エゴン・シーレ
2023年05月31日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才 その3
エゴン・シーレは風景画も残している。
次の2点は17歳頃の作品だから最初の展覧会に参加する前。
言っちゃ悪いが平凡で退屈。
「山腹の村」 1907年
「秋の森」 1907年
その5年後に描いた22歳頃の作品が 「カルヴァリオへの道」 1912年
カルヴァリオ(Calvaria)とはラテン語で、それをヘブライ語に置き換えるとゴルゴダ(Golgotha)になる。ゴルゴダの丘といえばキリストが十字架に掛けられたエルサレム郊外の地名。日本ではカルヴァリオよりゴルゴダのほうがわかりやすいだろう。
エゴン・シーレはエルサレムに出かけた経験はなく、これは彼の住むウィーン郊外のどこかの風景をゴルゴダに見立てたものだろう。十字架が3本立っているのはキリストと一緒に2人の罪人も処刑されたとルカの福音書にあるから。これは宗教画というより聖書の一節にインスピレーションを得ての作品と思う。
それにしても十字架以外の棒は何なのだろう。たまたまカルヴァリオ=ゴルゴダだと知っていたからテーマを読み取れたが、タイトルを見るまでは電信柱が描かれた風景画だと思っていた(/o\)
なお作品のオリジナルタイトルは「Kalvarienberg」(ドイツ語でのカルヴァリオ)なのに、それを「カルヴァリオへの道」と「への道」を付け加えるのは意訳すぎると思う。ついでに言うなら日本語表記はゴルゴダにすべき。
「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」 1912年
知らずに見れば抽象画と思うはず。しかしタイトルを読めば分かるように風景画である。初回に書いたようにデフォルメせずにはいられない画家だから、風景画もこうなったのだろうか。表現としてはなかなか面白いので、このタイプの作品があるのならもっと見たいもの。
「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街 IV)」 1914年
「ドナウ河畔の街シュタイン II」 1913年
どこがと問われると困るが、この2つはどちらもエゴン・シーレらしい感じがする。彼独特の暗い色調がそう思わせるのかな。ただ彼が人物を暗く描くとどことなく「死」の匂いがするのに、なぜか風景画では暗くてもカワイイ印象になるのが不思議。
次は静物画。
「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」 1907年
画像では少し暗くなっているが、背景のグレーは銀色で黄色い部分は金色に塗られている(よりわかりやすい画像へのリンクはこちら)。このあたりはクリムトの影響とされる。より金を多用するクリムトに対して、エゴン・シーレは「銀のクリムト」と呼ばれたりもした。
ところでエゴン・シーレとクリムトとの関係でよく引き合いに出されるのが、彼が17歳で初めてクリムトに出会った時に作品を見せて交わされた会話。
シーレ 「僕には才能がありますか?」
クリムト「才能がある? それどころか、ありすぎる」
何となくエゴン・シーレが憧れの大御所クリムトに、おどおどと自信なさげに尋ねたようなニュアンスで紹介される場合が多い。ここから師弟愛が芽生えたと連想させる美しいエピソード。しかし私はエゴン・シーレが「このオッサン(当時クリムトは45歳)にオレ様の新しい才能が理解できるか、いっちょ確かめたろ」と尋ねたとも解釈できると思っている。
このエピソードの出所を調べて、その原典に当たろうとまでするつもりはない。でもこの手の話は、また特にネット時代になってからはコピペにコピペを重ねたものが多いから、鵜呑みにはできないぞと常々思っているだけ。
「菊」 1910年
エゴン・シーレが活躍したのはヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)が起きていた時代。本物の菊を見たのか(幕末頃からヨーロッパに輸出されていたらしい)菊を描いた日本画を参考にしたのかは不明なものの、やはりエゴン・シーレの手に掛かると菊も死の匂いが漂うね。
1917年に描かれた肖像画は「カール・グリュンヴァルトの肖像」
エゴン・シーレはその独特な画風に1911年(21歳の年)には到達している。展覧会では1907年に描かれた肖像画2点も展示されていて、それらはまあ普通の描き方。対してこの1917年の作品はいかにもエゴン・シーレとの印象を受ける。白いシャツが浮き上がるような配色や、人物を少し上から見下ろしたような構図も面白い。
とは言っても(これが依頼されて描かれたものかどうかは知らないが)肖像画なので、ある程度の写実的要素は外せない。だからエゴン・シーレワールドはやや控えめ。人体はそれほどデフォルメされていないし、死を連想させるような閉塞感もない。でも扉を開けて暗い部屋にこんなオッサンが座っていたら怖い(^^ゞ
そしてエゴン・シーレワールド全開な作品を3つ。
「啓示」 1911年
「母と子」 1912年
「母と二人の子ども II」 1915年
それぞれ何か込められたメッセージがあるのだろうが、それを探ってもあまり意味がない気がする。これらを「キモ可愛い」と思えればエゴン・シーレが好きになるし、不気味としか感じられなければ他の画家の絵を楽しめばいいだけのこと。ただ訳のわからない絵を「ナンジャこれ〜」と笑えるようになれれば絵の世界が広がるよ。
最後にゲス野郎エゴン・シーレの話。
彼は21歳で絵のモデルをしていたヴァリ・ノイツィルという女性と知り合い同棲を始める。一説によるとクリムトのお下がりと噂される(/o\) なにせクリムトは生活を共にするパートナーとは結婚どころか肉体関係も持たなかったのに、愛人に産ませた子供が15人ほどいた風変わりな性豪。
それはさておき、エゴン・シーレはヴァリ・ノイツィルをモデルに絵もたくさん描いて、また4年も同棲したのに「結婚するなら家柄のいい女性」との理由で、25歳の時(1915年)に突然ブルジョワの娘であるエーディト・ハームスと結婚する。
その時にヴァリも失いたくない考えた彼は、結婚後もたまには一緒に旅行に出かける関係を続けようと自分勝手な提案をする。もちろんヴァリは憤慨して拒否。
これだけでもゲス野郎だが、エゴン・シーレは結婚したエーディトの姉のアデーレともデキてた。それどころかヴァリと付き合う前は実の妹のゲルティともヤッてた(>_<)
エゴン・シーレとヴァリ・ノイツィル。
彼女は4歳年下なのに、この写真ではまるでエゴン・シーレのお母さんのように見える。
もうちょっといい写真を。
彼女はハチミツ色の金髪だったと伝えられている。
こちらはエゴン・シーレとエーディト・ハームス。
彼女よりエゴン・シーレが別人のようにオッサンになっているのに驚く。
撮影は1917年で彼はまだ27歳なのに。

エーディト・ハームスのアップ。
彼女はエゴン・シーレより3歳年下。
こちらはヴァリ・ノイツィルをモデルにした「悲しみの女」 1912年。
目に涙をためているように見える。ただし制作時期的にそれはエゴン・シーレとの離別とは関係ない。彼女の目力に圧倒されて気がつきにくいものの、背後に一輪の花を持った男の顔が描かれており、これはエゴン・シーレ自身とされる。そしてヴァリ・ノイツィルを黒髪、自分を「ハチミツ色の金髪」に塗り分けている。つまりお互いの身体的特徴を入れ替えて描いている。それが愛情表現なのか、単に配色上の都合でそうしたかは不明。それにしてもエゴン・シーレの目がイッてるのはナゼ?
