フェルメール

2022年08月17日

挫折してバクテリアとプランクトン

コロナによってウイルスという言葉を聞かない日はないが、似たようなものに細菌もある。これらはどう違うのだったっけ? 知っているような知らないような言葉は多いもの。それで曖昧にしか理解していない小さな生物関連の単語を調べて、夏休みの自由研究パート2にしようと思いついたのだがーーー


対象としたのは(対義語で小さくないものも含まれている)

  微生物
  単細胞生物 多細胞生物
  原核生物 真核生物 原生生物 
  細菌 真正細菌 古細菌 
  ウイルス ウイロイド バクテリア プリオン
  菌類 カビ 地衣類
  プランクトン アメーバー

など。

これがなかなか難しいのだわ。
ボヤーッと情報量は増えたものの、簡潔にまとめてブログにするにはほど遠く。つまりは頭の中に入ったとはいえないレベル。というわけで自由研究の発表は潔く断念(^^ゞ

その代わりに、エッ!そうだったのかと驚いた話を2つ。
知っている人は少ないと思うのだけれど、違っていたら恥ずかしいな。


1)細菌とバクテリアは同じ意味!

細菌を英語にしたら bacteria。どちらの言葉も馴染みがあるとはいえ、あまり内容を深く意識していなかったな。乳酸菌など有益なものも多いが、どちらかといえば、ばい菌イメージが先に浮かぶ。それにしても、まさか同じ意味だったとはーーー不覚(/o\)

なおbacteriaは複数形でbacterium(バクテリウム)が単数形。しかしなぜかbacteriaを単数・複数にも使う。理由はよく分からない。また語源はギリシャ語のようだ。
ばい菌


2)プランクトンは水中・水面に漂っている生物という分類!

プランクトンには植物プランクトン、動物プランクトンがある。植物と動物の両方があるなんて、こいつらはどこか怪しいと子供の頃から思っていた(^^ゞ

これは生物の種類や構造で分けたものではなく、生活行動での分類になる。分類の仕方にも色々あるのね。ちなみに泳ぐ生物はネクトン(nekton)と呼ぶ。

プランクトンといえば微生物的なイメージがあるが、漂っていればプランクトンなのでクラゲもプランクトンに分類されると知ってビックリ。

水中・水面に漂っているとは、水流に逆らって泳ぐ能力がないとの意味である。ただし能力ゼロかというと、多少は泳げる生物も含まれていて基準は曖昧。クジラのエサとなるオキアミ(写真)はプランクトンとされるが、これは海老の仲間なので足を使って少しは泳げる。それでネクトンほどじゃない意味だと思うが、マイクロ・ネクトン(micronekton)と分類される場合もある。サクラエビも同じく。(だからたまにプランクトンを食べていることになる)
オキアミ


ついでに微生物とは、これも生物の種類や構造ではなく、読んで字のごとく単に小さいというサイズによる生物の区分。それは以前から何となく理解していた。そして今回、微生物とされる基準は「顕微鏡を使わないと見えない大きさ」だと知る(例外はある)。しかし生物学と顕微鏡は、直接的には何の関係ないから客観性のある基準とは思えないが?

調べてみると顕微鏡が発明されたのが西暦1600年前後。それを使うと今まで見たこともない(見ることができなかった)生物がたくさん発見できた。そこで顕微鏡を使わないと見えない生物が、新たなジャンルとして微生物と呼ばれるようになったらしい。

アントーニ・ファン・レーウェンフックというオランダ人が、1674年に初めて微生物を発見したとされる。この人は画家フェルメールの遺産管財人でもあったのが、個人的には興味深い。フェルメールも顕微鏡をのぞいたのかな?
フェルメール

ちなみに望遠鏡も同じ頃に発明され、それで星を観察した先駆者の1人がガリレオ(1564〜1642年)。当時の顕微鏡や望遠鏡は研究者による自作。研究する前に道具も作らなければいけないのは大変だが、未知の分野でいろいろ発見できて楽しかっただろうな。



挫折ブログになってしまってまったく情けない。でも細菌とバクテリアが同じで、クラゲがプランクトンと分かっただけでも、2つ賢くなったからまあいいか。

ところで生物には植物と動物、哺乳類と昆虫などたくさんの分類があるが、究極的には

   「細菌」「古細菌」「真核生物」

の3つに分けられる。
言い換えればすべての生物は、この3つのいずれかに属す。

興味が湧いた? 是非お調べを。
そして一緒に挫折を味わいましょう(^^ゞ

wassho at 19:37|PermalinkComments(0)

2018年12月25日

フェルメール展 その3

フェルメールはずっと好きだったが、実は6年前に念願の「真珠の耳飾りの少女」を観たことで熱が冷めたとはいわないまでも、満足して一区切りついたというのが正直なところ。今回は現存するフェルメールの35作品のうち9作品がやって来るというふれこみだが、2点は入れ替えなので実際に観られるのは8作品。その中の2つは今までに観たことがある。だからそれほど待ちに待ったという気分ではなかった。それでもやはり「牛乳を注ぐ女」は観ておきたかったし観られてよかったと思っている。

熱狂的なフェルメールマニアの中には、フェルメールを所蔵している各国の美術館まで出かける「フェルメール巡礼」をする人もいるようだ。しかし調べた限り1970年以降にフェルメールの作品は25点が来日している。私は今回で「真珠の耳飾りの少女」と「牛乳を注ぐ女」を含む12点を既に観たから、フェルメールが日本に巡礼してくれるのをこれからも気長に待とう(^^ゞ


