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2025年01月03日

松ぼっくりでHappy New Year

あけましておめでとうございます。
私は極めて平穏に、と言えば聞こえがいいものの、
いつも以上になんの代わり映えのない新年を迎えました。
まあそういうのも大事だと思うお年頃ではあります(^^ゞ


それで新年早々、
松ぼっくりの写真を載せて何をしているのかとお思いでしょうが、
まずは今年最初のブログを読んでちょうだい。

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さて正月飾りといえば門松。
物心ついた頃から馴染んでいるのに、
門松は「松を飾っている」と、つい先日に知って衝撃を受けたというお話。
名前からして「門松」なのだから当然とはいえ、
ほとんど竹の飾り物のイメージしかなかった(>_<)
皆さんは松だと意識してたあ?


一般的なイラストはこんな感じ。
よく見れば真ん中には伝統的な模様で松が描かれている。
でもほとんどそこには目が向いてなかった気がする。
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こちらはもう少し豪華なイメージ。
しっかりと松の針のような葉が描かれているとはいえ、
カドマツという名前の竹の置物としか脳が認識しない。
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ところで「松竹梅」のおめでたいイメージから、イラストの門松には松や竹と共に、梅もよく描かれる。ただ正月前にまだ梅はほとんど咲いていないので、実際は、松と竹の緑に対する彩りとしてナンテンや葉ボタンが組み合わされる場合が多い。
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こちらはかなり立派な門松の写真。
しっかりと松が添えられている。
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しかしである。
試しに竹がないと想像する、あるいは竹を指で隠して眺めて欲しい。
それで門松と思える?
逆に松がなくても門松でしょ。

だからたとえ名前が門松であっても、
主役が竹だと思っていたのは、ごく自然であると自分の無知を正当化(^^ゞ



話はそれるけれど、「門」の漢字は音読みがモンで訓読みがカド。ただしカドと読むのは門松以外に門出(かどで)くらいしか思い浮かばない。辞書には門口(かどくち)が載っていたが初めて聞く言葉。あと今はパナソニックの旧松下電器創業の地は大阪府の門真(かどま)市。

そしてこの「門」は出入り口のゲートと、人の集団というまったく違う意味を持つ。後者の例としては門人、一門、名門、それともう古語の部類になるが門地や門閥(家柄のような意味)など。また「笑う門には福来たる」は、門(ゲート)で笑うと福の神が何やら楽しそうと寄って来るのではなく、笑いの絶えない家庭すなわち門には幸福が訪れるとの意味。たぶん多くの人が勘違いをしている、あるいは笑うのはいいことだ止まりで深く意味を考えていない。

門松の「門」ははもちろんゲートとしての門である。音読みで揃えてモンショウとするより発音しやすいカドマツになったのだろうか。ただし門松の風習が始まったのは平安時代とされ、またその時代には門をカドとも言っていたようだ。そういえば♪年の始めの 例(ためし)とて〜で始まる小学唱歌「一月一日」では、♪松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに〜だった。


松を飾るのは冬でも色あせない常緑樹で、それが生命力を感じさせ不老長寿や繁栄の象徴と見なされたから。中国の一部の地域での風習が平安時代に日本にもたらされた模様。竹や笹を一緒にするのも同じ発想で、こちらは室町時代以降に広まった。

ところで門松の竹を斜めに切り落とした形を「そぎ」、節の位置で真横に切ったのを「寸胴(ずんどう)」という。昔は関東は寸胴、関西が「そぎ」と別れていたらしいが、今は全国的に「そぎ」が主流。これはあまり見かけない寸胴の門松で六義園のもの画像はhttps://x.gd/52kiZより引用(短縮URL使用)
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ただし「そぎ」を始めたのは徳川家康だとの伝承がある。きっかけは家康31歳の時に武田信玄と対峙した三方ヶ原(みかたがはら)の戦い。舞台は現在の浜松市。ホームでの戦いにもかかわらず、まだ経験不足がたたって、攻め入ってきた信玄の陽動作戦にまんまと引っ掛かりコテンパンにボロ負けした。

前線から逃げ帰った家康は武田を竹に見立てて、次は信玄の首を取る意味を込めて斜めに切り落としたのが「そぎ」の始まりだとか。怒りにまかせて竹にそんな八つ当たりをしたかも知れないとしても、それが門松の竹と結びつくかどうかは疑問。

また資料によっては「そぎ」切りにした門松を家康が信玄に送りつけたとする説もある。う〜ん、戦争継続中ともいえる相手に門松を送るか? ゼレンスキーはプーチンにクリスマスカードを送らんやろ(^^ゞ また三方ヶ原の戦いは元亀3年(1572年)12月22日に起きている。まだところどころで戦火がくすぶっていただろうし、門松を正月までに届けられそうにない。信玄は翌年4月になくなっているから次の正月でもない。

まあ伝承とはその程度のものでーーー しかし嘘も100回言えば真実となるじゃないけれど、嘘も歴史に紛れ込ませればみたいなところがあって、全国的に「そぎ」が主流になった現在でも、武田家の本拠地だった山梨県では寸胴の門松が飾られる。

写真は山梨県庁の正面玄関に置かれた門松。竹が「寸胴」なだけではなく、松が低い位置にあるのにも注目。これは徳川の旧姓が松平なのに由来。つまり竹=武田が、松=徳川より上を意味している。ここまで来ると笑えるね。画像はhttps://x.gd/RDWTaより引用(短縮URL使用)
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またひとつ前の写真で六義園の門松が寸胴なのは、元の所有者だった三菱の岩崎家が武田家の末裔を称していたから。都立9庭園のうち4庭園は岩崎家由来なので、そこでは寸胴門松を飾っている。


不思議なのは家康によって「そぎ」が始められたとしたら、どうして昔(いつ頃の昔かはよくわからない)は関東が寸胴、関西が「そぎ」だったのか。どうにも反対のように思えるものの、ざっと調べた程度では情報を見つけられず。

また戦前から戦後しばらくまで東京で「そぎ」は格式が低いとみられていたようだ。「そぎ」の門松を飾るのは花柳界や水商売、それとお妾さんの家などであったそうだ。しかし、わざわざ「私は妾です」と正月飾りでアピールするかな。

逆に寸胴はなぜか水平に切ったところにお金が貯まると解釈され、商家、銀行などはそちらの門松だった。時代が下り銀行も「そぎ」を飾るようになると「銀行も最近は水商売になっちまったのかい」と江戸っ子気質の東京人がぼやいたとかぼやかなかったとか。

格式と関係するのかどうかは不明だが、なぜか銀座にある歌舞伎座の門松は寸胴である。画像はhttps://www.kabuki-za.co.jp/sya/vol22.htmlより引用
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でも大阪の松竹座は「そぎ」。京都の南座は写真が見つからず。また歌舞伎ではないが大阪にある国立文楽劇場の門松は「そぎ」3本と、寸胴2本のミックス。どうしてそうなった?



竹に話の重心が移ってしまったが、
門松の主役は松である。

中国からどのような形で伝わったかははっきりしないものの、平安貴族には年が明けて最初の「子の日」(ねのひ:十二支のネ、ウシ、トラ〜のネ)に、小さな松の木を引き抜き、それを持ち帰る「小松引き」との行事があった。松の生命力にあやかって長寿を祈願したようだ。画像はhttps://www.ensenji.or.jp/blog/25822/より引用
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それが変化したのが「根引きの松」で、これが松を門に備える門松のルーツ。
今でも京都などでは飾られているらしい。画像はhttps://x.gd/4SZiyとhttps://x.gd/0rLLdより引用(短縮URL使用)
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門松は松の枝を切って添える。しかし根引きの松はその名前の通り、また小さな松を根ごと引き抜いて飾りとして使う。けっこう残酷で植物虐待(>_<)


もちろん現在は「小松引き」をするのではなく、根引きの松専用に幼木が栽培されている。画像はhttps://x.gd/fy26Yより引用(短縮URL使用)
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なお東京でも松の枝を門や玄関に飾っているのはよく見かける。(画像はここをクリック)門松では大げさだし、また大きな家でないと似合わないから選ばれるのだと思う。しかしあくまで枝をカットしたもので、根引きで根がついているのは今まで見たことがない。



ーーーさてさて、そんなわけで松ぼっくりも門松のかわりでした(^^ゞ
ミニ鏡餅を一緒にしてお正月気分を出しましょう。
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何かを書こうと思いついて、関連する事柄を少し調べて、そこで面白い発見があるとそちらに話が脱線するのがこのブログ。ブログは公開日記のようなメディアで、何かを伝えるためにあるのが本来だろうけれど、私の場合は調べる、まとめる、書くをできるだけ短時間でこなすのを目的とした脳活ツールのような存在。たまに何を書くつもりだったのか忘れることもある(^^ゞ

そんな内容の駄文でよろしければ今年もお付き合いのほどを。
何かを調べようと検索でたまたまここに来た人は我慢してね。

さて新年から無駄に長い話になってしまったm(_ _)m
でも最後まで読んでくれた人はきっとよい年になります!

wassho at 00:53|PermalinkComments(0)

2024年11月11日

どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その4

過去3回までに書いたように、

   ツボの刺激に一定の効果はある。
   それを示す臨床データもある。

   しかし言い伝えられてきた気や経絡などは存在しない。
   当然ながら経絡上にあるとされるツボそのものにも実体はない。

つまり鍼灸や指圧は間違った理論によって説明されている。天体を観測して地球が宇宙の中心だと天動説を唱えていたのと同じ。
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<疑問その1>
人類がツボを活用した歴史は原始時代まで遡る。今のところの最古記録は、アルプスの雪山から氷漬けミイラとして見つかった、5300年前(新石器時代)の遺体に残っていたツボ治療の痕跡。
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アイスマン

中国でツボが用いられたのは4600年ほど前とされ、理論体系化されたのは2200年前の後漢末期。曹操、劉備、孫権が覇権を争った三国志の時代でもある。

日本には4〜5世紀のヤマト王権時代=古墳時代に、来日した新羅(朝鮮)の医師によって最初にもたらされた。その後、7世紀の飛鳥時代に遣隋使・遣唐使が教本などを持ち帰った記録がある。また官職としての鍼灸師もいた。広く普及したのがいつ頃かはわからないが、平安時代の貴族の日記にはお灸の話がよく出てくるらしい。鍼が広まったのは室町時代になってのようだ。

さてその頃はもちろん、まあ明治の中頃までなら「気・経絡・経穴」のツボ理論を信じるのは仕方なかったとして、どうして今でも鍼灸師はそんな嘘八百な解説をするのだ? そして何と鍼灸師の国家試験を見たら経絡に関する出題があった(/o\)

ひょっとしたら「東洋医学の考えでは」と前置きを付ければ、科学的ではない話をしても許されると考えている? 私が常々バカじゃないかと思っている「暦の上では」とその話に意味がないのを断って、立春とか二十四節気で季節を述べたがる人の心理と一緒なのかな。理由は何であれ間違いは訂正しなければならない。地球が太陽の周りを回る地動説に基づくべきなのは当然。
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<疑問その2>
とはいっても鍼灸師がツボの原理・メカニズムを解明できるわけではない。彼らは医療類似行為の技術者であり、そこまでの医学や生理学的な知識はない。解明するのは医者や研究者の仕事。

しかし調べてみると、ツボの原理・メカニズムについて研究が進んでいる様子は見られない。ごくたまに細々との印象。しかもハッキリ言って名前を聞いたことがないような大学での研究がほとんど。その一方で病院つまりは西洋医学の分野で鍼灸治療を取り入れているところは増えているようだ。その中には東大病院も含まれる(リハビリ部門)。そういえば鍼灸ではないけれど、以前に入院したとき漢方薬を飲まされてビックリした。

医学界・科学界がツボや反射区の原理・メカニズム解明に興味がないのが残念。でもどうしてなのだろう。とてつもない発見が隠れていて研究のやりがいがありそうなのに。

もっとも臨床(医療の現場)では原理・メカニズムが不明でも、結果がでて治療に役立てばそれでいいのかも知れない。スマホの中で電子部品やプログラムがどう機能しているか知らなくても便利に使っているのと同じ。



それでも鍼で刺し、モグサを燃やし、指で押したりして、薬も飲まずに身体の不調を改善する摩訶不思議なツボの秘密をナントカ知りたいと望んでいる。

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まずは単純な好奇心である。「気」に相当する未知なるエネルギーが発見される可能性はほとんどないとしても、見つかったらそれはそれで生理学・医学と物理学の両方でノーベル賞をもらえる(^^ゞ おそらく刺激によって何らかの伝達物質が放出され、それがネットワーク的に機能しているはずで、それを解明できれば科学・医学は大きく前進する。

そしてそれはフィードバックされて、鍼灸の進化にもつながるに違いない。原理・メカニズム以外の鍼灸の謎は、多数のツボがあって多数の効能があるけれど、どうやってそれを突き止めたのかである。原理・メカニズムがわかっていないのだから、論理的に考えると試行錯誤して見つけたと考えるしかない。つまり現在の鍼灸は人類が5000年以上かけてアッチを刺しコッチを押したりしてツボを探り当ててきた。

原理・メカニズムが解明されれば、新たなツボや新たな効能も見つかるだろう。あるいは2つ同時に刺激を与えれば〜刺激を与える順番で別の働きをするとか。ひょっとしたら「お前はもう死んでいる」の北斗の拳に出てきたような必殺の急所も!

また現在の鍼灸は主に身体の不調を改善する効果しかないものの、原理・メカニズムの解明によって病気の治療にまで発展できる可能性もある。逆にその原理・メカニズムを応用した薬の開発も考えられる。「飲むだけで痛くない!足裏グリグリ君顆粒」なんてのが発売されたりして。


「原理・メカニズム」「どうやって突き止めた」に続く、さらなるそして最大の謎がもうひとつある。ツボや反射区は対象となる臓器や器官と離れた場所にも多く存在している。神様が設計したか自然の進化でそうなったかは別として、身体とはそれなりに合理的に構成されているものである。それなのになぜ関係のない離れた場所に?

松尾芭蕉もお灸を据えた、膝の下にある足三里(あしさんり)のツボは胃腸にも効くという。どうしてそんなところにあるのだ。足三里がお腹にあれば胃腸の調子が悪いときにそこをさすったりして自然と刺激を与えられるのに。頭痛のツボは足の甲にもある。誰が頭が痛いときにそんなところを触るネン!

どう考えても離れた場所にあるのは非合理的。でも既知の知識で推察するからそう思うのであって、これも何か意味があるのだろう。ツボの原理・メカニズムが解明されれば人体や生命の神秘にまた一歩近づけると期待している。一方でこれは設計ミスあるいはプログラムのバグのようなもので、ひょっとしたら鍼灸とはそれを利用したゲームの裏技みたいな方法かとモーソーしたりも。



ところで「その3」では気・経絡・経穴からなるツボ理論を、古代ギリシャ人が「万物は火、空気、水、土からなる」と考えていたようなものと例えた。その4大元素論をベースに中世〜ルネサンス期のヨーロッパで盛んに行われたのが錬金術。
錬金術

もちろん何かと何かを混ぜ、どのように手を加えようが物質が金に変わることはない(核分裂を利用するなら理論的に可能性はある)。錬金術は最終的にニセモノとして廃れたものの、その課程で質量保存の法則や元素表などが考え出され、様々な化学薬品、蒸留や火薬などの技術の発見にもつながった。つまり錬金術は科学である化学を生み出した。あのニュートンだって錬金術に取り組んでいる。

またあまり知られていないが、錬金術は物質を金に変えると同時に、それを飲むと不老不死をもたらす賢者の石やエリクサーと呼ばれる薬の開発を目指していた。


どう?医学や生理学に携わっている皆さん、
ツボの研究をする気になってきた?(^^ゞ




おしまい


<補足>
指圧は日本で生まれた施術で、大正時代初めに浪越徳治郎によって確立された。子供の頃に彼が「アーッハッハ」と豪快に笑い「指圧の心は母ごころ、押せば生命の泉湧く」と言いながらよくテレビに出ていたのを覚えている。でも単におもしろいオッサンのイメージで、指圧の創始者だったとは知らなかったな。また新婚旅行で来日したマリリン・モンローにも指圧したらしく、彼女の素肌に触れた唯一の日本人ともいわれる(^^ゞ 94歳で亡くなったのは2000年。写真を見るとまさに指圧のためにあるような大きな親指!
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wassho at 22:17|PermalinkComments(0)

2024年11月08日

どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その3

さて
鍼灸・指圧あるいはツボについて素直に納得できない理由とは。

それれは前回に書いた気・経絡・経穴(=ツボ)が空想の産物だから。361箇所のツボとされるところをメスで深く切り開いてもそんな組織は何もない。身体を隅々まで解剖したって経絡なんてどこにも見つからない。経路があるとされる位置とそうでない位置で人体の組成は同一である。ましてや正気と邪気なんて、その正体は誰も知らずまた確かめようがない。

古代ギリシャ人は火、空気、水、土が万物を構成する4大元素だと考え、18世紀頃までヨーロッパで支持されたていた。古代中国の考え方は火・水・木・金・土の五行思想。金はゴールドではなく金属の意味で、これに月と太陽の日を加えたのが曜日名の由来でもある。

今では万物を構成するのは、原子やその複合体である分子だと多くの人が知っている。つまり気・経絡・経穴の理論は、4大元素と同じく科学が未発達な時代のいわば思想に過ぎない。医学的な根拠は何もないどころか実体として存在すらしない。

それに「気が流れる経絡」があり「その経絡上にある気の出入り口である経穴」を基本原理としながら、経絡とは無関係に奇穴(きけつ)と阿是穴(あぜけつ)があるなんて、そもそも論理として破綻している。

だからツボとは、経絡とは〜と説明されればされるほど、
迷信やオカルトめいたものを感じてしまう。



そして問題はーーー
それでもツボを刺激する鍼灸や指圧に効果があること(^^ゞ

もちろん361箇所あるツボのすべてに、鍼灸の教科書に書いてあるような効能があるとは思っていない。しかし肩こり、腰痛、顔のむくみに関しては、私の周りにも鍼を打って解消した、少なくとも本人は満足している人が何人かいる。

以前にテレビで見てびっくりしたのは「赤ちゃんが逆子→エコー検査で見ると赤ちゃんはお腹の中でじっとしていて動かない→妊婦の足の小指横に米粒ほどのお灸→途端に赤ちゃんが活発に動き出し身体の向きを変え始める」といった映像。その後、赤ちゃんは逆子ではなく正常に生まれたとの報告。出産までにお灸以外の措置も他にしたのかどうかはわからなかったし、テレビなので話を盛っている可能性もあるが、足のツボを刺激して赤ちゃんが反応したところまでは事実。

そういえばツボは対象とする身体の部位から離れたところにもあるのが不思議。イラストは肩こりの例で、肩や首回りだけでなく、腕や手にも方に効くツボがある。画像はhttps://alinamin.jp/tired/stiff-shoulders-pressure-point.htmlから引用編集
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さらに足裏には遠く離れた臓器や器官とつながっているツボたくさんがあって、その臓器や器官が弱っていれば押されると痛いらしい。たまにテレビで足裏マッサージをしてもらって激痛に悶絶するシーンがある。あれってそんなに痛いのかな。
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これに似た足裏マッサージコースを歩いて、耐えきれないくらい痛くて途中脱落した経験はある。しかしそれがツボの反応なのか、これだけの突起の上に体重がかかるから痛いのかよくわからなかった。ニブイのかも(^^ゞ
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ツボと表現したけれど、実は上に載せた足裏のイラストに描かれているのは、反射区と呼ばれツボとは別物。特定の反射区を刺激すると対応する臓器や器官に反射的な効果があるという。全身に分布するが足に多く特に足裏に集中している。ツボが点なのに対して面に展開しているのが大きな違い。だから刺激の与え方がツボとは異なり、押すだけでなく揉んだりさする施術もある。それが足裏マッサージと称される由縁。

反射区では末梢神経がそれぞれの臓器や器官につながっているともいわれるものの、医学的に解明されておらず根拠がないのはツボと同じ。ただし神経系統を理論に据えているから、ツボでいう気や経絡とは関係ない。

反射は英語でリフレックスreflex。最初の回で書いたリフレクソロジーはそれに学や論を意味する接尾語のオロジーologyを合わせた造語。スペルはreflexology。日本語では反射療法や反射学。リフレッシュのリフレじゃないよ。発祥は古代エジプトともいわれ、1917年にアメリカの医師が発表した論文が現在のリフレクソロジーのルーツ。なぜか台湾とイギリスでまずブームとなり、現在の日本でも台湾式と英国式のリフレクソロジーが主流。英国式はオイルを塗ってソフトに、台湾式がゴリゴリ悶絶(>_<)


ちなみに反射区ではなくツボも足にはたくさんある。しかし見つけた限りで足裏には2つしかなかったのは意外。その2つのうち前回に書いたWHO認定の361箇所に入っているのは湧泉(ゆうせん)のみ。画像はhttps://x.gd/qGtWtから引用(短縮URL使用)
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湧泉は足の指を曲げてじゃんけんのグーの形をしたときに凹むところ。身体に老廃物が溜まっている時は硬くなり、活力がなくなるとブヨブヨの状態になるらしい。
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効能は血行促進、頭痛、のどの痛み、首のコリ、食欲不振、高血圧、不眠、冷え性、腰痛、むくみ、ホルモンバランスなど多岐にわたる。また湧泉を刺激すると体力・気力が回復し、ストレスや不安が減少する(ホンマカイナ)。いわゆる万能ツボであり、名前の由来は「生命の泉が湧き出る」。私はなぜか右足にだけ湧泉を押すとクゥーと脳天にしみるような痛みを感じる。ナンデ?(/o\)




ーーー続く

wassho at 23:52|PermalinkComments(0)

2024年11月06日

どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その2

鍼と灸そして指圧はツボと呼ばれる部位に刺激を与えて、痛みを取ったり体調不良を改善する施術。法律的には医療類似行為に属する。最近は脳卒中のリハビリやアトピー、心身症さらには美容に至るまで様々な分野に適応されている。(主に鍼で)

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その効果を否定はしない。

まず前回に書いたように施術者になるには国家試験があり、言い換えればこれらは国家が認めた技術。だから一部の症状に対しては健康保険も適用される。それにコンビニより多い歯医者よりもさらに多い施設があって、年間5000億円ほどの市場規模なのは、その効果があるからこその需要。手をかざしてハンドパワーを送るとか、怪しげな波動エネルギーなどの類いと違って、広く受け入れられ客観性のある実績を持っているのは理解している。

それでも素直に納得できない気持ちは多分にある。


さて鍼と灸そして指圧のメカズムの基本的な説明はこうだ。

人体は気、血、津液(しんえき)が身体を巡り、
相互に影響しながら生命活動を維持している。

↓  血はもちろん血液。
↓  津液は血液以外の体液の総称。単に水(みず)とも呼ぶ。
↓  気とはエネルギー的存在とされる。

気は体内に張り巡らされている経絡(けいらく)を通って、臓器や筋肉や皮膚に
エネルギーを供給する。血と津液も経絡を通る。人間の場合に経絡は14本。

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経絡には気の出入り口である経穴(けいけつ)があり、
これの一般的な名称がツボである。

また経絡上にない奇穴(きけつ)と阿是穴(あぜけつ)があり、
これらもツボと呼ばれる。つまりツボ=経穴+奇穴+阿是穴。

ツボは諸説あるが1000箇所以上存在する。

ツボには経絡(けいらく)を通じて身体各部の反応が現れる。
またツボへの刺激によって身体各部を活性化させる。

もう少し東洋医学的に表現すると、気には正気と邪気がある。
正気は自然治癒力を高めたり、身体を正常に機能させる働きがある。
邪気はその逆で病気を引き起こす。

正気と邪気は経絡を通っており、ツボ=経穴はその出入り口。
邪気を外に出し、正気を補うのが鍼灸や指圧によるツボ治療。

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だいたいこんなところ。
気には正気と邪気があるなんて実に怪しげである(^^ゞ


ツボについて調べると多くの鍼灸院のページで「WHO(世界保健機関)によって認定されたツボが361箇所ある」との記述が見られる。国連機関の名前を出して、少しでも怪しさを払拭したい、科学医学的正当性をアピールしたい気持ちの表れにも思える。

ついでに書いておくとWHOに認定されたとはいえ、全世界や医学界がそれに関与したわけではない。この認定会議が開かれたのは2006年。場所は日本のつくば市。参加したのは日本、中国、韓国、モンゴル、シンガポール、ベトナム、オーストラリア、アメリカ、イギリスの9カ国。他に2つの国際団体も参加しているもののWFAS(World Federation of Acupuncture Societies:世界鍼灸学会連合会)とAAOM(American Association of Oriental Medicine:米国東洋医学協会)だからツボの身内。米国東洋医学協会は2007年から米国鍼灸東洋医学協会になった。

そもそもこの会議は医学的データを検証して「ツボの科学的根拠」を認定したものではなく、ツボを扱う鍼灸師や研究者約30名ばかりが集まって、日本式、中国式、韓国式でズレがあった「ツボの位置」について調整を行ったに過ぎない。だから「WHOによって認定されたツボが361箇所ある」とは優良誤認を招きかねない表現である。

参考までにWHOは1979年に43の疾患について鍼灸施術の効果を認めている。ただし結果的に効果があったのを確認しただけで、そのメカニズムを解明したわけではない。1989年には361箇所のツボの名称の標準化も行っている。


それはさておきWHOが認定したツボ361箇所とは左右対になっているものが309箇所、単体が52箇所なので、実際には309 × 2 + 52 =合計 670箇所。なおそれまで日本でツボとされてきたのは354箇所でWHO認定により7つ増えたことになる。

他にも昔からツボとされているところを含めると1000箇所以上になる。人間の身体の表面積は日本人成年男子平均で1万6900平方センチ。(自分の値を知りたければ、ここで計算できる)それをWHO認定の670箇所に限定しても1万6900 ÷ 670 = 25平方センチ。平均すれば5センチ四方にひとつ全身にビッシリとツボがある計算。ツボの知識がなくても、どこか適当に押せば何かには効くんじゃない(^^ゞ

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ーーー続く
今回も本題にたどり着けなかったm(_ _)m

wassho at 23:25|PermalinkComments(0)

2024年11月03日

どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな

30歳前後の頃は重度の慢性的な急性肩こりに悩まされていた。
慢性なのに急性とはおかしな表現だが、次のような症状である。

  午後3時か4時頃に「そろそろ来る」との予感がある。
  30分ほどすると肩の筋肉がギューッと収縮し始める。肩甲骨上部のときもある。
  触ると石か鉄になったかと思うくらい筋肉の一部が硬くなっている。
  肩が凝るというより肩が痛い感覚。
  なぜか元気までなくなる(/o\)

その急性の肩こりが数日おきに起きるから慢性の急性肩こり。どうにも我慢できないときは同僚に揉んでもらったりもしていたが、効果は揉まれているときとその後の10分くらいしか続かない。でも不思議なことに夜になるといつの間にか治まっている。

そして35歳くらいからその症状は出なくなった。現在、肩が凝るのは年に1〜2回くらいで、しかもあの痛かった収縮性の肩こりではなく普通の肩こり。

先日、久しぶりに強めの(普通の)肩こりになった。おそらく極度に集中力が必要なパソコン作業を長時間したのが原因。収縮性の肩こりは数時間で治まるが普通の肩こりは数日続くので、これはこれでやっかい。そんな話をある人にすると、「私の通っている鍼の先生は名医なので紹介しますよ」と言われて、それが今回のブログのきっかけ。実はずっと昔から疑問に思っていたテーマでもある。
medical_harikyu_man

さて鍼灸と書いて「しんきゅう」。

「鍼」を「しん」と読むのは熟語となった「鍼灸」くらいで、単独で使う場合は「はり」。先ほどの「鍼の先生」は「“はり”の先生」。「針」と「鍼」はどちらも金属のハリを意味するが、慣用的に裁縫などに使うのを針、治療で身体に刺すのを鍼と使い分ける。また身体にハリを刺すのは元は中国より伝わった技術で中国式ハリもある。なぜかそちらは「針」の漢字を使う場合も多い。

灸の訓読みは「やいと」。私の祖父母世代は「お灸」ではなく「やいと」と言っていたような気がする。なお「お灸」の「お」は単語を敬語化する接頭辞である。ただし「お灸」の場合は「お」を付けないと意味が通りにくい珍しい例かと思う。あっ「おにぎり」や「おむすび」もそうだった。

その「鍼」と「灸」がセットで鍼灸なのは、どちらも同じようにツボとされる部位を物理的に刺激して、痛みを取ったり体調不良を改善する行為だから。言うまでもなく「鍼」はハリを刺して、「お灸」はモグサを燃やした熱によって。同じくツボを刺激する施術には「指圧」もある。

鍼と灸と指圧を「業(ぎょう)として行う」場合は国家資格が必要。「業として行う」は法律独特の言い回しで、いくつかの要素が含まれるものの、平たく言えば職業=対価を得て行うとの意味。

ツボ関連の資格を得る国家試験は次の3つに分かれている。

  はり師
  きゆう師
  あん摩マツサージ指圧師

なぜか法律では「鍼」と「灸」は平仮名で、しかも灸は「きゅう」と発音するのに「きゆう」と書く。また「マッサージ」ではなく「マツサージ」である。按摩も「按」だけが平仮名。

鍼灸師あるいは鍼灸院とよくいうものの実際は、はり師ときゆう師で別の資格。両方の資格を取る人が多いのだと思われる。ただ鍼灸はそうだとして、あん摩とマッサージは似ていても、指圧はその2つとは少し違うようにも思える。指圧の資格を取りたければ、あん摩とマッサージも勉強しなければならない。あん摩・マッサージ・指圧それぞれの違いについては次のページをご参考に。

    https://www.idononippon.com/about/9033/
    https://www.hinuma-acu.com/962862247

国家試験を受けるには高校卒業後に、厚生労働省か文部科学省が指定する専門学校で3年間、あるいは大学で4年間学ぶ必要がある。そんなにたくさん学ぶ内容があるのかと思うけれど、とにかくそういう仕組みになっている。また専門学校の学費は500万円前後かかる。ただし医師はこれらの資格を取らずに「業として行う」ことが可能。医学部で「鍼」「灸」「指圧」ましてや「あん摩・マッサージ」なんて習わないはずなのに、どうして認められるのだろう?

