ゴッホ

2021年10月22日

ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その7

1年と3ヶ月ほど続いたアルル時代の次は「その4」に記したようにサン=レミ時代、そしてオーヴェル=シュル=オワーズ時代へと続く。そのサン=レミとはアルルから20キロ北東にある街の名前。ゴッホはこの地にある修道院付属の精神病院に入院した。

きっかけは有名な「耳切り事件」。

アルルで画家の共同体を目論んだゴッホだったが参加したのはゴーギャンのみ。その彼とも1ヶ月ほどで仲違いが始まり、それが原因かどうかはよく知らないが、1888年の年末にゴッホは自らカミソリで左耳を切り落とす行為に出る。とにかくゴッホはイッチャッタわけ。もっとも突然に発狂したわけではなく、もともとゴッホはちょっとおかしかった。伝道師をしていた頃にも父親に精神病院に入れられそうになっている。

耳切り

アルルの市立病院に4ヶ月ほど入院した後、ゴッホはサン=レミへ移る。だからシャバにいたのは9ヶ月ということになる。ただし入院中も絵は描いていてけっこう名作を残している。


サン=レミの病院は資料によっては療養所あるいは精神療養院と書かれている場合もあり、普通の精神病院よりは緩い?施設だったようである。またその病院は現在も運営されており、ゴッホの入院していた病室は観光客に公開されているようだ。
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中庭が美しくてラベンダーも咲き誇っているし、
こんなところなら私も入院してみたい(^^ゞ
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ゴッホの絵を見ていつも思うのは気が狂う・気が触れるって何だろうということ。彼がアルルに来た頃には、耳を切り落とす前でも既に相当コジらせていたように思う。でも「ヒマワリ」をはじめとした数々の傑作を描くわけである。ちょっとおかしかったから、あんな絵が描けたのか、あるいはおかしくなかったら、もっと凄かったのか。それは永遠の謎かも。

ちなみに切り落とした耳は「僕を忘れないでね」と言って、
馴染みの売春婦に渡したらしい。そんなのもらったら怖すぎるヤロ(>_<)


ではサン=レミ時代の作品を。

「サン=レミの療養院の庭」 1889年5月

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上の写真でも分かるようにサン=レミの病院は周辺環境がよかったので、意外と筆がはかどったようである。何度も書くが、こんなまともな絵を描く人が狂っているなんてどうにも想像しづらい。


「麦束のある月の出の風景」 1889年7月

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「夕暮れの松の木」 1889年12月

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「草地の木の幹」 1890年4月

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「善きサマリア人(ドラクロワによる)」 1990年5月

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これはドラクロアの模写。
この展覧会出品ではないが、参考までに模写したのはこんな作品。
なおドラクロアで一番有名なのはこの作品ね。

ドラクロワ

ゴッホの模写は模写というより、主題だけを借りてゴッホ流に描き直したようなものも多い。でもこれはドラクロアのオリジナルと、ゴッホのアレンジがイイ感じに混じり合っていると思う。


「悲しむ老人(永遠の門にて)」 1990年5月

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「夜のプロヴァンスの田舎道」 1990年5月

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この展覧会の目玉作品。ヒマワリがアルル時代の代表的モチーフだとしたら、サン=レミ時代のそれが糸杉。ちなみにスギとヒノキは親戚みたいなもので、糸杉は杉という名前が付いていてもヒノキに近いらしい。またスギやヒノキと違って、日本に自生の糸杉はない。

ところで2012年の展覧会で見た「二本の糸杉」は糸杉が圧倒的な存在感だった。最近よく使われる言葉で表すなら「圧を感じた」。

しかし、こちらの糸杉はそうでもなかったかな。絵に渦のようなものを描くのはサン=レミ時代からのゴッホの特徴だが、それが強かったせいもある。空にある月と星?のグルグルに目を取られてしまったというか。まあでも私はヒマワリより糸杉のほうが好きなので、その代表作を眺められて満足。



サン = レミに来てからも何度か発作を起こしたりしたものの、なんとか体調は回復し、入院から1年後の1890年の5月中頃に退院。南仏を離れて次はパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り住む。ゴッホがなぜここを選んだのかよく分からないが、セザンヌやピサロなど多くの画家も滞在しているから画家が好む場所なのだろう。

オーヴェル=シュル=オワーズ時代の作品で展示されていたのは1点のみ。
展覧会のトリなのに、ちょっとつまらない作品だったのが残念。

「花咲くマロニエの木」 1890年5月

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そしてオーヴェル=シュル=オワーズ時代はわずか2ヶ月で終焉を迎える。7月末にゴッホが自殺を図ったからである(自殺ではなかったという説もある)。享年37歳。


ここまでゴッホの各時代を紹介してきたが、
Wikipediaによると、その期間に制作された作品数は  ※油絵のみで素描などは含まず

  オランダ時代          221点
  ベルギー時代           7点 (展覧会になかったのでブログでは記さず)
  パリ時代            225点
  アルル時代           189点
  サン=レミ時代         125点
  オーヴェル=シュル=オワーズ時代 81点

で合計848点。
これをそれぞれの滞在期間で割ると

  オランダ時代           約55ヶ月  1ヶ月あたり約4枚
  ベルギー時代           約04ヶ月  1ヶ月あたり約1.75枚
  パリ時代             約24ヶ月  1ヶ月あたり約9.4枚
  アルル時代            約14ヶ月  1ヶ月あたり約13.5枚
  サン=レミ時代          約13ヶ月  1ヶ月あたり約9.6枚
  オーヴェル=シュル=オワーズ時代  約02ヶ月  1ヶ月あたり約40枚

となる。

どの時代も驚異的な数値。特にオーヴェル=シュル=オワーズ時代の1ヶ月あたり約40枚は人間業とは思えない。誤記かとも疑ったが、こちらのページで77点までは画像付きで確認できたから間違いではなさそう。いったいゴッホはどんな生活を送っていた?



今回の展覧会でゴッホの油絵は32点が展示されていた。超大作はなかったものの、それなりに粒は揃っていたと思う。しかし、そのうち2010年と2012年のゴッホ展と重複していた作品が8点ある。10年ほど前のことだから再会の楽しみはあるとしても、1/4も被っているのはちょっとキツい。「その2」でも書いたがゴッホ作品はオランダ国立ゴッホ美術館と、今回のクレラー・ミュラー美術館にまとまったコレクションがある。必然的にそこから作品を借りることが多くなるのは理解できるとしても、もうちょっと考えて欲しかった。

また「その1」で書いたように、私がゴッホで一番見たいのは「夜のカフェテラス」という作品。ところでそれはどこにあるのだと調べたら、何とクレラー・ミュラー美術館じゃないか。どうしてそれを貸してくれなかったのだ(涙)

安定した集客が見込めるのか、この20年間に9回も開催されているゴッホ展。次も「またゴッホかあ」とか言いながら、どうせ見に行くんだろうな(^^ゞ



おしまい

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2021年10月17日

ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その6

眺めているだけで気が滅入りそうなシンドイ作品が並んだオランダ時代を経て、1886年の2月からゴッホのパリ時代が始まる。この時点で32歳。彼に仕送りを続けていた弟のテオを頼って経済的理由でやってきたのは確かだとしても、花の都パリで心機一転という気持ちもあったに違いない。

当時のパリは印象派のムーブメントが一段落して、あれこれ分派し始めた頃。ちなみにゴッホはルノアールやモネといった印象派の中心メンバーとは10歳ちょっと、日本語的に表現するなら一回りほど若い。

セーヌ川のほとりで、同じく画家のベルナールと話しているゴッホの後ろ姿とされる写真。1886年は明治19年。パリも少し中心を離れれば、まだ何もなかったことがわかる。
セーヌ川1886

それにしても取って付けたようなテーブルと椅子の配置。写真が切れている左側に店でもあったのか? 奥にVINSというレストランが写っているが、そこのものでもなさそうだし。あるいは「バエ」を狙った仕込み?



「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1886年10月

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多くの画家が描いているモンマルトルにあったダンスホール。この時代のパリのアイコンともいうべき存在。ゴッホの絵は、まだちょっとオランダ時代の暗さを引きずっている。


しかし翌年の作品からは明るく色数も豊富になり
「そうだゴッホ、もっとイケ!」と声をかけたくなる。

「草地」 1887年4〜6月

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「青い花瓶の花」 1887年6月

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「レストランの内部」 1887年夏

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これは印象派の流れを強く感じる作品。2年間をパリで過ごした後、アルルに移ってゴッホは自分の画風を確立する。しかし、もう少し長くパリにいて、もっと印象派系の技法を取り込んでも面白い展開になったはずとモーソー。



パリに来て2年後の1888年の2月に、
ゴッホはアルルに移る。

地図に赤い印があるのがアルル。矢印が少し内陸になっているが海沿いまで街が広がり、港町マルセイユの西約40キロといった位置関係。ゴッホによって有名になった街といえるが、ローマ時代の遺跡も多い古都である。RONINという映画では円形闘技場がロケ地になった。RONINはロバート・デ・ニーロやジャン・レノが出演しているのにマイナーな映画。でも痛快アクション物好きならきっと気に入るはず。
アルル

話がそれた。
ゴッホが次の拠点として、なぜ過去に訪れたこともないアルルを選んだのかは諸説あってはっきりしない。ただ浮世絵などで日本オタクだったゴッホは「ここはまるで日本のように美しい」と大いに気に入ったようである。来たことないくせに(^^ゞ そして私も南仏を訪れたことはないが、その明るい日差しが彼の絵に多大な影響を与えたことは想像が付く。

参考までに地図の上のラインは、北海道の北端である稚内からヨーロッパに向けて引いたもの。ほとんどのヨーロッパ諸国はその緯度からさらに北側である。下のラインはアルルから北海道に向けて引いた。南仏といえども札幌あたりである。ゴッホにはイタリアかスペインを南下して欲しかったな。
北緯

ところでゴッホはアルルで、画家の相互扶助組合のような組織を作る構想を持っていたようだ。もちろん何も実現していない。まあ社会に順応できない奴ほど、そういう理想の共同体を追い求めがちなもの。


それはさておき、いよいよアルル時代からが「私たちのゴッホ」なことがわかる。
次の作品は夕暮れにも柳にも見えないけれど、どこから見てもゴッホ!

