランス語:ジャポン(Japon)
ドイツ語:ヤーパン(Japan)
イタリア語:ジャッポーネ(Giappone)
スペイン語:ハポン(Japon)
ポルトガル語:ジャポン または ジャパーン(Japao)
オランダ語:ヤパン(Japan)
フィンランド語:ヤパニ(Japani)
ギリシア語:イアポニア(Iaponia)
ロシア語:ヤポーニヤ(Япония)
それぞれジパングがベースとなっているとわかる。
でもアイルランド語ではなぜか
アン・チャパーン(an tSeapain)
ナンヤソレ?
でもアンは定冠詞なのでそれを除けばチャパーンでジパング寄り。
ヨーロッパ以外では (閲覧環境によって文字化けの可能性あり)
中国語:リーベン
朝鮮語:イルボン(일본)
タイ語:イープン(ญี่ปุ่น)
ベトナム語:ニャッバーン(Nhật Bản)
フィリピン語(タガログ語):ハポン(Hapon)
マレー語:ジェプン(Jepun)
インドネシア語:ジェパン(Jepang)
インド語(ヒンディ語):ジャパン(जापान)
アラビア語:アル・ヤバーン(اليابان) アルは定冠詞
ペルシャ語:ジャポーン (ژاپن )
フィリピン語以下はジパング系統(マレー語のジェプンがジパングの語源との説あり)。ベトナム語は日本に改名した当時の中国読みとされるニェットプァンに近い。中国、朝鮮、タイの言葉はそれぞれのオリジナルのようだ。
東京がトウキョウではなくトウケイやトキオと呼ばれていた時代があった。それは明治政府が江戸を東京と改名した際に読みを決めなかったのが原因。そんな話を以前にブログに書いて、そういえば地名ではなく国名だってニホンとニッポンの2つの読み方があると気付く。調べてみるといろいろ変遷があったと知り、それをテーマに書き出したのが今回のブログ。それにしても「その11」まで続くとは思っていなかったが。
古代の日本語は漢文で書かれ、その漢字にフリガナが振られているのはまれで、正確なところはなかなか確かめられない。あの織田信長だってオタやオリタだったと主張する説もある。
あまり細かなことはともかく、とりあえず遠い昔に日本をニフォンやジッポンと読んでいた時代があったらしいと漠然とした想像を楽しんでいる。
ところで「その7」に書いたように2004年の調査で、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている単語の97.6%はニホンと発音され、国名でも96.2%がニホン。私もニッポンは「がんばれニッポン」と応援するときくらいで基本的にニホン。
その理由は小さい「ッ」が入るニッポンよりニホンのほうが口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
しかしそう考えるとニホンよりニフォンのほうが楽。ハヒフヘホは口の奥から音を出すのに対してファ、フィ、フゥ、フェ、フォなら軽く息を吐くだけで済む。またホは唇を突き出すがフォならそのまま。
それに気付いてから人との会話でコソッと日本をニフォンと発音している(^^ゞ 今まで変に思われたことはない。まあ気恥ずかしさもあって、かなりニホン寄りのニフォンなせいもあるけれど。また話題の文脈的に日本だとわかるので相手が脳内でニフォンをニホンに変換してくれているのかも知れない。
よかったらお試しを。
いにしえの平安言葉の雰囲気を味わいましょう?
おしまい
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2025年12月17日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その10
飛鳥時代の終わりに国名を倭から日本に変更した際に、
その読み方は
1)ヤマト
2)ニェットプァン
などだったとする説がある。
ヤマト説について疑問に思うところは前回に書いた。
今回はニェットプァン。
国名を変更したのは700年前後。中国は唐の時代(618年〜907年)であり、このニェットプァンはその頃の中国語発音。「日」がniet(ニェット)で「本」がpuən(プァン)。それはいいとして、この日本人には発音しにくいニェットプァンを、中国人がそういうのを聞いて日本人も日本をニェットプァンと読んでいたするのがニェットプァン説。
そんなことがあるかあ?というのが直感的な疑問。自分の国をニホンと呼んでいたのに、鎖国が解けて英語ではJAPANだと知ったら自らもジャパンと言い出したような話。
ニェットプァン説では来日した中国人僧侶などが口にするニェットプァンを聞いて、日本人もそれに倣ったとするのだが、彼らが「日本語に影響を与える」ほどの人数と接触していたかも疑問。ただしこれは、前回に書いたように古代の支配層や役人は「書く:漢語」「読む:訓読み」「儀礼や外交の場:漢音」とバイリンガル的な言語体系を駆使していたし、またそれ以外の一般庶民に国家の概念があったかどうかを含めて、私レベルの知識では想像・推測が追いつかないのが残念。
その後、ニェットプァンではあまりにも発音しづらいのでニエップン→ニエッポン→ニッポンのように変化していったとされる。ニエップンなどと言っていたエビデンスはどこにあるのかと思ってしまうが、さらに大きな疑問は、どうして国名の読みとしてヤマトが使われなくなったかである。遅くとも平安中期にはその呼び名は用いられなくなる。
ヤマトがニェットプァンやその後継語に駆逐された理由は様々な説があるものの、日本という明らかに漢語的な国名を採用したのに、どうしてわざわざ和語(訓読み)で「ヤマト」と読ませ続けたのか、そしてなぜ後に自然に漢音(音読み)に切り替わったのかを充分に説明できているものはない。
だったら
国名を倭から日本に変更した際の読み方は
ヤマトでもニェットプァンでもなく
日本語の音読みであるニチホンなどだった
とすればすべてを素直に説明できるのにと思ってしまう。
歴史学者には「これだから素人は」と笑われるかも知れない。
でも私はこの説を信じよう。前回に書いたように歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちなのだ(^^ゞ
さて始まりがニェットプァンかニチホンだったかはともかく、その後の読み方の変化について。ようやく「その10」にして内容がブログタイトルに追いついてきた。
まず奈良から平安前期の日本語に「ハヒフヘホ」の音はなく、ハ行は「パピプペポ」とP音で発音していたするのが定説。(例によってエビデンスが気になるが面倒なので調べていない、また諸説あり)
→したがって日本はニッポンあるいはニポン
そして平安中期の源氏物語が書かれた1000年頃になると、ハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」のF音に変化。
→日本はニフォンあるいはニッフォンになる。
この傾向は江戸時代の初めまで続く。
室町時代のなぞなぞに「母には二回会うけれど、父だと一回も会えないものなーんだ?」と問うのがある。現代人には解けないが答えは「唇」。母はハハではなくファファだったので唇が2回接触するから。一方のチチは一度も唇を閉じない。
ちなみに母という単語は万葉集にも載っていて奈良時代には存在していた。でも当時のハ行は「パピプペポ」だから母=パパとなってしまうのが面白い。
また天草版平家物語と呼ばれる書物がある。これは日本で活動していたイエズス会が宣教師の語学学習用に日本で出版し、平家物語が日本語のままポルトガル式のローマ字で書かれている。発行は1592〜1593年。九州の天草コレジオで印刷されたのが天草版の由来。コレジオはポルトガル語でカレッジを意味する。平家物語以外に伊曽保物語=イソップ物語などが収録されている。
発行されたのは秀吉が政権の座にあった安土桃山時代であるが、その前の室町時代(1336〜1573年)の日本語の特徴を知る貴重な資料とされる。つまりハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」となるF音。
挿絵の上の文字を漢字かな交じりにすると
日本の言葉とヒストリアを習い知らんと欲する人のために
世話に和らげたる平家の物語
ヒストリアはラテン語のhistoriaがベースで英語のhistoryと同じく歴史。辞書でポルトガル語を引くとhistoriaだけれど、この頃はhiftoriaだったのかな。
またここだけがヒストリアとポルトガル語なのは、日本語にまだ「歴史」と言う単語がなかったためと思われる。「歴史」は江戸時代中頃に中国からもたらされ、明治以降に翻訳語と一緒に定着した。翻訳語とは社会・自由・科学・哲学のように外国語の概念を日本語で表現するために作られた言葉。ではそれまで歴史のことを何といっていたんだろうね?
「世話に和らげたる」は優しい言葉遣いにしたとの意味らしい。
そして日本はニフォン、欲するがフォッスル、人がフィト、平家がフェイケとなっている。平家なんて文字だけを抜き出すとまったく平家とイメージがつながらない。 平安中期にハ行がF音だとすると光源氏もフィカル源氏(^^ゞ
ただし天草版のイソップ物語ではNipponと書かれ、当時はニフォンとニッポンが混在していたのがわかる。今のニホンとニッポンと同じような状況。
画像はESOPOがイソップ、FABVLASは寓話。現在のポルトガル語では fabula。
この天草版がベースになったかどうかはよくわからないものの、江戸時代の初期にイソップ物語が伊曽保物語として出版される。「アリとキリギリス」「北風と太陽」「オオカミ少年」など現在でも多くの人が慣れ親しんでいる童話を、江戸時代の人も読んでいたとは驚いた。
これが1659年に出版された伊曽保物語。
どうやら子供向けの童話扱いではなさそう。
さてP音→F音と変化してきたハ行は江戸時代になってしばらくした頃にH音、すなわち現在と同じハヒフヘホになる。
これはせっかちな江戸っ子が早口で喋るためにファ、フィ、フゥ、フェ、フォをハヒフヘホに短縮したとする解説が多い。
本当かな? 江戸っ子がせっかちなんて時代劇が作られるようになってからのイメージにも思える。それに江戸時代の中頃まで江戸と上方(京阪神)の人口にそれほど差はない。江戸弁が標準語として普及する影響力があったかどうか。もちろんテレビやラジオで江戸っ子の喋りを聞くこともできない。さらにやがて100万都市になった頃の江戸でも、人口の半分は武士であり、その50万人の多くは地方から江戸に出仕してきた人々。
またせっかちな江戸っ子説では、東京の日本橋はニホンバシ、大阪のはニッポンバシと漢字は同じでも読みが違うのを、江戸ではH音に変化したのに大阪ではニッポンとP音の発音が残っていたからと説明する。しかし江戸の日本橋は1603年、大阪は1619年の完成である。家康が秀吉によって江戸への国替えを命じられたのは1590年で、橋が架けられた当時の江戸の人口は15万人程度。せっかちな江戸っ子の早口によってH音になったとしても、そんなチャキチャキの江戸っ子が登場するのはもっと後の時代だろう。江戸の日本橋も最初はニッポンバシだった気がする。
なおP音がF音に変化したのは1000年頃だけれど、600年後に大阪の日本橋がニフォンバシではなくニッポンバシだったのは、1592〜1593年発行の天草版平家物語にNippon表記もあるから、P音の発音が残っていたとの説はあり得る。
発音とは関係ないが、どちらの橋も江戸幕府が直接手がけた公儀橋=主要建造物なのに、どうして江戸と大阪で同じ日本橋と名付けたのかのほうが不思議。
せっかちな江戸っ子説はマユツバだとしても、言葉なんて時代の流れでナントナク変化していくもの。そういえばP音やF音になったのも、そのきっかけや理由まで説明している解説は見つけられなかった。
ーーー続く
その読み方は
1)ヤマト
2)ニェットプァン
などだったとする説がある。
ヤマト説について疑問に思うところは前回に書いた。
今回はニェットプァン。
国名を変更したのは700年前後。中国は唐の時代(618年〜907年)であり、このニェットプァンはその頃の中国語発音。「日」がniet(ニェット)で「本」がpuən(プァン)。それはいいとして、この日本人には発音しにくいニェットプァンを、中国人がそういうのを聞いて日本人も日本をニェットプァンと読んでいたするのがニェットプァン説。
そんなことがあるかあ?というのが直感的な疑問。自分の国をニホンと呼んでいたのに、鎖国が解けて英語ではJAPANだと知ったら自らもジャパンと言い出したような話。
ニェットプァン説では来日した中国人僧侶などが口にするニェットプァンを聞いて、日本人もそれに倣ったとするのだが、彼らが「日本語に影響を与える」ほどの人数と接触していたかも疑問。ただしこれは、前回に書いたように古代の支配層や役人は「書く:漢語」「読む:訓読み」「儀礼や外交の場:漢音」とバイリンガル的な言語体系を駆使していたし、またそれ以外の一般庶民に国家の概念があったかどうかを含めて、私レベルの知識では想像・推測が追いつかないのが残念。
その後、ニェットプァンではあまりにも発音しづらいのでニエップン→ニエッポン→ニッポンのように変化していったとされる。ニエップンなどと言っていたエビデンスはどこにあるのかと思ってしまうが、さらに大きな疑問は、どうして国名の読みとしてヤマトが使われなくなったかである。遅くとも平安中期にはその呼び名は用いられなくなる。
ヤマトがニェットプァンやその後継語に駆逐された理由は様々な説があるものの、日本という明らかに漢語的な国名を採用したのに、どうしてわざわざ和語(訓読み)で「ヤマト」と読ませ続けたのか、そしてなぜ後に自然に漢音(音読み)に切り替わったのかを充分に説明できているものはない。
だったら
国名を倭から日本に変更した際の読み方は
ヤマトでもニェットプァンでもなく
日本語の音読みであるニチホンなどだった
とすればすべてを素直に説明できるのにと思ってしまう。
歴史学者には「これだから素人は」と笑われるかも知れない。
でも私はこの説を信じよう。前回に書いたように歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちなのだ(^^ゞ
さて始まりがニェットプァンかニチホンだったかはともかく、その後の読み方の変化について。ようやく「その10」にして内容がブログタイトルに追いついてきた。
まず奈良から平安前期の日本語に「ハヒフヘホ」の音はなく、ハ行は「パピプペポ」とP音で発音していたするのが定説。(例によってエビデンスが気になるが面倒なので調べていない、また諸説あり)
→したがって日本はニッポンあるいはニポン
そして平安中期の源氏物語が書かれた1000年頃になると、ハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」のF音に変化。
→日本はニフォンあるいはニッフォンになる。
この傾向は江戸時代の初めまで続く。
室町時代のなぞなぞに「母には二回会うけれど、父だと一回も会えないものなーんだ?」と問うのがある。現代人には解けないが答えは「唇」。母はハハではなくファファだったので唇が2回接触するから。一方のチチは一度も唇を閉じない。
ちなみに母という単語は万葉集にも載っていて奈良時代には存在していた。でも当時のハ行は「パピプペポ」だから母=パパとなってしまうのが面白い。
また天草版平家物語と呼ばれる書物がある。これは日本で活動していたイエズス会が宣教師の語学学習用に日本で出版し、平家物語が日本語のままポルトガル式のローマ字で書かれている。発行は1592〜1593年。九州の天草コレジオで印刷されたのが天草版の由来。コレジオはポルトガル語でカレッジを意味する。平家物語以外に伊曽保物語=イソップ物語などが収録されている。
発行されたのは秀吉が政権の座にあった安土桃山時代であるが、その前の室町時代(1336〜1573年)の日本語の特徴を知る貴重な資料とされる。つまりハ行は「ファ、フィ、フゥ、フェ、フォ」となるF音。
挿絵の上の文字を漢字かな交じりにすると
日本の言葉とヒストリアを習い知らんと欲する人のために
世話に和らげたる平家の物語
ヒストリアはラテン語のhistoriaがベースで英語のhistoryと同じく歴史。辞書でポルトガル語を引くとhistoriaだけれど、この頃はhiftoriaだったのかな。
またここだけがヒストリアとポルトガル語なのは、日本語にまだ「歴史」と言う単語がなかったためと思われる。「歴史」は江戸時代中頃に中国からもたらされ、明治以降に翻訳語と一緒に定着した。翻訳語とは社会・自由・科学・哲学のように外国語の概念を日本語で表現するために作られた言葉。ではそれまで歴史のことを何といっていたんだろうね?
「世話に和らげたる」は優しい言葉遣いにしたとの意味らしい。
そして日本はニフォン、欲するがフォッスル、人がフィト、平家がフェイケとなっている。平家なんて文字だけを抜き出すとまったく平家とイメージがつながらない。 平安中期にハ行がF音だとすると光源氏もフィカル源氏(^^ゞ
ただし天草版のイソップ物語ではNipponと書かれ、当時はニフォンとニッポンが混在していたのがわかる。今のニホンとニッポンと同じような状況。
画像はESOPOがイソップ、FABVLASは寓話。現在のポルトガル語では fabula。
この天草版がベースになったかどうかはよくわからないものの、江戸時代の初期にイソップ物語が伊曽保物語として出版される。「アリとキリギリス」「北風と太陽」「オオカミ少年」など現在でも多くの人が慣れ親しんでいる童話を、江戸時代の人も読んでいたとは驚いた。
これが1659年に出版された伊曽保物語。
どうやら子供向けの童話扱いではなさそう。
さてP音→F音と変化してきたハ行は江戸時代になってしばらくした頃にH音、すなわち現在と同じハヒフヘホになる。
これはせっかちな江戸っ子が早口で喋るためにファ、フィ、フゥ、フェ、フォをハヒフヘホに短縮したとする解説が多い。
本当かな? 江戸っ子がせっかちなんて時代劇が作られるようになってからのイメージにも思える。それに江戸時代の中頃まで江戸と上方(京阪神)の人口にそれほど差はない。江戸弁が標準語として普及する影響力があったかどうか。もちろんテレビやラジオで江戸っ子の喋りを聞くこともできない。さらにやがて100万都市になった頃の江戸でも、人口の半分は武士であり、その50万人の多くは地方から江戸に出仕してきた人々。
またせっかちな江戸っ子説では、東京の日本橋はニホンバシ、大阪のはニッポンバシと漢字は同じでも読みが違うのを、江戸ではH音に変化したのに大阪ではニッポンとP音の発音が残っていたからと説明する。しかし江戸の日本橋は1603年、大阪は1619年の完成である。家康が秀吉によって江戸への国替えを命じられたのは1590年で、橋が架けられた当時の江戸の人口は15万人程度。せっかちな江戸っ子の早口によってH音になったとしても、そんなチャキチャキの江戸っ子が登場するのはもっと後の時代だろう。江戸の日本橋も最初はニッポンバシだった気がする。
なおP音がF音に変化したのは1000年頃だけれど、600年後に大阪の日本橋がニフォンバシではなくニッポンバシだったのは、1592〜1593年発行の天草版平家物語にNippon表記もあるから、P音の発音が残っていたとの説はあり得る。
発音とは関係ないが、どちらの橋も江戸幕府が直接手がけた公儀橋=主要建造物なのに、どうして江戸と大阪で同じ日本橋と名付けたのかのほうが不思議。
せっかちな江戸っ子説はマユツバだとしても、言葉なんて時代の流れでナントナク変化していくもの。そういえばP音やF音になったのも、そのきっかけや理由まで説明している解説は見つけられなかった。
ーーー続く
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2025年12月12日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その9
前回の「その8」から1ヶ月以上も経ってしまったが続編再開。これまでのブログは下記のページ「その1」から順番にどうぞ。なお「その5」と「その6」、「その7」と「その8」の間には違うテーマが挟まっている。
https://wassho.livedoor.blog/archives/53515793.html
遠い昔に日本はジッポンやニフォンなどと読まれていた話を書こうと思っていたら、その前の名前である「倭」に「その2」から「その5」を費やしてしまい、「その6」と「その7」は現在のニッポンとニホンについて。古代の日本の読みに具体的に触れ始めるのは今回から。
日本にまだ文字がなかった時代に、古代中国王朝が日本列島に住む人々を「倭人」と名付けていた記録が現れるのは弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期。それは日本人をバカにした蔑称だったのだが(諸説あり)、文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
それから数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたりに日本でも文字が使われるようになる。それでようやく「倭」が蔑称であったと日本人も気づき、607年に聖徳太子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に〜」と一発かまし、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると唐に対して宣言する。
当時の「日本」の読み方はニッポンやニホンでもなく、学説には
1)ヤマト
2)ニェットプァン
などがある。
歴史なんて一般常識的なことしか知らないし、ましてや古代についてはさっぱりとはいえ、これがどちらも納得できないシロモノなのである。
まずは日本をヤマトと読んでいた説。
それにしてもどうして「日本」がヤマトと読めるのだ。
いくつかの解説を読むとどうやら、
中国が名付けたのは「倭」だったが、
やがてそれが「和」の文字に置き換わり、
それに美称である「大」をつけ(大日本帝国みたいなノリ)、
大和をヤマトと読んでいた。
従って、その頃の国名は大和であり読みは「ヤマト」。
「日本」は海外=主として中国に向けた対外的な国名表記の漢字変更。
だから日本と書いてヤマトと読んだ。
とのロジック。
JAPANと書いてニホンと読むような感覚か。
以前に「名前の間に入る“の”について歴史学説への疑問」でも書いたように古代の文書にフリガナが振ってあるわけではない。つまりヤマト説にはエビデンスがない。振りたくてもカタカナや平仮名が発明されたのは平安時代に入った800年代である。
ただし日本語の音を漢字に当て字した万葉仮名は650年頃からあって、
720年に編纂された日本書紀には
日本 此云 耶麻騰
との一説がある。現代語に直訳すると「日本、これはヤマトという」。
この耶麻騰が万葉仮名。
あっ、エビデンス発見!と思ったものの、
もう少し日本書紀の前後を読むとこれは
「倭」の文字は好ましくないので「日本」置き換える
だから「日本」は「ヤマトと読んでいた倭」と同じ意味
というだけで、「日本」を「ヤマト」と読むと定めた決まりではない(との学説が主流)らしい。これ以上は歴史以外に漢文の知識も必要になりお手上げ(/o\)
ちなみに大和(ヤマト)は単字単位ではなく熟字単位で訓読みを当てはめた熟字訓で、ヤ・マ・トの音を大と和の字に振り分けられない。明日(あす)、大人(おとな)、梅雨(つゆ)、眼鏡(めがね)、浴衣(ゆかた)なども熟字訓。
(これは1599年に復刻された慶長勅版と呼ばれる日本書紀の表紙)
もうひとつは漢字には音読みと訓読みとがあり、ご承知のように
音読み:中国語ベースの発音
訓読み:漢字の意味に日本古来の言葉を当てた発音
であるから国名は訓読みのはずとのロジックもある。
現在、日と本の音読み・訓読みは
日:音読み ニチ・ジツ 訓読み ひ・か
本:音読み ホン 訓読み もと
当時の訓読みは今と多少は違うとしても、日本と書いてヤマトとは読めないはず。だからかどうかはわからないものの、それで「日の本(ひのもと)」と読んでいたとの説もある。ただしこれも
「日の本」自体は奈良時代から存在する言葉であるが、単に太陽の昇る東方との意味
平安中期まで「ひのもと」は「日の本」と表記
日本と書いて「ひのもと」と読むのは平安後期以降
のようだ。
それと古代(古墳時代〜平安時代)の支配層や役人は
書くとき:漢語
読むとき:訓読み
儀礼や外交では:漢音(音読み=中国語読みのうち唐時代の発音)
と、今から考えるととても複雑な言葉の使い分けを行っていた。いわば日本は「漢文国家」だったともいえる。だから国名は訓読みのはずとのロジックそのものがずれているようにも思える。
というわけで「日」「本」の音読み・訓読みのいずれも無視して、熟字訓で日本をヤマトと読んでいたと考えるのは無理があるし、「ひのもと」説もこれまで確認されてきた歴史的事実を無視している。
まあ歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちの側面を持つ。それでも「倭から日本に国名を改めた当時はヤマトと読んでいた」と100%の断定調で書かれている資料を読むとナンダカナア〜と思ってしまう。またそれを読んで信じた人が増えれば、ウソも100回言えば真実になるのと同じことが起きる。
しかし私が多少はかじった歴史の知識も、それとそう変わらないようにも思えて、あまりエラソーな発言は慎もうと思ったり(^^ゞ
ーーー続く
https://wassho.livedoor.blog/archives/53515793.html
遠い昔に日本はジッポンやニフォンなどと読まれていた話を書こうと思っていたら、その前の名前である「倭」に「その2」から「その5」を費やしてしまい、「その6」と「その7」は現在のニッポンとニホンについて。古代の日本の読みに具体的に触れ始めるのは今回から。
日本にまだ文字がなかった時代に、古代中国王朝が日本列島に住む人々を「倭人」と名付けていた記録が現れるのは弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期。それは日本人をバカにした蔑称だったのだが(諸説あり)、文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
それから数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたりに日本でも文字が使われるようになる。それでようやく「倭」が蔑称であったと日本人も気づき、607年に聖徳太子が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に〜」と一発かまし、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると唐に対して宣言する。
当時の「日本」の読み方はニッポンやニホンでもなく、学説には
1)ヤマト
2)ニェットプァン
などがある。
歴史なんて一般常識的なことしか知らないし、ましてや古代についてはさっぱりとはいえ、これがどちらも納得できないシロモノなのである。
まずは日本をヤマトと読んでいた説。
それにしてもどうして「日本」がヤマトと読めるのだ。
いくつかの解説を読むとどうやら、
中国が名付けたのは「倭」だったが、
やがてそれが「和」の文字に置き換わり、
それに美称である「大」をつけ(大日本帝国みたいなノリ)、
大和をヤマトと読んでいた。
従って、その頃の国名は大和であり読みは「ヤマト」。
「日本」は海外=主として中国に向けた対外的な国名表記の漢字変更。
だから日本と書いてヤマトと読んだ。
とのロジック。
JAPANと書いてニホンと読むような感覚か。
以前に「名前の間に入る“の”について歴史学説への疑問」でも書いたように古代の文書にフリガナが振ってあるわけではない。つまりヤマト説にはエビデンスがない。振りたくてもカタカナや平仮名が発明されたのは平安時代に入った800年代である。
ただし日本語の音を漢字に当て字した万葉仮名は650年頃からあって、
720年に編纂された日本書紀には
日本 此云 耶麻騰
との一説がある。現代語に直訳すると「日本、これはヤマトという」。
この耶麻騰が万葉仮名。
あっ、エビデンス発見!と思ったものの、
もう少し日本書紀の前後を読むとこれは
「倭」の文字は好ましくないので「日本」置き換える
だから「日本」は「ヤマトと読んでいた倭」と同じ意味
というだけで、「日本」を「ヤマト」と読むと定めた決まりではない(との学説が主流)らしい。これ以上は歴史以外に漢文の知識も必要になりお手上げ(/o\)
ちなみに大和(ヤマト)は単字単位ではなく熟字単位で訓読みを当てはめた熟字訓で、ヤ・マ・トの音を大と和の字に振り分けられない。明日(あす)、大人(おとな)、梅雨(つゆ)、眼鏡(めがね)、浴衣(ゆかた)なども熟字訓。
(これは1599年に復刻された慶長勅版と呼ばれる日本書紀の表紙)
もうひとつは漢字には音読みと訓読みとがあり、ご承知のように
音読み:中国語ベースの発音
訓読み:漢字の意味に日本古来の言葉を当てた発音
であるから国名は訓読みのはずとのロジックもある。
現在、日と本の音読み・訓読みは
日:音読み ニチ・ジツ 訓読み ひ・か
本:音読み ホン 訓読み もと
当時の訓読みは今と多少は違うとしても、日本と書いてヤマトとは読めないはず。だからかどうかはわからないものの、それで「日の本(ひのもと)」と読んでいたとの説もある。ただしこれも
「日の本」自体は奈良時代から存在する言葉であるが、単に太陽の昇る東方との意味
平安中期まで「ひのもと」は「日の本」と表記
日本と書いて「ひのもと」と読むのは平安後期以降
のようだ。
それと古代(古墳時代〜平安時代)の支配層や役人は
書くとき:漢語
読むとき:訓読み
儀礼や外交では:漢音(音読み=中国語読みのうち唐時代の発音)
と、今から考えるととても複雑な言葉の使い分けを行っていた。いわば日本は「漢文国家」だったともいえる。だから国名は訓読みのはずとのロジックそのものがずれているようにも思える。
というわけで「日」「本」の音読み・訓読みのいずれも無視して、熟字訓で日本をヤマトと読んでいたと考えるのは無理があるし、「ひのもと」説もこれまで確認されてきた歴史的事実を無視している。
まあ歴史なんてのは半分が推理で成り立っており、言ったもの勝ちの側面を持つ。それでも「倭から日本に国名を改めた当時はヤマトと読んでいた」と100%の断定調で書かれている資料を読むとナンダカナア〜と思ってしまう。またそれを読んで信じた人が増えれば、ウソも100回言えば真実になるのと同じことが起きる。
しかし私が多少はかじった歴史の知識も、それとそう変わらないようにも思えて、あまりエラソーな発言は慎もうと思ったり(^^ゞ
ーーー続く
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2025年11月24日
案外と知らない可照時間
前々回にクリスマス・カクタスの短日処理を始めた話を書いた。
それは
クリスマス・カクタスは気温20度以下かつ
日照が12時間以下が1ヶ月続くと花芽分化が始まる
ので照明などが当たらないように周りを囲って暗くする対策。
その際に今の日照時間はどれくらいなのかと頭に浮かぶ。天気予報サイトに日の出・日の入り時刻が載っているからそれで計算すればいいかと考える。ちなみに東京の本日11月24日は日の出6時25分、日の入り16時30分。差し引きすると10時間5分。
しかし「ん、それって日照時間だったけ?」との疑問が。日照不足という言葉があって、それは曇りや雨で日が照らないから。ある日の日の出・日の入り時刻は毎年ほぼ同じで1〜2分の違いだから、それなら「今年の夏は日照不足で農作物に影響がーーー」なんて事態は起こらない。
結論を書くと「照の時間」については2つあって
日の出・日の入り時刻の差分は可照時間
日照時間とは一日のうちで日が射している合計時間
となる。
可照時間とはいわば太陽が地表に出ている計算上の時間。対して日照時間とは実際に太陽が地表を照らした時間を観測で求めた記録。だから天候の影響を受けるし、場所=方位・地形・周りの建物の状況によっても日照時間は変わってくる。厳密にいえばウチと隣の家で日照時間は違う。
それでは「太陽が地表を照らした」とはどれくらいの明るさを指すのか。その定義は「日照計で測定される直達日射量が120W/m2以上」となっている。それじゃ定義はわかっても具体的な明るさがイメージできない。
あれこれ調べたもののよくわからず。
まあ文献から光が出てくるわけでもないし。
とりあえず120W/m2についてわかったことを書いておくと
直射光によって物体の影ができない、あるいは「うっすら」している程度。
明るめの曇りの日。(晴天時は800〜1000W/m2になり、雨天だと20〜50W/m2)
室内で照明を付ける必要がない。
となるらしい。
ちなみに東京の今年10月は記録的な日照不足だった。10月の合計日照時間は例年100〜150時間、年によっては200時間を超えるのに、今年はわずかに74時間。天気がパッとしないせいであまり外へ遊びに出かける気が起きず、秋をあまり楽しめなかったな。
さて日照時間は実際、可照時間は計算上とわかったところで、
問題は可照時間。
結構長く生きているのに可照時間なる言葉は初めて知った。私だけではなく、周りの人5〜6名に尋ねても誰も知らなかったからかなり認知度は低そう。
それで夏は日が長く冬は短いと知っていても、
具体的に何時間なのだろうと好奇心が湧く。
そんなもの調べれば一発でわかると思っていたのに、可照時間を一覧にしたデータはネットでまったく見当たらなかった。「可照時間 ◯◯」と検索してもほとんど日照時間に置き換えて検索されてしまう。日照時間を可照時間で割った値を日照率と呼び、これは重要な気象データなので、そのベースとなる可照時間もすぐ見つかると思っていたのに。
それでもあれこれ手を尽くして作成したのがこのグラフ。
場所は東京、数字は月別の1日の平均時間。
オレンジが可照時間(昼)でブルーが夜間。
単位は10進数表記時間(2月の10.8時間とは10時間48分の意味 0.8 x 60=48)
中央にあるグリーンの破線は1日の半分を示している。
データは2025年。ただし違う年でも数値はほとんど変わらない。
(パソコンで読んでいるならクリックでグラフは大きくなる)
可照時間を言い換えれば日の長さ。6月と7月を中心にしてグラフの形(色分け)は左右対称になっている。それは当たり前とはいえ、こうして具体的な時間を認識したのは初めて。可照時間が最も長いのは6月の14.5時間で、逆に短いのは1月の10時間。その差は4時間半。体感的に朝夕で2時間ちょっとの差はあるので納得のいく数字。
参考までに最も日の長い夏至と短い冬至のデータを記しておくと、
2025年の東京では
夏至:6月21日 日の出4時25分 日の入り19時0分 可照時間14時間35分
冬至:12月22日 日の出6時47分 日の入り16時32分 可照時間9時間45分
その差は4時間50分。
ただこの日の出・日の入り時刻は国立天文台のデータを元にしているが、
6月19日と6月20日も日の出4時25分・日の入り19時0分
と同時刻なのである。あれ、夏至は3日ある? ひょっとして大発見? とヌカ喜びしかけたけれど、おそらくこれは提供されているデータが分までであり、秒まで記されていたら6月21日が最も日が長いのだと思う。
なお可照時間と日照時間は比例しない。
棒グラフは水色が可照時間で、ピンクが日照時間。単位は月間の合計時間。
エリアは東京で日照時間データは2024年を使用。
緑の折れ線グラフは日照率=日照時間 ÷ 可照時間。単位はパーセント。
7月は可照時間が443時間と最大なのに日照時間は200時間で、可照時間が301時間と最小の12月の日照時間である234時間より少ない。これは冬のほうが晴れた日が多いのが理由。つまり可照時間ではなく日照時間を比較すれば夏至のある6月 < 冬至のある12月と逆転している。夏至だから太陽がさんさんと降り注ぎ、冬至なら暗い1日ではないのだ。なんたって夏至は梅雨時。ニュースなどで「本日は夏至です」などと言われても、あまりピンとこないのはこのせいかと思う。
ついでに書いておくと
1)
天文学的には夏至とは太陽黄経が90度、冬至とはそれが270度になった時点を指す。
2025年の東京の場合、それは
夏至:6月21日の午前11時43分31秒
冬至:12月22日の午後0時4分19秒
厳密にいうと夏至と冬至とはそれぞれ上記の時刻であり、6月21日は「夏至の日」、12月22日は「冬至の日」となる
2)
その太陽黄経とは太陽が移動する見かけの経路である「黄道」を春分点を0度として360度に分割した座標。詳しくは文章だけでの説明が難しいので割愛m(_ _)m ただし太陽は真南に来たときに最も高い位置になり、そして
夏至:1年で最も太陽の位置が高い
冬至:1年で最も太陽の位置が低い
と考えて、理屈的には微妙ではあるものの間違いではない。
3)
夏至と冬至は可照時間が最も長い・短いであり、夏至の日の出が最も早く、冬至日の日の入りが最も早いではない。
実際に2025年の東京で6月5日から21日までの17日間は夏至と同じく日の出時刻が4時25分。また冬至の日の入り時刻は16時32分であるが、11月29日から12月13日まではそれより4分早い16時28分。
今まで知らなかった可照時間なんて言葉。
まあこれくらい知っておけばいいだろう。
この知識を生かせる機会はないと思うけれど(^^ゞ
それは
クリスマス・カクタスは気温20度以下かつ
日照が12時間以下が1ヶ月続くと花芽分化が始まる
ので照明などが当たらないように周りを囲って暗くする対策。
その際に今の日照時間はどれくらいなのかと頭に浮かぶ。天気予報サイトに日の出・日の入り時刻が載っているからそれで計算すればいいかと考える。ちなみに東京の本日11月24日は日の出6時25分、日の入り16時30分。差し引きすると10時間5分。
しかし「ん、それって日照時間だったけ?」との疑問が。日照不足という言葉があって、それは曇りや雨で日が照らないから。ある日の日の出・日の入り時刻は毎年ほぼ同じで1〜2分の違いだから、それなら「今年の夏は日照不足で農作物に影響がーーー」なんて事態は起こらない。
結論を書くと「照の時間」については2つあって
日の出・日の入り時刻の差分は可照時間
日照時間とは一日のうちで日が射している合計時間
となる。
可照時間とはいわば太陽が地表に出ている計算上の時間。対して日照時間とは実際に太陽が地表を照らした時間を観測で求めた記録。だから天候の影響を受けるし、場所=方位・地形・周りの建物の状況によっても日照時間は変わってくる。厳密にいえばウチと隣の家で日照時間は違う。
それでは「太陽が地表を照らした」とはどれくらいの明るさを指すのか。その定義は「日照計で測定される直達日射量が120W/m2以上」となっている。それじゃ定義はわかっても具体的な明るさがイメージできない。
あれこれ調べたもののよくわからず。
まあ文献から光が出てくるわけでもないし。
とりあえず120W/m2についてわかったことを書いておくと
直射光によって物体の影ができない、あるいは「うっすら」している程度。
明るめの曇りの日。(晴天時は800〜1000W/m2になり、雨天だと20〜50W/m2)
室内で照明を付ける必要がない。
となるらしい。
ちなみに東京の今年10月は記録的な日照不足だった。10月の合計日照時間は例年100〜150時間、年によっては200時間を超えるのに、今年はわずかに74時間。天気がパッとしないせいであまり外へ遊びに出かける気が起きず、秋をあまり楽しめなかったな。
さて日照時間は実際、可照時間は計算上とわかったところで、
問題は可照時間。
結構長く生きているのに可照時間なる言葉は初めて知った。私だけではなく、周りの人5〜6名に尋ねても誰も知らなかったからかなり認知度は低そう。
それで夏は日が長く冬は短いと知っていても、
具体的に何時間なのだろうと好奇心が湧く。
そんなもの調べれば一発でわかると思っていたのに、可照時間を一覧にしたデータはネットでまったく見当たらなかった。「可照時間 ◯◯」と検索してもほとんど日照時間に置き換えて検索されてしまう。日照時間を可照時間で割った値を日照率と呼び、これは重要な気象データなので、そのベースとなる可照時間もすぐ見つかると思っていたのに。
それでもあれこれ手を尽くして作成したのがこのグラフ。
場所は東京、数字は月別の1日の平均時間。
オレンジが可照時間(昼)でブルーが夜間。
単位は10進数表記時間(2月の10.8時間とは10時間48分の意味 0.8 x 60=48)
中央にあるグリーンの破線は1日の半分を示している。
データは2025年。ただし違う年でも数値はほとんど変わらない。
(パソコンで読んでいるならクリックでグラフは大きくなる)
可照時間を言い換えれば日の長さ。6月と7月を中心にしてグラフの形(色分け)は左右対称になっている。それは当たり前とはいえ、こうして具体的な時間を認識したのは初めて。可照時間が最も長いのは6月の14.5時間で、逆に短いのは1月の10時間。その差は4時間半。体感的に朝夕で2時間ちょっとの差はあるので納得のいく数字。
参考までに最も日の長い夏至と短い冬至のデータを記しておくと、
2025年の東京では
夏至:6月21日 日の出4時25分 日の入り19時0分 可照時間14時間35分
冬至:12月22日 日の出6時47分 日の入り16時32分 可照時間9時間45分
その差は4時間50分。
ただこの日の出・日の入り時刻は国立天文台のデータを元にしているが、
6月19日と6月20日も日の出4時25分・日の入り19時0分
と同時刻なのである。あれ、夏至は3日ある? ひょっとして大発見? とヌカ喜びしかけたけれど、おそらくこれは提供されているデータが分までであり、秒まで記されていたら6月21日が最も日が長いのだと思う。
なお可照時間と日照時間は比例しない。
棒グラフは水色が可照時間で、ピンクが日照時間。単位は月間の合計時間。
エリアは東京で日照時間データは2024年を使用。
緑の折れ線グラフは日照率=日照時間 ÷ 可照時間。単位はパーセント。
7月は可照時間が443時間と最大なのに日照時間は200時間で、可照時間が301時間と最小の12月の日照時間である234時間より少ない。これは冬のほうが晴れた日が多いのが理由。つまり可照時間ではなく日照時間を比較すれば夏至のある6月 < 冬至のある12月と逆転している。夏至だから太陽がさんさんと降り注ぎ、冬至なら暗い1日ではないのだ。なんたって夏至は梅雨時。ニュースなどで「本日は夏至です」などと言われても、あまりピンとこないのはこのせいかと思う。
ついでに書いておくと
1)
天文学的には夏至とは太陽黄経が90度、冬至とはそれが270度になった時点を指す。
2025年の東京の場合、それは
夏至:6月21日の午前11時43分31秒
冬至:12月22日の午後0時4分19秒
厳密にいうと夏至と冬至とはそれぞれ上記の時刻であり、6月21日は「夏至の日」、12月22日は「冬至の日」となる
2)
その太陽黄経とは太陽が移動する見かけの経路である「黄道」を春分点を0度として360度に分割した座標。詳しくは文章だけでの説明が難しいので割愛m(_ _)m ただし太陽は真南に来たときに最も高い位置になり、そして
夏至:1年で最も太陽の位置が高い
冬至:1年で最も太陽の位置が低い
と考えて、理屈的には微妙ではあるものの間違いではない。
3)
夏至と冬至は可照時間が最も長い・短いであり、夏至の日の出が最も早く、冬至日の日の入りが最も早いではない。
実際に2025年の東京で6月5日から21日までの17日間は夏至と同じく日の出時刻が4時25分。また冬至の日の入り時刻は16時32分であるが、11月29日から12月13日まではそれより4分早い16時28分。
今まで知らなかった可照時間なんて言葉。
まあこれくらい知っておけばいいだろう。
この知識を生かせる機会はないと思うけれど(^^ゞ
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2025年11月06日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その8
さて「その8」にしてようやく「日本の読み」について。
日本には文字がなかったので、その存在が書き留められ歴史に名前が登場するのは、古代中国の前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事を記した漢書(かんじょ)が最初。日本の歴史区分では弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期にあたる。
その漢書で日本列島に住む人々が倭人と記された。
どうして「倭」なのかは諸説あって不明。
倭人自らが「倭」と言ったのではなく、地球人が隣の惑星を火星、そこに住んでいる宇宙人を火星人と彼らの言語とは関係なく呼ぶように、中国側が勝手に名付けたと私は推測している。
そしてそれは日本人をバカにした蔑称だった。蔑称かどうかについても諸説あるものの、その後に邪悪の邪のつく邪馬台国、卑しいの卑のつく卑弥呼なんて名前の付け方を見ても「チビでナヨナヨした列島人」の意味を込めたネーミングだと思っている。
しかし悲しきかな文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。もちろん漢字の輸入。その後に漢字を日本語の音に当て字した万葉仮名が使われ出すのが飛鳥時代中期の650年頃。そこからオリジナル日本文字であるカタカナが生まれたのが平安時代に入った800年頃で平仮名は850年頃とされている。
文字を使いだし漢字の意味がわかると、やがて「倭」が蔑称であったと日本人も気付く。
そして607年に聖徳太子が隋の皇帝に送った有名な国書の一節。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや
ひいづる ひぼっする
地理的に日本が東、中国が西の位置関係にあるのをもじって「太陽の昇る国の天子(日本の天皇)が太陽の沈む国の天子(隋の皇帝)に書状をお届けします、お変わりありませんか」と言うような意味。
これに対し隋の皇帝は「属国のくせに無礼だ。二度と受け取るな」と命じたという。彼が怒ったのは「日出づる、日没する」の表現ではなく「私も天子、あなたも天子つまり同格対等」と主張していたからと一般に解説されている。
この国書の記録は日本にはない。このエピソードが記録されているのは隋(581〜618年)の歴史書である隋書の倭国伝で、国書の全文は残っていないようだ。だからこの国書で「倭」の記述があったかどうかは不明。
ところでこの聖徳太子が同格対等を主張したとは、大国の隋に対して一歩も引かなかった=ニッポンすごいの国威高揚史観に基づく解釈だとの学説もある。
日出づる処の天子〜と書いたのは単に言葉遣いを知らなかっただけ、あるいは日出づる・日没すると天子も仏教的表現だともされている。(国書の前に「皇帝は仏教を広めていると伺って(私もそうなので)使者を送ります」と奏上している)そして隋の皇帝が怒ったのはその表現や内容ではなく、国書としてはカジュアルな文体だったかららしい。同格対等を主張する意図さえ伝わらなかったとの説もある。
国威高揚史観では聖徳太子が対等を主張できたのは、隋が朝鮮半島の高句麗と緊張状態にあり、それを見通しての外交センスとするが、それは何となく後付けの理屈っぽい。また隋はこの国書に対する返答として使者を日本に送り込み、その使者に対して聖徳太子は「大国の隋と較べれば、なにせ私は田舎者で礼儀も知らず、その節は失礼しました」と述べている。これもヤッテモウタと震え上がって謝罪したのか、ウソぶいて使者をあしらったのか解釈が分かれるところ。
結局のところ、この国書の意図は聖徳太子本人に確かめてみないとわからない。ただし尋ねたところで彼は政治家だから本当のことを喋るとも限らない(^^ゞ 聖徳太子を現代あるいは現職の政治家に置き換えてもそれは同じで、歴史とは事実が半分、推理と妄想が半分でできているのだといつも思う。
あっ、日本の読みに関係のない聖徳太子の国書に話がずれてしまった(^^ゞ
聖徳太子の国書から約100年後、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると随の後に成立した唐に対して宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られ、やはり倭の名前を嫌っていたとわかる。松下電器→パナソニックのようなイメージ戦略ではない。
他にも日本と名乗った時期については諸説あるものの、深入りしても本題とはあまり関係ないし、だいたいその頃=ナント大きな平城京710年の奈良時代に入る少し前だとしておく。それもややこしいので日本になったのは奈良時代からとしてもいいだろう。
奈良時代からだと考えると国号としての日本の歴史は意外と浅いと感じるね。日本に対する最初の文献となる漢書は「海の向こうに倭人が住んでいる」程度の内容で時期を示す記述はない。でも漢書が対象としている前漢王朝は紀元前206年〜8年なので、中間を取って紀元前100年とすると、
倭の時代 紀元前100年〜710年=810年
日本の時代 710年〜2025年=1315年
倭だった期間を1とすると日本は1.6。比率にするとさらに短く感じる。記録として残った最初が漢書であるだけで、もっと以前から倭と呼ばれていたはずで、倭と日本の歴史はあまり差がないのかも知れない。
まあとにかく日本となった我が国。
問題は当初それを何と読んでいた発音していたかである。
学説にはこんなのがある。
1)ヤマト
2)ニェットプァン
そして、このどちらも素直にうなずけない。
ーーー続く
日本には文字がなかったので、その存在が書き留められ歴史に名前が登場するのは、古代中国の前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事を記した漢書(かんじょ)が最初。日本の歴史区分では弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで)の後期にあたる。
その漢書で日本列島に住む人々が倭人と記された。
どうして「倭」なのかは諸説あって不明。
倭人自らが「倭」と言ったのではなく、地球人が隣の惑星を火星、そこに住んでいる宇宙人を火星人と彼らの言語とは関係なく呼ぶように、中国側が勝手に名付けたと私は推測している。
そしてそれは日本人をバカにした蔑称だった。蔑称かどうかについても諸説あるものの、その後に邪悪の邪のつく邪馬台国、卑しいの卑のつく卑弥呼なんて名前の付け方を見ても「チビでナヨナヨした列島人」の意味を込めたネーミングだと思っている。
しかし悲しきかな文字を知らない弥生人は意味もわからずそれを受け入れる。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。もちろん漢字の輸入。その後に漢字を日本語の音に当て字した万葉仮名が使われ出すのが飛鳥時代中期の650年頃。そこからオリジナル日本文字であるカタカナが生まれたのが平安時代に入った800年頃で平仮名は850年頃とされている。
文字を使いだし漢字の意味がわかると、やがて「倭」が蔑称であったと日本人も気付く。
そして607年に聖徳太子が隋の皇帝に送った有名な国書の一節。
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや
ひいづる ひぼっする
地理的に日本が東、中国が西の位置関係にあるのをもじって「太陽の昇る国の天子(日本の天皇)が太陽の沈む国の天子(隋の皇帝)に書状をお届けします、お変わりありませんか」と言うような意味。
これに対し隋の皇帝は「属国のくせに無礼だ。二度と受け取るな」と命じたという。彼が怒ったのは「日出づる、日没する」の表現ではなく「私も天子、あなたも天子つまり同格対等」と主張していたからと一般に解説されている。
この国書の記録は日本にはない。このエピソードが記録されているのは隋(581〜618年)の歴史書である隋書の倭国伝で、国書の全文は残っていないようだ。だからこの国書で「倭」の記述があったかどうかは不明。
ところでこの聖徳太子が同格対等を主張したとは、大国の隋に対して一歩も引かなかった=ニッポンすごいの国威高揚史観に基づく解釈だとの学説もある。
日出づる処の天子〜と書いたのは単に言葉遣いを知らなかっただけ、あるいは日出づる・日没すると天子も仏教的表現だともされている。(国書の前に「皇帝は仏教を広めていると伺って(私もそうなので)使者を送ります」と奏上している)そして隋の皇帝が怒ったのはその表現や内容ではなく、国書としてはカジュアルな文体だったかららしい。同格対等を主張する意図さえ伝わらなかったとの説もある。
国威高揚史観では聖徳太子が対等を主張できたのは、隋が朝鮮半島の高句麗と緊張状態にあり、それを見通しての外交センスとするが、それは何となく後付けの理屈っぽい。また隋はこの国書に対する返答として使者を日本に送り込み、その使者に対して聖徳太子は「大国の隋と較べれば、なにせ私は田舎者で礼儀も知らず、その節は失礼しました」と述べている。これもヤッテモウタと震え上がって謝罪したのか、ウソぶいて使者をあしらったのか解釈が分かれるところ。
結局のところ、この国書の意図は聖徳太子本人に確かめてみないとわからない。ただし尋ねたところで彼は政治家だから本当のことを喋るとも限らない(^^ゞ 聖徳太子を現代あるいは現職の政治家に置き換えてもそれは同じで、歴史とは事実が半分、推理と妄想が半分でできているのだといつも思う。
あっ、日本の読みに関係のない聖徳太子の国書に話がずれてしまった(^^ゞ
聖徳太子の国書から約100年後、飛鳥時代の末期702年に日本は国名を倭ではなく日本にすると随の後に成立した唐に対して宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られ、やはり倭の名前を嫌っていたとわかる。松下電器→パナソニックのようなイメージ戦略ではない。
他にも日本と名乗った時期については諸説あるものの、深入りしても本題とはあまり関係ないし、だいたいその頃=ナント大きな平城京710年の奈良時代に入る少し前だとしておく。それもややこしいので日本になったのは奈良時代からとしてもいいだろう。
奈良時代からだと考えると国号としての日本の歴史は意外と浅いと感じるね。日本に対する最初の文献となる漢書は「海の向こうに倭人が住んでいる」程度の内容で時期を示す記述はない。でも漢書が対象としている前漢王朝は紀元前206年〜8年なので、中間を取って紀元前100年とすると、
倭の時代 紀元前100年〜710年=810年
日本の時代 710年〜2025年=1315年
倭だった期間を1とすると日本は1.6。比率にするとさらに短く感じる。記録として残った最初が漢書であるだけで、もっと以前から倭と呼ばれていたはずで、倭と日本の歴史はあまり差がないのかも知れない。
まあとにかく日本となった我が国。
問題は当初それを何と読んでいた発音していたかである。
学説にはこんなのがある。
1)ヤマト
2)ニェットプァン
そして、このどちらも素直にうなずけない。
ーーー続く
wassho at 22:18|Permalink│Comments(0)│
2025年10月31日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その7
さて私の場合、日本の読みや発音のほとんどがニホンなのは前回に書いた。それは世間全般に同じようで2004年に国立国語研究所などが実施した調査によると、会話において日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている単語の97.6%はニホンと発音されていたとの結果が出ている。国名でも96.2%がニホンと比率は同じ。
またNHKでは国名についてニホンとニッポンのどちらがいいかの調査を行っており、
その回答は
1963年(昭和38年) ニホン 45.5% ニッポン41.8%
1993年(平成5年) ニホン 58% ニッポン39%
2003年(平成15年) ニホン 61% ニッポン37%
となっている。
両者を掛け合わせると
・時代が上がるにつれて国名はニホンがふさわしいと考える人が増え、
ニッポンと考える人が減っている
・ニッポンがふさわしいと考えている人でも実際にはニホンと発音している
何となくニホンよりニッポンのほうが響きとして古いイメージは私も持っている。それぞれの調査から20年以上経った現在に再調査すれば、ニホンがさらに優位になっていると思われる。
参考までにNHK=日本放送協会はニッポンと読む。
国語研の調査で日本とつく単語の97.6%はニホンと発音されていたが、次の単語に限っては数値が低かった=ニッポンと発音する人が相対的に多かった。(数値はニホンと発音する人の割合)
日本一 77.5%
日本代表 80.6%
これはおそらくニッポンはニホンより力強い印象があるから。ナンバーワンを表現するにはニホンよりニッポンのほうが似合う。ただしスポーツの日本代表については前回に書いた通り私はニッポン代表だが、日本代表はいろいろな分野があるので、例えば「国連の日本代表団」なんて文脈だとニホンと読んでしまう。
そしてニッポンにあってニホンにないのはリズム感。ニホンより「いよ!ニッポンイチ!」のほうが声を掛けやすい。また「がんばれニッポン」が「がんばれニホン」だと、どうにも言葉が詰まってしまうし、「ニッポン!ニッポン!」の連呼が「ニホン!ニホン!」では盛り上がらない。「ニッポン チャチャチャ」も同じく。
逆に山口百恵の「いい日旅立ち」の「♪あ〜あ〜日本のどこかに私を待ってる人がいる」がニッポンだと情緒がでない。知らず知らずに使い分けているものだ。
余談その3
ところで「がんばれニッポン」「ニッポン チャチャチャ」と応援しているのにスポーツの日本代表チーム名は森保ジャパン、なでしこジャパン、SAMURAI JAPANとジャパンばかりなのはこれいかに?
なお国名について公的な議論としては次のような変遷を経ている。
■1934年(昭和9年)3月
NHKが国号としてはニッポンを第一の読み方とし、ニホンを第二の読み方とすると暫定的に決定。
NHKの暫定決定の1週間後に、文部省の臨時国語調査会(国語審議会の前身)が「国号呼称統一案」を発表し、国号をニッポンとすると決議。しかしこれは政府に採択されず。
満州国の建国が1932年、日中戦争開戦が1937年で当時は軍国主義一色の時代。NHKや文部省の決定は国家主義・軍国主義者らの国名は大国・強国をイメージさせるニッポンに統一せよとの意見の反映とされる。大日本帝国は大ニッポン帝国と概ね呼ばれており、大ニッポン帝国陸海軍だった。いっぽう和歌などの伝統文化では「っ」の入る促音、また点や丸のつく濁点、半濁点を好まないので、皇室を初めとする面々がニッポンに反対したとの解説もあったが詳細はわからず。あの時代に皇室といえども和歌を理由に軍部に対抗できたのか。
■1945年(昭和20年)終戦
■1946年(昭和21年)
帝国議会における新憲法(日本国憲法)の審議において、金森国務大臣が「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは通念として認められている」と述べて、日本国憲法の読みをどちらかに統一する見解を否定。
■1951年(昭和26年)
NHKが1934年の暫定決定を正式決定に格上げ。
この理由を示す資料は見つからなかった。自らがニッポン放送協会だからか、あるいはアナウンサーごとに読みが違うのは不適切と考えて単に一本化しただけなのか?
■1965年(昭和40年)
郵便切手にローマ字で国名を入れる際、郵政省の「NIPPON」案が閣議で了承される。ただし政府として国名呼称を統一したわけではない。
■1970年(昭和45年)
佐藤内閣時代に、大阪万国博覧会を前に国名をニッポンに統一すべしの議論が国会であったものの結論を得ず。佐藤栄作首相や中曽根康弘防衛庁長官が「ニッポン」を強く推したとされる。
■そして最新版は2009年(平成21年)
当時の民主党議員が提出した「今後、日本の読み方を統一する意向はあるか」の質問主意書に対し、麻生内閣は以下の回答を閣議決定。
ニッポン、ニホンという読み方についてはいずれも広く通用しており、
どちらか一方に統一する必要はない
これで今のところは、ニッポン、ニホンのどちらでもよいと公式に確定された状態。ニホン酒を注文するときに「ポン酒ください」と頼むのも国家公認(^^ゞ
次回はようやく倭から日本になった飛鳥時代末期の700年前後に戻る予定。素直に本題に入れるかどうかはわからないがm(_ _)m
ーーー続く
またNHKでは国名についてニホンとニッポンのどちらがいいかの調査を行っており、
その回答は
1963年(昭和38年) ニホン 45.5% ニッポン41.8%
1993年(平成5年) ニホン 58% ニッポン39%
2003年(平成15年) ニホン 61% ニッポン37%
となっている。
両者を掛け合わせると
・時代が上がるにつれて国名はニホンがふさわしいと考える人が増え、
ニッポンと考える人が減っている
・ニッポンがふさわしいと考えている人でも実際にはニホンと発音している
何となくニホンよりニッポンのほうが響きとして古いイメージは私も持っている。それぞれの調査から20年以上経った現在に再調査すれば、ニホンがさらに優位になっていると思われる。
参考までにNHK=日本放送協会はニッポンと読む。
国語研の調査で日本とつく単語の97.6%はニホンと発音されていたが、次の単語に限っては数値が低かった=ニッポンと発音する人が相対的に多かった。(数値はニホンと発音する人の割合)
日本一 77.5%
日本代表 80.6%
これはおそらくニッポンはニホンより力強い印象があるから。ナンバーワンを表現するにはニホンよりニッポンのほうが似合う。ただしスポーツの日本代表については前回に書いた通り私はニッポン代表だが、日本代表はいろいろな分野があるので、例えば「国連の日本代表団」なんて文脈だとニホンと読んでしまう。
そしてニッポンにあってニホンにないのはリズム感。ニホンより「いよ!ニッポンイチ!」のほうが声を掛けやすい。また「がんばれニッポン」が「がんばれニホン」だと、どうにも言葉が詰まってしまうし、「ニッポン!ニッポン!」の連呼が「ニホン!ニホン!」では盛り上がらない。「ニッポン チャチャチャ」も同じく。
逆に山口百恵の「いい日旅立ち」の「♪あ〜あ〜日本のどこかに私を待ってる人がいる」がニッポンだと情緒がでない。知らず知らずに使い分けているものだ。
余談その3
ところで「がんばれニッポン」「ニッポン チャチャチャ」と応援しているのにスポーツの日本代表チーム名は森保ジャパン、なでしこジャパン、SAMURAI JAPANとジャパンばかりなのはこれいかに?
なお国名について公的な議論としては次のような変遷を経ている。
■1934年(昭和9年)3月
NHKが国号としてはニッポンを第一の読み方とし、ニホンを第二の読み方とすると暫定的に決定。
NHKの暫定決定の1週間後に、文部省の臨時国語調査会(国語審議会の前身)が「国号呼称統一案」を発表し、国号をニッポンとすると決議。しかしこれは政府に採択されず。
満州国の建国が1932年、日中戦争開戦が1937年で当時は軍国主義一色の時代。NHKや文部省の決定は国家主義・軍国主義者らの国名は大国・強国をイメージさせるニッポンに統一せよとの意見の反映とされる。大日本帝国は大ニッポン帝国と概ね呼ばれており、大ニッポン帝国陸海軍だった。いっぽう和歌などの伝統文化では「っ」の入る促音、また点や丸のつく濁点、半濁点を好まないので、皇室を初めとする面々がニッポンに反対したとの解説もあったが詳細はわからず。あの時代に皇室といえども和歌を理由に軍部に対抗できたのか。
■1945年(昭和20年)終戦
■1946年(昭和21年)
帝国議会における新憲法(日本国憲法)の審議において、金森国務大臣が「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは通念として認められている」と述べて、日本国憲法の読みをどちらかに統一する見解を否定。
■1951年(昭和26年)
NHKが1934年の暫定決定を正式決定に格上げ。
この理由を示す資料は見つからなかった。自らがニッポン放送協会だからか、あるいはアナウンサーごとに読みが違うのは不適切と考えて単に一本化しただけなのか?