ちなみに国家試験の合格率は

   はり師         69.3%(2023年)
   きゆう師        70.2%(2023年)
   あん摩マッサージ指圧師 84.0%(2023年)

   医師          92.4%(2024年)
   歯科医師        66.1%(2024年)

もちろんこれは医師免許のほうが合格率が高い=簡単なのではなく、いわゆる受験生のレベルの差である。医師と歯科医師の差も同じく。
okyuu

「あはき」との言葉を聞いたことがあるだろうか。これはあん摩マッサージ指圧の「あ」、鍼の「は」、灸の「き」の頭文字をとった略語。あはき業、あはき療養、あはき師などに使われる業界用語。「鍼」と「灸」の資格だけを持つ人を「はき師」とも呼ぶらしい。別に鍼灸師でいいと思うけれど(^^ゞ

鍼灸の施術を行っているところは2020年のデータで、全国に7万412箇所ある。内訳は「はき」が3万2103、「あはき」が3万8309箇所。「あ」だけだと1万8342箇所。

参考までにコンビニの数は5万5709(2024年9月)で歯医者は6万7755(2022年)。よく歯医者はコンビニより多くて飽和状態と言われるが鍼灸はそれより多い。


なお「あはき」と同じ意味で「鍼灸マッサージ」との新しい言い方もある。こちらは「あん摩と指圧」の単語が省かれてお気の毒。そういえば「按摩」は、ほとんど聞かなくなってもう死語に近い気がする。昔は視覚障害者で按摩の職業に就く人が多く、按摩=盲人=差別との謎ロジックで按摩は放送禁止用語になっている。そういうのも影響しているのかも知れない。


ところで「あはき」を「業として行う」には国家資格が必要なはずなのに、エステティックサロンやいわゆるリラクセーションとしてのマッサージ、それに整体やカイロプラクティックなどに国家資格はなく無免許での施術となる。ホテルなどで部屋に来てくれるマッサージ、足裏マッサージなども同様。そのあたりは法律的に微妙でグレーな領域。エステでは「あ」の資格を持つ従業員が施術するのでなければ、マッサージの言葉は使えず「リラクセーション、リフレクソロジー、トリートメント、ケア、癒やし、ほぐし」などと表現する。例えばフェイシャルケア。

国家資格がある=法律で規制されているといえる。しかし同時に法律で利権が守られているでもある。このあたりは大人の事情ならぬ大人の社会構造。だから「あはき」業界とエステ業界、整体業界は仲が悪い(^^ゞ また「あはき」と似たような国家資格に柔道整復師がある。いわゆる接骨整骨。こちらは「あはき」とは健康保険の取り扱い方が異なり、それが原因でここでもよく揉めている。

なお「治療」の言葉は医師のみに認められた行為で「あはき」で行うのは「施術」と法律ではなっている。なのに「〇〇鍼灸治療院」なんて名前はざらにある。「あはき」で開業するには自治体への届け出が必要なので、つまりその名前は公に認められているともいえる。その当たりの事情はナゾ

参考までに業界規模は

   あはき       4890億円(2021年)
   柔道整復      4790億円(2021年)
   エステチックサロン 3130億円(2024年見込)

「あ」「は」「き」それぞれを知りたいところだが、兼業しているところも多いせいか個別の数字は見つけられなかった。

例によって下調べでわかった内容で、ずいぶんとボリュームを取ってしまった。
本題は次回にm(_ _)m




ーーー続く

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2024年10月26日

カモシカのような脚のナゾ その2

カモシカの脚は細くないし短いのに、どうしてスラッと長い美脚を「カモシカのような脚」なんて表現するのか。前回に書いた内容をおさらいすると、画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/238926とhttps://x.gd/kL4pjから(短縮URL使用)から引用編集
7カモシカの脚


英語で「ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legs」との表現があり美脚を意味する。ガゼルはカモシカと同じくシカではなくウシ科の動物。画像はhttps://animalia.bio/grants-gazelleから引用
8ガゼル

ガゼルに似たウシ科で優美な姿をしている動物をアンテロープと総称し、漢字では羚羊(れいよう)と書く。
     ↓
カモシカはアンテロープ含まれない。
しかしなぜか日本では羚羊と書いて「かもしか」とも読まれてきた。
     ↓
ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legsの英文が日本に入ってきたとき、ガゼル=羚羊そしてカモシカ=羚羊なので、「カモシカのような脚」と意訳あるいは誤訳した。

ーーーというのが通説。



もっともらしいストリーではあるけれど、どうにも疑問が残る。
誰かカモシカの脚は太いし毛むくじゃら!ーーーと言わなかったのかと。
今ならネットですぐに突っ込みが入るのに(^^ゞ


このLegs like a gazelle / gazelle-like legsなどの英文表現が日本に入ってきたのは、明治維新以降と考えられる。ただし多くのイギリスやアメリカ人が、アフリカからモンゴルにかけて生息するガゼルを大昔から知っていたわけではないので、この表現が生まれたのはもっと後のはず。

新聞や雑誌に報道写真が載るようになったのは1920年代頃。ガゼルを紹介するアフリカ紀行のようなものまで写真が使われ、イギリスやアメリカ人にガゼルの姿が広く知られるようになったのは第2次世界大戦前後のような気がする。だとすると日本人が知ったのは戦後か? (単なる当てずっぽう)

戦争が終わったのは1945年(昭和20年)。
カモシカは明治期以降に乱獲され、1955年(昭和30年)には全国で3000頭程度にまで激減。1934年に国の天然記念物、1955年に特別天然記念物に指定して保護されたので、現在は10万頭を超えると推測されている。

日本全体での生息数の時系列データは見当たらなかったものの、1970年代頃までは「幻の動物」とされていたカモシカ。「カモシカのような脚」と言われてもカモシカを見た人はほとんどいなかったのかも知れない。


いや、それでもおかしい。
幻の動物扱いされていたのは、それなりにカモシカに関心があった証拠。その姿を知っていた人は少なからずいたと考えられる。また絶滅寸前まで乱獲したのなら逆に、少し前までカモシカは身近な存在でもあったはず。

そのカモシカを知っている人たちは異を唱えなかったのか。そもそもカモシカを知らない人が多数だとして、じゃあなぜ見たこともないカモシカを比喩にした「カモシカのような脚」の表現を受け入れたのかも不思議。「センザンコウみたいな肌」といわれてもピンとこないでしょ。シカの足は細い 〜 よく知らないけれどカモシカというシカがいて、シカよりもっと細い足らしいと連想したのだろうか。


2002年から2012年まで放送された「トリビアの泉」という雑学番組があった。そこで「カモシカの脚は太い」と紹介されたときに、かなりの驚きをもたれたといわれる。ということは約50年間、日本人はカモシカを知らないのに「カモシカのような脚」を細い脚だと認識して、しかも間違って認識していたことになる。我々はアホなのか?(^^ゞ

「トリビアの泉」で取り上げられたとはいえその効果は限定的。現在も多くの人は「カモシカのような脚」を細くて長い脚あるいは美脚だと思い、大根足、象みたいな脚とともに脚に関する三大慣用句として健在。


精一杯に想像力を働かせると、ガゼルのような脚がカモシカのような脚として紹介され広まりかけたとき、カモシカの脚は太いと知っていた人はいただろうが、当時はそんな意見を広く世間に発表する手段は新聞の投書欄くらいしかない。まあ目くじらを立てて(これも海のクジラじゃないよ)投書するような話でもなく、誰も指摘しないままカモシカという脚の細いシカの例えと多くの人が信じ込んで今日に至るーーーそんなところかな。

他に似たような事例はないかと考えているがあまり思い浮かばない。誤解の点では「馬子にも衣装」を「七五三で着飾った孫」に由来すると思っている人が多いのに近いか。あるいは動物の比喩なら、ほとんどの人は「月とスッポン」がそう言われる理由を考えることなく使っている。

「カモシカのような脚」と同じ勘違いの慣用句が見つかったら、
またブログを書きましょう。




おしまい

wassho at 23:33|PermalinkComments(0)

2024年10月24日

カモシカのような脚のナゾ

カモシカのカモとは何かについて書いたのが前回のブログ。そのきっかけとなったカモシカをテーマとした番組を見て、実は最初に?と思ったのはカモシカの脚についてだった。


これがカモシカ、正確には日本固有種のニホンカモシカ。ウシ科ヤギ亜科に属するカモシカはこのニホンカモシカと、スマトラカモシカ、台湾カモシカの3種しかいない。やや違う系統に朝鮮カモシカとも呼ばれるオナガゴラールがいる。名前から推測するとアジア中心に生息する動物のようだ。3枚目の画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/238926から引用
1-1

1-2カモシカ

1-3カモシカ

カモシカの写真や映像を見るのは初めてではないにしても、あまり記憶に残っておらず「カモシカの絵を描きなさい」と言われてもお手上げなレベルだった。

そしてカモシカを改めてみて思ったのは、顔は可愛いけれど

   脚、太いやん(^^ゞ

誰もが知っている「カモシカのような脚」との言葉から受けるイメージとはずいぶんと違う。シカのほうがよほど脚が細い。画像はhttps://www.nara-np.co.jp/news/20240717213347.htmlから引用
2-1シカ


胴体とのバランスでは馬だってカモシカより細い。
2-2馬


カモシカはシカ科ではなくウシ科だからか、ウシと同じような太さ。カモシカのような脚ですねと女性にいえば喜ばれても、ウシみたいなといえばシバかれるはず(^^ゞ
2-3牛


だいたい細くて長い脚ならキリンにかなう動物はいない。
2-4キリン


それがどうして「カモシカのような脚」が細くて長い、いわゆるスラッとした美脚の代名詞になったのか。考えてみれば前回に書いたように、カモシカは山の急斜面で踏ん張って暮らしているから脚がガッチリしているのは当然なのに。画像はhttps://x.gd/kL4pjから引用(短縮URL使用)
3



前回と同じく、これまた諸説ありでハッキリとはしないものの、
ネットで解説されている情報をまとめると以下のようになる。

1)
英語に「ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legs」という表現がある。意味はカモシカのようなと同じで細くて長くスラッとした美脚。

これがガゼル。シカのように見えるがカモシカと同じくウシ科の動物。でもカモシカと違ってこれなら美脚の比喩として使われるのは納得。画像はhttps://animalia.bio/grants-gazelleから引用
4ガゼル

ガゼルはアフリカ、中東、中国北部に掛けて生息している。大きくはガゼル属、トムソンガゼル属、ダマガゼル属に分かれ、そこから13種ほどに細分化される。運動能力に優れ俊敏で、瞬間的には時速90km以上で走りチーターを振り切ることもあるらしい。

ちなみに日産がシルビアの姉妹車としてラインナップしていたガゼール(初代1979〜1983年:写真上、2代目1983年〜1986年:写真下)は、ガゼルをガゼールと引き延ばしてネーミング化したもの。スペルはGazelleと動物のガゼルと同じ。

5日産ガゼール

他にはアディダスにもガゼルというスニーカーがあり、日産と同じくその俊敏さ、足の速さにあやかったネーミング。また英語で成長著しい中小企業をガゼルと呼ぶ使い方もある。



2)
ここから話がややこしい。
写真は上がオリックスで下がインパラ。
6-1オリックス

6-2インパラ

ガゼルに近い品種なのは一目瞭然。どちらもウシ科。ウシ科にはこういう動物がたくさんいて、ウシ科約130種のうち約90種がこんな感じ。これらをまとめてアンテロープと総称する。ウシ科の中で優美な姿をしているのをアンテロープと呼んで、それ以外のウシ科動物と区別したといってもいい。だからこれは生物学的な分類名ではない。タヌキとアナグマをまとめてムジナというのと同じ。

アンテロープは漢字で羚羊(れいよう)と書く。おそらく中国での命名が日本に伝わったのだろう。そして前回にカモシカは漢字で氈鹿と説明したが、同じく羚羊と書いてカモシカとも読む。
6-3

その理由はわからない。昔はカモシカも羚羊(れいよう)=アンテロープと見なされていたのか。今とは基準が違ってウシ科の中で優美な姿をしているではなく、シカに似ているのをまとめてアンテロープと呼んでいたのかも知れない。

ちなみにウシはウシ科、シカはシカ科でまったく別の品種。
現在のアンテロープの定義は

  ウシ科 ー (ウシ族+ヤギ亜科)=アンテロープ

カモシカはヤギ亜科カモシカ属なのでアンテロープではない。

話はそれるが羚羊には羊の字が使われている。しかしヒツジはウシ科ヤギ亜科ヒツジ属である。アンテロープはヒツジにまったく似ていないのに羊の文字を当てたのも不思議。



3)
そしてガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legsの英文が日本に入ってきてそれを翻訳する際に

   ガゼル?何それ?
   動物みたいだけれど、そんな動物は誰も知らないぞ。
     ↓
   どうやらガゼルは羚羊の一種らしい。
   じゃガゼルはカモシカと訳そう。

それで「カモシカのような脚」となったとか、その当たりが大方の説明である。


が、しか〜しなのである。
それって、おかしいと思わないか?



ーーー続く

wassho at 22:13|PermalinkComments(0)

2024年10月22日

カモシカの名前由来の諸説

01-01

しばらく前に見たテレビ番組。
取り上げられていたのはカモシカ。

カモシカについては何かと知らない話だらけだった。
まずカモシカはシカではなく、ウシやヤギと同じウシ科の動物なんだって。

蹄(ひづめ)が2つに分かれており、さらに大きく開くこともできるので踏ん張りがきく。それでカモシカは山の標高の高いところや急斜面に生息している。画像はテレビ画面を撮影
01-02蹄

しかし平地や標高の低い場所に住むシカが、この30年間で5倍にも増えてカモシカの住むエリアにも進出。エサとなる草を食べ尽くすのでカモシカの生息が脅かされているというのが番組の趣旨。



ところでカモシカのカモの名前の由来については諸説ある。
でもどれも怪しい。

(1)
まず山の険しいところを「かま」と呼び、カモシカはそこに住んでいるからという説。

もっともらしく聞こえるものの、山の険しいところを「かま」と呼ぶ事例は見つけられなかった。山用語で「鎌」といえば切り立って細い尾根、いわゆる馬の背を指す。カモシカは斜面に生息しているので「鎌」は当てはまらない。山岳の漢字に山岳(かま)とフリガナを振ってあるものもあったが、辞書に載っている限りでは山岳を「かま」とは読まない。


(2)
カモシカの肉は鴨のようにおいしいからとの説もある。

カモシカは1934年(昭和9年)に天然記念物として指定され、1955年からは特別天然記念物。基本的に天然記念物は保護される対象とはいえ、近年になってカモシカは増えすぎたため、一部の地域では有害鳥獣として駆除も行われている。(天然記念物=絶滅危惧種ではない)

天然記念物が理由なのか、あるいは年間で捕獲されるのが600頭前後と少ないせいかどうかは知らないが、カモシカの肉は市場で売られたりレストランで供されることはない。それでも駆除したカモシカの肉を食べた人はいるわけで、ネットでその感想をいくつか見つけた。

それによれば「鴨肉のよう」と書いてあるレポートは皆無。鹿よりも牛に近いとの感想はいくつかあり、まあウシ科だからそうなのだろう。だいたい古代にカモシカを食べていた=カモシカとネーミングしたのは山の民であって、彼らは鴨の味なんて知らなかったんじゃないかな。

だからこの説も却下。


(3)
カモシカを漢字で書くと氈鹿。これは毛氈(もうせん)が昔はカモシカの毛から作られているのに由来し、氈は「かも」とも読むのでカモシカと呼ぶとの解説も多い。


毛氈(もうせん)とは動物の毛を圧縮した不織布。より一般的な言葉ならフエルト。主な用途は敷物である。現在、毛氈の名前で呼ばれるのはほとんどが茶道の野点(のだて)や、雛人形で使われるもの。赤い毛氈は緋毛氈(ひもうせん)で別格扱い。VIPが通るレッドカーペットと同じ。書道の下敷きに用いられるのも高級品はウールの毛氈。安いのはポリエステルのフエルト。画像はhttps://x.gd/yLFYzとhttps://x.gd/dGKeXから引用(短縮URL使用)
01-2毛氈

01-3


「氈」の字を辞書で引くと音読みの「せん」、訓読みの「もうせん」「けむしろ」としか載っていない。しかし以前は「氈」を「かも」とも読んでいたようだ。「おりかも」とも言った。
01-4

その意味は獣毛で織った敷物。それがカモシカの毛だったのか、また毛氈のように不織布のフエルトが含まれるかは不明。また昔は馬の鞍の下に敷くクッション材にカモシカの毛皮を使い、それを「かも」と呼ぶ事例も見つけた。画像はhttps://pacalla.com/article/article-1412/から引用
01-5


では毛氈(もうせん)や「氈(かも)」がカモシカの名前の由来なのか。何となく順序が逆のような気がする。カモシカなんて人より先に日本に生息していて、既に縄文時代には食べられていたのがわかっている。それに対して毛氈(もうせん)が日本に伝来したのは奈良時代。日本でも作り始めて、それにカモシカの毛を使ったとしても(グルーバルスタンダード的には羊毛)、その頃にカモシカの名前はあったはず。それでいわゆる当て字で氈鹿と書いて「カモシカ」と読ませた可能性が高い。


他にも説があるものの、いずれも「カモシカの名前の由来には諸説ある」の域を過ぎない。昔のことなんてなかなか確定できないので「諸説ある」となるのは仕方ないにしても、けっこういい加減な「諸説」がまかり通っていると思ったしだい。

そしてネットの時代になって、真偽を確認せずに、あるいは深く考えずにコピペ、コピペを重ねて拡散し、いつのまにかすっかり事実のように扱われているケースもあるのが怖いところ。AIだってその情報源はネットにある情報。これからはフェイクニュースならぬフェイク諸説も増えてきそう(/o\) だから気をつけないと。


結局、あれこれ調べてカモシカのカモの由来について、納得のいく説明にはたどり着けず。考えてみればシカだって、なぜシカなのかわからないから別にいいけれど。でもとりあえずカモウシとよばれなくてよかったねカモシカ君(^^ゞ

01-06


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2024年10月19日

雄しべと雌しべの勘違い

ひとつ前のブログを書く際に植物の精細胞と卵細胞の大きさを調べて、必然的に雄しべと雌しべについてもあれこれと知ることとなった。それで雄しべと雌しべについてずっと勘違いしていた事実があると判明。今回は恥を忍んで(/o\) そのお話。


植物にはいろいろな系統がある。詳しいところは興味があればご自分で調べていただくとして、一般にイメージする花が咲くのは被子植物。画像はhttps://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/science/chu_1/seimei/syokubutunobunrui/10.htmlから引用
01


当然ながら花には雄しべと雌しべがある。
02-1DSC06250

02-2DSCF3328

雄しべが作った花粉がめしべの柱頭(先端)につくのが受粉で、そこから花粉が雌しべの奥にある胚珠(はいしゅ)に向かって花粉管を伸ばし、そこに精細胞を送り込んで胚珠にある卵細胞と合体するのが受精と前回に書いた。

精子は泳ぐけれど花粉は空を飛べないので、何かによって雄しべから雌しべまで運ばれる必要がある。それが媒介で以下に分類される。媒介とは「取り持つ、橋渡しをする」といった意味。

   風媒
   水媒
   虫媒
   鳥媒
   コウモリ媒
   カタツムリ媒
  (コウモリは鳥じゃなく哺乳類で、カタツムリは昆虫じゃなく貝の仲間ね)

一番イメージするのは虫媒だろう。
ミツバチは蜜と花粉を集めに、蝶は蜜を吸いに花に集まってくる。
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鳥媒はウメに寄ってくるメジロくらいしか思い浮かばないな。画像はhttps://www.oricon.co.jp/special/58436/から引用
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いずれにせよ、そのときに虫や鳥の身体についた花粉が雌しべに触れることによって受粉する。農家ではそれで不足する場合、人の手による人工授粉も行われる。人工授粉の画像はhttps://www.aomori-ringo.or.jp/kids/cultivation/とhttps://apron-web.jp/kihon/15273/から引用
04-1


04-2

04-3



さてである。
花には雄花と雌花に分かれているものもあるが、多くは雄しべと雌しべを持つ。言い換えればオスとメスの性質を併せ持つ両性花。ということは虫や鳥が媒介するとき、あるいはモフモフや筆で人工授粉をしたら、自分の花粉が雌しべに受粉してしまう。その場合、種として生まれてくるのは近親交配を通り越して自分のクローンになる。それで問題ないのか?

あまり深く調べたことはなく、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ

とりあえず自分の花粉が自分の雌しべに受粉するのは問題ないとするなら、どうして雄しべと雌しべがもっと接近して、お互いが接触するように伸びてこないのだとの疑問をずっと持っていた。もっと近ければ虫や鳥の媒介を必要とせず、わずかな風で受粉できるのにコイツらアホちゃうかと。

違う視点でヒントになるのは、冒頭に載せた系統図のシダ植物や裸子植物。地球の歴史を見ると発生はシダ植物→裸子植物→被子植物の順。時期を書けば4億年前→3.8億年前→2億年前に生まれている。つまり裸子植物の進化版が被子植物。裸子植物には雄しべ雌しべではなく、雄花と雌花が分かれている異性花も多い。異性花が進化してひとつの花で受精を完結する両生花になったのか。ひょっとすると雄しべ雌しべのある両性花も進化の途中で、そのうち植物は受粉ではなく内部で子孫を増やす仕組みを獲得するのかと思ったり。

そうなると植物に花は必要なくなるので、
ガーデニングの楽しみがなくなって困るなあ。
まっ、何億年か先の話だからいいか(^^ゞ


ところがである。
先日に植物の精細胞と卵細胞を調べていたときに、ソレハコッチニオイトイタ自分の花粉が雌しべに受粉してしまうのはやはり問題だったと知る。

人間の場合は46本の染色体 ≒ DNA ≒ 遺伝子を持ち、それは両親の精子と卵子から23本づつ受け継いだもの。どの生物も似たような仕組みで多様性を確保している。近親交配の弊害は省略するが、やはり植物でも同じなのだ。


植物の受粉は次のように分類されている。

  自家受粉:同じ花の雄しべと雌しべで受粉
  他家受粉・隣家受粉:同じ株の別の花の花粉で受粉
  他家受粉・異株受粉:別の株の花粉で受粉(これが狭義の他家受粉)

望ましいのは狭義の他家受粉で、そのために植物は

  雄しべと雌しべの成長時期をずらす

という作戦で自家受粉を防いでいる。これを雌雄(しゆう)異熟といい、雄しべが花粉を作るときに雌しべがまだ受粉できない状態にあるのを雄性(ゆうせい)先熟、その逆が雌性(しせい)先熟。

また同じ花の花粉では受粉しない自家不和合性を持つ品種や、他にもいくつかの自家受粉を防ぐ仕組みがある。


しかし他家受粉をするには、何かを媒介にして花粉が運ばれてこなければならない。またそれが運良く雌しべの先端である柱頭に接触する確率も100%ではないだろう。そこで植物は他家受粉ができないとなると、最後の手段として自家受粉を行う(品種もある)。できれば他家受粉で健康的な子孫を、それが無理ならリスクがあっても自家受粉でとにかく子孫を残す万全の備えを持った二段構え戦略。

そんな素晴らしさも知らずに「コイツらアホちゃうか」と失礼極まりない発言をして、
雄しべさん、雌しべさん、申し訳ございませんでしたm(_ _)m (^^ゞ



<追伸>
雌雄異熟だと、雄しべと雌しべの成熟時期が異なるのに、どうして自家受粉できるのかわからないが、そこまでは調べていない。


話は変わるが稲も被子植物。
しかし稲に花が咲いたり、そこにハチや蝶が集まっている光景は想像しづらい。
調べてみるとこれが稲の花。初めて見た。画像はhttps://www.ajfarm.com/yamagata/2721/から引用
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稲は風媒花。風媒花は昆虫や鳥の興味を引く必要がないので一般的に花が地味。そして稲の場合は、開花直前に雄しべの花粉が雌しべの花粉に降りかかる仕組みになっており、風媒花に分類されても実際には自家受粉だけで子孫=種を残す。

ところで米は稲の種だけれど、ご飯は種を食べているなんて意識はまったくないね。

wassho at 23:02|PermalinkComments(0)

2024年10月13日

1万8000倍に成長した百日草

先日、枯れて引き抜いた百日草は長さが1.8m。でも撒いた種は7mmほどだったので1.8m ÷ 7mm = 257倍に成長した計算との話を書いた。
01-112a3b8a

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その成長度合いに驚くと共に、1.8mはたまたま私の身長と同じだったので、人間の精子は0.06mm、卵子は0.15mm、受精すると精子は卵子の中に潜り込むので、卵子の大きさで同じように計算すると1.8m ÷ 0.15mm = 1万2000倍とも書いた。

しかし考えてみたら、
精子や卵子と種の大きさを較べるのはおかしいと気付く。

ご存じのように花ができる植物は、雄しべにある花粉が雌しべに触れて受粉し、それによって種を作る。人間とはまったく仕組みが違うとはいえ、無理やり当てはめれば種は母親のお腹にいる赤ちゃんみたいなものかな。


もう少し説明すると花弁(花びら)は萼(がく)で支えられ、その中に雄しべと雌しべがある。画像はhttps://chuugakurika.com/2018/02/08/post-1725/から引用
05-1

なおこれは被子植物(反対語は裸子植物)の両生花(反対語は雄花と雌花に分かれる単性花)の場合。長くなるのでその説明は省略m(_ _)m


雄しべの「やく」に花粉ができ、
それが雌しべの柱頭につくのが受粉。
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柱頭についた花粉は花粉管を伸ばし、そこに精細胞を送り込んで雌しべの胚珠(はいしゅ)を目指す。図で花粉管は1本だが、実際には柱頭についた花粉がそれぞれ花粉管を伸ばし競争を繰り広げる。精子が卵管の中を泳いで卵子まで競争するのと同じ。生物は生まれる前から常に競争なんだなあと小さな感慨。
05-4


そして競争を勝ち抜いた精細胞が、
胚珠の中にある卵細胞と結びついて受精。
05-5


だから人間の精子と卵子と較べるなら、植物ではこの精細胞と卵細胞がその対象になる。しかし花粉の大きさは一般的に20〜40マイクロメートル(μm)とすぐにわかったものの、精細胞と卵細胞については情報を見つけられず。



話は変わるがマイクロメートル(μm)とは1mmの1/1000で、小数点で書けば0.001mm。さらにその1/1000すなわち100万分の1mmがナノメートル。ナノはとてつもなく微小だからいいとして、くせ者がこのマイクロメートル。

1マイクロメートル=1/1000mm=0.001mm。したがって花粉の大きさである20マイクロメートルとは0.02mm。0.02mmならまだ何となくその長さを感覚的に把握できても、20マイクロメートルと言われた途端に別世界の話になってしまって実感が湧かない。たまに100マイクロメートルなんて表記を見ると「0.1mmと書け0.1mmと!」と憤慨している。

ちなみに食品ラップの厚みがだいたい10マイクロメートルで、セロテープが50マイクロメートルだけれど、それじゃピンとこないでしょ。それぞれ0.01mmと0.05mm。面白いのは薄さをイメージしてもらう必要のあるコンドームは決してマイクロメートルを使わない(^^ゞ
06-コンドーム

マイクロメートルを以前はミクロンともいったが、計量法(法律)が1997年に改正され使用が禁止となる。また「ミクロの単位まで磨き上げた」なんてミクロとして表現されたりもして、この使い方は今でも見かける。



植物の精細胞と卵細胞に話を戻す。
その大きさをネットであれこれ調べても出てこないので、仕方なくChatGPTに尋ねてみた。
すると

    精細胞:10〜20マイクロメートル=0.01〜0.02mm
    卵細胞:100マイクロメートル=0.1mm

との回答。
植物の細胞は50〜250マイクロメートルと書いてあるところが多い。ただしそれは体細胞の話で生殖細胞はそれより小さいので(説明省略)、まあそんなものかも知れない。ChatGPTを調べ物に使うのは当てにならないから避けるべきではあるが、とりあえずこれが正しいとして、前回と同じように1.8mを卵細胞の0.1mmで割ると

    1.8m ÷ 0.1mm = 1万8000倍

となる。
精子と卵子での計算は1万2000倍なので似たような数字になってきた。

だったら何?と言う話ではあるけれど、
人間も植物も最初のスタートから1万倍以上にも成長するのかと小さな感慨2回目。
もし今からまた1万2000倍成長したら身長21.6km(^^ゞ

wassho at 22:09|PermalinkComments(0)

2024年10月10日

全部で何人生まれた?

芦花公園を訪れた話を途中に挟んだが、その前に「全部で何人?」のタイトルでブログを2回書いた。最初は日本の、その2は世界の人口推移について。ただし人口推移の話は本題ではなく前振りのようなもの。

もう今回のタイトルでネタバレしているものの、
興味を持ったのは、現在の

   日本の人口 1億2400万人
   世界の人口 81億1900万人

や急増する人口問題ではなくて、
今まで何人の人が生まれたかのいわば累積人口。

それを知ってもたいして意味はない。だいたい記録が残っているのはせいぜい100年ほど前からで、それ以前の人口は推測に推測を重ねてはじき出していて、途中のパラメーターを少し変えれば結果が大きく変わるくらいは想像がつく。


ところで以前にこんな話を書いた。
自分の両親にはそれぞれ両親がいて、その私にとって祖父母に当たる人にもまた両親がいてーーーと先祖の数は倍々に増えていく。それを計算すると私の先祖は戦国時代に10億人、鎌倉時代にはなんと1兆人!を突破する計算になる。

その頃から「全部で何人生まれた?」に何となく興味を持っていたのかも知れない。
参考までに2021年に書いたご先祖様3部作のリンクを張っておく。

 ご先祖様のナゾ
   https://wassho.livedoor.blog/archives/53394771.html
 ご先祖様のナゾ その2
   https://wassho.livedoor.blog/archives/53394920.html
 実はほとんどのご先祖様と血がつながっていない
   https://wassho.livedoor.blog/archives/53395125.html



その累積人口。
そんなどうでもいいテーマに興味を持っている人は少ないらしく、ネットで探してもあまり情報は見つからなかった。
     
とりあえず世界の人口についてはアメリカの人口問題研究所(PRB:Population Reference Bureau:公的機関ではなくNPOみたい)が、2022年に人類誕生以来の累計人口を1170億人と発表している。また2013年のこちらの記事で生物学者の池田清彦が500億人と書いている。他には秋田大学教授が150〜200億人としている記事もあったが、これは文章内容からして信憑性がやや薄い。

池田の記事には情報ソースが書かれていない。人口問題研究所もリンクしたページには、その計算方法は記されていなかった(ホームページを隅々まで読めばどこかには書かれているのかも知れないが)。なおなぜかリンク先には「その計算は科学であると同時に芸術でもある」なんて意味不明の記述がある。

けっこう探したけれど累積人口を見つけられたのはこの3つくらい。人口問題研究所は1995年から累積人口を発表している。2011年における推定値は1080億人。2011年の世界人口は約71億人で、現在の人口はそれより10億人増えている。そして累積人口は推定値を2011年から90億人も増やしているから、それなりに推定方法をアップデートした数字だと考え、とりあえずこの1170億人を世界の、つまりは人類誕生以来の累計人口としておく。


さてめでたく人類は今までに1170億人が生まれたとわかったとして、
だからどうかというと別に感想はない。
最初に「それを知ってもたいして意味はない」と書いたでしょ(^^ゞ

現在の世界人口81億人(千万人以下は省略)と並べると

  今までに1089億人が死んで81億人が生きている。
  今生きているのは累積人口の7%。

やっぱり、それがどうしたな感想ーーー

ただ人類(ホモ・サピエンス)の誕生は30万年前。現在の81億人はこの100年に生まれた人だとして、それが30万年の歴史に占める割合は無視してもいいくらいのほんの一瞬。いちおう計算してみると100年 ÷ 30万年 = 0.033%に過ぎない。

その瞬きするような短い期間に7%もの人口が集中しているのは、「その2」にも載せたこのグラフが示す、産業革命を境にした急激な人口増加。ざっと300年で8.2倍に増えている。グラフは国連人口基金(UNFPA)https://x.gd/piFLc(短縮URL使用)から引用編集
G20

グラフで青色に囲った部分は、現在の81億人が生まれた範囲。なおこのグラフは時間軸が右半分が2000年、左半分が十数万年になっている。左右の時間縮尺を同じにするなら、人類誕生は30万年前なので、左半分は今より150倍以上長くなる。

たまにイナゴやバッタが突然に大量発生のニュースがある。現在の人類は30万年の歴史で眺めれば、それに似た異常な状態なのかもと思えてくる。画像はhttps://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00174/070300003/から引用
G21イナゴ



全世界的には今までに1170億人生まれたとして、
日本だけでは何人生まれたのか?
調べても調べても、これがまったくわからない(/o\)
それを知って意味はないとしても、今まで誰も興味を持たなかったのかな。

現在の世界人口が81億人で日本人口1億2400万人だから、その比率は1:0.015。それを1170億人に掛ければ17億5500万人との数字は出る。しかし人類の誕生が30万年前なのに対して、日本列島に人類が渡ってきたのはわずか3万8000年前。単純に比率を当てはめるのはちょっと無理がある気がする。

とりあえず日本で何人生まれたかの数字は見つけられず。


そこで、見つけられなかったら自分で計算しようホトトギス。
もっともアメリカの人口問題研究所がやっているようなシミュレーションを自分でできるはずもなく、やったのは記録のある出生数を足し上げただけ。

日本の出生数は1899年(明治32年)からの記録がある。ただし終戦を挟んだ1944〜1946年(昭和19〜21年)の記録は欠落している。

明治32年の出生数は138万6981人、昨年は72万7277人で過去最低を記録した。過去最高は終戦4年後の1949年(昭和24年)の269万6638人。出生数はピーク時の37%に落ち込んでいる計算。

なお記録のない1944〜1946年の出生数については、日本の国立社会保障・人口問題研究所が1980年(昭和55年)に出した報告書の中で、出生率(人口1000人あたりの出生数)を

  1944年 29人(本当の単位はパーミルだが1000人当たりだから人数と同じ)
  1945年 24人
  1946年 25人

と推定していた。1943年の出生数は225万3535人で出生率は30.9人なので、

  225万3535人:30.9人 = 1944年の出生数:29人

などの比率を当てはめ出生数を1944年211万人、1945年175万人、1946年182万人として計算した。


ところで、この国立の機関である社会保障・人口問題研究所が、1980年(昭和55年)に出した報告書はなんと表紙以外は手書きである。

G22

全文はこちらを参照されたい。
  https://www.ipss.go.jp/history/shingikai/data/J000008829.pdf
  (一部をワープロ打ちしたファイルもある↓)
  https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14215805.pdf

以前に1980年代後半のワープロ事情についてのブログを書いた。そこに「今じゃ信じられないが、社外に出す企画書や報告書で手書きのものも多かった」とも記した。そしてやはりその話を若い連中にしても信じてもらえなかった。でもその証拠がこの報告書。

それにしても手書きの報告書なんて超久しぶりに見た。「こんな風に一生懸命書いてたなあ」と懐かしくなり、この報告書ファイルをダウンロードして保存してしまったよ(^^ゞ



さて1899年(明治32年)から、
昨年2023年まで124年間の出生数合計は

  ジャジャン!  2億323万6495人

う〜ん、やっぱり、それがどうしたな感想ーーー(再)
全部で何人生まれたかを知ることで、
いったい何を期待していたのだろうかと自分自身を問い詰めているところ(/o\)

以前に「奈良時代の人口は300万人だった」と知ったときは、ある種の知的好奇心が満たされた感覚があったのに、こちらにはまったくそれがない。別に2億人だろうが3億人だろうがどうでもよく思える。よく通販などで「累積販売数〇〇〇万本突破!」なんて広告があり、その数字にはそれなりの意味を見いだしてしまうのに、「全部で何人生まれた」にそういう思考が働かないのはなぜなのか。

いろいろとナゾ
しかしそれを考えたところで得るものはない気がする。

先ほど日本の累計人口について「今まで誰も興味を持たなかったのかな」と書いた。それは誰か研究しろよとの思いの裏返し。しかし研究者の皆様におかれましては、累積人口を推定しても何の役にも立たないと判明しましたので、他のテーマに精進してください(^^ゞ


でも今回はたった124年間だし、やはりこの土地に人類が渡ってきてからの、
しっかりと科学的に推定した数字は知りたいかも。
そして、それを見て改めてフ〜ン、ショウムナといいたい(^^ゞ




おしまい

wassho at 23:22|PermalinkComments(0)

2024年10月05日

全部で何人? その2

前回は日本の人口推移について書いた。ただし本当に書きたかったテーマは人口推移とは直接関係のない「人口についてのちょっとした疑問」。ブログのタイトルがヒントだけれどわかるかな?

