パスキン
2015年04月05日
パスキン展 その2
ツーリングに行ったとかチューリップが咲いたとかの話が途中に挟まったが、3月27日に書いたパスキン展の続き。展覧会に出かけたのは約1ヶ月前だから、そろそろ記憶もあやふやになりかけている。
さて第1次世界大戦の間はパリを離れて主にアメリカにいたパスキンは、戦争が終わって2年後の1920年にパリに戻ってくる。ここから10年後に自殺するまでがパリ第2期で彼の全盛期。(前回1921年に戻ってきたと記したのは間違い。現在は修正済み)
この1920年代にパスキンは画風を確立し、それは「真珠母色の時代」と呼ばれる。真珠の光沢を連想させる溶け合った淡い色彩と柔らかい輪郭が特徴。ポーラ美術館のモディリアーニ展で見た作品などもそれにあたる。しかし調べてみるとパスキンはパリに戻ってから真珠母色の絵ばかりを描いていたわけでなく、結構いろんな画風を使い分けている。ネットでパスキンの絵はかなりヒットするから、彼はかなり多作な画家だったようである。
展覧会で見たパリ第2期のパスキンの作品は3つのパターンに分けられる。
ただしあくまでも私の分類方法。
まずダークトーンで力強い作品。
「ヴィーナスの後ろ姿」 1925〜28年
ドシーンと存在感のあった絵。
でもこれがヴィーナスといわれてもピンとこないけどーーー
「二人のスイス娘」 1925年

アップした写真はわりと柔らかいタッチに写っている。本物はもうすこしゴリッとした感じ。でも表情なんかは真珠母色の作品につながるところもある。
「ジャネット」 1923〜25年
ひょっとしたらヴィーナスを正面から描いたのがこれかな。
真珠母色の作品群はまさにパスキン・ワールドであるが、このダーク・パスキンはそんなにオリジナリティは感じない。どこかで似たような絵を見たような気がするといえばする。だから展覧会でも、チラッと見た程度ではあまり興味も引かない。しかし会場内を往復して何度か見るうちに、だんだんといい絵に見えてくるというか、すごく味わい深い印象を受けるのが不思議。
その次はややモノトーン的な作品。真珠母色と同じようなノリだが、やや軽めに仕上げた、またはあまり手間を掛けなかった印象を受ける。
「ジメットとミレイユ」 1927年
「椅子に座る女」 1927年
「ミレイユ」 1930年
そしていよいよ真珠母色の作品。
色が混じり合っている、溶け合っているところがパスキン・マジック。残念ながらその感覚というか臨場感は写真ではなかなか伝わらない。
「二人の座る少女」 1925年
「長い髪のエリアーヌ」 1927年〜29年」
これこそがヴィーナスでしょ。
真珠母色シリーズは背景にいろんな色を溶け合わせてふんわりした感じをだす。ある意味ちょっと作為的。でもこの絵は背景を割と普通に描いているのに全体的なふんわり感は1番だった。
「テーブルのリュシーの肖像」 1928年
これに描かれているのはパスキンの不倫相手で自殺の一因にもなったといわれている女性。リュシーはLucyで英語読みならルーシー。
「幼い女優」 1927年
「腰かける女」 1928年
「マリエッタの肖像」 1928〜29年
真珠母色の作品群は10点くらいが1つのコーナーにまとめられていて、そのコーナーに足を踏み入れたとたん思わず「わあ〜」と声が出そうになったくらい、その場の空気がパスキン・ワールドに包まれていた。何かを訴えてくるような絵ではないのだが、とにかく見ていて幸せな気分になってくる。なんとなくスイーツみたいな存在の絵である。
ところで私はパスキンを相当に気に入っているのだが、日本ではあまり人気がないらしい。この日も平日の昼間とはいえ美術館にあまり人はいなかった。パナソニック汐留ミュージアムはあまり広くないので、もしこれが普通の美術館で開催されていたらガラガラ状態だったかも知れない。日本人受けする画家だと思うんだけれどなあ。
ここからは番外編。
「ダンス」 1925年
これはどうみてもマティスのダンスから影響を受けた作品。パスキンとマティスは仲がよかったとのこと。マティスにはそれほど興味がないが、この作品を見てすぐマティス!と思い浮かんだから、やっぱりあのダンスという作品はインパクトがあったのだと改めて気付いた。
「遊女に罵倒されるソクラテスと弟子たち」 1921年
これはまあ絵というよりタイトルに惹かれた。
こういう線画というか漫画みたいな作品もたくさん展示されていた。普段は資料的に展示されている素描や下書きの類はチラ見しかしないのだが、この日はわりと熱心に見た。落書きみたいなものも多かったが、なんとなくパスキンのは面白い。
ちなみにパスキンは暇さえあれば絵を描いていたらしく、仲間と写っているこの写真でも一人黙々とペンを走らせている。(右端がパスキン)この写真は展示会にもあったが、注目すべきはパスキンよりもテーブルにうずたかく積まれた小皿の山。1920年代のパリに回転寿司があった?
