ピカソ

2024年01月29日

キュビスム展 美の革命 その3

「大きな裸婦」を描いて、3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくった?ブラックはピカソと意気投合し、お互いのアトリエを行き来しながらキュビスム作品の制作を進めていく。


ピカソ 「裸婦」 1909年
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ピカソ 「肘掛け椅子に座る女性」 1910年
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ピカソ 「ギター奏者」 1910年
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ジョルジュ・ブラック 「レスタックのリオ・ティントの工場」 1910年
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ジョルジュ・ブラック 「円卓」 1911年
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ジョルジュ・ブラック 「ヴァイオリンのある静物」 1913年
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どちらがピカソでどちらがブラックかわからないほど似通っている。
この頃はキュビスムの

  多角度の視点を平面(キャンバス)に落とし込む
  対象を解体・単純化して幾何形態に置き換える

の2つの特徴のうち後者が強く表れている。前回にキュビスムとの名前は特徴のひとつにしか焦点が当たっていないから不満と書いた。言葉が生まれたのはブラックが「レスタックの高架橋」を発表した1908年で、それが広まったのはフィガロ誌が記事に使い始めた1909年からとされている。当時はこんな作品が中心だった状況を考えれば立方体主義のキュビスムと呼ばれても仕方ないか。

目に見えているものを解体・単純化して幾何形態に置き換えるとは、言い換えればその裏側あるいは「形」の本質を見極めようとすることなのだろうか? よくわからないけれど、この頃のキュビスムは「分析的キュビスム」と名付けられている。形以外は重要じゃないからか色彩も控えめ。ちなみに前回までに紹介した作品は「セザンヌ的キュビスム」という。

ピカソの3作品を見ると「裸婦」は単にヘンな絵にしか見えなくても、「肘掛け椅子に座る女性」は表現のコツをつかんだ感じでけっこうサマになっている。ただし「ギター奏者」は対象と背景が渾然として、それはそういう狙いかも知れないが見ている側としては訳がわからない。たぶん本人もわかっていないのじゃないか? ブラックの3作品はいかにも暗中模索で過渡期的な印象。

いずれにしてもヘンな「絵」であるのに変わりなく、それは今までいだいていた認識と変わらない。しかし展覧会でこれらがまとまって並んでいるのを眺めると「模様」としては意外と面白く、しゃれた雰囲気もあると感じたのが新たな発見。もしそんな感想をピカソやブラックに言ったらパレットでシバかれるな(^^ゞ



そしてピカソとブラックのキュビスムは、
少しずつ親しみやすい画風に変わっていく。

ジョルジュ・ブラック 「果物皿とトランプ」 1913年
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ジョルジュ・ブラック 「ギターを持つ男性」 1914年
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ピカソ 「ヴァイオリン」 1914年
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親しみやすい画風に変化したのは理由がある。対象を解体・単純化して幾何形態に置き換えるとピカソの「ギター奏者」やブラックの「レスタックのリオ・ティントの工場」のように対象からかけ離れすぎて抽象画のようになってしまう。彼らが目指していたのは対象の新たな表現方法の開発。言い換えればあくまで具象画であって抽象画ではない。

そこで現実から遊離した絵を、再び現実に引き戻す作業がおこなわれる。行ったり来たりご苦労様である(^^ゞ それらの作品は先ほど書いた「分析的キュビスム」に対して「総合的キュビズム」と呼ぶ。総合と言うよりは統合の法がニュアンスが正確かな。

具体的にはコラージュで何か貼り付けたりあるいはコラージュ風に描く、また文字を描いたり、記号的なモチーフを入れたりが試みられた。「果物皿とトランプ」ではブドウとトランプは現実世界を表す記号としてごく普通に形を崩さず描かれているし、「ギターを持つ男性」のギターも同様。「ヴァイオリン」のヴァイオリンはけっこうバラバラに分解されていても、文字を入れることによって観念的になりすぎるのを引き留めている。

ところで BASS は低音でヴァイオリンに似合っていないし JOU は辞書にはなかった。どうでのいいけれど、おそらくヴァイオリンの弦と思われるラインが上側で1本多いのが不思議(ヴァイオリンは4本源の楽器)。


「総合的キュビズム」は確かに絵としてはまとまりを取り戻してはいるものの、「分析的キュビスム」が持っていたある種の凄みが消えて、「肘掛け椅子に座る女性」のようにゾクッとさせてくれないのがつまらない。


さて1907年にピカソが「アヴィニョンの娘たち」ブラックが「大きな裸婦」を描き、お互いに影響を与えながら発展させてきた彼らのキュビスム。しかし1914年に第1次世界大戦が始まりブラックが出征することで、その共同作業とでもいうべき制作は終了する。



ーーー続く
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2024年01月26日

キュビスム展 美の革命

国立西洋美術館で1月28日まで開催されているキュビスム展。
鑑賞してきたのは昨年の11月29日。
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ブログに書くのがずいぶんと遅くなってしまった。
訪れたときに国立西洋美術館がある上野公園のイエローオータムが予想以上に素晴らしくて、それでスイッチが入ってしまい、例年のもみじ狩りが3カ所くらいなのに昨年は13カ所も出かけたのが遅れた理由のひとつ。
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そろそろ思い出しながら書いていきましょう。

ポスター

展覧会の正式タイトルは

   パリ ポンピドゥーセンター 
   キュビスム展 美の革命 
   ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ

とやたら長い。

パリの総合文化施設であるポンピドゥーセンター所蔵の、キュビスム絵画作品の展覧会がアウトライン。そのキュビスムとは美の革命であるとタイトルで強調している。

ただし英文では THE CUBIST REVOLUTION (キュビスム画家の革命)。キュビスムは確かに絵画表現における革命であったとしても、美について革命したわけじゃない。だから英文の「キュビスム画家の革命」のほうがしっくりくる。しかしそれではキャッチーでないとマーケティング担当者は考えたのに違いない。映画のタイトルなどでよくある話。