それについて調べていたら、いろいろと人口推移のデータも集まったし、そして本題に関してはまだほとんどわかっていないので、だったら人口推移も前振りでブログネタにしてみるかと書いたのが前回と今回。そして今回は世界の人口推移について。



4月に発表された国連の世界人口白書2024によれば、現在の世界人口は81億1900万人。ちなみに80億人を突破したのは昨年。調査して発表までには時間がかかるから、実際にはそれぞれ1年前だと思う。

これは人類が誕生して以降の人口推移グラフ。グラフは国連人口基金(UNFPA)https://x.gd/piFLc(短縮URL使用)から引用編集
G11世界人口〜古代

産業革命を契機に急激に増えているのが一目瞭然。産業革命が起きたのは18世紀半ば。グラフではその頃の人口が10億人。ざっくり300年前として、その間に8.1倍に増えた計算。

日本の産業革命は明治20年代半ばからで(明治維新は1868年、明治は明治45年まで)、西洋の150年遅れで産業革命が導入されたことになる。当時の人口は3340万人。現在の1億2400万人で上記と同じように計算すると150年で3.8倍の増加。


上のグラフはスタートが人類誕生時点だから産業革命以降がほぼ垂直線になっている。それではイメージをつかみにくいので、こちらは1800年が始まり=産業革命後の推移と予想。グラフはhttps://www.yomiuri.co.jp/world/20201117-OYT1T50173/から引用編集
G12世界人口〜近代

グラフでは50年ごとの人口が記されている。第2次世界大戦が終わったのは1945年だけれど、1950年で代用して戦後の人口増加を計算すると

   世界人口 81億1900万人 ÷ 25億人 = 3.2倍
   日本人口 1億2400万人 ÷ 8400万人 = 1.5倍

日本は戦後にすごく人口が増えたイメージを持っていたのに、
世界全体と較べると半分のペースだったとは意外。

実は世界の人口というとなぜか36億人の数字を思い出してしまう。調べてみるとそれは1969年から1970年頃。そのときに世界の人口について何か話題があったのか、それとも初めて知った世界の人口が36億人だったので覚えているのか。今となってはナゾ

さて上のグラフでは将来について2本の曲線が描かれている。人類は永遠に増え続けるのではなく、従来は国連の予想で2100年に109億人でピークに達すると考えられていた。しかし2020年に米国ワシントン大学が、ピークは2064年の97億人だとの説を発表して、見解が分かれている。まっ、どっちでもいいけど(^^ゞ  (なおこのグラフの作成は2020年で、国連も今年の7月に2080年代半ばにはおよそ103億人でピークに達すると予測を修正している)


現在、最も人口の多い国はインドで14億4,170万人、2位が中国の14億2,520万人。インドが中国を抜いたのは昨年2023年。中国の人口は2年連続で減少しており現在がほぼピークとみられている。一方のインドは2063年に17億人まで増加する見込み。人口が増えれば経済規模も大きくなるものの、それが1対1の正比例になるかどうかはまた別の問題。

話はそれるが50年ほど前に誰かに聞いたか何かで読んだ、
インドにまつわるこんな話。

  日本人は九九(9×9)を暗算できるが、インド人は99×99を暗算できるほど頭がいい。

  しかしインドは暑すぎて何事にもやる気が起きず怠け者の国民性である。
  また熱帯なので野宿しても死ぬことはないし、町や村のそこら中に果実が豊富に
  なっていて飢えもしない。それで働く気が起こらず、ますます怠け者になる。

  ただしインドがもう少し豊かになって冷房が普及すれば、
  元々頭のいい民族なのだからインドはものすごい国になる。

持って生まれた頭のデキが民族によって差があるとは思っていないし、かなり偏見に満ちた意見だと当時から思えた。しかし「冷房」が国家の命運を左右するなど、考えてもみなかった着眼点が新鮮でかつ印象深くて未だによく覚えている。

インドで冷房が普及したのがいつからかはともかく、現在インドのIT技術者は世界2位の規模。ちなみにトップ5は

   アメリカ 445万人
   インド  343万人
   中国   328万人
   日本   144万人
   ドイツ  121万人

インド国内のIT産業規模ではこれだけの技術者を雇用できず、インド人IT技術者はアメリカを始め世界中で活躍している。日本では楽天だけで数千人が在籍しているらしい。またGoogleやマイクロソフトなどの経営トップはインド系である。

インドの発展はさておいて、温暖化がさらに進んで日本でも野宿OK、路上の果物でお腹が満たせるようにならないかな(^^ゞ



話を世界の人口に戻すと、そのピークがいつかは別として100億人前後までは増え続ける。下記はそのエリア別の伸び方を示している。これからは現在14億人ほどのアフリカが11億人上乗せして地域別のトップに躍り出る。グラフはhttps://www.sri-sinc.jp/knowledge/2022052001.htmlから引用
G13地域別


それをもっと直感的に把握できるように描かれたのがこちら。近頃は観光地に行くと半分くらいは中国人?なんて思うことがある。そのうち右を見ても左を見てもアフリカの人だらけなんて時代も来るみたい。画像はhttps://vdata.nikkei.com/newsgraphics/population-and-world/から引用
G14-1

G14-2

G14-3

G14-4


さらに最初に話を戻して、現在の世界人口は81億1900万人。
1億人以上の国をリストアップすると

 1位 インド      14億4,170万人
 2位 中国       14億2,520万人
 3位 アメリカ     3億4,180万人
 4位 インドネシア   2億7,980万人
 5位 パキスタン    2億4,520万人
 6位 ナイジェリア   2億2,920万人
 7位 ブラジル     2億1,760万人
 8位 バングラデシュ  1億7,470万人
 9位 ロシア      1億4,400万人
 10位 エチオピア    1億2,970万人
 11位 メキシコ     1億2,940万人
 12位 日本       1億2,260万人
 13位 フィリピン    1億1,910万人
 14位 エジプト     1億1,450万人
 15位 コンゴ共和国   1億560万人

世界には約200の国がある。
そして人口7位までの国だけで、合計人口が41億8050万人と全体の半分以上を占める。ここには載せなかったが20位までの合計人口が56億5090万人。すなわち200カ国中1割の国に世界人口の7割が暮らしている計算になる。

東京の一極集中とよく議論の的になるが、東京都の人口は日本の11.3%。世界はもっと偏っているのだと改めて認識。もっともインドと中国に、あえてえいえばアホほど人がいるせいでそんな状況を生み出しているのだが。とにかく世界はいびつである。また世界の人口を考える際にインドと中国を含む・含まないに分ける必要もあると思う。


さてお勉強はこれくらいにして、
そろそろ本題に進まなければ(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 18:40|PermalinkComments(0)

2024年10月02日

全部で何人?

総務省統計局によれば、今年の4月時点で日本の総人口は1億2400万人と推計されている。1年前より57万人、0.46%減った。

一般に人口という場合はこの総人口を指し、これには3ヶ月以上滞在している外国人も含まれている。日本人だけの人口は1億2072万人。こちらは1年前より85万5000人、0.7%の減少。

1億2400万人から1億2072万人を引いた328万人が外国人の数。また85万5000人から57万人を引くと28万5000人で、それだけ外国人が増えた計算になる。

外国人の比率を計算すると328万人 ÷ 1億2400万人 =2.6%
四捨五入して3%。

3%とはもちろん100人中の3人なのだけれど、人数のパーセンテージは子供の頃のクラスに当てはめると実感を持ちやすい。ただし世代によってクラスの人数が違うのが難点。私の小学生時代は1クラス40数名だった。今は30数名のクラスも多いと聞く。

とりあえず40名で計算すると3%は1.2名。たいした人数には思えないかも知れないが、これは全クラス&全学年で教室に1人は外国人の生徒がいる計算。5クラスあればどこかの教室には2名。もはやそんな時代。(これは人数を実感として把握するための計算なので、学校の実態と混同しないでね)


以前に奈良時代の人口はたった300万人と知ってびっくりした話を書いた。
こちらは平安時代からの人口の推移グラフ。グラフはhttps://www.jice.or.jp/knowledge/japan/commentary05から引用
G1

これによれば1000万人を超えたのは関ヶ原の戦いの1600年頃。江戸時代の中頃に3000万人に達した後はしばらく停滞。幕末から明治維新の頃に掛けて人口が増大し、グラフの角度が跳ね上がるのは1925年(大正14年、大正は15年まで)あたり。

終戦時は7200万人で、1億人突破が1967年。


ところで一億総中流という言葉あるいは意識は

  1958年から始まった「国民生活に関する世論調査」で自らを中流と回答した人が
  7割を超えた。設問は「生活の程度は世間一般から見て」「上、中の上、中の中、
  中の下、下」の5段階。

  1960年代半ばには8割を超え、70年代に入ると9割以上。
  1968年にGDPが世界第2位となった。

これらの状況を反映して1970年前後から広まったとされる。国際比較も興味があるものの、データを探したり分析に社会構造の違いを考慮したりが面倒なので手を付けていない。


そしてそれから50数年。
バブル崩壊以降「失われた10年」を3回更新し、現在はその4期目に入っている(/o\) 何かとパッとしない日本。「勝ち組・負け組」の言葉が使われ出したのが2003年、そして「格差社会」が2006年の流行語になる。

もう一億総中流の時代は終わったかと思いきや、
ほとんどといっていいほどデータに変動はない。

下図は「国民生活に関する世論調査」の1964年から2023年までのデータをグラフにしている。縦軸が%で、横軸が年度。ただし1998年、2000年、2020年は調査が実施されていない。2020年はコロナの影響。しかし1988年と2000年は「他調査とのスケジュールの関係」と説明されている。そんな理由で毎年行われている調査が中止になるとは知らなかった。

折れ線グラフは上から順に「中の上・中・下」の合計値、中の中、中の下、中の上。
G2中流意識

1970年代になって以降はずっと90%プラスマイナスを維持している。バブルは多くの人いわゆる庶民の生活実感に影響がなかったといえる。バブルで日本中が浮かれていたなんてのはマスコミの作り出した虚像。なお2011年から少し高めに推移している理由はよくわからない。ちなみに2011年は東日本大震災のあった年。そして2021年から落ち気味なのは、いよいよ本格的な格差社会の始まりを示しているのだろうか。もっとも「意識調査」だけですべては語れない。



最初に載せたグラフは人口が右肩上がりで終わっているが、その続きは正反対の右肩下がり。もちろんそれはご存じのように少子化社会の影響。人口は2008年(平成20年)の1億2808万人をピークに下がり続けている。グラフは厚生労働白書平成27年(2015年)版より引用

G3

今年の4月時点での1億2400万と較べると

    16年間で408万人、率にして3%

も減少した。参考までに都道府県の人口順位で9位の福岡県が510万人、10位の静岡県が360万人ほどである。

人口が1億人を下回る時期の推定は

    2012年発表の内閣府高齢社会白書によれば2048年 
    2023年発表の国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば2056年

2012年より11年後の2023年の発表では、その時期が8年後ろにずれている。これはもちろん出生数が増えたのではなく、総人口での推定なので、外国人が2012年当時の予測よりさらに増えた影響が反映している。

国内で暮らす日本人は今年の4月時点で1億2072万人(海外で暮らしているのは130万人)。これが1億人を切るのは2023年の推定によれば2052年で9955万人になる。この時点での外国人数は720万人と見積もられ、現在の328万人の2.2倍、全体に占める割合は720 ÷ (9955+720) =6.8% =40人クラスだと2.7人。


上のグラフを見れば「76年後」の2100年に人口は6000万人程度まで落ち込んでいる。今の半分であり、だいたい大正時代末期の水準。ただしこれは現在の外国人をあまり受け入れない移民政策をベースにした推計。それを変更すれば人口推移も大きく変わる。

人口に占める移民比率は2020年時点でアメリカ15.3%、ヨーロッパはイギリス13.8%、フランス13%、ドイツ18.8%、イタリア11%。単純平均すれば14.4%で日本の2.6%の5倍以上。

移民の多い国ほど経済成長率が大きいとのデータがある一方で、増えすぎた移民による様々なトラブルが起きているのもよく耳にするところ。なお「現在の外国人をあまり受け入れない移民政策をベースにした推計」と書いたが、それでもグラフに示されているのは、46年後の2070年に日本の移民比率は10%を超えると予測した上での数字。

昨日、岸田総理が退陣して石破総理が誕生した。自民党総裁選では9名もの候補者が立候補して、それぞれが各分野の政策をアピールしていたのはまだ記憶に新しい。もう10年もすれば、その中に移民政策も入ってくるだろうし、それは国論を二分する議論になるかも知れない。



「1億人」の数字に引っ張られて、一億総中流とか移民比率とかだいぶ話がずれた。
さらに言うと実は人口の推移すら今回の本題とは直接関係ない(^^ゞ
でもしばらくこの調子で書きましょう。


ーーー続く

wassho at 23:07|PermalinkComments(0)

2024年09月29日

モグモグ・ゴクゴク・ブリブリ・シャー

ヒマワリが枯れてベランダの夏が終了」のタイトルでブログを9月9日に書いた。
そのときに載せたこのヒマワリの写真は8月31日の撮影。
3d1f2366


それから約1ヶ月が過ぎた現在はドライフラワー状態。
10DSCF5665


マリーゴールドや小さいプランターに植えたのも同じく。
11DSCF5666

12DSCF5675


チューリップのときと同じように、
朽ちていく姿も愛でるのが私のヘンタイ・ガーデニン(^^ゞ
13DSCF5668

14DSCF5671


憎きハダニもいるけれど、クモの巣のような膜の中で、
まったく動かないからもう死んでいるようだ。
15DSCF5669

16DSCF5674

それにしてもコイツらはどこから来て、そして植物から樹液を吸い取って枯らした後はどこへ行くのだろう。ここに残っているのは逃げ遅れたのか、それとも植物を枯らしたら自分も一緒に死ぬのか。とにかく迷惑な存在。ハダニだけに感染するウィルスが現れて早く地球上から絶滅しますように。



9月9日に「9月いっぱいは持ちそう」と書いた百日草は、
まだ地味に咲き続けている。
20DSCF5689

現時点で小さなツボミや、つぼみを付けるまで大きくなっていない花芽もあるから、10月中旬以降まで咲くのかも知れない。


結局、花を咲かすまで成長した百日草は7株。
そのうちの1株が完全終了したので、
21DSCF5677


引き抜いてみた。
長さは約1.8mで私の身長と同じ。
22DSCF5680

それにしても大きい。今まであちこちの公園で見た百日草は50cm位だったのに。ベランダは東向きで日当たりがいいのは午前中だけで十分とはいえない。ひょっとしてこれもサボテンの金盛丸と同じように徒長(病弱的にひょろひょろ伸びる現象)なのかな。


そんなことを考えていて、ふと思い出した。
百日草のタネはこんなに小さかったのを。
25


タネの長さは約7mm。
だから1.8m ÷ 7mm = 257倍に成長した計算になる。

いや〜すごいなあと感慨にふける。
そしてどうしてこれだけの大きさになれたのだろうかと不思議に思う。


調べてみると、人間の身体は約6割が水でできているとよく聞くが、植物は8割から9割が水なのだそうだ。ということは2〜3日おきにせっせと水やりした私のおかげだな。感謝しろよベランダの植物ども(^^ゞ

とりあえず8割だとして、じゃ残りの2割は何でできているのか。
土の中の栄養分?

測ってはないとしても、植物を育ててプランターの土が減っていると感じた経験はない。農家だって田や畑に土を補給したりはしない。だから減っているとしても見た目ではわからない程度の分量のはずで、257倍の成長への体積的な寄与はごくわずかと思う。

そう考えると残るのは光合成。
昔、授業で習った光合成とは植物が、

  太陽の光のエネルギーを用いて、
  空気中の二酸化炭素と、根で吸い上げた水から
  デンプンなどの炭水化物を合成し
  酸素を放出する

である。
光のエネルギーを用いての意味がよくわからないものの、
調べるのが大変そうなので気がつかなかったことにしよう(^^ゞ

二酸化炭素はCO2、水はH2O。
元素に分解すれば炭素のCと水素のHと酸素のO。

デンプンの元になるグルコースの化学式はC6H12O6。
その原子の数を約分すればC・H2・O。

二酸化炭素と水を足すと原子の数はC・H2・O3。
約分したグルコースの酸素原子はOがひとつだけ。 
光合成でグルコースを作って酸素が2つ余るから放出するのか。
化学式ってこんなふうに計算していいんだっけ?

もちろん土の中にある栄養素(の原子)も炭素や水素と結びつき、なにがしかの化合物に形を変えて植物の一部になっているとしても、とりあえず植物は空気(二酸化炭素)を吸って、水を飲んでこんなに大きくなるわけだ。動物は草食であろうと肉食であろうと餌や獲物の獲得に苦労するのに、植物は楽でいいなあ。



ところで百日草はタネの大きさから257倍も大きくなったわけだが、よく考えたら人間だって負けてはいない。何たって精子は0.06mm、卵子は0.15mmしかないのだ。受精すると精子は卵子の中に潜り込むので、卵子の大きさと私の身長で同じように計算すると、

  1.8m ÷ 0.15mm = 1万2000倍!

まあ別に百日草に勝ってもうれしくはないが(^^ゞ
30精子と卵子


さて精子と卵子が結合して受精卵となり、母親の体内で栄養をもらって大きくなり、だいたい3kgほどで人間は生まれてくる。その後は

  モグモグ食べる
  ガブガブ飲む
  ブリブリとうんち
  シャーとおしっこ

して成長し身体・生命を維持する。
そう考えてみると、今までの人生すべての

  (モグモグ + ガブガブ) − (ブリブリ + シャー) − 3kg = 現在の体重

の計算が成り立つ。

厳密にはおしっこだけでなく汗を初めとする分泌液でも水分は排出されるし、汗のように水滴にまでならなくても皮膚からは水分が蒸発している。吐く息にも水蒸気として水分は含まれているし、逆に吸う息で水蒸気の水分を身体に取り込んでいる。なおうんちもその8割は水分である。


上記の摂取と排出と体重の関係式は、今までそんな風に考えてこなかったし、そんな考え方をする人も滅多にいないと思う。この式自体は当たり前の事実を表現しているだけで特に意味はない。しかし改めて、この身体と命は食べ物と飲み物から成り立っているのだと思いを新たにしたしだい。

だって食事をしてお腹が満たされる、おいしかったなどの満足感はあっても、それによって身体を維持している命をつないでいるなんていちいち考えないでしょ?

そんなわけで人間は身体でできているのだから(ちょっとヘンな表現)、もう少しいい食事、それは高級という意味ではなく栄養バランスとかを、もっと気にしなくてはいけないなあと反省する食欲の秋である。食べたもの以上の身体にはなれないのだから。



<後日追記>
植物の種の大きさを人間の精子・卵子と較べるのはおかしいので、
植物の精細胞・卵細胞と比較しました。

  1万8000倍に成長した百日草
  https://wassho.livedoor.blog/archives/53489084.html

wassho at 20:09|PermalinkComments(0)

2024年09月23日

101回目の姿勢改善 その2

100回目のお手玉メソッドの次に試した、
本題である101回目の姿勢改善の話の前にちょっと寄り道。


自分の姿勢に気をつけるようになったのは前回に書いたように30代半ば。しかし姿勢そのものに初めて興味を持ったのはもう少し前。そのきっかけは映画「愛と青春の旅立ち」。
2ポスター

この映画はリチャード・ギアが演じる、いろいろと家庭に問題もあり生活のすさんでいた主人公が、一念発起して海軍士官候補生学校に入学。13週間の訓練期間中に人間として成長し、また恋愛も繰り広げる筋立て。何たって若い頃の甘いマスクのリチャード・ギアだし、最終的にはハッピーエンドのラブストーリーなのだけれど、それだけじゃない内容を含んでいるのが名作に数えられる理由。


訓練でリチャード・ギアと同期入学した一団は、教官の鬼軍曹にメチャクチャしごかれる。その舞台となるのは主に体力作りの基礎訓練。また肉体的なしごきだけでなく、何かあるとすぐ「退学届けを出せ」とプレッシャーを掛けて追い込まれる。つまり心身両面を鍛えるわけね。このあたりは上手に文章にできないから映画を見てちょうだい。
3訓練


そして厳しい訓練を乗り越えてリチャード・ギアたちは卒業。卒業すると教官の軍曹より階級が上の少尉となる。今まで軍曹の命令に「イエス、サー」と答えていたのに、この日を境に軍曹から「サー」付きで話しかけられる。
4卒業

たった13週間でただの民間人が少尉になれるのかとも思うものの、(/_')/ソレハコッチニオイトイテ、リチャード・ギアたちが軍曹に最後の挨拶に来るこのシーンはなかなか感動的。

そして私はこれを見て
「こんなに真っ直ぐに立っている人、見たことない」と思ったわけ。

アメリカでは士官(少尉以上)になって最初に敬礼してくれた、自分より階級の低い軍人に1ドル硬貨を渡す習慣があるらしく、これはその場面。よく見ると軍曹の手のひらには硬貨がある。何を言いたいかというと、軍曹はいわゆる上官に対する「気をつけ!」の体勢ではない。それなのにこの真っ直ぐな立ち姿。

映画を見た記憶としてはこのシーンしか覚えていなかったが、ブログを書くために画像を探すと、この鬼軍曹はリチャード・ギアをネチネチとイビるときや、ホースで水を浴びせていたぶるときすらもメッチャ姿勢がいい。
5姿勢

この役を演じているのはルイス・ゴセット・ジュニア。今年の3月に87歳で亡くなられていた。これからは姿勢の神様として崇めよう(^^ゞ



このルイス・ゴセット・ジュニアが普段から姿勢がよかったのか、軍人を演じる役作りでそうしていたのかは知らない。一般に軍人は洋の東西を問わず概して姿勢がいい。写真はオーストラリア軍。写真はhttps://x.gd/FYnjoから引用(短縮URL使用)
11オーストラリア

装備から見て儀仗(軍が参加する儀礼の式典)の場面かと思う。儀仗の際は特に姿勢をよくするものの、これだけ真っ直ぐなのに、どこにも力の入っていない立ち方は見事。


こちらは陸上自衛隊の特別儀仗隊。
本番と訓練の様子。写真はhttps://bunshun.jp/articles/-/14864から引用
12自衛隊

13

姿勢は申し分ないとしても、少し力(りき)みが感じられ、見ているこちらまで疲れそうな印象がある。スクッと立っているオーストラリア軍、あるいはルイス・ゴセット・ジュニアとはどこか違う。

自衛隊もいわば幕末から導入された「西洋式軍隊」である。儀仗も西洋の風習だし、儀仗の姿勢も西洋のそれがお手本なのだろう。でも西洋人とアジア人では骨格や体つきが違う。だから西洋の軍隊と同じような姿勢をするのはちょっと無理があるのかも知れない。私もルイス・ゴセット・ジュニアのような立ち方に憧れるが、努力してもおそらくそうはならないと思う。


同じアジアの中国軍はこんな工夫までして姿勢改善をしている。写真はhttps://x.gd/SZwTPから引用(短縮URL使用)
14中国

以前に歌舞伎か能だったかの役者が、子供の頃は背中に長い定規を差し込まれて姿勢を矯正されたとのインタビューを読んだ。だからこの方法も効果的なのだろう。でもまるで十字架を背負って罰を受けているいるみたいだ。


そして絶対にうつむけない、こんな恐怖の方法が取り入れられていた(>_<)
そこまでやるか、中国オソルベシ!写真はhttps://gigazine.net/news/20080509_trooper_attention/から引用
15




ーーー続く

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2024年09月12日

「殺害しました」の違和感

4年ほど前に「ゲームに課金するという言葉遣い」について、違和感が拭えない話を書いた。詳しくはリンクしたページを読んで欲しいが、

  課金は課される、支払い義務を負う意味なのに
  自らの意思で支払うのを「課金する」とは
  税金を支払った納税を「税金を課税した」といっているようなもの

などの内容。

もっとも言葉なんてのは時代共に移り変わる。極端な話をすれば平安時代と現代ではまったく違う日本語である。だから古文の授業でその「解読方法」を習わないと読めない。それは充分に承知していても、自分が覚えた言葉が後になって意味が変わると、頭ではわかっても身体がついてこない場合もある。鎌倉時代の始まりが今は「いい国作ろう」の1192年ではないとされていると知って困惑するのと同じ。

一方で流行り言葉的なものは、そのときどきに生まれる=「覚えた言葉が後になって意味が変わる」のではないから案外と抵抗はない。何でもかんでもに「カワイイ」を連発するようになったのは35年くらい前かな。最近で似たようなポジションにあるのは「ヤバい」と「エモい」だろうか。私も口癖になっている(^^ゞ


覚えた言葉が後になって意味が変わる=自分の感覚とは違う使い方が広まったとしても無理に使う必要はないし、だからといって特に困りはしない。ただし言葉は自分で話す・書くよりも、聞く・読む分量の方が圧倒的に多い。それで否応(いやおう)なく目にしたり耳にして頭の中でモヤっとするのが困りもの。

幸い「課金する」に関して私の周りの日常会話ではあまり出てこない。
しかしその平穏が打ち破られた?のが今夏のパリオリンピック。

新聞の見出しになっとるやないか!

