ハンス・マカルト
2019年08月07日
ウィーン・モダン展 その2
まずはモダニズムも世紀末も関係ないクラシックな作品からスタートする。展覧会で最初に出迎えてくれるのは、18世紀中頃に描かれたマリア・テレジアの肖像画。サイズも縦2メーター以上ありその威厳に圧倒される。
「マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)」 1744年 マルティン・ファン・メイテンス
マリア・テレジアは650年続いた名門ハプスブルグ家の当主であり、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でもあったまさにヨーロッパの女帝。その生涯もドラマチックで、もしヨーロッパに大河ドラマがあれば何度も取り上げられているはずの人物。
参考までに緑色に塗られているのが1574年当時のハプスブルグ家の領土。この頃が最盛期。なおマリア・テレジアは1717年-1780年。フランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットは彼女の娘。
ちなみに信長(1534年-1582年)は宣教師を通じてヨーロッパの情勢を得ていたといわれる。ハプスブルグ家のことも知っていたのかな。ひょっとしたらこんな地図に触発されて、日本統一の後はアジアへの野望をたぎらせていたりして。
もっともかつてはヨーロッパの半分を支配したハプスブルグ家=オーストリアであるが、今はあまり存在感のある国とはいえない。第1次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)と世界史で習ったが、どうもイメージがわかない。それに現在はG7はもちろんG20のメンバーでさえない。将来、日本がそうならないことを願おう(^^ゞ
あまり馴染みがないので、ついでに調べたオーストリアあれこれ。
G20のメンバーでさえないと上から目線で書いたが、1人当たりGDPは5万6000ドルで
世界第10位。3万9000ドルで24位の日本(/o\)より1.4倍も豊かである。
永世中立国ってスイスだけだと思っていたらオーストリアもだった。ただしEUに
加盟しているので形骸化しているらしいが。ほかにラオスやトルクメニスタンなどが
永世中立国。
同じくチロル地方はスイスをイメージするが、実はオーストリアとイタリアに
またがる地域。
人口は約900万人で、面積は北海道とほぼ同じ。
ウィンナーソーセージはウィーン風のソーセージのこと。日本では農水省の規格で
ソーセージの直径を基準にウィンナー(20mm未満)、フランクフルト(20-36mm)、
ボローニャ(36mm以上)とヨーロッパの都市名をつけけて区分している。
でもオーストリア、ドイツ、イタリアではそんな呼び方はしないから、これって
けっこう恥ずかしいネーミング。
コーヒーにホイップクリームを浮かべたウィンナーコーヒーもウィーンにはない。
似たような飲み物はあるが名前が違う。何にでもウィンナー(ウィーン風という意味)と
つけるのは、とりあえず京風とつければありがたみが増すのと同じ感覚なのかも
しれない。
アーノルド・シュワルツェネッガーはオーストリア人!
オーストリアとオーストラリアを間違えるのは英語圏の人も同じらしい(^^ゞ
ところでオーストリアの首都ウィーンはモーツァルトやベートーヴェンが活躍した音楽の都である。ウィーンの画家はクリムトとエゴン・シーレしかとっさには思い浮かばないが、作曲家なら適当に名前を挙げればかなりの確率で正解になる。
それでビックリしたのがこの絵。
まさか音楽室に飾ってあったシューベルトの肖像画の本物に出会えるとは。
「作曲家フランツ・シューベルト」 1875年頃 ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー
こんな絵もあった。私も夜会に参加したい!
「ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)」
1897年 ユーリウス・シュミット
さて今回の展覧会で印象的だったのはクリムト展でも取り上げたハンス・マカルトの作品。
「1879年の祝賀パレードのためのデザイン画ーー菓子製造組合」
1879年 ハンス・マカルト
これは皇帝夫妻の銀婚式祝賀パレードの演出を任されたマカルトが、こういうパレードにすると示したもの。言ってみれば企画書、絵コンテなのに、それがこのレベルなのが凄い。東京オリンピックの開会式演出もマカルトに担当して欲しいね(^^ゞ
しかも任命されたのが1879年1月でパレード実施が4月27日である。この作品は菓子製造組合向けのデザイン画だが、そのわずかな期間に、他のグループ向けにも合計35枚を仕上げたというから、その仕事の早さにもビックリする。
ブログでは小さく細長くしか表示されないから、一部を拡大して。
少し遠目からは、すごく写実的で細密に見える。その場合、塗り絵的に描き込まれているのが普通。しかし拡大部分を見ればわかるように「タッチがある」というか「絵になっている」というか(うまく表現できないが)、そこにマカルトの技量とセンスを感じてシビれた。
マカルトの画風は私のツボにはまったみたい。次の3枚の肖像画は並べて展示されていたが、その場を立ち去りがたい気分になった。
「ドーラ・フルニエ=ガビロン」 1879-80年頃
「メッサリナの役に扮する女優シャーロッ ト・ヴォルター」 1875年
「ハンナ・クリンコッシュ」 1884年以前
そして、これはマカルトのアトリエを描いた作品。
「グスハウス通りのハンス・マカルトのアトリエ」 1885年 ルドルフ・フォン・アルト
マカルトのアトリエはサロンやパーティー会場でもあり、また入場料を払えば見学できる観光名所でもあったらしい。そんなことをしていたオープンな画家は他にもいるのかな。この作品はマカルトの死後、アトリエを閉鎖する際にウィーン市の依頼によって記録として制作されたもの。それだけでマカルトの地位がわかるというもの。右下には上で紹介した「ハンナ・クリンコッシュ」が置かれている。
ハンス・マカルト(1840-1884)は「画家の王」と呼ばれていたらしい。ルーベンス(1577-1640)以降、最高の名声と富を得たともいわれている。その割に知らなかったなあ。クリムト(1862-1918)が影響を受けたとか、クリムトはマカルトの後継者という文脈ではよく見かけるけれど。
そこで美術関係者の皆さんに切なるお願い。
ウィーン・ミュージアムが休館中に是非とも大マカルト展の開催を!
ーーー続く
「マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)」 1744年 マルティン・ファン・メイテンス
マリア・テレジアは650年続いた名門ハプスブルグ家の当主であり、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王でもあったまさにヨーロッパの女帝。その生涯もドラマチックで、もしヨーロッパに大河ドラマがあれば何度も取り上げられているはずの人物。
参考までに緑色に塗られているのが1574年当時のハプスブルグ家の領土。この頃が最盛期。なおマリア・テレジアは1717年-1780年。フランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットは彼女の娘。
ちなみに信長(1534年-1582年)は宣教師を通じてヨーロッパの情勢を得ていたといわれる。ハプスブルグ家のことも知っていたのかな。ひょっとしたらこんな地図に触発されて、日本統一の後はアジアへの野望をたぎらせていたりして。
もっともかつてはヨーロッパの半分を支配したハプスブルグ家=オーストリアであるが、今はあまり存在感のある国とはいえない。第1次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)と世界史で習ったが、どうもイメージがわかない。それに現在はG7はもちろんG20のメンバーでさえない。将来、日本がそうならないことを願おう(^^ゞ
あまり馴染みがないので、ついでに調べたオーストリアあれこれ。
G20のメンバーでさえないと上から目線で書いたが、1人当たりGDPは5万6000ドルで
世界第10位。3万9000ドルで24位の日本(/o\)より1.4倍も豊かである。
永世中立国ってスイスだけだと思っていたらオーストリアもだった。ただしEUに
加盟しているので形骸化しているらしいが。ほかにラオスやトルクメニスタンなどが
永世中立国。
同じくチロル地方はスイスをイメージするが、実はオーストリアとイタリアに
またがる地域。
人口は約900万人で、面積は北海道とほぼ同じ。
ウィンナーソーセージはウィーン風のソーセージのこと。日本では農水省の規格で
ソーセージの直径を基準にウィンナー(20mm未満)、フランクフルト(20-36mm)、
ボローニャ(36mm以上)とヨーロッパの都市名をつけけて区分している。
でもオーストリア、ドイツ、イタリアではそんな呼び方はしないから、これって
けっこう恥ずかしいネーミング。
コーヒーにホイップクリームを浮かべたウィンナーコーヒーもウィーンにはない。
似たような飲み物はあるが名前が違う。何にでもウィンナー(ウィーン風という意味)と
つけるのは、とりあえず京風とつければありがたみが増すのと同じ感覚なのかも
しれない。
アーノルド・シュワルツェネッガーはオーストリア人!