さてフェルメールの展示室は、展覧会の最後に設けられていて作品8点が一堂に会している。彼の作品すべてが傑作だとは思っていないのだが、やはりこれだけの数のフェルメールが揃っていると圧巻である。思わず息を呑んだとか足が止まったなどと大げさな表現をするつもりはない。ただただ「ええなあ〜」とニヤけて眺めていた。


「マルタとマリアの家のキリスト」 1654〜1655年頃
40

フェルメールがキリストを描いた唯一の作品。また156センチx142センチとフェルメールにしては例外的に大きなサイズ。(ほとんどの作品はA3より少し大きい程度である)

でも、それだけだったかな …………



「ワイングラス」 1661〜1662年頃
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上の作品から6〜7年たってフェルメールも腕を上げたようである。かなり絵に立体感も出てきた(とエラソーにいってみる)。しかし実に不思議な絵でもある。

まず、この時代の服装をまとっているのだろうが、その知識のない私には男性が西部劇に出てくる人物に見えて仕方なかった。それは置いておくにしても、何のシーンを描いているのかさっぱりわからない。男性が注いだと思われるワインを女性だけが座って飲み干している。そして男性は女性の表情を見つめている。

解説によればテーブルに置かれた楽譜や楽器は「愛」を暗示するもの。また窓のステンドグラスには馬の手綱が描かれていて、それは「節制」を意味しているという。それでトータルでは「誘惑されちゃだめよ」ということらしい。

しかしテーブルに男性用のワイングラスは見あたらない。女性にだけお酒を飲ませて自分はそれを見ているだけなんて口説き方があるか? それに女性のポーズのどこからもOKサインが出ていない。エロティックのエの字もなし!

だから私の解釈は

    女主人にワインの試飲をしてもらって
    その評価をビビりながら待っている
    出入り業者の酒屋(^^ゞ

またガラスを透明に描けるようになったのは、この時代のオランダやフランドル絵画からである(たぶん)。私も初めて見た時はビックリした。当時の人はもっとビックリしただろう。案外、透明のワイングラスを描きたかっただけだったりして。



続いては、私が勝手にフェルメールのイエロー三部作と読んでいる作品。フェルメールといえばフェルメールブルーだが、黄色もけっこう重要な役割を果たしているんじゃないかと思っている。

ちなみに彼女たちが着ている上着は同じもので、フェルメールは他にも3作品でモデルにこの服を着せている。つまり35作品中で同じ服装が6つ。よほど気に入っていたのか、他の服を用意する余裕がなかったのか、どっちなんだろう?


「リュートを調弦する女」 1662年〜1663年頃
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調弦していたら窓の外で何かがーーーというようなシーン。いわゆる小芝居ですな。壁の地図に意味があるそうだが、あまりそういうことばかり詮索すると絵を楽しめなくなる。


「真珠の首飾りの女」 1662〜1665年頃
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真珠の耳飾りの少女」を都立美術館で見た時、同時期に国立西洋美術館で展示されていたこの絵を見に行けなかったことは心残りだった。しかし待てば海路の日和あり。それにしても作品のタイトルが似ていてややこしい。

フェルメール作品の中で最も愛くるしい絵。それにしてもこのイエロー三部作の女性が「女」なのに「真珠の耳飾り」はどうして「少女」なんだろう。歳は違わないように思えるし、特にこの「真珠の首飾りの女」は幼い感じがする。

ポーズが少し変わっているが、当時のネックレスはフックがなくリボンを結んで、それを首の後ろに回したとのこと。シチュエーションから考えて壁に掛かっている額は鏡。ずいぶんと小さな気もする。当時は大きな鏡はなかったのかな。また鏡のサイズから考えると彼女の位置が離れすぎているように思える。もっともそんな細かなことは気にしないで、このホワーッと柔らかい絵を慈しむべきなのだ。おかしな表現かもしれないが、ずっと眺めていても見疲れしない絵だった。

ただテーブル手前の布はもう少し減らして、いろいろ描き込んで欲しかったかな。なおブログの写真ではわからないと思うが、椅子に打ち付けられている金属の鋲の質感がやたらリアル。


「手紙を書く女」 1665年頃
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これと次の「手紙を書く夫人と召使い」は以前にも観た。その時のブログはこちら

前回はわからなかったが、今回は同じイエロー三部作の「真珠の首飾りの女」と比較して、まるで写真のソフトフォーカスのように描かれているのに気がついた。それはそれでアリな表現だとは思うが、見較べてみると「ちゃんとピント合わしてよ」という気持ちになってくるというか、もっとしっかり観たくて物足りないというか。

それと「リュートを調弦する女」も同じであるが、肌の彩度(色の濃さ)がかなり押さえられているので、ちょっと幽霊のようにも見えなくもない。


「手紙を書く夫人と召使い」 1670〜1671年頃
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構図、光の描き方共に完璧。ただ召使いの服がちょっと張りすぎているかな。テーブルの前には書き損じの手紙のようなものが落ちており、そういうのを描き込むのがこの時代の作品の特徴でもある。

以前のブログで「テーブルクロスの上で文字は書きづらくないのか」と書いた。この展覧会でテーブルが出てくる作品は6つあるが、5つにテーブルクロスがかかっている。どれもダイニングテーブルじゃない。そういうものなのか、あるいは当時はそうだったのか? そのうち調べてみよう。