1無課金おじさん

スポーツ紙や夕刊紙ならともかく全国紙の見出しにまで使われるのは「自らの意思で課金する」が、もはや正しい日本語として認められたことになるのだろうか。私はまだ抵抗があるけどな。

「ゲームに課金する」の表現を知らない人のために書いておくと、
このトルコのユスフ・ディケチ選手が「無課金おじさん」と呼ばれたのは、

  ・利き目でない目を遮蔽するブラインダー
  ・防音のためのイヤーマフ(エアピストルなのに必要なのかと思うが、無課金
   おじさんも普通の耳栓はしているので会場のざわめき対策なのかも知れない)
  ・姿勢を安定させるための硬質素材のジャケットや射撃専用シューズ

などを使用せず、まるで普段着のようなTシャツ姿で競技に参加したから。
2アイテム


「ゲームに課金する」はオンラインゲームで、いろいろアイテムを買い揃えるところから生まれた。それになぞらえて反対の素の状態=無課金との表現。彼の射撃スタイルは世界中で話題になった。もちろん無課金おじさんなんてニックネームが生まれたのは日本だけ。海外ではそのさりげなさからか「トルコのヒットマン」と呼ばれていたみたいだ(^^ゞ



さてここからが本題。
モヤっとする言葉遣いは他にもいくつかあるものの、ここ最近で一番気になっているのはニュースなどでよくある「◯◯がテロリストの誰それを殺害しました」などの言い回し。

11

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14

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この表現がどうして引っ掛かるのか?
最初は殺害が「殺害される」と受け身に使うべき単語だからと考えた。しかし「人質を殺害した犯人」だと違和感はないから受動態・能動態説は却下。

自分でもよくわからないが、おそらく私の感覚で殺害を「悪の行為」と捉えているのが原因かもと思っている。だから「犯人によって殺害された」だと素直に読める。(例に挙げた見出しが「悪の行為」でないかどうかはスルーして読んでちょうだい)

以前は「射殺した」「攻撃により死亡した」と言っていたと思う。正当な攻撃の場合に「殺害しました」と言い始めたのは、ハッキリとした記憶はないものの、ここ5年ほどで早くても10年くらい前からだと思う。少なくとも20年前にそのような表現はなかったはず。

「殺害しました」がよく使われるようになった理由も不明。昔は小規模な戦闘の場合は銃撃・射殺がその方法だったのに、無人機から小さなミサイルなどを撃つようになった。それを見出しの長さでは説明し切れないし、かといって「殺しました」でもおかしいから、簡潔な言葉として殺害が使われるようになったのかなとも想像している。英語ではどうなっているかにも興味があるけれどまだ調べていない。


とりあえず「殺害しました」と聞くと、
未だにモヤッとすると同時にちょっとビクッとする。

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2024年08月02日

トウケイとトキオ その3

明治時代に東京をトウキョウではなくトウケイと読む人がいたと知っても、今でもそう読めなくもないし、前回に記した国語セオリーや時代背景を考えれば「そんなこともあったのだろうな」との感想程度にしかならない。

しかしトウケイだけでなく、
トキオとも呼ばれていたと知ってビックリ!である。
4渋沢トキオ



私の記憶でトキオの言葉を初めて聞いたのは、1979年(昭和54年)に発売されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「テクノポリス」が最初。いわゆるテクノポップの演奏の冒頭と途中に合成音声ぽい響きでトキオが連呼される。

YMOの登場は衝撃的で、サーフィンブームの真っ盛りの当時は、右を見ても左を見てもおかっぱ頭のサーファーばかりだったのに、突如もみあげのないテクノカットの連中が大量に出現したのをよく覚えている。服も白黒の市松模様のデザインが流行ったかな。


ただしYMOの人気は若者中心に限られていた。TOKIOの言葉が日本全体に広まったのは、翌1980年にタイトルもズバリ「TOKIO」だったジュリーこと沢田研二のヒット曲。電飾キラキラのコスチュームを着て、なぜかパラシュートを背負いながら歌う姿に、大げさに言えば日本中が衝撃を受けた。まだ家族揃って歌番組を見ていた最後の時代である。

沢田研二は1979年にも「OH! ギャル」でギャルという言葉を日本に紹介している。70年代後半の彼は、化粧をした中性的なヴィジュアル系路線でステージに立つなどどイケイケで最先端な存在だった。彼自身かスタッフかはわからないけれど、新しい言葉に対する感覚も鋭かったのだと思う。ちなみにテクノポリスの発売が1979年10月25日で、TOKIOが1980年1月1日と近いからYMOの歌詞をパクったのではないはず。


それはそうとしてーーー
沢田研二のTOKIOには「スーパーシティが舞い上がる」「TOKIO 優しい女が眠る街」などTOKIO=東京と思わせる歌詞がある。しかしYMOのテクノポリスは「トキオ、トキオ」の連呼だけで、この曲は他に歌詞がないいわゆるインストゥルメンタル・ミュージック。

それでもテクノポリスを初めて聴いた瞬間からトキオ=東京だと理解していた記憶がある。それは直感的にそう思ったのか、それともそれ以前に東京を外人はトキオと呼ぶと何かで知っていたのか。あれこれ記憶をたどってみても、なにせ45年も前の話なのでまったく思い出せない(^^ゞ



さて話を明治時代のトキオに戻すと、トウケイの他にトキオの読みもあったと触れている解説はいくつかあり、比較的詳しい記述を見つけたのは気象予報士が書いたこの記事

それによると

明治8年(1875年)気象庁の前身である内務省地理局・地理寮量地課・気象掛が発足。
英文の気象報告書も出しており、そこには発行元として、

  日本東京内務省地理局
  IMPERIAL METEOROLOGICAL OBSERVATORY TOKEI JAPAN

と記されている。
英文は帝国東京気象台の意味。
そしてこの時点で東京の読みは TOKEI=トウケイになっている。

それが明治16年(1883年)9月からTOKEIがTOKIO=トキオに変更される。
その表記は大正2年(1913年)まで30年間続き、同年よりTOKYO=トウキョウが使われる。

つまり明治初期はトウケイ→中頃近くになってトキオ→大正に入ってトウキョウの変遷。

読み方変更の理由はわからないようだが、記事では明治中頃に政府は不平等条約の改正に向け動き出したから、それでドイツ語やフランス語的な発音に変えたのではないかと推測している。併せて明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたのを理由に英語的な発音になり、それが前回に書いた明治36年の国定教科書で東京にトーキョーのフリガナが付いたのにもつながったのではと。

ただ「IMPERIAL METEOROLOGICAL 〜」のTOKEIをTOKIOに変えただけなら全体としては英語。それに不平等条約改正の交渉は英米の説得から始まっているから、その推測が当たっているかどうかはよくわからない。

いずれにせよ公文書にTOKIOと書かれているのなら、単なる当時の流行り言葉あるいは訛りなどではなく、間違いなく東京が正式にトキオとも呼ばれていた時代が確かにあったのだ。TOKIO=外国風発音とずっと思っていたから、これはかなり驚いた歴史の発見。


そういえば

   TOKIOは外人が東京を指して使う言葉
   外人だから英語

と何となく思ってしまうが、私の経験でも記事の筆者がいうように英語圏の人はトウキョウと日本語的に発音するし、フランス人は英語で話していてもトキオと発音し、最初のトの音が強い。さらに江戸時代の初めに来日した宣教師が作成した日葡辞書(にっぽ辞書:日本語ポルトガル語辞書)にはTOQIOの単語が載っているらしい(このTOQIOは現在の東京ではなく単に東方にある都の意味)。TOKIOよりTOQIOのほうが格好いいかも。

また中国人で東京をトウキュウあるいはトウキュと発音する人は何名か出会った。来日した中国人クライアントに「(英語で)東急ステーションに連れて行ってくれ」と頼まれ、危うく渋谷に向かいかけたことがある(>_<)


ところでYMOがテクノポリスを発表した1979年は、今では死語となった「ナウい」がまだ使われていた時代。最新のテクノポップにトキオ、トキオと連呼する音を被せたのは、その語感がナウいと思ったからに違いない。誰か去年亡くなった坂本龍一の墓に行って「トキオって明治時代の言葉みたいですよ」と教えてあげて(^^ゞ



おしまい

wassho at 21:47|PermalinkComments(0)

2024年07月31日

トウケイとトキオ その2

江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それで人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態となる。

こんな風にテレビで「へいせい」と声が聞こえてきたわけじゃないからね。
まだラジオだってない時代。
平成

物心ついたときからトウキョウと呼ばれていたし、そもそも東京は「東の京都」「首都である京都が東に移った」との意味合い。だからトウキョウを信じて疑ったこともないが、国語的にはトウケイが正しく、そして東京と名付けた明治新政府もトウケイの読みを意図していたとの説もある。

2東京

漢字は音を聞くと意味がわかる訓読みと、わからない音読みに分かれる。訓読みは漢字の意味に合う日本語を当てはめたもので、音読みは昔の中国の発音が元になっている。

例えば男の訓読みはオトコで、音読みはダン。
また長男などナンの音読みもある。

これは「音読みは昔の中国の発音が元になって」と書いた、その昔に幅があるため。
それで音読みの発音は

  呉音:仏教と共に6世紀頃に伝わった。中国南方の方言がベース。
     発音が柔らかい。拗音と促音が多い。男ならナン。

       拗音(ようおん)→ゃゅょ(ちいさい文字)
       促音(そくおん)→っ(音がはねる)

  漢音:7〜8世紀の遣唐使が持ち帰った。唐の都である長安の発音。
     発音が固い。濁音が多い。 男ならダン。

に分かれる。他には割合としては少ないものの、この呉音と漢音が日本語として定着して以降の平安末期に入ってきた宋音や唐音などもある。

東京を東と京に分けて、呉音と漢音で記すと

        東
   呉音   つう
   漢音   とう

        京
   呉音   きょう
   漢音   けい

熟語の場合、音読みは呉音か漢音かで揃えるのが原則。
例えば

   老若男女 ろうにゃく・なんにょ
   男女平等 たんじょ・びょうどう

でもトウキョウは呉音と漢音のチャンポンになっている。

東の呉音「つう」は一般的ではないので、東京は漢音で揃えてトウケイと読むのが国語セオリー的には正しい。また明治新政府幹部つまり当時のエリートは、漢文の素養も高いので当然ながらトウケイと考えていたはずーーーというのが先ほど書いた説の根拠。

エリートじゃないクラスでも、今よりは漢文あるいは漢文に近い日本語文章に接していたので、直感的にトウキョウの読みには違和感を覚えたかも知れない。それでもトウキョウと発音したのは、それだけ1000年も都が続いた「京都 キョウ」の存在が大きかったともいわれる。

一方でトウケイと発音したのは先祖代々から東京に住む「江戸っ子」が多かったらしい。彼らは地元の徳川びいきで、京都の朝廷と組んで幕府を倒した明治新政府を快く思っていない。それで京都を連想させるトウキョウの読みが気に入らなかったようだ。
3江戸っ子


やがてこの問題は1903年(明治36年)に国定教科書の制度が定められて解決を見る。その教科書で東京にトーキョーとのフリガナが付いた。これにより徐々にトウキョウの読みが定着していく。どうしてトウケイにしなかったのかの資料は見当たらなかった。

思うに京都に近い西日本ではトウキョウだったろうし、東京に全国から人が集まるようになってトウキョウがデファクトスタンダードになったのではないか。また明治も36年になると、当時の平均寿命は44歳程度だから、「てやんでえ、トウケイに決まってんだろうが、べらぼうめ!」と考える江戸時代生まれの徳川びいきが少なくなったのも影響したと考えられる。



ーーー続く

wassho at 20:05|PermalinkComments(0)

2024年07月30日

トウケイとトキオ

昔の人の名前は「藤原の道長」「源の頼朝」と「の」を挟んで読んでいたのに、時代が下るにつれて「の」がなくなって「足利尊氏」「徳川家康」となる。その名前が天皇から与えられた【ウジ(氏)なら「の」が付く】と日本史で習うけれど、それについての疑問を豊臣秀吉と千利休をテーマにして3回、それ以外に2回と少し前にあれこれ書いた。

その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。



まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。

1東京行幸

1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。

内容は

   天皇が江戸で政務を執る
  (だから)江戸を東京に改称する

のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。

いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。

そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
1-1皇居

そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。

それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。

従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。


平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ

ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。


さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。



ーーー続く

wassho at 22:27|PermalinkComments(0)

2024年07月25日

名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問 その2

古事記と日本書紀の次に調べたのは、
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!

これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー


まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。

ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。

それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
5枕草子

しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。

仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)


次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。

その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。

のつもりだったのにーーー、

源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
6源氏物語1

藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)

そんなわけで藤典侍も見つけられず。

ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)

  御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
  ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
  わが心ながら執念きぞかし。

その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
7源氏物語2

実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m

それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!



さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。

平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
8平家物語1

赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。


しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
9平家物語2


ここまでを作成年順に並べると

  1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない

  1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない

  慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
               すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。

  慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。


これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。

いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。

10「の」

古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。

もう一度、最初の疑問に立ち返ると

  天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
  それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。

と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。

そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。


古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら

ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、

   その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
   付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。

   平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
   人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
   人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
   あるなしを使い分けていたと判明する。


まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。

ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。

歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。



おしまい

wassho at 21:28|PermalinkComments(0)

2024年07月22日

名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問

豊臣秀吉の呼び名はなぜ「の」が付かず、逆に千利休には「の」が付くのかについて先日3回にわたってブログを書いた。その時にいろいろと調べたわけであるが、すると「の」に関してもっと根源的な疑問がフツフツと。

豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから

   豊臣秀吉と千利休の「の」問題
   豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
   豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3


最初のブログから引用すると、

======
  菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝

などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、

  足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康

などのように「の」が入らなくなっている。

これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======

そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ


さてである。

「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。

とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。


そして冒頭に書いた根源的な疑問とは

  _人人人人人人人人人人人人人人人_
  > それってエビデンスあるの? <
   ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。

さらにいえば

   【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
    そう読んでいたのではなく、

    名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
    ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、

    それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
    設けた

ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。

1疑問マーク


少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。

ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。

ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。



ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。

それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。

そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。


さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。

教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。

そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。


これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用
2蘇我馬子

2蘇我馬子のコピー

ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ

古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)

また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します


同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
3小野妹子


古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。

これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
4官宣旨

平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。

いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。

それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。


とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。



さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。

実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の

 茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
 野守は見ずや 君が袖ふる

を万葉仮名で書くと

 茜草指 武良前野逝 標野行
 野守者不見哉 君之袖布流

恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。

万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。

万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。


残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。




ーーー続く

wassho at 22:44|PermalinkComments(0)

2024年07月18日

リバースATM

7月3日に新しいお札が発行されたのは記憶に新しいところ。
渋沢栄一がちょっとブ男(^^ゞ そのうち見慣れるでしょう。

1お札

発行日の前後にはマスコミの報道も加熱。そして渋沢栄一の出身地である埼玉県深谷市では3日0時前のカウントダウンや祝賀パレードなどお祭り騒ぎ。ただし五千円札の津田梅子の出身地の東京新宿、千円札の北里柴三郎の熊本県阿蘇で何かやったとの話は聞かなかったな。先日の選挙で「2位じゃダメなんですか」の人が3位になっていたけれど、やはり1位じゃないと盛り上がらないのか。ちなみにスパコンで「2位じゃダメなんですか」の考え方を私は否定しない。世界一の戦艦大和は結局、何の役にも立たなかった。


それはさておき、なぜかメデタイこととなっている新紙幣発行であるが、「大量に流通するお札としては、今回が最後になるのではないか」とも言われている。それはもちろんキャッシュレス社会の進行。

経産省によると2023年のキャッシュレス決済比率は39.3%で、これはこれは10年前の2.5倍。政府が目標に掲げている「2025年までに40%」は前倒しで達成しそうである。画像は同省2024年3月29日のニュースリリースより
2キャッシュレス決済比率

(なおこの数字には家賃の支払い、公共料金の引き落としなどの銀行口座送金・決済は含んでいない。含んだ数字での比率は経産省発表で54%、他のシンクタンクでは70%となぜか大きな開きがある)


ただし目標達成でも、諸外国と比較すると日本はキャッシュレス後進国。
もっともキャッシュレス社会がバラ色の未来かどうかは疑問もある。
3キャッシュレス決済比率国際比較

こちらは2021年のデータで出典は国連の機関である世界銀行。韓国、中国、カナダのグラフの色が違うのは統計の取り方が違うらしく参考値だから。グラフは一般社団法人キャッシュレス推進協議会のロードマップ 2023から引用編集

中国ではアリペイ(支付宝)やWeChat(微信)ペイなど、PayPayのようなスマホ決済が急速に拡大した話を以前はよく聞いた。今は当たり前になってニュースにならないほど。いろんな祝儀や春節のお年玉もそれで渡す、町中で現金を使える店がなくなり外国人旅行者が困る(ホテルや高級レストランなどを除いてVISAやMasterなど外国製クレジットカードは使えない)状況のようだ。

でも韓国はその中国以上にキャッシュレス社会とはまったく知らず、
見聞の狭さを反省(/o\)

アメリカはクレジットカードの普及していない時代から小切手を使うなど、キャッシュレス先進国のイメージがあったものの、現在の比率を見ると主要国の中では平均的レベル。そのアメリカでもさらなるキャッシュレス化は進んでおり、その中で日本とは違う「ところ変われば品変わる」的なお話が本日のメイン。



さてATMといえば現金自動預け払い機。英語フルネームは automatic teller machine で teller とは銀行の窓口。お金を引き出す、預け入れるなど現金を扱う機械のイメージ。振り込みもできるがネットバンキングの時代になって使わなくなったなあ。

ところが現金を扱う店が少なくなりつつあるアメリカではATMに現金を入れ、デビットカードに替えられるリバースATMなるものが登場している。

リバース reverse とは反対、裏返し、逆転などの意味。クルマで後ろ向きに走るのをバックすると言うけれど、バックギアは和製英語でシフトレバーにはリバースギア=R の表示があるはず。ついでにバックミラーも和製英語で正しくはリバースミラー。ある年齢以上ならカセットテープを裏返しにしなくても再生できるリバースデッキやオートリバースなんて言葉に聞き覚えがあるはず。


話をリバースATMに戻すと、それを知ったのは6月21日付の経済誌ダイヤモンド(元ネタはウォールストリート・ジャーナルからの転載)。記事は野球場の売店で現金が使えなかったため、仕方なく店員に教えられたリバースATMに200ドルを投入したら、3.5ドルの手数料を取られて196.5ドルがチャージされたデビットカードが出てきたとの体験談から始まる。計算すると手数料率は1.75%になる。(別の事例で20ドルで0.5ドル引かれたとあり、それだと手数料率は2.5%)

日本でデビットカードは銀行口座から直接引き落とす仕組みだけど、この記事のデビットカードは日本でいうプリペイドカードみたいなものか。デビット debit にはいろいろな意味があって、デビットカードの場合は「引き落とし」。

プリペイドカードも日本なら手数料なんて取られないのにと思ったら、
驚くなかれアメリカでは現金が不利な扱いで、

   現金を受け取るお店では1〜6ドルの割増料金になる。
   以前は現金だと割引してもらえたのに。(クレジットカードなどだと
   カード会社から支払われるときにお店が手数料を取られるから)

   税金や電話料金を現金で払うと、政府機関や民間企業は現金決済業務を
   外部に委託しているのでそこが手数料を取る。

らしい。

現金の受け入れを企業に義務付ける連邦法はなく、州によっては現金受け取り拒否を禁じる措置をとっているようだ。また中国でも4月に政府が主要観光地に現金での支払いを受け付けるよう通知を出している。キャッスレス化=脱現金化を官民一体で進めている日本とは正反対の動きで、まさにところ変われば政策もリバースするである。



ところで今までのお札発行年次は

  福沢諭吉・樋口一葉・野口英世:2004年(平成16年)
  福沢諭吉・新渡戸稲造・夏目漱石1984年(昭和59年)
  聖徳太子・聖徳太子・伊藤博文1958年(昭和33年)〜1963年(昭和38年)

期間を計算すると

   2024 − 2004 = 20年間
   2004 − 1984 = 20年間
   1984 − 1958 = 26年間

と、この2回は20年間ペースで更新されている。さて2044年にはもう現金を使わない時代になっているのか、お札はどんな扱いになるのかな。


なおリバースATMをGoogleで検索すると、今のところ昨年4月に書かれたマネックスグループ会長である松本大氏のコラムがヒットする以外は、リバースモーゲージ(死亡時に担保の自宅を売却して清算する融資)関連しか出てこない。

だからこれはまだほとんどの人が知らない「ところ変われば」の話題のはず。「ショウヘイを応援しにアメリカの球場に行ったらさーーー」と知ったかぶりしてみて(^^ゞ


参考までに松本氏はリバースATMから出てくるのは、
デビットカードではなくプリペイドカードだと書いている。

wassho at 21:13|PermalinkComments(0)

2024年07月15日

豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3

豊臣秀吉がなぜ「豊臣の秀吉」と「の」を付けて呼ばれないかの推察を2回にわたって書いてきた。逆にどうして「の」を付けて呼ばれるのか不思議な人物が、秀吉と関係が深かった千利休。

千利休

彼の略歴と名前を並べると

1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。

子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)

ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは

   茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
   茶道:それが礼儀作法として形式化したもの

が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ


19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。

また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。

肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。


30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。

1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。

1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。

徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。

1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。

なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ

1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。



改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。

それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。

また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。


さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ

千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。

利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。

そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。

例えば源頼朝のフルネームは

    源 の 朝臣 頼朝

で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。

そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。

前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?

まったくワケワカメ(>_<)

こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。



ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。

だったらーーー

秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ



いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。

wassho at 13:25|PermalinkComments(0)

2024年07月14日

豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2

ミョウジ(苗字または名字)が名前の主流となってもウジ(氏)が無くなったわけではない。朝廷内や公的な業務では引き続きウジ(氏)が用いられる。そしてウジ(氏)の名前があるのは上級国民の証し。それがなければ朝廷内では名無しの権兵衛に等しく相手にされない。そこで戦国時代の下克上で成り上がった、すなわち出身が上級国民でない武将たちは家系図を捏造するなどして何とかウジ(氏)を手に入れている。(一度与えられたウジ(氏)は世襲され、つまり天皇の再承認なしに引き継がれるから、先祖をでっち上げるわけ)


信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。

  源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)


家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。

三英傑

その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。

そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。

しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。


前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。

もうひとつの推察は

  豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
  ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。

  秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
  1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
  秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。

  何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。

そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】

もちろん
これも知らんけど(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 10:56|PermalinkComments(0)

2024年07月13日

豊臣秀吉と千利休の「の」問題

先日に書いた「ああ勘違い」4部作。最も長く勘違いしていたケースで、その期間は半世紀にも及ぶからやるせない(>_<) とりあえず現在までに4つ判明しているとはいえ、他にもあるんだろうなといろいろ思いを巡らせていたら、勘違いとは別に、高校生の時に疑問が浮かんで、そのままになっている事柄をふと思い出した。それがまずは豊臣秀吉の「の」。


日本史の教科書を読むと

  菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝

などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、

  足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康

などのように「の」が入らなくなっている。


これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。

江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。

秀吉

織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、

  日吉丸(幼名)
  木下藤吉郎
  木下藤吉郎秀吉
  羽柴秀吉
  豊臣秀吉

このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。

単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。



さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は

  豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
          菅原道真や在原業平などもこの部類。
          ※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
           中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する

  臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。

トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。

それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。

そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。

そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。

その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。

また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。

まっ、
知らんけど(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 10:07|PermalinkComments(0)

2024年07月08日

祇園精舎の不覚 その3

鳥羽伏見の戦い、伊賀と甲賀に続いて恥を忍んで告白する「ああ勘違い」パート3は皇居の二重橋。これは2015年に発覚。


皇居を訪れた経験がなくても、誰もが写真や映像でならば一度は見たことのある皇居のアイコンともいえるこの橋。これを二重橋だとずっと思っていたのに、そうじゃなかったとの話。
7石橋


上の橋の奥にあるこちらが二重橋。
8本当の二重橋

どうしてこれが二重橋の名前なのかは「皇居見物 そして、ああ勘違い」に書いたからそちらを読んで欲しい。https://wassho.livedoor.blog/archives/53113149.html

ただし多くの人が最初の橋を二重橋と思っているようで、ネットで検索すれば同じような事例がたくさん出てくる。何となくトラウマになっている鳥羽伏見の戦い、伊賀と甲賀とは違って、これに気付いたときは「エーっ!違うの、何で〜?」とズッこけた感じだったかな。戦時中なら非国民扱いされたかも知れないが(^^ゞ



さて前置き3つが終わって、
いよいよ本題のパート4。

    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
    沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
    奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
    猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

ご存じ平家物語の書き出し部分。「春は、あけぼの」の枕草子、「いづれの御時にか」の源氏物語と3点セットで冒頭だけは何となく記憶にある人も多いと思う。(ふりがな付きはここをクリック

問題はこの「祇園精舎」。
その後に「鐘の声」と続くので、これはてっきり京都の祇園あたりにある寺だとばかり思っていた。さにあらず、この祇園精舎とは釈迦が説法を行ったインドの寺院だった(/o\)

場所はここ!
10祇園精舎地図


今でも遺跡として残っている。
11精舎現在

サクスクリット語(インドの古典語:梵語ぼんご)で Jetavane 'nāthapiṇḍadasya ārāma と書きジェータヴァナ・アナータピンダダスヤ・アーラーマと長い名前。その漢訳が称祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)、それを略して祇園精舎。略した祇園精舎のサンスクリット語は Jetavana-vihara でジェータヴァナ・ヴィハーラ。

それにしてもまさか祇園精舎がインドにあったとは。平家物語→平家が権勢を誇ったところは→京都→祇園にある寺だとばかり思っていた。今の祇園は歓楽街でも平安時代は静かなところだったのだろうと思い、「祇園精舎の鐘の声」の一節に触れるたび、その平安時代の祇園に鳴り響くゴ〜ンという鐘の音をイメージしてきたのに。

その最初はもちろん平家物語を初めて読んだ高校の古文での授業。そして祇園精舎がインドにあると知ったのは半月ほど前。そうなると勘違いしていたのはアラウンド半世紀もの期間になる。何たる不覚(>_<)

古文の先生は祇園精舎がインドの寺としっかり教えてくれたかなあ。もし教えてくれていたとしても「カロカツクイイケレマル」に気をとられて聞き逃していたのかも。



ところで祇園精舎はインドにあるけれど、
実は京都の祇園はこの祇園精舎がその名前のルーツ。

祇園の近くにあるのが八坂神社。ここは明治になるまで「祇園神社」や「祇園社」と呼ばれていた。八坂神社の歴史はややこしいものの、超簡潔にはインドにある祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀ることから始まったから。神社なのに仏教の守護神を祀るとは?だが、中世の頃の神道と仏教はクロスオーバー(神仏習合)している存在だった。後に牛頭天王は素戔嗚尊(=須佐之男命=スサノウ ノ ミコト=天照大神の弟)とされている。

祇園神社は大きな神社なので周辺の鴨川一帯に広大な社領を持っていた。そこが祇園と呼ばれ神社の名前が八坂神社に変わった後も地名として残る。今は舞妓さんや花街のイメージが強くても元は祇園神社の門前町。

参考までに現在の祇園はこのあたり。
12京都祇園



ところで祇園精舎の鐘の声〜で始まるのが平家物語。しかし実際のインドの祇園精舎に鐘は存在しない。鐘は中国が起源で日本に伝わった。インドの寺に鐘を打つ文化などないのだ。

平家物語は作者も書かれた時期も不明であるが、1309年(鎌倉時代末期)までには成立していたとされる。その頃の作者が古代インドの状況を知るはずもなく、精舎=寺だから鐘を打つと考えたのだろう。鐘がなければ当然ながら、それに続く「諸行無常の響き」もあり得ない。たぶんあの世で「やってもうた!」と反省しているはず(^^ゞ

それでも日本において祇園精舎といえば「祇園精舎の鐘の声」である。それで何と日本国祇園精舎の鐘の会なる団体が(ネットで調べたが正体はわからず)が1981年にインドの祇園精舎に鐘を寄贈している。ないのなら作ってしまえホトトギス?

それがこの鐘。
釈迦はナンジャこれ?とビックリしているはず。 画像はhttps://kaz4649.com/2017/05/02/bihar-up-220/から引用
13祇園精舎の鐘



さてさて、
ならばである。

祇園精舎とは京都の祇園にある寺だと思っていた。
果たしてそれは不覚の至りなのか?

インドの祇園精舎に鐘はない。
それなのに「諸行無常の響き」とまで書いている。

それを考えると、
これは祇園「しょうじゃ」ではなく祇園「じんじゃ」の書き間違いに違いない!
オリジナルの平家物語は琵琶法師による語りで伝えられた。
それを文字に書き起こす際に聞き間違えた可能性も高い。
14琵琶法師

つまり祇園精舎とは八坂神社。
八坂神社は平安時代以前からあるし、
神仏習合の時代なら神社に鐘があってもおかしくない。
そこでゴ〜ンと鳴った鐘を平家物語の作者は聞いたのだ。

だから祇園精舎を「京都の祇園あたりにある寺」と思っていた私のイメージは、寺と神社の違いを除けば間違っていなかったのである!!!


古典にも負けず嫌いで挑む元気がないとね(^^ゞ


おしまい

wassho at 23:16|PermalinkComments(0)

2024年07月05日

祇園精舎の不覚 その2 (伊賀と甲賀編)

前回に書いた、鳥羽が伊勢ではなく京都の地名だと知ったのがいつかはよく覚えていない。しかし少なくとも35歳は超えていて、つまり日本史を習い始めてからずっと伊勢の地名だと勘違いしていてショックが大きかった。足元の階段=歴史認識が崩れ落ちて、真っ逆さまに転落するイメージ。ちょっと大げさ(^^ゞ


さて次はブログにも記録が残る2006年に発覚した勘違いパート2。

それは伊賀と甲賀。どちらも忍者で有名。忍者に伊賀忍者と甲賀忍者がいるのはたぶん漫画で読んで何となく子供の頃から知っていた。でもそれがどうやら地名であると理解はしていても、どこにあるのかまでは気にしていなかった。

5忍者

伊賀が三重県にあると知ったのは大学生の時。大阪から伊勢へサーフィンに行くのに名阪国道を通り、その途中に伊賀上野の大きな標識があったから。

それが伊賀忍者の伊賀だと知り「へえ〜忍者ってこんなところにいたんだ」と思った。
そしてそこからが勘違いの始まり。

  伊賀忍者と甲賀忍者は対立しているとの思い込み(実際のところは知らない)
       ↓
  対立するのは豊臣と徳川である
       ↓
  伊賀がこの地域なら、伊賀は豊臣方に違いない
       ↓
  ならば甲賀は徳川方
       ↓
  徳川は東日本なので、そこで「甲」といえば甲州
       ↓
  甲賀忍者の本拠地は山梨県!

と勝手に妄想が膨らみ、今と違ってネットでチャッチャと調べることもできないから、妄想が膨らんだ段階でその考察はストップ。やがてそれが私の中で疑うべきもない確固たる真実として認識された(^^ゞ


実際の甲賀は滋賀県にあり、
しかも伊賀と甲賀は県は違えどなんと隣町!
6伊賀甲賀地図

地図で見るとずいぶんと面積が広い。
少し調べると、

  滋賀県甲賀市
    面積:482平方キロ
    人口:8万6000人
    平成の大合併で2004年(平成16年)に甲賀市となる。
    焼き物で有名な信楽町がある。
    甲賀市の発音は「こうがし」ではなく「こうかし」
    それにちなんで甲賀コーラというご当地飲料がある

  三重県伊賀市
    面積:558平方キロ
    人口:8万4000人
    同じく平成の大合併で2004年(平成16年)に伊賀市となる。
    服部半蔵は伊賀忍者ーーー徳川家に仕えていた(>_<)
    松尾芭蕉も伊賀出身(なので忍者や幕府の隠密説あり)
    甲賀コーラに対抗して忍ジャーエールを発売

    参考までに平成の大合併が推進されたのは
    平成11年(1999)から平成22年(2010)

世田谷区の面積が58平方キロで人口94万人だから、人口密度は100倍以上違うね。また大阪府の面積は1905平方キロなので、伊賀と甲賀だけでその半分になる。なおこれは現在の行政区分なので忍者が本拠地としていたエリアはもっと狭い範囲だったはず。


前回の冒頭に記した「いわゆる常識となっている事柄」に伊賀・甲賀は含まれない。それで鳥羽伏見のようなショックは受けなかったものの、でもやはりしばらくは凹んだかな。それに鳥羽を伊勢の地名と思ってしまうのは、ある程度は仕方ない面があっても(京都の鳥羽がマイナーすぎるからと責任転嫁)、甲賀=山梨はまったくもって私のアホさ加減が生み出した勘違い。だから穴があったら入りたかったのはこちらのほう。



ーーー続く (祇園精舎までなかなかたどり着けない)

wassho at 23:28|PermalinkComments(0)

2024年07月04日

祇園精舎の不覚 (鳥羽伏見の戦い編)

いわゆる常識となっている事柄でも、内容を勘違いしているのはままあること。このブログでも過去に「忍者とダ・ヴィンチ・コード」「皇居見物 そして、ああ勘違い」などで紹介してきた。


恥を忍んで(^^ゞ おさらいすると、
まずは幕末の「鳥羽伏見の戦い」。

0鳥羽伏見の戦い浮世絵

歴史の授業では必ず習う薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った内戦。その後の戊辰戦争の始まりでもある。実際には旧幕府軍が大阪から京都へ攻め上る戦いなのだが、なぜかそれを江戸から海路で三重県の鳥羽に入って一戦交え、その後に鈴鹿山脈を越えて京都の伏見でまた戦ったと勘違いしていた。しかし鳥羽伏見の鳥羽とは京都の地名(/o\)

勘違いした理由は伏見といえば京都でも、
鳥羽といえば伊勢にある鳥羽しか思い浮かばなかったから。


世間一般では伊勢志摩との表現が有名なものの、
鳥羽市は伊勢市と志摩市に挟まれた位置にある。
1三重県鳥羽


市全体が伊勢志摩国立公園に指定され、また海女さんが海に潜って真珠の入ったアコヤ貝を採ってくるショーをやっているミキモトの真珠島もあるところ。小学校の修学旅行でも訪れた。少なくとも関西では鳥羽は伊勢志摩とセットになった有名な観光地。それに対して京都の鳥羽なんて聞いたこともなかった。
2海女さん


地図は現在の京都市区分図。
中心となるのは中京区と下京区。
3京都市区分

鳥羽伏見の戦いの当時、鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があって、上鳥羽は地図で南区の「区」の文字があるあたり。名神の京都南インターの少し北側。下鳥羽はその下で現在は伏見区に入っている。


こちらは両軍の移動経路。画像はhttps://love-japanese-history.com/ikusa%EF%BD%B0tobahushiminotatakai/から引用
4戦闘経路

大阪から上ってきた旧幕府軍は淀の先で二手に分かれ、南下してきた新政府軍と交戦する。地図で示されている両軍が相まみえた左側の地点が鳥羽、右側が伏見であり、その地名をとって鳥羽伏見の戦い。

でもこの両地点は3kmも離れていない。実質的には同じエリアでの戦闘。記録では鳥羽からドンパチの音が聞こえたので伏見でも戦闘が始まったとある。

だったら鳥羽みたいなマイナーな地名は使わず「伏見の戦い」でいいじゃん!
ーーーと悔し紛れに常々思っている(^^ゞ

鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍が敗退し江戸城開城につながった経緯が重要なのであって、歴史の授業で戦闘場所までは習わない。多くの人が鳥羽伏見の戦いの名前くらいは知っていると思うが、どれくらいの人が鳥羽を京都の地名だと正しく認識しているのだろう。もし過半数を超えていたら落ち込むな(/o\)



ーーー続く
祇園精舎の話はまだちょっと先

wassho at 19:06|PermalinkComments(0)

2024年06月30日

食のハックをタグ付けした

前回「餃子に酢ソース」のブログを書いた。そういえば少し前に「パンケーキを焼けなくても」も書いたし、それ以前にもちょっと変わった食べ方の話をいろいろと書いたなと思い出す。