さてネットでパスキンの絵を探している時に見つけたのがこの写真。
左側のは展覧会でも見かけた。
山高帽をかぶってタバコをくわえているのがパスキン。モデルが二人いて、後ろに彼女たちを描いた絵がイーゼルに掛かっている。今風にいうならメイキング画像。白黒写真だからわからないが、後ろにある絵は真珠母色の絵のような気がする。
ーーーだとしたらである。
もう一度上に貼った真珠母色の作品を眺めて、それからこのイーゼルの絵を見て欲しい。白黒写真でも淡い色彩が混じり合ったパスキン・ワールドの絵が見えてくるような気がするはず。それで再びモデルの二人に目をやると「なんか違う」「夢が壊れた」という気にならない?
それで改めて気付いたのは、絵とは画家が描いたファンタジーを楽しむものだということ。ファンタジーという言葉は曖昧だけれど、空想とか願望とか演出とかが混じり合った画家が表現したかったことというような意味で使っている。絵に限らずほとんどの芸術も同じかな。ある作品が気に入る気に入らないというのは、そのファンタジーと自分の波長が合うかどうかということだと思う。
そこにどんなファンタジーが描かれているのかという観点から今まで見てきた絵、特にわりと写実的な風景画や肖像画を振り返ってみると、それまでとは違う見え方もする。何か視野が広がった感じ。とりあえずこのメイキング写真を撮ってくれたカメラマンに感謝。
前回に書いたようにパスキンは1930年に45歳で自殺する。リュシーとの不倫関係が原因かどうかはわかっていないが、手首を切って壁に血文字で「ADIEU LUCY」(さよなら、リュシー)と書いた後に首を吊ったといわれる。彼の葬儀の日にパリ中の画廊が店を閉めて弔意を表したというのは、モンパルナスの王子、エコール・ド・パリの貴公子と呼ばれたパスキンが皆に愛されていたことを伝えるエピソード。
ところで不倫相手の名前を血文字で書いて自殺されたら正妻としては怒り心頭のはず。しかし実はパスキンとリュシーのW不倫は妻エルミーヌも公認の仲。パスキン、エルミーヌ、リュシー、リュシーの息子ギィ(パスキンの子供ではない)と一緒によく出かけていたという記録や写真が残っている。エルミーヌ自身も画家でかなり人気があったらしい。パスキンの作品はエルミーヌとリュシーが半分ずつ相続することになったが、エルミーヌは自分の取り分をすべてリュシーに譲ったというから太っ腹。
左がエルミーヌで右がリュシー。

そして45歳で自殺したことと関係あるのかどうか、
パスキンは次のような言葉を残している。
人間、45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ。
それまでに力を発揮できていなければ、その歳で生み出すものは、
もはや何もないだろう。
おおムッシュ・パスキン、
20年ほど前にあなたの言葉を学んでいたかった(^^ゞ
おしまい
さて第1次世界大戦の間はパリを離れて主にアメリカにいたパスキンは、戦争が終わって2年後の1920年にパリに戻ってくる。ここから10年後に自殺するまでがパリ第2期で彼の全盛期。(前回1921年に戻ってきたと記したのは間違い。現在は修正済み)
この1920年代にパスキンは画風を確立し、それは「真珠母色の時代」と呼ばれる。真珠の光沢を連想させる溶け合った淡い色彩と柔らかい輪郭が特徴。ポーラ美術館のモディリアーニ展で見た作品などもそれにあたる。しかし調べてみるとパスキンはパリに戻ってから真珠母色の絵ばかりを描いていたわけでなく、結構いろんな画風を使い分けている。ネットでパスキンの絵はかなりヒットするから、彼はかなり多作な画家だったようである。
展覧会で見たパリ第2期のパスキンの作品は3つのパターンに分けられる。
ただしあくまでも私の分類方法。
