クリムト
2023年05月28日
エゴン・シーレ展 ウィーンが生んだ若き天才 その2
どんな有名画家でもキャリアの最初の頃はごく当たり前の絵を描いており、やがて個性を反映した独自の画風を確立する。というか独自の画風を確立して、その画風が受け入れられたものだけが一流の画家として後世に名を残す。
絵の上手い下手は関係ないと言い切るのは乱暴かも知れないが、そもそも展覧会に出品できるような人は絵が上手いのであって、オリジナリティこそが一流と二流の分かれ目だと思っている。
展覧会では画家の初期の作品も展示される場合が多い。画風確立前だからたいていは「ふ〜ん」といったレベル。もし私が画家なら、そんな作品は展示して欲しくないけどな(^^ゞ
次の作品はエゴン・シーレが17歳頃のもの。彼は18歳で初めて展覧会に参加しており、それをプロデビューとするなら、まだアマチュア時代の作品。日本でいうなら高校2年生でこれだけ描ければたいしたものと思うけれど、この程度を描ける美術部の高校生はザラにいる。
「イタリアの農民」 1907年
「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」 1907年
クリムトが21歳頃の作品も展示されていた。
「ハナー地方出身の少女の頭部習作」 1883年
クリムトといえば華やかなエクスタシーの世界。しかし何年か前にクリムトの展覧会を訪れて各年代の作品を見たとき、彼はあの画風に到達しなくても大成しただろうなと思った。これもその実力の片鱗を感じさせる若き日の作品である。
ところでドローイング(線画)がたくさんあって、
それを眺めていて面白い発見をした。
まずはエゴン・シーレのドローイング。
「横たわる長髪の裸婦」 1918年
「リボンをつけた横たわる少女」 1918年
こちらはクリムトである。
「脚を曲げ横たわる裸婦」 1914/1915年
「上腕で顔の一部を隠し横たわる裸婦(“花嫁”のための習作)」 1917年
エゴン・シーレは黒チョーク、クリムトは鉛筆と画材が違うから力強さが異なるのは別として、エゴン・シーレがラインを一気に描いているのに対して、クリムトは何度もなぞりながら描いている。
一気に描けるほうが絵が上手いとは思わない。だったら、それがどうした?なんだけれど、違いを見つけてうれしかったというだけのお話(^^ゞ
ただしエゴン・シーレのドローイングはすごく動的。前回にエゴン・シーレはポーズフェチと書いた。この作品のポーズはごく普通とはいえ、やはり彼は空間把握力に優れていたのだと思う。対してクリムトのドローイングは静的。しかし単なるデッサン(形を絵に写し取る)ではなく、この段階から何か心情的なものが伝わってくる。
もっともクリムトの作品(油絵)は静的であるものの、エゴン・シーレの作品が動的かというとそんなことはないから、やはりそれがどうした?な発見でしかないm(_ _)m
ーーー続く
絵の上手い下手は関係ないと言い切るのは乱暴かも知れないが、そもそも展覧会に出品できるような人は絵が上手いのであって、オリジナリティこそが一流と二流の分かれ目だと思っている。
展覧会では画家の初期の作品も展示される場合が多い。画風確立前だからたいていは「ふ〜ん」といったレベル。もし私が画家なら、そんな作品は展示して欲しくないけどな(^^ゞ
次の作品はエゴン・シーレが17歳頃のもの。彼は18歳で初めて展覧会に参加しており、それをプロデビューとするなら、まだアマチュア時代の作品。日本でいうなら高校2年生でこれだけ描ければたいしたものと思うけれど、この程度を描ける美術部の高校生はザラにいる。
「イタリアの農民」 1907年
「毛皮の襟巻をした芸術家の母(マリー・シーレ)の肖像」 1907年
クリムトが21歳頃の作品も展示されていた。
「ハナー地方出身の少女の頭部習作」 1883年
クリムトといえば華やかなエクスタシーの世界。しかし何年か前にクリムトの展覧会を訪れて各年代の作品を見たとき、彼はあの画風に到達しなくても大成しただろうなと思った。これもその実力の片鱗を感じさせる若き日の作品である。
ところでドローイング(線画)がたくさんあって、
それを眺めていて面白い発見をした。
まずはエゴン・シーレのドローイング。
「横たわる長髪の裸婦」 1918年
「リボンをつけた横たわる少女」 1918年
こちらはクリムトである。
「脚を曲げ横たわる裸婦」 1914/1915年
「上腕で顔の一部を隠し横たわる裸婦(“花嫁”のための習作)」 1917年
エゴン・シーレは黒チョーク、クリムトは鉛筆と画材が違うから力強さが異なるのは別として、エゴン・シーレがラインを一気に描いているのに対して、クリムトは何度もなぞりながら描いている。
一気に描けるほうが絵が上手いとは思わない。だったら、それがどうした?なんだけれど、違いを見つけてうれしかったというだけのお話(^^ゞ
ただしエゴン・シーレのドローイングはすごく動的。前回にエゴン・シーレはポーズフェチと書いた。この作品のポーズはごく普通とはいえ、やはり彼は空間把握力に優れていたのだと思う。対してクリムトのドローイングは静的。しかし単なるデッサン(形を絵に写し取る)ではなく、この段階から何か心情的なものが伝わってくる。
もっともクリムトの作品(油絵)は静的であるものの、エゴン・シーレの作品が動的かというとそんなことはないから、やはりそれがどうした?な発見でしかないm(_ _)m
ーーー続く
wassho at 23:11|Permalink│Comments(0)│
2019年08月09日
ウィーン・モダン展 その3
さてクリムト。
彼のことは先月の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」でたくさん書いたので、今回はあっさりと。まあ私の好みのクリムト作品がなかったせいもある。
なおヌードを中心に素描が50点近く展示されていた。いつも思うのだが素描を熱心に眺めている人って、よほど絵心があるのかなあ。ごく普通レベルの美術好きの私には、素描を見ても大して楽しくなくチラ見するだけなんだけれど。
次の2つは1883年〜84年の制作だから、まだクリムトが駆け出しの頃。
これらは『アレゴリーとエンブレム』という図案集(書籍)のために描かれたもの。
「寓話 『アレゴリーとエンブレム』のための原画 No.75a」 1883年
「牧歌 『アレゴリーとエンブレム』のための原画 No.75)」 1884年
1888年はクリムトが27歳前後。
後のクリムトからは想像できないオーソドックスな画風である。
「旧ブルク劇場の観客席」 1888年
開演前の雰囲気がよく表現されていて、一目見ただけでクリムトの力量が伝わってくる。こういう作品でハンス・マカルトの後継者ともくされたのだろうか。
ところで、これは取り壊される劇場の記録としてウィーン市議会から依頼されたもの。だから主役は劇場なのであるが、クリムトは観客を肖像画レベルに緻密に描き込んでいる。ほとんどが実在したウィーンの名士の面々で、その数100人以上。中には後にクリムトのパトロンになった人もいたらしいから、営業チャンスとばかりとして精を出したのかも(^^ゞ
一部を拡大して。
こちらも図案集のための原画。