そしてエーディト・ハームスを描いた
「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」 1915年
グリーンをメインにした絵を制作したかったのか髪の毛までが同じ色調。それにしても全体的に優しい雰囲気である。ひょっとしてエゴン・シーレは結婚して毒が抜けたのか。そんなタマじゃないとは思うのだが(^^ゞ
エゴン・シーレはエーディト・ハームスと結婚して3日後にオーストリア=ハンガリー帝国軍に招集され第1次世界大戦に従軍する。しかし軍上層部が芸術に理解があったようで前線には送られず、プラハで捕虜収容所の看守などの任務に就く。2017年にウィーンに転属になると自宅からの勤務。それで絵の制作や発表も可能となった。
先ほど肖像画を紹介したカール・グリュンヴァルトはエゴン・シーレの上官。芸術愛好家で繊維業を営む富豪でもあり、後に彼のパトロンにもなった。だからあの絵には多少のオベンチャラが入っているかも。
エゴン・シーレが除隊になったかどうかはっきりしないのであるが、1918年3月の展覧会には50点以上の新作を一挙に公開して好評を博し、それまでに制作した作品も高値で売れるようになる。7月には富裕層の住む高級住宅地に新しいアトリエを構えた。エーディト・ハームスもめでたく懐妊。
しかし好事魔多しーーー
1918年から1920年にかけて世界人口の1/3が感染し、死亡者数は5000万人から1億人(当時の総人口は18〜19億人)ともいわれるスペイン風邪に夫婦でかかってしまう。1918年10月28日に妊娠6ヶ月のエーディト・ハームスが死去。エゴン・シーレもその3日後に亡くなった。28歳の短い生涯。ちなみに師匠のクリムトも同じ年の2月にスペイン風邪で亡くなっている。こちらは享年55歳。ウィーンは2つの宝を同時に失ったわけだ。
エゴン・シーレがもっと長生きして、どんな画風に変遷していったかにはもちろん興味がある。でもたった28歳で美術史にこれだけのインパクトを残せたのだから、それは素晴らしい人生だったと思う。
ラファエロ 37歳
ゴッホ 37歳
モディリアーニ 35歳
バスキア 27歳
モーツァルトも35歳だし夭折した芸術家はたくさんいる。彼らの作品に触れるとき、その短い期間であれだけのことを成し遂げた人生はどれだけ濃密だったのだろうと思う。私は無駄に長く生きて、ウス〜い人生を送っているような気がする。まあこうなったらトコトン薄めてやろうと思っているけれど(^^ゞ
おしまい
次の2点は17歳頃の作品だから最初の展覧会に参加する前。
言っちゃ悪いが平凡で退屈。
「山腹の村」 1907年
「秋の森」 1907年
その5年後に描いた22歳頃の作品が 「カルヴァリオへの道」 1912年
カルヴァリオ(Calvaria)とはラテン語で、それをヘブライ語に置き換えるとゴルゴダ(Golgotha)になる。ゴルゴダの丘といえばキリストが十字架に掛けられたエルサレム郊外の地名。日本ではカルヴァリオよりゴルゴダのほうがわかりやすいだろう。
エゴン・シーレはエルサレムに出かけた経験はなく、これは彼の住むウィーン郊外のどこかの風景をゴルゴダに見立てたものだろう。十字架が3本立っているのはキリストと一緒に2人の罪人も処刑されたとルカの福音書にあるから。これは宗教画というより聖書の一節にインスピレーションを得ての作品と思う。
それにしても十字架以外の棒は何なのだろう。たまたまカルヴァリオ=ゴルゴダだと知っていたからテーマを読み取れたが、タイトルを見るまでは電信柱が描かれた風景画だと思っていた(/o\)
なお作品のオリジナルタイトルは「Kalvarienberg」(ドイツ語でのカルヴァリオ)なのに、それを「カルヴァリオへの道」と「への道」を付け加えるのは意訳すぎると思う。ついでに言うなら日本語表記はゴルゴダにすべき。
「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」 1912年
知らずに見れば抽象画と思うはず。しかしタイトルを読めば分かるように風景画である。初回に書いたようにデフォルメせずにはいられない画家だから、風景画もこうなったのだろうか。表現としてはなかなか面白いので、このタイプの作品があるのならもっと見たいもの。
「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街 IV)」 1914年
「ドナウ河畔の街シュタイン II」 1913年
どこがと問われると困るが、この2つはどちらもエゴン・シーレらしい感じがする。彼独特の暗い色調がそう思わせるのかな。ただ彼が人物を暗く描くとどことなく「死」の匂いがするのに、なぜか風景画では暗くてもカワイイ印象になるのが不思議。
次は静物画。
「装飾的な背景の前に置かれた様式化された花」 1907年