まずダークトーンで力強い作品。
「ヴィーナスの後ろ姿」 1925〜28年
ドシーンと存在感のあった絵。
でもこれがヴィーナスといわれてもピンとこないけどーーー
「二人のスイス娘」 1925年

アップした写真はわりと柔らかいタッチに写っている。本物はもうすこしゴリッとした感じ。でも表情なんかは真珠母色の作品につながるところもある。
「ジャネット」 1923〜25年
ひょっとしたらヴィーナスを正面から描いたのがこれかな。
真珠母色の作品群はまさにパスキン・ワールドであるが、このダーク・パスキンはそんなにオリジナリティは感じない。どこかで似たような絵を見たような気がするといえばする。だから展覧会でも、チラッと見た程度ではあまり興味も引かない。しかし会場内を往復して何度か見るうちに、だんだんといい絵に見えてくるというか、すごく味わい深い印象を受けるのが不思議。
その次はややモノトーン的な作品。真珠母色と同じようなノリだが、やや軽めに仕上げた、またはあまり手間を掛けなかった印象を受ける。
「ジメットとミレイユ」 1927年
「椅子に座る女」 1927年
「ミレイユ」 1930年
そしていよいよ真珠母色の作品。
色が混じり合っている、溶け合っているところがパスキン・マジック。残念ながらその感覚というか臨場感は写真ではなかなか伝わらない。
「二人の座る少女」 1925年
「長い髪のエリアーヌ」 1927年〜29年」
これこそがヴィーナスでしょ。
真珠母色シリーズは背景にいろんな色を溶け合わせてふんわりした感じをだす。ある意味ちょっと作為的。でもこの絵は背景を割と普通に描いているのに全体的なふんわり感は1番だった。
「テーブルのリュシーの肖像」 1928年
これに描かれているのはパスキンの不倫相手で自殺の一因にもなったといわれている女性。リュシーはLucyで英語読みならルーシー。
「幼い女優」 1927年
「腰かける女」 1928年
「マリエッタの肖像」 1928〜29年
真珠母色の作品群は10点くらいが1つのコーナーにまとめられていて、そのコーナーに足を踏み入れたとたん思わず「わあ〜」と声が出そうになったくらい、その場の空気がパスキン・ワールドに包まれていた。何かを訴えてくるような絵ではないのだが、とにかく見ていて幸せな気分になってくる。なんとなくスイーツみたいな存在の絵である。
ところで私はパスキンを相当に気に入っているのだが、日本ではあまり人気がないらしい。この日も平日の昼間とはいえ美術館にあまり人はいなかった。パナソニック汐留ミュージアムはあまり広くないので、もしこれが普通の美術館で開催されていたらガラガラ状態だったかも知れない。日本人受けする画家だと思うんだけれどなあ。
ここからは番外編。
「ダンス」 1925年
これはどうみてもマティスのダンスから影響を受けた作品。パスキンとマティスは仲がよかったとのこと。マティスにはそれほど興味がないが、この作品を見てすぐマティス!と思い浮かんだから、やっぱりあのダンスという作品はインパクトがあったのだと改めて気付いた。
「遊女に罵倒されるソクラテスと弟子たち」 1921年
これはまあ絵というよりタイトルに惹かれた。
こういう線画というか漫画みたいな作品もたくさん展示されていた。普段は資料的に展示されている素描や下書きの類はチラ見しかしないのだが、この日はわりと熱心に見た。落書きみたいなものも多かったが、なんとなくパスキンのは面白い。
ちなみにパスキンは暇さえあれば絵を描いていたらしく、仲間と写っているこの写真でも一人黙々とペンを走らせている。(右端がパスキン)この写真は展示会にもあったが、注目すべきはパスキンよりもテーブルにうずたかく積まれた小皿の山。1920年代のパリに回転寿司があった?