オーストリアとオーストラリアを間違えるのは英語圏の人も同じらしい(^^ゞ
ところでオーストリアの首都ウィーンはモーツァルトやベートーヴェンが活躍した音楽の都である。ウィーンの画家はクリムトとエゴン・シーレしかとっさには思い浮かばないが、作曲家なら適当に名前を挙げればかなりの確率で正解になる。
それでビックリしたのがこの絵。
まさか音楽室に飾ってあったシューベルトの肖像画の本物に出会えるとは。
「作曲家フランツ・シューベルト」 1875年頃 ヴィルヘルム・アウグスト・リーダー
こんな絵もあった。私も夜会に参加したい!
「ウィーンの邸宅で開かれたシューベルトの夜会(シューベルティアーデ)」
1897年 ユーリウス・シュミット
さて今回の展覧会で印象的だったのはクリムト展でも取り上げたハンス・マカルトの作品。
「1879年の祝賀パレードのためのデザイン画ーー菓子製造組合」
1879年 ハンス・マカルト
これは皇帝夫妻の銀婚式祝賀パレードの演出を任されたマカルトが、こういうパレードにすると示したもの。言ってみれば企画書、絵コンテなのに、それがこのレベルなのが凄い。東京オリンピックの開会式演出もマカルトに担当して欲しいね(^^ゞ
しかも任命されたのが1879年1月でパレード実施が4月27日である。この作品は菓子製造組合向けのデザイン画だが、そのわずかな期間に、他のグループ向けにも合計35枚を仕上げたというから、その仕事の早さにもビックリする。
ブログでは小さく細長くしか表示されないから、一部を拡大して。
少し遠目からは、すごく写実的で細密に見える。その場合、塗り絵的に描き込まれているのが普通。しかし拡大部分を見ればわかるように「タッチがある」というか「絵になっている」というか(うまく表現できないが)、そこにマカルトの技量とセンスを感じてシビれた。
マカルトの画風は私のツボにはまったみたい。次の3枚の肖像画は並べて展示されていたが、その場を立ち去りがたい気分になった。
「ドーラ・フルニエ=ガビロン」 1879-80年頃
「メッサリナの役に扮する女優シャーロッ ト・ヴォルター」 1875年
「ハンナ・クリンコッシュ」 1884年以前
そして、これはマカルトのアトリエを描いた作品。
「グスハウス通りのハンス・マカルトのアトリエ」 1885年 ルドルフ・フォン・アルト
マカルトのアトリエはサロンやパーティー会場でもあり、また入場料を払えば見学できる観光名所でもあったらしい。そんなことをしていたオープンな画家は他にもいるのかな。この作品はマカルトの死後、アトリエを閉鎖する際にウィーン市の依頼によって記録として制作されたもの。それだけでマカルトの地位がわかるというもの。右下には上で紹介した「ハンナ・クリンコッシュ」が置かれている。
ハンス・マカルト(1840-1884)は「画家の王」と呼ばれていたらしい。ルーベンス(1577-1640)以降、最高の名声と富を得たともいわれている。その割に知らなかったなあ。クリムト(1862-1918)が影響を受けたとか、クリムトはマカルトの後継者という文脈ではよく見かけるけれど。
そこで美術関係者の皆さんに切なるお願い。
ウィーン・ミュージアムが休館中に是非とも大マカルト展の開催を!