「夕暮れの刈り込まれた柳」 188年3月

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「糸杉に囲まれた果樹園」 1888年4月

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ゴッホといえばヒマワリと糸杉に取り憑かれた画家。しかしこれはまだ背景としての描かれ方。パリから来てまだ2ヶ月だからか、何となく印象派的な匂いも残っている。

しかしその1ヶ月後には早くもヒマワリに通ずる雰囲気が出てきた。

「レモンの籠と瓶」 1888年5月

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「種まく人」 1888年6月

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これはミレーの「種まく人」へのオマージュ。ゴッホはドラクロア、レンブラントなど多くの画家の模写をしたが(中には歌川広重もある)ミレー作品の模写が一番多い。ミレーといえば最も有名なのは「落穂拾い」で、もちろんその模写も描いている

それだけゴッホはミレーをリスペクトしていたのだろう。「私たちのゴッホ」からはミレーとの共通点を見いだせないとしても、前回に紹介したオランダ時代の農民や労働者を描いた絵を思い出せば、農民画を得意としたミレーとは社会を見る目に似たものがあったのかも知れない。ちなみにミレーはゴッホより40年ほど前の人。


「サント=マリー=ド=ラ=メールの海景」 1888年6月

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やたら長いSaintes-Maries-de-la-Merとはアルルにある海沿いの町の名前。キリストが処刑された後に、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベなど彼にゆかりのあるマリアと名の付く女性がこの地に逃れてきた故事に由来するらしい。Saintes-Mariesは聖マリアの複数形。de-la-Merは「海の」という意味だから直訳すれば「海の聖マリアたち」。それにしてもどうしてマリアさんばかりやって来た?

それはともかくゴッホが海を描いた絵は珍しいのじゃないかな。少なくとも私は初めて見たような気がする。それでかなり長く眺めていたのだが、よく見れば、どうってことのない絵だと気がついた(^^ゞ


「黄色い家(通り)」 1888年9月

最初の投稿に書いたように本当に見たいのは「夜のカフェテラス」だけれど、まあそれの昼間版がこの「黄色い家」だと思い込むことにしてやって来たのがこの展覧会。

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おそらく実際の風景はこんなに黄色くなかったはず。いくら黄色フェチのゴッホでも、昼間の街並みでこれ以上に黄色を鮮やかにすると破綻するから、ギリギリのところで押さえたんだろうなあと思いながら鑑賞。

ところでテラスと車道(人が歩いているが)の間にあるモッコリしたものは何だろう。これが緑色なら背の低い街路種・生け垣だろうが、土色なので正体不明である。ガードレール的な盛り土かな。しかしそんなものは他で見たことがないし。ナゾ


さてこの作品を目当てに訪れたのだから、相当にじっくりと眺めた。そうすると全体に対して建物群のバランスが小さい、奥に引っ込みすぎているような気がしてきた。パソコンやスマホの画面から少し目を離して確認してもらいたい。建物と道路の面積がほぼ同じである。だからタイトルを「黄色い家」ではなく「黄色い家(通り)」にしたのだろう。

英題ではThe Yellow House (The Street)。しかし最初から建物と道路の風景を描くはずならThe Yellow House & The Street になるはず。描いてる途中でバランスの悪さに気づいたて (The Street) を付け加えたんじゃないか?

それならばと、家がメインになるようにトリミングしてみた(^^ゞ
この「黄色い家・改」のほうが収まりいいでしょ。
72のコピー



「緑のブドウ園」 1888年10月

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あまりゴッホ・ゴッホしていないのに、充分にゴッホを楽しめる作品。ゴッホの絵は見ているものに緊張を強いるものも多いが、これは肩の力が抜けているというか。この展覧会で一番気に入った。ほとんど雲ばかりなのに抜けるような高さを感じる秋空が不思議。



ーーー続く

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2021年10月15日

ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その5

さていよいよオランダ時代のゴッホ。展覧会では素描と油絵にコーナーが分けられていた。画家になったとはいえ、この時代のゴッホはまだ駆け出しで修行中みたいなものだから、素描が数多く残っているのだろう。

ところで1人の画家に焦点を当てる展覧会はたいてい回顧展になる。つまりその人のキャリアの初期から末期までの作品を順に並べるような構成。作品というか画風の移り変わりを眺める楽しみはあるが、誰だって最初はレベルが低いわけで、初期の作品に資料的価値はあっても美術的価値(金銭的価値とは別ね)があるとは限らない。画家は練習で描いたものを(たいていは死んだ後に)人目にさらされてどんな気持ちになるのだろう。私なら終活で処分しておきたい(^^ゞ


「刈り込んだ柳のある道」 1881年

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「砂地の木の根」 1882年

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「スヘーフェニンゲンの魚干し小屋」 1882年

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ほらね、ゴッホだと言われなきゃ見る気にもならないでしょ(^^ゞ

ちなみにこのコーナーのタイトルは「素描家ファン・ゴッホ、オランダ時代」となっている。素描(デッサン)と写生(スケッチ)の定義は、わかったようでわからない違いなのだが、何となく風景をデッサンというのには違和感があるかな。


モデルを雇うお金がなかったので、
素人にお小遣い程度を渡して描いたものもたくさん残っている。

「コーヒーを飲む老人」 1882年

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「祈り」 1882年〜1883年

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「鍋を洗う農婦」 1885年

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そしてオランダ時代の末期1885年に、ゴッホは初の本格的作品とされる「ジャガイモを食べる人々」を描く。ゴッホの歴史をたどる時には必ず登場する有名な作品。

今回の展示作品ではないが、これがそれ。

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この作品によほど自信があったのか、多くの人に見てもらえるようにゴッホはそのリトグラフ(版画)バージョンを制作する。それが展示されていたこちら。素描とはいえないが、モノクロだからこちらのコーナーなのか。

「ジャガイモを食べる人々」 1885年

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微妙に人物の描き方が違っているのはいいとしても、画面の左右が反転している。これは版画の刷り上がりは左右反転するのに、ゴッホが油絵と同じ人物配置で描いたから。ワザとなのか、刷り終わってから「やってもうた!」と思ったのかどちらだろう。



次はオランダ時代の油絵コーナー。
タイトルは「画家ファン・ゴッホ、オランダ時代」。

「麦わら帽子のある静物」 1881年

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「森のはずれ」 1883年

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「織機と織工」 1884年

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「女の顔」 1884年〜1885年

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「白い帽子を被った女の顔」 1884年〜1885年

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「テーブルに着く女」 1885年

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「リンゴとカボチャのある静物」 1885年

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ひたすらゴッホの陰キャな性格が伝わってくる作品が並ぶ。
ゴッホらしい線の太さは感じられるものの、これがあの色彩が爆発するような絵を描いた画家だと思うのは難しい。またこの時期があったからこそ、後の有名な作品の数々が生まれたという気もしない。

結論としてはヨウワカラン(^^ゞ


ーーー続く

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2021年10月13日

ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その4

ゴッホの画業は10年ほどだと「その2」でも述べたが、
もう少しその前からの経歴を書いておくと

彼は1853年3月30日にオランダ南部で生まれる。(明治維新が1868年)
父親は牧師。5人の叔父がいて、そのうちの3人は画商になっている。
そういうDNAが彼にも引き継がれていたのかも知れない。

画商の叔父の口添えで、パリに本社のある大手画廊に16歳から23歳まで勤務する。最初はオランダのハーグ支店に約4年。次にロンドン支店へ2年間移り、最後にパリ本店で約1年。こう書くとなかなかの国際ビジネスマンのようであるが、ハーグでの素行不良を理由にロンドンに飛ばされ、ロンドンでも同じようなことをして、パリでクビになったといういきさつ。ゴッホ的には金儲け主義の会社に対する反発もあったらしい。

ちなみにオランダの首都はアムステルダムだと習ったはずだが、国会議事堂、王宮、官庁、各国の大使館などはハーグにあり、事実上の首都はハーグという変わった体制になってる。

これはゴッホが18歳の時の写真。
なお「その2」に載せたのは33歳頃のもの。

18歳


画廊をクビになってからはイギリスで教師をした後、オランダに戻って書店の店員になる。これが23歳から24歳になった頃まで。

そのあたりから聖職者になりたいという希望を持ち始め、24歳で大学の神学部を目指す。しかし受験勉強について行けずに挫折。言ってみれば落ちこぼれ。ただしめげずに25歳の時にベルギーで伝道師養成学校に入る。これはキリスト教業界を目指す者の専門学校みたいなところだろうか? 約3ヶ月で仮免許を取得する。

それにしてもこの時代(日本では明治の初め)なのによく各国を渡り歩くものだ。あるいはこの時代のヨーロッパでは国境の感覚が薄いのかな。


25歳の中頃から、ベルギーの炭鉱地帯のボリナージュというところで伝道師としての活動を始める。しかし地元住民との折り合いが悪化し、さらに教会とも揉めて約1年ほどで伝道師の仮免許を剥奪される(/o\) ゴッホは何をさせてもアカン奴だったみたい。

ただしオランダへは戻らず、同地の伝道師や炭鉱夫の家に泊まり込んでプー生活を始めた。26歳なのに親からの仕送りに頼っていたようだからますますアカン奴。そしてこの時期から絵を描き始めたようだ。ただしまだスケッチやデッサンの類いだけ。27歳の中頃には画家になる決心を周りに語っている。


