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2025年07月15日

烏帽子のあれこれ その6

ついつい話がそれてしまうこのブログ。
今回のテーマはいつも以上にそんな予感がしていると初回に書いた。
やっぱり案の定ーーー


昔の人が頭に付けていたのには、
冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)があるところから始まり、

 →西洋料理のコック帽はどうしてあんなに背が高いのか
 →現在の皇室での使われ方
 →日本人男子の髪型の変遷
 →髻(モトドリ)
 →力士の髪型
 →力士の階級と給料
 →強装束(こわしょうぞく)と柔装束(なえしょうぞく)
 →源氏物語の衣装
 →烏帽子の変化
 →庶民と烏帽子
 →モトドリは見せない、SEXのときでも烏帽子は脱がない
 →(古代と)中世は「被帽の時代」、近世は「無帽の時代」
 →でも大正時代から高度成長期前まで帽子が復活

と、我ながらアッパレ?

もっともそれは好奇心のなせる技で、それがある限り脳の活性も保たれるだろうし、またブログも書き続けられるのだと思っている。そして今のところそんな好奇心はAIには備わっておらず人間だけが持つ能力。本当は単に気まぐれで気移りしているなだけなのだけれど、それを前向きに捉えるのが私のいいところ(^^ゞ



さてそろそろ本題に戻りましょう。

それは昔の肖像画で見る武将や武士たちの、
頭に乗っている帽子の位置が、どう見てもおかしいとの疑問。

初回に紹介した肖像画を再掲しておく。
もう説明は省略するが被っているのは烏帽子。
被っているというより半分だけ頭に載っけている感じ。
85烏帽子被り方


こうなった理由は髪型にあると推測した。

これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
28髪型


江戸時代がチョンマゲだったのは誰でも知っているが、それより以前も古墳時代の「みずら」を除けば男性は頭の上で髪を束ねていた。この束ねた髪がモトドリ(髻)。

モトドリを高くまとめた戦国時代の髪型と、頭の一部を剃ってそこにモトドリを置いた江戸時代の髪型。画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/とhttps://magazine.confetti-web.com/news/54699/から引用
86かたわな&チョンマゲ


4名の肖像画の上段は戦国時代の浅井長政と北条氏康、下段は江戸時代の田沼意次と松平定信。田沼と松平はもちろんチョンマゲ。浅井と北条の具体的な髪型はわからないものの、頭にモトドリがあったのは間違いない。

そのモトドリがある頭に烏帽子を被るとどうなるのか。ドラマとかで烏帽子を被って横顔が映っているシーンを探してみたけれど、けっこうフツーで違和感なし。
87烏帽子ドラマ


始めて烏帽子を被る元服の儀式を再現したと思われる画像も見つけたが、これも同じく肖像画のように半分だけ載せた感じではない。画像はhttps://ameblo.jp/croon-yuuki/entry-12487737675.htmlとhttps://www.nagasaki-np.co.jp/kijis/?kijiid=987161827170811904から引用編集
88烏帽子再現

考えてみればそれは当たり前で、元服儀式に参加している青年は頭にモトドリはないし、ドラマだって烏帽子は脱がないのだからモトドリまでは仕込んでいないはず。


そしてこんな画像を見つけた。
これは4名の肖像画で右下に配置した松平定信の別の肖像画。
89松平定信2

おそらくこのようにモトドリを覆うために、烏帽子を頭の後ろまで伸ばしてしたと思われる。それで正面からあまり角度の付いていない構図で肖像画を描けば、烏帽子が頭に半分だけ載っているように見える。100%納得はしていないのだが、もうそろそろこのテーマにも飽きてきたので(^^ゞ そういうことにしておきましょう。


ところでこの松平定信の肖像画、斜め前を向いている顔に対して、後頭部は顔よりもっと真横を向いているように見えなくもない。顔に合わせて同じ角度で描くとモトドリがあまり見えなくなるので、後頭部だけさらに横向きにしたのだろうか。

これって複数の多視点を絵画に導入した印象派のセザンヌと同じ技法。
江戸時代の絵師もなかなかやるね。



さて烏帽子が頭から半分はみ出して、
チョコンと載っているような肖像画の謎もとりあえずは解けた。




ーーーなのにまだ続く

wassho at 20:22|PermalinkComments(0)

2025年07月13日

烏帽子のあれこれ その5

聖徳太子の頃に正装用の帽子として定まったのが冠(かんむり)。そこから派生して普段着用の帽子となったのが烏帽子(えぼし)。冠は使用する場所や場面が定まっているとして、烏帽子は好きなときに被ればいいのかというと、そうではなくて基本的に四六時中の着用。前回で紹介したように寝るときも被っていたし、たとえ全裸になってSEXしていても烏帽子は脱がなかった。

奈良時代以降は元服と呼ばれる「成人となる儀式」があり、そこで初めて冠や烏帽子を被る。これを機に服装や髪型も元服前の子供とは変わるが、「元」は首や頭を意味し「服」は着用。すなわち頭に冠を付けるが本来の意味。元服には初冠(ういこうぶり)との別名もある。また武家では元服の儀式で烏帽子を被せる人を「烏帽子親(えぼしおや)」と呼び、ある種の後見関係を結ぶカトリックのゴッドファーザーのような制度も存在した。このように元服の象徴となるのが冠や烏帽子。

まあとにかく元服して大人になったら、そこから死ぬまで冠なり烏帽子なりの帽子を被り続けるのが日本人男性の一生。それは頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったのがその理由。チンチン見せてもモトドリ見せるなが当時の心得。

これは鎌倉時代初期の絵巻(東北院 職人歌合)にある図柄。描かれているのは博打打ち。当時は職業と見なされていたので今風にいいえばプロのギャンブラー。彼の前にあるのはバックギャモンに似たその頃の双六(すごろく)の盤。
70東北院職人歌合絵巻

博打打ちはスッテンテンに大負けして、身ぐるみ剥がれフンドシも取られてタマキンまで見えていて(>_<) それなのに烏帽子は被っている。烏帽子までは没収しないしきたりだったのか、フンドシの次が烏帽子だったのかはわからないものの、烏帽子がいかに大切な存在だったのかを物語っている。(なおこの絵巻はギャグっぽい作品なので、本当にこのようなことがあったかどうかは不明)



しかし何事も始まりがあれば終わりもあるわけで、そこまでして頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを絶対に見せない風習も、庶民レベルでは鎌倉時代後半、公家や武士でもそれから180年ほど後の室町時代中頃には廃れた。以降は日常的な被りものではなく儀礼的な装束の一部として残っていく。冠が正装なのは変わらないが、烏帽子は普段着ではなく略礼服のような位置づけに。

この変化をもって(古代と)中世を「被帽の時代」、近世を「無帽の時代」と呼んだりもする。ちなみに日本の歴史区分では

  大和〜平安:古代
  鎌倉〜安土桃山:中世
  江戸:近世  
  明治〜第二次世界大戦終戦:近代  それ以降:現代

となる(諸説あり)。


江戸時代中期(1701年)に起きた赤穂事件いわゆる忠臣蔵。浅野内匠頭(たくみのかみ)が江戸城内の松の廊下で吉良上野介(こうづけのすけ)を切りつけたシーンは烏帽子姿で描かれることが多い。映画でも同様。映画画像はhttps://www.twellv.co.jp/program/drama/chushingura-cinema/から引用
71-1松の廊下1

71-2松の廊下2

71-3松の廊下3

この時代に江戸城内で烏帽子を着用していたかどうかわからない。しかし事件が起きたのは朝廷からの勅使を迎えていた日。浅野は勅使接遇の責任者、吉良はその相談役のような役割。それで二人とも異様に裾(すそ)の長い長袴(ながばかま)をはいていて、これは武家の礼装姿。それならば烏帽子を被っていただろうとの想像で描かれている。なお1枚目は江戸時代末期の浮世絵であるが事件から約150年後に刷られている。2枚目は昭和になっての制作。

この長袴は長い裾を引きずるので当然ながら動きにくい。これは主君に襲いかかれない服装との意味があるらしい。また長袴のときは刀も短刀しか差すのを許されない。にもかかわらずヤッテモウタ(>_<) のが浅野内匠頭。もっとも長袴でなければ吉良を仕留められたはずで、大石内蔵助たちのリベンジも起きなかったかも知れない。また一説によると浅野より位が高い吉良の礼装は長袴ではなく、そのおかげで切りつける浅野から逃れられたとも言われている。


そして時代は下って1867年江戸幕府最後の日。教科書でも見たラスト将軍の徳川慶喜が居並ぶ諸藩重臣たちに大政奉還の方針を告げる様子。場所は京都にある二条城。こんな大事な会議なのに全員無帽。ただしこれは大政奉還から68年後の1935年(昭和10年)の制作。それでももう武士は冠や烏帽子を被っていないと確信して描いたのだと思う。
72大政奉還


こちらは明治天皇が即位に際し、薩摩・長州・土佐の藩主に褒美を与えている様子を描いた浮世絵。制作年は不明だが作者の長谷川貞信は明治12年に亡くなっており、明治維新からはそれほど経っていない。
73神武天皇御即位

絵を見ると画面右側の一段高くなっている部屋の中は、明治天皇がいてその周りを公家が取り囲んでいる。彼らは冠着用。そして中央はほとんどが武家の面々が占め烏帽子を被っている。もっともこのようなセレモニーが実際にあったのか定かではないし、あったとしても作者がその場にいてスケッチしているわけではない。あくまで想像の上での作品。

考えてみればここは宮中。ならばそこに参内する大名だって官位を持っているから冠姿のはず。おそらく公家は冠、武家は烏帽子にしてわかりやすく対比したかったと思われる。よく見れば公家の装束が柔らかく描かれているのたいして、武家のそれは定規で引いたかのように直線で両者は対照的。

ほぼ同時期を描いた無帽と被帽の絵を並べてみた。
さてどちらが正しいのだろう。


ちなみに徳川慶喜は冠、烏帽子、無帽の写真がそれぞれ残っている。注目は無帽姿で中世ならならこれで人前に出るのは考えられず、やはり近世は「無帽の時代」。
74徳川慶喜


ついでに天下人のお三方。肖像画とはそれなりにかしこまった存在の絵画。今でも写真館で撮ってもらうのにスーツを着るように、整えた身なりをするならこの時代であっても冠は欠かせない。それなのにどうして信長は?
75信長秀吉家康

もっともこれらの肖像画は各人が亡くなって後の制作で(一般に肖像画が向かって左を向いていたら死後に描かれている)、実際の姿の記録ではなく想像での創作。画家が秀吉、家康なら冠姿がふさわしいと考えたのに対して、信長は形にとらわれない人物だったから無帽姿が似合うと思ったのかも知れない。



それはともかく大きな流れとして(古代と)中世は「被帽の時代」で、近世は「無帽の時代」となったのは確か。ところが近代・現代になって、それがしばらく巻き戻される期間が現れる。


これは1920年(大正9年)年の第1回メーデーの様子。集まっている人々はほとんど帽子を被っている。写真ではわかりづらいが和装に帽子の人も多そうだ。画像はhttps://www.chosakai.gr.jp/hatarakikata/#expo-content-0から引用
76-1920t9メーデー


1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌いわゆる取り付け騒ぎの写真。
見る限り男性は全員帽子を被っている。
77-1927s2取り付け騒ぎ


参考までに世界恐慌が起きたのは1929年から1930年代後半。これは1935年に撮られたニューヨークの失業者。石を投げれば帽子に当たる状態。
78-1935s10NY大恐慌


太平洋戦争が始まる前の1939年(昭和14年)の銀座。
79-1939s14年銀座


終戦から1年後の1946年(昭和21年)の銀座。
80-1946s21銀座

銀座の写真では帽子を被っていない人もいるとはいえ、それでも着帽率は9割以上。日本人が帽子を被りだしたのは大正時代からとされる。それはファッションあるいは機能性・実用面の考慮ではなく、外出するときは&スーツを着るときは帽子を被るのが暗黙のルールになっていたと思われる。にもかかわらずその風潮は高度成長期(1955年〜)に入る頃に消えてなくなる。

どうして被りだしたのか、そしてどうして被らなくなったのか。それはたいへん興味深いところではあるものの、これ以上寄り道するといつまで経ってもブログが終わらないので今回はガマン。ついでにいうと冠や烏帽子を四六時中被っていたのは、頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリを他人に見せるのは恥ずかしい行為だったから。別の角度で考えれば冠や烏帽子を人前で脱ぐのは無礼にあたる。しかし大正時代からの帽子は、例えば謝るときは帽子を取るなど正反対のマナーになっている。そのあたりも面白いところ。


とりあえず現在も好んで帽子を被っているのはこの太郎チャンくらいかな(^^ゞ
81麻生太郎



ーーー続く

wassho at 23:35|PermalinkComments(0)

2025年07月08日

烏帽子のあれこれ その4

26聖徳太子1万円札

聖徳太子の頃の頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠(かんむり)。その下に着用した薄い袋状の圭冠(はしばこうぶり)が烏帽子(えぼし)のルーツとされる。どうして頭巾(ときん)の下に同じような圭冠(はしばこうぶり)を重ねたのか疑問なのだが、そこはスルーして、やがて冠は正装用、烏帽子は普段着用の帽子と用途が分かれる。(なお圭冠は冠の下に被るのではなく、最初から略式の冠として略服着用時に用いられたとの説もある)


圭冠(はしばこうぶり)そのもの、あるいはそれから発展した初期の烏帽子の形は不明。おそらくはスイミングキャップようなシンプルな形状だったのではないかな。しかしだんだんと上に伸びて、そして強装束(こわしょうぞく:前回参照)の頃にはよく見る平安貴族スタイルになっていく。その形が立烏帽子(たてえぼし)。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/295.htmlから引用
60立烏帽子


貴族ではこの高い立烏帽子が続く一方で、武家が着用する烏帽子は高さが低くなり、また立烏帽子をおったような折烏帽子(おりえぼし)、さらには各家ごとにその折り方に工夫を凝らした侍烏帽子(さむらいえぼし)などが登場する。画像はhttps://www.touken-world.jp/tips/92804/から引用
61烏帽子変遷


これらの烏帽子は貴族または武家が被るもの。そもそも冠はもちろんとして烏帽子も上級国民の装束であるイメージが今日では強い。しかし意外にも庶民だって烏帽子を被っていたのだ。


これは鎌倉末期に描かれた松崎天神縁起絵巻の一部。
大工は平たい烏帽子を被り、指揮している人は立烏帽子で下っ端の役人(貴族)だろうか。
62-1


同時代の石山寺縁起絵巻では庶民は平たい烏帽子、貴族は冠、僧侶は無帽。僧侶が無帽なのは俗世とは違う習慣体系なのか、あるいは剃髪していて頭頂部に何もないからかはよくわからない。
62-2

これらで庶民が被っている平たい烏帽子の形を萎烏帽子(なええぼし)や揉烏帽子(もみえぼし)と呼ぶ。これが圭冠(はしばこうぶり)から発展した烏帽子の原型で、筒状の部分を普段は倒して着用し、改まった席では立てていたのが、やがて立烏帽子になったとの説もある。いずれにせよ庶民の烏帽子はこのスタイルで、その後の変化はなかったようだ。



さてなぜ男性は貴族から庶民まで帽子を被っているかというと、平安時代(794年〜)から室町時代(1336〜1573年)中頃までの約700年間は、男性が頭頂部を他人に見せるのは恥ずかしい行為との価値観があったのがその理由。どうしてそんな発想になったのか少し調べてみたものの長くなるので割愛。

これはネットで拾ってきた大河ドラマのワンシーン。キャプションに「宇治川で筏(いかだ)を押す平盛綱」とあった。状況はよくわからないが、服を脱いで川に飛び込んでも烏帽子は脱がなかったとの演出。画像はhttps://x.gd/Nf4Whから引用(短縮URL使用)
63平盛綱


さらに驚くのが平安時代後期に描かれた源氏物語絵巻。場面は光源氏の正妻である女三宮と不義密通したのが、光源氏(この頃は天皇に準ずる身分)にバレてビビって病気になった柏木を(事情を知らない)光源氏の長男である夕霧が見舞うシーン。
64源氏1

注目は寝込んでいる柏木。このしばらく後に亡くなるのでかなり衰弱している設定。なのに頭に烏帽子を被っている! これは見舞客が来たから身なりを整えようと烏帽子を被ったのではなく、寝るときも烏帽子を外さないのが当時の風習。


まあとにかく烏帽子を脱がなかった。

そして何と実はSEXするときにスッポンポンになっても烏帽子は被ったまま。画像は後白河法皇(平安時代末期に源平の戦いに深く関わった実力者)がコレクションしていた春画「小柴垣草紙(こしばがきそうし)」を江戸時代に模写した「慶忍/潅頂巻絵詞(かんじょうまきえことば)」から。
65-1潅頂巻絵詞1

65-2潅頂巻絵詞2

ここまで来ると滑稽な姿だけれど、当時は頭頂部=髪の毛を束ねたモトドリ(烏帽子のあれこれ・その2参照)を見られるのがよほど恥ずかしかったらしい。

とても合理的な説明がつかないが文化とはそういうものだろう。まあなかにはモトドリ攻めを好むドMな平安男子もいたかも知れないが(^^ゞ




ーーー続く

今回は書く前からあちこちに話がそれる予感がしていたとはいえ、
いい加減そろそろフィニッシュしないとーーー

wassho at 23:31|PermalinkComments(0)

2025年07月04日

烏帽子のあれこれ その3

20冠と烏帽子

画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用

既に書いたように冠(かんむり)は正装用で、烏帽子(えぼし)はそれ以外のときに被る帽子。冠は聖徳太子の頃に始まったとされるが、烏帽子のルーツは冠の下に着用した圭冠(はしばこうぶり)という薄い袋状のものだったようで、はっきりと形がわかる資料はないみたい。


聖徳太子が被っていた頭巾(ときん)と呼ばれるソフトな冠は、平安後期に最初の写真のような漆で固めたハードタイプに変わる。それはその頃の日本に起きた「ファッションの大革命」の影響を受けている。
26聖徳太子1万円札


平安貴族の服装といえばこんなイメージが思い浮かぶはず。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/costume/265.htmlから引用編集
50平安貴族強装束

しかしこれ、実は平安時代後期のスタイル。全体として直線的で威厳のある印象なものの、平安中期以前はもっと柔らかなデザインだったらしい。それでこの後期以降のデザインを強装束(こわしょうぞく)、中期を柔装束(なえしょうぞく)と後の時代に区別するようになった。

歴史のお勉強的に書いておくと

 飛鳥・奈良時代:中国大陸の隋や唐の影響を受けた「唐様(からよう)」のデザイン
  ↓
 ナクヨウグイス平安京 794年から平安時代
 それから100年ほど経つと唐の国力が衰え出す
 ハクシニモドソウ遣唐使 894年に遣唐使廃止 唐の滅亡は907年
  ↓
 約400年続いた平安時代の中期に唐の影響から脱却した日本独自の貴族文化が発達する。
 いわゆる国風文化。平たくいえば日本風・和風の文化。
  ↓
 衣装もシンプル・実用的な唐様から柔らかく曲線的で優美なものに変化。
 それが柔装束(なえしょうぞく:萎装束とも書く)。
  ↓
 平家が台頭してきた平安末期、中国大陸の宋より厚手の織物がもたらされるようになり、
 また武家に対して威厳を示す必要もあって、強装束(こわしょうぞく)に変化して
 いったとみられている。

まとめると唐様(からよう)→柔装束(なえしょうぞく)→強装束(こわしょうぞく)の変遷。平安時代は400年と縄文・弥生時代を除けば日本の時代区分の中で最も長い。ちなみに江戸時代は265年だから平安時代はその1.5倍もある。ひとくちに平安時代といっても様々なのだ。

時代は鎌倉まで下って源頼朝の肖像画。ほとんど直線で構成されていてまるで幾何学的デザイン。絵だから誇張しているのではなく、糊をきかせてガチガチに固めて着付けている。
51頼朝


戦国時代頃から始まり江戸時代には一般的となった裃(かみしも)も、強装束の流れを継承している。画像はhttps://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/3298/から引用
52裃


柔装束から強装束のような大きな変化はその後は起きなかったので、明治になり洋装に変わるまで貴族の衣装はベースとして強装束が続く。現在の皇族がたまに儀式で着用する平安朝の衣装も強装束。こちらは1993年(平成5年)の「結婚の儀」の写真。
53結婚の儀



それでは柔装束(なえしょうぞく)は具体的にどんなデザインだったのか?
しかしこれがはっきりとは判明していない。

もちろん平安時代の衣装は現存しないので、当時の絵画やその他の資料で推測するわけであるが、平安時代中頃までは肖像画を描くのは憚られる風潮があった。それは明治時代にカメラと写真を見た日本人が「魂を抜かれる」と畏れたのと同じような理由。なんたって言霊(ことだま)を信じるくらいの民族だから、ビジュアルなんてもってのほかだったのだろう。

平安時代中期の絶対的権力者である藤原道長(966〜1028年)のこの肖像画も、紫式部絵日記という鎌倉時代初期に描かれたもの。その頃は強装束の時代なので、丸いラインで描かれてはいても強装束を着せられている。
54藤原道長


それを逆手にとり、柔装束の事例としていくつかの資料で取り上げられていたのが聖徳太子絵伝すなわち聖徳太子の伝記を絵で表した作品。現在残っているのは1069年、つまり平安中期の制作。だからそこに描かれている衣装は柔装束とのロジック。

これがその柔装束姿の聖徳太子。
でも藤原道長の衣装との違いがよくわからない(/o\)
55聖徳太子絵伝


いずれにせよ平安貴族文化がピカピカに輝いていた時代の服装がはっきりわかっていないとは意外。

ついでに書くとよく映画やドラマの題材となる源氏物語。執筆されたのは平安中期である。物語は「いづれの御時にか=いつのことか忘れてしまったが」で始まるフィクション。でも内容から設定としては平安中期なのは間違いない。となれば柔装束の時代なはず。

でも映画やドラマで着せられているのは強装束だよね?画像はhttps://www.imdb.com/title/tt1705064/とhttps://www.cinematoday.jp/news/N0141179から引用
56-1源氏物語ポスター

56-2

柔装束のデザインはわかっていないうえ、強装束=平安時代との認識回路が日本人の中にできあがっているので演出的にはこうせざるを得ないし、別にそれが問題だとも思っていない。でも無駄な知識が増えると、どうでもいいところに引っ掛かりが生まれてしまう。



あっ、今回も烏帽子まで話が進まなかったm(_ _)m



ーーー続く

wassho at 21:38|PermalinkComments(0)

2025年06月29日

烏帽子のあれこれ その2

20冠と烏帽子

画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用

話を冠(かんむり)と烏帽子(えぼし)に戻すと、先にできたのは正装用の冠。
これはご存じ聖徳太子の肖像画。
25聖徳太子


肖像画では冠なのか単にヘアスタイルが複雑なのかよく判別できないものの、それを模した1万円札だと頭に何か被っているのがわかる。
26聖徳太子1万円札

冠を着用するようになったのは、聖徳太子が603年に冠位十二階を制定して以降と考えられている。そして飛鳥・奈良時代を経て平安の中期頃まではこの頭巾(読みは「ずきん」ではなく「ときん」)と呼ぶ柔らかな布製の冠だったようだ。その後に最初に載せた写真のような布を漆で固めたハードタイプに変わっていく。


宮中は正装して参内する場所なので冠着用は義務だった。現在の皇室で冠を着用するのは即位や立太子の礼、結婚の儀などごく限られた重要儀式のみ。これは令和の即位の礼。
27-1即位の礼


昭和天皇の大喪の礼で、棺を担ぐ係員は平安風の服装&冠姿でも、天皇は洋装(コートの下はモーニングのはず)でシルクハットを手に持っている。シルクハットと冠は位置づけが似ているところも多い。画像はhttps://x.gd/7FH4qとhttps://x.gd/KNNb0から引用(短縮URL使用)
27-2大喪の礼

27-3


あと身近なところで冠を目にするのは雛人形の男雛。画像はhttps://www.mistore.jp/shopping/feature/living_art_f2/hina3_l.htmlから引用
27-4雛人形



さて冠の各部には細かな名称が付いているが、
主要パーツは次の4つ。

甲(こう)は頭を覆う基本パーツで纓(えい)は飾りだとして、注目は巾子(こじ)と簪(かんざし)。巾子(こじ)がこんな形をしていて、そこに簪(かんざし)が備わっているのには合理的な理由がある。
28冠パーツ


これは昔の日本人男子の髪型変遷。
画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「髪型」より引用
28髪型


束ねた髪の毛を頭の上に載せるチョンマゲは江戸時代中期からで、平安時代には上に高く伸ばしている。そんな髪型で思い浮かぶのは若い頃の織田信長(あくまで映画やドラマで描かれた姿)。しかし適当な画像がなかったので、ユースケ・サンタマリアが同時代の朝倉義景を演じている写真で。志村けんのバカ殿を思い出してもらってもいい(^^ゞ 画像はhttps://news.mynavi.jp/article/20200517-1037500/から引用
29朝倉義景


この高く束ねた部分が髻(もとどり)。
チョンマゲの髷(まげ)と漢字がややこしいので拡大しておきましょう。
30髻と髷

上に伸ばしたモトドリを前に曲げたからチョンマゲなのかと思ったら、

  モトドリ:髪を束ねた部分
  マゲ:モトドリのある髪型

を意味しているそう。そういえばチョンマゲ(丁髷)もたくさんあるマゲのバリエーションのひとつだし、女性の日本髪もマゲだった。

もうおわかりと思うが、冠の巾子(こじ)は、束ねた髻(もとどり)を入れるためのパーツ。そしてそこに簪(かんざし)を挿して頭から落ちないように固定する仕組み。冠の帽子にしては複雑な形にも意味があったのだ。



ところで力士は現在もモトドリを作ったマゲの髪型をしている。明治政府は断髪令を出してチョンマゲを禁止したが相撲界は例外として認められた。どうやら政府上層部に相撲ファンが多くいたらしい。

ただしその断髪令、正確には散髪脱刀令で内容は

  髪型は自由でチョンマゲにしなくてよい
  華族・士族が刀を差さなくてもよい

だったのに、明治天皇がモトドリを落とした影響もあり、いつのまにかチョンマゲ禁止令に実質を変えていく。またこれは男性を対象にした法律。しかし誤解していわゆる日本髪から短髪にする女性が多くいたため、改めて「女子断髪禁止令」が出されるなど、明治維新の混乱を何かと象徴するような法令。


さて力士の姿を見たことがない人はいないと思うけれど、彼らの髪型には2種類あるのを知ってた?それは大銀杏(おおいちょう)と丁髷(チョンマゲ)。
40-1大銀杏丁髷

40-2大銀杏

大銀杏はモトドリの先端がイチョウの葉のように広がっているのでその名前。また襟足のところを膨らませたデザインなのも特徴。対して丁髷は髪を引き上げてモトドリでまとめただけのスタイル。画像はコトバンクhttps://kotobank.jp/の「相撲髷」とhttps://www.yamano.ac.jp/news/detail.php?p=247より引用編集

ただしこの大銀杏と丁髷の定義は相撲界だけの話。一般に丁髷とは頭頂部を剃ってモトドリをそこに置く形をいう。また丁髷の一種に銀杏髷(いちょうまげ)というのがあり、さらにそのバリエーションとして大銀杏と小銀杏が存在した。それらは全体的な髪の整え方の違いであり、またどちらもモトドリをイチョウの葉のように広げたりはしない。


(/_')/ソレハコッチニオイトイテ
力士が大銀杏を結うのは本場所や巡業で土俵に上がるときと、公的な行事に正装して参加する場合だけ。稽古時や普段の生活では丁髷。それだけ大銀杏を仕上げるのには手間がかかるのだろう。

正面から見た違いをつい先日話題になった白鳳で。画像はhttps://www.bbc.com/japanese/58715123とhttps://x.gd/5Xhk1から引用(短縮URL使用)
40-3白鳳


なお大銀杏を結えるのは番付で十両以上の力士(いくつか例外はある)。また十両以上が関取と呼ばれ一人前の相撲取り。もっともよほどの相撲ファン以外は十両未満=幕下以下の相撲を見る機会はないので、力士は大銀杏と丁髷の髪型を使い分けていると考えても差し支えない。画像はhttps://x.gd/XnOJ0から引用(短縮URL使用)
40-4番付


番付について調べていたら給料の資料を見つけたのでついでに。データは2023年。画像はhttps://diamond.jp/zai/articles/-/1025502から引用
40-5給料

相撲を見る習慣はない。そして現在の番付を確認したら横綱・大関ともに知らない力士だった(/o\) そんな私にとって十両なんて「その他大勢のお相撲さん」のレベル。それでも年収1320万円とそれなりの給料。それと較べると横綱の3600万円はずいぶんと安いような。もちろん他に優勝賞金や懸賞金があるとしても。

それよりも幕内の前頭から十両に落ちた場合、1680万円→1320万円だから金額よりプライドのダメージのほうが大きいかも知れないが、十両から幕下に陥落すると1320万円→99万円となってキビシイね。♪まっさかさまに堕ちてdesire(>_<) 逆に幕下から十両に昇進すれば給料13倍アップ。まあそれが勝負の世界というもの。



(/_')/ソレモコッチニオイトイテ
ニュースか何かで力士が髪を結ってもらっているこんな姿を目にした経験があると思う。画像はhttps://www.sumo.or.jp/Entertainment/quiz/344から引用
41力士


これだけでも相当髪の毛が長いとわかる。
そしてさらにビックリする画像がこちら。NHKの放送100年スポーツ名場面より

なぜか用水路に飛び込んで泳ぐ力士。
42-1


飛び込んだ衝撃でモトドリがほどけて、
42-2


泳いでいたのは若き日の貴乃花。
背中の中程まである超ロングヘア!まるでジャングルの野生児。
42-3

とりあえずモトドリを結うにはこの程度の長さが必要みたい。


そして平安貴族といえばこんなイメージだけれど、彼らもまたそんなロングヘアだったとはなかなか想像が追いつかない。シャンプーやコンディショナーはもちろん、石けんすらなかった時代に長い髪を洗うのは大変だっただろうな。画像はhttps://costume.iz2.or.jp/period/heian.htmlから引用編集
43平安貴族



次回こそは烏帽子のかぶり方がヘンな話に進もう。





ーーー続く

wassho at 23:05|PermalinkComments(0)

2025年06月28日

烏帽子のあれこれ

何かについて書いている途中に関連する事柄を少し調べて、新たに発見があったり疑問を持ったりして、気が向くままに話がそれていくのがこのブログでよくある出来事。 今回もそんな予感が書き始める前からしている(^^ゞ


いきなりだけれど源義経の肖像画。
10義経

これを初めて見たときは衝撃を受けた。いつだったか記憶はないものの歴史の教科書ではなかったと思う。それまで義経といえば牛若丸時代に五条大橋で弁慶の攻撃を華麗にかわして返り討ちにした姿、平家との戦いでは軍略の天才的戦術として鵯越(ひよどりごえ)の奇襲、壇ノ浦の戦いでの八艘飛びなど格好いいイメージしかなかった。最後は頼朝に追い詰められ自害するがそれも悲劇のヒーロー的。

それなのに何だ、この貧相で弱々しいオッサンは!
なんとなく泉谷しげるにも似ているゾ(>_<)


それはさておき、今回の本題は彼の被っている帽子。
どう見ても頭にのっている位置がおかしい。

そんな肖像画がたくさんあるので同じように感じた人も多いはず。上から順に信長を裏切った浅井長政、後北条3代目の北条氏康、ワイロ大好き田沼意次、寛政の改革の松平定信。帽子に注目してみて欲しい。
11浅井長政

13北条氏康

14田沼意次

15松平定信


彼らが被っているのは烏帽子(えぼし)と呼ばれるもの。
それで烏帽子とは何ぞやというと、帽子には2種類あって

  冠(かんむり):正装、礼服着用時あるいは宮中に出仕する際の被り物。
  烏帽子(えぼし):上記以外あるいは普段着のときの被り物。

20冠と烏帽子

画像はhttps://shouzokuten.izutsu.co.jp/catalog/5/105/とhttps://musashino-gakki.com/product/?p=100088から引用

烏帽子の烏は「トリ」ではなく「カラス」。色や形からの連想らしい。また烏帽子に形が似ていて烏帽子岩と呼ばれる岩礁は各地の海岸にある。画像はhttps://www.tabirai.net/localinfo/article/article-30356/から引用
21烏帽子岩


一般に冠も烏帽子も身分が高いほど背が高くなる。天皇の冠なんて、立って歩いたらどこかに引っ掛からないか心配になるほど高い(写真は明治天皇、現在もほぼ同じ)。
22明治天皇



ところで背が高い帽子といえば、和食の板前と較べて西洋料理のコックが使う帽子はどうしてあんなに長いのだろう?画像はhttps://www.interconti-tokyo.com/clk/とhttps://x.gd/OFzAT(短縮URL使用)から引用
24-1板前

24-2シェフ


それには諸説あって

  フランス革命(1789〜1799年)後に「シェフの帝王かつ帝王のシェフ」と呼ば
  れたアントナン・カレームが、客が着用するシルクハットを真似て被りだした。

  アントナン・カレームの技法を継承し、またコースメニューを考案して「近代
  フランス料理の父」と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエ(1846〜1935年)は、
  身長が低く料理長の威厳を示すために高い帽子を被って仕事をした。

などがエピソードとして語られている。
衛生面を考えて始まったんじゃなかったのね。

またネットでコピペが繰り返されている情報で真偽は不明なものの、
帝国ホテルでは帽子の高さに

  料理人見習い:18cm
  7年目以降のキャリアを持つ料理人:23cm
  料理長以上:35cm

のルールがあるらしい。

これが帝国ホテル総料理長の杉本氏。さすがに高くそびえ立っている。見たところ紙製で使い捨てのよう。画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/154802から引用
24-3シェフ帝国ホテル


もっともヨーロッパではコックの地位に応じて帽子の高さが変わる文化はないみたい。またコック帽の高さではなく折りたたまれたプリーツの多さが、その料理人の腕前あるいは調理できる料理の数を示していたとの説もある。画像はhttps://item.rakuten.co.jp/athlete-med/11113471/から引用編集
24-4プリーツ


たぶん次回も烏帽子まで話がたどり着かないm(_ _)m




ーーー続く

wassho at 18:59|PermalinkComments(0)

2025年06月18日

あやせローズガーデン 番外編

残念ながら先日に「あやせローズガーデン」を訪れたときは曇り空だった。いつも書いているように最高に効果的な写真テクニックは「青空を背景に」「たっぷりの光を浴びた状態」で撮ること。少なくとも私の場合は(^^ゞ


例えばこの写真。ここは多くの人がバラのアーチを背景に自撮りをする。つまりこの位置からだとこっちを向いているので、人々が背中を向けている隙に撮るのが精一杯だった。構図としては見苦しい。それでもアーチの上が青空ならもう少し見栄えのいい写真になったに違いない。
0オリジナルJPG

というわけで晴れていなければ、晴れさせてしまえホトトギス。生成AIを使って曇り空を青空に、ついでに人物も消してしまおうと思いつく。プロンプト(AIに出す命令文)は「空を青空にして、写真に写っている人物を消去してください」。


<Grok> エックスが提供している生成AI

1grok

命令には忠実とはいえずいぶんと絵画調(画像を拡大してみて)。他のプログラムもそうなので生成AIは写真そのものを加工するのではなく、写真をベースにCG(コンピュータグラフィック)を作成するみたいだ。もっと写真風にと指示を追加してみると、青空の色が少し違った画像を出してきただけ。またなぜか消したはずの人物が1名だけ姿を変えて復活した。ナンデ?