先の図案集の画風と較べてみると、あれから10年経ってクリムトがオリジナリティを確立したことがわかる。だんだんと世紀末の雰囲気が濃くなってイイ感じ。
「愛 『アレゴリー:新連作』のための原画No.46」 1895年
「彫刻 『アレゴリー:新連作』のための原画No.58」 1896年
「悲劇 『アレゴリー:新連作』のための原画No.66」 1897年
「パラス・アテナ」 1898年
クリムトは、1897年に保守派のウィーン造形芸術家協会と袂を分かってウィーン分離派を結成。翌1898年に分離派会館が開設。これは分離派会館で開かれた最初の展覧会に出展された作品。彼が1番尖っていた時期かな。
パラス・アテナはギリシャ神話の女神で、知恵、芸術、工芸などを司る。戦争とは関係ないのに、なぜかゼウスの頭頂部から武装して鎧をまとって出現したとされている。
この絵では槍?をもって戦闘意欲が満々。保守的な画壇との対決姿勢を示しているのだろう。でも黄金を多用したからギリシャ神話じゃなくインカ帝国の女神に見える。
ちなみに一般的なパラス・アテナの描き方はこんな感じ。
「エミーリエ・フレーゲの肖像」 1902年
クリムトの代表作のひとつとされ、この展覧会の目玉作品でもある。
でもなぜか私にはあまり響かず。クリムトに期待しているきらびやかさがないからかなあ。
なお、この作品のみ写真撮影が認められていた。
SNSによる拡散〜集客効果は無視できず、美術館は試行錯誤中なのだろう。
ーーー続く
彼のことは先月の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」でたくさん書いたので、今回はあっさりと。まあ私の好みのクリムト作品がなかったせいもある。
なおヌードを中心に素描が50点近く展示されていた。いつも思うのだが素描を熱心に眺めている人って、よほど絵心があるのかなあ。ごく普通レベルの美術好きの私には、素描を見ても大して楽しくなくチラ見するだけなんだけれど。
次の2つは1883年〜84年の制作だから、まだクリムトが駆け出しの頃。
これらは『アレゴリーとエンブレム』という図案集(書籍)のために描かれたもの。
「寓話 『アレゴリーとエンブレム』のための原画 No.75a」 1883年
「牧歌 『アレゴリーとエンブレム』のための原画 No.75)」 1884年
1888年はクリムトが27歳前後。
後のクリムトからは想像できないオーソドックスな画風である。
「旧ブルク劇場の観客席」 1888年
開演前の雰囲気がよく表現されていて、一目見ただけでクリムトの力量が伝わってくる。こういう作品でハンス・マカルトの後継者ともくされたのだろうか。
ところで、これは取り壊される劇場の記録としてウィーン市議会から依頼されたもの。だから主役は劇場なのであるが、クリムトは観客を肖像画レベルに緻密に描き込んでいる。ほとんどが実在したウィーンの名士の面々で、その数100人以上。中には後にクリムトのパトロンになった人もいたらしいから、営業チャンスとばかりとして精を出したのかも(^^ゞ
一部を拡大して。
こちらも図案集のための原画。
先の図案集の画風と較べてみると、あれから10年経ってクリムトがオリジナリティを確立したことがわかる。だんだんと世紀末の雰囲気が濃くなってイイ感じ。
「愛 『アレゴリー:新連作』のための原画No.46」 1895年
「彫刻 『アレゴリー:新連作』のための原画No.58」 1896年
「悲劇 『アレゴリー:新連作』のための原画No.66」 1897年
「パラス・アテナ」 1898年
クリムトは、1897年に保守派のウィーン造形芸術家協会と袂を分かってウィーン分離派を結成。翌1898年に分離派会館が開設。これは分離派会館で開かれた最初の展覧会に出展された作品。彼が1番尖っていた時期かな。
パラス・アテナはギリシャ神話の女神で、知恵、芸術、工芸などを司る。戦争とは関係ないのに、なぜかゼウスの頭頂部から武装して鎧をまとって出現したとされている。
この絵では槍?をもって戦闘意欲が満々。保守的な画壇との対決姿勢を示しているのだろう。でも黄金を多用したからギリシャ神話じゃなくインカ帝国の女神に見える。
ちなみに一般的なパラス・アテナの描き方はこんな感じ。
「エミーリエ・フレーゲの肖像」 1902年
クリムトの代表作のひとつとされ、この展覧会の目玉作品でもある。
でもなぜか私にはあまり響かず。クリムトに期待しているきらびやかさがないからかなあ。
なお、この作品のみ写真撮影が認められていた。
SNSによる拡散〜集客効果は無視できず、美術館は試行錯誤中なのだろう。
ーーー続く
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2019年08月06日
ウィーン・モダン展
訪れたのは8月1日。
美術館入り口の前に見慣れないものがあった。
茶室? 解説の類いは一切なし。
いかにも「すごいアートだろう」とドヤ顔している作品。でも国立新美術館はガラスの建物としては相当にレベルが高い。それとセットじゃキャラが被り負けしている(^^ゞ 金閣寺の境内にでも展示すればよかったんじゃない?
先月は東京都美術館でクリムト展を見た。めずらしくオーストリアの展覧会が続く。これはウィーン・ミュージアムという大きな美術館が、今年の2月から改修工事で休館になり作品が貸し出されている模様。工事は2023年まで続くので、これから色々あるかも。
さて展覧会の正式なタイトルは
日本・オーストリア外交樹立150周年記念
ウィーン・モダン
クリムト、シーレ 世紀末への道
と、やたら長い。またキャッチコピーが
ウィーン世紀末の全貌を
まだ、あなたは知らない。
と意味ありげである。
ところで英語のタイトルだとPath to Modernismと「世紀末」じゃないのだけれど。モダニズムより世紀末のほうがキャッチーだと考えたのか、あるいはクリムトやエゴン・シーレの紹介に世紀末という言葉がお約束になっているのか。
この展覧会は絵画が基本となっているものの、18世紀中頃から19世紀末そして20世紀初頭のアートというかウィーンの文化のアレコレを紹介しようという意欲的、言い換えれば少々欲張った企画だった。
絵の他に展示されていたのはファッション、家具、食器、アクセサリー、建築関連、ポスターなど様々。興味深く面白かったが、ひと通り理解するには3回くらい訪れる必要があるかなあ。
もちろん展覧会には1回しか行っていないし、すべてをブログにまとめるのは大変なので絵画を中心に書いていく予定。
絵画でメインになっているのは当然ながらクリムトとエゴン・シーレ。この展覧会には私の好きな金箔キラキラ(でかつ美しい)クリムトの作品は出展されていない。エゴン・シーレはゴツゴツした画風がちょっと苦手。だから当初は行くつもりはなかった。しかしクリムト展で、あまり馴染みのなかったクリムト以外のウィーンの画家の作品がよかったものだから、またそういう出会いがあるかなと期待して。
ーーー続く
美術館入り口の前に見慣れないものがあった。
茶室? 解説の類いは一切なし。
いかにも「すごいアートだろう」とドヤ顔している作品。でも国立新美術館はガラスの建物としては相当にレベルが高い。それとセットじゃキャラが被り負けしている(^^ゞ 金閣寺の境内にでも展示すればよかったんじゃない?