そしてブリュッセルに移り住んでスケッチやデッサンに精を出す。ボリナージュは絵の修行をするには田舎過ぎたのかも知れない。こちらでは美術学校の短期コースなども受講していたようである。

ただしブリュッセルでは金が続かずに、28歳になると実家のあるオランダのエッテンに帰ってくる。後世ではここからのゴッホが画家と見なされオランダ時代と称される。期間は1881年4月から1885年11月(28歳から32歳)。この間にエッテン、ハーグ、ニューネンと拠点を変えている。


その後にごく短期間をベルギーで過ごすが、
美術史的にそこは省略してオランダ時代の次を

  パリ時代   :1886年2月〜1888年初頭  :32歳〜34歳
  アルル時代  :1888年2月〜1889年5月  :34歳〜36歳
  サン=レミ時代:1889年5月〜1890年5月  :36〜37歳
  オーヴェル=シュル=オワーズ時代 :1890年5月〜1890年7月 :37歳で没

に区分するのが一般的。


それでゴッホの絵が多くの人がイメージするゴッホの画風になるのはアルル時代からである。つまりゴッホの画業は10年で短いと言われるが(オランダ時代から数えると正確には9年と3ヶ月ほど)、アルル以降に限れば2年と半年にすぎない。どれだけ密度の濃い2年半を過ごしたのだろうか。私の過去2年半なんてゴッホの3日分くらいじゃないかと思ったり。いや、2年半であれだけのことができるのだから、まだまだ私にも可能性は山ほど残っていると前向きに解釈しよう(^^ゞ


チャッチャと経歴を書くだけのつもりが、
思ったより長くなってしまったので

ーーー続く

フィギュア


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2021年10月09日

ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント その2

タイトル

展覧会のサブタイトルにあるフィンセントとはゴッホの名前である。
日本的にいうなら「下の名前」。

原語で書くと Vincent van Gogh 。

何となくヴィンセント・ヴァン・ゴッホのほうが馴染みがあるけれど、それは英語読みでの発音。一般に最近は母国語の発音表記にする傾向がある。彼はオランダ人で、オランダ語読みだとVの発音がfになるらしくフィンセント・ファン・ゴッホとなる。


この母国語の発音で表記することには正統性があるようにも思えるが、今まで英語読みで馴染んできた経緯のある言葉では違和感を感じることも多い。昨年のハマスホイ展は彼の母国であるデンマーク語に忠実に表記する原理主義で貫かれていた。ハマスホイのことは知らなかったから、従来の英語読みのハンマースホイじゃなくても気にならなかったが、、

   Laurits Andersen Ring

という画家がラウリツ・アナスン・レングと表記されているのにはちょっと無理があると感じた。中央のスペルを見て欲しい。アナスンとはアンデルセンのデンマーク語読みなのである。やっぱりアンデルセンはアンデルセンじゃないと。


実はフィンセント・ファン・ゴッホというのはオランダ語読みと英語読みのチャンポンである。Goghのオランダ語読みはカタカナにするならホッホとなる。さすがにこれじゃ日本で通用しないからゴッホが用いられている。だったらどうしてフィンセントにする?と何かと外国語の表記は難しいもの。

ついでにいうと van Gogh のvan はミドルネームではなく苗字の一部とのこと。だから省略はできなくてオランダでは van Gogh と呼ばれる(どうして van が小文字なんだろう?)。日本的にゴッホとだけ呼ぶのは長谷川さんを谷川さんと呼ぶみたいなもので別人になってしまうのかな。

というわけでゴッホはオランダ語読みするならファンホッホとなる。しかしファンでホッホなんて愉快なオッサンみたいみたいで、ゴッホのイメージと違っちゃうなあ(^^ゞ

なおゴッホは1853年生まれで1890年没。
明治維新が1868年だから、その頃の人ね。

ポートレート




ヘレーネとはヘレーネ・クレラー・ミュラーという女性のこと。(ヘレーネの英語読みがヘレン)1869年生まれで1939年没。
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彼女は夫のアントン・クレラー・ミュラーと供にクレラー・ミュラー美術館を創設。実業家のアントンも財をなした人物だったが、彼女の実家はさらに「太かった」ようだ。
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ちなみに夫婦別姓問題が話題となっている日本であるが、この夫婦はアントン・クレラーさんとヘレーネ・ミュラーさんが結婚したもの。オランダでは苗字をつなげてクレラー・ミュラーとなるのか。その子供が結婚したらさらに苗字を足していくのだろうか。

このクレラー・ミュラー美術館は首都アムステルダムから100キロほど離れた国立公園の中にある。その国立公園も元々はクレラー・ミュラー夫妻の私有地だったというから、どれくらいの金持ちだったかがわかるというもの。

だからヘレーネ奥様は白馬にだって乗っちゃいます!
なぜか横座りだけど。
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ところでゴッホの作品は生前に1枚か数枚売れただけだといわれている。油絵だけで約860点を描いたとされるから、つまりほとんど売れなかったことになる。美しいメロディーのポップスが流行っている頃に、ヘヴィメタのロックみたいな絵を描いていたのがゴッホである。だから世間に受け入れられなかった。

もっともゴッホが絵を描いていたのは10年間ほどであり、その程度のキャリアでは知名度不足で売れないのは当然で、ゴッホの絵が売れ始めた時期は他の画家と較べても早いという学説もある。だいたい死後10年目くらいかららしい。

ヘレーネは1908年からゴッホの作品をコレクションし始め、1929年までに油彩90点、素描180点あまりを集めた。いってみればまだ「ぽっと出」のゴッホの価値をいち早く見抜いたのだから、その目は確かである。彼女がゴッホの作品を買うことで、ゴッホの人気も上がっていったとのこと。

そして1938年に美術館を創設。ただしこの頃にはクレラー・ミュラー家は没落しかけていて、美術館を建てることを条件にコレクションと土地を政府に寄付したのだが(/o\) このことから既にその当時、政府が美術館を建てる価値を認めるくらいにゴッホの評価が高まっていたことがわかる。


このクレラー・ミュラー美術館のゴッホ・コレクションは、ゴッホの遺族が相続した作品を元にした現在のオランダ国立ゴッホ美術館(油絵約200点を所有)と並んで双璧で、2大ゴッホ美術館と呼ばれている。

というわけでゴッホ展を開催する場合は、必然的にこの両美術館から作品を借りることが多くなる。だから内容的に「クレラー・ミュラー美術館収蔵ゴッホ展」は今までも開かれてきたが、今回は創設者のヘレーネにもスポットを当てた企画となっている。

それで会場にヘレーネの写真や略歴などの資料も展示されていた。しかしはっきり言ってゴッホの作品自体とは無関係な話。つまりは今回を含めてこの20年間に9回も開かれているゴッホ展である。マンネリ化する企画コンセプトに困って、ヘレーネを持ち出してきた感がなきにしもあらず。


それにしても、こんな大富豪で目利きのヨメをもらって、
アート三昧な人生を送りたかったゼ(^^ゞ



なかなか話が作品までたどり着かないがm(_ _)m ーーー続く

wassho at 20:45|PermalinkComments(0)

2021年10月08日

ゴッホ展 響きあう魂 ヘレーネとフィンセント

6月に鳥獣戯画展を見た。でもあれは漫画みたいなものだから、しっかりとした絵を見たのは1月の田中一村展が最後である。そろそろ心が渇いてきたので美術展情報をチェック。

しかしコロナのせいで美術展も不作気味。大型の美術展は準備に2〜3年はかけるらしいから、現在開催されているものはコロナ流行前に企画されていてコロナとは関係ないはず。でもコロナの影響で準備が途中で中止になったものもあるだろうから、それが影響しているのかな。


それで選んだのがゴッホ展。訪れたのは10月5日。またゴッホかよという気がしなくもないが、それでも出かけたのは「黄色い家」という作品が展示されているから。

私が死ぬまでに見ておきたい絵の1つに、ゴッホの「夜のカフェテラス」という作品がある。

夜のカフェテラス

これは黄色フェチのゴッホが描いたあり得ない夜の光景。2005年のゴッホ展に展示されたが、その頃は今のように美術館通いをしていなかった。そして、その前に来たのは何と1955年で私が生まれるよりも前! 単純計算すれば50年に1度のペースな訳で、日本で待っていたら見られない可能性が高い。

「黄色い家」はゴッホがアルルで住んでいた家。「夜のカフェテラス」とは違う建物なのだが、まあご近所だったらしいし、「黄色い家」にもテラスが描かれていて「夜のカフェテラス」の昼間版みたいなものだと勝手に決めつけて見に行くことにした。



さてコロナ以降、ほとんどの展覧会は予約制になった。入場時刻が30分単位で指定され、スマホ決済して、送られてきたQRコードなどを入口で提示する方式。音楽会などと違って気が向いた時にふらっと出向けるのが美術展の魅力だったのに、手間が掛かるようになって残念。コロナめ!