さてネットでパスキンの絵を探している時に見つけたのがこの写真。
左側のは展覧会でも見かけた。
山高帽をかぶってタバコをくわえているのがパスキン。モデルが二人いて、後ろに彼女たちを描いた絵がイーゼルに掛かっている。今風にいうならメイキング画像。白黒写真だからわからないが、後ろにある絵は真珠母色の絵のような気がする。
ーーーだとしたらである。
もう一度上に貼った真珠母色の作品を眺めて、それからこのイーゼルの絵を見て欲しい。白黒写真でも淡い色彩が混じり合ったパスキン・ワールドの絵が見えてくるような気がするはず。それで再びモデルの二人に目をやると「なんか違う」「夢が壊れた」という気にならない?
それで改めて気付いたのは、絵とは画家が描いたファンタジーを楽しむものだということ。ファンタジーという言葉は曖昧だけれど、空想とか願望とか演出とかが混じり合った画家が表現したかったことというような意味で使っている。絵に限らずほとんどの芸術も同じかな。ある作品が気に入る気に入らないというのは、そのファンタジーと自分の波長が合うかどうかということだと思う。
そこにどんなファンタジーが描かれているのかという観点から今まで見てきた絵、特にわりと写実的な風景画や肖像画を振り返ってみると、それまでとは違う見え方もする。何か視野が広がった感じ。とりあえずこのメイキング写真を撮ってくれたカメラマンに感謝。
前回に書いたようにパスキンは1930年に45歳で自殺する。リュシーとの不倫関係が原因かどうかはわかっていないが、手首を切って壁に血文字で「ADIEU LUCY」(さよなら、リュシー)と書いた後に首を吊ったといわれる。彼の葬儀の日にパリ中の画廊が店を閉めて弔意を表したというのは、モンパルナスの王子、エコール・ド・パリの貴公子と呼ばれたパスキンが皆に愛されていたことを伝えるエピソード。
ところで不倫相手の名前を血文字で書いて自殺されたら正妻としては怒り心頭のはず。しかし実はパスキンとリュシーのW不倫は妻エルミーヌも公認の仲。パスキン、エルミーヌ、リュシー、リュシーの息子ギィ(パスキンの子供ではない)と一緒によく出かけていたという記録や写真が残っている。エルミーヌ自身も画家でかなり人気があったらしい。パスキンの作品はエルミーヌとリュシーが半分ずつ相続することになったが、エルミーヌは自分の取り分をすべてリュシーに譲ったというから太っ腹。
左がエルミーヌで右がリュシー。

そして45歳で自殺したことと関係あるのかどうか、
パスキンは次のような言葉を残している。
人間、45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ。
それまでに力を発揮できていなければ、その歳で生み出すものは、
もはや何もないだろう。
おおムッシュ・パスキン、
20年ほど前にあなたの言葉を学んでいたかった(^^ゞ
おしまい
wassho at 18:10|Permalink│Comments(0)│
2015年03月27日
パスキン展 生誕130年 エコール・ド・パリの貴公子
去年の8月に箱根のポーラ美術館にモディリアーニ展を見に行き、そこで2〜3点掛けられていた絵がやたら気に入ったジュール・パスキン。汐留にあるパナソニック汐留ミュージアムで展覧会が開かれていたので見に行ってきた。別に書き忘れていたわけじゃないんだけれど、訪れたのは2週間ほど前で遅ればせながらのレポート。