<Gemini> Googleがが提供している生成AI

1回目はアーチの左側にいた人と、アーチの向こう側にいた人しか人物が消えていない。
2-1Gemini


それを指摘すると「申し訳ありません」との返事で修正してきた。
2-2Gemini


空が単に青で塗りつぶされていただけだったので、もう少し自然な色にして、雲も加えるように再指示。するとアーチの向こう側の風景がなくなってしまう。
2-3Gemini

なおGeminiは画像右下に「ai」と透かし文字を入れてくる。


<Chat GPT>

パソコンはMacでブラウザはBraveを使っている。しかしBraveではChat GPTが作成した画像が表示されなかった。そのことを伝えると「ここを右クリックで」などと対策を提案してくる。それで右クリックをしても選択肢に画像の表示や保存メニューは現れず。そこでブラウザをSafariに変えたら画像が表示された。今までこんなトラブルはなかったのに不思議。

3つのAIの中では最も精細。日差しが強い印象もある。でも写真ではなくあくまでCG調。それとオリジナルの写真は横3:縦2の横長なのに、なぜか縦横が同じ正方形の比率で出てきた。
3ChatGPT


結論として生成AIは写真の修正加工には使えない。まったくの別物になってしまう。これは生成AIが「写真ファイルの中身を修正変更する」ではなく、オリジナルの写真をベースにプロンプトを解釈して「似たような画像を新規に描き起こして」いるから。それが写真ではなくCG調になるのは、単に精細に出力できていないのが原因で、現状では描写能力が不足している。

もっとも考えてみれば、データを解析して新たに「作る」から「生成」AIと呼ばれる。それにしても生成AIは generative AI(artificial intelligence)の訳語だけれど、作るを意味する日本語はたくさんあるのに、どうして generative を生成(せいせい)なんてあまり使わない単語を当てはめたのだろう? 生成はどうにも語感的になじめない。



チャット式の生成AIは諦めて、次にAIを使って写真の加工や修正をしてくれる専門サービスを試してみた。これらは生成AIではなく、識別・検出型AIの技術を使っている。その違いは長くなるので割愛。。

その写真の加工や修正についてはスマホのアプリで提供しているサービスがほとんど。でも今回はパソコンのブラウザで使えるものを探した。どれも消しゴムツールのようなメニューを選んで、それで消したい部分をなぞる仕組み。

なおこちらのサービスでは青空への変更はなし。
また試したのは無料サイトのみ。


<PhotoRoom> https://www.photoroom.com/ja/tools/remove-object-from-photo

アーチ左側のバラが少ないのとアーチの中の風景がおかしいものの、
全体的に見ればまずまずの出来映え。
4Photoroom


<MyEdit> https://myedit.online/jp/photo-editor/object-removal/edit

PhotoRoomと同レベル。ただしここは修正した画像をダウンロードできなかった。無料でできるのはMyEditの透かし文字入りの画像の閲覧だけ。作業の前にそういう注意書きはなかったのでチョット腹立つ。ブログに載せているのはスクリーンショット。
5myedit


<Pixelcut> https://www.pixelcut.ai/ja/background-remover

アーチの向こう側の風景がかなりおかしい。
6Pixelcut


<Canva> https://www.canva.com/ja_jp/features/magic-eraser/

今回の中では一番良く修正できている。ただし「マジック消しゴム」というツールを使うのだが、それがどこにあるのか操作方法がとてもわかりにくい。使い方を解説したページがネットにあったのでいくつか参考にしたものの、古いバージョンでの解説なのか私の見ている画面と違う。けっこう苦労した。
7canva



ついでにいつも使っているPhotoshop Elements(フォトショップ・エレメンツ)でもトライ。あやせローズガーデンのブログを書いた際に修正しなかったのは、この写真が

   消そうとする人物が画像に占める割合が大きい
   人数も多いし人と人が重ねっている部分もある
   人物を消した後の、つまり人物で隠れている部分が複雑

と難易度が高いから。

無理を承知でやってみるとやはりガタガタになった。
8フォトショップ

とくにアーチの中はモザイクタイルみたいになっている。人物を消すとは、消した後に周りの風景から拾ってきた画像を埋め込む機能なのであるが、そのブレンド具合はやはりAIのほうが勝っている。

もっとも私が使っているPhotoshop Elementsは2019年版だから、最新のバージョンだともっと上手にできるのかも知れない。最新バージョンではPhotoshop ElementsもAIを使っていると標榜している。2019年版もそうだったかは覚えていない。ただしAIはこの数年のうちにものすごく進化しているので、もし2019年版にAIが組み込まれていても、現在のPhotoRoom等のサービスと差が付いたのだろう。


理想的には生成AIと識別・検出型AIの融合がもっと進むのを期待したい。ツールを使って操作するのはそれなりの知識やテクニックがいるので、「こうして欲しい」と結果を命令するほうが楽。現時点で音声入力を使った命令ははやや使いにくいが、それも改善されて画面を眺めながら「ああでもない、こうでもない」と指示して修正できるようになるはず。そうすれば「青空を背景に」「たっぷりの光を浴びた状態」の縛りからも逃れられる。もちろんそのような快晴の天候で景色を眺めたほうが、お出かけとしてはキレイで楽しいに変わりはないけれど。



ついでにChat GPTで作成した画像を、Chat GPTにゴッホとモネ風にするよう指示してみた。なぜか今度は正方形が縦長画像になっている。

ゴッホはまあそれっぽい。
空をこのように描けば、他の部分がどうであろうとゴッホに見えてしまう。
10ゴッホ


これをモネに見せたら、
パレットで頭を殴られるな(>_<)
11モネ


wassho at 23:30|PermalinkComments(0)

2025年06月17日

浮世絵の謎

近頃のNHKは大河ドラマと関連した番組をよく作る。ある種の番宣番組であり局を上げて大河ドラマを盛り上げようとしているのだろう。今年の大河ドラマは喜多川歌麿や東洲斎写楽のプロデューサーであった蔦屋重三郎を主人公にした「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」。それで浮世絵や浮世絵師をテーマにした関連番組が多い。大河ドラマを見る習慣はないのだが関連番組はいくつか見た。


その浮世絵について昔から疑問に思っていることがある。


今でこそ浮世絵は美術館で鑑賞する「美術」として扱われているものの、江戸時代には大衆の「娯楽」のひとつだった。現在の価格で1枚が数百円〜1000円程度だったらしい。

浮世絵は基本的に版画=印刷物であるが、何枚くらい刷られたのかの正確な記録はないようである。歌川豊国の作品数は1万点以上とされ、部数は平均で500〜1000枚、最も売れた作品で7000枚といわれている。また歌川広重「東海道五十三次(全55枚)」には1万枚を超えるものもあったと伝わる。ちなみに江戸の人口は江戸時代中期から後期で町人50万人+武士50万人の100万人。

なお江戸以外の各地で浮世絵がどれくらい普及していたのかもよくわからない。
ただし今回はそれには触れない。


さて葛飾北斎は弟子が200名いたらしく、それは例外的に多いから話に残っているとしても、現在の我々がよく知るポピュラーな浮世絵師以外にも多数の浮世絵師がいて、実に数多くの浮世絵が販売されていたのだと思う。

そして疑問とは

  江戸時代の人は浮世絵をどのように眺めていたのか?

である。

浮世絵が現代のポスターのような存在であるとすれば、自宅で壁に貼ると考えたくなる。しかし江戸時代の庶民の家で浮世絵が壁に貼られている光景がどうにも想像できない。またその光景を描いた浮世絵やその他の図柄も見た記憶がない。

ポスターを壁に貼るのは絵を額縁に入れて掛ける西洋の風習の簡略版。日本風になら掛け軸になるが浮世絵を掛け軸にはしない気がする。それにおそらく江戸時代の庶民の家に掛け軸はない(掛け軸を掛ける床の間もない)。また壁に浮世絵を貼るには画鋲が必要。しかし画鋲は明治になって製図に使う道具として輸入されたもので江戸時代にはまだなかった。

浮世絵の大きさは、最も多く刷られたとされる大判で約39cm×27cm。現代の用紙サイズだとA3:42cm×29.7cmとB4:36.4cm×25.7cmの中間くらい。手に持って眺めていたなら、そうでないときはどうしていたのか。文箱に入れるには大きすぎる。それにそんな道具は庶民の家にはないはず。クリアファイルはもちろんとして本棚や引き出しも江戸時代にはない。見ないときはクルクルと丸めていたのか。輪ゴムもなかったけれど。

今までに何度か調べたものの、そんなことを気にしている研究者はいないようで特に情報は得られず。以前に浮世絵の展覧会で学芸員に尋ねたら「いや〜、それはーーー」と困った顔をされた。


もっとも浮世絵は1度見たら、また見ることはあまりない新聞や週刊誌のような存在だったのかも知れない。パリの印象派の画家たちが浮世絵の影響を受けたのは、日本より輸出された陶磁器の包み紙として使われていた浮世絵を見たのが最初といわれる。プチプチの代わりにクシャクシャにした浮世絵が使われていたのだろう。それは明治になっての話とはいえもはや古新聞扱いである。江戸時代に紙はまだ貴重品だったから、しばらく眺めた後の浮世絵は裏面をメモ帳代わりにしたり、あるいは当時から存在した古紙回収業者に売ったとも考えられる。

いずれにせよ現在の漫画のルーツともいえる浮世絵を、江戸時代の庶民がどのように眺めて楽しんでいたのか、しっかりとした研究や考察を読んでみたいと願っている。



さて2025年ならこんな楽しみ方もある(^^ゞ

喜多川歌麿の「寛政三美人」。
歌麿


最近やたら見かける「AIでジブリ風」にしてみた。
ジブリ風


それをさらにルノワール風。
ルノワール風



悪ノリしてフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を、
真珠の耳飾りの少女


喜多川歌麿に描かせてみる。
フェルメール歌麿風1


もっと浮世絵風の顔にとリクエストしたら、
フェルメール歌麿風2

目線の向きや唇の形は少し浮世絵っぽくなったけれど顔の陰影が消えてしまった。目の大きさが変わらないのは、浮世絵のあの細目にAIは抵抗があるのだろうか。

今はまだお遊び適度でも10年後のAI進化が楽しみ。

wassho at 20:31|PermalinkComments(0)

2025年04月15日

尾久の原公園でしだれ桜(都立大学と学芸大学)

公園へ向かう道路を、
120-DSCF7193


数分ほど歩いて見えてきたこの建物は、
121-DSCF7195


都立大だった。
こんなところにあったとはつゆとも知らず。
122-DSCF7196

123-DSCF7197

124-DSCF7198


都立大学はそこそこの伝統がある大学。私が受験生の頃にも問題集で都立大学の例題をよく見た。しかしここにある都立大学、実は2020年からの歴史しかないというややこしい成り立ち。


都立大学の前身は1929年(昭和4年)に設置された7年制の府立高等学校(まだ東京府だった時代)。場所は永田町で1932年(昭和7年)に目黒区八雲に移転。戦後の1949年(昭和24年)の学制改革により、高等科(7年制の後半3年)が東京都立大学、尋常科(7年制の前半4年)は東京都立大学附属高校に改組される。ここが都立大学のスタート。1991年(平成3年)に八王子へ移転。

やがて1990年代後半より行政改革機運が高まると(2001年に独立行政法人制度ができたりした)、東京都立大学も他の都立3大学と統合する運びとなる。

ところが2003年の都知事選で「今までにないまったく新しい大学を作る」と公約を掲げた石原慎太郎が二期目の当選。それまでの統合に関する議論を無視した学部構成や履修形態などを打ち出す。そういえば石原慎太郎とトランプは似たところがあったなあ。

そこから東京都(の石原都知事の意向を受けた一派)と大学側が激突!

公募では過半数越えで最多だった新大学の「東京都立大学」との名称も、東京都が独断で公募案にはなかった「首都大学東京」にすると発表。石原都知事は小説家でもあったせいか「東京環状線」と決まりかけていた地下鉄新路線を「大江戸線」に変更するなど、言葉遣いの一種ともいえるネーミングには関心が高かった。ただし関心が高いのとセンスがいいかはまた別問題で、彼は「新銀行東京」なんてのも設立した(後に破綻し現在は「きらぼし銀行」)。

そしてその他もっと本質的な問題でスったモンだして有力教授多数の退職や新大学への就任拒否、他大学へ移籍の事態を招く。それにより文科省が新大学の認可を予定より数ヶ月見送り。さらに教授たちがいなくなった経済学部は新大学として設立申請できないハメに(その後に復活)。

まあそれでも何とか2005年4月1日に首都大学東京が開学。キャンパスは都立大学の居抜きでも、これは都立の4大学の統合ではなく新規の大学扱いとなって、都立大学は1949年からの歴史に幕を閉じたことになる。(諸説あり)


でも首都大学東京なんて名前は聞いたことがない人の方が多いんじゃない?
それは東京に住んでいても同じで、どこのFラン大学かと思ってしまう。
201ロゴマーク1

結果として開学10年以上経っても知名度はまったく上がらず。そうなると学生は就職などでも不利になるし、大学としても優秀な生徒が集まらなくなる(開学当初は不人気から偏差値もかなり低下)。学生アンケートでも改善して欲しいポイントのダントツ1位に「大学名・知名度」が長年続いたそうだ。

ちなみに首都大学東京の略称はクビ大だったらしい。首都の首はクビだけれど、それよりも新大学設立に当たって、石原都知事に反対した教授たちの首をたくさん切ったのが由来と噂されている(/o\)

それでどんな知名度アップ策を採ったかというと、何と2018年に以前の「東京都立大学」に名称を戻すと発表。ナンジャソレ! 主導したのは小池都知事。時期としては都知事1期2年目の出来事(現在は3期目)。そういえばこの頃の小池都知事は勢いがあったように記憶している。トランプがバイデンの政策をドンドン反故にしているように、小池さんにも石原都政を否定したい気持ちがあったのかも知れない。

なお聞くところによるとこの時も完全に東京都主導で、大学の現場や学生の声を取り入れたり、あるいは充分に説明したりした様子はない。現在の大学の権威や存在力はその程度なのだろう。

そして2020年4月1日をもって名称を「東京都立大学」に変更。
それから5年が経って現在は知名度や偏差値は上がったのかな?
202ロゴマーク2

よく見るとなぜか英文表記は変更されていない。
というか首都大学東京の英文がどうして Metropolitan University Tokyo でないのだ?


ここで問題は

  首都大学東京は新設大学なので旧都立大学とはつながっていない
  新しい都立大学は首都大学東京の単なる名称変更だからつながっている

すると三段論法で旧都立大学と新しい都立大学はつながっていないとなる。同じ名前で同じキャンパスなのにヘンなの。最初に「2020年からの歴史しかない」とはそういう意味。首都大学東京時代を含めても2005年から20年の歴史。

まっ、私の母校じゃないしどうでもいいけど(^^ゞ

なおこの都立大学荒川キャンパスは、以前の都立4大学のひとつである東京都立保健科学大学があった場所。その流れで都立大学では健康福祉学部が入っている。



こんな話ばかり書いていると、
いつまでたっても尾久の原公園の話にたどり着かない(/o\)
でもそれはいつものことだし、ついでにもうひとつ。


渋谷と横浜を結ぶ東急東横線には、
学芸大学と都立大学と大学名のついた駅が2つある。
203東横線

駅名が大学の名前なら、その大学の最寄り駅だと考えるのが普通。でも学芸大学も都立大学もとっくの昔に東横線沿線から移転して現地に存在しない。それなのに駅名にだけ残っている不思議。


学芸大学は明治時代より続く4つの師範学校を統合して、戦後1949年(昭和24年)の学制改革により発足した国立の大学。統合したといっても当初は4つの師範学校がそれぞれ持っていた5箇所の校舎を使っていた。そのうちのひとつが元は東京第一師範学校の校舎だった世田谷区下馬にある世田谷キャンパス。

そして学芸大学駅は

  1927年(昭和2年)に碑文谷(ひもんや)駅として開業。
    ↓
  1936年(昭和11年)に、東京第一師範学校の前身で現在の北青山三丁目に
  あった東京府青山師範学校が、世田谷区下馬に新校舎を建てて移転してくると
  駅名を青山師範駅に改称。
    ↓
  1943年(昭和18年)に青山師範学校が東京第一師範学校に名称変更すると
  駅名も第一師範駅に改称。
    ↓
  学芸大学の発足は1949年(昭和24年)であるが、在校生が卒業するまで、
  東京学芸大学東京第一師範学校として師範学校は存続。
  在校生がすべて卒業した1951年に廃止。
    ↓
  1952年(昭和27年)に駅名を学芸大学駅に改称。

と、まあ見事に学校の変遷に併せて名前を変えてきている。

しかし1964年(昭和39年)に学芸大学は都内各地にあったキャンパスを、元は東京第二師範学校だった小金井市に統合。学芸大学駅は大学とは無関係な駅になってしまった。


隣の都立大学駅も似たような経緯。

  1927年(昭和2年)に柿ノ木坂駅として開業。
    ↓
  1931年(昭和6年)に府立高等前駅に改称。

  ただし都立大学の前身の府立高等学校が目黒区八雲に移転してきたのは1932年
  であり、なぜ前年にまだ存在していない学校名に駅名を変えたのかはナゾ。
  移転が決まったのは1930年でまだ校舎建築中だったはず。

  なおこの移転は沿線発展のために東急が誘致して実現。
  それにしても府立高等前と「学校」を省いて変な駅名。
    ↓
  翌1932年(昭和7年)に府立高等駅に改称。
  駅から校舎まで歩いて10分以上は掛かるので「前」を外したみたい(^^ゞ
    ↓
  1943年(昭和18年)に東京市と東京府を廃止して東京都が設置される。
  実はこれ、戦時体制強化の一環だったのは意外と知られていない。
    ↓
  これに伴い府立高等学校は都立高等学校に名称変更。
  駅名もそれに併せて都立高校駅に改称。
  今度は高等で切らずに高校にしたのね。
    ↓
  1949年(昭和24年)の学制改革により東京都立大学が発足。
  都立高等学校は1950年3月に廃止。
    ↓
  府立高等学校のときは学校が来る1年前に駅名を変えたのに、今度はなぜか
  大学になった3年後の1952年(昭和27年)に駅名を都立大学駅に改称。

都立大学は目黒区八雲近くの、駒沢公園に隣接している世田谷区深沢にもキャンパスを広げていた。それでも手狭となり1991年(平成3年)に八王子市南大沢に移転。


というわけで2025年から数えると

  学芸大学駅:61年前から大学とは無関係
  都立大学駅:34年前から大学とは無関係

な状態が続いている。
都立大学に至っては、途中で大学名が消滅した時期が15年間あった。

それってドウヨ?と思うけれど、東急電鉄は1999年に駅名に関する住民アンケートを行っている。駅名変更の賛否を問うた結果は

 学芸大学駅:賛成549名 反対934名 合計1483名 賛成率37%
 都立大学駅:賛成630名 反対436名 合計1066名 賛成率59%

3分の2以上の賛成があれば変更する方針と公表していたらしいが、この結果で取りやめに。どういうサンプリング(アンケート対象者の抽出)で実施したのか、その他質問内容を含めてモロモロ不明なので結果を論評できないものの、世の中は何かにつけ現状変更のハードルが高いとうかがわせる数字。

駅名なんて普段は意識しないから単なる記号のような存在。でもそそっかしい受験生が間違えたりしないのかな。沿線住民として碑文谷や柿の木坂は、地名としてのイメージもよくて駅名にふさわしいと思うけど。


駅と学校の位置関係はこんな感じ。
204駅地図

学芸大学の旧世田谷下馬キャンパスは、大学があったときから併設されていた附属高校がそのまま使用している。敷地面積は5.3ヘクタールで高校としては相当に広い。なお大学が移転した小金井キャンパスは30ヘクタール。参考までに広さの単位である?東京ドームは4.7ヘクタール。

また学芸大学は世田谷区深沢にも付属の小学校と中学校を持っている。
ただしこちらの最寄り駅は都立大学駅というカオス(^^ゞ

都立大学があった旧目黒八雲キャンパスは7ヘクタール。現在は都立大学附属高等学校を前身として中高一貫校となった都立桜修館中等教育学校が2.85ヘクタールを有し、残りに「めぐろ区民キャンパス」という区営の文化施設が造られた。中高一貫校とは7年制だった府立高等学校時代に戻ったともいえるね。

旧世田谷深沢キャンパスは4ヘクタール。ここは民間に売却されて13棟772戸の大規模マンション群となっている。



たまたま都立大学の前を通りかかったせいで、
話が明後日の方向に走ってしまった。
興味の向くままに筆を走らせるのがこのブログとはいえ、
そろそろしだれ桜の話に入らないと(^^ゞ




ーーー続く

wassho at 20:48|PermalinkComments(0)

2025年03月31日

小惑星の話の続き その2

小惑星2024YR4は地球から82万8800km=月との距離の2.16倍のところで発見された。逆にいえば、その位置に来るまで発見されなかった。仮に衝突コースの軌道を進んでいた場合、6万1200kmで移動している2024YR4が、そこから地球に衝突するまでわずか13時間半しかない。


地球に接近してくる小惑星が、
どのあたりで見つかっているのか過去の事例を探すと

 2012年 2012 LZ1 直径500m 最接近の4日前に発見
      最接近時の地球との距離540万キロkm これは月との距離の14倍

 2013年 3月2日のブログでも紹介したチェリャビンスク隕石 
      直径17m 落ちてくるまで気付かれず

 2023年 2023 BU 直径3.5〜8.5m 最接近の5日前に発見
      最接近時の地球との距離3589km

 2023年 2023 NT1 直径60m 最接近の2日後に発見 発見された位置は、 
      地球から月までの距離の約4分の1に相当する10万230km

 2024年 2024 XA  直径1.3〜2.8m 
      発見の5時間後に最接近 地球との距離わずかに1355km
      ちなみに人工衛星が回っているのは高度200kmから3万6000lm

 2024年 2024 XA1 直径0.7〜1.5m 発見から約12時間後に地球と衝突

他にもたくさんあって調べきれない。しかしPHAが140m以上の基準を設けている理由は別として、どうやら大都市壊滅級の小惑星でも早期発見は容易ではなく、(衝突コースなら)発見されたときには既に手遅れが現実のようだ(/o\)

もっとも2024YR4の大きさを100mと大きめに見積もっても、最接近距離82万8800kmとの比率は、東京から1000km離れた知床半島で12cmのものを探すのと同じ。そりゃ難しいか、しかも探すのは真っ暗な宇宙だし。

なお上の事例だけを見るとしっかり観測・監視されているように思えるものの、地球に突入してきた小惑星で2024XA1のように事前に発見されていた事例は、天体観測史上わずかに11件しかない。チェリャビンスク隕石のように落ちてきた初めて存在を知るケースがほとんど。だから発見して半日後には衝突、場所によっては大惨事というのは、あり得なくはない話なのである。



その小惑星はどれくらいの頻度で地球に向かってくるのか。

星は宇宙に漂うさまざまな粒子が衝突・合体を繰り返し巨大化した天体。そのサイズまで至らなかったり、ほとんど石コロのままでいるのが小惑星。それが地球に突入してきて大気圏で燃え尽きるのが流星で、その中で特に明るいのが火球(たまにUFOと間違われるヤツ)。そして燃え尽きずに地上まで落ちてきたのは隕石と呼び名が変わる。

大気中で燃え尽きる流星のサイズは数mmから数cm程度で、星屑や星のカケラとも呼べないくらいに小さい。なお燃え尽きるといっても、その燃えかすが数十から数百マイクロメートルの微粒子となり大気中を漂って地表に落ちてくる(1マイクロメートルは1mmの1/1000)。その見積もり量はなんと年間で5000トン。だから流星は四六時中無数に落ちてきているといえる。夜に限っても目に見えるほど光る流星はその中のごくわずか。肩から払ったチリに流星の燃えかすがのっていたかも知れないね(^^ゞ


流星の段階で燃え尽きずに地表まで到達したのが隕石。大気圏突入時に何センチ以上なら燃え尽きずに隕石となるのかはよくわからなかった。大きさと共に成分も関連するはず。また発見された隕石のサイズ分布も資料なし。

その隕石も推定で年間2万個が地表に落ちている。発見されるのはそのうち10個未満。ただしこれはどの程度の大きさ以上を隕石と見なしているかにもよるはず。数ミリ角のものだってあるはずで、そんなサイズなら自宅の庭に落ちても見つけられないだろう。

それは別として2万個のうち10個未満しか発見されないのは、陸地は地球の3割だし、都市部はその3割の1%ほどに過ぎないのがその理由。陸地に落ちてもほとんどが人知れずな僻地。そう聞くと今後に大型の小惑星が衝突しても大丈夫と安心するけれど、日本では5年に1回の割合で隕石落下が確認されている。それは日本の人口密度が高いからで、それだけ小惑星衝突のリスクも高いのを意味している(/o\)

41流れ星

さて上空で燃え尽きる流星や石コロレベルの隕石について
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ

問題は大型の小惑星(というと表現が矛盾してしまうが)いわゆる巨大隕石。
一説によると大きさと頻度の関係は

  直径1m   2週間に1度       重大な影響なし
  直径5m   数年に1度        重大な影響なし
  直径20m   50年から数100年に1度  強い爆発
  直径100m  1万年に1度        都市の破壊
  直径1km   50〜100万年に1度    地域の破壊
  それ以上   1〜3億年に1度      気候変動、大量絶滅

と考えられているらしい。

ただしこの何年に1度の割合との表現はくせ者。100年に1度なんていわれると、ほとんどそんな事態は起きない〜安心と考えがちだが、確率的にはそれは明日かも知れないし100年後かも知れないとの意味である。

それに何年に1度とは過去の期間を過去の回数で割ったものである。
2014年にこんなことがあった。

  2月6日に東京都心で26センチの積雪となり、
  ニュースでは40年振りの大雪と騒がれた。
  40年振りとは40年に1度ともいえる。
  しかし2月14日には27センチ積もって記録更新!
  40年に1度とわ?(^^ゞ

ところで
年末ジャンボ宝くじの1等当選確率は2000万分の1で、パーセントでなら0.000005%。これは飛行機に438年間(秀吉の時代から)毎日搭乗すれば1度は事故に遭うとされる確率の0.0009%より180倍も低い。それでも毎年20人以上が7億円、運がよければ前後賞併せて10億円をゲットしていてウラヤマシイぞ。

なんだけれどーーー
米テュレーン大学の計算によると、人が一生の間に隕石の直撃で死亡する確率は160万分の1。なんと宝くじが当たるより隕石に当たる確率のほうが高い!(一生と年に1回の確率を較べてはいけないが)


例によってあれこれと話がそれたが、
頭にゴツンと直撃するのか都市の壊滅に巻き込まれるのかは別として、

  小惑星との衝突によって死ぬ確率は宝くじが当たるより高く
  ほとんどの場合にそれは前触れなく突然やってくるか
  あるいは事前に察知できても避難する時間的余裕がない

というリスクが人生にはつきものと、
だったらドウシタなオチでゴメン。
とりあえず明日も小惑星が衝突コースで急速接近中のニュースが流れませんように(^^ゞ




おしまい

wassho at 22:11|PermalinkComments(0)

2025年03月30日

小惑星の話の続き

2月20日に「小惑星との衝突まであと7年と306日」のブログを書いたら、2月25日には地球との衝突確率が0.0017%まで下がってほとんど意味のない数字に。それでも最初のブログのときにあれこれ調べた内容で続編をふたつ付け加えた。

  2月20日:小惑星との衝突まであと7年と306日
  2月26日:とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅
  3月02日:とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅 その2

もう既に誰も2024YR4のことなど話題にしていないが、
今回は2月26日に少し触れた

   「ところで前回のブログを書いたときに、
    いろいろ調べていたら衝撃的な事実を発見した(ちょっと大げさ)」

についての書き足し。

40小惑星接近

<その1 危険視されているのは直径140mから>

火星と木星の間には小惑星帯と呼ばれるエリアがあり、無数の小惑星がそこで地球と同じように太陽の回りを公転している。でもときおり木星の重力によって軌道を乱されて地球に向かってくる小惑星が現れる。今回の2024YR4もそのひとつ。

それらの小惑星と、地球に接近する軌道を持つ彗星は総称してNEO(ネオ:Near-Earth Objects:地球近傍天体または地球接近天体)と呼ばれている。その数は推定で2万5000個。なぜか最新の数字が見つからないのだが、2013年6月に1万個目の小惑星「2013 MZ5」が発見されている。

その中で地球にとって特に危険な小惑星がPHA(Potentially Hazardous Asteroid:潜在的に危険な小惑星)と分類される。2012年時点で登録されているのは1331個。(それにしてもこの時代になぜ10年以上前の数字しか見つからないのだ。それ以降に発見されていないとも考えづらいが)

PHAに該当する条件は

  その公転軌道が地球の公転軌道と交差する
  地球から0.5天文単位に接近する
  (天文単位=地球と太陽との平均距離=1億5000万キロ)

この0.5天文単位に接近するの意味がよくわからない。公転軌道が交差するなら、いつかは必ず衝突するはずなのに。ひょっとしたら「数百年以内に」などの前提がついているのかも知れない。

それはさておき、
PHA該当のもうひとつの条件が

  直径が140m以上

意外だと思ったひとつめがこれ。
ミニマムサイズが大きすぎない?


2024YR4が地球に衝突したらどうなるかについて2月20日のブログを引用すると、
■■■■■
2024YR4は秒速17km=時速6万1200km=なんとマッハ51!で落ちてくるとの推定。そして地上に衝突した際の運動エネルギーはほぼすべて熱エネルギーに変換されるらしい。都市部に落ちた場合をイメージしやすいように東京で例えると、原爆3300倍の爆発によって23区内は焼け野原ならぬ溶け野原になって消滅。その熱と衝撃波が周辺に広がって、東京駅から半径70kmの首都圏は今まで経験した震災・津波被害の比ではないレベルに破壊されるのではないか。それだけのエリアを復旧復興する経済力はどんな国にもないから、被災地は放棄になる可能性もある。住んでいた人もいなくなるわけだし。想像を絶するとはまさにこのこと。
■■■■■

その2024YR4は直径が40〜90mなのでPHAに該当しない。東京23区相当の面積が溶け野原になる程度の被害規模は、天文学のスケールではたいしたことないのかな。

それとどうして140mなんて中途半端な数字? 最初は、こういうのを取り仕切っているのはたいていNASAだからアメリカの単位に合わせたのかと思った。しかし140mは153ヤード、459フィートとどの単位でも中途半端。

何となく解せなかったものの、ひょっとしたらこれは観測の限界が140mあたりなのかとも思えてきた。それに関連したのがふたつ目の発見で、これはちょっとだけ衝撃的。



<その2 発見からたった13時間半で地球に衝突する>

2024YR4は地球に昨年の12月25日に最接近した。ただし発見されたのは最接近2日後の12月27日。12月25日に最接近したとは発見後の軌道観測を逆計算した結果。どうして最も近い位置ではなく、少し離れたところで発見されたのかは当時の記事にはなかったように思う。

最接近したとき地球との距離は82万8800kmで、これは月との距離の2.16倍。つまりこれくらい近くまで来ないと直径40〜90mの小惑星は発見できない(場合もある)のだ。これがどれくらいヤバイかというと2024YR4のスピードは時速6万1200kmだから

  82万8800km ÷ 6万1200km= 13.567

2024YR4が衝突コースだった場合、それは発見からわずか13時間半後!