それで予約時刻より早く着いてしまい、まずはリニューアルされた上野駅公園口の駅ナカをブラブラ。以前の姿をあまり覚えていないが、こんなに広々した感じはなかったと思う。

左手は今や貴重な本屋さん。右手にはユニクロ。
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このあたりは食品関連。
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改札口へ向かう。
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鳥獣戯画展の時に書いたように、以前は公園に入るのに道路を渡らなければいけなかったが、リニューアルで改札口と公園が直結になった。
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改札口をでたところ。
雲が秋の形をしている。イワシ雲だったかな。
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西洋美術館はまだ改装工事中。
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昨年に冬ボタンを見に来た東照宮ぼたん苑は、秋にダリアを咲かせているらしい。知っていたら、こちらも見られるスケジュールで来たのに。いつもながら事前準備が甘い(/o\)
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公園の中央まで進んで博物館方向。
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噴水池。
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置かれているのはインパチェンスだと思う。
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最近はスマホで写真を撮って調べられる植物図鑑アプリが充実してきたので便利になった。ただし今回は3つのアプリを使って2つがニチニチソウ、1つがインパチェンスの判定だった。後で調べて葉にギザギザがあるからインパチェンスと判明。


噴水池を横から。
広い空間で心も軽やかになるね。
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横道にそれて美術館へ向かう。
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奥に見えるのは国立博物館に移築された黒門。
どこかの大名屋敷の正門で、東大の赤門(加賀前田家)と並ぶ価値があるらしい。
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その黒門があり、かつレンガ造りの美術館の横を通るこの道は
上野公園でもお気に入りの場所。
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毎度お馴染みの東京都美術館。
入口にこんな文字があるなんて、今まで気がついていなかった。
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いちおう当日券もあるらしいが、買えるかどうかは運次第。
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予約時刻になっていたが受付開始直後は混雑するので、しばらくミュージアムショップを冷やかす。ちなみに指定された30分間に入場する必要はあるが、鑑賞時間に制限はない。
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ゴッホグッズがたくさん売られている。
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あまり似ていないゴッホ人形(>_<)
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靴下はゴッホの顔をしていた。
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いよいよ会場へ。
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ーーー続く。

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2020年03月09日

ハマスホイとデンマーク絵画 その3

「こりゃ、ハズレの展覧会に来てしまったか?」と思った第1部の「日常礼賛 ― デンマーク絵画の黄金期」だったが、第2部の「スケーイン派と北欧の光」でテンション回復。そしてこの第3部「19世紀末のデンマーク絵画 ― 国際化と室内画の隆盛」はなかなか面白かった。

とはいっても前半はどこかで見たような作風が並ぶ。

「花咲く桃の木、アルル」 1888年
 クレスチャン・モアイェ=ピーダスン
(一般的にはクリスチャン・ムーリエ=ペーターセン)

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印象派そのものの描き方。モアイェ=ピーダスンはゴッホと親しく、これはアルルでゴッホとキャンバスを並べて同じ桃の木を描いた作品といわれている。マーケット的には、そのエピソードだけで価格が跳ね上がるね(^^ゞ

参考までにゴッホの「花咲く桃の木、マウフェの思い出に」も紹介しておく。モアイェ=ピーダスンの絵を見て「どこかで見たような気がすると思ったら、そうかゴッホの〜」とか書けたらカッコよかったんだけれど。
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「居間に射す陽光、画家の妻と子」 1888年
 ヴィゴ・ピーダスン (一般的にはヴィゴ・ペダーセン)

赤ちゃんが描かれているだけで可愛いとか、母と子の愛情に癒やされたなんてことは思わないし書かない。しかし、この後はだんだんと精気のない作品が続くので、意外とこの作品が印象に残った。作風はルノアールをお手本にしたのかな。

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「アンズダケの下拵えをする若い女性」 1892年 ※下拵え=したごしらえ
 ピーダ・イルステズ (英語読みならピーター・イルステッド)

これはまんまフェルメールの追随。ドレスの色は黄色以外にして欲しかったけど。それにしても食材の下準備をしているにしては雰囲気が怖いな。

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「春の草花を描く子供たち」 1894年
 ヴィゴ・ヨハンスン

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ほのぼのとした光景。4人の子供の「描く姿の描きわけ方」が上手いなあと思った。ところでデンマークにはヒュゲ(hygge:一般的にはヒュッゲ)という言葉があって、くつろいだ、心地よい雰囲気という意味。それはデンマーク人が大切にしている文化・価値観だと、あちこちの解説に書いてある。そんなのどこの国でも同じやろーーーと思ってしまうのはヒュゲとは真逆のひねくれた態度かな(^^ゞ

それはともかく、これはヒュゲを表現した絵らしい。展覧会のホームページには「デンマーク文化“ヒュゲ”に触れる」というのがこの展覧会の「見所」と紹介されていたが、そういう作品は数点しかなかったような。もっともヒュゲはフワーッとした概念だから、それを感じる感じないは微妙なところではあるが。

そして次が、この展覧会でのヒュゲ代表作とされる同じくヴィゴ・ヨハンスンが1891年に描いた「きよしこの夜」。ヒュゲ感じる? 幸せそうなことは充分に伝わってくるけれど。

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そのヒュゲから距離を置き始めるのが1900年頃からのデンマーク絵画。大切にしている価値観じゃなかったのかと突っ込みたいところだが、ときどき方向転換したくなるのが芸術家というもの。そしてここからの作品はすべて人物は後ろ姿、また一人だけで描かれている。絵の要素として人物は必要でも、人の気配は最小限に抑えたかったのか。美術的には背景としての室内ではなく、室内の美しさそのものを表現するためにとか解説される。


「遅めの朝食、新聞を読む画家の妻」 1898年
 ラウリツ・アナスン・レング (一般的にはローリット・アンデルセン・リング)

まだヒュゲの面影は少し残っているかもしれない。なぜかこの絵を見た時、昭和の団地の光景が脳裏でシンクロした。室内に似ているところは特にないのに、オバチャンの服装の雰囲気だろうか?

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ところで画家の名前はLaurits Andersen Ring。このAndersen:アンデルセンをアナスンと読ませるのだから、この展覧会の表記はやはり変わっている。デンマーク語に忠実にというのは理解できなくもないが、ちょっと原理主義的。



「読書する女性のいる室内」 1913年以前
 カール・ホルスーウ

だんだんと絵がミニマルになってハマスホイとの近似性を感じる。カール・ホルスーウの作品をネットで調べると、人物はほとんどが後ろ姿あるいは横顔で、わずかにある正面から描かれた絵も下を向いているものばかり。よほど顔を描くのを避けていたみたい。

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「ピアノに向かう少女」 1897年
「縫物をする少女」 1898-1902年
 ピーダ・イルステズ (英語読みならピーター・イルステッド)

同じような手法でも、幼い子供が描かれていると情感がにじみ出るというか人間味のある絵になる。よく番組制作で「子供と動物にはかなわない」などという。少し意味合いは違うものの、その言葉を思い出しながら眺めていた。

関係ないが、この頃のピアノは鍵盤の下に何もなかったんだ。

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「読書する少女のいる室内」 1903年
 カール・ホルスーウ

先ほどの絵とは違って調度品が多く描かれている。カール・ホルスーウ作品ではこちらが通常で、あのミニマル感は例外。でもこれは、ちょっと詰め込みすぎな感じもする。少女の後ろのテーブルのザルは必要だった?

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ところで「おさげの髪」を前と後ろに分けて垂らしているのは何か意味があるのかな?



「飴色のライティング・ビューロー」 1901年
 ギーオウ・エーケン (一般的にはゲオルク・アーヘン)

この絵の前に立つと自分の顔が映り込むかと思うくらい、見事にリアルな質感で描かれている。しかし、あんな高いところに花瓶があったら取り替えるのに不便だと、いつもながら絵の本質とは関係ないところに最初に目がいってしまう。

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この絵を見ると、後ろ姿でも人を入れたかった気持ちがわかる。もちろん人がいなければこの構図では描かないにしても、人あっての家具であり部屋であるという気がする。もっともハマスホイは人はおろか家具さえない室内画を描くのだけれど。


ーーー続く

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2016年12月17日

ゴッホとゴーギャン展 その3

ゴッホ:モンマルトル、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏 1887年
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ずっと見たいと思っていたルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を、今年の夏に目にすることができたのはいい思い出である。それでゴッホのこの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの裏」という作品が、ルノワールのそれとあまりに違うのに驚いた。ルノワールは店の中、ゴッホは外という違いはあるが、もしゴッホの描いた情景が正しいとすればムーラン・ド・ラ・ギャレットはずいぶんと田舎の畑の中にポツンとあることになる。しかもルノワールが描いたのはゴッホの11年も前。こんなところにルノワールが描いたような人々がダンスを楽しむ場所があったとは信じがたい。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットのあるモンマルトルはシャンゼリゼ通りから3〜4キロ。印象派の時代にはパリのど真ん中より家賃が安いので芸術家が多く住んでいたといわれる。ブドウ畑もあったらしい。明治の初め頃まで青山なんて東京の町外れといわれていたのと同じようなものか。

それにしてもあまりに田舎の風景。ところで、よく見ると遠くに山並みが描かれている。パリから山が見えるか? ということでゴッホは自然豊かな情景を描くのが好きだから、この絵はモンマルトルから見える風景に、彼のイマジネーションを重ねて描いたというのが私の推測。当たっているかな?