■1965年(昭和40年)
郵便切手にローマ字で国名を入れる際、郵政省の「NIPPON」案が閣議で了承される。ただし政府として国名呼称を統一したわけではない。
■1970年(昭和45年)
佐藤内閣時代に、大阪万国博覧会を前に国名をニッポンに統一すべしの議論が国会であったものの結論を得ず。佐藤栄作首相や中曽根康弘防衛庁長官が「ニッポン」を強く推したとされる。
■そして最新版は2009年(平成21年)
当時の民主党議員が提出した「今後、日本の読み方を統一する意向はあるか」の質問主意書に対し、麻生内閣は以下の回答を閣議決定。
ニッポン、ニホンという読み方についてはいずれも広く通用しており、
どちらか一方に統一する必要はない
これで今のところは、ニッポン、ニホンのどちらでもよいと公式に確定された状態。ニホン酒を注文するときに「ポン酒ください」と頼むのも国家公認(^^ゞ
次回はようやく倭から日本になった飛鳥時代末期の700年前後に戻る予定。素直に本題に入れるかどうかはわからないがm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 20:26|Permalink│Comments(0)│
2025年10月30日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン その6
前置きのつもりだった倭の話が長かったが、
今回より「日本」の「読み」について。
初回に書いたように明治政府が東京の読みを定めなかったので、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した時期が明治36年まで続いた。江戸が東京になったのは明治維新のときだけれど、倭から日本に国名を変えたのは飛鳥時代末期の700年前後とはるか昔。タイトルに書いたジッポンやニフォンなど様々な読みがあったようである。その変遷はひとまず置いて、まずは現在のお話から。
ご承知のように日本にはニホンとニッポンの二通りの読みがある。私はほとんどニホンかな。口に出すかどうかは別として、ニッポンと発音するのはスポーツの対外試合で「がんばれニッポン」と応援するときくらい。あとその流れで選手団の「日本代表」はニッポン代表と読んでいる気がする。
ニッポンではなくニホンと発音するのは、単純にそのほうが小さい「っ」(促音)が入らなくて口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
国名としての日本以外に、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている名称や単語について、それをどう読むかはネットでいろいろ実例が載っている。固有名詞で意外だったのは
日本体育大学→ニッポン体育大学
日本武道館→ニッポン武道館
日本体育大学の読みを記した資料は見つからなかったものの、英文表記ではNipponと書かれている。もっとも普段はニッタイダイなので、ニッポン体育大学と声に出す機会はほとんどない。
ちなみに左側にあるのは校章で、體は体の旧字。骨に豊かとは味のある表現。また歴史的には體→軆→躰→体と変化していったとされる。軆は身が豊か、躰は身が本(もと)と書き方を簡略化しながらも意味を継承しているのが面白い。體の下にある而に似た字は大の古文字。つまり校章は「体大」のデザイン化。
こちらは日本武道館の英文ホームページ。インターネットのURLも “ https://www.nipponbudokan.or.jp ” となっている。
ところで名称がニホンかニッポンかでよく取り上げられるのが日本銀行。解説の多くはお札にNIPPON GINKOと記されているからニッポン銀行だとしている。でもそれは必ずしも正確ではない。
日銀のホームページには次のような記述がある。https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j02.htmより引用
「日本銀行」の読み方については、法律などで「〇〇と読む」と決められている訳
ではなく、また、日本の国名を「ニッポン」と読むか、あるいは「ニホン」と
読むのかという問題に似て、二者択一的に決めるのは難しいところです。
ただ、お札の裏に「NIPPON GINKOアルファベットでにっぽんぎんこう」と
印刷してあることもあって、日本銀行では「ニッポンギンコウ」と呼ぶように
しております。
説明はそれなりに筋が通っていると思えるものの、さらに遡ってどうしてNIHONではなくNIPPONと刷ったのか正確ないきさつは不明。紙幣にNIPPON GINKOの文字が入ったのは1885年(明治18年)。当時の大蔵大臣の松方正義、初代日銀総裁の吉原重俊らは薩摩出身で、その頃の九州人はニッポンの発音を好んだとの説もある。ただしこれもあくまで推測の域を出ない。
また以前は西日本がニッポン、東日本がニホンと発音しており、それで大阪の日本橋はニッポン橋、東京はニホン橋なんて真偽不明の説もある。
余談その1
ローマ字表記で銀行をGINKOと書いてあるのに違和感があるし気に入らない。名詞でも佐藤さんはSATO、加藤さんならKATOが圧倒的。フリガナを振ればギンコウ、サトウ、カトウとなるのに、どうしてローマ字ではUを省略するのか。いずれブログのテーマにしましょう。
さて社名に日本がつく企業はたくさんある。NTTは今年の7月に商号(会社名)変更するまで日本電信電話株式会社で、日本電信電話公社の時代から読みはニッポン。保険会社の日本生命はニホン。しかし子会社のNTT東日本や西日本はニホンを使ってたし、日本生命の英文表記はNippon Life Insurance Companyとけっこういい加減。あるいは臨機応変な対応と見るべきか。
日本航空はずっとニホン航空と呼ばれ自らもそう称してきたが、以前の正式というか公式な読みはニッポン航空だった。これは会社の定款の英語訳が「NIPPON KOKU」だったため。これも日本銀行と同じで英訳がNIPPONになった理由は不明。
そもそも会社を作って登記する際、商号(社名)にフリガナを付けるようになったのは2018年(平成30年)とつい最近。2018年以前に作られた会社を言い換えれば、ほとんどの会社。だから企業に正しい読みは存在しないといえる。それで創業時にニッポン〇〇〇と名前を付けたつもりでも、後になってニホン〇〇〇と呼ばれるたりするのだ。
余談その2
登記の制度が変わって以降、カタカナや平仮名の社名でも、申請書類にフリガナを振っていないと突き返されるらしい。
考えてみると日本語は漢字表記ファーストで読みはその次のような気もする。例えば東さんはヒガシともアズマとも読める。総理大臣だって菅(かん)直人と菅(すが)義偉がいた。名前の読みを間違えるのは失礼だけれど、初対面ならまあ許してもらえる。しかし芳田さんを吉田、荒居さんを新井なんて字を間違えると相当に印象が悪くなる。織田信長と書くべき宛名を尾田や緒多にしてしまったら切腹(^^ゞ
キラキラネームなんてのも、その漢字ファースト文化の反映、あるいは制度や風習を逆手に取ったようなもの。なお戸籍の氏名も今年の5月に制度が変わってフリガナの記載が義務づけられた。ただし読み方の自由度は高いので、よほど常識に反していない限りキラキラネームも認められる。
ーーー続く
今回より「日本」の「読み」について。
初回に書いたように明治政府が東京の読みを定めなかったので、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した時期が明治36年まで続いた。江戸が東京になったのは明治維新のときだけれど、倭から日本に国名を変えたのは飛鳥時代末期の700年前後とはるか昔。タイトルに書いたジッポンやニフォンなど様々な読みがあったようである。その変遷はひとまず置いて、まずは現在のお話から。
ご承知のように日本にはニホンとニッポンの二通りの読みがある。私はほとんどニホンかな。口に出すかどうかは別として、ニッポンと発音するのはスポーツの対外試合で「がんばれニッポン」と応援するときくらい。あとその流れで選手団の「日本代表」はニッポン代表と読んでいる気がする。
ニッポンではなくニホンと発音するのは、単純にそのほうが小さい「っ」(促音)が入らなくて口の負担が軽いから。楽なほうに流れるのが自然の摂理。
国名としての日本以外に、日本〇〇〇あるいは〇〇〇日本となっている名称や単語について、それをどう読むかはネットでいろいろ実例が載っている。固有名詞で意外だったのは
日本体育大学→ニッポン体育大学
日本武道館→ニッポン武道館
日本体育大学の読みを記した資料は見つからなかったものの、英文表記ではNipponと書かれている。もっとも普段はニッタイダイなので、ニッポン体育大学と声に出す機会はほとんどない。
ちなみに左側にあるのは校章で、體は体の旧字。骨に豊かとは味のある表現。また歴史的には體→軆→躰→体と変化していったとされる。軆は身が豊か、躰は身が本(もと)と書き方を簡略化しながらも意味を継承しているのが面白い。體の下にある而に似た字は大の古文字。つまり校章は「体大」のデザイン化。
こちらは日本武道館の英文ホームページ。インターネットのURLも “ https://www.nipponbudokan.or.jp ” となっている。
ところで名称がニホンかニッポンかでよく取り上げられるのが日本銀行。解説の多くはお札にNIPPON GINKOと記されているからニッポン銀行だとしている。でもそれは必ずしも正確ではない。
日銀のホームページには次のような記述がある。https://www.boj.or.jp/about/education/oshiete/history/j02.htmより引用
「日本銀行」の読み方については、法律などで「〇〇と読む」と決められている訳
ではなく、また、日本の国名を「ニッポン」と読むか、あるいは「ニホン」と
読むのかという問題に似て、二者択一的に決めるのは難しいところです。
ただ、お札の裏に「NIPPON GINKOアルファベットでにっぽんぎんこう」と
印刷してあることもあって、日本銀行では「ニッポンギンコウ」と呼ぶように
しております。
説明はそれなりに筋が通っていると思えるものの、さらに遡ってどうしてNIHONではなくNIPPONと刷ったのか正確ないきさつは不明。紙幣にNIPPON GINKOの文字が入ったのは1885年(明治18年)。当時の大蔵大臣の松方正義、初代日銀総裁の吉原重俊らは薩摩出身で、その頃の九州人はニッポンの発音を好んだとの説もある。ただしこれもあくまで推測の域を出ない。
また以前は西日本がニッポン、東日本がニホンと発音しており、それで大阪の日本橋はニッポン橋、東京はニホン橋なんて真偽不明の説もある。
余談その1
ローマ字表記で銀行をGINKOと書いてあるのに違和感があるし気に入らない。名詞でも佐藤さんはSATO、加藤さんならKATOが圧倒的。フリガナを振ればギンコウ、サトウ、カトウとなるのに、どうしてローマ字ではUを省略するのか。いずれブログのテーマにしましょう。
さて社名に日本がつく企業はたくさんある。NTTは今年の7月に商号(会社名)変更するまで日本電信電話株式会社で、日本電信電話公社の時代から読みはニッポン。保険会社の日本生命はニホン。しかし子会社のNTT東日本や西日本はニホンを使ってたし、日本生命の英文表記はNippon Life Insurance Companyとけっこういい加減。あるいは臨機応変な対応と見るべきか。
日本航空はずっとニホン航空と呼ばれ自らもそう称してきたが、以前の正式というか公式な読みはニッポン航空だった。これは会社の定款の英語訳が「NIPPON KOKU」だったため。これも日本銀行と同じで英訳がNIPPONになった理由は不明。
そもそも会社を作って登記する際、商号(社名)にフリガナを付けるようになったのは2018年(平成30年)とつい最近。2018年以前に作られた会社を言い換えれば、ほとんどの会社。だから企業に正しい読みは存在しないといえる。それで創業時にニッポン〇〇〇と名前を付けたつもりでも、後になってニホン〇〇〇と呼ばれるたりするのだ。
余談その2
登記の制度が変わって以降、カタカナや平仮名の社名でも、申請書類にフリガナを振っていないと突き返されるらしい。
考えてみると日本語は漢字表記ファーストで読みはその次のような気もする。例えば東さんはヒガシともアズマとも読める。総理大臣だって菅(かん)直人と菅(すが)義偉がいた。名前の読みを間違えるのは失礼だけれど、初対面ならまあ許してもらえる。しかし芳田さんを吉田、荒居さんを新井なんて字を間違えると相当に印象が悪くなる。織田信長と書くべき宛名を尾田や緒多にしてしまったら切腹(^^ゞ
キラキラネームなんてのも、その漢字ファースト文化の反映、あるいは制度や風習を逆手に取ったようなもの。なお戸籍の氏名も今年の5月に制度が変わってフリガナの記載が義務づけられた。ただし読み方の自由度は高いので、よほど常識に反していない限りキラキラネームも認められる。
ーーー続く
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2025年10月21日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その5
20万年前に南アフリカ周辺で誕生したホモサピエンス。6万年前にヨーロッパに進出し、あちこちを経由して日本列島にやって来たのが4万年前の紀元前3万8000年。そこから紀元前1万4000年までが旧石器時代で、さらにその先の紀元前900年代までを新石器時代にあたる縄文時代と呼ぶ。
縄文人は旧石器時代にやって来た人たちの子孫と考えられている。次の紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間が弥生時代であるが、弥生人は縄文人とは別系統。
弥生人がどこから来たのかは明確にはわかっていない(縄文人もだけれど)。それでも朝鮮半島から、あるいは中国から朝鮮半島経由で日本列島に渡ってきた人が多くいたのは確かだと思われる。
図はホモサピエンスの全世界移動ルート。画像はhttps://globe.asahi.com/article/14501100から引用
もちろんある時期に大挙して押し寄せたのではなく、縄文後期から少しずつ渡ってきた。そのころより地球の寒冷化が始まり暖かさを求めて南下した、あるいは大陸や半島の戦乱を逃れて来た難民などの説がある。すべての人が同じ理由ではないだろうし、弥生時代の1200年間には様々な理由があったはず。
前回、朝鮮半島の楽浪郡や中国の洛陽まで、弥生人がカヌーのような小さな船で朝貢に趣いていたのは驚くと書いた。しかし元々は海を渡ってやって来たのだから、当時はそれなりの海洋国家だったのかも知れない。
ただし中国の歴史書で最初に倭が登場するのは、時期は特定できないものの前漢王朝であった紀元前206年〜8年のどこかでの出来事である。その後の後漢の歴史書では紀元57年と107年の記述がある。つまり1200年続いた弥生時代の後期。
朝鮮半島から海を渡ってやってきたとはいえ、おそらく多くの弥生人にとってそれは数百年前の先祖の話であり、彼らが「海の民」であったわけではない。一方で多くは日本列島に定住したが、対馬あたりでは、そこを本拠地としながら朝鮮半島と頻繁に行き来している部族がいたものと思われる。
ところで弥生時代に古代中国王朝に朝貢していたと聞いて、
おそらく最初に思い浮かぶ疑問は
その時代にどうやって海を渡った?
中国語は話せたのか?
である。
航海については前回に紹介したようなカヌーを漕いで頑張った(^^ゞ そして朝鮮半島に行き来している部族は、朝鮮語や中国語を話せたのだと思う。おそらく彼らが朝貢外交団の一員として通訳を務めたのだろう。まさか身振り手振りだけで朝貢の役目を果たせたとは考えづらい。
さてここからが本題。
弥生時代の倭人には日本語と中国語のバイリンガルな人々がいたのである。
それは「文字」の存在を知っていたことを意味する。
なのになぜ国内では文字が使われなかったのだ?
そもそも中国大陸から渡ってきた弥生人がいるなら、
どうして日本に列島に来て文字を使うのをやめてしまった?
古代中国で漢字のルーツである甲骨文字が使われ始めたのは殷王朝(紀元前16世紀中頃〜紀元前1046年)の時代。それは占いの記録用途だったようで、コミュニケーションツールとしての文字は次の周王朝(紀元前1046年〜紀元前770年)から。弥生時代の始まりが紀元前900年代なので時期は重なる。
もっとも当時の中国で文字を使えるのはごく一部の支配階級だけで、日本に渡ってきた人々まで普及していなかった可能性はある。それはそれとして、朝貢で古代中国とやりとりをしていた弥生時代の支配階級は、文字の存在を知っていたはず。なのにそれを自分たちの言語に応用しなかったのかは大いにナゾ
以前に文字が使われるには
1.人口が多い
2.都市が形成される
3.支配者の権力が強く官僚制度がある
などの条件が揃ってからと何かで読んだ。
1は人が少なければ口頭で済むとの単純な理屈。2について記憶が曖昧なものの、いろんな職業や階層の人が集まるようになって、コミュニケーションツールとして文字が必要になるだったかな。例えば集落全員が農民で、皆が同じような暮らしをしているのなら情報交換は口頭だけで事足りる。3も基本的に同じで世の中の仕組みが複雑になると事務仕事が発生する。何となく世界各地で文字が発明された四大文明を逆算したような説ではあるが。
弥生時代に古代中国によって日本は倭と名付けられ、その各地域の支配者が倭の国王と呼ばれたけれど、現在になぞらえての実態イメージとしては「未開なジャングルに住む部族とその酋長」程度だったのだろう。そりゃまだ文字は必要ないな。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。世界最大のお墓である仁徳天皇陵なんて、それなりの文明力を感じさせるのに築造されたのは400年から450年頃と推定され、まだ文字はなし。考えてみればピラミッドと違って古墳なんて造るのにそんなに高度な技術はいらないか。
だから古墳時代になったとはいえまだまだ酋長の時代が続いていた。だいたい弥生時代と古墳時代は、有力者の大型の墓が円形だったか、丸と四角を組み合わせた前方後円墳だったか程度の違いしかない。
まあ歴史区分の半分はそういうもので、どこかで区切りを付けないと理解しづらいから後世になって分けているだけ。縄文時代と弥生時代は稲作の普及と鉄器の使用といった社会的な違いがあっても、奈良時代と平安時代なんて都が奈良から京都に移ったに過ぎない。また江戸時代と明治時代は社会のあり方に大きな違いがある。ただしその後に明治・大正・昭和・平成・令和と天皇の代替わりで何となく区別しているけれど、中身はそんなに変わっていない。あえて言えば戦前と戦後は違うかな。数百年先に明治以降は何時代と呼ばれるのだろうね。とりあえずこのブログは昭和人が平成と令和の時代に書いています(^^ゞ
話を文字に戻すと日本には古墳時代の中頃まで文字はなかった。古代中国との接触で文字は目にしていても、バイリンガル弥生人は別として、支配階級を含めて民族全体として文字は使わなかった。
「その2」で書いたように、紀元57年の朝貢では後漢の光武帝より漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と文字が刻まれた金印が贈られた。他にも文字が使われる4世紀以前の出土品で、鏡や土器などに漢字が記されたものが見つかっている(文章ではなく数文字程度)。
金印はもちろん、漢字が刻まれた鏡や土器は支配階級の所有物である。バイリンガル弥生人に多少は意味を教えられたかも知れないが、彼らは漢字は読めないし中国語もわからない。
どんな風にこれらの文字を眺めていたのかな。
単なる線を使ったデザインとしてか?
(関係ないが弥生時代に朱肉はなかったはず)

それで思い浮かべるのはこんな外国人の漢字タトゥー。弥生人も案外こんなノリで「この金印イケてるねえ、超クール!」なんて会話してたりして(^^ゞ
さて「その3」では倭という名前が蔑称(べっしょう)かどうかについて書いた。その文章を引用すると
飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。
唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
などの記述が見られる。
文字を使い始めてから200年。ようやく倭や邪馬台国や卑弥呼などが中国から馬鹿にされた名前だと気付いたみたい。遅すぎるゾ
そういえば昔は便所や便器なんて漢字タトゥーを入れた外国人がいたのに、最近は見かけない。写真のタトゥーは便所に較べればまだまとも。これは単にデザインだけで漢字を選んでいたのが、ネットで手軽に意味を調べられるようになったからだと思っている。とりあえず無知は怖いね。
先ほどの漢委奴国王の金印が江戸時代に田んぼで偶然見つかった話は、社会科だったか日本史だったかで習う。しばらくして、これが日本にもたらされたのは弥生時代で、その頃の日本にはまだ文字がなく、でも中国ではもっと大昔から文字を使っていたと知った。その時に日本はなんて遅れた国だったのかと情けなかった。その印象はかなり強烈で、実は日本民族が文字を生み出さなかったのを何となくコンプレックスに感じてきた。
紀元前1000年あたりで文字を使い始めた中国と紀元500年からの日本。
日本は文字について中国に1500年も後れを取った。
でもでもしかしである。
ホモサピエンスが誕生したのが20万年前。そしてどうやってそんなことがわかるのか根拠は見つけられなかったものの、人類が言葉を喋り出したのが10万年前とされる。
つまり言葉が生まれて10万年の歴史がある中で1500年の遅れなんて、その1.5%の期間に過ぎないのである。ホモサピエンス20万年の歴史でなら0.75%、何なら最初の人類である猿人が誕生した700万年前を持ち出せば0.02%となり誤差以下の値である。だから歴史的に見てたいした差ではなかったとこれからは思うようにしましょう。まあ都合よく数字をいじくるのは職業柄もあって得意である(^^ゞ
ーーー続く
倭の話は今回で終わりのつもり。
縄文人は旧石器時代にやって来た人たちの子孫と考えられている。次の紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間が弥生時代であるが、弥生人は縄文人とは別系統。
弥生人がどこから来たのかは明確にはわかっていない(縄文人もだけれど)。それでも朝鮮半島から、あるいは中国から朝鮮半島経由で日本列島に渡ってきた人が多くいたのは確かだと思われる。
図はホモサピエンスの全世界移動ルート。画像はhttps://globe.asahi.com/article/14501100から引用
もちろんある時期に大挙して押し寄せたのではなく、縄文後期から少しずつ渡ってきた。そのころより地球の寒冷化が始まり暖かさを求めて南下した、あるいは大陸や半島の戦乱を逃れて来た難民などの説がある。すべての人が同じ理由ではないだろうし、弥生時代の1200年間には様々な理由があったはず。
前回、朝鮮半島の楽浪郡や中国の洛陽まで、弥生人がカヌーのような小さな船で朝貢に趣いていたのは驚くと書いた。しかし元々は海を渡ってやって来たのだから、当時はそれなりの海洋国家だったのかも知れない。
ただし中国の歴史書で最初に倭が登場するのは、時期は特定できないものの前漢王朝であった紀元前206年〜8年のどこかでの出来事である。その後の後漢の歴史書では紀元57年と107年の記述がある。つまり1200年続いた弥生時代の後期。
朝鮮半島から海を渡ってやってきたとはいえ、おそらく多くの弥生人にとってそれは数百年前の先祖の話であり、彼らが「海の民」であったわけではない。一方で多くは日本列島に定住したが、対馬あたりでは、そこを本拠地としながら朝鮮半島と頻繁に行き来している部族がいたものと思われる。
ところで弥生時代に古代中国王朝に朝貢していたと聞いて、
おそらく最初に思い浮かぶ疑問は
その時代にどうやって海を渡った?
中国語は話せたのか?
である。
航海については前回に紹介したようなカヌーを漕いで頑張った(^^ゞ そして朝鮮半島に行き来している部族は、朝鮮語や中国語を話せたのだと思う。おそらく彼らが朝貢外交団の一員として通訳を務めたのだろう。まさか身振り手振りだけで朝貢の役目を果たせたとは考えづらい。
さてここからが本題。
弥生時代の倭人には日本語と中国語のバイリンガルな人々がいたのである。
それは「文字」の存在を知っていたことを意味する。
なのになぜ国内では文字が使われなかったのだ?
そもそも中国大陸から渡ってきた弥生人がいるなら、
どうして日本に列島に来て文字を使うのをやめてしまった?
古代中国で漢字のルーツである甲骨文字が使われ始めたのは殷王朝(紀元前16世紀中頃〜紀元前1046年)の時代。それは占いの記録用途だったようで、コミュニケーションツールとしての文字は次の周王朝(紀元前1046年〜紀元前770年)から。弥生時代の始まりが紀元前900年代なので時期は重なる。
もっとも当時の中国で文字を使えるのはごく一部の支配階級だけで、日本に渡ってきた人々まで普及していなかった可能性はある。それはそれとして、朝貢で古代中国とやりとりをしていた弥生時代の支配階級は、文字の存在を知っていたはず。なのにそれを自分たちの言語に応用しなかったのかは大いにナゾ
以前に文字が使われるには
1.人口が多い
2.都市が形成される
3.支配者の権力が強く官僚制度がある
などの条件が揃ってからと何かで読んだ。
1は人が少なければ口頭で済むとの単純な理屈。2について記憶が曖昧なものの、いろんな職業や階層の人が集まるようになって、コミュニケーションツールとして文字が必要になるだったかな。例えば集落全員が農民で、皆が同じような暮らしをしているのなら情報交換は口頭だけで事足りる。3も基本的に同じで世の中の仕組みが複雑になると事務仕事が発生する。何となく世界各地で文字が発明された四大文明を逆算したような説ではあるが。
弥生時代に古代中国によって日本は倭と名付けられ、その各地域の支配者が倭の国王と呼ばれたけれど、現在になぞらえての実態イメージとしては「未開なジャングルに住む部族とその酋長」程度だったのだろう。そりゃまだ文字は必要ないな。
日本で文字が使われだしたのは、弥生時代が終わって数百年先の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀)中頃の500年あたり。世界最大のお墓である仁徳天皇陵なんて、それなりの文明力を感じさせるのに築造されたのは400年から450年頃と推定され、まだ文字はなし。考えてみればピラミッドと違って古墳なんて造るのにそんなに高度な技術はいらないか。
だから古墳時代になったとはいえまだまだ酋長の時代が続いていた。だいたい弥生時代と古墳時代は、有力者の大型の墓が円形だったか、丸と四角を組み合わせた前方後円墳だったか程度の違いしかない。
まあ歴史区分の半分はそういうもので、どこかで区切りを付けないと理解しづらいから後世になって分けているだけ。縄文時代と弥生時代は稲作の普及と鉄器の使用といった社会的な違いがあっても、奈良時代と平安時代なんて都が奈良から京都に移ったに過ぎない。また江戸時代と明治時代は社会のあり方に大きな違いがある。ただしその後に明治・大正・昭和・平成・令和と天皇の代替わりで何となく区別しているけれど、中身はそんなに変わっていない。あえて言えば戦前と戦後は違うかな。数百年先に明治以降は何時代と呼ばれるのだろうね。とりあえずこのブログは昭和人が平成と令和の時代に書いています(^^ゞ
話を文字に戻すと日本には古墳時代の中頃まで文字はなかった。古代中国との接触で文字は目にしていても、バイリンガル弥生人は別として、支配階級を含めて民族全体として文字は使わなかった。
「その2」で書いたように、紀元57年の朝貢では後漢の光武帝より漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)と文字が刻まれた金印が贈られた。他にも文字が使われる4世紀以前の出土品で、鏡や土器などに漢字が記されたものが見つかっている(文章ではなく数文字程度)。
金印はもちろん、漢字が刻まれた鏡や土器は支配階級の所有物である。バイリンガル弥生人に多少は意味を教えられたかも知れないが、彼らは漢字は読めないし中国語もわからない。
どんな風にこれらの文字を眺めていたのかな。
単なる線を使ったデザインとしてか?
(関係ないが弥生時代に朱肉はなかったはず)

それで思い浮かべるのはこんな外国人の漢字タトゥー。弥生人も案外こんなノリで「この金印イケてるねえ、超クール!」なんて会話してたりして(^^ゞ
さて「その3」では倭という名前が蔑称(べっしょう)かどうかについて書いた。その文章を引用すると
飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。
唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」
などの記述が見られる。
文字を使い始めてから200年。ようやく倭や邪馬台国や卑弥呼などが中国から馬鹿にされた名前だと気付いたみたい。遅すぎるゾ
そういえば昔は便所や便器なんて漢字タトゥーを入れた外国人がいたのに、最近は見かけない。写真のタトゥーは便所に較べればまだまとも。これは単にデザインだけで漢字を選んでいたのが、ネットで手軽に意味を調べられるようになったからだと思っている。とりあえず無知は怖いね。
先ほどの漢委奴国王の金印が江戸時代に田んぼで偶然見つかった話は、社会科だったか日本史だったかで習う。しばらくして、これが日本にもたらされたのは弥生時代で、その頃の日本にはまだ文字がなく、でも中国ではもっと大昔から文字を使っていたと知った。その時に日本はなんて遅れた国だったのかと情けなかった。その印象はかなり強烈で、実は日本民族が文字を生み出さなかったのを何となくコンプレックスに感じてきた。
紀元前1000年あたりで文字を使い始めた中国と紀元500年からの日本。
日本は文字について中国に1500年も後れを取った。
でもでもしかしである。
ホモサピエンスが誕生したのが20万年前。そしてどうやってそんなことがわかるのか根拠は見つけられなかったものの、人類が言葉を喋り出したのが10万年前とされる。
つまり言葉が生まれて10万年の歴史がある中で1500年の遅れなんて、その1.5%の期間に過ぎないのである。ホモサピエンス20万年の歴史でなら0.75%、何なら最初の人類である猿人が誕生した700万年前を持ち出せば0.02%となり誤差以下の値である。だから歴史的に見てたいした差ではなかったとこれからは思うようにしましょう。まあ都合よく数字をいじくるのは職業柄もあって得意である(^^ゞ
ーーー続く
倭の話は今回で終わりのつもり。
wassho at 22:27|Permalink│Comments(0)│
2025年10月19日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その4
かつて東京がトウケイやトキオと呼ばれていたのと同じように、日本にもニッポンとニホン以外の読み方があったと知り、それでそもそもいつから日本?と調べだしたら、その前は「倭」だったのを思い出して、そちらが何かと興味深く今回で「その4」になってしまった。
こんなことなら「日本」の話題に入るまで、
「倭」にちなんだタイトルにするべきだったと反省□\(.. )
ところでこの反省の絵文字はもう意味がわからない人が多いかも知れない。1980年代後半に猿回しでサルが反省するポーズが大人気になったのよ。
さて今回は名称としての倭についてではなく、
それ以外のあれこれ。
何度も書いたように弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族は文字を持たなかったので、その記録が最初に現れるのは前漢王朝(紀元前206年〜8年)の歴史書である漢書によって。そこには倭人が貢ぎ物を持って、前漢が朝鮮半島支配の拠点とした現在の平壌あたりである楽浪郡までやって来たと記されている。
漢書には具体的な時期は記されていないものの、次の次の王朝である後漢(25年〜220年)の歴史書には紀元57年、107年の朝貢(ちょうこう:中国皇帝に貢ぎ物を献上して臣下の礼を示す外交)が記録されている。このうち少なくとも57年の謁見は後漢の都である洛陽(らくよう)で行われたと考えられる。
中国大陸中部の洛陽と、朝鮮半島の楽浪郡の位置図。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
それにしても弥生時代に海を越えて朝鮮半島や中国大陸まで出かけていたことに驚く。埴輪や船が描かれた絵など様々な出土品から、当時の船は丸太をくりぬいた丸太舟(考古学では丸木舟と表現する)か、長距離航海にはそれの側面に板を張ってかさ上げした準構造船が使われていたと見られている。作り方はともかくとして、今でいえば大型のカヌーみたいなもの。全長は大きい船で12m程度の推定。参考までに大型観光バスがそれくらい。画像はhttps://shimonaga-iseki.yayoiken.jp/n-fune.htmlから引用
これは弥生時代より後の古墳時代前期(4世紀初頭)の古代船を復元したもの。これで全長は11m。弥生時代の船はこれよりもっとショボかったはずで、そんな船でよく海を渡ったものだ。画像はhttps://x.gd/mjnEP(短縮URL使用)より引用
ところで仮に九州から対馬経由で朝鮮半島に渡ったとすれば120kmプラス50km。こんな小さな手漕ぎボートでの航海は危険極まりなく漂流や沈没も多かったと思われる。それでも海を渡った弥生人のバイタリティに感心しながら、ふと後漢書に書かれていた内容が気になった。
それは
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した
こんな船で160人も運んだのか?
復元された古代船の写真では漕ぎ手が8人に船頭が2人乗っている。奴隷に漕がせるとして160人 ÷ 8人 =20隻。外交使節団や随行員とその他に人足モロモロを加えると、少なくともあと10隻は必要に思える。
そうなると30隻以上の大船団。それを送り出せるような国力が弥生時代にあったのだろうか。もちろん数隻でのピストン輸送も考えられるとしても、それだとかなりの日数が掛かりそうだ。
これについては様々な学説がある。
あまり詳しく調べていないが、
・後漢サイドが自らの権威を誇張するために人数を盛った
・160人の奴隷を献上したいと言っただけで、実際に献上されたかは不明
・帥升が治めていた国は朝鮮半島にあった
→つまり対馬海峡を渡って奴隷を運んだのではない
→その場合の倭国全体は日本列島と朝鮮半島にまたがる連合国家のような形態となる
などを見つけた。
弥生時代の倭について記した文書は漢書、後漢書、魏志倭人伝と他にもいくつかあるようだけれど、全部足してもたいした分量(文字数)ではない。また書かれている内容が正確とも限らない。歴史家はその背景や行間をあれこれ推測しながら、あるいはこじつけたりして自説を唱えている。それが歴史のロマンにも思えるし、エエ加減な学問・気楽な商売だとうらやましくもある(^^ゞ
次回も「日本」にたどり着かない予定m(_ _)m
ーーー続く
<2025年10月21日追記>
やはり倭の話を書いているのに、タイトルが「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン」なのはふさわしくない。しかし既に4回もそのタイトルでアップしている。
そこで折衷策として「その2」の回以降を「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)」と変更した。
こんなことなら「日本」の話題に入るまで、
「倭」にちなんだタイトルにするべきだったと反省□\(.. )
ところでこの反省の絵文字はもう意味がわからない人が多いかも知れない。1980年代後半に猿回しでサルが反省するポーズが大人気になったのよ。
さて今回は名称としての倭についてではなく、
それ以外のあれこれ。
何度も書いたように弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族は文字を持たなかったので、その記録が最初に現れるのは前漢王朝(紀元前206年〜8年)の歴史書である漢書によって。そこには倭人が貢ぎ物を持って、前漢が朝鮮半島支配の拠点とした現在の平壌あたりである楽浪郡までやって来たと記されている。
漢書には具体的な時期は記されていないものの、次の次の王朝である後漢(25年〜220年)の歴史書には紀元57年、107年の朝貢(ちょうこう:中国皇帝に貢ぎ物を献上して臣下の礼を示す外交)が記録されている。このうち少なくとも57年の謁見は後漢の都である洛陽(らくよう)で行われたと考えられる。
中国大陸中部の洛陽と、朝鮮半島の楽浪郡の位置図。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
それにしても弥生時代に海を越えて朝鮮半島や中国大陸まで出かけていたことに驚く。埴輪や船が描かれた絵など様々な出土品から、当時の船は丸太をくりぬいた丸太舟(考古学では丸木舟と表現する)か、長距離航海にはそれの側面に板を張ってかさ上げした準構造船が使われていたと見られている。作り方はともかくとして、今でいえば大型のカヌーみたいなもの。全長は大きい船で12m程度の推定。参考までに大型観光バスがそれくらい。画像はhttps://shimonaga-iseki.yayoiken.jp/n-fune.htmlから引用
これは弥生時代より後の古墳時代前期(4世紀初頭)の古代船を復元したもの。これで全長は11m。弥生時代の船はこれよりもっとショボかったはずで、そんな船でよく海を渡ったものだ。画像はhttps://x.gd/mjnEP(短縮URL使用)より引用
ところで仮に九州から対馬経由で朝鮮半島に渡ったとすれば120kmプラス50km。こんな小さな手漕ぎボートでの航海は危険極まりなく漂流や沈没も多かったと思われる。それでも海を渡った弥生人のバイタリティに感心しながら、ふと後漢書に書かれていた内容が気になった。
それは
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した
こんな船で160人も運んだのか?
復元された古代船の写真では漕ぎ手が8人に船頭が2人乗っている。奴隷に漕がせるとして160人 ÷ 8人 =20隻。外交使節団や随行員とその他に人足モロモロを加えると、少なくともあと10隻は必要に思える。
そうなると30隻以上の大船団。それを送り出せるような国力が弥生時代にあったのだろうか。もちろん数隻でのピストン輸送も考えられるとしても、それだとかなりの日数が掛かりそうだ。
これについては様々な学説がある。
あまり詳しく調べていないが、
・後漢サイドが自らの権威を誇張するために人数を盛った
・160人の奴隷を献上したいと言っただけで、実際に献上されたかは不明
・帥升が治めていた国は朝鮮半島にあった
→つまり対馬海峡を渡って奴隷を運んだのではない
→その場合の倭国全体は日本列島と朝鮮半島にまたがる連合国家のような形態となる
などを見つけた。
弥生時代の倭について記した文書は漢書、後漢書、魏志倭人伝と他にもいくつかあるようだけれど、全部足してもたいした分量(文字数)ではない。また書かれている内容が正確とも限らない。歴史家はその背景や行間をあれこれ推測しながら、あるいはこじつけたりして自説を唱えている。それが歴史のロマンにも思えるし、エエ加減な学問・気楽な商売だとうらやましくもある(^^ゞ
次回も「日本」にたどり着かない予定m(_ _)m
ーーー続く
<2025年10月21日追記>
やはり倭の話を書いているのに、タイトルが「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン」なのはふさわしくない。しかし既に4回もそのタイトルでアップしている。
そこで折衷策として「その2」の回以降を「ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)」と変更した。
wassho at 18:44|Permalink│Comments(0)│
2025年10月15日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その3
文字を持っていなかった弥生時代(紀元前900年代〜紀元後250年あたり)の日本民族。歴史に初めてその存在が記録されるのが、紀元後80年前後に編纂され中国・前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた「漢書(かんじょ)」によって。「朝鮮半島の海の向こう」に「倭人」が住んでいて「ときどき貢ぎ物を持ってやって来る」と紹介された。
それ以外に有名な史実として魏志「倭」人伝、漢委奴国王印(かんの「わ」のなのこくおういん)の金印、邪馬台国の卑弥呼が親魏「倭」王の称号を授けられたとか、なんとなく昔の日本は「倭」と呼ばれていたとの認識はある。しかしなぜ「倭」なのか?
論理的には2通りある。
日本人が倭と名乗った
中国側で倭と名付けた
後者は朝鮮半島の先に島々があって、会ったことはなくても人が住んでいるだろうから、元々そこを倭と呼んでいたケース。地球人が勝手に火星や火星人と呼ぶようなものである
学説では一般に前者である。
しかしいくつかの疑問がある。
まず日本人が名乗ったとして、倭はその名乗った言葉の音を中国の漢字に当てはめている。歴史の教科書でそれを「わ」と習うけれど、中国ではどうだったのか。現代の中国語で倭はウェイまたはゥオー、朝鮮語ではウェらしい(貢ぎ物を献上しに行ったのは朝鮮半島にあって前漢支配下の楽浪郡)。前漢時代の発音まではわからないが、日本人が名乗ったのは「わ」ではなかった気がする。
ちなみに英国をイギリスと呼ぶのは日本だけ。これはポルトガル語のイングレスがエゲレス→イギリスと変化した。日本人が名乗ったのはイングレスで倭はイギリスみたいなものかも知れない。同じことを前回に後漢書で歴史に初めて記された日本人の名前とされる「帥升(すいしょう)」についても書いた。
次に倭とは現在の感覚でなら日本列島を意味するが、当時は弥生時代後期に栄えていた北九州か出雲か奈良あたりを指していたと思われる。漢書によれば百くらいの小国に分かれていたらしい。この百が実際の数字なのか、たくさんとの意味なのかは不明として、弥生時代後期の国とはいわゆる部族集団で、統治していた面積も今の「市」程度かと想像する。
つまり日本国のような国家概念はなかった。
それなのに「私は倭という国から来ました」と名乗るか?
弥生時代に各部族の支配地域を越えた地域を表す名前があったとはどうにも想像しづらい。
それと中国の歴代王朝は夏、殷、周、秦、漢から始まり隋、唐、宋、元、明、最後の清に至るまですべて一文字である。また苗字も李、王、張、劉、陳など一文字がほとんど。韓国でも金、李、朴、崔、鄭など同様。王朝名や苗字と、そして現代と弥生時代を較べる無理を承知で書けば日本の地名は二文字以上がほとんど。漢字が一文字でも訓読み(すなわち日本語読み、音読みは中国読み)なら呉(くれ)、柏(かしわ)など音節は2つ以上。一文字一音節である三重県の津(つ)なんて例外中の例外。
そんなこんなで「日本人が倭と名乗った」のではなく「中国側で倭と名付けた」のではないかとモーソーしている。つまり火星人方式のネーミング。だいたいウェイやゥオーなんてとても日本語の地名とは思えない。
そう考える理由はもうひとつある。
倭の文字にどんなイメージをいだくだろうか?
私にはネガティブな語感に響く。
日本でこの漢字は古代の倭国や倭人関連以外ではほとんど使われない。普段の日本語にはない漢字と言ってもいい。それなのにイメージが悪いのは、おそらく倭と矮(わい)が似ていて、矮には矮小や矮性(園芸用語)など小さいや背が低いの意味があるせいだ。
それで中国語で倭はネガティブな意味合いを持っていたのか。悪字を当ててチビな列島人と見下す蔑称(べっしょう)だったのか。学説的には「よくわからない」との意見が多いみたい。倭は固有名詞で矮は形容詞との指摘もある。
それでも蔑称だったような気がする。
なぜなら他にも、
邪馬台国→邪悪の邪
卑弥呼→卑しいの卑
なんでその漢字ヤネン絶対にバカにしてるやろ!と思える例がある。
また日本に対してだけでなく他の周辺国に対しても同様。
匈奴:紀元前3世紀から紀元1世紀後半に中国北部にいた遊牧民。
しばしば古代中国王朝と対立した。
匈は「悪い」。
奴は奴隷の奴であり、人々ではなく連中とさげすんだ表現。
日本人に対して倭奴(わど)との呼び名もあった。
そういえば前回に書いた後漢書には倭奴国と記されていた。
日本史では「わのなこく」と読むことになっているので印象が和らぐが。
南蛮:古代中国王朝に帰順しようとしない南の地方。
蛮は野蛮など文明未開で粗暴。
日本にやって来たポルトガルやスペイン人を南蛮人と呼んだのは、
彼らが南蛮エリアである東南アジア経由で来日したから。
鴨南蛮については諸説あり不明(^^ゞ
蒙古:モンゴルをそう呼んだ。
蒙は「おろか」を意味し無知蒙昧」(むちもうまい)の蒙。古は「古くさい」。
今年の春に朝青龍が、三谷幸喜の演劇「蒙古が襲来」に対して
「おいジャップ! 蒙古言うな」と憤慨していた。
これはもちろん優れた我が民族が天下の中心で、周辺国は愚かで劣ると見なす中華思想の表れ。春秋時代(紀元前770年〜紀元前453年)に始まったとされる。
なお飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られる。
意外にも唐はあっさりこれを受け入れ、その後の歴史書には日本と記される。しかし南北朝・室町時代初期から秀吉の時代にかけて倭寇が起こる。いわゆる日本人(だけではないが)による東アジア各地での海賊行為。それを日本海賊ではなく倭寇と呼んだのはもちろん中国側。唐の時代に終わった倭の名前が復活したのはそれが蔑称だった以外の理由はないだろう。
なおかつ弥生人が名乗った地名の音が、都合よく倭の中国読み発音に当てはまった確率は低いと考えるのである。
それにしても弥生人は何と名乗っていたのかな。
こればかりは過去に遡れるタイムマシンでも発明されない限り解明されない。
ーーー続く
次回もまだ「日本」以前の話の予定。
それ以外に有名な史実として魏志「倭」人伝、漢委奴国王印(かんの「わ」のなのこくおういん)の金印、邪馬台国の卑弥呼が親魏「倭」王の称号を授けられたとか、なんとなく昔の日本は「倭」と呼ばれていたとの認識はある。しかしなぜ「倭」なのか?
論理的には2通りある。
日本人が倭と名乗った
中国側で倭と名付けた
後者は朝鮮半島の先に島々があって、会ったことはなくても人が住んでいるだろうから、元々そこを倭と呼んでいたケース。地球人が勝手に火星や火星人と呼ぶようなものである
学説では一般に前者である。
しかしいくつかの疑問がある。
まず日本人が名乗ったとして、倭はその名乗った言葉の音を中国の漢字に当てはめている。歴史の教科書でそれを「わ」と習うけれど、中国ではどうだったのか。現代の中国語で倭はウェイまたはゥオー、朝鮮語ではウェらしい(貢ぎ物を献上しに行ったのは朝鮮半島にあって前漢支配下の楽浪郡)。前漢時代の発音まではわからないが、日本人が名乗ったのは「わ」ではなかった気がする。
ちなみに英国をイギリスと呼ぶのは日本だけ。これはポルトガル語のイングレスがエゲレス→イギリスと変化した。日本人が名乗ったのはイングレスで倭はイギリスみたいなものかも知れない。同じことを前回に後漢書で歴史に初めて記された日本人の名前とされる「帥升(すいしょう)」についても書いた。
次に倭とは現在の感覚でなら日本列島を意味するが、当時は弥生時代後期に栄えていた北九州か出雲か奈良あたりを指していたと思われる。漢書によれば百くらいの小国に分かれていたらしい。この百が実際の数字なのか、たくさんとの意味なのかは不明として、弥生時代後期の国とはいわゆる部族集団で、統治していた面積も今の「市」程度かと想像する。
つまり日本国のような国家概念はなかった。
それなのに「私は倭という国から来ました」と名乗るか?
弥生時代に各部族の支配地域を越えた地域を表す名前があったとはどうにも想像しづらい。
それと中国の歴代王朝は夏、殷、周、秦、漢から始まり隋、唐、宋、元、明、最後の清に至るまですべて一文字である。また苗字も李、王、張、劉、陳など一文字がほとんど。韓国でも金、李、朴、崔、鄭など同様。王朝名や苗字と、そして現代と弥生時代を較べる無理を承知で書けば日本の地名は二文字以上がほとんど。漢字が一文字でも訓読み(すなわち日本語読み、音読みは中国読み)なら呉(くれ)、柏(かしわ)など音節は2つ以上。一文字一音節である三重県の津(つ)なんて例外中の例外。
そんなこんなで「日本人が倭と名乗った」のではなく「中国側で倭と名付けた」のではないかとモーソーしている。つまり火星人方式のネーミング。だいたいウェイやゥオーなんてとても日本語の地名とは思えない。
そう考える理由はもうひとつある。
倭の文字にどんなイメージをいだくだろうか?