もっとも「An Officer and a Gentleman」→ これは「Conduct unbecoming an officer and a gentleman」という軍隊用語の略。軍法会議などで使われ、直訳すれば「将校および紳士に相応しくない行為」。その原題に「愛と青春の旅だち」と邦題をつけたレベルに「美の革命」はまったく及んでいないけれど。

名前が挙げられているピカソとブラックはキュビスムの創始者である画家。ドローネーはキュビスムを発展させた画家のひとり。シャガールはキュビスムの影響を受けた画家ではあるとしても、それは彼のメインストリームではないし、一般にキュビスム画家には分類しない。でもキュビスムは超巨匠のピカソを除けばあまりネームバリューが高くない画家が多いから、客寄せパンダ的に引っ張り出されたのかも知れない。



さてキュビスムとは何かについては追々書くとして、実はキュビスムはまったく趣味じゃない。キュビスムでこれは素晴らしい・欲しいと思った作品もないし、難解にこねくり回したようなその画風や世界観は「酔えるものこそがアート」との私の考えにも反する。

ではなぜ展覧会を見に出かけたかといえば半分はお勉強のため。過去の展覧会で藤田嗣治やパスキンなど意外な画家がキュビスム的な作品を残しているのを目にしてきた。だからキュビスムのイロハ程度は知っておいて損はしない、食わず嫌いはよくないぞとの意識が頭のどこかにあったから。

聞けば日本でキュビスムをテーマにした展覧会はおよそ50年ぶりとのこと。そして今回はピカソとブラックを含む主要作家約40人・約140点(うち50点以上が日本初出品)が出展され、いわばキュビスムの回顧展のような内容。だったら行ってみようかと。

そして残り半分はキュビスムが趣味じゃないといっても、そんなにたくさんの作品、特にピカソとブラック以外の作品を見たわけじゃないから。キュビスムといってもいろいろあるだろうし、ひょっとしたら好きな画家や作品が見つかるかもとのスケベ心(^^ゞ



初期のキュビスムはセザンヌの画風が影響した、あるいはそれを発展させたとものとよくいわれる。それで最初に展示されているのがセザンヌの作品。

セザンヌ 「ラム酒の瓶のある静物」 1890年頃
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タケノコみたいに見えるのがラム酒ね。セザンヌの影響とは彼の多角度からの視点なのだけれど、この絵ではわかりにくいので、この展覧会に出展されていない「果物籠のある静物」というもっと端的な作品を紹介しておこう 。
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ごく普通の静物画に思えるものの、よく見ると大きな瓶(かめ)はやや上からの視点で描かれているのに対して、ティーポットは真横から見ている。また果物かごは垂直に置かれているのに、それが置かれているテーブルは手前に傾斜している、つまり斜め上から見ている。このように多角度の視点を1枚の絵に混在させるのがセザンヌの静物画の特徴。それによって独特の空間表現とリズム感が生み出されてハマる人にはハマる。

私にもそんな時期があった。でも多角度の視点なんて気付かずに、セザンヌの静物画は他の画家とはどこか違うなあと思っていただけ。おそらくセザンヌのこのトリックは実際に絵を描く人ならすぐに見抜くものだと思う。そして、そんな手があったのかと取り入れたくなるのだろう。


展示会にあった他のセザンヌ作品。

セザンヌ 「ポントワーズの橋と堰」 1881年頃
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これとキュビスムの関わりはよくわからない。ひょっとしたら解説に書かれていたかも知れないが、基本そういうのは読まないタイプなのでm(_ _)m でもキュビスムの特徴は、西洋絵画の伝統であった遠近法や陰影法による空間表現の否定でもあるから、その参考例なのかと思っている。


セザンヌはキュビスムの関わりでよく取り上げられるが、
この展覧会にはこんな画家の作品もあった。

ゴーギャン 「海辺に立つブルターニュの少女たち」 1889年
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ルソー 「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」 1910年頃
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マリー・ローランサン 「アポリネールとその友人たち(第2ヴァージョン)」 1909年
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「ポントワーズの橋と堰」以上にキュビスムとの関連はよくわからないものの、それぞれいい絵だったので単純に満足。特にこの年代のマリー・ローランサンの、例のパステルカラー的な画風を確立する前の作品は久しぶりに見た感じ。


これらはアフリカの仮面や小像。

制作者不詳 「ダンの競争用の仮面(コートジボワール)」 1850〜1900年頃
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制作者不詳 「バンバラの小像(マリ)」 1850〜1900年頃
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制作者不詳 「ヨンベあるいはウォヨの呪物(コンゴ)」 制作時期不詳
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印象派の時代はその第1回展が開かれた1874年(明治7年)から。当時の画家たちは浮世絵に興味を持ちジャポニスム、いわゆる日本ブームが起きたのはよく知られている。そして1920年(大正9年)頃から始まったエコール・ド・パリ時代の少し前から、今度はアフリカブームが訪れる。

これはモディリアーニの彫刻。
アフリカの匂いはしなくとも明らかに影響が感じられる。

モディリアーニ 「女性の頭部」 1912年
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ところで印象派の画家が浮世絵を取り上げたのをもって「浮世絵は素晴らしい、日本美術が西洋に評価された」とやたら持ち上げる向きもあるが、その後のアフリカブームを考えると、半分は単に物珍しかっただけじゃないかと私は冷めた目で見ている。



それはさておき、
セザンヌの多角度の視点、遠近法や陰影法の否定に影響を受け、そしてアフリカの仮面や小像にインスピレーションを得てピカソが1907年に描いたのが「アヴィニョンの娘たち」。この展覧会の作品ではないが参考までに。どこが多角度の視点がわかりづらいが、右下の女性は背中を向けているのに顔がこちら向きになっている。
Les Demoiselles d'Avignon

これがキュビスムの始まりで、
近代絵画史上で最も重要な作品と評されている。
私がキュビスムはまったく趣味じゃない理由がわかったでしょ(^^ゞ


さてピカソの自信作であったこの絵を見たジョルジュ・ブラックは「3度の食事が麻クズとパラフィン製になると言われるようなものだ」と酷評。ピカソと共にエコール・ド・パリのツートップと目されていたマティスは、これを一目見るなり激怒。あまりの貶(けな)されように友人たちはピカソが首を吊らないか心配したと伝わっている。