先月は東京都美術館でクリムト展を見た。めずらしくオーストリアの展覧会が続く。これはウィーン・ミュージアムという大きな美術館が、今年の2月から改修工事で休館になり作品が貸し出されている模様。工事は2023年まで続くので、これから色々あるかも。
さて展覧会の正式なタイトルは
日本・オーストリア外交樹立150周年記念
ウィーン・モダン
クリムト、シーレ 世紀末への道
と、やたら長い。またキャッチコピーが
ウィーン世紀末の全貌を
まだ、あなたは知らない。
と意味ありげである。
ところで英語のタイトルだとPath to Modernismと「世紀末」じゃないのだけれど。モダニズムより世紀末のほうがキャッチーだと考えたのか、あるいはクリムトやエゴン・シーレの紹介に世紀末という言葉がお約束になっているのか。
この展覧会は絵画が基本となっているものの、18世紀中頃から19世紀末そして20世紀初頭のアートというかウィーンの文化のアレコレを紹介しようという意欲的、言い換えれば少々欲張った企画だった。
絵の他に展示されていたのはファッション、家具、食器、アクセサリー、建築関連、ポスターなど様々。興味深く面白かったが、ひと通り理解するには3回くらい訪れる必要があるかなあ。
もちろん展覧会には1回しか行っていないし、すべてをブログにまとめるのは大変なので絵画を中心に書いていく予定。
絵画でメインになっているのは当然ながらクリムトとエゴン・シーレ。この展覧会には私の好きな金箔キラキラ(でかつ美しい)クリムトの作品は出展されていない。エゴン・シーレはゴツゴツした画風がちょっと苦手。だから当初は行くつもりはなかった。しかしクリムト展で、あまり馴染みのなかったクリムト以外のウィーンの画家の作品がよかったものだから、またそういう出会いがあるかなと期待して。
ーーー続く
wassho at 19:53|Permalink│Comments(0)│
2019年07月18日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その5
クリムトというと女性を描いた絵のイメージが強いが、作品の1/4は風景画とのこと。ただし風景画を描いたのは次の1898年の作品が最初。
「雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)」 1898年
「アッター湖畔のカンマー城 III」 1909〜1910年
「丘の見える庭の風景」 1916年頃
あえてカテゴリー分けするとしたら印象派に近い作風かな。クリムトの風景画といわれても、あまりピンとこなかったのが正直なところ。ところで「雨後」以降の風景画はすべて正方形のキャンバスに描かれているそうだ。21世紀のインスタ時代を先取りしていたりして。
1900年から1910年くらいがクリムトに1番脂がのっていた時期だと思う。世紀末的な表現、あるいは金箔を使った女性画もその頃に描かれた。この展覧会で、そういうザ・クリムト的な作品は
「ユディト 1」 1901年
「ベートーヴェン・フリーズ」 1902年
「女の三世代」 1905年
の3点しかなかったのが残念なところ。「ベートーヴェン・フリーズ」が規格外の超大作だから満腹感はあったものの、メインディッシュの品揃えとしてはもの足らない。
ところでこの展覧会は年代別の展示ではなく、けっこう複雑なテーマ設定で細かく作品を分類している。
クリムトとその家族
修業時代と劇場装飾
私生活
ウィーンと日本 1900
ウィーン分離派
風景画
肖像画
生命の円環
ブログでは一部の作品しか紹介しないので年代順に並べてみたが、ひょっとしたらこの構成はメインディッシュが少ないのをカモフラージュする苦肉の策だったのかもしれない。だとしたらよくできている。
晩年の作品をいくつか。
何か実験的な画風のようにも思える。
「オイゲニア・プリマフェージの肖像」 1913〜14年
「赤子(ゆりかご)」 1917年
「白い服の女」 1917〜1918年 ※未完成作品
クリムトの知名度はかなりのものだと思うが、意外にも日本での展覧会は過去に3回だけらしい。しかも東京で開かれたのは1981年だから約40年ぶりになる。貴重な体験だったと思うし、クリムトのいろいろな面を知ることができてよかった。
ところで展覧会サブタイトルの「ウィーンと日本 1900」の「1900」は19世紀の終わり=世紀末が1900年だからなんだろうが、わかりにくい表現である。そして「ウィーンと日本」については、別に2つの国の作品を対比していたわけではないので(参考出品的にいくつか日本のものがあっただけ)、展覧会の内容をまったく表していない。まとめていえば「ウィーンと日本 1900」はまったくもっておかしなタイトルである。展覧会の構成をアーダコーダと考えるうちに、タイトルまで煮詰まったのかな?
おしまい
「雨後(鶏のいるザンクト・アガータの庭)」 1898年
「アッター湖畔のカンマー城 III」 1909〜1910年
「丘の見える庭の風景」 1916年頃
あえてカテゴリー分けするとしたら印象派に近い作風かな。クリムトの風景画といわれても、あまりピンとこなかったのが正直なところ。ところで「雨後」以降の風景画はすべて正方形のキャンバスに描かれているそうだ。21世紀のインスタ時代を先取りしていたりして。
1900年から1910年くらいがクリムトに1番脂がのっていた時期だと思う。世紀末的な表現、あるいは金箔を使った女性画もその頃に描かれた。この展覧会で、そういうザ・クリムト的な作品は
「ユディト 1」 1901年
「ベートーヴェン・フリーズ」 1902年
「女の三世代」 1905年
の3点しかなかったのが残念なところ。「ベートーヴェン・フリーズ」が規格外の超大作だから満腹感はあったものの、メインディッシュの品揃えとしてはもの足らない。
ところでこの展覧会は年代別の展示ではなく、けっこう複雑なテーマ設定で細かく作品を分類している。
クリムトとその家族
修業時代と劇場装飾
私生活
ウィーンと日本 1900
ウィーン分離派
風景画
肖像画
生命の円環
ブログでは一部の作品しか紹介しないので年代順に並べてみたが、ひょっとしたらこの構成はメインディッシュが少ないのをカモフラージュする苦肉の策だったのかもしれない。だとしたらよくできている。
晩年の作品をいくつか。
何か実験的な画風のようにも思える。
「オイゲニア・プリマフェージの肖像」 1913〜14年
「赤子(ゆりかご)」 1917年
「白い服の女」 1917〜1918年 ※未完成作品
クリムトの知名度はかなりのものだと思うが、意外にも日本での展覧会は過去に3回だけらしい。しかも東京で開かれたのは1981年だから約40年ぶりになる。貴重な体験だったと思うし、クリムトのいろいろな面を知ることができてよかった。
ところで展覧会サブタイトルの「ウィーンと日本 1900」の「1900」は19世紀の終わり=世紀末が1900年だからなんだろうが、わかりにくい表現である。そして「ウィーンと日本」については、別に2つの国の作品を対比していたわけではないので(参考出品的にいくつか日本のものがあっただけ)、展覧会の内容をまったく表していない。まとめていえば「ウィーンと日本 1900」はまったくもっておかしなタイトルである。展覧会の構成をアーダコーダと考えるうちに、タイトルまで煮詰まったのかな?