もし東京に落ちてくるなら首都圏より外側に避難しなければならない。東京の人口は1398万人、首都圏全体では4434万人。それだけの人数が13時間半以内に首都圏外まで避難するのは絶対に無理。というか10万人だって不可能なはず。

実際にそんな事態になったらどうしようか。

ニュースを知ったときに運良く新幹線のそばにいれば、切符がなくても即座に無理やり飛び乗るのが最も確実な行動。でもそんなに都合よく行かないだろうから、♪♪盗んだバイクで走り出す〜が次の作戦になるな。そして渋滞を避けるため中央道か関越道の上り車線(東京行き)を逆走して逃げると思う。だからクルマではなくバイク。ただそれだって、幸運にもガソリン満タンで鍵がついたままになっているバイクが見つかればの話だけれど(^^ゞまあ小惑星が落ちれば溶け野原になって痛みも感じず即死なので、ジタバタせずにこれも運命と受け入れるかも知れない。




ーーー続く

wassho at 23:11|PermalinkComments(0)

2025年03月04日

ミモザとアカシアのあれこれ

駅までの道すがらにミモザの咲いているお宅が2軒ある。

先日、ミモザの黄色と青空の対比が余りに美しかったのでついシャッターを。ミモザはだいたいウメと同時期に咲き、これを見るともうすぐ春だと予感させられる。色合いはビビッドで夏っぽいけれど(^^ゞ

IMG_7468

IMG_7469


この黄色い花が咲く木を、ゆで卵が刻まれてトッピングされたミモザサラダのと連想で、ミモザと覚えている人は多いと思う。

でも本来ミモザはオジギソウ(おじぎ草)を指す呼び名。名前でわかるように木ではなく草だし、また花は淡い紫。ちなみにオジギソウは触られると葉を閉じて、お辞儀をしているように見えるのでその名がついた。
1オジギソウ



さて最初の写真で黄色い花を咲かせているのは、ギンヨウ(銀葉)アカシアやフサ(房)アカシアといったアカシアの木。でもなぜかミモザの名前で呼ばれている。しかも多くの国で。

それは

  オーストラリア原産のアカシアがヨーロッパに持ち込まれる。
  アカシアとミモザ(オジギソウ)は葉の形が似ているので、
  昔から馴染みのあったミモザになぞらえてミモザアカシアと呼ばれ、
  それがいつしかミモザと短縮され、その略称が定着する。

といったいきさつらしい。

そうして世界的にミモザといえばアカシアを指すのがデファクトスタンダードとなる。ヨーロッパにはミモザ祭りやミモザの日などがあるが、それらはすべてアカシアを意味している。オジギソウがかわいそうだね(^^ゞ


日本ではさらにややこしいことになっている。
日本でアカシアといえば、アカシアではない木を指すのだ。
その名もニセアカシア。

それは

  明治になりハリエンジュというアメリカ原産の木が入ってくる。
  なぜかそれをアカシアと呼んだ。
  少し調べたものの理由はわからず。

アカシアと呼ばれることとなったハリエンジュは砂防対策や街路樹としての適性が高かったので広く普及し、日本人はハリエンジュをアカシアと思い込む。なおハリエンジュの花は白で咲くのは5月頃。どちらも同じマメ科ではあるが系統的には離れていて、花や葉の形もまったく違う。
2ハリエンジュ


また1960年(昭和35年)に🎶アカシアの雨にうたれて〜の唄がヒットし一気にアカシアの知名度も高まった。もちろんここで唄われているアカシアもハリエンジュ。他にも札幌をはじめ各地のアカシア並木に植えられているのもハリエンジュだし、アカシア蜂蜜として売られているのもハリエンジュの蜜を吸った蜂蜜。


そして時期は不明だが黄色い花を咲かせる本物のアカシアが日本に入ってくる。するとそれまでアカシアと呼ばれていたハリエンジュは、何とニセアカシアと呼ばれるようになった。今まで自分たちが間違ってアカシアと呼んでいたのに、それに気付くと「偽」の名前を付けるなんて! 人間の傲慢さを見た思いがするゾ。

ただし先ほど書いたように今でもハリエンジュは、ニセアカシアではなくアカシアと呼ぶのが一般的。昭和の懐メロだけでなく、ユーミンやレミオロメンにもハリエンジュをアカシアと唄っている曲があるらしい。黄色い花が咲く「ホンモノ」アカシアはミモザと呼ばれているから、名前の機能としては植物学的にはともかく一応の区別はできている。まあ「ニセ」とつくのはイメージがよろしくないし、それにニセアカシアの蜂蜜なんて表示したら売り上げにも響く。


そんなわけで

 「ミモザの黄色い花がきれいですね」
 「あれはアカシアですよ」
 「アカシアの花は白でしょうが」

なんてケンカにならないよう気をつけてね。

wassho at 19:31|PermalinkComments(0)

2025年03月02日

とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅 その2

星にまでなれなかった太陽系の余り物ともいえる小惑星。それでも星と同じように太陽の周りを回り、その軌道が同じく太陽の周りを回る地球の軌道と交差するなら、いつかは衝突する。その数は推定で100万個以上。

月面のクレーターはそんな小惑星が衝突した痕跡。
15月のクレーター

地球にもその誕生から現在までの間に数え切れないほど落ちてきたはず。しかし月と違って地球の7割は海で海底なら見えない。また水による浸食と火山活動や地殻変動による地形の変化、あるいは木が生えて森になったり逆に人間による開墾で痕跡が消えてしまい、現在確認できるクレーターは100個ほどとされている。ちなみに月のクレーターは数万個。

日本にも南アルプスに、2〜3万年前にできたと推定されている御池山(おいけやま)クレーターがある。でも森のようになっていてクレーターとはちょっとイメージが違う。小高い丘を「実はあれは古墳」といわれたような感じ。そのせいかどうか、ここがクレーターだと確認されたのは2003年とつい最近。画像はhttp://www2.ueda.ne.jp/~moa/oike.htmlから引用
16御池山




さて今までに地球に衝突した小惑星(隕石)で有名なのは次の4つ。

なお隕石あるいは小惑星と呼ぶかは、事例それぞれの慣例に従って書いている。定義的には小惑星またはその破片が地球の大気圏に突入し燃え尽きるのが流星、燃え尽きず地上に落ちてきたものが隕石。

1)S2隕石

落ちてきたのは32億6000万年前。参考までに地球ができたのが46億年前で、初期の生命が誕生したのが35〜40億年前である。大きさは直径37〜58kmと推定され、平たくいうとエベレスト4つ分の隕石が落ちてきたらしい。地図は東京駅を中心に直径58kmの円を描いている。これだけ巨大なのがドカーンと。
20首都圏58km

ただしなぜか落ちた場所の情報を見つけられなかった。しかしその影響は強烈で津波が地球全体を覆い、衝突によって生じた熱で海水は沸騰・蒸発。舞い上がったチリによって厚い雲の温室効果で気温は上昇し、日光が遮られる状態が数年から数十年は続いたと考えられている。まさにこの世の終わりレベル。

ただその頃はまだ単細胞生物しか存在しておらず、被害がなかったというか被害を受ける対象がいなかったというべきか。逆に海底の鉄分が巻き上げられたり、隕石に含まれていたリンが放出されて「肥料爆弾」のような効果をもたらしたと考えられている。そうであれば生物界にとっては、この世の終わりではなく創世記の重要イベントだったとも捉えられる。



2)チクシュルーブ小惑星

チクシュルーブの名前を知らなくても、
恐竜を絶滅させたのは巨大な隕石との話は知っていると思う。
それがこれ。
22恐竜絶滅


衝突したのは6600万年前。場所はメキシコのユカタン半島(赤い破線部分)のチクシュルーブ。メリダというユカタン州都の近く。
21チクシュルーブ

あっ、Googleマップにカッコ付きでアメリカ湾の表記がある!さらに米国版のGoogleマップを確認してみるとGulf of Americaの表記のみだった。トランプへの忖度オソルベシ!

小惑星の直径は10〜15km。衝突速度は秒速20km=時速7万2000km=マッハ60! 衝突時のエネルギーは広島型原爆の10億倍とされ(といわれてもイメージできないが)、衝突でえぐられたクレーターは直径160km。マグニチュード11以上の地震となり300mの津波を引き起こしたと推定されている。

またこれが恐竜絶滅の原因となったのはよく知られているが、
絶滅したのは恐竜だけではなく、なんと全生物の80%。

小惑星が落ちてくる運動エネルギーは衝突によって熱エネルギーに変わる。衝突地点の半径1000kmは火球に覆われて生物は即死(>_<) 札幌から那覇まで約2200kmなので半径1000kmとはそれくらいのエリア。そして衝突の爆風で舞上げられた塵(ちり)の雲は世界中に広がり、太陽光が遮られる状態が何年も続く。植物は光合成できなくなり枯れ果て、それを食べていた草食動物、草食動物を食べていた肉食動物と順に絶滅の連鎖。


話は変わるけれどチクシュルーブ小惑星との衝突で、恐竜を含めて全生物の80%が絶滅した。逆に考えれば残り20%で、またいろいろと進化を遂げて現在の生態系ができあがったわけだ。

でもどうして恐竜は再び現れなかったのだろう。それが昔から疑問であり、復活して今の時代にも生きていて欲しかった気持ちがあるというか。しばらくは大型生物が生息できない環境だったとしても、それから6600万年のうちにチャンスはあった気もするのだが。



3)ツングースカ大爆発

1908年(明治41年)に、シベリアのほぼ無人の森林地帯に落ちた隕石によって引き起こされた爆発。

ところでシベリアってよく聞く地名なのに、
具体的にどこなのか把握されていないように思う。

ロシアは8つの連邦管区で構成されており、シベリアは国土の真ん中当たり。地図に小さな青い点がついているのがそれぞれの中心都市で、中央管区の中心がモスクワ、北西管区がサンクト=ぺテルブルク。シベリアの中心都市はノヴォシビルスクと聞いたことのない名前。画像はhttp://dvor.jp/rajon.htmから引用編集
30シベリア

ただしこれは行政区分であって、歴史的にはウラル山脈より東側がシベリア。だから中央シベリア高原や東シベリア山脈は極東管区にある。現在は狭義のシベリアがシベリア管区、広義のシベリアがそれにウラル管区と極東管区を加えた扱いのようだ。とにかくシベリアはロシアの2/3ほどを占める広い範囲。


隕石が爆発した場所はここ。
33ツングースカ1

このツングースカはそこの地名ではなく、その付近を流れている川の名前。ひょっとしたら無人の森林地帯ゆえに地名がなかったのかも知れない。

この隕石サイズは50〜60m。落下途中に大気中で大爆発を起こしたのがネーミングの由来。人が住んでいなくて人的被害はなかったものの、

  爆発地点の半径30〜50kmで森林が炎上
  東京都とほぼ同じ2150平方kmの範囲で樹木がなぎ倒された
  1000km離れた家屋の窓ガラスが割れた

とされる。「1000km離れた〜」は文章だと読み流してしまいそう。でも日本に置き換えると、札幌上空の爆発で大阪の窓ガラスが割れたのと同じで、いかにその威力が凄まじかったがわかる。

また
  爆発で隕石が気化し→それが巨大な夜行雲を形成
  夜行雲は光を発する→ロンドンでは数日間に渡り、
  夜に灯りなしで新聞を読めるほどだった

とのエピソードがツングースカ大爆発に関してはよく引き合いに出される。しかしツングースカからロンドンまでは約5200km。それに対してモスクワまでは3000kmで東京だって4500kmなのに、どうしてロンドン以外でそんな話が残っていないのか不思議。


ツングースカに落ちてきたのは2024YR4の約半分のサイズ。それでもこれだけの威力。基本的に衝撃力は小惑星の重さ × 落下速度で決まる。重さは体積に比例するとして球の体積は半径の3乗に比例するので(前回に書いたように小惑星は球体ではないがとりあえず)、2024YR4が2倍の大きさなら2 × 2 × 2で重さすなわち破壊力はツングースカの8倍(>_<)


4)チェリャビンスク隕石

直径17mで小さいながらもよく取り上げられるのは、
落ちてきたのが2013年と最近だから。

チェリャビンスクは落下したロシアの地名。
先ほどシベリアを説明した図でではウラル管区の最も南西に位置する場所。
35チェリャビンスク

ツングースカに続いてまたもロシアなのはロシアの面積がそれだけ広いから。地球の陸地の11.5%を占めている。カナダ、中国、アメリカがそれに続き、それぞれ6.7〜6.5%。ちなみに日本は0.25%(^^ゞ


この隕石もツングースカと同じように空中で爆発した。

火球となって落ちてくる様子。画像はhttps://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/7563/から引用
37火球


隕石雲。
38隕石雲

飛行機雲はジェットエンジンの排気ガスに含まれる水蒸気が、上空の冷たい空気(マイナス50度前後)で冷やされて雲になる現象。対して隕石雲は隕石が大気との摩擦熱で気化する際に、燃えかすとして形成されたが微細な粒子が浮遊している状態。雲のように見えても、飛行機雲と違って気象的には雲じゃない。


そして、この隕石が今までの事例と違うのは、ドライブレコーダーや防犯カメラなどで撮られた映像がたくさんあること。当時のニュースでもいろいろと見た記憶がある。


爆発したのは街からかなり離れた場所だったもよう。それでもその衝撃波で4474棟の建物に被害が出て、1491人が重軽傷を負った。

また21世紀のネット時代に落ちた隕石なので、

  落下したなんと当日から、
  ネットで「チェリャビンスクに落下した隕石」の売り物が出回った(^^ゞ

  アメリカの新型宇宙兵器だとする陰謀論も主張された

隕石の落下にも世相が反映されるね。
今、メルカリで検索してもけっこうあったゾ



なかなか前回に書いた「衝撃的な事実」までたどり着かない(^^ゞ

ーーー続く

wassho at 23:32|PermalinkComments(0)

2025年02月26日

とりあえず小惑星「2024 YR4」の衝突確率はほぼ消滅

「小惑星との衝突まであと7年と306日」のタイトルでブログを書いたのは、6日前になる2月20日。昨年の12月27日に発見された小惑星2024YR4。それが2032年12月に地球と衝突する確率が1月には1.2%だったのが、2月になって2.2%=1/45へ引き上げられたのに関してあれこれと。

実はブログを投稿した後に、改めて2024YR4を検索してみて確率が3.1%に上昇していたのを知った。でもブログを修正するのが面倒だったのでそのまま放置m(_ _)m

ヤバイ方向へ進んでいるのかなと思っていたら、22日には0.28%へと低下。
ソースとなっているのはNASAの発表で、時系列で確認すると

  2月17日 2.6%
  2月18日 3.1%
  2月19日 1.5%
  2月22日 0.28%
  2月24日 0.004%
  2月25日 0.0017%

となり、現時点ではほとんど無視できる数字。

20日に書いたブログはその時点で一番新しい数値をベースにしたつもりだったけれど、どうも情報伝達にタイムラグがあったようだ。まあ日本語で書かれたものしか読んでいなかったし。あとNASA(アメリカ航空宇宙局)とESA(欧州宇宙機関)の発表する数字が微妙に違う。例えば2月17日時点での衝突確率はNASAが2.6%なのに対してESAは2.4%。


とりあえず確率が大幅に下がったのはいいニュース。

しかし現在の2024YR4は地球から遠ざかるコースにあり、

   直径が40〜90mと小さな天体なのでそろそろ観測不可能。
   地球の周回軌道上にあって、より高性能な赤外線望遠鏡である
   ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡を3月に観測に投入するが、

正確な軌道を割り出せるのは、おそらく次に地球に接近する2028年12月まで待たなければならないーーーはずだったのに、それにしては細かく数字を刻んでくるなあ。

やはり前回に書いた陰謀論は当たっているんじゃない?(^^ゞ



ところで前回のブログを書いたときに、
いろいろ調べていたら衝撃的な事実を発見した(ちょっと大げさ)


その前に、そもそも小惑星って何?

2010年に探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」から戻ってきた頃によく耳にするようになったものの、小さな惑星とはわかったようなわからないような言葉である。

調べてみると

  太陽の周りを回る星から

  惑星(水金地火木土天海の8つ)と準惑星(冥王星他4つ)と、
  惑星と準惑星の周りを回る月などの衛星約300個を引いた残りすべてが

  太陽系小天体と呼ばれ、
  そのうち木星の軌道周辺より内側にあるのが小惑星

との定義。

ちなみに彗星と小惑星は別物扱い。説明は長くなるので省略。また小惑星あるいはその破片が地球の大気圏に突入し燃え尽きるのが流星、燃え尽きず地上に落ちてくれば隕石と区別される。


小惑星の大きさについてはっきりとした定義は見つけられなかった。最大の小惑星セレスの直径は910kmだが100kmを超えるものは数えるほどしかないそうだ。参考までに地球と月の直径はそれぞれ1万2756kmと3475km。2006年に惑星から準惑星に降格された冥王星は2377kmで月よりも小さい。

現在までに観測された小惑星は約80万個。直径100kmを超えるものは数えるほどしかないないのなら、これらのほぼすべては100km未満となる。また直径1km程度、ないしそれ以下については未発見の小惑星が数十万個あると推測されている。

80万個+数十万個が100km未満というだけじゃ尺度として大雑把すぎる。まだ解明されていない部分も多いのだろうが、求むわかりやすい解説。参考までにイトカワはウンチみたいな形をしており(^^ゞ 長さが約540メートル、断面の直径が太い部分で200メートルほど。
11イトカワ


宇宙に漂うさまざまな粒子が衝突・合体を無数に繰り返し巨大化して星になる。(我々がいる太陽系では)まず太陽が誕生し、そのおこぼれが集まって惑星・準惑星・衛星ができた。やがてしだいに勢いが衰え星作り期間が終わる。つまり小惑星はいわば星になれなかった余り物。星のかけらと表現すればロマンチックかも。

また物質が合体すると重力が大きくなり、それが重心に向かって引っ張る力で潰されて球体になる。だから星は丸い。ただしサイズが小さいと重力より物質の強度が強いため球体にならず元の形を保つ。球体になるかならないかの境目は直径300km。だからイトカワはあのような姿。ほぼすべてが100km未満だとすれば、小惑星は球体ではなくいびつな岩の形で宇宙を漂っていると考えられる。

そして、小惑星の多くは
小惑星帯と呼ばれる火星と木星の軌道の間で太陽の周りを公転している。
12小惑星帯


でも2024YR4のようにその軌道をはずれる小惑星も出てくるわけで、その軌道が地球の公転軌道と交差していれば、いつかは必ず衝突する。いわゆる最小公倍数的な計算。2032年には地球に衝突しないであろう2024YR4も、何万年後あるいは何億年後にはまたーーーである。
13軌道のコピー


まあ小惑星にしてみれば地球がぶつかってきやがったな話(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 21:46|PermalinkComments(0)

2025年02月20日

小惑星との衝突まであと7年と306日

いくつかの記事をネットで見かけはしても、
おそらく世間的にはたいして話題になっていない出来事。

それは

  直径が40〜90mと推定される小惑星「2024 YR4」が
  2032年12月22日に地球に衝突する可能性があり
  その確率が当初の1.2%から2.2%へ上昇した

という情報。

no title

7年と306日なんてもうすぐやないか(>_<) ノストラダムスの1997年7月に人類が滅亡するなんて根拠のない与太話に大騒ぎした人もいたのに、どうして今回はスルーされているのだろう。

もっとも衝突の可能性が2.2%なら、逆に衝突しない可能性が97.8%でたいしたことないように思える。しかし2.2%とは1/45であり、昭和世代感覚だとクラスに一人の割合だからまったく無視するのもどうかと思う数字である。ちなみに年末ジャンボ宝くじの1等当選確率は2000万分の1=0.000005%なので当たらないと安心できる(^^ゞ


2024YR4が発見されたのは昨年末の12月27日。25日に地球に最接近し、月との距離の約2.16倍のところを通過した後の姿を、チリに設置された天体望遠鏡で捉えられた。

その天体望遠鏡を運営しているのはATLAS(アトラス)と優しげなネーミングだが、正式名称はAsteroid Terrestrial-impact Last Alert Systemで、日本語だと小惑星・地球衝突・最終警報システム。そんな地球防衛軍みたいな組織があったのかと驚き。


話はそれるが地球と月について、このようなイメージを持っている人が多い。画像はhttps://x.gd/cyOvSから引用(短縮URL使用)
1地球と月


上の写真で地球と月のサイズ比はだいたい合っているものの、距離感はまったく違っていて、実際の地球と月の間は地球が30個ほど並ぶほど離れている。ブログに貼り付けると小さくて見えないのでクリックで拡大して確認してみて。画像はhttps://astropics.bookbright.co.jp/earth-and-moonから引用
2地球と月の距離


だから月より約2.16倍離れたとはかなり遠い位置。でも2024YR4は太陽系内を次のような軌道で周回しており、その公転周期は約4年。それで軌道計算してみると、次の次の接近のときがヤバイと判明したたようだ。
3軌道



この2024YR4が地球に落ちてきた場合、直径40mならTNT火薬(いわゆる爆弾)800万トン相当=広島原爆の約530倍、直径90mでは5000万トン相当=広島原爆の約3300倍の爆発となる。そう言われてもピンとこないが後者は東京23区が消滅するレベルらしい(/o\)

ただし衝突の可能性が2.2%だとしても、地球の面積である5億1000万平方キロに対して、日本の国土は37万8000平方キロしかない。近海に落ちれば巨大津波が起きるだろうから排他的経済水域(EEZ)の447万平方キロを加えても484万8000平方キロ。それを元に計算すると、

    484万8000平方キロ ÷ 5億1000万平方キロ = 0.0095
    2.2% × 0.0095 = 0.02%

ちょっと安心した?
なぜか分数の1/5000にすると、まだ確率が高い気もするけど。

なんて思っていたら、こんな落下予想エリア図を見つけた。
5落下予想

日本は外れているように見えるものの(日本以外なら落ちてもいいと思っているわけじゃない)、少しタイミングがずれれば日本列島縦断コースになりそうぢゃないか(>_<)


とはいえ2024YR4が2032年12月22日に地球に衝突する可能性2.2%というのは、あくまで暫定的な試算。まだ観測不十分で正確な軌道は割り出せていない。

さらに現在の2024YR4は地球から遠ざかるコースにあるため、そろそろ観測不可能な距離となっており、次に観測できるのは再び地球に接近する2028年12月。来月には地球の周回軌道上にあるジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡も観測に投入するようだが、どうやら確定予測が出るのは4年後みたいだ。


もし本当に地球に衝突したらどうなるのかな。

2024YR4は秒速17km=時速6万1200km=なんとマッハ51!で落ちてくるとの推定。そして地上に衝突した際の運動エネルギーはほぼすべて熱エネルギーに変換されるらしい。都市部に落ちた場合をイメージしやすいように東京で例えると、原爆3300倍の爆発によって23区内は焼け野原ならぬ溶け野原になって消滅。その熱と衝撃波が周辺に広がって、東京駅から半径70kmの首都圏は今まで経験した震災・津波被害の比ではないレベルに破壊されるのではないか。それだけのエリアを復旧復興する経済力はどんな国にもないから、被災地は放棄になる可能性もある。住んでいた人もいなくなるわけだし。想像を絶するとはまさにこのこと。

映画アルマゲドンでは宇宙船で作業員を送り込み、核爆弾を小惑星に埋め込んで爆発させて軌道を変えた。それはちょっとSF的過ぎて2032年ではリアリティがないとしても、NASAは2022年に直径160mの小惑星に、重さ579kgの探査機を衝突させて軌道を変える実験に成功している。
6アルマゲドン

その小惑星は直径780mある別の小惑星を周回する衛星で、実験の成果によりその公転周期が11時間55分から11時間23分へ32分短くなったとされる。それが2024YR4の軌道を地球から逸らす(そらす)レベルなのかどうかはわからないけれど、そんな対策でもするのだろうか。

核弾頭を何発か打ち込めば直径40〜90mの岩なら砕けそうに思える。ただそれで軌道を変えられるのか、単にバラバラになって広範囲に落ちてくるだけなのかーーー


ところで2024YR4の情報を検索すると

「さらに観測を続けデータを取れば、この確率は10倍またはそれ以上に
 不正確となる可能性もある」
「以前にも観測を繰り返し詳しい軌道が分かった結果、衝突するとみられていた小惑星が、
 人工衛星の内側の軌道を通り抜けていくと判明した例もある」
「小惑星の衝突確率の算出方法の関係上、衝突確率は一時的に過大評価されてしまう
 性質がある」
「衝突確率はある時点でゼロに下がると予想しています」

などと書かれている内容も多かった。

これがどうも怪しい。

小惑星が接近している、宇宙人が攻めてくる、怪獣が出現するなどの場合に、映画では必ずといっていいほど政府は混乱を招くとの理由で最初はその事実を伏せる。(そして手遅れになる)これはそのプロパガンダではないか? ひょっとして、もう上級国民向けのシェルターなんか作り始めてたりしてーーー陰謀論(^^ゞ


4年後に正確な予測が出たら、また悩むとしましょう。
もっともそれが高い確率だとしても諦めるしかないんだけど。

wassho at 23:46|PermalinkComments(0)

2025年01月03日

松ぼっくりでHappy New Year

あけましておめでとうございます。
私は極めて平穏に、と言えば聞こえがいいものの、
いつも以上になんの代わり映えのない新年を迎えました。
まあそういうのも大事だと思うお年頃ではあります(^^ゞ


それで新年早々、
松ぼっくりの写真を載せて何をしているのかとお思いでしょうが、
まずは今年最初のブログを読んでちょうだい。

1


さて正月飾りといえば門松。
物心ついた頃から馴染んでいるのに、
門松は「松を飾っている」と、つい先日に知って衝撃を受けたというお話。
名前からして「門松」なのだから当然とはいえ、
ほとんど竹の飾り物のイメージしかなかった(>_<)
皆さんは松だと意識してたあ?


一般的なイラストはこんな感じ。
よく見れば真ん中には伝統的な模様で松が描かれている。
でもほとんどそこには目が向いてなかった気がする。
2


こちらはもう少し豪華なイメージ。
しっかりと松の針のような葉が描かれているとはいえ、
カドマツという名前の竹の置物としか脳が認識しない。
3


ところで「松竹梅」のおめでたいイメージから、イラストの門松には松や竹と共に、梅もよく描かれる。ただ正月前にまだ梅はほとんど咲いていないので、実際は、松と竹の緑に対する彩りとしてナンテンや葉ボタンが組み合わされる場合が多い。
4


こちらはかなり立派な門松の写真。
しっかりと松が添えられている。
5

6

しかしである。
試しに竹がないと想像する、あるいは竹を指で隠して眺めて欲しい。
それで門松と思える?
逆に松がなくても門松でしょ。

だからたとえ名前が門松であっても、
主役が竹だと思っていたのは、ごく自然であると自分の無知を正当化(^^ゞ



話はそれるけれど、「門」の漢字は音読みがモンで訓読みがカド。ただしカドと読むのは門松以外に門出(かどで)くらいしか思い浮かばない。辞書には門口(かどくち)が載っていたが初めて聞く言葉。あと今はパナソニックの旧松下電器創業の地は大阪府の門真(かどま)市。

そしてこの「門」は出入り口のゲートと、人の集団というまったく違う意味を持つ。後者の例としては門人、一門、名門、それともう古語の部類になるが門地や門閥(家柄のような意味)など。また「笑う門には福来たる」は、門(ゲート)で笑うと福の神が何やら楽しそうと寄って来るのではなく、笑いの絶えない家庭すなわち門には幸福が訪れるとの意味。たぶん多くの人が勘違いをしている、あるいは笑うのはいいことだ止まりで深く意味を考えていない。

門松の「門」ははもちろんゲートとしての門である。音読みで揃えてモンショウとするより発音しやすいカドマツになったのだろうか。ただし門松の風習が始まったのは平安時代とされ、またその時代には門をカドとも言っていたようだ。そういえば♪年の始めの 例(ためし)とて〜で始まる小学唱歌「一月一日」では、♪松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに〜だった。


松を飾るのは冬でも色あせない常緑樹で、それが生命力を感じさせ不老長寿や繁栄の象徴と見なされたから。中国の一部の地域での風習が平安時代に日本にもたらされた模様。竹や笹を一緒にするのも同じ発想で、こちらは室町時代以降に広まった。

ところで門松の竹を斜めに切り落とした形を「そぎ」、節の位置で真横に切ったのを「寸胴(ずんどう)」という。昔は関東は寸胴、関西が「そぎ」と別れていたらしいが、今は全国的に「そぎ」が主流。これはあまり見かけない寸胴の門松で六義園のもの画像はhttps://x.gd/52kiZより引用(短縮URL使用)
10寸胴


ただし「そぎ」を始めたのは徳川家康だとの伝承がある。きっかけは家康31歳の時に武田信玄と対峙した三方ヶ原(みかたがはら)の戦い。舞台は現在の浜松市。ホームでの戦いにもかかわらず、まだ経験不足がたたって、攻め入ってきた信玄の陽動作戦にまんまと引っ掛かりコテンパンにボロ負けした。

前線から逃げ帰った家康は武田を竹に見立てて、次は信玄の首を取る意味を込めて斜めに切り落としたのが「そぎ」の始まりだとか。怒りにまかせて竹にそんな八つ当たりをしたかも知れないとしても、それが門松の竹と結びつくかどうかは疑問。

また資料によっては「そぎ」切りにした門松を家康が信玄に送りつけたとする説もある。う〜ん、戦争継続中ともいえる相手に門松を送るか? ゼレンスキーはプーチンにクリスマスカードを送らんやろ(^^ゞ また三方ヶ原の戦いは元亀3年(1572年)12月22日に起きている。まだところどころで戦火がくすぶっていただろうし、門松を正月までに届けられそうにない。信玄は翌年4月になくなっているから次の正月でもない。

まあ伝承とはその程度のものでーーー しかし嘘も100回言えば真実となるじゃないけれど、嘘も歴史に紛れ込ませればみたいなところがあって、全国的に「そぎ」が主流になった現在でも、武田家の本拠地だった山梨県では寸胴の門松が飾られる。

写真は山梨県庁の正面玄関に置かれた門松。竹が「寸胴」なだけではなく、松が低い位置にあるのにも注目。これは徳川の旧姓が松平なのに由来。つまり竹=武田が、松=徳川より上を意味している。ここまで来ると笑えるね。画像はhttps://x.gd/RDWTaより引用(短縮URL使用)
11山梨

またひとつ前の写真で六義園の門松が寸胴なのは、元の所有者だった三菱の岩崎家が武田家の末裔を称していたから。都立9庭園のうち4庭園は岩崎家由来なので、そこでは寸胴門松を飾っている。


不思議なのは家康によって「そぎ」が始められたとしたら、どうして昔(いつ頃の昔かはよくわからない)は関東が寸胴、関西が「そぎ」だったのか。どうにも反対のように思えるものの、ざっと調べた程度では情報を見つけられず。

また戦前から戦後しばらくまで東京で「そぎ」は格式が低いとみられていたようだ。「そぎ」の門松を飾るのは花柳界や水商売、それとお妾さんの家などであったそうだ。しかし、わざわざ「私は妾です」と正月飾りでアピールするかな。

逆に寸胴はなぜか水平に切ったところにお金が貯まると解釈され、商家、銀行などはそちらの門松だった。時代が下り銀行も「そぎ」を飾るようになると「銀行も最近は水商売になっちまったのかい」と江戸っ子気質の東京人がぼやいたとかぼやかなかったとか。

格式と関係するのかどうかは不明だが、なぜか銀座にある歌舞伎座の門松は寸胴である。画像はhttps://www.kabuki-za.co.jp/sya/vol22.htmlより引用
12歌舞伎座


でも大阪の松竹座は「そぎ」。京都の南座は写真が見つからず。また歌舞伎ではないが大阪にある国立文楽劇場の門松は「そぎ」3本と、寸胴2本のミックス。どうしてそうなった?



竹に話の重心が移ってしまったが、
門松の主役は松である。

中国からどのような形で伝わったかははっきりしないものの、平安貴族には年が明けて最初の「子の日」(ねのひ:十二支のネ、ウシ、トラ〜のネ)に、小さな松の木を引き抜き、それを持ち帰る「小松引き」との行事があった。松の生命力にあやかって長寿を祈願したようだ。画像はhttps://www.ensenji.or.jp/blog/25822/より引用
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それが変化したのが「根引きの松」で、これが松を門に備える門松のルーツ。
今でも京都などでは飾られているらしい。画像はhttps://x.gd/4SZiyとhttps://x.gd/0rLLdより引用(短縮URL使用)
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門松は松の枝を切って添える。しかし根引きの松はその名前の通り、また小さな松を根ごと引き抜いて飾りとして使う。けっこう残酷で植物虐待(>_<)


もちろん現在は「小松引き」をするのではなく、根引きの松専用に幼木が栽培されている。画像はhttps://x.gd/fy26Yより引用(短縮URL使用)
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なお東京でも松の枝を門や玄関に飾っているのはよく見かける。(画像はここをクリック)門松では大げさだし、また大きな家でないと似合わないから選ばれるのだと思う。しかしあくまで枝をカットしたもので、根引きで根がついているのは今まで見たことがない。



ーーーさてさて、そんなわけで松ぼっくりも門松のかわりでした(^^ゞ
ミニ鏡餅を一緒にしてお正月気分を出しましょう。
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何かを書こうと思いついて、関連する事柄を少し調べて、そこで面白い発見があるとそちらに話が脱線するのがこのブログ。ブログは公開日記のようなメディアで、何かを伝えるためにあるのが本来だろうけれど、私の場合は調べる、まとめる、書くをできるだけ短時間でこなすのを目的とした脳活ツールのような存在。たまに何を書くつもりだったのか忘れることもある(^^ゞ

そんな内容の駄文でよろしければ今年もお付き合いのほどを。
何かを調べようと検索でたまたまここに来た人は我慢してね。

さて新年から無駄に長い話になってしまったm(_ _)m
でも最後まで読んでくれた人はきっとよい年になります!

wassho at 00:53|PermalinkComments(0)

2024年11月11日

どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その4

過去3回までに書いたように、

   ツボの刺激に一定の効果はある。
   それを示す臨床データもある。

   しかし言い伝えられてきた気や経絡などは存在しない。
   当然ながら経絡上にあるとされるツボそのものにも実体はない。

つまり鍼灸や指圧は間違った理論によって説明されている。天体を観測して地球が宇宙の中心だと天動説を唱えていたのと同じ。
12


<疑問その1>
人類がツボを活用した歴史は原始時代まで遡る。今のところの最古記録は、アルプスの雪山から氷漬けミイラとして見つかった、5300年前(新石器時代)の遺体に残っていたツボ治療の痕跡。
アイスマン2

アイスマン

中国でツボが用いられたのは4600年ほど前とされ、理論体系化されたのは2200年前の後漢末期。曹操、劉備、孫権が覇権を争った三国志の時代でもある。

日本には4〜5世紀のヤマト王権時代=古墳時代に、来日した新羅(朝鮮)の医師によって最初にもたらされた。その後、7世紀の飛鳥時代に遣隋使・遣唐使が教本などを持ち帰った記録がある。また官職としての鍼灸師もいた。広く普及したのがいつ頃かはわからないが、平安時代の貴族の日記にはお灸の話がよく出てくるらしい。鍼が広まったのは室町時代になってのようだ。

さてその頃はもちろん、まあ明治の中頃までなら「気・経絡・経穴」のツボ理論を信じるのは仕方なかったとして、どうして今でも鍼灸師はそんな嘘八百な解説をするのだ? そして何と鍼灸師の国家試験を見たら経絡に関する出題があった(/o\)

ひょっとしたら「東洋医学の考えでは」と前置きを付ければ、科学的ではない話をしても許されると考えている? 私が常々バカじゃないかと思っている「暦の上では」とその話に意味がないのを断って、立春とか二十四節気で季節を述べたがる人の心理と一緒なのかな。理由は何であれ間違いは訂正しなければならない。地球が太陽の周りを回る地動説に基づくべきなのは当然。
13ガリレオ


<疑問その2>
とはいっても鍼灸師がツボの原理・メカニズムを解明できるわけではない。彼らは医療類似行為の技術者であり、そこまでの医学や生理学的な知識はない。解明するのは医者や研究者の仕事。

しかし調べてみると、ツボの原理・メカニズムについて研究が進んでいる様子は見られない。ごくたまに細々との印象。しかもハッキリ言って名前を聞いたことがないような大学での研究がほとんど。その一方で病院つまりは西洋医学の分野で鍼灸治療を取り入れているところは増えているようだ。その中には東大病院も含まれる(リハビリ部門)。そういえば鍼灸ではないけれど、以前に入院したとき漢方薬を飲まされてビックリした。

医学界・科学界がツボや反射区の原理・メカニズム解明に興味がないのが残念。でもどうしてなのだろう。とてつもない発見が隠れていて研究のやりがいがありそうなのに。

もっとも臨床(医療の現場)では原理・メカニズムが不明でも、結果がでて治療に役立てばそれでいいのかも知れない。スマホの中で電子部品やプログラムがどう機能しているか知らなくても便利に使っているのと同じ。



それでも鍼で刺し、モグサを燃やし、指で押したりして、薬も飲まずに身体の不調を改善する摩訶不思議なツボの秘密をナントカ知りたいと望んでいる。

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まずは単純な好奇心である。「気」に相当する未知なるエネルギーが発見される可能性はほとんどないとしても、見つかったらそれはそれで生理学・医学と物理学の両方でノーベル賞をもらえる(^^ゞ おそらく刺激によって何らかの伝達物質が放出され、それがネットワーク的に機能しているはずで、それを解明できれば科学・医学は大きく前進する。

そしてそれはフィードバックされて、鍼灸の進化にもつながるに違いない。原理・メカニズム以外の鍼灸の謎は、多数のツボがあって多数の効能があるけれど、どうやってそれを突き止めたのかである。原理・メカニズムがわかっていないのだから、論理的に考えると試行錯誤して見つけたと考えるしかない。つまり現在の鍼灸は人類が5000年以上かけてアッチを刺しコッチを押したりしてツボを探り当ててきた。

原理・メカニズムが解明されれば、新たなツボや新たな効能も見つかるだろう。あるいは2つ同時に刺激を与えれば〜刺激を与える順番で別の働きをするとか。ひょっとしたら「お前はもう死んでいる」の北斗の拳に出てきたような必殺の急所も!