ゴーギャン:マルティニク島の風景 1887年
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ゴーギャンはパリ生まれのフランス人。でもあまりパリに馴染めなかったのか、画家になってからは他の地域にいることが多かった。この絵は中米のドミニカ近くのマルティニク島に半年ほど住んでいた時に描かれたもの。ちなみにマルティニク島は今でも海外県と呼ばれるフランスの植民地である。



ゴッホは1888年の2月に南仏のアルルに移り、
10月にゴーギャンが合流して共同生活が始まる。


ゴッホ:グラスに生けた花咲くアーモンドの小枝 1888年
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何となく日本的な雰囲気を感じないだろうか。実はアーモンドの花はサクラにそっくりなのである。植物学的にも同じバラ科で品種としても近い。もっともアーモンドを食べながらサクラを連想することは難しいかも。かねてよりアーモンドの花見をしたいと思っているのだけれど、まとまって植えられているのは神戸、浜松、岡山あたりで関東に見あたらないのが残念。



ゴッホ:収穫 1888年
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ゴッホは黄色が好きだから畑を黄色く塗ったのかと思ったが、これは麦の穂が実っている表現みたいだ。日本で収穫というタイトルなら稲刈りをしている人をたくさん描きそうなものだが。画像で見ると平凡にしか見えないが、実物を見るとジワーッとよさの伝わる絵である。



ゴッホ:ゴーギャンの椅子 1888年
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ゴッホは自分用には質素な椅子を使っていたけれど、ゴーギャンのために肘掛け付きのいい椅子を用意してアルルに迎えたとされる。それにしても椅子の座面にロウソクを置くなんて、ちょっと不安定そうで心配になる。


ゴーギャン:アリスカンの並木路、アルル 1888年
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ゴーギャン:ブドウの収穫、人間の悲惨 1888年
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ブドウといわれなければブドウ畑を描いているとはわからない。そこに悲惨というテーマを被せる意味も、説明も読んでみたがよくわからない。ストレートなゴッホの絵と違ってゴーギャンは難解なメッセージを絵に込めるタイプ。


ゴーギャン:アルルの洗濯女 1888年
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この絵は特にメッセージ性はないと思うが、画面右上の炎のようなものは何を描いているのか不明。空間構成はかなり歪んでいるというか現実を無視した描き方。だから描いている内容は具体的なのに、何となく抽象画を眺めているような気分になる。



1888年の12月23日にゴッホは錯乱して耳切り事件を起こす。共同生活は解消となり25日にゴーギャンはパリに戻る。ゴッホの代表作の多くはアルルで描かれたもので、ゴーギャンとの共同生活が終わってから、風景画にはうねるような筆遣いが見られるようになる。


ゴッホ:タマネギの皿のある静物 1889年
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ゴッホ:オリーブ園 1889年
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ゴッホ:刈り入れをする人のいる麦畑 1889年
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ゴッホ:渓谷(レ・ペイルレ) 1889年
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ゴーギャンの絵はあまり変化していない。かなり風景をデフォルメした画風。

ゴーギャン:家畜番の少女 1889年
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1891年にゴーギャンはタヒチに渡る。誰でも名前はよく知っているだろうが、念のためにタヒチの場所はココね。現在もフランス領。リゾートとしてのタヒチで思い浮かぶのは水上コテージのあるこんなイメージかな。


ゴーギャン:タヒチの3人 1899年
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ゴーギャン:タヒチの牧歌 1901年
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最初のエントリーに書いたようにゴーギャンといえばタヒチ時代のものしか知らなかった。そしてゴーギャンのタヒチ絵は大好きなのだけれど、同時にやや複雑な気分にもなるのである。

ゴーギャンがなぜタヒチに住んだのかはよく調べていない。一度パリに戻ってきたが合計8年位をタヒチで過ごしている。タヒチの次はそこから1500キロほど離れたマルキーズ諸島に移り、2年後にそこで亡くなっている。先にも書いたようにアルル以前もあまりパリにはいなかったから、基本的に田舎が好きで、かつ非文明的なところを礼賛しているように思える。

そしてゴーギャンのタヒチ絵を見ると、うまく表現できないが人間の生命力、地に足が付いた生活感のようなものを感じる。そんな絵は他の画家にはない彼の魅力。でもーーー

かなり昔に、普通に生活を送り仕事もしているが、少し知恵遅れという設定の男性が主人公のドラマを見た。その彼がヒロインに恋をして、その気持ちがとてもピュアなものとして伝わってくるのである。そして少し知恵遅れという設定じゃなければ、そんなピュアな想いはドラマとして成立しないと思った。普通の人間じゃピュアになれないのもナンダカナ〜というのと、同時に知恵遅れならピュアということがすんなり腑に落ちるのは、ある種の差別意識が反映しているような気持ちにもなった。

10月に沖縄で警官が基地反対派に対して「土人」といって問題になった。タヒチ絵に描かれているのは、ゴーギャン当時の感覚ではまさに土人である。未開な土人だから感じる逞しい生命力と、知恵遅れなら恋もピュアだろうというのは同じような思考回路かと思う。

別に罪悪感を感じながらゴーギャンのタヒチ絵を見ているわけでは決してない。でも何となく無意識に上から目線になっているようで、そこのところがいつも少し引っかかる。



ゴーギャン:肘掛け椅子のヒマワリ 1901年
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ゴッホが自分の耳を切って終わったゴーギャンとの共同生活であるが(最初はゴーギャンの耳を切りにきたらしい)、その事件がなくても、性格がぶつかったり芸術上の意見が合わなかったりして関係はかなり悪化していたとのこと。しかし二人はその後に会うことはなかったが、手紙のやりとりなどは続いていたとされる。

ゴッホが自殺したのは耳切り事件の2年後の1890年。それから11年後、ゴーギャンのタヒチ時代の最後に描かれたこの絵は、もちろんアルルでヒマワリの絵をたくさん描いていたゴッホへのオマージュだろう。ゴーギャンを迎える時にゴッホは自分は粗末な椅子を使っていても、彼のために肘掛けのついた椅子を用意した。今度はゴーギャンがゴッホのアイコンであるヒマワリを肘掛け椅子にのせて描く。タイトルにわざわざ肘掛け椅子と書かれているから、この絵はアルルでのエピソードを踏まえていると思われる。ちょっといい話。



最初のエントリーに書いたように、タヒチ以前のゴーギャンはどんなだろうという興味で展覧会を見に来た。結論としてはビミョー。少なくとも特に欲しいと思う絵はなかった。やっぱりゴーギャンはタヒチ絵あってのゴーギャンかな。


おしまい

wassho at 19:24|PermalinkComments(0)

2016年12月15日

ゴッホとゴーギャン展 その2

どんな巨匠でも駆け出しの頃の作品はあまりたいしたことはない。中には「エッ、こんなレベルだったの?」とビックリする画家もいる。でもゴッホとゴーギャンの初期の作品は、オリジナリティは感じられないが、それなりに完成度が高いというか鑑賞できるレベルの作品だった。何を偉そうにと書きながら思うけれど。


ゴッホ:古い教会の塔、ニューネン(農民の墓地) 1885年
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ゴーギャン:夢を見る子供(習作) 1881年
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展覧会はゴッホとゴーギャンだけではなく、同時期の画家の作品も何点か出展されており、なかなかおもしろいものが多かった。


ミレー:鵞鳥番の少女  1866年
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鵞鳥は「がちょう」。実際はどうだったかはわからないが、水の中に入ってやや低い視点から見た構図に思える。海に行けばローアングルで必ず写真を撮る私の趣味に合う(^^ゞ



ピサロ:ヴェルサイユへの道、ロカンクール 1871年
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広々した印象を受けるのは典型的な遠近法で描かれているからだろうけど、これもカメラでいえば腰あたりで構えた時の写り方に近い気がする。もっとももし座って写生をしたなら、自然とその位置になるのだが。



ピサロ:エラニーの牧場 1885年
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ピサロは印象派の中ではトップスターじゃないけれど、なかなかいいじゃんと改めて思った。ゴッホとゴーギャンという派手目な画風の展覧会で、地味なピサロの絵に惹かれたのが意外。



シャルル・アングラン:セーヌ川、朝(サン=トゥアン) 1886年
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ゴッホといえば自画像が多い画家の印象がある。でもそれはモデルを雇うお金がなかったというトホホな理由らしい。彼の画家としてのキャリアは10年ほどだが、その前半に自画像がないのは鏡すら買うお金もなかったからでとことん貧乏生活。バブルの頃、大昭和製紙の会長が当時の絵画界では最高額となる125億円でゴッホの絵を競り落としたが、ゴッホが生きているうちに売れた絵は1枚だけだといわれている。

ゴッホ:パイプをくわえた自画像 1886年
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ゴッホ:自画像 1887年
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ゴッホ:パイプと麦わら帽子の自画像 1887年
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こちらはゴーギャンの自画像。彼はアマチュアからプロに転向した画家で、この絵を描いた1885年頃に画家が本業になったといわれている。

ゴーギャン:自画像 1885年
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ゴッホの自画像の変遷を見ると1887年に彼は、今の我々がゴッホと聞いて思い浮かべる画風になったようである。一方のゴーギャンは、まだその頃にはどこにでもありそうな絵という感じ。でもゴッホがゴーギャンを誘って共同生活を始めるのは1888年だから、天才ゴッホの目はゴーギャンの才能を見抜いていたのだろう。


ーーー続く

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2016年12月14日

ゴッホとゴーギャン展

9月の終わりか10月の初めに見たダリ展をブログに書いたのが11月20日だったが、このゴッホとゴーギャン展も訪れたのは11月18日と1ヶ月近く前である。

ダリ展と違って訪れた日が明確なのは、東京都立美術館がある上野公園で写真を撮ってデータとして日付が残っているから。もし写真に撮りたいようなものがなくても、どこかに出かけた時はスマホで何か撮っておくのがいいかもしれない。30年前のことはよく覚えていても3日前の記憶は曖昧になってきているから(^^ゞ


11月18日の上野公園入口。
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銀杏のイエローオータムはなかなか見応えがあった。
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噴水前の広場で忍者フェスタなるものが。
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でも食べ物屋台ばっかり。
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忍者の里の伊賀牛らしい。
忍者のいた江戸時代に日本人は牛を食べていないけど(^^ゞ
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平日の夕方なのにけっこう賑わっていた。
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こんな人もいたが、あまり注目を浴びているとはいえず。
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やっぱり食べ物メインのイベントみたい。ここでは10種類のうち2つに「チーズ忍者まん」「黒忍者まん」と、とってつけたような名前がついていた。
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一番忍者を感じたのがこれという、よくわからないイベントだったーーー。
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そしてやって来たのが「ゴッホとゴーギャン展」。
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実はこの展覧会は目玉となるような超有名作品はない。それでも見に来たお目当てはゴーギャン。

ゴッホとゴーギャンは1888年(明治21年)に南仏のアルルというところで共同生活を送る。でもその年の暮れにゴッホは精神障害から有名な「耳切り事件」を起こし共同生活は崩壊。そして1890年に自殺。一方のゴーギャンは1891年にタヒチに移り住む。一般にゴーギャンと聞いて思い浮かぶイメージはタヒチ以降のもの。私もそれしか見たことがない。だからもっと以前はどんな絵を描いていたのか、ゴッホと一緒の時はどうだったのかということに何となく興味を持って。

結論を先に書くと、タヒチ以前のゴーギャンはそれほどでもなかったのだが、それは次回以降に。


ーーー続く

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2016年08月06日

ルノワール展 その2

「ブランコ」1876年
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どうしても人物に目が行くし、現在の我々がイメージするブランコがある場所とはまったく違うので、タイトルを見なければブランコが描かれた絵とは気付かなかったかも知れない。それにしても小さな女の子がいるのに、どうして大人がブランコを独占しているのだ?