抜き出してみた。

  餃子に酢ソース
  パンケーキを焼けなくても
  汁そばにワサビ
  夏以外はビールを冷やさずに
  夏はほうじ茶を水出しで
  ヨーグルトも常温に温めてみた
  常温牛乳で冬でもシリアル
  冷やしカップヌードル はじめました
  アイスコーヒーのブレンド
  カレーシチュー
  スイカにレモン汁
  フレンチプレスなら微粉は取り除こう
  コーヒーは温め直すより保温しておいたほうが
  手づくりの?トースタースタンド
  どん兵衛をほうじ茶で
  牛丼にチーズのトッピング
  ラーメンにチーズのトッピング
  焼き鳥にワサビ
  夏は白ワインをシャーベットにして
  アイスコーヒーは水出しで
  コーヒーを淹れるのは急須で充分
  たこ焼きにオリーブオイル
  ソーセージは茹でる?焼く?
  ざるそばに七味唐辛子
  和風で冷たいイタリアンなアメリカン
  コカコーラにバニラ・オイル
  コーヒーにシナモン
  まぜまぜ ビールとコーヒー
  まぜまぜ アレコレ
  ワインでアメリカン?
  ブラック・アイ 
  カフェ・アメリカーノ
  インスタント味噌汁をおいしく飲む方法
  トマトキムチ鍋 Ver.2
  トマトジュースの飲み方
  日韓中仏伊の適当な出会い 鍋編
  イタリアンと韓流(はんりゅう)の適当な出会い
  夏野菜エスニックカレー
  蕎麦の食べ方   
  夏を快適に暮らす方法2 水出し緑茶


なんと全部で41記事もあった(^^ゞ
ただこちらの総目次のタイトルだけで判断しているから、中身を読めばもう少しあるだろう。特に初期のブログは1つに記事に複数のテーマを含み、タイトルが内容のすべてではないページも多いから。

けっこう探すのは大変だったし、今後もまた参照したくなるかも知れないから、これらの記事には「食のハック」のタグをつけた。ここでのハック Hack とは「ちょっとしたコツや工夫」との意味。



ところで
このライブドアのブログでは記事を分類する機能として

   カテゴリー
   タグ

の2つが提供されている。
位置づけとしてはカテゴリーが大分類、タグが小分類といったところ。


カテゴリーはパソコンだとページの左側に表示されている。
1カテゴリーPC


スマホではどのページを見ているかで表示方法が異なる。

トップページの場合は下までスクロールして、プロフィール欄の上にある「カテゴリーアーカイブ」をタップすればパソコンと同じ内容がプルダウンメニューで現れる。
2カテゴリースマホトップ


個別の記事を見ているなら、記事のさらに下までスクロールするとパソコンと同じようにカテゴリーの一覧が表示されている。「バイク」「ベランダガーデニング」「海外」のように下向きマークの ∨ が記されているのはサブカテゴリーを持っている。(パソコンでの表示例を参照)
3カテゴリースマホ個別



カテゴリーと違ってどんなタグがあるかの一覧はブログ上に表示させていない。表示させることも可能なのだが、現在19個を設定しているカテゴリーと違って、タグの数は500個以上あるので実用性があまりないから。ちなみにライブドアの仕様では

 カテゴリー:設定上限500個:1つの記事に適用できるカテゴリーは2つまで

 タブ:設定上限不明、少なくとも1000個までは大丈夫みたい
   :1つの記事に適用できるタグはは10個まで

となっている。

また各記事にタグやカテゴリーは必ずしも適用させる必要はない。このブログでは(設定忘れを除いて)すべての記事がカテゴリー分けされているものの、タグはつけていない記事のほうが圧倒的に多い。なおカテゴリーとタグは独立した機能で相互の関連はない。


それでタグはどこで見るかというと、パソコンでは記事が終わったところにある。画像で「※チューリップ以外」と表示されているのはカテゴリー。
4タグ表示PC


スマホでは個別記事の後の「カテゴリーの最新記事」の下。
なぜかパソコンとはカテゴリーとタグの順番が違う。
5タグ表示スマホ


とりあえずここでカテゴリーやタグに書かれている文字をクリックなりタップすると、それに属している記事が日付の新しい順番に検索結果として表れる。ただしスマホならタイトルと最初の写真と書き出しの数行が表示されるのに対して、パソコンでは記事のすべてが表示される。例えば348記事を書いている「ツーリング」をクリックすると348記事すべての文章を延々とスクロールしなければならない。

これは是非ともタイトルだけの表示に改めて欲しい。
スマホもタイトルだけでいい。スマホで表示されるのが、タイトルと最初の写真と書き出しの数行なのは、スマホでの一覧表示が元々そういう仕様であるからに過ぎない。


なおカテゴリーやタグの機能を使わなくても、ブログ内にある検索窓にキーワードを入れれば、その言葉を含む記事を探し出せる。以前はこのツールがいい加減でヒット率が低いので表示させていなかったが、今は充分に機能している。写真は上がパソコン、下がスマホでの検索窓。
6記事検索PC

7記事検索スマホ




さてタグとはパソコン関連でよく聞く言葉。
けれどもこれを正確かつわかりやすく定義するのは難しい。
ついでにタグとタブもよく言い間違える(^^ゞ

タグ tag の本来の意味は札(ふだ)で荷札、下げ札、値札などと使われる。名札は name tag である。また商品札としてシャツなら首の所に付いているブランド名が刺繍された布や、脇腹あたりにある素材名や洗濯方法が書かれた布テープもタグと呼ばれる。

そこから発展してタグは付箋の意味も持つようになった。ブログのタグはそのニュアンスに近い。私の「餃子に酢ソース」が原稿用紙に書かれているとしたら、それに「食のハック」のポストイットを貼る感じ。Twitterのハッシュタグ#も同じ言葉の使い方。



ここまでなら素直に理解できても、
コンピューターの分野では「命令」の意味でもタグが使われるから話がややこしい。

ブラウザーやスマホのアプリなどインターネットを介してみる文字やページはHTMLやXMLなどのマークアップ言語で記述されている。HTMLは Hyper Text Markup Language の略。マークアップ言語では元の文章に「命令」を埋め込むことによって見出しや本文などの書式を整えたり、画像の表示や他のページへのリンクを張れる仕組みになっている。

このブログも画面では見えなくても様々な命令が埋め込まれ、それによって今あなたが読んでいる位置に文章が表示され、またフォントの大きさや色が設定されている。

ブログを書く際に「命令」を自分で埋め込む必要はほとんどなく、操作画面にも現れないが、追加の命令を埋め込むのも可能。

これはブログを書く画面で何も命令を埋め込んでいない状態。
10プレイン

すると普通にこう表示される。

   タグって何? → タグって何?


これにフォントサイズを400%にしろとの命令を埋め込むと、
11サイズ


   タグって何? → タグって何?


フォントの色を赤にする命令では
12カラー


   タグって何? → タグって何?

と変化する。

上の画像にあるブラウザーやスマホのアプリには表示されない < > で囲まれた命令の部分もなぜかタグと呼ばれる。言葉的にタグには命令の意味はないから、これにどうしてタグという言葉が使われるのか疑問。おそらくは < > で囲んだ部分を「命令印」みたいなニュアンスでタグと言い出したのかなと想像している。

wassho at 20:27|PermalinkComments(0)

2024年03月22日

富士山の伏流水ーーーとのモヤモヤする表現 その2

山に雨が降ると地形に沿って水流ができ、それが集まり沢になりさらに川となる。その川を流れている水が地下にもしみこんだのが伏流水。しかし富士山に川はない。

それは富士山がスコリアと呼ばれる多孔質の火山噴出物で覆われているから。平たく言えばメチャ水はけのよい土壌。だから雨水や雪解け水は地表にとどまらず地下にすぐにしみこんでしまう。

これは以前に富士山の五合目付近で撮った写真。
DSC06869

DSC06865


川にならず富士山にしみこんで地下水となった水は、やがて広い裾野のあちらこちらから湧き水となって出てくる。たとえば河口湖をはじめとする富士五湖も「流れ込んでいる」川はなく湧き水が水源。
fed0e545

そのひとつである山中湖から「流れ出て」いるのが相模川。もしそこに伏流水があっても、それはネーミング的に相模川の伏流水であり富士山の伏流水ではない。前回の引用で示したように伏流水とは川と関連した地下水なのだから。


水の流れの図解。
画像はhttps://yuusui-map.jp/user/yuusui.htmlから引用
F1


上の図に対して前回に示した「富士の伏流水」を使用していると謳っているミネラルウォーターやお酒などは、それをこのように表現する。つまり地下水を伏流水と言い換えている。
F2

F3

画像はhttps://mitsuuroko-beverage.com/products/kawaguchiko/vanadium/とhttps://oasislink.co.jp/clytia_officeoasis/water/water_fuji/から引用


それはもちろん

    富士山の地下水で作りました

というより

    富士山の伏流水で作りました

のほうがイメージがいいからだろう。「伏」の文字には何となく想像をかき立てる要素もあし、「流」は動的でフレッシュな印象も与える。

別に法律で伏流水の定義が決まっているわけではなし、富士山由来の水のおいしさに変わりはないので、とやかく言うつもりはないとしても、あまりに伏流水、伏流水と強調されると印象操作的なあざとさも感じてしまう。富士山の伏流水との表現に疑問をいだくきっかけとなったのも、そんな広告だったように思う。


もっとも伏流水との表現は観光地でも魅力的らしく、
こんな観光ホームページも見つけた。
思いっ切り地表水やないかい!!

岐阜の円原川伏流水
画像はhttps://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_5980.htmlから引用
K1


秋田の元滝伏流水
画像はhttps://www.tohokukanko.jp/attractions/detail_1278.htmlから引用
K2


ついでに書くと、
よく聞く「天然水」との表現も考えてみるとおかしい。水はH2Oで水素と酸素から合成できる。しかしそんな人工的に化学反応で作られた水は実験室にあるか燃料電池で水素発電した副産物くらい。地球上にあるほぼすべての水は「天然もの」やで(^^ゞ


いずれにせよ伏流水だったり天然水だったり、何かとイメージアップ、付加価値向上に走るのが世の習い。そして富士山商品界隈では、もう伏流水と呼ぶのが当たり前になりすぎて、特に意識もせずに使っているのかも知れない。嘘も百回言えば真実になるのも同じく人の世の常である。



おしまい



<天然水に関するおまけ>

市販されている水は、農水省の「ミネラルウォーター類(容器入り飲用水)の品質表示 ガイドライン」では、次の4つに分類されている。

 ⚫️ナチュラルウォーター

  特定の水源から採水された地下水を原水とし沈殿、濾過、加熱殺菌以外の
  物理的・化学的処理を行わない。

 ⚫️ナチュラルミネラルウォーター

  ナチュラルウォーターのうち鉱化された地下水を原水としたもの。

  ※鉱化されたとは土壌のミミネラル成分が多く溶け込んだ状態を指すが、
   その具体的な数値はガイドラインには書かれていなかった。

  ※このナチュラルミネラルウォーターが一般的にいうミネラルウォーター。

 ⚫️ミネラルウォーター

  ナチュラルミネラルウォーターを原水とし、品質を安定させる目的等のために
  ミネラルの調整、曝気、複数の水源から採水したナチュラルミネラルウォーター
  の混合等が行われているもの。

  ※曝気(ばっき)とは空気中の成分を吹き込むこと。
   ここでは炭酸ガスの注入と思われる。

 ⚫️ボトルドウォーターまたは飲用水

  上記以外で飲用に適した水。
  (水道水のペットボトル詰めでも可)


そして「自然」「天然」の用語およびこれに類似する用語の使用が認められているのは

   ナチュラルウォーター
   ナチュラルミネラルウォーター

のみでミネラルウォーターには認められていない。つまり行政的には「沈殿、濾過、加熱殺菌」以外の人為的な加工を行っていない=ほぼ無加工なのが天然水の定義となる。

wassho at 23:28|PermalinkComments(0)

2024年03月21日

富士山の伏流水ーーーとのモヤモヤする表現

別にどうでもいい話ではあるものの、
前からちょっと引っ掛かりを感じているのが今回のテーマ。


最初に伏流水とは何ぞやから。
雨が降って地表に落ちてきた水は、まず次の2種類に区分される。

  地表水:沢や川を流れたり、池や湖あるいはダムなどに溜まっている水。
      海に流れて海水となった水は原則として含まない。

  地下水:地表から地中に浸透して、土の中の隙間を流れたり、
      そこにとどまっている水。

要は水が地面の上に存在するか、地面の下なのかの違い。
地表水とは聞き慣れない言葉でも地下水との対比と理解できる。

そして伏流水とは川を流れる地表水が、川の下に浸透して地下水となった状態を指す。だから地下水の一種であり、地下水のエリア限定版のようなもの。


ネットで見つけた説明をいくつか引用する。

⚫️一般財団法人環境イノベーション情報機構
 https://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2309
伏流水とは、河川の流水が河床の地質や土質に応じて河床の下へ浸透し、水脈を保っている極めて浅い地下水。本来の地下水と異なり、河道の附近に存在して河川の流水の変動に直接影響されるものをいう。


⚫️首相官邸ホームページ 地下水用語集(立ち上げ段階版)
 https://www.kantei.go.jp/jp/singi/mizu_junkan/tikasui_management/pdf/siryou4-3.pdf
高透水性の河床、湖底、裂か(割れ目)などから地下に涵養された水をいう。
通常の降雨浸透と異なり比較的大量の浸透に対して使われる。

 ※涵養(かんよう)=地下に水が浸透する


⚫️日本大百科全書(ニッポニカ)
 https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8F%E6%B5%81-124178#w-1585674
【伏流】
地表水が地中に浸透して地下水として流れることをいう。扇状地のように厚い砂礫(されき)層からなる地形を流れる川では、川の水は伏流して地下水となり、部分的に水流が消失することもある。また石灰岩地域や火山噴出物からなる地域を流れる川の水もよく伏流する。

とくに伏流水という場合には、河川や湖沼の底部または側部の砂礫層中を流れる水をさす。


⚫️東京都水道局
 https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/suigen/topic/09.html
伏流水とは河川水等の地表水が周辺の砂層などの中に浸透して流れる水のことをいいます。

東京都水道局

東京都水道局の図でもわかるように、
伏流水は川の下にある地下水である。


ところがである。
富士山の伏流水と銘打った商品が多く存在している。
たぶん知っていると思うけれど「富士山」は川の名前じゃない(^^ゞ

<ミネラルウォーター>
画像はhttps://www.furusato-tax.jp/product/detail/19423/4805029から引用
M1

画像はhttps://store.shopping.yahoo.co.jp/shinyakoso/bc3010020.htmlから引用
M2

画像はhttps://item.rakuten.co.jp/f222038-numazu/asahi01-p/から引用
M4


<日本酒、焼酎>
画像はhttps://sakemuseum.com/products/35331-1/から引用編集
S3

画像はhttps://www.yamanashi-kankou.jp/special/2020_nihonshu_mtfuji.htmlから引用
S4

画像はhttps://y-houraiya.com/products/detail/26から引用編集
S5


<そば、うどん>
画像はhttps://co-trip.jp/article/611329から引用
ME1

画像はhttps://houtoutaiken.lp-web.net/2019/10/29/about-soba/から引用
ME2

画像はhttps://iwata-food.com/item/udon400g/から引用
ME3



山に雨が降ると地形に沿って水流ができ、それが集まり沢になりさらに川となる。その川を流れている水が地下にもしみこんだのが伏流水。しかし富士山に川はないのだ。そして川がなければ伏流水は存在しない。

なのに「富士山の伏流水」とはどういうこと?



ーーー続く

wassho at 23:13|PermalinkComments(0)

2024年02月19日

平安時代も今もア〜レ〜はできない その2

着物は帯を含めて9種類もの道具で身体に巻き付けられており、
ア〜レ〜をしただけではムフフな状態にはならないと前回に書いた。

せっかくの機会(どんな?)なので紹介しておくと、

女性の場合、
着物では5層の衣類を着用している。

<第1階層>
ブラジャーとパンツ。


<第2階層>
肌襦袢:上半身用の肌着。
裾除け(すそよけ):下半身用の肌着。腰巻きや「お腰」とも呼ばれる。
なお両者が一体となったワンピースタイプもある。
肌襦袢

ブラジャーとパンツがなかった時代は、これが下着の役割を果たしていたのだろう。現在はブラジャーとパンツだけでは肌の露出が大きいので、肌が触れて長襦袢を汚さないために着るようである。


<第3階層>
次に着るのが長襦袢。
着物をスーツだとすれば長襦袢はワイシャツ的なポジション。
長襦袢

写真のように白だと下着っぽいが、色や柄が付いている長襦袢もある。

また着物の内側から覗いている襟は半襟と呼ばれ、これは長襦袢の襟部分に被せて使用する。白だけじゃなくて染めや織りなどで色柄も豊富。私の母親は白い半襟しかつけていなかったなあ。昭和の着物から一番変化したのはこの部分だと思う。画像はhttps://senkosha.base.shop/items/82034069&82089134&83154172から引用
半襟


着用はまず肌襦袢と裾除けを着た上に、半襟を被せた長襦袢を羽織り、
101


腰紐と呼ばれる紐で固定する。
102


さらに伊達締めという細い帯を締める。腰紐か伊達締めのどちらかだけでよさそうにも思えるけれど、着たことがないのでなんともいえない。画像はhttps://ommki.com/news/archives/13555から引用
103



<第4階層>
長襦袢の上に着物を着る。
これも長襦袢と同様に腰紐を結び、伊達締めを巻く。

だからア〜レ〜をして帯がほどけたとしても長襦袢と着物の、それぞれに腰紐と伊達締めがベルトの役割としてまだ4重にガードしているのだ。


<第5階層>
最後に帯を締める。
帯の中には写真左の帯板と右の帯枕を入れ、
どちらもベルトが付属している。
帯板帯枕

帯板は帯の身体の前部分に挟み込み、
帯がパンと張ったように見せる芯材のようだ。

帯枕は身体の後ろ側で作る帯の結び目を立体的にかさ上げする役目。帯枕はさらに帯揚げと呼ばれる布で包(くる)んで本体が目に触れないようにし、またその帯揚げ自体も結ぶ。画像はhttps://g-iseya.jp/dressing/sash-2とhttps://www.simaya.net/product/106から引用
帯揚げ

帯枕位置


そして最後に帯締めを帯の上から結ぶ。
上の写真で帯の中央にある紐が帯締め。

まとめると帯板+帯枕+帯揚げ+帯本体+帯締めの5重構造。長襦袢と着物の腰紐と伊達締めを加えると合計9重構造で着物は身体に巻き付けられていることになる。ア〜レ〜で帯を引っ張っただけでは道はまだ遠いゾ(^^ゞ


どうやって着るのか知りたい人は動画でどうぞ。

長襦袢の上に着物を着て腰紐と伊達締めを結ぶまで。 約8分



帯の結び方。 約10分



肌襦袢から帯までのフルバージョン。 約1時間



ア〜レ〜からは話が逸れてしまったが、着物についてはまったく無知だったので調べてみていろいろと面白かった。最大の発見は帯に着物をまとめるベルトの役割はあまりなく、どちらかといえば着物姿の見栄えをよくするアクセサリー的な存在だということ。それでベルトとしては不必要なほどに太いのかと納得。

そういえば舞妓さんなんてあんなに大きな帯を。画像はhttp://www.imamiya.jp/haruhanakyoko/event/hassaku.htmから引用
舞妓

すっかり見慣れているから違和感はないものの、冷静に衣服として眺めれば(舞妓さんのではなくても)帯はかなりオーバーデコレーションで、世界各地の民族衣装と較べても特異な存在である。しかし大きな布を使って、後ろ姿に膨らみまで作って結ぶ帯があるから着物姿は美しいのだろう。女性の帯が男性用の帯と同じだと想像するとちょっと興ざめである。

しかし大きな布を使うからそれを結ぶのは難しく大変であり、その大きさゆえに高価なものとなる。それが着物離れの一因でもあるとすれば、なんとも「塞翁が馬」的な巡り合わせかも知れない。


さて前回に書いたテレビ番組に話を戻すと、江戸時代にア〜レ〜ができたとは、帯は単独で結んでおり、帯板〜帯枕〜帯揚げ〜帯締めなどの補助道具を使っていなかったとの意味だと思う。着物と長襦袢に腰紐と伊達締めを巻いていたのかは不明。

もし巻いていたら帯だけのア〜レ〜じゃ目的を達せられない。でも考えようによっては帯でア〜レ〜、そして伊達締めでア〜レ〜腰紐でア〜レ〜をそれぞれ2回、合計5回もア〜レ〜を楽しめるじゃないか(^^ゞ



おしまい

wassho at 20:46|PermalinkComments(0)

2024年02月17日

平安時代も今もア〜レ〜はできない

昨年の終わりに「十二単(ひとえ)はセクシー着物だった!」とのブログを書いた

皇族の儀式や雛人形で見る今日の十二単と違って、平安時代の十二単は帯は締めず、12枚重ねたそれぞれの着物の前身頃(まえみごろ)を結ぶ紐(ひも)などはなく単に羽織っていただけ。しかも肌着となるものもつけていない。だから少し動いただけで、前がはだけて肌が見えるエロいコスチュームだったとの内容。

それを書きながら、じゃあ帯がないのなら平安時代はア〜レ〜はできないなとか、いやすぐはだけるのならア〜レ〜をする必要はないかとバカなことを考えていた(^^ゞ


おそらくほとんどの人には着物、帯、ア〜レ〜の3つの単語だけで意味が通じると思う。それでも念のために説明しておくと、ア〜レ〜とは「古典的な性加害シーンにおける決め台詞」である。

<シーン1>
加害者となる男性は悪代官などの権力者。
被害者はその権力者に対して立場の弱い女性である。
村の庄屋の娘などがよく登場する。

まずは宴席が始まる。
1


<シーン2>
酒の入った悪代官が娘に言い寄る。
この時に「よいではないか」を繰り返さなければならない。
2


<シーン3>
拒み続ける女性。
業を煮やす悪代官。

ふすまを開けると、宴席の隣の部屋にはなぜか布団が敷かれている。
逃げようとする女性。

そのとき、悪代官は女性の帯をつかみ、それを引っ張って帯をほどく。
女性は帯がほどかれるのに合わせて回転しながら「ア〜レ〜」と叫ぶのがお約束(^^ゞ
3

画像はhttps://www.line-tatsujin.com/detail/a12810.htmlとhttps://twitter.com/nage_ngw_info/status/499303241016807425から引用

私は「ア〜レ〜」としてしか認識していなかったが、
これには帯回しとの名前がつけられているらしい。

昔は時代劇が多くてそんなシーンも見ていたのかな。
でも実際はこんな時代劇コントが記憶に残ってるのかも知れない。画像はhttps://www.asahi.com/showbiz/gallery/100702shimura/shimura020.htmlから引用
志村けん


今は時代劇もほとんどないし、また何かと規制があって「ア〜レ〜」なシーンなどは放送されない。それでも帯を引っ張られた女性がクルクル回るインパクトは強烈。だからなのかテレビで「ア〜レ〜」を見ていない世代が描いたと思われるイラストにも「ア〜レ〜」は登場する。画像はhttps://www.pixiv.net/artworks/82897314&104351433&304547から引用
イラスト


さらにネットで調べてみると、意外にも「ア〜レ〜」を試してみたと報告している女性が多くいる。また以前に見たNHKの「着物がある生活」のような内容の番組で、講師の女性が「ア〜レ〜」について「私もやってみたのですがーーー」のような話をし始めてビックリした経験もある。ヤッタンカイ! いずれにせよ「ア〜レ〜」は未だ日本の伝統文化として健在である(^^ゞ


ところで文化的な内容だったNHKの番組で、
どうして「ア〜レ〜」が話題になったかというと、

  江戸時代:着物の帯は結んであるだけ

  現在:着物の帯は結ぶ以外に、
     いろいろな補助道具を使って固定されている

との話の流れだったように思う。

そのときはフ〜ンと思っただけだったが、今回改めて調べてみると、
帯はそれ自体を結んでいるだけでなく

  帯の外側から帯締めが巻かれている。

  帯の内側に帯揚げ、帯枕、帯板が入っており、
  それぞれがベルトの役割を果たしている。

  また帯の下には腰紐と、伊達締めという細い帯があり、
  それで着物を巻き付けている。

  さらに着物の下に着る長襦袢も、同様に腰紐と伊達締めで巻き付けている。

と、帯を含めて9種類!もの道具で身体を巻き付けているとわかった。



ーーー続く

wassho at 17:24|PermalinkComments(0)

2024年01月15日

シャツはインしないのだから水平カットでいいのでは? その2

カジュアルな服装ではシャツを「イン」しなくなって35年も経つ。だったらその裾は丸いラウンドカットではなくスクエアカットやボックスカットと呼ばれる水平なものでいいんじゃない?というのが前回に書いた内容。画像はhttps://shop.solve-grp.com/contents/wind/detail/54とhttps://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4550512951629から引用
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そしてシャツについていろいろ調べていたら、
カットの形より裾の長さのほうが問題だと気がついた。画像はhttps://fabric-tokyo.com/answer/shirt/about-order-tuck-out-shirtから引用
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較べてみれば一目瞭然で、図でフォーマルシャツと書かれている普通のシャツの長さだとバランス的に長すぎる。(なお最近はロングシャツもトレンドみたいだけれど、あれはいわゆるビッグシルエットを楽しむためのもので、ここでの話とは別)


シャツを「イン」しないで何が困るかといえばジャケットを着たとき。
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左のようにジャケットからはみ出しているのは、それはそれでありだとしても、もうそんな着こなしが似合う年齢ではなくなってしまった(>_<) やはり右側がナチュラルに見える。画像はhttps://wear.jp/bz0178/9633915/?kid=13119&utm_source=magazine-cubki&utm_medium=referral&utm_campaign=spとhttps://voi.0101.co.jp/voi/content/01/sp/topics/column/column_081.html?intid=column060_listから引用

個人的な感覚だとジーンズのような股上の短いパンツならシャツを外に垂らしても気にならないのだが、スラックス的な股上の深いものだと何かおかしく感じる。でも「イン」するのもオッサンくさい。それでどうするかというと「イン」した上にジャケットを着る。

ジャケットを着ているときは基本的に「イン」している。それはジャケットの裾からシャツの裾がはみ出すのを好まないから。でも上の写真でタックアウトシャツと書かれているような長さのものなら、ジャケットのときも、またスラックス単体でも大丈夫かな。そういう短いシャツがあるとは知らなかった。

今度シャツを買うときは探してみよう。わかりやすく長さが表示されているといいのだけれど。ただしスーツで着る場合は「イン」した裾が上がってこないように普通の長さが必要だから、シャツの購入量が増えて困るなあ。

それと例えばネルシャツなんかは確実に「イン」しないから、すべてこの長さでいいと思うのに、従来の長さのものが多いのを改善して欲しいもの。それにしても裾は短くしても、まだどうしてラウンドカットにこだわるのか不思議。ついでに書くとオシャレさん向けには裾のラインが波打っていたりギザギザだったり、もっとバリエーションがあってもいいと思うゾ。襟の形がいろいろあるように。


ところでシャツを「インする」というのに、なぜか「アウトする」とはいわずにタックアウトとの言葉をファッション業界では使うようだ。対義語としてタックインも使われる。タック tuck とは押し込むとの意味。でもタックインもタックアウトもおそらく和製英語。そもそも「イン」するのがタックだし、「イン」しないのはおそらくアンタック untuckを使うはず。ただしあまり自信を持ってそう思っているのではない。

言葉関連でもう一つ。実は股上を「またかみ」だとずっと思っていた。パソコンで「またかみ」と打っても変換してくれないので、調べてみて「またがみ」と知ってビックリ。股下は「またした」と「し」が濁らないのに、どうして股上は濁るのかがナゾ



さて前回の冒頭で書いたように、このテーマのきっかけは小林薫が出演している帯状疱疹のCMである。病気の話にもかかわらずシャツを「イン」しないでラフなスタイルで登場している。

なのにどうしてシャツのボタンを一番上まで留めている?
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画像検索してみたら、どうやら小林薫は一番上まで留めるのが好きらしい。一番上まで留めていない写真もたくさんあったものの、これだけ留めているのが見つかるのは、やはり留めるのが好きと思われる。
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ーーーと、実にどうでもいい話でブログを終えるm(_ _)m

ついでにカジュアルなシャツで一番上のボタンを留めるのは小林薫くらいなのだから、彼にはオードーメイドで誂えてもらうとして、ネルシャツのようなタイプに一番上のボタンは必要ないやろと、これまた実にどうでもいい考えが(^^ゞ



おしまい

wassho at 19:20|PermalinkComments(0)

2024年01月14日

シャツはインしないのだから水平カットでいいのでは?