私にはネガティブな語感に響く。
日本でこの漢字は古代の倭国や倭人関連以外ではほとんど使われない。普段の日本語にはない漢字と言ってもいい。それなのにイメージが悪いのは、おそらく倭と矮(わい)が似ていて、矮には矮小や矮性(園芸用語)など小さいや背が低いの意味があるせいだ。
それで中国語で倭はネガティブな意味合いを持っていたのか。悪字を当ててチビな列島人と見下す蔑称(べっしょう)だったのか。学説的には「よくわからない」との意見が多いみたい。倭は固有名詞で矮は形容詞との指摘もある。
それでも蔑称だったような気がする。
なぜなら他にも、
邪馬台国→邪悪の邪
卑弥呼→卑しいの卑
なんでその漢字ヤネン絶対にバカにしてるやろ!と思える例がある。
また日本に対してだけでなく他の周辺国に対しても同様。
匈奴:紀元前3世紀から紀元1世紀後半に中国北部にいた遊牧民。
しばしば古代中国王朝と対立した。
匈は「悪い」。
奴は奴隷の奴であり、人々ではなく連中とさげすんだ表現。
日本人に対して倭奴(わど)との呼び名もあった。
そういえば前回に書いた後漢書には倭奴国と記されていた。
日本史では「わのなこく」と読むことになっているので印象が和らぐが。
南蛮:古代中国王朝に帰順しようとしない南の地方。
蛮は野蛮など文明未開で粗暴。
日本にやって来たポルトガルやスペイン人を南蛮人と呼んだのは、
彼らが南蛮エリアである東南アジア経由で来日したから。
鴨南蛮については諸説あり不明(^^ゞ
蒙古:モンゴルをそう呼んだ。
蒙は「おろか」を意味し無知蒙昧」(むちもうまい)の蒙。古は「古くさい」。
今年の春に朝青龍が、三谷幸喜の演劇「蒙古が襲来」に対して
「おいジャップ! 蒙古言うな」と憤慨していた。
これはもちろん優れた我が民族が天下の中心で、周辺国は愚かで劣ると見なす中華思想の表れ。春秋時代(紀元前770年〜紀元前453年)に始まったとされる。
なお飛鳥時代末期の700年前後に日本は国名を倭から日本にすると宣言する。唐の歴史書には「倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となす」などの記述が見られる。
意外にも唐はあっさりこれを受け入れ、その後の歴史書には日本と記される。しかし南北朝・室町時代初期から秀吉の時代にかけて倭寇が起こる。いわゆる日本人(だけではないが)による東アジア各地での海賊行為。それを日本海賊ではなく倭寇と呼んだのはもちろん中国側。唐の時代に終わった倭の名前が復活したのはそれが蔑称だった以外の理由はないだろう。
なおかつ弥生人が名乗った地名の音が、都合よく倭の中国読み発音に当てはまった確率は低いと考えるのである。
それにしても弥生人は何と名乗っていたのかな。
こればかりは過去に遡れるタイムマシンでも発明されない限り解明されない。
ーーー続く
次回もまだ「日本」以前の話の予定。
wassho at 20:19|Permalink│Comments(0)│
2025年10月09日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン(その前の倭編)その2
弥生時代の日本にまだ文字はなかったので、当時の日本で書かれた=歴史の資料となるものは存在しない。日本について最初に記されたのは中国の書物。有史以前や先史時代とは文字が使われていない時代を指す。言い換えれば歴史に日本が登場したのは中国の書物によって。
その最初は「漢書(かんじょ)」。これは後漢王朝(25年〜220年)の時代に、前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた歴史書。編纂に約20年を費やしておおよそ80年前後に完成した。
ただし記念すべき日本の歴史デビューは
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
とわずかに19文字の記述のみ(>_<)
ちなみに漢書は「本紀」12巻、「列伝」70巻、「志」10巻、「表」8巻の計100巻から成る膨大な量の書物。現在も写本が販売されていて、それのページ数は3348ページあるらしい。その中のたった19文字とは中国から見て日本はその程度の存在だったのだろう。片や100巻の歴史書を制作する文明国、対して文字すらない文明以前の僻地では仕方がない。
この19文字は漢書の「地理志」に記載がある。「志」とは分野史を意味しており、地域情報のひとつとしてに日本が紹介されている。他の「本紀」は前漢歴代皇帝の治世について、「列伝」は重要人物の伝記、「表」は年表や系図など。
19文字を超意訳すると
楽浪海中有倭人→「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいる」
楽浪郡とは前漢が支配していた朝鮮半島北部。
現在の北朝鮮・平壌あたりとされる。
分為百余国→「百くらいの小国に分かれている」
以歳時来献見云→「定期的に貢物(みつぎもの)を持って楽浪郡を訪れる」
頻度は不明としても弥生時代に平壌まで定期的に往来していたとはビックリ。もっとも弥生人は朝鮮半島や中国大陸北部から渡来してきた民族の子孫だから(諸説あり)馴染みはあったのかな? それとこれはいわゆる朝貢外交だけれど、この時代に前漢=古代中国は日本にそれだけの影響力を持っていたのだろうか。そうだとして朝貢している=付き合いのある相手であれば、もう少し詳しく記述してくれてもよさそうなものなのに。百ほどあった小国のどこが朝貢していたのかくらいは書いておいて欲しかったゾ。
これらについては何かと興味をそそるものの本題から外れるので、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ここでのポイントは当時の日本人が倭人(わじん、現代の中国語発音ではウォーレン)と呼ばれていたこと。倭人が住むのだから国名というか日本列島の地域名は倭である。「古代中国にあった魏・呉・蜀の三国」と表現するのと同じ理屈。
次に日本が登場するのは「後漢書」の「東夷列伝(東夷伝ともいう)」で全120巻の歴史書。これは後漢王朝(25年〜220年)の出来事を宋(そう:420年〜479年)の時代に記された。成立は432年。なおこの宋は平家が日宋貿易をしていた960年〜1279年の宋とは別物。古代の中国は同じ国名が何度も使われてややこしい。
それにしても後漢が滅亡してから200年も後に編纂されている。漢書も前漢滅亡から70年以上が経っている。もっと早く書かないと資料も失われてしまのに、当時はそういうものだったのだろうか。あるいはその時代に歴史を書くとは研究だけではなくて政治の一環でもあったはずで、あまり前王朝の記憶が生々しいうちは書けなかったのかも知れない。後漢と宋の間には三国志で有名な魏・呉・蜀を含めて6代も王朝を挟んでいる(そのうちの1つはさらに16国に分かれる)。
さて後漢書に書かれていた内容は
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢書と違って漢字を眺めるだけでの解読は難しいが、この文章にまつわるエピソードは社会科の授業で習ったはず。漢文のポイントを丸めると
紀元57年に「倭」の「奴国(なこく)」の王の使者が都にやって来て
後漢の光武帝から印鑑を授かった
ここに書かれている印鑑が、それから1727年後の江戸時代後期に入った1784年に、福岡の志賀島で農民が水田の補修工事中に偶然見つけたとされる金印。1931年(昭和6年)に国宝に指定。一辺が約2.3cm、金の純度は95.1%。授業では漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と舌を噛みそうな名前を覚えさせられた。
ちなみに後漢の都は洛陽(らくよう)で中国の中部。弥生時代の54年によくそんなところまで行ったなと感心する。海路で東シナ海を渡ったのか、あるいは朝鮮半島経由の陸路か。地図には現在の平壌の位置で楽浪郡も示しておいた。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
ところで後漢書には「倭奴国」と書かれているのに、印鑑に彫られている文字は「漢」「委」「奴」「国王」で「倭」が「委」になっている。(現代人には委や奴には見えないが)
これについては様々な学説・論争があり、また発見の経緯が不自然なことも加わって、中にはこの金印は福岡藩が捏造した偽物だとの説まである。
(/_')/ソレモコッチニオイトくとして
漢書と同じく後漢書でも「倭国」と記されている。朝貢した紀元57年は紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間続いた弥生時代の後期に当たる。
また後漢書にはこれに続いて
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した。
後漢の桓帝(146年〜168年)と霊帝(168年〜189年)の在位中、
すなわち2世紀後半に倭国では大きな内乱があった。
と合計3つの記述がある。
この奴隷を献上した帥升(すいしょう)は、歴史に初めて記された日本人の名前とよく解説される。しかし倭人は文字を持っていないので、中国側で名前の音を帥升の漢字に当てはめたはず。そして「すいしょう」は日本語読み。だから本当の名前はわからないと思っているのだが、そういう解説はどこを探してもなかった。ちなみに帥升は現代の中国語では「シュアイ シェン」と発音する。
後漢書にはほかにも倭国について書かれているものの、それらは先に書かれた魏志倭人伝からの引用。それを除いたこの3つの記述が新事実となる。漢文での文字数は3つ合わせて69文字。
最後に邪馬台国&卑弥呼で有名な魏志倭人伝。
もっともそういう書物があるわけではなく、これは「三国志」の「魏志(30巻)」の30巻目の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」の「東夷」の章の「倭」の項に書かれている記述の略称。
その三国志とは古代中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代(220年〜263年)とその前後を記したもの。王朝は後漢→三国時代→晋の順で、編纂されたのは晋の時代になった280年頃。後漢書より対象とする時期は後でも、編纂されたのはこちらが先。だから後漢書に魏志倭人伝を引用した箇所がある。魏志のほか呉志(20巻)と蜀志(15巻)の合計65巻構成。
ところで三国志と聞くと魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)、あるいは諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)などの活躍を思い浮かべるものの、それは歴史書の三国志を題材に歴史長編フィクションとして書かれた小説「三国志演義」のイメージがベースになっている。執筆されたのは三国時代(220年〜263年)よりずっと後の1400年前後。さらに日本で一般に三国志と呼んでいるのは三国志演義を元ネタに吉川英治が執筆した小説の「三国志」。新聞連載小説として戦時中の1934年〜1943年まで掲載された。日本で製作されるドラマやゲームの三国志は彼の作品が大元の原作。
さて魏志に書かれている倭の情報は
・倭のいくつかの国の紹介と、帯方郡(最初に書いた楽浪郡と同じ場所)から
それらの国を経て邪馬台国に至るルートの解説
・倭人の生活と倭の自然
・邪馬台国と魏との外交
の3つに分かれる。
漢文はここをクリック
訓み下し文はここをクリック
日本語訳はここをクリック
読み下し文で4ページちょっとの分量。19文字の漢書、69文字の後漢書と較べれば多いとはいえ、それでもたかだか4ページである。
そして紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで、1200年続いた弥生時代が記録された文書資料は19文字+69文字+4ページのこれだけなのである。ちょっと残念というか寂しいね。
それもその場の記録ではなく、中国古代の各王朝が滅亡して70年・200年・17年後に編纂されている。物事が起きたときにリアルタイムで書かれた資料がそれほど豊富に残っていたとも思えず、すべての内容が正確とは考えづらい。邪馬台国がどこにあったかの論争なんてずっと続いているけれど、つまりは4ページのうちの一部であるルート解説の解釈を巡って「ああでもない、こうでもない」とやっている。しかもそれは倭の国にやって来た人が自ら書いた記録でもない。
まあ歴史とはそういうもの。
ひとつの事実に対して99の想像を巡らせるから面白いのかも知れない。
毎度のことながら話があちこちにそれて、なかなか「日本」までたどり着かない(^^ゞ
次回もまだ「倭」止まりの予定m(_ _)m
ーーー続く
その最初は「漢書(かんじょ)」。これは後漢王朝(25年〜220年)の時代に、前漢王朝(紀元前206年〜8年)の出来事をまとめた歴史書。編纂に約20年を費やしておおよそ80年前後に完成した。
ただし記念すべき日本の歴史デビューは
「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
とわずかに19文字の記述のみ(>_<)
ちなみに漢書は「本紀」12巻、「列伝」70巻、「志」10巻、「表」8巻の計100巻から成る膨大な量の書物。現在も写本が販売されていて、それのページ数は3348ページあるらしい。その中のたった19文字とは中国から見て日本はその程度の存在だったのだろう。片や100巻の歴史書を制作する文明国、対して文字すらない文明以前の僻地では仕方がない。
この19文字は漢書の「地理志」に記載がある。「志」とは分野史を意味しており、地域情報のひとつとしてに日本が紹介されている。他の「本紀」は前漢歴代皇帝の治世について、「列伝」は重要人物の伝記、「表」は年表や系図など。
19文字を超意訳すると
楽浪海中有倭人→「楽浪郡の海の向こうに倭人が住んでいる」
楽浪郡とは前漢が支配していた朝鮮半島北部。
現在の北朝鮮・平壌あたりとされる。
分為百余国→「百くらいの小国に分かれている」
以歳時来献見云→「定期的に貢物(みつぎもの)を持って楽浪郡を訪れる」
頻度は不明としても弥生時代に平壌まで定期的に往来していたとはビックリ。もっとも弥生人は朝鮮半島や中国大陸北部から渡来してきた民族の子孫だから(諸説あり)馴染みはあったのかな? それとこれはいわゆる朝貢外交だけれど、この時代に前漢=古代中国は日本にそれだけの影響力を持っていたのだろうか。そうだとして朝貢している=付き合いのある相手であれば、もう少し詳しく記述してくれてもよさそうなものなのに。百ほどあった小国のどこが朝貢していたのかくらいは書いておいて欲しかったゾ。
これらについては何かと興味をそそるものの本題から外れるので、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
ここでのポイントは当時の日本人が倭人(わじん、現代の中国語発音ではウォーレン)と呼ばれていたこと。倭人が住むのだから国名というか日本列島の地域名は倭である。「古代中国にあった魏・呉・蜀の三国」と表現するのと同じ理屈。
次に日本が登場するのは「後漢書」の「東夷列伝(東夷伝ともいう)」で全120巻の歴史書。これは後漢王朝(25年〜220年)の出来事を宋(そう:420年〜479年)の時代に記された。成立は432年。なおこの宋は平家が日宋貿易をしていた960年〜1279年の宋とは別物。古代の中国は同じ国名が何度も使われてややこしい。
それにしても後漢が滅亡してから200年も後に編纂されている。漢書も前漢滅亡から70年以上が経っている。もっと早く書かないと資料も失われてしまのに、当時はそういうものだったのだろうか。あるいはその時代に歴史を書くとは研究だけではなくて政治の一環でもあったはずで、あまり前王朝の記憶が生々しいうちは書けなかったのかも知れない。後漢と宋の間には三国志で有名な魏・呉・蜀を含めて6代も王朝を挟んでいる(そのうちの1つはさらに16国に分かれる)。
さて後漢書に書かれていた内容は
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」
漢書と違って漢字を眺めるだけでの解読は難しいが、この文章にまつわるエピソードは社会科の授業で習ったはず。漢文のポイントを丸めると
紀元57年に「倭」の「奴国(なこく)」の王の使者が都にやって来て
後漢の光武帝から印鑑を授かった
ここに書かれている印鑑が、それから1727年後の江戸時代後期に入った1784年に、福岡の志賀島で農民が水田の補修工事中に偶然見つけたとされる金印。1931年(昭和6年)に国宝に指定。一辺が約2.3cm、金の純度は95.1%。授業では漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)と舌を噛みそうな名前を覚えさせられた。
ちなみに後漢の都は洛陽(らくよう)で中国の中部。弥生時代の54年によくそんなところまで行ったなと感心する。海路で東シナ海を渡ったのか、あるいは朝鮮半島経由の陸路か。地図には現在の平壌の位置で楽浪郡も示しておいた。画像はhttps://www.nishinippon.co.jp/image/618128から引用編集
ところで後漢書には「倭奴国」と書かれているのに、印鑑に彫られている文字は「漢」「委」「奴」「国王」で「倭」が「委」になっている。(現代人には委や奴には見えないが)
これについては様々な学説・論争があり、また発見の経緯が不自然なことも加わって、中にはこの金印は福岡藩が捏造した偽物だとの説まである。
(/_')/ソレモコッチニオイトくとして
漢書と同じく後漢書でも「倭国」と記されている。朝貢した紀元57年は紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間続いた弥生時代の後期に当たる。
また後漢書にはこれに続いて
紀元107年に倭国王の「帥升(すいしょう)」が160人の奴隷を献上した。
後漢の桓帝(146年〜168年)と霊帝(168年〜189年)の在位中、
すなわち2世紀後半に倭国では大きな内乱があった。
と合計3つの記述がある。
この奴隷を献上した帥升(すいしょう)は、歴史に初めて記された日本人の名前とよく解説される。しかし倭人は文字を持っていないので、中国側で名前の音を帥升の漢字に当てはめたはず。そして「すいしょう」は日本語読み。だから本当の名前はわからないと思っているのだが、そういう解説はどこを探してもなかった。ちなみに帥升は現代の中国語では「シュアイ シェン」と発音する。
後漢書にはほかにも倭国について書かれているものの、それらは先に書かれた魏志倭人伝からの引用。それを除いたこの3つの記述が新事実となる。漢文での文字数は3つ合わせて69文字。
最後に邪馬台国&卑弥呼で有名な魏志倭人伝。
もっともそういう書物があるわけではなく、これは「三国志」の「魏志(30巻)」の30巻目の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」の「東夷」の章の「倭」の項に書かれている記述の略称。
その三国志とは古代中国が魏・呉・蜀に分かれていた三国時代(220年〜263年)とその前後を記したもの。王朝は後漢→三国時代→晋の順で、編纂されたのは晋の時代になった280年頃。後漢書より対象とする時期は後でも、編纂されたのはこちらが先。だから後漢書に魏志倭人伝を引用した箇所がある。魏志のほか呉志(20巻)と蜀志(15巻)の合計65巻構成。
ところで三国志と聞くと魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)、あるいは諸葛亮(しょかつりょう)や関羽(かんう)などの活躍を思い浮かべるものの、それは歴史書の三国志を題材に歴史長編フィクションとして書かれた小説「三国志演義」のイメージがベースになっている。執筆されたのは三国時代(220年〜263年)よりずっと後の1400年前後。さらに日本で一般に三国志と呼んでいるのは三国志演義を元ネタに吉川英治が執筆した小説の「三国志」。新聞連載小説として戦時中の1934年〜1943年まで掲載された。日本で製作されるドラマやゲームの三国志は彼の作品が大元の原作。
さて魏志に書かれている倭の情報は
・倭のいくつかの国の紹介と、帯方郡(最初に書いた楽浪郡と同じ場所)から
それらの国を経て邪馬台国に至るルートの解説
・倭人の生活と倭の自然
・邪馬台国と魏との外交
の3つに分かれる。
漢文はここをクリック
訓み下し文はここをクリック
日本語訳はここをクリック
読み下し文で4ページちょっとの分量。19文字の漢書、69文字の後漢書と較べれば多いとはいえ、それでもたかだか4ページである。
そして紀元前900年代〜紀元後250年あたりまで、1200年続いた弥生時代が記録された文書資料は19文字+69文字+4ページのこれだけなのである。ちょっと残念というか寂しいね。
それもその場の記録ではなく、中国古代の各王朝が滅亡して70年・200年・17年後に編纂されている。物事が起きたときにリアルタイムで書かれた資料がそれほど豊富に残っていたとも思えず、すべての内容が正確とは考えづらい。邪馬台国がどこにあったかの論争なんてずっと続いているけれど、つまりは4ページのうちの一部であるルート解説の解釈を巡って「ああでもない、こうでもない」とやっている。しかもそれは倭の国にやって来た人が自ら書いた記録でもない。
まあ歴史とはそういうもの。
ひとつの事実に対して99の想像を巡らせるから面白いのかも知れない。
毎度のことながら話があちこちにそれて、なかなか「日本」までたどり着かない(^^ゞ
次回もまだ「倭」止まりの予定m(_ _)m
ーーー続く
wassho at 22:07|Permalink│Comments(0)│
2025年10月06日
ニッポンとニホンそしてジッポンにニフォン
明治新政府が江戸を東京と改名した際に、その読みを記さなかったゆえに、トウキョウ、トウケイそしてトキオと3つの読み方が混在した話を1年ほど前に3部作で書いた。
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484135.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484136.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484137.html
どうして読みを記さなかったのだろうと思ったけれど、考えてみれば首都である東京だけではなく、国名の日本だってニホンとニッポンの2つの読み方がある。そして歴史的にはさらにいくつもあったとのお話が今回。
日本がいつから国名として日本を使い始めたのか正確なところはよくわかっていない。さらに言えば当時の「国の概念」も現在とは相当に違うはずで、そこまで話を含めると大変にややこしい歴史問題。
我々の直接の先祖であるホモサピエンスが、現在の南アフリカあたりで誕生したのが20万年前(ちなみに猿人と呼ばれる最初の人類が誕生したのは700万年前)。彼らは14万年間をアフリカ大陸で過ごし6万年前にヨーロッパ方面に向かう。さらに進んでユーラシア大陸を通り、あるいは東南アジアの海沿いを渡って日本列島にやってきたのが4万年前。現在は2000年代なので紀元前3万8000年。もちろんこれらの地理や年代は諸説ありで、新しい発掘があれば学説も変わる。
その紀元前3万8000年以降は日本において3つの時代区分がある。
紀元前3万8000年〜紀元前1万4000年までの2万4000年間:旧石器時代
紀元前1万4000年〜紀元前900年代までの1万3000年年間:縄文時代(新石器時代)
紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間:弥生時代
社会的な違いを見ると
旧石器時代:石を打ち砕いた打製石器を使用
非定住の狩猟採集社会
縄文時代(新石器時代):石を研磨加工した磨製石器、土器や弓矢の使用
後期には野生植物の移植など初期の農耕&定住化が始まる
弥生時代:金属の使用
稲作が盛んになる
※原始時代は旧石器時代+新石器時代の総称
野生動物にとって生きるとは=食べる、あるいは食べ物を探したり狩りをするである。旧石器時代は人類もそんな生活だったと思う。だから社会の最大単位は家族や血縁関係のある一族。野生動物の「群れ」みたいなもの。
時代が下って初期の農耕&定住化が始まるとと、徐々にその「群れ」の集合体である部族のようなものが形成される。そして農耕が本格すると食料が増え人口も増大する。またその食料は狩猟してきた動物と違い備蓄できるから貧富の差が生まれたり、支配する側される側の社会構造も生む。あまり言われないけれど農耕をするしないは動物と人間を分ける大きな違いだと思う。
こうやって野生動物に近い「群れ」から部族社会になると部族同士の抗争が始まる。受傷人骨と呼ばれる武器によって傷つき死亡したと思われる人骨の発掘は、弥生時代になって急激に増える。野生動物と同じような暮らしから、やや人間らしい社会になった途端に争いを始めたのが人類。人類がホモサピエンスの段階にある限り、未来永劫に戦争はなくならないような気がしている。
弥生時代に部族間の抗争を繰り返し、やがて一定地域を支配する勢力が登場する。有名な邪馬台国もそのひとつ。弥生時代と邪馬台国が結びついていない人は意外と多いが。いずれにせよ野生動物に近かった旧石器時代から、1万3000年ほど続いた縄文時代を経て、弥生持代の1200年間に今につながる人間社会の基礎が作り出された。ただし日本民族は文字を持たなかったので自らが記した当時の記録はない。
ーーー続く
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484135.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484136.html
https://wassho.livedoor.blog/archives/53484137.html
どうして読みを記さなかったのだろうと思ったけれど、考えてみれば首都である東京だけではなく、国名の日本だってニホンとニッポンの2つの読み方がある。そして歴史的にはさらにいくつもあったとのお話が今回。
日本がいつから国名として日本を使い始めたのか正確なところはよくわかっていない。さらに言えば当時の「国の概念」も現在とは相当に違うはずで、そこまで話を含めると大変にややこしい歴史問題。
我々の直接の先祖であるホモサピエンスが、現在の南アフリカあたりで誕生したのが20万年前(ちなみに猿人と呼ばれる最初の人類が誕生したのは700万年前)。彼らは14万年間をアフリカ大陸で過ごし6万年前にヨーロッパ方面に向かう。さらに進んでユーラシア大陸を通り、あるいは東南アジアの海沿いを渡って日本列島にやってきたのが4万年前。現在は2000年代なので紀元前3万8000年。もちろんこれらの地理や年代は諸説ありで、新しい発掘があれば学説も変わる。
その紀元前3万8000年以降は日本において3つの時代区分がある。
紀元前3万8000年〜紀元前1万4000年までの2万4000年間:旧石器時代
紀元前1万4000年〜紀元前900年代までの1万3000年年間:縄文時代(新石器時代)
紀元前900年代〜紀元後250年あたりまでの1200年間:弥生時代
社会的な違いを見ると
旧石器時代:石を打ち砕いた打製石器を使用
非定住の狩猟採集社会
縄文時代(新石器時代):石を研磨加工した磨製石器、土器や弓矢の使用
後期には野生植物の移植など初期の農耕&定住化が始まる
弥生時代:金属の使用
稲作が盛んになる
※原始時代は旧石器時代+新石器時代の総称
野生動物にとって生きるとは=食べる、あるいは食べ物を探したり狩りをするである。旧石器時代は人類もそんな生活だったと思う。だから社会の最大単位は家族や血縁関係のある一族。野生動物の「群れ」みたいなもの。
時代が下って初期の農耕&定住化が始まるとと、徐々にその「群れ」の集合体である部族のようなものが形成される。そして農耕が本格すると食料が増え人口も増大する。またその食料は狩猟してきた動物と違い備蓄できるから貧富の差が生まれたり、支配する側される側の社会構造も生む。あまり言われないけれど農耕をするしないは動物と人間を分ける大きな違いだと思う。
こうやって野生動物に近い「群れ」から部族社会になると部族同士の抗争が始まる。受傷人骨と呼ばれる武器によって傷つき死亡したと思われる人骨の発掘は、弥生時代になって急激に増える。野生動物と同じような暮らしから、やや人間らしい社会になった途端に争いを始めたのが人類。人類がホモサピエンスの段階にある限り、未来永劫に戦争はなくならないような気がしている。
弥生時代に部族間の抗争を繰り返し、やがて一定地域を支配する勢力が登場する。有名な邪馬台国もそのひとつ。弥生時代と邪馬台国が結びついていない人は意外と多いが。いずれにせよ野生動物に近かった旧石器時代から、1万3000年ほど続いた縄文時代を経て、弥生持代の1200年間に今につながる人間社会の基礎が作り出された。ただし日本民族は文字を持たなかったので自らが記した当時の記録はない。
ーーー続く
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2025年09月09日
サルができるのにヒトはできないブルブル
イヌは身体が水に濡れるとこのように、
身体をブルブルッと震わせて水滴を振り払うのはご存じのはず。画像はhttps://levees-u.com/blog/9242/、動画はhttps://x.gd/PZwDA(短縮URL使用)から引用編集
大型犬の場合は1秒間に4.3回ブルブルして、4秒間で身体を濡らしている水分の70%を振り払えるとの研究報告もある。しかしイヌの胴体は背骨を中心として左右に30度しか動かせない(頭や首は別)。時計に例えると背骨を12時とすれば11時から1時と狭い範囲。それでも皮膚が大きくたわむらしく、それによって左右90度すなわち9時から3時までねじって、しかもたわんだ皮膚がムチのようにしなって遠心力を高める仕組みになっている。
イヌ以外でもクマ、シカ、ライオンなど
体毛があるたいていの哺乳類動物はこのブルブル動作ができる。
実はこのブルブルに子供の頃からとても憧れている(^^ゞ だって最終的にはタオルを使うとしても、こんな風に水を払い落とせれば気持ちよさそうじゃない。
でも残念ながら人間にはできない。
ずっと以前に調べたことがあって、まだネットもない時代でどうやって調べたのかよく思い出せないのだけれど、二足歩行の動物は四足歩行の動物とは筋肉の付き方・動かし方が違ってブルブルできないとの結論に達したように記憶している。もちろん体毛がなく道具も使える人間にブルブルを行う必然性もない。
しかし衝撃的な映像をテレビで見た。
番組の趣旨は動物にも種類あるいは群れによって、固有に引き継がれる文化と呼べるものがあるとの内容。最初に登場する動物はサルで、まず宮崎県幸島(こうじま)の芋を海水で洗って食べる事例。次に長野県地獄谷の温泉に入るサル。どちらも何となく知っていて、海の近くに住むサルは芋を海水で洗う、温泉のあるところに住んでいるサルはお湯につかると思っていたのだが、これは幸島と地獄谷のサルだけに見られる行動とのこと。
そして地獄谷の映像にびっくり。
温泉から上がったあとにブルブルしてる! 映像はNHK地球ドラマチック9月6日放送より引用編集
最初は「えーっ、サルはブルブルできるの!ナンデナンデ?」と驚いた。ただし冷静になって映像をよく見ると、大きくブルブルできているのは頭部だけで身体はほとんど動いていない。4秒で70%の水分を振り払うイヌとはずいぶんと差がありそうだ。やはりサルは基本は四足歩行とはいえ二足でも歩けて、イヌなどの四足歩行オンリーの動物とはやはり身体の作りが違う。
それなのに身体が濡れたときの本能としてブルブル動作が備わっているのに驚いた。人間も頭は振れるけれど、あんなに振ったらクラッとするのがわかっているから脳を守るためにそういう動きはしない。
番組制作者にしてみれば「食いついたのソコ?」と言われそうな、
ブルブル好きな視聴者の感想でした。
身体をブルブルッと震わせて水滴を振り払うのはご存じのはず。画像はhttps://levees-u.com/blog/9242/、動画はhttps://x.gd/PZwDA(短縮URL使用)から引用編集
大型犬の場合は1秒間に4.3回ブルブルして、4秒間で身体を濡らしている水分の70%を振り払えるとの研究報告もある。しかしイヌの胴体は背骨を中心として左右に30度しか動かせない(頭や首は別)。時計に例えると背骨を12時とすれば11時から1時と狭い範囲。それでも皮膚が大きくたわむらしく、それによって左右90度すなわち9時から3時までねじって、しかもたわんだ皮膚がムチのようにしなって遠心力を高める仕組みになっている。
イヌ以外でもクマ、シカ、ライオンなど
体毛があるたいていの哺乳類動物はこのブルブル動作ができる。
実はこのブルブルに子供の頃からとても憧れている(^^ゞ だって最終的にはタオルを使うとしても、こんな風に水を払い落とせれば気持ちよさそうじゃない。
でも残念ながら人間にはできない。
ずっと以前に調べたことがあって、まだネットもない時代でどうやって調べたのかよく思い出せないのだけれど、二足歩行の動物は四足歩行の動物とは筋肉の付き方・動かし方が違ってブルブルできないとの結論に達したように記憶している。もちろん体毛がなく道具も使える人間にブルブルを行う必然性もない。
しかし衝撃的な映像をテレビで見た。
番組の趣旨は動物にも種類あるいは群れによって、固有に引き継がれる文化と呼べるものがあるとの内容。最初に登場する動物はサルで、まず宮崎県幸島(こうじま)の芋を海水で洗って食べる事例。次に長野県地獄谷の温泉に入るサル。どちらも何となく知っていて、海の近くに住むサルは芋を海水で洗う、温泉のあるところに住んでいるサルはお湯につかると思っていたのだが、これは幸島と地獄谷のサルだけに見られる行動とのこと。
そして地獄谷の映像にびっくり。
温泉から上がったあとにブルブルしてる! 映像はNHK地球ドラマチック9月6日放送より引用編集
最初は「えーっ、サルはブルブルできるの!ナンデナンデ?」と驚いた。ただし冷静になって映像をよく見ると、大きくブルブルできているのは頭部だけで身体はほとんど動いていない。4秒で70%の水分を振り払うイヌとはずいぶんと差がありそうだ。やはりサルは基本は四足歩行とはいえ二足でも歩けて、イヌなどの四足歩行オンリーの動物とはやはり身体の作りが違う。
それなのに身体が濡れたときの本能としてブルブル動作が備わっているのに驚いた。人間も頭は振れるけれど、あんなに振ったらクラッとするのがわかっているから脳を守るためにそういう動きはしない。
番組制作者にしてみれば「食いついたのソコ?」と言われそうな、
ブルブル好きな視聴者の感想でした。
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2025年09月01日
北極熊が温暖化で塞翁が馬 その2
前回に書いたように北極熊は北極圏沿岸に生息し、秋〜冬〜春は凍って陸地のようになった海に出て、海氷の裂け目を利用してアザラシを捕食している。そして海氷が溶けてしまう夏の期間は基本的に絶食。そのような食いだめと絶食の生活パターンを繰り返して極寒の北極圏に適応してきた。
丸々と太った冬と、ゲッソリ痩せた夏。画像はhttps://x.gd/6E45Gvとhttps://x.gd/GtJEW(短縮URL使用))から引用編集
そこに近年の地球温暖化である。
春は早く海氷が溶け、秋はなかなか海氷ができない。
つまり絶食期間が長くなった。
それはイコール捕食期間が短くなったでもある。
海氷がない時期を持ちこたえられるほど食いだめができず、
飢え死にの可能性が高まる(/o\)
そしてとうとう2006年に国際自然保護連により北極熊は絶滅危惧種に指定される。特に大きなニュースにはならなかったものの、それから後に北極の氷が減って北極熊が飢えているというようなドキュメンタリー番組をいくつか見たように思う。
ガリガリになった北極熊や餓死した姿。画像はhttps://x.gd/pW6fJとhttps://x.gd/b5wTk(短縮URL使用))から引用編集
北極熊は夏向け商品のキャラクターによく使われ、日立のエアコンも「白くまくん」だし、動物園にもいて何となくポピュラーな存在。それが「え〜絶滅しちゃうの?」とびっくりしたのを覚えている。
しかし最近、夏に北極熊が丸々と太っているとのドキュメンタリーを見た。
その理由はシャチとイッカク。
鴨川シーワールドなどでジャンプする姿がおなじみのシャチ。画像はhttps://x.gd/FY6q0(短縮URL使用)から引用
水族館のプールでは愛嬌を振りまいているシャチではあるが、自分より何倍も大きなクジラを襲うし(集団で)、サメも逃げ出すほど凶暴なヤバイ奴で、海洋生物の食物連鎖の頂点に立つ。オスの体長は6〜8mで体重は6トンを超える。
ユニコーン(一角獣)は西欧社会における伝説上の生き物だけれど、イッカク(英語ではnarwhal:ナーワル)は北極海に生息するクジラの仲間。画像はhttps://x.gd/c0kxbとhttps://x.gd/DyccK(短縮URL使用)から引用
見てわかるように1本の長い角が生えた不思議な姿。これは歯が変形したもので、だから角ではなく牙。どうしてこのように進化したのか、これを使って何をしているのかはよくわかっていない。オスの体長は5.5mで体重は1.6トン。それにプラス2.5mの牙。
イッカクは北極熊と同じく北極圏にいる。海氷が張っている間はその下を泳ぎ、ときどき氷の裂け目から顔を出して息継ぎするときに北極熊に捕食され、海氷が溶ける夏になるとその難を逃れるのはアザラシと同じ。
だったのだけれどーーー
シャチは海氷が張っているうちは北極海の外にいて、それが溶けると進入してきてイッカクを捕食する。それは以前からの習性。しかし温暖化によって海氷に覆われている期間が短くなったので、餌場としての価値が高まってより多くのシャチがやってくるようになった。
シャチの狩りは獲物を追いかけ回して体力が尽きたところでとどめを刺すスタイル。だから夏の北極海ではイッカクが逃げ回っている。そして彼らは追いかけられるとなぜか沿岸の浅瀬へ逃げる習性がある。
そこで北極熊にチャンス到来!
シャチが捕食した残骸が漂着してそれを食べているのか、浅瀬に逃れて来たところを北極熊が直接襲っているのかはわかっていないようだが、とにかく以前は絶食期間だった夏にイッカクの肉にありつけるようになった。
夏なのにまるで冬のように丸々と太った北極熊!
最初に載せた夏の写真とは大違い。画像はhttps://x.gd/4BwC0(短縮URL使用))から引用編集
まとめると
温暖化により海が凍っている期間が減り、
狩りができない絶食期間が延びて飢餓のピンチ!
↓
しかし、その温暖化で凍っていない海にシャチが多くやって来るようになり、
イッカクを追い回して、そのおこぼれをゲット!
何が幸福となり何が不幸となるか、状況は変転して予想がつかない例えが中国故事の「塞翁が馬」。これはまさにその温暖化版・北極海編ともいえるストーリー。塞翁が馬に当てはめれば、この先どうなるかはわからないとはいえ、とりあえずお腹いっぱいになってよかったね白クマちゃん。
塞翁が馬(さいおうがうま)の解説は→ここをクリック
<補足>
シャチが追い回すことによって夏に北極熊がイッカクを食べられているのは、生息地域の一部だけで、北極熊が絶滅の危機にある状況は変わっていない。
温暖化による海氷の長期消滅以外に、海洋汚染の深刻化も北極熊の個体数減少に影響しているといわれている。
おしまい
丸々と太った冬と、ゲッソリ痩せた夏。画像はhttps://x.gd/6E45Gvとhttps://x.gd/GtJEW(短縮URL使用))から引用編集
そこに近年の地球温暖化である。
春は早く海氷が溶け、秋はなかなか海氷ができない。
つまり絶食期間が長くなった。
それはイコール捕食期間が短くなったでもある。
海氷がない時期を持ちこたえられるほど食いだめができず、
飢え死にの可能性が高まる(/o\)
そしてとうとう2006年に国際自然保護連により北極熊は絶滅危惧種に指定される。特に大きなニュースにはならなかったものの、それから後に北極の氷が減って北極熊が飢えているというようなドキュメンタリー番組をいくつか見たように思う。
ガリガリになった北極熊や餓死した姿。画像はhttps://x.gd/pW6fJとhttps://x.gd/b5wTk(短縮URL使用))から引用編集
北極熊は夏向け商品のキャラクターによく使われ、日立のエアコンも「白くまくん」だし、動物園にもいて何となくポピュラーな存在。それが「え〜絶滅しちゃうの?」とびっくりしたのを覚えている。
しかし最近、夏に北極熊が丸々と太っているとのドキュメンタリーを見た。
その理由はシャチとイッカク。
鴨川シーワールドなどでジャンプする姿がおなじみのシャチ。画像はhttps://x.gd/FY6q0(短縮URL使用)から引用
水族館のプールでは愛嬌を振りまいているシャチではあるが、自分より何倍も大きなクジラを襲うし(集団で)、サメも逃げ出すほど凶暴なヤバイ奴で、海洋生物の食物連鎖の頂点に立つ。オスの体長は6〜8mで体重は6トンを超える。
ユニコーン(一角獣)は西欧社会における伝説上の生き物だけれど、イッカク(英語ではnarwhal:ナーワル)は北極海に生息するクジラの仲間。画像はhttps://x.gd/c0kxbとhttps://x.gd/DyccK(短縮URL使用)から引用
見てわかるように1本の長い角が生えた不思議な姿。これは歯が変形したもので、だから角ではなく牙。どうしてこのように進化したのか、これを使って何をしているのかはよくわかっていない。オスの体長は5.5mで体重は1.6トン。それにプラス2.5mの牙。
イッカクは北極熊と同じく北極圏にいる。海氷が張っている間はその下を泳ぎ、ときどき氷の裂け目から顔を出して息継ぎするときに北極熊に捕食され、海氷が溶ける夏になるとその難を逃れるのはアザラシと同じ。
だったのだけれどーーー
シャチは海氷が張っているうちは北極海の外にいて、それが溶けると進入してきてイッカクを捕食する。それは以前からの習性。しかし温暖化によって海氷に覆われている期間が短くなったので、餌場としての価値が高まってより多くのシャチがやってくるようになった。
シャチの狩りは獲物を追いかけ回して体力が尽きたところでとどめを刺すスタイル。だから夏の北極海ではイッカクが逃げ回っている。そして彼らは追いかけられるとなぜか沿岸の浅瀬へ逃げる習性がある。
そこで北極熊にチャンス到来!
シャチが捕食した残骸が漂着してそれを食べているのか、浅瀬に逃れて来たところを北極熊が直接襲っているのかはわかっていないようだが、とにかく以前は絶食期間だった夏にイッカクの肉にありつけるようになった。
夏なのにまるで冬のように丸々と太った北極熊!
最初に載せた夏の写真とは大違い。画像はhttps://x.gd/4BwC0(短縮URL使用))から引用編集
まとめると
温暖化により海が凍っている期間が減り、
狩りができない絶食期間が延びて飢餓のピンチ!
↓
しかし、その温暖化で凍っていない海にシャチが多くやって来るようになり、
イッカクを追い回して、そのおこぼれをゲット!
何が幸福となり何が不幸となるか、状況は変転して予想がつかない例えが中国故事の「塞翁が馬」。これはまさにその温暖化版・北極海編ともいえるストーリー。塞翁が馬に当てはめれば、この先どうなるかはわからないとはいえ、とりあえずお腹いっぱいになってよかったね白クマちゃん。
塞翁が馬(さいおうがうま)の解説は→ここをクリック
<補足>
シャチが追い回すことによって夏に北極熊がイッカクを食べられているのは、生息地域の一部だけで、北極熊が絶滅の危機にある状況は変わっていない。
温暖化による海氷の長期消滅以外に、海洋汚染の深刻化も北極熊の個体数減少に影響しているといわれている。
おしまい
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2025年08月30日
北極熊が温暖化で塞翁が馬
このブログをスマホではなくパソコンで閲覧するとページの左上に北極熊がちょこんと座っていて、歩いてきた足跡がブログタイトルのあたりに点々とついている。これはライブドアが用意したテンプレートでファイル名は white_bear。最初は旅客機を大きくあしらったレイアウト、次がコンクリートの打ちっぱなしの壁で、この北極熊が3代目のデザインだと記憶している。もっともデザインをチョコチョコ変更したのはブログの開設当初だけで、おそらく20年以上はこの北極熊が「晴れ時々マーケティング」のシンボルになってくれている。たぶん選んだのは冬で北極熊は冬らしくていいと思い、夏になったらこれまた涼しそうでよかったのでそのままにしたように思う(^^ゞ
これがパソコンでの画面。
今まで気にしていなかったが子供の北極熊だね。
旅客機やコンクリート壁がどんなデザインだったか確認したくなり、ブログ設定のページを開いてみたら、それらはもう用意されていなかったし、この white_bear もなかった。新しく設定はできなくても、古い設定はそのまま有効なようだ。久々にデザイン変更しようかとも考えたものの、特に気に入ったテンプレートがなかったのでそのまま継続。なお用意されているテンプレートがずいぶんと少なくなっていた。現在158種類あるけれど、単なる色違いやカラム数違いを差し引くと100種類ほどしかない。昔は数百のレベルで用意されていたと思う。まあブログはオワコンというかオワメディアだし仕方ないか(/o\)
さて北極熊、別名は白熊。山にいる熊と較べると色が違うのはもちろんのこと、顔が小さくていわゆる「シュッと」している。
日本の熊と大きさを較べると(数値はオスの成獣)
北極熊:体長2〜2.5m 体重400〜600kg
ヒグマ:体長2〜2.8m 体重250〜500kg
ツキノワグマ:体長1.2〜1.8m 体重50〜120kg
大きさはヒグマと互角でも体重は北極熊がかなり重い。これはおそらく生息地の寒さによる貯め込んだ皮下脂肪の厚さの違い。それとツキノワグマは意外と小さいと初めて知った。
日本の場合、ヒグマは北海道に、ツキノワグマは本州と四国に生息している。そして実は九州に熊本県があって、くまモンがいてもクマは存在しない。かつてはツキノワグマが生息していたが1957年(昭和32年)に絶滅した。それに元々地名は「隈本」であってクマとも関係がない。
左からヒグマ、ツキノワグマ、くまモン。ツキノワグマの模様は「月の輪」ではなくせいぜい三日月。V字型模様の場合もある。英語ではシンプルに Moon bear。ヒグマは Brown bear で北極熊は Polar bear。
Polar:ポーラは「極の、極地の」などの意味を持つ形容詞。ポーラスター(北極星)が有名だけれど南極にも使う。化粧品のポーラは「美の極み」と解釈して読みやすいようにPOLAの文字を当てた造語。
北極熊に話を戻すと、
彼らが生息しているのは北極圏周辺にある海沿いエリアの陸地。
それで北極圏とはどこかというと、まず地図上では北緯66度33分のラインが北極線と呼ばれ、それより北が北極圏。同様に南緯66度33分が南極線で、それより南が南極圏。ちなみに日本の北緯度は沖縄:26度12分、東京:35度41分、札幌:43度3分。ついでにロンドン51度30分、モスクワ:55度45分。
赤いラインが北緯66度33分の北極線。
冬至のときに太陽高度がゼロとなるのがこの緯度(説明は省略)。
北極点を見下ろした地図。
ピンクでなぞっているのが北極線。
北極線より内側の北極圏はカナダ、デンマーク(グリーンランド等がデンマークの自治領)、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシア、アメリカ(アラスカ州)の8カ国にまたがる。
また北極圏には様々な定義があり「最も暖かい月の平均気温が10℃を越えない」との条件もそのひとつ。蛇行した細い赤線がそのエリア。
そしてこれが北極熊の生息エリア。
北極圏8カ国のうちの4カ国。
ちょっと地図がわかりづらいが丸い破線が北極線。先ほど書いたように北極圏周辺にある海沿いエリアがメイン。カナダ北側には北極線からかなり外れていても生息している。ただしそこは「最も暖かい月の平均気温が10℃を越えない」との定義ではほぼ北極圏と重なる。画像はhttps://x.gd/EoVhx(短縮URL使用)から引用
当然ながら極寒の地。
こんなところで北極熊はどんな生活をしているのかーーー
極点付近は真夏でも海が凍っている。
秋になるとそれ以外の海域も凍りだし、それが冬〜次の春まで続く。
これらは海氷と呼ばれ厚さは1〜3メートル。
夏以外の北極圏は氷の大地で覆われているような状態。
北極熊はこの海氷に繰り出し、ところどころにできた氷の裂け目でアザラシを待ち構え、息継ぎで顔を出したり、休息のために上がってくるところを捕食する。また海氷には雪が積もり、アザラシはその雪の中にカマクラのような巣を作って子育てをする。北極熊はその巣を襲って子供アザラシも食べる。
氷の海を泳ぐアザラシは脂肪たっぷり。その高カロリーなアザラシを食べて北極熊もたっぷりと皮下脂肪を蓄え、北極圏の極寒気候に適応して生きてきた。
ただし問題は海氷が溶けてなくなってしまう夏。北極熊は泳ぎが得意で山のクマと較べて小さな頭部も泳ぐために進化した結果とされているとはいえ、水中専門のアザラシを泳いで捕まえるまではできない。
それでどうするかといえば何と「我慢」。魚や苔・海藻などの植物(北極に実のなるような植物はない)、海岸に漂着したクジラやイルカの死骸も食べるようだが基本的には絶食状態が続く。よく知られているように山にいるクマは冬眠する。北極熊は夏眠こそしないが体力温存のために活動量も減るらしい。
北極点周辺は真夏でも海氷が溶けないのだから、夏はそちらで暮らせば良さそうなものの、出産子育てとか何か移動できない事情があるのかも知れない。
丸々と太った冬と、ゲッソリ痩せた夏。画像はhttps://x.gd/6E45Gvとhttps://x.gd/GtJEW(短縮URL使用))から引用編集
こうして食いだめと絶食の生活パターンを繰り返してきた北極熊であるが、
その暮らしに変化の波が押し寄せている。
ーーー続く
これがパソコンでの画面。
今まで気にしていなかったが子供の北極熊だね。
旅客機やコンクリート壁がどんなデザインだったか確認したくなり、ブログ設定のページを開いてみたら、それらはもう用意されていなかったし、この white_bear もなかった。新しく設定はできなくても、古い設定はそのまま有効なようだ。久々にデザイン変更しようかとも考えたものの、特に気に入ったテンプレートがなかったのでそのまま継続。なお用意されているテンプレートがずいぶんと少なくなっていた。現在158種類あるけれど、単なる色違いやカラム数違いを差し引くと100種類ほどしかない。昔は数百のレベルで用意されていたと思う。まあブログはオワコンというかオワメディアだし仕方ないか(/o\)
さて北極熊、別名は白熊。山にいる熊と較べると色が違うのはもちろんのこと、顔が小さくていわゆる「シュッと」している。
日本の熊と大きさを較べると(数値はオスの成獣)
北極熊:体長2〜2.5m 体重400〜600kg
ヒグマ:体長2〜2.8m 体重250〜500kg
ツキノワグマ:体長1.2〜1.8m 体重50〜120kg
大きさはヒグマと互角でも体重は北極熊がかなり重い。これはおそらく生息地の寒さによる貯め込んだ皮下脂肪の厚さの違い。それとツキノワグマは意外と小さいと初めて知った。
日本の場合、ヒグマは北海道に、ツキノワグマは本州と四国に生息している。そして実は九州に熊本県があって、くまモンがいてもクマは存在しない。かつてはツキノワグマが生息していたが1957年(昭和32年)に絶滅した。それに元々地名は「隈本」であってクマとも関係がない。
左からヒグマ、ツキノワグマ、くまモン。ツキノワグマの模様は「月の輪」ではなくせいぜい三日月。V字型模様の場合もある。英語ではシンプルに Moon bear。ヒグマは Brown bear で北極熊は Polar bear。
Polar:ポーラは「極の、極地の」などの意味を持つ形容詞。ポーラスター(北極星)が有名だけれど南極にも使う。化粧品のポーラは「美の極み」と解釈して読みやすいようにPOLAの文字を当てた造語。
北極熊に話を戻すと、
彼らが生息しているのは北極圏周辺にある海沿いエリアの陸地。
それで北極圏とはどこかというと、まず地図上では北緯66度33分のラインが北極線と呼ばれ、それより北が北極圏。同様に南緯66度33分が南極線で、それより南が南極圏。ちなみに日本の北緯度は沖縄:26度12分、東京:35度41分、札幌:43度3分。ついでにロンドン51度30分、モスクワ:55度45分。
赤いラインが北緯66度33分の北極線。
冬至のときに太陽高度がゼロとなるのがこの緯度(説明は省略)。
北極点を見下ろした地図。
ピンクでなぞっているのが北極線。
北極線より内側の北極圏はカナダ、デンマーク(グリーンランド等がデンマークの自治領)、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシア、アメリカ(アラスカ州)の8カ国にまたがる。
また北極圏には様々な定義があり「最も暖かい月の平均気温が10℃を越えない」との条件もそのひとつ。蛇行した細い赤線がそのエリア。
そしてこれが北極熊の生息エリア。
北極圏8カ国のうちの4カ国。
ちょっと地図がわかりづらいが丸い破線が北極線。先ほど書いたように北極圏周辺にある海沿いエリアがメイン。カナダ北側には北極線からかなり外れていても生息している。ただしそこは「最も暖かい月の平均気温が10℃を越えない」との定義ではほぼ北極圏と重なる。画像はhttps://x.gd/EoVhx(短縮URL使用)から引用
当然ながら極寒の地。
こんなところで北極熊はどんな生活をしているのかーーー
極点付近は真夏でも海が凍っている。
秋になるとそれ以外の海域も凍りだし、それが冬〜次の春まで続く。
これらは海氷と呼ばれ厚さは1〜3メートル。
夏以外の北極圏は氷の大地で覆われているような状態。
北極熊はこの海氷に繰り出し、ところどころにできた氷の裂け目でアザラシを待ち構え、息継ぎで顔を出したり、休息のために上がってくるところを捕食する。また海氷には雪が積もり、アザラシはその雪の中にカマクラのような巣を作って子育てをする。北極熊はその巣を襲って子供アザラシも食べる。
氷の海を泳ぐアザラシは脂肪たっぷり。その高カロリーなアザラシを食べて北極熊もたっぷりと皮下脂肪を蓄え、北極圏の極寒気候に適応して生きてきた。
ただし問題は海氷が溶けてなくなってしまう夏。北極熊は泳ぎが得意で山のクマと較べて小さな頭部も泳ぐために進化した結果とされているとはいえ、水中専門のアザラシを泳いで捕まえるまではできない。
それでどうするかといえば何と「我慢」。魚や苔・海藻などの植物(北極に実のなるような植物はない)、海岸に漂着したクジラやイルカの死骸も食べるようだが基本的には絶食状態が続く。よく知られているように山にいるクマは冬眠する。北極熊は夏眠こそしないが体力温存のために活動量も減るらしい。
北極点周辺は真夏でも海氷が溶けないのだから、夏はそちらで暮らせば良さそうなものの、出産子育てとか何か移動できない事情があるのかも知れない。
丸々と太った冬と、ゲッソリ痩せた夏。画像はhttps://x.gd/6E45Gvとhttps://x.gd/GtJEW(短縮URL使用))から引用編集
こうして食いだめと絶食の生活パターンを繰り返してきた北極熊であるが、
その暮らしに変化の波が押し寄せている。
ーーー続く
wassho at 11:38|Permalink│Comments(0)│
2025年07月30日
烏帽子のあれこれ 番外編その4
ひょっとしたら縄文や弥生の時代から、少なくとも古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、日本の男性はミズラやモトドリを束ねるために今の女性のロングヘア程度に髪が長かった。男性は短髪、女性は長髪なんて概念ができたのはたかだか直近150年ほどの歴史に過ぎない。
ーーーというのが番外編の趣旨。
ついでに、それではどうして男性の髪が長かったのかを想像するのが今回。
ほとんど意識することはないものの、
髪の毛が生えている動物は人だけである。
眉毛、ひげ、脇毛、陰毛などもそう。
子供の頃に習った最古の人類はアウストラロピテクス。舌を噛みそうなくらいに長くてややこしい名前なのに、今でもスラッとその名前を口にできるのが不思議。でも2001年に発見されたサヘラントロプス・チャデンシスが現在は最古の人類となっている。
これが頭蓋骨の化石からの復元図。
ほとんどサルやね(^^ゞ
彼らがいたのは700万年前で猿人と分類される。人類は猿人(700万年前〜120万年前)→原人(240万年前〜11万年前)→旧人(40万年前〜4万年前)→新人(20万年前〜現在)と進化してきた。ちなみに霊長類の始まりは6500万年前で、恐竜がいたのは2億3000万年前〜6600万年前の期間。
新人とはホモ・サピエンス=現在の人類を指す。その誕生よりはるか昔のおよそ200万年前、原人に属するホモ・エレクトスあたりから体毛が大幅に減少して髪の毛などに変わったといわれている。
ところで、このホモ・エレクトス。これも子供の頃はピテカントロプス・エレクトスと習った原人。この名前も口が覚えていた。それにしても鎌倉幕府の始まりがいつの間にかイイクニツクロウの1192年ではなく1185年になっているように、昔の知識のアップデートが必要だね。
その体毛の代わりに発達した髪の毛やひげ。
体毛と違ってなぜかやたら伸びる。
ギネスブックでの最高記録は髪の毛が236.22 cm!(2023年)、ひげは5.5m!(2014年)でもひげは2本合わせた長さのような?画像はhttps://x.gd/6D7mSとhttps://www.afpbb.com/articles/-/3027155から引用(前者は短縮URL使用)
動物の体毛は一定の長さまでしか伸びないし人間の脇毛や陰毛も同じ。髪の毛やひげだけが限度なく長く伸びるのに何か意味はあるのか。でも意味=(ギネス級の長さに)実用性があるとは思えないので人体設計のバグのようにも思える。そのあたりは興味深いところ。
さて体毛がなくなって髪の毛が生えてきた原始人。栄養状態が違うからギネス記録のようにはならないとしても、それなりには長く伸びたはず。でも髪の毛を切らなかったと考えている。
石器時代の始まりは200万年前で髪の毛が生えてきた時代と重なる。でも石器でヘアカットは難しい。石器時代とはネーミングがおかしくて実際には木器時代だった説もあって、それならなおさら。伸びてくれば邪魔なので、たぶん木のツルかなんかで束ねていわゆるポニーテールにしていたんじゃないかな。ひげも剃る道具がなくて伸ばしっぱなしだったのだろうか?
石器時代は打製石器を使っていた旧石器時代から、磨製石器を使うようになった新石器時代 へ進化する。新石器時代の始まりは1万年前と700万年前に生まれた人類の歴史では、つい最近の出来事。その頃なら石のナイフのようなものがあって髪の毛も切れたかも知れない。でもショートカットは無理だろうね。
そして1万年前から始まった新石器時代は5000年前に青銅器時代に移り、さらに3200年前に鉄器時代へと文明進化のピッチが上がる。
日本列島の状況を見ると
4万年前に旧石器時代のホモ・サピエンスがやって来る
↓
1万6000年前に縄文時代へ
1万年以上続き旧石器時代後の中石器時代から新石器時代をカバー
↓
3000年ほど前に弥生時代が始まり
青銅器や鉄器も大陸から伝わる
↓
日本では弥生時代までが原始時代で、
1800年ほど前に古墳時代に移行
古墳時代の髪型はミズラであったとされる。「卑弥呼さま〜っ」のギャグに持って行かれた感はあるが、それ以前にミズラの代表的イメージといえば、因幡の白ウサギを助けた大国主命(おおくにぬし の みこと)。
もちろん彼は神話の世界の人物なので時代は関係ないとしても、古墳から出土した埴輪にもミズラは多く見られる。
なお神話が書かれた古事記は奈良時代初期の編纂。神話はずっと昔から存在しただろうが古事記が現存する日本で最古の書物。
ミズラが絵として残っている最も古い資料は「聖徳太子二王子像」。ただし描かれたのは聖徳太子の死後100年も経った奈良時代の722年〜739年頃らしく(聖徳太子は574〜622年で飛鳥時代)、服装も含めてすべてが想像での創作。
ミズラを結っているのは向かって左が聖徳太子の弟、右が息子との説が有力。なぜミズラがダブルループになっているのかはわからなかった。参考までにこの肖像画は如来(にょらい:仏の最高位)を中央に、菩薩(ぼさつ:如来より下のランク)をその両脇に配する仏教形式を模している。実際に弟や息子の身長が聖徳太子と較べてこれだけの差があったわけではない。
もう少し写実的なミズラのイラストも。
女性っぽく見えるがこれは少年らしい。なおミズラは男性の髪型なので卑弥呼はこのスタイルではなかったはず。彼女に仕えていた男性はミズラだっただろうが。
さてこのミズラ。
古墳時代の髪型とされ、次の飛鳥時代の603年に聖徳太子が冠位十二階を定め冠を被るようになったので、それに併せて髪を頭の上でひとつ束ねたモトドリに変化したと説明する資料が多い。
でもそうかな?
古墳時代にミズラを結っていたのはごく一部の支配階級だけの気がする。そう思う理由はこれがオーバーデコラティブで儀式っぽいヘアスタイルなのがひとつ。それとこの時代は支配階級を除けばほぼ全員が農民。顔の横でミズラがブラブラしていたら農作業の邪魔やろ?
それでは庶民の髪型は?
やはり伸ばしっぱなしを縛ったポニーテールか、クルクルと巻いて木の枝のかんざしでお団子にしていたのではないか。長い髪の毛をまとめたいときに、このふたつの方法で対処するのが最もシンプルで自然だと思う。そのお団子バージョンが、後にモトドリに変化したというのが私のモーソー的仮説。
冒頭に書いた「どうして男性の髪が長かったのか」をまとめると、ミズラやモトドリを結うためにロングヘアにしたのではなく、ロングヘアだったから邪魔にならないようにミズラやモトドリを結う工夫をした。
そしてロングヘアだったのは、人類に髪の毛が生えだした200万年前には髪を切るすべがなかったとの当然すぎる理由。1万年前の新石器時代には石のナイフなどで切れたとしても、199万年間も切らずにいたのだから髪の毛を切って短くしようとの発想は生まれなかった。また短くする理由も見当たらないので、その習慣は金属の刃物が登場した弥生時代や古墳時代になっても続いたはず。
ところでカミソリは仏教を伝えた朝鮮半島の僧によって日本に初めてもたらされたとされる。一般に仏教伝来は538年。一方でハサミに関しては「6世紀頃」と記してある資料ばかりではっきりとした時期は不明。でもカミソリと同じルート・時期だったと思う。とりあえず四捨五入して550年頃としよう。そして新し道具があれば使いたくなるのが人間。
冠位十二階は603年の制定でハサミ伝来の50年後。支配階級にはハサミは普及して、伸ばしっぱなしの髪の長さでは、ミズラやモトドリが大きくなりすぎるから、多少は切り揃えたロングヘアに整えたかも知れない。それでもショートカットにしようとは思わなかったのは先ほど書いた理由と同じ。
ついでに付け加えると、古墳時代(飛鳥時代は592年〜)に伝来したのはU字型の現在は和ばさみと呼ばれているタイプ。X字型の洋ばさみの伝来は奈良時代(710〜794年)になってから。しかし室町時代以降に植木ばさみとして独自の発展を遂げたものの、一般的にはまったく普及せず明治になるまで日本のハサミはU字型が主流。また現在もU字型が使われているのは世界で日本だけらしい。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
歴史あるいは考古学的に確定できるミズラやモトドリを結って男性が長髪だった期間は、古墳時代の始まりを250年として、明治政府が断髪令を出した1871年までで1871−250=1621年。そこから今年までは154年。比率を計算するなら1621÷154=10.5倍。
圧倒的に長髪の時代のほうが長いのだけれど、よく考えたらそれは200万年前から続いていると推測するのが妥当で、もう割り算する必要もないくらい男性にとって長髪が基本形。それもビートルズが短髪に思えるくらいの超ロングヘア。逆にどうして近代になって(全世界的に)男性の髪が短くなったのかそちらの方が不思議なくらい。
いずれ調べましょう。
おしまい
ーーーというのが番外編の趣旨。
ついでに、それではどうして男性の髪が長かったのかを想像するのが今回。
ほとんど意識することはないものの、
髪の毛が生えている動物は人だけである。
眉毛、ひげ、脇毛、陰毛などもそう。
子供の頃に習った最古の人類はアウストラロピテクス。舌を噛みそうなくらいに長くてややこしい名前なのに、今でもスラッとその名前を口にできるのが不思議。でも2001年に発見されたサヘラントロプス・チャデンシスが現在は最古の人類となっている。
これが頭蓋骨の化石からの復元図。
ほとんどサルやね(^^ゞ
彼らがいたのは700万年前で猿人と分類される。人類は猿人(700万年前〜120万年前)→原人(240万年前〜11万年前)→旧人(40万年前〜4万年前)→新人(20万年前〜現在)と進化してきた。ちなみに霊長類の始まりは6500万年前で、恐竜がいたのは2億3000万年前〜6600万年前の期間。
新人とはホモ・サピエンス=現在の人類を指す。その誕生よりはるか昔のおよそ200万年前、原人に属するホモ・エレクトスあたりから体毛が大幅に減少して髪の毛などに変わったといわれている。
ところで、このホモ・エレクトス。これも子供の頃はピテカントロプス・エレクトスと習った原人。この名前も口が覚えていた。それにしても鎌倉幕府の始まりがいつの間にかイイクニツクロウの1192年ではなく1185年になっているように、昔の知識のアップデートが必要だね。
その体毛の代わりに発達した髪の毛やひげ。
体毛と違ってなぜかやたら伸びる。
ギネスブックでの最高記録は髪の毛が236.22 cm!(2023年)、ひげは5.5m!(2014年)でもひげは2本合わせた長さのような?画像はhttps://x.gd/6D7mSとhttps://www.afpbb.com/articles/-/3027155から引用(前者は短縮URL使用)
動物の体毛は一定の長さまでしか伸びないし人間の脇毛や陰毛も同じ。髪の毛やひげだけが限度なく長く伸びるのに何か意味はあるのか。でも意味=(ギネス級の長さに)実用性があるとは思えないので人体設計のバグのようにも思える。そのあたりは興味深いところ。
さて体毛がなくなって髪の毛が生えてきた原始人。栄養状態が違うからギネス記録のようにはならないとしても、それなりには長く伸びたはず。でも髪の毛を切らなかったと考えている。
石器時代の始まりは200万年前で髪の毛が生えてきた時代と重なる。でも石器でヘアカットは難しい。石器時代とはネーミングがおかしくて実際には木器時代だった説もあって、それならなおさら。伸びてくれば邪魔なので、たぶん木のツルかなんかで束ねていわゆるポニーテールにしていたんじゃないかな。ひげも剃る道具がなくて伸ばしっぱなしだったのだろうか?
石器時代は打製石器を使っていた旧石器時代から、磨製石器を使うようになった新石器時代 へ進化する。新石器時代の始まりは1万年前と700万年前に生まれた人類の歴史では、つい最近の出来事。その頃なら石のナイフのようなものがあって髪の毛も切れたかも知れない。でもショートカットは無理だろうね。
そして1万年前から始まった新石器時代は5000年前に青銅器時代に移り、さらに3200年前に鉄器時代へと文明進化のピッチが上がる。
日本列島の状況を見ると
4万年前に旧石器時代のホモ・サピエンスがやって来る
↓
1万6000年前に縄文時代へ
1万年以上続き旧石器時代後の中石器時代から新石器時代をカバー
↓
3000年ほど前に弥生時代が始まり
青銅器や鉄器も大陸から伝わる
↓
日本では弥生時代までが原始時代で、
1800年ほど前に古墳時代に移行
古墳時代の髪型はミズラであったとされる。「卑弥呼さま〜っ」のギャグに持って行かれた感はあるが、それ以前にミズラの代表的イメージといえば、因幡の白ウサギを助けた大国主命(おおくにぬし の みこと)。
もちろん彼は神話の世界の人物なので時代は関係ないとしても、古墳から出土した埴輪にもミズラは多く見られる。
なお神話が書かれた古事記は奈良時代初期の編纂。神話はずっと昔から存在しただろうが古事記が現存する日本で最古の書物。
ミズラが絵として残っている最も古い資料は「聖徳太子二王子像」。ただし描かれたのは聖徳太子の死後100年も経った奈良時代の722年〜739年頃らしく(聖徳太子は574〜622年で飛鳥時代)、服装も含めてすべてが想像での創作。
ミズラを結っているのは向かって左が聖徳太子の弟、右が息子との説が有力。なぜミズラがダブルループになっているのかはわからなかった。参考までにこの肖像画は如来(にょらい:仏の最高位)を中央に、菩薩(ぼさつ:如来より下のランク)をその両脇に配する仏教形式を模している。実際に弟や息子の身長が聖徳太子と較べてこれだけの差があったわけではない。
もう少し写実的なミズラのイラストも。
女性っぽく見えるがこれは少年らしい。なおミズラは男性の髪型なので卑弥呼はこのスタイルではなかったはず。彼女に仕えていた男性はミズラだっただろうが。
さてこのミズラ。
古墳時代の髪型とされ、次の飛鳥時代の603年に聖徳太子が冠位十二階を定め冠を被るようになったので、それに併せて髪を頭の上でひとつ束ねたモトドリに変化したと説明する資料が多い。
でもそうかな?
古墳時代にミズラを結っていたのはごく一部の支配階級だけの気がする。そう思う理由はこれがオーバーデコラティブで儀式っぽいヘアスタイルなのがひとつ。それとこの時代は支配階級を除けばほぼ全員が農民。顔の横でミズラがブラブラしていたら農作業の邪魔やろ?
それでは庶民の髪型は?
やはり伸ばしっぱなしを縛ったポニーテールか、クルクルと巻いて木の枝のかんざしでお団子にしていたのではないか。長い髪の毛をまとめたいときに、このふたつの方法で対処するのが最もシンプルで自然だと思う。そのお団子バージョンが、後にモトドリに変化したというのが私のモーソー的仮説。
冒頭に書いた「どうして男性の髪が長かったのか」をまとめると、ミズラやモトドリを結うためにロングヘアにしたのではなく、ロングヘアだったから邪魔にならないようにミズラやモトドリを結う工夫をした。
そしてロングヘアだったのは、人類に髪の毛が生えだした200万年前には髪を切るすべがなかったとの当然すぎる理由。1万年前の新石器時代には石のナイフなどで切れたとしても、199万年間も切らずにいたのだから髪の毛を切って短くしようとの発想は生まれなかった。また短くする理由も見当たらないので、その習慣は金属の刃物が登場した弥生時代や古墳時代になっても続いたはず。
ところでカミソリは仏教を伝えた朝鮮半島の僧によって日本に初めてもたらされたとされる。一般に仏教伝来は538年。一方でハサミに関しては「6世紀頃」と記してある資料ばかりではっきりとした時期は不明。でもカミソリと同じルート・時期だったと思う。とりあえず四捨五入して550年頃としよう。そして新し道具があれば使いたくなるのが人間。
冠位十二階は603年の制定でハサミ伝来の50年後。支配階級にはハサミは普及して、伸ばしっぱなしの髪の長さでは、ミズラやモトドリが大きくなりすぎるから、多少は切り揃えたロングヘアに整えたかも知れない。それでもショートカットにしようとは思わなかったのは先ほど書いた理由と同じ。
ついでに付け加えると、古墳時代(飛鳥時代は592年〜)に伝来したのはU字型の現在は和ばさみと呼ばれているタイプ。X字型の洋ばさみの伝来は奈良時代(710〜794年)になってから。しかし室町時代以降に植木ばさみとして独自の発展を遂げたものの、一般的にはまったく普及せず明治になるまで日本のハサミはU字型が主流。また現在もU字型が使われているのは世界で日本だけらしい。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
歴史あるいは考古学的に確定できるミズラやモトドリを結って男性が長髪だった期間は、古墳時代の始まりを250年として、明治政府が断髪令を出した1871年までで1871−250=1621年。そこから今年までは154年。比率を計算するなら1621÷154=10.5倍。
圧倒的に長髪の時代のほうが長いのだけれど、よく考えたらそれは200万年前から続いていると推測するのが妥当で、もう割り算する必要もないくらい男性にとって長髪が基本形。それもビートルズが短髪に思えるくらいの超ロングヘア。逆にどうして近代になって(全世界的に)男性の髪が短くなったのかそちらの方が不思議なくらい。
いずれ調べましょう。
おしまい
wassho at 22:45|Permalink│Comments(0)│
2025年07月27日
烏帽子のあれこれ 番外編その3
もう「烏帽子のあれこれ」は番外編を含めてこれで9回目なので(^^ゞ
結論を急ぎましょう。
発端は昔の肖像画でよく見る、
どう見ても被っている帽子の位置がおかしいとの疑問。
彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)で、古来より正装用の冠(かんむり)と普段着用の烏帽子の2種類を日本男性は使い分けてきた。
これは↑どちらも平安後期の強装束(こわしょうぞく)スタイルで、烏帽子はその後に形が変化していく。最初の肖像画に描かれていたのは折烏帽子や侍烏帽子。冠は現在もほぼ同じ形。
冠に筒のようなパーツがあるのは、モトドリと呼ばれる束ねた髪の毛を納めるためのスペース。烏帽子にも膨らみや厚みがあるのも同じ理由。
そして肖像画で烏帽子の被る位置がおかしく見えるのは、折り曲げたモトドリを覆うように烏帽子が後ろに伸びているためであり、
それを正面からあまり角度を付けないで描くとおかしな被り方に見える。
ここまでが本編の超サマリー。
言い換えれば髪の毛を束ねたモトドリがあってこそ冠や烏帽子の形が生まれた。古来よりの服飾史を冠や烏帽子の存在を抜きにして語れないとすれば、ヘアスタイルのモトドリも同様。それが番外編につながる。
写真はポーラ文化研究所によるヘアスタイルの変遷。画像はhttps://x.gd/MtWadzから引用(短縮URL使用)
左はおそらく古墳時代からあった両サイドで髪の毛を束ねた美豆良(ミズラ)と呼ばれる形。聖徳太子が冠位十二階を定めて冠で身分を表す=常に冠を着用するようになったのが603年で、冠に納まるように束ねた髪を頭の上で団子状にしたのが写真中央。右は平安時代で団子状から直線的な形になっている。この部分がモトドリ。
戦(いくさ)で鉄製の兜(かぶと)を使うようになると、暑さや蒸れ対策で頭頂部を剃り落とし始める(写真右)。そこから発展して時代劇などでよく見るチョンマゲに。
現在もモトドリのある髪型をしているのは相撲の力士。これは「烏帽子のあれこれ その2」でも紹介した髪型を整えてもらっている力士と、モトドリがほどけた若き日の貴乃花。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344とNHKの放送100年スポーツ名場面より引用
力士が結う大銀杏(おおいちょう)は襟足を膨らませた形だから、普通にモトドリを束ねるよりは髪の長さが必要かも知れないが、それでもけっこうロングヘアでないとモトドリは作れない。
さて前回に書いた、こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきとはーーー
何となく「男性の髪は短い、女性のは長い」という固定観念がある。もちろん男女ともに人によるとはいえ、たとえばこんな後ろ姿を見かけたら女性だと思うはず。
さらに中高年以上なら昔の男性は一律に短髪で、髪を伸ばし始めたのは1960年代後半に活躍したビートルズの影響だとも知っている。
しかし、それはきわめて短期間の歴史だけによって形成された思い込み。
ミズラを両サイドにぶら下げていた古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、男性の髪の毛は ミズラやモトドリを束ねるために今の女性ならかなりのロングヘアに相当するほどに長かったのだ。古墳時代の前は弥生・縄文時代なので、この地に国らしき形ができて以来男性はずっとロングヘアだったともいえる。そんな風に考えたことあった?(おそらく弥生・縄文、その前の旧石器時代も長かっただろう)
昔の日本人男性の髪型といってまず思い浮かべるのは江戸時代のチョンマゲのはず。よく見れば実に変なヘアスタイルではあるけれど、時代劇などで見慣れていて特に疑問を持たないし、あれをどうやって結っているかを想像したりもしない。それに頭頂部は剃っているし、全体的には髪をなでつけて固めているのでロングヘアのイメージもない。
さらに何度も書いたように室町中期=戦国時代の始まりあたりまで、冠あるいは烏帽子を脱いでモトドリを他人に見せるのは恥ずかしいとの文化があった。だからそれ以前の髪型が描かれた絵などはきわめて少なく目にする機会がない。それが結果的に昔の日本人男性の髪型=チョンマゲ=長髪ではないとのイメージを生んでいるようにも思う。
それでチョットお遊び。
これは「烏帽子のあれこれ その4」で紹介した石山寺縁起絵巻。
庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。
僧侶以外は、烏帽子や冠を取るとモトドリを束ねた髪型をしていて、
そのモトドリをほどくと皆ロングヘア!
AIがチョット髪を長く描きすぎているけれど、まっそういうこと。
「古来より明治維新までずっと男性はロングヘアであった」。それを知ったとして歴史が変わるわけでもないが、そんなことはまったく考えてもみなかったので、それが何となく思考のツボにはまって面白かったしだい。
ところでどうして長かったのか、モトドリを束ねていたのか?