それにしても「3度の食事が麻クズとパラフィン〜」なんて、文句の付け方がお洒落なジョルジュ・ブラック。さすがはフランスのエスプリ。

しかしジョルジュ・ブラックはしばらくして考えを改め、
ピカソの革新性に気がついて、こんな作品を描く。

ジョルジュ・ブラック 「大きな裸婦」 1907〜1908年
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芸術のためなら3度の食事が麻クズとパラフィンでもいいと腹をくくったみたい(^^ゞ
これ以降ピカソとブラックの間でキュビスムが形作られていく。


他に展示されていたのは「アヴィニョンの娘たち」の習作であったとされる作品。

ピカソ 「女性の胸像」 1907年
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なお館内は多くの作品が撮影可能だったので展示の雰囲気を。
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そして、
ここからがキュビスムのディープな世界の始まり始まり。



ーーー続く

wassho at 21:36|PermalinkComments(0)

2017年07月08日

ピカソとシャガール 愛と平和の賛歌 その3

シャガールの絵はどこか幻想的。また大人向けメルヘン・ストーリーのワンシーンかと思わせるようなものが多い。独特の浮遊感があり、というかいろいろなものが宙に浮かんで描かれている。ドーンと迫ってくるようなものはないが、絵の周りの空間を和ませる不思議なオーラを放っている。

ぶっちゃけていうと対峙するように鑑賞する絵ではない。その雰囲気に浸って楽しむべき絵。若い頃はお気に入りの画家で、自宅にシャガールのポスターを貼ったりしていた。似たような絵が多いので、いつのまにか飽きたけど。

というわけで私はシャガールを軽い気持ちでに楽しみたいので、ブログでの紹介もいつもと少し違うスタイルで。展示順、年代順は無視して似たような絵のグループ分けをしてみた。



まずは【黙って見せられたらシャガールとはわからない】作品。どんな画家も最初の頃は全盛期、つまりその画家の代表的なイメージとは違う絵を描いているもの。しかしシャガールは先ほど書いた幻想的な作風を確立して、それを描き続けている時期にも違うタイプの絵を描いている。特に「毛皮襟の女」は意外感たっぷり。

「ランプのある静物」 1910〜1911年
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「山羊を抱く男」 1924〜1925年
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「二つの花束」「花と風景(静物)」 1925年
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「毛皮襟の女」 1934年
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次は展示順を参考にして【これがシャガールのキュビスムと分類されていました
】というグループ。シャガールにとってのキュビスムとは立体主義とはまったく関係なくて、絵は見た目どおりの構成で描かなくてもいいんだとヒントをもらった程度の関わりかと思う。それで空も飛ぶわけだが、そんな空想的な描き方は宗教画なら昔からあったわけで、それをキュビスムと結びつけるという企画構成はちょっと強引かなとも思う。

「町の上で、ヴィテブスク」 1915年
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「世界の外でどこへも」 1915〜1919年
 切り離された頭部に目がいくが、建物が画面左に縦に描かれているのがちょっと面白い。
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「誕生日」 1923年
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3番目は【少しダークで摩訶不思議なシャガールワールド】。何かメッセージが込められているのかもしれないが、解説でもしてもらわないと絵から読み取るのは不可能。不気味な絵ともいえるが、こういうのはハマると抜け出せなくなる。

「私と村」 1923〜1924年
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「青い顔の婚約者」 1932年(1960年改訂)
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そして【シャガールといえば浮遊感でしょ】なグループ。肩の力が抜けていく心地よさを感じたら、あなたもシャガールを買いましょう(^^ゞ

「女曲芸師」 1961年
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「サン=ポールの上の恋人たち」 1970〜1971年
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シャガールの絵はカップルや結婚をテーマにしたものがよく描かれるので「愛の画家」と呼ばれることもある。というわけで次のグループは特にヒネリもなく【愛の画家】。モデルとなっているのはシャガール自身と奥さんのベラ。モデルといっても似せて描かれているわけじゃないから設定というべきか。

「婚約者達」 1930年
40


「恋人達とマーガレットの花」 1949〜1950年
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「画家と妻」 1969年
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ついでにシャガール家族の写真。これは1916年の撮影とされているのでシャガールは29歳、ベラが21歳頃。娘はイーダという名前。
family




最後の2枚の絵に共通性はなくて【展覧会で私がもっとも気に入った作品】。

「横たわる女、または緑色のスカートの女」 1930年
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具体的に気に入った理由は特にない。あえていえばシャガールの幻想的、空想的な要素がないところかな。ストレートに楽しくて美しい絵。


「赤い背景の花」 1970年
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画像で見ると良さが伝わらないかもしれないが、背景の赤がまさに燃えるような迫力で力強かった。脱力系が多いシャガールの中では少し異質。サイズも縦124.5センチ横113センチと大きく、私が気に入ったせいもあるけれど会場でひときわ存在感があった。



ところでこの展覧会はピカソとシャガールの組み合わせ。2つ前のエントリーではパンフレットに載っていた二人が仲良く写っている写真を紹介した。その写真をベースにこんなイラストが起こされて、美術館のショップで売られているマグカップやTシャツに使われている。
P&C


それだけを見ると二人は親友同士のようだが、それはあの写真が撮られた1951年まで。オマケでもう1枚。この撮影も同じく1951年。どう見てもとっても仲良し(^^ゞ
P&C Photo


しかしその年に美術雑誌編集者の昼食会に招かれた二人は、売り言葉に買い言葉のようなことになり、以後は絶交状態になる。詳しくは調べていないが「ピカソのジョークをシャガールが真に受けた」と「ピカソは本気でシャガールを非難した」という説があるみたい。いずれにせよシャガールがブチ切れて二人の関係は終わった。その因縁はまだ続いているようで、ポーラ美術館がシャガールの子孫にこの展覧会への協力を依頼したところ、最初は断られたという。