ところで靴を脱いで家に入るのは日本文化の特徴だけれど、テーブルクロスを使わないというのもそうだよね。


「赤い帽子の娘」 1665〜1666年頃
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テレビ番組でこの絵と「真珠の耳飾りの少女」のモデルは同じだという説を述べている人がいた。そんなはずはないと思ったが、この目で実物を確かめたかった。

まったく似ていないと思うけれど、女性は化けるからなあ(^^ゞ


「牛乳を注ぐ女」 1658〜1660年頃
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ごく当たり前の動作が、どうしてこんな素晴らしい絵になるのかと感嘆せざるを得ない。間違いなくフェルメールの最高傑作。他の作品より群を抜いてレベルが高いし、展示室でも順路の最後にあったから、晩年の作品と思っていたが、意外にもキャリア初期に描かれたもの。(最初の作品が1653年頃、最後の作品が1675年頃)

ちなみにこれは牛乳を鍋に移して、テーブルにある(固くなった)パンをパン粥にする準備をしているらしい。人物だけじゃなくてテーブルに置かれたパンやカゴ、壁にあるバスケットや金属製のバケツ?、さらにいえば壁の描き方など、どこを取っても見応えがある。

しかし前から気になっていたことが。女性の胸や肩のあたりの描き方というか服の質感がおかしい。まるで陶器の服のように固く感じられる。埴輪みたいだ。 実物を見ても印象は同じだった。どうしてこうなったんだろう。他の部分は布らしく描かれているから、テクニックの問題じゃないはず。ナゾ

また「牛乳を注ぐ女」は他のフェルメール作品と較べて、やや粗めのタッチで描かれている。そしてフェルメールの35作品の中でこういう描き方はこの作品だけ。彼自身がもっと滑らかに描きたいと思ったのか、あるいは評判がよくなかったのか。それはわからないが、この雰囲気の作品をもっと残して欲しかったと思う。



たくさんのフェルメールを見られて楽しかった。8作品が展示されてフェルメールのオーラが充満した空間にいられたのが最大の収穫かな。次の望みは「デルフトとの眺望」というフェルメール唯一の風景画を見ること。まだ日本に来たことがない作品なので、次のフェルメール展では是非! 関係者の努力を期待する。


おしまい

wassho at 22:59|PermalinkComments(0)

2018年12月23日

フェルメール展 その2

会場はフェルメールと同時代のオランダ絵画を観て、最後にフェルメールの展示室という構成になっている。ちなみにフェルメールが生きたのは1632年から1675年。日本では徳川家光の将軍在位が1623年から1651年、次の家綱の在位が1651年から1680年。つまりは江戸時代の初期にあたる。

この時代の各国の画家は

    カラヴァッジョ(イタリア)  1571年〜1610年
    ルーベンス(フランドル)   1577年〜1640年
    ベラスケス(スペイン)    1599年〜1660年
    レンブラント(オランダ)   1606年〜1669年

と錚々たる顔ぶれ。※フランドルというのはオランダ南部とベルギーあたりの当時の名前。

それでこの時代の美術様式はバロックということになる。アールヌーボーとアールデコと同じくゴシックとバロックで、どっちがどっちだっけと混乱するあのバロックである。特徴としては

    綿密な写実描写
    動的、劇場的な画面構成
    明暗表現の強調

あたり。一言でいえばけっこう派手。音楽でバロックといえばバッハだが、割と単調なバロック音楽とは異なり、バロック絵画はクラシック音楽でいえばもっと後期のものと共通項が多い。そのあたりがどう重なっているのか西洋文化史についてはあまり知識がない。そのうち勉強しようと思っているが、そう思い始めてから25年ほどたっている(^^ゞ とりあえず大雑把にいうとゴシック→ルネサンス→バロックの順番ね。


ところでオランダと聞いてすぐに思い浮かぶのはチューリップとか風車とか。それは日本でいえばフジヤマ・ゲイシャと同じレベルだろう。まあ現在のオランダはそれほど存在感のある国とはいえない。ちなみにGDPランキングでは世界18位。しかし17世紀のオランダは国際社会において最強国の1つだった。世界最初の株式会社である東インド会社を設立し、また鎖国の江戸時代に唯一日本と貿易をしていたことなどからもそれは伺える。

ついでに言うと、オランダ、スペイン、ポルトガルなど、かつて世界に君臨し、もう今はそうじゃなくても、特に落ちぶれてもいない国というのは、将来の日本の参考になるかもしれないと思うこともある。



話がそれたが、まずは17世紀のオランダ絵画あれこれ。


「ルカス・デ・クレルクの肖像」 フランス・ハルス 1635年頃
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「花の画家マリア・フォン・オーステルヴェイクの肖像」 ワルラン・ヴァイヤン 1671年
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「本を読む老女」 ヘラルト・ダウ 1631〜1632年頃
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「ルカス・デ・クレルクの肖像」はいかにもザ・肖像画という感じ。ルネサンス期の肖像画と較べてかなり細密。またルネサンス期の肖像画はモナリザのように細密に描かれているものでも、どこかバーチャルな雰囲気だが、17世紀のオランダ絵画はリアルで肉感的である。

ルカス・デ・クレルクは裕福な資産家。マリア・フォン・オーステルヴェイクはタイトルにあるように画家。王侯貴族や聖職者から市民にまで肖像画を描いてもらう人が広がったのは、社会全体が裕福になってきたことのあらわれ。対象が広がれば人物はバラエティに富むから絵を観るぶんにも面白い。