ところでモディリアーニがモンパルナスのプリンスで、パスキンはモンパルナスの王子だからややこしいとは以前にも書いたが、今回はエコール・ド・パリの貴公子ときた。パスキンは貴族の出ではないが、割と裕福な家庭に生まれ、早くから成功して金に困ることはなかったというから、モディリアーニやその他大勢の画家達とはずいぶん境遇が違う。しかし放蕩生活の果てにアルコール依存症と鬱病に苦しみ、さらに不倫の恋に落ちて45歳で自殺。そういう意味では古き良き芸術家のイメージを裏切らない(^^ゞ
なかなかのイケメンでもある。
これは21歳の時の写真。
展示会は年代順に作品を並べる回顧展スタイル。
それに沿って簡単にパスキンの生涯を書いておくと
1885年(明治18年)生まれのブルガリア人
↓↓
ウイーンなどで絵の勉強をした後に1903年から1905年、つまり18歳前後は
ミュンヘンで活動する。雑誌の挿絵画家として早くも成功したらしい。
↓↓
その後パリに渡り1905年から1914年がパリ第1期。イラストレーターから
画家に転身を図る。
↓↓
1914年に第1次世界大戦が起こると、ロンドン、ニューヨーク、フロリダ、キューバ
などを転々とする。パリにいると母国ブルガリアに徴兵されるという理由らしい。
↓↓
1918年に戦争が終わり1920年にパリに戻る。
この時に34〜35歳で、ここからがパリ第2期。
↓↓
1930年に自殺。享年45。 南無
「ミュンヘンの少女」 1903年
ミュンヘン時代の作品。タイトルがわかりやすくてよい。
パスキンは挿絵作家として活躍しながらも、本格的な絵の勉強に美術学校にも通っていた。これは美術学生としてのパスキンの作品とされる。画家の初期の作品については「デッサンが確かだ」とか「後の代表作につながる閃きがある」とかいって褒めるのがお約束。残念ながらデッサンが確かかどうかを見極める能力はないので、上手に描けているけれどちょっと陰気な絵くらいにしか感じなかった。
ポーラ美術館で見たのはパスキンのパリ第2期の作品である。
第1期の作品はそれとはずいぶんと違う。
「座るイタリアの娘」 1912年
ブサイクだしデブだし不機嫌そうだし。なんでこんな絵を描いたのかなあ〜と思ってしまう絵。もしこの絵をもらっても、たぶん家には飾らない気がするけど。
「二人の少女」 1907年
でもパスキンは肥った女性も好きだったみたい。これは画家パスキンではなく挿絵イラストレーターとしてのパスキンの作品。
「酔ったナポレオン」 1909年

パスキンにはこんなお茶目なものもある。どんな解説がついていたか忘れてしまったが、これも挿絵かな? これがパスキンの挿絵だとズラーッと並べてある展示はなかったような気がする。私が見たかったパスキンは展示会後半にあるのはわかっていたから、この時期の展示はあまり熱心に見ていなかった。
「キューバでの集い」 1915〜17年
パリから離れていた時期の作品。ちょっとキュビスム的。パスキンとキュビスムなんて対局にある気がする。しかし当時の画家なら誰でもちょっとはキュビスムを試してみたくなるものだったのかも知れない。色調は違うが、パリ第2期の作品にみられるフワーッと色が混ざり合っているような傾向はこの作品にもあらわれていると思う。キュビスムが形の再構築だとしたらパスキンの絵は情景の反芻かなと、わかったようなことをいってみる。
そしていよいよパリに戻ってくる。
ーーー続く
ところでモディリアーニがモンパルナスのプリンスで、パスキンはモンパルナスの王子だからややこしいとは以前にも書いたが、今回はエコール・ド・パリの貴公子ときた。パスキンは貴族の出ではないが、割と裕福な家庭に生まれ、早くから成功して金に困ることはなかったというから、モディリアーニやその他大勢の画家達とはずいぶん境遇が違う。しかし放蕩生活の果てにアルコール依存症と鬱病に苦しみ、さらに不倫の恋に落ちて45歳で自殺。そういう意味では古き良き芸術家のイメージを裏切らない(^^ゞ