ところでシャガールは「愛の画家」だから、おおらかな人物をイメージしていたのだが、実は毒舌家として有名だったらしい。人は見かけによらないだけでなく、人は画風によらないなんだろうか。


展示されている作品のうちポーラ美術館自前のコレクションは、ピカソとシャガールとも7割以上にのぼる。それ自体はすごいことであるが、何度かここに来たことのある人にとって目新しい作品は少ないのが残念。でもピカソとシャガールを見較べながら観られるから(それに意味があるかについては疑問な点もあるが)意外と楽しめる。箱根に涼みに来るついでに訪れて損はない。


おしまい

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2017年07月07日

ピカソとシャガール 愛と平和の賛歌 その2

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展示はいくつかのコーナーに分かれ、それぞれのテーマに沿ったピカソとシャガールの作品がまとめられている。でも二人の比較や関連性にはあまり興味がないので、今回はピカソについて。

ピカソといえば反射的に思い浮かぶのは「泣く女」のようなバケモノ顔を描いた作品。しかし彼はしばしば作風が激変する画家で、プロとして活躍した20歳代初めから亡くなる91歳までのうちバケモノ顔を描いていたのは10年間ほど。全体では10種類前後の作風に分かれるとされ、それぞれ「青の時代」や「ばら色の時代」などナニナニの時代と名前がつけられている。



1901年から1904年までは「青の時代」。親友の画家が自殺したショックを引きづり、沈んだ青を基調に貧しい人たち、乞食や売春婦など社会的弱者を描いている。なぜ青なのかピカソは理由を語ることはなかったそうだが、黒じゃなくて青なところにピカソのセンスと、悲痛ではあっても前向きな気持ちが表れていると私は感じている。

「青い肩かけの女」 1902年
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「海辺の母子像」 1902年
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「青の時代」の後、立ち直った?ピカソは一転して明るい色調になり「バラ色の時代」と呼ばれる。残念ながら「バラ色の時代」の作品は展示されていなかった。ピカソ=バケモノ顔しか思い浮かばない人は、ネットでこの時代の作品を検索したらピカソのイメージが変わると思う。

その後「アフリカ彫刻の時代」を経て「キュビスムの時代」の時代へ。キュビスムは直訳すれば立体主義。その説明は難しいがモノをいろんな角度から見て、それを合成して絵という平面に落とし込んだもの。技法の探求としての意義は認めるが、だからドウヨというのが正直な気持ち。よってほとんど関心もなし。なお「キュビスムの時代」も年代によって3つか4つに細分化されている。


「裸婦」 1909年
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「男の胸像」 1909年
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「葡萄の帽子の女」 1913年
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キュビスムを10年ほど続けた後、ピカソは正反対とも言える「新古典主義の時代」に入る。やたらふくよかに描くのが特徴。

「母子像」 1921年
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「坐る女」 1921年
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次の2枚は年代的には「新古典主義の時代」に属するが、とてもモダンなイラストのような作品。ナニナニの時代というのは後から研究者が区切ったものだから、どこにも属さない作品もあって当然といえる。

「新聞とグラスとタバコの箱」 1921年
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「魚、瓶、コンポート皿(小さなキッチン)」 1922年
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そしていよいよバケモノ顔の「シュルレアリスムの時代」。シュルレアリスムとは超現実主義。シュルレアリスムについてダリ展をブログにした時に少し書いた。でもダリとピカソのシュルレアリスムはまったく違う。ダリの絵も奇想天外だが、何となくその絵を描いた気持ちみたいなものはわかる。でもピカソは無理(^^ゞ

ひとつにはキュビスム的な形の破壊が頭を混乱させるから。もうひとつは上手く表現できないが、ピカソが絵に込めた尋常ならざるパワー。それが私のキャパシティーを超えてしまって受け止められない。

でもしかしである。ピカソのバケモノ顔を初めて見たのはたぶん小学生の頃。その時はキチ○イという言葉しか思い浮かばなかった。それから気が遠くなるような年月が流れて、そして見慣れた。だから最初は拒絶反応だったピカソの絵も、いつの頃からかたまには見たくなるように。今風の言葉で表現するなら「キモ可愛い」。20世紀最大の芸術家といわれるピカソの絵が理解できないことに引け目を感じたこともあったが、今は妙な形で折り合いがついている。それにピカソはこんなふうに言っている。「人は鳥の声や花を素直に愛せるのに、なぜか芸術に限って理解したがる」。少々時間はかかったが、ピカソに追いつけてよかった。

ところでピカソが20世紀最大とか天才とか革命的などと評される理由はいろいろあるが、キュビスムの初期に描かれた「アビニヨンの娘たち」という作品がよく引き合いに出される。まるでヘタウマ絵。この作品は西洋絵画が築き上げてきた遠近法や陰影法をまったく無視している。それが革命的だったということらしい。エ〜ッ!それだったら遠近法なんてなかった日本には天才がゴロゴロしているんですけど(^^ゞ それはさておき、印象派の画家に浮世絵ファンが多いのもそういう理由なのかなと想像している。またこの遠近感を無視したキュビスムが後に抽象画に発展したともいわれる。ピカソが生まれたのは1881年(明治14年)。それまで世の中に抽象画というものがなかったと、初めて知った時はビックリした。


「黄色い背景の女」 1937年
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「花売り」 1937年
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「帽子の女」 1962年 ※年代的には「シュルレアリスムの時代」の作品では
             ないが内容的にここに並べた
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「シュルレアリスムの時代」の次が前回に書いた「ゲルニカの時代」。その後はいろんなタイプの絵を描くようになるので「晩年の時代」とひとくくりにされている。


「ろうそくのある静物」 1944年
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「草上の昼食」 1959年
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「母と子」 1960年
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「すいかを食べる男と山羊」 1967年
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ピカソは1万3500点の絵、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻や陶器、合計約15万点を残している。15歳から91歳の76年間で割ると年に1974点。365日で割ると1日あたり5.4作品。版画は原画の枚数が不明だから差し引いて、5万点で計算しても1日あたり1.8作品!!!