「本を読む老女」は肖像画じゃなくて人物画。その中でも胸から上の部分を描いたトローニーと呼ばれるジャンル。肖像画はその人物を描くことが目的で、人物画は表現の手段。それでこの作品の目的はスーパーリアリズムの追求かな。少し離れて眺めればほとんど写真レベル。



「マタイの召命」 ヤン・ファン・ベイレルト 1625〜1630年頃
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「ハールレム聖ルカ組合の理事たち」 ヤン・デ・ブライ 1675年
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先ほど書いた「綿密な写実描写」「動的、劇場的な画面構成」「明暗表現の強調」といったバロック絵画の特徴をすべて兼ね備えた作品。まるで映画のワンシーンのよう。

「マタイの召命」は水色の服を着て指を指しているのがキリストで、左端の赤い服を着ているのが徴税吏のマタイ。キリストが乗り込んできて税金について文句を言っているように見えるが、そうじゃなくて、これは聖書にあるキリストとマタイの出会いのシーン。突然現れたキリストはマタイに「私に従いなさい」と言い(召命:しょうめい)マタイは使徒になったとされる。使徒と聞くとエヴァンゲリオンの影響で怪物を思い出すけれど、キリストの弟子のことね。それにしてもキリストって超強引(^^ゞ

ところでファッションは流行が過ぎてしまえば「どうしてあんなもの着ていたんだろう」と思うもの。「ハールレム聖ルカ組合の理事たち」のこの黒いスモックに大きな白い襟をつけた服装は何か意味があったのかなあ。もし今、ドアを開けてこんな格好のオッサンがいたら吹き出してしまう。



「市壁の外の凍った運河」 ニコラス・ベルヘム 1647年
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「捕鯨をするオランダ船」 アブラハム・ストルク 1670年頃
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風景画もリアルだが、当時はあれこれスケッチしたものをベースに再構成するのが主流だったらしい。だからリアルな描写でも内容的にはフィクション。劇場的、ドラマティックなものが求められたバロック絵画だからそうなるのかな。

「捕鯨をするオランダ船」ではクジラが潮を吹いているように見えるが、これはモリを刺されて血が吹き出ている様子らしい。なぜ赤で描かない? それよりビックリしたのは左下にいるシロクマ。最初は人間と一緒にロープを引いているように見え、いくらフィクションとはいえそれはやり過ぎだろうと思ったが、よく見たらこちらもヤリで刺されているシーンだった。(画像はクリックしたら大きくなる)

ところでこの絵を観た12月21日に「日本が商業捕鯨再開のために国際捕鯨委員会(IWC)を脱退する」というニュースが流れたのは何かの因縁か。捕鯨の是非はさておき、鯨肉に今以上の消費者ニーズはないと思うけれどなあ。



「アルクマールの聖ラウレンス教会」 ピーテル・サーレンダム 1635年
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教会の絵を描くもの流行ったらしい。それにしてもこれは江戸時代初期の建物を描いた作品である。下の「人の居る裏庭」の家は現代でも住めそう。較べれば当時の日本はレベル低かったんだなあと実感。

肖像画で書いたように庶民の生活を描いた風俗画が多いのもバロック絵画の楽しいところ。バロックだからけっこう「盛って」描いているんだろうが。

「仕立屋の仕事場」 クヴィリング・ファン・ブレーケレンカム 1661年
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「人の居る裏庭」 ピーテル・デ・ホーホ 1663〜1665年頃
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「家族の情景」 ヤン・ステーン 1660〜1670年頃
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さて色々と思うところがあったのがハブリエル・メツーという画家の作品。

「手紙を書く男」 1664〜1666年頃
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「手紙を読む女」 1664〜1666年頃
33

アンサーソングならぬアンサーピクチャーのような2つの作品。ラブレターをモチーフに男女の恋愛を描いている。ところで当時のオランダ絵画は絵の中にメッセージを込めるのが流行っていた。男性の部屋ある絵には山羊が描かれ、額縁には鳩の装飾があるが、どちらも浮気性を象徴しているらしい。また女性の背後でメイドが覆いを引いている絵は荒波を行く船で、この恋愛の将来を暗示している。しかし荒波はともかく山羊や鳩の意味までは想像できないから、オランダ絵画を観る時にメッセージ解読は気にしないようにしているが。日本画で鶴や亀がメデタイように、オランダ人は山羊や鳩でピンと来たのだろうか?

それはさておき、色々と思うところがあったのは、この作品が圧倒的に素晴らしかったから。ハブリエル・メツーはフェルメールに影響を受けた画家といわれている。例えば左側の窓から光が差し込む構図はフェルメール風だし、女性が着ている黄色い上着もフェルメール作品をそっくり真似ている。彼に憧れていたのかもしれない。でも追いつき追い越したんじゃないかな。全体として遜色ないし、あざとく描き分けていないのに光を感じるところ、また布の描き方は確実にハブリエル・メツーのほうが上手い。

フェルメールファンではあるが、実は本当にいい絵だと思っているのは数点だけ。ハブリエル・メツーのこの作品はそれに匹敵する。言い換えれば他のフェルメール作品は、この作品よりレベルが低い。もっともハブリエル・メツーの他の作品を知らないので、それだけで二人の優劣はつけられないが。

ちょっと話がそれかけた。展覧会でこの作品を観て思ったのはフェルメールと同じジャンルの絵で、フェルメールをしのぐ出来映えなのに、なぜフェルメールは誰もが知っている人気画家で、ハブリエル・メツーはよほどのマニア以外には無名の存在なのかということ。

実は展覧会に出かけて、ということは一流画家の作品を観てということだが「これくらい私でも描ける」とか「私は無理でも高校の美術部だったら楽勝」と思うことは多々ある。もちろん私や美術部の高校生が描いても評価されないわけで、その違いはどこにあるのだろうと考える。

結果論を言えばブランド力の違いになるが、そのブランドを形成するに至った差は何かということ。オリジナルの画風を確立することは大きな要素だと思っているが、それだけでもないような気がする。少なくとも描写テクニックは無関係と確信している。また美術館に行ってまで仕事のことは考えたくはないが、それは売れる商品と売れない商品の違いは何かということでもある。


その違いを解明できたら画家になるゾ !!