それを解説している資料は見当たらなかったが想像するとーーー
ーーー結論を書いたのにまだ続いてしまう
結論を急ぎましょう。
発端は昔の肖像画でよく見る、
どう見ても被っている帽子の位置がおかしいとの疑問。
彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)で、古来より正装用の冠(かんむり)と普段着用の烏帽子の2種類を日本男性は使い分けてきた。
これは↑どちらも平安後期の強装束(こわしょうぞく)スタイルで、烏帽子はその後に形が変化していく。最初の肖像画に描かれていたのは折烏帽子や侍烏帽子。冠は現在もほぼ同じ形。
冠に筒のようなパーツがあるのは、モトドリと呼ばれる束ねた髪の毛を納めるためのスペース。烏帽子にも膨らみや厚みがあるのも同じ理由。
そして肖像画で烏帽子の被る位置がおかしく見えるのは、折り曲げたモトドリを覆うように烏帽子が後ろに伸びているためであり、
それを正面からあまり角度を付けないで描くとおかしな被り方に見える。
ここまでが本編の超サマリー。
言い換えれば髪の毛を束ねたモトドリがあってこそ冠や烏帽子の形が生まれた。古来よりの服飾史を冠や烏帽子の存在を抜きにして語れないとすれば、ヘアスタイルのモトドリも同様。それが番外編につながる。
写真はポーラ文化研究所によるヘアスタイルの変遷。画像はhttps://x.gd/MtWadzから引用(短縮URL使用)
左はおそらく古墳時代からあった両サイドで髪の毛を束ねた美豆良(ミズラ)と呼ばれる形。聖徳太子が冠位十二階を定めて冠で身分を表す=常に冠を着用するようになったのが603年で、冠に納まるように束ねた髪を頭の上で団子状にしたのが写真中央。右は平安時代で団子状から直線的な形になっている。この部分がモトドリ。
戦(いくさ)で鉄製の兜(かぶと)を使うようになると、暑さや蒸れ対策で頭頂部を剃り落とし始める(写真右)。そこから発展して時代劇などでよく見るチョンマゲに。
現在もモトドリのある髪型をしているのは相撲の力士。これは「烏帽子のあれこれ その2」でも紹介した髪型を整えてもらっている力士と、モトドリがほどけた若き日の貴乃花。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344とNHKの放送100年スポーツ名場面より引用
力士が結う大銀杏(おおいちょう)は襟足を膨らませた形だから、普通にモトドリを束ねるよりは髪の長さが必要かも知れないが、それでもけっこうロングヘアでないとモトドリは作れない。
さて前回に書いた、こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきとはーーー
何となく「男性の髪は短い、女性のは長い」という固定観念がある。もちろん男女ともに人によるとはいえ、たとえばこんな後ろ姿を見かけたら女性だと思うはず。
さらに中高年以上なら昔の男性は一律に短髪で、髪を伸ばし始めたのは1960年代後半に活躍したビートルズの影響だとも知っている。
しかし、それはきわめて短期間の歴史だけによって形成された思い込み。
ミズラを両サイドにぶら下げていた古墳時代から明治維新でチョンマゲが禁止となるまでの約1600年間、男性の髪の毛は ミズラやモトドリを束ねるために今の女性ならかなりのロングヘアに相当するほどに長かったのだ。古墳時代の前は弥生・縄文時代なので、この地に国らしき形ができて以来男性はずっとロングヘアだったともいえる。そんな風に考えたことあった?(おそらく弥生・縄文、その前の旧石器時代も長かっただろう)
昔の日本人男性の髪型といってまず思い浮かべるのは江戸時代のチョンマゲのはず。よく見れば実に変なヘアスタイルではあるけれど、時代劇などで見慣れていて特に疑問を持たないし、あれをどうやって結っているかを想像したりもしない。それに頭頂部は剃っているし、全体的には髪をなでつけて固めているのでロングヘアのイメージもない。
さらに何度も書いたように室町中期=戦国時代の始まりあたりまで、冠あるいは烏帽子を脱いでモトドリを他人に見せるのは恥ずかしいとの文化があった。だからそれ以前の髪型が描かれた絵などはきわめて少なく目にする機会がない。それが結果的に昔の日本人男性の髪型=チョンマゲ=長髪ではないとのイメージを生んでいるようにも思う。
それでチョットお遊び。
これは「烏帽子のあれこれ その4」で紹介した石山寺縁起絵巻。
庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。
僧侶以外は、烏帽子や冠を取るとモトドリを束ねた髪型をしていて、
そのモトドリをほどくと皆ロングヘア!
AIがチョット髪を長く描きすぎているけれど、まっそういうこと。
「古来より明治維新までずっと男性はロングヘアであった」。それを知ったとして歴史が変わるわけでもないが、そんなことはまったく考えてもみなかったので、それが何となく思考のツボにはまって面白かったしだい。
ところでどうして長かったのか、モトドリを束ねていたのか?
それを解説している資料は見当たらなかったが想像するとーーー
ーーー結論を書いたのにまだ続いてしまう
wassho at 11:11|Permalink│Comments(0)│
2025年07月23日
烏帽子のあれこれ 番外編その2
参考までに明治以前の日本の歴史区分を書いておくと
旧石器時代→縄文時代→弥生時代
古墳時代→空白の4世紀→飛鳥時代
奈良時代→平安時代
鎌倉時代→室町時代→戦国時代
安土桃山時代→江戸時代
そして前回でも紹介した髪型は、左は戦国時代の茶筅髷(ちゃせんまげ)で右が江戸時代のチョンマゲ(丁髷)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
それ以前の男性の髪型は明確にはわかっていない。
その理由は
平安時代の中頃まで肖像画を描くのを憚る風潮があった。
平安時代の貴族や武士は公的な場では冠(かんむり)、私的な場では烏帽子(えぼし)
を被っていた。また庶民も烏帽子を被っていた。
さらに冠や烏帽子を脱いで髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥とする考えが、
庶民レベルで鎌倉後期、公家や武士では室町中期まで続いた。
つまり戦国時代以前は髪型を描いたビジュアルな記録や資料に乏しい。
「烏帽子のあれこれ その4」で鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻を紹介した。こちらは886年に起きた放火事件である「応天門の変」を、平安末期に描いた伴大納言絵巻の模写の一部。
貴族の乗る牛車と警護の武士だろうか。
全員が烏帽子を着用。
こちらは庶民でやはり烏帽子を被っている。
しかしこの絵巻には清和天皇(850〜881年)が登場し、なんと彼は無帽!
冠や烏帽子について調べると、多くの資料で「宮中では冠を着用するのがルール。天皇は基本的に宮中にいるので冠を取ることはなく、烏帽子を被れるのは退位して上皇になってから」と書かれている。
なのにどうしてこの絵巻では天皇を無帽で描いたのだろうか。しかも場所は清涼殿(天皇が政務を行う場所)で、太政大臣より対面で事件について報告を受けている、言ってみれば公務中。描かれているのは夜半に急な来訪の場面とはいえ、寝るときもSEXするときもモトドリを見せなかった平安人、ましてや天皇が無帽は考えづらいと思うのだが。あるいは「チンチン見せてもモトドリ見せるな」との考えは平安前期のこの頃にはまだなかったのか。
平安中期以降に人前でモトドリを見せなかったのはいろいろとエピソードが残っている。ただし平安時代は約400年もあったから前期では風習が異なっていても不思議ではない。何かと興味深いものの、これ以上の深入りは手間がかかるのでやめておくm(_ _)m
なお清和天皇の髪型は、この図によれば冠下髻(かんむり したの もとどり)と思われる。というかここにあるイラストは伴大納言絵巻にソックリ。おそらく伴大納言絵巻を真似て描いたのではないか。それだけ当時の髪型の資料は少ないのだと思われる。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
戦国時代の茶筅髷と平安時代のば冠下髻は、髪の毛を束ねたモトドリを頭上高くに巻いている点でほぼ同じ。そして江戸時代のチョンマゲは頭頂部を剃った月代(さかやき)の上にモトドリを折り曲げて載せた形。つまりどれも髪の毛を束ねてそこそこの大きさのモトドリ作るのは共通している。
平安時代より前で髪型が描かれたものは見つけられなかった。しかしこの画像左側の聖徳太子は8世紀前半(奈良時代:710〜794年)に描かれたとされる日本で最古の肖像画(右側はその模写の旧1万円札)で、被っている頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠には以前に紹介したモトドリを納める巾子(こじ)のパーツがある。だから少なくとも奈良時代にはモトドリのある髪型をしていたと考えられる。おそらく彼が生きていた飛鳥時代(592〜710年)も、特に変化する要素はないので同じような髪型だったと推測する。
ポーラ文化研究所のホームページによると「推古天皇11年(603)、隋にならって朝廷に仕える官人はすべて冠を被ることになりました(聖徳太子が制定した冠位十二階を指している)。これにより髪型が変化し、冠の下に収まるように髻を結うようになりました」とあり、この髪型を冠下一髻(かんむり したの ひともと)と紹介している。時代が下って清和天皇の髪型はこれの豪華版とも推測できる。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
これは藤原京期(694〜710年:飛鳥時代末期)の築造と推定されている高松塚古墳に描かれていた壁画とその復元図。これがソフトな冠か烏帽子かはよくわからないが、いかにも頭の上にモトドリがありそうな形をしている。
冠下一髻の説明にある「冠の下に収まるように髻を結うようになりました」より以前はサイドで髪を束ねた「みずら」と呼ばれるスタイル。少し前に流行った「卑弥呼さま〜っ」を思い出すが、邪馬台国について記した魏志倭人伝によると、これは男性の髪型で卑弥呼がこうしていたわけじゃない。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきがあったのが今回の番外編のテーマ。
ーーー続く
旧石器時代→縄文時代→弥生時代
古墳時代→空白の4世紀→飛鳥時代
奈良時代→平安時代
鎌倉時代→室町時代→戦国時代
安土桃山時代→江戸時代
そして前回でも紹介した髪型は、左は戦国時代の茶筅髷(ちゃせんまげ)で右が江戸時代のチョンマゲ(丁髷)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
それ以前の男性の髪型は明確にはわかっていない。
その理由は
平安時代の中頃まで肖像画を描くのを憚る風潮があった。
平安時代の貴族や武士は公的な場では冠(かんむり)、私的な場では烏帽子(えぼし)
を被っていた。また庶民も烏帽子を被っていた。
さらに冠や烏帽子を脱いで髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥とする考えが、
庶民レベルで鎌倉後期、公家や武士では室町中期まで続いた。
つまり戦国時代以前は髪型を描いたビジュアルな記録や資料に乏しい。
「烏帽子のあれこれ その4」で鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻を紹介した。こちらは886年に起きた放火事件である「応天門の変」を、平安末期に描いた伴大納言絵巻の模写の一部。
貴族の乗る牛車と警護の武士だろうか。
全員が烏帽子を着用。
こちらは庶民でやはり烏帽子を被っている。
しかしこの絵巻には清和天皇(850〜881年)が登場し、なんと彼は無帽!
冠や烏帽子について調べると、多くの資料で「宮中では冠を着用するのがルール。天皇は基本的に宮中にいるので冠を取ることはなく、烏帽子を被れるのは退位して上皇になってから」と書かれている。
なのにどうしてこの絵巻では天皇を無帽で描いたのだろうか。しかも場所は清涼殿(天皇が政務を行う場所)で、太政大臣より対面で事件について報告を受けている、言ってみれば公務中。描かれているのは夜半に急な来訪の場面とはいえ、寝るときもSEXするときもモトドリを見せなかった平安人、ましてや天皇が無帽は考えづらいと思うのだが。あるいは「チンチン見せてもモトドリ見せるな」との考えは平安前期のこの頃にはまだなかったのか。
平安中期以降に人前でモトドリを見せなかったのはいろいろとエピソードが残っている。ただし平安時代は約400年もあったから前期では風習が異なっていても不思議ではない。何かと興味深いものの、これ以上の深入りは手間がかかるのでやめておくm(_ _)m
なお清和天皇の髪型は、この図によれば冠下髻(かんむり したの もとどり)と思われる。というかここにあるイラストは伴大納言絵巻にソックリ。おそらく伴大納言絵巻を真似て描いたのではないか。それだけ当時の髪型の資料は少ないのだと思われる。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
戦国時代の茶筅髷と平安時代のば冠下髻は、髪の毛を束ねたモトドリを頭上高くに巻いている点でほぼ同じ。そして江戸時代のチョンマゲは頭頂部を剃った月代(さかやき)の上にモトドリを折り曲げて載せた形。つまりどれも髪の毛を束ねてそこそこの大きさのモトドリ作るのは共通している。
平安時代より前で髪型が描かれたものは見つけられなかった。しかしこの画像左側の聖徳太子は8世紀前半(奈良時代:710〜794年)に描かれたとされる日本で最古の肖像画(右側はその模写の旧1万円札)で、被っている頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠には以前に紹介したモトドリを納める巾子(こじ)のパーツがある。だから少なくとも奈良時代にはモトドリのある髪型をしていたと考えられる。おそらく彼が生きていた飛鳥時代(592〜710年)も、特に変化する要素はないので同じような髪型だったと推測する。
ポーラ文化研究所のホームページによると「推古天皇11年(603)、隋にならって朝廷に仕える官人はすべて冠を被ることになりました(聖徳太子が制定した冠位十二階を指している)。これにより髪型が変化し、冠の下に収まるように髻を結うようになりました」とあり、この髪型を冠下一髻(かんむり したの ひともと)と紹介している。時代が下って清和天皇の髪型はこれの豪華版とも推測できる。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
これは藤原京期(694〜710年:飛鳥時代末期)の築造と推定されている高松塚古墳に描かれていた壁画とその復元図。これがソフトな冠か烏帽子かはよくわからないが、いかにも頭の上にモトドリがありそうな形をしている。
冠下一髻の説明にある「冠の下に収まるように髻を結うようになりました」より以前はサイドで髪を束ねた「みずら」と呼ばれるスタイル。少し前に流行った「卑弥呼さま〜っ」を思い出すが、邪馬台国について記した魏志倭人伝によると、これは男性の髪型で卑弥呼がこうしていたわけじゃない。画像はhttps://x.gd/6rWbdから引用編集(短縮URL使用)
こうした昔の髪型の変遷を知って「あっ、そうだったんだ」と大事なことのような、どうでもいいことのような気づきがあったのが今回の番外編のテーマ。
ーーー続く
wassho at 20:53|Permalink│Comments(0)│
2025年07月19日
烏帽子のあれこれ 番外編
烏帽子(えぼし)をネタにあれこれと話が脱線した前回まで6回のブログ。もう烏帽子とはほとんど関係のない話になるので今回は番外編とした。
さて左は聖徳太子の時代の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)、右は平安後期から強装束(こわしょうぞく)のデザイン様式になり布を漆で固めたハードな冠である。右画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/から引用
ソフトな冠では袋状、ハードな冠では筒のように上に伸びているのは巾子(こじ)と呼ばれるパーツで、それは髪の毛を束ねた髻(モトドリ)を入れるためのもの。ハードな冠では巾子をモトドリに固定する簪(かんざし)も見える。
モトドリと巾子(こじ)とかんざしの関係図。
つまりモトドリがあるので巾子が作られた。
冠の普段着版である烏帽子が膨らんだ形をしているのも同じ理由。
写真はドラマでの朝倉義景(戦国時代)と徳川吉宗(江戸時代)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
モトドリがある=髪の毛をどこかで束ねた髪型を総称して髷(マゲ)と呼ぶ。朝倉義景の髪型は茶筅髷(ちゃせんまげ)。髪の毛を巻いている部分が茶筅(抹茶を点てるときにかき混ぜる道具)に似ているのでその名前。室町末期から安土桃山時代に流行ったとされる。
吉宗の髪型はチョンマゲ(丁髷)。厳密にはこれはチョンマゲではないのだが、広義にはチョンマゲといって差し支えないだろう。
このチョンマゲ、ドラマや映画で見慣れていて普段は何も感じないとはいえ、よく見れば見るほど不思議でおかしな髪型である。今もし茶筅髷にした人が現れても(例えばアーチストなどであれば)それほど違和感はないように思う。しかしチョンマゲだと吹き出してしまうに違いない。それはやはり頭頂部のセンターを剃っているから。いってみれば究極のツーブロック(^^ゞ
剃っている部分を月代(さかやき)と呼ぶ。月代にし始めたのは平安時代に武士が登場してから。目的は兜を被ったときに頭が蒸れるのを防ぐため(他にも諸説あり)。当初は戦(いくさ)の時だけ月代にしていて、やがて戦国の世になると戦多発で常に月代状態へ。そしてなぜか天下太平の江戸時代になっても、この戦闘用ヘアスタイルであった月代は生き残り、さらに武士ではない庶民にまで広がり明治になるまで続く。
月代を剃ると書いたが、当初は木製のピンセットのような毛抜きで抜いていたらしい。戦国時代に来日した宣教師の記録には「武士は頭を血だらけにしている」と記している。何と痛そうな(>_<)
また一説によると髪の毛を抜くのではなく剃って月代を作ったのは織田信長が最初とされる。宣教師の記録と合わせれば信長が最初かどうかはともかく、戦国時代(応仁の乱1467年〜信長上洛1568年)の中頃に剃り始めたと考えられる。しかしそれがどうにも解せない。
なぜなら毛を剃るのに使うカミソリは仏教と共に伝来した。時期は「手を合わせてご参拝」の538年。それ以降、僧侶は頭を剃ってきた。武士の登場が900年頃だとすれば月代を作り始めたのはカミソリ伝来から400年後である。
仏教と共に伝わったのは中国のカミソリ。信長が手にしたのは宣教師などがもたらした西洋式のカミソリといわれる。でもカミソリで中国と西洋にそんなに違いはない。中国からカミソリが伝来した当時は僧侶専用の「秘められた法具」だったかも知れない。ただし400年も経てばありふれた刃物のひとつで、誰もがカミソリで毛が剃れるのは知っていたはず。なのに900年から1500年の600年間もの期間、どうして武士は僧侶に「カミソリ貸して」と頼まずに、文字通り血の滲む痛い思いをして毛を抜いてきたのだろうか。謎すぎる。
ついでに言うと月代が兜を被ったときの暑さ対策だとして、髪の毛を剃った程度でそんなに涼しくなるかな? 仮に髪の毛があれば暑いとしても、別に剃らずに短くカットすればいいだけのこと。どうして剃る必要があった、あるいは痛い思いまでして抜いたのか。ちなみにハサミの伝来もかみそりとほぼ同時期。
まあそんなつまらないテーマを研究する歴史学者はいないだろうから、なぜ月代を無毛にした、どうしてを剃らずに毛を抜いたのかの疑問は解決しそうにない。
もうひとつついでに僧侶は坊主とも言う。そして僧侶は髪を剃ってツルツルにする。でも坊主頭はきわめて短くカットするだけで剃らない髪型である。なのにどうして坊主の名前が付いている?
あっ、番外編のキーワードはモトドリだったのに、
また話がそれてしまったm(_ _)m
ーーー続く
さて左は聖徳太子の時代の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)、右は平安後期から強装束(こわしょうぞく)のデザイン様式になり布を漆で固めたハードな冠である。右画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/から引用
ソフトな冠では袋状、ハードな冠では筒のように上に伸びているのは巾子(こじ)と呼ばれるパーツで、それは髪の毛を束ねた髻(モトドリ)を入れるためのもの。ハードな冠では巾子をモトドリに固定する簪(かんざし)も見える。
モトドリと巾子(こじ)とかんざしの関係図。
つまりモトドリがあるので巾子が作られた。
冠の普段着版である烏帽子が膨らんだ形をしているのも同じ理由。
写真はドラマでの朝倉義景(戦国時代)と徳川吉宗(江戸時代)。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
モトドリがある=髪の毛をどこかで束ねた髪型を総称して髷(マゲ)と呼ぶ。朝倉義景の髪型は茶筅髷(ちゃせんまげ)。髪の毛を巻いている部分が茶筅(抹茶を点てるときにかき混ぜる道具)に似ているのでその名前。室町末期から安土桃山時代に流行ったとされる。
吉宗の髪型はチョンマゲ(丁髷)。厳密にはこれはチョンマゲではないのだが、広義にはチョンマゲといって差し支えないだろう。
このチョンマゲ、ドラマや映画で見慣れていて普段は何も感じないとはいえ、よく見れば見るほど不思議でおかしな髪型である。今もし茶筅髷にした人が現れても(例えばアーチストなどであれば)それほど違和感はないように思う。しかしチョンマゲだと吹き出してしまうに違いない。それはやはり頭頂部のセンターを剃っているから。いってみれば究極のツーブロック(^^ゞ
剃っている部分を月代(さかやき)と呼ぶ。月代にし始めたのは平安時代に武士が登場してから。目的は兜を被ったときに頭が蒸れるのを防ぐため(他にも諸説あり)。当初は戦(いくさ)の時だけ月代にしていて、やがて戦国の世になると戦多発で常に月代状態へ。そしてなぜか天下太平の江戸時代になっても、この戦闘用ヘアスタイルであった月代は生き残り、さらに武士ではない庶民にまで広がり明治になるまで続く。
月代を剃ると書いたが、当初は木製のピンセットのような毛抜きで抜いていたらしい。戦国時代に来日した宣教師の記録には「武士は頭を血だらけにしている」と記している。何と痛そうな(>_<)
また一説によると髪の毛を抜くのではなく剃って月代を作ったのは織田信長が最初とされる。宣教師の記録と合わせれば信長が最初かどうかはともかく、戦国時代(応仁の乱1467年〜信長上洛1568年)の中頃に剃り始めたと考えられる。しかしそれがどうにも解せない。
なぜなら毛を剃るのに使うカミソリは仏教と共に伝来した。時期は「手を合わせてご参拝」の538年。それ以降、僧侶は頭を剃ってきた。武士の登場が900年頃だとすれば月代を作り始めたのはカミソリ伝来から400年後である。
仏教と共に伝わったのは中国のカミソリ。信長が手にしたのは宣教師などがもたらした西洋式のカミソリといわれる。でもカミソリで中国と西洋にそんなに違いはない。中国からカミソリが伝来した当時は僧侶専用の「秘められた法具」だったかも知れない。ただし400年も経てばありふれた刃物のひとつで、誰もがカミソリで毛が剃れるのは知っていたはず。なのに900年から1500年の600年間もの期間、どうして武士は僧侶に「カミソリ貸して」と頼まずに、文字通り血の滲む痛い思いをして毛を抜いてきたのだろうか。謎すぎる。
ついでに言うと月代が兜を被ったときの暑さ対策だとして、髪の毛を剃った程度でそんなに涼しくなるかな? 仮に髪の毛があれば暑いとしても、別に剃らずに短くカットすればいいだけのこと。どうして剃る必要があった、あるいは痛い思いまでして抜いたのか。ちなみにハサミの伝来もかみそりとほぼ同時期。
まあそんなつまらないテーマを研究する歴史学者はいないだろうから、なぜ月代を無毛にした、どうしてを剃らずに毛を抜いたのかの疑問は解決しそうにない。
もうひとつついでに僧侶は坊主とも言う。そして僧侶は髪を剃ってツルツルにする。でも坊主頭はきわめて短くカットするだけで剃らない髪型である。なのにどうして坊主の名前が付いている?
あっ、番外編のキーワードはモトドリだったのに、
また話がそれてしまったm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 17:36|Permalink│Comments(0)│
2025年07月15日
烏帽子のあれこれ その6
ついつい話がそれてしまうこのブログ。
今回のテーマはいつも以上にそんな予感がしていると初回に書いた。
やっぱり案の定ーーー
昔の人が頭に付けていたのには、
冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)があるところから始まり、
→西洋料理のコック帽はどうしてあんなに背が高いのか
→現在の皇室での使われ方
→日本人男子の髪型の変遷
→髻(モトドリ)
→力士の髪型
→力士の階級と給料
→強装束(こわしょうぞく)と柔装束(なえしょうぞく)
→源氏物語の衣装
→烏帽子の変化
→庶民と烏帽子
→モトドリは見せない、SEXのときでも烏帽子は脱がない
→(古代と)中世は「被帽の時代」、近世は「無帽の時代」
→でも大正時代から高度成長期前まで帽子が復活
と、我ながらアッパレ?
もっともそれは好奇心のなせる技で、それがある限り脳の活性も保たれるだろうし、またブログも書き続けられるのだと思っている。そして今のところそんな好奇心はAIには備わっておらず人間だけが持つ能力。本当は単に気まぐれで気移りしているなだけなのだけれど、それを前向きに捉えるのが私のいいところ(^^ゞ
さてそろそろ本題に戻りましょう。
それは昔の肖像画で見る武将や武士たちの、
頭に乗っている帽子の位置が、どう見てもおかしいとの疑問。
初回に紹介した肖像画を再掲しておく。
もう説明は省略するが被っているのは烏帽子。
被っているというより半分だけ頭に載っけている感じ。
こうなった理由は髪型にあると推測した。
これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
江戸時代がチョンマゲだったのは誰でも知っているが、それより以前も古墳時代の「みずら」を除けば男性は頭の上で髪を束ねていた。この束ねた髪がモトドリ(髻)。
モトドリを高くまとめた戦国時代の髪型と、頭の一部を剃ってそこにモトドリを置いた江戸時代の髪型。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
4名の肖像画の上段は戦国時代の浅井長政と北条氏康、下段は江戸時代の田沼意次と松平定信。田沼と松平はもちろんチョンマゲ。浅井と北条の具体的な髪型はわからないものの、頭にモトドリがあったのは間違いない。
そのモトドリがある頭に烏帽子を被るとどうなるのか。江戸時代以前の設定のドラマとかで烏帽子を被って横顔が映っているシーンを探してみたけれど、けっこうフツーで違和感なし。
始めて烏帽子を被る元服の儀式を再現したと思われる画像も見つけたが、これも同じく肖像画のように半分だけ載せた感じではない。画像はhttps://ameblo.jp/croon-yuuki/entry-12487737675.htmlとhttps://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=987161827170811904から引用編集
考えてみればそれは当たり前で、元服儀式に参加している青年は頭にモトドリはないし、ドラマだって烏帽子は脱がないのだからモトドリまでは仕込んでいないはず。
そしてこんな画像を見つけた。
これは4名の肖像画で右下に配置した松平定信の別の肖像画。
おそらくこのようにモトドリを覆うために、烏帽子を頭の後ろまで伸ばしてしたと思われる。それで正面からあまり角度の付いていない構図で肖像画を描けば、烏帽子が頭に半分だけ載っているように見える。100%納得はしていないのだが、もうそろそろこのテーマにも飽きてきたので(^^ゞ そういうことにしておきましょう。
ところでこの松平定信の肖像画、斜め前を向いている顔に対して、後頭部は顔よりもっと真横を向いているように見えなくもない。顔に合わせて同じ角度で描くとモトドリがあまり見えなくなるので、後頭部だけさらに横向きにしたのだろうか。
これって複数の多視点を絵画に導入した印象派のセザンヌと同じ技法。
江戸時代の絵師もなかなかやるね。
さて烏帽子が頭から半分はみ出して、
チョコンと載っているような肖像画の謎もとりあえずは解けた。
ーーーなのにまだ続く
今回のテーマはいつも以上にそんな予感がしていると初回に書いた。
やっぱり案の定ーーー
昔の人が頭に付けていたのには、
冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)があるところから始まり、
→西洋料理のコック帽はどうしてあんなに背が高いのか
→現在の皇室での使われ方
→日本人男子の髪型の変遷
→髻(モトドリ)
→力士の髪型
→力士の階級と給料
→強装束(こわしょうぞく)と柔装束(なえしょうぞく)
→源氏物語の衣装
→烏帽子の変化
→庶民と烏帽子
→モトドリは見せない、SEXのときでも烏帽子は脱がない
→(古代と)中世は「被帽の時代」、近世は「無帽の時代」
→でも大正時代から高度成長期前まで帽子が復活
と、我ながらアッパレ?
もっともそれは好奇心のなせる技で、それがある限り脳の活性も保たれるだろうし、またブログも書き続けられるのだと思っている。そして今のところそんな好奇心はAIには備わっておらず人間だけが持つ能力。本当は単に気まぐれで気移りしているなだけなのだけれど、それを前向きに捉えるのが私のいいところ(^^ゞ
さてそろそろ本題に戻りましょう。
それは昔の肖像画で見る武将や武士たちの、
頭に乗っている帽子の位置が、どう見てもおかしいとの疑問。
初回に紹介した肖像画を再掲しておく。
もう説明は省略するが被っているのは烏帽子。
被っているというより半分だけ頭に載っけている感じ。
こうなった理由は髪型にあると推測した。
これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
江戸時代がチョンマゲだったのは誰でも知っているが、それより以前も古墳時代の「みずら」を除けば男性は頭の上で髪を束ねていた。この束ねた髪がモトドリ(髻)。
モトドリを高くまとめた戦国時代の髪型と、頭の一部を剃ってそこにモトドリを置いた江戸時代の髪型。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
4名の肖像画の上段は戦国時代の浅井長政と北条氏康、下段は江戸時代の田沼意次と松平定信。田沼と松平はもちろんチョンマゲ。浅井と北条の具体的な髪型はわからないものの、頭にモトドリがあったのは間違いない。
そのモトドリがある頭に烏帽子を被るとどうなるのか。江戸時代以前の設定のドラマとかで烏帽子を被って横顔が映っているシーンを探してみたけれど、けっこうフツーで違和感なし。
始めて烏帽子を被る元服の儀式を再現したと思われる画像も見つけたが、これも同じく肖像画のように半分だけ載せた感じではない。画像はhttps://ameblo.jp/croon-yuuki/entry-12487737675.htmlとhttps://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=987161827170811904から引用編集
考えてみればそれは当たり前で、元服儀式に参加している青年は頭にモトドリはないし、ドラマだって烏帽子は脱がないのだからモトドリまでは仕込んでいないはず。
そしてこんな画像を見つけた。
これは4名の肖像画で右下に配置した松平定信の別の肖像画。
おそらくこのようにモトドリを覆うために、烏帽子を頭の後ろまで伸ばしてしたと思われる。それで正面からあまり角度の付いていない構図で肖像画を描けば、烏帽子が頭に半分だけ載っているように見える。100%納得はしていないのだが、もうそろそろこのテーマにも飽きてきたので(^^ゞ そういうことにしておきましょう。
ところでこの松平定信の肖像画、斜め前を向いている顔に対して、後頭部は顔よりもっと真横を向いているように見えなくもない。顔に合わせて同じ角度で描くとモトドリがあまり見えなくなるので、後頭部だけさらに横向きにしたのだろうか。
これって複数の多視点を絵画に導入した印象派のセザンヌと同じ技法。
江戸時代の絵師もなかなかやるね。
さて烏帽子が頭から半分はみ出して、
チョコンと載っているような肖像画の謎もとりあえずは解けた。
ーーーなのにまだ続く
wassho at 20:22|Permalink│Comments(0)│
2025年07月13日
烏帽子のあれこれ その5
聖徳太子の頃に正装用の帽子として定まったのが冠(かんむり)。そこから派生して普段着用の帽子となったのが烏帽子(えぼし)。冠は使用する場所や場面が定まっているとして、烏帽子は好きなときに被ればいいのかというと、そうではなくて基本的に四六時中の着用。前回で紹介したように寝るときも被っていたし、たとえ全裸になってSEXしていても烏帽子は脱がなかった。
奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。
まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。
これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)
しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。
この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では
大和〜平安:古代
鎌倉〜安土桃山:中世
江戸:近世
明治〜第二次世界大戦終戦:近代 それ以降:現代
となる(諸説あり)。
江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のようなポジション。それで二人とも勅使との面会に備えて異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。
この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくいし、それを踏みつけられれば動きを止められてしまう。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。
そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。
考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。
ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。
ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするなら彼らの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。
それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。
これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。
どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。
とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
ーーー続く
奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。
まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。
これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)
しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。
この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では
大和〜平安:古代
鎌倉〜安土桃山:中世
江戸:近世
明治〜第二次世界大戦終戦:近代 それ以降:現代
となる(諸説あり)。
江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のようなポジション。それで二人とも勅使との面会に備えて異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。
この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくいし、それを踏みつけられれば動きを止められてしまう。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。
そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。
考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。
ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。
ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするなら彼らの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。
それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。
これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。
どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。
とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:35|Permalink│Comments(0)│
2025年07月08日
烏帽子のあれこれ その4

聖徳太子の頃の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)。その下に着用した薄い袋状の圭冠(はしばこうぶり)が烏帽子(えぼし)のルーツとされる。どうして頭巾(ときん)の下に同じような圭冠(はしばこうぶり)を重ねたのか疑問なのだが、そこはスルーして、やがて冠は正装用、烏帽子は普段着用の帽子と用途が分かれる。(なお圭冠は冠の下に被るのではなく、最初から略式の冠として略服着用時に用いられたとの説もある)
圭冠(はしばこうぶり)そのもの、あるいはそれから発展した初期の烏帽子の形は不明。おそらくはスイミングキャップを膨らましたようなシンプルな形状だったのではないかな。しかしだんだんと上に伸びて、そして強装束(こわしょうぞく:前回参照)の頃にはよく見る平安貴族スタイルになっていく。その形が立烏帽子(たてえぼし)。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/295.htmlから引用
貴族ではこの高い立烏帽子が続く一方で、武家が着用する烏帽子は高さが低くなり、また立烏帽子をおったような折烏帽子(おりえぼし)、さらには各家ごとにその折り方に工夫を凝らした侍烏帽子(さむらいえぼし)などが登場する。画像はhttps://www.touken-world.jp/tips/92804/から引用
これらの烏帽子は貴族または武家が被るもの。そもそも冠はもちろんとして烏帽子も上級国民の装束であるイメージが今日では強い。しかし意外にも庶民だって烏帽子を被っていたのだ。
これは鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻の一部。
大工は平たい烏帽子を被り、指揮している人は立烏帽子で下っ端の役人(貴族)だろうか。
同時代の石山寺縁起絵巻では庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。僧侶が無帽なのは俗世とは違う習慣体系なのか、あるいは剃髪していて頭頂部に何もないからかはよくわからない。

これらで庶民が被っている平たい烏帽子の形を萎烏帽子(なええぼし)や揉烏帽子(もみえぼし)と呼ぶ。これが圭冠(はしばこうぶり)から発展した烏帽子の原型で、筒状の部分を普段は倒して着用し、改まった席では立てていたのが、やがて立烏帽子になったとの説もある。いずれにせよ庶民の烏帽子はこのスタイルで、その後の変化はなかったようだ。
それにしてもこの時代の庶民が烏帽子すなわち帽子を、まるで制服のように皆で被った生活をしているなんて認識はあまりなかったね。
さてなぜ男性は貴族から庶民まで帽子を被っているかというと、平安時代(794年〜)から室町時代(1336〜1573年)中頃までの約700年間は、男性が頭頂部を他人に見せるのは恥ずかしい行為との価値観があったのがその理由。どうしてそんな発想になったのか少し調べてみたものの長くなるので割愛。
これはネットで拾ってきた大河ドラマのワンシーン。キャプションに「宇治川で筏(いかだ)を押す平盛綱」とあった。状況はよくわからないが、服を脱いで川に飛び込んでも烏帽子は脱がなかったとの演出。画像はhttps://x.gd/Nf4Whから引用(短縮URL使用)
さらに驚くのが平安時代後期に描かれた源氏物語絵巻。場面は光源氏の正妻である女三宮と不義密通したのが、光源氏(この頃は天皇に準ずる身分)にバレてビビって病気になった柏木を(事情を知らない)光源氏の長男である夕霧が見舞うシーン。
注目は寝込んでいる柏木。このしばらく後に亡くなるのでかなり衰弱している設定。なのに頭に烏帽子を被っている! これは見舞客が来たから身なりを整えようと烏帽子を被ったのではなく、寝るときも烏帽子を外さないのが当時の風習。
まあとにかく烏帽子を脱がなかった。
そして何と実はSEXするときにスッポンポンになっても烏帽子は被ったまま。画像は後白河法皇(平安時代末期に源平の戦いに深く関わった実力者)がコレクションしていた春画「小柴垣草紙(こしばがきそうし)」を江戸時代に模写した「慶忍/潅頂巻絵詞(かんじょうまきえことば)」から。
ここまで来ると滑稽な姿だけれど、当時は頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリ(烏帽子のあれこれ・その2参照)を見られるのがよほど恥ずかしかったらしい。
とても合理的な説明がつかないが文化とはそういうものだろう。まあなかにはモトドリ攻めを好むドMな平安男子もいたかも知れないが(^^ゞ
ーーー続く
今回は書く前からあちこちに話がそれる予感がしていたとはいえ、
いい加減そろそろフィニッシュしないとーーー
wassho at 23:31|Permalink│Comments(0)│
2025年07月04日
烏帽子のあれこれ その3
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
既に書いたように冠(かんむり)は正装用で、烏帽子(えぼし)はそれ以外のときに被る帽子。冠は聖徳太子の頃に始まったとされるが、烏帽子のルーツは冠の下に着用した圭冠(はしばこうぶり)という薄い袋状のものだったようで、はっきりと形がわかる資料はないみたい。
聖徳太子が被っていた頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠は、平安後期に最初の写真のような漆で固めたハードタイプに変わる。それはその頃の日本に起きた「ファッションの大革命」の影響を受けている。

平安貴族の服装といえばこんなイメージが思い浮かぶはず。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/265.htmlから引用編集
しかしこれ、実は平安時代後期のスタイル。全体として直線的で威厳のある印象なものの、平安中期以前はもっと柔らかなデザインだったらしい。それでこの後期以降のデザインを強装束(こわしょうぞく)、それまでを柔装束(なえしょうぞく)と後の時代に区別するようになった。
歴史のお勉強的に書いておくと
飛鳥・奈良時代:中国大陸の隋や唐の影響を受けた「唐様(からよう)」のデザイン
↓
ナクヨウグイス平安京 794年から平安時代
それから100年ほど経つと唐の国力が衰え出す
ハクシニモドソウ遣唐使 894年に遣唐使廃止 唐の滅亡は907年
↓
約400年続いた平安時代の中期に唐の影響から脱却した日本独自の貴族文化が発達する。
いわゆる国風文化。平たくいえば日本風・和風の文化。
↓
衣装もシンプル・実用的な唐様から柔らかく曲線的で優美なものに変化。
それが柔装束(なえしょうぞく:萎装束とも書く)。
↓
平家が台頭してきた平安後期、中国大陸の宋より厚手の織物がもたらされるようになり、
また武家に対して威厳を示す必要もあって、強装束(こわしょうぞく)に変化して
いったとみられている。
まとめると唐様(からよう)→柔装束(なえしょうぞく)→強装束(こわしょうぞく)の変遷。平安時代は400年と縄文・弥生時代を除けば日本の時代区分の中で最も長い。ちなみに江戸時代は265年だから平安時代はその1.5倍もある。ひとくちに平安時代といっても様々なのだ。
時代は鎌倉まで下って源頼朝の肖像画。ほとんど直線で構成されていてまるで幾何学的デザイン。絵だから誇張しているのではなく、糊をきかせてガチガチに固めて着付けている。
戦国時代頃から始まり江戸時代には一般的となった裃(かみしも)も、強装束の流れを継承している。画像はhttps://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3298/から引用
柔装束から強装束のような大きな変化はその後は起きなかったので、明治になり洋装に変わるまで貴族の衣装はベースとして強装束が続く。現在の皇族がたまに儀式で着用する平安朝の衣装も強装束。こちらは1993年(平成5年)の「結婚の儀」の写真。
それでは柔装束(なえしょうぞく)は具体的にどんなデザインだったのか?
しかしこれがはっきりとは判明していない。
もちろん平安時代の衣装は現存しないので、当時の絵画やその他の資料で推測するわけであるが、平安時代中頃までは肖像画を描くのは憚られる風潮があった。それは明治時代にカメラと写真を見た日本人が「魂を抜かれる」と畏れたのと同じような理由。なんたって言霊(ことだま)を信じるくらいの民族だから、ビジュアルなんてもってのほかだったのだろう。
平安時代中期の絶対的権力者である藤原道長(966〜1028年)のこの肖像画も、紫式部絵日記という鎌倉時代初期に描かれたもの。その頃は強装束の時代なので、丸いラインで描かれてはいても強装束を着せられている。
それを逆手にとり、柔装束の事例としていくつかの資料で取り上げられていたのが聖徳太子絵伝すなわち聖徳太子の伝記を絵で表した作品。現在残っているのは1069年、つまり平安中期の制作。だからそこに描かれている衣装は柔装束とのロジック。
これがその柔装束姿の聖徳太子。
でも藤原道長の衣装との違いがよくわからない(/o\)
いずれにせよ平安貴族文化がピカピカに輝いていた時代の服装がはっきりわかっていないとは意外。
ついでに書くとよく映画やドラマの題材となる源氏物語。執筆されたのは平安中期である。物語は「いづれの御時にか=いつのことか忘れてしまったが」で始まるフィクション。でも内容から設定としては平安中期なのは間違いない。となれば柔装束の時代なはず。
でも映画やドラマで着せられているのは強装束だよね?画像はhttps://www.imdb.com/title/tt1705064/とhttps://www.cinematoday.jp/news/N0141179から引用
柔装束のデザインはわかっていないうえ、強装束=平安時代との認識回路が日本人の中にできあがっているので演出的にはこうせざるを得ないし、別にそれが問題だとも思っていない。でも無駄な知識が増えると、どうでもいいところに引っ掛かりが生まれてしまう。
あっ、今回も烏帽子まで話が進まなかったm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 21:38|Permalink│Comments(0)│
2025年06月29日
烏帽子のあれこれ その2
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
話を冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)に戻すと、先にできたのは正装用の冠。
これはご存じ聖徳太子の肖像画。
肖像画では冠なのか単にヘアスタイルが複雑なのかよく判別できないものの、それを模した1万円札だと頭に何か被っているのがわかる。

冠を着用するようになったのは、聖徳太子が603年に冠位十二階を制定して以降と考えられている。そして飛鳥・奈良時代を経て平安の中期頃まではこの頭巾(読みは「ずきん」ではなく「ときん」)と呼ぶ柔らかな布製の冠だったようだ。その後に最初に載せた写真のような布を漆で固めたハードタイプに変わっていく。
宮中は正装して参内する場所なので冠着用は義務だった。現在の皇室で冠を着用するのは即位や立太子の礼、結婚の儀などごく限られた重要儀式のみ。これは令和の即位の礼。
昭和天皇の大喪の礼で、棺を担ぐ係員は平安風の服装&冠姿でも、天皇は洋装(コートの下はモーニングのはず)でシルクハットを手に持っている。シルクハットと冠は位置づけが似ているところも多い。画像はhttps://x.gd/7FH4qとhttps://x.gd/KNNb0から引用(短縮URL使用)
あと身近なところで冠を目にするのは雛人形の男雛。画像はhttps://www.mistore.jp/shopping/feature/living_art_f2/hina3_l.htmlから引用
さて冠の各部には細かな名称が付いているが、
主要パーツは次の4つ。
甲(こう)は頭を覆う基本パーツで纓(えい)は飾りだとして、注目は巾子(こじ)と簪(かんざし)。巾子(こじ)がこんな形をしていて、そこに簪(かんざし)が備わっているのには合理的な理由がある。
これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
束ねた髪の毛を頭の上に載せるチョンマゲは江戸時代中期からで、平安時代には上に高く伸ばしている。そんな髪型で思い浮かぶのは若い頃の織田信長(あくまで映画やドラマで描かれた姿)。しかし適当な画像がなかったので、ユースケ・サンタマリアが同時代の朝倉義景を演じている写真で。志村けんのバカ殿を思い出してもらってもいい(^^ゞ 画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/から引用
この高く束ねた部分が髻(もとどり)。
チョンマゲの髷(まげ)と漢字がややこしいので拡大しておきましょう。
上に伸ばしたモトドリを前に曲げたからチョンマゲなのかと思ったら、
モトドリ:髪を束ねた部分
マゲ:モトドリのある髪型
を意味しているそう。そういえばチョンマゲ(丁髷)もたくさんあるマゲのバリエーションのひとつだし、女性の日本髪もマゲだった。
もうおわかりと思うが、冠の巾子(こじ)は、束ねた髻(もとどり)を入れるためのパーツ。そしてそこに簪(かんざし)を挿して頭から落ちないように固定する仕組み。冠の帽子にしては複雑な形にも意味があったのだ。
ところで力士は現在もモトドリを作ったマゲの髪型をしている。明治政府は断髪令を出してチョンマゲを禁止したが相撲界は例外として認められた。どうやら政府上層部に相撲ファンが多くいたらしい。
ただしその断髪令、正確には散髪脱刀令で内容は
髪型は自由でチョンマゲにしなくてよい
華族・士族が刀を差さなくてもよい
だったのに、明治天皇がモトドリを落とした影響もあり、いつのまにかチョンマゲ禁止令に実質を変えていく。またこれは男性を対象にした法律。しかし誤解していわゆる日本髪から短髪にする女性が多くいたため、改めて「女子断髪禁止令」が出されるなど、明治維新の混乱を何かと象徴するような法令。
さて力士の姿を見たことがない人はいないと思うけれど、彼らの髪型には2種類あるのを知ってた?それは大銀杏(おおいちょう)と丁髷(チョンマゲ)。

大銀杏はモトドリの先端がイチョウの葉のように広がっているのでその名前。また襟足のところを膨らませたデザインなのも特徴。対して丁髷は髪を引き上げてモトドリでまとめただけのスタイル。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「相撲髷」とhttps://www.yamano.ac.jp/news/detail.php?p=247より引用編集
ただしこの大銀杏と丁髷の定義は相撲界だけの話。一般に丁髷とは頭頂部を剃ってモトドリをそこに置く形をいう。また丁髷の一種に銀杏髷(いちょうまげ)というのがあり、さらにそのバリエーションとして大銀杏と小銀杏が存在した。それらは全体的な髪の整え方の違いであり、またどちらもモトドリをイチョウの葉のように広げたりはしない。
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
力士が大銀杏を結うのは本場所や巡業で土俵に上がるときと、公的な行事に正装して参加する場合だけ。稽古時や普段の生活では丁髷。それだけ大銀杏を仕上げるのには手間がかかるのだろう。
正面から見た違いをつい先日話題になった白鳳で。画像はhttps://www.bbc.com/japanese/58715123とhttps://x.gd/5Xhk1から引用(短縮URL使用)
なお大銀杏を結えるのは番付で十両以上の力士(いくつか例外はある)。また十両以上が関取と呼ばれ一人前の相撲取り。もっともよほどの相撲ファン以外は十両未満=幕下以下の相撲を見る機会はないので、力士は大銀杏と丁髷の髪型を使い分けていると考えても差し支えない。画像はhttps://x.gd/XnOJ0から引用(短縮URL使用)
番付について調べていたら給料の資料を見つけたのでついでに。データは2023年。画像はhttps://diamond.jp/zai/articles/-/1025502から引用
相撲を見る習慣はない。そして現在の番付を確認したら横綱・大関ともに知らない力士だった(/o\) そんな私にとって十両なんて「その他大勢のお相撲さん」のレベル。それでも年収1320万円とそれなりの給料。それと較べると横綱の3600万円はずいぶんと安いような。もちろん他に優勝賞金や懸賞金があるとしても。
それよりも幕内の前頭から十両に落ちた場合、1680万円→1320万円だから金額よりプライドのダメージのほうが大きいかも知れないが、十両から幕下に陥落すると1320万円→99万円となってキビシイね。♪まっさかさまに堕ちてdesire(>_<) 逆に幕下から十両に昇進すれば給料13倍アップ。まあそれが勝負の世界というもの。
(/_')/ソレモコッチニオイトイテ
ニュースか何かで力士が髪を結ってもらっているこんな姿を目にした経験があると思う。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344から引用
これだけでも相当髪の毛が長いとわかる。
そしてさらにビックリする画像がこちら。NHKの放送100年スポーツ名場面より
なぜか用水路に飛び込んで泳ぐ力士。
飛び込んだ衝撃でモトドリがほどけて、
泳いでいたのは若き日の貴乃花。
背中の中程まである超ロングヘア!まるでジャングルの野生児。
とりあえずモトドリを結うにはこの程度の長さが必要みたい。
そして平安貴族といえばこんなイメージだけれど、彼らもまたそんなロングヘアだったとはなかなか想像が追いつかない。シャンプーやコンディショナーはもちろん、石けんすらなかった時代に長い髪を洗うのは大変だっただろうな。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/period/heian.htmlから引用編集
次回こそは烏帽子のかぶり方がヘンな話に進もう。
ーーー続く
wassho at 23:05|Permalink│Comments(0)│
2025年06月28日
烏帽子のあれこれ
何かについて書いている途中に関連する事柄を少し調べて、新たに発見があったり疑問を持ったりして、気が向くままに話がそれていくのがこのブログでよくある出来事。 今回もそんな予感が書き始める前からしている(^^ゞ
いきなりだけれど源義経の肖像画。
これを初めて見たときは衝撃を受けた。いつだったか記憶はないものの歴史の教科書ではなかったと思う。それまで義経といえば牛若丸時代に五条大橋で弁慶の攻撃を華麗にかわして返り討ちにした姿、平家との戦いでは軍略の天才的戦術として鵯越(ひよどりごえ)の奇襲、壇ノ浦の海戦での八艘飛びなど格好いいイメージしかなかった。最後は頼朝に追い詰められ自害するがそれも悲劇のヒーロー的。
それなのに何だ、この貧相で弱々しいオッサンは!
なんとなく泉谷しげるにも似ているゾ(>_<)
それはさておき、今回の本題は彼の被っている帽子。
どう見ても頭にのっている位置がおかしい。
そんな肖像画がたくさんあるので同じように感じた人も多いはず。上から順に信長を裏切った浅井長政、後北条3代目の北条氏康、ワイロ大好き田沼意次、寛政の改革の松平定信。帽子に注目して眺めて欲しい。

彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)と呼ばれるもの。
それで烏帽子とは何ぞやというと、帽子には2種類あって
冠(かんむり):正装、礼服着用時あるいは宮中に出仕する際の被り物。
烏帽子(えぼし):上記以外あるいは普段着のときの被り物。
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
烏帽子の烏は「トリ」ではなく「カラス」。色や形からの連想らしい。また烏帽子に形が似ていて烏帽子岩と呼ばれる岩礁は各地の海岸にある。画像はhttps://www.tabirai.net/localinfo/article/article-30356/から引用
一般に冠も烏帽子も身分が高いほど背が高くなる。天皇の冠なんて、立って歩いたらどこかに引っ掛からないか心配になるほど高い(写真は明治天皇、現在もほぼ同じ)。
ところで背が高い帽子といえば、和食の板前と較べて西洋料理のコックが使う帽子はどうしてあんなに長いのだろう?画像はhttps://www.interconti-tokyo.com/clk/とhttps://x.gd/OFzAT(短縮URL使用)から引用
それには諸説あって
フランス革命(1789〜1799年)後に「シェフの帝王かつ帝王のシェフ」と呼ば
れたアントナン・カレームが、客が着用するシルクハットを真似て被りだした。
アントナン・カレームの技法を継承し、またコースメニューを考案して「近代
フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエ(1846〜1935年)は、
身長が低く料理長の威厳を示すために高い帽子を被って仕事をした。
などがエピソードとして語られている。
衛生面を考えて始まったんじゃなかったのね。
またネットでコピペが繰り返されている情報で真偽は不明なものの、
帝国ホテルでは帽子の高さに
料理人見習い:18cm
7年目以降のキャリアを持つ料理人:23cm
料理長以上:35cm
のルールがあるらしい。
これが帝国ホテル総料理長の杉本氏。さすがに高くそびえ立っている。見たところ紙製で使い捨てのよう。画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/154802から引用
もっともヨーロッパではコックの地位に応じて帽子の高さが変わる文化はないみたい。またコック帽の高さではなく折りたたまれたプリーツの多さが、その料理人の腕前あるいは調理できる料理の数を示していたとの説もある。画像はhttps://item.rakuten.co.jp/athlete-med/11113471/から引用編集
たぶん次回も烏帽子まで話がたどり着かないm(_ _)m
ーーー続く
いきなりだけれど源義経の肖像画。
これを初めて見たときは衝撃を受けた。いつだったか記憶はないものの歴史の教科書ではなかったと思う。それまで義経といえば牛若丸時代に五条大橋で弁慶の攻撃を華麗にかわして返り討ちにした姿、平家との戦いでは軍略の天才的戦術として鵯越(ひよどりごえ)の奇襲、壇ノ浦の海戦での八艘飛びなど格好いいイメージしかなかった。最後は頼朝に追い詰められ自害するがそれも悲劇のヒーロー的。
それなのに何だ、この貧相で弱々しいオッサンは!
なんとなく泉谷しげるにも似ているゾ(>_<)
それはさておき、今回の本題は彼の被っている帽子。
どう見ても頭にのっている位置がおかしい。
そんな肖像画がたくさんあるので同じように感じた人も多いはず。上から順に信長を裏切った浅井長政、後北条3代目の北条氏康、ワイロ大好き田沼意次、寛政の改革の松平定信。帽子に注目して眺めて欲しい。

彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)と呼ばれるもの。
それで烏帽子とは何ぞやというと、帽子には2種類あって
冠(かんむり):正装、礼服着用時あるいは宮中に出仕する際の被り物。
烏帽子(えぼし):上記以外あるいは普段着のときの被り物。
画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用
烏帽子の烏は「トリ」ではなく「カラス」。色や形からの連想らしい。また烏帽子に形が似ていて烏帽子岩と呼ばれる岩礁は各地の海岸にある。画像はhttps://www.tabirai.net/localinfo/article/article-30356/から引用
一般に冠も烏帽子も身分が高いほど背が高くなる。天皇の冠なんて、立って歩いたらどこかに引っ掛からないか心配になるほど高い(写真は明治天皇、現在もほぼ同じ)。
ところで背が高い帽子といえば、和食の板前と較べて西洋料理のコックが使う帽子はどうしてあんなに長いのだろう?画像はhttps://www.interconti-tokyo.com/clk/とhttps://x.gd/OFzAT(短縮URL使用)から引用
それには諸説あって
フランス革命(1789〜1799年)後に「シェフの帝王かつ帝王のシェフ」と呼ば
れたアントナン・カレームが、客が着用するシルクハットを真似て被りだした。
アントナン・カレームの技法を継承し、またコースメニューを考案して「近代
フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエ(1846〜1935年)は、
身長が低く料理長の威厳を示すために高い帽子を被って仕事をした。
などがエピソードとして語られている。
衛生面を考えて始まったんじゃなかったのね。
またネットでコピペが繰り返されている情報で真偽は不明なものの、
帝国ホテルでは帽子の高さに
料理人見習い:18cm
7年目以降のキャリアを持つ料理人:23cm
料理長以上:35cm
のルールがあるらしい。
これが帝国ホテル総料理長の杉本氏。さすがに高くそびえ立っている。見たところ紙製で使い捨てのよう。画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/154802から引用
もっともヨーロッパではコックの地位に応じて帽子の高さが変わる文化はないみたい。またコック帽の高さではなく折りたたまれたプリーツの多さが、その料理人の腕前あるいは調理できる料理の数を示していたとの説もある。画像はhttps://item.rakuten.co.jp/athlete-med/11113471/から引用編集
たぶん次回も烏帽子まで話がたどり着かないm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 18:59|Permalink│Comments(0)│
2025年06月18日
あやせローズガーデン 番外編
残念ながら先日に「あやせローズガーデン」を訪れたときは曇り空だった。いつも書いているように最高に効果的な写真テクニックは「青空を背景に」「たっぷりの光を浴びた状態」で撮ること。少なくとも私の場合は(^^ゞ
例えばこの写真。ここは多くの人がバラのアーチを背景に自撮りをする。つまりこの位置からだとこっちを向いているので、人々が背中を向けている隙に撮るのが精一杯だった。構図としては見苦しい。それでもアーチの上が青空ならもう少し見栄えのいい写真になったに違いない。
というわけで晴れていなければ、晴れさせてしまえホトトギス。生成AIを使って曇り空を青空に、ついでに人物も消してしまおうと思いつく。プロンプト(AIに出す命令文)は「空を青空にして、写真に写っている人物を消去してください」。
<Grok> エックスが提供している生成AI
命令には忠実とはいえずいぶんと絵画調(画像を拡大してみて)。他のプログラムもそうなので生成AIは写真そのものを加工するのではなく、写真をベースにCG(コンピュータグラフィック)を作成するみたいだ。もっと写真風にと指示を追加してみると、青空の色が少し違った画像を出してきただけ。またなぜか消したはずの人物が1名だけ姿を変えて復活した。ナンデ?
<Gemini> Googleがが提供している生成AI
1回目はアーチの左側にいた人と、アーチの向こう側にいた人しか人物が消えていない。
それを指摘すると「申し訳ありません」との返事で修正してきた。
空が単に青で塗りつぶされていただけだったので、もう少し自然な色にして、雲も加えるように再指示。するとアーチの向こう側の風景がなくなってしまう。
なおGeminiは画像右下に「ai」と透かし文字を入れてくる。
<Chat GPT>
パソコンはMacでブラウザはBraveを使っている。しかしBraveではChat GPTが作成した画像が表示されなかった。そのことを伝えると「ここを右クリックで」などと対策を提案してくる。それで右クリックをしても選択肢に画像の表示や保存メニューは現れず。そこでブラウザをSafariに変えたら画像が表示された。今までこんなトラブルはなかったのに不思議。
3つのAIの中では最も精細。日差しが強い印象もある。でも写真ではなくあくまでCG調。それとオリジナルの写真は横3:縦2の横長なのに、なぜか縦横が同じ正方形の比率で出てきた。
結論として生成AIは写真の修正加工には使えない。まったくの別物になってしまう。これは生成AIが「写真ファイルの中身を修正変更する」ではなく、オリジナルの写真をベースにプロンプトを解釈して「似たような画像を新規に描き起こして」いるから。それが写真ではなくCG調になるのは、単に精細に出力できていないのが原因で、現状では描写能力が不足している。
もっとも考えてみれば、データを解析して新たに「作る」から「生成」AIと呼ばれる。それにしても生成AIは generative AI(artificial intelligence)の訳語だけれど、作るを意味する日本語はたくさんあるのに、どうして generative を生成(せいせい)なんてあまり使わない単語を当てはめたのだろう? 生成はどうにも語感的になじめない。
チャット式の生成AIは諦めて、次にAIを使って写真の加工や修正をしてくれる専門サービスを試してみた。これらは生成AIではなく、識別・検出型AIの技術を使っている。その違いは長くなるので割愛。。
その写真の加工や修正についてはスマホのアプリで提供しているサービスがほとんど。でも今回はパソコンのブラウザで使えるものを探した。どれも消しゴムツールのようなメニューを選んで、それで消したい部分をなぞる仕組み。
なおこちらのサービスでは青空への変更はなし。
また試したのは無料サイトのみ。
<PhotoRoom> https://www.photoroom.com/ja/tools/remove-object-from-photo
アーチ左側のバラが少ないのとアーチの中の風景がおかしいものの、
全体的に見ればまずまずの出来映え。
<MyEdit> https://myedit.online/jp/photo-editor/object-removal/edit
PhotoRoomと同レベル。ただしここは修正した画像をダウンロードできなかった。無料でできるのはMyEditの透かし文字入りの画像の閲覧だけ。作業の前にそういう注意書きはなかったのでチョット腹立つ。ブログに載せているのはスクリーンショット。
<Pixelcut> https://www.pixelcut.ai/ja/background-remover
アーチの向こう側の風景がかなりおかしい。
<Canva> https://www.canva.com/ja_jp/features/magic-eraser/
今回の中では一番良く修正できている。ただし「マジック消しゴム」というツールを使うのだが、それがどこにあるのか操作方法がとてもわかりにくい。使い方を解説したページがネットにあったのでいくつか参考にしたものの、古いバージョンでの解説なのか私の見ている画面と違う。けっこう苦労した。
ついでにいつも使っているPhotoshop Elements(フォトショップ・エレメンツ)でもトライ。あやせローズガーデンのブログを書いた際に修正しなかったのは、この写真が
消そうとする人物が画像に占める割合が大きい
人数も多いし人と人が重ねっている部分もある
人物を消した後の、つまり人物で隠れている部分が複雑
と難易度が高いから。
無理を承知でやってみるとやはりガタガタになった。
とくにアーチの中はモザイクタイルみたいになっている。人物を消すとは、消した後に周りの風景から拾ってきた画像を埋め込む機能なのであるが、そのブレンド具合はやはりAIのほうが勝っている。
もっとも私が使っているPhotoshop Elementsは2019年版だから、最新のバージョンだともっと上手にできるのかも知れない。最新バージョンではPhotoshop ElementsもAIを使っていると標榜している。2019年版もそうだったかは覚えていない。ただしAIはこの数年のうちにものすごく進化しているので、もし2019年版にAIが組み込まれていても、現在のPhotoRoom等のサービスと差が付いたのだろう。
理想的には生成AIと識別・検出型AIの融合がもっと進むのを期待したい。ツールを使って操作するのはそれなりの知識やテクニックがいるので、「こうして欲しい」と結果を命令するほうが楽。現時点で音声入力を使った命令ははやや使いにくいが、それも改善されて画面を眺めながら「ああでもない、こうでもない」と指示して修正できるようになるはず。そうすれば「青空を背景に」「たっぷりの光を浴びた状態」の縛りからも逃れられる。もちろんそのような快晴の天候で景色を眺めたほうが、お出かけとしてはキレイで楽しいに変わりはないけれど。
ついでにChat GPTで作成した画像を、Chat GPTにゴッホとモネ風にするよう指示してみた。なぜか今度は正方形が縦長画像になっている。
ゴッホはまあそれっぽい。
空をこのように描けば、他の部分がどうであろうとゴッホに見えてしまう。
これをモネに見せたら、
パレットで頭を殴られるな(>_<)
例えばこの写真。ここは多くの人がバラのアーチを背景に自撮りをする。つまりこの位置からだとこっちを向いているので、人々が背中を向けている隙に撮るのが精一杯だった。構図としては見苦しい。それでもアーチの上が青空ならもう少し見栄えのいい写真になったに違いない。
というわけで晴れていなければ、晴れさせてしまえホトトギス。生成AIを使って曇り空を青空に、ついでに人物も消してしまおうと思いつく。プロンプト(AIに出す命令文)は「空を青空にして、写真に写っている人物を消去してください」。
<Grok> エックスが提供している生成AI
命令には忠実とはいえずいぶんと絵画調(画像を拡大してみて)。他のプログラムもそうなので生成AIは写真そのものを加工するのではなく、写真をベースにCG(コンピュータグラフィック)を作成するみたいだ。もっと写真風にと指示を追加してみると、青空の色が少し違った画像を出してきただけ。またなぜか消したはずの人物が1名だけ姿を変えて復活した。ナンデ?