画像では少し暗くなっているが、背景のグレーは銀色で黄色い部分は金色に塗られている(よりわかりやすい画像へのリンクはこちら)。このあたりはクリムトの影響とされる。より金を多用するクリムトに対して、エゴン・シーレは「銀のクリムト」と呼ばれたりもした。
ところでエゴン・シーレとクリムトとの関係でよく引き合いに出されるのが、彼が17歳で初めてクリムトに出会った時に作品を見せて交わされた会話。
シーレ 「僕には才能がありますか?」
クリムト「才能がある? それどころか、ありすぎる」
何となくエゴン・シーレが憧れの大御所クリムトに、おどおどと自信なさげに尋ねたようなニュアンスで紹介される場合が多い。ここから師弟愛が芽生えたと連想させる美しいエピソード。しかし私はエゴン・シーレが「このオッサン(当時クリムトは45歳)にオレ様の新しい才能が理解できるか、いっちょ確かめたろ」と尋ねたとも解釈できると思っている。
このエピソードの出所を調べて、その原典に当たろうとまでするつもりはない。でもこの手の話は、また特にネット時代になってからはコピペにコピペを重ねたものが多いから、鵜呑みにはできないぞと常々思っているだけ。
「菊」 1910年
エゴン・シーレが活躍したのはヨーロッパでジャポニスム(日本ブーム)が起きていた時代。本物の菊を見たのか(幕末頃からヨーロッパに輸出されていたらしい)菊を描いた日本画を参考にしたのかは不明なものの、やはりエゴン・シーレの手に掛かると菊も死の匂いが漂うね。
1917年に描かれた肖像画は「カール・グリュンヴァルトの肖像」
エゴン・シーレはその独特な画風に1911年(21歳の年)には到達している。展覧会では1907年に描かれた肖像画2点も展示されていて、それらはまあ普通の描き方。対してこの1917年の作品はいかにもエゴン・シーレとの印象を受ける。白いシャツが浮き上がるような配色や、人物を少し上から見下ろしたような構図も面白い。
とは言っても(これが依頼されて描かれたものかどうかは知らないが)肖像画なので、ある程度の写実的要素は外せない。だからエゴン・シーレワールドはやや控えめ。人体はそれほどデフォルメされていないし、死を連想させるような閉塞感もない。でも扉を開けて暗い部屋にこんなオッサンが座っていたら怖い(^^ゞ
そしてエゴン・シーレワールド全開な作品を3つ。
「啓示」 1911年
「母と子」 1912年
「母と二人の子ども II」 1915年
それぞれ何か込められたメッセージがあるのだろうが、それを探ってもあまり意味がない気がする。これらを「キモ可愛い」と思えればエゴン・シーレが好きになるし、不気味としか感じられなければ他の画家の絵を楽しめばいいだけのこと。ただ訳のわからない絵を「ナンジャこれ〜」と笑えるようになれれば絵の世界が広がるよ。
最後にゲス野郎エゴン・シーレの話。
彼は21歳で絵のモデルをしていたヴァリ・ノイツィルという女性と知り合い同棲を始める。一説によるとクリムトのお下がりと噂される(/o\) なにせクリムトは生活を共にするパートナーとは結婚どころか肉体関係も持たなかったのに、愛人に産ませた子供が15人ほどいた風変わりな性豪。
それはさておき、エゴン・シーレはヴァリ・ノイツィルをモデルに絵もたくさん描いて、また4年も同棲したのに「結婚するなら家柄のいい女性」との理由で、25歳の時(1915年)に突然ブルジョワの娘であるエーディト・ハームスと結婚する。
その時にヴァリも失いたくない考えた彼は、結婚後もたまには一緒に旅行に出かける関係を続けようと自分勝手な提案をする。もちろんヴァリは憤慨して拒否。
これだけでもゲス野郎だが、エゴン・シーレは結婚したエーディトの姉のアデーレともデキてた。それどころかヴァリと付き合う前は実の妹のゲルティともヤッてた(>_<)
エゴン・シーレとヴァリ・ノイツィル。
彼女は4歳年下なのに、この写真ではまるでエゴン・シーレのお母さんのように見える。
もうちょっといい写真を。
彼女はハチミツ色の金髪だったと伝えられている。
こちらはエゴン・シーレとエーディト・ハームス。
彼女よりエゴン・シーレが別人のようにオッサンになっているのに驚く。
撮影は1917年で彼はまだ27歳なのに。

エーディト・ハームスのアップ。
彼女はエゴン・シーレより3歳年下。
こちらはヴァリ・ノイツィルをモデルにした「悲しみの女」 1912年。
目に涙をためているように見える。ただし制作時期的にそれはエゴン・シーレとの離別とは関係ない。彼女の目力に圧倒されて気がつきにくいものの、背後に一輪の花を持った男の顔が描かれており、これはエゴン・シーレ自身とされる。そしてヴァリ・ノイツィルを黒髪、自分を「ハチミツ色の金髪」に塗り分けている。つまりお互いの身体的特徴を入れ替えて描いている。それが愛情表現なのか、単に配色上の都合でそうしたかは不明。それにしてもエゴン・シーレの目がイッてるのはナゼ?