おしまい
wassho at 08:49|Permalink│Comments(0)│
2019年07月16日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その4
ウィーン分離派は1902年4月に、後にベートーヴェン展と呼ばれる第14回の展覧会を開く。5万8000人の入場者を記録し、ウィーン分離派の展覧会史上で最大の成功を収めた。
この展覧会の特徴はまず総合芸術を志向したこと。もっともカバーした分野は絵画、彫像、装飾品、家具なので、今日の感覚だとそれほど「総合」じゃない。もう一つの特徴はテーマの統一。出展する芸術家には展覧会のテーマに沿った作品の制作を依頼した。個々の作品の展示ではなく、展覧会そのものをひとつのアートにする試み。
そのテーマに選ばれたのが作曲家のベートーヴェン。そしてクリムトが描いたのはベートーヴェンの交響曲第9番をモチーフにした巨大な壁画。日本じゃ年末によく聴くその第4楽章の独唱・合唱はシラーの詩がベースとなっている。ひょっとしたら音楽と文学も総合芸術としてカバーしたかったのかもしれない。
クリムトの壁画はベートーヴェン・フリーズとのタイトル。お願いベートーヴェンのプリーズじゃなくてフリーズ。スペルはfriezeで初めて見る単語。調べてみると建築用語で、こういう古典的な建築の浮き彫り部分のこと。
また転じて室内では天井近くの壁の装飾もフリーズという。クリムトのフリーズはそちらの意味だろう。和訳は帯状装飾、装飾帯など。
ベートーヴェン展の終了後に壁画は取り壊されるはずだったがコレクターに買い取られた。壁画といっても展覧会用の間仕切りの壁だったため分解できたみたい。現在は修復されて再びセセッション館に展示されている。今回の展覧会にやってきたのは1984年に制作された原寸大の複製。サイズは縦が2メートルで全長は34メートル。
ベートーヴェン・フリーズの全体像。部屋の3面を壁画が取り囲んでいるが、正面以外は空白部分が多いので、全体を俯瞰すると間延びして迫力に欠ける印象は否めない。
写真は https://www.cinra.net/report/201904-klimt から引用。
壁画は左、正面、右の順にストーリー立てられている。
左壁は「幸福への憧れ」というサブタイトル。
正面は「敵対する勢力」。
正面左側と、さらにその一部をアップで。
右壁は「歓喜の歌」。空飛ぶ天女?が続いた後に合唱シーン。
メインの部分をアップで。
超簡単にストーリーを書いておくと
左壁:弱いものに助けを求められ騎士が立ち上がる。
正面:ゴリラみたいなのはギリシャ神話に出てくる悪の化身テュフォン。
右側に伸びる翼や蛇の胴体のようなもののもテュフォンの身体である。
テュフォンの周りにいるのはあれこれ誘惑してくるダークサイドの女神たち。
テュフォンをどう打ち破ったのかが省略されているのだがーーー
右壁:ハッピーエンドの歓喜シーン。
弱いものを人類と置き換えると、いわゆる「救済」のようなことがテーマなんだと思う。ただ右壁で裸になって女性と抱き合っているのが左壁の騎士らしいので、弱いものはどこへ行った?という気もするが。
絵としては楽しめた。空白部分に物足りなさはあっても、なんたって全長は34メートルもある。テュフォンや歓喜のシーンの前に立てば大画面で絵が迫ってくる。もう少しエロく描いて欲しかった気はするけれど(^^ゞ
ただ、これがベートーヴェンの第九をモチーフにしたといわれると、何とも感想を述べづらい。少なくとも私の耳にはもっと別の音楽が聞こえてくる。
「ユディト 1」もそうだがクリムトにとってモチーフは、創作のスイッチを入れてくれるきっかけに過ぎず、いったんスイッチが入った後は自分の感性を発露することが大事で、モチーフ自体は別にどうでもいい存在のようにも思える。あるいは、あるモチーフに対して人と同じようには絶対に描かないぞとの気持ちがあったのか。
それはよくわからないとして、とりあえずクリムトのヘンチクリンな画風が大好きな私は、三方を彼の絵に取り囲まれて満足な気持ちだった。
ただし当時の評判はというと
コケた(/o\)
ただコケたどころじゃなくオオゴケの大炎上。クリムトの世紀末的表現が不道徳なものにうつったようだ。(男女の性器や精子と卵子も描かれているらしいが、それがどこなのかよくわからず) それにベートーヴェンはドイツ人でも、ウィーンで活躍していたのでオーストリアの国民的英雄でもある。それをこんな風に茶化しやがってと反発されたのかもしれない。
参考までに、こちらが好評だったメイン展示であるマックス・クリンガーのベートーヴェン像。当時の市民はこういうものを望んでいたのだ。クリムトが描いた方向性が嫌われたのもさることながら、抽象化という表現方法もまだ理解されなかったのだと思う。
ベートーヴェン・フリーズでクリムトは世間から非難されただけではなく、ウイーン分離派内部からも批判する声が上がり、それが数年後にクリムトとその一派が脱退して分裂する事態を招く。
それをきっかけにクリムトは画壇を率いるなんて政治的な活動から身を引き、画家として「女」や「エロス」といったテーマにのめり込んでいくことになる。本人にとって分裂は不本意だったとしても、それが「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」や「接吻」といった名作につながったのだとしたら、まさに塞翁が馬である。
ーーー続く
この展覧会の特徴はまず総合芸術を志向したこと。もっともカバーした分野は絵画、彫像、装飾品、家具なので、今日の感覚だとそれほど「総合」じゃない。もう一つの特徴はテーマの統一。出展する芸術家には展覧会のテーマに沿った作品の制作を依頼した。個々の作品の展示ではなく、展覧会そのものをひとつのアートにする試み。
そのテーマに選ばれたのが作曲家のベートーヴェン。そしてクリムトが描いたのはベートーヴェンの交響曲第9番をモチーフにした巨大な壁画。日本じゃ年末によく聴くその第4楽章の独唱・合唱はシラーの詩がベースとなっている。ひょっとしたら音楽と文学も総合芸術としてカバーしたかったのかもしれない。
クリムトの壁画はベートーヴェン・フリーズとのタイトル。お願いベートーヴェンのプリーズじゃなくてフリーズ。スペルはfriezeで初めて見る単語。調べてみると建築用語で、こういう古典的な建築の浮き彫り部分のこと。
また転じて室内では天井近くの壁の装飾もフリーズという。クリムトのフリーズはそちらの意味だろう。和訳は帯状装飾、装飾帯など。
ベートーヴェン展の終了後に壁画は取り壊されるはずだったがコレクターに買い取られた。壁画といっても展覧会用の間仕切りの壁だったため分解できたみたい。現在は修復されて再びセセッション館に展示されている。今回の展覧会にやってきたのは1984年に制作された原寸大の複製。サイズは縦が2メートルで全長は34メートル。
ベートーヴェン・フリーズの全体像。部屋の3面を壁画が取り囲んでいるが、正面以外は空白部分が多いので、全体を俯瞰すると間延びして迫力に欠ける印象は否めない。
写真は https://www.cinra.net/report/201904-klimt から引用。
壁画は左、正面、右の順にストーリー立てられている。
左壁は「幸福への憧れ」というサブタイトル。
正面は「敵対する勢力」。
正面左側と、さらにその一部をアップで。
右壁は「歓喜の歌」。空飛ぶ天女?が続いた後に合唱シーン。
メインの部分をアップで。
超簡単にストーリーを書いておくと
左壁:弱いものに助けを求められ騎士が立ち上がる。
正面:ゴリラみたいなのはギリシャ神話に出てくる悪の化身テュフォン。
右側に伸びる翼や蛇の胴体のようなもののもテュフォンの身体である。
テュフォンの周りにいるのはあれこれ誘惑してくるダークサイドの女神たち。
テュフォンをどう打ち破ったのかが省略されているのだがーーー
右壁:ハッピーエンドの歓喜シーン。
弱いものを人類と置き換えると、いわゆる「救済」のようなことがテーマなんだと思う。ただ右壁で裸になって女性と抱き合っているのが左壁の騎士らしいので、弱いものはどこへ行った?という気もするが。
絵としては楽しめた。空白部分に物足りなさはあっても、なんたって全長は34メートルもある。テュフォンや歓喜のシーンの前に立てば大画面で絵が迫ってくる。もう少しエロく描いて欲しかった気はするけれど(^^ゞ
ただ、これがベートーヴェンの第九をモチーフにしたといわれると、何とも感想を述べづらい。少なくとも私の耳にはもっと別の音楽が聞こえてくる。
「ユディト 1」もそうだがクリムトにとってモチーフは、創作のスイッチを入れてくれるきっかけに過ぎず、いったんスイッチが入った後は自分の感性を発露することが大事で、モチーフ自体は別にどうでもいい存在のようにも思える。あるいは、あるモチーフに対して人と同じようには絶対に描かないぞとの気持ちがあったのか。
それはよくわからないとして、とりあえずクリムトのヘンチクリンな画風が大好きな私は、三方を彼の絵に取り囲まれて満足な気持ちだった。
ただし当時の評判はというと
コケた(/o\)
ただコケたどころじゃなくオオゴケの大炎上。クリムトの世紀末的表現が不道徳なものにうつったようだ。(男女の性器や精子と卵子も描かれているらしいが、それがどこなのかよくわからず) それにベートーヴェンはドイツ人でも、ウィーンで活躍していたのでオーストリアの国民的英雄でもある。それをこんな風に茶化しやがってと反発されたのかもしれない。
参考までに、こちらが好評だったメイン展示であるマックス・クリンガーのベートーヴェン像。当時の市民はこういうものを望んでいたのだ。クリムトが描いた方向性が嫌われたのもさることながら、抽象化という表現方法もまだ理解されなかったのだと思う。
ベートーヴェン・フリーズでクリムトは世間から非難されただけではなく、ウイーン分離派内部からも批判する声が上がり、それが数年後にクリムトとその一派が脱退して分裂する事態を招く。