また現在の鍼灸は主に身体の不調を改善する効果しかないものの、原理・メカニズムの解明によって病気の治療にまで発展できる可能性もある。逆にその原理・メカニズムを応用した薬の開発も考えられる。「飲むだけで痛くない!足裏グリグリ君顆粒」なんてのが発売されたりして。


「原理・メカニズム」「どうやって突き止めた」に続く、さらなるそして最大の謎がもうひとつある。ツボや反射区は対象となる臓器や器官と離れた場所にも多く存在している。神様が設計したか自然の進化でそうなったかは別として、身体とはそれなりに合理的に構成されているものである。それなのになぜ関係のない離れた場所に?

松尾芭蕉もお灸を据えた、膝の下にある足三里(あしさんり)のツボは胃腸にも効くという。どうしてそんなところにあるのだ。足三里がお腹にあれば胃腸の調子が悪いときにそこをさすったりして自然と刺激を与えられるのに。頭痛のツボは足の甲にもある。誰が頭が痛いときにそんなところを触るネン!

どう考えても離れた場所にあるのは非合理的。でも既知の知識で推察するからそう思うのであって、これも何か意味があるのだろう。ツボの原理・メカニズムが解明されれば人体や生命の神秘にまた一歩近づけると期待している。一方でこれは設計ミスあるいはプログラムのバグのようなもので、ひょっとしたら鍼灸とはそれを利用したゲームの裏技みたいな方法かとモーソーしたりも。



ところで「その3」では気・経絡・経穴からなるツボ理論を、古代ギリシャ人が「万物は火、空気、水、土からなる」と考えていたようなものと例えた。その4大元素論をベースに中世〜ルネサンス期のヨーロッパで盛んに行われたのが錬金術。
錬金術

もちろん何かと何かを混ぜ、どのように手を加えようが物質が金に変わることはない(核分裂を利用するなら理論的に可能性はある)。錬金術は最終的にニセモノとして廃れたものの、その課程で質量保存の法則や元素表などが考え出され、様々な化学薬品、蒸留や火薬などの技術の発見にもつながった。つまり錬金術は科学である化学を生み出した。あのニュートンだって錬金術に取り組んでいる。

またあまり知られていないが、錬金術は物質を金に変えると同時に、それを飲むと不老不死をもたらす賢者の石やエリクサーと呼ばれる薬の開発を目指していた。


どう?医学や生理学に携わっている皆さん、
ツボの研究をする気になってきた?(^^ゞ




おしまい


<補足>
指圧は日本で生まれた施術で、大正時代初めに浪越徳治郎によって確立された。子供の頃に彼が「アーッハッハ」と豪快に笑い「指圧の心は母ごころ、押せば生命の泉湧く」と言いながらよくテレビに出ていたのを覚えている。でも単におもしろいオッサンのイメージで、指圧の創始者だったとは知らなかったな。また新婚旅行で来日したマリリン・モンローにも指圧したらしく、彼女の素肌に触れた唯一の日本人ともいわれる(^^ゞ 94歳で亡くなったのは2000年。写真を見るとまさに指圧のためにあるような大きな親指!
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wassho at 22:17|PermalinkComments(0)

2024年11月08日

どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その3

さて
鍼灸・指圧あるいはツボについて素直に納得できない理由とは。

それれは前回に書いた気・経絡・経穴(=ツボ)が空想の産物だから。361箇所のツボとされるところをメスで深く切り開いてもそんな組織は何もない。身体を隅々まで解剖したって経絡なんてどこにも見つからない。経路があるとされる位置とそうでない位置で人体の組成は同一である。ましてや正気と邪気なんて、その正体は誰も知らずまた確かめようがない。

古代ギリシャ人は火、空気、水、土が万物を構成する4大元素だと考え、18世紀頃までヨーロッパで支持されたていた。古代中国の考え方は火・水・木・金・土の五行思想。金はゴールドではなく金属の意味で、これに月と太陽の日を加えたのが曜日名の由来でもある。

今では万物を構成するのは、原子やその複合体である分子だと多くの人が知っている。つまり気・経絡・経穴の理論は、4大元素と同じく科学が未発達な時代のいわば思想に過ぎない。医学的な根拠は何もないどころか実体として存在すらしない。

それに「気が流れる経絡」があり「その経絡上にある気の出入り口である経穴」を基本原理としながら、経絡とは無関係に奇穴(きけつ)と阿是穴(あぜけつ)があるなんて、そもそも論理として破綻している。

だからツボとは、経絡とは〜と説明されればされるほど、
迷信やオカルトめいたものを感じてしまう。



そして問題はーーー
それでもツボを刺激する鍼灸や指圧に効果があること(^^ゞ

もちろん361箇所あるツボのすべてに、鍼灸の教科書に書いてあるような効能があるとは思っていない。しかし肩こり、腰痛、顔のむくみに関しては、私の周りにも鍼を打って解消した、少なくとも本人は満足している人が何人かいる。

以前にテレビで見てびっくりしたのは「赤ちゃんが逆子→エコー検査で見ると赤ちゃんはお腹の中でじっとしていて動かない→妊婦の足の小指横に米粒ほどのお灸→途端に赤ちゃんが活発に動き出し身体の向きを変え始める」といった映像。その後、赤ちゃんは逆子ではなく正常に生まれたとの報告。出産までにお灸以外の措置も他にしたのかどうかはわからなかったし、テレビなので話を盛っている可能性もあるが、足のツボを刺激して赤ちゃんが反応したところまでは事実。

そういえばツボは対象とする身体の部位から離れたところにもあるのが不思議。イラストは肩こりの例で、肩や首回りだけでなく、腕や手にも方に効くツボがある。画像はhttps://alinamin.jp/tired/stiff-shoulders-pressure-point.htmlから引用編集
5


さらに足裏には遠く離れた臓器や器官とつながっているツボたくさんがあって、その臓器や器官が弱っていれば押されると痛いらしい。たまにテレビで足裏マッサージをしてもらって激痛に悶絶するシーンがある。あれってそんなに痛いのかな。
6-1

6-2


これに似た足裏マッサージコースを歩いて、耐えきれないくらい痛くて途中脱落した経験はある。しかしそれがツボの反応なのか、これだけの突起の上に体重がかかるから痛いのかよくわからなかった。ニブイのかも(^^ゞ
6-3


ツボと表現したけれど、実は上に載せた足裏のイラストに描かれているのは、反射区と呼ばれツボとは別物。特定の反射区を刺激すると対応する臓器や器官に反射的な効果があるという。全身に分布するが足に多く特に足裏に集中している。ツボが点なのに対して面に展開しているのが大きな違い。だから刺激の与え方がツボとは異なり、押すだけでなく揉んだりさする施術もある。それが足裏マッサージと称される由縁。

反射区では末梢神経がそれぞれの臓器や器官につながっているともいわれるものの、医学的に解明されておらず根拠がないのはツボと同じ。ただし神経系統を理論に据えているから、ツボでいう気や経絡とは関係ない。

反射は英語でリフレックスreflex。最初の回で書いたリフレクソロジーはそれに学や論を意味する接尾語のオロジーologyを合わせた造語。スペルはreflexology。日本語では反射療法や反射学。リフレッシュのリフレじゃないよ。発祥は古代エジプトともいわれ、1917年にアメリカの医師が発表した論文が現在のリフレクソロジーのルーツ。なぜか台湾とイギリスでまずブームとなり、現在の日本でも台湾式と英国式のリフレクソロジーが主流。英国式はオイルを塗ってソフトに、台湾式がゴリゴリ悶絶(>_<)


ちなみに反射区ではなくツボも足にはたくさんある。しかし見つけた限りで足裏には2つしかなかったのは意外。その2つのうち前回に書いたWHO認定の361箇所に入っているのは湧泉(ゆうせん)のみ。画像はhttps://x.gd/qGtWtから引用(短縮URL使用)
7-1


湧泉は足の指を曲げてじゃんけんのグーの形をしたときに凹むところ。身体に老廃物が溜まっている時は硬くなり、活力がなくなるとブヨブヨの状態になるらしい。
7-2

効能は血行促進、頭痛、のどの痛み、首のコリ、食欲不振、高血圧、不眠、冷え性、腰痛、むくみ、ホルモンバランスなど多岐にわたる。また湧泉を刺激すると体力・気力が回復し、ストレスや不安が減少する(ホンマカイナ)。いわゆる万能ツボであり、名前の由来は「生命の泉が湧き出る」。私はなぜか右足にだけ湧泉を押すとクゥーと脳天にしみるような痛みを感じる。ナンデ?(/o\)




ーーー続く

wassho at 23:52|PermalinkComments(0)

2024年11月06日

どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな その2

鍼と灸そして指圧はツボと呼ばれる部位に刺激を与えて、痛みを取ったり体調不良を改善する施術。法律的には医療類似行為に属する。最近は脳卒中のリハビリやアトピー、心身症さらには美容に至るまで様々な分野に適応されている。(主に鍼で)

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その効果を否定はしない。

まず前回に書いたように施術者になるには国家試験があり、言い換えればこれらは国家が認めた技術。だから一部の症状に対しては健康保険も適用される。それにコンビニより多い歯医者よりもさらに多い施設があって、年間5000億円ほどの市場規模なのは、その効果があるからこその需要。手をかざしてハンドパワーを送るとか、怪しげな波動エネルギーなどの類いと違って、広く受け入れられ客観性のある実績を持っているのは理解している。

それでも素直に納得できない気持ちは多分にある。


さて鍼と灸そして指圧のメカズムの基本的な説明はこうだ。

人体は気、血、津液(しんえき)が身体を巡り、
相互に影響しながら生命活動を維持している。

↓  血はもちろん血液。
↓  津液は血液以外の体液の総称。単に水(みず)とも呼ぶ。
↓  気とはエネルギー的存在とされる。

気は体内に張り巡らされている経絡(けいらく)を通って、臓器や筋肉や皮膚に
エネルギーを供給する。血と津液も経絡を通る。人間の場合に経絡は14本。

2


経絡には気の出入り口である経穴(けいけつ)があり、
これの一般的な名称がツボである。

また経絡上にない奇穴(きけつ)と阿是穴(あぜけつ)があり、
これらもツボと呼ばれる。つまりツボ=経穴+奇穴+阿是穴。

ツボは諸説あるが1000箇所以上存在する。

ツボには経絡(けいらく)を通じて身体各部の反応が現れる。
またツボへの刺激によって身体各部を活性化させる。

もう少し東洋医学的に表現すると、気には正気と邪気がある。
正気は自然治癒力を高めたり、身体を正常に機能させる働きがある。
邪気はその逆で病気を引き起こす。

正気と邪気は経絡を通っており、ツボ=経穴はその出入り口。
邪気を外に出し、正気を補うのが鍼灸や指圧によるツボ治療。

3


だいたいこんなところ。
気には正気と邪気があるなんて実に怪しげである(^^ゞ


ツボについて調べると多くの鍼灸院のページで「WHO(世界保健機関)によって認定されたツボが361箇所ある」との記述が見られる。国連機関の名前を出して、少しでも怪しさを払拭したい、科学医学的正当性をアピールしたい気持ちの表れにも思える。

ついでに書いておくとWHOに認定されたとはいえ、全世界や医学界がそれに関与したわけではない。この認定会議が開かれたのは2006年。場所は日本のつくば市。参加したのは日本、中国、韓国、モンゴル、シンガポール、ベトナム、オーストラリア、アメリカ、イギリスの9カ国。他に2つの国際団体も参加しているもののWFAS(World Federation of Acupuncture Societies:世界鍼灸学会連合会)とAAOM(American Association of Oriental Medicine:米国東洋医学協会)だからツボの身内。米国東洋医学協会は2007年から米国鍼灸東洋医学協会になった。

そもそもこの会議は医学的データを検証して「ツボの科学的根拠」を認定したものではなく、ツボを扱う鍼灸師や研究者約30名ばかりが集まって、日本式、中国式、韓国式でズレがあった「ツボの位置」について調整を行ったに過ぎない。だから「WHOによって認定されたツボが361箇所ある」とは優良誤認を招きかねない表現である。

参考までにWHOは1979年に43の疾患について鍼灸施術の効果を認めている。ただし結果的に効果があったのを確認しただけで、そのメカニズムを解明したわけではない。1989年には361箇所のツボの名称の標準化も行っている。


それはさておきWHOが認定したツボ361箇所とは左右対になっているものが309箇所、単体が52箇所なので、実際には309 × 2 + 52 =合計 670箇所。なおそれまで日本でツボとされてきたのは354箇所でWHO認定により7つ増えたことになる。

他にも昔からツボとされているところを含めると1000箇所以上になる。人間の身体の表面積は日本人成年男子平均で1万6900平方センチ。(自分の値を知りたければ、ここで計算できる)それをWHO認定の670箇所に限定しても1万6900 ÷ 670 = 25平方センチ。平均すれば5センチ四方にひとつ全身にビッシリとツボがある計算。ツボの知識がなくても、どこか適当に押せば何かには効くんじゃない(^^ゞ

4




ーーー続く
今回も本題にたどり着けなかったm(_ _)m

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2024年11月03日

どうしてツボ(鍼灸・指圧)を医学・科学的に解明しないのかな

30歳前後の頃は重度の慢性的な急性肩こりに悩まされていた。
慢性なのに急性とはおかしな表現だが、次のような症状である。

  午後3時か4時頃に「そろそろ来る」との予感がある。
  30分ほどすると肩の筋肉がギューッと収縮し始める。肩甲骨上部のときもある。
  触ると石か鉄になったかと思うくらい筋肉の一部が硬くなっている。
  肩が凝るというより肩が痛い感覚。
  なぜか元気までなくなる(/o\)

その急性の肩こりが数日おきに起きるから慢性の急性肩こり。どうにも我慢できないときは同僚に揉んでもらったりもしていたが、効果は揉まれているときとその後の10分くらいしか続かない。でも不思議なことに夜になるといつの間にか治まっている。

そして35歳くらいからその症状は出なくなった。現在、肩が凝るのは年に1〜2回くらいで、しかもあの痛かった収縮性の肩こりではなく普通の肩こり。

先日、久しぶりに強めの(普通の)肩こりになった。おそらく極度に集中力が必要なパソコン作業を長時間したのが原因。収縮性の肩こりは数時間で治まるが普通の肩こりは数日続くので、これはこれでやっかい。そんな話をある人にすると、「私の通っている鍼の先生は名医なので紹介しますよ」と言われて、それが今回のブログのきっかけ。実はずっと昔から疑問に思っていたテーマでもある。
medical_harikyu_man

さて鍼灸と書いて「しんきゅう」。

「鍼」を「しん」と読むのは熟語となった「鍼灸」くらいで、単独で使う場合は「はり」。先ほどの「鍼の先生」は「“はり”の先生」。「針」と「鍼」はどちらも金属のハリを意味するが、慣用的に裁縫などに使うのを針、治療で身体に刺すのを鍼と使い分ける。また身体にハリを刺すのは元は中国より伝わった技術で中国式ハリもある。なぜかそちらは「針」の漢字を使う場合も多い。

灸の訓読みは「やいと」。私の祖父母世代は「お灸」ではなく「やいと」と言っていたような気がする。なお「お灸」の「お」は単語を敬語化する接頭辞である。ただし「お灸」の場合は「お」を付けないと意味が通りにくい珍しい例かと思う。あっ「おにぎり」や「おむすび」もそうだった。

その「鍼」と「灸」がセットで鍼灸なのは、どちらも同じようにツボとされる部位を物理的に刺激して、痛みを取ったり体調不良を改善する行為だから。言うまでもなく「鍼」はハリを刺して、「お灸」はモグサを燃やした熱によって。同じくツボを刺激する施術には「指圧」もある。

鍼と灸と指圧を「業(ぎょう)として行う」場合は国家資格が必要。「業として行う」は法律独特の言い回しで、いくつかの要素が含まれるものの、平たく言えば職業=対価を得て行うとの意味。

ツボ関連の資格を得る国家試験は次の3つに分かれている。

  はり師
  きゆう師
  あん摩マツサージ指圧師

なぜか法律では「鍼」と「灸」は平仮名で、しかも灸は「きゅう」と発音するのに「きゆう」と書く。また「マッサージ」ではなく「マツサージ」である。按摩も「按」だけが平仮名。

鍼灸師あるいは鍼灸院とよくいうものの実際は、はり師ときゆう師で別の資格。両方の資格を取る人が多いのだと思われる。ただ鍼灸はそうだとして、あん摩とマッサージは似ていても、指圧はその2つとは少し違うようにも思える。指圧の資格を取りたければ、あん摩とマッサージも勉強しなければならない。あん摩・マッサージ・指圧それぞれの違いについては次のページをご参考に。

    https://www.idononippon.com/about/9033/
    https://www.hinuma-acu.com/962862247

国家試験を受けるには高校卒業後に、厚生労働省か文部科学省が指定する専門学校で3年間、あるいは大学で4年間学ぶ必要がある。そんなにたくさん学ぶ内容があるのかと思うけれど、とにかくそういう仕組みになっている。また専門学校の学費は500万円前後かかる。ただし医師はこれらの資格を取らずに「業として行う」ことが可能。医学部で「鍼」「灸」「指圧」ましてや「あん摩・マッサージ」なんて習わないはずなのに、どうして認められるのだろう?

ちなみに国家試験の合格率は

   はり師         69.3%(2023年)
   きゆう師        70.2%(2023年)
   あん摩マッサージ指圧師 84.0%(2023年)

   医師          92.4%(2024年)
   歯科医師        66.1%(2024年)

もちろんこれは医師免許のほうが合格率が高い=簡単なのではなく、いわゆる受験生のレベルの差である。医師と歯科医師の差も同じく。
okyuu

「あはき」との言葉を聞いたことがあるだろうか。これはあん摩マッサージ指圧の「あ」、鍼の「は」、灸の「き」の頭文字をとった略語。あはき業、あはき療養、あはき師などに使われる業界用語。「鍼」と「灸」の資格だけを持つ人を「はき師」とも呼ぶらしい。別に鍼灸師でいいと思うけれど(^^ゞ

鍼灸の施術を行っているところは2020年のデータで、全国に7万412箇所ある。内訳は「はき」が3万2103、「あはき」が3万8309箇所。「あ」だけだと1万8342箇所。

参考までにコンビニの数は5万5709(2024年9月)で歯医者は6万7755(2022年)。よく歯医者はコンビニより多くて飽和状態と言われるが鍼灸はそれより多い。


なお「あはき」と同じ意味で「鍼灸マッサージ」との新しい言い方もある。こちらは「あん摩と指圧」の単語が省かれてお気の毒。そういえば「按摩」は、ほとんど聞かなくなってもう死語に近い気がする。昔は視覚障害者で按摩の職業に就く人が多く、按摩=盲人=差別との謎ロジックで按摩は放送禁止用語になっている。そういうのも影響しているのかも知れない。


ところで「あはき」を「業として行う」には国家資格が必要なはずなのに、エステティックサロンやいわゆるリラクセーションとしてのマッサージ、それに整体やカイロプラクティックなどに国家資格はなく無免許での施術となる。ホテルなどで部屋に来てくれるマッサージ、足裏マッサージなども同様。そのあたりは法律的に微妙でグレーな領域。エステでは「あ」の資格を持つ従業員が施術するのでなければ、マッサージの言葉は使えず「リラクセーション、リフレクソロジー、トリートメント、ケア、癒やし、ほぐし」などと表現する。例えばフェイシャルケア。

国家資格がある=法律で規制されているといえる。しかし同時に法律で利権が守られているでもある。このあたりは大人の事情ならぬ大人の社会構造。だから「あはき」業界とエステ業界、整体業界は仲が悪い(^^ゞ また「あはき」と似たような国家資格に柔道整復師がある。いわゆる接骨整骨。こちらは「あはき」とは健康保険の取り扱い方が異なり、それが原因でここでもよく揉めている。

なお「治療」の言葉は医師のみに認められた行為で「あはき」で行うのは「施術」と法律ではなっている。なのに「〇〇鍼灸治療院」なんて名前はざらにある。「あはき」で開業するには自治体への届け出が必要なので、つまりその名前は公に認められているともいえる。その当たりの事情はナゾ

参考までに業界規模は

   あはき       4890億円(2021年)
   柔道整復      4790億円(2021年)
   エステチックサロン 3130億円(2024年見込)

「あ」「は」「き」それぞれを知りたいところだが、兼業しているところも多いせいか個別の数字は見つけられなかった。

例によって下調べでわかった内容で、ずいぶんとボリュームを取ってしまった。
本題は次回にm(_ _)m




ーーー続く

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2024年10月26日

カモシカのような脚のナゾ その2

カモシカの脚は細くないし短いのに、どうしてスラッと長い美脚を「カモシカのような脚」なんて表現するのか。前回に書いた内容をおさらいすると、画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/238926とhttps://x.gd/kL4pjから(短縮URL使用)から引用編集
7カモシカの脚


英語で「ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legs」との表現があり美脚を意味する。ガゼルはカモシカと同じくシカではなくウシ科の動物。画像はhttps://animalia.bio/grants-gazelleから引用
8ガゼル

ガゼルに似たウシ科で優美な姿をしている動物をアンテロープと総称し、漢字では羚羊(れいよう)と書く。
     ↓
カモシカはアンテロープ含まれない。
しかしなぜか日本では羚羊と書いて「かもしか」とも読まれてきた。
     ↓
ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legsの英文が日本に入ってきたとき、ガゼル=羚羊そしてカモシカ=羚羊なので、「カモシカのような脚」と意訳あるいは誤訳した。

ーーーというのが通説。



もっともらしいストリーではあるけれど、どうにも疑問が残る。
誰かカモシカの脚は太いし毛むくじゃら!ーーーと言わなかったのかと。
今ならネットですぐに突っ込みが入るのに(^^ゞ


このLegs like a gazelle / gazelle-like legsなどの英文表現が日本に入ってきたのは、明治維新以降と考えられる。ただし多くのイギリスやアメリカ人が、アフリカからモンゴルにかけて生息するガゼルを大昔から知っていたわけではないので、この表現が生まれたのはもっと後のはず。

新聞や雑誌に報道写真が載るようになったのは1920年代頃。ガゼルを紹介するアフリカ紀行のようなものまで写真が使われ、イギリスやアメリカ人にガゼルの姿が広く知られるようになったのは第2次世界大戦前後のような気がする。だとすると日本人が知ったのは戦後か? (単なる当てずっぽう)

戦争が終わったのは1945年(昭和20年)。
カモシカは明治期以降に乱獲され、1955年(昭和30年)には全国で3000頭程度にまで激減。1934年に国の天然記念物、1955年に特別天然記念物に指定して保護されたので、現在は10万頭を超えると推測されている。

日本全体での生息数の時系列データは見当たらなかったものの、1970年代頃までは「幻の動物」とされていたカモシカ。「カモシカのような脚」と言われてもカモシカを見た人はほとんどいなかったのかも知れない。


いや、それでもおかしい。
幻の動物扱いされていたのは、それなりにカモシカに関心があった証拠。その姿を知っていた人は少なからずいたと考えられる。また絶滅寸前まで乱獲したのなら逆に、少し前までカモシカは身近な存在でもあったはず。

そのカモシカを知っている人たちは異を唱えなかったのか。そもそもカモシカを知らない人が多数だとして、じゃあなぜ見たこともないカモシカを比喩にした「カモシカのような脚」の表現を受け入れたのかも不思議。「センザンコウみたいな肌」といわれてもピンとこないでしょ。シカの足は細い 〜 よく知らないけれどカモシカというシカがいて、シカよりもっと細い足らしいと連想したのだろうか。


2002年から2012年まで放送された「トリビアの泉」という雑学番組があった。そこで「カモシカの脚は太い」と紹介されたときに、かなりの驚きをもたれたといわれる。ということは約50年間、日本人はカモシカを知らないのに「カモシカのような脚」を細い脚だと認識して、しかも間違って認識していたことになる。我々はアホなのか?(^^ゞ

「トリビアの泉」で取り上げられたとはいえその効果は限定的。現在も多くの人は「カモシカのような脚」を細くて長い脚あるいは美脚だと思い、大根足、象みたいな脚とともに脚に関する三大慣用句として健在。


精一杯に想像力を働かせると、ガゼルのような脚がカモシカのような脚として紹介され広まりかけたとき、カモシカの脚は太いと知っていた人はいただろうが、当時はそんな意見を広く世間に発表する手段は新聞の投書欄くらいしかない。まあ目くじらを立てて(これも海のクジラじゃないよ)投書するような話でもなく、誰も指摘しないままカモシカという脚の細いシカの例えと多くの人が信じ込んで今日に至るーーーそんなところかな。

他に似たような事例はないかと考えているがあまり思い浮かばない。誤解の点では「馬子にも衣装」を「七五三で着飾った孫」に由来すると思っている人が多いのに近いか。あるいは動物の比喩なら、ほとんどの人は「月とスッポン」がそう言われる理由を考えることなく使っている。

「カモシカのような脚」と同じ勘違いの慣用句が見つかったら、
またブログを書きましょう。




おしまい

wassho at 23:33|PermalinkComments(0)

2024年10月24日

カモシカのような脚のナゾ

カモシカのカモとは何かについて書いたのが前回のブログ。そのきっかけとなったカモシカをテーマとした番組を見て、実は最初に?と思ったのはカモシカの脚についてだった。


これがカモシカ、正確には日本固有種のニホンカモシカ。ウシ科ヤギ亜科に属するカモシカはこのニホンカモシカと、スマトラカモシカ、台湾カモシカの3種しかいない。やや違う系統に朝鮮カモシカとも呼ばれるオナガゴラールがいる。名前から推測するとアジア中心に生息する動物のようだ。3枚目の画像はhttps://www.tokyo-np.co.jp/article/238926から引用
1-1

1-2カモシカ

1-3カモシカ

カモシカの写真や映像を見るのは初めてではないにしても、あまり記憶に残っておらず「カモシカの絵を描きなさい」と言われてもお手上げなレベルだった。

そしてカモシカを改めてみて思ったのは、顔は可愛いけれど

   脚、太いやん(^^ゞ

誰もが知っている「カモシカのような脚」との言葉から受けるイメージとはずいぶんと違う。シカのほうがよほど脚が細い。画像はhttps://www.nara-np.co.jp/news/20240717213347.htmlから引用
2-1シカ


胴体とのバランスでは馬だってカモシカより細い。
2-2馬


カモシカはシカ科ではなくウシ科だからか、ウシと同じような太さ。カモシカのような脚ですねと女性にいえば喜ばれても、ウシみたいなといえばシバかれるはず(^^ゞ
2-3牛


だいたい細くて長い脚ならキリンにかなう動物はいない。
2-4キリン


それがどうして「カモシカのような脚」が細くて長い、いわゆるスラッとした美脚の代名詞になったのか。考えてみれば前回に書いたように、カモシカは山の急斜面で踏ん張って暮らしているから脚がガッチリしているのは当然なのに。画像はhttps://x.gd/kL4pjから引用(短縮URL使用)
3



前回と同じく、これまた諸説ありでハッキリとはしないものの、
ネットで解説されている情報をまとめると以下のようになる。

1)
英語に「ガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legs」という表現がある。意味はカモシカのようなと同じで細くて長くスラッとした美脚。

これがガゼル。シカのように見えるがカモシカと同じくウシ科の動物。でもカモシカと違ってこれなら美脚の比喩として使われるのは納得。画像はhttps://animalia.bio/grants-gazelleから引用
4ガゼル

ガゼルはアフリカ、中東、中国北部に掛けて生息している。大きくはガゼル属、トムソンガゼル属、ダマガゼル属に分かれ、そこから13種ほどに細分化される。運動能力に優れ俊敏で、瞬間的には時速90km以上で走りチーターを振り切ることもあるらしい。

ちなみに日産がシルビアの姉妹車としてラインナップしていたガゼール(初代1979〜1983年:写真上、2代目1983年〜1986年:写真下)は、ガゼルをガゼールと引き延ばしてネーミング化したもの。スペルはGazelleと動物のガゼルと同じ。

5日産ガゼール

他にはアディダスにもガゼルというスニーカーがあり、日産と同じくその俊敏さ、足の速さにあやかったネーミング。また英語で成長著しい中小企業をガゼルと呼ぶ使い方もある。



2)
ここから話がややこしい。
写真は上がオリックスで下がインパラ。
6-1オリックス

6-2インパラ

ガゼルに近い品種なのは一目瞭然。どちらもウシ科。ウシ科にはこういう動物がたくさんいて、ウシ科約130種のうち約90種がこんな感じ。これらをまとめてアンテロープと総称する。ウシ科の中で優美な姿をしているのをアンテロープと呼んで、それ以外のウシ科動物と区別したといってもいい。だからこれは生物学的な分類名ではない。タヌキとアナグマをまとめてムジナというのと同じ。

アンテロープは漢字で羚羊(れいよう)と書く。おそらく中国での命名が日本に伝わったのだろう。そして前回にカモシカは漢字で氈鹿と説明したが、同じく羚羊と書いてカモシカとも読む。
6-3

その理由はわからない。昔はカモシカも羚羊(れいよう)=アンテロープと見なされていたのか。今とは基準が違ってウシ科の中で優美な姿をしているではなく、シカに似ているのをまとめてアンテロープと呼んでいたのかも知れない。

ちなみにウシはウシ科、シカはシカ科でまったく別の品種。
現在のアンテロープの定義は

  ウシ科 ー (ウシ族+ヤギ亜科)=アンテロープ

カモシカはヤギ亜科カモシカ属なのでアンテロープではない。

話はそれるが羚羊には羊の字が使われている。しかしヒツジはウシ科ヤギ亜科ヒツジ属である。アンテロープはヒツジにまったく似ていないのに羊の文字を当てたのも不思議。



3)
そしてガゼルのような脚 Legs like a gazelle / gazelle-like legsの英文が日本に入ってきてそれを翻訳する際に

   ガゼル?何それ?
   動物みたいだけれど、そんな動物は誰も知らないぞ。
     ↓
   どうやらガゼルは羚羊の一種らしい。
   じゃガゼルはカモシカと訳そう。

それで「カモシカのような脚」となったとか、その当たりが大方の説明である。


が、しか〜しなのである。
それって、おかしいと思わないか?



ーーー続く

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2024年10月22日

カモシカの名前由来の諸説

01-01

しばらく前に見たテレビ番組。
取り上げられていたのはカモシカ。

カモシカについては何かと知らない話だらけだった。
まずカモシカはシカではなく、ウシやヤギと同じウシ科の動物なんだって。

蹄(ひづめ)が2つに分かれており、さらに大きく開くこともできるので踏ん張りがきく。それでカモシカは山の標高の高いところや急斜面に生息している。画像はテレビ画面を撮影
01-02蹄

しかし平地や標高の低い場所に住むシカが、この30年間で5倍にも増えてカモシカの住むエリアにも進出。エサとなる草を食べ尽くすのでカモシカの生息が脅かされているというのが番組の趣旨。



ところでカモシカのカモの名前の由来については諸説ある。
でもどれも怪しい。

(1)
まず山の険しいところを「かま」と呼び、カモシカはそこに住んでいるからという説。

もっともらしく聞こえるものの、山の険しいところを「かま」と呼ぶ事例は見つけられなかった。山用語で「鎌」といえば切り立って細い尾根、いわゆる馬の背を指す。カモシカは斜面に生息しているので「鎌」は当てはまらない。山岳の漢字に山岳(かま)とフリガナを振ってあるものもあったが、辞書に載っている限りでは山岳を「かま」とは読まない。


(2)
カモシカの肉は鴨のようにおいしいからとの説もある。

カモシカは1934年(昭和9年)に天然記念物として指定され、1955年からは特別天然記念物。基本的に天然記念物は保護される対象とはいえ、近年になってカモシカは増えすぎたため、一部の地域では有害鳥獣として駆除も行われている。(天然記念物=絶滅危惧種ではない)

天然記念物が理由なのか、あるいは年間で捕獲されるのが600頭前後と少ないせいかどうかは知らないが、カモシカの肉は市場で売られたりレストランで供されることはない。それでも駆除したカモシカの肉を食べた人はいるわけで、ネットでその感想をいくつか見つけた。

それによれば「鴨肉のよう」と書いてあるレポートは皆無。鹿よりも牛に近いとの感想はいくつかあり、まあウシ科だからそうなのだろう。だいたい古代にカモシカを食べていた=カモシカとネーミングしたのは山の民であって、彼らは鴨の味なんて知らなかったんじゃないかな。

だからこの説も却下。


(3)
カモシカを漢字で書くと氈鹿。これは毛氈(もうせん)が昔はカモシカの毛から作られているのに由来し、氈は「かも」とも読むのでカモシカと呼ぶとの解説も多い。


毛氈(もうせん)とは動物の毛を圧縮した不織布。より一般的な言葉ならフエルト。主な用途は敷物である。現在、毛氈の名前で呼ばれるのはほとんどが茶道の野点(のだて)や、雛人形で使われるもの。赤い毛氈は緋毛氈(ひもうせん)で別格扱い。VIPが通るレッドカーペットと同じ。書道の下敷きに用いられるのも高級品はウールの毛氈。安いのはポリエステルのフエルト。画像はhttps://x.gd/yLFYzとhttps://x.gd/dGKeXから引用(短縮URL使用)
01-2毛氈

01-3


「氈」の字を辞書で引くと音読みの「せん」、訓読みの「もうせん」「けむしろ」としか載っていない。しかし以前は「氈」を「かも」とも読んでいたようだ。「おりかも」とも言った。
01-4

その意味は獣毛で織った敷物。それがカモシカの毛だったのか、また毛氈のように不織布のフエルトが含まれるかは不明。また昔は馬の鞍の下に敷くクッション材にカモシカの毛皮を使い、それを「かも」と呼ぶ事例も見つけた。画像はhttps://pacalla.com/article/article-1412/から引用
01-5


では毛氈(もうせん)や「氈(かも)」がカモシカの名前の由来なのか。何となく順序が逆のような気がする。カモシカなんて人より先に日本に生息していて、既に縄文時代には食べられていたのがわかっている。それに対して毛氈(もうせん)が日本に伝来したのは奈良時代。日本でも作り始めて、それにカモシカの毛を使ったとしても(グルーバルスタンダード的には羊毛)、その頃にカモシカの名前はあったはず。それでいわゆる当て字で氈鹿と書いて「カモシカ」と読ませた可能性が高い。


他にも説があるものの、いずれも「カモシカの名前の由来には諸説ある」の域を過ぎない。昔のことなんてなかなか確定できないので「諸説ある」となるのは仕方ないにしても、けっこういい加減な「諸説」がまかり通っていると思ったしだい。

そしてネットの時代になって、真偽を確認せずに、あるいは深く考えずにコピペ、コピペを重ねて拡散し、いつのまにかすっかり事実のように扱われているケースもあるのが怖いところ。AIだってその情報源はネットにある情報。これからはフェイクニュースならぬフェイク諸説も増えてきそう(/o\) だから気をつけないと。


結局、あれこれ調べてカモシカのカモの由来について、納得のいく説明にはたどり着けず。考えてみればシカだって、なぜシカなのかわからないから別にいいけれど。でもとりあえずカモウシとよばれなくてよかったねカモシカ君(^^ゞ

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2024年10月19日

雄しべと雌しべの勘違い

ひとつ前のブログを書く際に植物の精細胞と卵細胞の大きさを調べて、必然的に雄しべと雌しべについてもあれこれと知ることとなった。それで雄しべと雌しべについてずっと勘違いしていた事実があると判明。今回は恥を忍んで(/o\) そのお話。


植物にはいろいろな系統がある。詳しいところは興味があればご自分で調べていただくとして、一般にイメージする花が咲くのは被子植物。画像はhttps://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/science/chu_1/seimei/syokubutunobunrui/10.htmlから引用
01


当然ながら花には雄しべと雌しべがある。
02-1DSC06250

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雄しべが作った花粉がめしべの柱頭(先端)につくのが受粉で、そこから花粉が雌しべの奥にある胚珠(はいしゅ)に向かって花粉管を伸ばし、そこに精細胞を送り込んで胚珠にある卵細胞と合体するのが受精と前回に書いた。

精子は泳ぐけれど花粉は空を飛べないので、何かによって雄しべから雌しべまで運ばれる必要がある。それが媒介で以下に分類される。媒介とは「取り持つ、橋渡しをする」といった意味。

   風媒
   水媒
   虫媒
   鳥媒
   コウモリ媒
   カタツムリ媒
  (コウモリは鳥じゃなく哺乳類で、カタツムリは昆虫じゃなく貝の仲間ね)

一番イメージするのは虫媒だろう。
ミツバチは蜜と花粉を集めに、蝶は蜜を吸いに花に集まってくる。
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鳥媒はウメに寄ってくるメジロくらいしか思い浮かばないな。画像はhttps://www.oricon.co.jp/special/58436/から引用
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いずれにせよ、そのときに虫や鳥の身体についた花粉が雌しべに触れることによって受粉する。農家ではそれで不足する場合、人の手による人工授粉も行われる。人工授粉の画像はhttps://www.aomori-ringo.or.jp/kids/cultivation/とhttps://apron-web.jp/kihon/15273/から引用
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さてである。
花には雄花と雌花に分かれているものもあるが、多くは雄しべと雌しべを持つ。言い換えればオスとメスの性質を併せ持つ両性花。ということは虫や鳥が媒介するとき、あるいはモフモフや筆で人工授粉をしたら、自分の花粉が雌しべに受粉してしまう。その場合、種として生まれてくるのは近親交配を通り越して自分のクローンになる。それで問題ないのか?