なかなかのイケメンでもある。
これは21歳の時の写真。
展示会は年代順に作品を並べる回顧展スタイル。
それに沿って簡単にパスキンの生涯を書いておくと
1885年(明治18年)生まれのブルガリア人
↓↓
ウイーンなどで絵の勉強をした後に1903年から1905年、つまり18歳前後は
ミュンヘンで活動する。雑誌の挿絵画家として早くも成功したらしい。
↓↓
その後パリに渡り1905年から1914年がパリ第1期。イラストレーターから
画家に転身を図る。
↓↓
1914年に第1次世界大戦が起こると、ロンドン、ニューヨーク、フロリダ、キューバ
などを転々とする。パリにいると母国ブルガリアに徴兵されるという理由らしい。
↓↓
1918年に戦争が終わり1920年にパリに戻る。
この時に34〜35歳で、ここからがパリ第2期。
↓↓
1930年に自殺。享年45。 南無
「ミュンヘンの少女」 1903年
ミュンヘン時代の作品。タイトルがわかりやすくてよい。
パスキンは挿絵作家として活躍しながらも、本格的な絵の勉強に美術学校にも通っていた。これは美術学生としてのパスキンの作品とされる。画家の初期の作品については「デッサンが確かだ」とか「後の代表作につながる閃きがある」とかいって褒めるのがお約束。残念ながらデッサンが確かかどうかを見極める能力はないので、上手に描けているけれどちょっと陰気な絵くらいにしか感じなかった。
ポーラ美術館で見たのはパスキンのパリ第2期の作品である。
第1期の作品はそれとはずいぶんと違う。
「座るイタリアの娘」 1912年
ブサイクだしデブだし不機嫌そうだし。なんでこんな絵を描いたのかなあ〜と思ってしまう絵。もしこの絵をもらっても、たぶん家には飾らない気がするけど。
「二人の少女」 1907年
でもパスキンは肥った女性も好きだったみたい。これは画家パスキンではなく挿絵イラストレーターとしてのパスキンの作品。
「酔ったナポレオン」 1909年

パスキンにはこんなお茶目なものもある。どんな解説がついていたか忘れてしまったが、これも挿絵かな? これがパスキンの挿絵だとズラーッと並べてある展示はなかったような気がする。私が見たかったパスキンは展示会後半にあるのはわかっていたから、この時期の展示はあまり熱心に見ていなかった。
「キューバでの集い」 1915〜17年
パリから離れていた時期の作品。ちょっとキュビスム的。パスキンとキュビスムなんて対局にある気がする。しかし当時の画家なら誰でもちょっとはキュビスムを試してみたくなるものだったのかも知れない。色調は違うが、パリ第2期の作品にみられるフワーッと色が混ざり合っているような傾向はこの作品にもあらわれていると思う。キュビスムが形の再構築だとしたらパスキンの絵は情景の反芻かなと、わかったようなことをいってみる。
そしていよいよパリに戻ってくる。
ーーー続く
wassho at 08:10|Permalink│Comments(0)│
2014年08月09日
モディリアーニ展 その3
「地中海の庭」 ピエール・ボナール
モディリアーニの絵はあまり健康的な印象を受けない。そんな展覧会の中でひときわ明るくキレイだったのがこの作品。横幅約2メートルのかなり大きめの作品。もうちょっと背景を明るく描いてくれたら、もっと際立ったのにと勝手な注文。