それをきっかけにクリムトは画壇を率いるなんて政治的な活動から身を引き、画家として「女」や「エロス」といったテーマにのめり込んでいくことになる。本人にとって分裂は不本意だったとしても、それが「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」や「接吻」といった名作につながったのだとしたら、まさに塞翁が馬である。
ーーー続く
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2019年07月15日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その3
この頃のヨーロッパではフランスの印象派やアールヌーボー、イギリスではラファエル前派などの新しいムーブメントが起きていた時期。でもオーストリアではウィーン造形芸術家協会という保守的な団体が牛耳っていて、そういうものを認めていなかった。
1897年4月にクリムトを中心とした若手芸術家が反旗を翻しウィーン分離派を結成する。正式名称はオーストリア造形芸術家協会で、ウィーンより大きな名前をつけているところが面白い。当時のクリムトは34歳。ウィーン分離派の初代会長を務めた。
まあ若手が反発するなんてよくある話。でもオーストリアでちょっと事情が違うのは、ウィーン造形芸術家協会がキュンストラーハウスという自前の展示場を持っていたこと。ウィーンで絵の展覧会を開く場所などいくらでもあると思うが、どうもこれが問題だったみたい。つまりウィーン造形芸術家協会から脱退したウィーン分離派は、同時に展覧会会場から閉め出されてしまう。
しかしこの問題は1898年にウィーン分離派が、富豪でオーストリア近代産業の父とも称されるカール・ウィトゲンシュタインの援助を得て、セセッション館(分離派会館)を建設することであっさり解決する。たまたまトントン拍子で話が進んだのか、事前に根回しをしてからウィーン分離派を立ち上げたのかは興味あるところ。ただウィーン分離派の第1回展覧会には皇帝フランツ・ヨーゼフも訪れているから、他の新興アートムーブメントと違って最初からかなりの力を持った団体だったのは確かかと思う。
これがキュンストラーハウス。日本語ではクンストラーハウスとも。またウィーン造形芸術家協会をキュンストラーハウスと言い換えることが多い。政治のことを永田町と呼ぶのと同じ。そこから代名詞的存在になるくらいこの建物に存在感があったとわかる
セセッション館。屋上にあるのは「月桂樹のドーム」だが市民からは「金のキャベツ」と呼ばれているらしい。東京では浅草に「金のウ〇コ」が屋根に乗ったビルがあるけど(^^ゞ
「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」 1899年
ウィーン分離派は1898年から1905年の7年間に23回の展覧会を開催している。建設が間に合わなかった初回を除いて場所はもちろんセセッション館。この作品は第4回に出展された。絵の上部に書かれている文字はドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」からの引用で
おのれの振る舞いや作品を、皆が気に入ることがあるか?
わかってくれる人は一握りでいい。
大勢に好かれるようではだめだ。
ほんの少数の人にだけ喜びを与えよ。
多くの人の意に叶うものは劣悪である。
というような内容が書かれている。ウィーン分離派を立ち上げたクリムトの心意気が現れているに違いない。ついでに言うと、このブログもそんなつもりで書いている(^^ゞ
しかし、そんな力強いメッセージを込めているのにヌードだし、顔の周りにはお花が散りばめてあるところが愛すべきクリムトかな。 足下に描かれているのはヘビ?ウナギ? しかし考えてみれば、こんなヌードの女性にああいうことを言われるからこそ、問い詰められたような気分になるのかもしれない。
ちなみに彼女が手に持っているのは、私には小型のスポットライトにしか見えなかったのだが、もちろんそんなものはこの時代に存在しない。調べてみると手鏡だった。ということは自分の顔を見ながら問い詰められるわけで、それを知るとこの絵に凄味のようなものも感じてくる。
※パソコンで細長い絵は小さく表示されてしまうので、クリックして拡大をお勧めする。
「ユディト 1」 1901年
ユディトとは旧約聖書に登場する女性。敵の将軍を誘惑し泥酔させ、その首を切り落としたいうユダヤ人にとっての英雄。その伝説はいろんな画家がテーマにしている。そういうシーンだから絵もショッキングなものにならざるを得ない。なのにクリムトのユディトはひたすら官能的。ちょっと歳食っているけど(^^ゞ ネットや雑誌でチラッとこの絵を見ただけなら、右下にある生首に気がつかない人も多いんじゃないかな。それに部分的にしか描かれていないから、ユディトのことを知らなければ生首に見えないかもしれない。
敵の将軍を誘惑してから殺害したのだから、こんなエロい表情をしてもおかしくないが(描かれているのが首を取った後なのは別として)ユディトをこのように仕上げるのは、例えば富士山のタイトルで、あの山の形ではなく登山道だけを描くようなものである。変わり者と創造性は紙一重ということなんだろう。
この絵には金箔が使われている。日本の琳派の影響を受けたともされているが、首回りの立体感がなくなるなどお構いなしにベタッと貼り付けているのも独創的。金箔を使ったクリムトの作品は「黄金様式」とか「黄金時代」などと呼ばれる。「ユディト 1」はその最初の作品となる。残念なのはこの展覧会では日本で過去最多となる25点のクリムトの油彩画を揃えたのにもかかわらず、黄金様式はこの「ユディト 1」だけだった。もう何点かは見たかったな。
「人生は戦いなり(黄金の騎士)」 1903年
正確に言うとこれも黄金様式の作品。でも使われているには下辺の部分だけだし、女性が描かれていないし。馬上で硬直したようになっている騎士はクリムト自身で、保守勢力とのイザコザにたち向かう姿だとの解釈もある。しかしなんとなく元気がなさそうに思えるのは馬の描き方のせいだろうか。尻尾のあたりも何かヘン。
「女の三世代」 1905年
タイトル通り子供と母親と婆さんの三世代の女性が描かれた作品。ロダンの彫刻「老いた娼婦」にインスパイアされたといわれている。手前の母娘と老婆の対比がなんとなく残酷。
言いたいことは一目でわかるから、絵の細かな表現であれこれ論じるのはヤボというもの。それでこのヘビーなテーマにもかかわらず、甘美なクリムトワールドが演出されているところがお見事。そしてしばらく眺めていると、醜く描かれた老婆の身体も美しく見えてくるから不思議。そういうところがクリムトマジック。
参考までにこれがロダンの「老いた娼婦」。
「女ともだち 1(姉妹たち)」 1907年
こういう縦長のキャンバス、かつ女性が振り返っているポーズだと、日本人はつい「浮世絵の影響」なんて言いがち。
「家族」 1907年
これも死と向き合った作品といわれている。黒い毛布?が画面のほとんどを占めているのが異様に感じられても、よほど解説されないと絵からそういうメッセージとを読み解くのは難しい。
箸休めに同時期の他の画家の作品を。
前回も書いたようにオーストリアの絵にはなじみが薄く、クリムトとエゴン・シーレくらいしか知らなかったが、意外と私好みの絵が多くてうれしい。
「ミラ・バウアー」 マックス・クルツヴァイル 1907年
「エルザ・ガラフレ」 オットー・フリードリヒ 1908年
「ガブリエル・ガリア」 オットー・フリードリヒ 1910年頃
ーーー続く
1897年4月にクリムトを中心とした若手芸術家が反旗を翻しウィーン分離派を結成する。正式名称はオーストリア造形芸術家協会で、ウィーンより大きな名前をつけているところが面白い。当時のクリムトは34歳。ウィーン分離派の初代会長を務めた。
まあ若手が反発するなんてよくある話。でもオーストリアでちょっと事情が違うのは、ウィーン造形芸術家協会がキュンストラーハウスという自前の展示場を持っていたこと。ウィーンで絵の展覧会を開く場所などいくらでもあると思うが、どうもこれが問題だったみたい。つまりウィーン造形芸術家協会から脱退したウィーン分離派は、同時に展覧会会場から閉め出されてしまう。
しかしこの問題は1898年にウィーン分離派が、富豪でオーストリア近代産業の父とも称されるカール・ウィトゲンシュタインの援助を得て、セセッション館(分離派会館)を建設することであっさり解決する。たまたまトントン拍子で話が進んだのか、事前に根回しをしてからウィーン分離派を立ち上げたのかは興味あるところ。ただウィーン分離派の第1回展覧会には皇帝フランツ・ヨーゼフも訪れているから、他の新興アートムーブメントと違って最初からかなりの力を持った団体だったのは確かかと思う。
これがキュンストラーハウス。日本語ではクンストラーハウスとも。またウィーン造形芸術家協会をキュンストラーハウスと言い換えることが多い。政治のことを永田町と呼ぶのと同じ。そこから代名詞的存在になるくらいこの建物に存在感があったとわかる
セセッション館。屋上にあるのは「月桂樹のドーム」だが市民からは「金のキャベツ」と呼ばれているらしい。東京では浅草に「金のウ〇コ」が屋根に乗ったビルがあるけど(^^ゞ
「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」 1899年
ウィーン分離派は1898年から1905年の7年間に23回の展覧会を開催している。建設が間に合わなかった初回を除いて場所はもちろんセセッション館。この作品は第4回に出展された。絵の上部に書かれている文字はドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」からの引用で
おのれの振る舞いや作品を、皆が気に入ることがあるか?