結婚したのは2回だが合計9人ともいわれる夫人、愛人と次々に暮らしたピカソ(26人という説もあり)。含む29歳年下&40歳年下&52歳年下。しかも生涯で振られたのはたった1回!!!

残した遺産は7500億円!!!

ピカソの絵をキモ可愛いなんて言っていないで、これからは毎日拝もう(^^ゞ


ーーー続く

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2017年07月04日

ピカソとシャガール 愛と平和の賛歌

5月20日に箱根の山のホテルでツツジとシャクナゲを見た後に立ち寄った展覧会。バイクに乗るのと絵を鑑賞するのはまったく違う行為だが、その組み合わせが気に入って箱根に行く時はポーラ美術館でどんな展覧会が開かれているかを確認することが多い。擬音で例えればヴォーンと走ってシーンと眺めるといった感じ。

ところでこの展覧会、何ゆえピカソとシャガールの組み合わせ? 同世代の画家ではあるが共通点も、あるいは逆に対比すべきところもないように思う。ポーラ美術館の開館15周年記念展だから手持ちの作品を適当に組み合わせたレベルの企画ではないにしても、その意図は見終わった後でも理解できなかった。でも「天丼と蕎麦」のセット定食のように2つ楽しめたからよかった(^^ゞ


ピカソは1881年(明治14年)生まれで1973年没のスペイン人。1900年(明治33年)頃からパリで活躍する。シャガールは1887年(明治20年)生まれで1985年没のユダヤ系ロシア人。パリにやってきたのは1911年とされる。

展覧会のパンフレットには二人が仲良さそうにしている写真が使われている。
1写真

左がピカソで右がシャガール。これは1951年の撮影だからかなり晩年の頃。シャガールがパリにやってきた1911年に、ピカソはもう帝王的な地位を築いていたので、最初はシャガールにとって雲の上の存在だったんじゃないかな。ピカソは91歳、シャガールは97歳まで生きてどちらも長命の画家。


いつものようにエレベータを降りて展示室に向かう。
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開館15周年を示すディスプレイ。
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展示されている作品は約80点とやや少なめなものの充分に見応えはあった。それにポーラ美術館は都心の美術館と較べれば貸し切り状態といっていいほど空いている。つまりじっくり絵を眺められるから、これくらいでちょうどよかった気もする。

この展覧会の目玉、あるいは他の展覧会と違っているのはタペストリーの作品が展示されていること。タペストリーとは壁に掛ける絨毯みたいなもの。ゴブラン織りとも呼ばれる。インテリアとしてのタペストリーは馴染みがあるが、ピカソやシャガールといった巨匠クラスにタペストリーがあるとは知らなかった。解説によれば第2次世界大戦後のフランスではタペストリーの見直しが盛んになったとされる。

もちろんタペストリーは画家が織るのではなく専門の職人が制作する。この当時、一流レベルの職人は芸術家として扱われていたようだ。いってみればタペストリーは画家とタペストリー作家のコラボ作品。またタペストリーのための原画はカルトンと呼ばれる。そういえばゴヤの展覧会でカルトンを何点か見た。ゴヤはピカソ達より130年ほど前の画家。宮廷というものがあった時代はタペストリーが盛んで、それに回帰しようとしたのかもしれない。


「ミノタウロマキア」 1982年
    原画:ピカソ
    タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
2ミノタウロマキア

画像で載せるとタペストリーなのか絵なのかはわからないね。絵の右側に描かれている牛の頭をした人間がギリシャ神話に登場するミノタウロス。海の神ポセイドンの呪いによって生まれた暴力と性欲の怪物。ピカソはミノタウロスをテーマとした作品を70点ほど残している。ミノタウロスに彼自身を投影していたともいわれる。ちなみにピカソは自他共に認める「肉食系画家」である(^^ゞ

タペストリーは1982年に制作されたが、原画は1935年に刷られた版画。それでこのミノタウロスはピカソ自身ではなく、迫り来る第2次世界大戦(1939年〜1945年)を象徴しているらしい。それはよくわからないとしても、何せ縦3.15メートル横4.5メートルのサイズなので、ミノタウロスの姿と相まって大迫力の作品である。だからといって何かビンビン感じるものはなかったのだがーーー


この展覧会の本当の目玉作品はあの有名な「ゲルニカ」のタペストリー。ただし「ゲルニカ」と「ミノタウロマキア」は入れ替え展示で、私が訪れた時はもう「ミノタウロマキア」になっていた。

話は変わるが私はゲルニカを見たことがあるーーーと思っていた時期がある。1980年代後半にニューヨーク近代美術館に行った時に確かにゲルニカを見た。それは強烈なインパクトで、その時の訪問で今でも明確に覚えているのはゲルニカとこの作品くらいである。しかしゲルニカがニューヨーク近代美術館のコレクションだったのは1939年から1981年までなのを後で知った。スペインに戻ったゲルニカは、それ以降どこにも貸し出されていない。私が見たのはレプリカあるいは写真展示だったのかなあ。我がアートライフ最大のナゾ

ニューヨーク近代美術館で「見た」ゲルニカに強烈なインパクトを受けたと書いた。しかしそれは素晴らしい作品と思ったり感動したのとはまったく違う。ひたすらひたすらナンジャコレ〜とビックリしただけ。ゲルニカのことはまったく知らなかったし、見てすぐわかったがピカソの作品だとも知らなかった。たまたま日本人の客がいて「スペイン内戦でゲルニカという街が爆撃を受けて廃墟となった情景」などと説明していたので描かれている内容は理解できた。しかし、そんなこととはまったく関係なくナンジャコレ〜だった。

ピカソはいろいろと画風が変遷するけれど、やはり彼をピカソたらしめているのはキュービスムやシュルレアリスム。特にバケモノ女のような絵。その美術史的な価値は理解できても、それのどこがいいのか未だちっともわからない。それでも展覧会に来るのは、たまには変わったものを見たいから。いわば目の気分転換。ゲルニカもその延長戦上にある。しかし世の中の人はゲルニカを見て、そこにピカソの愛や哀しみを感じ取って感動するらしい。考え過ぎじゃない?