あまり深く調べたことはなく、
(/_')/ソレハコッチニオイトイテ

とりあえず自分の花粉が自分の雌しべに受粉するのは問題ないとするなら、どうして雄しべと雌しべがもっと接近して、お互いが接触するように伸びてこないのだとの疑問をずっと持っていた。もっと近ければ虫や鳥の媒介を必要とせず、わずかな風で受粉できるのにコイツらアホちゃうかと。

違う視点でヒントになるのは、冒頭に載せた系統図のシダ植物や裸子植物。地球の歴史を見ると発生はシダ植物→裸子植物→被子植物の順。時期を書けば4億年前→3.8億年前→2億年前に生まれている。つまり裸子植物の進化版が被子植物。裸子植物には雄しべ雌しべではなく、雄花と雌花が分かれている異性花も多い。異性花が進化してひとつの花で受精を完結する両生花になったのか。ひょっとすると雄しべ雌しべのある両性花も進化の途中で、そのうち植物は受粉ではなく内部で子孫を増やす仕組みを獲得するのかと思ったり。

そうなると植物に花は必要なくなるので、
ガーデニングの楽しみがなくなって困るなあ。
まっ、何億年か先の話だからいいか(^^ゞ


ところがである。
先日に植物の精細胞と卵細胞を調べていたときに、ソレハコッチニオイトイタ自分の花粉が雌しべに受粉してしまうのはやはり問題だったと知る。

人間の場合は46本の染色体 ≒ DNA ≒ 遺伝子を持ち、それは両親の精子と卵子から23本づつ受け継いだもの。どの生物も似たような仕組みで多様性を確保している。近親交配の弊害は省略するが、やはり植物でも同じなのだ。


植物の受粉は次のように分類されている。

  自家受粉:同じ花の雄しべと雌しべで受粉
  他家受粉・隣家受粉:同じ株の別の花の花粉で受粉
  他家受粉・異株受粉:別の株の花粉で受粉(これが狭義の他家受粉)

望ましいのは狭義の他家受粉で、そのために植物は

  雄しべと雌しべの成長時期をずらす

という作戦で自家受粉を防いでいる。これを雌雄(しゆう)異熟といい、雄しべが花粉を作るときに雌しべがまだ受粉できない状態にあるのを雄性(ゆうせい)先熟、その逆が雌性(しせい)先熟。

また同じ花の花粉では受粉しない自家不和合性を持つ品種や、他にもいくつかの自家受粉を防ぐ仕組みがある。


しかし他家受粉をするには、何かを媒介にして花粉が運ばれてこなければならない。またそれが運良く雌しべの先端である柱頭に接触する確率も100%ではないだろう。そこで植物は他家受粉ができないとなると、最後の手段として自家受粉を行う(品種もある)。できれば他家受粉で健康的な子孫を、それが無理ならリスクがあっても自家受粉でとにかく子孫を残す万全の備えを持った二段構え戦略。

そんな素晴らしさも知らずに「コイツらアホちゃうか」と失礼極まりない発言をして、
雄しべさん、雌しべさん、申し訳ございませんでしたm(_ _)m (^^ゞ



<追伸>
雌雄異熟だと、雄しべと雌しべの成熟時期が異なるのに、どうして自家受粉できるのかわからないが、そこまでは調べていない。


話は変わるが稲も被子植物。
しかし稲に花が咲いたり、そこにハチや蝶が集まっている光景は想像しづらい。
調べてみるとこれが稲の花。初めて見た。画像はhttps://www.ajfarm.com/yamagata/2721/から引用
05

稲は風媒花。風媒花は昆虫や鳥の興味を引く必要がないので一般的に花が地味。そして稲の場合は、開花直前に雄しべの花粉が雌しべの花粉に降りかかる仕組みになっており、風媒花に分類されても実際には自家受粉だけで子孫=種を残す。

ところで米は稲の種だけれど、ご飯は種を食べているなんて意識はまったくないね。

wassho at 23:02|PermalinkComments(0)

2024年10月13日

1万8000倍に成長した百日草

先日、枯れて引き抜いた百日草は長さが1.8m。でも撒いた種は7mmほどだったので1.8m ÷ 7mm = 257倍に成長した計算との話を書いた。
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その成長度合いに驚くと共に、1.8mはたまたま私の身長と同じだったので、人間の精子は0.06mm、卵子は0.15mm、受精すると精子は卵子の中に潜り込むので、卵子の大きさで同じように計算すると1.8m ÷ 0.15mm = 1万2000倍とも書いた。

しかし考えてみたら、
精子や卵子と種の大きさを較べるのはおかしいと気付く。

ご存じのように花ができる植物は、雄しべにある花粉が雌しべに触れて受粉し、それによって種を作る。人間とはまったく仕組みが違うとはいえ、無理やり当てはめれば種は母親のお腹にいる赤ちゃんみたいなものかな。


もう少し説明すると花弁(花びら)は萼(がく)で支えられ、その中に雄しべと雌しべがある。画像はhttps://chuugakurika.com/2018/02/08/post-1725/から引用
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なおこれは被子植物(反対語は裸子植物)の両生花(反対語は雄花と雌花に分かれる単性花)の場合。長くなるのでその説明は省略m(_ _)m


雄しべの「やく」に花粉ができ、
それが雌しべの柱頭につくのが受粉。
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柱頭についた花粉は花粉管を伸ばし、そこに精細胞を送り込んで雌しべの胚珠(はいしゅ)を目指す。図で花粉管は1本だが、実際には柱頭についた花粉がそれぞれ花粉管を伸ばし競争を繰り広げる。精子が卵管の中を泳いで卵子まで競争するのと同じ。生物は生まれる前から常に競争なんだなあと小さな感慨。
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そして競争を勝ち抜いた精細胞が、
胚珠の中にある卵細胞と結びついて受精。
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だから人間の精子と卵子と較べるなら、植物ではこの精細胞と卵細胞がその対象になる。しかし花粉の大きさは一般的に20〜40マイクロメートル(μm)とすぐにわかったものの、精細胞と卵細胞については情報を見つけられず。



話は変わるがマイクロメートル(μm)とは1mmの1/1000で、小数点で書けば0.001mm。さらにその1/1000すなわち100万分の1mmがナノメートル。ナノはとてつもなく微小だからいいとして、くせ者がこのマイクロメートル。

1マイクロメートル=1/1000mm=0.001mm。したがって花粉の大きさである20マイクロメートルとは0.02mm。0.02mmならまだ何となくその長さを感覚的に把握できても、20マイクロメートルと言われた途端に別世界の話になってしまって実感が湧かない。たまに100マイクロメートルなんて表記を見ると「0.1mmと書け0.1mmと!」と憤慨している。

ちなみに食品ラップの厚みがだいたい10マイクロメートルで、セロテープが50マイクロメートルだけれど、それじゃピンとこないでしょ。それぞれ0.01mmと0.05mm。面白いのは薄さをイメージしてもらう必要のあるコンドームは決してマイクロメートルを使わない(^^ゞ
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マイクロメートルを以前はミクロンともいったが、計量法(法律)が1997年に改正され使用が禁止となる。また「ミクロの単位まで磨き上げた」なんてミクロとして表現されたりもして、この使い方は今でも見かける。



植物の精細胞と卵細胞に話を戻す。
その大きさをネットであれこれ調べても出てこないので、仕方なくChatGPTに尋ねてみた。
すると

    精細胞:10〜20マイクロメートル=0.01〜0.02mm
    卵細胞:100マイクロメートル=0.1mm

との回答。
植物の細胞は50〜250マイクロメートルと書いてあるところが多い。ただしそれは体細胞の話で生殖細胞はそれより小さいので(説明省略)、まあそんなものかも知れない。ChatGPTを調べ物に使うのは当てにならないから避けるべきではあるが、とりあえずこれが正しいとして、前回と同じように1.8mを卵細胞の0.1mmで割ると

    1.8m ÷ 0.1mm = 1万8000倍

となる。
精子と卵子での計算は1万2000倍なので似たような数字になってきた。

だったら何?と言う話ではあるけれど、
人間も植物も最初のスタートから1万倍以上にも成長するのかと小さな感慨2回目。
もし今からまた1万2000倍成長したら身長21.6km(^^ゞ

wassho at 22:09|PermalinkComments(0)

2024年10月10日

全部で何人生まれた?

芦花公園を訪れた話を途中に挟んだが、その前に「全部で何人?」のタイトルでブログを2回書いた。最初は日本の、その2は世界の人口推移について。ただし人口推移の話は本題ではなく前振りのようなもの。

もう今回のタイトルでネタバレしているものの、
興味を持ったのは、現在の

   日本の人口 1億2400万人
   世界の人口 81億1900万人

や急増する人口問題ではなくて、
今まで何人の人が生まれたかのいわば累積人口。

それを知ってもたいして意味はない。だいたい記録が残っているのはせいぜい100年ほど前からで、それ以前の人口は推測に推測を重ねてはじき出していて、途中のパラメーターを少し変えれば結果が大きく変わるくらいは想像がつく。


ところで以前にこんな話を書いた。
自分の両親にはそれぞれ両親がいて、その私にとって祖父母に当たる人にもまた両親がいてーーーと先祖の数は倍々に増えていく。それを計算すると私の先祖は戦国時代に10億人、鎌倉時代にはなんと1兆人!を突破する計算になる。

その頃から「全部で何人生まれた?」に何となく興味を持っていたのかも知れない。
参考までに2021年に書いたご先祖様3部作のリンクを張っておく。

 ご先祖様のナゾ
   https://wassho.livedoor.blog/archives/53394771.html
 ご先祖様のナゾ その2
   https://wassho.livedoor.blog/archives/53394920.html
 実はほとんどのご先祖様と血がつながっていない
   https://wassho.livedoor.blog/archives/53395125.html



その累積人口。
そんなどうでもいいテーマに興味を持っている人は少ないらしく、ネットで探してもあまり情報は見つからなかった。
     
とりあえず世界の人口についてはアメリカの人口問題研究所(PRB:Population Reference Bureau:公的機関ではなくNPOみたい)が、2022年に人類誕生以来の累計人口を1170億人と発表している。また2013年のこちらの記事で生物学者の池田清彦が500億人と書いている。他には秋田大学教授が150〜200億人としている記事もあったが、これは文章内容からして信憑性がやや薄い。

池田の記事には情報ソースが書かれていない。人口問題研究所もリンクしたページには、その計算方法は記されていなかった(ホームページを隅々まで読めばどこかには書かれているのかも知れないが)。なおなぜかリンク先には「その計算は科学であると同時に芸術でもある」なんて意味不明の記述がある。

けっこう探したけれど累積人口を見つけられたのはこの3つくらい。人口問題研究所は1995年から累積人口を発表している。2011年における推定値は1080億人。2011年の世界人口は約71億人で、現在の人口はそれより10億人増えている。そして累積人口は推定値を2011年から90億人も増やしているから、それなりに推定方法をアップデートした数字だと考え、とりあえずこの1170億人を世界の、つまりは人類誕生以来の累計人口としておく。


さてめでたく人類は今までに1170億人が生まれたとわかったとして、
だからどうかというと別に感想はない。
最初に「それを知ってもたいして意味はない」と書いたでしょ(^^ゞ

現在の世界人口81億人(千万人以下は省略)と並べると

  今までに1089億人が死んで81億人が生きている。
  今生きているのは累積人口の7%。

やっぱり、それがどうしたな感想ーーー

ただ人類(ホモ・サピエンス)の誕生は30万年前。現在の81億人はこの100年に生まれた人だとして、それが30万年の歴史に占める割合は無視してもいいくらいのほんの一瞬。いちおう計算してみると100年 ÷ 30万年 = 0.033%に過ぎない。

その瞬きするような短い期間に7%もの人口が集中しているのは、「その2」にも載せたこのグラフが示す、産業革命を境にした急激な人口増加。ざっと300年で8.2倍に増えている。グラフは国連人口基金(UNFPA)https://x.gd/piFLc(短縮URL使用)から引用編集
G20

グラフで青色に囲った部分は、現在の81億人が生まれた範囲。なおこのグラフは時間軸が右半分が2000年、左半分が十数万年になっている。左右の時間縮尺を同じにするなら、人類誕生は30万年前なので、左半分は今より150倍以上長くなる。

たまにイナゴやバッタが突然に大量発生のニュースがある。現在の人類は30万年の歴史で眺めれば、それに似た異常な状態なのかもと思えてくる。画像はhttps://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00174/070300003/から引用
G21イナゴ



全世界的には今までに1170億人生まれたとして、
日本だけでは何人生まれたのか?
調べても調べても、これがまったくわからない(/o\)
それを知って意味はないとしても、今まで誰も興味を持たなかったのかな。

現在の世界人口が81億人で日本人口1億2400万人だから、その比率は1:0.015。それを1170億人に掛ければ17億5500万人との数字は出る。しかし人類の誕生が30万年前なのに対して、日本列島に人類が渡ってきたのはわずか3万8000年前。単純に比率を当てはめるのはちょっと無理がある気がする。

とりあえず日本で何人生まれたかの数字は見つけられず。


そこで、見つけられなかったら自分で計算しようホトトギス。
もっともアメリカの人口問題研究所がやっているようなシミュレーションを自分でできるはずもなく、やったのは記録のある出生数を足し上げただけ。

日本の出生数は1899年(明治32年)からの記録がある。ただし終戦を挟んだ1944〜1946年(昭和19〜21年)の記録は欠落している。

明治32年の出生数は138万6981人、昨年は72万7277人で過去最低を記録した。過去最高は終戦4年後の1949年(昭和24年)の269万6638人。出生数はピーク時の37%に落ち込んでいる計算。

なお記録のない1944〜1946年の出生数については、日本の国立社会保障・人口問題研究所が1980年(昭和55年)に出した報告書の中で、出生率(人口1000人あたりの出生数)を

  1944年 29人(本当の単位はパーミルだが1000人当たりだから人数と同じ)
  1945年 24人
  1946年 25人

と推定していた。1943年の出生数は225万3535人で出生率は30.9人なので、

  225万3535人:30.9人 = 1944年の出生数:29人

などの比率を当てはめ出生数を1944年211万人、1945年175万人、1946年182万人として計算した。


ところで、この国立の機関である社会保障・人口問題研究所が、1980年(昭和55年)に出した報告書はなんと表紙以外は手書きである。

G22

全文はこちらを参照されたい。
  https://www.ipss.go.jp/history/shingikai/data/J000008829.pdf
  (一部をワープロ打ちしたファイルもある↓)
  https://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14215805.pdf

以前に1980年代後半のワープロ事情についてのブログを書いた。そこに「今じゃ信じられないが、社外に出す企画書や報告書で手書きのものも多かった」とも記した。そしてやはりその話を若い連中にしても信じてもらえなかった。でもその証拠がこの報告書。

それにしても手書きの報告書なんて超久しぶりに見た。「こんな風に一生懸命書いてたなあ」と懐かしくなり、この報告書ファイルをダウンロードして保存してしまったよ(^^ゞ



さて1899年(明治32年)から、
昨年2023年まで124年間の出生数合計は

  ジャジャン!  2億323万6495人

う〜ん、やっぱり、それがどうしたな感想ーーー(再)
全部で何人生まれたかを知ることで、
いったい何を期待していたのだろうかと自分自身を問い詰めているところ(/o\)

以前に「奈良時代の人口は300万人だった」と知ったときは、ある種の知的好奇心が満たされた感覚があったのに、こちらにはまったくそれがない。別に2億人だろうが3億人だろうがどうでもよく思える。よく通販などで「累積販売数〇〇〇万本突破!」なんて広告があり、その数字にはそれなりの意味を見いだしてしまうのに、「全部で何人生まれた」にそういう思考が働かないのはなぜなのか。

いろいろとナゾ
しかしそれを考えたところで得るものはない気がする。

先ほど日本の累計人口について「今まで誰も興味を持たなかったのかな」と書いた。それは誰か研究しろよとの思いの裏返し。しかし研究者の皆様におかれましては、累積人口を推定しても何の役にも立たないと判明しましたので、他のテーマに精進してください(^^ゞ


でも今回はたった124年間だし、やはりこの土地に人類が渡ってきてからの、
しっかりと科学的に推定した数字は知りたいかも。
そして、それを見て改めてフ〜ン、ショウムナといいたい(^^ゞ




おしまい

wassho at 23:22|PermalinkComments(0)

2024年10月05日

全部で何人? その2

前回は日本の人口推移について書いた。ただし本当に書きたかったテーマは人口推移とは直接関係のない「人口についてのちょっとした疑問」。ブログのタイトルがヒントだけれどわかるかな?

それについて調べていたら、いろいろと人口推移のデータも集まったし、そして本題に関してはまだほとんどわかっていないので、だったら人口推移も前振りでブログネタにしてみるかと書いたのが前回と今回。そして今回は世界の人口推移について。



4月に発表された国連の世界人口白書2024によれば、現在の世界人口は81億1900万人。ちなみに80億人を突破したのは昨年。調査して発表までには時間がかかるから、実際にはそれぞれ1年前だと思う。

これは人類が誕生して以降の人口推移グラフ。グラフは国連人口基金(UNFPA)https://x.gd/piFLc(短縮URL使用)から引用編集
G11世界人口〜古代

産業革命を契機に急激に増えているのが一目瞭然。産業革命が起きたのは18世紀半ば。グラフではその頃の人口が10億人。ざっくり300年前として、その間に8.1倍に増えた計算。

日本の産業革命は明治20年代半ばからで(明治維新は1868年、明治は明治45年まで)、西洋の150年遅れで産業革命が導入されたことになる。当時の人口は3340万人。現在の1億2400万人で上記と同じように計算すると150年で3.8倍の増加。


上のグラフはスタートが人類誕生時点だから産業革命以降がほぼ垂直線になっている。それではイメージをつかみにくいので、こちらは1800年が始まり=産業革命後の推移と予想。グラフはhttps://www.yomiuri.co.jp/world/20201117-OYT1T50173/から引用編集
G12世界人口〜近代

グラフでは50年ごとの人口が記されている。第2次世界大戦が終わったのは1945年だけれど、1950年で代用して戦後の人口増加を計算すると

   世界人口 81億1900万人 ÷ 25億人 = 3.2倍
   日本人口 1億2400万人 ÷ 8400万人 = 1.5倍

日本は戦後にすごく人口が増えたイメージを持っていたのに、
世界全体と較べると半分のペースだったとは意外。

実は世界の人口というとなぜか36億人の数字を思い出してしまう。調べてみるとそれは1969年から1970年頃。そのときに世界の人口について何か話題があったのか、それとも初めて知った世界の人口が36億人だったので覚えているのか。今となってはナゾ

さて上のグラフでは将来について2本の曲線が描かれている。人類は永遠に増え続けるのではなく、従来は国連の予想で2100年に109億人でピークに達すると考えられていた。しかし2020年に米国ワシントン大学が、ピークは2064年の97億人だとの説を発表して、見解が分かれている。まっ、どっちでもいいけど(^^ゞ  (なおこのグラフの作成は2020年で、国連も今年の7月に2080年代半ばにはおよそ103億人でピークに達すると予測を修正している)


現在、最も人口の多い国はインドで14億4,170万人、2位が中国の14億2,520万人。インドが中国を抜いたのは昨年2023年。中国の人口は2年連続で減少しており現在がほぼピークとみられている。一方のインドは2063年に17億人まで増加する見込み。人口が増えれば経済規模も大きくなるものの、それが1対1の正比例になるかどうかはまた別の問題。

話はそれるが50年ほど前に誰かに聞いたか何かで読んだ、
インドにまつわるこんな話。

  日本人は九九(9×9)を暗算できるが、インド人は99×99を暗算できるほど頭がいい。

  しかしインドは暑すぎて何事にもやる気が起きず怠け者の国民性である。
  また熱帯なので野宿しても死ぬことはないし、町や村のそこら中に果実が豊富に
  なっていて飢えもしない。それで働く気が起こらず、ますます怠け者になる。

  ただしインドがもう少し豊かになって冷房が普及すれば、
  元々頭のいい民族なのだからインドはものすごい国になる。

持って生まれた頭のデキが民族によって差があるとは思っていないし、かなり偏見に満ちた意見だと当時から思えた。しかし「冷房」が国家の命運を左右するなど、考えてもみなかった着眼点が新鮮でかつ印象深くて未だによく覚えている。

インドで冷房が普及したのがいつからかはともかく、現在インドのIT技術者は世界2位の規模。ちなみにトップ5は

   アメリカ 445万人
   インド  343万人
   中国   328万人
   日本   144万人
   ドイツ  121万人

インド国内のIT産業規模ではこれだけの技術者を雇用できず、インド人IT技術者はアメリカを始め世界中で活躍している。日本では楽天だけで数千人が在籍しているらしい。またGoogleやマイクロソフトなどの経営トップはインド系である。

インドの発展はさておいて、温暖化がさらに進んで日本でも野宿OK、路上の果物でお腹が満たせるようにならないかな(^^ゞ



話を世界の人口に戻すと、そのピークがいつかは別として100億人前後までは増え続ける。下記はそのエリア別の伸び方を示している。これからは現在14億人ほどのアフリカが11億人上乗せして地域別のトップに躍り出る。グラフはhttps://www.sri-sinc.jp/knowledge/2022052001.htmlから引用
G13地域別


それをもっと直感的に把握できるように描かれたのがこちら。近頃は観光地に行くと半分くらいは中国人?なんて思うことがある。そのうち右を見ても左を見てもアフリカの人だらけなんて時代も来るみたい。画像はhttps://vdata.nikkei.com/newsgraphics/population-and-world/から引用
G14-1

G14-2

G14-3

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さらに最初に話を戻して、現在の世界人口は81億1900万人。
1億人以上の国をリストアップすると

 1位 インド      14億4,170万人
 2位 中国       14億2,520万人
 3位 アメリカ     3億4,180万人
 4位 インドネシア   2億7,980万人
 5位 パキスタン    2億4,520万人
 6位 ナイジェリア   2億2,920万人
 7位 ブラジル     2億1,760万人
 8位 バングラデシュ  1億7,470万人
 9位 ロシア      1億4,400万人
 10位 エチオピア    1億2,970万人
 11位 メキシコ     1億2,940万人
 12位 日本       1億2,260万人
 13位 フィリピン    1億1,910万人
 14位 エジプト     1億1,450万人
 15位 コンゴ共和国   1億560万人

世界には約200の国がある。
そして人口7位までの国だけで、合計人口が41億8050万人と全体の半分以上を占める。ここには載せなかったが20位までの合計人口が56億5090万人。すなわち200カ国中1割の国に世界人口の7割が暮らしている計算になる。

東京の一極集中とよく議論の的になるが、東京都の人口は日本の11.3%。世界はもっと偏っているのだと改めて認識。もっともインドと中国に、あえてえいえばアホほど人がいるせいでそんな状況を生み出しているのだが。とにかく世界はいびつである。また世界の人口を考える際にインドと中国を含む・含まないに分ける必要もあると思う。


さてお勉強はこれくらいにして、
そろそろ本題に進まなければ(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 18:40|PermalinkComments(0)

2024年10月02日

全部で何人?

総務省統計局によれば、今年の4月時点で日本の総人口は1億2400万人と推計されている。1年前より57万人、0.46%減った。

一般に人口という場合はこの総人口を指し、これには3ヶ月以上滞在している外国人も含まれている。日本人だけの人口は1億2072万人。こちらは1年前より85万5000人、0.7%の減少。

1億2400万人から1億2072万人を引いた328万人が外国人の数。また85万5000人から57万人を引くと28万5000人で、それだけ外国人が増えた計算になる。

外国人の比率を計算すると328万人 ÷ 1億2400万人 =2.6%
四捨五入して3%。

3%とはもちろん100人中の3人なのだけれど、人数のパーセンテージは子供の頃のクラスに当てはめると実感を持ちやすい。ただし世代によってクラスの人数が違うのが難点。私の小学生時代は1クラス40数名だった。今は30数名のクラスも多いと聞く。

とりあえず40名で計算すると3%は1.2名。たいした人数には思えないかも知れないが、これは全クラス&全学年で教室に1人は外国人の生徒がいる計算。5クラスあればどこかの教室には2名。もはやそんな時代。(これは人数を実感として把握するための計算なので、学校の実態と混同しないでね)


以前に奈良時代の人口はたった300万人と知ってびっくりした話を書いた。
こちらは平安時代からの人口の推移グラフ。グラフはhttps://www.jice.or.jp/knowledge/japan/commentary05から引用
G1

これによれば1000万人を超えたのは関ヶ原の戦いの1600年頃。江戸時代の中頃に3000万人に達した後はしばらく停滞。幕末から明治維新の頃に掛けて人口が増大し、グラフの角度が跳ね上がるのは1925年(大正14年、大正は15年まで)あたり。

終戦時は7200万人で、1億人突破が1967年。


ところで一億総中流という言葉あるいは意識は

  1958年から始まった「国民生活に関する世論調査」で自らを中流と回答した人が
  7割を超えた。設問は「生活の程度は世間一般から見て」「上、中の上、中の中、
  中の下、下」の5段階。

  1960年代半ばには8割を超え、70年代に入ると9割以上。
  1968年にGDPが世界第2位となった。

これらの状況を反映して1970年前後から広まったとされる。国際比較も興味があるものの、データを探したり分析に社会構造の違いを考慮したりが面倒なので手を付けていない。


そしてそれから50数年。
バブル崩壊以降「失われた10年」を3回更新し、現在はその4期目に入っている(/o\) 何かとパッとしない日本。「勝ち組・負け組」の言葉が使われ出したのが2003年、そして「格差社会」が2006年の流行語になる。

もう一億総中流の時代は終わったかと思いきや、
ほとんどといっていいほどデータに変動はない。

下図は「国民生活に関する世論調査」の1964年から2023年までのデータをグラフにしている。縦軸が%で、横軸が年度。ただし1998年、2000年、2020年は調査が実施されていない。2020年はコロナの影響。しかし1988年と2000年は「他調査とのスケジュールの関係」と説明されている。そんな理由で毎年行われている調査が中止になるとは知らなかった。

折れ線グラフは上から順に「中の上・中・下」の合計値、中の中、中の下、中の上。
G2中流意識

1970年代になって以降はずっと90%プラスマイナスを維持している。バブルは多くの人いわゆる庶民の生活実感に影響がなかったといえる。バブルで日本中が浮かれていたなんてのはマスコミの作り出した虚像。なお2011年から少し高めに推移している理由はよくわからない。ちなみに2011年は東日本大震災のあった年。そして2021年から落ち気味なのは、いよいよ本格的な格差社会の始まりを示しているのだろうか。もっとも「意識調査」だけですべては語れない。



最初に載せたグラフは人口が右肩上がりで終わっているが、その続きは正反対の右肩下がり。もちろんそれはご存じのように少子化社会の影響。人口は2008年(平成20年)の1億2808万人をピークに下がり続けている。グラフは厚生労働白書平成27年(2015年)版より引用

G3

今年の4月時点での1億2400万と較べると

    16年間で408万人、率にして3%

も減少した。参考までに都道府県の人口順位で9位の福岡県が510万人、10位の静岡県が360万人ほどである。

人口が1億人を下回る時期の推定は

    2012年発表の内閣府高齢社会白書によれば2048年 
    2023年発表の国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば2056年

2012年より11年後の2023年の発表では、その時期が8年後ろにずれている。これはもちろん出生数が増えたのではなく、総人口での推定なので、外国人が2012年当時の予測よりさらに増えた影響が反映している。

国内で暮らす日本人は今年の4月時点で1億2072万人(海外で暮らしているのは130万人)。これが1億人を切るのは2023年の推定によれば2052年で9955万人になる。この時点での外国人数は720万人と見積もられ、現在の328万人の2.2倍、全体に占める割合は720 ÷ (9955+720) =6.8% =40人クラスだと2.7人。


上のグラフを見れば「76年後」の2100年に人口は6000万人程度まで落ち込んでいる。今の半分であり、だいたい大正時代末期の水準。ただしこれは現在の外国人をあまり受け入れない移民政策をベースにした推計。それを変更すれば人口推移も大きく変わる。

人口に占める移民比率は2020年時点でアメリカ15.3%、ヨーロッパはイギリス13.8%、フランス13%、ドイツ18.8%、イタリア11%。単純平均すれば14.4%で日本の2.6%の5倍以上。

移民の多い国ほど経済成長率が大きいとのデータがある一方で、増えすぎた移民による様々なトラブルが起きているのもよく耳にするところ。なお「現在の外国人をあまり受け入れない移民政策をベースにした推計」と書いたが、それでもグラフに示されているのは、46年後の2070年に日本の移民比率は10%を超えると予測した上での数字。

昨日、岸田総理が退陣して石破総理が誕生した。自民党総裁選では9名もの候補者が立候補して、それぞれが各分野の政策をアピールしていたのはまだ記憶に新しい。もう10年もすれば、その中に移民政策も入ってくるだろうし、それは国論を二分する議論になるかも知れない。



「1億人」の数字に引っ張られて、一億総中流とか移民比率とかだいぶ話がずれた。
さらに言うと実は人口の推移すら今回の本題とは直接関係ない(^^ゞ
でもしばらくこの調子で書きましょう。


ーーー続く

wassho at 23:07|PermalinkComments(0)

2024年09月29日

モグモグ・ゴクゴク・ブリブリ・シャー

ヒマワリが枯れてベランダの夏が終了」のタイトルでブログを9月9日に書いた。
そのときに載せたこのヒマワリの写真は8月31日の撮影。
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それから約1ヶ月が過ぎた現在はドライフラワー状態。
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マリーゴールドや小さいプランターに植えたのも同じく。
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チューリップのときと同じように、
朽ちていく姿も愛でるのが私のヘンタイ・ガーデニン(^^ゞ
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憎きハダニもいるけれど、クモの巣のような膜の中で、
まったく動かないからもう死んでいるようだ。
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それにしてもコイツらはどこから来て、そして植物から樹液を吸い取って枯らした後はどこへ行くのだろう。ここに残っているのは逃げ遅れたのか、それとも植物を枯らしたら自分も一緒に死ぬのか。とにかく迷惑な存在。ハダニだけに感染するウィルスが現れて早く地球上から絶滅しますように。



9月9日に「9月いっぱいは持ちそう」と書いた百日草は、
まだ地味に咲き続けている。
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現時点で小さなツボミや、つぼみを付けるまで大きくなっていない花芽もあるから、10月中旬以降まで咲くのかも知れない。


結局、花を咲かすまで成長した百日草は7株。
そのうちの1株が完全終了したので、
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引き抜いてみた。
長さは約1.8mで私の身長と同じ。
22DSCF5680

それにしても大きい。今まであちこちの公園で見た百日草は50cm位だったのに。ベランダは東向きで日当たりがいいのは午前中だけで十分とはいえない。ひょっとしてこれもサボテンの金盛丸と同じように徒長(病弱的にひょろひょろ伸びる現象)なのかな。


そんなことを考えていて、ふと思い出した。
百日草のタネはこんなに小さかったのを。
25


タネの長さは約7mm。
だから1.8m ÷ 7mm = 257倍に成長した計算になる。

いや〜すごいなあと感慨にふける。
そしてどうしてこれだけの大きさになれたのだろうかと不思議に思う。


調べてみると、人間の身体は約6割が水でできているとよく聞くが、植物は8割から9割が水なのだそうだ。ということは2〜3日おきにせっせと水やりした私のおかげだな。感謝しろよベランダの植物ども(^^ゞ

とりあえず8割だとして、じゃ残りの2割は何でできているのか。
土の中の栄養分?

測ってはないとしても、植物を育ててプランターの土が減っていると感じた経験はない。農家だって田や畑に土を補給したりはしない。だから減っているとしても見た目ではわからない程度の分量のはずで、257倍の成長への体積的な寄与はごくわずかと思う。

そう考えると残るのは光合成。
昔、授業で習った光合成とは植物が、

  太陽の光のエネルギーを用いて、
  空気中の二酸化炭素と、根で吸い上げた水から
  デンプンなどの炭水化物を合成し
  酸素を放出する

である。
光のエネルギーを用いての意味がよくわからないものの、
調べるのが大変そうなので気がつかなかったことにしよう(^^ゞ

二酸化炭素はCO2、水はH2O。
元素に分解すれば炭素のCと水素のHと酸素のO。

デンプンの元になるグルコースの化学式はC6H12O6。
その原子の数を約分すればC・H2・O。

二酸化炭素と水を足すと原子の数はC・H2・O3。
約分したグルコースの酸素原子はOがひとつだけ。 
光合成でグルコースを作って酸素が2つ余るから放出するのか。
化学式ってこんなふうに計算していいんだっけ?