黄色いのはミモザの花らしい。でもミモザって、こんなツツジの植え込みみたいに低くまとまって育てられるのかなあ。どちらかというと大きな木のイメージがあるけれど。まあ地中海ではこういうミモザもあるんだと思うことにしよう。
ピエール・ボナールはナビ派の画家。ナビはカーナビのナビではなくヘブライ語で予言者の意味。でも予言者と道案内は似たようなところがあるから、カーナビのナビもそこから派生した言葉かもしれない。
ナビ派は印象派の時代の終わりのほうに誕生したから比較されることが多い。より装飾的、より主観的、よりフィクション的らしいが、それがどういうことなのかは今のところチンプンカンプン。ナビ派展でもあればもう少し理解できるかもしれない。でもまあ好きなように描いたということなんだろう。
じゃ私も好きなように絵を見ようということで。
最初に述べたように遠景が少し暗いのが気になったので、こんな加工をしてみた。
画家に注文して自分好みの絵を描かせる富豪になった気分(^^ゞ
病みつきになるかも。
ところでピエール・ボナールはこんなことを言っている。
「絵画とは小さな嘘をいくつも重ねて大きな真実を作ることである」
なかなか含蓄がある。絵画のところを別の言葉にいろいろと置き換えられそうである。
「果物を持つ少女」 ジュール・パスキン
「少女たち」 ジュール・パスキン
ひょっとしたらモディリアーニよりパスキンの絵を眺めていた時間のほうが長かったかもしれない。微妙な色合いの絵で、本物はブログに貼っているものよりもっと色数が多く感じられる。ポーラ美術館は空いているからじっくり鑑賞できて、見れば見るほどほどいい絵に思えてくる味わい深い作風。
モディリアーニと同じくエコール・ド・パリの画家に数えられる。それでモディリアーニがモンパルナスのプリンスと呼ばれたのに対して、パスキンはモンパルナスの王子と呼ばれていたらしい。プリンスと王子は同じ言葉の英語と日本語だから二人をどう区別していたんだろう?
王子と呼ばれていたのはモディリアーニと同じく放蕩な生活を送っていたから。しかしモディリアーニもそうだけれど、絵を見る限りそんなイメージが皆無なのが不思議なところ。そのあたりが凡人とは違う才能を持った芸術家ということか。私が放蕩生活を送って絵を描いたら、必ずそれは絵に現れると思う(^^ゞ
2つ前のエントリーにエコール・ド・パリと狂騒の時代のパリのことを書いた。その時代は1929年の世界大恐慌で終わりを告げる。恐慌とは関係ない理由でジュール・パスキンも翌1930年に自殺。恐慌の時代には絵も売れないのでエコール・ド・パリも消滅していく。そういう意味じゃエコール・ド・パリ最後のスター画家がパスキン。
紹介する順序が逆になったがポーラ美術館の写真。
毎度おなじみのエントランス。
山の斜面を利用した建物でエントランスからエスカレーターで下に降りる構造。1階下に受付やレストランなどがあって、企画展の展示室は2階下。
モディリアーニ展の入り口。
さらに下の階で常設展も楽しんできた。
通路から上を見上げた写真。
売店の様子。
空いているからゆっくる絵を眺められるし、常設展示も充実していてお勧めの美術館。というか自前の収蔵品にちょっと足すだけで企画展を開けるのが、この美術館のすごいところ。へんぴな場所にあるが美術館の前にはバス停がある。バスに乗ってやってくる人も多い。来年の夏も私好みの企画展を開いて欲しいなあ。
おしまい
モディリアーニの絵はあまり健康的な印象を受けない。そんな展覧会の中でひときわ明るくキレイだったのがこの作品。横幅約2メートルのかなり大きめの作品。もうちょっと背景を明るく描いてくれたら、もっと際立ったのにと勝手な注文。