展覧会では見なかったが参考までに画像を。ついでに原画のほうも。


タペストリーの「ゲルニカ」 1983年
タペストリー制作はジャクリーヌ・ド・ラ・ボーム=デュルバック
3ゲルニカ


オリジナルの「ゲルニカ」 1937年
4ゲルニカ





シャガールのタペストリーも展示されていた。

「平和」 2001年
    原画:シャガール
    タペストリー:イヴェット・コキール=プランス
5平和

こちらのオリジナルはシャガールが1964年に国連の講堂のために制作したステンドグラス。その時の下絵をベースに彼の死後にタペストリーにされたもの。縦4.1メートル横6.2メートルとかなり大きかった。きれいだったし、まさにシャガールの世界ではあったが、ステンドグラスだったらもっとよかったかも。シャガールはヨーロッパ各地の教会でステンドグラスを残しているしエルサレムでも制作している。いつかどこかで見てみたい。


ーーー続く

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2016年08月06日

ルノワール展 その2

「ブランコ」1876年
21ブランコ

どうしても人物に目が行くし、現在の我々がイメージするブランコがある場所とはまったく違うので、タイトルを見なければブランコが描かれた絵とは気付かなかったかも知れない。それにしても小さな女の子がいるのに、どうして大人がブランコを独占しているのだ?

ルノワール独特の光の表現が、かなりコントラストを高めに描かれている。写真をクリックして拡大し、画面から少し目を離して眺めると、そのことがよくわかるはず。前回のエントリーで書いた、昔、私が惹かれたルノワールの絵の幸せ感がこの絵にも溢れていると思う。



「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1876年
22ムーラン

前回のエントリーで書いたように、死ぬまでには絶対に見たいと思っていた絵。どうしてそこまで気に入っているかというと、実は特に理由はない。何となく好きなだけ。絵なんてのはそんなものじゃないかな。念願かなって見られたわけだけれど、それで人生が変わったりもしない。それでも、もし日本で見られないなら、この絵が収蔵されているフランスのオルセー美術館に行ってでも見てやると思わせるのが絵の魔力かもしれない。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットというのはパリのモンマルトルにあったダンスホール。描かれているのは屋外だから、これは中庭みたいな所なんだろうか。ルノワール独特の光の表現が見て取れる。一番手前の男性の背中にいくつか丸があって、それで木漏れ日みたいなものを表現しているが、何となく不自然とというかちょっとやり過ぎという印象をずっと持っていた。でも本物を見るとサイズがタテ131.5センチ×ヨコ176.5センチと大きいせいもあって、そういう細かなところは気にならない。とにかく柔らかい光に包まれていることが実感できる絵なのである。大げさではなく最初は絵にスポットライトが当たっているのかと思ったくらいである。(もちろん絵に照明は当てられているが、それが反射して光るということはない)。

ところで美術史に残るほとんどの有名な絵は本や雑誌やネットで見ることができる。以前にも書いた気がするが、その本物を見てもビックリするくらい新たに感動したり、まったく違う印象を受けるものではない。精神的な満足感をのぞいて何が違うかというと、

その1:生々しさ
これは絵にもよるのだが、何百年前の作品でも昨日に描き終えたんじゃないかと感じるものがある。何となく画家の息づかいが感じられるというか。私が展覧会に通う理由のひとつがそれである。

本やネットで見る絵は写真に撮られたものである。そして写真に撮る・印刷する、あるいはディスプレーに表示する段階で絵が持つ情報が欠落するのだと思う。現在のテクノロジーでもすべてを再現できているわけでは決してない。浮世絵を見るといつも思うのだが、いい浮世絵だなあと思っていても、同じ作者の描いた肉筆画が一緒に展示されていると、それを見た後は浮世絵がつまらない。浮世絵=版画=印刷で、しかも原始的な印刷だから情報量は少ない。浮世絵と肉筆画を較べるのは極端かもしれないが、まあ同じような理屈で本やネットでは生々しさに欠けるのだと思っている。


その2:迫力
これは単純にサイズの問題。本やネットで見た絵から受ける感動の質は、本物を見た時とそう変わらないかも知れないが、感動の量はやっぱりサイズに比例する気がする。


主にこの2点が今までの持論だったが、ムーラン・ド・ラ・ギャレットを見て、光の表現も本やネットでは感じ取れていなかったと気付いた。生々しさと同じく情報量の欠落が原因だろう。光の表現といっても、レンブラントやカラヴァッジョのようなコントラストのはっきりしたものは本物との差はない。ムーラン・ド・ラ・ギャレットは柔らかい光の表現だからそう感じるのかもしれない。このブログに貼った写真も、展覧会で見た印象とはやはり違う。

そういうわけで本物のムーラン・ド・ラ・ギャレットには光が満ちており、その光が絵からこぼれ落ちているように感じられて、それがとても気に入ったのだが意外な落とし穴が。当たり前だけど絵の中に光があるわけじゃない。そう錯覚するようにテクニックを駆使して描かれている。だからしばらく見ていると目が慣れて、絵からこぼれていた光を感じなくなってしまうのである(/o\)


絵に描かれているのは、ちょっとお洒落してやって来たパリの市民という感じで、これまたルノワールらしい幸せそうな絵である。でも実際のムーラン・ド・ラ・ギャレットはもっと場末的というか退廃感が漂うダンスホールだったらしい。モンマルトルも当時は低所得者層が住むエリアだった。「人生は辛いものだから、絵とは楽しく、きれいなものでなければならない」というのがルノワールのポリシー。だから我々が目にしているのはこぼれる陽光も含めてルノワール・マジックといえるのかもしれない。


ムーラン・ド・ラ・ギャレットは当時のいろんな画家が描いている。画風ではなく、画家の視点というか描きたかったものが、それぞれ違っていておもしろい。※これらの作品は展覧会とは無関係。

 ゴッホのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1886年
ゴッホ

 ロートレックのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1891年
ロートレック

 ピカソのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1900年
ピカソ

 ユトリロのムーラン・ド・ラ・ギャレット 1931年
ユトリロ


ちなみにムーランは風車、ギャレットは日本ではガレットとも呼ぶ焼き菓子の一種。敷地に風車があって焼き菓子が名物だからムーラン・ド・ラ・ギャレットと呼ばれていたらしい。ムーラン・ルージュというキャバレーの名前もよく耳にするが、ルージュ=赤(転じて口紅)の意味で、そこに赤い風車があったから店名になった。ところで風車というとオランダを思い浮かべる。でも19世紀のパリには粉挽き用の風車がたくさんあったとのこと。

ムーラン・ド・ラ・ギャレットは、ダンスホールからレストランになって今でもパリにある。何でもすぐリニューアル=ぶっ壊してしまう日本と違って、歴史ある建物がたくさん残っているパリがうらやましい。


ーーー続く

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2014年08月08日

モディリアーニ展 その2

総展示数65品のうちモディリアーニの絵は10点。他に彫刻が1点と素描が8点。というわけで残り46点は他の画家の作品。以前に2回訪れた時に常設展示で見た絵も多かったが、それはそれで楽しめた。


「海辺の母子像」  ピカソ

ピカソはコロコロと画風が変わったので、その時々の画風に合わせて「ナニナニの時代」と区分されている。全部で10ある区分の最初が「青の時代」。友人の自殺にショックを受けて青い色の絵ばかりを3年ほど描いていた。「青い闇」なんだそうである。
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もちろんピカソはそういうつもりでこの絵を描いたのではないはずだが、日本人にはその手が合掌の仕草に見える。当然この絵からイメージされるのは祈り。合掌が邪魔をしてそれ以外に思いを巡らすのは難しい。西洋人というか仏教や神道とは無縁の人々に、この絵はどういう風に写るんだろうかと思った作品。


昨日紹介したモディリアーニの「青いブラウスの婦人像」は、青の時代のピカソに強く影響を受けているとされる。それはさておき1910年作の「青いブラウスの婦人像」と、1916年、1917年あたりの作品はずいぶん画風が違う。実はモディリアーニは画家ではなく彫刻家志望だったらしい。この展示会では21歳でパリにやってきて35歳でなくなった彼の短い活動期間をさらに細かく分けていた。

    1906年〜1909年:初期は絵を描いていた
    1909年〜1914年:絵を中断して彫刻に励んでいた頃
    1915年〜1918年:絵に戻って全盛期を迎える
    1918年〜1920年:晩年

年代区分は展覧会に合わせたが、その解説は私が勝手に解釈した超省略版である。

モディリアーニが目指していたのは彫刻だったが、残念ながら

    素材である石を買うのに金が掛かる。
    石を彫るのは体力が必要で病弱のモディリアーニにはきつかった

ということで、たいした成果を上げられなかった模様。
今回展示されていたのは1点のみ。


「頭部」  モディリアーニ

これはブロンズ像だけれど、型となったオリジナルは粘土ではなく石を彫ったものだったらしい。彫刻は詳しくないので、そのあたりの違いはよくわからない。
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今回の最大の収穫はこの彫刻。別にこの作品が気に入ったのではなく、モディリアーニのあの特徴的なヒョロ長くデフォルメされた画風の謎がわかったから。

彼はこの彫刻の時代にアフリカっぽいものに入れあげていたらしい。「アフリカ 仮面」で画像検索するといろいろ出てくるが、この作品もどこかアフリカっぽい。そして彫刻を諦めてから描かれたモディリアーニの絵にアフリカ的な匂いはまったく感じないものの、そのデフォルメ(変形、誇張あるいは省略)感覚にはどこかアフリカのアートや民芸品と共通するものがある。仮面なら瞳を描かなかったのもわかる気がする。彫刻の時代の前に描かれた「青いブラウスの婦人像」が他の作品とイメージが違うのはアフリカ的なデフォルメではないからだ。

しかしモディリアーニのあの不思議な画風のルーツにアフリカがあったとは夢にも思っていなかった。(注)これは私の勝手な解釈です。ついでにいうとピカソにも「アフリカ彫刻の時代」と呼ばれている期間がある。エコール・ド・パリより前の時代の印象派の画家は日本の浮世絵から多くのインスピレーションを得ている。日本の次はアフリカがパリで流行ったということなんだろう。




「母子像」 ピカソ

ピカソはキュビスムという難解で抽象的な作風の後で、いったん古典的というか普通の作風に戻っている。その後でシュルレアリスムという凡人には理解不能な領域で芸をきわめた? これはピカソの「新古典主義の時代」の作品。モデルは彼の奥さんと生後数ヶ月の長男。こういうピカソなら安心して絵を見ることができる(^^ゞ 
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「葡萄の帽子の女」 ピカソ

上の作品より以前の「総合的キュビスムの時代」の作品。小学生の時に初めてピカソの絵を見て「なんじゃ〜これ〜!」と驚き、大人になったらこういう絵も「わかる」ようになるのかと思っていたが、やっぱり無理(^^ゞ でもタイトルを知ってこの絵を見ると、何となく可愛い女性に思えてくるから不思議なもの。
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「ヘクトールとアンドロマケー」  キリコ

木でできた人形というかロボットのようなものが二体。
左が男のヘクトールで右が女のアンドロマケー。この二人は夫婦である。ただの夫婦じゃなくてトロイの国の王と王妃。トロイの木馬で有名なあのトロイ。劣勢のトロイ軍総大将として最後の出撃前に妻と今生の別れの図。
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そんなストーリーをこのロボットの絵から想像するのは難しいなあ。しかし教養ある西洋人ならヘクトールとアンドロマケーというタイトルで想像できるのかもしれない。例えばこのロボットが仁王立ちしていてタイトルが「信長 本能寺」なら日本人がシチュエーションを想像できるように。