もちろん土の中にある栄養素(の原子)も炭素や水素と結びつき、なにがしかの化合物に形を変えて植物の一部になっているとしても、とりあえず植物は空気(二酸化炭素)を吸って、水を飲んでこんなに大きくなるわけだ。動物は草食であろうと肉食であろうと餌や獲物の獲得に苦労するのに、植物は楽でいいなあ。



ところで百日草はタネの大きさから257倍も大きくなったわけだが、よく考えたら人間だって負けてはいない。何たって精子は0.06mm、卵子は0.15mmしかないのだ。受精すると精子は卵子の中に潜り込むので、卵子の大きさと私の身長で同じように計算すると、

  1.8m ÷ 0.15mm = 1万2000倍!

まあ別に百日草に勝ってもうれしくはないが(^^ゞ
30精子と卵子


さて精子と卵子が結合して受精卵となり、母親の体内で栄養をもらって大きくなり、だいたい3kgほどで人間は生まれてくる。その後は

  モグモグ食べる
  ガブガブ飲む
  ブリブリとうんち
  シャーとおしっこ

して成長し身体・生命を維持する。
そう考えてみると、今までの人生すべての

  (モグモグ + ガブガブ) − (ブリブリ + シャー) − 3kg = 現在の体重

の計算が成り立つ。

厳密にはおしっこだけでなく汗を初めとする分泌液でも水分は排出されるし、汗のように水滴にまでならなくても皮膚からは水分が蒸発している。吐く息にも水蒸気として水分は含まれているし、逆に吸う息で水蒸気の水分を身体に取り込んでいる。なおうんちもその8割は水分である。


上記の摂取と排出と体重の関係式は、今までそんな風に考えてこなかったし、そんな考え方をする人も滅多にいないと思う。この式自体は当たり前の事実を表現しているだけで特に意味はない。しかし改めて、この身体と命は食べ物と飲み物から成り立っているのだと思いを新たにしたしだい。

だって食事をしてお腹が満たされる、おいしかったなどの満足感はあっても、それによって身体を維持している命をつないでいるなんていちいち考えないでしょ?

そんなわけで人間は身体でできているのだから(ちょっとヘンな表現)、もう少しいい食事、それは高級という意味ではなく栄養バランスとかを、もっと気にしなくてはいけないなあと反省する食欲の秋である。食べたもの以上の身体にはなれないのだから。



<後日追記>
植物の種の大きさを人間の精子・卵子と較べるのはおかしいので、
植物の精細胞・卵細胞と比較しました。

  1万8000倍に成長した百日草
  https://wassho.livedoor.blog/archives/53489084.html

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2024年09月23日

101回目の姿勢改善 その2

100回目のお手玉メソッドの次に試した、
本題である101回目の姿勢改善の話の前にちょっと寄り道。


自分の姿勢に気をつけるようになったのは前回に書いたように30代半ば。しかし姿勢そのものに初めて興味を持ったのはもう少し前。そのきっかけは映画「愛と青春の旅立ち」。
2ポスター

この映画はリチャード・ギアが演じる、いろいろと家庭に問題もあり生活のすさんでいた主人公が、一念発起して海軍士官候補生学校に入学。13週間の訓練期間中に人間として成長し、また恋愛も繰り広げる筋立て。何たって若い頃の甘いマスクのリチャード・ギアだし、最終的にはハッピーエンドのラブストーリーなのだけれど、それだけじゃない内容を含んでいるのが名作に数えられる理由。


訓練でリチャード・ギアと同期入学した一団は、教官の鬼軍曹にメチャクチャしごかれる。その舞台となるのは主に体力作りの基礎訓練。また肉体的なしごきだけでなく、何かあるとすぐ「退学届けを出せ」とプレッシャーを掛けて追い込まれる。つまり心身両面を鍛えるわけね。このあたりは上手に文章にできないから映画を見てちょうだい。
3訓練


そして厳しい訓練を乗り越えてリチャード・ギアたちは卒業。卒業すると教官の軍曹より階級が上の少尉となる。今まで軍曹の命令に「イエス、サー」と答えていたのに、この日を境に軍曹から「サー」付きで話しかけられる。
4卒業

たった13週間でただの民間人が少尉になれるのかとも思うものの、(/_')/ソレハコッチニオイトイテ、リチャード・ギアたちが軍曹に最後の挨拶に来るこのシーンはなかなか感動的。

そして私はこれを見て
「こんなに真っ直ぐに立っている人、見たことない」と思ったわけ。

アメリカでは士官(少尉以上)になって最初に敬礼してくれた、自分より階級の低い軍人に1ドル硬貨を渡す習慣があるらしく、これはその場面。よく見ると軍曹の手のひらには硬貨がある。何を言いたいかというと、軍曹はいわゆる上官に対する「気をつけ!」の体勢ではない。それなのにこの真っ直ぐな立ち姿。

映画を見た記憶としてはこのシーンしか覚えていなかったが、ブログを書くために画像を探すと、この鬼軍曹はリチャード・ギアをネチネチとイビるときや、ホースで水を浴びせていたぶるときすらもメッチャ姿勢がいい。
5姿勢

この役を演じているのはルイス・ゴセット・ジュニア。今年の3月に87歳で亡くなられていた。これからは姿勢の神様として崇めよう(^^ゞ



このルイス・ゴセット・ジュニアが普段から姿勢がよかったのか、軍人を演じる役作りでそうしていたのかは知らない。一般に軍人は洋の東西を問わず概して姿勢がいい。写真はオーストラリア軍。写真はhttps://x.gd/FYnjoから引用(短縮URL使用)
11オーストラリア

装備から見て儀仗(軍が参加する儀礼の式典)の場面かと思う。儀仗の際は特に姿勢をよくするものの、これだけ真っ直ぐなのに、どこにも力の入っていない立ち方は見事。


こちらは陸上自衛隊の特別儀仗隊。
本番と訓練の様子。写真はhttps://bunshun.jp/articles/-/14864から引用
12自衛隊

13

姿勢は申し分ないとしても、少し力(りき)みが感じられ、見ているこちらまで疲れそうな印象がある。スクッと立っているオーストラリア軍、あるいはルイス・ゴセット・ジュニアとはどこか違う。

自衛隊もいわば幕末から導入された「西洋式軍隊」である。儀仗も西洋の風習だし、儀仗の姿勢も西洋のそれがお手本なのだろう。でも西洋人とアジア人では骨格や体つきが違う。だから西洋の軍隊と同じような姿勢をするのはちょっと無理があるのかも知れない。私もルイス・ゴセット・ジュニアのような立ち方に憧れるが、努力してもおそらくそうはならないと思う。


同じアジアの中国軍はこんな工夫までして姿勢改善をしている。写真はhttps://x.gd/SZwTPから引用(短縮URL使用)
14中国

以前に歌舞伎か能だったかの役者が、子供の頃は背中に長い定規を差し込まれて姿勢を矯正されたとのインタビューを読んだ。だからこの方法も効果的なのだろう。でもまるで十字架を背負って罰を受けているいるみたいだ。


そして絶対にうつむけない、こんな恐怖の方法が取り入れられていた(>_<)
そこまでやるか、中国オソルベシ!写真はhttps://gigazine.net/news/20080509_trooper_attention/から引用
15




ーーー続く

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2024年09月12日

「殺害しました」の違和感

4年ほど前に「ゲームに課金するという言葉遣い」について、違和感が拭えない話を書いた。詳しくはリンクしたページを読んで欲しいが、

  課金は課される、支払い義務を負う意味なのに
  自らの意思で支払うのを「課金する」とは
  税金を支払った納税を「税金を課税した」といっているようなもの

などの内容。

もっとも言葉なんてのは時代共に移り変わる。極端な話をすれば平安時代と現代ではまったく違う日本語である。だから古文の授業でその「解読方法」を習わないと読めない。それは充分に承知していても、自分が覚えた言葉が後になって意味が変わると、頭ではわかっても身体がついてこない場合もある。鎌倉時代の始まりが今は「いい国作ろう」の1192年ではないとされていると知って困惑するのと同じ。

一方で流行り言葉的なものは、そのときどきに生まれる=「覚えた言葉が後になって意味が変わる」のではないから案外と抵抗はない。何でもかんでもに「カワイイ」を連発するようになったのは35年くらい前かな。最近で似たようなポジションにあるのは「ヤバい」と「エモい」だろうか。私も口癖になっている(^^ゞ


覚えた言葉が後になって意味が変わる=自分の感覚とは違う使い方が広まったとしても無理に使う必要はないし、だからといって特に困りはしない。ただし言葉は自分で話す・書くよりも、聞く・読む分量の方が圧倒的に多い。それで否応(いやおう)なく目にしたり耳にして頭の中でモヤっとするのが困りもの。

幸い「課金する」に関して私の周りの日常会話ではあまり出てこない。
しかしその平穏が打ち破られた?のが今夏のパリオリンピック。

新聞の見出しになっとるやないか!

1無課金おじさん

スポーツ紙や夕刊紙ならともかく全国紙の見出しにまで使われるのは「自らの意思で課金する」が、もはや正しい日本語として認められたことになるのだろうか。私はまだ抵抗があるけどな。

「ゲームに課金する」の表現を知らない人のために書いておくと、
このトルコのユスフ・ディケチ選手が「無課金おじさん」と呼ばれたのは、

  ・利き目でない目を遮蔽するブラインダー
  ・防音のためのイヤーマフ(エアピストルなのに必要なのかと思うが、無課金
   おじさんも普通の耳栓はしているので会場のざわめき対策なのかも知れない)
  ・姿勢を安定させるための硬質素材のジャケットや射撃専用シューズ

などを使用せず、まるで普段着のようなTシャツ姿で競技に参加したから。
2アイテム


「ゲームに課金する」はオンラインゲームで、いろいろアイテムを買い揃えるところから生まれた。それになぞらえて反対の素の状態=無課金との表現。彼の射撃スタイルは世界中で話題になった。もちろん無課金おじさんなんてニックネームが生まれたのは日本だけ。海外ではそのさりげなさからか「トルコのヒットマン」と呼ばれていたみたいだ(^^ゞ



さてここからが本題。
モヤっとする言葉遣いは他にもいくつかあるものの、ここ最近で一番気になっているのはニュースなどでよくある「◯◯がテロリストの誰それを殺害しました」などの言い回し。

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この表現がどうして引っ掛かるのか?
最初は殺害が「殺害される」と受け身に使うべき単語だからと考えた。しかし「人質を殺害した犯人」だと違和感はないから受動態・能動態説は却下。

自分でもよくわからないが、おそらく私の感覚で殺害を「悪の行為」と捉えているのが原因かもと思っている。だから「犯人によって殺害された」だと素直に読める。(例に挙げた見出しが「悪の行為」でないかどうかはスルーして読んでちょうだい)

以前は「射殺した」「攻撃により死亡した」と言っていたと思う。正当な攻撃の場合に「殺害しました」と言い始めたのは、ハッキリとした記憶はないものの、ここ5年ほどで早くても10年くらい前からだと思う。少なくとも20年前にそのような表現はなかったはず。

「殺害しました」がよく使われるようになった理由も不明。昔は小規模な戦闘の場合は銃撃・射殺がその方法だったのに、無人機から小さなミサイルなどを撃つようになった。それを見出しの長さでは説明し切れないし、かといって「殺しました」でもおかしいから、簡潔な言葉として殺害が使われるようになったのかなとも想像している。英語ではどうなっているかにも興味があるけれどまだ調べていない。


とりあえず「殺害しました」と聞くと、
未だにモヤッとすると同時にちょっとビクッとする。

wassho at 23:12|PermalinkComments(0)

2024年08月02日

トウケイとトキオ その3

明治時代に東京をトウキョウではなくトウケイと読む人がいたと知っても、今でもそう読めなくもないし、前回に記した国語セオリーや時代背景を考えれば「そんなこともあったのだろうな」との感想程度にしかならない。

しかしトウケイだけでなく、
トキオとも呼ばれていたと知ってビックリ!である。
4渋沢トキオ



私の記憶でトキオの言葉を初めて聞いたのは、1979年(昭和54年)に発売されたイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)の「テクノポリス」が最初。いわゆるテクノポップの演奏の冒頭と途中に合成音声ぽい響きでトキオが連呼される。

YMOの登場は衝撃的で、サーフィンブームの真っ盛りの当時は、右を見ても左を見てもおかっぱ頭のサーファーばかりだったのに、突如もみあげのないテクノカットの連中が大量に出現したのをよく覚えている。服も白黒の市松模様のデザインが流行ったかな。


ただしYMOの人気は若者中心に限られていた。TOKIOの言葉が日本全体に広まったのは、翌1980年にタイトルもズバリ「TOKIO」だったジュリーこと沢田研二のヒット曲。電飾キラキラのコスチュームを着て、なぜかパラシュートを背負いながら歌う姿に、大げさに言えば日本中が衝撃を受けた。まだ家族揃って歌番組を見ていた最後の時代である。

沢田研二は1979年にも「OH! ギャル」でギャルという言葉を日本に紹介している。70年代後半の彼は、化粧をした中性的なヴィジュアル系路線でステージに立つなどどイケイケで最先端な存在だった。彼自身かスタッフかはわからないけれど、新しい言葉に対する感覚も鋭かったのだと思う。ちなみにテクノポリスの発売が1979年10月25日で、TOKIOが1980年1月1日と近いからYMOの歌詞をパクったのではないはず。


それはそうとしてーーー
沢田研二のTOKIOには「スーパーシティが舞い上がる」「TOKIO 優しい女が眠る街」などTOKIO=東京と思わせる歌詞がある。しかしYMOのテクノポリスは「トキオ、トキオ」の連呼だけで、この曲は他に歌詞がないいわゆるインストゥルメンタル・ミュージック。

それでもテクノポリスを初めて聴いた瞬間からトキオ=東京だと理解していた記憶がある。それは直感的にそう思ったのか、それともそれ以前に東京を外人はトキオと呼ぶと何かで知っていたのか。あれこれ記憶をたどってみても、なにせ45年も前の話なのでまったく思い出せない(^^ゞ



さて話を明治時代のトキオに戻すと、トウケイの他にトキオの読みもあったと触れている解説はいくつかあり、比較的詳しい記述を見つけたのは気象予報士が書いたこの記事

それによると

明治8年(1875年)気象庁の前身である内務省地理局・地理寮量地課・気象掛が発足。
英文の気象報告書も出しており、そこには発行元として、

  日本東京内務省地理局
  IMPERIAL METEOROLOGICAL OBSERVATORY TOKEI JAPAN

と記されている。
英文は帝国東京気象台の意味。
そしてこの時点で東京の読みは TOKEI=トウケイになっている。

それが明治16年(1883年)9月からTOKEIがTOKIO=トキオに変更される。
その表記は大正2年(1913年)まで30年間続き、同年よりTOKYO=トウキョウが使われる。

つまり明治初期はトウケイ→中頃近くになってトキオ→大正に入ってトウキョウの変遷。

読み方変更の理由はわからないようだが、記事では明治中頃に政府は不平等条約の改正に向け動き出したから、それでドイツ語やフランス語的な発音に変えたのではないかと推測している。併せて明治35年(1902年)に日英同盟が結ばれたのを理由に英語的な発音になり、それが前回に書いた明治36年の国定教科書で東京にトーキョーのフリガナが付いたのにもつながったのではと。

ただ「IMPERIAL METEOROLOGICAL 〜」のTOKEIをTOKIOに変えただけなら全体としては英語。それに不平等条約改正の交渉は英米の説得から始まっているから、その推測が当たっているかどうかはよくわからない。

いずれにせよ公文書にTOKIOと書かれているのなら、単なる当時の流行り言葉あるいは訛りなどではなく、間違いなく東京が正式にトキオとも呼ばれていた時代が確かにあったのだ。TOKIO=外国風発音とずっと思っていたから、これはかなり驚いた歴史の発見。


そういえば

   TOKIOは外人が東京を指して使う言葉
   外人だから英語

と何となく思ってしまうが、私の経験でも記事の筆者がいうように英語圏の人はトウキョウと日本語的に発音するし、フランス人は英語で話していてもトキオと発音し、最初のトの音が強い。さらに江戸時代の初めに来日した宣教師が作成した日葡辞書(にっぽ辞書:日本語ポルトガル語辞書)にはTOQIOの単語が載っているらしい(このTOQIOは現在の東京ではなく単に東方にある都の意味)。TOKIOよりTOQIOのほうが格好いいかも。

また中国人で東京をトウキュウあるいはトウキュと発音する人は何名か出会った。来日した中国人クライアントに「(英語で)東急ステーションに連れて行ってくれ」と頼まれ、危うく渋谷に向かいかけたことがある(>_<)


ところでYMOがテクノポリスを発表した1979年は、今では死語となった「ナウい」がまだ使われていた時代。最新のテクノポップにトキオ、トキオと連呼する音を被せたのは、その語感がナウいと思ったからに違いない。誰か去年亡くなった坂本龍一の墓に行って「トキオって明治時代の言葉みたいですよ」と教えてあげて(^^ゞ



おしまい

wassho at 21:47|PermalinkComments(0)

2024年07月31日

トウケイとトキオ その2

江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それで人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態となる。

こんな風にテレビで「へいせい」と声が聞こえてきたわけじゃないからね。
まだラジオだってない時代。
平成

物心ついたときからトウキョウと呼ばれていたし、そもそも東京は「東の京都」「首都である京都が東に移った」との意味合い。だからトウキョウを信じて疑ったこともないが、国語的にはトウケイが正しく、そして東京と名付けた明治新政府もトウケイの読みを意図していたとの説もある。

2東京

漢字は音を聞くと意味がわかる訓読みと、わからない音読みに分かれる。訓読みは漢字の意味に合う日本語を当てはめたもので、音読みは昔の中国の発音が元になっている。

例えば男の訓読みはオトコで、音読みはダン。
また長男などナンの音読みもある。

これは「音読みは昔の中国の発音が元になって」と書いた、その昔に幅があるため。
それで音読みの発音は

  呉音:仏教と共に6世紀頃に伝わった。中国南方の方言がベース。
     発音が柔らかい。拗音と促音が多い。男ならナン。

       拗音(ようおん)→ゃゅょ(ちいさい文字)
       促音(そくおん)→っ(音がはねる)

  漢音:7〜8世紀の遣唐使が持ち帰った。唐の都である長安の発音。
     発音が固い。濁音が多い。 男ならダン。

に分かれる。他には割合としては少ないものの、この呉音と漢音が日本語として定着して以降の平安末期に入ってきた宋音や唐音などもある。

東京を東と京に分けて、呉音と漢音で記すと

        東
   呉音   つう
   漢音   とう

        京
   呉音   きょう
   漢音   けい

熟語の場合、音読みは呉音か漢音かで揃えるのが原則。
例えば

   老若男女 ろうにゃく・なんにょ
   男女平等 たんじょ・びょうどう

でもトウキョウは呉音と漢音のチャンポンになっている。

東の呉音「つう」は一般的ではないので、東京は漢音で揃えてトウケイと読むのが国語セオリー的には正しい。また明治新政府幹部つまり当時のエリートは、漢文の素養も高いので当然ながらトウケイと考えていたはずーーーというのが先ほど書いた説の根拠。

エリートじゃないクラスでも、今よりは漢文あるいは漢文に近い日本語文章に接していたので、直感的にトウキョウの読みには違和感を覚えたかも知れない。それでもトウキョウと発音したのは、それだけ1000年も都が続いた「京都 キョウ」の存在が大きかったともいわれる。

一方でトウケイと発音したのは先祖代々から東京に住む「江戸っ子」が多かったらしい。彼らは地元の徳川びいきで、京都の朝廷と組んで幕府を倒した明治新政府を快く思っていない。それで京都を連想させるトウキョウの読みが気に入らなかったようだ。
3江戸っ子


やがてこの問題は1903年(明治36年)に国定教科書の制度が定められて解決を見る。その教科書で東京にトーキョーとのフリガナが付いた。これにより徐々にトウキョウの読みが定着していく。どうしてトウケイにしなかったのかの資料は見当たらなかった。

思うに京都に近い西日本ではトウキョウだったろうし、東京に全国から人が集まるようになってトウキョウがデファクトスタンダードになったのではないか。また明治も36年になると、当時の平均寿命は44歳程度だから、「てやんでえ、トウケイに決まってんだろうが、べらぼうめ!」と考える江戸時代生まれの徳川びいきが少なくなったのも影響したと考えられる。



ーーー続く

wassho at 20:05|PermalinkComments(0)

2024年07月30日

トウケイとトキオ

昔の人の名前は「藤原の道長」「源の頼朝」と「の」を挟んで読んでいたのに、時代が下るにつれて「の」がなくなって「足利尊氏」「徳川家康」となる。その名前が天皇から与えられた【ウジ(氏)なら「の」が付く】と日本史で習うけれど、それについての疑問を豊臣秀吉と千利休をテーマにして3回、それ以外に2回と少し前にあれこれ書いた。

その調べ物の途中でたまたま見つけたネタが今回のテーマ。



まずは、
明治時代に東京はトウケイとも呼ばれていた話から。

1東京行幸

1868年1月に鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、4月に江戸城が引き渡されると明治新政府は天皇を京都から東京に移す。3000人以上の随行者を従えた出発は11月4日で到着が11月26日(表記はすべて新暦)。その2ヶ月前の9月3日に出されたのが「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。詔書(しょうしょ)とは天皇の名前で出される文書。

内容は

   天皇が江戸で政務を執る
  (だから)江戸を東京に改称する

のふたつ。
※「京」の文字には天皇が住む場所との意味がある。

いわゆる首都の移転=遷都であるが、京都の人々の不安や公卿ら保守勢力の反対を和らげるために、11月の移動は行幸(ぎょうこう=天皇が皇居から出かける)扱いになっている。実際、天皇は翌年1月にいったん京都に戻り、5月に再び東京へ行幸している。20日以上もかかる移動を3回もご苦労様。ただし記録を読むと16歳の少年だった明治天皇にとっては、今までにない体験で道中を何かと楽しんだ様子。

そして2度目の行幸では太政官(個人の役職ではなく内閣のような行政の最高機関を意味する)も同行し、しばらく後に皇后も東京に移り、天皇が東京を本拠地にすると事実上決まった。
1-1皇居

そうやって明治新政府は既成事実を積み重ね、なし崩し的に遷都を実現した。先ほどの詔書も「江戸で政務を執る」と書いてあるだけで「京都では執らない」ではないから、京都と東京のダブル首都を匂わせるようなニュアンス。また行幸は出かけるを意味し、行幸先から帰るのは還幸(かんこう)と呼び名が変わる。そして新政府はタイミングを見計らって、明治5年(1872年)に天皇が西国・九州巡幸(巡幸=複数の目的地への行幸)の一環として京都に赴く際に、シレっと還幸ではなく行幸と表現している。

それでも苦労したというか京都への配慮を感じさせるのは、明治22年(1889年)と明治維新からかなり後に制定した旧皇室典範で、即位の礼と大嘗祭を京都で行うと決めたこと。大嘗祭(だいじょうさい)は即位後の最初の秋に行い、天皇にとって一世に一度の最も重要とされる儀式。

従って大正天皇と昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都で執り行われた。その規定がなくなったのは戦後の昭和22年(1947年)。だから東京で即位したのは今の上皇が史上初になる。ただし即位の儀式に必要な高御座(たかみくら)と呼ばれる天皇の玉座(のようなもの)は京都御所にあり、平成、令和の即位の礼でも京都から皇居に運ばれ、そして戻されている。今も高御座の保管場所を京都から東京に移すのに反対があるのか? 輸送中の事故のほうが心配な気がするけれど。


平城京から平安京への遷都などと違って、東京への首都移転は形式上の正式な手続きを経ていない。それを皮肉って昔の京都の人は「天皇さんは東京にお出かけ中です」と言っていたとか言わなかったとか(^^ゞ

ちなみに東京行幸前の4月に大阪行幸も実施されている。滞在は46日間。実は最初の遷都案は大阪で、この行幸も東京行幸と意図は同じ。諸般の情勢でその後に東京に決まったものの、大阪が首都になった可能性もワンチャンあったのは意外と知られていない。


さて江戸から東京に名前を変えると公表された「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」。
この「東京」には読みが記されていなかった。
それが人によってトウキョウとトウケイに発音が分かれる事態を招く。



ーーー続く

wassho at 22:27|PermalinkComments(0)

2024年07月25日

名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問 その2

古事記と日本書紀の次に調べたのは、
平安中期の文学代表作である枕草子(1001年頃)と源氏物語(1008年頃)。
あっ、枕草子に「の」が入っている!

これらは古事記や日本書紀と違って、前回に書いた万葉仮名の次世代バージョンである平仮名を使って漢字仮名交じりで書かれている。といっても漢字は僅かでほとんどが平仮名。だからウジ(氏)の付く名前に「の」が入っているか確かめられる可能性がある。理屈の上ではーーー


まずは枕草子。
清少納言が使えた中宮定子は藤原定子だし、その父の藤原道隆と、定子の兄弟である藤原伊周(これちか)や藤原隆家などの藤原氏、橘則光、源経房など実在のたくさんの貴族が登場する。

ただし藤原道隆は関白殿、藤原伊周は大納言殿、橘則光は左衛門の尉則光など官職か官職&個人名で書かれていて、ウジ(氏)の付く名前で書かれていない。

それでも唯一、藤原時柄なる人物がそのままの名前で会話の中に登場する。
しかし枕草子(オリジナルは残っておらず写本)はこのような感じで平仮名主体とはいえ判読不能。画像はhttps://x.gd/AJnH9から引用(短縮URL使用)
5枕草子

しかも枕草子は300ほどの章段に分かれており、該当部分は103段目にあるのだが、データベースにある写本画像は単にズラーッと並んでいるだけで該当部分がどれなのかわからない。判読不能なので読みながら探すのも無理(もし読めても相当時間がかかる)。

仕方なく枕草子で藤原時柄がどう記載されているかのリサーチは断念(/o\)


次に源氏物語。
源氏物語はいづれの御時にか=いつの頃だったか忘れてしまった−−−で始まる架空の物語。「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません」を徹底するためにフルネームで書かれている人物はいない。光源氏を始めほとんどがニックネーム。

その中で上の名前がハッキリしているのが藤典侍という女性。古文で習う読みは「とう の ないしのすけ」。藤は藤原氏を連想させるためのテクニック。典侍は女官の官職名であるが、ともかくウジ(氏)の後に「の」が書かれているかをリサーチ。

のつもりだったのにーーー、

源氏物語も原本は残っておらず、こちらは室町時代後期の1532年に写された写本。画像はhttps://x.gd/1R7DOから引用(短縮URL使用)
6源氏物語1

藤典侍がフルネームで登場するのは第33帖第2章第2段のみ(他では典侍の表記)。先ほどの枕草子と違い、データベースは第33帖の先頭まではジャンプできた。しかしそこから先は同じく画像が順番に並んでいるだけ。原文と照らし合わせて漢字が書いてある箇所を手がかりに藤典侍を探そうとするも、この平仮名がまったく読めない(>_<)

そんなわけで藤典侍も見つけられず。

ちなみに第33帖の書き出しは(文章は読みやすいよう現代の漢字仮名交じりになっている)

  御いそぎのほどにも、宰相中将は眺めがちにて、
  ほれぼれしき心地するを、「かつはあやしく、
  わが心ながら執念きぞかし。

その部分の画像がこれ。
こんなの読める?
データベースがジャンプした箇所は本当に第33帖冒頭?
7源氏物語2

実は同じ官職名を持つ源典侍(げん の ないしのすけ)なる人物も同じく、一箇所だけフルネームで登場する。でも藤典侍を探すのに精根尽きたので挑戦せずm(_ _)m

それにしてもこんな文字で書かれた物語を読んで、当時は「まあ、いとおかしオホホホ」なんてやっていたのか? おそるべし平安女子!



さてめげずに平家物語。
11世紀初頭の枕草子や源氏物語と違って、こちらは13世紀前半の成立とされている。200年ほど経って同じ漢字仮名交じり文でも、もっと漢字が多くなって該当箇所を探しやすいだろうと期待。

平家物語も原本はなく、これは1370年(室町時代初期)の写しと推定されている写本。画像はhttps://da.library.ryukoku.ac.jp/page/000020から引用
8平家物語1

赤線部分に書かれているのは平朝臣清盛公。
「の」の文字は見られない。


しかしこちらの慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本では細かくルビが振ってあり、しっかりと「たいら の あそん」と「の」が入っている。画像はhttps://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/bunken.php?title=keiheikeから引用
9平家物語2


ここまでを作成年順に並べると

  1158年(平安末期):官宣旨:「の」はない

  1370年(室町時代初期):平家物語写本:「の」はない

  慶長年間(1596〜1615年):日本書紀写本
               すべてではないが「の」と但し書きが付く箇所が多い。

  慶長年間(1596〜1615年):平家物語写本:「の」のフリガナがある。


これでわかるのは遅くとも慶長の時代にウジ(氏)の後に「の」を入れて読んでいた事実ただそれだけ。1370年の写本では「の」が書いてなくても常識として「の」を読んでいた可能性は残るし、慶長の時代に「ウジ(氏)には「の」を付けても、そうでなければ付けないの使い分けルールがあったかも不明。

いろいろと調べた割には骨折り損のくたびれもうけ。もちろんそれは最初から承知で、歴史の証拠集めをする真似事のお遊び。それなりに楽しかった。

10「の」

古代の人のしゃべり言葉を聞くことは出来ない。「蘇我の馬子」や「小野の妹子」だったとしても、それは「銭形のとっつぁん」程度のものだったような気がする。

もう一度、最初の疑問に立ち返ると

  天皇に与えられた公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
  それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。

と歴史で教えられるけれど、それにエビデンスはあるのか? ウジ(氏)を与える制度は5〜6世紀に始まったとされる。その頃の資料にフリガナでも振ってあったのか?と思ったのが始まり。

そして名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的なミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家あるいは文書を扱う人が、それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを設けたのでは?との推測。


古墳時代はひとまず置いといて、疑問の後半に重きを置くなら

ウジ(氏)を与えられていた家系がミョウジ(苗字または名字)を名乗りだしたのが平安後期から。もしエビデンスがあるとすれば、

   その頃に書かれたウジ(氏)なら「の」が付く、ミョウジ(苗字または名字)には
   付けないとのルールあるいはマナーを示した文書が発見される。

   平仮名を多用する平安文学のどれかに、例えばウジ(氏)を名乗る藤原家の
   人物なら「ふじわら の 誰それ」、ミョウジ(苗字または名字)を名乗る一条家の
   人物には「いちじょう誰それ」と書き分けられていれば、その当時から「の」の
   あるなしを使い分けていたと判明する。


まあそんなエビデンスが見つかっても歴史の解明に役に立たないけれど。

ときどき書いているように、ネットで得られる情報には誰かが書いた間違い、あるいはいい加減な話が、他の人によってコピペを重ねられるうちに、すっかり事実のように扱われているケースがけっこうある。それと違い【ウジ(氏)なら「の」が付く】ははるか以前からの歴史学説ではあるものの、どこか似たような匂いを感じたから、好奇心からその根拠を知りたいだけ。

歴史に詳しい人から見たらトンチンカンな思い込みを書いているのかも知れない。とりあえずこんな与太話を最後まで読んでくれてありがとう。



おしまい

wassho at 21:28|PermalinkComments(0)

2024年07月22日

名前の間に入る「の」について歴史学説への疑問

豊臣秀吉の呼び名はなぜ「の」が付かず、逆に千利休には「の」が付くのかについて先日3回にわたってブログを書いた。その時にいろいろと調べたわけであるが、すると「の」に関してもっと根源的な疑問がフツフツと。

豊臣秀吉と千利休の「の」問題についてはこちらから

   豊臣秀吉と千利休の「の」問題
   豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2
   豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3


最初のブログから引用すると、

======
  菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝

などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
いつの間にか時代が下ると、

  足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康

などのように「の」が入らなくなっている。

これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。
======

そうだとして「豊臣」は天皇から与えられた名前で「千」はそうでないのに、なにゆえ先ほど書いたように「の」が逆扱いになっているのか。あれこれ推察したけれど、大局的に考えれば「何事にも例外はある」だろうか。過去3回を読んでくれた人にはゴメンね(^^ゞ


さてである。

「の」が付く付かないは、それが天皇から与えられたウジ(氏)と呼ばれる名前かどうかで決まるとは、どの歴史解説を見てもそう書いてある。これは確固たる学説といっていい。天皇制がそれほど確立していなかった時代については勉強が及ばずよく知らないものの、今回のテーマとはあまり関係ないのでとりあえず無視。

とにかく公的な名前であるウジ(氏)なら「の」が付く。
それ以外の私的な名前であるミョウジ(苗字または名字)には「の」を付けない。
歴史ではそう教えている。


そして冒頭に書いた根源的な疑問とは

  _人人人人人人人人人人人人人人人_
  > それってエビデンスあるの? <
   ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

なぜなら古事記や日本書紀を始め古い時代の書物はすべて漢文で記述されている。当然ながら人物の名前も漢字。歴史資料の原点ともいえるそれらに、名前に「の」を挟むようフリガナがわざわざ振ってあったのかとの思いつき。

さらにいえば

   【ウジ(氏)なら「の」が付く】とは、ウジ(氏)の名前があった時代に
    そう読んでいたのではなく、

    名前には天皇から与えられた公的なウジ(氏)と、そうではない私的な
    ミョウジ(苗字または名字)の2種類があったと知った後世の歴史家が、

    それらを区別するために【ウジ(氏)なら「の」が付く】とのルールを
    設けた

ーーーのでは?との疑惑。
そんな好奇心から【ウジ(氏)なら「の」が付く】学説の根拠を知りたくなった。

1疑問マーク


少し調べても、そのような解説のあるページはネットでは見当たらなかった。そもそもどんなフレーズで検索すればいいのかもよくわからない。

ChatGPTに尋ねると「の」を入れるのは平安時代に確立したと自信満々の答えで、その根拠としてあげられていたのは源氏物語や枕草子に「藤原の道長」や「源の頼朝」などの表現が見られるとの指摘。そこに彼らが登場するわけなかろうに。

ChatGPTは考えさせる質問をすると、たまに素晴らしい回答が得られる。しかし調べ物に使ってもあまり役に立たない。というか平気で嘘をつくので確認なしでは怖くて使えない。



ところで日本史を習うのは中学校からだった? 小学校でも社会科で習ったかな? なにぶん大昔のことなのでよく思い出せない。

それはさておき、教科書はまず縄文・弥生時代から始まって古墳時代へと続く。ここまで人の名前はほとんど出てこない。そして飛鳥時代になって聖徳太子と一緒に蘇我馬子や小野妹子が登場する。「馬子なんてヘンな名前」「妹で子なのにコイツは男かいっ!」なんて思ったのが懐かしい。