ーーー続く
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2019年07月13日
クリムト展 ウィーンと日本 1900 その2
展覧会の構成は少々複雑だったので、このブログではできるだけクリムトの作品を年代順に追ってみることにした。
「男性裸体像」 1883年
いきなりの男性ヌードでビックリした? 会場では同じような作品が3点展示されていて私もビックリした。もっとも男性ヌードにも駆け出しの頃のクリムトの作品にも興味はない。だからチラッと見るだけにしようと思った。しかし考えてみると男性ヌードを見る機会はあまりない。それでこれも勉強と列に並んでじっくり見ることに。
ところでクリムトの展覧会には若い女性客が多い。行列で彼女らに挟まれて3本のチンチンを見るのは妙な気分。下半身というくらいでアレは下についているイメージがあるが、考えてみれば身体のほぼ中央にある。つまり絵だと画面センターに位置するから、接近するとドーンと目に飛び込んでくる(^^ゞ とりあえず構図の勉強にはなったかも。
クリムトは劇場装飾の仕事でアーチストとしてのキャリアをスタートさせた。次の2つはその頃の作品。天井画や緞帳(どんちょう)のための下絵だからラフな仕上がり。でも制作の舞台裏をのぞいているようで楽しめた。
「音楽の寓意のための下絵(オルガン奏者)」 1885年
「カールスバート市立劇場の緞帳のためのデザイン」 1884〜85年
今まで模写とは画家が修業のためにするものと思っていたが、この展覧会で仕事としての模写もあると知った。絵が傷んできたとか、複製でもいいから名画を飾りたいなどがそのニーズ。展示されていたのはクリムトが城の室内装飾の一環として引き受けたティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」を模写した作品。
イザベラ・デステはルネサンス期の有名な女性で、ダ・ビンチやルーベンスも肖像画を描いている。ティツィアーノの本物を見たことはないけれど、クリムトの模写はわずかに顔がふっくらしているかな。
ところでクリムトの模写の画像はいいのがなかったので、ここに貼っているのは本家ティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」。精巧な模写だからブログの小さなサイズじゃ変わりないって。
「イザベラ・デステの肖像」 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1536年
クリムトが模写したのは1884年
ちなみにティツィアーノが描いた時、イザベラ・デステは60歳過ぎ。しかし彼女は40歳若く描くように依頼したという。なんとご無体な(^^ゞ
当時の他の画家の作品を何点か。
ウィーンは音楽の都で絵のイメージはあまり持っていなかったものの、なかなかイイ感じ。
「装飾的な花束」 ハンス・マカルト 1884年
「アトリエ」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「室内にいる日本の女」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「アトリエ」は日本&中国的な雰囲気で「室内にいる日本の女」はもちろんはっきりと日本をテーマにしている。描かれている女性はヨーロッパ各地で公演をしていた劇団の踊り子らしい。芸者と説明している資料もある。それにしても明治の初めにもうヨーロッパ公演をしている人達がいたんだ。
この頃のヨーロッパはジャポニスムがブーム。有名なのは印象派の画家たちだがクリムトもかなりの影響を受けたとされる。
次の絵はクリムトと日本文化の関わりを示す最も初期の作品といわれている。絵を見てどこが?と思うでしょ。もっとじっくり絵を見てーーーもわかりません。なぜならその理由は額縁に日本的な植物が描かれているから。ちょっと反則やわ(^^ゞ 描かれているのは前回に紹介したクリムトのパートナーであるエミーリエ・フレーゲ。
「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」 1891年
こちらは姪のヘレーネを描いた作品。この頃には既によく知る「クリムトの画風」の作品も描いている。しかしエミーリエやヘレーネの肖像画を見ると、あの画風に到達しなくてもクリムトは後世に名を残す画家になっていただろうと思う。
「ヘレーネ・クリムトの肖像」 1898年
クリムトは1894年にウィーン大学から「医学」「法学」「哲学」をテーマとした3つの天井画の依頼を受ける。今ではそれらはクリムトの代表作と見なされているものの、大学のアカデミックな期待と違って、世紀末的なクリムトワールド全開だったため当時は非難ごうごうに。最終的には取り外され、クリムトは報酬も返却した。その後に作品は個人に売却され、第二次世界大戦でナチスに没収され、ナチス撤退の際の火災で焼失。
展示されていたのは「医学」のために制作された下絵。これが何ともいえず惹きつけられる魅力があって、不気味な絵は苦手なのにしばらく見入ってしまった。
「医学のための習作」 1897〜98年
三部作で現存しているのは白黒の写真のみ。
実に残念な文化遺産の消失である。
