ジョン・ラスキン
2019年06月20日
ラスキン生誕200年記念 ラファエル前派の軌跡
5月のゴールデンウィークにラ・フォル・ジュルネ(クラシックの音楽祭)の公演の合間を縫って見に行った展覧会。他にいろいろブログにすることが多かったのでようやくの投稿。
ラファエル前派については過去に2回の展覧会を見に行き、それを5回のブログにしている。
あれこれ読みたければそちらをどうぞ。
ラファエル前派その1
ラファエル前派その2
ラファエル前派その3
英国の夢 ラファエル前派展その1
英国の夢 ラファエル前派展その2
ラファエル前派って何?ラファエロの間違いじゃないかと思ったくらい、最初の展覧会に行くまで、このカテゴリーのことは知らなかった。ごくかいつまんで書くと、
19世紀中頃のイギリスではルネサンス期、特にラファエロを手本にした
権威主義的な絵画が主流だった。
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それに反発した3名の美術学校の学生が、1848年にラファエロ以前に戻ろうと
結成したグループがラファエル前派。
※ラファエルはイタリア語のラファエロの英語読み
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こういう動きは当然として美術界から反感を買う。その彼らを擁護し支援したのが
ジョン・ラスキンという大物の美術評論家。
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ラファエロ前派のグループ自体は1853年には事実上解散したが、その考え方は
その後も広がりを見せる。ほぼ同じ時代の象徴派と並ぶ影響があったという説もある。
イギリス、若者、反抗という点から、ラファエル前派は何となくビートルズとイメージが重なる。さしずめジョン・ラスキンがビートルズのプロデューサーだったジョージ・マーティン。
それはともかくラファエル前派の絵画を私はたいへん気に入った。どこがどうよかったのかは過去のブログを読んでほしい。だからこの展覧会も楽しみにしていた。
しかし最初に書いておくと、期待値が高かったからかもしれないが、この展覧会はイマイチの感が否めず。これが初めて見るラファエル前派だったら、ラファエル前派は私のお気に入りのカテゴリーになっていなかったかもしれない。
その要因の1つは展覧会のタイトルに「ラスキン生誕200年記念」とあるように、ラスキンに重きを置いたコンセプトや構成にある。
全展示152点のうちラスキンが40作品、つまり1/4を占める。しかも展覧会のほぼ出だしからである。そして、そのほとんどがツマラナイ(/o\)
ラスキンが当時の美術評論家としてかなりの地位と名声を得ていたことは間違いない。しかし画家としては40作品も展示するレベルにはまったく達していない。ジョージ・マーティンだってピアノを弾いたし、ひょっとしたら歌も歌ったかもしれない。でもそれをレコーディングするなんてことはしなかった。三菱1号館美術館にはラスキンの熱烈なファンでもいるのだろうか。
ところでラスキンはラファエロ前派より1世代ほど前のイギリス屈指の風景画家であるターナーとも親しかったことで有名。そういうことから展覧会はターナー作品から始まる。しかしラファエロ前派の画家たちは当然ターナーの絵を見ているはずだが、彼らがターナーから直接的な影響を受けた形跡はない。「ラスキン生誕200年記念」だから仕方ないが、ラファエル前派的にはターナーを一緒に並べる意味はないし雰囲気的にも合っていない。
まあ数年ぶりにターナーの絵を何点か見られたのはよしとするが。
「エーレンブライトシュタイン 破壊される要塞」 ターナー 1819-20年
「エーレンブライトシュタイン」 ターナー 1832年頃
「カレの砂浜――引き潮時の餌採り」 ターナー 1830年
仕方ないので、ラスキンの作品も紹介。
「モンブランの雪―サン・ジェルヴェ・レ・バンで」 ジョン・ラスキン 1849年
「ストラスブール大聖堂の塔」 ジョン・ラスキン 1842年
「高脚アーキヴォールト:カ・フォスカリ川岸、ビザンツ帝国期の廃墟−ヴェネツィア」
ジョン・ラスキン 1849年
1枚目は観光地でキャンバスを立てて写生しているオッサン・オバハンの絵と変わらない。2〜3枚目は描写が細かいので小さな画像だと多少はマシに見える。残りの作品のほとんどはこの3枚以下のレベル。もっともラスキンの立場に立って考えると、彼はよく旅行をしている。この時代にカメラは発明されていたが、持ち運んで風景を撮るレベルの実用性はなかったはず。美術評論家として興味を持った風景の記録用、研究用に描いたものなんじゃないかな。まさか生誕200年の展覧会が外国で開かれるなんて予想だにしていなかったと思うけれど。
ラスキンの絵をさんざん見せられた後に、ようやくラファエル前派の作品になる。
しかし、そこでもいろいろ問題が。
ーーー続く
wassho at 08:28|Permalink│Comments(0)│