そしてエーディト・ハームスを描いた
「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」 1915年
グリーンをメインにした絵を制作したかったのか髪の毛までが同じ色調。それにしても全体的に優しい雰囲気である。ひょっとしてエゴン・シーレは結婚して毒が抜けたのか。そんなタマじゃないとは思うのだが(^^ゞ
エゴン・シーレはエーディト・ハームスと結婚して3日後にオーストリア=ハンガリー帝国軍に招集され第1次世界大戦に従軍する。しかし軍上層部が芸術に理解があったようで前線には送られず、プラハで捕虜収容所の看守などの任務に就く。2017年にウィーンに転属になると自宅からの勤務。それで絵の制作や発表も可能となった。
先ほど肖像画を紹介したカール・グリュンヴァルトはエゴン・シーレの上官。芸術愛好家で繊維業を営む富豪でもあり、後に彼のパトロンにもなった。だからあの絵には多少のオベンチャラが入っているかも。
エゴン・シーレが除隊になったかどうかはっきりしないのであるが、1918年3月の展覧会には50点以上の新作を一挙に公開して好評を博し、それまでに制作した作品も高値で売れるようになる。7月には富裕層の住む高級住宅地に新しいアトリエを構えた。エーディト・ハームスもめでたく懐妊。
しかし好事魔多しーーー
1918年から1920年にかけて世界人口の1/3が感染し、死亡者数は5000万人から1億人(当時の総人口は18〜19億人)ともいわれるスペイン風邪に夫婦でかかってしまう。1918年10月28日に妊娠6ヶ月のエーディト・ハームスが死去。エゴン・シーレもその3日後に亡くなった。28歳の短い生涯。ちなみに師匠のクリムトも同じ年の2月にスペイン風邪で亡くなっている。こちらは享年55歳。ウィーンは2つの宝を同時に失ったわけだ。
エゴン・シーレがもっと長生きして、どんな画風に変遷していったかにはもちろん興味がある。でもたった28歳で美術史にこれだけのインパクトを残せたのだから、それは素晴らしい人生だったと思う。
ラファエロ 37歳
ゴッホ 37歳
モディリアーニ 35歳
バスキア 27歳
モーツァルトも35歳だし夭折した芸術家はたくさんいる。彼らの作品に触れるとき、その短い期間であれだけのことを成し遂げた人生はどれだけ濃密だったのだろうと思う。私は無駄に長く生きて、ウス〜い人生を送っているような気がする。まあこうなったらトコトン薄めてやろうと思っているけれど(^^ゞ
おしまい
wassho at 20:56|Permalink│Comments(0)│
2023年05月28日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才 その2
どんな有名画家でもキャリアの最初の頃はごく当たり前の絵を描いており、やがて個性を反映した独自の画風を確立する。というか独自の画風を確立して、その画風が受け入れられたものだけが一流の画家として後世に名を残す。
絵の上手い下手は関係ないと言い切るのは乱暴かも知れないが、そもそも展覧会に出品できるような人は絵が上手いのであって、オリジナリティこそが一流と二流の分かれ目だと思っている。
展覧会では画家の初期の作品も展示される場合が多い。画風確立前だからたいていは「ふ〜ん」といったレベル。もし私が画家なら、そんな作品は展示して欲しくないけどな(^^ゞ
次の作品はエゴン・シーレが17歳頃のもの。彼は18歳で初めて展覧会に参加しており、それをプロデビューとするなら、まだアマチュア時代の作品。日本でいうなら高校2年生でこれだけ描ければたいしたものと思うけれど、この程度を描ける美術部の高校生はザラにいる。
「イタリアの農民」 1907年
「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」 1907年
クリムトが21歳頃の作品も展示されていた。
「ハナー地方出身の少女の頭部習作」 1883年
クリムトといえば華やかなエクスタシーの世界。しかし何年か前にクリムトの展覧会を訪れて各年代の作品を見たとき、彼はあの画風に到達しなくても大成しただろうなと思った。これもその実力の片鱗を感じさせる若き日の作品である。
ところでドローイング(線画)がたくさんあって、
それを眺めていて面白い発見をした。
まずはエゴン・シーレのドローイング。
「横たわる長髪の裸婦」 1918年
「リボンをつけた横たわる少女」 1918年
こちらはクリムトである。
「脚を曲げ横たわる裸婦」 1914/1915年
「上腕で顔の一部を隠し横たわる裸婦(“花嫁”のための習作)」 1917年
エゴン・シーレは黒チョーク、クリムトは鉛筆と画材が違うから力強さが異なるのは別として、エゴン・シーレがラインを一気に描いているのに対して、クリムトは何度もなぞりながら描いている。
一気に描けるほうが絵が上手いとは思わない。だったら、それがどうした?なんだけれど、違いを見つけてうれしかったというだけのお話(^^ゞ
ただしエゴン・シーレのドローイングはすごく動的。前回にエゴン・シーレはポーズフェチと書いた。この作品のポーズはごく普通とはいえ、やはり彼は空間把握力に優れていたのだと思う。対してクリムトのドローイングは静的。しかし単なるデッサン(形を絵に写し取る)ではなく、この段階から何か心情的なものが伝わってくる。
もっともクリムトの作品(油絵)は静的であるものの、エゴン・シーレの作品が動的かというとそんなことはないから、やはりそれがどうした?な発見でしかないm(_ _)m
ーーー続く
絵の上手い下手は関係ないと言い切るのは乱暴かも知れないが、そもそも展覧会に出品できるような人は絵が上手いのであって、オリジナリティこそが一流と二流の分かれ目だと思っている。
展覧会では画家の初期の作品も展示される場合が多い。画風確立前だからたいていは「ふ〜ん」といったレベル。もし私が画家なら、そんな作品は展示して欲しくないけどな(^^ゞ
次の作品はエゴン・シーレが17歳頃のもの。彼は18歳で初めて展覧会に参加しており、それをプロデビューとするなら、まだアマチュア時代の作品。日本でいうなら高校2年生でこれだけ描ければたいしたものと思うけれど、この程度を描ける美術部の高校生はザラにいる。
「イタリアの農民」 1907年
「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」 1907年
クリムトが21歳頃の作品も展示されていた。
「ハナー地方出身の少女の頭部習作」 1883年
クリムトといえば華やかなエクスタシーの世界。しかし何年か前にクリムトの展覧会を訪れて各年代の作品を見たとき、彼はあの画風に到達しなくても大成しただろうなと思った。これもその実力の片鱗を感じさせる若き日の作品である。