ルノワール独特の光の表現が、かなりコントラストを高めに描かれている。写真をクリックして拡大し、画面から少し目を離して眺めると、そのことがよくわかるはず。前回のエントリーで書いた、昔、私が惹かれたルノワールの絵の幸せ感がこの絵にも溢れていると思う。



「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1876年
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前回のエントリーで書いたように、死ぬまでには絶対に見たいと思っていた絵。どうしてそこまで気に入っているかというと、実は特に理由はない。何となく好きなだけ。絵なんてのはそんなものじゃないかな。念願かなって見られたわけだけれど、それで人生が変わったりもしない。それでも、もし日本で見られないなら、この絵が収蔵されているフランスのオルセー美術館に行ってでも見てやると思わせるのが絵の魔力かもしれない。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットというのはパリのモンマルトルにあったダンスホール。描かれているのは屋外だから、これは中庭みたいな所なんだろうか。ルノワール独特の光の表現が見て取れる。一番手前の男性の背中にいくつか丸があって、それで木漏れ日みたいなものを表現しているが、何となく不自然とというかちょっとやり過ぎという印象をずっと持っていた。でも本物を見るとサイズがタテ131.5センチ×ヨコ176.5センチと大きいせいもあって、そういう細かなところは気にならない。とにかく柔らかい光に包まれていることが実感できる絵なのである。大げさではなく最初は絵にスポットライトが当たっているのかと思ったくらいである。(もちろん絵に照明は当てられているが、それが反射して光るということはない)。

ところで美術史に残るほとんどの有名な絵は本や雑誌やネットで見ることができる。以前にも書いた気がするが、その本物を見てもビックリするくらい新たに感動したり、まったく違う印象を受けるものではない。精神的な満足感をのぞいて何が違うかというと、

その1:生々しさ
これは絵にもよるのだが、何百年前の作品でも昨日に描き終えたんじゃないかと感じるものがある。何となく画家の息づかいが感じられるというか。私が展覧会に通う理由のひとつがそれである。

本やネットで見る絵は写真に撮られたものである。そして写真に撮る・印刷する、あるいはディスプレーに表示する段階で絵が持つ情報が欠落するのだと思う。現在のテクノロジーでもすべてを再現できているわけでは決してない。浮世絵を見るといつも思うのだが、いい浮世絵だなあと思っていても、同じ作者の描いた肉筆画が一緒に展示されていると、それを見た後は浮世絵がつまらない。浮世絵=版画=印刷で、しかも原始的な印刷だから情報量は少ない。浮世絵と肉筆画を較べるのは極端かもしれないが、まあ同じような理屈で本やネットでは生々しさに欠けるのだと思っている。


その2:迫力
これは単純にサイズの問題。本やネットで見た絵から受ける感動の質は、本物を見た時とそう変わらないかも知れないが、感動の量はやっぱりサイズに比例する気がする。


主にこの2点が今までの持論だったが、ムーラン・ド・ラ・ギャレットを見て、光の表現も本やネットでは感じ取れていなかったと気付いた。生々しさと同じく情報量の欠落が原因だろう。光の表現といっても、レンブラントやカラヴァッジョのようなコントラストのはっきりしたものは本物との差はない。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは柔らかい光の表現だからそう感じるのかもしれない。このブログに貼った写真も、展覧会で見た印象とはやはり違う。

そういうわけで本物のムーラン・ド・ラ・ギャレットには光が満ちており、その光が絵からこぼれ落ちているように感じられて、それがとても気に入ったのだが意外な落とし穴が。当たり前だけど絵の中に光があるわけじゃない。そう錯覚するようにテクニックを駆使して描かれている。だからしばらく見ていると目が慣れて、絵からこぼれていた光を感じなくなってしまうのである(/o\)


絵に描かれているのは、ちょっとお洒落してやって来たパリの市民という感じで、これまたルノワールらしい幸せそうな絵である。でも実際のムーラン・ド・ラ・ギャレットはもっと場末的というか退廃感が漂うダンスホールだったらしい。モンマルトルも当時は低所得者層が住むエリアだった。「人生は辛いものだから、絵とは楽しく、きれいなものでなければならない」というのがルノワールのポリシー。だから我々が目にしているのはこぼれる陽光も含めてルノワール・マジックといえるのかもしれない。


ムーラン・ド・ラ・ギャレットは当時のいろんな画家が描いている。画風ではなく、画家の視点というか描きたかったものが、それぞれ違っていておもしろい。※これらの作品は展覧会とは無関係。

 ゴッホのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1886年
ゴッホ

 ロートレックのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1891年
ロートレック

 ピカソのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1900年
ピカソ

 ユトリロのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1931年
ユトリロ


ちなみにムーランは風車、ギャレットは日本ではガレットとも呼ぶ焼き菓子の一種。敷地に風車があって焼き菓子が名物だからムーラン・ド・ラ・ギャレットと呼ばれていたらしい。ムーラン・ルージュというキャバレーの名前もよく耳にするが、ルージュ=赤(転じて口紅)の意味で、そこに赤い風車があったから店名になった。ところで風車というとオランダを思い浮かべる。でも19世紀のパリには粉挽き用の風車がたくさんあったとのこと。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、ダンスホールからレストランになって今でもパリにある。何でもすぐリニューアル=ぶっ壊してしまう日本と違って、歴史ある建物がたくさん残っているパリがうらやましい。


ーーー続く

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2013年11月02日

モネ 風景を見る眼 19世紀フランス風景画の革新

前2回で書いた箱根ツーリングの目的はススキと、
このクロード・モネ展である。

この展覧会は企画の成り立ちが変わっている。モネを19作品と日本で一番コレクションしているポーラ美術館と、ほぼ同規模の17作品を持っている上野の国立西洋美術館が、お互いの作品を貸し出し合って、つまり19+16(なぜか国立西洋美術館は出展が1作品少ない)=35作品のモネを集めた規模にして展覧会を実施。ポーラ美術館は11月24日まで。その後、国立西洋美術館で12月7日から来年3月9日まで開催される。

ちなみに入場料は国立西洋美術館の1200円に対して、ポーラ美術館は1800円と観光地価格。でもポーラ美術館はガラガラと言っていいほど空いている。5つのコーナーに分かれているが、私が訪れた日曜の昼過ぎで、各コーナーにいたのは10名くらい。こんなことは国立西洋美術館ではあり得ない。どれだけじっくり鑑賞できたかの価値を国立西洋美術館の1200円を基準に考えると、最低でも10万円くらいになるかな。

といいつつ、前回訪れた時にもらったスタンプカードを提示して、ちゃっかり200円引きの1600円で入場(^^ゞ なお初めて行く人もホームページのインターネット割引券を使えば100円引きの1700円になる。



第1展示室の入り口。
グローバルスタンダードでは美術館で写真を撮ることは自由だが、ここ日本では禁止なのが残念。どうしてこんな風習になったのだろう。
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入り口を入ってすぐ、いきなりドカーンと現れるのがこの2作品。どちらもポスターやチケットに使われている、いってみれば今回の目玉作品。そういう作品は、たいてい展示構成の中頃過ぎにあることが多いのでサプライズ感あり。


「舟遊び」 モネ
2monet on the boat


「バラ色のボート」 モネ
1monet pink skiff


舟遊びは(タテヨコ)145.5センチ×133.5センチ、バラ色のボートは135.3×176.5センチとどちらも大きな作品。いきなり145.5センチといわれてもピンとこないかもしれないが、人の身長を基準に思い浮かべると絵の大きさをイメージしやすいかも。

モネといえば睡蓮で水辺を連想するが、そういう意味では、どちらもモネ・ワールド全開。「舟遊び」のほうがなんとなく見慣れたモネの色使い。



「雪のアルジャントゥイユ」 モネ

アルジャントゥイユとは地名。パリから北に15キロ程離れたところ。
雪景色の感じがよくでているなあと思って眺める。たぶん空を白っぽく塗ったのが、そのトリックかもしれない。感じたままに表現するのが印象派である。
30snow in argenteuil



「ジヴェルニーの積みわら」 モネ

ジヴェルニーも地名である。
積みわらを見るとミレーを思い出す。絵のタッチは少しゴッホにも似ている。それでいてモネらしさはもちろんある。つまり一粒で三回おいしいお得な作品。
31haystacks at giverny



「花咲く堤、アルジャントゥイユ」 モネ

いい絵である。間違いなく。でも煙突から出ている煙の描き方は手を抜きすぎやろと、モネに突っ込んでみる(^^ゞ
41flowered riverbank,argenteuil



「波立つプールヴィルの海」 モネ

こっちはもっと突っ込みどころ満載。まずどんなに海が荒れても海面は、こんな沖まで真っ白にはならない。百歩譲って真っ白な状態になるほどの大嵐だとしたら、描かれているほど波打ち際に近づけば確実に波にさらわれる。あれこれ突っ込みを入れて画家とコミュニケーションしながら絵を見るのも楽しいよ。
42heavy sea at pourville