<Gemini> Googleがが提供している生成AI
1回目はアーチの左側にいた人と、アーチの向こう側にいた人しか人物が消えていない。
それを指摘すると「申し訳ありません」との返事で修正してきた。
空が単に青で塗りつぶされていただけだったので、もう少し自然な色にして、雲も加えるように再指示。するとアーチの向こう側の風景がなくなってしまう。
なおGeminiは画像右下に「ai」と透かし文字を入れてくる。
<Chat GPT>
パソコンはMacでブラウザはBraveを使っている。しかしBraveではChat GPTが作成した画像が表示されなかった。そのことを伝えると「ここを右クリックで」などと対策を提案してくる。それで右クリックをしても選択肢に画像の表示や保存メニューは現れず。そこでブラウザをSafariに変えたら画像が表示された。今までこんなトラブルはなかったのに不思議。
3つのAIの中では最も精細。日差しが強い印象もある。でも写真ではなくあくまでCG調。それとオリジナルの写真は横3:縦2の横長なのに、なぜか縦横が同じ正方形の比率で出てきた。
結論として生成AIは写真の修正加工には使えない。まったくの別物になってしまう。これは生成AIが「写真ファイルの中身を修正変更する」ではなく、オリジナルの写真をベースにプロンプトを解釈して「似たような画像を新規に描き起こして」いるから。それが写真ではなくCG調になるのは、単に精細に出力できていないのが原因で、現状では描写能力が不足している。
もっとも考えてみれば、データを解析して新たに「作る」から「生成」AIと呼ばれる。それにしても生成AIは generative AI(artificial intelligence)の訳語だけれど、作るを意味する日本語はたくさんあるのに、どうして generative を生成(せいせい)なんてあまり使わない単語を当てはめたのだろう? 生成はどうにも語感的になじめない。
チャット式の生成AIは諦めて、次にAIを使って写真の加工や修正をしてくれる専門サービスを試してみた。これらは生成AIではなく、識別・検出型AIの技術を使っている。その違いは長くなるので割愛。。
その写真の加工や修正についてはスマホのアプリで提供しているサービスがほとんど。でも今回はパソコンのブラウザで使えるものを探した。どれも消しゴムツールのようなメニューを選んで、それで消したい部分をなぞる仕組み。
なおこちらのサービスでは青空への変更はなし。
また試したのは無料サイトのみ。
<PhotoRoom> https://www.photoroom.com/ja/tools/remove-object-from-photo
アーチ左側のバラが少ないのとアーチの中の風景がおかしいものの、
全体的に見ればまずまずの出来映え。
<MyEdit> https://myedit.online/jp/photo-editor/object-removal/edit
PhotoRoomと同レベル。ただしここは修正した画像をダウンロードできなかった。無料でできるのはMyEditの透かし文字入りの画像の閲覧だけ。作業の前にそういう注意書きはなかったのでチョット腹立つ。ブログに載せているのはスクリーンショット。
<Pixelcut> https://www.pixelcut.ai/ja/background-remover
アーチの向こう側の風景がかなりおかしい。
<Canva> https://www.canva.com/ja_jp/features/magic-eraser/
今回の中では一番良く修正できている。ただし「マジック消しゴム」というツールを使うのだが、それがどこにあるのか操作方法がとてもわかりにくい。使い方を解説したページがネットにあったのでいくつか参考にしたものの、古いバージョンでの解説なのか私の見ている画面と違う。けっこう苦労した。
ついでにいつも使っているPhotoshop Elements(フォトショップ・エレメンツ)でもトライ。あやせローズガーデンのブログを書いた際に修正しなかったのは、この写真が
消そうとする人物が画像に占める割合が大きい
人数も多いし人と人が重ねっている部分もある
人物を消した後の、つまり人物で隠れている部分が複雑
と難易度が高いから。
無理を承知でやってみるとやはりガタガタになった。
とくにアーチの中はモザイクタイルみたいになっている。人物を消すとは、消した後に周りの風景から拾ってきた画像を埋め込む機能なのであるが、そのブレンド具合はやはりAIのほうが勝っている。
もっとも私が使っているPhotoshop Elementsは2019年版だから、最新のバージョンだともっと上手にできるのかも知れない。最新バージョンではPhotoshop ElementsもAIを使っていると標榜している。2019年版もそうだったかは覚えていない。ただしAIはこの数年のうちにものすごく進化しているので、もし2019年版にAIが組み込まれていても、現在のPhotoRoom等のサービスと差が付いたのだろう。
理想的には生成AIと識別・検出型AIの融合がもっと進むのを期待したい。ツールを使って操作するのはそれなりの知識やテクニックがいるので、「こうして欲しい」と結果を命令するほうが楽。現時点で音声入力を使った命令ははやや使いにくいが、それも改善されて画面を眺めながら「ああでもない、こうでもない」と指示して修正できるようになるはず。そうすれば「青空を背景に」「たっぷりの光を浴びた状態」の縛りからも逃れられる。もちろんそのような快晴の天候で景色を眺めたほうが、お出かけとしてはキレイで楽しいに変わりはないけれど。
ついでにChat GPTで作成した画像を、Chat GPTにゴッホとモネ風にするよう指示してみた。なぜか今度は正方形が縦長画像になっている。
ゴッホはまあそれっぽい。
空をこのように描けば、他の部分がどうであろうとゴッホに見えてしまう。
これをモネに見せたら、
パレットで頭を殴られるな(>_<)
wassho at 23:30|Permalink│Comments(0)│
2025年06月17日
浮世絵の謎
近頃のNHKは大河ドラマと関連した番組をよく作る。ある種の番宣番組であり局を上げて大河ドラマを盛り上げようとしているのだろう。今年の大河ドラマは喜多川歌麿や東洲斎写楽のプロデューサーであった蔦屋重三郎を主人公にした「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」。それで浮世絵や浮世絵師をテーマにした関連番組が多い。大河ドラマを見る習慣はないのだが関連番組はいくつか見た。
その浮世絵について昔から疑問に思っていることがある。
今でこそ浮世絵は美術館で鑑賞する「美術」として扱われているものの、江戸時代には大衆の「娯楽」のひとつだった。現在の価格で1枚が数百円〜1000円程度だったらしい。
浮世絵は基本的に版画=印刷物であるが、何枚くらい刷られたのかの正確な記録はないようである。歌川豊国の作品数は1万点以上とされ、部数は平均で500〜1000枚、最も売れた作品で7000枚といわれている。また歌川広重「東海道五十三次(全55枚)」には1万枚を超えるものもあったと伝わる。ちなみに江戸の人口は江戸時代中期から後期で町人50万人+武士50万人の100万人。
なお江戸以外の各地で浮世絵がどれくらい普及していたのかもよくわからない。
ただし今回はそれには触れない。
さて葛飾北斎は弟子が200名いたらしく、それは例外的に多いから話に残っているとしても、現在の我々がよく知るポピュラーな浮世絵師以外にも多数の浮世絵師がいて、実に数多くの浮世絵が販売されていたのだと思う。
そして疑問とは
江戸時代の人は浮世絵をどのように眺めていたのか?
である。
浮世絵が現代のポスターのような存在であるとすれば、自宅で壁に貼ると考えたくなる。しかし江戸時代の庶民の家で浮世絵が壁に貼られている光景がどうにも想像できない。またその光景を描いた浮世絵やその他の図柄も見た記憶がない。
ポスターを壁に貼るのは絵を額縁に入れて掛ける西洋の風習の簡略版。日本風になら掛け軸になるが浮世絵を掛け軸にはしない気がする。それにおそらく江戸時代の庶民の家に掛け軸はない(掛け軸を掛ける床の間もない)。また壁に浮世絵を貼るには画鋲が必要。しかし画鋲は明治になって製図に使う道具として輸入されたもので江戸時代にはまだなかった。
浮世絵の大きさは、最も多く刷られたとされる大判で約39cm×27cm。現代の用紙サイズだとA3:42cm×29.7cmとB4:36.4cm×25.7cmの中間くらい。手に持って眺めていたなら、そうでないときはどうしていたのか。文箱に入れるには大きすぎる。それにそんな道具は庶民の家にはないはず。クリアファイルはもちろんとして本棚や引き出しも江戸時代にはない。見ないときはクルクルと丸めていたのか。輪ゴムもなかったけれど。
今までに何度か調べたものの、そんなことを気にしている研究者はいないようで特に情報は得られず。以前に浮世絵の展覧会で学芸員に尋ねたら「いや〜、それはーーー」と困った顔をされた。
もっとも浮世絵は1度見たら、また見ることはあまりない新聞や週刊誌のような存在だったのかも知れない。パリの印象派の画家たちが浮世絵の影響を受けたのは、日本より輸出された陶磁器の包み紙として使われていた浮世絵を見たのが最初といわれる。プチプチの代わりにクシャクシャにした浮世絵が使われていたのだろう。それは明治になっての話とはいえもはや古新聞扱いである。江戸時代に紙はまだ貴重品だったから、しばらく眺めた後の浮世絵は裏面をメモ帳代わりにしたり、あるいは当時から存在した古紙回収業者に売ったとも考えられる。
いずれにせよ現在の漫画のルーツともいえる浮世絵を、江戸時代の庶民がどのように眺めて楽しんでいたのか、しっかりとした研究や考察を読んでみたいと願っている。
さて2025年ならこんな楽しみ方もある(^^ゞ
喜多川歌麿の「寛政三美人」。
最近やたら見かける「AIでジブリ風」にしてみた。
それをさらにルノワール風。
悪ノリしてフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を、
喜多川歌麿に描かせてみる。
もっと浮世絵風の顔にとリクエストしたら、
目線の向きや唇の形は少し浮世絵っぽくなったけれど顔の陰影が消えてしまった。目の大きさが変わらないのは、浮世絵のあの細目にAIは抵抗があるのだろうか。
今はまだお遊び適度でも10年後のAI進化が楽しみ。
その浮世絵について昔から疑問に思っていることがある。
今でこそ浮世絵は美術館で鑑賞する「美術」として扱われているものの、江戸時代には大衆の「娯楽」のひとつだった。現在の価格で1枚が数百円〜1000円程度だったらしい。
浮世絵は基本的に版画=印刷物であるが、何枚くらい刷られたのかの正確な記録はないようである。歌川豊国の作品数は1万点以上とされ、部数は平均で500〜1000枚、最も売れた作品で7000枚といわれている。また歌川広重「東海道五十三次(全55枚)」には1万枚を超えるものもあったと伝わる。ちなみに江戸の人口は江戸時代中期から後期で町人50万人+武士50万人の100万人。
なお江戸以外の各地で浮世絵がどれくらい普及していたのかもよくわからない。
ただし今回はそれには触れない。
さて葛飾北斎は弟子が200名いたらしく、それは例外的に多いから話に残っているとしても、現在の我々がよく知るポピュラーな浮世絵師以外にも多数の浮世絵師がいて、実に数多くの浮世絵が販売されていたのだと思う。
そして疑問とは
江戸時代の人は浮世絵をどのように眺めていたのか?
である。
浮世絵が現代のポスターのような存在であるとすれば、自宅で壁に貼ると考えたくなる。しかし江戸時代の庶民の家で浮世絵が壁に貼られている光景がどうにも想像できない。またその光景を描いた浮世絵やその他の図柄も見た記憶がない。
ポスターを壁に貼るのは絵を額縁に入れて掛ける西洋の風習の簡略版。日本風になら掛け軸になるが浮世絵を掛け軸にはしない気がする。それにおそらく江戸時代の庶民の家に掛け軸はない(掛け軸を掛ける床の間もない)。また壁に浮世絵を貼るには画鋲が必要。しかし画鋲は明治になって製図に使う道具として輸入されたもので江戸時代にはまだなかった。
浮世絵の大きさは、最も多く刷られたとされる大判で約39cm×27cm。現代の用紙サイズだとA3:42cm×29.7cmとB4:36.4cm×25.7cmの中間くらい。手に持って眺めていたなら、そうでないときはどうしていたのか。文箱に入れるには大きすぎる。それにそんな道具は庶民の家にはないはず。クリアファイルはもちろんとして本棚や引き出しも江戸時代にはない。見ないときはクルクルと丸めていたのか。輪ゴムもなかったけれど。
今までに何度か調べたものの、そんなことを気にしている研究者はいないようで特に情報は得られず。以前に浮世絵の展覧会で学芸員に尋ねたら「いや〜、それはーーー」と困った顔をされた。
もっとも浮世絵は1度見たら、また見ることはあまりない新聞や週刊誌のような存在だったのかも知れない。パリの印象派の画家たちが浮世絵の影響を受けたのは、日本より輸出された陶磁器の包み紙として使われていた浮世絵を見たのが最初といわれる。プチプチの代わりにクシャクシャにした浮世絵が使われていたのだろう。それは明治になっての話とはいえもはや古新聞扱いである。江戸時代に紙はまだ貴重品だったから、しばらく眺めた後の浮世絵は裏面をメモ帳代わりにしたり、あるいは当時から存在した古紙回収業者に売ったとも考えられる。
いずれにせよ現在の漫画のルーツともいえる浮世絵を、江戸時代の庶民がどのように眺めて楽しんでいたのか、しっかりとした研究や考察を読んでみたいと願っている。
さて2025年ならこんな楽しみ方もある(^^ゞ
喜多川歌麿の「寛政三美人」。
最近やたら見かける「AIでジブリ風」にしてみた。
それをさらにルノワール風。
悪ノリしてフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を、
喜多川歌麿に描かせてみる。
もっと浮世絵風の顔にとリクエストしたら、
目線の向きや唇の形は少し浮世絵っぽくなったけれど顔の陰影が消えてしまった。目の大きさが変わらないのは、浮世絵のあの細目にAIは抵抗があるのだろうか。
今はまだお遊び適度でも10年後のAI進化が楽しみ。
wassho at 20:31|Permalink│Comments(0)│
2025年04月15日
尾久の原公園でしだれ桜(都立大学と学芸大学)
公園へ向かう道路を、
数分ほど歩いて見えてきたこの建物は、
都立大だった。
こんなところにあったとはつゆとも知らず。
都立大学はそこそこの伝統がある大学。私が受験生の頃にも問題集で都立大学の例題をよく見た。しかしここにある都立大学、実は2020年からの歴史しかないというややこしい成り立ち。
都立大学の前身は1929年(昭和4年)に設置された7年制の府立高等学校(まだ東京府だった時代)。場所は永田町で1932年(昭和7年)に目黒区八雲に移転。戦後の1949年(昭和24年)の学制改革により、高等科(7年制の後半3年)が東京都立大学、尋常科(7年制の前半4年)は東京都立大学附属高校に改組される。ここが都立大学のスタート。1991年(平成3年)に八王子へ移転。
やがて1990年代後半より行政改革機運が高まると(2001年に独立行政法人制度ができたりした)、東京都立大学も他の都立3大学と統合する運びとなる。
ところが2003年の都知事選で「今までにないまったく新しい大学を作る」と公約を掲げた石原慎太郎が二期目の当選。それまでの統合に関する議論を無視した学部構成や履修形態などを打ち出す。そういえば石原慎太郎とトランプは似たところがあったなあ。
そこから東京都(の石原都知事の意向を受けた一派)と大学側が激突!
公募では過半数越えで最多だった新大学の「東京都立大学」との名称も、東京都が独断で公募案にはなかった「首都大学東京」にすると発表。石原都知事は小説家でもあったせいか「東京環状線」と決まりかけていた地下鉄新路線を「大江戸線」に変更するなど、言葉遣いの一種ともいえるネーミングには関心が高かった。ただし関心が高いのとセンスがいいかはまた別問題で、彼は「新銀行東京」なんてのも設立した(後に破綻し現在は「きらぼし銀行」)。
そしてその他もっと本質的な問題でスったモンだして有力教授多数の退職や新大学への就任拒否、他大学へ移籍の事態を招く。それにより文科省が新大学の認可を予定より数ヶ月見送り。さらに教授たちがいなくなった経済学部は新大学として設立申請できないハメに(その後に復活)。
まあそれでも何とか2005年4月1日に首都大学東京が開学。キャンパスは都立大学の居抜きでも、これは都立の4大学の統合ではなく新規の大学扱いとなって、都立大学は1949年からの歴史に幕を閉じたことになる。(諸説あり)
でも首都大学東京なんて名前は聞いたことがない人の方が多いんじゃない?
それは東京に住んでいても同じで、どこのFラン大学かと思ってしまう。
結果として開学10年以上経っても知名度はまったく上がらず。そうなると学生は就職などでも不利になるし、大学としても優秀な生徒が集まらなくなる(開学当初は不人気から偏差値もかなり低下)。学生アンケートでも改善して欲しいポイントのダントツ1位に「大学名・知名度」が長年続いたそうだ。
ちなみに首都大学東京の略称はクビ大だったらしい。首都の首はクビだけれど、それよりも新大学設立に当たって、石原都知事に反対した教授たちの首をたくさん切ったのが由来と噂されている(/o\)
それでどんな知名度アップ策を採ったかというと、何と2018年に以前の「東京都立大学」に名称を戻すと発表。ナンジャソレ! 主導したのは小池都知事。時期としては都知事1期2年目の出来事(現在は3期目)。そういえばこの頃の小池都知事は勢いがあったように記憶している。トランプがバイデンの政策をドンドン反故にしているように、小池さんにも石原都政を否定したい気持ちがあったのかも知れない。
なお聞くところによるとこの時も完全に東京都主導で、大学の現場や学生の声を取り入れたり、あるいは充分に説明したりした様子はない。現在の大学の権威や存在力はその程度なのだろう。
そして2020年4月1日をもって名称を「東京都立大学」に変更。
それから5年が経って現在は知名度や偏差値は上がったのかな?
よく見るとなぜか英文表記は変更されていない。
というか首都大学東京の英文がどうして Metropolitan University Tokyo でないのだ?
ここで問題は
首都大学東京は新設大学なので旧都立大学とはつながっていない
新しい都立大学は首都大学東京の単なる名称変更だからつながっている
すると三段論法で旧都立大学と新しい都立大学はつながっていないとなる。同じ名前で同じキャンパスなのにヘンなの。最初に「2020年からの歴史しかない」とはそういう意味。首都大学東京時代を含めても2005年から20年の歴史。
まっ、私の母校じゃないしどうでもいいけど(^^ゞ
なおこの都立大学荒川キャンパスは、以前の都立4大学のひとつである東京都立保健科学大学があった場所。その流れで都立大学では健康福祉学部が入っている。
こんな話ばかり書いていると、
いつまでたっても尾久の原公園の話にたどり着かない(/o\)
でもそれはいつものことだし、ついでにもうひとつ。
渋谷と横浜を結ぶ東急東横線には、
学芸大学と都立大学と大学名のついた駅が2つある。
駅名が大学の名前なら、その大学の最寄り駅だと考えるのが普通。でも学芸大学も都立大学もとっくの昔に東横線沿線から移転して現地に存在しない。それなのに駅名にだけ残っている不思議。
学芸大学は明治時代より続く4つの師範学校を統合して、戦後1949年(昭和24年)の学制改革により発足した国立の大学。統合したといっても当初は4つの師範学校がそれぞれ持っていた5箇所の校舎を使っていた。そのうちのひとつが元は東京第一師範学校の校舎だった世田谷区下馬にある世田谷キャンパス。
そして学芸大学駅は
1927年(昭和2年)に碑文谷(ひもんや)駅として開業。
↓
1936年(昭和11年)に、東京第一師範学校の前身で現在の北青山三丁目に
あった東京府青山師範学校が、世田谷区下馬に新校舎を建てて移転してくると
駅名を青山師範駅に改称。
↓
1943年(昭和18年)に青山師範学校が東京第一師範学校に名称変更すると
駅名も第一師範駅に改称。
↓
学芸大学の発足は1949年(昭和24年)であるが、在校生が卒業するまで、
東京学芸大学東京第一師範学校として師範学校は存続。
在校生がすべて卒業した1951年に廃止。
↓
1952年(昭和27年)に駅名を学芸大学駅に改称。
と、まあ見事に学校の変遷に併せて名前を変えてきている。
しかし1964年(昭和39年)に学芸大学は都内各地にあったキャンパスを、元は東京第二師範学校だった小金井市に統合。学芸大学駅は大学とは無関係な駅になってしまった。
隣の都立大学駅も似たような経緯。
1927年(昭和2年)に柿ノ木坂駅として開業。
↓
1931年(昭和6年)に府立高等前駅に改称。
ただし都立大学の前身の府立高等学校が目黒区八雲に移転してきたのは1932年
であり、なぜ前年にまだ存在していない学校名に駅名を変えたのかはナゾ。
移転が決まったのは1930年でまだ校舎建築中だったはず。
なおこの移転は沿線発展のために東急が誘致して実現。
それにしても府立高等前と「学校」を省いて変な駅名。
↓
翌1932年(昭和7年)に府立高等駅に改称。
駅から校舎まで歩いて10分以上は掛かるので「前」を外したみたい(^^ゞ
↓
1943年(昭和18年)に東京市と東京府を廃止して東京都が設置される。
実はこれ、戦時体制強化の一環だったのは意外と知られていない。
↓
これに伴い府立高等学校は都立高等学校に名称変更。
駅名もそれに併せて都立高校駅に改称。
今度は高等で切らずに高校にしたのね。
↓
1949年(昭和24年)の学制改革により東京都立大学が発足。
都立高等学校は1950年3月に廃止。
↓
府立高等学校のときは学校が来る1年前に駅名を変えたのに、今度はなぜか
大学になった3年後の1952年(昭和27年)に駅名を都立大学駅に改称。
都立大学は目黒区八雲近くの、駒沢公園に隣接している世田谷区深沢にもキャンパスを広げていた。それでも手狭となり1991年(平成3年)に八王子市南大沢に移転。
というわけで2025年から数えると
学芸大学駅:61年前から大学とは無関係
都立大学駅:34年前から大学とは無関係
な状態が続いている。
都立大学に至っては、途中で大学名が消滅した時期が15年間あった。
それってドウヨ?と思うけれど、東急電鉄は1999年に駅名に関する住民アンケートを行っている。駅名変更の賛否を問うた結果は
学芸大学駅:賛成549名 反対934名 合計1483名 賛成率37%
都立大学駅:賛成630名 反対436名 合計1066名 賛成率59%
3分の2以上の賛成があれば変更する方針と公表していたらしいが、この結果で取りやめに。どういうサンプリング(アンケート対象者の抽出)で実施したのか、その他質問内容を含めてモロモロ不明なので結果を論評できないものの、世の中は何かにつけ現状変更のハードルが高いとうかがわせる数字。
駅名なんて普段は意識しないから単なる記号のような存在。でもそそっかしい受験生が間違えたりしないのかな。沿線住民として碑文谷や柿の木坂は、地名としてのイメージもよくて駅名にふさわしいと思うけど。
駅と学校の位置関係はこんな感じ。
学芸大学の旧世田谷下馬キャンパスは、大学があったときから併設されていた附属高校がそのまま使用している。敷地面積は5.3ヘクタールで高校としては相当に広い。なお大学が移転した小金井キャンパスは30ヘクタール。参考までに広さの単位である?東京ドームは4.7ヘクタール。
また学芸大学は世田谷区深沢にも付属の小学校と中学校を持っている。
ただしこちらの最寄り駅は都立大学駅というカオス(^^ゞ
都立大学があった旧目黒八雲キャンパスは7ヘクタール。現在は都立大学附属高等学校を前身として中高一貫校となった都立桜修館中等教育学校が2.85ヘクタールを有し、残りに「めぐろ区民キャンパス」という区営の文化施設が造られた。中高一貫校とは7年制だった府立高等学校時代に戻ったともいえるね。
旧世田谷深沢キャンパスは4ヘクタール。ここは民間に売却されて13棟772戸の大規模マンション群となっている。
たまたま都立大学の前を通りかかったせいで、
話が明後日の方向に走ってしまった。
興味の向くままに筆を走らせるのがこのブログとはいえ、
そろそろしだれ桜の話に入らないと(^^ゞ
ーーー続く
数分ほど歩いて見えてきたこの建物は、
都立大だった。
こんなところにあったとはつゆとも知らず。
都立大学はそこそこの伝統がある大学。私が受験生の頃にも問題集で都立大学の例題をよく見た。しかしここにある都立大学、実は2020年からの歴史しかないというややこしい成り立ち。
都立大学の前身は1929年(昭和4年)に設置された7年制の府立高等学校(まだ東京府だった時代)。場所は永田町で1932年(昭和7年)に目黒区八雲に移転。戦後の1949年(昭和24年)の学制改革により、高等科(7年制の後半3年)が東京都立大学、尋常科(7年制の前半4年)は東京都立大学附属高校に改組される。ここが都立大学のスタート。1991年(平成3年)に八王子へ移転。
やがて1990年代後半より行政改革機運が高まると(2001年に独立行政法人制度ができたりした)、東京都立大学も他の都立3大学と統合する運びとなる。
ところが2003年の都知事選で「今までにないまったく新しい大学を作る」と公約を掲げた石原慎太郎が二期目の当選。それまでの統合に関する議論を無視した学部構成や履修形態などを打ち出す。そういえば石原慎太郎とトランプは似たところがあったなあ。
そこから東京都(の石原都知事の意向を受けた一派)と大学側が激突!
公募では過半数越えで最多だった新大学の「東京都立大学」との名称も、東京都が独断で公募案にはなかった「首都大学東京」にすると発表。石原都知事は小説家でもあったせいか「東京環状線」と決まりかけていた地下鉄新路線を「大江戸線」に変更するなど、言葉遣いの一種ともいえるネーミングには関心が高かった。ただし関心が高いのとセンスがいいかはまた別問題で、彼は「新銀行東京」なんてのも設立した(後に破綻し現在は「きらぼし銀行」)。
そしてその他もっと本質的な問題でスったモンだして有力教授多数の退職や新大学への就任拒否、他大学へ移籍の事態を招く。それにより文科省が新大学の認可を予定より数ヶ月見送り。さらに教授たちがいなくなった経済学部は新大学として設立申請できないハメに(その後に復活)。
まあそれでも何とか2005年4月1日に首都大学東京が開学。キャンパスは都立大学の居抜きでも、これは都立の4大学の統合ではなく新規の大学扱いとなって、都立大学は1949年からの歴史に幕を閉じたことになる。(諸説あり)
でも首都大学東京なんて名前は聞いたことがない人の方が多いんじゃない?
それは東京に住んでいても同じで、どこのFラン大学かと思ってしまう。
結果として開学10年以上経っても知名度はまったく上がらず。そうなると学生は就職などでも不利になるし、大学としても優秀な生徒が集まらなくなる(開学当初は不人気から偏差値もかなり低下)。学生アンケートでも改善して欲しいポイントのダントツ1位に「大学名・知名度」が長年続いたそうだ。
ちなみに首都大学東京の略称はクビ大だったらしい。首都の首はクビだけれど、それよりも新大学設立に当たって、石原都知事に反対した教授たちの首をたくさん切ったのが由来と噂されている(/o\)
それでどんな知名度アップ策を採ったかというと、何と2018年に以前の「東京都立大学」に名称を戻すと発表。ナンジャソレ! 主導したのは小池都知事。時期としては都知事1期2年目の出来事(現在は3期目)。そういえばこの頃の小池都知事は勢いがあったように記憶している。トランプがバイデンの政策をドンドン反故にしているように、小池さんにも石原都政を否定したい気持ちがあったのかも知れない。
なお聞くところによるとこの時も完全に東京都主導で、大学の現場や学生の声を取り入れたり、あるいは充分に説明したりした様子はない。現在の大学の権威や存在力はその程度なのだろう。
そして2020年4月1日をもって名称を「東京都立大学」に変更。
それから5年が経って現在は知名度や偏差値は上がったのかな?
よく見るとなぜか英文表記は変更されていない。
というか首都大学東京の英文がどうして Metropolitan University Tokyo でないのだ?
ここで問題は
首都大学東京は新設大学なので旧都立大学とはつながっていない
新しい都立大学は首都大学東京の単なる名称変更だからつながっている
すると三段論法で旧都立大学と新しい都立大学はつながっていないとなる。同じ名前で同じキャンパスなのにヘンなの。最初に「2020年からの歴史しかない」とはそういう意味。首都大学東京時代を含めても2005年から20年の歴史。
まっ、私の母校じゃないしどうでもいいけど(^^ゞ
なおこの都立大学荒川キャンパスは、以前の都立4大学のひとつである東京都立保健科学大学があった場所。その流れで都立大学では健康福祉学部が入っている。
こんな話ばかり書いていると、
いつまでたっても尾久の原公園の話にたどり着かない(/o\)
でもそれはいつものことだし、ついでにもうひとつ。
渋谷と横浜を結ぶ東急東横線には、
学芸大学と都立大学と大学名のついた駅が2つある。
駅名が大学の名前なら、その大学の最寄り駅だと考えるのが普通。でも学芸大学も都立大学もとっくの昔に東横線沿線から移転して現地に存在しない。それなのに駅名にだけ残っている不思議。
学芸大学は明治時代より続く4つの師範学校を統合して、戦後1949年(昭和24年)の学制改革により発足した国立の大学。統合したといっても当初は4つの師範学校がそれぞれ持っていた5箇所の校舎を使っていた。そのうちのひとつが元は東京第一師範学校の校舎だった世田谷区下馬にある世田谷キャンパス。
そして学芸大学駅は
1927年(昭和2年)に碑文谷(ひもんや)駅として開業。
↓
1936年(昭和11年)に、東京第一師範学校の前身で現在の北青山三丁目に
あった東京府青山師範学校が、世田谷区下馬に新校舎を建てて移転してくると
駅名を青山師範駅に改称。
↓
1943年(昭和18年)に青山師範学校が東京第一師範学校に名称変更すると
駅名も第一師範駅に改称。
↓
学芸大学の発足は1949年(昭和24年)であるが、在校生が卒業するまで、
東京学芸大学東京第一師範学校として師範学校は存続。
在校生がすべて卒業した1951年に廃止。
↓
1952年(昭和27年)に駅名を学芸大学駅に改称。
と、まあ見事に学校の変遷に併せて名前を変えてきている。
しかし1964年(昭和39年)に学芸大学は都内各地にあったキャンパスを、元は東京第二師範学校だった小金井市に統合。学芸大学駅は大学とは無関係な駅になってしまった。
隣の都立大学駅も似たような経緯。
1927年(昭和2年)に柿ノ木坂駅として開業。
↓
1931年(昭和6年)に府立高等前駅に改称。
ただし都立大学の前身の府立高等学校が目黒区八雲に移転してきたのは1932年
であり、なぜ前年にまだ存在していない学校名に駅名を変えたのかはナゾ。
移転が決まったのは1930年でまだ校舎建築中だったはず。
なおこの移転は沿線発展のために東急が誘致して実現。
それにしても府立高等前と「学校」を省いて変な駅名。
↓
翌1932年(昭和7年)に府立高等駅に改称。
駅から校舎まで歩いて10分以上は掛かるので「前」を外したみたい(^^ゞ
↓
1943年(昭和18年)に東京市と東京府を廃止して東京都が設置される。
実はこれ、戦時体制強化の一環だったのは意外と知られていない。
↓
これに伴い府立高等学校は都立高等学校に名称変更。
駅名もそれに併せて都立高校駅に改称。
今度は高等で切らずに高校にしたのね。
↓
1949年(昭和24年)の学制改革により東京都立大学が発足。
都立高等学校は1950年3月に廃止。
↓
府立高等学校のときは学校が来る1年前に駅名を変えたのに、今度はなぜか
大学になった3年後の1952年(昭和27年)に駅名を都立大学駅に改称。
都立大学は目黒区八雲近くの、駒沢公園に隣接している世田谷区深沢にもキャンパスを広げていた。それでも手狭となり1991年(平成3年)に八王子市南大沢に移転。
というわけで2025年から数えると
学芸大学駅:61年前から大学とは無関係
都立大学駅:34年前から大学とは無関係
な状態が続いている。
都立大学に至っては、途中で大学名が消滅した時期が15年間あった。
それってドウヨ?と思うけれど、東急電鉄は1999年に駅名に関する住民アンケートを行っている。駅名変更の賛否を問うた結果は
学芸大学駅:賛成549名 反対934名 合計1483名 賛成率37%
都立大学駅:賛成630名 反対436名 合計1066名 賛成率59%
3分の2以上の賛成があれば変更する方針と公表していたらしいが、この結果で取りやめに。どういうサンプリング(アンケート対象者の抽出)で実施したのか、その他質問内容を含めてモロモロ不明なので結果を論評できないものの、世の中は何かにつけ現状変更のハードルが高いとうかがわせる数字。
駅名なんて普段は意識しないから単なる記号のような存在。でもそそっかしい受験生が間違えたりしないのかな。沿線住民として碑文谷や柿の木坂は、地名としてのイメージもよくて駅名にふさわしいと思うけど。
駅と学校の位置関係はこんな感じ。
学芸大学の旧世田谷下馬キャンパスは、大学があったときから併設されていた附属高校がそのまま使用している。敷地面積は5.3ヘクタールで高校としては相当に広い。なお大学が移転した小金井キャンパスは30ヘクタール。参考までに広さの単位である?東京ドームは4.7ヘクタール。
また学芸大学は世田谷区深沢にも付属の小学校と中学校を持っている。
ただしこちらの最寄り駅は都立大学駅というカオス(^^ゞ
都立大学があった旧目黒八雲キャンパスは7ヘクタール。現在は都立大学附属高等学校を前身として中高一貫校となった都立桜修館中等教育学校が2.85ヘクタールを有し、残りに「めぐろ区民キャンパス」という区営の文化施設が造られた。中高一貫校とは7年制だった府立高等学校時代に戻ったともいえるね。
旧世田谷深沢キャンパスは4ヘクタール。ここは民間に売却されて13棟772戸の大規模マンション群となっている。
たまたま都立大学の前を通りかかったせいで、
話が明後日の方向に走ってしまった。
興味の向くままに筆を走らせるのがこのブログとはいえ、
そろそろしだれ桜の話に入らないと(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 20:48|Permalink│Comments(0)│
2025年03月31日
小惑星の話の続き その2
小惑星2024YR4は地球から82万8800km=月との距離の2.16倍のところで発見された。逆にいえば、その位置に来るまで発見されなかった。仮に衝突コースの軌道を進んでいた場合、6万1200kmで移動している2024YR4が、そこから地球に衝突するまでわずか13時間半しかない。
地球に接近してくる小惑星が、
どのあたりで見つかっているのか過去の事例を探すと
2012年 2012 LZ1 直径500m 最接近の4日前に発見
最接近時の地球との距離540万キロkm これは月との距離の14倍
2013年 3月2日のブログでも紹介したチェリャビンスク隕石
直径17m 落ちてくるまで気付かれず
2023年 2023 BU 直径3.5〜8.5m 最接近の5日前に発見
最接近時の地球との距離3589km
2023年 2023 NT1 直径60m 最接近の2日後に発見 発見された位置は、
地球から月までの距離の約4分の1に相当する10万230km
2024年 2024 XA 直径1.3〜2.8m
発見の5時間後に最接近 地球との距離わずかに1355km
ちなみに人工衛星が回っているのは高度200kmから3万6000lm
2024年 2024 XA1 直径0.7〜1.5m 発見から約12時間後に地球と衝突
他にもたくさんあって調べきれない。しかしPHAが140m以上の基準を設けている理由は別として、どうやら大都市壊滅級の小惑星でも早期発見は容易ではなく、(衝突コースなら)発見されたときには既に手遅れが現実のようだ(/o\)
もっとも2024YR4の大きさを100mと大きめに見積もっても、最接近距離82万8800kmとの比率は、東京から1000km離れた知床半島で12cmのものを探すのと同じ。そりゃ難しいか、しかも探すのは真っ暗な宇宙だし。
なお上の事例だけを見るとしっかり観測・監視されているように思えるものの、地球に突入してきた小惑星で2024XA1のように事前に発見されていた事例は、天体観測史上わずかに11件しかない。チェリャビンスク隕石のように落ちてきた初めて存在を知るケースがほとんど。だから発見して半日後には衝突、場所によっては大惨事というのは、あり得なくはない話なのである。
その小惑星はどれくらいの頻度で地球に向かってくるのか。
星は宇宙に漂うさまざまな粒子が衝突・合体を繰り返し巨大化した天体。そのサイズまで至らなかったり、ほとんど石コロのままでいるのが小惑星。それが地球に突入してきて大気圏で燃え尽きるのが流星で、その中で特に明るいのが火球(たまにUFOと間違われるヤツ)。そして燃え尽きずに地上まで落ちてきたのは隕石と呼び名が変わる。
大気中で燃え尽きる流星のサイズは数mmから数cm程度で、星屑や星のカケラとも呼べないくらいに小さい。なお燃え尽きるといっても、その燃えかすが数十から数百マイクロメートルの微粒子となり大気中を漂って地表に落ちてくる(1マイクロメートルは1mmの1/1000)。その見積もり量はなんと年間で5000トン。だから流星は四六時中無数に落ちてきているといえる。夜に限っても目に見えるほど光る流星はその中のごくわずか。肩から払ったチリに流星の燃えかすがのっていたかも知れないね(^^ゞ
流星の段階で燃え尽きずに地表まで到達したのが隕石。大気圏突入時に何センチ以上なら燃え尽きずに隕石となるのかはよくわからなかった。大きさと共に成分も関連するはず。また発見された隕石のサイズ分布も資料なし。
その隕石も推定で年間2万個が地表に落ちている。発見されるのはそのうち10個未満。ただしこれはどの程度の大きさ以上を隕石と見なしているかにもよるはず。数ミリ角のものだってあるはずで、そんなサイズなら自宅の庭に落ちても見つけられないだろう。
それは別として2万個のうち10個未満しか発見されないのは、陸地は地球の3割だし、都市部はその3割の1%ほどに過ぎないのがその理由。陸地に落ちてもほとんどが人知れずな僻地。そう聞くと今後に大型の小惑星が衝突しても大丈夫と安心するけれど、日本では5年に1回の割合で隕石落下が確認されている。それは日本の人口密度が高いからで、それだけ小惑星衝突のリスクも高いのを意味している(/o\)
さて上空で燃え尽きる流星や石コロレベルの隕石について
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
問題は大型の小惑星(というと表現が矛盾してしまうが)いわゆる巨大隕石。
一説によると大きさと頻度の関係は
直径1m 2週間に1度 重大な影響なし
直径5m 数年に1度 重大な影響なし
直径20m 50年から数100年に1度 強い爆発
直径100m 1万年に1度 都市の破壊
直径1km 50〜100万年に1度 地域の破壊
それ以上 1〜3億年に1度 気候変動、大量絶滅
と考えられているらしい。
ただしこの何年に1度の割合との表現はくせ者。100年に1度なんていわれると、ほとんどそんな事態は起きない〜安心と考えがちだが、確率的にはそれは明日かも知れないし100年後かも知れないとの意味である。
それに何年に1度とは過去の期間を過去の回数で割ったものである。
2014年にこんなことがあった。
2月6日に東京都心で26センチの積雪となり、
ニュースでは40年振りの大雪と騒がれた。
40年振りとは40年に1度ともいえる。
しかし2月14日には27センチ積もって記録更新!
40年に1度とわ?(^^ゞ
ところで
年末ジャンボ宝くじの1等当選確率は2000万分の1で、パーセントでなら0.000005%。これは飛行機に438年間(秀吉の時代から)毎日搭乗すれば1度は事故に遭うとされる確率の0.0009%より180倍も低い。それでも毎年20人以上が7億円、運がよければ前後賞併せて10億円をゲットしていてウラヤマシイぞ。
なんだけれどーーー
米テュレーン大学の計算によると、人が一生の間に隕石の直撃で死亡する確率は160万分の1。なんと宝くじが当たるより隕石に当たる確率のほうが高い!(一生と年に1回の確率を較べてはいけないが)
例によってあれこれと話がそれたが、
頭にゴツンと直撃するのか都市の壊滅に巻き込まれるのかは別として、
小惑星との衝突によって死ぬ確率は宝くじが当たるより高く
ほとんどの場合にそれは前触れなく突然やってくるか
あるいは事前に察知できても避難する時間的余裕がない
というリスクが人生にはつきものと、
だったらドウシタなオチでゴメン。
とりあえず明日も小惑星が衝突コースで急速接近中のニュースが流れませんように(^^ゞ
おしまい
地球に接近してくる小惑星が、
どのあたりで見つかっているのか過去の事例を探すと
2012年 2012 LZ1 直径500m 最接近の4日前に発見
最接近時の地球との距離540万キロkm これは月との距離の14倍
2013年 3月2日のブログでも紹介したチェリャビンスク隕石
直径17m 落ちてくるまで気付かれず
2023年 2023 BU 直径3.5〜8.5m 最接近の5日前に発見
最接近時の地球との距離3589km
2023年 2023 NT1 直径60m 最接近の2日後に発見 発見された位置は、
地球から月までの距離の約4分の1に相当する10万230km
2024年 2024 XA 直径1.3〜2.8m
発見の5時間後に最接近 地球との距離わずかに1355km
ちなみに人工衛星が回っているのは高度200kmから3万6000lm
2024年 2024 XA1 直径0.7〜1.5m 発見から約12時間後に地球と衝突
他にもたくさんあって調べきれない。しかしPHAが140m以上の基準を設けている理由は別として、どうやら大都市壊滅級の小惑星でも早期発見は容易ではなく、(衝突コースなら)発見されたときには既に手遅れが現実のようだ(/o\)
もっとも2024YR4の大きさを100mと大きめに見積もっても、最接近距離82万8800kmとの比率は、東京から1000km離れた知床半島で12cmのものを探すのと同じ。そりゃ難しいか、しかも探すのは真っ暗な宇宙だし。
なお上の事例だけを見るとしっかり観測・監視されているように思えるものの、地球に突入してきた小惑星で2024XA1のように事前に発見されていた事例は、天体観測史上わずかに11件しかない。チェリャビンスク隕石のように落ちてきた初めて存在を知るケースがほとんど。だから発見して半日後には衝突、場所によっては大惨事というのは、あり得なくはない話なのである。
その小惑星はどれくらいの頻度で地球に向かってくるのか。
星は宇宙に漂うさまざまな粒子が衝突・合体を繰り返し巨大化した天体。そのサイズまで至らなかったり、ほとんど石コロのままでいるのが小惑星。それが地球に突入してきて大気圏で燃え尽きるのが流星で、その中で特に明るいのが火球(たまにUFOと間違われるヤツ)。そして燃え尽きずに地上まで落ちてきたのは隕石と呼び名が変わる。
大気中で燃え尽きる流星のサイズは数mmから数cm程度で、星屑や星のカケラとも呼べないくらいに小さい。なお燃え尽きるといっても、その燃えかすが数十から数百マイクロメートルの微粒子となり大気中を漂って地表に落ちてくる(1マイクロメートルは1mmの1/1000)。その見積もり量はなんと年間で5000トン。だから流星は四六時中無数に落ちてきているといえる。夜に限っても目に見えるほど光る流星はその中のごくわずか。肩から払ったチリに流星の燃えかすがのっていたかも知れないね(^^ゞ
流星の段階で燃え尽きずに地表まで到達したのが隕石。大気圏突入時に何センチ以上なら燃え尽きずに隕石となるのかはよくわからなかった。大きさと共に成分も関連するはず。また発見された隕石のサイズ分布も資料なし。
その隕石も推定で年間2万個が地表に落ちている。発見されるのはそのうち10個未満。ただしこれはどの程度の大きさ以上を隕石と見なしているかにもよるはず。数ミリ角のものだってあるはずで、そんなサイズなら自宅の庭に落ちても見つけられないだろう。
それは別として2万個のうち10個未満しか発見されないのは、陸地は地球の3割だし、都市部はその3割の1%ほどに過ぎないのがその理由。陸地に落ちてもほとんどが人知れずな僻地。そう聞くと今後に大型の小惑星が衝突しても大丈夫と安心するけれど、日本では5年に1回の割合で隕石落下が確認されている。それは日本の人口密度が高いからで、それだけ小惑星衝突のリスクも高いのを意味している(/o\)
さて上空で燃え尽きる流星や石コロレベルの隕石について
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
問題は大型の小惑星(というと表現が矛盾してしまうが)いわゆる巨大隕石。
一説によると大きさと頻度の関係は
直径1m 2週間に1度 重大な影響なし
直径5m 数年に1度 重大な影響なし
直径20m 50年から数100年に1度 強い爆発
直径100m 1万年に1度 都市の破壊
直径1km 50〜100万年に1度 地域の破壊
それ以上 1〜3億年に1度 気候変動、大量絶滅
と考えられているらしい。
ただしこの何年に1度の割合との表現はくせ者。100年に1度なんていわれると、ほとんどそんな事態は起きない〜安心と考えがちだが、確率的にはそれは明日かも知れないし100年後かも知れないとの意味である。
それに何年に1度とは過去の期間を過去の回数で割ったものである。
2014年にこんなことがあった。
2月6日に東京都心で26センチの積雪となり、
ニュースでは40年振りの大雪と騒がれた。
40年振りとは40年に1度ともいえる。
しかし2月14日には27センチ積もって記録更新!
40年に1度とわ?(^^ゞ
ところで
年末ジャンボ宝くじの1等当選確率は2000万分の1で、パーセントでなら0.000005%。これは飛行機に438年間(秀吉の時代から)毎日搭乗すれば1度は事故に遭うとされる確率の0.0009%より180倍も低い。それでも毎年20人以上が7億円、運がよければ前後賞併せて10億円をゲットしていてウラヤマシイぞ。
なんだけれどーーー
米テュレーン大学の計算によると、人が一生の間に隕石の直撃で死亡する確率は160万分の1。なんと宝くじが当たるより隕石に当たる確率のほうが高い!(一生と年に1回の確率を較べてはいけないが)
例によってあれこれと話がそれたが、
頭にゴツンと直撃するのか都市の壊滅に巻き込まれるのかは別として、
小惑星との衝突によって死ぬ確率は宝くじが当たるより高く
ほとんどの場合にそれは前触れなく突然やってくるか
あるいは事前に察知できても避難する時間的余裕がない
というリスクが人生にはつきものと、
だったらドウシタなオチでゴメン。
とりあえず明日も小惑星が衝突コースで急速接近中のニュースが流れませんように(^^ゞ
おしまい
wassho at 22:11|Permalink│Comments(0)│
2025年03月30日
小惑星の話の続き
2月20日に「小惑星との衝突まであと7年と306日」のブログを書いたら、2月25日には地球との衝突確率が0.0017%まで下がってほとんど意味のない数字に。それでも最初のブログのときにあれこれ調べた内容で続編をふたつ付け加えた。
2月20日:小惑星との衝突まであと7年と306日
2月26日:とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅
3月02日:とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅 その2
もう既に誰も2024YR4のことなど話題にしていないが、
今回は2月26日に少し触れた
「ところで前回のブログを書いたときに、
いろいろ調べていたら衝撃的な事実を発見した(ちょっと大げさ)」
についての書き足し。
<その1 危険視されているのは直径140mから>
火星と木星の間には小惑星帯と呼ばれるエリアがあり、無数の小惑星がそこで地球と同じように太陽の回りを公転している。でもときおり木星の重力によって軌道を乱されて地球に向かってくる小惑星が現れる。今回の2024YR4もそのひとつ。
それらの小惑星と、地球に接近する軌道を持つ彗星は総称してNEO(ネオ:Near-Earth Objects:地球近傍天体または地球接近天体)と呼ばれている。その数は推定で2万5000個。なぜか最新の数字が見つからないのだが、2013年6月に1万個目の小惑星「2013 MZ5」が発見されている。
その中で地球にとって特に危険な小惑星がPHA(Potentially Hazardous Asteroid:潜在的に危険な小惑星)と分類される。2012年時点で登録されているのは1331個。(それにしてもこの時代になぜ10年以上前の数字しか見つからないのだ。それ以降に発見されていないとも考えづらいが)
PHAに該当する条件は
その公転軌道が地球の公転軌道と交差する
地球から0.5天文単位に接近する
(天文単位=地球と太陽との平均距離=1億5000万キロ)
この0.5天文単位に接近するの意味がよくわからない。公転軌道が交差するなら、いつかは必ず衝突するはずなのに。ひょっとしたら「数百年以内に」などの前提がついているのかも知れない。
それはさておき、
PHA該当のもうひとつの条件が
直径が140m以上
意外だと思ったひとつめがこれ。
ミニマムサイズが大きすぎない?
2024YR4が地球に衝突したらどうなるかについて2月20日のブログを引用すると、
■■■■■
2024YR4は秒速17km=時速6万1200km=なんとマッハ51!で落ちてくるとの推定。そして地上に衝突した際の運動エネルギーはほぼすべて熱エネルギーに変換されるらしい。都市部に落ちた場合をイメージしやすいように東京で例えると、原爆3300倍の爆発によって23区内は焼け野原ならぬ溶け野原になって消滅。その熱と衝撃波が周辺に広がって、東京駅から半径70kmの首都圏は今まで経験した震災・津波被害の比ではないレベルに破壊されるのではないか。それだけのエリアを復旧復興する経済力はどんな国にもないから、被災地は放棄になる可能性もある。住んでいた人もいなくなるわけだし。想像を絶するとはまさにこのこと。
■■■■■
その2024YR4は直径が40〜90mなのでPHAに該当しない。東京23区相当の面積が溶け野原になる程度の被害規模は、天文学のスケールではたいしたことないのかな。
それとどうして140mなんて中途半端な数字? 最初は、こういうのを取り仕切っているのはたいていNASAだからアメリカの単位に合わせたのかと思った。しかし140mは153ヤード、459フィートとどの単位でも中途半端。
何となく解せなかったものの、ひょっとしたらこれは観測の限界が140mあたりなのかとも思えてきた。それに関連したのがふたつ目の発見で、これはちょっとだけ衝撃的。
<その2 発見からたった13時間半で地球に衝突する>
2024YR4は地球に昨年の12月25日に最接近した。ただし発見されたのは最接近2日後の12月27日。12月25日に最接近したとは発見後の軌道観測を逆計算した結果。どうして最も近い位置ではなく、少し離れたところで発見されたのかは当時の記事にはなかったように思う。
最接近したとき地球との距離は82万8800kmで、これは月との距離の2.16倍。つまりこれくらい近くまで来ないと直径40〜90mの小惑星は発見できない(場合もある)のだ。これがどれくらいヤバイかというと2024YR4のスピードは時速6万1200kmだから
82万8800km ÷ 6万1200km= 13.567
2024YR4が衝突コースだった場合、それは発見からわずか13時間半後!
もし東京に落ちてくるなら首都圏より外側に避難しなければならない。東京の人口は1398万人、首都圏全体では4434万人。それだけの人数が13時間半以内に首都圏外まで避難するのは絶対に無理。というか10万人だって不可能なはず。
実際にそんな事態になったらどうしようか。
ニュースを知ったときに運良く新幹線のそばにいれば、切符がなくても即座に無理やり飛び乗るのが最も確実な行動。でもそんなに都合よく行かないだろうから、♪♪盗んだバイクで走り出す〜が次の作戦になるな。そして渋滞を避けるため中央道か関越道の上り車線(東京行き)を逆走して逃げると思う。だからクルマではなくバイク。ただそれだって、幸運にもガソリン満タンで鍵がついたままになっているバイクが見つかればの話だけれど(^^ゞまあ小惑星が落ちれば溶け野原になって痛みも感じず即死なので、ジタバタせずにこれも運命と受け入れるかも知れない。
ーーー続く
2月20日:小惑星との衝突まであと7年と306日
2月26日:とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅
3月02日:とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅 その2
もう既に誰も2024YR4のことなど話題にしていないが、
今回は2月26日に少し触れた
「ところで前回のブログを書いたときに、
いろいろ調べていたら衝撃的な事実を発見した(ちょっと大げさ)」
についての書き足し。
<その1 危険視されているのは直径140mから>
火星と木星の間には小惑星帯と呼ばれるエリアがあり、無数の小惑星がそこで地球と同じように太陽の回りを公転している。でもときおり木星の重力によって軌道を乱されて地球に向かってくる小惑星が現れる。今回の2024YR4もそのひとつ。
それらの小惑星と、地球に接近する軌道を持つ彗星は総称してNEO(ネオ:Near-Earth Objects:地球近傍天体または地球接近天体)と呼ばれている。その数は推定で2万5000個。なぜか最新の数字が見つからないのだが、2013年6月に1万個目の小惑星「2013 MZ5」が発見されている。
その中で地球にとって特に危険な小惑星がPHA(Potentially Hazardous Asteroid:潜在的に危険な小惑星)と分類される。2012年時点で登録されているのは1331個。(それにしてもこの時代になぜ10年以上前の数字しか見つからないのだ。それ以降に発見されていないとも考えづらいが)
PHAに該当する条件は
その公転軌道が地球の公転軌道と交差する
地球から0.5天文単位に接近する
(天文単位=地球と太陽との平均距離=1億5000万キロ)
この0.5天文単位に接近するの意味がよくわからない。公転軌道が交差するなら、いつかは必ず衝突するはずなのに。ひょっとしたら「数百年以内に」などの前提がついているのかも知れない。
それはさておき、
PHA該当のもうひとつの条件が
直径が140m以上
意外だと思ったひとつめがこれ。
ミニマムサイズが大きすぎない?
2024YR4が地球に衝突したらどうなるかについて2月20日のブログを引用すると、
■■■■■
2024YR4は秒速17km=時速6万1200km=なんとマッハ51!で落ちてくるとの推定。そして地上に衝突した際の運動エネルギーはほぼすべて熱エネルギーに変換されるらしい。都市部に落ちた場合をイメージしやすいように東京で例えると、原爆3300倍の爆発によって23区内は焼け野原ならぬ溶け野原になって消滅。その熱と衝撃波が周辺に広がって、東京駅から半径70kmの首都圏は今まで経験した震災・津波被害の比ではないレベルに破壊されるのではないか。それだけのエリアを復旧復興する経済力はどんな国にもないから、被災地は放棄になる可能性もある。住んでいた人もいなくなるわけだし。想像を絶するとはまさにこのこと。
■■■■■
その2024YR4は直径が40〜90mなのでPHAに該当しない。東京23区相当の面積が溶け野原になる程度の被害規模は、天文学のスケールではたいしたことないのかな。
それとどうして140mなんて中途半端な数字? 最初は、こういうのを取り仕切っているのはたいていNASAだからアメリカの単位に合わせたのかと思った。しかし140mは153ヤード、459フィートとどの単位でも中途半端。
何となく解せなかったものの、ひょっとしたらこれは観測の限界が140mあたりなのかとも思えてきた。それに関連したのがふたつ目の発見で、これはちょっとだけ衝撃的。
<その2 発見からたった13時間半で地球に衝突する>
2024YR4は地球に昨年の12月25日に最接近した。ただし発見されたのは最接近2日後の12月27日。12月25日に最接近したとは発見後の軌道観測を逆計算した結果。どうして最も近い位置ではなく、少し離れたところで発見されたのかは当時の記事にはなかったように思う。
最接近したとき地球との距離は82万8800kmで、これは月との距離の2.16倍。つまりこれくらい近くまで来ないと直径40〜90mの小惑星は発見できない(場合もある)のだ。これがどれくらいヤバイかというと2024YR4のスピードは時速6万1200kmだから
82万8800km ÷ 6万1200km= 13.567
2024YR4が衝突コースだった場合、それは発見からわずか13時間半後!