以前に放送されていた帯状疱疹のテレビCMを、
最近また見かけるようになった。

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演じている小林薫はずいぶんとカジュアルなスタイルである。
そしてシャツはパンツの外に出している。
もしこの服装をした彼にどこかで会っても特に何も思わないはず。
でもこのCMを見たときは違和感を覚えた。

どうして病気の話でこのファッション?
親しみやすさを演出したかったのかな。
そして一旦その?モードに入った目でCMを見ると、
外に垂らしたシャツがやたら目につく。


それがきっかけで今回はシャツの話。

いつかは忘れたが、ずいぶんと前からシャツを「イン」するのはダサいとなっている。
これは2015年にドラマで刑事役の松坂桃李がオタクに変装したシーン。画像はhttps://www.cinemacafe.net/article/2015/10/27/35183.htmlから引用
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改めて確認すると電車男と瓜二つ。電車男の映画公開は2005年。また、この頃にオタクファッションのステレオタイプ的なイメージが確立したような気がする。
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ただしシャツを「イン」しなくなったのはさらに昔でもう記憶にない。ネットでは80年代後半の渋カジ、90年代中頃のヒップホップのブームの頃からと2つの説があるみたいだ。中間を取って1990年からだとすると、もう35年近く定着しているファッションセオリーである。


ファッションなんて個人の感覚ではあるものの、今現在、Tシャツやポロシャツを「イン」しているとかなり異様に感じる。シャツの場合はそれ以外のアイテムのテイストや組み合わせにもよるが、例えばジャケット&ネクタイなしでジーンズとかに「イン」だと違和感があると思う。

ただしファッションは時代と共に変化するから、今はダサいとされているシャツの「イン」だって、いずれまたそれがファッショナブルあるいは普通となるときが来る。女性ファッションでは「イン」を仕掛けたい向きもあるようで、こんなのを見つけた。画像はhttps://stripe-club.com/cts1/maedakein.htmlから引用
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左から
  左右の半分だけイン
  前だけイン
  インして引き出してふんわりと

半分とか前だけとか、ちょっと無理があるように思うけどなあ。こんな着こなしの人っているのだろうか。薄着の季節になったら街を歩く女性を注意して観察してみましょう。



ところで
カジュアルなスタイルではシャツを「イン」しないのが多数派なのに、どうしてシャツの裾はこんな形をしているのか前から疑問である。画像はhttps://shop.solve-grp.com/contents/wind/detail/54から引用
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まっすぐにカットすればいいのに。例えばアロハシャツのように「イン」しない前提のものはまっすぐカットされている。シャツを「イン」しないとだらしなく見えるのは、上の写真のような丸くて長い裾が原因。おそらくそれは見えてはいけないものとの潜在意識があるからだろう。画像はhttps://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4550512951629から引用
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ちなみに裾の形が丸いのはラウンドカットで、
まっすぐなのはスクエアカットやボックスカットと呼ばれる。

そして実はラウンドカットはシャツの歴史に由来している。

ヨーロッパでシャツの原型が生まれたのは16〜17世紀。当時は下着として着用されて、もっと裾が長かった。それはラウンドカットの前と後ろを股のところで交差させてパンツやブリーフの役目をさせていたから。そのためのデザインであり、現在のシャツのラウンドカットはその名残り。

想像するとなんかオムツみたい(^^ゞ

そんな面倒なことをせずにどうしてパンツをはかないのかと思ってしまうけれど、ブリーフが誕生したのが1935年(昭和10年)、トランクスが1915年(大正4年)頃とけっこう最近である。それまでシャツ以外の下着としては、ユニオンスーツという上下つなぎの下着を着ていたらしい。そういえば昔を描いた海外映画でたまに見るようにも思う。画像はhttps://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlから引用
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それはさておき、何事も合理性や妥当性があるからこそ物事は始まり、そしてそれがなくなっても形骸化して続くのが世の常。シャツのラウンドカットもその典型例。



ーーー続く

wassho at 20:23|PermalinkComments(0)

2024年01月09日

首相の作業服姿

1月1日に能登半島で大地震が起きてから、
岸田首相は作業服姿で会見に臨んでいる。
以下、個別の注釈を記していない画像は首相官邸ホームページ、政府広報オンラインまたはWikipediaからの引用
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非常災害対策本部会議での様子。
これら作業服を政府は防災服と称している。
12-k3

手前の自見大臣などは首相と違うものを着ている。これは内閣府職員用の防災服で、2021年におよそ20年ぶりにデザインやカラーを改めたもの。自見、松村、加藤の3名は内閣府特命担当大臣だから、こちらを着ていると思われる。

参考リンク https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA021CQ0S1A400C2000000/


首相の後ろに座っているのは官僚だろうか。
とにかく皆で防災服を着て会議をするわけだ。
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東京の官邸内で防災服を着る合理的必要性はまったくない。
さぞかし野党が突っ込むかと思えば、彼らも防災服を着ていた(/o\)  画像はhttps://www.sankei.com/article/20240105-MOZDYKPJ2BINXNUHAUR7CLCXIE/から引用
14-1

なぜか立憲民主、維新、共産の3党はお揃いの防災服。公明党の山口代表が着ているのは上の写真では色が黒っぽくて襟がスタンドカラーに見えて、作業服にしたらおしゃれに思えたものの、

過去に撮られた別の写真で見るとそうでもなかった(^^ゞ 画像はhttps://www.komei.or.jp/news/detail/20170312_23330から引用
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そういえば2011年の東日本大震災でも防災服だった。
15-

この時は東京でも激しい揺れを経験したし、原子炉が爆発するかもとの緊迫感があったから、あまり違和感は感じなかったように思う。


1995年の阪神淡路大震災のときの村山首相。今のようなデザインの防災服はなかったみたい。現地視察以外のときに何を着ていたかは記憶になく、調べてもよくわからなかった。画像はhttps://www.jiji.com/jc/d4?p=ton131-jlp00917548&d=d4_psnから引用
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首相タイプと内閣府タイプ以外にも、
省庁によって黄緑や水色、オレンジなどカラフルな防災服もある。
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面白いのは鈴木財務大臣で、上の写真は1月3日の第2回非常災害対策本部会議の様子(彼は水色着用)。こちら前日1月2日の第1回会議では一人だけスーツを着て参加している。会議に防災服など不要と思っていたのかも知れない。
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木原防衛大臣。
防衛省の防災服はかなり地味。もっとミリタリー調のデザインがいいと思うゾ(^^ゞ 画像はhttps://www.sankei.com/article/20240104-DV3POI5VIFLR7EKGDOQABCF26I/から引用
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これらの防災服姿については

   事に当たるに際しての団結力を生む
   やってる感を出しているだけの単なるパフォーマンス

との相反する見方がある。

イベントやお祭りでお揃いのTシャツやハッピを着ると気分が盛り上がるのは事実。しかし非常時の国政がそのレベルでは困る。それに野球の監督はユニフォームを着ているけれど、サッカーの監督がスーツ姿でチームの団結が薄れるなんてこともない。


ところでスーツでない姿で国民を鼓舞していると言えば、
現在ではゼレンスキー大統領を置いて他にない。
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軍服の一種ようにも見えるものの、
実は市販の服に軍隊のワッペンなどをつけているだけらしい。


昨年5月に広島サミットに来日したときもこの姿だった。画像はhttps://www.yomiuri.co.jp/world/20230520-OYT1T50229/、https://www.sankei.com/article/20230521-YSF2UBQQ3FIDJMUOYF2NTFZ2H4/から引用
30-2

30-3

本国すなわち戦地を離れた場所でこんな服装である必要はないが、そこには彼の決意や信念のようなものが伺える。岸田首相らの防災服からはそうのようなものはまったく伝わってこない。単なる演出の意図が透けて見えるばかりで、いわゆるコスプレでしかない。

だから、やってる感を出している「だけ」とは批判しないまでも、
無駄なパフォーマンスだというのが私の考え。


ついでに安全な官邸でスーツではなく防災服を着ている岸田首相が、
昨年3月にウクライナを訪問したときの写真を載せておこう。
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おいフミオ、そこ戦地やぞ(^^ゞ

wassho at 20:47|PermalinkComments(0)

2024年01月06日

羽田空港の飛行機衝突事故で素朴な疑問 その2

さて素朴な疑問の本題。
写真はhttps://mainichi.jp/articles/20240103/k00/00m/030/008000cから引用

4-1

事故の原因はまだ判明していないものの、現在のところ海保機が管制官からの指示を聞き間違えたまたは取り違えた、あるいはそのほかの理由で、誘導路からまだ進入すべきではない滑走路に入ってしまったからではないかと言われている。

管制官とパイロットとのやりとりなんて英語ではあるが定型文みたいなもの。その内容は毎回ほとんど変わらない。だからこそ慣れによる聞き違えや勘違いもあるのかも知れない。そのためにパイロットは受けた指示を必ず復唱するルールになっている。それでもミスコミュニケーションは起きるもの。


しかしそれよりもなによりも、
事故の状況がある程度報じられて最初にに浮かんだのは、理由はともあれ管制官の指示に反して、まだ進入してはいけない滑走路に飛行機が進入してしまったとして、それを誰も見ていなかったのか、衝突するまで気がつかなかったのかとの根本的な疑問。

管制塔から双眼鏡で見るか、あるいは監視カメラを設置しておくか、とにかく現場を見てさえおけば事故は防げたはずーーーと不思議だった。すると1月5日早朝になって「羽田空港には地上の飛行機の位置を探知するレーダーがある」「管制官はそれを見ていなかった」との報道が。

  ナンジャそれ(/o\)

もっとも「管制官が機体の位置を常時把握するとの規則はない」らしい。もちろん常時把握する必要はないとしても、要所要所では把握する必要あると思うけどなあ。それと地上機の位置をレーダーで把握しているなら、管制官の指示に反している動きをしている飛行機があれば、それを察知して警告を出すシステムを組み込んでいないのか。その程度ならAIとかを使うまでもなくたいして難しくない。


−−−と思っていたら1月5日の夕方に、

   着陸機が接近する滑走路に別の機体が進入した場合、
   管制官に画面上で注意喚起する「滑走路占有監視支援機能」が
   事故当時、正常に作動していた

と報道された。地上レーダーと連動しているのかの説明はなかったが、許可を出していない飛行機が滑走路に進入すると、飛行機の色が赤に変わり、滑走路が黄色く点滅されるわかりやすいシステム。アラートが鳴るかどうかは不明。
画像はhttps://news.yahoo.co.jp/pickup/6487328から引用
4-2

そしてどうやら管制官はこれを見逃していた可能性があるとの報道。

  ナンジャそれ(/o\) 2回目

どうも昔からある管制官とパイロットの無線音声でのやりとりに、重きを置きすぎたシステムになっているように思えてならない。音声だけのコミュニケーションなんて絶対にミスが起こるのは分かりきった話なのに。



次に疑問に思ったのは、飛行機が誘導路から滑走路に入る手前に、信号機や踏切の遮断機のようなものはないのかということ。

これについては信号機を備えている空港もあるが羽田空港にはないとわかった。ただ停止線灯なるものがあって信号機と同じ役割を果たしているようだ。しかしその停止線灯が昨年12月27日から使用不能になっていたとも報じられている。

  ナンジャそれ(/o\) 3回目

もちろん装置が故障する場合もある(故障かどうかは報道では不明)。でもそれなら普段以上に気をつけておくべきなのに。



繰り返しになるが今回の事故は

  管制官:海保機に誘導路で滑走路のそばまで進み、
      そこで待機の指示を出した(つもり)

  海保機:管制官から滑走路の中で待機の指示と受け止めた

とのミスコミュニケーション説が濃厚。そして

  海保機の地上位置を把握するレーダーはあったが、それは監視されておらず、
  未許可の飛行機が滑走路に進入した場合に警告を出す装置はあっても、それを見逃し、
  さらに滑走路への進入を禁止する合図を出す停止線灯は作動していなかった。

大きな事故とは複合原因で起こるとよく言われるものの、
今回はまさにそれを絵に描いたような展開。

この状況下で事故を防ぐ手立てはあったのか?
管制のメインとなるのは管制官とパイロットとの無線交信だとしたら、

    誘導路から滑走路に入る位置で一旦停止、
    そして進入の許可を得る

との手順を、ひとつ加えておけばいいだけだったのでは?と思えてならないーーー クルマの教習所では踏切の前で一旦停止し、窓まで開けて電車の音がしないか確認させられるゾ。

もちろん、そんな手順が存在していて海保機がそれを怠った可能性はある。しかし管制官との交信記録が公開されて、専門家は誰もそれについての指摘はしていないから、おそらくその手順はないのだと想像している。


空港の管制についての知識はないから、ひょっとしたら的外れなことを書いているかも知れない。また詳しい状況についてはまだわかっていない、あるいは報じられていないものもあるだろう。レーダーとは空を監視するものだと思っていたから、地上レーダーがあるなんて1月5日に報道があるまで想像もしていなかった。

とにかくこんな「言った、言わない」に近いレベルのミスが、
事故を引き起こすのは今回が最後になりますように。



おしまい

wassho at 12:49|PermalinkComments(0)

2024年01月05日

羽田空港の飛行機衝突事故で素朴な疑問

元旦に能登半島で大地震そして2日には羽田で飛行機同士の衝突事故と、年明け早々二日連続で大きな災いに見舞われた。もちろん地震や事故に正月は関係ないとはいえ、正月気分も吹き飛ぶ出来事である。

亡くなられた方のご冥福をお祈りし、
また地震で被災された皆様にはお見舞いを申し上げたい。


さて羽田での事故は

  JALの旅客機が着陸したら
  そこに離陸予定の海上保安庁の飛行機(以降は海保機と略)がいた

というもの。

どう接触したのか、いわゆるオカマを掘るように海保機の真後ろに衝突したのか、あるいは海保機の主翼を引っかけるような形だったのかなどは、今のところ報じられていない。また海保機が停止していたのか移動中だったのかも同様。移動中なら海保機の側面に衝突した可能性もある。画像はhttps://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE031830T00C24A1000000/から引用
0-1

でもとにかくJAL機の着陸地点の前方に海保機がいてJAL機はそれに衝突。不幸中の幸いは着陸後の衝突だったこと。着陸直前のまだ空中に浮いている間に接触していたらもっと大惨事になっていたと思う。


乗客乗員避難の様子。写真はhttps://mainichi.jp/articles/20240103/k00/00m/030/008000cから引用 続く3枚も同様
1-1-1

衝突から18分後に乗客367人、乗員12人の計379人が全員脱出できたのは「奇跡の18分」と呼ばれているらしい。似たような経験がないから、状況の想像は難しいが多分そうなんだろう。18分とは衝突してから最後に機長が脱出するまでの時間で、脱出そのものはもっと短時間で実行されたはず。ちなみにこの飛行機の乗客定員は369名だから満席に近い状態。


その後、飛行機は大炎上して、
1-1-2


変わり果てた姿に。
1-2

すっかり焼け落ちて、特に主翼より前方はほとんど形がない。よく燃えているのは最近の飛行機が炭素繊維素材を多用している(この機種では全体の53%)のも影響していると思う。また写真を見ると主翼がほとんど燃えていない。単なる好奇心だけれどその理由が気になる。


こちらは海保機の残骸。
1-3

まさに木っ端みじんな印象。なぜかJAL機とは反対に主翼が見当たらない。
乗員6名のうち5名が亡くなった。


衝突した機種は

 JAL:エアバス社A350-900型 全長66.8m 最大離陸重量217トン
 
2-1


 海上保安庁:ボンバルディア社DHC-8-300型 全長25.68m 最大離陸重量19.5トン
2-2


機体の大きさ比較。画像はhttps://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE0233J0S4A100C2000000/から引用

3-1

ただし衝突のエネルギーは長さではなく重さと速度に比例する。衝突時のデータはないので、とりあえず最大離陸重量で比較すると(最大離陸重量は離陸可能な飛行機+燃料+人+荷物の合計最大重量)

  A350-900の217トン ÷ DHC-8-300の19.5トン=11倍

これは約1トンの軽四と、大型ダンプ約11トンの重さを較べた倍数と同じ(どちらも車両のみの重量)。しかも飛行機が着陸するスピードは時速250km前後。もちろん着陸後はブレーキをかけエンジンを逆噴射して急減速するとしても、着陸地点からさほど離れていない位置に海保機はいただろうから、着陸速度とあまり変わらなかったかも知れない。250kmで大型ダンプに突っ込まれれば、そりゃ軽四はひとたまりもない。

海保機乗員の死亡理由は司法解剖前でわからないが、離陸待機中ならまだシートベルトをしていなかった可能性もある。



何を疑問に思ったのかは次回で。



ーーー続く

wassho at 21:13|PermalinkComments(0)

2023年12月30日

十二単(ひとえ)はセクシー着物だった!

♪♪ もうふたつ寝るとお正月〜 なので和風な内容を。


「源氏物語 よみがえった女房装束の美」という展覧会が12月28日まで開かれていた。訪れてはいないものの、展覧会紹介の番組を見てとても意外な発見が。

0-2展覧会ポスター

テーマは十二単。「じゅうに・ひとえ」の言葉は知っていても、
それを単と書くって知ってたあ?
0-1

現在の着物で裏地がなく1枚の布で仕立てたものを単衣(ひとえ)と呼ぶ。裏地のあるのは袷(あわせ)。十二単の単は単衣の衣の字が省略された言葉のようだ。ただし十二単の場合、そのパーツのひとつである単(ひとえ)を除いてすべて裏地がついている。ややこしくて混乱するね。

なお辞書を引くと常用漢字外の用法として、単で「ひとえ」との訓読みが載っている。また「ひと(つ)」との訓読みもある。今まで「単つ」と書かれたものは見た記憶がないけれど。


その十二単を目にする機会は滅多にない。
写真は即位の礼での皇族方。
画像はそれぞれhttps://www.nikkei.com/article/DGXMZO51269140S9A021C1000000/  https://president.jp/articles/-/30479  https://www.asahi.com/articles/photo/AS20191109000688.htmlから引用
1-K1

1-K2

1-K3

ただしこのような姿はニュースで見るだけ。それ以外だと結婚式の前撮りで十二単を着る人がいる程度だろうか。それだって自分が新郎でもなければ生では見られない。一番身近なのは雛人形が着ている十二単かな。画像はhttps://takaginingyou.co.jp/kotonoha-hina/から引用
2-h1


ところで十二単と聞いて思い浮かべるのは平安時代。
しかしこれらは平安時代の十二単とはかなり異なる形なのである。

そもそも平安時代は「鳴くよウグイス平安京」の794年から、「いい国作ろう鎌倉幕府」の1192年(最近はいい箱の1185年と教えているが)までの398年、丸めれば約400年も続いた時代。弥生時代や縄文時代を除けば日本の歴史区分で最も長い。ひとくちに平安時代といってもいろいろある。

写真は公家女子の服装の変遷を表したもの。
3

左上から 
    飛鳥時代→奈良時代→平安初期→遣唐使廃止後→平安中期
    平安後期→江戸時代前期→江戸時代後期→近代

画像はhttps://costume.iz2.or.jp/column/595.htmlから引用。
詳しくはそのページの解説を読んで欲しい。

飛鳥時代は朝鮮半島、奈良時代から平安初期は唐の影響を強く受けているのがわかる。朝鮮や唐の服装を知らなくても、これらを日本的とはあまり感じないはず。

平安時代のターニングポイントのひとつが、飛鳥時代の630年から約200年間続いていた遣唐使の廃止。「白紙に戻す遣唐使」で894年の出来事。最後の派遣は838年で次の派遣の時期に取りやめた。遣唐使の前の遣隋使は600年から618年。遣隋使の派遣は3〜5回前後と諸説あり、遣唐使は15回派遣された。

遣唐使の廃止により国風文化、いわば日本オリジナルの文化が開花したとは歴史の授業で習ったとおり。ファッションにもそれは影響し十二単が完成したのは平安中期とされている。写真上段一番右がそれ。そのひとつ手前は十二単より格式の高い「裙帯比礼物具装束 くんたいひれ・の・もののぐ・しょうぞく」。そんなものがあるとは知らなかったが、まだ少し唐様(からよう)の雰囲気が残っている。

武家社会になっても十二単は発展し、また江戸時代後期には髪型が大きく変化。これは「大すべらかし」と呼ばれるヘアスタイル。現在の皇族も大すべらかしにしているから、江戸時代後期の十二単を受け継いでいるといえる。


なお十二単は女房装束(にょうぼうしょうぞく)と呼ばれる。女房とは妻や奥さんではなく、貴族社会において高貴な人々に仕える高位の女官(官職を持つ)や女性使用人を指す。使える相手は男女どちらもある。邸宅内に専用の部屋(房)をあてがわれたのが名前の由来。

使用人がどうしてそんな格式の高い服装をと思ってしまうが、これは海外で執事が燕尾服などフォーマルウェアで働いているのと同じで、それが仕える者の礼儀なのだろう。また仕えられる身分の高貴な女性自身はどんな服装だったのか、そして現在は皇族も十二単を着るが、女官や女性使用人の服装をいつ頃からどうして着るようになったのか。そのあたりは興味があるもののまだ調べていない。(王族だって燕尾服は着るから、女房装束との名前にとらわれる必要ないのかも)



さて、その現在の十二単は実は12枚重ねではない。
上半身に着ているのは外側から

  唐衣(からぎぬ):一番外側に着る
    ↓
  表着(うわぎ)(うえのきぬ)
    ↓
  打衣(うちぎぬ)
    ↓
  五衣(いつつぎぬ):袿 (うちき) と呼ばれる着物を5枚重ねで着る
    ↓
  単(ひとえ)
    ↓
  小袖(こそで)
    ↓
  襦袢(じゅばん):下着

下半身は

  裳(も):唐衣の上から後ろ側だけにつけて
       ウエディングドレスのように長く引きずる(下の写真の9を参照)

  長袴(ながばかま):小袖の次に着る

十二単の枚数を数える場合、下半身の裳(も)と長袴(ながばかま)はカウントしない。また下着である襦袢(じゅばん)と下着に近い小袖(こそで)も同様。すると唐衣(からぎぬ)から単(ひとえ)までが対象で、五衣(いつつぎぬ)は5枚あるから1+1+1+5+1=9枚重ねとの計算になる。

ただしこれは現在の十二単の話。平安時代には袿 (うちき) を20枚も重ね合わせていた記録がある。それではあまりに華美だと藤原道長(966〜1028年:平安中期)が袿 (うちき)は5〜6枚にしろと倹約令を出し、平安後期にそれが慣例化されて五衣(いつつぎぬ)となったようだ。

現在の9枚重ねでも15kgほどの重さ。袿 (うちき) を20枚も着たらどれだけの重さになるのか。そしてそんな服では生活に困りそうなものの、実はそれほど困らなかったのである(後述)。



写真は十二単を着ているところ。ただし打衣(うちぎぬ)はなく、また五衣(いつつぎぬ)は3枚しか着ていない。画像はhttps://gijodai.jp/seikatsu/info/2020/01/610mから引用
4-1

4-2

4-3

写真の内容は

  1 小袖(こそで)
  2 長袴(ながばかま)
  3 単(ひとえ)
  4〜6 五衣(いつつぎぬ)
  7 表着(うわぎ)(うえのきぬ)
  8 唐衣(からぎぬ)
  9 裳(も)
  10 完成

これで見て欲しかったのはそれぞれの重ね着パーツではなく、
1枚着るごとに着物の前を紐で結んでいるところ。

結ばなかったら着物がはだけるから当たり前と思われるかも知れない。
でもこれが冒頭に書いた展覧会紹介の番組を見てのとても意外な発見。

ビックリの事実は

   平安中期頃までの十二単は紐などで結んでいない。
   ただ何枚も重ねて羽織っていただけ。
   小袖(こそで)や襦袢(じゅばん)などの肌着もナシ!

平安時代の衣類で現存しているものはなく、これは様々な文献からの研究によるもの。番組では源氏物語絵巻に描かれた図柄が紹介されていた。


源氏物語絵巻を何枚か抜粋。
確かに何も結んでいない。
5g1


また女房たちが座っているのにも注目(後述)。
5g2


そしてこの女房はいわゆる懐(ふところ)から手を出す仕草をしている。
これも着物をただ羽織っている証拠とされる。
5g3



展覧会で再現された当時の十二単。画像はhttps://artexhibition.jp/topics/news/20231206-AEJ1732135/から引用

結ぶものはなし。
6-1


着用写真がうつ伏せなのは、
立ち上がったら前がはだけるからなのか?
6-2

イヤそれでは服の意味がないやろと思うのは、
現在の生活様式から発想しているから。

奈良時代には唐の影響を受けて椅子もあったらしいが、国風文化になって床あるいは普及し始めた畳に座るようになる。つまり貴族の生活はそうして座っているのが基本。また源氏物語絵巻を見ると、上の再現写真ほどではないがかなり寝そべっている姿勢のものもある。

以前に大河ドラマで戦国時代の生活様式にあわせて女性を立て膝で座らせて話題になった。正座が礼儀正しい座り方になったのは江戸時代になってから。下の絵は武田勝頼の妻である北条夫人。肖像画に立て膝で描かれているなら、それが行儀や礼儀作法的にまったく問題がなかったのを表している。またローマ時代の貴族は宴会のときに寝そべりながら食事をした。だから平安時代の女房たちが仕える相手の前で、寝そべるようにに座るのがノーマルだったのもあり得る話。タイの王室でも寝そべりながら国王と話しているのを、ずっと昔にニュースで見た記憶がある。
6-3北条夫人

いずれにせよ今の我々から見たらダラけているような姿勢が当時は普通。
だから20枚ものとても重い十二単でも何とかなったのかも知れない。

しかし女房とは女官や使用人。そんな体勢で仕事が勤まるのかの疑問はある。おそらくそれで務まるような、例えば話し相手になるようなことが仕事だったのだろう。なんたって貴族社会、別に金を稼いでいるわけではない。また女房は女官や使用人の中ではハイクラスなので、身体を動かさなければならないような仕事はもっと下位クラスが担当していたとも想像できる。

ただそれでも多少の身体の動きは伴う。源氏物語絵巻で懐から手が覗いているのは、片方の腕は袖を通さず、あるいは時々袖から抜いて、着物の胸元部分を握って前がはだけないようにしていたようにも思える。あるいは立ち上がって移動するときなども。

まあとにかく十二単なんて皇族が儀式で着るような最高格式の服装だと思っていたのに、平安時代中期は下着も着けず、ただ着物を何枚も結びもせずに羽織っていただけなのが超を3つ並べたくなるほど意外だった。時代が変われば生活も常識も変わるものだと実感。



さてこれは「御神服うつし13枚の単仕立ての袿をかさねた小袿姿」と書かれていたもの。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/column/601.htmlから引用
6-4

もちろん着物は何も結んでいない、留めてもいないから、これで腕を広げればバサーッと前がはだけて、その下は下着もつけていないんだよ。

   ちょっとエロくない?(^^ゞ

十二単がエロに結びつくなんて思ってもみなかった。
そして光源氏が速攻でムフフな行動に移れる理由がようやくわかったゼ
ずっと不思議に思っていたんだ。
古文の授業では習わなかった、これが今年最大の発見!


ではよいお年を

wassho at 22:13|PermalinkComments(0)

2023年12月22日

フレディ・マーキュリーがアナ雪!

まずはAIが作成した、
クイーンのフレディ・マーキュリーが、
アナと雪の女王の Let It Go を熱唱している動画を見て聴いて。


こちらのリンクはサビの部分だけを抜き出して編集したもの。
     ↓
https://video.twimg.com/ext_tw_video/1737407145602347008/pu/vid/avc1/720x960/CSx4XHi3zRCrtmjk.mp4?tag=12


リンク先が消えている、動かないなどの場合、
そしてフルバージョンで視聴したければこちらのYouTube。
これも著作権的にいつまであるかわからないけれど。


AIでもうここまでできるんだと、ちょっと鳥肌が立ったね。フレディの熱心なファンが聴けば、本物とはいろいろ違うところもあるはず。しかし私には彼があの世から化けてでたかと思うほどにソックリ。ちなみにフレディが亡くなったのは1991年で、アナ雪が制作されたのは2013年なので、これは正真正銘のAIが作り出した偽物である(表現が難しい)。


ChatGpt-logo

対話型のAIであるChatGPTが公開されたのは昨年の11月。AIを使ったサービスはそれまでにもいろいろあったし、また家電などにも組み込まれている。しかしそれらはAIをほとんど意識しない、あるいは誰かがAIで作成したものを見たり利用するだけ。ChatGPTは自分でAIとやりとりする。それによってAIに直接触れたインパクトは衝撃的。さらにAIを操作する知識や技術は何も必要ない。これこそが本物のブレイクスルーだと感動すらした。

もちろん現状ではまだまだポンコツなところも多い。しかしこれが10年後にどれだけのレベルに達しているかを想像すると、楽しみでもあり空恐ろしくもある。「想像する」とは書いたものの、そう簡単には想像がつかないくらいの可能性を秘めている。

一方で電卓によって桁数の多い暗算がほとんどできなくなり、またワープロを使い始めてからは難しい漢字は読めても書けなくなった。それと同じようにAIに頼れば考える能力が退化してしまいそうな危惧もある。スマホには電卓が内蔵されており、電卓を常に持ち歩いているに等しい。難しい漢字を書けなくなっても手書きをする機会はほとんどないから、たまに恥をかくことはあっても(^^ゞ 実質的には困っていない。それと同じで考えられなくなってもAIが考えてくれれば困らないのか。いやそれは困る困らないの問題なのか。もうそれが問われるまでAIが進化しているのに驚く。


またChatGPTなどの生成AIと呼ばれるものは、大規模言語モデルというプログラムをベースとしている。私が理解している範囲で解説すれば、これは大量の文書を解析し、ある単語の次に来る単語を予測する仕組み。それでどうして文章が書けるのか知らないものの、ある単語と組み合わせる確率の高い単語を選んで、質問に対する回答を「生成」している。

ここで当然の疑問。

    これって考えていることになるのか。
    人工知能は本当に知能なのか。

そしてさらなる疑問。

    人間だってゼロから考えているのではなく、
    過去の蓄積から組み合わせているだけではないのか。

だから、考えるとは、そして知能とは何だといった課題もChatGPTによって突きつけられた気もしている。そんなソクラテスやプラトンがテーマにしそうな問題が身近に起きるとは思ってもみなかった。


ところで以前にAIで描いたローマ皇帝を話題にしたとき、

   「AIによって蘇った信長と光秀の対談が実現!テーマはもちろん本能寺の変。
    司会はブルータスに同じような目に遭わされたカエサル!」なんてのを
    見てみたいなあ

と書いた。ChatGPTを使い、このアナ雪フレディを見ていると、意外とその対談を見られる日は近いのかも知れない。長生きしましょう(^^ゞ

wassho at 21:56|PermalinkComments(0)

2023年11月26日

喉元過ぎれば「暑さ」を忘れよう?

11月7日に東京は27.5度の最高気温を記録。
画像にもあるように100年ぶりの記録更新。画像はtenki.jpより引用
P1


それからたった19日後の本日は、午前9前の気温がわずかに6度。
最高気温は9.5度まで上がったものの、それでも今日はオー寒っ(>_<) な一日だった。
P2


同じ月でざっと20度も違うわけで、寒暖差が月間でそんなに開いたのは今までにもあったのかな。調べてみようと思ったけれど、

 北海道では30度近くになることもある。

 1日の寒暖差が7度以上になると頭痛やめまい、倦怠感など体の不調に陥りやすく
 なり、それに対応する「寒暖差疲労」外来を設置しているクリニックもある。

などがわかった程度で肝心の寒暖差気温データをまとめたものは見つけられず。
自分で集計するのも面倒なので調査はあっさり中止(^^ゞ


ところで寒暖差は名前の通り「差」なので、気温が高くなっても低くなってもその数値は大きくなる。気象庁にデータがある1875年(明治8年)から昨年までの11月の平均最高・最低気温は

   最高気温:16.3度  最低気温:7.6度

だから今回は明らかに最高気温の上昇による寒暖差の拡大。
ちなみにデータを2000年から集計すると

   最高気温:17.3度  最低気温:10.1度

となり最高気温で1度、最低気温で2.5度上昇している。
いわゆる地球温暖化。



その地球温暖化をテーマにしたテレビ番組を最近見た。
それで興味深かったのは日本人は気候変動への意識が低いとの指摘。

番組で使われたのはこんな国際調査データ。
画像はhttps://institute.dentsu.com/articles/2823/から引用
G1

データを見ると気候変動の影響に対して「極度に心配している」または「とても心配している」と回答した人は調査対象11カ国で日本が最も低い。トップのフィリピン84.0%に対して日本は16.4%だから1/5程度の反応。日本の次に低いフィンランドは44.1%なので、それと較べても1/3ほどしかない。


あまりに数値が低いので、やや疑問に思い他の調査も探してみると次のようなものを見つけた。これは文科省所管の科学技術振興機構が2015年に実施したもの。
G2

この調査は

  今年12月にパリで開かれる気候変動枠組条約締約国会議(COP21)
  へ世界各地の市民の声を届けることを目的としたプロジェクトである、
  World Wide Views Climate and Energyが6月6日に、世界96カ所で
  一斉に開かれました。

  約1万人の専門家ではない市民が参加して、世界共通の設問について
  話し合いを行った後、世界共通の選択肢の中から自分の考えに近いものを
  選んで各自が投票を行いました。

とあるからちょっと特殊な調査手法。「約1万人の専門家ではない市民」とあるが、それでもこんなプロジェクトに参加するくらいだから、それなりに環境意識は高い人が対象と思われる。

なのに「とても心配している」が世界全体で79%なのに対して日本は44%。やはり日本人の危機意識は低いのかも知れない。

ただし「ある程度心配している」まで含めればそう変わらない。このあたりをどう判断するかはデータ分析の難しいところ。それは最初のグラフも同じ。


話を前出の番組に戻すと、
日本人の気候変動への意識が低い結果について東京大学の教授が

  日本は失われた30年と言われるように、過去に経済がなかなか厳しい状態に
  あったわけです。ですから、一般市民の方々は、日々の生活や経済状況に非常に
  関心がいってしまって、環境問題の優先順位が下がっているのかなと、
  私は思っています。

とコメントしていた。

ウ〜ンそれはどうかなあ???
最初のグラフで3位に入っているブラジルなんて、2014年から2017年にかけては国家破綻レベルの経済危機だったわけで、それと較べれば日本はそんなに切羽詰まった状況にはまだない。

調査データは結果の数字が一人歩きしがちだけれど、どういう手法を用いたのか、どんな尋ね方をしたのかまで含めて検討しないと分析を間違う場合もある。最初の調査を例に取ると「脅かす」との文言が日本語としてはちょっときつい。

それに実施時期も重要なので、ひょっとして最初のグラフの調査は、日本だけ今日のように寒い日に行ったのチャウかと思ったり(^^ゞ それは冗談としても意識の高いトップ3のフィリピン、インド、ブラジルは暑い国だし、日本に次いで意識の低いフィンランドは寒い国。その国の気象状況によって意識の違いは生まれてくるとの仮説は成り立つかも知れない。


それはさておき、真夏真冬の絶対的な暑さ寒さより、その途中の気温が変化するときに体調を崩しやすいもの。たまに今からダウンを着たら真冬はどうするんだなんていう人もいる。しかし真冬になったら身体は寒さにも慣れているから、そんな心配はまったく不要。

今年の夏、そして11月前半の暑さの記憶はまだ新しいけれど、
喉元過ぎたのだから暖かくして過ごしましょう。

wassho at 22:42|PermalinkComments(0)

2023年11月12日

プレーパークという公園

先日に訪れた渋谷はるのおがわプレーパークは、その名前が示すようにプレーパークに分類される公園。東京では割と見かける形態。ただし運営団体としては最大と思われるNPO法人:日本冒険遊び場づくり協会のホームページによると、全国に351箇所あるプレーパーク所在地のうち首都圏だけで170箇所を占めている。だからそれ以外での地域ではまだあまり馴染みがないのかも知れない。首都圏以外ではなぜか兵庫県が突出して多い。

1所在地

それで具体的に普通の公園あるいは児童公園と何が違うのか。
ウィキペディアには

    従来の公園、既成のブランコ、シーソー、鉄棒などがあるようなお仕着せの
    遊び場と違い、一見無秩序のように見えて、子供たちが想像力で工夫して、
    遊びを作り出すことの出来る遊び場

と書かれている。ブランコ、シーソー、鉄棒などは楽しいので、それを「お仕着せ」と表現するのはどうかと思うゾ。人が見ていなければ私もやりたい(^^ゞ それはさておき、いわゆる公園遊具がないのがプレーパーク第1の特徴。