モネ=睡蓮。そんな意識があるからか、この絵を見た時は「あ、出た出た」と思ってしまったが、これはゴッホの描いたバラだった(>_<)

「ばら」 ゴッホ

花のところは確かにバラなんだけれど、バラの茎があって地面から伸びて生えているようには見えないんだけどなあ。
51roses



「ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋」 ゴッホ

これもゴッホ。運河の左側にたぶん洗濯をしている女性が3人並んでいる。少しわかりづらいが一番手前の人物の上半身と一番奥の人物の下半身は、赤い輪郭線が描かれているだけである。つまり川面や土手の地面が透けているというか何も描かれていない。表現手法?それともオチャメ?
52the gleize bridge over the vigueirat






「トルーヴィルの浜」 ウジューヌ・ブーダン

すごく印象に残った作品。
それは絵そのものとはほとんど関係なくて、着飾った男女というか紳士淑女がビーチにいるから。スーツやドレスを着て砂浜に行ったことってないでしょ? この絵が描かれた1867年(明治元年が1868年)頃のヨーロッパは砂浜も社交の場だったのかな。それにしてもたくさん集まって何をしているんだろう。飲んだり食べたりはしていないみたいだし。
61beach of trouville



「グランカンの干潮」 ジョルジュ・スーラ

のどかなのどかな作品。
こんな光景を眺めながら夏休みを過ごしたい。
62low tide at grandcamp





「睡蓮」 モネ
71water lilies

「睡蓮の池」 モネ
72water lily pond

絵にある池はモネの自宅の庭にあり、彼は睡蓮(すいれん)の絵を200点以上も制作している。だから今まであちこちでモネの睡蓮は目にしてきた。でも見慣れているとはいえやっぱりモネは睡蓮である。モネの展示会で睡蓮の絵がなかったらガッカリする。サザンのライブを聴きに行って「勝手にシンドバッド」が演奏されないようなものである。そして最初にも触れたようにポーラ美術館は都内の美術館のように混雑していない。近づいたり離れたり、真正面でも斜め横からでも好きなように見ることができる。たっぷり堪能できて「絵を見たぞ〜モネを見たぞ〜」と満腹気分を味わえた。


ーーー続く

wassho at 15:43|PermalinkComments(0)

2012年12月29日

メトロポリタン美術館展

もっと早く見に行くつもりだったが、12月になると何かと忙しく、年明けは1月4日までしか開催していないし。ということで年末休みに入った本日に上野まで。私と同じようにグズグズしていた人が多いのか、あるいは年末は暇な人が多いのか美術館はかなりの混雑。


地下鉄の出口を間違えて、いつもの上野公園正面入り口ではなく御徒町(御徒町)寄りに出てしまった。それで上野名所のひとつアメ横。
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アメ横は上野駅から御徒町駅の山手線の高架下に延びている商店街。「アメリカ横町」ではなく「飴屋」が名前の由来と知ったのはかなり最近。年末は正月用の買い物をする客で混雑することで有名。多少興味はあったが別に買うものもないし、普通に歩けないくらい混雑していたので今回はパス。


一歩上野公園に入ると駅前の喧噪が嘘のよう。
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重要文化財の清水観音堂。
上野公園にはお寺関連の建物も多い。というか元々は徳川家菩提寺である寛永寺の敷地だったところ。明治維新で戦場になり、その後に公園になった。
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公園中央に近づくに連れて道幅も広くなる。
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東京都美術館に到着。
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iPhoneで写真を撮っている私が写っています。
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入場はスムーズだったが、展示室は人がいっぱいだった。
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「糸杉」  ゴッホ
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この展示会の目玉。私もこれを目当てにやってきた。
絵として良い・悪い、あるいは好き・嫌いという前にゴッホのエネルギーがビシバシ伝わってくるし、それを味わうべき作品。見ているだけで熱気が感じられるという絵はそうザラにはない。


「歩き始め ミレーに依る」 ゴッホ
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これもゴッホ。ここに貼り付けた写真より本物は絵の具の立体感などゴッホらしさ満開。でも人の顔がグレーで描かれているのが気に入らない。特に子供の顔がグレーなのが不気味。ついでにいうと、両親の服の色が同じなのも芸がない。彼が生きているのなら描き直しを命じたい(^^ゞ。

「ミレーに依る」という題名は、これがゴッホによるミレー作品の模写だから。ゴッホはミレーを尊敬していたらしい。この絵はゴッホが精神病院に入院していたときに描かれている。顔がグレーなのは「病んでいる」感じもするが、糸杉も同時代の作品なので何ともいえない。でも、これだけの絵が描けて、どこが病気だという気もするが。

これがミレーの「歩き始め」
(この展示会の出品作ではない)
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「麦穂の山:秋」 ミレー
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これはこの展示会にあったミレー。いかにもミレーな感じ。でもミレーといえば農民がいないと。羊だけじゃチョット物足りない。



ところで、この展示会はサブタイトルが「大地、海、空ーーー4000年の美の旅」と名付けられている。これだけじゃ何のことかサッパリだが、

   理想化された自然
   自然のなかの人々
   大地と空
   水の世界

など「自然」を切り口に合計7つのテーマを設けて作品を展示している。絵だけじゃなく工芸品や発掘品なども多数。しかし考え方としてはアリだけれど、作品を見ていてそのテーマを意識することはなかった。つまり企画倒れ。テーマが漠然としすぎている。





「タコのあぶみ壺」 古代ギリシャ 紀元前1200年〜1100年頃
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「あぶみ壺」の意味はわからないが、とりあえずタコの絵が描かれた壺。タコというより火星人みたい。そんなことよりも紀元前1200年で、壺に絵付けをしようなどという文化度の高さに感心する。


「馬の小像」 古代ギリシャ 紀元前8世紀
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頭の部分を見る限り、馬というより既に絶滅した動物じゃないか?(^^ゞ 同じく紀元前8世紀にこれだけのデフォルメをする造形感覚。工業デザインやインテリアデザインで日本のものがノッペリしているのは、やっぱりDNAレベルで差があるのかなあ。



「嵐の最中に眠るキリスト」 ドラクロワ
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キリストがいることはタイトルを読んでからわかった。バンザイしている人が目に飛び込んできた作品。ところでドラクロワって何となく名前は知っていても、どんな絵を描いた人だっけ?ーーーという人はここをクリック


「水浴するタヒチの女たち」 ゴーギャン
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どう見てもゴーギャン。


「浜辺の人物」 ルノワール
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どう見てもルノワール(^^ゞ

この展示会には7つのテーマがあると書いたが、このルノワールとゴーギャンとドラクロワは「自然のなかの人々」という同じ分類になっている。やっぱりこの展示会のテーマ設定には無理がある。


「マヌポルト(エトルタ)」 モネ
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どう見てもモネとはいわないが、そういわれてみればモネな作品。エトルタというのはノルマンディー海岸にある断崖絶壁が連なるエリアとのこと。マヌポルトはその中でも名前がついている有名な断崖。この場所を書いたモネの作品はいくつかあるらしい。波が砕け散っているのに静かな感じがするのは、やはりモネだからか。印象派と呼ばれるけが「心象」を描いているといったほうがしっくりくる。



「骨盤 II」 ジョージア・オキーフ
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99歳まで生きたアメリカの女性画家。没年は1986年。
絵の題材としては反則という気がしなくもないが、なかなか見飽きないおもしろい絵だった。


「夏」 バルテュス
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没年2001年のフランスの画家。
ところで、この絵のどこが素晴らしいのか誰か教えて!


「中国の花瓶に活けられたブーケ」 ルドン
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シャルダン展で初めて知ったルドンの作品が展示されていた。
でも先日の「グラン・ブーケ(大きな花束)」のような華やかさ、アバンギャルドさはなく地味な絵。





それでは今回の展示会ベスト3。

「ヴェネツィア、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会の柱廊から望む」
 ターナー
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ターナーはイギリスの風景画家。この絵のどこが気に入ったかを答えるのは難しい。しいていえば「この風景をこの目で見たい」と強く思ったことか。分析的に考えれば、透明感があってとても水々しいタッチ。それと変に小細工していない真っ当な絵なことを好感したのだと思う。


「桃の花ーーヴィリエ=ル=ベル」 チャイルド・ハッサム
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チャイルド・ハッサムはフランスで印象派の技法を学んだアメリカの画家。ヴィリエ=ル=ベルはパリ郊外の地名。この絵が描かれた1889年にはかなり田舎だったと思われる。

やっぱりモネに似ているかな。印象派にも色々ある。あまり崩しすぎたりデフォルメしすぎない、これくらいのタッチが私は好き。それとこれはハッサムの創作かもしれないが、日本では桃や桜の木はこんな風に草地に中には生えていないので「いい景色」と思ったのもポイントが高かった。


「トゥー・ライツの灯台」 ホッパー
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ホッパーはアメリカの画家。トゥー・ライツとは2ライト、つまり2灯という意味だが絵を見る限り灯台の電球は1つ。

ホッパーの絵はイラストっぽいタッチのものが多いのであまり好きじゃない。でもこの絵は本日で一番気に入った。でも、どこが気に入ったかを説明するのはターナーの絵よりさらに難しい。描き方は幼稚だし、構図は私がバイク・ツーリング先のあちこちで撮る写真みたいに芸がない。ひょっとしたら、そこに親近感を覚えた? 