ーーー続く

wassho at 22:44|PermalinkComments(0)

2018年12月21日

フェルメール展

バイクを降りざるを得なくなって、この秋は美術館に行きまくるぞと思ってから6回目の展覧会。気がつけばもう真冬で、今年も残すところあとわずか。

今回は上野の森美術館で開催されているフェルメール展。日本でフェルメールの展覧会をすれば成功は約束されているようなものだけれど、この展覧会はフェルメールの作品数9点、開催期間が東京と大阪合わせて約7ヶ月と気合いが入っている。

ところでフェルメールの現存する作品は約35点と言われている。「約」とついているのは本当に彼の作品かどうかの真贋がはっきりしないものが何点かあるから。その9/35=およそ1/4が7ヶ月間も日本にやってくるとはすごいと思う反面、そんなに長く借りられるとはフェルメールの人気は海外ではそれほどでもないのかな?

それはさておき、この展覧会にはフェルメールの作品数と開催期間以外にも、他の展覧会にはない特徴がある。

1)日時指定入場制

  混雑対策として1日を6つの入場時間枠に区切り、入場者数が調整されている。
  ただし入れ替え制じゃないので退場時間は自由。また各時間帯の間に30分の余裕が
  設けられている。だから少し遅めに入って、次の時間帯が始まるまでに見終えるのが
  コツ。私は昨日の2時前に行った。
日時指定入場制

2)入場料が2500円

  激高! 普通は1500円〜1600円くらいである。

3)2500円なのに展示作品は約50点

  素描とかも含めてであるが100点以上の作品数が一般的。つまりこの展覧会は
  フェルメールの人気を背景に超強気の価格設定。

4)作品紹介の冊子を配布

  展示作品の横に解説パネルはなく、入口で小さな冊子を渡される。
  写真はメルカリからの引用。300円で出品されていた(^^ゞ
冊子

5)音声ガイドのレンタルが無料

  たいていの展覧会では音声ガイドがあって、それを聴くための機器(小さな再生装置と
  イヤホンのセット)を500〜600円で貸し出している。それがこの展覧会では無料
  だった。

日時指定入場制はいいアイデア。しかし冊子なんて要らないし、音声ガイドは借りたい人だけに有料で貸して、入場料を2000円以下にして欲しかったというのが正直なところ。


この日は移動の都合で、上野駅ではなく仲御徒町駅から上野公園に向かう。この1番南の入口から公園に入るのは初めてかな。
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振り返って御徒町(おかちまち)の光景。
宝石屋が建ち並んでいる有名なエリアはもう少し先のほう。
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階段を上ると西郷さんの銅像。
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上野の森美術館は銅像のすぐ近く。
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日時指定入場制でも入場開始時刻の直後は長い行列というネット情報だった。でも遅い時間帯に到着したので私の前には10人ほど。チケットは前日にセブンイレブンで買っておいたが、チケット売り場もガラガラだった。
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ちなみに展覧会のサブタイトルは

    それは、このうえもなく優雅な事件
    Making the difference : Vermeer and Dutch Art

の2つ。英文のほうを直訳すると「違いを生む:フェルメールとオランダの芸術」。つまりはフェルメールvs他のオランダ画家という設定。私としては絵の違いというよりも、展覧会に来るといつも思うのだが、一流というか有名あるいは人気画家と、そうでない画家の違いは何なのかということを強く意識した展覧会だった。


ーーー続く

wassho at 20:14|PermalinkComments(0)

2012年08月18日

マウリッツハイス美術館展

マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝訪れたのは8月2日。
ブログに書くまでずいぶん日がたってしまった。


フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」がやってくるから、この展覧会だけは外すわけにはいかない。気温34度の猛暑の中、仕事の合間に上野公園の東京都立美術館まで行ってきた。









暑すぎて上野公園には誰もいない!
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というのはもちろん偶然のシャッターチャンス(^^ゞ
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東京都立美術館は2年ほど改修工事で閉館していた。リニューアルオープンのこけら落としとなるのが、このマウリッツハイス美術館展。場所は上野動物園の隣にある。


動物園。
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その手前のミニ遊園地。
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東京都立美術館はレンガ張りの建物。
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真珠の耳飾りの少女が窓から見つめている。
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エントランスは地下にある。
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この程度の混雑だった。10分ほど並ぶ。
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●「真珠の耳飾りの少女」フェルメール
1真珠の耳飾りの少女

1665頃の作品とされる。1665年といえばニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て万有引力を発見した年。日本は家光の後の4代将軍家綱の時代。

オランダのモナリザともいわれるこの作品。意外と小さかった。変形のA3サイズくらい。この作品は肖像画ではなくトローニーと呼ばれるジャンルに属する。肖像画にはモデルがいて、そのモデルを絵画として表現する。トローニーはモデルがいてもいなくても、表現するのはそのモデルとなった人物そのものではなく、画家の想いとか主張とか。人物を描くことが目的の肖像画と、それが手段のトローニーというような区分。

それでフェルメールは、この少女を通じて何を表現したかったのかというとーーーよくわからない(^^ゞ そういう解釈は専門家に任せておいて、直感で気に入るか気に入らないかが判断基準でいいと想う。


じっくりと眺めて気付いたことが3つ。

  その1)
  年齢的定義にもよるが、少女には見えないなあ。
  アラ・ハタチくらいかな。

  その2)
  耳飾りも真珠には見えなかった。
  だいたい、あんな大きな真珠ってあるの?