だとしても、この絵から惜別の情感を感じるのはさらに難しい。まあシュルレアリスム(シュール・リアリズム、略してシュール)は現実を超えたところの現実感?みたいなことだから、そういう感覚に浸るべきものだろうけれど。この絵をやるといわれても別の絵にしてくれというが、こういう試み・実験を経て少しずつ芸術は進化していくのかもしれない。



「女優たち」  マリー・ローランサン

マリー・ローランサンは好きな画家の一人。毒にも薬にもならないのだが、眺めているとホンワカと幸せになってくる。今年の春頃に吉祥寺の美術館で展覧会があったのに行きそびれてしまった。彼女の絵もモディリアーニと同じくひたすら画風を楽しむべき絵である。
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ところで会場では「葡萄と帽子の女」「ヘクトールとアンドロマケー」「女優たち」の3枚が一緒に1つのコーナー(壁面)に展示されていた。並べ方によって絵の印象が変わることはないとしても、その場の雰囲気はやはり影響を受ける。たまたまなのか意図的なのかはわからないが、なかなかおもしろい組み合わせだった。


ーーー続く

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2013年11月07日

ポーラ美術館のガラス工芸展と藤田嗣治の新コレクション

書くのが少し後になってしまったが10月27日に出かけた箱根・仙石原ツーリングのパート4で、ポーラ美術館のモネ展パート2である。


さて
モネ展と同時に開催されているのが「ガラス工芸名作選」という展示会。ポーラ美術館はガラス工芸品のコレクションにも力を入れているみたい。


「草花文耳付花器」 エミール・ガレ
草花文耳付花器

「風景文花器」 エミール・ガレ
風景文花器

「アザミ文花器」 エミール・ガレ
アザミ文花器



「葡萄とカタツムリ文花器」 ドーム兄弟
葡萄とカタツムリ文花器


「蜻蛉文ランプ」 ルイス・C・ティファニー
蜻蛉文ランプ




エミール・ガレの名前くらいは知っているし、作品もいくつか見たことはある。でもこの分野にほとんど知識はなく、今まで関心もなかった。ちなみにルイス・C・ティファニーとは、あのティファニーの二代目だそうである。展示は全部で50点以上はあったと思う。一部はモネ展の中でも並べられていた。


これらは1900年前後(明治の中頃)に作られたアール・ヌーヴォー様式。アール・ヌーヴォーはフランス語なので英語に置き換えればArt New。つまり新しい芸術という意味。何に対して新しいのかはよく知らないが、とにかく柔らかくて優雅な曲線と、花とか昆虫が模様としてよく使われているのが特徴。ついでに日本人的にはよく似た言葉でこんがらがるのがアール・デコ。デコはデコレーションの略だから直訳すれば装飾芸術。アール・ヌーボーより30年くらい後に流行した様式。どちらかといえば直線的、幾何学的な形が多くてちょっと派手で前衛的。もちろん今の視点で見ればヌーボーもデコもどちらもレトロな感じを受けるが。


この時代のガラス作品をまとめてみたのは初めてである。

感想その1
なかなかエエヤン!
理屈抜きにキレイだし、壺とか茶碗とか陶器の骨董品のようなコムツカシさはない。それでいて100年ほど経ったヴィンテージ感も趣として感じる。こんなものが自宅に飾ってあれば楽しいと思う。


感想その2
こういうものって、どうして日本で発達しなかったんだろう。
なんとなく残念。



もうひとつモネ展と同時に開催されていたのが、ポーラ美術館が最近コレクションに加えた藤田嗣治(つぐはる)の3作品。同館の藤田コレクションは国内では一番大きいといわれている。


「グロテスク」

あまりグロテスクな雰囲気はしない。じっくり眺めたくなる絵でもないが、Tシャツにでも刷ればおもしろそう。ある意味ポップな印象。
グロテスク



「シレーヌ」

シレーヌはギリシャ神話に出てくる海の怪物で、美しい歌声で船員を惑わし船を難破させる。まあ悪役キャラだったのだが、いつのまにか人魚の意味になってロマンティックなニュアンスに今はなっている。藤田嗣治の描いたのは怖い方のシレーヌかな。歌い出すと口裂け女になりそう。
シレーヌ


この2作品は藤田嗣治の晩年の作品で、一般公開されるのは今回が初めてとのこと。



「キュビスム風静物」

上の2作品とは逆に、これはまだ藤田嗣治が無名だった初期の作品。彼がパリに渡ったのは、ピカソがキュビスムという描き方で一世を風靡していた時期に重なる。タイトルにキュビスム風と「ふう」を付けているから、キュビスム勉強中ということだろう。
キュビスム風静物


キュビスムはフランス語読み。英語読みだとキュビズム、あるいはキュービズムとなる。英語のスペルはCubismで、これはCube(立方体)とism(主義)の合成語で直訳すれば立方体主義。簡略化して立体主義とか立体派ともいう。キュビスムは20世紀で最も重要なトレンドだったといわれる。

ーーーなのであるが、これがやたら難解なのである。 
私なりに噛み砕いて解説すると(信憑性35%くらいかな)、

1)
物体はいくつかの要素やパーツに分解することができる。例えば顔なら、目や鼻や口など。

2)
また物体は視点を変えれば違う形に見える。たとえば正面の顔と横顔の形はまったく違うが、どちらも同じ顔である。

3)
なんてことをウニウニと考え、分解した要素やパーツを抽象化したり、デフォルメ(変形)したりする。またいくつかの視点から物体を眺めると違う形に見えるが、絵という二次元表現の1枚に落とし込むには、最後にそれらを無理やり統合しなければならない。


それで出来上がるのがこんな絵。
これはピカソの「泣く女」という作品でキュビスムだけじゃなく、さらにシュルレアリスム(超現実主義)も入っている。※今回の展示会とは関係ない
泣く女


私はキュビズムが苦手だし好きじゃない。描くという行為のひとつの方向として、こういう考え方もあることは認めるとして、私が絵に求めているものとはずいぶん違う。とりあえず藤田嗣治が、こっちの趣味に走ってくれなくてよかった。


ーーーおしまい。

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