わかってくれる人は一握りでいい。
大勢に好かれるようではだめだ。
ほんの少数の人にだけ喜びを与えよ。
多くの人の意に叶うものは劣悪である。
というような内容が書かれている。ウィーン分離派を立ち上げたクリムトの心意気が現れているに違いない。ついでに言うと、このブログもそんなつもりで書いている(^^ゞ
しかし、そんな力強いメッセージを込めているのにヌードだし、顔の周りにはお花が散りばめてあるところが愛すべきクリムトかな。 足下に描かれているのはヘビ?ウナギ? しかし考えてみれば、こんなヌードの女性にああいうことを言われるからこそ、問い詰められたような気分になるのかもしれない。
ちなみに彼女が手に持っているのは、私には小型のスポットライトにしか見えなかったのだが、もちろんそんなものはこの時代に存在しない。調べてみると手鏡だった。ということは自分の顔を見ながら問い詰められるわけで、それを知るとこの絵に凄味のようなものも感じてくる。
※パソコンで細長い絵は小さく表示されてしまうので、クリックして拡大をお勧めする。
「ユディト 1」 1901年
ユディトとは旧約聖書に登場する女性。敵の将軍を誘惑し泥酔させ、その首を切り落としたいうユダヤ人にとっての英雄。その伝説はいろんな画家がテーマにしている。そういうシーンだから絵もショッキングなものにならざるを得ない。なのにクリムトのユディトはひたすら官能的。ちょっと歳食っているけど(^^ゞ ネットや雑誌でチラッとこの絵を見ただけなら、右下にある生首に気がつかない人も多いんじゃないかな。それに部分的にしか描かれていないから、ユディトのことを知らなければ生首に見えないかもしれない。
敵の将軍を誘惑してから殺害したのだから、こんなエロい表情をしてもおかしくないが(描かれているのが首を取った後なのは別として)ユディトをこのように仕上げるのは、例えば富士山のタイトルで、あの山の形ではなく登山道だけを描くようなものである。変わり者と創造性は紙一重ということなんだろう。
この絵には金箔が使われている。日本の琳派の影響を受けたともされているが、首回りの立体感がなくなるなどお構いなしにベタッと貼り付けているのも独創的。金箔を使ったクリムトの作品は「黄金様式」とか「黄金時代」などと呼ばれる。「ユディト 1」はその最初の作品となる。残念なのはこの展覧会では日本で過去最多となる25点のクリムトの油彩画を揃えたのにもかかわらず、黄金様式はこの「ユディト 1」だけだった。もう何点かは見たかったな。
「人生は戦いなり(黄金の騎士)」 1903年
正確に言うとこれも黄金様式の作品。でも使われているには下辺の部分だけだし、女性が描かれていないし。馬上で硬直したようになっている騎士はクリムト自身で、保守勢力とのイザコザにたち向かう姿だとの解釈もある。しかしなんとなく元気がなさそうに思えるのは馬の描き方のせいだろうか。尻尾のあたりも何かヘン。
「女の三世代」 1905年
タイトル通り子供と母親と婆さんの三世代の女性が描かれた作品。ロダンの彫刻「老いた娼婦」にインスパイアされたといわれている。手前の母娘と老婆の対比がなんとなく残酷。
言いたいことは一目でわかるから、絵の細かな表現であれこれ論じるのはヤボというもの。それでこのヘビーなテーマにもかかわらず、甘美なクリムトワールドが演出されているところがお見事。そしてしばらく眺めていると、醜く描かれた老婆の身体も美しく見えてくるから不思議。そういうところがクリムトマジック。
参考までにこれがロダンの「老いた娼婦」。
「女ともだち 1(姉妹たち)」 1907年
こういう縦長のキャンバス、かつ女性が振り返っているポーズだと、日本人はつい「浮世絵の影響」なんて言いがち。
「家族」 1907年
これも死と向き合った作品といわれている。黒い毛布?が画面のほとんどを占めているのが異様に感じられても、よほど解説されないと絵からそういうメッセージとを読み解くのは難しい。
箸休めに同時期の他の画家の作品を。
前回も書いたようにオーストリアの絵にはなじみが薄く、クリムトとエゴン・シーレくらいしか知らなかったが、意外と私好みの絵が多くてうれしい。
「ミラ・バウアー」 マックス・クルツヴァイル 1907年
「エルザ・ガラフレ」 オットー・フリードリヒ 1908年
「ガブリエル・ガリア」 オットー・フリードリヒ 1910年頃
ーーー続く
wassho at 14:47|Permalink│Comments(0)│
2019年07月13日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その2
展覧会の構成は少々複雑だったので、このブログではできるだけクリムトの作品を年代順に追ってみることにした。
「男性裸体像」 1883年
いきなりの男性ヌードでビックリした? 会場では同じような作品が3点展示されていて私もビックリした。もっとも男性ヌードにも駆け出しの頃のクリムトの作品にも興味はない。だからチラッと見るだけにしようと思った。しかし考えてみると男性ヌードを見る機会はあまりない。それでこれも勉強と列に並んでじっくり見ることに。
ところでクリムトの展覧会には若い女性客が多い。行列で彼女らに挟まれて3本のチンチンを見るのは妙な気分。下半身というくらいでアレは下についているイメージがあるが、考えてみれば身体のほぼ中央にある。つまり絵だと画面センターに位置するから、接近するとドーンと目に飛び込んでくる(^^ゞ とりあえず構図の勉強にはなったかも。
クリムトは劇場装飾の仕事でアーチストとしてのキャリアをスタートさせた。次の2つはその頃の作品。天井画や緞帳(どんちょう)のための下絵だからラフな仕上がり。でも制作の舞台裏をのぞいているようで楽しめた。
「音楽の寓意のための下絵(オルガン奏者)」 1885年
「カールスバート市立劇場の緞帳のためのデザイン」 1884〜85年
今まで模写とは画家が修業のためにするものと思っていたが、この展覧会で仕事としての模写もあると知った。絵が傷んできたとか、複製でもいいから名画を飾りたいなどがそのニーズ。展示されていたのはクリムトが城の室内装飾の一環として引き受けたティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」を模写した作品。
イザベラ・デステはルネサンス期の有名な女性で、ダ・ビンチやルーベンスも肖像画を描いている。ティツィアーノの本物を見たことはないけれど、クリムトの模写はわずかに顔がふっくらしているかな。
ところでクリムトの模写の画像はいいのがなかったので、ここに貼っているのは本家ティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」。精巧な模写だからブログの小さなサイズじゃ変わりないって。
「イザベラ・デステの肖像」 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1536年
クリムトが模写したのは1884年
ちなみにティツィアーノが描いた時、イザベラ・デステは60歳過ぎ。しかし彼女は40歳若く描くように依頼したという。なんとご無体な(^^ゞ
当時の他の画家の作品を何点か。
ウィーンは音楽の都で絵のイメージはあまり持っていなかったものの、なかなかイイ感じ。
「装飾的な花束」 ハンス・マカルト 1884年
「アトリエ」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「室内にいる日本の女」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「アトリエ」は日本&中国的な雰囲気で「室内にいる日本の女」はもちろんはっきりと日本をテーマにしている。描かれている女性はヨーロッパ各地で公演をしていた劇団の踊り子らしい。芸者と説明している資料もある。それにしても明治の初めにもうヨーロッパ公演をしている人達がいたんだ。