黄色いのはミモザの花らしい。でもミモザって、こんなツツジの植え込みみたいに低くまとまって育てられるのかなあ。どちらかというと大きな木のイメージがあるけれど。まあ地中海ではこういうミモザもあるんだと思うことにしよう。
ピエール・ボナールはナビ派の画家。ナビはカーナビのナビではなくヘブライ語で予言者の意味。でも予言者と道案内は似たようなところがあるから、カーナビのナビもそこから派生した言葉かもしれない。
ナビ派は印象派の時代の終わりのほうに誕生したから比較されることが多い。より装飾的、より主観的、よりフィクション的らしいが、それがどういうことなのかは今のところチンプンカンプン。ナビ派展でもあればもう少し理解できるかもしれない。でもまあ好きなように描いたということなんだろう。
じゃ私も好きなように絵を見ようということで。
最初に述べたように遠景が少し暗いのが気になったので、こんな加工をしてみた。
画家に注文して自分好みの絵を描かせる富豪になった気分(^^ゞ
病みつきになるかも。
ところでピエール・ボナールはこんなことを言っている。
「絵画とは小さな嘘をいくつも重ねて大きな真実を作ることである」
なかなか含蓄がある。絵画のところを別の言葉にいろいろと置き換えられそうである。
「果物を持つ少女」 ジュール・パスキン
「少女たち」 ジュール・パスキン
ひょっとしたらモディリアーニよりパスキンの絵を眺めていた時間のほうが長かったかもしれない。微妙な色合いの絵で、本物はブログに貼っているものよりもっと色数が多く感じられる。ポーラ美術館は空いているからじっくり鑑賞できて、見れば見るほどほどいい絵に思えてくる味わい深い作風。
モディリアーニと同じくエコール・ド・パリの画家に数えられる。それでモディリアーニがモンパルナスのプリンスと呼ばれたのに対して、パスキンはモンパルナスの王子と呼ばれていたらしい。プリンスと王子は同じ言葉の英語と日本語だから二人をどう区別していたんだろう?
王子と呼ばれていたのはモディリアーニと同じく放蕩な生活を送っていたから。しかしモディリアーニもそうだけれど、絵を見る限りそんなイメージが皆無なのが不思議なところ。そのあたりが凡人とは違う才能を持った芸術家ということか。私が放蕩生活を送って絵を描いたら、必ずそれは絵に現れると思う(^^ゞ
2つ前のエントリーにエコール・ド・パリと狂騒の時代のパリのことを書いた。その時代は1929年の世界大恐慌で終わりを告げる。恐慌とは関係ない理由でジュール・パスキンも翌1930年に自殺。恐慌の時代には絵も売れないのでエコール・ド・パリも消滅していく。そういう意味じゃエコール・ド・パリ最後のスター画家がパスキン。
紹介する順序が逆になったがポーラ美術館の写真。
毎度おなじみのエントランス。
山の斜面を利用した建物でエントランスからエスカレーターで下に降りる構造。1階下に受付やレストランなどがあって、企画展の展示室は2階下。
モディリアーニ展の入り口。
さらに下の階で常設展も楽しんできた。
通路から上を見上げた写真。
売店の様子。
空いているからゆっくる絵を眺められるし、常設展示も充実していてお勧めの美術館。というか自前の収蔵品にちょっと足すだけで企画展を開けるのが、この美術館のすごいところ。へんぴな場所にあるが美術館の前にはバス停がある。バスに乗ってやってくる人も多い。来年の夏も私好みの企画展を開いて欲しいなあ。
おしまい
wassho at 22:22|Permalink│Comments(0)│