もし東京に落ちてくるなら首都圏より外側に避難しなければならない。東京の人口は1398万人、首都圏全体では4434万人。それだけの人数が13時間半以内に首都圏外まで避難するのは絶対に無理。というか10万人だって不可能なはず。
実際にそんな事態になったらどうしようか。
ニュースを知ったときに運良く新幹線のそばにいれば、切符がなくても即座に無理やり飛び乗るのが最も確実な行動。でもそんなに都合よく行かないだろうから、♪♪盗んだバイクで走り出す〜が次の作戦になるな。そして渋滞を避けるため中央道か関越道の上り車線(東京行き)を逆走して逃げると思う。だからクルマではなくバイク。ただそれだって、幸運にもガソリン満タンで鍵がついたままになっているバイクが見つかればの話だけれど(^^ゞまあ小惑星が落ちれば溶け野原になって痛みも感じず即死なので、ジタバタせずにこれも運命と受け入れるかも知れない。
ーーー続く
wassho at 23:11|Permalink│Comments(0)│
2025年03月04日
ミモザとアカシアのあれこれ
駅までの道すがらにミモザの咲いているお宅が2軒ある。
先日、ミモザの黄色と青空の対比が余りに美しかったのでついシャッターを。ミモザはだいたいウメと同時期に咲き、これを見るともうすぐ春だと予感させられる。色合いはビビッドで夏っぽいけれど(^^ゞ
この黄色い花が咲く木を、ゆで卵が刻まれてトッピングされたミモザサラダのと連想で、ミモザと覚えている人は多いと思う。
でも本来ミモザはオジギソウ(おじぎ草)を指す呼び名。名前でわかるように木ではなく草だし、また花は淡い紫。ちなみにオジギソウは触られると葉を閉じて、お辞儀をしているように見えるのでその名がついた。
さて最初の写真で黄色い花を咲かせているのは、ギンヨウ(銀葉)アカシアやフサ(房)アカシアといったアカシアの木。でもなぜかミモザの名前で呼ばれている。しかも多くの国で。
それは
オーストラリア原産のアカシアがヨーロッパに持ち込まれる。
アカシアとミモザ(オジギソウ)は葉の形が似ているので、
昔から馴染みのあったミモザになぞらえてミモザアカシアと呼ばれ、
それがいつしかミモザと短縮され、その略称が定着する。
といったいきさつらしい。
そうして世界的にミモザといえばアカシアを指すのがデファクトスタンダードとなる。ヨーロッパにはミモザ祭りやミモザの日などがあるが、それらはすべてアカシアを意味している。オジギソウがかわいそうだね(^^ゞ
日本ではさらにややこしいことになっている。
日本でアカシアといえば、アカシアではない木を指すのだ。
その名もニセアカシア。
それは
明治になりハリエンジュというアメリカ原産の木が入ってくる。
なぜかそれをアカシアと呼んだ。
少し調べたものの理由はわからず。
アカシアと呼ばれることとなったハリエンジュは砂防対策や街路樹としての適性が高かったので広く普及し、日本人はハリエンジュをアカシアと思い込む。なおハリエンジュの花は白で咲くのは5月頃。どちらも同じマメ科ではあるが系統的には離れていて、花や葉の形もまったく違う。
また1960年(昭和35年)に🎶アカシアの雨にうたれて〜の唄がヒットし一気にアカシアの知名度も高まった。もちろんここで唄われているアカシアもハリエンジュ。他にも札幌をはじめ各地のアカシア並木に植えられているのもハリエンジュだし、アカシア蜂蜜として売られているのもハリエンジュの蜜を吸った蜂蜜。
そして時期は不明だが黄色い花を咲かせる本物のアカシアが日本に入ってくる。するとそれまでアカシアと呼ばれていたハリエンジュは、何とニセアカシアと呼ばれるようになった。今まで自分たちが間違ってアカシアと呼んでいたのに、それに気付くと「偽」の名前を付けるなんて! 人間の傲慢さを見た思いがするゾ。
ただし先ほど書いたように今でもハリエンジュは、ニセアカシアではなくアカシアと呼ぶのが一般的。昭和の懐メロだけでなく、ユーミンやレミオロメンにもハリエンジュをアカシアと唄っている曲があるらしい。黄色い花が咲く「ホンモノ」アカシアはミモザと呼ばれているから、名前の機能としては植物学的にはともかく一応の区別はできている。まあ「ニセ」とつくのはイメージがよろしくないし、それにニセアカシアの蜂蜜なんて表示したら売り上げにも響く。
そんなわけで
「ミモザの黄色い花がきれいですね」
「あれはアカシアですよ」
「アカシアの花は白でしょうが」
なんてケンカにならないよう気をつけてね。
先日、ミモザの黄色と青空の対比が余りに美しかったのでついシャッターを。ミモザはだいたいウメと同時期に咲き、これを見るともうすぐ春だと予感させられる。色合いはビビッドで夏っぽいけれど(^^ゞ
この黄色い花が咲く木を、ゆで卵が刻まれてトッピングされたミモザサラダのと連想で、ミモザと覚えている人は多いと思う。
でも本来ミモザはオジギソウ(おじぎ草)を指す呼び名。名前でわかるように木ではなく草だし、また花は淡い紫。ちなみにオジギソウは触られると葉を閉じて、お辞儀をしているように見えるのでその名がついた。
さて最初の写真で黄色い花を咲かせているのは、ギンヨウ(銀葉)アカシアやフサ(房)アカシアといったアカシアの木。でもなぜかミモザの名前で呼ばれている。しかも多くの国で。
それは
オーストラリア原産のアカシアがヨーロッパに持ち込まれる。
アカシアとミモザ(オジギソウ)は葉の形が似ているので、
昔から馴染みのあったミモザになぞらえてミモザアカシアと呼ばれ、
それがいつしかミモザと短縮され、その略称が定着する。
といったいきさつらしい。
そうして世界的にミモザといえばアカシアを指すのがデファクトスタンダードとなる。ヨーロッパにはミモザ祭りやミモザの日などがあるが、それらはすべてアカシアを意味している。オジギソウがかわいそうだね(^^ゞ
日本ではさらにややこしいことになっている。
日本でアカシアといえば、アカシアではない木を指すのだ。
その名もニセアカシア。
それは
明治になりハリエンジュというアメリカ原産の木が入ってくる。
なぜかそれをアカシアと呼んだ。
少し調べたものの理由はわからず。
アカシアと呼ばれることとなったハリエンジュは砂防対策や街路樹としての適性が高かったので広く普及し、日本人はハリエンジュをアカシアと思い込む。なおハリエンジュの花は白で咲くのは5月頃。どちらも同じマメ科ではあるが系統的には離れていて、花や葉の形もまったく違う。
また1960年(昭和35年)に🎶アカシアの雨にうたれて〜の唄がヒットし一気にアカシアの知名度も高まった。もちろんここで唄われているアカシアもハリエンジュ。他にも札幌をはじめ各地のアカシア並木に植えられているのもハリエンジュだし、アカシア蜂蜜として売られているのもハリエンジュの蜜を吸った蜂蜜。
そして時期は不明だが黄色い花を咲かせる本物のアカシアが日本に入ってくる。するとそれまでアカシアと呼ばれていたハリエンジュは、何とニセアカシアと呼ばれるようになった。今まで自分たちが間違ってアカシアと呼んでいたのに、それに気付くと「偽」の名前を付けるなんて! 人間の傲慢さを見た思いがするゾ。
ただし先ほど書いたように今でもハリエンジュは、ニセアカシアではなくアカシアと呼ぶのが一般的。昭和の懐メロだけでなく、ユーミンやレミオロメンにもハリエンジュをアカシアと唄っている曲があるらしい。黄色い花が咲く「ホンモノ」アカシアはミモザと呼ばれているから、名前の機能としては植物学的にはともかく一応の区別はできている。まあ「ニセ」とつくのはイメージがよろしくないし、それにニセアカシアの蜂蜜なんて表示したら売り上げにも響く。
そんなわけで
「ミモザの黄色い花がきれいですね」
「あれはアカシアですよ」
「アカシアの花は白でしょうが」
なんてケンカにならないよう気をつけてね。
wassho at 19:31|Permalink│Comments(0)│
2025年03月02日
とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅 その2
星にまでなれなかった太陽系の余り物ともいえる小惑星。それでも星と同じように太陽の周りを回り、その軌道が同じく太陽の周りを回る地球の軌道と交差するなら、いつかは衝突する。その数は推定で100万個以上。
月面のクレーターはそんな小惑星が衝突した痕跡。
地球にもその誕生から現在までの間に数え切れないほど落ちてきたはず。しかし月と違って地球の7割は海で海底なら見えない。また水による浸食と火山活動や地殻変動による地形の変化、あるいは木が生えて森になったり逆に人間による開墾で痕跡が消えてしまい、現在確認できるクレーターは100個ほどとされている。ちなみに月のクレーターは数万個。
日本にも南アルプスに、2〜3万年前にできたと推定されている御池山(おいけやま)クレーターがある。でも森のようになっていてクレーターとはちょっとイメージが違う。小高い丘を「実はあれは古墳」といわれたような感じ。そのせいかどうか、ここがクレーターだと確認されたのは2003年とつい最近。画像はhttp://www2.ueda.ne.jp/~moa/oike.htmlから引用
さて今までに地球に衝突した小惑星(隕石)で有名なのは次の4つ。
なお隕石あるいは小惑星と呼ぶかは、事例それぞれの慣例に従って書いている。定義的には小惑星またはその破片が地球の大気圏に突入し燃え尽きるのが流星、燃え尽きず地上に落ちてきたものが隕石。
1)S2隕石
落ちてきたのは32億6000万年前。参考までに地球ができたのが46億年前で、初期の生命が誕生したのが35〜40億年前である。大きさは直径37〜58kmと推定され、平たくいうとエベレスト4つ分の隕石が落ちてきたらしい。地図は東京駅を中心に直径58kmの円を描いている。これだけ巨大なのがドカーンと。
ただしなぜか落ちた場所の情報を見つけられなかった。しかしその影響は強烈で津波が地球全体を覆い、衝突によって生じた熱で海水は沸騰・蒸発。舞い上がったチリによって厚い雲の温室効果で気温は上昇し、日光が遮られる状態が数年から数十年は続いたと考えられている。まさにこの世の終わりレベル。
ただその頃はまだ単細胞生物しか存在しておらず、被害がなかったというか被害を受ける対象がいなかったというべきか。逆に海底の鉄分が巻き上げられたり、隕石に含まれていたリンが放出されて「肥料爆弾」のような効果をもたらしたと考えられている。そうであれば生物界にとっては、この世の終わりではなく創世記の重要イベントだったとも捉えられる。
2)チクシュルーブ小惑星
チクシュルーブの名前を知らなくても、
恐竜を絶滅させたのは巨大な隕石との話は知っていると思う。
それがこれ。
衝突したのは6600万年前。場所はメキシコのユカタン半島(赤い破線部分)のチクシュルーブ。メリダというユカタン州都の近く。
あっ、Googleマップにカッコ付きでアメリカ湾の表記がある!さらに米国版のGoogleマップを確認してみるとGulf of Americaの表記のみだった。トランプへの忖度オソルベシ!
小惑星の直径は10〜15km。衝突速度は秒速20km=時速7万2000km=マッハ60! 衝突時のエネルギーは広島型原爆の10億倍とされ(といわれてもイメージできないが)、衝突でえぐられたクレーターは直径160km。マグニチュード11以上の地震となり300mの津波を引き起こしたと推定されている。
またこれが恐竜絶滅の原因となったのはよく知られているが、
絶滅したのは恐竜だけではなく、なんと全生物の80%。
小惑星が落ちてくる運動エネルギーは衝突によって熱エネルギーに変わる。衝突地点の半径1000kmは火球に覆われて生物は即死(>_<) 札幌から那覇まで約2200kmなので半径1000kmとはそれくらいのエリア。そして衝突の爆風で舞上げられた塵(ちり)の雲は世界中に広がり、太陽光が遮られる状態が何年も続く。植物は光合成できなくなり枯れ果て、それを食べていた草食動物、草食動物を食べていた肉食動物と順に絶滅の連鎖。
話は変わるけれどチクシュルーブ小惑星との衝突で、恐竜を含めて全生物の80%が絶滅した。逆に考えれば残り20%で、またいろいろと進化を遂げて現在の生態系ができあがったわけだ。
でもどうして恐竜は再び現れなかったのだろう。それが昔から疑問であり、復活して今の時代にも生きていて欲しかった気持ちがあるというか。しばらくは大型生物が生息できない環境だったとしても、それから6600万年のうちにチャンスはあった気もするのだが。
3)ツングースカ大爆発
1908年(明治41年)に、シベリアのほぼ無人の森林地帯に落ちた隕石によって引き起こされた爆発。
ところでシベリアってよく聞く地名なのに、
具体的にどこなのか把握されていないように思う。
ロシアは8つの連邦管区で構成されており、シベリアは国土の真ん中当たり。地図に小さな青い点がついているのがそれぞれの中心都市で、中央管区の中心がモスクワ、北西管区がサンクト=ぺテルブルク。シベリアの中心都市はノヴォシビルスクと聞いたことのない名前。画像はhttp://dvor.jp/rajon.htmから引用編集
ただしこれは行政区分であって、歴史的にはウラル山脈より東側がシベリア。だから中央シベリア高原や東シベリア山脈は極東管区にある。現在は狭義のシベリアがシベリア管区、広義のシベリアがそれにウラル管区と極東管区を加えた扱いのようだ。とにかくシベリアはロシアの2/3ほどを占める広い範囲。
隕石が爆発した場所はここ。
このツングースカはそこの地名ではなく、その付近を流れている川の名前。ひょっとしたら無人の森林地帯ゆえに地名がなかったのかも知れない。
この隕石サイズは50〜60m。落下途中に大気中で大爆発を起こしたのがネーミングの由来。人が住んでいなくて人的被害はなかったものの、
爆発地点の半径30〜50kmで森林が炎上
東京都とほぼ同じ2150平方kmの範囲で樹木がなぎ倒された
1000km離れた家屋の窓ガラスが割れた
とされる。「1000km離れた〜」は文章だと読み流してしまいそう。でも日本に置き換えると、札幌上空の爆発で大阪の窓ガラスが割れたのと同じで、いかにその威力が凄まじかったがわかる。
また
爆発で隕石が気化し→それが巨大な夜行雲を形成
夜行雲は光を発する→ロンドンでは数日間に渡り、
夜に灯りなしで新聞を読めるほどだった
とのエピソードがツングースカ大爆発に関してはよく引き合いに出される。しかしツングースカからロンドンまでは約5200km。それに対してモスクワまでは3000kmで東京だって4500kmなのに、どうしてロンドン以外でそんな話が残っていないのか不思議。
ツングースカに落ちてきたのは2024YR4の約半分のサイズ。それでもこれだけの威力。基本的に衝撃力は小惑星の重さ × 落下速度で決まる。重さは体積に比例するとして球の体積は半径の3乗に比例するので(前回に書いたように小惑星は球体ではないがとりあえず)、2024YR4が2倍の大きさなら2 × 2 × 2で重さすなわち破壊力はツングースカの8倍(>_<)
4)チェリャビンスク隕石
直径17mで小さいながらもよく取り上げられるのは、
落ちてきたのが2013年と最近だから。
チェリャビンスクは落下したロシアの地名。
先ほどシベリアを説明した図でではウラル管区の最も南西に位置する場所。
ツングースカに続いてまたもロシアなのはロシアの面積がそれだけ広いから。地球の陸地の11.5%を占めている。カナダ、中国、アメリカがそれに続き、それぞれ6.7〜6.5%。ちなみに日本は0.25%(^^ゞ
この隕石もツングースカと同じように空中で爆発した。
火球となって落ちてくる様子。画像はhttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7563/から引用
隕石雲。
飛行機雲はジェットエンジンの排気ガスに含まれる水蒸気が、上空の冷たい空気(マイナス50度前後)で冷やされて雲になる現象。対して隕石雲は隕石が大気との摩擦熱で気化する際に、燃えかすとして形成されたが微細な粒子が浮遊している状態。雲のように見えても、飛行機雲と違って気象的には雲じゃない。
そして、この隕石が今までの事例と違うのは、ドライブレコーダーや防犯カメラなどで撮られた映像がたくさんあること。当時のニュースでもいろいろと見た記憶がある。
爆発したのは街からかなり離れた場所だったもよう。それでもその衝撃波で4474棟の建物に被害が出て、1491人が重軽傷を負った。
また21世紀のネット時代に落ちた隕石なので、
落下したなんと当日から、
ネットで「チェリャビンスクに落下した隕石」の売り物が出回った(^^ゞ
アメリカの新型宇宙兵器だとする陰謀論も主張された
隕石の落下にも世相が反映されるね。
今、メルカリで検索してもけっこうあったゾ
なかなか前回に書いた「衝撃的な事実」までたどり着かない(^^ゞ
ーーー続く
月面のクレーターはそんな小惑星が衝突した痕跡。
地球にもその誕生から現在までの間に数え切れないほど落ちてきたはず。しかし月と違って地球の7割は海で海底なら見えない。また水による浸食と火山活動や地殻変動による地形の変化、あるいは木が生えて森になったり逆に人間による開墾で痕跡が消えてしまい、現在確認できるクレーターは100個ほどとされている。ちなみに月のクレーターは数万個。
日本にも南アルプスに、2〜3万年前にできたと推定されている御池山(おいけやま)クレーターがある。でも森のようになっていてクレーターとはちょっとイメージが違う。小高い丘を「実はあれは古墳」といわれたような感じ。そのせいかどうか、ここがクレーターだと確認されたのは2003年とつい最近。画像はhttp://www2.ueda.ne.jp/~moa/oike.htmlから引用
さて今までに地球に衝突した小惑星(隕石)で有名なのは次の4つ。
なお隕石あるいは小惑星と呼ぶかは、事例それぞれの慣例に従って書いている。定義的には小惑星またはその破片が地球の大気圏に突入し燃え尽きるのが流星、燃え尽きず地上に落ちてきたものが隕石。
1)S2隕石
落ちてきたのは32億6000万年前。参考までに地球ができたのが46億年前で、初期の生命が誕生したのが35〜40億年前である。大きさは直径37〜58kmと推定され、平たくいうとエベレスト4つ分の隕石が落ちてきたらしい。地図は東京駅を中心に直径58kmの円を描いている。これだけ巨大なのがドカーンと。
ただしなぜか落ちた場所の情報を見つけられなかった。しかしその影響は強烈で津波が地球全体を覆い、衝突によって生じた熱で海水は沸騰・蒸発。舞い上がったチリによって厚い雲の温室効果で気温は上昇し、日光が遮られる状態が数年から数十年は続いたと考えられている。まさにこの世の終わりレベル。
ただその頃はまだ単細胞生物しか存在しておらず、被害がなかったというか被害を受ける対象がいなかったというべきか。逆に海底の鉄分が巻き上げられたり、隕石に含まれていたリンが放出されて「肥料爆弾」のような効果をもたらしたと考えられている。そうであれば生物界にとっては、この世の終わりではなく創世記の重要イベントだったとも捉えられる。
2)チクシュルーブ小惑星
チクシュルーブの名前を知らなくても、
恐竜を絶滅させたのは巨大な隕石との話は知っていると思う。
それがこれ。
衝突したのは6600万年前。場所はメキシコのユカタン半島(赤い破線部分)のチクシュルーブ。メリダというユカタン州都の近く。
あっ、Googleマップにカッコ付きでアメリカ湾の表記がある!さらに米国版のGoogleマップを確認してみるとGulf of Americaの表記のみだった。トランプへの忖度オソルベシ!
小惑星の直径は10〜15km。衝突速度は秒速20km=時速7万2000km=マッハ60! 衝突時のエネルギーは広島型原爆の10億倍とされ(といわれてもイメージできないが)、衝突でえぐられたクレーターは直径160km。マグニチュード11以上の地震となり300mの津波を引き起こしたと推定されている。
またこれが恐竜絶滅の原因となったのはよく知られているが、
絶滅したのは恐竜だけではなく、なんと全生物の80%。
小惑星が落ちてくる運動エネルギーは衝突によって熱エネルギーに変わる。衝突地点の半径1000kmは火球に覆われて生物は即死(>_<) 札幌から那覇まで約2200kmなので半径1000kmとはそれくらいのエリア。そして衝突の爆風で舞上げられた塵(ちり)の雲は世界中に広がり、太陽光が遮られる状態が何年も続く。植物は光合成できなくなり枯れ果て、それを食べていた草食動物、草食動物を食べていた肉食動物と順に絶滅の連鎖。
話は変わるけれどチクシュルーブ小惑星との衝突で、恐竜を含めて全生物の80%が絶滅した。逆に考えれば残り20%で、またいろいろと進化を遂げて現在の生態系ができあがったわけだ。
でもどうして恐竜は再び現れなかったのだろう。それが昔から疑問であり、復活して今の時代にも生きていて欲しかった気持ちがあるというか。しばらくは大型生物が生息できない環境だったとしても、それから6600万年のうちにチャンスはあった気もするのだが。
3)ツングースカ大爆発
1908年(明治41年)に、シベリアのほぼ無人の森林地帯に落ちた隕石によって引き起こされた爆発。
ところでシベリアってよく聞く地名なのに、
具体的にどこなのか把握されていないように思う。
ロシアは8つの連邦管区で構成されており、シベリアは国土の真ん中当たり。地図に小さな青い点がついているのがそれぞれの中心都市で、中央管区の中心がモスクワ、北西管区がサンクト=ぺテルブルク。シベリアの中心都市はノヴォシビルスクと聞いたことのない名前。画像はhttp://dvor.jp/rajon.htmから引用編集
ただしこれは行政区分であって、歴史的にはウラル山脈より東側がシベリア。だから中央シベリア高原や東シベリア山脈は極東管区にある。現在は狭義のシベリアがシベリア管区、広義のシベリアがそれにウラル管区と極東管区を加えた扱いのようだ。とにかくシベリアはロシアの2/3ほどを占める広い範囲。
隕石が爆発した場所はここ。
このツングースカはそこの地名ではなく、その付近を流れている川の名前。ひょっとしたら無人の森林地帯ゆえに地名がなかったのかも知れない。
この隕石サイズは50〜60m。落下途中に大気中で大爆発を起こしたのがネーミングの由来。人が住んでいなくて人的被害はなかったものの、
爆発地点の半径30〜50kmで森林が炎上
東京都とほぼ同じ2150平方kmの範囲で樹木がなぎ倒された
1000km離れた家屋の窓ガラスが割れた
とされる。「1000km離れた〜」は文章だと読み流してしまいそう。でも日本に置き換えると、札幌上空の爆発で大阪の窓ガラスが割れたのと同じで、いかにその威力が凄まじかったがわかる。
また
爆発で隕石が気化し→それが巨大な夜行雲を形成
夜行雲は光を発する→ロンドンでは数日間に渡り、
夜に灯りなしで新聞を読めるほどだった
とのエピソードがツングースカ大爆発に関してはよく引き合いに出される。しかしツングースカからロンドンまでは約5200km。それに対してモスクワまでは3000kmで東京だって4500kmなのに、どうしてロンドン以外でそんな話が残っていないのか不思議。
ツングースカに落ちてきたのは2024YR4の約半分のサイズ。それでもこれだけの威力。基本的に衝撃力は小惑星の重さ × 落下速度で決まる。重さは体積に比例するとして球の体積は半径の3乗に比例するので(前回に書いたように小惑星は球体ではないがとりあえず)、2024YR4が2倍の大きさなら2 × 2 × 2で重さすなわち破壊力はツングースカの8倍(>_<)
4)チェリャビンスク隕石
直径17mで小さいながらもよく取り上げられるのは、
落ちてきたのが2013年と最近だから。
チェリャビンスクは落下したロシアの地名。
先ほどシベリアを説明した図でではウラル管区の最も南西に位置する場所。
ツングースカに続いてまたもロシアなのはロシアの面積がそれだけ広いから。地球の陸地の11.5%を占めている。カナダ、中国、アメリカがそれに続き、それぞれ6.7〜6.5%。ちなみに日本は0.25%(^^ゞ
この隕石もツングースカと同じように空中で爆発した。
火球となって落ちてくる様子。画像はhttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7563/から引用
隕石雲。
飛行機雲はジェットエンジンの排気ガスに含まれる水蒸気が、上空の冷たい空気(マイナス50度前後)で冷やされて雲になる現象。対して隕石雲は隕石が大気との摩擦熱で気化する際に、燃えかすとして形成されたが微細な粒子が浮遊している状態。雲のように見えても、飛行機雲と違って気象的には雲じゃない。
そして、この隕石が今までの事例と違うのは、ドライブレコーダーや防犯カメラなどで撮られた映像がたくさんあること。当時のニュースでもいろいろと見た記憶がある。
爆発したのは街からかなり離れた場所だったもよう。それでもその衝撃波で4474棟の建物に被害が出て、1491人が重軽傷を負った。
また21世紀のネット時代に落ちた隕石なので、
落下したなんと当日から、
ネットで「チェリャビンスクに落下した隕石」の売り物が出回った(^^ゞ
アメリカの新型宇宙兵器だとする陰謀論も主張された
隕石の落下にも世相が反映されるね。
今、メルカリで検索してもけっこうあったゾ
なかなか前回に書いた「衝撃的な事実」までたどり着かない(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 23:32|Permalink│Comments(0)│
2025年02月26日
とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅
「小惑星との衝突まであと7年と306日」のタイトルでブログを書いたのは、6日前になる2月20日。昨年の12月27日に発見された小惑星2024YR4。それが2032年12月に地球と衝突する確率が1月には1.2%だったのが、2月になって2.2%=1/45へ引き上げられたのに関してあれこれと。
実はブログを投稿した後に、改めて2024YR4を検索してみて確率が3.1%に上昇していたのを知った。でもブログを修正するのが面倒だったのでそのまま放置m(_ _)m
ヤバイ方向へ進んでいるのかなと思っていたら、22日には0.28%へと低下。
ソースとなっているのはNASAの発表で、時系列で確認すると
2月17日 2.6%
2月18日 3.1%
2月19日 1.5%
2月22日 0.28%
2月24日 0.004%
2月25日 0.0017%
となり、現時点ではほとんど無視できる数字。
20日に書いたブログはその時点で一番新しい数値をベースにしたつもりだったけれど、どうも情報伝達にタイムラグがあったようだ。まあ日本語で書かれたものしか読んでいなかったし。あとNASA(アメリカ航空宇宙局)とESA(欧州宇宙機関)の発表する数字が微妙に違う。例えば2月17日時点での衝突確率はNASAが2.6%なのに対してESAは2.4%。
とりあえず確率が大幅に下がったのはいいニュース。
しかし現在の2024YR4は地球から遠ざかるコースにあり、
直径が40〜90mと小さな天体なのでそろそろ観測不可能。
地球の周回軌道上にあって、より高性能な赤外線望遠鏡である
ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡を3月に観測に投入するが、
正確な軌道を割り出せるのは、おそらく次に地球に接近する2028年12月まで待たなければならないーーーはずだったのに、それにしては細かく数字を刻んでくるなあ。
やはり前回に書いた陰謀論は当たっているんじゃない?(^^ゞ
ところで前回のブログを書いたときに、
いろいろ調べていたら衝撃的な事実を発見した(ちょっと大げさ)
その前に、そもそも小惑星って何?
2010年に探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」から戻ってきた頃によく耳にするようになったものの、小さな惑星とはわかったようなわからないような言葉である。
調べてみると
太陽の周りを回る星から
惑星(水金地火木土天海の8つ)と準惑星(冥王星他4つ)と、
惑星と準惑星の周りを回る月などの衛星約300個を引いた残りすべてが
太陽系小天体と呼ばれ、
そのうち木星の軌道周辺より内側にあるのが小惑星
との定義。
ちなみに彗星と小惑星は別物扱い。説明は長くなるので省略。また小惑星あるいはその破片が地球の大気圏に突入し燃え尽きるのが流星、燃え尽きず地上に落ちてくれば隕石と区別される。
小惑星の大きさについてはっきりとした定義は見つけられなかった。最大の小惑星セレスの直径は910kmだが100kmを超えるものは数えるほどしかないそうだ。参考までに地球と月の直径はそれぞれ1万2756kmと3475km。2006年に惑星から準惑星に降格された冥王星は2377kmで月よりも小さい。
現在までに観測された小惑星は約80万個。直径100kmを超えるものは数えるほどしかないないのなら、これらのほぼすべては100km未満となる。また直径1km程度、ないしそれ以下については未発見の小惑星が数十万個あると推測されている。
80万個+数十万個が100km未満というだけじゃ尺度として大雑把すぎる。まだ解明されていない部分も多いのだろうが、求むわかりやすい解説。参考までにイトカワはウンチみたいな形をしており(^^ゞ 長さが約540メートル、断面の直径が太い部分で200メートルほど。
宇宙に漂うさまざまな粒子が衝突・合体を無数に繰り返し巨大化して星になる。(我々がいる太陽系では)まず太陽が誕生し、そのおこぼれが集まって惑星・準惑星・衛星ができた。やがてしだいに勢いが衰え星作り期間が終わる。つまり小惑星はいわば星になれなかった余り物。星のかけらと表現すればロマンチックかも。
また物質が合体すると重力が大きくなり、それが重心に向かって引っ張る力で潰されて球体になる。だから星は丸い。ただしサイズが小さいと重力より物質の強度が強いため球体にならず元の形を保つ。球体になるかならないかの境目は直径300km。だからイトカワはあのような姿。ほぼすべてが100km未満だとすれば、小惑星は球体ではなくいびつな岩の形で宇宙を漂っていると考えられる。
そして、小惑星の多くは
小惑星帯と呼ばれる火星と木星の軌道の間で太陽の周りを公転している。
でも2024YR4のようにその軌道をはずれる小惑星も出てくるわけで、その軌道が地球の公転軌道と交差していれば、いつかは必ず衝突する。いわゆる最小公倍数的な計算。2032年には地球に衝突しないであろう2024YR4も、何万年後あるいは何億年後にはまたーーーである。
まあ小惑星にしてみれば地球がぶつかってきやがったな話(^^ゞ
ーーー続く
実はブログを投稿した後に、改めて2024YR4を検索してみて確率が3.1%に上昇していたのを知った。でもブログを修正するのが面倒だったのでそのまま放置m(_ _)m
ヤバイ方向へ進んでいるのかなと思っていたら、22日には0.28%へと低下。
ソースとなっているのはNASAの発表で、時系列で確認すると
2月17日 2.6%
2月18日 3.1%
2月19日 1.5%
2月22日 0.28%
2月24日 0.004%
2月25日 0.0017%
となり、現時点ではほとんど無視できる数字。
20日に書いたブログはその時点で一番新しい数値をベースにしたつもりだったけれど、どうも情報伝達にタイムラグがあったようだ。まあ日本語で書かれたものしか読んでいなかったし。あとNASA(アメリカ航空宇宙局)とESA(欧州宇宙機関)の発表する数字が微妙に違う。例えば2月17日時点での衝突確率はNASAが2.6%なのに対してESAは2.4%。
とりあえず確率が大幅に下がったのはいいニュース。
しかし現在の2024YR4は地球から遠ざかるコースにあり、
直径が40〜90mと小さな天体なのでそろそろ観測不可能。
地球の周回軌道上にあって、より高性能な赤外線望遠鏡である
ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡を3月に観測に投入するが、
正確な軌道を割り出せるのは、おそらく次に地球に接近する2028年12月まで待たなければならないーーーはずだったのに、それにしては細かく数字を刻んでくるなあ。
やはり前回に書いた陰謀論は当たっているんじゃない?(^^ゞ
ところで前回のブログを書いたときに、
いろいろ調べていたら衝撃的な事実を発見した(ちょっと大げさ)
その前に、そもそも小惑星って何?
2010年に探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」から戻ってきた頃によく耳にするようになったものの、小さな惑星とはわかったようなわからないような言葉である。
調べてみると
太陽の周りを回る星から
惑星(水金地火木土天海の8つ)と準惑星(冥王星他4つ)と、
惑星と準惑星の周りを回る月などの衛星約300個を引いた残りすべてが
太陽系小天体と呼ばれ、
そのうち木星の軌道周辺より内側にあるのが小惑星
との定義。
ちなみに彗星と小惑星は別物扱い。説明は長くなるので省略。また小惑星あるいはその破片が地球の大気圏に突入し燃え尽きるのが流星、燃え尽きず地上に落ちてくれば隕石と区別される。
小惑星の大きさについてはっきりとした定義は見つけられなかった。最大の小惑星セレスの直径は910kmだが100kmを超えるものは数えるほどしかないそうだ。参考までに地球と月の直径はそれぞれ1万2756kmと3475km。2006年に惑星から準惑星に降格された冥王星は2377kmで月よりも小さい。
現在までに観測された小惑星は約80万個。直径100kmを超えるものは数えるほどしかないないのなら、これらのほぼすべては100km未満となる。また直径1km程度、ないしそれ以下については未発見の小惑星が数十万個あると推測されている。
80万個+数十万個が100km未満というだけじゃ尺度として大雑把すぎる。まだ解明されていない部分も多いのだろうが、求むわかりやすい解説。参考までにイトカワはウンチみたいな形をしており(^^ゞ 長さが約540メートル、断面の直径が太い部分で200メートルほど。
宇宙に漂うさまざまな粒子が衝突・合体を無数に繰り返し巨大化して星になる。(我々がいる太陽系では)まず太陽が誕生し、そのおこぼれが集まって惑星・準惑星・衛星ができた。やがてしだいに勢いが衰え星作り期間が終わる。つまり小惑星はいわば星になれなかった余り物。星のかけらと表現すればロマンチックかも。
また物質が合体すると重力が大きくなり、それが重心に向かって引っ張る力で潰されて球体になる。だから星は丸い。ただしサイズが小さいと重力より物質の強度が強いため球体にならず元の形を保つ。球体になるかならないかの境目は直径300km。だからイトカワはあのような姿。ほぼすべてが100km未満だとすれば、小惑星は球体ではなくいびつな岩の形で宇宙を漂っていると考えられる。
そして、小惑星の多くは
小惑星帯と呼ばれる火星と木星の軌道の間で太陽の周りを公転している。
でも2024YR4のようにその軌道をはずれる小惑星も出てくるわけで、その軌道が地球の公転軌道と交差していれば、いつかは必ず衝突する。いわゆる最小公倍数的な計算。2032年には地球に衝突しないであろう2024YR4も、何万年後あるいは何億年後にはまたーーーである。
まあ小惑星にしてみれば地球がぶつかってきやがったな話(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 21:46|Permalink│Comments(0)│
2025年02月20日
小惑星との衝突まであと7年と306日
いくつかの記事をネットで見かけはしても、
おそらく世間的にはたいして話題になっていない出来事。
それは
直径が40〜90mと推定される小惑星「2024 YR4」が
2032年12月22日に地球に衝突する可能性があり
その確率が当初の1.2%から2.2%へ上昇した
という情報。
7年と306日なんてもうすぐやないか(>_<) ノストラダムスの1997年7月に人類が滅亡するなんて根拠のない与太話に大騒ぎした人もいたのに、どうして今回はスルーされているのだろう。
もっとも衝突の可能性が2.2%なら、逆に衝突しない可能性が97.8%でたいしたことないように思える。しかし2.2%とは1/45であり、昭和世代感覚だとクラスに一人の割合だからまったく無視するのもどうかと思う数字である。ちなみに年末ジャンボ宝くじの1等当選確率は2000万分の1=0.000005%なので当たらないと安心できる(^^ゞ
2024YR4が発見されたのは昨年末の12月27日。25日に地球に最接近し、月との距離の約2.16倍のところを通過した後の姿を、チリに設置された天体望遠鏡で捉えられた。
その天体望遠鏡を運営しているのはATLAS(アトラス)と優しげなネーミングだが、正式名称はAsteroid Terrestrial-impact Last Alert Systemで、日本語だと小惑星・地球衝突・最終警報システム。そんな地球防衛軍みたいな組織があったのかと驚き。
話はそれるが地球と月について、このようなイメージを持っている人が多い。画像はhttps://x.gd/cyOvSから引用(短縮URL使用)
上の写真で地球と月のサイズ比はだいたい合っているものの、距離感はまったく違っていて、実際の地球と月の間は地球が30個ほど並ぶほど離れている。ブログに貼り付けると小さくて見えないのでクリックで拡大して確認してみて。画像はhttps://astropics.bookbright.co.jp/earth-and-moonから引用
だから月より約2.16倍離れたとはかなり遠い位置。でも2024YR4は太陽系内を次のような軌道で周回しており、その公転周期は約4年。それで軌道計算してみると、次の次の接近のときがヤバイと判明したたようだ。
この2024YR4が地球に落ちてきた場合、直径40mならTNT火薬(いわゆる爆弾)800万トン相当=広島原爆の約530倍、直径90mでは5000万トン相当=広島原爆の約3300倍の爆発となる。そう言われてもピンとこないが後者は東京23区が消滅するレベルらしい(/o\)
ただし衝突の可能性が2.2%だとしても、地球の面積である5億1000万平方キロに対して、日本の国土は37万8000平方キロしかない。近海に落ちれば巨大津波が起きるだろうから排他的経済水域(EEZ)の447万平方キロを加えても484万8000平方キロ。それを元に計算すると、
484万8000平方キロ ÷ 5億1000万平方キロ = 0.0095
2.2% × 0.0095 = 0.02%
ちょっと安心した?
なぜか分数の1/5000にすると、まだ確率が高い気もするけど。
なんて思っていたら、こんな落下予想エリア図を見つけた。
日本は外れているように見えるものの(日本以外なら落ちてもいいと思っているわけじゃない)、少しタイミングがずれれば日本列島縦断コースになりそうぢゃないか(>_<)
とはいえ2024YR4が2032年12月22日に地球に衝突する可能性2.2%というのは、あくまで暫定的な試算。まだ観測不十分で正確な軌道は割り出せていない。
さらに現在の2024YR4は地球から遠ざかるコースにあるため、そろそろ観測不可能な距離となっており、次に観測できるのは再び地球に接近する2028年12月。来月には地球の周回軌道上にあるジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡も観測に投入するようだが、どうやら確定予測が出るのは4年後みたいだ。
もし本当に地球に衝突したらどうなるのかな。
2024YR4は秒速17km=時速6万1200km=なんとマッハ51!で落ちてくるとの推定。そして地上に衝突した際の運動エネルギーはほぼすべて熱エネルギーに変換されるらしい。都市部に落ちた場合をイメージしやすいように東京で例えると、原爆3300倍の爆発によって23区内は焼け野原ならぬ溶け野原になって消滅。その熱と衝撃波が周辺に広がって、東京駅から半径70kmの首都圏は今まで経験した震災・津波被害の比ではないレベルに破壊されるのではないか。それだけのエリアを復旧復興する経済力はどんな国にもないから、被災地は放棄になる可能性もある。住んでいた人もいなくなるわけだし。想像を絶するとはまさにこのこと。
映画アルマゲドンでは宇宙船で作業員を送り込み、核爆弾を小惑星に埋め込んで爆発させて軌道を変えた。それはちょっとSF的過ぎて2032年ではリアリティがないとしても、NASAは2022年に直径160mの小惑星に、重さ579kgの探査機を衝突させて軌道を変える実験に成功している。
その小惑星は直径780mある別の小惑星を周回する衛星で、実験の成果によりその公転周期が11時間55分から11時間23分へ32分短くなったとされる。それが2024YR4の軌道を地球から逸らす(そらす)レベルなのかどうかはわからないけれど、そんな対策でもするのだろうか。
核弾頭を何発か打ち込めば直径40〜90mの岩なら砕けそうに思える。ただそれで軌道を変えられるのか、単にバラバラになって広範囲に落ちてくるだけなのかーーー
ところで2024YR4の情報を検索すると
「さらに観測を続けデータを取れば、この確率は10倍またはそれ以上に
不正確となる可能性もある」
「以前にも観測を繰り返し詳しい軌道が分かった結果、衝突するとみられていた小惑星が、
人工衛星の内側の軌道を通り抜けていくと判明した例もある」
「小惑星の衝突確率の算出方法の関係上、衝突確率は一時的に過大評価されてしまう
性質がある」
「衝突確率はある時点でゼロに下がると予想しています」
などと書かれている内容も多かった。
これがどうも怪しい。
小惑星が接近している、宇宙人が攻めてくる、怪獣が出現するなどの場合に、映画では必ずといっていいほど政府は混乱を招くとの理由で最初はその事実を伏せる。(そして手遅れになる)これはそのプロパガンダではないか? ひょっとして、もう上級国民向けのシェルターなんか作り始めてたりしてーーー陰謀論(^^ゞ
4年後に正確な予測が出たら、また悩むとしましょう。
もっともそれが高い確率だとしても諦めるしかないんだけど。
おそらく世間的にはたいして話題になっていない出来事。
それは
直径が40〜90mと推定される小惑星「2024 YR4」が
2032年12月22日に地球に衝突する可能性があり
その確率が当初の1.2%から2.2%へ上昇した
という情報。
7年と306日なんてもうすぐやないか(>_<) ノストラダムスの1997年7月に人類が滅亡するなんて根拠のない与太話に大騒ぎした人もいたのに、どうして今回はスルーされているのだろう。
もっとも衝突の可能性が2.2%なら、逆に衝突しない可能性が97.8%でたいしたことないように思える。しかし2.2%とは1/45であり、昭和世代感覚だとクラスに一人の割合だからまったく無視するのもどうかと思う数字である。ちなみに年末ジャンボ宝くじの1等当選確率は2000万分の1=0.000005%なので当たらないと安心できる(^^ゞ
2024YR4が発見されたのは昨年末の12月27日。25日に地球に最接近し、月との距離の約2.16倍のところを通過した後の姿を、チリに設置された天体望遠鏡で捉えられた。
その天体望遠鏡を運営しているのはATLAS(アトラス)と優しげなネーミングだが、正式名称はAsteroid Terrestrial-impact Last Alert Systemで、日本語だと小惑星・地球衝突・最終警報システム。そんな地球防衛軍みたいな組織があったのかと驚き。
話はそれるが地球と月について、このようなイメージを持っている人が多い。画像はhttps://x.gd/cyOvSから引用(短縮URL使用)
上の写真で地球と月のサイズ比はだいたい合っているものの、距離感はまったく違っていて、実際の地球と月の間は地球が30個ほど並ぶほど離れている。ブログに貼り付けると小さくて見えないのでクリックで拡大して確認してみて。画像はhttps://astropics.bookbright.co.jp/earth-and-moonから引用
だから月より約2.16倍離れたとはかなり遠い位置。でも2024YR4は太陽系内を次のような軌道で周回しており、その公転周期は約4年。それで軌道計算してみると、次の次の接近のときがヤバイと判明したたようだ。
この2024YR4が地球に落ちてきた場合、直径40mならTNT火薬(いわゆる爆弾)800万トン相当=広島原爆の約530倍、直径90mでは5000万トン相当=広島原爆の約3300倍の爆発となる。そう言われてもピンとこないが後者は東京23区が消滅するレベルらしい(/o\)
ただし衝突の可能性が2.2%だとしても、地球の面積である5億1000万平方キロに対して、日本の国土は37万8000平方キロしかない。近海に落ちれば巨大津波が起きるだろうから排他的経済水域(EEZ)の447万平方キロを加えても484万8000平方キロ。それを元に計算すると、
484万8000平方キロ ÷ 5億1000万平方キロ = 0.0095
2.2% × 0.0095 = 0.02%
ちょっと安心した?
なぜか分数の1/5000にすると、まだ確率が高い気もするけど。
なんて思っていたら、こんな落下予想エリア図を見つけた。
日本は外れているように見えるものの(日本以外なら落ちてもいいと思っているわけじゃない)、少しタイミングがずれれば日本列島縦断コースになりそうぢゃないか(>_<)
とはいえ2024YR4が2032年12月22日に地球に衝突する可能性2.2%というのは、あくまで暫定的な試算。まだ観測不十分で正確な軌道は割り出せていない。
さらに現在の2024YR4は地球から遠ざかるコースにあるため、そろそろ観測不可能な距離となっており、次に観測できるのは再び地球に接近する2028年12月。来月には地球の周回軌道上にあるジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡も観測に投入するようだが、どうやら確定予測が出るのは4年後みたいだ。
もし本当に地球に衝突したらどうなるのかな。
2024YR4は秒速17km=時速6万1200km=なんとマッハ51!で落ちてくるとの推定。そして地上に衝突した際の運動エネルギーはほぼすべて熱エネルギーに変換されるらしい。都市部に落ちた場合をイメージしやすいように東京で例えると、原爆3300倍の爆発によって23区内は焼け野原ならぬ溶け野原になって消滅。その熱と衝撃波が周辺に広がって、東京駅から半径70kmの首都圏は今まで経験した震災・津波被害の比ではないレベルに破壊されるのではないか。それだけのエリアを復旧復興する経済力はどんな国にもないから、被災地は放棄になる可能性もある。住んでいた人もいなくなるわけだし。想像を絶するとはまさにこのこと。
映画アルマゲドンでは宇宙船で作業員を送り込み、核爆弾を小惑星に埋め込んで爆発させて軌道を変えた。それはちょっとSF的過ぎて2032年ではリアリティがないとしても、NASAは2022年に直径160mの小惑星に、重さ579kgの探査機を衝突させて軌道を変える実験に成功している。
その小惑星は直径780mある別の小惑星を周回する衛星で、実験の成果によりその公転周期が11時間55分から11時間23分へ32分短くなったとされる。それが2024YR4の軌道を地球から逸らす(そらす)レベルなのかどうかはわからないけれど、そんな対策でもするのだろうか。
核弾頭を何発か打ち込めば直径40〜90mの岩なら砕けそうに思える。ただそれで軌道を変えられるのか、単にバラバラになって広範囲に落ちてくるだけなのかーーー
ところで2024YR4の情報を検索すると
「さらに観測を続けデータを取れば、この確率は10倍またはそれ以上に
不正確となる可能性もある」
「以前にも観測を繰り返し詳しい軌道が分かった結果、衝突するとみられていた小惑星が、
人工衛星の内側の軌道を通り抜けていくと判明した例もある」
「小惑星の衝突確率の算出方法の関係上、衝突確率は一時的に過大評価されてしまう
性質がある」
「衝突確率はある時点でゼロに下がると予想しています」
などと書かれている内容も多かった。
これがどうも怪しい。
小惑星が接近している、宇宙人が攻めてくる、怪獣が出現するなどの場合に、映画では必ずといっていいほど政府は混乱を招くとの理由で最初はその事実を伏せる。(そして手遅れになる)これはそのプロパガンダではないか? ひょっとして、もう上級国民向けのシェルターなんか作り始めてたりしてーーー陰謀論(^^ゞ
4年後に正確な予測が出たら、また悩むとしましょう。
もっともそれが高い確率だとしても諦めるしかないんだけど。
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2025年01月03日
松ぼっくりでHappy New Year
あけましておめでとうございます。
私は極めて平穏に、と言えば聞こえがいいものの、
いつも以上になんの代わり映えのない新年を迎えました。
まあそういうのも大事だと思うお年頃ではあります(^^ゞ
それで新年早々、
松ぼっくりの写真を載せて何をしているのかとお思いでしょうが、
まずは今年最初のブログを読んでちょうだい。
さて正月飾りといえば門松。
物心ついた頃から馴染んでいるのに、
門松は「松を飾っている」と、つい先日に知って衝撃を受けたというお話。
名前からして「門松」なのだから当然とはいえ、
ほとんど竹の飾り物のイメージしかなかった(>_<)
皆さんは松だと意識してたあ?
一般的なイラストはこんな感じ。
よく見れば真ん中には伝統的な模様で松が描かれている。
でもほとんどそこには目が向いてなかった気がする。
こちらはもう少し豪華なイメージ。
しっかりと松の針のような葉が描かれているとはいえ、
カドマツという名前の竹の置物としか脳が認識しない。
ところで「松竹梅」のおめでたいイメージから、イラストの門松には松や竹と共に、梅もよく描かれる。ただ正月前にまだ梅はほとんど咲いていないので、実際は、松と竹の緑に対する彩りとしてナンテンや葉ボタンが組み合わされる場合が多い。
こちらはかなり立派な門松の写真。
しっかりと松が添えられている。
しかしである。
試しに竹がないと想像する、あるいは竹を指で隠して眺めて欲しい。
それで門松と思える?
逆に松がなくても門松でしょ。
だからたとえ名前が門松であっても、
主役が竹だと思っていたのは、ごく自然であると自分の無知を正当化(^^ゞ
話はそれるけれど、「門」の漢字は音読みがモンで訓読みがカド。ただしカドと読むのは門松以外に門出(かどで)くらいしか思い浮かばない。辞書には門口(かどくち)が載っていたが初めて聞く言葉。あと今はパナソニックの旧松下電器創業の地は大阪府の門真(かどま)市。
そしてこの「門」は出入り口のゲートと、人の集団というまったく違う意味を持つ。後者の例としては門人、一門、名門、それともう古語の部類になるが門地や門閥(家柄のような意味)など。また「笑う門には福来たる」は、門(ゲート)で笑うと福の神が何やら楽しそうと寄って来るのではなく、笑いの絶えない家庭すなわち門には幸福が訪れるとの意味。たぶん多くの人が勘違いをしている、あるいは笑うのはいいことだ止まりで深く意味を考えていない。
門松の「門」ははもちろんゲートとしての門である。音読みで揃えてモンショウとするより発音しやすいカドマツになったのだろうか。ただし門松の風習が始まったのは平安時代とされ、またその時代には門をカドとも言っていたようだ。そういえば♪年の始めの 例(ためし)とて〜で始まる小学唱歌「一月一日」では、♪松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに〜だった。
松を飾るのは冬でも色あせない常緑樹で、それが生命力を感じさせ不老長寿や繁栄の象徴と見なされたから。中国の一部の地域での風習が平安時代に日本にもたらされた模様。竹や笹を一緒にするのも同じ発想で、こちらは室町時代以降に広まった。
ところで門松の竹を斜めに切り落とした形を「そぎ」、節の位置で真横に切ったのを「寸胴(ずんどう)」という。昔は関東は寸胴、関西が「そぎ」と別れていたらしいが、今は全国的に「そぎ」が主流。これはあまり見かけない寸胴の門松で六義園のもの。画像はhttps://x.gd/52kiZより引用(短縮URL使用)
ただし「そぎ」を始めたのは徳川家康だとの伝承がある。きっかけは家康31歳の時に武田信玄と対峙した三方ヶ原(みかたがはら)の戦い。舞台は現在の浜松市。ホームでの戦いにもかかわらず、まだ経験不足がたたって、攻め入ってきた信玄の陽動作戦にまんまと引っ掛かりコテンパンにボロ負けした。
前線から逃げ帰った家康は武田を竹に見立てて、次は信玄の首を取る意味を込めて斜めに切り落としたのが「そぎ」の始まりだとか。怒りにまかせて竹にそんな八つ当たりをしたかも知れないとしても、それが門松の竹と結びつくかどうかは疑問。
また資料によっては「そぎ」切りにした門松を家康が信玄に送りつけたとする説もある。う〜ん、戦争継続中ともいえる相手に門松を送るか? ゼレンスキーはプーチンにクリスマスカードを送らんやろ(^^ゞ また三方ヶ原の戦いは元亀3年(1572年)12月22日に起きている。まだところどころで戦火がくすぶっていただろうし、門松を正月までに届けられそうにない。信玄は翌年4月になくなっているから次の正月でもない。
まあ伝承とはその程度のものでーーー しかし嘘も100回言えば真実となるじゃないけれど、嘘も歴史に紛れ込ませればみたいなところがあって、全国的に「そぎ」が主流になった現在でも、武田家の本拠地だった山梨県では寸胴の門松が飾られる。
写真は山梨県庁の正面玄関に置かれた門松。竹が「寸胴」なだけではなく、松が低い位置にあるのにも注目。これは徳川の旧姓が松平なのに由来。つまり竹=武田が、松=徳川より上を意味している。ここまで来ると笑えるね。画像はhttps://x.gd/RDWTaより引用(短縮URL使用)
またひとつ前の写真で六義園の門松が寸胴なのは、元の所有者だった三菱の岩崎家が武田家の末裔を称していたから。都立9庭園のうち4庭園は岩崎家由来なので、そこでは寸胴門松を飾っている。
不思議なのは家康によって「そぎ」が始められたとしたら、どうして昔(いつ頃の昔かはよくわからない)は関東が寸胴、関西が「そぎ」だったのか。どうにも反対のように思えるものの、ざっと調べた程度では情報を見つけられず。
また戦前から戦後しばらくまで東京で「そぎ」は格式が低いとみられていたようだ。「そぎ」の門松を飾るのは花柳界や水商売、それとお妾さんの家などであったそうだ。しかし、わざわざ「私は妾です」と正月飾りでアピールするかな。
逆に寸胴はなぜか水平に切ったところにお金が貯まると解釈され、商家、銀行などはそちらの門松だった。時代が下り銀行も「そぎ」を飾るようになると「銀行も最近は水商売になっちまったのかい」と江戸っ子気質の東京人がぼやいたとかぼやかなかったとか。
格式と関係するのかどうかは不明だが、なぜか銀座にある歌舞伎座の門松は寸胴である。画像はhttps://www.kabuki-za.co.jp/sya/vol22.htmlより引用
でも大阪の松竹座は「そぎ」。京都の南座は写真が見つからず。また歌舞伎ではないが大阪にある国立文楽劇場の門松は「そぎ」3本と、寸胴2本のミックス。どうしてそうなった?
竹に話の重心が移ってしまったが、
門松の主役は松である。
中国からどのような形で伝わったかははっきりしないものの、平安貴族には年が明けて最初の「子の日」(ねのひ:十二支のネ、ウシ、トラ〜のネ)に、小さな松の木を引き抜き、それを持ち帰る「小松引き」との行事があった。松の生命力にあやかって長寿を祈願したようだ。画像はhttps://www.ensenji.or.jp/blog/25822/より引用
それが変化したのが「根引きの松」で、これが松を門に備える門松のルーツ。
今でも京都などでは飾られているらしい。画像はhttps://x.gd/4SZiyとhttps://x.gd/0rLLdより引用(短縮URL使用)
門松は松の枝を切って添える。しかし根引きの松はその名前の通り、また小さな松を根ごと引き抜いて飾りとして使う。けっこう残酷で植物虐待(>_<)
もちろん現在は「小松引き」をするのではなく、根引きの松専用に幼木が栽培されている。画像はhttps://x.gd/fy26Yより引用(短縮URL使用)
なお東京でも松の枝を門や玄関に飾っているのはよく見かける。(画像はここをクリック)門松では大げさだし、また大きな家でないと似合わないから選ばれるのだと思う。しかしあくまで枝をカットしたもので、根引きで根がついているのは今まで見たことがない。
ーーーさてさて、そんなわけで松ぼっくりも門松のかわりでした(^^ゞ
ミニ鏡餅を一緒にしてお正月気分を出しましょう。
何かを書こうと思いついて、関連する事柄を少し調べて、そこで面白い発見があるとそちらに話が脱線するのがこのブログ。ブログは公開日記のようなメディアで、何かを伝えるためにあるのが本来だろうけれど、私の場合は調べる、まとめる、書くをできるだけ短時間でこなすのを目的とした脳活ツールのような存在。たまに何を書くつもりだったのか忘れることもある(^^ゞ
そんな内容の駄文でよろしければ今年もお付き合いのほどを。
何かを調べようと検索でたまたまここに来た人は我慢してね。
さて新年から無駄に長い話になってしまったm(_ _)m
でも最後まで読んでくれた人はきっとよい年になります!
私は極めて平穏に、と言えば聞こえがいいものの、
いつも以上になんの代わり映えのない新年を迎えました。
まあそういうのも大事だと思うお年頃ではあります(^^ゞ
それで新年早々、
松ぼっくりの写真を載せて何をしているのかとお思いでしょうが、
まずは今年最初のブログを読んでちょうだい。
さて正月飾りといえば門松。
物心ついた頃から馴染んでいるのに、
門松は「松を飾っている」と、つい先日に知って衝撃を受けたというお話。
名前からして「門松」なのだから当然とはいえ、
ほとんど竹の飾り物のイメージしかなかった(>_<)
皆さんは松だと意識してたあ?
一般的なイラストはこんな感じ。
よく見れば真ん中には伝統的な模様で松が描かれている。
でもほとんどそこには目が向いてなかった気がする。
こちらはもう少し豪華なイメージ。
しっかりと松の針のような葉が描かれているとはいえ、
カドマツという名前の竹の置物としか脳が認識しない。
ところで「松竹梅」のおめでたいイメージから、イラストの門松には松や竹と共に、梅もよく描かれる。ただ正月前にまだ梅はほとんど咲いていないので、実際は、松と竹の緑に対する彩りとしてナンテンや葉ボタンが組み合わされる場合が多い。
こちらはかなり立派な門松の写真。
しっかりと松が添えられている。
しかしである。
試しに竹がないと想像する、あるいは竹を指で隠して眺めて欲しい。
それで門松と思える?
逆に松がなくても門松でしょ。
だからたとえ名前が門松であっても、
主役が竹だと思っていたのは、ごく自然であると自分の無知を正当化(^^ゞ
話はそれるけれど、「門」の漢字は音読みがモンで訓読みがカド。ただしカドと読むのは門松以外に門出(かどで)くらいしか思い浮かばない。辞書には門口(かどくち)が載っていたが初めて聞く言葉。あと今はパナソニックの旧松下電器創業の地は大阪府の門真(かどま)市。
そしてこの「門」は出入り口のゲートと、人の集団というまったく違う意味を持つ。後者の例としては門人、一門、名門、それともう古語の部類になるが門地や門閥(家柄のような意味)など。また「笑う門には福来たる」は、門(ゲート)で笑うと福の神が何やら楽しそうと寄って来るのではなく、笑いの絶えない家庭すなわち門には幸福が訪れるとの意味。たぶん多くの人が勘違いをしている、あるいは笑うのはいいことだ止まりで深く意味を考えていない。
門松の「門」ははもちろんゲートとしての門である。音読みで揃えてモンショウとするより発音しやすいカドマツになったのだろうか。ただし門松の風習が始まったのは平安時代とされ、またその時代には門をカドとも言っていたようだ。そういえば♪年の始めの 例(ためし)とて〜で始まる小学唱歌「一月一日」では、♪松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに〜だった。
松を飾るのは冬でも色あせない常緑樹で、それが生命力を感じさせ不老長寿や繁栄の象徴と見なされたから。中国の一部の地域での風習が平安時代に日本にもたらされた模様。竹や笹を一緒にするのも同じ発想で、こちらは室町時代以降に広まった。
ところで門松の竹を斜めに切り落とした形を「そぎ」、節の位置で真横に切ったのを「寸胴(ずんどう)」という。昔は関東は寸胴、関西が「そぎ」と別れていたらしいが、今は全国的に「そぎ」が主流。これはあまり見かけない寸胴の門松で六義園のもの。画像はhttps://x.gd/52kiZより引用(短縮URL使用)
ただし「そぎ」を始めたのは徳川家康だとの伝承がある。きっかけは家康31歳の時に武田信玄と対峙した三方ヶ原(みかたがはら)の戦い。舞台は現在の浜松市。ホームでの戦いにもかかわらず、まだ経験不足がたたって、攻め入ってきた信玄の陽動作戦にまんまと引っ掛かりコテンパンにボロ負けした。
前線から逃げ帰った家康は武田を竹に見立てて、次は信玄の首を取る意味を込めて斜めに切り落としたのが「そぎ」の始まりだとか。怒りにまかせて竹にそんな八つ当たりをしたかも知れないとしても、それが門松の竹と結びつくかどうかは疑問。
また資料によっては「そぎ」切りにした門松を家康が信玄に送りつけたとする説もある。う〜ん、戦争継続中ともいえる相手に門松を送るか? ゼレンスキーはプーチンにクリスマスカードを送らんやろ(^^ゞ また三方ヶ原の戦いは元亀3年(1572年)12月22日に起きている。まだところどころで戦火がくすぶっていただろうし、門松を正月までに届けられそうにない。信玄は翌年4月になくなっているから次の正月でもない。
まあ伝承とはその程度のものでーーー しかし嘘も100回言えば真実となるじゃないけれど、嘘も歴史に紛れ込ませればみたいなところがあって、全国的に「そぎ」が主流になった現在でも、武田家の本拠地だった山梨県では寸胴の門松が飾られる。
写真は山梨県庁の正面玄関に置かれた門松。竹が「寸胴」なだけではなく、松が低い位置にあるのにも注目。これは徳川の旧姓が松平なのに由来。つまり竹=武田が、松=徳川より上を意味している。ここまで来ると笑えるね。画像はhttps://x.gd/RDWTaより引用(短縮URL使用)
またひとつ前の写真で六義園の門松が寸胴なのは、元の所有者だった三菱の岩崎家が武田家の末裔を称していたから。都立9庭園のうち4庭園は岩崎家由来なので、そこでは寸胴門松を飾っている。
不思議なのは家康によって「そぎ」が始められたとしたら、どうして昔(いつ頃の昔かはよくわからない)は関東が寸胴、関西が「そぎ」だったのか。どうにも反対のように思えるものの、ざっと調べた程度では情報を見つけられず。
また戦前から戦後しばらくまで東京で「そぎ」は格式が低いとみられていたようだ。「そぎ」の門松を飾るのは花柳界や水商売、それとお妾さんの家などであったそうだ。しかし、わざわざ「私は妾です」と正月飾りでアピールするかな。
逆に寸胴はなぜか水平に切ったところにお金が貯まると解釈され、商家、銀行などはそちらの門松だった。時代が下り銀行も「そぎ」を飾るようになると「銀行も最近は水商売になっちまったのかい」と江戸っ子気質の東京人がぼやいたとかぼやかなかったとか。
格式と関係するのかどうかは不明だが、なぜか銀座にある歌舞伎座の門松は寸胴である。画像はhttps://www.kabuki-za.co.jp/sya/vol22.htmlより引用
でも大阪の松竹座は「そぎ」。京都の南座は写真が見つからず。また歌舞伎ではないが大阪にある国立文楽劇場の門松は「そぎ」3本と、寸胴2本のミックス。どうしてそうなった?