この頃のヨーロッパはジャポニスムがブーム。有名なのは印象派の画家たちだがクリムトもかなりの影響を受けたとされる。
次の絵はクリムトと日本文化の関わりを示す最も初期の作品といわれている。絵を見てどこが?と思うでしょ。もっとじっくり絵を見てーーーもわかりません。なぜならその理由は額縁に日本的な植物が描かれているから。ちょっと反則やわ(^^ゞ 描かれているのは前回に紹介したクリムトのパートナーであるエミーリエ・フレーゲ。
「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」 1891年
こちらは姪のヘレーネを描いた作品。この頃には既によく知る「クリムトの画風」の作品も描いている。しかしエミーリエやヘレーネの肖像画を見ると、あの画風に到達しなくてもクリムトは後世に名を残す画家になっていただろうと思う。
「ヘレーネ・クリムトの肖像」 1898年
クリムトは1894年にウィーン大学から「医学」「法学」「哲学」をテーマとした3つの天井画の依頼を受ける。今ではそれらはクリムトの代表作と見なされているものの、大学のアカデミックな期待と違って、世紀末的なクリムトワールド全開だったため当時は非難ごうごうに。最終的には取り外され、クリムトは報酬も返却した。その後に作品は個人に売却され、第二次世界大戦でナチスに没収され、ナチス撤退の際の火災で焼失。
展示されていたのは「医学」のために制作された下絵。これが何ともいえず惹きつけられる魅力があって、不気味な絵は苦手なのにしばらく見入ってしまった。
「医学のための習作」 1897〜98年
三部作で現存しているのは白黒の写真のみ。
実に残念な文化遺産の消失である。
「医学」 1899〜1907年
「法学」 1899〜1907年
「哲学」 1899〜1907年
(この写真は展覧会の展示作品ではない)
ーーー続く
「男性裸体像」 1883年
いきなりの男性ヌードでビックリした? 会場では同じような作品が3点展示されていて私もビックリした。もっとも男性ヌードにも駆け出しの頃のクリムトの作品にも興味はない。だからチラッと見るだけにしようと思った。しかし考えてみると男性ヌードを見る機会はあまりない。それでこれも勉強と列に並んでじっくり見ることに。
ところでクリムトの展覧会には若い女性客が多い。行列で彼女らに挟まれて3本のチンチンを見るのは妙な気分。下半身というくらいでアレは下についているイメージがあるが、考えてみれば身体のほぼ中央にある。つまり絵だと画面センターに位置するから、接近するとドーンと目に飛び込んでくる(^^ゞ とりあえず構図の勉強にはなったかも。
クリムトは劇場装飾の仕事でアーチストとしてのキャリアをスタートさせた。次の2つはその頃の作品。天井画や緞帳(どんちょう)のための下絵だからラフな仕上がり。でも制作の舞台裏をのぞいているようで楽しめた。
「音楽の寓意のための下絵(オルガン奏者)」 1885年
「カールスバート市立劇場の緞帳のためのデザイン」 1884〜85年
今まで模写とは画家が修業のためにするものと思っていたが、この展覧会で仕事としての模写もあると知った。絵が傷んできたとか、複製でもいいから名画を飾りたいなどがそのニーズ。展示されていたのはクリムトが城の室内装飾の一環として引き受けたティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」を模写した作品。
イザベラ・デステはルネサンス期の有名な女性で、ダ・ビンチやルーベンスも肖像画を描いている。ティツィアーノの本物を見たことはないけれど、クリムトの模写はわずかに顔がふっくらしているかな。
ところでクリムトの模写の画像はいいのがなかったので、ここに貼っているのは本家ティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」。精巧な模写だからブログの小さなサイズじゃ変わりないって。
「イザベラ・デステの肖像」 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1536年
クリムトが模写したのは1884年
ちなみにティツィアーノが描いた時、イザベラ・デステは60歳過ぎ。しかし彼女は40歳若く描くように依頼したという。なんとご無体な(^^ゞ
当時の他の画家の作品を何点か。
ウィーンは音楽の都で絵のイメージはあまり持っていなかったものの、なかなかイイ感じ。
「装飾的な花束」 ハンス・マカルト 1884年
「アトリエ」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「室内にいる日本の女」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「アトリエ」は日本&中国的な雰囲気で「室内にいる日本の女」はもちろんはっきりと日本をテーマにしている。描かれている女性はヨーロッパ各地で公演をしていた劇団の踊り子らしい。芸者と説明している資料もある。それにしても明治の初めにもうヨーロッパ公演をしている人達がいたんだ。
この頃のヨーロッパはジャポニスムがブーム。有名なのは印象派の画家たちだがクリムトもかなりの影響を受けたとされる。
次の絵はクリムトと日本文化の関わりを示す最も初期の作品といわれている。絵を見てどこが?と思うでしょ。もっとじっくり絵を見てーーーもわかりません。なぜならその理由は額縁に日本的な植物が描かれているから。ちょっと反則やわ(^^ゞ 描かれているのは前回に紹介したクリムトのパートナーであるエミーリエ・フレーゲ。
「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」 1891年
こちらは姪のヘレーネを描いた作品。この頃には既によく知る「クリムトの画風」の作品も描いている。しかしエミーリエやヘレーネの肖像画を見ると、あの画風に到達しなくてもクリムトは後世に名を残す画家になっていただろうと思う。
「ヘレーネ・クリムトの肖像」 1898年
クリムトは1894年にウィーン大学から「医学」「法学」「哲学」をテーマとした3つの天井画の依頼を受ける。今ではそれらはクリムトの代表作と見なされているものの、大学のアカデミックな期待と違って、世紀末的なクリムトワールド全開だったため当時は非難ごうごうに。最終的には取り外され、クリムトは報酬も返却した。その後に作品は個人に売却され、第二次世界大戦でナチスに没収され、ナチス撤退の際の火災で焼失。
展示されていたのは「医学」のために制作された下絵。これが何ともいえず惹きつけられる魅力があって、不気味な絵は苦手なのにしばらく見入ってしまった。
「医学のための習作」 1897〜98年
三部作で現存しているのは白黒の写真のみ。
実に残念な文化遺産の消失である。
「医学」 1899〜1907年
「法学」 1899〜1907年
「哲学」 1899〜1907年
(この写真は展覧会の展示作品ではない)
ーーー続く
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2019年07月07日
クリムト展 ウィーンと日本 1900
先日に見てきたクリムトの展覧会。
上野公園のさくら通りでアジサイを眺めて、ついでに上野公園には桜が53品種もあることを知ってビックリした後に東京都美術館。窓に大きなポスターのある定番の撮影ポイント。
敷地内に入ると20分待ちの表示。
平日の午後3時前なのに。クリムトは人気あるんだ。
この美術館の入り口には大きな金属球があって(最初の写真にも写っている)、初めて来た人は必ず写真を撮るくらいの人気アートになっている。しかしもう撮り飽きたので、今回はすぐそばにあるこちらを。