ところでドローイング(線画)がたくさんあって、
それを眺めていて面白い発見をした。
まずはエゴン・シーレのドローイング。
「横たわる長髪の裸婦」 1918年
「リボンをつけた横たわる少女」 1918年
こちらはクリムトである。
「脚を曲げ横たわる裸婦」 1914/1915年
「上腕で顔の一部を隠し横たわる裸婦(“花嫁”のための習作)」 1917年
エゴン・シーレは黒チョーク、クリムトは鉛筆と画材が違うから力強さが異なるのは別として、エゴン・シーレがラインを一気に描いているのに対して、クリムトは何度もなぞりながら描いている。
一気に描けるほうが絵が上手いとは思わない。だったら、それがどうした?なんだけれど、違いを見つけてうれしかったというだけのお話(^^ゞ
ただしエゴン・シーレのドローイングはすごく動的。前回にエゴン・シーレはポーズフェチと書いた。この作品のポーズはごく普通とはいえ、やはり彼は空間把握力に優れていたのだと思う。対してクリムトのドローイングは静的。しかし単なるデッサン(形を絵に写し取る)ではなく、この段階から何か心情的なものが伝わってくる。
もっともクリムトの作品(油絵)は静的であるものの、エゴン・シーレの作品が動的かというとそんなことはないから、やはりそれがどうした?な発見でしかないm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 23:11|Permalink│Comments(0)│
2023年05月25日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才
え〜、展覧会を訪れたのは3ヶ月と4日前の2月21日である。ブログにするのを忘れていたわけじゃないが、その頃から梅、各種のサクラ、そしてチューリップにバラその他と春の花見シーズンが始まったので、ついつい後回しになってしまった。それにしても油断していると月日はあっという間に過ぎていくね。
上野公園の五條天神でウメを見て、その日に中国に送り返されたパンダのシャンシャンがいた動物園の前を通って、毎度お馴染みの東京都美術館に到着。
さてエゴン・シーレ。なぜかフルネームで呼ばれることが多いオーストリアの画家。1890年(明治23年)生まれで1918年(大正7年)に28歳で、当時パンデミックを引き起こしていたスペイン風邪により夭折。
16歳でウィーン工芸学校に学ぶも、才能を認められてそのままウィーン美術アカデミーへ進学。これはかなりの神童扱いだったよう。17歳でクリムトに出会い才能を認められ、18歳で初めての展覧会参加。だから画家として活躍していたのはわずか10年ほど。
これは16歳の写真。
自信に満ちあふれたクソ生意気そうな雰囲気が伝わってくる(^^ゞ
こちらは24歳頃に撮られたもの。
日本だと大正3年のエゴン・シーレ。
構図は顔のやや右側からで、そしてわずかにアゴを引いて上目遣いでレンズを見つめるような撮り方は共通。16歳の写真も似ているから、これが一番イケてる顔だと昔から自信があったのだろう。そしてなぜかモミアゲの短いテクノカット! テクノカットは1980年頃にYMOが流行らせた髪型だと思っていたのに、ヨーロッパでは大正時代からあったんだ。
同時期の写真。
この全身を写せる大きな鏡はアトリエを移っても持ち運んだと言われる。そこに写り込む姿を見ながら作品を制作していたらしいが、こうやってカッコ付けてた時間も長かったのでは。
そんなナルシストのエゴン君が自画像を描くとこうなる。
「ほおずきの実のある自画像」 1912年
先ほどの写真とは逆に見下げるような視線。一見するとドヤ顔にも見える。でもそれにしてはどこか弱々しい印象。
この前年にエゴン・シーレは初の個展を開くなど順調にキャリアをステップアップさせている。その反面、猥褻な絵を制作していると地元住民から反感を買ったり、警察によって逮捕や絵を焼却されたりもしている。そんな「俺って才能あるのにナンデヤネン」な気持ちが絵に表れているのかも知れない。
どうしても彼の顔に目がいってしまうものの、なぜホウズキを描いたのかも興味深い。というかホオズキの赤は絶妙なアクセントになっているし、花びらのある普通の花ではなく、ここには赤いのに地味なホオズキがピッタリと思ったり。
参考までに関係あるかどうかは別として、ホオズキの花言葉は「心の平安」「不思議」「自然美」「私を誘って下さい」「頼りない」「半信半疑」「いつわり」「欺瞞」とバラエティに富んでいる。特に西洋では「いつわり」「欺瞞」がメインだとの説もある。
ついでに彼が着ている黒いジャケットがやたらカッコよく見える。実際には黒の無地で、細く引かれた白い線は立体感を表現するために描かれたものと思うが、こんな生地のジャケットがあれば是非買いたいと思うくらい。
そしてジャケットを眺めていると、ジャケットの一番外側だけに輪郭線が引かれているのに気がついた。ひとつの絵の中で輪郭線のある・なしを使い分けるのはめずらしいのでは?
エゴン・シーレはデフォルメするのが巧みな画家で、デフォルメされた姿形のバランスがとても魅力的だし、それによって何か伝わってくるものがあると思う。並べて展示されていたこの3枚はテーマも画材も違うけれど、エゴン・シーレの魅力が凝縮されている。
「闘士」 1913年
「裸体自画像 ゼマ版画集特装版のための試し刷り」 1912年
「背を向けて立つ裸体の男」 1910年
そしてエゴン・シーレのディープな世界へ。彼の2大モチーフは死と性だと思う。性についてはたぶん後で書くと思うが、女好きだったから何となく想像できるとして、死について彼がなぜこだわっていたのかを解説した資料が見つからない。病弱でもなかったし精神的に病んでいたわけでもない。28歳で早世したがそれはスペイン風邪、今でならコロナで思いも掛けずに亡くなったようなもの。
でも理由はナゾだとしても、
絵を見ればヤバイとすぐに分かる(^^ゞ
「叙情詩人(自画像)」 1911年
「自分を見つめる人 II(死と男)」 1911年
どちらもあり得ないポーズなのに、デフォルメの天才エゴン・シーレにかかればあまり不自然に見えず、彼の描きたかったであろう情念だけが伝わってくる。でも何を伝えたかったかまでは(私には)理解不能。
ちなみに「叙情詩人」の中央最下部に赤く塗られているのはオチンチン。
そこに描く必要あった?と思わなくもない(^^ゞ
次のドローイング(線画)を見て、エゴン・シーレにちょっとアブノーマルな性癖を感じる人は多いだろう。私もそう思うけれど、それよりも彼はポーズフェチだったような気がする。デッサン(形を絵に写し取る能力)には長けていたので、普通のポーズでは飽き足らなかったのでは?