また上記のNPO法人ではプレーパークを冒険遊び場とも呼んでいる。
その解説には

  冒険遊び場は、子どもが「遊び」をつくる遊び場です。

  そこでは火を使ったり、地面に穴を掘ったり、木に登ったり、
  何かものをつくったり・・・。

  落ち葉やどろんこや自然の素材を使って、
  遊び場にあるスコップや金づちや大鍋を使って、
  自分の「やってみたいと思うこと」を実現していく遊び場です。

  さまざまな遊びが展開されていくので、変化しつづける遊び場ともいえます。

  禁止するのではなく、いっしょに考えてやってみる。

  のびのびと思いきり遊べるこの場所は、
  子どもが生きる力を育むことを支えています。

ーーーとある。

言葉だけでは分からないので上記NPO法人のパンフをにある写真を引用すると

21パンフ1

23パンフ3

24パンフ4


間違いなく楽しそうな雰囲気。遊びの範疇に入るものであれば自由に使える空間を提供しているのが第2の特徴。逆にプレーパークにはこういう遊びをしなければいけないとの決まりはないので「プレーパークで何をしている」かを言葉で定義するのは難しい。下記のリンクは「プレーパーク」を画像検索したもの。子供たちが様々に遊んでいる様子を見てちょうだい。

    プレーパーク画像検索はココをクリック


プレーパークは従来の児童公園ではできなかった遊びを楽しめる反面、それに伴う怪我などのリスクも高くなる。その対策としてプレーパークには公園の管理人であり、遊びのプロデューサー的存在のプレーリーダーやプレーワーカーと呼ばれる人が常駐している。これが第3の特徴。

プレーリーダーには有給とボランティアがいるようだが、常識的に考えてその人材確保は簡単じゃない。だからプレーパークは常時開園ではない。日本冒険遊び場づくり協会のホームページでプレーパークを開催頻度別に検索してみると全351箇所中で

   週に4回以上:39箇所
   週に1〜3回:77箇所
   月に1〜3回:151箇所
   不定期:   72箇所

となる。なぜか合計が339箇所にしかならないが、とにかくいつでも遊べるプレーパークはとても少ないのが現状。また開園時間が午前10時から午後5時までのところが多い。さらに週に4回以上開園しているプレーパークは夏休みや冬休みもある。夏休みに閉まってる公園ってーーー(/o\)

こちらは以前にたまたま休園の日に通りかかった世田谷のプレーパーク。

50DSCF6208

50DSCF6216

52DSCF6218
53DSCF6212

55DSCF6210


普通の児童公園と較べてかなり手間のかかるプレーパークは

   自治体が場所と資金の提供または助成
   NPOなどの団体が運営

の形を取っているものが多いようだ。近隣住民が運営に参加している場合もあるだろう。これが第4の特徴。

なおプレーパークに入場料などはかからないし、会員制でもなく誰でも利用できるのが原則。また先日の渋谷はるのおがわプレーパークは単独したプレーパーク。大きな公園では敷地の一画に「プレーパークエリア」を設けて運用しているところもある。



さてプレーパークで遊ぶ適齢期の子供を持っているわけでもないから、私にとってプレーパークはほとんど縁のない存在。そして今回プレーパークについて少し調べてみた感想を述べると

   とても素晴らしい取り組み
      vs
   そこまで子供の遊びの面倒見なきゃいけないのか

と相反する気持ちになるのが正直なところ。
もちろん後者を声高に叫ぶ勇気はないとしても。


ただプレーパーク設置のような運動を進める人は、そういう環境下で子供を遊ばせるのが、いわゆるノビノビ育つ、スクスク育つのに貢献すると考えているように思える。そしてそれが健全な大人への成長につながると。

しかし私の世代はプレーパークに近い環境が身近にあったけれど、それが後生に影響を与えたか、ましてそれで立派な大人になったかというと絶対にそんなことはない(^^ゞ しょせん遊びなんだからあまり教育的効果は期待しない方がいい。ゲームばかりしているよりは身体的成長を促すくらいじゃないかな。

あるいはプレーパークで遊ぶ子供の親世代は、自分が子供の頃にそういう環境がなかったから憧れや渇望感があるのだろうか。それは昨今のアウトドアブームーーーというより、広場があればすぐテントを張りたがる連中を見ても同じように感じる。


それはさておき、
文明が発展するほど生活が体力的に楽になる。でもそれでは運動不足なるからスポーツをしたり体を鍛えなくちゃならない。それが本末転倒かどうかは別として、同じようなことが子供の遊び場にも現れていると役にも立たない考察。

とりあえずプレーパークで遊べる対象年齢外なのが残念(^^ゞ

wassho at 22:46|PermalinkComments(0)

2023年11月06日

代々木公園の歴史とジャニー喜多川 その2

話をワシントンハイツに戻す。
現在とワシントンハイツがあった頃の航空写真の比較。
20航空写真新旧


代々木に出現したアメリカの街。
画像はhttps://fm-tohnet.sitekitt.com/blog/2229より引用。
21ワシントンハイツ1

これらのクルマはワシントンハイツの外、つまり東京都内を走っていたはずなのに、あまりそういう光景の写真を見たことがない。でも昭和40年代前半まで外車の人気がアメ車>ベンツの時代があったわけで、それは進駐軍が乗り回すアメ車に日本人が憧れを抱いたからだと思う。


終戦直後は日本人が闇市で四苦八苦して買い物していた時代。
しかしここにはスーパーマーケットまで備わっていた。画像はhttp://www.asahi.com/special/sengo/visual/page7.htmlとhttps://friday.kodansha.co.jp/article/63115より引用。
22ワシントンハイツ2



そして「あの」ジャニーさんが、
そんな別世界ワシントンハイツの住人だったと知る。

世間を騒がしている性加害問題については、あまり興味を持っていなくて見出しを読む程度。それでも相当な情報量になるから、いかにこの問題が大量に報じられているかである。騒動が大きくなったのは今年の5月頃から。9月7日と10月2日に記者会見が開かれてからは一挙にマスコミがヒートアップ。後者では特定の記者を指名しないようにする「NGリスト」の存在などもあって炎上に燃料投下。最近ようやくネットニュースを開いたら見出し全部がジャニーズ関連ということがなくなって少しホッとしている。

なので芸能人の皆さん、オイタをするならジャニーズ問題に注目が集まっている今がチャンスですぞ。広末涼子はジャニーさんの墓参りに行くべき(^^ゞ



ところで彼は会話に「You」が入るので有名だし、ジャニーって名前も使っているからアメリカかぶれしたオッサンだと思っていた。しかし実はアメリカ生まれで英語名のJohn Hiromu Kitagawaがその由来。

意外にも父親は高野山の僧侶。ロサンゼルスで1912年(大正元年)から続く高野山米国別院の第3代主監(住職?)を1924年(大正13年)から33年(昭和8年)まで務める。なかなかの人物で日系人社会から慕われ尊敬されていたようだ。また親戚には児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された大谷貴義(たかよし)もいる。大谷は公の場にほとんど姿を現さないので有名ではないものの、彼が亡くなると葬儀委員長を元総理大臣の福田赳夫が務めたのだからその大物ぶりが伺い知れる。

父親の米国赴任中にジャニーさんは1931年(昭和6年)にロサンゼルスで生まれる。そして一家で1933年に帰国後、戦争中は兄弟で和歌山に疎開(前述の大谷氏の実家)。だから彼はアメリカ生まれの関西育ち。

終戦から4年後の1949年(昭和24年)に、同じくアメリカで生まれアメリカ国籍(いわゆる二重国籍)も持っている姉のメリー喜多川、兄の喜多川真一と共に渡米。高校〜短大(コミュニティーカレッジ)へと進む。1952年(昭和27年)に徴兵され朝鮮戦争に従軍。

そして除隊後、アメリカ大使館付きの軍事援助顧問団職員として来日。その関係でワシントンハイツに住んでいたと思われる。正確な時期はわからなかったものの、たぶん1953年か1954年(昭和29年)あたり。ジャニーズ事務所設立は1962年(昭和37年)で、その頃には軍事援助顧問団を辞めていたはずだから、大体7〜8年ほど住んでいたのかな。別の見方をすれば渡米した1949年から1960年頃までの10年間ちょっとは、アメリカ人のジャニー喜多川として生活していた。


軍事援助顧問団でどんな仕事をしていたのかは知らないが、休日には近所の少年30名ほどを集めて野球チームを作りコーチをしていた。えっ、ひょっとしてその頃から子供相手にヤッテタ?(/o\)

そのチームは最初「エラーズ」や「ヘターズ」などのヘンな名前だった。それでは格好悪いのでチームのメンバーだったあおい輝彦が「ジャニーさんのチームだからジャニーズ」と提案してジャニーズ少年野球団となり、それが後のジャニーズ事務所の名前にもつながる。あおい輝彦はジャニーズ少年野球団からジャニーズ事務所所属となり「初代ジャニーズ」を結成した4名のひとり。結果的にはブランド名としてのジャニーズの名付け親ともいえる。


写真はグレーの建物がオリンピックの翌年となる1965年(昭和40年)竣工で、日本初の億ションといわれるコープオリンピア。隣のレンガ色がマンション31。表参道の最も原宿駅寄り、すなわち元ワシントンハイツだった代々木公園のすぐ近くに建っている。

以前はこの両方にジャニーズの合宿所(寮)があったとは知る人ぞ知るだった。事件の影響でもう今は多くの人が知っているかな。 芸能人の寮なのにどうしてこんな目立つ場所にと、昔から思っていたけれどジャニーさんの原点がワシントンハイツだったからかもと想像している。
23コープオリンピア


さてジャニー喜多川とメリー喜多川の姉弟は、アメリカ生まれで英語名も持っていたからジャニーやメリーの名前もそれなりに根拠がある。メリー喜多川の娘である藤島ジュリー景子の国籍はわからなかった。彼女が日本生まれでも、メリーさんがアメリカ国籍を放棄していなければ、アメリカ人の娘としてアメリカ国籍を取得している可能性はある。

ただし日本の法律ではミドルネームを持てない。それでアメリカで生まれたメリーさんはアメリカ国籍にはMary Yasuko Kitagawa、日本国籍には喜多川メリー泰子で出生届けをしたようだ。つまりファーストネームとミドルネームが合体した「メリー泰子」でひとつの名前。将来アメリカ国籍を放棄しても、西洋名があった方が海外で活動する際に便利と考えたからと思われる。後に結婚して本名は藤島メリー泰子。そして娘にも同じ発想で「ジュリー景子」と名付けた。

そんな名前の付け方があるのかと思ったが、考えてみれば日本に帰化したサッカー選手の田中マルクス闘莉王(トゥーリオ)と同じだね。ミドルネームを持つ外国人が日本国籍を取得する際にはよく使われる手法なのかもしれない。なおジャニーさんは日本国籍での届けにJohn Hiromu KitagawaのJohnは使わず、普通に喜多川 擴(ひろむ)としている。だからメリーさんと違ってジャニーは本名じゃなくてニックネーム。両親はどうして姉弟で使い分けたのだろう。


ところでジャニーさんの英語名のJohn。この名前のオリジナルはJohannes(ヨハネ)でその英語読み。Johanneは英語ではジョン、ドイツ語ではヨハン、フランス語ではジャン、イタリア語ではジョバンニである。ヨハン・セバスチャン・バッハとジョン・レノンが実は同じ名前。そのJohnを親しみを込めて呼ぶ場合にJohnny、Johnnieなどとなる。

しかしJohnはジョンだしJohnnyはジョニーのはず。どうしてジャニー喜多川でありジャニーズ事務所なのか。実はJohnやJohnnyの発音はイギリス英語とアメリカ英語では微妙に違う。

  John   イギリス発音:dʒˈɔn   アメリカ発音:dʒάn  
  Johnny  イギリス発音:dʒˈɔni  アメリカ発音:dʒάni  

発音記号では ɔ と ά の違い。カタカナで割り切って書くとイギリス発音がジョンやジョニー、アメリカ発音ではそれがジャンやジャニーになる。彼はアメリカ生まれだからカタカナではジャニーを名乗ったのだと思う。発音を聴き分けたいならここをクリック

そしてこれを確かめるために辞書を引いて初めて知ったのだが、Johnには名前のほかになぜか「トイレや便座」の意味もある。「トイレはどこ?」を「Where is the john?」などと言うらしい。訪ねる相手がジョンさんだったら困るな(^^ゞ

また男性に多い名前だからだろうか「やつ、男」「売春婦の客」を指す言葉としても使われ、そしてなんと
   
     オチンチン

の俗語でもある!

ジャニーはジャンの愛称だから、つまりかわいいオチンチン事務所?
喜多川クンの性癖に忠実な事務所のネーミングになっているじゃないか(^^ゞ
24ビル


久々の下ネタで今回は締めるとしましょう。
シツレイシマシタm(_ _)m



おしまい


追伸
そういえばビッグジョンというジーンズのブランドもあるけどーーー

wassho at 20:51|PermalinkComments(0)

2023年11月04日

代々木公園の歴史とジャニー喜多川

先日、キンモクセイ目当てに訪れたら空振りで秋バラも見頃前だった代々木公園。そこがかつて陸軍の練兵場→米軍接収→オリンピックの選手村を経て公園になったとはそれなりに知っていた。それでもブログを書く前にいろいろ調べていたら、何かと興味深かったので回を改めて書いてみたのが今回のお話。



さて明治神宮と代々木公園は全国的な知名度があっても、訪れたことがなければ、その2つが隣接していると知らない人は多いかも知れない。航空写真で見ればまるでひとつの土地を分割したように思えるが、それぞれ別の成り立ちで現在に至っている。

明治神宮は江戸時代の最初は肥後藩、次いで彦根藩の大名屋敷だった土地。それが1874年(明治7年)に皇室御料地となり、明治天皇が亡くなって1920年(大正9年)に明治神宮が創建された。
1航空写真

代々木公園あたりも江戸時代には大名や旗本の屋敷があったエリア。しかし明治維新以降は茶畑・桑畑となる。江戸は大雑把に町民50万人+武士50万人で100万人都市だった。それが参勤交代で江戸に来ていた大名・武士達がいなくなったから。最大勢力の徳川家臣団も徳川慶喜に従って静岡に移った。明治維新の年に江戸は約4割も人口が減少したともいわれる。

もっとも明治9年には103万人となり100万人台を回復している。この時(1876年)の日本の総人口は3556万人。東京が占める割合は103万人÷3556万人で2.9%。現在の東京人口は1410万人で総人口は1億2434万人だから11.3%。いわゆる東京一極集中。これに千葉・埼玉・神奈川を加えると、現在は総人口の約3割が首都圏で暮らしている。参考までに東京都は47都道府県で3番目に面積が小さく、また首都圏1都3県が全国に占める面積割合は3.6%に過ぎない。


さて明治40年頃(明治は45年まで)になると東京の人口は250万人を超え、江戸の頃よりはるかに人が多くなる。にもかかわらず当時の東京の中心は皇居より東側だったからか、代々木は茶畑・桑畑のままだったようで、1909年(明治42年)に陸軍がその一帯を買い上げて代々木練兵場とした。ちなみに練兵場、今でいうなら軍事演習場は代々木以外に日比谷、青山、駒沢、駒場と都内に5箇所あった。戦前は東京のど真ん中で訓練してたんだ。

そして時代は下って1945年(昭和20年)に日本は太平洋戦争に敗戦。代々木練兵場は連合国に接収され、アメリカ初代大統領の名前を取ってワシントンハイツと呼ばれた進駐軍向けの住居が建てられる。総戸数827戸。

これは西側から撮ったもの。ワシントンハイツの左奥に明治神宮。
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まさにフェンスの向こうのアメリカ。
東京のど真ん中にこんな光景があったなんて。
(クルマのナンバープレートを見ればここが日本だと分かる)。画像はhttps://shibuya90th.magazineworld.jp/history/459/とhttps://transit.ne.jp/2012/08/000547.htmlから引用
WH2

WH3


1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領は終了するものの、同時に発効した日米安保条約によって米軍が引き続き駐留。ワシントンハイツもそのまま使われる。使用期間は無期限だった。

しかし1961年(昭和36年)、3年後の1964年に開催される東京オリンピックの選手村・競技場用地として日本に返還が決まる。返還完了は1964年(昭和39年)8月12日。10月10日からのオリンピック開催59日前。

代々木練兵場=ワシントンハイツの敷地がどこまで広がっていたのか、調べても正確なところはよく分からなかったが、少なくとも現在の

   代々木公園
   国立オリンピック記念青少年総合センター(通称はオリンピックセンター)
   国立代々木競技場
   NHK

は、その範囲に含まれる。

返還が完了した8月12日とは最終的な手続きの話で、引き渡し作業自体はもっと前から始まっていたと思う。それでも代々木競技場の着工はオリンピック前年の1963年2月。1964年7月以降は24時間体制の突貫工事を続け、完成したのはオリンピックの39日前。

NHKはオリンピックの放送センターを設置するため、そして将来の本部予定地として国にワシントンハイツの一部を払い下げるように求めて認められた。現在もここにあるNHK施設全般をNHK放送センターと呼ぶのはその名残なのだろうか。NHKがこちらに完全移転したのは1973年(昭和48年)で、それまでの本部は日比谷にあった。その頃はまだ子供だったしNHKに日比谷のイメージはまったくないなあ。


そして現在の代々木公園と国立オリンピック記念青少年総合センターのエリアはオリンピックの選手村となる。つまり1964年東京オリンピックの選手村は米軍住宅のリフォーム物件。SDGsが叫ばれた2021年の東京オリンピックよりエコだったりして(^^ゞ

ワシントンハイツの返還に伴い、米軍住宅を調布に移転する費用は日本の全額負担であった。金額は90億円。2020年基準の消費者物価指数は1964年が22.5、2023年が102.7である。そして102.7÷22.5=4.6だから、当時の90億円は今の400億円くらいかな。

なお1964年オリンピックの開催経費は265億円。移転費用もオリンピック経費と考えて90億円÷(90億円+265億円)を計算すると、移転費用は全体の25%を占める。

参考までに2021年東京オリンピックの開催経費は1兆4238億円。1964年の265億円を今の価値として4.6倍の1200億円と換算すると、2021年オリンピックは1964年と較べてなんと12倍も費用がかかっている(/o\)


ちょっと話がそれたが、その米軍移転費用の90億円は国と東京都が折半して負担した。それで元陸軍練兵場=国有地の大半を東京都が取得して代々木公園が造られたようだ。元ワシントンハイツの選手村を撤去して、公園が開園したのはオリンピックから3年後の1967年(昭和42年)。私と同世代なら森永チョコボールとリカちゃん人形が発売された年といえばイメージできるかも。

それしても都市環境意識なんてまだ希薄だった時代なのに、これだけの広い面積をよく丸ごと公園にできたものだと感心する。私が東京都知事だったら代々木ヒルズに再開発していた気がするな(^^ゞ




ーーー続く
ジャニーさんの話は次回に

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2023年10月17日

戦隊ヒーローの語源?

原宿で東郷神社の前を通りかかって、そういえば今まで訪れたことがなかったと境内に入る。訪れていたのはわずか20分ほどなのに、東郷平八郎やバルチック艦隊との海戦の話など、あれやこれやで「その6」まで続いたのが前回までのブログ。そして今回はそのスピンオフ編。

まだ、あるんかい!といわれそうだけれど、
神社にも東郷平八郎にもまったく関係はないのでご安心を?



さて話は変わって戦隊ヒーロー。
その初代は1975年(昭和50年)から2年間放送された「秘密戦隊ゴレンジャー」。
1ゴレンジャー

その頃にはこういう番組を見る年代は過ぎていて、でも親戚の子供がファンだったのでアカレンジャー!とかキレンジャー!とか適当に話を合わせていた記憶があるくらい。

だからまったく詳しくないのでウィキペディアで調べてみると、戦隊ヒーローではなくスーパー戦隊というらしい。そして次のような記述があった。

    スーパー戦隊シリーズは、日本の特撮テレビドラマシリーズ。
    ウルトラシリーズ・仮面ライダーシリーズとともに、およそ48年にわたって
    放映されている長寿シリーズである。

ゴレンジャーしか名前は知らなくても、今でも何となく似たようなものがあるとはウスウス気づいていた。しかしシリーズとして、つまりウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマンタロウーーーのように続編として制作されていたとはまったく知らなかった。


ところで記述にある「特撮テレビドラマ」。特撮という言葉を知ったのはウルトラマンで、だからアレは間違いなく特撮だとして、仮面ライダーが特撮といわれるとどうもピンとこない。戦隊モノは見たことはないが仮面ライダーと同じジャンルとの認識。その違いは

    ウルトラマンや怪獣は巨大
    仮面ライダーや戦隊ヒーローは人間と同じサイズ

だからウルトラマンや怪獣が登場するときは風景がミニチュアで作ったセット。飛行機やロケットなんかもミニチュア。そんなのが特撮のイメージ。おそらく世代によって特撮と聞いて思い浮かべるイメージは違うのだろう。


さてゴレンジャーから20年後の
1995年(平成7年)から放送されたのが「超力戦隊オーレンジャー」。
2オーレンジャー


そして現在放送されている「王様戦隊キングオージャー」はこれで第47代目となる戦隊ヒーロー。色違いのスーツを着てマスクを付けての基本パターンは変わらず。
3キングオージャー


またテレビドラマだけじゃなく「ご当地戦隊ヒーロー」が各地で町おこしに一役買っているとのニュースもたまに見る。

西船橋の平和を守るニコふな戦隊 「ニコレンジャー」。画像はhttps://myfuna.net/archives/myfunanews/myfuna20141101151554から引用
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こちらは江戸川区の「エドレンジャー」でけっこう本格的。画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/18456から引用
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ご当地戦隊ヒーローが集まるイベントがあったり、画像はhttps://otakei.otakuma.net/archives/2016091602.htmlから引用
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戦隊ヒーローになれるコスプレも売られている(^^ゞ  
ちなみに5体分で1万7700円。画像はhttps://item.rakuten.co.jp/p-kaneko/se5001--4347abqm/から引用
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ーーーと戦隊ヒーローはすっかり日本の文化に根付いた存在。
ところで戦隊って何? 考えたことある?
もちろん私も戦隊の意味を今まで疑問に思ったりはしなかった。


ここで話は「東郷神社を初訪問 その3 バルチック艦隊と連合艦隊」のブログに戻る。この回では日露戦争で戦ったバルチック艦隊が正式な所属としてはロシアの太平洋艦隊であったとか、旧日本軍でよく耳にする連合艦隊とは、実質的にオール日本海軍と同じ意味などの話を書いている。

その時にいろいろ調べていて

    艦隊とは海軍の部隊単位で一番大きなもの

との定義。それは何となくそう認識していたものの、その次に艦隊を構成する単位として「戦隊」があったと初めて知った。表は太平洋戦争開戦時の旧日本海軍第1艦隊の編成。

8編成

戦隊の細かな定義や陸軍・空軍での違いとかは長くなるので省略。とにかく「戦隊」が軍事用語からの転用だったのが意外。


ところが「戦隊ヒーローの戦隊とは」「戦隊ヒーローの戦隊の語源」などネット検索してもヒットせず、戦隊ヒーローの解説として次のように辞書サイトで掲載されているのみ。

  weblio辞書:特撮番組で、数人で構成される戦隊を組み〜

見事に戦隊そのものの説明はスルー。
まあ誰も気にしていないとよく分かった。

もっとも初代ゴレンジャーの作者が、軍事用語としての戦隊からネーミングを引っ張ってきたかは不明。戦うヒーローの集まり=部隊だからとの発想だった可能性もある。厳密には部隊も軍事用語だけれど一般名詞化しているし。


子供向け番組に軍事用語を使うのはケシカランと批判するつもりはまったくない。いろんなところに軍事用語からの転用は多く見られる。おそらく100くらいは知らずに使っているはず。ビジネスでもよく使われる「戦略」が元は軍事用語だとは多くの人が知っているだろう。実はターゲットやインパクトやキャンペーンもそうである。「地雷を踏む」なんて新しく考え出された比喩もある。


というわけで戦隊ヒーローの語源は軍事用語だったかも知れないと、
だったら、それがどうしたなお話 m(_ _)m

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2023年10月11日

東郷神社を初訪問 その6 イケメン

「その4」に書いたように、東郷平八郎が指揮した日本海海戦は圧倒的な勝利に終わった。連合艦隊出撃108隻で沈められたのは主力でない小型艦艇わずか3隻。一方のバルチック艦隊は38隻のうち自沈を含めて21隻が沈んでいる。沈没率を計算すると3%対55%。戦闘は2日間にわたって繰り広げられたが、実際には開戦後30分であらかたの決着がつき、それ以降は「落ち武者狩り」のような状況だったとされる。

また陸戦でも相当な損害を出したもののロシア軍が立てこもっていた旅順を陥落させ、続く奉天の会戦でもロシア軍は撤退。なお時系列的には旅順→奉天→日本海の順。最終的にアメリカの仲介を受けて1905年(明治38年)9月5日に講和が成り立つ。授業で習った記憶のあるポーツマス条約。これで約1年と7ヶ月続いた日露戦争が終結。

日本は戦争での国力消耗がほぼ限界で、またロシアは革命が起きて国内が混乱するなど、双方にとってちょうどいい潮時のタイミングだったのかも知れない。講和=手打ちになっただけで、太平洋戦争での日本のようにロシアが降伏したわけではないのだが、全世界的にこの戦争は日本の勝利と認識された。


そして日露戦争で日本が勝ったニュースは各国に衝撃を与える。
それは

    小国日本が大国ロシアに勝った(面積の話じゃなく国力の差)
    黄色人種が白人に勝った

から。

その受け止め方は各国の状況に応じて様々。

   イギリス:ロシアと対立していたので「ロシアざまあ」な反応。
        日英同盟を結んでいたイギリスは、バルチック艦隊の補給を
        妨害するなど陰に日向に日本を支援していて、
        その協力がなければ日本海海戦の勝利もなかったとされる。

        ただし日本が勝つとは思っておらず、最後は自らが仲介に乗り出して
        漁夫の利で中国の利権を拡大しようと考えていたので、ちょっと
        ガッカリしたとも。

   フランス:ロシアとつながりが深かったので悲観ムード。

   アメリカ:日本の海軍力に警戒感を強める。

そして欧米列強の支配を受けていたアジアの国々では大絶賛! また後年に数多くの政治指導者が「日露戦争での日本の勝利が励ましになった」との言葉を残している。一例を挙げるとネルー(インド初代首相)、孫文(中国革命の父)、バー・モウ(ビルマの独立指導者)、ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの独立指導者)など。ただしやがて日本が東南アジアを支配するようになってガッカリさせてしまうのだが。

最も熱狂的に日露戦争勝利を喜んだのはトルコ(この頃はオスマン帝国)。それは当時トルコがロシアの属領になっていたから。上は皇帝から下は庶民まで日本を応援したといわれる。そして子供の名前にトーゴーと付ける人まで多くいたとか。でも東郷は苗字だから、名付けるならヘイハチローなんだけどな(^^ゞ

話はそれるが東郷=TOGOは分解するとto go。toは発音がtwoに似ている。それでイギリス留学時代に寄宿舎で one go, two go, three goとからかわれていたとの記録を読んだ。面白そうなエピソードなのに、何と訳していいのか分からない(/o\)

なおto goはハンバーガーなどのお持ち帰りでも使う。テイクアウトはまったくの和製英語。それにしてもいかにも英語っぽい和製英語を誰が考えたのだろう。

ついでにプーチンはPutinでput inに分解できる。put inは中に入れる、挿入するとの意味があり、英語圏ではput in Putinと罵っているとかいないとか。日本語訳は書かないけれどジャニー喜多川さんがやってらっしゃった行為です(^^ゞ



さて
その日露戦争後も東郷平八郎の名声・人気は衰えることなく、米国タイム誌の表紙に日本人として初めて選ばれる。日露戦争終戦から25年後の1926年(昭和元年)の発行。
1タイム誌

ちなみにタイム誌で過去に日本人が表紙を飾ったのは41回。ただし昭和天皇の6回など重複を除外し、さらに不特定多数の人物として取り上げられた例を除くと「カバーパーソン」となった日本人は31名。タイム誌は週刊誌で創刊は1923年3月3日。単純計算では今までに5249号を発行しているから日本人の存在感は超希薄。41回で計算しても登場率わずかに0.8%である。だからニュース雑誌タイムの表紙になると日本ではそれがニュースになる。なお31名には含まれていないがポケモンの号もあった。

また今年の5月にタイム誌の表紙を飾ったと話題になった岸田総理であるが、彼が掲載されたのは本国のタイム誌ではなくアジア版。過去3回掲載された安倍元総理も同じ。アジア版の表紙になった日本人は25名。

アジア版の創刊がいつなのかなぜかネットで調べてもヒットしなかった。ChatGPTに尋ねても同様だったが、英語で質問すると1993年と回答。ChatGPTしかソースがないのは不安だけれど、とりあえず1993年として、日付は中間を採って7月1日で計算すると現在までに1579号。アジア版でもダメダメな日本人(>_<)

ところで写真で見る東郷平八郎は次のようなものが多いかな。
2元帥写真

左の写真は元帥と書かれているから65歳以上で撮られたもの。それ以前の写真に但し書きを入れた可能性もあるが。詳しい人なら勲章などで判断できるはず。それはともかく実にカッコイイし威厳がある。右側は同時期の撮影と思われるが、撮り方の影響なのか姿勢にやや年齢を感じる。カメラマンの腕前は大事だね。そして足元のマットはなくていいと思うゾ。


こちらはもっと若い頃。といっても制服の袖にラインが5本あるから大将の階級になってからのもの。そういう軍事オタク的知識はないものの、上の写真もラインが5本で、日本の元帥は階級としては大将だからとの判断。だとすると東郷平八郎が大将になったのは1904年で57歳だから、それ以降の撮影。明治時代の人にしては歳を取っても老け込んでいない印象。
3壮年

めちゃイケメンなのに驚く。
そしてこの写真に着色したものを見つけた。

少し前の映画スターで、
これ以上にカッコよかった人はいた?レベル。画像はhttps://twitter.com/DigitalMixComp/status/1232291326714007552から引用
4カラー

白黒でも顔は同じなのに、
カラーになるとリアルになってインパクトを増すものだと改めて感心したしだい。



お待たせしました!(誰も待っていないか)
よ〜〜〜やく東郷神社に話が戻るm(_ _)m


社殿エリアを離れて入口に戻る。東郷記念館コッチの案内があった。
これは資料館じゃなくレストランや結婚式場の施設なのでスルー。
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鳥居まで向かう途中に庭園エリアがあるので、そちらに。
31IMG_3155

写真を拡大すると狛犬がやたらカクカクしているのが分かる。
これは狛犬ではなく獅子らしい。

獅子(しし)とはライオンがベースの架空の生物。実は狛犬(コマイヌ)も犬ベースの架空の生物。そして狛犬のルーツは獅子なのでまあ似たようなもの。


庭園には大きな池がある。
32IMG_3157

写真に写っている7名の内、浴衣を着ている女性を含めて4名は白人。他にもチラホラ見かけた。東郷神社は外国人に人気があるみたい。


池の後ろにあるのが東郷記念館。
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周りを高いビルに囲まれてはいても、
明治通り・竹下通りの喧噪を忘れ去れる都会のオアシス的な場所。
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喧噪から静寂へのワープ感覚という点では、すぐ近くの明治神宮にもちろん適わない。しかし明治神宮は広すぎて時間が掛かるから、原宿にいて手っ取り早く静寂に浸りたいなら東郷神社がオススメ。



<おまけ>
別に東郷平八郎ファンでも何でもないのだが、
彼ゆかりの場所には今まで他に2箇所訪れている。

まず2011年、バイクツーリングで立ち寄った三笠公園。
ここには日本海海戦で東郷が乗艦した戦艦三笠が保存されている。
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記念艦として保存されたのは大正14年(1925年)。その後いろいろあって戦後はダンスホールや水族館などの施設になり、大砲や船の上部構造などは取り除かれている。
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それが復元されたのは1961年(昭和36年)。外観はハリボテ感を隠せないところが見られるものの、船の内部も見学できるのでソコソコは楽しめる。
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当時のブログページには ↓ から。
三笠公園について書いているのはページ後半。