金属球は井上武吉の「my sky hole 85-2 光と影」で、こちらは堀内正和の「三本の直方体 B」。周囲を1分ほど観察してみたものの、人気者の金属球に対して直方体は写真撮影はおろか目をやる人もいない Ω\ζ゜)チーン
ちなみに私はこういうインスタレーション(大型の置物アート)の良さがわからないというか、今までビビッとくるものに出会ったことがないというか、正直にいうとクダランと毛嫌いしている。そこそこの日本庭園にある庭石より優れたインスタレーションがあるなら、ぜひ見に行きたいとは思っているのだが。
美術館の中に入るとチケット売り場はそれほど混雑しておらず。セブンイレブンで事前に購入してあったが、あれは操作に結構時間がかかるので、ここで買った方がよかったかも。
「ラファエル前派の軌跡」の展覧会で書き忘れた話を。
あの時もセブンイレブンでチケットを買っていた。しかし受付で「このチケットでは入場できないのでチケット売り場で当館発行のものと交換してください」と言われた。つまりチケットを持っていてもチケット売り場で並ばなくてはならず、まったく事前に買った意味がない。あの展覧会では企画内容にさんざんケチをつけたが、そういうところもおかしいゾ三菱一号美術館。
とりあえず行列に並ぶ。
行列の途中にトイレがあるからか、ここでいったん行列が分断される。先に進めた人たちは左側に曲がっていく。ただし行列を止めた係員は、ずっとここにいるわけではないので、この行列を右から追い越して素知らぬ顔で左方向に行くことは可能。何人かそういう人もいたように思う。もちろん私は並んだよ。
左に曲がるとドッと混んでいた。
それでもほぼ案内通り20分弱で会場に入れた。
さてクリムト。
一番有名なのはこの「接吻」かな。(今回の展示作品じゃない)
どこか退廃的でちょっとエロい作風が私の好みである(^^ゞ そして印象の強い絵だから、なんとなくよく知っているつもりだったけれど、改めて考えてみるとそうでもない。それほど多くの作品を覚えているわけでもない。彼についてはほとんど知識がない。
調べてみると、
グスタフ・クリムトは1862年生まれのオーストリア人。
参考までに明治維新が1868年、第1回の印象派展覧会が1874年ね。
工芸学校で伝統的な教育を受け、卒業後は劇場装飾の仕事でキャリアを重ね成功する。
途中いろいろとあったが、1897年に保守的な美術家組合を嫌ってウィーン分離派を
結成し、その初代会長を務める。
またいろいろあって1905年にウィーン分離派を脱退。その前後がクリムトというと
連想する金箔を使った世紀末的な作風の時期。上の「接吻」は1908年の制作。
1918年、55歳でスペイン風邪をこじらせて亡くなる。
クリムトでよく紹介されるのが50歳くらいの頃の写真。
ハゲ散らかしたウダツの上がらないオッサンにしか見えないが。
このクリムトが着ている服は彼自身がデザインした作業着で、その下はスッポンポンだったといわれている。まあ、それくらいはヘンタイじゃないとあの官能的な絵は描けないか。
かっこよく撮れている写真も載せておこう。
ところでクリムトはエミーリエ・フレーゲという女性をパートナーとしていた。出会ったのは20歳代の後半で、亡くなるときも彼女に看取られている。しかし2人の関係はプラトニック。結婚もしていない。そしてクリムトにはたくさんの愛人がおり、産ませた子供がなんと14〜15人もいたらしい。 並のヘンタイじゃなかったクリムト!←尊敬の念
エミーリエとクリムトのツーショット。「接吻」は彼女がモデルで、描かれている男性もクリムト自身だと言われている。絵には髪の毛あるけど?
ーーー続く
上野公園のさくら通りでアジサイを眺めて、ついでに上野公園には桜が53品種もあることを知ってビックリした後に東京都美術館。窓に大きなポスターのある定番の撮影ポイント。
敷地内に入ると20分待ちの表示。
平日の午後3時前なのに。クリムトは人気あるんだ。
この美術館の入り口には大きな金属球があって(最初の写真にも写っている)、初めて来た人は必ず写真を撮るくらいの人気アートになっている。しかしもう撮り飽きたので、今回はすぐそばにあるこちらを。
金属球は井上武吉の「my sky hole 85-2 光と影」で、こちらは堀内正和の「三本の直方体 B」。周囲を1分ほど観察してみたものの、人気者の金属球に対して直方体は写真撮影はおろか目をやる人もいない Ω\ζ゜)チーン
ちなみに私はこういうインスタレーション(大型の置物アート)の良さがわからないというか、今までビビッとくるものに出会ったことがないというか、正直にいうとクダランと毛嫌いしている。そこそこの日本庭園にある庭石より優れたインスタレーションがあるなら、ぜひ見に行きたいとは思っているのだが。
美術館の中に入るとチケット売り場はそれほど混雑しておらず。セブンイレブンで事前に購入してあったが、あれは操作に結構時間がかかるので、ここで買った方がよかったかも。
「ラファエル前派の軌跡」の展覧会で書き忘れた話を。
あの時もセブンイレブンでチケットを買っていた。しかし受付で「このチケットでは入場できないのでチケット売り場で当館発行のものと交換してください」と言われた。つまりチケットを持っていてもチケット売り場で並ばなくてはならず、まったく事前に買った意味がない。あの展覧会では企画内容にさんざんケチをつけたが、そういうところもおかしいゾ三菱一号美術館。
とりあえず行列に並ぶ。
行列の途中にトイレがあるからか、ここでいったん行列が分断される。先に進めた人たちは左側に曲がっていく。ただし行列を止めた係員は、ずっとここにいるわけではないので、この行列を右から追い越して素知らぬ顔で左方向に行くことは可能。何人かそういう人もいたように思う。もちろん私は並んだよ。
左に曲がるとドッと混んでいた。
それでもほぼ案内通り20分弱で会場に入れた。
さてクリムト。
一番有名なのはこの「接吻」かな。(今回の展示作品じゃない)
どこか退廃的でちょっとエロい作風が私の好みである(^^ゞ そして印象の強い絵だから、なんとなくよく知っているつもりだったけれど、改めて考えてみるとそうでもない。それほど多くの作品を覚えているわけでもない。彼についてはほとんど知識がない。
調べてみると、
グスタフ・クリムトは1862年生まれのオーストリア人。
参考までに明治維新が1868年、第1回の印象派展覧会が1874年ね。
工芸学校で伝統的な教育を受け、卒業後は劇場装飾の仕事でキャリアを重ね成功する。
途中いろいろとあったが、1897年に保守的な美術家組合を嫌ってウィーン分離派を
結成し、その初代会長を務める。
またいろいろあって1905年にウィーン分離派を脱退。その前後がクリムトというと
連想する金箔を使った世紀末的な作風の時期。上の「接吻」は1908年の制作。
1918年、55歳でスペイン風邪をこじらせて亡くなる。
クリムトでよく紹介されるのが50歳くらいの頃の写真。
ハゲ散らかしたウダツの上がらないオッサンにしか見えないが。
このクリムトが着ている服は彼自身がデザインした作業着で、その下はスッポンポンだったといわれている。まあ、それくらいはヘンタイじゃないとあの官能的な絵は描けないか。
かっこよく撮れている写真も載せておこう。
ところでクリムトはエミーリエ・フレーゲという女性をパートナーとしていた。出会ったのは20歳代の後半で、亡くなるときも彼女に看取られている。しかし2人の関係はプラトニック。結婚もしていない。そしてクリムトにはたくさんの愛人がおり、産ませた子供がなんと14〜15人もいたらしい。 並のヘンタイじゃなかったクリムト!←尊敬の念
エミーリエとクリムトのツーショット。「接吻」は彼女がモデルで、描かれている男性もクリムト自身だと言われている。絵には髪の毛あるけど?
ーーー続く
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