「しゃがむ裸の少女」 1914年
「赤い靴下留めをして横たわる女」 1913年
「赤い靴下留めをして座る裸婦、後ろ姿」 1914年
「頭を下げてひざまずく女」 1915年
何となく陰キャで閉塞感のある画風に息苦しくもなる。しかし同じくヌードのドローイングでも、赤ちゃんや妊婦がモデルだと愛らしさや幸せそうな雰囲気が伝わってくる。そのあたりに個性や奇抜さに頼っているだけではないエゴン・シーレの力量を感じる。
「プット(アントン・ペシュカ・ジュニア)」 1915年
「妊婦」 1910年
ところで次の作品はは実にシンプルだけれど完成度が高くて、
誰でも描けそうで描けないドローイングじゃないかな。
「背中向きの女性のトルソ」 1913年
ーーー続く
上野公園の五條天神でウメを見て、その日に中国に送り返されたパンダのシャンシャンがいた動物園の前を通って、毎度お馴染みの東京都美術館に到着。
さてエゴン・シーレ。なぜかフルネームで呼ばれることが多いオーストリアの画家。1890年(明治23年)生まれで1918年(大正7年)に28歳で、当時パンデミックを引き起こしていたスペイン風邪により夭折。
16歳でウィーン工芸学校に学ぶも、才能を認められてそのままウィーン美術アカデミーへ進学。これはかなりの神童扱いだったよう。17歳でクリムトに出会い才能を認められ、18歳で初めての展覧会参加。だから画家として活躍していたのはわずか10年ほど。
これは16歳の写真。
自信に満ちあふれたクソ生意気そうな雰囲気が伝わってくる(^^ゞ
こちらは24歳頃に撮られたもの。
日本だと大正3年のエゴン・シーレ。
構図は顔のやや右側からで、そしてわずかにアゴを引いて上目遣いでレンズを見つめるような撮り方は共通。16歳の写真も似ているから、これが一番イケてる顔だと昔から自信があったのだろう。そしてなぜかモミアゲの短いテクノカット! テクノカットは1980年頃にYMOが流行らせた髪型だと思っていたのに、ヨーロッパでは大正時代からあったんだ。
同時期の写真。
この全身を写せる大きな鏡はアトリエを移っても持ち運んだと言われる。そこに写り込む姿を見ながら作品を制作していたらしいが、こうやってカッコ付けてた時間も長かったのでは。
そんなナルシストのエゴン君が自画像を描くとこうなる。
「ほおずきの実のある自画像」 1912年
先ほどの写真とは逆に見下げるような視線。一見するとドヤ顔にも見える。でもそれにしてはどこか弱々しい印象。
この前年にエゴン・シーレは初の個展を開くなど順調にキャリアをステップアップさせている。その反面、猥褻な絵を制作していると地元住民から反感を買ったり、警察によって逮捕や絵を焼却されたりもしている。そんな「俺って才能あるのにナンデヤネン」な気持ちが絵に表れているのかも知れない。
どうしても彼の顔に目がいってしまうものの、なぜホウズキを描いたのかも興味深い。というかホオズキの赤は絶妙なアクセントになっているし、花びらのある普通の花ではなく、ここには赤いのに地味なホオズキがピッタリと思ったり。
参考までに関係あるかどうかは別として、ホオズキの花言葉は「心の平安」「不思議」「自然美」「私を誘って下さい」「頼りない」「半信半疑」「いつわり」「欺瞞」とバラエティに富んでいる。特に西洋では「いつわり」「欺瞞」がメインだとの説もある。
ついでに彼が着ている黒いジャケットがやたらカッコよく見える。実際には黒の無地で、細く引かれた白い線は立体感を表現するために描かれたものと思うが、こんな生地のジャケットがあれば是非買いたいと思うくらい。
そしてジャケットを眺めていると、ジャケットの一番外側だけに輪郭線が引かれているのに気がついた。ひとつの絵の中で輪郭線のある・なしを使い分けるのはめずらしいのでは?
エゴン・シーレはデフォルメするのが巧みな画家で、デフォルメされた姿形のバランスがとても魅力的だし、それによって何か伝わってくるものがあると思う。並べて展示されていたこの3枚はテーマも画材も違うけれど、エゴン・シーレの魅力が凝縮されている。
「闘士」 1913年
「裸体自画像 ゼマ版画集特装版のための試し刷り」 1912年
「背を向けて立つ裸体の男」 1910年
そしてエゴン・シーレのディープな世界へ。彼の2大モチーフは死と性だと思う。性についてはたぶん後で書くと思うが、女好きだったから何となく想像できるとして、死について彼がなぜこだわっていたのかを解説した資料が見つからない。病弱でもなかったし精神的に病んでいたわけでもない。28歳で早世したがそれはスペイン風邪、今でならコロナで思いも掛けずに亡くなったようなもの。
でも理由はナゾだとしても、
絵を見ればヤバイとすぐに分かる(^^ゞ
「叙情詩人(自画像)」 1911年
「自分を見つめる人 II(死と男)」 1911年
どちらもあり得ないポーズなのに、デフォルメの天才エゴン・シーレにかかればあまり不自然に見えず、彼の描きたかったであろう情念だけが伝わってくる。でも何を伝えたかったかまでは(私には)理解不能。
ちなみに「叙情詩人」の中央最下部に赤く塗られているのはオチンチン。
そこに描く必要あった?と思わなくもない(^^ゞ
次のドローイング(線画)を見て、エゴン・シーレにちょっとアブノーマルな性癖を感じる人は多いだろう。私もそう思うけれど、それよりも彼はポーズフェチだったような気がする。デッサン(形を絵に写し取る能力)には長けていたので、普通のポーズでは飽き足らなかったのでは?