竹に話の重心が移ってしまったが、
門松の主役は松である。
中国からどのような形で伝わったかははっきりしないものの、平安貴族には年が明けて最初の「子の日」(ねのひ:十二支のネ、ウシ、トラ〜のネ)に、小さな松の木を引き抜き、それを持ち帰る「小松引き」との行事があった。松の生命力にあやかって長寿を祈願したようだ。画像はhttps://www.ensenji.or.jp/blog/25822/より引用
それが変化したのが「根引きの松」で、これが松を門に備える門松のルーツ。
今でも京都などでは飾られているらしい。画像はhttps://x.gd/4SZiyとhttps://x.gd/0rLLdより引用(短縮URL使用)
門松は松の枝を切って添える。しかし根引きの松はその名前の通り、また小さな松を根ごと引き抜いて飾りとして使う。けっこう残酷で植物虐待(>_<)
もちろん現在は「小松引き」をするのではなく、根引きの松専用に幼木が栽培されている。画像はhttps://x.gd/fy26Yより引用(短縮URL使用)
なお東京でも松の枝を門や玄関に飾っているのはよく見かける。(画像はここをクリック)門松では大げさだし、また大きな家でないと似合わないから選ばれるのだと思う。しかしあくまで枝をカットしたもので、根引きで根がついているのは今まで見たことがない。
ーーーさてさて、そんなわけで松ぼっくりも門松のかわりでした(^^ゞ
ミニ鏡餅を一緒にしてお正月気分を出しましょう。
何かを書こうと思いついて、関連する事柄を少し調べて、そこで面白い発見があるとそちらに話が脱線するのがこのブログ。ブログは公開日記のようなメディアで、何かを伝えるためにあるのが本来だろうけれど、私の場合は調べる、まとめる、書くをできるだけ短時間でこなすのを目的とした脳活ツールのような存在。たまに何を書くつもりだったのか忘れることもある(^^ゞ
そんな内容の駄文でよろしければ今年もお付き合いのほどを。
何かを調べようと検索でたまたまここに来た人は我慢してね。
さて新年から無駄に長い話になってしまったm(_ _)m
でも最後まで読んでくれた人はきっとよい年になります!
wassho at 00:53|Permalink│Comments(0)│
2024年11月11日
どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その4
過去3回までに書いたように、
ツボの刺激に一定の効果はある。
それを示す臨床データもある。
しかし言い伝えられてきた気や経絡などは存在しない。
当然ながら経絡上にあるとされるツボそのものにも実体はない。
つまり鍼灸や指圧は間違った理論によって説明されている。天体を観測して地球が宇宙の中心だと天動説を唱えていたのと同じ。
<疑問その1>
人類がツボを活用した歴史は原始時代まで遡る。今のところの最古記録は、アルプスの雪山から氷漬けミイラとして見つかった、5300年前(新石器時代)の遺体に残っていたツボ治療の痕跡。
中国でツボが用いられたのは4600年ほど前とされ、理論体系化されたのは2200年前の後漢末期。曹操、劉備、孫権が覇権を争った三国志の時代でもある。
日本には4〜5世紀のヤマト王権時代=古墳時代に、来日した新羅(朝鮮)の医師によって最初にもたらされた。その後、7世紀の飛鳥時代に遣隋使・遣唐使が教本などを持ち帰った記録がある。また官職としての鍼灸師もいた。広く普及したのがいつ頃かはわからないが、平安時代の貴族の日記にはお灸の話がよく出てくるらしい。鍼が広まったのは室町時代になってのようだ。
さてその頃はもちろん、まあ明治の中頃までなら「気・経絡・経穴」のツボ理論を信じるのは仕方なかったとして、どうして今でも鍼灸師はそんな嘘八百な解説をするのだ? そして何と鍼灸師の国家試験を見たら経絡に関する出題があった(/o\)
ひょっとしたら「東洋医学の考えでは」と前置きを付ければ、科学的ではない話をしても許されると考えている? 私が常々バカじゃないかと思っている「暦の上では」とその話に意味がないのを断って、立春とか二十四節気で季節を述べたがる人の心理と一緒なのかな。理由は何であれ間違いは訂正しなければならない。地球が太陽の周りを回る地動説に基づくべきなのは当然。
<疑問その2>
とはいっても鍼灸師がツボの原理・メカニズムを解明できるわけではない。彼らは医療類似行為の技術者であり、そこまでの医学や生理学的な知識はない。解明するのは医者や研究者の仕事。
しかし調べてみると、ツボの原理・メカニズムについて研究が進んでいる様子は見られない。ごくたまに細々との印象。しかもハッキリ言って名前を聞いたことがないような大学での研究がほとんど。その一方で病院つまりは西洋医学の分野で鍼灸治療を取り入れているところは増えているようだ。その中には東大病院も含まれる(リハビリ部門)。そういえば鍼灸ではないけれど、以前に入院したとき漢方薬を飲まされてビックリした。
医学界・科学界がツボや反射区の原理・メカニズム解明に興味がないのが残念。でもどうしてなのだろう。とてつもない発見が隠れていて研究のやりがいがありそうなのに。
もっとも臨床(医療の現場)では原理・メカニズムが不明でも、結果がでて治療に役立てばそれでいいのかも知れない。スマホの中で電子部品やプログラムがどう機能しているか知らなくても便利に使っているのと同じ。
それでも鍼で刺し、モグサを燃やし、指で押したりして、薬も飲まずに身体の不調を改善する摩訶不思議なツボの秘密をナントカ知りたいと望んでいる。
まずは単純な好奇心である。「気」に相当する未知なるエネルギーが発見される可能性はほとんどないとしても、見つかったらそれはそれで生理学・医学と物理学の両方でノーベル賞をもらえる(^^ゞ おそらく刺激によって何らかの伝達物質が放出され、それがネットワーク的に機能しているはずで、それを解明できれば科学・医学は大きく前進する。
そしてそれはフィードバックされて、鍼灸の進化にもつながるに違いない。原理・メカニズム以外の鍼灸の謎は、多数のツボがあって多数の効能があるけれど、どうやってそれを突き止めたのかである。原理・メカニズムがわかっていないのだから、論理的に考えると試行錯誤して見つけたと考えるしかない。つまり現在の鍼灸は人類が5000年以上かけてアッチを刺しコッチを押したりしてツボを探り当ててきた。
原理・メカニズムが解明されれば、新たなツボや新たな効能も見つかるだろう。あるいは2つ同時に刺激を与えれば〜刺激を与える順番で別の働きをするとか。ひょっとしたら「お前はもう死んでいる」の北斗の拳に出てきたような必殺の急所も!
また現在の鍼灸は主に身体の不調を改善する効果しかないものの、原理・メカニズムの解明によって病気の治療にまで発展できる可能性もある。逆にその原理・メカニズムを応用した薬の開発も考えられる。「飲むだけで痛くない!足裏グリグリ君顆粒」なんてのが発売されたりして。
「原理・メカニズム」「どうやって突き止めた」に続く、さらなるそして最大の謎がもうひとつある。ツボや反射区は対象となる臓器や器官と離れた場所にも多く存在している。神様が設計したか自然の進化でそうなったかは別として、身体とはそれなりに合理的に構成されているものである。それなのになぜ関係のない離れた場所に?
松尾芭蕉もお灸を据えた、膝の下にある足三里(あしさんり)のツボは胃腸にも効くという。どうしてそんなところにあるのだ。足三里がお腹にあれば胃腸の調子が悪いときにそこをさすったりして自然と刺激を与えられるのに。頭痛のツボは足の甲にもある。誰が頭が痛いときにそんなところを触るネン!
どう考えても離れた場所にあるのは非合理的。でも既知の知識で推察するからそう思うのであって、これも何か意味があるのだろう。ツボの原理・メカニズムが解明されれば人体や生命の神秘にまた一歩近づけると期待している。一方でこれは設計ミスあるいはプログラムのバグのようなもので、ひょっとしたら鍼灸とはそれを利用したゲームの裏技みたいな方法かとモーソーしたりも。
ところで「その3」では気・経絡・経穴からなるツボ理論を、古代ギリシャ人が「万物は火、空気、水、土からなる」と考えていたようなものと例えた。その4大元素論をベースに中世〜ルネサンス期のヨーロッパで盛んに行われたのが錬金術。
もちろん何かと何かを混ぜ、どのように手を加えようが物質が金に変わることはない(核分裂を利用するなら理論的に可能性はある)。錬金術は最終的にニセモノとして廃れたものの、その課程で質量保存の法則や元素表などが考え出され、様々な化学薬品、蒸留や火薬などの技術の発見にもつながった。つまり錬金術は科学である化学を生み出した。あのニュートンだって錬金術に取り組んでいる。
またあまり知られていないが、錬金術は物質を金に変えると同時に、それを飲むと不老不死をもたらす賢者の石やエリクサーと呼ばれる薬の開発を目指していた。
どう?医学や生理学に携わっている皆さん、
ツボの研究をする気になってきた?(^^ゞ
おしまい
<補足>
指圧は日本で生まれた施術で、大正時代初めに浪越徳治郎によって確立された。子供の頃に彼が「アーッハッハ」と豪快に笑い「指圧の心は母ごころ、押せば生命の泉湧く」と言いながらよくテレビに出ていたのを覚えている。でも単におもしろいオッサンのイメージで、指圧の創始者だったとは知らなかったな。また新婚旅行で来日したマリリン・モンローにも指圧したらしく、彼女の素肌に触れた唯一の日本人ともいわれる(^^ゞ 94歳で亡くなったのは2000年。写真を見るとまさに指圧のためにあるような大きな親指!
ツボの刺激に一定の効果はある。
それを示す臨床データもある。
しかし言い伝えられてきた気や経絡などは存在しない。
当然ながら経絡上にあるとされるツボそのものにも実体はない。
つまり鍼灸や指圧は間違った理論によって説明されている。天体を観測して地球が宇宙の中心だと天動説を唱えていたのと同じ。
<疑問その1>
人類がツボを活用した歴史は原始時代まで遡る。今のところの最古記録は、アルプスの雪山から氷漬けミイラとして見つかった、5300年前(新石器時代)の遺体に残っていたツボ治療の痕跡。
中国でツボが用いられたのは4600年ほど前とされ、理論体系化されたのは2200年前の後漢末期。曹操、劉備、孫権が覇権を争った三国志の時代でもある。
日本には4〜5世紀のヤマト王権時代=古墳時代に、来日した新羅(朝鮮)の医師によって最初にもたらされた。その後、7世紀の飛鳥時代に遣隋使・遣唐使が教本などを持ち帰った記録がある。また官職としての鍼灸師もいた。広く普及したのがいつ頃かはわからないが、平安時代の貴族の日記にはお灸の話がよく出てくるらしい。鍼が広まったのは室町時代になってのようだ。
さてその頃はもちろん、まあ明治の中頃までなら「気・経絡・経穴」のツボ理論を信じるのは仕方なかったとして、どうして今でも鍼灸師はそんな嘘八百な解説をするのだ? そして何と鍼灸師の国家試験を見たら経絡に関する出題があった(/o\)
ひょっとしたら「東洋医学の考えでは」と前置きを付ければ、科学的ではない話をしても許されると考えている? 私が常々バカじゃないかと思っている「暦の上では」とその話に意味がないのを断って、立春とか二十四節気で季節を述べたがる人の心理と一緒なのかな。理由は何であれ間違いは訂正しなければならない。地球が太陽の周りを回る地動説に基づくべきなのは当然。
<疑問その2>
とはいっても鍼灸師がツボの原理・メカニズムを解明できるわけではない。彼らは医療類似行為の技術者であり、そこまでの医学や生理学的な知識はない。解明するのは医者や研究者の仕事。
しかし調べてみると、ツボの原理・メカニズムについて研究が進んでいる様子は見られない。ごくたまに細々との印象。しかもハッキリ言って名前を聞いたことがないような大学での研究がほとんど。その一方で病院つまりは西洋医学の分野で鍼灸治療を取り入れているところは増えているようだ。その中には東大病院も含まれる(リハビリ部門)。そういえば鍼灸ではないけれど、以前に入院したとき漢方薬を飲まされてビックリした。
医学界・科学界がツボや反射区の原理・メカニズム解明に興味がないのが残念。でもどうしてなのだろう。とてつもない発見が隠れていて研究のやりがいがありそうなのに。
もっとも臨床(医療の現場)では原理・メカニズムが不明でも、結果がでて治療に役立てばそれでいいのかも知れない。スマホの中で電子部品やプログラムがどう機能しているか知らなくても便利に使っているのと同じ。
それでも鍼で刺し、モグサを燃やし、指で押したりして、薬も飲まずに身体の不調を改善する摩訶不思議なツボの秘密をナントカ知りたいと望んでいる。
まずは単純な好奇心である。「気」に相当する未知なるエネルギーが発見される可能性はほとんどないとしても、見つかったらそれはそれで生理学・医学と物理学の両方でノーベル賞をもらえる(^^ゞ おそらく刺激によって何らかの伝達物質が放出され、それがネットワーク的に機能しているはずで、それを解明できれば科学・医学は大きく前進する。
そしてそれはフィードバックされて、鍼灸の進化にもつながるに違いない。原理・メカニズム以外の鍼灸の謎は、多数のツボがあって多数の効能があるけれど、どうやってそれを突き止めたのかである。原理・メカニズムがわかっていないのだから、論理的に考えると試行錯誤して見つけたと考えるしかない。つまり現在の鍼灸は人類が5000年以上かけてアッチを刺しコッチを押したりしてツボを探り当ててきた。
原理・メカニズムが解明されれば、新たなツボや新たな効能も見つかるだろう。あるいは2つ同時に刺激を与えれば〜刺激を与える順番で別の働きをするとか。ひょっとしたら「お前はもう死んでいる」の北斗の拳に出てきたような必殺の急所も!
また現在の鍼灸は主に身体の不調を改善する効果しかないものの、原理・メカニズムの解明によって病気の治療にまで発展できる可能性もある。逆にその原理・メカニズムを応用した薬の開発も考えられる。「飲むだけで痛くない!足裏グリグリ君顆粒」なんてのが発売されたりして。
「原理・メカニズム」「どうやって突き止めた」に続く、さらなるそして最大の謎がもうひとつある。ツボや反射区は対象となる臓器や器官と離れた場所にも多く存在している。神様が設計したか自然の進化でそうなったかは別として、身体とはそれなりに合理的に構成されているものである。それなのになぜ関係のない離れた場所に?
松尾芭蕉もお灸を据えた、膝の下にある足三里(あしさんり)のツボは胃腸にも効くという。どうしてそんなところにあるのだ。足三里がお腹にあれば胃腸の調子が悪いときにそこをさすったりして自然と刺激を与えられるのに。頭痛のツボは足の甲にもある。誰が頭が痛いときにそんなところを触るネン!
どう考えても離れた場所にあるのは非合理的。でも既知の知識で推察するからそう思うのであって、これも何か意味があるのだろう。ツボの原理・メカニズムが解明されれば人体や生命の神秘にまた一歩近づけると期待している。一方でこれは設計ミスあるいはプログラムのバグのようなもので、ひょっとしたら鍼灸とはそれを利用したゲームの裏技みたいな方法かとモーソーしたりも。
ところで「その3」では気・経絡・経穴からなるツボ理論を、古代ギリシャ人が「万物は火、空気、水、土からなる」と考えていたようなものと例えた。その4大元素論をベースに中世〜ルネサンス期のヨーロッパで盛んに行われたのが錬金術。
もちろん何かと何かを混ぜ、どのように手を加えようが物質が金に変わることはない(核分裂を利用するなら理論的に可能性はある)。錬金術は最終的にニセモノとして廃れたものの、その課程で質量保存の法則や元素表などが考え出され、様々な化学薬品、蒸留や火薬などの技術の発見にもつながった。つまり錬金術は科学である化学を生み出した。あのニュートンだって錬金術に取り組んでいる。
またあまり知られていないが、錬金術は物質を金に変えると同時に、それを飲むと不老不死をもたらす賢者の石やエリクサーと呼ばれる薬の開発を目指していた。
どう?医学や生理学に携わっている皆さん、
ツボの研究をする気になってきた?(^^ゞ
おしまい
<補足>
指圧は日本で生まれた施術で、大正時代初めに浪越徳治郎によって確立された。子供の頃に彼が「アーッハッハ」と豪快に笑い「指圧の心は母ごころ、押せば生命の泉湧く」と言いながらよくテレビに出ていたのを覚えている。でも単におもしろいオッサンのイメージで、指圧の創始者だったとは知らなかったな。また新婚旅行で来日したマリリン・モンローにも指圧したらしく、彼女の素肌に触れた唯一の日本人ともいわれる(^^ゞ 94歳で亡くなったのは2000年。写真を見るとまさに指圧のためにあるような大きな親指!
wassho at 22:17|Permalink│Comments(0)│
2024年11月08日
どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その3
さて
鍼灸・指圧あるいはツボについて素直に納得できない理由とは。
それれは前回に書いた気・経絡・経穴(=ツボ)が空想の産物だから。361箇所のツボとされるところをメスで深く切り開いてもそんな組織は何もない。身体を隅々まで解剖したって経絡なんてどこにも見つからない。経路があるとされる位置とそうでない位置で人体の組成は同一である。ましてや正気と邪気なんて、その正体は誰も知らずまた確かめようがない。
古代ギリシャ人は火、空気、水、土が万物を構成する4大元素だと考え、18世紀頃までヨーロッパで支持されたていた。古代中国の考え方は火・水・木・金・土の五行思想。金はゴールドではなく金属の意味で、これに月と太陽の日を加えたのが曜日名の由来でもある。
今では万物を構成するのは、原子やその複合体である分子だと多くの人が知っている。つまり気・経絡・経穴の理論は、4大元素と同じく科学が未発達な時代のいわば思想に過ぎない。医学的な根拠は何もないどころか実体として存在すらしない。
それに「気が流れる経絡」があり「その経絡上にある気の出入り口である経穴」を基本原理としながら、経絡とは無関係に奇穴(きけつ)と阿是穴(あぜけつ)があるなんて、そもそも論理として破綻している。
だからツボとは、経絡とは〜と説明されればされるほど、
迷信やオカルトめいたものを感じてしまう。
そして問題はーーー
それでもツボを刺激する鍼灸や指圧に効果があること(^^ゞ
もちろん361箇所あるツボのすべてに、鍼灸の教科書に書いてあるような効能があるとは思っていない。しかし肩こり、腰痛、顔のむくみに関しては、私の周りにも鍼を打って解消した、少なくとも本人は満足している人が何人かいる。
以前にテレビで見てびっくりしたのは「赤ちゃんが逆子→エコー検査で見ると赤ちゃんはお腹の中でじっとしていて動かない→妊婦の足の小指横に米粒ほどのお灸→途端に赤ちゃんが活発に動き出し身体の向きを変え始める」といった映像。その後、赤ちゃんは逆子ではなく正常に生まれたとの報告。出産までにお灸以外の措置も他にしたのかどうかはわからなかったし、テレビなので話を盛っている可能性もあるが、足のツボを刺激して赤ちゃんが反応したところまでは事実。
そういえばツボは対象とする身体の部位から離れたところにもあるのが不思議。イラストは肩こりの例で、肩や首回りだけでなく、腕や手にも方に効くツボがある。画像はhttps://alinamin.jp/tired/stiff-shoulders-pressure-point.htmlから引用編集
さらに足裏には遠く離れた臓器や器官とつながっているツボたくさんがあって、その臓器や器官が弱っていれば押されると痛いらしい。たまにテレビで足裏マッサージをしてもらって激痛に悶絶するシーンがある。あれってそんなに痛いのかな。
これに似た足裏マッサージコースを歩いて、耐えきれないくらい痛くて途中脱落した経験はある。しかしそれがツボの反応なのか、これだけの突起の上に体重がかかるから痛いのかよくわからなかった。ニブイのかも(^^ゞ
ツボと表現したけれど、実は上に載せた足裏のイラストに描かれているのは、反射区と呼ばれツボとは別物。特定の反射区を刺激すると対応する臓器や器官に反射的な効果があるという。全身に分布するが足に多く特に足裏に集中している。ツボが点なのに対して面に展開しているのが大きな違い。だから刺激の与え方がツボとは異なり、押すだけでなく揉んだりさする施術もある。それが足裏マッサージと称される由縁。
反射区では末梢神経がそれぞれの臓器や器官につながっているともいわれるものの、医学的に解明されておらず根拠がないのはツボと同じ。ただし神経系統を理論に据えているから、ツボでいう気や経絡とは関係ない。
反射は英語でリフレックスreflex。最初の回で書いたリフレクソロジーはそれに学や論を意味する接尾語のオロジーologyを合わせた造語。スペルはreflexology。日本語では反射療法や反射学。リフレッシュのリフレじゃないよ。発祥は古代エジプトともいわれ、1917年にアメリカの医師が発表した論文が現在のリフレクソロジーのルーツ。なぜか台湾とイギリスでまずブームとなり、現在の日本でも台湾式と英国式のリフレクソロジーが主流。英国式はオイルを塗ってソフトに、台湾式がゴリゴリ悶絶(>_<)
ちなみに反射区ではなくツボも足にはたくさんある。しかし見つけた限りで足裏には2つしかなかったのは意外。その2つのうち前回に書いたWHO認定の361箇所に入っているのは湧泉(ゆうせん)のみ。画像はhttps://x.gd/qGtWtから引用(短縮URL使用)
湧泉は足の指を曲げてじゃんけんのグーの形をしたときに凹むところ。身体に老廃物が溜まっている時は硬くなり、活力がなくなるとブヨブヨの状態になるらしい。
効能は血行促進、頭痛、のどの痛み、首のコリ、食欲不振、高血圧、不眠、冷え性、腰痛、むくみ、ホルモンバランスなど多岐にわたる。また湧泉を刺激すると体力・気力が回復し、ストレスや不安が減少する(ホンマカイナ)。いわゆる万能ツボであり、名前の由来は「生命の泉が湧き出る」。私はなぜか右足にだけ湧泉を押すとクゥーと脳天にしみるような痛みを感じる。ナンデ?(/o\)
ーーー続く
鍼灸・指圧あるいはツボについて素直に納得できない理由とは。
それれは前回に書いた気・経絡・経穴(=ツボ)が空想の産物だから。361箇所のツボとされるところをメスで深く切り開いてもそんな組織は何もない。身体を隅々まで解剖したって経絡なんてどこにも見つからない。経路があるとされる位置とそうでない位置で人体の組成は同一である。ましてや正気と邪気なんて、その正体は誰も知らずまた確かめようがない。
古代ギリシャ人は火、空気、水、土が万物を構成する4大元素だと考え、18世紀頃までヨーロッパで支持されたていた。古代中国の考え方は火・水・木・金・土の五行思想。金はゴールドではなく金属の意味で、これに月と太陽の日を加えたのが曜日名の由来でもある。
今では万物を構成するのは、原子やその複合体である分子だと多くの人が知っている。つまり気・経絡・経穴の理論は、4大元素と同じく科学が未発達な時代のいわば思想に過ぎない。医学的な根拠は何もないどころか実体として存在すらしない。
それに「気が流れる経絡」があり「その経絡上にある気の出入り口である経穴」を基本原理としながら、経絡とは無関係に奇穴(きけつ)と阿是穴(あぜけつ)があるなんて、そもそも論理として破綻している。
だからツボとは、経絡とは〜と説明されればされるほど、
迷信やオカルトめいたものを感じてしまう。
そして問題はーーー
それでもツボを刺激する鍼灸や指圧に効果があること(^^ゞ
もちろん361箇所あるツボのすべてに、鍼灸の教科書に書いてあるような効能があるとは思っていない。しかし肩こり、腰痛、顔のむくみに関しては、私の周りにも鍼を打って解消した、少なくとも本人は満足している人が何人かいる。
以前にテレビで見てびっくりしたのは「赤ちゃんが逆子→エコー検査で見ると赤ちゃんはお腹の中でじっとしていて動かない→妊婦の足の小指横に米粒ほどのお灸→途端に赤ちゃんが活発に動き出し身体の向きを変え始める」といった映像。その後、赤ちゃんは逆子ではなく正常に生まれたとの報告。出産までにお灸以外の措置も他にしたのかどうかはわからなかったし、テレビなので話を盛っている可能性もあるが、足のツボを刺激して赤ちゃんが反応したところまでは事実。
そういえばツボは対象とする身体の部位から離れたところにもあるのが不思議。イラストは肩こりの例で、肩や首回りだけでなく、腕や手にも方に効くツボがある。画像はhttps://alinamin.jp/tired/stiff-shoulders-pressure-point.htmlから引用編集
さらに足裏には遠く離れた臓器や器官とつながっているツボたくさんがあって、その臓器や器官が弱っていれば押されると痛いらしい。たまにテレビで足裏マッサージをしてもらって激痛に悶絶するシーンがある。あれってそんなに痛いのかな。
これに似た足裏マッサージコースを歩いて、耐えきれないくらい痛くて途中脱落した経験はある。しかしそれがツボの反応なのか、これだけの突起の上に体重がかかるから痛いのかよくわからなかった。ニブイのかも(^^ゞ
ツボと表現したけれど、実は上に載せた足裏のイラストに描かれているのは、反射区と呼ばれツボとは別物。特定の反射区を刺激すると対応する臓器や器官に反射的な効果があるという。全身に分布するが足に多く特に足裏に集中している。ツボが点なのに対して面に展開しているのが大きな違い。だから刺激の与え方がツボとは異なり、押すだけでなく揉んだりさする施術もある。それが足裏マッサージと称される由縁。
反射区では末梢神経がそれぞれの臓器や器官につながっているともいわれるものの、医学的に解明されておらず根拠がないのはツボと同じ。ただし神経系統を理論に据えているから、ツボでいう気や経絡とは関係ない。
反射は英語でリフレックスreflex。最初の回で書いたリフレクソロジーはそれに学や論を意味する接尾語のオロジーologyを合わせた造語。スペルはreflexology。日本語では反射療法や反射学。リフレッシュのリフレじゃないよ。発祥は古代エジプトともいわれ、1917年にアメリカの医師が発表した論文が現在のリフレクソロジーのルーツ。なぜか台湾とイギリスでまずブームとなり、現在の日本でも台湾式と英国式のリフレクソロジーが主流。英国式はオイルを塗ってソフトに、台湾式がゴリゴリ悶絶(>_<)
ちなみに反射区ではなくツボも足にはたくさんある。しかし見つけた限りで足裏には2つしかなかったのは意外。その2つのうち前回に書いたWHO認定の361箇所に入っているのは湧泉(ゆうせん)のみ。画像はhttps://x.gd/qGtWtから引用(短縮URL使用)
湧泉は足の指を曲げてじゃんけんのグーの形をしたときに凹むところ。身体に老廃物が溜まっている時は硬くなり、活力がなくなるとブヨブヨの状態になるらしい。
効能は血行促進、頭痛、のどの痛み、首のコリ、食欲不振、高血圧、不眠、冷え性、腰痛、むくみ、ホルモンバランスなど多岐にわたる。また湧泉を刺激すると体力・気力が回復し、ストレスや不安が減少する(ホンマカイナ)。いわゆる万能ツボであり、名前の由来は「生命の泉が湧き出る」。私はなぜか右足にだけ湧泉を押すとクゥーと脳天にしみるような痛みを感じる。ナンデ?(/o\)
ーーー続く
wassho at 23:52|Permalink│Comments(0)│
2024年11月06日
どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その2
鍼と灸そして指圧はツボと呼ばれる部位に刺激を与えて、痛みを取ったり体調不良を改善する施術。法律的には医療類似行為に属する。最近は脳卒中のリハビリやアトピー、心身症さらには美容に至るまで様々な分野に適応されている。(主に鍼で)
その効果を否定はしない。
まず前回に書いたように施術者になるには国家試験があり、言い換えればこれらは国家が認めた技術。だから一部の症状に対しては健康保険も適用される。それにコンビニより多い歯医者よりもさらに多い施設があって、年間5000億円ほどの市場規模なのは、その効果があるからこその需要。手をかざしてハンドパワーを送るとか、怪しげな波動エネルギーなどの類いと違って、広く受け入れられ客観性のある実績を持っているのは理解している。
それでも素直に納得できない気持ちは多分にある。
さて鍼と灸そして指圧のメカズムの基本的な説明はこうだ。
人体は気、血、津液(しんえき)が身体を巡り、
相互に影響しながら生命活動を維持している。
↓
↓ 血はもちろん血液。
↓ 津液は血液以外の体液の総称。単に水(みず)とも呼ぶ。
↓ 気とはエネルギー的存在とされる。
↓
気は体内に張り巡らされている経絡(けいらく)を通って、臓器や筋肉や皮膚に
エネルギーを供給する。血と津液も経絡を通る。人間の場合に経絡は14本。
↓
経絡には気の出入り口である経穴(けいけつ)があり、
これの一般的な名称がツボである。
また経絡上にない奇穴(きけつ)と阿是穴(あぜけつ)があり、
これらもツボと呼ばれる。つまりツボ=経穴+奇穴+阿是穴。
ツボは諸説あるが1000箇所以上存在する。
↓
ツボには経絡(けいらく)を通じて身体各部の反応が現れる。
またツボへの刺激によって身体各部を活性化させる。
↓
もう少し東洋医学的に表現すると、気には正気と邪気がある。
正気は自然治癒力を高めたり、身体を正常に機能させる働きがある。
邪気はその逆で病気を引き起こす。
正気と邪気は経絡を通っており、ツボ=経穴はその出入り口。
邪気を外に出し、正気を補うのが鍼灸や指圧によるツボ治療。
だいたいこんなところ。
気には正気と邪気があるなんて実に怪しげである(^^ゞ
ツボについて調べると多くの鍼灸院のページで「WHO(世界保健機関)によって認定されたツボが361箇所ある」との記述が見られる。国連機関の名前を出して、少しでも怪しさを払拭したい、科学医学的正当性をアピールしたい気持ちの表れにも思える。
ついでに書いておくとWHOに認定されたとはいえ、全世界や医学界がそれに関与したわけではない。この認定会議が開かれたのは2006年。場所は日本のつくば市。参加したのは日本、中国、韓国、モンゴル、シンガポール、ベトナム、オーストラリア、アメリカ、イギリスの9カ国。他に2つの国際団体も参加しているもののWFAS(World Federation of Acupuncture Societies:世界鍼灸学会連合会)とAAOM(American Association of Oriental Medicine:米国東洋医学協会)だからツボの身内。米国東洋医学協会は2007年から米国鍼灸東洋医学協会になった。
そもそもこの会議は医学的データを検証して「ツボの科学的根拠」を認定したものではなく、ツボを扱う鍼灸師や研究者約30名ばかりが集まって、日本式、中国式、韓国式でズレがあった「ツボの位置」について調整を行ったに過ぎない。だから「WHOによって認定されたツボが361箇所ある」とは優良誤認を招きかねない表現である。
参考までにWHOは1979年に43の疾患について鍼灸施術の効果を認めている。ただし結果的に効果があったのを確認しただけで、そのメカニズムを解明したわけではない。1989年には361箇所のツボの名称の標準化も行っている。
それはさておきWHOが認定したツボ361箇所とは左右対になっているものが309箇所、単体が52箇所なので、実際には309 × 2 + 52 =合計 670箇所。なおそれまで日本でツボとされてきたのは354箇所でWHO認定により7つ増えたことになる。
他にも昔からツボとされているところを含めると1000箇所以上になる。人間の身体の表面積は日本人成年男子平均で1万6900平方センチ。(自分の値を知りたければ、ここで計算できる)それをWHO認定の670箇所に限定しても1万6900 ÷ 670 = 25平方センチ。平均すれば5センチ四方にひとつ全身にビッシリとツボがある計算。ツボの知識がなくても、どこか適当に押せば何かには効くんじゃない(^^ゞ
ーーー続く
今回も本題にたどり着けなかったm(_ _)m
その効果を否定はしない。
まず前回に書いたように施術者になるには国家試験があり、言い換えればこれらは国家が認めた技術。だから一部の症状に対しては健康保険も適用される。それにコンビニより多い歯医者よりもさらに多い施設があって、年間5000億円ほどの市場規模なのは、その効果があるからこその需要。手をかざしてハンドパワーを送るとか、怪しげな波動エネルギーなどの類いと違って、広く受け入れられ客観性のある実績を持っているのは理解している。
それでも素直に納得できない気持ちは多分にある。
さて鍼と灸そして指圧のメカズムの基本的な説明はこうだ。
人体は気、血、津液(しんえき)が身体を巡り、
相互に影響しながら生命活動を維持している。
↓
↓ 血はもちろん血液。
↓ 津液は血液以外の体液の総称。単に水(みず)とも呼ぶ。
↓ 気とはエネルギー的存在とされる。
↓
気は体内に張り巡らされている経絡(けいらく)を通って、臓器や筋肉や皮膚に
エネルギーを供給する。血と津液も経絡を通る。人間の場合に経絡は14本。
↓
経絡には気の出入り口である経穴(けいけつ)があり、
これの一般的な名称がツボである。
また経絡上にない奇穴(きけつ)と阿是穴(あぜけつ)があり、
これらもツボと呼ばれる。つまりツボ=経穴+奇穴+阿是穴。
ツボは諸説あるが1000箇所以上存在する。
↓
ツボには経絡(けいらく)を通じて身体各部の反応が現れる。
またツボへの刺激によって身体各部を活性化させる。
↓
もう少し東洋医学的に表現すると、気には正気と邪気がある。
正気は自然治癒力を高めたり、身体を正常に機能させる働きがある。
邪気はその逆で病気を引き起こす。
正気と邪気は経絡を通っており、ツボ=経穴はその出入り口。
邪気を外に出し、正気を補うのが鍼灸や指圧によるツボ治療。
だいたいこんなところ。
気には正気と邪気があるなんて実に怪しげである(^^ゞ
ツボについて調べると多くの鍼灸院のページで「WHO(世界保健機関)によって認定されたツボが361箇所ある」との記述が見られる。国連機関の名前を出して、少しでも怪しさを払拭したい、科学医学的正当性をアピールしたい気持ちの表れにも思える。
ついでに書いておくとWHOに認定されたとはいえ、全世界や医学界がそれに関与したわけではない。この認定会議が開かれたのは2006年。場所は日本のつくば市。参加したのは日本、中国、韓国、モンゴル、シンガポール、ベトナム、オーストラリア、アメリカ、イギリスの9カ国。他に2つの国際団体も参加しているもののWFAS(World Federation of Acupuncture Societies:世界鍼灸学会連合会)とAAOM(American Association of Oriental Medicine:米国東洋医学協会)だからツボの身内。米国東洋医学協会は2007年から米国鍼灸東洋医学協会になった。
そもそもこの会議は医学的データを検証して「ツボの科学的根拠」を認定したものではなく、ツボを扱う鍼灸師や研究者約30名ばかりが集まって、日本式、中国式、韓国式でズレがあった「ツボの位置」について調整を行ったに過ぎない。だから「WHOによって認定されたツボが361箇所ある」とは優良誤認を招きかねない表現である。
参考までにWHOは1979年に43の疾患について鍼灸施術の効果を認めている。ただし結果的に効果があったのを確認しただけで、そのメカニズムを解明したわけではない。1989年には361箇所のツボの名称の標準化も行っている。
それはさておきWHOが認定したツボ361箇所とは左右対になっているものが309箇所、単体が52箇所なので、実際には309 × 2 + 52 =合計 670箇所。なおそれまで日本でツボとされてきたのは354箇所でWHO認定により7つ増えたことになる。
他にも昔からツボとされているところを含めると1000箇所以上になる。人間の身体の表面積は日本人成年男子平均で1万6900平方センチ。(自分の値を知りたければ、ここで計算できる)それをWHO認定の670箇所に限定しても1万6900 ÷ 670 = 25平方センチ。平均すれば5センチ四方にひとつ全身にビッシリとツボがある計算。ツボの知識がなくても、どこか適当に押せば何かには効くんじゃない(^^ゞ
ーーー続く
今回も本題にたどり着けなかったm(_ _)m
wassho at 23:25|Permalink│Comments(0)│
2024年11月03日
どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな
30歳前後の頃は重度の慢性的な急性肩こりに悩まされていた。
慢性なのに急性とはおかしな表現だが、次のような症状である。
午後3時か4時頃に「そろそろ来る」との予感がある。
30分ほどすると肩の筋肉がギューッと収縮し始める。肩甲骨上部のときもある。
触ると石か鉄になったかと思うくらい筋肉の一部が硬くなっている。
肩が凝るというより肩が痛い感覚。
なぜか元気までなくなる(/o\)
その急性の肩こりが数日おきに起きるから慢性の急性肩こり。どうにも我慢できないときは同僚に揉んでもらったりもしていたが、効果は揉まれているときとその後の10分くらいしか続かない。でも不思議なことに夜になるといつの間にか治まっている。
そして35歳くらいからその症状は出なくなった。現在、肩が凝るのは年に1〜2回くらいで、しかもあの痛かった収縮性の肩こりではなく普通の肩こり。
先日、久しぶりに強めの(普通の)肩こりになった。おそらく極度に集中力が必要なパソコン作業を長時間したのが原因。収縮性の肩こりは数時間で治まるが普通の肩こりは数日続くので、これはこれでやっかい。そんな話をある人にすると、「私の通っている鍼の先生は名医なので紹介しますよ」と言われて、それが今回のブログのきっかけ。実はずっと昔から疑問に思っていたテーマでもある。
さて鍼灸と書いて「しんきゅう」。
「鍼」を「しん」と読むのは熟語となった「鍼灸」くらいで、単独で使う場合は「はり」。先ほどの「鍼の先生」は「“はり”の先生」。「針」と「鍼」はどちらも金属のハリを意味するが、慣用的に裁縫などに使うのを針、治療で身体に刺すのを鍼と使い分ける。また身体にハリを刺すのは元は中国より伝わった技術で中国式ハリもある。なぜかそちらは「針」の漢字を使う場合も多い。
灸の訓読みは「やいと」。私の祖父母世代は「お灸」ではなく「やいと」と言っていたような気がする。なお「お灸」の「お」は単語を敬語化する接頭辞である。ただし「お灸」の場合は「お」を付けないと意味が通りにくい珍しい例かと思う。あっ「おにぎり」や「おむすび」もそうだった。
その「鍼」と「灸」がセットで鍼灸なのは、どちらも同じようにツボとされる部位を物理的に刺激して、痛みを取ったり体調不良を改善する行為だから。言うまでもなく「鍼」はハリを刺して、「お灸」はモグサを燃やした熱によって。同じくツボを刺激する施術には「指圧」もある。
鍼と灸と指圧を「業(ぎょう)として行う」場合は国家資格が必要。「業として行う」は法律独特の言い回しで、いくつかの要素が含まれるものの、平たく言えば職業=対価を得て行うとの意味。
ツボ関連の資格を得る国家試験は次の3つに分かれている。
はり師
きゆう師
あん摩マツサージ指圧師
なぜか法律では「鍼」と「灸」は平仮名で、しかも灸は「きゅう」と発音するのに「きゆう」と書く。また「マッサージ」ではなく「マツサージ」である。按摩も「按」だけが平仮名。
鍼灸師あるいは鍼灸院とよくいうものの実際は、はり師ときゆう師で別の資格。両方の資格を取る人が多いのだと思われる。ただ鍼灸はそうだとして、あん摩とマッサージは似ていても、指圧はその2つとは少し違うようにも思える。指圧の資格を取りたければ、あん摩とマッサージも勉強しなければならない。あん摩・マッサージ・指圧それぞれの違いについては次のページをご参考に。
https://www.idononippon.com/about/9033/
https://www.hinuma-acu.com/962862247
国家試験を受けるには高校卒業後に、厚生労働省か文部科学省が指定する専門学校で3年間、あるいは大学で4年間学ぶ必要がある。そんなにたくさん学ぶ内容があるのかと思うけれど、とにかくそういう仕組みになっている。また専門学校の学費は500万円前後かかる。ただし医師はこれらの資格を取らずに「業として行う」ことが可能。医学部で「鍼」「灸」「指圧」ましてや「あん摩・マッサージ」なんて習わないはずなのに、どうして認められるのだろう?
ちなみに国家試験の合格率は
はり師 69.3%(2023年)
きゆう師 70.2%(2023年)
あん摩マッサージ指圧師 84.0%(2023年)
医師 92.4%(2024年)
歯科医師 66.1%(2024年)
もちろんこれは医師免許のほうが合格率が高い=簡単なのではなく、いわゆる受験生のレベルの差である。医師と歯科医師の差も同じく。
「あはき」との言葉を聞いたことがあるだろうか。これはあん摩マッサージ指圧の「あ」、鍼の「は」、灸の「き」の頭文字をとった略語。あはき業、あはき療養、あはき師などに使われる業界用語。「鍼」と「灸」の資格だけを持つ人を「はき師」とも呼ぶらしい。別に鍼灸師でいいと思うけれど(^^ゞ
鍼灸の施術を行っているところは2020年のデータで、全国に7万412箇所ある。内訳は「はき」が3万2103、「あはき」が3万8309箇所。「あ」だけだと1万8342箇所。
参考までにコンビニの数は5万5709(2024年9月)で歯医者は6万7755(2022年)。よく歯医者はコンビニより多くて飽和状態と言われるが鍼灸はそれより多い。
なお「あはき」と同じ意味で「鍼灸マッサージ」との新しい言い方もある。こちらは「あん摩と指圧」の単語が省かれてお気の毒。そういえば「按摩」は、ほとんど聞かなくなってもう死語に近い気がする。昔は視覚障害者で按摩の職業に就く人が多く、按摩=盲人=差別との謎ロジックで按摩は放送禁止用語になっている。そういうのも影響しているのかも知れない。
ところで「あはき」を「業として行う」には国家資格が必要なはずなのに、エステティックサロンやいわゆるリラクセーションとしてのマッサージ、それに整体やカイロプラクティックなどに国家資格はなく無免許での施術となる。ホテルなどで部屋に来てくれるマッサージ、足裏マッサージなども同様。そのあたりは法律的に微妙でグレーな領域。エステでは「あ」の資格を持つ従業員が施術するのでなければ、マッサージの言葉は使えず「リラクセーション、リフレクソロジー、トリートメント、ケア、癒やし、ほぐし」などと表現する。例えばフェイシャルケア。
国家資格がある=法律で規制されているといえる。しかし同時に法律で利権が守られているでもある。このあたりは大人の事情ならぬ大人の社会構造。だから「あはき」業界とエステ業界、整体業界は仲が悪い(^^ゞ また「あはき」と似たような国家資格に柔道整復師がある。いわゆる接骨整骨。こちらは「あはき」とは健康保険の取り扱い方が異なり、それが原因でここでもよく揉めている。
なお「治療」の言葉は医師のみに認められた行為で「あはき」で行うのは「施術」と法律ではなっている。なのに「〇〇鍼灸治療院」なんて名前はざらにある。「あはき」で開業するには自治体への届け出が必要なので、つまりその名前は公に認められているともいえる。その当たりの事情はナゾ
参考までに業界規模は
あはき 4890億円(2021年)
柔道整復 4790億円(2021年)
エステチックサロン 3130億円(2024年見込)
「あ」「は」「き」それぞれを知りたいところだが、兼業しているところも多いせいか個別の数字は見つけられなかった。
例によって下調べでわかった内容で、ずいぶんとボリュームを取ってしまった。
本題は次回にm(_ _)m
ーーー続く
慢性なのに急性とはおかしな表現だが、次のような症状である。
午後3時か4時頃に「そろそろ来る」との予感がある。
30分ほどすると肩の筋肉がギューッと収縮し始める。肩甲骨上部のときもある。
触ると石か鉄になったかと思うくらい筋肉の一部が硬くなっている。
肩が凝るというより肩が痛い感覚。
なぜか元気までなくなる(/o\)
その急性の肩こりが数日おきに起きるから慢性の急性肩こり。どうにも我慢できないときは同僚に揉んでもらったりもしていたが、効果は揉まれているときとその後の10分くらいしか続かない。でも不思議なことに夜になるといつの間にか治まっている。
そして35歳くらいからその症状は出なくなった。現在、肩が凝るのは年に1〜2回くらいで、しかもあの痛かった収縮性の肩こりではなく普通の肩こり。
先日、久しぶりに強めの(普通の)肩こりになった。おそらく極度に集中力が必要なパソコン作業を長時間したのが原因。収縮性の肩こりは数時間で治まるが普通の肩こりは数日続くので、これはこれでやっかい。そんな話をある人にすると、「私の通っている鍼の先生は名医なので紹介しますよ」と言われて、それが今回のブログのきっかけ。実はずっと昔から疑問に思っていたテーマでもある。
さて鍼灸と書いて「しんきゅう」。
「鍼」を「しん」と読むのは熟語となった「鍼灸」くらいで、単独で使う場合は「はり」。先ほどの「鍼の先生」は「“はり”の先生」。「針」と「鍼」はどちらも金属のハリを意味するが、慣用的に裁縫などに使うのを針、治療で身体に刺すのを鍼と使い分ける。また身体にハリを刺すのは元は中国より伝わった技術で中国式ハリもある。なぜかそちらは「針」の漢字を使う場合も多い。
灸の訓読みは「やいと」。私の祖父母世代は「お灸」ではなく「やいと」と言っていたような気がする。なお「お灸」の「お」は単語を敬語化する接頭辞である。ただし「お灸」の場合は「お」を付けないと意味が通りにくい珍しい例かと思う。あっ「おにぎり」や「おむすび」もそうだった。
その「鍼」と「灸」がセットで鍼灸なのは、どちらも同じようにツボとされる部位を物理的に刺激して、痛みを取ったり体調不良を改善する行為だから。言うまでもなく「鍼」はハリを刺して、「お灸」はモグサを燃やした熱によって。同じくツボを刺激する施術には「指圧」もある。
鍼と灸と指圧を「業(ぎょう)として行う」場合は国家資格が必要。「業として行う」は法律独特の言い回しで、いくつかの要素が含まれるものの、平たく言えば職業=対価を得て行うとの意味。
ツボ関連の資格を得る国家試験は次の3つに分かれている。
はり師
きゆう師
あん摩マツサージ指圧師
なぜか法律では「鍼」と「灸」は平仮名で、しかも灸は「きゅう」と発音するのに「きゆう」と書く。また「マッサージ」ではなく「マツサージ」である。按摩も「按」だけが平仮名。
鍼灸師あるいは鍼灸院とよくいうものの実際は、はり師ときゆう師で別の資格。両方の資格を取る人が多いのだと思われる。ただ鍼灸はそうだとして、あん摩とマッサージは似ていても、指圧はその2つとは少し違うようにも思える。指圧の資格を取りたければ、あん摩とマッサージも勉強しなければならない。あん摩・マッサージ・指圧それぞれの違いについては次のページをご参考に。
https://www.idononippon.com/about/9033/
https://www.hinuma-acu.com/962862247
国家試験を受けるには高校卒業後に、厚生労働省か文部科学省が指定する専門学校で3年間、あるいは大学で4年間学ぶ必要がある。そんなにたくさん学ぶ内容があるのかと思うけれど、とにかくそういう仕組みになっている。また専門学校の学費は500万円前後かかる。ただし医師はこれらの資格を取らずに「業として行う」ことが可能。医学部で「鍼」「灸」「指圧」ましてや「あん摩・マッサージ」なんて習わないはずなのに、どうして認められるのだろう?
ちなみに国家試験の合格率は
はり師 69.3%(2023年)
きゆう師 70.2%(2023年)
あん摩マッサージ指圧師 84.0%(2023年)
医師 92.4%(2024年)
歯科医師 66.1%(2024年)
もちろんこれは医師免許のほうが合格率が高い=簡単なのではなく、いわゆる受験生のレベルの差である。医師と歯科医師の差も同じく。
「あはき」との言葉を聞いたことがあるだろうか。これはあん摩マッサージ指圧の「あ」、鍼の「は」、灸の「き」の頭文字をとった略語。あはき業、あはき療養、あはき師などに使われる業界用語。「鍼」と「灸」の資格だけを持つ人を「はき師」とも呼ぶらしい。別に鍼灸師でいいと思うけれど(^^ゞ
鍼灸の施術を行っているところは2020年のデータで、全国に7万412箇所ある。内訳は「はき」が3万2103、「あはき」が3万8309箇所。「あ」だけだと1万8342箇所。
参考までにコンビニの数は5万5709(2024年9月)で歯医者は6万7755(2022年)。よく歯医者はコンビニより多くて飽和状態と言われるが鍼灸はそれより多い。
なお「あはき」と同じ意味で「鍼灸マッサージ」との新しい言い方もある。こちらは「あん摩と指圧」の単語が省かれてお気の毒。そういえば「按摩」は、ほとんど聞かなくなってもう死語に近い気がする。昔は視覚障害者で按摩の職業に就く人が多く、按摩=盲人=差別との謎ロジックで按摩は放送禁止用語になっている。そういうのも影響しているのかも知れない。
ところで「あはき」を「業として行う」には国家資格が必要なはずなのに、エステティックサロンやいわゆるリラクセーションとしてのマッサージ、それに整体やカイロプラクティックなどに国家資格はなく無免許での施術となる。ホテルなどで部屋に来てくれるマッサージ、足裏マッサージなども同様。そのあたりは法律的に微妙でグレーな領域。エステでは「あ」の資格を持つ従業員が施術するのでなければ、マッサージの言葉は使えず「リラクセーション、リフレクソロジー、トリートメント、ケア、癒やし、ほぐし」などと表現する。例えばフェイシャルケア。
国家資格がある=法律で規制されているといえる。しかし同時に法律で利権が守られているでもある。このあたりは大人の事情ならぬ大人の社会構造。だから「あはき」業界とエステ業界、整体業界は仲が悪い(^^ゞ また「あはき」と似たような国家資格に柔道整復師がある。いわゆる接骨整骨。こちらは「あはき」とは健康保険の取り扱い方が異なり、それが原因でここでもよく揉めている。
なお「治療」の言葉は医師のみに認められた行為で「あはき」で行うのは「施術」と法律ではなっている。なのに「〇〇鍼灸治療院」なんて名前はざらにある。「あはき」で開業するには自治体への届け出が必要なので、つまりその名前は公に認められているともいえる。その当たりの事情はナゾ
参考までに業界規模は
あはき 4890億円(2021年)
柔道整復 4790億円(2021年)
エステチックサロン 3130億円(2024年見込)
「あ」「は」「き」それぞれを知りたいところだが、兼業しているところも多いせいか個別の数字は見つけられなかった。
例によって下調べでわかった内容で、ずいぶんとボリュームを取ってしまった。
本題は次回にm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 23:18|Permalink│Comments(0)│
2024年10月26日
カモシカのような脚のナゾ その2
カモシカの脚は細くないし短いのに、どうしてスラッと長い美脚を「カモシカのような脚」なんて表現するのか。前回に書いた内容をおさらいすると、画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/238926とhttps://x.gd/kL4pjから(短縮URL使用)から引用編集
英語で「ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legs」との表現があり美脚を意味する。ガゼルはカモシカと同じくシカではなくウシ科の動物。画像はhttps://animalia.bio/grants-gazelleから引用
ガゼルに似たウシ科で優美な姿をしている動物をアンテロープと総称し、漢字では羚羊(れいよう)と書く。
↓
カモシカはアンテロープ含まれない。
しかしなぜか日本では羚羊と書いて「かもしか」とも読まれてきた。
↓
ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legsの英文が日本に入ってきたとき、ガゼル=羚羊そしてカモシカ=羚羊なので、「カモシカのような脚」と意訳あるいは誤訳した。
ーーーというのが通説。
もっともらしいストリーではあるけれど、どうにも疑問が残る。
誰かカモシカの脚は太いし毛むくじゃら!ーーーと言わなかったのかと。
今ならネットですぐに突っ込みが入るのに(^^ゞ
このLegs like a gazelle / gazelle-like legsなどの英文表現が日本に入ってきたのは、明治維新以降と考えられる。ただし多くのイギリスやアメリカ人が、アフリカからモンゴルにかけて生息するガゼルを大昔から知っていたわけではないので、この表現が生まれたのはもっと後のはず。
新聞や雑誌に報道写真が載るようになったのは1920年代頃。ガゼルを紹介するアフリカ紀行のようなものまで写真が使われ、イギリスやアメリカ人にガゼルの姿が広く知られるようになったのは第2次世界大戦前後のような気がする。だとすると日本人が知ったのは戦後か? (単なる当てずっぽう)
戦争が終わったのは1945年(昭和20年)。
カモシカは明治期以降に乱獲され、1955年(昭和30年)には全国で3000頭程度にまで激減。1934年に国の天然記念物、1955年に特別天然記念物に指定して保護されたので、現在は10万頭を超えると推測されている。
日本全体での生息数の時系列データは見当たらなかったものの、1970年代頃までは「幻の動物」とされていたカモシカ。「カモシカのような脚」と言われてもカモシカを見た人はほとんどいなかったのかも知れない。
いや、それでもおかしい。
幻の動物扱いされていたのは、それなりにカモシカに関心があった証拠。その姿を知っていた人は少なからずいたと考えられる。また絶滅寸前まで乱獲したのなら逆に、少し前までカモシカは身近な存在でもあったはず。
そのカモシカを知っている人たちは異を唱えなかったのか。そもそもカモシカを知らない人が多数だとして、じゃあなぜ見たこともないカモシカを比喩にした「カモシカのような脚」の表現を受け入れたのかも不思議。「センザンコウみたいな肌」といわれてもピンとこないでしょ。シカの足は細い 〜 よく知らないけれどカモシカというシカがいて、シカよりもっと細い足らしいと連想したのだろうか。
2002年から2012年まで放送された「トリビアの泉」という雑学番組があった。そこで「カモシカの脚は太い」と紹介されたときに、かなりの驚きをもたれたといわれる。ということは約50年間、日本人はカモシカを知らないのに「カモシカのような脚」を細い脚だと認識して、しかも間違って認識していたことになる。我々はアホなのか?(^^ゞ
「トリビアの泉」で取り上げられたとはいえその効果は限定的。現在も多くの人は「カモシカのような脚」を細くて長い脚あるいは美脚だと思い、大根足、象みたいな脚とともに脚に関する三大慣用句として健在。
精一杯に想像力を働かせると、ガゼルのような脚がカモシカのような脚として紹介され広まりかけたとき、カモシカの脚は太いと知っていた人はいただろうが、当時はそんな意見を広く世間に発表する手段は新聞の投書欄くらいしかない。まあ目くじらを立てて(これも海のクジラじゃないよ)投書するような話でもなく、誰も指摘しないままカモシカという脚の細いシカの例えと多くの人が信じ込んで今日に至るーーーそんなところかな。
他に似たような事例はないかと考えているがあまり思い浮かばない。誤解の点では「馬子にも衣装」を「七五三で着飾った孫」に由来すると思っている人が多いのに近いか。あるいは動物の比喩なら、ほとんどの人は「月とスッポン」がそう言われる理由を考えることなく使っている。
「カモシカのような脚」と同じ勘違いの慣用句が見つかったら、
またブログを書きましょう。
おしまい
英語で「ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legs」との表現があり美脚を意味する。ガゼルはカモシカと同じくシカではなくウシ科の動物。画像はhttps://animalia.bio/grants-gazelleから引用
ガゼルに似たウシ科で優美な姿をしている動物をアンテロープと総称し、漢字では羚羊(れいよう)と書く。
↓
カモシカはアンテロープ含まれない。
しかしなぜか日本では羚羊と書いて「かもしか」とも読まれてきた。
↓
ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legsの英文が日本に入ってきたとき、ガゼル=羚羊そしてカモシカ=羚羊なので、「カモシカのような脚」と意訳あるいは誤訳した。
ーーーというのが通説。
もっともらしいストリーではあるけれど、どうにも疑問が残る。
誰かカモシカの脚は太いし毛むくじゃら!ーーーと言わなかったのかと。
今ならネットですぐに突っ込みが入るのに(^^ゞ
このLegs like a gazelle / gazelle-like legsなどの英文表現が日本に入ってきたのは、明治維新以降と考えられる。ただし多くのイギリスやアメリカ人が、アフリカからモンゴルにかけて生息するガゼルを大昔から知っていたわけではないので、この表現が生まれたのはもっと後のはず。
新聞や雑誌に報道写真が載るようになったのは1920年代頃。ガゼルを紹介するアフリカ紀行のようなものまで写真が使われ、イギリスやアメリカ人にガゼルの姿が広く知られるようになったのは第2次世界大戦前後のような気がする。だとすると日本人が知ったのは戦後か? (単なる当てずっぽう)
戦争が終わったのは1945年(昭和20年)。
カモシカは明治期以降に乱獲され、1955年(昭和30年)には全国で3000頭程度にまで激減。1934年に国の天然記念物、1955年に特別天然記念物に指定して保護されたので、現在は10万頭を超えると推測されている。
日本全体での生息数の時系列データは見当たらなかったものの、1970年代頃までは「幻の動物」とされていたカモシカ。「カモシカのような脚」と言われてもカモシカを見た人はほとんどいなかったのかも知れない。
いや、それでもおかしい。
幻の動物扱いされていたのは、それなりにカモシカに関心があった証拠。その姿を知っていた人は少なからずいたと考えられる。また絶滅寸前まで乱獲したのなら逆に、少し前までカモシカは身近な存在でもあったはず。
そのカモシカを知っている人たちは異を唱えなかったのか。そもそもカモシカを知らない人が多数だとして、じゃあなぜ見たこともないカモシカを比喩にした「カモシカのような脚」の表現を受け入れたのかも不思議。「センザンコウみたいな肌」といわれてもピンとこないでしょ。シカの足は細い 〜 よく知らないけれどカモシカというシカがいて、シカよりもっと細い足らしいと連想したのだろうか。
2002年から2012年まで放送された「トリビアの泉」という雑学番組があった。そこで「カモシカの脚は太い」と紹介されたときに、かなりの驚きをもたれたといわれる。ということは約50年間、日本人はカモシカを知らないのに「カモシカのような脚」を細い脚だと認識して、しかも間違って認識していたことになる。我々はアホなのか?(^^ゞ
「トリビアの泉」で取り上げられたとはいえその効果は限定的。現在も多くの人は「カモシカのような脚」を細くて長い脚あるいは美脚だと思い、大根足、象みたいな脚とともに脚に関する三大慣用句として健在。
精一杯に想像力を働かせると、ガゼルのような脚がカモシカのような脚として紹介され広まりかけたとき、カモシカの脚は太いと知っていた人はいただろうが、当時はそんな意見を広く世間に発表する手段は新聞の投書欄くらいしかない。まあ目くじらを立てて(これも海のクジラじゃないよ)投書するような話でもなく、誰も指摘しないままカモシカという脚の細いシカの例えと多くの人が信じ込んで今日に至るーーーそんなところかな。
他に似たような事例はないかと考えているがあまり思い浮かばない。誤解の点では「馬子にも衣装」を「七五三で着飾った孫」に由来すると思っている人が多いのに近いか。あるいは動物の比喩なら、ほとんどの人は「月とスッポン」がそう言われる理由を考えることなく使っている。
「カモシカのような脚」と同じ勘違いの慣用句が見つかったら、
またブログを書きましょう。
おしまい
wassho at 23:33|Permalink│Comments(0)│
2024年10月24日
カモシカのような脚のナゾ
カモシカのカモとは何かについて書いたのが前回のブログ。そのきっかけとなったカモシカをテーマとした番組を見て、実は最初に?と思ったのはカモシカの脚についてだった。
これがカモシカ、正確には日本固有種のニホンカモシカ。ウシ科ヤギ亜科に属するカモシカはこのニホンカモシカと、スマトラカモシカ、台湾カモシカの3種しかいない。やや違う系統に朝鮮カモシカとも呼ばれるオナガゴラールがいる。名前から推測するとアジア中心に生息する動物のようだ。3枚目の画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/238926から引用
カモシカの写真や映像を見るのは初めてではないにしても、あまり記憶に残っておらず「カモシカの絵を描きなさい」と言われてもお手上げなレベルだった。
そしてカモシカを改めてみて思ったのは、顔は可愛いけれど
脚、太いやん(^^ゞ
誰もが知っている「カモシカのような脚」との言葉から受けるイメージとはずいぶんと違う。シカのほうがよほど脚が細い。画像はhttps://www.nara-np.co.jp/news/20240717213347.htmlから引用
胴体とのバランスでは馬だってカモシカより細い。
カモシカはシカ科ではなくウシ科だからか、ウシと同じような太さ。カモシカのような脚ですねと女性にいえば喜ばれても、ウシみたいなといえばシバかれるはず(^^ゞ
だいたい細くて長い脚ならキリンにかなう動物はいない。
それがどうして「カモシカのような脚」が細くて長い、いわゆるスラッとした美脚の代名詞になったのか。考えてみれば前回に書いたように、カモシカは山の急斜面で踏ん張って暮らしているから脚がガッチリしているのは当然なのに。画像はhttps://x.gd/kL4pjから引用(短縮URL使用)
前回と同じく、これまた諸説ありでハッキリとはしないものの、
ネットで解説されている情報をまとめると以下のようになる。
1)
英語に「ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legs」という表現がある。意味はカモシカのようなと同じで細くて長くスラッとした美脚。
これがガゼル。シカのように見えるがカモシカと同じくウシ科の動物。でもカモシカと違ってこれなら美脚の比喩として使われるのは納得。画像はhttps://animalia.bio/grants-gazelleから引用
ガゼルはアフリカ、中東、中国北部に掛けて生息している。大きくはガゼル属、トムソンガゼル属、ダマガゼル属に分かれ、そこから13種ほどに細分化される。運動能力に優れ俊敏で、瞬間的には時速90km以上で走りチーターを振り切ることもあるらしい。
ちなみに日産がシルビアの姉妹車としてラインナップしていたガゼール(初代1979〜1983年:写真上、2代目1983年〜1986年:写真下)は、ガゼルをガゼールと引き延ばしてネーミング化したもの。スペルはGazelleと動物のガゼルと同じ。
他にはアディダスにもガゼルというスニーカーがあり、日産と同じくその俊敏さ、足の速さにあやかったネーミング。また英語で成長著しい中小企業をガゼルと呼ぶ使い方もある。
2)
ここから話がややこしい。
写真は上がオリックスで下がインパラ。
ガゼルに近い品種なのは一目瞭然。どちらもウシ科。ウシ科にはこういう動物がたくさんいて、ウシ科約130種のうち約90種がこんな感じ。これらをまとめてアンテロープと総称する。ウシ科の中で優美な姿をしているのをアンテロープと呼んで、それ以外のウシ科動物と区別したといってもいい。だからこれは生物学的な分類名ではない。タヌキとアナグマをまとめてムジナというのと同じ。
アンテロープは漢字で羚羊(れいよう)と書く。おそらく中国での命名が日本に伝わったのだろう。そして前回にカモシカは漢字で氈鹿と説明したが、同じく羚羊と書いてカモシカとも読む。
その理由はわからない。昔はカモシカも羚羊(れいよう)=アンテロープと見なされていたのか。今とは基準が違ってウシ科の中で優美な姿をしているではなく、シカに似ているのをまとめてアンテロープと呼んでいたのかも知れない。
ちなみにウシはウシ科、シカはシカ科でまったく別の品種。
現在のアンテロープの定義は
ウシ科 ー (ウシ族+ヤギ亜科)=アンテロープ
カモシカはヤギ亜科カモシカ属なのでアンテロープではない。
話はそれるが羚羊には羊の字が使われている。しかしヒツジはウシ科ヤギ亜科ヒツジ属である。アンテロープはヒツジにまったく似ていないのに羊の文字を当てたのも不思議。
3)
そしてガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legsの英文が日本に入ってきてそれを翻訳する際に
ガゼル?何それ?