  その3)
  右目と左目で捉えているものが違うように見える。
  ひょっとしてガチャ目?

    (※ガチャ目=ひんがら目=ロンパリ=斜視)


背景は黒だけだし、振り向いて何かを言いかけた瞬間を切り抜いたような、きわめてシンプルな作品。それゆえ色々と連想してしまうのが、この絵の魅力かもしれない。私としては頭に巻いたターバンをほどいた姿を見てみたい(^^ゞ


なお、この真珠の耳飾りの少女だけ展示は特別扱い。
まるまるワンコーナーを与えられ、並び方も2通りを選択できる。
スライド1

私は順番に並ばないコースを選択。
結果的には正解。順番に並ぶと確かに絵の前まで行けるが、絵の前まで歩いて、ちょっと立ち止まって眺める程度の時間しか与えられない。赤丸印のコースだと好きなだけ眺めていることが可能。それに赤丸印の最前列に行けば、前には青丸印の人が一人いるだけで、作品との距離はさほど変わらない。青丸印の人はどんどん流れていくから、よほど身長が低くない限り赤丸印最前列で充分に鑑賞できる。さすが日本の展示会で、ほとんどの人が青丸印コースに並ぶ。だから赤丸印最前列に進むのは容易。もしこの展示会を訪れたら、会場の動きをよく読んで判断されたし。



●「ディアナとニンフたち」フェルメール
2

これもフェルメールの作品だが、初期の作品で宗教画。フェルメール=室内画のイメージとはかなり違う。ありきたりな絵にも見えるが、じっくり眺めているといい絵に見えてくる?

ちなみにディアナ(英語だとダイアナ)はローマ神話の女神。ニンフというのは精霊あるいは神の侍女みたいな存在。この絵では足を洗ってもらっているのがディアナ。



●「四季の精から贈り物を受け取るセレスと、それを取り巻く果実の花輪」
  ヤン・ブリューゲルとヘンドリック・ファン・バーレン
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天使がいるし、一番下の二人の女性は多分ニンフだろうから(女神ならこんな作業はしない)宗教画なことは間違いない。宗教的なテーマは知識がなくてわからないけれど、なんとなく豊穣への感謝みたいなところかな。絵全体が、いかにもヨーロッパな感じがしてとても印象に残った作品である。



●「シメオンの賛歌」レンブラント
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光の魔術師と呼ばれるレンブラント。教科書か何かで初めて「夜警」を見たときの「ワッ、スゲー」と思った感覚は今でも覚えている。

でも、この作品のように周りをやたら暗くしてスポットライトを当てたような描き方は、これ見よがしに光のテクニックを誇示しているようであまり好きになれない。スポットライトはもちろんなく照明といえばローソクだった時代の人々は、こういう絵を見て「チョー、スゲー」と喜んだろうからウケを狙ったのかもしれないが。



●「自画像」レンブラント
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レンブラントは「立派な絵」を描く。だからなんとなく「いかつい」人物を想像する。でも普通の優しそうな人だったのね。



●「聖母被昇天(下絵)」ルーベンス
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真珠の耳飾りの少女のことしか頭になかったからルーベンスも展示されていてラッキー。タイトルにあるように、これは下絵。ただし未完成・下書きという意味ではない。今の画家は自由に作品を描いてそれをマーケットで売る。中世の頃は王侯貴族や有力者から注文を受けて制作するというビジネスモデルだった。それで聖母被昇天の注文を受けたルーベンスが、発注者に「こんな感じでよろしいですか」と見せたのがこの絵。

つまり下絵というより構想見本。だからサイズも小さい。この下絵を元に描かれた本作は5メーター×3メーターのサイズだが、この下絵は90センチ×60センチ。大きなサイズの本作はいわゆる工房システムで、ルーベンスの監修の元に弟子たちが絵を描く。しかし下絵はルーベンスの直筆。オリジナリティに重きを置くなら下絵の方に価値がある。


聖母被昇天というのはイエス・キリストの母親マリアが、死後に天に召されたというストーリーで宗教画にはよく出てくる。ところで同じく天に行くにもイエスの場合は昇天なのだが、マリアの場合は被昇天と呼ばれる。イエスは死んで復活して天に昇る段階ではもう人間ではなく神で、マリアはあくまで人間で連れていってもらった立場だからかな? 