「しゃがむ裸の少女」 1914年
「赤い靴下留めをして横たわる女」 1913年
「赤い靴下留めをして座る裸婦、後ろ姿」 1914年
「頭を下げてひざまずく女」 1915年
何となく陰キャで閉塞感のある画風に息苦しくもなる。しかし同じくヌードのドローイングでも、赤ちゃんや妊婦がモデルだと愛らしさや幸せそうな雰囲気が伝わってくる。そのあたりに個性や奇抜さに頼っているだけではないエゴン・シーレの力量を感じる。
「プット(アントン・ペシュカ・ジュニア)」 1915年
「妊婦」 1910年
ところで次の作品はは実にシンプルだけれど完成度が高くて、
誰でも描けそうで描けないドローイングじゃないかな。
「背中向きの女性のトルソ」 1913年
ーーー続く
wassho at 23:36|Permalink│Comments(0)│
2019年08月12日
ウィーン・モダン展 その5
そしてエゴン・シーレ。
なぜかフルネームで呼ばれることが多い画家。
28歳で夭折したエゴン・シーレは1890年生まれで1918年に没。ちなみに彼の師匠的立場だったクリムトは1862年生まれで28歳年上。亡くなったのは同じく1918年。
独自の画風を確立したということではクリムトと双璧。そしてどちらもエロスをテーマに多くの作品を描いた。しかし師匠と弟子で方向性はまったく違う。クリムトがエクスタシーを感じさせる美しさがあるのに対して、エゴン・シーレはひたすら陰キャで閉鎖感のある画風。そしてどこか攻撃的というかトゲトゲしい。
それと関係あるのかどうか、彼の性格はサイコパスというか中二病というかやっかいなタイプ。また女性に対してはまったくのゲス野郎。4歳年下の妹とデキていたし、同棲して内助の功があった恋人を捨てて金持ちの娘と結婚した。しかも恋人には結婚後も定期的に付き合おうと提案。おまけに嫁の姉とも肉体関係が続いた(>_<)
なお、この展覧会では「当たり障りのない」作品が多かったと思う。もっとエゴン・シーレの毒に当たって暗〜い気分になりたかったのに。
「自画像」 1911年
この展覧会で唯一の「The エゴン・シーレ」的な作品。陰キャ全開で重苦しい。なぜか彼は指を長く直線的に描くことが多い。
師匠はクリムトだったが心酔していたのはゴッホだったようで、次の2つはその影響ありあり。ゴッホのひまわりもどこか暗い影があるが、エゴン・シーレのそれは生命力を否定するレベル。
「ひまわり」 1909-10年
「ノイレングバッハの画家の部屋」 1911年
単なる肖像画ではなく目に見えない何かを「強調した」描き方。こういうのを表現主義というらしい。目に見えるものだけを描いた印象主義との対立概念。エゴン・シーレは表現主義の代表的画家。もっとも1画家=1画風ではないので、彼もいろいろな絵を描いている。
ところで目に見えない何が強調されているのかわからないのだけれど(^^ゞ、アルトゥール・レスラーはカッコイイね。
「美術評論家アルトゥール・レスラーの肖像」 1910年
「イーダ・レスラーの肖像」 1912年
「オットー・ヴァーグナーの肖像」 1910年
痛々しく陰鬱なエロティシズムがエゴン・シーレの醍醐味だと思っているので、そういう油絵作品がなかったのが残念。素描でその匂いを少しは感じられるものを2点紹介しておく。
「男性裸像」 1912年
「模様のある布をまとい背を向けた裸体」 1911年
エゴン・シーレ濃度の高い作品はなかったけれど、それでもダークな気分になってきたかな。口直しに、彼はポストカード用にこんなファッショナブルな絵も描いている。
「女の肖像 ウィーン工房ポストカードNo.289」 1910年
最初のエントリーに書いたように、この展覧会は絵画展というより19世紀末を中心としたウィーン文化展。展示数は約400点で一般の展覧会の2倍。とても見応えがあった。ウィーン・ミュージアムが2023年まで閉鎖中にオーストリア系の展覧会が増えるといいな。
おしまい
なぜかフルネームで呼ばれることが多い画家。
28歳で夭折したエゴン・シーレは1890年生まれで1918年に没。ちなみに彼の師匠的立場だったクリムトは1862年生まれで28歳年上。亡くなったのは同じく1918年。
独自の画風を確立したということではクリムトと双璧。そしてどちらもエロスをテーマに多くの作品を描いた。しかし師匠と弟子で方向性はまったく違う。クリムトがエクスタシーを感じさせる美しさがあるのに対して、エゴン・シーレはひたすら陰キャで閉鎖感のある画風。そしてどこか攻撃的というかトゲトゲしい。
それと関係あるのかどうか、彼の性格はサイコパスというか中二病というかやっかいなタイプ。また女性に対してはまったくのゲス野郎。4歳年下の妹とデキていたし、同棲して内助の功があった恋人を捨てて金持ちの娘と結婚した。しかも恋人には結婚後も定期的に付き合おうと提案。おまけに嫁の姉とも肉体関係が続いた(>_<)
なお、この展覧会では「当たり障りのない」作品が多かったと思う。もっとエゴン・シーレの毒に当たって暗〜い気分になりたかったのに。
「自画像」 1911年
この展覧会で唯一の「The エゴン・シーレ」的な作品。陰キャ全開で重苦しい。なぜか彼は指を長く直線的に描くことが多い。
師匠はクリムトだったが心酔していたのはゴッホだったようで、次の2つはその影響ありあり。ゴッホのひまわりもどこか暗い影があるが、エゴン・シーレのそれは生命力を否定するレベル。
「ひまわり」 1909-10年
「ノイレングバッハの画家の部屋」 1911年
単なる肖像画ではなく目に見えない何かを「強調した」描き方。こういうのを表現主義というらしい。目に見えるものだけを描いた印象主義との対立概念。エゴン・シーレは表現主義の代表的画家。もっとも1画家=1画風ではないので、彼もいろいろな絵を描いている。