「医学」 1899〜1907年
「法学」 1899〜1907年
「哲学」 1899〜1907年
(この写真は展覧会の展示作品ではない)
ーーー続く
「男性裸体像」 1883年
いきなりの男性ヌードでビックリした? 会場では同じような作品が3点展示されていて私もビックリした。もっとも男性ヌードにも駆け出しの頃のクリムトの作品にも興味はない。だからチラッと見るだけにしようと思った。しかし考えてみると男性ヌードを見る機会はあまりない。それでこれも勉強と列に並んでじっくり見ることに。
ところでクリムトの展覧会には若い女性客が多い。行列で彼女らに挟まれて3本のチンチンを見るのは妙な気分。下半身というくらいでアレは下についているイメージがあるが、考えてみれば身体のほぼ中央にある。つまり絵だと画面センターに位置するから、接近するとドーンと目に飛び込んでくる(^^ゞ とりあえず構図の勉強にはなったかも。
クリムトは劇場装飾の仕事でアーチストとしてのキャリアをスタートさせた。次の2つはその頃の作品。天井画や緞帳(どんちょう)のための下絵だからラフな仕上がり。でも制作の舞台裏をのぞいているようで楽しめた。
「音楽の寓意のための下絵(オルガン奏者)」 1885年
「カールスバート市立劇場の緞帳のためのデザイン」 1884〜85年
今まで模写とは画家が修業のためにするものと思っていたが、この展覧会で仕事としての模写もあると知った。絵が傷んできたとか、複製でもいいから名画を飾りたいなどがそのニーズ。展示されていたのはクリムトが城の室内装飾の一環として引き受けたティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」を模写した作品。
イザベラ・デステはルネサンス期の有名な女性で、ダ・ビンチやルーベンスも肖像画を描いている。ティツィアーノの本物を見たことはないけれど、クリムトの模写はわずかに顔がふっくらしているかな。
ところでクリムトの模写の画像はいいのがなかったので、ここに貼っているのは本家ティツィアーノの「イザベラ・デステの肖像」。精巧な模写だからブログの小さなサイズじゃ変わりないって。
「イザベラ・デステの肖像」 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1536年
クリムトが模写したのは1884年
ちなみにティツィアーノが描いた時、イザベラ・デステは60歳過ぎ。しかし彼女は40歳若く描くように依頼したという。なんとご無体な(^^ゞ
当時の他の画家の作品を何点か。
ウィーンは音楽の都で絵のイメージはあまり持っていなかったものの、なかなかイイ感じ。
「装飾的な花束」 ハンス・マカルト 1884年
「アトリエ」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「室内にいる日本の女」 ユリウス・ヴィクトル・ベルガー 1902年
「アトリエ」は日本&中国的な雰囲気で「室内にいる日本の女」はもちろんはっきりと日本をテーマにしている。描かれている女性はヨーロッパ各地で公演をしていた劇団の踊り子らしい。芸者と説明している資料もある。それにしても明治の初めにもうヨーロッパ公演をしている人達がいたんだ。
この頃のヨーロッパはジャポニスムがブーム。有名なのは印象派の画家たちだがクリムトもかなりの影響を受けたとされる。
次の絵はクリムトと日本文化の関わりを示す最も初期の作品といわれている。絵を見てどこが?と思うでしょ。もっとじっくり絵を見てーーーもわかりません。なぜならその理由は額縁に日本的な植物が描かれているから。ちょっと反則やわ(^^ゞ 描かれているのは前回に紹介したクリムトのパートナーであるエミーリエ・フレーゲ。
「17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像」 1891年
こちらは姪のヘレーネを描いた作品。この頃には既によく知る「クリムトの画風」の作品も描いている。しかしエミーリエやヘレーネの肖像画を見ると、あの画風に到達しなくてもクリムトは後世に名を残す画家になっていただろうと思う。
「ヘレーネ・クリムトの肖像」 1898年
クリムトは1894年にウィーン大学から「医学」「法学」「哲学」をテーマとした3つの天井画の依頼を受ける。今ではそれらはクリムトの代表作と見なされているものの、大学のアカデミックな期待と違って、世紀末的なクリムトワールド全開だったため当時は非難ごうごうに。最終的には取り外され、クリムトは報酬も返却した。その後に作品は個人に売却され、第二次世界大戦でナチスに没収され、ナチス撤退の際の火災で焼失。
展示されていたのは「医学」のために制作された下絵。これが何ともいえず惹きつけられる魅力があって、不気味な絵は苦手なのにしばらく見入ってしまった。
「医学のための習作」 1897〜98年
三部作で現存しているのは白黒の写真のみ。
実に残念な文化遺産の消失である。
「医学」 1899〜1907年
「法学」 1899〜1907年
「哲学」 1899〜1907年
(この写真は展覧会の展示作品ではない)
ーーー続く
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