ところで被昇天は聖書には書かれてていない内容。また英語ではassumption。これは思い込みとか仮定の話などの意味。昇天は普通にgo upとかriseなので、被昇天は「マリア様も天に召されたということにしておこう」という、キリスト「教会」側の都合が反映されているように思えるけど間違っているかな。

宗教的なメッセージはともかく絵はキレイだった。。絵の右下で何かをのぞき込んでいる人がいるが、これはマリアが墓にいない(天に昇ったから)ことを知ってビックリしているらしい。ちなみにこの下絵の本作はアントワープ大聖堂にある。つまりフランダースの犬のネロが母親の面影を求めて毎日見に来ていた絵である。


●「ミハエル・オフォヴィウスの肖像」ルーベンス
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ルーベンス=宗教画のイメージが強いが、これは肖像画。でもモデルは神父さん。本人がそうなのかルーベンスの力量なのか、とても高潔な人格者に見える。



●「牡蠣を食べる娘 」ヤン・ステーン
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解説によると当時、牡蠣は精力剤や媚薬として扱われていて、可愛い顔をしたこの少女が、実はエロいというのがこの作品の魅力だそうだ。そんなことよりも解説によると、彼女は牡蠣に塩を振りかけているらしい。牡蠣に塩をかけたらどんな味がするんだろう、しょっぱすぎないんだろうかーーーということがやたら気になった作品。牡蠣のシーズンになったら試してみよう。



私は展覧会で、まずザーッとだいたいを見て、その後に気に入った作品をじっくり見る。でもこの美術館は3層構造で、最初から見直す場合は一番下の階まで降りなければならないのがちょっと不便。

途中の通路にあった展示。
IMG_0229

コスチュームは正確に再現してあるんだろうけれど、マネキンがスリムすぎて絵とはずいぶん印象が違うのが残念。

これはこの展示会のイメージガールの武井咲のコスプレ? 
本物に会えるならフェルメールの描いたモデルより、彼女の方がいいかな(^^ゞ
武井咲



美術館の横の脇道。
上野公園は探検すると色々おもしろそう。
涼しいときにゆっくり歩いてみようと思う。
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同じく上野公園にある、国立西洋美術館で開催している「ベルリン国立美術館展」の看板。
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こちらもフェルメールの作品が目玉。とりあえず今はフェルメールを持ってくれば展示会は成功する。同じアホなら踊らにゃソンソン、これもできたら訪れたい。どちらも展示会も9月17日まで。

wassho at 18:18|PermalinkComments(0)

2012年02月24日

フェルメールからのラブレター展

去年の5月に引き続き、渋谷の東急文化村でフェルメールの展覧会を開催している。去年はフェルメールの作品が1点だけだったが、今回は3点展示。ラブレター展というのはフェルメールには手紙を書いたり読んだりしているモチーフの作品が何点かあって、今回は3点とも手紙を描いた作品だから。


手紙を読む青衣の女
青衣は「あおごろも」と読むのかな? 
ちなみに英語のタイトルはWoman in Blue Reading a Letter. オランダ語はちょっと探したけれど見つけられなかった。
手紙を読む青衣の女

いかにもフェルメールな感じの作品。
今回は平日の午後4時頃という微妙な時間にいったので、それほど混雑しておらず、昨年は味わえなかったフェルメールの「静かさ」も多少は味わえた。


ブログの小さな画面だとホッペタにアザがあるように見えるかも知れないが、これはカールした髪が垂れている。(絵はクリックすると大きくなる)館内はわりと暗めの照明で、本物を目の前に私も最初はアザだと思っていた。もうちょっと明るく展示してくれてもいいと思うけど。


ネットで検索すれば絵の解説も山ほどある。でもこういう人物スナップのような作品は、あまり学術的なことは気にしないでボーッと眺めてキレイだとかイイ感じだとか思えるかどうかを私は重視。というわけで面倒なので解説も省略(^^ゞ


ところでフェルメールの描く女性は妊婦のようにお腹が大きい。この時代のファッション?とも思ったが、展示されていた他の画家の作品では普通の腰回りだから、これは彼の画風なんだろうか。




手紙を書く女
こっちはタイトルにヒネリなし。
手紙を書く女

フェルメールが残した作品は35点ほどと少ないが、そのうち6点で手紙をモチーフにしている。つまり手紙大好き画伯。今ならスマホをいじっている構図で、今っぽさを表現できるような「象徴性」が当時の手紙にはあったのかも知れない。意外と最先端を追求していた人だったりして。


それと当時、手紙を書くことは用件や気持ちを伝える行為だけでなく、教養や人格も表現するものだったらしい。平安貴族の和歌みたいなものだったとしたら、手紙を描くことによって(当時の人が見れば)作品に物語性や格調を感じただろう。別にゲスの勘ぐりをしているわけではなく、絵の天才ならそういうマーケティング的?戦略性も持ち合わせていたに違いないと思っただけ。


ついでにフェルメールが生きていたのは1632年〜1675年。日本だとだいたい3代将軍徳川家光の時代。フェルメールが描いているのは王侯貴族ではなく普通の市民。家光の時代、日本の市民の生活がどんなものかあまり知らないが、ずいぶん生活レベルが違うなあという想像はつく。

それで今の我々の生活様式は、江戸市民のそれではなくフェルメールが描いたスタイルの延長線上にある。17世紀の西洋人がタイムマシンで現在のヨーロッパにやってきたら「ここは未来」と思うだろうけど、江戸市民が今の日本を見ても理解不能かも知れないーーーなどとフェルメールの名画を見ながら、まったく関係ないことを考えるヘンな私。




手紙を書く婦人と召使い
手紙を書く婦人と召使い

前の2つの柔らかいタッチとはちょっと違い、少しくっきりした作風。召使いの前で書いて、たぶん召使いに届けさせるか郵便局?まで持って行かせるのだろうから、ラブレターじゃないような気がする。なんとなく肩が怒っているようにも見える。

ところでテーブルにクロスを掛けて、その上で手紙は書きにくいだろうなあと、またつまらぬことを考えてしまった。そういえば「下敷き」って欧米にもあったっけ?