ところで目に見えない何が強調されているのかわからないのだけれど(^^ゞ、アルトゥール・レスラーはカッコイイね。
「美術評論家アルトゥール・レスラーの肖像」 1910年
「イーダ・レスラーの肖像」 1912年
「オットー・ヴァーグナーの肖像」 1910年
痛々しく陰鬱なエロティシズムがエゴン・シーレの醍醐味だと思っているので、そういう油絵作品がなかったのが残念。素描でその匂いを少しは感じられるものを2点紹介しておく。
「男性裸像」 1912年
「模様のある布をまとい背を向けた裸体」 1911年
エゴン・シーレ濃度の高い作品はなかったけれど、それでもダークな気分になってきたかな。口直しに、彼はポストカード用にこんなファッショナブルな絵も描いている。
「女の肖像 ウィーン工房ポストカードNo.289」 1910年
最初のエントリーに書いたように、この展覧会は絵画展というより19世紀末を中心としたウィーン文化展。展示数は約400点で一般の展覧会の2倍。とても見応えがあった。ウィーン・ミュージアムが2023年まで閉鎖中にオーストリア系の展覧会が増えるといいな。
おしまい
wassho at 12:31|Permalink│Comments(0)│
2019年08月06日
ウィーン・モダン展
訪れたのは8月1日。
美術館入り口の前に見慣れないものがあった。
茶室? 解説の類いは一切なし。
いかにも「すごいアートだろう」とドヤ顔している作品。でも国立新美術館はガラスの建物としては相当にレベルが高い。それとセットじゃキャラが被り負けしている(^^ゞ 金閣寺の境内にでも展示すればよかったんじゃない?
先月は東京都美術館でクリムト展を見た。めずらしくオーストリアの展覧会が続く。これはウィーン・ミュージアムという大きな美術館が、今年の2月から改修工事で休館になり作品が貸し出されている模様。工事は2023年まで続くので、これから色々あるかも。
さて展覧会の正式なタイトルは
日本・オーストリア外交樹立150周年記念
ウィーン・モダン
クリムト、シーレ 世紀末への道
と、やたら長い。またキャッチコピーが
ウィーン世紀末の全貌を
まだ、あなたは知らない。
と意味ありげである。
ところで英語のタイトルだとPath to Modernismと「世紀末」じゃないのだけれど。モダニズムより世紀末のほうがキャッチーだと考えたのか、あるいはクリムトやエゴン・シーレの紹介に世紀末という言葉がお約束になっているのか。
この展覧会は絵画が基本となっているものの、18世紀中頃から19世紀末そして20世紀初頭のアートというかウィーンの文化のアレコレを紹介しようという意欲的、言い換えれば少々欲張った企画だった。
絵の他に展示されていたのはファッション、家具、食器、アクセサリー、建築関連、ポスターなど様々。興味深く面白かったが、ひと通り理解するには3回くらい訪れる必要があるかなあ。
もちろん展覧会には1回しか行っていないし、すべてをブログにまとめるのは大変なので絵画を中心に書いていく予定。
絵画でメインになっているのは当然ながらクリムトとエゴン・シーレ。この展覧会には私の好きな金箔キラキラ(でかつ美しい)クリムトの作品は出展されていない。エゴン・シーレはゴツゴツした画風がちょっと苦手。だから当初は行くつもりはなかった。しかしクリムト展で、あまり馴染みのなかったクリムト以外のウィーンの画家の作品がよかったものだから、またそういう出会いがあるかなと期待して。
ーーー続く
美術館入り口の前に見慣れないものがあった。
茶室? 解説の類いは一切なし。
いかにも「すごいアートだろう」とドヤ顔している作品。でも国立新美術館はガラスの建物としては相当にレベルが高い。それとセットじゃキャラが被り負けしている(^^ゞ 金閣寺の境内にでも展示すればよかったんじゃない?
先月は東京都美術館でクリムト展を見た。めずらしくオーストリアの展覧会が続く。これはウィーン・ミュージアムという大きな美術館が、今年の2月から改修工事で休館になり作品が貸し出されている模様。工事は2023年まで続くので、これから色々あるかも。
さて展覧会の正式なタイトルは
日本・オーストリア外交樹立150周年記念
ウィーン・モダン
クリムト、シーレ 世紀末への道
と、やたら長い。またキャッチコピーが
ウィーン世紀末の全貌を
まだ、あなたは知らない。
と意味ありげである。
ところで英語のタイトルだとPath to Modernismと「世紀末」じゃないのだけれど。モダニズムより世紀末のほうがキャッチーだと考えたのか、あるいはクリムトやエゴン・シーレの紹介に世紀末という言葉がお約束になっているのか。
この展覧会は絵画が基本となっているものの、18世紀中頃から19世紀末そして20世紀初頭のアートというかウィーンの文化のアレコレを紹介しようという意欲的、言い換えれば少々欲張った企画だった。
絵の他に展示されていたのはファッション、家具、食器、アクセサリー、建築関連、ポスターなど様々。興味深く面白かったが、ひと通り理解するには3回くらい訪れる必要があるかなあ。
もちろん展覧会には1回しか行っていないし、すべてをブログにまとめるのは大変なので絵画を中心に書いていく予定。
絵画でメインになっているのは当然ながらクリムトとエゴン・シーレ。この展覧会には私の好きな金箔キラキラ(でかつ美しい)クリムトの作品は出展されていない。エゴン・シーレはゴツゴツした画風がちょっと苦手。だから当初は行くつもりはなかった。しかしクリムト展で、あまり馴染みのなかったクリムト以外のウィーンの画家の作品がよかったものだから、またそういう出会いがあるかなと期待して。
ーーー続く
wassho at 19:53|Permalink│Comments(0)│