動物みたいだけれど、そんな動物は誰も知らないぞ。
↓
どうやらガゼルは羚羊の一種らしい。
じゃガゼルはカモシカと訳そう。
それで「カモシカのような脚」となったとか、その当たりが大方の説明である。
が、しか〜しなのである。
それって、おかしいと思わないか?
ーーー続く
これがカモシカ、正確には日本固有種のニホンカモシカ。ウシ科ヤギ亜科に属するカモシカはこのニホンカモシカと、スマトラカモシカ、台湾カモシカの3種しかいない。やや違う系統に朝鮮カモシカとも呼ばれるオナガゴラールがいる。名前から推測するとアジア中心に生息する動物のようだ。3枚目の画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/238926から引用
カモシカの写真や映像を見るのは初めてではないにしても、あまり記憶に残っておらず「カモシカの絵を描きなさい」と言われてもお手上げなレベルだった。
そしてカモシカを改めてみて思ったのは、顔は可愛いけれど
脚、太いやん(^^ゞ
誰もが知っている「カモシカのような脚」との言葉から受けるイメージとはずいぶんと違う。シカのほうがよほど脚が細い。画像はhttps://www.nara-np.co.jp/news/20240717213347.htmlから引用
胴体とのバランスでは馬だってカモシカより細い。
カモシカはシカ科ではなくウシ科だからか、ウシと同じような太さ。カモシカのような脚ですねと女性にいえば喜ばれても、ウシみたいなといえばシバかれるはず(^^ゞ
だいたい細くて長い脚ならキリンにかなう動物はいない。
それがどうして「カモシカのような脚」が細くて長い、いわゆるスラッとした美脚の代名詞になったのか。考えてみれば前回に書いたように、カモシカは山の急斜面で踏ん張って暮らしているから脚がガッチリしているのは当然なのに。画像はhttps://x.gd/kL4pjから引用(短縮URL使用)
前回と同じく、これまた諸説ありでハッキリとはしないものの、
ネットで解説されている情報をまとめると以下のようになる。
1)
英語に「ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legs」という表現がある。意味はカモシカのようなと同じで細くて長くスラッとした美脚。
これがガゼル。シカのように見えるがカモシカと同じくウシ科の動物。でもカモシカと違ってこれなら美脚の比喩として使われるのは納得。画像はhttps://animalia.bio/grants-gazelleから引用
ガゼルはアフリカ、中東、中国北部に掛けて生息している。大きくはガゼル属、トムソンガゼル属、ダマガゼル属に分かれ、そこから13種ほどに細分化される。運動能力に優れ俊敏で、瞬間的には時速90km以上で走りチーターを振り切ることもあるらしい。
ちなみに日産がシルビアの姉妹車としてラインナップしていたガゼール(初代1979〜1983年:写真上、2代目1983年〜1986年:写真下)は、ガゼルをガゼールと引き延ばしてネーミング化したもの。スペルはGazelleと動物のガゼルと同じ。
他にはアディダスにもガゼルというスニーカーがあり、日産と同じくその俊敏さ、足の速さにあやかったネーミング。また英語で成長著しい中小企業をガゼルと呼ぶ使い方もある。
2)
ここから話がややこしい。
写真は上がオリックスで下がインパラ。
ガゼルに近い品種なのは一目瞭然。どちらもウシ科。ウシ科にはこういう動物がたくさんいて、ウシ科約130種のうち約90種がこんな感じ。これらをまとめてアンテロープと総称する。ウシ科の中で優美な姿をしているのをアンテロープと呼んで、それ以外のウシ科動物と区別したといってもいい。だからこれは生物学的な分類名ではない。タヌキとアナグマをまとめてムジナというのと同じ。
アンテロープは漢字で羚羊(れいよう)と書く。おそらく中国での命名が日本に伝わったのだろう。そして前回にカモシカは漢字で氈鹿と説明したが、同じく羚羊と書いてカモシカとも読む。
その理由はわからない。昔はカモシカも羚羊(れいよう)=アンテロープと見なされていたのか。今とは基準が違ってウシ科の中で優美な姿をしているではなく、シカに似ているのをまとめてアンテロープと呼んでいたのかも知れない。
ちなみにウシはウシ科、シカはシカ科でまったく別の品種。
現在のアンテロープの定義は
ウシ科 ー (ウシ族+ヤギ亜科)=アンテロープ
カモシカはヤギ亜科カモシカ属なのでアンテロープではない。
話はそれるが羚羊には羊の字が使われている。しかしヒツジはウシ科ヤギ亜科ヒツジ属である。アンテロープはヒツジにまったく似ていないのに羊の文字を当てたのも不思議。
3)
そしてガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legsの英文が日本に入ってきてそれを翻訳する際に
ガゼル?何それ?
動物みたいだけれど、そんな動物は誰も知らないぞ。
↓
どうやらガゼルは羚羊の一種らしい。
じゃガゼルはカモシカと訳そう。
それで「カモシカのような脚」となったとか、その当たりが大方の説明である。
が、しか〜しなのである。
それって、おかしいと思わないか?
ーーー続く
wassho at 22:13|Permalink│Comments(0)│
2024年10月22日
カモシカの名前由来の諸説
しばらく前に見たテレビ番組。
取り上げられていたのはカモシカ。
カモシカについては何かと知らない話だらけだった。
まずカモシカはシカではなく、ウシやヤギと同じウシ科の動物なんだって。
蹄(ひづめ)が2つに分かれており、さらに大きく開くこともできるので踏ん張りがきく。それでカモシカは山の標高の高いところや急斜面に生息している。画像はテレビ画面を撮影
しかし平地や標高の低い場所に住むシカが、この30年間で5倍にも増えてカモシカの住むエリアにも進出。エサとなる草を食べ尽くすのでカモシカの生息が脅かされているというのが番組の趣旨。
ところでカモシカのカモの名前の由来については諸説ある。
でもどれも怪しい。
(1)
まず山の険しいところを「かま」と呼び、カモシカはそこに住んでいるからという説。
もっともらしく聞こえるものの、山の険しいところを「かま」と呼ぶ事例は見つけられなかった。山用語で「鎌」といえば切り立って細い尾根、いわゆる馬の背を指す。カモシカは斜面に生息しているので「鎌」は当てはまらない。山岳の漢字に山岳(かま)とフリガナを振ってあるものもあったが、辞書に載っている限りでは山岳を「かま」とは読まない。
(2)
カモシカの肉は鴨のようにおいしいからとの説もある。
カモシカは1934年(昭和9年)に天然記念物として指定され、1955年からは特別天然記念物。基本的に天然記念物は保護される対象とはいえ、近年になってカモシカは増えすぎたため、一部の地域では有害鳥獣として駆除も行われている。(天然記念物=絶滅危惧種ではない)
天然記念物が理由なのか、あるいは年間で捕獲されるのが600頭前後と少ないせいかどうかは知らないが、カモシカの肉は市場で売られたりレストランで供されることはない。それでも駆除したカモシカの肉を食べた人はいるわけで、ネットでその感想をいくつか見つけた。
それによれば「鴨肉のよう」と書いてあるレポートは皆無。鹿よりも牛に近いとの感想はいくつかあり、まあウシ科だからそうなのだろう。だいたい古代にカモシカを食べていた=カモシカとネーミングしたのは山の民であって、彼らは水鳥である鴨の味なんて知らなかったんじゃないかな。
だからこの説も却下。
(3)
カモシカを漢字で書くと氈鹿。これは毛氈(もうせん)が昔はカモシカの毛から作られているのに由来し、氈は「かも」とも読むのでカモシカと呼ぶとの解説も多い。
毛氈(もうせん)とは動物の毛を圧縮した不織布。より一般的な言葉ならフエルト。主な用途は敷物である。現在、毛氈の名前で呼ばれるのはほとんどが茶道の野点(のだて)や、雛人形で使われるもの。赤い毛氈は緋毛氈(ひもうせん)で別格扱い。VIPが通るレッドカーペットと同じ。書道の下敷きに用いられるのも高級品はウールの毛氈。安いのはポリエステルのフエルト。画像はhttps://x.gd/yLFYzとhttps://x.gd/dGKeXから引用(短縮URL使用)
「氈」の字を辞書で引くと音読みの「せん」、訓読みの「もうせん」「けむしろ」としか載っていない。しかし以前は「氈」を「かも」とも読んでいたようだ。「おりかも」とも言った。
その意味は獣毛で織った敷物。それがカモシカの毛だったのか、また毛氈のように不織布のフエルトが含まれるかは不明。また昔は馬の鞍の下に敷くクッション材にカモシカの毛皮を使い、それを「かも」と呼ぶ事例も見つけた。画像はhttps://pacalla.com/article/article-1412/から引用
では毛氈(もうせん)や「氈(かも)」がカモシカの名前の由来なのか。何となく順序が逆のような気がする。カモシカなんて人より先に日本に生息していて、既に縄文時代には食べられていたのがわかっている。それに対して毛氈(もうせん)が日本に伝来したのは奈良時代。日本でも作り始めて、それにカモシカの毛を使ったとしても(グルーバルスタンダード的には羊毛)、その頃にカモシカの名前はあったはず。それでいわゆる当て字で氈鹿と書いて「カモシカ」と読ませた可能性が高い。
他にも説があるものの、いずれも「カモシカの名前の由来には諸説ある」の域を過ぎない。昔のことなんてなかなか確定できないので「諸説ある」となるのは仕方ないにしても、けっこういい加減な「諸説」がまかり通っていると思ったしだい。
そしてネットの時代になって、真偽を確認せずに、あるいは深く考えずにコピペ、コピペを重ねて拡散し、いつのまにかすっかり事実のように扱われているケースもあるのが怖いところ。AIだってその情報源はネットにある情報。これからはフェイクニュースならぬフェイク諸説も増えてきそう(/o\) だから気をつけないと。
結局、あれこれ調べてカモシカのカモの由来について、納得のいく説明にはたどり着けず。考えてみればシカだって、なぜシカなのかわからないから別にいいけれど。でもとりあえずカモウシとよばれなくてよかったねカモシカ君(^^ゞ
wassho at 23:34|Permalink│Comments(0)│
2024年10月19日
雄しべと雌しべの勘違い
ひとつ前のブログを書く際に植物の精細胞と卵細胞の大きさを調べて、必然的に雄しべと雌しべについてもあれこれと知ることとなった。それで雄しべと雌しべについてずっと勘違いしていた事実があると判明。今回は恥を忍んで(/o\) そのお話。
植物にはいろいろな系統がある。詳しいところは興味があればご自分で調べていただくとして、一般にイメージする花が咲くのは被子植物。画像はhttps://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/science/chu_1/seimei/syokubutunobunrui/10.htmlから引用
当然ながら花には雄しべと雌しべがある。
雄しべが作った花粉がめしべの柱頭(先端)につくのが受粉で、そこから花粉が雌しべの奥にある胚珠(はいしゅ)に向かって花粉管を伸ばし、そこに精細胞を送り込んで胚珠にある卵細胞と合体するのが受精と前回に書いた。
精子は泳ぐけれど花粉は空を飛べないので、何かによって雄しべから雌しべまで運ばれる必要がある。それが媒介で以下に分類される。媒介とは「取り持つ、橋渡しをする」といった意味。
風媒
水媒
虫媒
鳥媒
コウモリ媒
カタツムリ媒
(コウモリは鳥じゃなく哺乳類で、カタツムリは昆虫じゃなく貝の仲間ね)
一番イメージするのは虫媒だろう。
ミツバチは蜜と花粉を集めに、蝶は蜜を吸いに花に集まってくる。
鳥媒はウメに寄ってくるメジロくらいしか思い浮かばないな。画像はhttps://www.oricon.co.jp/special/58436/から引用
いずれにせよ、そのときに虫や鳥の身体についた花粉が雌しべに触れることによって受粉する。農家ではそれで不足する場合、人の手による人工授粉も行われる。人工授粉の画像はhttps://www.aomori-ringo.or.jp/kids/cultivation/とhttps://apron-web.jp/kihon/15273/から引用
さてである。
花には雄花と雌花に分かれているものもあるが、多くは雄しべと雌しべを持つ。言い換えればオスとメスの性質を併せ持つ両性花。ということは虫や鳥が媒介するとき、あるいはモフモフや筆で人工授粉をしたら、自分の花粉が雌しべに受粉してしまう。その場合、種として生まれてくるのは近親交配を通り越して自分のクローンになる。それで問題ないのか?
あまり深く調べたことはなく、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
とりあえず自分の花粉が自分の雌しべに受粉するのは問題ないとするなら、どうして雄しべと雌しべがもっと接近して、お互いが接触するように伸びてこないのだとの疑問をずっと持っていた。もっと近ければ虫や鳥の媒介を必要とせず、わずかな風で受粉できるのにコイツらアホちゃうかと。
違う視点でヒントになるのは、冒頭に載せた系統図のシダ植物や裸子植物。地球の歴史を見ると発生はシダ植物→裸子植物→被子植物の順。時期を書けば4億年前→3.8億年前→2億年前に生まれている。つまり裸子植物の進化版が被子植物。裸子植物には雄しべ雌しべではなく、雄花と雌花が分かれている異性花も多い。異性花が進化してひとつの花で受精を完結する両生花になったのか。ひょっとすると雄しべ雌しべのある両性花も進化の途中で、そのうち植物は受粉ではなく内部で子孫を増やす仕組みを獲得するのかと思ったり。
そうなると植物に花は必要なくなるので、
ガーデニングの楽しみがなくなって困るなあ。
まっ、何億年か先の話だからいいか(^^ゞ
ところがである。
先日に植物の精細胞と卵細胞を調べていたときに、ソレハコッチニオイトイタ自分の花粉が雌しべに受粉してしまうのはやはり問題だったと知る。
人間の場合は46本の染色体 ≒ DNA ≒ 遺伝子を持ち、それは両親の精子と卵子から23本づつ受け継いだもの。どの生物も似たような仕組みで多様性を確保している。近親交配の弊害は省略するが、やはり植物でも同じなのだ。
植物の受粉は次のように分類されている。
自家受粉:同じ花の雄しべと雌しべで受粉
他家受粉・隣家受粉:同じ株の別の花の花粉で受粉
他家受粉・異株受粉:別の株の花粉で受粉(これが狭義の他家受粉)
望ましいのは狭義の他家受粉で、そのために植物は
雄しべと雌しべの成長時期をずらす
という作戦で自家受粉を防いでいる。これを雌雄(しゆう)異熟といい、雄しべが花粉を作るときに雌しべがまだ受粉できない状態にあるのを雄性(ゆうせい)先熟、その逆が雌性(しせい)先熟。
また同じ花の花粉では受粉しない自家不和合性を持つ品種や、他にもいくつかの自家受粉を防ぐ仕組みがある。
しかし他家受粉をするには、何かを媒介にして花粉が運ばれてこなければならない。またそれが運良く雌しべの先端である柱頭に接触する確率も100%ではないだろう。そこで植物は他家受粉ができないとなると、最後の手段として自家受粉を行う(品種もある)。できれば他家受粉で健康的な子孫を、それが無理ならリスクがあっても自家受粉でとにかく子孫を残す万全の備えを持った二段構え戦略。
そんな素晴らしさも知らずに「コイツらアホちゃうか」と失礼極まりない発言をして、
雄しべさん、雌しべさん、申し訳ございませんでしたm(_ _)m (^^ゞ
<追伸>
雌雄異熟だと、雄しべと雌しべの成熟時期が異なるのに、どうして自家受粉できるのかわからないが、そこまでは調べていない。
話は変わるが稲も被子植物。
しかし稲に花が咲いたり、そこにハチや蝶が集まっている光景は想像しづらい。
調べてみるとこれが稲の花。初めて見た。画像はhttps://www.ajfarm.com/yamagata/2721/から引用
稲は風媒花。風媒花は昆虫や鳥の興味を引く必要がないので一般的に花が地味。そして稲の場合は、開花直前に雄しべの花粉が雌しべに降りかかる仕組みになっており、風媒花に分類されても実際には自家受粉だけで子孫=種を残す。
ところで米は稲の種だけれど、ご飯は種を食べているなんて意識はまったくないね。
植物にはいろいろな系統がある。詳しいところは興味があればご自分で調べていただくとして、一般にイメージする花が咲くのは被子植物。画像はhttps://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/science/chu_1/seimei/syokubutunobunrui/10.htmlから引用
当然ながら花には雄しべと雌しべがある。
雄しべが作った花粉がめしべの柱頭(先端)につくのが受粉で、そこから花粉が雌しべの奥にある胚珠(はいしゅ)に向かって花粉管を伸ばし、そこに精細胞を送り込んで胚珠にある卵細胞と合体するのが受精と前回に書いた。
精子は泳ぐけれど花粉は空を飛べないので、何かによって雄しべから雌しべまで運ばれる必要がある。それが媒介で以下に分類される。媒介とは「取り持つ、橋渡しをする」といった意味。
風媒
水媒
虫媒
鳥媒
コウモリ媒
カタツムリ媒
(コウモリは鳥じゃなく哺乳類で、カタツムリは昆虫じゃなく貝の仲間ね)
一番イメージするのは虫媒だろう。
ミツバチは蜜と花粉を集めに、蝶は蜜を吸いに花に集まってくる。
鳥媒はウメに寄ってくるメジロくらいしか思い浮かばないな。画像はhttps://www.oricon.co.jp/special/58436/から引用
いずれにせよ、そのときに虫や鳥の身体についた花粉が雌しべに触れることによって受粉する。農家ではそれで不足する場合、人の手による人工授粉も行われる。人工授粉の画像はhttps://www.aomori-ringo.or.jp/kids/cultivation/とhttps://apron-web.jp/kihon/15273/から引用
さてである。
花には雄花と雌花に分かれているものもあるが、多くは雄しべと雌しべを持つ。言い換えればオスとメスの性質を併せ持つ両性花。ということは虫や鳥が媒介するとき、あるいはモフモフや筆で人工授粉をしたら、自分の花粉が雌しべに受粉してしまう。その場合、種として生まれてくるのは近親交配を通り越して自分のクローンになる。それで問題ないのか?
あまり深く調べたことはなく、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
とりあえず自分の花粉が自分の雌しべに受粉するのは問題ないとするなら、どうして雄しべと雌しべがもっと接近して、お互いが接触するように伸びてこないのだとの疑問をずっと持っていた。もっと近ければ虫や鳥の媒介を必要とせず、わずかな風で受粉できるのにコイツらアホちゃうかと。
違う視点でヒントになるのは、冒頭に載せた系統図のシダ植物や裸子植物。地球の歴史を見ると発生はシダ植物→裸子植物→被子植物の順。時期を書けば4億年前→3.8億年前→2億年前に生まれている。つまり裸子植物の進化版が被子植物。裸子植物には雄しべ雌しべではなく、雄花と雌花が分かれている異性花も多い。異性花が進化してひとつの花で受精を完結する両生花になったのか。ひょっとすると雄しべ雌しべのある両性花も進化の途中で、そのうち植物は受粉ではなく内部で子孫を増やす仕組みを獲得するのかと思ったり。
そうなると植物に花は必要なくなるので、
ガーデニングの楽しみがなくなって困るなあ。
まっ、何億年か先の話だからいいか(^^ゞ
ところがである。
先日に植物の精細胞と卵細胞を調べていたときに、ソレハコッチニオイトイタ自分の花粉が雌しべに受粉してしまうのはやはり問題だったと知る。
人間の場合は46本の染色体 ≒ DNA ≒ 遺伝子を持ち、それは両親の精子と卵子から23本づつ受け継いだもの。どの生物も似たような仕組みで多様性を確保している。近親交配の弊害は省略するが、やはり植物でも同じなのだ。
植物の受粉は次のように分類されている。
自家受粉:同じ花の雄しべと雌しべで受粉
他家受粉・隣家受粉:同じ株の別の花の花粉で受粉
他家受粉・異株受粉:別の株の花粉で受粉(これが狭義の他家受粉)
望ましいのは狭義の他家受粉で、そのために植物は
雄しべと雌しべの成長時期をずらす
という作戦で自家受粉を防いでいる。これを雌雄(しゆう)異熟といい、雄しべが花粉を作るときに雌しべがまだ受粉できない状態にあるのを雄性(ゆうせい)先熟、その逆が雌性(しせい)先熟。
また同じ花の花粉では受粉しない自家不和合性を持つ品種や、他にもいくつかの自家受粉を防ぐ仕組みがある。
しかし他家受粉をするには、何かを媒介にして花粉が運ばれてこなければならない。またそれが運良く雌しべの先端である柱頭に接触する確率も100%ではないだろう。そこで植物は他家受粉ができないとなると、最後の手段として自家受粉を行う(品種もある)。できれば他家受粉で健康的な子孫を、それが無理ならリスクがあっても自家受粉でとにかく子孫を残す万全の備えを持った二段構え戦略。
そんな素晴らしさも知らずに「コイツらアホちゃうか」と失礼極まりない発言をして、
雄しべさん、雌しべさん、申し訳ございませんでしたm(_ _)m (^^ゞ
<追伸>
雌雄異熟だと、雄しべと雌しべの成熟時期が異なるのに、どうして自家受粉できるのかわからないが、そこまでは調べていない。
話は変わるが稲も被子植物。
しかし稲に花が咲いたり、そこにハチや蝶が集まっている光景は想像しづらい。
調べてみるとこれが稲の花。初めて見た。画像はhttps://www.ajfarm.com/yamagata/2721/から引用
稲は風媒花。風媒花は昆虫や鳥の興味を引く必要がないので一般的に花が地味。そして稲の場合は、開花直前に雄しべの花粉が雌しべに降りかかる仕組みになっており、風媒花に分類されても実際には自家受粉だけで子孫=種を残す。
ところで米は稲の種だけれど、ご飯は種を食べているなんて意識はまったくないね。
wassho at 23:02|Permalink│Comments(0)│
2024年10月13日
1万8000倍に成長した百日草
先日、枯れて引き抜いた百日草は長さが1.8m。でも撒いた種は7mmほどだったので1.8m ÷ 7mm = 257倍に成長した計算との話を書いた。
その成長度合いに驚くと共に、1.8mはたまたま私の身長と同じだったので、人間の精子は0.06mm、卵子は0.15mm、受精すると精子は卵子の中に潜り込むので、卵子の大きさで同じように計算すると1.8m ÷ 0.15mm = 1万2000倍とも書いた。
しかし考えてみたら、
精子や卵子と種の大きさを較べるのはおかしいと気付く。
ご存じのように花ができる植物は、雄しべにある花粉が雌しべに触れて受粉し、それによって種を作る。人間とはまったく仕組みが違うとはいえ、無理やり当てはめれば種は母親のお腹にいる赤ちゃんみたいなものかな。
もう少し説明すると花弁(花びら)は萼(がく)で支えられ、その中に雄しべと雌しべがある。画像はhttps://chuugakurika.com/2018/02/08/post-1725/から引用
なおこれは被子植物(反対語は裸子植物)の両生花(反対語は雄花と雌花に分かれる単性花)の場合。長くなるのでその説明は省略m(_ _)m
雄しべの「やく」に花粉ができ、
それが雌しべの柱頭につくのが受粉。
柱頭についた花粉は花粉管を伸ばし、そこに精細胞を送り込んで雌しべの胚珠(はいしゅ)を目指す。図で花粉管は1本だが、実際には柱頭についた花粉がそれぞれ花粉管を伸ばし競争を繰り広げる。精子が卵管の中を泳いで卵子まで競争するのと同じ。生物は生まれる前から常に競争なんだなあと小さな感慨。
そして競争を勝ち抜いた精細胞が、
胚珠の中にある卵細胞と結びついて受精。
だから人間の精子と卵子と較べるなら、植物ではこの精細胞と卵細胞がその対象になる。しかし花粉の大きさは一般的に20〜40マイクロメートル(μm)とすぐにわかったものの、精細胞と卵細胞については情報を見つけられず。
話は変わるがマイクロメートル(μm)とは1mmの1/1000で、小数点で書けば0.001mm。さらにその1/1000すなわち100万分の1mmがナノメートル。ナノはとてつもなく微小だからいいとして、くせ者がこのマイクロメートル。
1マイクロメートル=1/1000mm=0.001mm。したがって花粉の大きさである20マイクロメートルとは0.02mm。0.02mmならまだ何となくその長さを感覚的に把握できても、20マイクロメートルと言われた途端に別世界の話になってしまって実感が湧かない。たまに100マイクロメートルなんて表記を見ると「0.1mmと書け0.1mmと!」と憤慨している。
ちなみに食品ラップの厚みがだいたい10マイクロメートルで、セロテープが50マイクロメートルだけれど、それじゃピンとこないでしょ。それぞれ0.01mmと0.05mm。面白いのは薄さをイメージしてもらう必要のあるコンドームは決してマイクロメートルを使わない(^^ゞ
マイクロメートルを以前はミクロンともいったが、計量法(法律)が1997年に改正され使用が禁止となる。また「ミクロの単位まで磨き上げた」なんてミクロとして表現されたりもして、この使い方は今でも見かける。
植物の精細胞と卵細胞に話を戻す。
その大きさをネットであれこれ調べても出てこないので、仕方なくChatGPTに尋ねてみた。
すると
精細胞:10〜20マイクロメートル=0.01〜0.02mm
卵細胞:100マイクロメートル=0.1mm
との回答。
植物の細胞は50〜250マイクロメートルと書いてあるところが多い。ただしそれは体細胞の話で生殖細胞はそれより小さいので(説明省略)、まあそんなものかも知れない。ChatGPTを調べ物に使うのは当てにならないから避けるべきではあるが、とりあえずこれが正しいとして、前回と同じように1.8mを卵細胞の0.1mmで割ると
1.8m ÷ 0.1mm = 1万8000倍
となる。
精子と卵子での計算は1万2000倍なので似たような数字になってきた。
だったら何?と言う話ではあるけれど、
人間も植物も最初のスタートから1万倍以上にも成長するのかと小さな感慨2回目。
もし今からまた1万2000倍成長したら身長21.6km(^^ゞ
その成長度合いに驚くと共に、1.8mはたまたま私の身長と同じだったので、人間の精子は0.06mm、卵子は0.15mm、受精すると精子は卵子の中に潜り込むので、卵子の大きさで同じように計算すると1.8m ÷ 0.15mm = 1万2000倍とも書いた。
しかし考えてみたら、
精子や卵子と種の大きさを較べるのはおかしいと気付く。
ご存じのように花ができる植物は、雄しべにある花粉が雌しべに触れて受粉し、それによって種を作る。人間とはまったく仕組みが違うとはいえ、無理やり当てはめれば種は母親のお腹にいる赤ちゃんみたいなものかな。
もう少し説明すると花弁(花びら)は萼(がく)で支えられ、その中に雄しべと雌しべがある。画像はhttps://chuugakurika.com/2018/02/08/post-1725/から引用
なおこれは被子植物(反対語は裸子植物)の両生花(反対語は雄花と雌花に分かれる単性花)の場合。長くなるのでその説明は省略m(_ _)m
雄しべの「やく」に花粉ができ、
それが雌しべの柱頭につくのが受粉。
柱頭についた花粉は花粉管を伸ばし、そこに精細胞を送り込んで雌しべの胚珠(はいしゅ)を目指す。図で花粉管は1本だが、実際には柱頭についた花粉がそれぞれ花粉管を伸ばし競争を繰り広げる。精子が卵管の中を泳いで卵子まで競争するのと同じ。生物は生まれる前から常に競争なんだなあと小さな感慨。
そして競争を勝ち抜いた精細胞が、
胚珠の中にある卵細胞と結びついて受精。
だから人間の精子と卵子と較べるなら、植物ではこの精細胞と卵細胞がその対象になる。しかし花粉の大きさは一般的に20〜40マイクロメートル(μm)とすぐにわかったものの、精細胞と卵細胞については情報を見つけられず。
話は変わるがマイクロメートル(μm)とは1mmの1/1000で、小数点で書けば0.001mm。さらにその1/1000すなわち100万分の1mmがナノメートル。ナノはとてつもなく微小だからいいとして、くせ者がこのマイクロメートル。
1マイクロメートル=1/1000mm=0.001mm。したがって花粉の大きさである20マイクロメートルとは0.02mm。0.02mmならまだ何となくその長さを感覚的に把握できても、20マイクロメートルと言われた途端に別世界の話になってしまって実感が湧かない。たまに100マイクロメートルなんて表記を見ると「0.1mmと書け0.1mmと!」と憤慨している。
ちなみに食品ラップの厚みがだいたい10マイクロメートルで、セロテープが50マイクロメートルだけれど、それじゃピンとこないでしょ。それぞれ0.01mmと0.05mm。面白いのは薄さをイメージしてもらう必要のあるコンドームは決してマイクロメートルを使わない(^^ゞ
マイクロメートルを以前はミクロンともいったが、計量法(法律)が1997年に改正され使用が禁止となる。また「ミクロの単位まで磨き上げた」なんてミクロとして表現されたりもして、この使い方は今でも見かける。
植物の精細胞と卵細胞に話を戻す。
その大きさをネットであれこれ調べても出てこないので、仕方なくChatGPTに尋ねてみた。
すると
精細胞:10〜20マイクロメートル=0.01〜0.02mm
卵細胞:100マイクロメートル=0.1mm
との回答。
植物の細胞は50〜250マイクロメートルと書いてあるところが多い。ただしそれは体細胞の話で生殖細胞はそれより小さいので(説明省略)、まあそんなものかも知れない。ChatGPTを調べ物に使うのは当てにならないから避けるべきではあるが、とりあえずこれが正しいとして、前回と同じように1.8mを卵細胞の0.1mmで割ると
1.8m ÷ 0.1mm = 1万8000倍
となる。
精子と卵子での計算は1万2000倍なので似たような数字になってきた。
だったら何?と言う話ではあるけれど、
人間も植物も最初のスタートから1万倍以上にも成長するのかと小さな感慨2回目。
もし今からまた1万2000倍成長したら身長21.6km(^^ゞ
wassho at 22:09|Permalink│Comments(0)│
2024年10月10日
全部で何人生まれた?
芦花公園を訪れた話を途中に挟んだが、その前に「全部で何人?」のタイトルでブログを2回書いた。最初は日本の、その2は世界の人口推移について。ただし人口推移の話は本題ではなく前振りのようなもの。
もう今回のタイトルでネタバレしているものの、
興味を持ったのは、現在の
日本の人口 1億2400万人
世界の人口 81億1900万人
や急増する人口問題ではなくて、
今まで何人の人が生まれたかのいわば累積人口。
それを知ってもたいして意味はない。だいたい記録が残っているのはせいぜい100年ほど前からで、それ以前の人口は推測に推測を重ねてはじき出していて、途中のパラメーターを少し変えれば結果が大きく変わるくらいは想像がつく。
ところで以前にこんな話を書いた。
自分の両親にはそれぞれ両親がいて、その私にとって祖父母に当たる人にもまた両親がいてーーーと先祖の数は倍々に増えていく。それを計算すると私の先祖は戦国時代に10億人、鎌倉時代にはなんと1兆人!を突破する計算になる。
その頃から「全部で何人生まれた?」に何となく興味を持っていたのかも知れない。
参考までに2021年に書いたご先祖様3部作のリンクを張っておく。
ご先祖様のナゾ
https://wassho.livedoor.blog/archives/53394771.html
ご先祖様のナゾ その2
https://wassho.livedoor.blog/archives/53394920.html
実はほとんどのご先祖様と血がつながっていない
https://wassho.livedoor.blog/archives/53395125.html
その累積人口。
そんなどうでもいいテーマに興味を持っている人は少ないらしく、ネットで探してもあまり情報は見つからなかった。
とりあえず世界の人口についてはアメリカの人口問題研究所(PRB:Population Reference Bureau:公的機関ではなくNPOみたい)が、2022年に人類誕生以来の累計人口を1170億人と発表している。また2013年のこちらの記事で生物学者の池田清彦が500億人と書いている。他には秋田大学教授が150〜200億人としている記事もあったが、これは文章内容からして信憑性がやや薄い。
池田の記事には情報ソースが書かれていない。人口問題研究所もリンクしたページには、その計算方法は記されていなかった(ホームページを隅々まで読めばどこかには書かれているのかも知れないが)。なおなぜかリンク先には「その計算は科学であると同時に芸術でもある」なんて意味不明の記述がある。
けっこう探したけれど累積人口を見つけられたのはこの3つくらい。人口問題研究所は1995年から累積人口を発表している。2011年における推定値は1080億人。2011年の世界人口は約71億人で、現在の人口はそれより10億人増えている。そして累積人口は推定値を2011年から90億人も増やしているから、それなりに推定方法をアップデートした数字だと考え、とりあえずこの1170億人を世界の、つまりは人類誕生以来の累計人口としておく。
さてめでたく人類は今までに1170億人が生まれたとわかったとして、
だからどうかというと別に感想はない。
最初に「それを知ってもたいして意味はない」と書いたでしょ(^^ゞ
現在の世界人口81億人(千万人以下は省略)と並べると
今までに1089億人が死んで81億人が生きている。
今生きているのは累積人口の7%。
やっぱり、それがどうしたな感想ーーー
ただ人類(ホモ・サピエンス)の誕生は30万年前。現在の81億人はこの100年に生まれた人だとして、それが30万年の歴史に占める割合は無視してもいいくらいのほんの一瞬。いちおう計算してみると100年 ÷ 30万年 = 0.033%に過ぎない。
その瞬きするような短い期間に7%もの人口が集中しているのは、「その2」にも載せたこのグラフが示す、産業革命を境にした急激な人口増加。ざっと300年で8.2倍に増えている。グラフは国連人口基金(UNFPA)https://x.gd/piFLc(短縮URL使用)から引用編集
グラフで青色に囲った部分は、現在の81億人が生まれた範囲。なおこのグラフは時間軸が右半分が2000年、左半分が十数万年になっている。左右の時間縮尺を同じにするなら、人類誕生は30万年前なので、左半分は今より150倍以上長くなる。
たまにイナゴやバッタが突然に大量発生のニュースがある。現在の人類は30万年の歴史で眺めれば、それに似た異常な状態なのかもと思えてくる。画像はhttps://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00174/070300003/から引用
全世界的には今までに1170億人生まれたとして、
日本だけでは何人生まれたのか?
調べても調べても、これがまったくわからない(/o\)
それを知って意味はないとしても、今まで誰も興味を持たなかったのかな。
現在の世界人口が81億人で日本人口1億2400万人だから、その比率は1:0.015。それを1170億人に掛ければ17億5500万人との数字は出る。しかし人類の誕生が30万年前なのに対して、日本列島に人類が渡ってきたのはわずか3万8000年前。単純に比率を当てはめるのはちょっと無理がある気がする。
とりあえず日本で何人生まれたかの数字は見つけられず。
そこで、見つけられなかったら自分で計算しようホトトギス。
もっともアメリカの人口問題研究所がやっているようなシミュレーションを自分でできるはずもなく、やったのは記録のある出生数を足し上げただけ。
日本の出生数は1899年(明治32年)からの記録がある。ただし終戦を挟んだ1944〜1946年(昭和19〜21年)の記録は欠落している。
明治32年の出生数は138万6981人、昨年は72万7277人で過去最低を記録した。過去最高は終戦4年後の1949年(昭和24年)の269万6638人。出生数はピーク時の37%に落ち込んでいる計算。
なお記録のない1944〜1946年の出生数については、日本の国立社会保障・人口問題研究所が1980年(昭和55年)に出した報告書の中で、出生率(人口1000人あたりの出生数)を
1944年 29人(本当の単位はパーミルだが1000人当たりだから人数と同じ)
1945年 24人
1946年 25人
と推定していた。1943年の出生数は225万3535人で出生率は30.9人なので、
225万3535人:30.9人 = 1944年の出生数:29人
などの比率を当てはめ出生数を1944年211万人、1945年175万人、1946年182万人として計算した。
ところで、この国立の機関である社会保障・人口問題研究所が、1980年(昭和55年)に出した報告書はなんと表紙以外は手書きである。
全文はこちらを参照されたい。
https://www.ipss.go.jp/history/shingikai/data/J000008829.pdf
(一部をワープロ打ちしたファイルもある↓)
https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14215805.pdf
以前に1980年代後半のワープロ事情についてのブログを書いた。そこに「今じゃ信じられないが、社外に出す企画書や報告書で手書きのものも多かった」とも記した。そしてやはりその話を若い連中にしても信じてもらえなかった。でもその証拠がこの報告書。
それにしても手書きの報告書なんて超久しぶりに見た。「こんな風に一生懸命書いてたなあ」と懐かしくなり、この報告書ファイルをダウンロードして保存してしまったよ(^^ゞ
さて1899年(明治32年)から、
昨年2023年まで124年間の出生数合計は
ジャジャン! 2億323万6495人
う〜ん、やっぱり、それがどうしたな感想ーーー(再)
全部で何人生まれたかを知ることで、
いったい何を期待していたのだろうかと自分自身を問い詰めているところ(/o\)
以前に「奈良時代の人口は300万人だった」と知ったときは、ある種の知的好奇心が満たされた感覚があったのに、こちらにはまったくそれがない。別に2億人だろうが3億人だろうがどうでもよく思える。よく通販などで「累積販売数〇〇〇万本突破!」なんて広告があり、その数字にはそれなりの意味を見いだしてしまうのに、「全部で何人生まれた」にそういう思考が働かないのはなぜなのか。
いろいろとナゾ
しかしそれを考えたところで得るものはない気がする。
先ほど日本の累計人口について「今まで誰も興味を持たなかったのかな」と書いた。それは誰か研究しろよとの思いの裏返し。しかし研究者の皆様におかれましては、累積人口を推定しても何の役にも立たないと判明しましたので、他のテーマに精進してくださいm(_ _)m
でも今回はたった124年間だし、やはりこの土地に人類が渡ってきてからの、
しっかりと科学的に推定した数字は知りたいかも。
そして、それを見て改めてフ〜ン、ショウムナといいたい(^^ゞ
おしまい
もう今回のタイトルでネタバレしているものの、
興味を持ったのは、現在の
日本の人口 1億2400万人
世界の人口 81億1900万人
や急増する人口問題ではなくて、
今まで何人の人が生まれたかのいわば累積人口。
それを知ってもたいして意味はない。だいたい記録が残っているのはせいぜい100年ほど前からで、それ以前の人口は推測に推測を重ねてはじき出していて、途中のパラメーターを少し変えれば結果が大きく変わるくらいは想像がつく。
ところで以前にこんな話を書いた。
自分の両親にはそれぞれ両親がいて、その私にとって祖父母に当たる人にもまた両親がいてーーーと先祖の数は倍々に増えていく。それを計算すると私の先祖は戦国時代に10億人、鎌倉時代にはなんと1兆人!を突破する計算になる。
その頃から「全部で何人生まれた?」に何となく興味を持っていたのかも知れない。
参考までに2021年に書いたご先祖様3部作のリンクを張っておく。
ご先祖様のナゾ
https://wassho.livedoor.blog/archives/53394771.html
ご先祖様のナゾ その2
https://wassho.livedoor.blog/archives/53394920.html
実はほとんどのご先祖様と血がつながっていない
https://wassho.livedoor.blog/archives/53395125.html
その累積人口。
そんなどうでもいいテーマに興味を持っている人は少ないらしく、ネットで探してもあまり情報は見つからなかった。
とりあえず世界の人口についてはアメリカの人口問題研究所(PRB:Population Reference Bureau:公的機関ではなくNPOみたい)が、2022年に人類誕生以来の累計人口を1170億人と発表している。また2013年のこちらの記事で生物学者の池田清彦が500億人と書いている。他には秋田大学教授が150〜200億人としている記事もあったが、これは文章内容からして信憑性がやや薄い。
池田の記事には情報ソースが書かれていない。人口問題研究所もリンクしたページには、その計算方法は記されていなかった(ホームページを隅々まで読めばどこかには書かれているのかも知れないが)。なおなぜかリンク先には「その計算は科学であると同時に芸術でもある」なんて意味不明の記述がある。
けっこう探したけれど累積人口を見つけられたのはこの3つくらい。人口問題研究所は1995年から累積人口を発表している。2011年における推定値は1080億人。2011年の世界人口は約71億人で、現在の人口はそれより10億人増えている。そして累積人口は推定値を2011年から90億人も増やしているから、それなりに推定方法をアップデートした数字だと考え、とりあえずこの1170億人を世界の、つまりは人類誕生以来の累計人口としておく。
さてめでたく人類は今までに1170億人が生まれたとわかったとして、
だからどうかというと別に感想はない。
最初に「それを知ってもたいして意味はない」と書いたでしょ(^^ゞ
現在の世界人口81億人(千万人以下は省略)と並べると
今までに1089億人が死んで81億人が生きている。
今生きているのは累積人口の7%。
やっぱり、それがどうしたな感想ーーー
ただ人類(ホモ・サピエンス)の誕生は30万年前。現在の81億人はこの100年に生まれた人だとして、それが30万年の歴史に占める割合は無視してもいいくらいのほんの一瞬。いちおう計算してみると100年 ÷ 30万年 = 0.033%に過ぎない。
その瞬きするような短い期間に7%もの人口が集中しているのは、「その2」にも載せたこのグラフが示す、産業革命を境にした急激な人口増加。ざっと300年で8.2倍に増えている。グラフは国連人口基金(UNFPA)https://x.gd/piFLc(短縮URL使用)から引用編集
グラフで青色に囲った部分は、現在の81億人が生まれた範囲。なおこのグラフは時間軸が右半分が2000年、左半分が十数万年になっている。左右の時間縮尺を同じにするなら、人類誕生は30万年前なので、左半分は今より150倍以上長くなる。
たまにイナゴやバッタが突然に大量発生のニュースがある。現在の人類は30万年の歴史で眺めれば、それに似た異常な状態なのかもと思えてくる。画像はhttps://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00174/070300003/から引用
全世界的には今までに1170億人生まれたとして、
日本だけでは何人生まれたのか?
調べても調べても、これがまったくわからない(/o\)
それを知って意味はないとしても、今まで誰も興味を持たなかったのかな。
現在の世界人口が81億人で日本人口1億2400万人だから、その比率は1:0.015。それを1170億人に掛ければ17億5500万人との数字は出る。しかし人類の誕生が30万年前なのに対して、日本列島に人類が渡ってきたのはわずか3万8000年前。単純に比率を当てはめるのはちょっと無理がある気がする。
とりあえず日本で何人生まれたかの数字は見つけられず。
そこで、見つけられなかったら自分で計算しようホトトギス。
もっともアメリカの人口問題研究所がやっているようなシミュレーションを自分でできるはずもなく、やったのは記録のある出生数を足し上げただけ。
日本の出生数は1899年(明治32年)からの記録がある。ただし終戦を挟んだ1944〜1946年(昭和19〜21年)の記録は欠落している。
明治32年の出生数は138万6981人、昨年は72万7277人で過去最低を記録した。過去最高は終戦4年後の1949年(昭和24年)の269万6638人。出生数はピーク時の37%に落ち込んでいる計算。
なお記録のない1944〜1946年の出生数については、日本の国立社会保障・人口問題研究所が1980年(昭和55年)に出した報告書の中で、出生率(人口1000人あたりの出生数)を
1944年 29人(本当の単位はパーミルだが1000人当たりだから人数と同じ)
1945年 24人
1946年 25人
と推定していた。1943年の出生数は225万3535人で出生率は30.9人なので、
225万3535人:30.9人 = 1944年の出生数:29人
などの比率を当てはめ出生数を1944年211万人、1945年175万人、1946年182万人として計算した。
ところで、この国立の機関である社会保障・人口問題研究所が、1980年(昭和55年)に出した報告書はなんと表紙以外は手書きである。
全文はこちらを参照されたい。
https://www.ipss.go.jp/history/shingikai/data/J000008829.pdf
(一部をワープロ打ちしたファイルもある↓)
https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14215805.pdf
以前に1980年代後半のワープロ事情についてのブログを書いた。そこに「今じゃ信じられないが、社外に出す企画書や報告書で手書きのものも多かった」とも記した。そしてやはりその話を若い連中にしても信じてもらえなかった。でもその証拠がこの報告書。
それにしても手書きの報告書なんて超久しぶりに見た。「こんな風に一生懸命書いてたなあ」と懐かしくなり、この報告書ファイルをダウンロードして保存してしまったよ(^^ゞ
さて1899年(明治32年)から、
昨年2023年まで124年間の出生数合計は
ジャジャン! 2億323万6495人
う〜ん、やっぱり、それがどうしたな感想ーーー(再)
全部で何人生まれたかを知ることで、
いったい何を期待していたのだろうかと自分自身を問い詰めているところ(/o\)
以前に「奈良時代の人口は300万人だった」と知ったときは、ある種の知的好奇心が満たされた感覚があったのに、こちらにはまったくそれがない。別に2億人だろうが3億人だろうがどうでもよく思える。よく通販などで「累積販売数〇〇〇万本突破!」なんて広告があり、その数字にはそれなりの意味を見いだしてしまうのに、「全部で何人生まれた」にそういう思考が働かないのはなぜなのか。
いろいろとナゾ
しかしそれを考えたところで得るものはない気がする。
先ほど日本の累計人口について「今まで誰も興味を持たなかったのかな」と書いた。それは誰か研究しろよとの思いの裏返し。しかし研究者の皆様におかれましては、累積人口を推定しても何の役にも立たないと判明しましたので、他のテーマに精進してくださいm(_ _)m
でも今回はたった124年間だし、やはりこの土地に人類が渡ってきてからの、
しっかりと科学的に推定した数字は知りたいかも。
そして、それを見て改めてフ〜ン、ショウムナといいたい(^^ゞ
おしまい
wassho at 23:22|Permalink│Comments(0)│
2024年10月05日
全部で何人? その2
前回は日本の人口推移について書いた。ただし本当に書きたかったテーマは人口推移とは直接関係のない「人口についてのちょっとした疑問」。ブログのタイトルがヒントだけれどわかるかな?
それについて調べていたら、いろいろと人口推移のデータも集まったし、そして本題に関してはまだほとんどわかっていないので、だったら人口推移も前振りでブログネタにしてみるかと書いたのが前回と今回。そして今回は世界の人口推移について。
4月に発表された国連の世界人口白書2024によれば、現在の世界人口は81億1900万人。ちなみに80億人を突破したのは昨年。調査して発表までには時間がかかるから、実際にはそれぞれ1年前だと思う。
これは人類が誕生して以降の人口推移グラフ。グラフは国連人口基金(UNFPA)https://x.gd/piFLc(短縮URL使用)から引用編集
産業革命を契機に急激に増えているのが一目瞭然。産業革命が起きたのは18世紀半ば。グラフではその頃の人口が10億人。ざっくり300年前として、その間に8.1倍に増えた計算。
日本の産業革命は明治20年代半ばからで(明治維新は1868年、明治は明治45年まで)、西洋の150年遅れで産業革命が導入されたことになる。当時の人口は3340万人。現在の1億2400万人で上記と同じように計算すると150年で3.8倍の増加。
上のグラフはスタートが人類誕生時点だから産業革命以降がほぼ垂直線になっている。それではイメージをつかみにくいので、こちらは1800年が始まり=産業革命後の推移と予想。グラフはhttps://www.yomiuri.co.jp/world/20201117-OYT1T50173/から引用編集
グラフでは50年ごとの人口が記されている。第2次世界大戦が終わったのは1945年だけれど、1950年で代用して戦後の人口増加を計算すると
世界人口 81億1900万人 ÷ 25億人 = 3.2倍
日本人口 1億2400万人 ÷ 8400万人 = 1.5倍
日本は戦後にすごく人口が増えたイメージを持っていたのに、
世界全体と較べると半分のペースだったとは意外。
実は世界の人口というとなぜか36億人の数字を思い出してしまう。調べてみるとそれは1969年から1970年頃。そのときに世界の人口について何か話題があったのか、それとも初めて知った世界の人口が36億人だったので覚えているのか。今となってはナゾ
さて上のグラフでは将来について2本の曲線が描かれている。人類は永遠に増え続けるのではなく、従来は国連の予想で2100年に109億人でピークに達すると考えられていた。しかし2020年に米国ワシントン大学が、ピークは2064年の97億人だとの説を発表して、見解が分かれている。まっ、どっちでもいいけど(^^ゞ (なおこのグラフの作成は2020年で、国連も今年の7月に2080年代半ばにはおよそ103億人でピークに達すると予測を修正している)
現在、最も人口の多い国はインドで14億4,170万人、2位が中国の14億2,520万人。インドが中国を抜いたのは昨年2023年。中国の人口は2年連続で減少しており現在がほぼピークとみられている。一方のインドは2063年に17億人まで増加する見込み。人口が増えれば経済規模も大きくなるものの、それが1対1の正比例になるかどうかはまた別の問題。
話はそれるが50年ほど前に誰かに聞いたか何かで読んだ、
インドにまつわるこんな話。
日本人は九九(9×9)を暗算できるが、インド人は99×99を暗算できるほど頭がいい。
しかしインドは暑すぎて何事にもやる気が起きず怠け者の国民性である。
また熱帯なので野宿しても死ぬことはないし、町や村のそこら中に果実が豊富に
なっていて飢えもしない。それで働く気が起こらず、ますます怠け者になる。
ただしインドがもう少し豊かになって冷房が普及すれば、
元々頭のいい民族なのだからインドはものすごい国になる。
持って生まれた頭のデキが民族によって差があるとは思っていないし、かなり偏見に満ちた意見だと当時から思えた。しかし「冷房」が国家の命運を左右するなど、考えてもみなかった着眼点が新鮮でかつ印象深くて未だによく覚えている。
インドで冷房が普及したのがいつからかはともかく、現在インドのIT技術者は世界2位の規模。ちなみにトップ5は
アメリカ 445万人
インド 343万人
中国 328万人
日本 144万人
ドイツ 121万人
インド国内のIT産業規模ではこれだけの技術者を雇用できず、インド人IT技術者はアメリカを始め世界中で活躍している。日本では楽天だけで数千人が在籍しているらしい。またGoogleやマイクロソフトなどの経営トップはインド系である。
インドの発展はさておいて、温暖化がさらに進んで日本でも野宿OK、路上の果物でお腹が満たせるようにならないかな(^^ゞ
話を世界の人口に戻すと、そのピークがいつかは別として100億人前後までは増え続ける。下記はそのエリア別の伸び方を示している。これからは現在14億人ほどのアフリカが11億人上乗せして地域別のトップに躍り出る。グラフはhttps://www.sri-sinc.jp/knowledge/2022052001.htmlから引用
それをもっと直感的に把握できるように描かれたのがこちら。近頃は観光地に行くと半分くらいは中国人?なんて思うことがある。そのうち右を見ても左を見てもアフリカの人だらけなんて時代も来るみたい。画像はhttps://vdata.nikkei.com/newsgraphics/population-and-world/から引用
さらに最初に話を戻して、現在の世界人口は81億1900万人。
1億人以上の国をリストアップすると
1位 インド 14億4,170万人
2位 中国 14億2,520万人
3位 アメリカ 3億4,180万人
4位 インドネシア 2億7,980万人
5位 パキスタン 2億4,520万人
6位 ナイジェリア 2億2,920万人
7位 ブラジル 2億1,760万人
8位 バングラデシュ 1億7,470万人
9位 ロシア 1億4,400万人
10位 エチオピア 1億2,970万人
11位 メキシコ 1億2,940万人
12位 日本 1億2,260万人
13位 フィリピン 1億1,910万人
14位 エジプト 1億1,450万人
15位 コンゴ共和国 1億560万人
世界には約200の国がある。
そして人口7位までの国だけで、合計人口が41億8050万人と全体の半分以上を占める。ここには載せなかったが20位までの合計人口が56億5090万人。すなわち200カ国中1割の国に世界人口の7割が暮らしている計算になる。
東京の一極集中とよく議論の的になるが、東京都の人口は日本の11.3%。世界はもっと偏っているのだと改めて認識。もっともインドと中国に、あえてえいえばアホほど人がいるせいでそんな状況を生み出しているのだが。とにかく世界はいびつである。また世界の人口を考える際にインドと中国を含む・含まないに分ける必要もあると思う。
さてお勉強はこれくらいにして、
そろそろ本題に進まなければ(^^ゞ
ーーー続く
それについて調べていたら、いろいろと人口推移のデータも集まったし、そして本題に関してはまだほとんどわかっていないので、だったら人口推移も前振りでブログネタにしてみるかと書いたのが前回と今回。そして今回は世界の人口推移について。
4月に発表された国連の世界人口白書2024によれば、現在の世界人口は81億1900万人。ちなみに80億人を突破したのは昨年。調査して発表までには時間がかかるから、実際にはそれぞれ1年前だと思う。
これは人類が誕生して以降の人口推移グラフ。グラフは国連人口基金(UNFPA)https://x.gd/piFLc(短縮URL使用)から引用編集
産業革命を契機に急激に増えているのが一目瞭然。産業革命が起きたのは18世紀半ば。グラフではその頃の人口が10億人。ざっくり300年前として、その間に8.1倍に増えた計算。
日本の産業革命は明治20年代半ばからで(明治維新は1868年、明治は明治45年まで)、西洋の150年遅れで産業革命が導入されたことになる。当時の人口は3340万人。現在の1億2400万人で上記と同じように計算すると150年で3.8倍の増加。
上のグラフはスタートが人類誕生時点だから産業革命以降がほぼ垂直線になっている。それではイメージをつかみにくいので、こちらは1800年が始まり=産業革命後の推移と予想。グラフはhttps://www.yomiuri.co.jp/world/20201117-OYT1T50173/から引用編集
グラフでは50年ごとの人口が記されている。第2次世界大戦が終わったのは1945年だけれど、1950年で代用して戦後の人口増加を計算すると
世界人口 81億1900万人 ÷ 25億人 = 3.2倍
日本人口 1億2400万人 ÷ 8400万人 = 1.5倍
日本は戦後にすごく人口が増えたイメージを持っていたのに、
世界全体と較べると半分のペースだったとは意外。
実は世界の人口というとなぜか36億人の数字を思い出してしまう。調べてみるとそれは1969年から1970年頃。そのときに世界の人口について何か話題があったのか、それとも初めて知った世界の人口が36億人だったので覚えているのか。今となってはナゾ
さて上のグラフでは将来について2本の曲線が描かれている。人類は永遠に増え続けるのではなく、従来は国連の予想で2100年に109億人でピークに達すると考えられていた。しかし2020年に米国ワシントン大学が、ピークは2064年の97億人だとの説を発表して、見解が分かれている。まっ、どっちでもいいけど(^^ゞ (なおこのグラフの作成は2020年で、国連も今年の7月に2080年代半ばにはおよそ103億人でピークに達すると予測を修正している)
現在、最も人口の多い国はインドで14億4,170万人、2位が中国の14億2,520万人。インドが中国を抜いたのは昨年2023年。中国の人口は2年連続で減少しており現在がほぼピークとみられている。一方のインドは2063年に17億人まで増加する見込み。人口が増えれば経済規模も大きくなるものの、それが1対1の正比例になるかどうかはまた別の問題。
話はそれるが50年ほど前に誰かに聞いたか何かで読んだ、
インドにまつわるこんな話。
日本人は九九(9×9)を暗算できるが、インド人は99×99を暗算できるほど頭がいい。
しかしインドは暑すぎて何事にもやる気が起きず怠け者の国民性である。
また熱帯なので野宿しても死ぬことはないし、町や村のそこら中に果実が豊富に
なっていて飢えもしない。それで働く気が起こらず、ますます怠け者になる。
ただしインドがもう少し豊かになって冷房が普及すれば、
元々頭のいい民族なのだからインドはものすごい国になる。
持って生まれた頭のデキが民族によって差があるとは思っていないし、かなり偏見に満ちた意見だと当時から思えた。しかし「冷房」が国家の命運を左右するなど、考えてもみなかった着眼点が新鮮でかつ印象深くて未だによく覚えている。
インドで冷房が普及したのがいつからかはともかく、現在インドのIT技術者は世界2位の規模。ちなみにトップ5は
アメリカ 445万人
インド 343万人
中国 328万人
日本 144万人
ドイツ 121万人
インド国内のIT産業規模ではこれだけの技術者を雇用できず、インド人IT技術者はアメリカを始め世界中で活躍している。日本では楽天だけで数千人が在籍しているらしい。またGoogleやマイクロソフトなどの経営トップはインド系である。
インドの発展はさておいて、温暖化がさらに進んで日本でも野宿OK、路上の果物でお腹が満たせるようにならないかな(^^ゞ
話を世界の人口に戻すと、そのピークがいつかは別として100億人前後までは増え続ける。下記はそのエリア別の伸び方を示している。これからは現在14億人ほどのアフリカが11億人上乗せして地域別のトップに躍り出る。グラフはhttps://www.sri-sinc.jp/knowledge/2022052001.htmlから引用
それをもっと直感的に把握できるように描かれたのがこちら。近頃は観光地に行くと半分くらいは中国人?なんて思うことがある。そのうち右を見ても左を見てもアフリカの人だらけなんて時代も来るみたい。画像はhttps://vdata.nikkei.com/newsgraphics/population-and-world/から引用
さらに最初に話を戻して、現在の世界人口は81億1900万人。
1億人以上の国をリストアップすると
1位 インド 14億4,170万人
2位 中国 14億2,520万人
3位 アメリカ 3億4,180万人
4位 インドネシア 2億7,980万人
5位 パキスタン 2億4,520万人
6位 ナイジェリア 2億2,920万人
7位 ブラジル 2億1,760万人
8位 バングラデシュ 1億7,470万人
9位 ロシア 1億4,400万人
10位 エチオピア 1億2,970万人
11位 メキシコ 1億2,940万人
12位 日本 1億2,260万人
13位 フィリピン 1億1,910万人
14位 エジプト 1億1,450万人
15位 コンゴ共和国 1億560万人
世界には約200の国がある。
そして人口7位までの国だけで、合計人口が41億8050万人と全体の半分以上を占める。ここには載せなかったが20位までの合計人口が56億5090万人。すなわち200カ国中1割の国に世界人口の7割が暮らしている計算になる。
東京の一極集中とよく議論の的になるが、東京都の人口は日本の11.3%。世界はもっと偏っているのだと改めて認識。もっともインドと中国に、あえてえいえばアホほど人がいるせいでそんな状況を生み出しているのだが。とにかく世界はいびつである。また世界の人口を考える際にインドと中国を含む・含まないに分ける必要もあると思う。
さてお勉強はこれくらいにして、
そろそろ本題に進まなければ(^^ゞ
ーーー続く
wassho at 18:40|Permalink│Comments(0)│



























































































































































































































































































