以上3点がフェルメールの作品。
ちなみにどれもA3サイズより二回り大きい程度で小振りな作品。しかしフェルメールの絵は30数点しか残っていないのに、そのうちの3点が1つのコーナーにまとめられており、とても豪華な印象を与える展示だった。



フェルメール以外の作品をいくつか。

眠る兵士とワインを飲む女
ヘラルト・テル・ボルフ

   愛想が尽きたといった女性の表情 
   最近、私もやりがちのパターン(^^ゞ
眠る兵士とワインを飲む女




生徒にお仕置きをする教師
ヤン・ステーン

   タイトルを読むまで子供が泣いている理由がわからなかった作品。
   しかし教師が持っているペシッ!とやる道具はなんだろう?
生徒にお仕置きをする教師




公証人と依頼人
ヨープ・アドリアーンスゾーン・ベルクヘイデ

   絵がどうこうというより徳川家光の時代に、
   もうこんな職業があったことに驚いた作品。
公証人と依頼人




3月14日まで。
ちょっと展示作品が少ない気もするが、
フェルメールを3つ見られるから行って損はしない。お勧め。

wassho at 08:19|PermalinkComments(0)

2011年05月20日

フェルメール<地理学者>とオランダフランドル絵画展その2

4地理学者

これがフェルメールの「地理学者」。1669年の作品だからモデルはリチャード・ギアではないはず^^ゞ

フェルメールの先品はよくいえば独自の世界観がある、悪くいえばけっこうワンパターン。絵にそんなに詳しくなくても、パッとみてフェルメール調だというのはすぐわかる。

この時代は光の陰影を描き分けることに画家が心血を注いだ時代。レンブラントの夜警なんかがその代表。フェルメールも光を駆使した作風だけれど、彼の絵にはそれに加えて何となく空気感がある。そしてなぜか絵が静か。実はフェルメールの本物をみるのは初めて。空気感と静かさが感じられるかどうかを、今回は確認しに行ったようなもの。


  空気感ーーーありました\(^o^)/ 

  静かさーーー会場に人が多くてザワザワしてたので、
        よくわからなかった(>_<)


それと下のレンブラントと較べると、もちろん題材も違うが、レンブラントの絵がたいてい神々しいのに対して、フェルメールの絵は日常的で普通の庶民の絵が多いのも私好み。
レンブラントの絵を毎日見ていたら胃もたれしそうだから、買うんならフェルメールにしよう(^^ゞ



5サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ

ではそのレンブラント。タイトルは「サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ」。王とついていないが題材はルーベンスが描いた人物と同じ。その若い頃の姿。ダヴィデは竪琴の名手ということに伝説ではなっている。あっ、中央に座っているのはサウル王で、隅っこにいるのがダヴィデだからね。ダヴィデはサウルの後を継いで古代イスラエルの王になる人物。ダヴィデという名前には重々しい響きがあるが、英語で読めばデイビッドと親しみやすくなる?


さてレンブラントといえば「光と影の魔術師」。この絵もまるでスポットライトが当たっているかのようである。しかし彼が生きたのは日本でいうなら江戸時代初期。つまりロウソクやランプのボーッとした明かりの時代。ライティングなんてものは存在しない。想像力でスポットライトを発明したのかなあ?

先ほどフェルメールの絵には空気感があると書いた。レンブラントと見較べると、フェルメールは光を描き分けても、暗と明の対比はあまりしない。簡単に言えば明るい場所の絵が多い。だから空気感を感じるのかもしれない。光を描き分けられる腕前のある人は、明るい場所と暗い場所の絵を描いて確かめてください。




6庭に置かれた野菜と果物

コルネリス・デ・ヘームの「庭に置かれた野菜と果物」。
写真と見間違えたとまではいわないが、細部まで描き込んだ絵。静物画はいろんなものがあったが、作家が違っても、どれも画風が驚くほど似ていた。ややダークなバックに、対象物を濃いめに細密に描き、それにライティングを当てたような感じ。同じ時代の同じ地域の画家の展示会だから、結果的に似てくるのか、あるいはそういう絵が流行っていたのか? それぞれ立派な絵であるが、正直にいうと同じような絵が多くてちょっと飽きた。





7石の花瓶に生けた花と果物

ヤーコブ・ファン・ワルスカッペレの「石の花瓶に生けた花と果物」。
これもこの時代の静物画の文法(←もう決めつけた)に沿った、ゴージャスできれいな絵だった。でも蝶々じゃなくて蛾(が)が飛んでいるのは、割ときれいな蛾だからいいとして、何で花瓶の下にトカゲがいるのかな。やっぱり画家というのは、ちょっとひねくれたヤツが多いと勝手に納得する。



この展示会の絵は光の陰影や細部の描写をじっくり堪能すべきなのだが、会場はかなり混雑していたし、時間もあまりなくて駆け足の鑑賞になってしまったのが残念。もっとも時間を掛けても、私に見極められる眼があるかどうかは別の話。



ところでいいことを思いついた。
日本には美術館・博物館が1200館ほどあるらしい。
つまり山ほどある。
バイクで地方の美術館巡りをしようっと。

あまりバイクで長旅をするつもりはない。しかし日帰り圏内の関東だけでも、おそらくかなりの数に上るはず。山道・海道もいいけれど、バイクで文化活動も楽しそうだ。


おしまい

wassho at 01:18|PermalinkComments(0)