それはともかく眺めていると、のどかで幸せな気持ちになる絵である。どことなくひなびた感じもいい。ツーリングに出かけるのも都会から離れてリラックスしたいという気持ちがあるから、やっぱりそこに共通点があるのかな。



アレコレいろんなジャンルの作品があってチョット頭が混乱したが、それぞれの作品はなかなか見応えがあった。古代の発掘品が展示されていたのも良かった。ニューヨークにあるメトロポリタン美術館は2度訪れたことがある。ずいぶん昔なので記憶も曖昧だが、古代エジプトのミイラなどが多数展示されており、興味深く見て回ったことを思い出した。




美術館を出て上野駅に戻る途中、不忍池(しのばずのいけ)を見て帰る。

上野公園は少し高台になっていて、不忍池は一段低い場所にある。正面に見えるのは弁天堂。弁天様=弁財天は元々仏教の存在だが、神道でも七福神のメンバーになっている。
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不忍池は蓮(はす)池、鵜(う)の池、ボート池の3つに別れている。公園のために作ったようにも思えるが自然にできた池である。周囲約2キロ。
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蓮池は蓮が枯れていて、この季節はあまり美しくない。鵜の池も似た感じ。


鴨がいっぱい。でも動きが速くてカメラではなかなか追いかけられない。
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こっちはボート池。
池を堤で3つに区切って、その上が遊歩道になっている。
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ボートは休業中。
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ところで上野公園といえば西郷隆盛。
何度も来ているのに一度も見たことがなかった。
というわけで、ごタイメ〜ン。
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遠くから見ると、もっと頭がでっかくてズングリムックリだった。チョット笑ってしまう体型。でもそれは近くに立って見上げたときに正しいプロポーションに見えるように上半身を大きく作ってあるらしい。なかなか芸が細かい。だから(近くから見上げている)この写真ではそんなに極端な短足には見えない。ところでこの明治維新の偉人は、今の日本の政治を見てどう思っているかな?「オイドンの時代に較べたら平和で豊かで、うらやましいでゴワス」だろうな。悲観論はよくないね。

wassho at 20:38|PermalinkComments(0)

2010年12月12日

没後120年 ゴッホ展 

c2f603a6.jpg先週、こそっと仕事をさぼって国立新美術館のゴッホ展を見に行った。別にゴッホの大ファンというわけでもないが、夏にいった印象派の展示会で「いいなあ〜」と思ったので、せっかくゴッホの作品が120点も集まる展示会を見逃す手もないかと。


展示会のサブタイトルが「こうして私はゴッホになった」とあるように、彼の作品を初期から後期にかけて万遍なく展示する趣旨の企画。初期の作品なんて初めて見たけれど、別にその辺の画廊にでもありそうな普通の絵。何となく作風も暗いというか地味。私のような素人が「いわゆるゴッホらしい」絵だと感じるのは中期以降の作品だということがわかった。残念ながら「ひまわり」の展示はなし。


写真を貼り付けたのは「アイリス」という有名な作品。アイリスとは日本語でなら「あやめ」。ダイナミックでゴッホらしくて、お約束の「黄色てんこ盛り」で一度本物をみたいと思っていた。100年以上前に描かれた絵なのに、昨日完成したというような生々しさを感じられるのは実物ならではの満足感。がーーーしかし絵の横にあった解説によると、花は紫で描かれていたのが退色して今のような青になったらしい。ちょっとショック、読まなきゃよかった。

それと「あやめ」は1つの茎の上にポツンと1つの花が咲く植物で、この絵のように花瓶からこぼれんばかりのような生け方にはならないと思うのだが。日本のあやめと西洋のあやめは違うのかな?


ところでゴッホ、実は画家としてのキャリアはたった10年しかない。27歳で画家を志し37歳で自殺した。モーツアルトも35歳で夭折したが、5歳の時に作曲したという作品が残っているし6〜7歳の頃には宮廷で演奏を披露している根っからの天才児。だからどうってことじゃないけれど、たった10年で120年後にも大入り満員の展覧会を開けることを成し遂げた人生って、どんなに濃密だったんだろうと思う。もっとも生前に売れた絵は1枚だけだったらしいが。

※数枚は売れたという説もある。
 油絵だけで860点を描いているから、1枚でも数枚でも同じようなものだけれど。

wassho at 23:56|PermalinkComments(0)

2010年08月14日

オルセー美術館展2010「ポスト印象派」

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ようやく本題。
ーーーでもないんだけど。

写真はゴッホの「星降る夜」。
これを盗みに、モトイ(^^ゞ、この作品を一番の目当てに展示会に行った。本物を見て感激したなどと子供っぽいことはいわないけれど、なかなか感慨深かった。

ただかぶりつきで見ると(かぶりつきで見ざるを得ない:2つ前のエントリー参照)、思った以上に荒いタッチである。ゴッホは絵の具を盛り上げて描くので、それを見るのを喜ぶ人が多いが、私はもうちょっと俯瞰して全体的に鑑賞したい。オーケストラでバイオリンの音だけを聞き分けても仕方がない。でもまあ好みは人それぞれ。


さて、この展示会のタイトルは「ポスト印象派」。昔は後期印象派といっていた気がするが、今はポスト印象派と呼ぶのが一般的。後期印象派なら、印象派の範疇に入るが、ポスト印象派は直訳すれば「脱印象派」ということだから、印象派ではないという理屈になる。そのあたりは美術史に詳しくないのでよくわからない。

本当は美術史はある程度勉強した方がいい。絵を視覚だけで感じるより、その背景の歴史込みで見た方が絵の理解は深まるというか楽しめる。ついでにいうともう少しクラシックな西洋絵画には、聖書に書かれたことを題材にしているものが多いので、キリスト教の知識もある程度は必要である。キリスト教の背景抜きに見ると、突拍子もない構図にしか見えない名画はいっぱいある。まあワカッチャいても私はなかなかできていませんが。


ところで印象派は日本人が大好きな絵ということになっているし、世界的にも人気がある。値段もベラボーに高い。つまり印象派にはステイタスがある。しかし実は印象派というのは最初は「軽蔑」のレッテルだった。

印象派というのは「狩野派」のような師匠がいるような流派ではまったくなく、19世紀中頃にモネ、セザンヌ、ルノワールなどの画家が共同展を始めたことがきっかけ。それぞれの画家の作風は様々であるが、クラシックな描き込んだ絵ではなく、感じたままに描くのが特徴。いってみれば当時の画壇の反逆児たちの集まり。クラシック音楽に対するロックミュージックみたいなもの。

いつの世も新しいことは守旧派からは拒絶される。展覧会に出品されたモネの絵を、とある評論家が「印象しか描いていない」とバカにしたことが印象派というネーミングの始まり。印象しか描いていないとは、構図がおおざっぱだとか、絵が描き込まれていないとか、内面的な深いテーマがないとか、そういう意味だと思う。今となっては印象派という言葉に、そんな軽蔑のニュアンスを感じることは難しいけれど。



さてゴッホの「星降る夜」に話を戻すと、だいたい夜の絵ということが珍しい。彼は黄色を上手に使う画家だとよくいわれるが、実は黄色をたくさん効果的に使いたくて、この絵のモチーフを選んだのではないかと私は想像している。空の中央にある星はヒシャクの形をした北斗七星.しかし、この絵が描かれたフランスのアルル地方で、この方角は北斗七星とは逆らしい。つまりイメージの合成。だいたい星がこんな大きいはずもないし。しかし見れば見るほど、ここにある星は北斗七星でなければならない気がしてくる。もっとも形をすぐに思い出せる星座は北斗七星くらいであるが。


ゴッホについては自分で耳を切り落としたとか、精神病で入院したとか、最後はピストル自殺したとかのエピソードが先入観にあるせいか、鬼気迫る画家のイメージがついてまわる。しかし絵を見れば、そのほとんどはピュアでシンプル。夜と黄色の組み合わせについていえば「夜のカフェテラス」という作品もあって、この黄色がどのように光り輝いているのか、これもいつかはこの目で確かめたい。どちらの絵も、夜にこんな黄色があるはずもないのに、抵抗感なく見られるのが不思議。


ゴッホでもう一つ有名なエピソードはバブル華やかりし頃、大昭和製紙会長の齊藤了英がゴッホの絵を当時の絵画最高額(125億円)で競り落とし、「俺が死んだら絵を棺桶に入れて一緒に火葬してくれ」といったこと。マスコミはよってたかってこの発言を批判したが、私は彼がシャレでいったのではないかと思っている。

当時、発言についての本人にインタビューした深い報道はなかったし、マスコミはたとえ又聞きでも、ネタになると思えばバッシングに走る。ちなみにオークションで彼に競り負けた海外の美術蒐集家は、後にこのエピソードを聞いて「私にはミスター齋藤ほどの情熱が足りなかった」と反省したというから世の中はおもしろい。なおバブルがはじけてゴッホの絵は借金のカタに取られ、その後に海外に売却された。


印象派が活躍した当時、パリで万博が開かれ明治政府時代の日本も参加したので、パリはちょっとしたジャポニスム(日本ブーム)だった。印象派の画家たちも日本の風俗や浮世絵から大いに影響を受けたといわれている。ゴッホもその代表的な1人。それについてはいろんな教科書に書いてあるけれど、たぶん多くの人と同じように私は浮世絵についての知識がほとんどないから、どう影響を受けたのかははっきりいってよくわからない。まあ、とりあえずゴッホはこんな絵というか模写を残している。左が安藤広重、右がゴッホである。絵の縁に漢字?を描いて日本風にしているなんてゴッホ君、お茶目でカワイイね(^^ゞ




ゴッホ以外にも作品は目白押し。なにせフランスのサルコジ大統領と鳩山首相が、それぞれ開催に向けてのメッセージを寄せている最高レベルの展示会である。ただ「ポスト印象派」展だから、普段印象派と聞いてイメージするカジュアルで軽やかな絵ばかりではない。それを期待していくと少し当てが外れるかもしれないが、いろんな絵が見られて楽しめるはず。残りあと2日。時間があれば見に行くことをお勧めする。

wassho at 20:11|PermalinkComments(0)