そして蘇我馬子も小野妹子も名前の間に「の」を入れる。それ以降、登場人物は鎌倉幕府で頼朝・頼家・実朝の後に北条氏が出てくるまで、天皇や僧侶を除けばほとんどが名前に「の」が付く人である。だから日本史を学んでしばらくするとすっかり「の」を入れて読むのに慣れてくる。外国人はどこにも「の」の文字がなくても、日本人が「平の清盛」なんて読むのが不思議だろうなあ。


さてウジ(氏)なら「の」が付くにはエビデンスがあるのか。
わからないなら多少は調べてみようホトトギス。

教科書の初めに出てくる2人のうち、蘇我馬子がいたのは551年〜626年。小野妹子は生没年不詳であるが、彼が仕えていた聖徳太子は574年〜622年の人。つまり「の」を付けて呼ばれたこの2人は同世代人。

そして日本最古の歴史書である古事記の成立が712年、日本書紀が720年。果たしてこれらに蘇我馬子や小野妹子のフリガナはあるのか。


これは日本書紀。
あっ!蘇我「の」馬子とフリガナが振ってある(赤線部分)。画像はhttps://www.digital.archives.go.jp/file/3146484.htmlから引用
2蘇我馬子

2蘇我馬子のコピー

ただしこの時代に片仮名はない。
フリガナを振るとすれば万葉仮名だが、それの見た目は漢字と同じ

古事記、日本書紀共に原本はなく、この画像は慶長年間(1596〜1615年:安土桃山の終わりから江戸の初め)の写本。だから日本書紀に読み方が書かれていたとの証拠にはならない。それでも遅くとも慶長の頃に「の」を付けて読んでいたのはわかる。(フリガナのようなものが、写本した時期より後世の加筆でなければ)

また物部守(もののべ の もりや)と、ウジ(氏)ではないが穴穂部皇子(あなほべ の みこ)にも「の」が打たれている(紫線部分)。一方でなぜか2行目から3行目にかけての蘇我馬子には「の」の文字がない(緑線部分)。※画像はクリックすれば拡大します


同じ写本の日本書紀から小野妹子。
なぜかこちらには「の」がない。どうして?
3小野妹子


古事記は神話と天皇の話が中心で、ウジ(氏)の付く名前の人物は出てこなそうなので調べなかった。そこでChatGPTが源氏物語や枕草子以外に官宣旨(かんせんじ:朝廷からの通達文書)にも、「藤原のなにがし」や「源のだれそれ」との記載があると回答していたので、念のために調べてみる。

これは保元3年(1158年:平安末期)の官宣旨。画像はhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/134487から引用
4官宣旨

平朝臣とあり、その下の消えかかっているのは花押(図案化された署名)。同じ墨で書くのになぜ薄くなっているのかよくわからないが。

いずれにせよ平と朝臣の間に「の」のフリガナや注意書きはない。行政文書の署名にフリガナを付けるはずはないのでこれは当たり前。まあ念のための確認。なお朝臣(あそん)はカバネ(姓)と呼ばれる身分の一種で、内容は「豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3」を参照されたし。

それにしても官宣旨に何が書いてあるのかまったく読めない。


とりあえずここまでで漢文主体の文章オリジナルに「の」のフリガナがないとわかった。もちろんたった3つの資料で言い切りつもりはない。これはあくまでお遊びのリサーチ。



さて漢字の伝来時期は諸説あるものの、3世紀の邪馬台国は中国(魏)とやりとりしていたのだから、その頃には使いこなしていたはず。しかし漢字だけじゃ日本語を自由に表現できないので、漢字の持つ意味を無視して、その音や訓でアイウエオ〜の音を当てはめたのが万葉仮名。例えば花は「波奈」で山は「也麻」など。漢字なのに仮名という先人の知恵と努力の結晶。

実際の使われ方はもっと複雑で万葉集の

 茜さす 紫野ゆき 標野(しめの)ゆき
 野守は見ずや 君が袖ふる

を万葉仮名で書くと

 茜草指 武良前野逝 標野行
 野守者不見哉 君之袖布流

恋の歌なんだけれど漢字ばかりでキュンとしないね(^^ゞ
袖布流なんて、破れた袖が川に流されたのかと思ってしまう。

万葉仮名とは、それが使われた代表作が万葉集(奈良時代8世紀後半の完成)だから、後世に万葉仮名と名付けられた。当時にどう呼ばれていたかは不明。

万葉仮名は飛鳥時代の7世紀中頃までには出来ていたとされ、万葉仮名を草書体で崩して書いた草仮名(そうがな)を経て片仮名が9世紀初め、平仮名が9世紀終わり頃には成立する。西暦で記すなら800年代。現代では片仮名は外来語の表現に使うから、平仮名のほうが古くからあった気がするがそうじゃない。


残念ながら日本民族は独自の文字を持たなかった。もし文字を発明していれば、今わかっているよりもっと古い時代の歴史をたどれたのにと残念に思う。




ーーー続く

wassho at 22:44|PermalinkComments(0)

2024年07月18日

リバースATM

7月3日に新しいお札が発行されたのは記憶に新しいところ。
渋沢栄一がちょっとブ男(^^ゞ そのうち見慣れるでしょう。

1お札

発行日の前後にはマスコミの報道も加熱。そして渋沢栄一の出身地である埼玉県深谷市では3日0時前のカウントダウンや祝賀パレードなどお祭り騒ぎ。ただし五千円札の津田梅子の出身地の東京新宿、千円札の北里柴三郎の熊本県阿蘇で何かやったとの話は聞かなかったな。先日の選挙で「2位じゃダメなんですか」の人が3位になっていたけれど、やはり1位じゃないと盛り上がらないのか。ちなみにスパコンで「2位じゃダメなんですか」の考え方を私は否定しない。世界一の戦艦大和は結局、何の役にも立たなかった。


それはさておき、なぜかメデタイこととなっている新紙幣発行であるが、「大量に流通するお札としては、今回が最後になるのではないか」とも言われている。それはもちろんキャッシュレス社会の進行。

経産省によると2023年のキャッシュレス決済比率は39.3%で、これはこれは10年前の2.5倍。政府が目標に掲げている「2025年までに40%」は前倒しで達成しそうである。画像は同省2024年3月29日のニュースリリースより
2キャッシュレス決済比率

(なおこの数字には家賃の支払い、公共料金の引き落としなどの銀行口座送金・決済は含んでいない。含んだ数字での比率は経産省発表で54%、他のシンクタンクでは70%となぜか大きな開きがある)


ただし目標達成でも、諸外国と比較すると日本はキャッシュレス後進国。
もっともキャッシュレス社会がバラ色の未来かどうかは疑問もある。
3キャッシュレス決済比率国際比較

こちらは2021年のデータで出典は国連の機関である世界銀行。韓国、中国、カナダのグラフの色が違うのは統計の取り方が違うらしく参考値だから。グラフは一般社団法人キャッシュレス推進協議会のロードマップ 2023から引用編集

中国ではアリペイ(支付宝)やWeChat(微信)ペイなど、PayPayのようなスマホ決済が急速に拡大した話を以前はよく聞いた。今は当たり前になってニュースにならないほど。いろんな祝儀や春節のお年玉もそれで渡す、町中で現金を使える店がなくなり外国人旅行者が困る(ホテルや高級レストランなどを除いてVISAやMasterなど外国製クレジットカードは使えない)状況のようだ。

でも韓国はその中国以上にキャッシュレス社会とはまったく知らず、
見聞の狭さを反省(/o\)

アメリカはクレジットカードの普及していない時代から小切手を使うなど、キャッシュレス先進国のイメージがあったものの、現在の比率を見ると主要国の中では平均的レベル。そのアメリカでもさらなるキャッシュレス化は進んでおり、その中で日本とは違う「ところ変われば品変わる」的なお話が本日のメイン。



さてATMといえば現金自動預け払い機。英語フルネームは automatic teller machine で teller とは銀行の窓口。お金を引き出す、預け入れるなど現金を扱う機械のイメージ。振り込みもできるがネットバンキングの時代になって使わなくなったなあ。

ところが現金を扱う店が少なくなりつつあるアメリカではATMに現金を入れ、デビットカードに替えられるリバースATMなるものが登場している。

リバース reverse とは反対、裏返し、逆転などの意味。クルマで後ろ向きに走るのをバックすると言うけれど、バックギアは和製英語でシフトレバーにはリバースギア=R の表示があるはず。ついでにバックミラーも和製英語で正しくはリバースミラー。ある年齢以上ならカセットテープを裏返しにしなくても再生できるリバースデッキやオートリバースなんて言葉に聞き覚えがあるはず。


話をリバースATMに戻すと、それを知ったのは6月21日付の経済誌ダイヤモンド(元ネタはウォールストリート・ジャーナルからの転載)。記事は野球場の売店で現金が使えなかったため、仕方なく店員に教えられたリバースATMに200ドルを投入したら、3.5ドルの手数料を取られて196.5ドルがチャージされたデビットカードが出てきたとの体験談から始まる。計算すると手数料率は1.75%になる。(別の事例で20ドルで0.5ドル引かれたとあり、それだと手数料率は2.5%)

日本でデビットカードは銀行口座から直接引き落とす仕組みだけど、この記事のデビットカードは日本でいうプリペイドカードみたいなものか。デビット debit にはいろいろな意味があって、デビットカードの場合は「引き落とし」。

プリペイドカードも日本なら手数料なんて取られないのにと思ったら、
驚くなかれアメリカでは現金が不利な扱いで、

   現金を受け取るお店では1〜6ドルの割増料金になる。
   以前は現金だと割引してもらえたのに。(クレジットカードなどだと
   カード会社から支払われるときにお店が手数料を取られるから)

   税金や電話料金を現金で払うと、政府機関や民間企業は現金決済業務を
   外部に委託しているのでそこが手数料を取る。

らしい。

現金の受け入れを企業に義務付ける連邦法はなく、州によっては現金受け取り拒否を禁じる措置をとっているようだ。また中国でも4月に政府が主要観光地に現金での支払いを受け付けるよう通知を出している。キャッスレス化=脱現金化を官民一体で進めている日本とは正反対の動きで、まさにところ変われば政策もリバースするである。



ところで今までのお札発行年次は

  福沢諭吉・樋口一葉・野口英世:2004年(平成16年)
  福沢諭吉・新渡戸稲造・夏目漱石1984年(昭和59年)
  聖徳太子・聖徳太子・伊藤博文1958年(昭和33年)〜1963年(昭和38年)

期間を計算すると

   2024 − 2004 = 20年間
   2004 − 1984 = 20年間
   1984 − 1958 = 26年間

と、この2回は20年間ペースで更新されている。さて2044年にはもう現金を使わない時代になっているのか、お札はどんな扱いになるのかな。


なおリバースATMをGoogleで検索すると、今のところ昨年4月に書かれたマネックスグループ会長である松本大氏のコラムがヒットする以外は、リバースモーゲージ(死亡時に担保の自宅を売却して清算する融資)関連しか出てこない。

だからこれはまだほとんどの人が知らない「ところ変われば」の話題のはず。「ショウヘイを応援しにアメリカの球場に行ったらさーーー」と知ったかぶりしてみて(^^ゞ


参考までに松本氏はリバースATMから出てくるのは、
デビットカードではなくプリペイドカードだと書いている。

wassho at 21:13|PermalinkComments(0)

2024年07月15日

豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その3

豊臣秀吉がなぜ「豊臣の秀吉」と「の」を付けて呼ばれないかの推察を2回にわたって書いてきた。逆にどうして「の」を付けて呼ばれるのか不思議な人物が、秀吉と関係が深かった千利休。

千利休

彼の略歴と名前を並べると

1522年、大阪堺の豪商の家に生まれる。
本名は田中与四郎。

子供の頃からお坊ちゃまの嗜みとして茶の湯に親しみ、17歳から師匠について本格的に習い始める。(誕生日がわからないので年齢は数え年。)

ちなみに茶の湯と、現在の茶道の違いは

   茶の湯:お茶で客人をもてなす行為
   茶道:それが礼儀作法として形式化したもの

が私の解釈。
これ以上は言うまい(^^ゞ


19歳で宗易(そうえき)との法名を得る。この法名が当時どのような意味合いで用いられていたのかよくわからないのだが、仏教徒としての別名のような位置づけだと思う。

また抛筌斎(ほうせんさい)との号もあって、これは雅号=文化人の用いる芸名。

肝心の「千」の名前は父親が田中から千に改名したようで(諸説あり)、それがいつだったのかは不明。ただし父親は利休が19歳の時に亡くなっている。また父親がその父である田中千阿弥から千の文字を取ったとされる。


30〜40歳代は戦国バブル景気に沸く堺で大いに財をなす。
奥さんは堺の実質的支配者であった三好家の女性で、三好家の御用商人となる。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。
歴史的にはここが戦国時代の終わり。

1569年に堺が織田信長の直轄地となり、1570年(49歳)より茶堂(さどう:茶の湯行事を取り仕切る担当)として信長に召し抱えられる。

1582年(61歳)、本能寺の変。
以降は秀吉に仕える。参考までに秀吉はこの時に数えで46歳。

徐々に秀吉の最側近となり権勢を振るう。

1585年(64歳)、秀吉が関白就任。
その返礼の天皇に献上する茶会を取り仕切る。その際に、平民の身分では宮中に入れないので天皇より「利休」の居士(こじ)を与えられる。ここでの居士は前述の法名と同じ(だと思う)。仏名を与える=仏門の人だから、貴族や武士と違って身分に関係なく宮中に招き入れられるとの理屈。何事にも抜け道はあるもの。

なおその茶会で天皇や皇族に茶を点てたのは秀吉。利休は公家たちの茶を担当した。公家のほうが天皇よりおいしいお茶を飲んだのかも知れない(^^ゞ

1591年(70歳)、秀吉の不興を買い切腹を命じられる。



改めて利休の略歴をたどると、利休は秀吉との付き合い(61歳〜70歳)より、信長とのほうが長かったんだね(48歳〜61歳)。歴史では秀吉とのエピソードが多いからこれは意外だった。信長時代に平行して秀吉との付き合いもあっただろうけど。

それと利休の名前になったのも晩年で、その名前で呼ばれたのは6年間しかない。さらに利休の茶は「わび茶」といわれ極端に簡素化を求めるが、そのスタイルを始めたのは秀吉に仕えてからで、それ以前はごく普通だったらしい。秀吉の成金趣味に反発したのか、あるいは信長の前では怖くて出来なかったのか。

また有名な一期一会は千利休が話した内容をベースに、
江戸時代末期の井伊直弼が四文字熟語にして広まった言葉。


さて(/_')/ソレハコッチニオイトイテ

千利休がなぜ千「の」利休と「の」を付けて呼ばれるのか、あれこれ調べたものの参考になるような解説は見当たらなかった。

利休の名前は天皇から与えられたとはいえ、ウジ(氏)の後に「の」を入れるのであって、いわゆる「下の名前」の前に「の」を付けるのではない。

そもそもウジ(氏)はカバネ(姓)と呼ばれる朝廷内での役割や地位を表す名称とセットで天皇から与えられ、ウジ(氏)の後に「の」というより、カバネ(姓)の前に「の」を入れる習わし。

例えば源頼朝のフルネームは

    源 の 朝臣 頼朝

で、この朝臣(あそん)がカバネ(姓)。
古くにカバネ(姓)は30種類ほどあって、684年(飛鳥時代)に8種類にまとめられる。しかし徐々に朝臣しか使われなくなり、皆が朝臣では区別の機能を果たさなくなって名前としては省略されがち。それでもカバネ(姓)の前=ウジ(氏)の後に「の」を入れる慣習は残って「源の頼朝」となる。

そして貴族でも武士でもない商人である千利休は、当然ながらカバネ(姓)を持っていない。そもそもカバネ(姓)を持っていればウジ(氏)もセットで持っているので「利休」の居士号を与える必要がない。

前々回に秀吉が「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと推察【その1】を書いた。そんな時代なのにどうしてウジ(氏)を持たない利休が「千の利休」なのか?

まったくワケワカメ(>_<)

こうなるとウジ(氏)につく「の」ではなく「田中のケンちゃん」みたいな使い方と考えるしかないのかな。それも自信ないけど。だから利休については【推察】はなし。



ところで秀吉と密接な関係だったはずの利休は、なぜか最後は武士でもないのに切腹させられている。その理由は謎で歴史学者の間では10以上の仮説が唱えられている。

だったらーーー

秀吉が自分は「の」なしの「豊臣秀吉」なのに、
利休が「千の利休」と呼ばれているのにムカついたからとの新説はどう?(^^ゞ



いったんおしまい
でも「の」に関するさらに根本的な疑問が湧いてきたので、後日に改めて続く予定。

wassho at 13:25|PermalinkComments(0)

2024年07月14日

豊臣秀吉と千利休の「の」問題 その2

ミョウジ(苗字または名字)が名前の主流となってもウジ(氏)が無くなったわけではない。朝廷内や公的な業務では引き続きウジ(氏)が用いられる。そしてウジ(氏)の名前があるのは上級国民の証し。それがなければ朝廷内では名無しの権兵衛に等しく相手にされない。そこで戦国時代の下克上で成り上がった、すなわち出身が上級国民でない武将たちは家系図を捏造するなどして何とかウジ(氏)を手に入れている。(一度与えられたウジ(氏)は世襲され、つまり天皇の再承認なしに引き継がれるから、先祖をでっち上げるわけ)


信長の織田家は代々(自称)藤原氏を名乗り、信長自身が藤原信長と署名した文書も残っている。なのにその後に信長は平氏に乗り換え。その理由は定かではないものの、武家政権は平氏と源氏が交代する源平交代思想に影響されたとの説もある。

  源平の順番とは:平清盛→源頼朝→執権北条家(平氏)→足利将軍家(源氏)


家康を出した松平家も代々(自称)源氏を名乗っていて家康もそれに倣う。しかし官位を得る都合で藤原氏になったり、また秀吉が豊臣や羽柴の名前を諸大名に与えたので、形式上は羽柴家康や豊臣家康の時代もあった。ウジ(氏)を与えるのは天皇の専権のはずだが、まあ天下人となった秀吉を止められなかったのだろう。

三英傑

その秀吉はといえば、武家としてはそれなりに名門に生まれた信長や家康と違って「どこの馬の骨」かわからない階層の出身。前回に彼が若い頃は木下藤吉郎の名前だったと記した。とはいえ「家の名前」があるレベルの生まれではなく、これは妻の実家の名前あるいは自分で勝手に木下と名乗ったとも考えられている。

そのレベルの生い立ちなので家系図を細工して源平藤橘の血を引くと主張するのは無理があった。ウジ(氏)がなくては上級国民の仲間入りは不可能。

しかし本能寺の変以降、信長に倣ってちゃっかり平氏を名乗っている。こうなると捏造すらなく開き直った自称であるが天下人なら何でもあり。それだけでは満足せず関白になるために近衛家の養子となって、晴れてそのウジ(氏)である藤原氏を正式に名乗る。さらに関白となった翌年に、いよいよ借り物ではない自分専用のウジ(氏)となる「豊臣」を天皇から得るのに成功している。


前回は豊臣が天皇から与えられたウジ(氏)であるにもかかわらず、「豊臣の秀吉」と呼ばれないのは、武士や貴族で「の」は付けないミョウジ(苗字または名字)を名乗るのが主流になって、その風潮に合わせたのではないかと私の推察【その1】を書いた。

もうひとつの推察は

  豊臣のウジ(氏)は家系図の捏造などではなく、確かに天皇から与えられた名前
  ではあるとしても、それは天下人の威光を背景に無理矢理ねじ込んだもの。

  秀吉が豊臣のウジ(氏)を得たのは1586年。大坂夏の陣で秀頼が没したのが
  1615年。だから豊臣ウジ(氏)家はわずか29年で滅亡した。
  秀吉の妻の家系が何家か豊臣のウジ(氏)を引き継いだものの、いわゆる没落状態。

  何たって秀吉は「どこの馬の骨」かわからない生まれ。

そんなこんなで豊臣のウジ(氏)は源平藤橘など古来からあるウジ(氏)とは同列に見られなかった。それで見下されて「の」が付かなかったというのが私の推察【その2】

もちろん
これも知らんけど(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 10:56|PermalinkComments(0)

2024年07月13日

豊臣秀吉と千利休の「の」問題

先日に書いた「ああ勘違い」4部作。最も長く勘違いしていたケースで、その期間は半世紀にも及ぶからやるせない(>_<) とりあえず現在までに4つ判明しているとはいえ、他にもあるんだろうなといろいろ思いを巡らせていたら、勘違いとは別に、高校生の時に疑問が浮かんで、そのままになっている事柄をふと思い出した。それがまずは豊臣秀吉の「の」。


日本史の教科書を読むと

  菅原道真 藤原道長 平清盛 源頼朝

などは「すがわら の みちざね」のように苗字と名前の間に「の」を挟むのに、
時代が下るといつの間にか、

  足利尊氏 上杉謙信 織田信長 徳川家康

などのように「の」が入らなくなっている。


これは一般にこう解説される。
菅原、藤原、平、源などは天皇から与えられた名前。これには「の」を挟む。いっぽうで足利、上杉、織田、徳川などはそうでないから「の」は不要。

江戸時代までの公式フルネームはとてもややこしい構造なのだけれど、平たく解説すればそういうことになる。しかしそのルールに当てはまらない人物がいる。その一人が豊臣秀吉。

秀吉

織田信長や徳川家康と同じように、豊臣秀吉にも「の」は入れないで発音されている。
ただし秀吉の出世につれての名前の変遷を見ると、

  日吉丸(幼名)
  木下藤吉郎
  木下藤吉郎秀吉
  羽柴秀吉
  豊臣秀吉

このうち豊臣は関白となった翌年の1586年に天皇から与えられた名前である。ならば「源の頼朝」のように「豊臣の秀吉」となるはずなのに、なぜかそう呼ばれていない。さらに不思議なことに名前の「の」についての解説は多いのに、豊臣秀吉の「の」はそれらのほとんどが完全スルーである。あれこれ調べたものの、それに触れているのはWikipediaに「豊臣秀吉の読みは源頼朝・平清盛らとおなじく(とよとみのひでよし)が正しいと思われる」と曖昧に書かれている程度だった。

単純な疑問なはずなのに、どうしてみんな無視するの?
まあ豊臣秀吉を、豊臣の秀吉と呼んだところで歴史が変わるわけでもないけど。



さて歴史のおさらいをすると「藤原の」のように「の」を付ける名前をウジ(氏)という。蘇我馬子(そが の うまこ)のような古代の豪族を別とすれば、基本的には天皇から与えられた名前。与えられた対象は

  豪族のちに貴族:中臣鎌足に藤原の名前を与えたのが藤原氏の始まり。
          菅原道真や在原業平などもこの部類。
          ※なお中臣もウジ(氏)なので、これは鎌足の
           中臣氏一族から藤原氏への独立を意味する

  臣籍降下した皇族:源氏や平氏が有名。多くは貴族から後に武士へ転身。

トータルで何種類のウジ(氏)を何人に与えたのかは知らない。しかし落ちぶれる連中も出てくるので、しだいに源・平・藤原・橘に収斂される。なお俗に源平藤橘といわれるけれど橘氏はたいして発展しなかったので、平安時代の上級国民は源氏、平氏、藤原氏だらけになる。

それじゃ区別が付かなくて困るから、やがて藤原氏の末裔は「一条」「二条」「鷹司」「近衛」など、自宅近くの京都の通りの名前を家名として使い始める。公的な名前のウジ(氏)に対して、こちらは私的な名前でミョウジ(苗字または名字)あるいは称号と呼ばれた。武士となった源氏と平氏も同じで、所領の地名を取って源氏では足利や新田、平氏では北条や三浦などを名乗るようになった。

そして公的な名前のウジ(氏)では「の」を付けても、私的な名前のミョウジ(苗字または名字)では「の」を付けない決まりになっている。

そのような変遷を経て鎌倉時代も中頃になると、歴史に登場する人物レベルでは武士も貴族も私的な名前のミョウジが主流になった。つまり「の」を付けて呼ぶ人がいなくなった。

その流れの中で「豊臣の秀吉」も、時代に合わせて「の」なしにしちゃえとなったのかも知れない。それが豊臣秀吉の「の」問題に対する私の推察【その1】。

また新古今和歌集を編纂した藤原定家は平安末期から鎌倉初期の人物。彼は藤原の名前の貴族なのに「の」を付けるか付けないか微妙な存在になっている。これも「の」を付けて呼ぶ風習が廃れだした影響かと思っている。

まっ、
知らんけど(^^ゞ



ーーー続く

wassho at 10:07|PermalinkComments(0)

2024年07月08日

祇園精舎の不覚 その3

鳥羽伏見の戦い、伊賀と甲賀に続いて恥を忍んで告白する「ああ勘違い」パート3は皇居の二重橋。これは2015年に発覚。


皇居を訪れた経験がなくても、誰もが写真や映像でならば一度は見たことのある皇居のアイコンともいえるこの橋。これを二重橋だとずっと思っていたのに、そうじゃなかったとの話。
7石橋


上の橋の奥にあるこちらが二重橋。
8本当の二重橋

どうしてこれが二重橋の名前なのかは「皇居見物 そして、ああ勘違い」に書いたからそちらを読んで欲しい。https://wassho.livedoor.blog/archives/53113149.html

ただし多くの人が最初の橋を二重橋と思っているようで、ネットで検索すれば同じような事例がたくさん出てくる。何となくトラウマになっている鳥羽伏見の戦い、伊賀と甲賀とは違って、これに気付いたときは「エーっ!違うの、何で〜?」とズッこけた感じだったかな。戦時中なら非国民扱いされたかも知れないが(^^ゞ



さて前置き3つが終わって、
いよいよ本題のパート4。

    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
    沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
    奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
    猛き者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵におなじ。

ご存じ平家物語の書き出し部分。「春は、あけぼの」の枕草子、「いづれの御時にか」の源氏物語と3点セットで冒頭だけは何となく記憶にある人も多いと思う。(ふりがな付きはここをクリック

問題はこの「祇園精舎」。
その後に「鐘の声」と続くので、これはてっきり京都の祇園あたりにある寺だとばかり思っていた。さにあらず、この祇園精舎とは釈迦が説法を行ったインドの寺院だった(/o\)

場所はここ!
10祇園精舎地図


今でも遺跡として残っている。
11精舎現在

サクスクリット語(インドの古典語:梵語ぼんご)で Jetavane 'nāthapiṇḍadasya ārāma と書きジェータヴァナ・アナータピンダダスヤ・アーラーマと長い名前。その漢訳が称祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)、それを略して祇園精舎。略した祇園精舎のサンスクリット語は Jetavana-vihara でジェータヴァナ・ヴィハーラ。

それにしてもまさか祇園精舎がインドにあったとは。平家物語→平家が権勢を誇ったところは→京都→祇園にある寺だとばかり思っていた。今の祇園は歓楽街でも平安時代は静かなところだったのだろうと思い、「祇園精舎の鐘の声」の一節に触れるたび、その平安時代の祇園に鳴り響くゴ〜ンという鐘の音をイメージしてきたのに。

その最初はもちろん平家物語を初めて読んだ高校の古文での授業。そして祇園精舎がインドにあると知ったのは半月ほど前。そうなると勘違いしていたのはアラウンド半世紀もの期間になる。何たる不覚(>_<)

古文の先生は祇園精舎がインドの寺としっかり教えてくれたかなあ。もし教えてくれていたとしても「カロカツクイイケレマル」に気をとられて聞き逃していたのかも。



ところで祇園精舎はインドにあるけれど、
実は京都の祇園はこの祇園精舎がその名前のルーツ。

祇園の近くにあるのが八坂神社。ここは明治になるまで「祇園神社」や「祇園社」と呼ばれていた。八坂神社の歴史はややこしいものの、超簡潔にはインドにある祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)を祀ることから始まったから。神社なのに仏教の守護神を祀るとは?だが、中世の頃の神道と仏教はクロスオーバー(神仏習合)している存在だった。後に牛頭天王は素戔嗚尊(=須佐之男命=スサノウ ノ ミコト=天照大神の弟)とされている。

祇園神社は大きな神社なので周辺の鴨川一帯に広大な社領を持っていた。そこが祇園と呼ばれ神社の名前が八坂神社に変わった後も地名として残る。今は舞妓さんや花街のイメージが強くても元は祇園神社の門前町。

参考までに現在の祇園はこのあたり。
12京都祇園



ところで祇園精舎の鐘の声〜で始まるのが平家物語。しかし実際のインドの祇園精舎に鐘は存在しない。鐘は中国が起源で日本に伝わった。インドの寺に鐘を打つ文化などないのだ。

平家物語は作者も書かれた時期も不明であるが、1309年(鎌倉時代末期)までには成立していたとされる。その頃の作者が古代インドの状況を知るはずもなく、精舎=寺だから鐘を打つと考えたのだろう。鐘がなければ当然ながら、それに続く「諸行無常の響き」もあり得ない。たぶんあの世で「やってもうた!」と反省しているはず(^^ゞ

それでも日本において祇園精舎といえば「祇園精舎の鐘の声」である。それで何と日本国祇園精舎の鐘の会なる団体が(ネットで調べたが正体はわからず)が1981年にインドの祇園精舎に鐘を寄贈している。ないのなら作ってしまえホトトギス?

それがこの鐘。
釈迦はナンジャこれ?とビックリしているはず。 画像はhttps://kaz4649.com/2017/05/02/bihar-up-220/から引用
13祇園精舎の鐘



さてさて、
ならばである。

祇園精舎とは京都の祇園にある寺だと思っていた。
果たしてそれは不覚の至りなのか?

インドの祇園精舎に鐘はない。
それなのに「諸行無常の響き」とまで書いている。

それを考えると、
これは祇園「しょうじゃ」ではなく祇園「じんじゃ」の書き間違いに違いない!
オリジナルの平家物語は琵琶法師による語りで伝えられた。
それを文字に書き起こす際に聞き間違えた可能性も高い。
14琵琶法師

祇園精舎ならぬ祇園神社ならば、それはすなわち八坂神社。
八坂神社は平安時代以前からあるし、
神仏習合の時代なら神社に鐘があってもおかしくない。
そこでゴ〜ンと鳴った鐘を平家物語の作者は聞いたのだ。

だから祇園精舎を「京都の祇園あたりにある寺」と思っていた私のイメージは、寺と神社の違いを除けば間違っていなかったのである!!!


古典にも負けず嫌いで挑む元気がないとね(^^ゞ


おしまい

wassho at 23:16|PermalinkComments(0)

2024年07月05日

祇園精舎の不覚 その2 (伊賀と甲賀編)

前回に書いた、鳥羽が伊勢ではなく京都の地名だと知ったのがいつかはよく覚えていない。しかし少なくとも35歳は超えていて、つまり日本史を習い始めてからずっと伊勢の地名だと勘違いしていてショックが大きかった。足元の階段=歴史認識が崩れ落ちて、真っ逆さまに転落するイメージ。ちょっと大げさ(^^ゞ


さて次はブログにも記録が残る2006年に発覚した勘違いパート2。

それは伊賀と甲賀。どちらも忍者で有名。忍者に伊賀忍者と甲賀忍者がいるのはたぶん漫画で読んで何となく子供の頃から知っていた。でもそれがどうやら地名であると理解はしていても、どこにあるのかまでは気にしていなかった。

5忍者

伊賀が三重県にあると知ったのは大学生の時。大阪から伊勢へサーフィンに行くのに名阪国道を通り、その途中に伊賀上野の大きな標識があったから。

それが伊賀忍者の伊賀だと知り「へえ〜忍者ってこんなところにいたんだ」と思った。
そしてそこからが勘違いの始まり。

  伊賀忍者と甲賀忍者は対立しているとの思い込み(実際のところは知らない)
       ↓
  対立するのは豊臣と徳川である
       ↓
  伊賀がこの地域なら、伊賀は豊臣方に違いない
       ↓
  ならば甲賀は徳川方
       ↓
  徳川は東日本なので、そこで「甲」といえば甲州
       ↓
  甲賀忍者の本拠地は山梨県!