   「ブラブラと横浜・横須賀〜三崎


次は2021年に、しだれ桜を見に出かけた調布市にある東郷寺。
東郷平八郎の別荘地跡に建てられたお寺で、彼とは直接の関係はない。

ここのしだれ桜はとても素晴らしい。
この景色が東京とは思えないでしょ。
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当時のブログページには ↓ から。

   「東郷寺でしだれ桜
   「東郷寺でしだれ桜 その2
   「東郷寺でしだれ桜 その3





おしまい

wassho at 22:33|PermalinkComments(0)

2023年10月09日

東郷神社を初訪問 その5 プロフィールと国葬

さて無駄にあれこれ書いてきたここまでのブログ。
まだまだ続いて(^^ゞ
今回はこの神社に祀られている東郷平八郎のプロフィールから。


生まれたのは明治維新(1868年)の21年前、まだ江戸時代だった1848年(弘化4年)に鹿児島で武家の四男として生まれる。つまり長じては薩摩藩士。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。戊辰戦争では軍艦に乗って新潟や函館で旧幕府軍と戦っているから生粋の海軍軍人。15歳の初陣である薩英戦争だって、イギリス軍艦の艦砲射撃vs薩摩の陸地に設置した大砲の戦いなので半分は海戦みたいなもの。

その後、1871年(明治4年)から1878年まで、海軍士官としてイギリスに留学。留学には西郷隆盛の口添えがあったとの話も。西郷は1877年(明治10年)に明治政府に対して西南戦争を起こし最終的には敗れて自害。もし留学していなかったら西郷の元にはせ参じたと本人が言っている。このあたりは歴史に if があったらと思ってしまう。

イギリス留学時代の東郷平八郎。
留学時代


1894年(明治27年)から1895年の日清戦争では、艦長として巡洋艦「浪花」を指揮する。当時46歳、階級は大佐で戦争途中に少将に昇進。

日露戦争前年の1903年(明治36年)連合艦隊司令長官に任命される。当時56歳、階級は中将。連合艦隊司令長官は海軍大臣、軍令部長と共に海軍3長官と称されていたので、東郷平八郎は海軍のトップに上り詰めたことになる。日本海海戦1年前の1904年に大将に昇進。

トップが3人いるとは複雑だが、海軍大臣は内閣の一員で、大臣が率いる海軍省は軍政(軍事行政)が担当業務。明治憲法下で軍は内閣からは独立した存在で最高司令官は天皇。その直属機関を海軍では軍令部と呼ぶ。軍令とは軍政の対義語で軍事行動そのものに関わる業務。軍令部の最高責任者が軍令部長(後に軍令部総長に名称変更)。

陸軍で同じ機能を持つのが参謀本部。陸軍と海軍で名前が違うのがややこしい。そして平時には陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ運営されたが、戦時にそれを一元化したのが大本営。ちなみに昔の武将がいる時代の戦(いくさ)では、周りを幕で囲った場所に総大将などが陣取って軍議を開いた。その場所を本営または本陣と呼ぶ。たぶん大本営の語源もそこから。

さて軍令部長と連合艦隊司令長官は言ってみれば本部と現場のトップ。本部のほうが権力がありそうだけれど、艦隊は長期間に渡り航海をする。今と違ってそう簡単に連絡も取れないから必然的に現場判断が増える。それで軍令部長より連合艦隊司令長官、あるは軍令部より連合艦隊司令部のほうが発言力が大きかったようだ。なお東郷平八郎は日露戦争後に軍令部長に就任している。


彼がいつ退役したのか分からなかったものの、1913年(大正2年)に元帥(げんすい)になっているから、それ以降となる。1913年は65歳の歳。大将の上の階級に元帥を置く国もある。しかし日本の元帥は階級ではなく、大将階級の中で特に功績があったものに贈られる名誉称号のような位置づけ。旧日本軍には陸海併せて31名の元帥がいて、死後に元帥の称号を追贈された人も多い。なお元帥になることを元帥府に列せられるととも表現する。元帥府とは元帥によって構成される天皇の軍事に関する顧問団。また天皇は大元帥。

ただし元帥は英語でマーシャルだが、東郷平八郎は海外ではアドミラル東郷と呼ばれている。アドミラルとは提督の意味。つまり東郷元帥ではなく東郷提督。それは海外の海軍では将官(少将、中将、大将)以上(元帥を含む)の総称として提督と呼ぶ習わしがあるから。旧日本軍で提督の名称は使われていなかった。また提督は陸軍では使わず海軍だけなので、何となく元帥は陸軍、提督は海軍のイメージもある。
アドミラル東郷



1934年(昭和9年)5月30日に86歳で亡くなる。当時としてはかなり長生きかと。
そして6月5日に国葬が営まれる。
国葬1

国葬2

国葬3

それにしても国葬までの期間が短い。国葬ともなればいろいろと多岐にわたる準備や調整が必要なはずなのに、ほとんど普通の葬式と変わりないのにビックリ。あるいは「もうそろそろだから」と準備していたのだろうか? だとしても記録を読むと、東郷が体調の異変を感じ始めたのは亡くなる前年の秋頃。ただし医師の診察を受けたのは亡くなった月である5月になってからで、病名は咽頭がん(いんとう=ノドのガン)。既に重篤な状態だったというが、そこから慌てて準備を開始したことになる。(診断時期については諸説あり)

国葬にはイギリス海軍支那艦隊、アメリカ海軍アジア艦隊、フランス海軍極東艦隊、イタリア海軍東洋艦隊、中華民国艦隊の巡洋艦が訪日して儀仗隊を参列させている。それだけ大規模なものだったし、また東郷平八郎の名声が各国海軍に鳴り響いていたのを伺わせる。


ちなみに今まで国葬(大喪の礼と事実上の国葬や準国葬を含む)となったのは大久保利通から安倍晋三まで29名。時代区分では明治:11名、大正:9名、昭和戦前:5名、戦後:4名。肩書き別では

  天皇・皇后 6名
  韓国皇帝 2名
  旧藩主 3名
  政治家 8名
  皇族軍人 6名
  元軍人の政治家 2名 (大山巌、山県有朋)
  軍人 2名 (東郷平八郎、山本五十六)

純粋な軍人では東郷平八郎と山本五十六だけで、いかに功績が認められていたかの証し。


ところで安倍晋三の時に「国葬か国葬儀か」でひと悶着あった。国葬だと反発もあるから「国葬儀」とのヘリクツをひねり出したと思っていたが、実は吉田茂も国葬儀だと知った。あの頃、そんなことは報道されていたかな?

  戦前:国葬令という勅令(議会を通さず天皇が発令した法的効力のある命令)で
    「国葬」が位置づけられていた。

     参考までに前述した軍令部も、議会を通さず法的効力のある軍令を発令した。

  戦後:国葬令は1947年(昭和22年)に失効。
     安倍さんの葬儀は内閣府設置法に基づく国の儀式として執り行うとの解釈。
     だから国葬じゃなく国葬儀。

しかし内閣府設置法(内閣じゃなくて内閣府ね)の施行は2001年(平成13年)。では吉田茂の時は? 吉田茂の国葬(1967年 昭和42年)の翌年に発行された総理府(旧内閣府)発行の公文書は「故吉田茂国葬儀記録」となっている。またこんな記録写真も。
吉田茂1

吉田茂2


いったいどんな法的根拠に基づく国葬儀だったのか?
調べてみるとどうやら「超法規的対応」だったらしい。チャンチャン(^^ゞ
この時も国葬と呼ぶ法的根拠がないから国葬儀としたのだろう。

なお戦後に実施された4名のうち吉田茂と安倍晋三以外の国葬は、貞明皇后(大正天皇の皇后)と昭和天皇なので大喪儀と大喪の礼。大喪の礼は皇室典範という法律に規定があっても、大喪儀は皇室の私的行事の扱いで法的根拠はないみたいだ。



ーーー続く
次回こそ終わる予定 m(_ _)m

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2023年10月06日

東郷神社を初訪問 その4 東郷ターン

前回のブログ内容が東郷神社から離れてしまったのは、日露戦争や日本とはまったく関係のないアメリカの戦争アクション系映画を観て、現在でも米海軍の研修で東郷平八郎が日本海海戦で用いた「東郷ターン」が取り上げられていると知った話を書いたから。

それでしつこくその続き(^^ゞ


昔の大規模な艦隊同士の海戦では、それぞれが縦1列の陣形の場合(単縦陣という)に、主に3つの交戦パターンがあった。
1

   同航戦:同じ方向に進みながら大砲を撃つ 平航戦とも言う
   反航戦:反対方向にすれ違いながら大砲を撃つ
   T字戦:敵の進路を塞ぐような位置を取って大砲を撃つ

同航戦は敵艦との速度が同じなら普通に狙って撃てばいいので命中率は高い。もちろん敵から命中される率も高くなる。反航戦は離れながら撃つ=大砲が届くときの敵艦の位置を推測して撃たなければいけないので命中率は下がる。そしてT字戦については次のように説明される。

ここれは日本海海戦で旗艦(司令官の乗る船)だった戦艦三笠のプラモデル。本物の全長は132メートル。画像はhttp://www.hasegawa-model.co.jp/product/z21/から引用
2三笠

前と後ろの甲板に主砲、船のサイドに副砲が並んでいる。資料によれば副砲は片側に大小併せて15門が装備されている。そして主砲は左右に回転する。どれくらいの角度まで回転するのかよく知らないのだが、とりあえず90度回転つまり真横までは向けられるとする。

するとT字戦で横側になった艦隊(上の図では赤)は、船の反対側の副砲を除いて全砲門を使えるのに対し、縦側の艦隊(図では青)は前部の主砲しか使えないから不利となる。この説明にはいろいろと分からないところや疑問に思うところもあるものの、それを書き出すと長くなるので、とりあえず横側になれば有利としておこう。

ただT字戦は高度な操船、艦隊の統率が要求されるのは素人でも分かる。それはドンピシャのタイミングでT字を作らなければならないから。タイミングが早すぎるとすり抜けられるし、タイミングが遅いと逆に自分が縦に突っ込む位置取りになってしまう。

3


さてバルチック艦隊の太平洋艦隊(前回ブログ参照)は、
次のような航路で遠路はるばる日本海までやって来た。

4バルチック艦隊航路

  1904年(明治37年)10月15日 第2艦隊がバルト海を出航。
  本隊はアフリカ大陸を回ってマダガスカルを目指す(青いライン)。
  地図では分かりにくいがオレンジのラインの支隊は地中海からスエズ運河を抜けて
  マダガスカルへ。途中で黒海からの船とも合流する。
  本隊が遠回りしたのは船が大きくてスエズ運河を通れなかったから。

  マダガスカル到着は支隊が12月30日、本隊が翌年1905年1月9日

  1905年2月15日 第3艦隊がバルト海を出航(赤いライン)。

  3月16日 第2艦隊がマダガスカルを出航

  4月14日 第2艦隊がベトナムに到着
  5月9日  第3艦隊がベトナムに到着して第2艦隊と合流する

  5月14日 両艦隊でベトナムを出航

そして5月27日から28日に掛けて対馬沖で日本海海戦となる。

日本海海戦はバルチック艦隊が7ヶ月も航海を続け、日本海に入ったときはヘロヘロだったから連合艦隊は勝てたと書かれているものもある。しかし第2艦隊はマダガスカルで3ヶ月、ベトナムで1ヶ月も停泊している。後発の第3艦隊にしてもベトナムで5日間ほどの休息期間があった。もちろん5日でリフレッシュできたかとの疑問は残るが。

それよりも航海途中に燃料や食糧は補給できても砲弾は手に入らないだろうから、ほとんど訓練をしていなかったんじゃないかな。バルト海を出航して日本海海戦を戦うまでに第2艦隊は7ヶ月、第3艦隊は3ヶ月がたっている。ゴルフでも何ヶ月もクラブを握らずいきなりコースに出たらそりゃ厳しい。


さてウラジオストックには行かせまいと、対馬沖で待ち構えていた東郷平八郎率いる連合艦隊は、事前に陣形について次の作戦を決定していた。

  バルチック艦隊が単縦陣で来たならT字戦法 当時は丁(てい)字
  そうでなければZ字戦法          当時は乙(おつ)字

Z字戦法についてよく理解していない。ただしZとはジグザクを意味しているようで、要はそれぞれバラバラで臨機応変に対処という戦法だろうか。


T字戦法はおそらくはある程度離れたところで旋回して、
バルチック艦隊の前に出るつもりだったと思われる。
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ところがバルチック艦隊を発見したときは、すでにかなり接近した状態になっていた。この時代はレーダーや飛行機はまだない。偵察の船を何隻か前方に展開して、その目撃情報を元に進路を予想していたが(モールス信号による無線連絡は実用化されていた)、どうやら不正確な情報だったらしい。
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このまま進めば反航戦になる。反航戦は命中率が低いからバルチック艦隊に逃げられる可能性が高い。彼らの目的は前回に書いたように、まずウラジオストックへの入港で、この時点で連合艦隊を叩くことじゃない。逆に連合艦隊にとってここで取り逃がせば、それは引き分けではなく負けに等しい。

それで東郷平八郎は艦隊を急旋回させて、強引にT字戦法にもっていった。この旋回が「東郷ターン」。東郷ターンはTOGO Turnとして海外で広まったネーミングで、当時は敵前大回頭と呼んでいた。

これは日本海海戦の航跡をすべて示したロシア側の記録。
素人には判別できないので、
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こちらが開戦直後の概略図。画像はhttps://www.jiji.com/jc/v4?id=20101224battle_of_tsushima0009より引用
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そのまま左旋回するとバルチック艦隊の右側に出てしまうため、距離を取るため一旦右旋回してからUターンするように左旋回してT字ポジションを作ろうとしている。相当にトリッキーな動き。東郷ターンとは一般に2度目の左旋回を指す。しかしまるでフェイントのような最初の右旋回も含めてそう呼ぶべきな気がする。ただしあくまで素人見解。

そして東郷はバルチック艦隊との距離8000mで左旋回の指示を出した。8000mは大砲の射程距離内である。旋回中は大砲を撃てないらしく(理由は知らない)航行速度も落ちるから格好の標的になる。実際かなりの砲撃を受けたようだ。

しかし相手の意表を突く作戦を、鍛え上げた艦隊の操艦練度をもって実行し、そして何より成功させた。だからこそ東郷ターンが世界の海戦史上の奇跡と評価され、その名が海外でも語り継がれたのだと思われる。


ただしバルチック艦隊だってむざむざT字戦法に引っ掛かるほどバカじゃないから、それを回避するために右方向に進路を転換している。だからT字戦法はなかった、その形になったとしても数分のことじゃないか、ほとんどは同航戦だろとの批評は多くある。東郷ターンも単なるバクチと見なされたり。

またこの日本海海戦の9ヶ月ほど前、日露戦争の開始からは6ヶ月後の1904年(明治37年)8月に、連合艦隊とロシアの太平洋艦隊(旅順艦隊)が相まみえた黄海海戦があった。そこでもT字戦法を仕掛けたのだが見事にかわされて失敗する。しかも2回も(/o\) この時の司令長官も東郷平八郎。

その黄海海戦での「失敗に終わったT字戦法」は海軍が作成した戦史に記載されている。なのに日本海海戦で「大成功したT字戦法」は載っていないらしい。ネットで得られた情報だから真偽は確認していないが、そんなところも日本海海戦でT字戦法は使われていないと疑われている理由になっているようだ。

前々回に東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると書いた。おそらく東郷ターンもそうだろう。話を盛るのはプロパガンダではありがちだけれど、日露戦争は講和条約で賠償金も取れずに国民の不満が爆発した。いわゆる戦争で勝って外交で負けた展開。それで国民の気をそらすため血湧き肉躍る武勇伝とヒーローが必要だったのかも知れない。なんたってZ旗とT字である。アルファベットなんて明治の人にはとてもインパクトがあったと思う。


参考までに日本海海戦に参加したのは

  連合艦隊

    戦艦(大型の戦闘艦):4隻
    巡洋艦(中型の戦闘艦):24隻
    駆逐艦(小型の戦闘艦)21隻
    小計49隻 
    その他59隻 合計108隻

  バルチック艦隊

    戦艦(大型の戦闘艦):8隻
    巡洋艦(中型の戦闘艦):12隻
    駆逐艦(小型の戦闘艦)9隻
    小計29隻 
    その他9隻 合計38隻

何だ、日本が数で圧倒しているじゃないか、東郷ターンなどなくても普通に戦って勝てたのではと思われるだろう。私もそう思ったが当時は戦艦の数で勝敗が決まると言われていたらしく、数の上では劣勢な戦いとされた。

そして、その結果は

  連合艦隊

    その他59隻に分類した小型艦艇3隻が撃沈
    戦死117名、戦傷583名

  バルチック艦隊

    全38隻中16隻が撃沈、捕獲を避けるための自沈5隻(沈没合計21隻)
    連合艦隊に拿捕されたのが6隻
    中立国に逃げ込んだのが6隻(清やアメリカ領フィリピンなど)
    本国へ帰還したのが2隻
    ウラジオストックまで到達できたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻の3隻のみ
    戦死4830名、捕虜6106名

東郷ターンよるものかどうかは別として、まさに歴史的大勝利。ただし日露戦争トータルでの戦没者数は日本が8万8429名、ロシアが8万1210名とほぼ同じ。合掌



実は東郷神社にいたのはたった20分ほどなのだけれど、
ブログはまだ続く(^^ゞ
次回は東郷平八郎の話題に戻る予定。

wassho at 23:48|PermalinkComments(0)

2023年10月04日

東郷神社を初訪問 その3 バルチック艦隊と連合艦隊

Z旗の描かれたノボリがある階段の近くから、
レリーフのあった門の方向。
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9月終盤のこの日も最高気温は30度を超えていたものの、
空にはしっかり秋のうろこ雲。上空はもう涼しいみたい。
そしてビルの窓に映る雲がなかなかイイ感じ。


大きな神社だと神様を祀ってある本殿と、お参りをするための拝殿が分かれている場合が多い。東郷神社は外から見る限りひとつの建物のようだ。その場合は何と呼べばいいの?
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とりあえず社殿と呼ぶか。そこにも前回で紹介したZ旗が掲げられている。しかもけっこう大きななサイズで。もし何も由緒を知らなくてこの神社を訪れて、そしてそれが船舶関係者だったら「どうしてタグボートが必要なのだ?」と思うのかな(^^ゞ


この神社に祀られているのは何度も書いてきた東郷平八郎。授業で日露戦争は習うので、彼の名前は乃木希典(まれすけ)とセットで中学生の頃から知っている。でも特に興味を持っていたわけじゃない。単なる教科書に載っていた人扱い。

しかしいつだったか覚えていないものの、海外の戦争アクション系映画を観てたときのこと。アメリカ海軍(たぶん)で新入り将校が研修を受けているようなシーンがあった。そこでは敵味方の軍艦の動きが図で示されていて「そしてこれがかの有名な東郷ターンだ」と教官が説明していた。

東郷ターンについてはその時まで知らなかった。しかし、そういえば教科書には書かれていなかったけれど、先生が日本はすごい作戦で日本海海戦に勝利したとか熱心に話してくれたのを思い出した。

その映画の時代設定は現在で、また日本はまったく登場しないストーリー。だから明治時代の日露戦争でとった戦法が、今でも教材となっているのにちょっとビックリした。日本人が思っている以上に、東郷平八郎とバルチック艦隊との戦いは世界の海軍では語り継がれているみたい。外国軍隊の教科書に名前が載っている日本軍人は彼くらいかも知れない。



ところで今の若者には日本がアメリカと戦争したのを知らない者もいると、報道ではなくマスコミの小ネタ扱いで掲載されることがたまにある。もちろん現在でも義務教育の授業で教えているはず。授業をサボったり、習ったのを忘れていたり、単にアホで理解できなかったりする連中はいつの時代でも一定数いるとしても、それが若者の学力平均値だとは思っていない。

でも日清・日露の戦争まで遡ると、その名前を覚えている程度で、どんな戦争だったかを理解していない人のほうが多いだろう。以前に1人だけ、なんと日露戦争で日本がモスクワに攻め込んだと勘違いしている人に出会った経験もある(/o\) もっとも太平洋戦争が起きた背景だってキチンと説明できる人は少ないが。


そこで東郷平八郎ついでに、
超オオザッパに歴史のおさらいを。

【日清戦争 1894年(明治27年)〜1895年)】

明治維新から四半世紀がたって、国力を増してきた日本が朝鮮半島に縄張りを広げようとしたら「そこのシマは代々ウチの組のものやけん」と頭にきた清(しん:現在の中国)とドンパチになる。

主な戦場は朝鮮半島と、その隣の遼東半島など。
首都である北京までは攻めていないよ。

結果は日本のほぼ完勝。朝鮮半島から清を追い出し、また清から遼東半島、台湾などを譲り受け、さらに巨額の賠償金も獲得した。

ついこの間までちょんまげを結っていた日本なのに、衰えつつあるとはいえ大国の清に勝ったのをきっかけに日本の国際的地位が向上する。見方を変えれば警戒されるようになる。


【日露戦争 1904年(明治37年)〜1905年】

日清戦争で獲得した遼東半島であるが、その翌年、自らも清に縄張りを広げようと計画していたフランス、ドイツ、ロシアに「日本の他国への進出はその地域の平和を脅かす」と難癖を付けられて清に返還となる。いわゆる三国干渉。

遼東半島は満州に属する。満州の名前は知っていても、場所はどこだったっけ?人のために地図を載せておく。いわゆる中国の東北部。面積は約120万平方キロで、日本は約38万平方キロだから3倍以上の広さ。
1満州

そこを目指してロシアがチャッカリと南下。満州の隣は朝鮮半島だから見過ごすわけにはいかず勃発したのが日露戦争。だからこの時は日露両国ともアウェイでの戦い。清にしてみれば自国領土で勝手に他国が戦争している状況。しかも原因は自国領土の奪い合い。両方ともクタバレと思っていたに違いない。

朝鮮半島でもドンパチはあったものの、メインは満州南部の奉天や遼東半島。激戦地となったのが遼東半島の最西端にある旅順。映画やドラマのタイトルにもなってよく名前を聞く203高地は、旅順から2kmほど離れた海抜203メートルの丘陵地。高地と呼ぶには大げさに思えるが。海抜203メートルが名前の由来で、そのあたりに高地がたくさんあって、その203番目じゃないよ。


極東でロシア海軍の本拠地はウラジオストック。しかし日本との開戦が予想より早かったので規模が不十分。また日本海軍との戦いで弱体化し、日本海と黄海の制海権は日本が握っていた。そこでロシア本国(本国という表現はおかしいが、まあ首都からは遠く離れているので)から勢力拡大のために派遣されてきたのがバルチック艦隊。
2旅順

だから彼らはまずウラジオストックに入るのが第1の目的。元からいる艦船と体制を立て直して日本海軍を牽制すれば、旅順で戦っているロシア陸軍の側面支援にもなるとの戦略。


ところでバルチック艦隊の名前は知っていても、その意味まで把握している人は少ない。バルチックとはバルト海のこと。英語で書くとBaltic Sea。日本語でバルチック海なんて言わないからバルト艦隊でよさそうなものだが、なぜかバルチック艦隊と呼ぶ。

そのバルト海があるのがこちら。
こんな遠いところからご苦労様である。
3バルト海

正確にいうとバルト海に展開しているがバルチック艦隊で、極東にいたロシア艦隊は太平洋艦隊である。しかし日露戦争の応援のためにバルチック艦隊から艦船を引き抜いて第2太平洋艦隊を編成し派遣すると決まる。またその第2太平洋艦隊が日本に向かう途中に旅順が陥落したので、さらにバルチック艦隊から引き抜いて編成したのが第3太平洋艦隊。この2つの艦隊の所属はもはやバルチック艦隊ではないが、日本ではこれをバルチック艦隊と呼ぶ習わし。

だからロシア人に「日露戦争でバルチック艦隊をイワシたった」とマウント取っても「バルチック艦隊は日本になんか行っていないも〜ん」と反論されるかも知れない(^^ゞ


4連合艦隊

実は艦隊の呼び方でもっと不思議なものがある。それは日本の連合艦隊。日露戦争での東郷平八郎の肩書きは連合艦隊司令長官。太平洋戦争を戦った山本五十六も連合艦隊司令長官である。後に総理大臣になった鈴木貫太郎や米内光政も連合艦隊司令長官を務めた。それで連合艦隊って何の連合?

言葉の定義としては、まず艦隊とは

  軍艦2隻以上、もしくは航空隊2個以上によって編成された部隊
  (航空隊とは空母を意味すると思われるが深く調べず)

驚いたことにたった2隻で艦隊は成立する。でもこれは辞書的な定義で、実際は大小様々な戦闘艦をセットにしたのが艦隊。日本海海戦で東郷平八郎が率いた艦隊の1つである第1艦隊には約30隻が所属していた。

そして連合艦隊とは2つ以上の艦隊で編成した艦隊と定義される。
それはいいとしてーーー


日露戦争開戦当時、日本には3つの艦隊があった。そして連合艦隊に所属したのはその3つすべて。太平洋戦争開戦当時は10の艦隊で連合艦隊が編成されている。ではその時、日本に全部でいくつの艦隊があったのか=連合艦隊に所属していない艦隊数は?が気になるところ。でもそれについて明確に記載されている資料が見つからなかった。

しかしどうやら連合艦隊に所属していないのは、老朽化して予備役的だったり、小規模な艦船で港湾や沿岸警備中心の艦隊がほとんどだったようだ。つまり外国との戦争には参加しない艦隊。

ということは、連合と名前はついていても連合艦隊とは、日本海軍そのものと実質的に同じ意味である。また海軍自身が連合艦隊の英訳としてGeneral Fleetを使用しており、これは「すべての」「艦隊」の意味だから、その解釈でおそらく間違いないだろう。なのにどうしてわざわざ連合艦隊と呼ぶのか不思議。

ところでヤクザの山口組は、山口組の下に多くの組が集まった組織。でも山口組と言えばその全体を指す。連合艦隊も似ていたりして(^^ゞ

それはさておき、毎年8月15日が近づくと太平洋戦争関連の番組が放送される。その中で連合艦隊や連合艦隊司令長官なんて言葉がシレっと使われている。でも、その意味を理解している人は1%もいないと思うゾ。



東郷神社からどんどん内容が離れていくけれどm(_ _)m
あと2回くらい続く予定。

wassho at 20:50|PermalinkComments(0)

2023年10月01日

東郷神社を初訪問 その2 Z旗

前回に書いた、
菊の御紋と蔦の葉の家紋がミックスされたレリーフのある門をくぐって左側の光景。
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上の写真にある小さな門の外側には幟(のぼり)が並んでいる。
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幟の上に描かれているカラフルな模様はZ旗。
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Z旗は船同士で使う信号旗の1つ。正式名称は国際信号旗でA〜Zを示す文字旗、0〜9を示す数字旗とその他4種類、合計40枚で構成される。

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国際信号旗はその文字旗を並べて単語にするのではなく、1文字ごとに意味する内容が定められており、さらに2文字あるいは3文字を同時に並べるとまた別の意味になる。

例えば

   A旗:本船で潜水夫が活動中。徐速して通過せよ
   B旗:危険物の運搬、積み降ろし中

で、そういうメッセージをマストに掲げて周りの船舶に伝える仕組み。


そして、この海上保安庁の巡視艇は上がU、下がYの旗。
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それぞれの意味は

   U旗:あなたは危険に向かっている
   Y旗:本船は走錨中である  
   ※走錨(そうびょう)とはイカリを下ろしているのに船が流されている状況

であるが、そうではなくてUとYをつなげると「本船は演習中なので避けて下さい」の意味になる。無線がなかった時代に考案されたコミュニケーション手法だけれど、ある大きさ以上の船舶や航行条件によっては、今でも使用が義務づけられている(詳しく調べていない)。


なおこうやってたくさんの信号旗を掲げるのは、祝日や式典などで祝意を表すためのもので軍艦なら満艦飾、一般の船なら満船飾と呼ばれる。海上保安庁の船も軍艦じゃないから満船飾と表現する。
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ところで昔は祝意の表現として万国旗を掲げていたらしい。しかしどの国とどの国を隣に並べるか〜マストの上に並ぶ国と下に並ぶ国ができるーーーなどの面倒くさい問題を避けるために、国際信号旗が使われるようになったとされるのが面白い。

また以前は派手に飾り付けること、例えばクリスマスツリーにたくさんの飾りを付けるのを満艦飾にすると表現した。また洗濯物をたくさん干す様子も旗になぞらえて満艦飾といったりも。しかしそういう使い方はもう死語で、最後に使われたのは70年代後半に、ボディを電飾だらけにして走る「トラック野郎」という映画がヒットした頃かな。満船飾のほうはそういう比喩表現には用いられなかったし、満艦飾と較べて聞いた記憶がある人は少ないだろう。



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さて話をZ旗に戻すと、国際信号旗での意味は

  Z旗:本船にタグボートを求む
    (タグボートとは大型船を引いたり押したりして接岸を助ける船

だけれどZはアルファベットの最後だから「もう後はない」→「絶対に負けられない」との意気込みを示す目的でも使われた。そのきっかけは日露戦争でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ際に、司令長官の東郷平八郎が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との意味を込めてZ旗を掲げたのに由来する。1905年(明治38年)の出来事。


これは彼のエピソードの中で最も有名なもの。それで東郷平八郎といえばZ旗という図式が出来上がる。だから東郷神社ではZ旗のついた御守りはもちろん、なんとZ旗そのものまで売られている!(念のために書いておくと、この日本海海戦と呼ばれる戦いでは日本が圧倒的な勝利を収めた)
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その後は勝利のシンボルとして応援の際にZ旗を振ったり、また「必死でがんばる」ことを「Z旗を掲げる」などと表現したようだが、かなり昔に廃れてしまったと思う。なお日産のフェアレディZのネーミングはZ旗に由来するといわれている。



ただこの東郷平八郎のZ旗エピソード。
よく調べてみるとちょっと微妙なのだ。

彼が「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とメッセージを発したのは、日本海海戦の100年前の1805年、トラファルガーの海戦でイギリスがフランス(ナポレオンの時代)と戦った際に、イギリスのネルソン提督が「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」と檄を飛ばした故事に習ったもの。

その文章を英語にすると

  England expects that every man will do his duty

それを当時のイギリス式信号旗の組み合わせで表現するとこうなる。
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dutyは信号旗の組み合わせになかったみたい。uとtとyを表現するのにどうして旗が2つ必要なのか分からないが、とにかく3枚の組み合わせから1枚だけのものまで、合計12セットの信号旗がネルソンの文章には必要。それを順番にマストに掲げては降ろしを繰り返して周りに知らせ、そこから伝言ゲームのように信号旗を使って全艦に伝達したとされる。

けっこうたいへんな作業で信号担当員は大忙し。文法的にはthatを省略してもいいはずで、そうすれば11回で済んだのにと思うものの、まあどうでもいいか。

さて東郷平八郎のZ旗。「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と長い文章なのに、どうして旗がたった1枚で済んだのか?

それはZ旗を掲げたら「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と各艦は全乗組員に伝えるようにと、あらかじめ文面を渡してあったから。ちょっとドラマティック感にかけるなあ平ハッチャン(^^ゞ

一説によるとネルソンは「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との檄文を戦闘開始の直前に送ったので、そのてんやわんやの緊迫した状況で作戦とは何の関係もない指示に各艦の艦長は戸惑ったとされる。また水兵からは「言われんでもわかってるわ、敵はもう目の前やぞ!」と不評だったらしい。

ひょっとしたら、それを踏まえて事前に文章を配布しておいたのかも知れない。しかしそれでも「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」との言葉に「ウォーッ」となったとしても、それがこのZ旗だ!と言われたら「ハア?」だったに違いない(^^ゞ あるいはZ旗は単に伝達のタイミングを知らせる合図であって「皇国の興廃〜」を象徴する意味合いはなかった可能性も。

だから東郷平八郎とZ旗のエピソードは多分に盛られていると思う。もっともネルソンのエピソードだって時が経ってからは、その言葉で皆が奮い立ったことになっているから、まあ故事とはそんなもの。


なおこの言葉は東郷平八郎ではなく、その下で作戦担当参謀を務めていた秋山真之(さねゆき)が考えたもの。彼は同じく日本海海戦あるいは日本海軍史上での名文とされる電文「本日天気晴朗なれども波高し」でも知られる。


Z旗につられて今回も話が脱線 m(_ _)m

石川五ェ門


ーーー続く

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