と勝手に妄想が膨らみ、今と違ってネットでチャッチャと調べることもできないから、妄想が膨らんだ段階でその考察はストップ。やがてそれが私の中で疑うべきもない確固たる真実として認識された(^^ゞ


実際の甲賀は滋賀県にあり、
しかも伊賀と甲賀は県は違えどなんと隣町!
6伊賀甲賀地図

地図で見るとずいぶんと面積が広い。
少し調べると、

  滋賀県甲賀市
    面積:482平方キロ
    人口:8万6000人
    平成の大合併で2004年(平成16年)に甲賀市となる。
    焼き物で有名な信楽町がある。
    甲賀市の発音は「こうがし」ではなく「こうかし」
    それにちなんで甲賀コーラというご当地飲料がある

  三重県伊賀市
    面積:558平方キロ
    人口:8万4000人
    同じく平成の大合併で2004年(平成16年)に伊賀市となる。
    服部半蔵は伊賀忍者ーーー徳川家に仕えていた(>_<)
    松尾芭蕉も伊賀出身(なので忍者や幕府の隠密説あり)
    甲賀コーラに対抗して忍ジャーエールを発売

    参考までに平成の大合併が推進されたのは
    平成11年(1999)から平成22年(2010)

世田谷区の面積が58平方キロで人口94万人だから、人口密度は100倍以上違うね。また大阪府の面積は1905平方キロなので、伊賀と甲賀だけでその半分になる。なおこれは現在の行政区分なので忍者が本拠地としていたエリアはもっと狭い範囲だったはず。


前回の冒頭に記した「いわゆる常識となっている事柄」に伊賀・甲賀は含まれない。それで鳥羽伏見のようなショックは受けなかったものの、でもやはりしばらくは凹んだかな。それに鳥羽を伊勢の地名と思ってしまうのは、ある程度は仕方ない面があっても(京都の鳥羽がマイナーすぎるからと責任転嫁)、甲賀=山梨はまったくもって私のアホさ加減が生み出した勘違い。だから穴があったら入りたかったのはこちらのほう。



ーーー続く (祇園精舎までなかなかたどり着けない)

wassho at 23:28|PermalinkComments(0)

2024年07月04日

祇園精舎の不覚 (鳥羽伏見の戦い編)

いわゆる常識となっている事柄でも、内容を勘違いしているのはままあること。このブログでも過去に「忍者とダ・ヴィンチ・コード」「皇居見物 そして、ああ勘違い」などで紹介してきた。


恥を忍んで(^^ゞ おさらいすると、
まずは幕末の「鳥羽伏見の戦い」。

0鳥羽伏見の戦い浮世絵

歴史の授業では必ず習う薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が戦った内戦。その後の戊辰戦争の始まりでもある。実際には旧幕府軍が大阪から京都へ攻め上る戦いなのだが、なぜかそれを江戸から海路で三重県の鳥羽に入って一戦交え、その後に鈴鹿山脈を越えて京都の伏見でまた戦ったと勘違いしていた。しかし鳥羽伏見の鳥羽とは京都の地名(/o\)

勘違いした理由は伏見といえば京都でも、
鳥羽といえば伊勢にある鳥羽しか思い浮かばなかったから。


世間一般では伊勢志摩との表現が有名なものの、
鳥羽市は伊勢市と志摩市に挟まれた位置にある。
1三重県鳥羽


市全体が伊勢志摩国立公園に指定され、また海女さんが海に潜って真珠の入ったアコヤ貝を採ってくるショーをやっているミキモトの真珠島もあるところ。小学校の修学旅行でも訪れた。少なくとも関西では鳥羽は伊勢志摩とセットになった有名な観光地。それに対して京都の鳥羽なんて聞いたこともなかった。
2海女さん


地図は現在の京都市区分図。
中心となるのは中京区と下京区。
3京都市区分

鳥羽伏見の戦いの当時、鳥羽は上鳥羽と下鳥羽があって、上鳥羽は地図で南区の「区」の文字があるあたり。名神の京都南インターの少し北側。下鳥羽はその下で現在は伏見区に入っている。


こちらは両軍の移動経路。画像はhttps://love-japanese-history.com/ikusa%EF%BD%B0tobahushiminotatakai/から引用
4戦闘経路

大阪から上ってきた旧幕府軍は淀の先で二手に分かれ、南下してきた新政府軍と交戦する。地図で示されている両軍が相まみえた左側の地点が鳥羽、右側が伏見であり、その地名をとって鳥羽伏見の戦い。

でもこの両地点は3kmも離れていない。実質的には同じエリアでの戦闘。記録では鳥羽からドンパチの音が聞こえたので伏見でも戦闘が始まったとある。

だったら鳥羽みたいなマイナーな地名は使わず「伏見の戦い」でいいじゃん!
ーーーと悔し紛れに常々思っている(^^ゞ

鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍が敗退し江戸城開城につながった経緯が重要なのであって、歴史の授業で戦闘場所までは習わない。多くの人が鳥羽伏見の戦いの名前くらいは知っていると思うが、どれくらいの人が鳥羽を京都の地名だと正しく認識しているのだろう。もし過半数を超えていたら落ち込むな(/o\)



ーーー続く
祇園精舎の話はまだちょっと先

wassho at 19:06|PermalinkComments(0)

2024年06月30日

食のハックをタグ付けした

前回「餃子に酢ソース」のブログを書いた。そういえば少し前に「パンケーキを焼けなくても」も書いたし、それ以前にもちょっと変わった食べ方の話をいろいろと書いたなと思い出す。

抜き出してみた。

  餃子に酢ソース
  パンケーキを焼けなくても
  汁そばにワサビ
  夏以外はビールを冷やさずに
  夏はほうじ茶を水出しで
  ヨーグルトも常温に温めてみた
  常温牛乳で冬でもシリアル
  冷やしカップヌードル はじめました
  アイスコーヒーのブレンド
  カレーシチュー
  スイカにレモン汁
  フレンチプレスなら微粉は取り除こう
  コーヒーは温め直すより保温しておいたほうが
  手づくりの?トースタースタンド
  どん兵衛をほうじ茶で
  牛丼にチーズのトッピング
  ラーメンにチーズのトッピング
  焼き鳥にワサビ
  夏は白ワインをシャーベットにして
  アイスコーヒーは水出しで
  コーヒーを淹れるのは急須で充分
  たこ焼きにオリーブオイル
  ソーセージは茹でる?焼く?
  ざるそばに七味唐辛子
  和風で冷たいイタリアンなアメリカン
  コカコーラにバニラ・オイル
  コーヒーにシナモン
  まぜまぜ ビールとコーヒー
  まぜまぜ アレコレ
  ワインでアメリカン?
  ブラック・アイ 
  カフェ・アメリカーノ
  インスタント味噌汁をおいしく飲む方法
  トマトキムチ鍋 Ver.2
  トマトジュースの飲み方
  日韓中仏伊の適当な出会い 鍋編
  イタリアンと韓流(はんりゅう)の適当な出会い
  夏野菜エスニックカレー
  蕎麦の食べ方   
  夏を快適に暮らす方法2 水出し緑茶


なんと全部で41記事もあった(^^ゞ
ただこちらの総目次のタイトルだけで判断しているから、中身を読めばもう少しあるだろう。特に初期のブログは1つに記事に複数のテーマを含み、タイトルが内容のすべてではないページも多いから。

けっこう探すのは大変だったし、今後もまた参照したくなるかも知れないから、これらの記事には「食のハック」のタグをつけた。ここでのハック Hack とは「ちょっとしたコツや工夫」との意味。



ところで
このライブドアのブログでは記事を分類する機能として

   カテゴリー
   タグ

の2つが提供されている。
位置づけとしてはカテゴリーが大分類、タグが小分類といったところ。


カテゴリーはパソコンだとページの左側に表示されている。
1カテゴリーPC


スマホではどのページを見ているかで表示方法が異なる。

トップページの場合は下までスクロールして、プロフィール欄の上にある「カテゴリーアーカイブ」をタップすればパソコンと同じ内容がプルダウンメニューで現れる。
2カテゴリースマホトップ


個別の記事を見ているなら、記事のさらに下までスクロールするとパソコンと同じようにカテゴリーの一覧が表示されている。「バイク」「ベランダガーデニング」「海外」のように下向きマークの ∨ が記されているのはサブカテゴリーを持っている。(パソコンでの表示例を参照)
3カテゴリースマホ個別



カテゴリーと違ってどんなタグがあるかの一覧はブログ上に表示させていない。表示させることも可能なのだが、現在19個を設定しているカテゴリーと違って、タグの数は500個以上あるので実用性があまりないから。ちなみにライブドアの仕様では

 カテゴリー:設定上限500個:1つの記事に適用できるカテゴリーは2つまで

 タブ:設定上限不明、少なくとも1000個までは大丈夫みたい
   :1つの記事に適用できるタグはは10個まで

となっている。

また各記事にタグやカテゴリーは必ずしも適用させる必要はない。このブログでは(設定忘れを除いて)すべての記事がカテゴリー分けされているものの、タグはつけていない記事のほうが圧倒的に多い。なおカテゴリーとタグは独立した機能で相互の関連はない。


それでタグはどこで見るかというと、パソコンでは記事が終わったところにある。画像で「※チューリップ以外」と表示されているのはカテゴリー。
4タグ表示PC


スマホでは個別記事の後の「カテゴリーの最新記事」の下。
なぜかパソコンとはカテゴリーとタグの順番が違う。
5タグ表示スマホ


とりあえずここでカテゴリーやタグに書かれている文字をクリックなりタップすると、それに属している記事が日付の新しい順番に検索結果として表れる。ただしスマホならタイトルと最初の写真と書き出しの数行が表示されるのに対して、パソコンでは記事のすべてが表示される。例えば348記事を書いている「ツーリング」をクリックすると348記事すべての文章を延々とスクロールしなければならない。

これは是非ともタイトルだけの表示に改めて欲しい。
スマホもタイトルだけでいい。スマホで表示されるのが、タイトルと最初の写真と書き出しの数行なのは、スマホでの一覧表示が元々そういう仕様であるからに過ぎない。


なおカテゴリーやタグの機能を使わなくても、ブログ内にある検索窓にキーワードを入れれば、その言葉を含む記事を探し出せる。以前はこのツールがいい加減でヒット率が低いので表示させていなかったが、今は充分に機能している。写真は上がパソコン、下がスマホでの検索窓。
6記事検索PC

7記事検索スマホ




さてタグとはパソコン関連でよく聞く言葉。
けれどもこれを正確かつわかりやすく定義するのは難しい。
ついでにタグとタブもよく言い間違える(^^ゞ

タグ tag の本来の意味は札(ふだ)で荷札、下げ札、値札などと使われる。名札は name tag である。また商品札としてシャツなら首の所に付いているブランド名が刺繍された布や、脇腹あたりにある素材名や洗濯方法が書かれた布テープもタグと呼ばれる。

そこから発展してタグは付箋の意味も持つようになった。ブログのタグはそのニュアンスに近い。私の「餃子に酢ソース」が原稿用紙に書かれているとしたら、それに「食のハック」のポストイットを貼る感じ。Twitterのハッシュタグ#も同じ言葉の使い方。



ここまでなら素直に理解できても、
コンピューターの分野では「命令」の意味でもタグが使われるから話がややこしい。

ブラウザーやスマホのアプリなどインターネットを介してみる文字やページはHTMLやXMLなどのマークアップ言語で記述されている。HTMLは Hyper Text Markup Language の略。マークアップ言語では元の文章に「命令」を埋め込むことによって見出しや本文などの書式を整えたり、画像の表示や他のページへのリンクを張れる仕組みになっている。

このブログも画面では見えなくても様々な命令が埋め込まれ、それによって今あなたが読んでいる位置に文章が表示され、またフォントの大きさや色が設定されている。

ブログを書く際に「命令」を自分で埋め込む必要はほとんどなく、操作画面にも現れないが、追加の命令を埋め込むのも可能。

これはブログを書く画面で何も命令を埋め込んでいない状態。
10プレイン

すると普通にこう表示される。

   タグって何? → タグって何?


これにフォントサイズを400%にしろとの命令を埋め込むと、
11サイズ


   タグって何? → タグって何?


フォントの色を赤にする命令では
12カラー


   タグって何? → タグって何?

と変化する。

上の画像にあるブラウザーやスマホのアプリには表示されない < > で囲まれた命令の部分もなぜかタグと呼ばれる。言葉的にタグには命令の意味はないから、これにどうしてタグという言葉が使われるのか疑問。おそらくは < > で囲んだ部分を「命令印」みたいなニュアンスでタグと言い出したのかなと想像している。

wassho at 20:27|PermalinkComments(0)

2024年03月22日

富士山の伏流水ーーーとのモヤモヤする表現 その2

山に雨が降ると地形に沿って水流ができ、それが集まり沢になりさらに川となる。その川を流れている水が地下にもしみこんだのが伏流水。しかし富士山に川はない。

それは富士山がスコリアと呼ばれる多孔質の火山噴出物で覆われているから。平たく言えばメチャ水はけのよい土壌。だから雨水や雪解け水は地表にとどまらず地下にすぐにしみこんでしまう。

これは以前に富士山の五合目付近で撮った写真。
DSC06869

DSC06865


川にならず富士山にしみこんで地下水となった水は、やがて広い裾野のあちらこちらから湧き水となって出てくる。たとえば河口湖をはじめとする富士五湖も「流れ込んでいる」川はなく湧き水が水源。
fed0e545

そのひとつである山中湖から「流れ出て」いるのが相模川。もしそこに伏流水があっても、それはネーミング的に相模川の伏流水であり富士山の伏流水ではない。前回の引用で示したように伏流水とは川と関連した地下水なのだから。


水の流れの図解。
画像はhttps://yuusui-map.jp/user/yuusui.htmlから引用
F1


上の図に対して前回に示した「富士の伏流水」を使用していると謳っているミネラルウォーターやお酒などは、それをこのように表現する。つまり地下水を伏流水と言い換えている。
F2

F3

画像はhttps://mitsuuroko-beverage.com/products/kawaguchiko/vanadium/とhttps://oasislink.co.jp/clytia_officeoasis/water/water_fuji/から引用


それはもちろん

    富士山の地下水で作りました

というより

    富士山の伏流水で作りました

のほうがイメージがいいからだろう。「伏」の文字には何となく想像をかき立てる要素もあし、「流」は動的でフレッシュな印象も与える。

別に法律で伏流水の定義が決まっているわけではなし、富士山由来の水のおいしさに変わりはないので、とやかく言うつもりはないとしても、あまりに伏流水、伏流水と強調されると印象操作的なあざとさも感じてしまう。富士山の伏流水との表現に疑問をいだくきっかけとなったのも、そんな広告だったように思う。


もっとも伏流水との表現は観光地でも魅力的らしく、
こんな観光ホームページも見つけた。
思いっ切り地表水やないかい!!

岐阜の円原川伏流水
画像はhttps://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_5980.htmlから引用
K1


秋田の元滝伏流水
画像はhttps://www.tohokukanko.jp/attractions/detail_1278.htmlから引用
K2


ついでに書くと、
よく聞く「天然水」との表現も考えてみるとおかしい。水はH2Oで水素と酸素から合成できる。しかしそんな人工的に化学反応で作られた水は実験室にあるか燃料電池で水素発電した副産物くらい。地球上にあるほぼすべての水は「天然もの」やで(^^ゞ


いずれにせよ伏流水だったり天然水だったり、何かとイメージアップ、付加価値向上に走るのが世の習い。そして富士山商品界隈では、もう伏流水と呼ぶのが当たり前になりすぎて、特に意識もせずに使っているのかも知れない。嘘も百回言えば真実になるのも同じく人の世の常である。



おしまい



<天然水に関するおまけ>

市販されている水は、農水省の「ミネラルウォーター類(容器入り飲用水)の品質表示 ガイドライン」では、次の4つに分類されている。

 ⚫️ナチュラルウォーター

  特定の水源から採水された地下水を原水とし沈殿、濾過、加熱殺菌以外の
  物理的・化学的処理を行わない。

 ⚫️ナチュラルミネラルウォーター

  ナチュラルウォーターのうち鉱化された地下水を原水としたもの。

  ※鉱化されたとは土壌のミミネラル成分が多く溶け込んだ状態を指すが、
   その具体的な数値はガイドラインには書かれていなかった。

  ※このナチュラルミネラルウォーターが一般的にいうミネラルウォーター。

 ⚫️ミネラルウォーター

  ナチュラルミネラルウォーターを原水とし、品質を安定させる目的等のために
  ミネラルの調整、曝気、複数の水源から採水したナチュラルミネラルウォーター
  の混合等が行われているもの。

  ※曝気(ばっき)とは空気中の成分を吹き込むこと。
   ここでは炭酸ガスの注入と思われる。

 ⚫️ボトルドウォーターまたは飲用水

  上記以外で飲用に適した水。
  (水道水のペットボトル詰めでも可)


そして「自然」「天然」の用語およびこれに類似する用語の使用が認められているのは

   ナチュラルウォーター
   ナチュラルミネラルウォーター

のみでミネラルウォーターには認められていない。つまり行政的には「沈殿、濾過、加熱殺菌」以外の人為的な加工を行っていない=ほぼ無加工なのが天然水の定義となる。

wassho at 23:28|PermalinkComments(0)

2024年03月21日

富士山の伏流水ーーーとのモヤモヤする表現

別にどうでもいい話ではあるものの、
前からちょっと引っ掛かりを感じているのが今回のテーマ。


最初に伏流水とは何ぞやから。
雨が降って地表に落ちてきた水は、まず次の2種類に区分される。

  地表水:沢や川を流れたり、池や湖あるいはダムなどに溜まっている水。
      海に流れて海水となった水は原則として含まない。

  地下水:地表から地中に浸透して、土の中の隙間を流れたり、
      そこにとどまっている水。

要は水が地面の上に存在するか、地面の下なのかの違い。
地表水とは聞き慣れない言葉でも地下水との対比と理解できる。

そして伏流水とは川を流れる地表水が、川の下に浸透して地下水となった状態を指す。だから地下水の一種であり、地下水のエリア限定版のようなもの。


ネットで見つけた説明をいくつか引用する。

⚫️一般財団法人環境イノベーション情報機構
 https://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2309
伏流水とは、河川の流水が河床の地質や土質に応じて河床の下へ浸透し、水脈を保っている極めて浅い地下水。本来の地下水と異なり、河道の附近に存在して河川の流水の変動に直接影響されるものをいう。


⚫️首相官邸ホームページ 地下水用語集(立ち上げ段階版)
 https://www.kantei.go.jp/jp/singi/mizu_junkan/tikasui_management/pdf/siryou4-3.pdf
高透水性の河床、湖底、裂か(割れ目)などから地下に涵養された水をいう。
通常の降雨浸透と異なり比較的大量の浸透に対して使われる。

 ※涵養(かんよう)=地下に水が浸透する


⚫️日本大百科全書(ニッポニカ)
 https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8F%E6%B5%81-124178#w-1585674
【伏流】
地表水が地中に浸透して地下水として流れることをいう。扇状地のように厚い砂礫(されき)層からなる地形を流れる川では、川の水は伏流して地下水となり、部分的に水流が消失することもある。また石灰岩地域や火山噴出物からなる地域を流れる川の水もよく伏流する。

とくに伏流水という場合には、河川や湖沼の底部または側部の砂礫層中を流れる水をさす。


⚫️東京都水道局
 https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/suigen/topic/09.html
伏流水とは河川水等の地表水が周辺の砂層などの中に浸透して流れる水のことをいいます。

東京都水道局

東京都水道局の図でもわかるように、
伏流水は川の下にある地下水である。


ところがである。
富士山の伏流水と銘打った商品が多く存在している。
たぶん知っていると思うけれど「富士山」は川の名前じゃない(^^ゞ

<ミネラルウォーター>
画像はhttps://www.furusato-tax.jp/product/detail/19423/4805029から引用
M1

画像はhttps://store.shopping.yahoo.co.jp/shinyakoso/bc3010020.htmlから引用
M2

画像はhttps://item.rakuten.co.jp/f222038-numazu/asahi01-p/から引用
M4


<日本酒、焼酎>
画像はhttps://sakemuseum.com/products/35331-1/から引用編集
S3

画像はhttps://www.yamanashi-kankou.jp/special/2020_nihonshu_mtfuji.htmlから引用
S4

画像はhttps://y-houraiya.com/products/detail/26から引用編集
S5


<そば、うどん>
画像はhttps://co-trip.jp/article/611329から引用
ME1

画像はhttps://houtoutaiken.lp-web.net/2019/10/29/about-soba/から引用
ME2

画像はhttps://iwata-food.com/item/udon400g/から引用
ME3



山に雨が降ると地形に沿って水流ができ、それが集まり沢になりさらに川となる。その川を流れている水が地下にもしみこんだのが伏流水。しかし富士山に川はないのだ。そして川がなければ伏流水は存在しない。

なのに「富士山の伏流水」とはどういうこと?



ーーー続く

wassho at 23:13|PermalinkComments(0)

2024年02月19日

平安時代も今もア〜レ〜はできない その2

着物は帯を含めて9種類もの道具で身体に巻き付けられており、
ア〜レ〜をしただけではムフフな状態にはならないと前回に書いた。

せっかくの機会(どんな?)なので紹介しておくと、

女性の場合、
着物では5層の衣類を着用している。

<第1階層>
ブラジャーとパンツ。


<第2階層>
肌襦袢:上半身用の肌着。
裾除け(すそよけ):下半身用の肌着。腰巻きや「お腰」とも呼ばれる。
なお両者が一体となったワンピースタイプもある。
肌襦袢

ブラジャーとパンツがなかった時代は、これが下着の役割を果たしていたのだろう。現在はブラジャーとパンツだけでは肌の露出が大きいので、肌が触れて長襦袢を汚さないために着るようである。


<第3階層>
次に着るのが長襦袢。
着物をスーツだとすれば長襦袢はワイシャツ的なポジション。
長襦袢

写真のように白だと下着っぽいが、色や柄が付いている長襦袢もある。

また着物の内側から覗いている襟は半襟と呼ばれ、これは長襦袢の襟部分に被せて使用する。白だけじゃなくて染めや織りなどで色柄も豊富。私の母親は白い半襟しかつけていなかったなあ。昭和の着物から一番変化したのはこの部分だと思う。画像はhttps://senkosha.base.shop/items/82034069&82089134&83154172から引用
半襟


着用はまず肌襦袢と裾除けを着た上に、半襟を被せた長襦袢を羽織り、
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腰紐と呼ばれる紐で固定する。
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さらに伊達締めという細い帯を締める。腰紐か伊達締めのどちらかだけでよさそうにも思えるけれど、着たことがないのでなんともいえない。画像はhttps://ommki.com/news/archives/13555から引用
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<第4階層>
長襦袢の上に着物を着る。
これも長襦袢と同様に腰紐を結び、伊達締めを巻く。

だからア〜レ〜をして帯がほどけたとしても長襦袢と着物の、それぞれに腰紐と伊達締めがベルトの役割としてまだ4重にガードしているのだ。


<第5階層>
最後に帯を締める。
帯の中には写真左の帯板と右の帯枕を入れ、
どちらもベルトが付属している。
帯板帯枕

帯板は帯の身体の前部分に挟み込み、
帯がパンと張ったように見せる芯材のようだ。

帯枕は身体の後ろ側で作る帯の結び目を立体的にかさ上げする役目。帯枕はさらに帯揚げと呼ばれる布で包(くる)んで本体が目に触れないようにし、またその帯揚げ自体も結ぶ。画像はhttps://g-iseya.jp/dressing/sash-2とhttps://www.simaya.net/product/106から引用
帯揚げ

帯枕位置


そして最後に帯締めを帯の上から結ぶ。
上の写真で帯の中央にある紐が帯締め。

まとめると帯板+帯枕+帯揚げ+帯本体+帯締めの5重構造。長襦袢と着物の腰紐と伊達締めを加えると合計9重構造で着物は身体に巻き付けられていることになる。ア〜レ〜で帯を引っ張っただけでは道はまだ遠いゾ(^^ゞ


どうやって着るのか知りたい人は動画でどうぞ。

長襦袢の上に着物を着て腰紐と伊達締めを結ぶまで。 約8分



帯の結び方。 約10分



肌襦袢から帯までのフルバージョン。 約1時間



ア〜レ〜からは話が逸れてしまったが、着物についてはまったく無知だったので調べてみていろいろと面白かった。最大の発見は帯に着物をまとめるベルトの役割はあまりなく、どちらかといえば着物姿の見栄えをよくするアクセサリー的な存在だということ。それでベルトとしては不必要なほどに太いのかと納得。

そういえば舞妓さんなんてあんなに大きな帯を。画像はhttp://www.imamiya.jp/haruhanakyoko/event/hassaku.htmから引用
舞妓

すっかり見慣れているから違和感はないものの、冷静に衣服として眺めれば(舞妓さんのではなくても)帯はかなりオーバーデコレーションで、世界各地の民族衣装と較べても特異な存在である。しかし大きな布を使って、後ろ姿に膨らみまで作って結ぶ帯があるから着物姿は美しいのだろう。女性の帯が男性用の帯と同じだと想像するとちょっと興ざめである。

しかし大きな布を使うからそれを結ぶのは難しく大変であり、その大きさゆえに高価なものとなる。それが着物離れの一因でもあるとすれば、なんとも「塞翁が馬」的な巡り合わせかも知れない。


さて前回に書いたテレビ番組に話を戻すと、江戸時代にア〜レ〜ができたとは、帯は単独で結んでおり、帯板〜帯枕〜帯揚げ〜帯締めなどの補助道具を使っていなかったとの意味だと思う。着物と長襦袢に腰紐と伊達締めを巻いていたのかは不明。

もし巻いていたら帯だけのア〜レ〜じゃ目的を達せられない。でも考えようによっては帯でア〜レ〜、そして伊達締めでア〜レ〜腰紐でア〜レ〜をそれぞれ2回、合計5回もア〜レ〜を楽しめるじゃないか(^^ゞ



おしまい

wassho at 20:46|PermalinkComments(0)

2024年02月17日

平安時代も今もア〜レ〜はできない

昨年の終わりに「十二単(ひとえ)はセクシー着物だった!」とのブログを書いた

皇族の儀式や雛人形で見る今日の十二単と違って、平安時代の十二単は帯は締めず、12枚重ねたそれぞれの着物の前身頃(まえみごろ)を結ぶ紐(ひも)などはなく単に羽織っていただけ。しかも肌着となるものもつけていない。だから少し動いただけで、前がはだけて肌が見えるエロいコスチュームだったとの内容。

それを書きながら、じゃあ帯がないのなら平安時代はア〜レ〜はできないなとか、いやすぐはだけるのならア〜レ〜をする必要はないかとバカなことを考えていた(^^ゞ


おそらくほとんどの人には着物、帯、ア〜レ〜の3つの単語だけで意味が通じると思う。それでも念のために説明しておくと、ア〜レ〜とは「古典的な性加害シーンにおける決め台詞」である。

<シーン1>
加害者となる男性は悪代官などの権力者。
被害者はその権力者に対して立場の弱い女性である。
村の庄屋の娘などがよく登場する。

まずは宴席が始まる。
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<シーン2>
酒の入った悪代官が娘に言い寄る。
この時に「よいではないか」を繰り返さなければならない。
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<シーン3>
拒み続ける女性。
業を煮やす悪代官。

ふすまを開けると、宴席の隣の部屋にはなぜか布団が敷かれている。
逃げようとする女性。

そのとき、悪代官は女性の帯をつかみ、それを引っ張って帯をほどく。
女性は帯がほどかれるのに合わせて回転しながら「ア〜レ〜」と叫ぶのがお約束(^^ゞ
3

画像はhttps://www.line-tatsujin.com/detail/a12810.htmlとhttps://twitter.com/nage_ngw_info/status/499303241016807425から引用

私は「ア〜レ〜」としてしか認識していなかったが、
これには帯回しとの名前がつけられているらしい。

昔は時代劇が多くてそんなシーンも見ていたのかな。
でも実際はこんな時代劇コントが記憶に残ってるのかも知れない。画像はhttps://www.asahi.com/showbiz/gallery/100702shimura/shimura020.htmlから引用
志村けん


今は時代劇もほとんどないし、また何かと規制があって「ア〜レ〜」なシーンなどは放送されない。それでも帯を引っ張られた女性がクルクル回るインパクトは強烈。だからなのかテレビで「ア〜レ〜」を見ていない世代が描いたと思われるイラストにも「ア〜レ〜」は登場する。画像はhttps://www.pixiv.net/artworks/82897314&104351433&304547から引用
イラスト


さらにネットで調べてみると、意外にも「ア〜レ〜」を試してみたと報告している女性が多くいる。また以前に見たNHKの「着物がある生活」のような内容の番組で、講師の女性が「ア〜レ〜」について「私もやってみたのですがーーー」のような話をし始めてビックリした経験もある。ヤッタンカイ! いずれにせよ「ア〜レ〜」は未だ日本の伝統文化として健在である(^^ゞ


ところで文化的な内容だったNHKの番組で、
どうして「ア〜レ〜」が話題になったかというと、

  江戸時代:着物の帯は結んであるだけ

  現在:着物の帯は結ぶ以外に、
     いろいろな補助道具を使って固定されている

との話の流れだったように思う。

そのときはフ〜ンと思っただけだったが、今回改めて調べてみると、
帯はそれ自体を結んでいるだけでなく

  帯の外側から帯締めが巻かれている。

  帯の内側に帯揚げ、帯枕、帯板が入っており、
  それぞれがベルトの役割を果たしている。

  また帯の下には腰紐と、伊達締めという細い帯があり、
  それで着物を巻き付けている。

  さらに着物の下に着る長襦袢も、同様に腰紐と伊達締めで巻き付けている。

と、帯を含めて9種類!もの道具で身体を巻き付けているとわかった。



ーーー続く

wassho at 17:24|PermalinkComments(0)

2024年01月15日

シャツはインしないのだから水平カットでいいのでは? その2

カジュアルな服装ではシャツを「イン」しなくなって35年も経つ。だったらその裾は丸いラウンドカットではなくスクエアカットやボックスカットと呼ばれる水平なものでいいんじゃない?というのが前回に書いた内容。画像はhttps://shop.solve-grp.com/contents/wind/detail/54とhttps://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4550512951629から引用
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そしてシャツについていろいろ調べていたら、
カットの形より裾の長さのほうが問題だと気がついた。画像はhttps://fabric-tokyo.com/answer/shirt/about-order-tuck-out-shirtから引用
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較べてみれば一目瞭然で、図でフォーマルシャツと書かれている普通のシャツの長さだとバランス的に長すぎる。(なお最近はロングシャツもトレンドみたいだけれど、あれはいわゆるビッグシルエットを楽しむためのもので、ここでの話とは別)


シャツを「イン」しないで何が困るかといえばジャケットを着たとき。
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左のようにジャケットからはみ出しているのは、それはそれでありだとしても、もうそんな着こなしが似合う年齢ではなくなってしまった(>_<) やはり右側がナチュラルに見える。画像はhttps://wear.jp/bz0178/9633915/?kid=13119&utm_source=magazine-cubki&utm_medium=referral&utm_campaign=spとhttps://voi.0101.co.jp/voi/content/01/sp/topics/column/column_081.html?intid=column060_listから引用

個人的な感覚だとジーンズのような股上の短いパンツならシャツを外に垂らしても気にならないのだが、スラックス的な股上の深いものだと何かおかしく感じる。でも「イン」するのもオッサンくさい。それでどうするかというと「イン」した上にジャケットを着る。

ジャケットを着ているときは基本的に「イン」している。それはジャケットの裾からシャツの裾がはみ出すのを好まないから。でも上の写真でタックアウトシャツと書かれているような長さのものなら、ジャケットのときも、またスラックス単体でも大丈夫かな。そういう短いシャツがあるとは知らなかった。

今度シャツを買うときは探してみよう。わかりやすく長さが表示されているといいのだけれど。ただしスーツで着る場合は「イン」した裾が上がってこないように普通の長さが必要だから、シャツの購入量が増えて困るなあ。

それと例えばネルシャツなんかは確実に「イン」しないから、すべてこの長さでいいと思うのに、従来の長さのものが多いのを改善して欲しいもの。それにしても裾は短くしても、まだどうしてラウンドカットにこだわるのか不思議。ついでに書くとオシャレさん向けには裾のラインが波打っていたりギザギザだったり、もっとバリエーションがあってもいいと思うゾ。襟の形がいろいろあるように。


ところでシャツを「インする」というのに、なぜか「アウトする」とはいわずにタックアウトとの言葉をファッション業界では使うようだ。対義語としてタックインも使われる。タック tuck とは押し込むとの意味。でもタックインもタックアウトもおそらく和製英語。そもそも「イン」するのがタックだし、「イン」しないのはおそらくアンタック untuckを使うはず。ただしあまり自信を持ってそう思っているのではない。

言葉関連でもう一つ。実は股上を「またかみ」だとずっと思っていた。パソコンで「またかみ」と打っても変換してくれないので、調べてみて「またがみ」と知ってビックリ。股下は「またした」と「し」が濁らないのに、どうして股上は濁るのかがナゾ



さて前回の冒頭で書いたように、このテーマのきっかけは小林薫が出演している帯状疱疹のCMである。病気の話にもかかわらずシャツを「イン」しないでラフなスタイルで登場している。

なのにどうしてシャツのボタンを一番上まで留めている?
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画像検索してみたら、どうやら小林薫は一番上まで留めるのが好きらしい。一番上まで留めていない写真もたくさんあったものの、これだけ留めているのが見つかるのは、やはり留めるのが好きと思われる。
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ーーーと、実にどうでもいい話でブログを終えるm(_ _)m

ついでにカジュアルなシャツで一番上のボタンを留めるのは小林薫くらいなのだから、彼にはオードーメイドで誂えてもらうとして、ネルシャツのようなタイプに一番上のボタンは必要ないやろと、これまた実にどうでもいい考えが(^^ゞ



おしまい

wassho at 19:20|PermalinkComments(0)

2024年01月14日

シャツはインしないのだから水平カットでいいのでは?

以前に放送されていた帯状疱疹のテレビCMを、
最近また見かけるようになった。

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演じている小林薫はずいぶんとカジュアルなスタイルである。
そしてシャツはパンツの外に出している。
もしこの服装をした彼にどこかで会っても特に何も思わないはず。
でもこのCMを見たときは違和感を覚えた。

どうして病気の話でこのファッション?
親しみやすさを演出したかったのかな。
そして一旦その?モードに入った目でCMを見ると、
外に垂らしたシャツがやたら目につく。


それがきっかけで今回はシャツの話。

いつかは忘れたが、ずいぶんと前からシャツを「イン」するのはダサいとなっている。
これは2015年にドラマで刑事役の松坂桃李がオタクに変装したシーン。画像はhttps://www.cinemacafe.net/article/2015/10/27/35183.htmlから引用
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改めて確認すると電車男と瓜二つ。電車男の映画公開は2005年。また、この頃にオタクファッションのステレオタイプ的なイメージが確立したような気がする。
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ただしシャツを「イン」しなくなったのはさらに昔でもう記憶にない。ネットでは80年代後半の渋カジ、90年代中頃のヒップホップのブームの頃からと2つの説があるみたいだ。中間を取って1990年からだとすると、もう35年近く定着しているファッションセオリーである。


ファッションなんて個人の感覚ではあるものの、今現在、Tシャツやポロシャツを「イン」しているとかなり異様に感じる。シャツの場合はそれ以外のアイテムのテイストや組み合わせにもよるが、例えばジャケット&ネクタイなしでジーンズとかに「イン」だと違和感があると思う。

ただしファッションは時代と共に変化するから、今はダサいとされているシャツの「イン」だって、いずれまたそれがファッショナブルあるいは普通となるときが来る。女性ファッションでは「イン」を仕掛けたい向きもあるようで、こんなのを見つけた。画像はhttps://stripe-club.com/cts1/maedakein.htmlから引用
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左から
  左右の半分だけイン
  前だけイン
  インして引き出してふんわりと

半分とか前だけとか、ちょっと無理があるように思うけどなあ。こんな着こなしの人っているのだろうか。薄着の季節になったら街を歩く女性を注意して観察してみましょう。



ところで
カジュアルなスタイルではシャツを「イン」しないのが多数派なのに、どうしてシャツの裾はこんな形をしているのか前から疑問である。画像はhttps://shop.solve-grp.com/contents/wind/detail/54から引用
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まっすぐにカットすればいいのに。例えばアロハシャツのように「イン」しない前提のものはまっすぐカットされている。シャツを「イン」しないとだらしなく見えるのは、上の写真のような丸くて長い裾が原因。おそらくそれは見えてはいけないものとの潜在意識があるからだろう。画像はhttps://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/4550512951629から引用
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ちなみに裾の形が丸いのはラウンドカットで、
まっすぐなのはスクエアカットやボックスカットと呼ばれる。

そして実はラウンドカットはシャツの歴史に由来している。

ヨーロッパでシャツの原型が生まれたのは16〜17世紀。当時は下着として着用されて、もっと裾が長かった。それはラウンドカットの前と後ろを股のところで交差させてパンツやブリーフの役目をさせていたから。そのためのデザインであり、現在のシャツのラウンドカットはその名残り。

想像するとなんかオムツみたい(^^ゞ

そんな面倒なことをせずにどうしてパンツをはかないのかと思ってしまうけれど、ブリーフが誕生したのが1935年(昭和10年)、トランクスが1915年(大正4年)頃とけっこう最近である。それまでシャツ以外の下着としては、ユニオンスーツという上下つなぎの下着を着ていたらしい。そういえば昔を描いた海外映画でたまに見るようにも思う。画像はhttps://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1805/22/news136.htmlから引用
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それはさておき、何事も合理性や妥当性があるからこそ物事は始まり、そしてそれがなくなっても形骸化して続くのが世の常。シャツのラウンドカットもその典型例。



ーーー続く

wassho at 20:23|PermalinkComments(0)